-1-
夜。
シンと静まり返った一帯は、見渡せば地平線が見えるのではないかと思えるくらいに広く、またひと一人見当たらない。
その代わりというわけでもないが、ポツリポツリと桜の木が並んでいる。
季節が季節であれば、その一本一本が満開の花を身に纏い、見るものの目を奪わないではいないのだろう。
しかし花はとうの昔に散り、葉も下界より一足早く地に落ち、枝だけが置いていかれた子供の手のように、心細げに広げられていた。
『枯れ木も山の賑わい』
とは昔の人が言ったものだ。
けれども、この桜たちは辺りの寂寥感をいっそう際立たせることになっているのだった。
そんな寂しげな道をつらつらと行くと、次第に桜の数も増えていく。
道の脇には競うように並び立ち、それぞれの桜の枝は隣のそれと触れ合わんばかりに、その勢力を伸ばしている。
春になれば、まさに桜の回廊となるだろう。
その道から少し離れたところでも、あきれるばかりの桜、桜、桜。
同じ裸の木でありながら、ここの桜たちには先ほどの桜のような寂しさはあまり無かった。
彼らはここで、次に花開く日を夢見て、数多くの仲間たちと眠っているのである。
それにしても、やはりこの辺りにもひと一人…いや、もう、こう表現してもよいだろうか。
幽霊一人いないと。
まだこの辺りは、普段からそれほど賑やかなところではないが、ここまで誰もいないというのはめずらしい。
そんな、今は枝だけの桜の回廊を延々と行くと、視線の彼方に光が見えてくる。
この広大な敷地…冥界を管理する西行寺家。
その現、そして最後の頭首。西行寺幽々子の住まう白玉楼である。
そこに向かって歩を進めていくと、なにやら聞こえてきた。
明瞭に聞き取れるほど大きくはないが、久々に刺激された聴覚が己の存在を主張する。
しかし、白玉楼はまだまだ点にしか見えないくらいに遠いはずなのだが……。
-2-
さて、疑問を抱えつつも白玉楼に着いてみると、それらは全て氷解する。
辺りに幽霊がいなかったのは、そのほとんどがここに集まっているため。
なぜあんなに遠くまで音が届いたかというと、それだけここが騒がしかったからである。
白玉楼では何が行われているのか。
答えは一目瞭然。お月見(と聞いていた)に名を借りた宴会だった。
いや、もともと主催者がそう意図していたかどうかは知らない。
もしかしたら、本当に静かなお月見のつもりだったかもしれない。
けれども現状だけ見てみれば、これは明らかにただの宴会…というか空前絶後の大宴会。
もしかして、春の花見のときより盛り上がってるのではないか。
ついでに言うと、ここに集まっているものの多くは、主催者自身ただの宴会を意図していると思っていた。
斯く言う私自身も、半分以上はそのとおりだと思っていた。
もちろん主催者はそんなことは知る由も無い。
知らぬが仏……である。
それはともかくとして、ここの騒ぎはすさまじい。
一番人気の幽々子嬢のいる部屋からあふれたものたちは、隣の部屋へ、そのまた隣の部屋へ。
あるいは、縁側に陣取る者。出遅れて庭にいる者。
まぁ、月見という趣旨からは縁側とか庭のほうがふさわしいのだが、
どうにかして彼女の部屋に潜り込もうと画策したり、
そんな事は一切お構いなしでドンチャン騒ぎを繰り広げている者たちばかりだった。
そんな、騒がし過ぎるほどに騒がしいこの空気。
私は静かなほうが好きだと思っていたが、なぜか不快には感じなかった。
どうしてだろうと考えて、首をかしげる。
しばし、荷物を降ろして立ち止まる。
なぜだろう。
辺りは相変わらずのお祭り騒ぎが続き……祭り?
そうか、と軽く首肯する。
そっか、これはお祭りなんだ。皆明るく陽気で、悩みなんかここには持ち込まない。
湿っぽいものは無し。からっからになるまで、騒いで騒いで騒ぎまくる。
そして、何があっても…例えばそこでけんかしている人たちがいるけど、そういうのは後に持ち越さない。
何も隠さず、全部見せ合って、全部ぶつけ合って、そして日常に戻っていくのだ。
この騒ぎはそんなお祭りの騒ぎ。
だから、楽しくなることはあっても、気分が高揚することはあっても、決していやな気分にはならないのだ。
そこまで考えて、ふと笑みが漏れた。
いけないいけない。こんなことしている場合じゃなかった。急がなきゃ。
そうつぶやいて、幽々子嬢がいる部屋へと足を向けた。
-3-
騒ぎの元凶、幽々子嬢のいる部屋は、庭の騒がしさが嘘だと思えるくらい、よりいっそう輪をかけて騒がしかった。
人型の幽霊が騒ぎ、赤く染まった人魂型の幽霊たちがそこらじゅうを飛び回っている。
奥のほうでは主催者の幽々子嬢が、これまたほほを朱に染めて座っている。
微妙に衣服が乱れているように見えるのは、すでに一悶着あったことを暗示している。
それに彼女が嬉々として参加したことも。
突然に大きな歓声が上がった。目を向けると一回り大きな二人の幽霊がにらみ合っている。
取っ組み合いでも始まるのかと思いきや、二人はやおらその辺にあった一升瓶をつかむと、栓を抜いて口に当てた。
みるみるうちに中身は消費され、あっという間に空になる。同時だった。
ついで二本目、三本目と次々に酒瓶は空になっていく。双方一歩も引かない。
周りは煽り立てるばかりで、止めようとする者はいない。
互いに一言二言言葉を交わすと、二人はそろって人魂となった。
やはり、周りの人魂と比べると一回り以上大きい。
二人はそれぞれ煽っている幽霊の一人をとっうかまえて酒瓶を次々と開けさせていく。
そして、その酒瓶を片っ端から尻尾でつかみ上げ、自分の上でひっくり返す。
今まで以上の勢いで瓶から消えていく酒。けれども、畳にはその一滴とてこぼれていない。
よく見ると、瓶から流れ落ちる酒は、人魂の表面を伝っていくにしたがって徐々に少なくなり、
尻尾の付け根辺りでは全くなくなっている。
彼らは文字通り『浴びるように』酒を飲んでいるのだった。
少し説明すると、酒気は精気の塊であり、彼らはその精気を直接取り込んでいるのである。
普通に飲むのとどう違うのかというと、こちらのほうが酒の回りが速い。
アルコールの皮下注射と似たようなものである。
生前は大酒飲みとしてその名を馳せていた(であろう)二人には、格好の対決方法だ。
案の定、もともと赤く染まっていた二人の人魂はみるみるうちに真っ赤になり、体もだんだんと膨れ上がっていく。
いつの間にかそれぞれに派閥が出来上がっていて、二人のうちの一方を応援するものから、
相手の派閥の者と飲み比べをする者たちまで現れて、場のボルテージも、混沌の度合いもますます膨れ上がっていく。
あっけにとられて傍観していると、更に十本二十本と酒瓶が追加されてゆく。
さすがに大丈夫なのかと思いつつ、誰がやっているのかと思ってみてみると、せっせと運んでいるのは誰あろう幽々子嬢だった。
もう楽しくてしようがないといった様子で、実際その通りなのだろう。
こんな様子を目にする限り、宴会が目的という仮説はよりいっそう真実味を帯びるのだった。
それにしてもいつの間に…。
その時、ついに一方が倒れた。というか、畳に落っこちた。見る間に体がしおしおと縮んでいく。
もう一方はというと、いったん人型に戻って勝ち鬨を上げようとしたものの、すぐに人魂に戻ってしまい、
やはり畳に落っこちて、同じようにあっという間に縮んでしまった。
これもまたほとんど文字通り『潰れてしまった』ということだろう。
しかし、周りの喧騒は一向に収まる気配を見せなかった。というか、もはや誰もそんなものを見ていなかった。
そこはもはやひとつの異次元であり、誰彼構わず酒を勧めては乾杯を繰り返し、飲んで、食べて、歌ってという何でもあり空間だった。
そんな中から、平然とした様子で幽々子嬢が這い出してきた。念のためにいうと、そのままの意味である。
朝の満員電車のような幽霊密度を誇るその中から、正確にはそこに折り重なった幽霊たちの下から、
幽々子嬢は這って出てきたのである。
にへらとだらしないと言ってもいい笑みを浮かべ、相好が崩れている。
それでも、それが心底楽しそうな表情であって、無作法とかそういう感じに見えてこないのは人柄と言うか、
得な性分と言うか。それとも、持って生まれた気品のなせる業か。
驚くのを通り越して呆れてしまう。
全く、この人のことは侮れない。いや、感想として間違っているという気がひしひしと…。
いいのか、西行寺家頭首がこんなことで…?
その幽々子嬢と目が合う。
彼女は目を輝かせてこちらに寄ってきた。両手は後ろ手に組んでいる。
「遅かったわね。待ちくたびれたわ」
「すみません…と言っても、それほど待ちくたびれたようには見えませんが」
「そうかしら。 ま、そんなことはいいの」
そういってにっこりと笑う幽々子嬢。しかし、私の第六感は危険を告げている。
頬がヒクリとひきつる。逃げ出したいがそうもいかない。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、幽々子嬢は微笑みながら言葉を続ける。
「さあ、遅れた分は取り戻さなければね」
そう言って、両手を前に出す。
そこには、あろうことか酒瓶が二本ずつ握られていた。
一瞬思考が止まり、然る後に心の中で悲鳴をあげる。
いったいどこから出したんだと言う疑問は、この際些細なこととして無視された。
お祭り騒ぎはいい。お酒を嗜むのもいいだろう。
けれど、目の前でぶっつぶれている二人のようになることだけは、断固として御免こうむりたかった。
そしてここで僅かでも気を許せば、そういう未来が確定してしまう。
「あ、私はこれから演奏しないと…」
「えーとね、これはどこのだったかしら、けどいいお酒なのは確かよ。それからこっちは…駄目ね、ちょおっと思い出せないわ。でも、味は折り紙付きね。それから…」
「いや、ですから…」
「で、これがお勧め、うちで最近作ってみた試作品。誰も飲んでくれないんだけどどうしてかしら」
「話を聞いて…」
「他にもいっぱいあるわ。どれにする」
言い切られてしまった。まずい流れだと思う。断れない。
いや、はっきり断ったとしても、多分「あぁ、最近ルナサが冷たいの。私は悲しいわ。よよよ…」とか言って嘘泣きするのだ。みんなに聞こえるように。
そうなったら…後の成り行きは手に取るようにわかる。あっちの異世界がこっちに移ってくるのだ。新たな中心は私。
さりとて、「では少しだけ」と言ったとして、少しで済むだろうか。済むわけがない。
どっちにしても…酔っぱらい確定コース?
うう、泣きたいかも…。
それでも一縷の望みを託して訴える。
「私はあまり強くないので…」
「じゃあ鍛えましょう」
「酔ってしまうと演奏に影響も出ますし…」
「私は構わないわ」
「二人も待ってるでしょうから…」
「二人?ああ、彼女達ならあそこにいるわよ。騒がしすぎてわからなかったかしら」
そう言って縁側に出た幽々子はある一点を指差した。
そこでは、他とはまた違った人垣ができており、ひときわ盛り上がっている。
その中心は間違いなく二人の人物…妹たちであり、ノリノリで演奏しているのはいいのだが、その楽器が間違っていた。
例えば、空になった酒瓶とか、重箱とか、コップとか。そんなものを適当にガチャガチャやっているように見える。
けれど、実際にはちゃんと音程もあったりするわけだからたいしたものだ。
というのは傍観者の感想であり、ついでに言うと彼女たちの顔はそろって真っ赤であって、
かなり飲んでいるものと見受けられた。
つまり、私にとってみれば逃げ道を失ったわけである。
「あ、あいつら…」
「さぁ、どれにしようかしら」
私の手を握って部屋に戻る幽々子嬢。振り払うわけにもいかず、されるに任せてしまう。
部屋の中は相変わらずの大騒ぎ。救いの手はなさそうだった。
「じゃあ、これにしましょう。口当たりがよくて飲みやすいのよ」
ええ、知っていますとも幽々子さん。すっきりしていて、そしてほんの少し甘みがあって美味しいんです。そのお酒。
私も好きですよ。でもちょっと強いお酒だってことは知っていますか?
知っててやっているんですよね。誰から聞いたんですか…って事は聞くまでもないですね。
「では、少し、本当に少しだけで…」
「そうこなくちゃ。宴会は楽しくやらないとねぇ」
そう言ってお猪口に酒を注ぐ幽々子嬢の背後には、いつのまにか新たな酒瓶がズラリと並べられていた。眩暈がした。
「少しだけ…ですよ」
「宴への遅刻は厳罰。それと、何かいろいろと失礼なことを考えられているような気がするから、その腹いせ。
言い換えると八つ当たり」
お父様、お母様、申し訳ありません。私はどこか別の世界に旅立ちます…。
メルラン、リリカ。いつも振り回されていたような気もするけど、いままで楽しかった。
また、どこかで会いたいな。
そんなばかげた妄想をしながら、心の中で涙を流した。
・
・
・
「幽々子様ー…って、何ですかこれはーーーっ!!」
それは、都合三杯目のお猪口を空け、四杯目を注がれているときだった。
正直に言うと、もう体が火照り始めていて、このまま後数分もしたら、加速するペースに飲み込まれていただろうと思う。
そういうことを考えるだけの理性はまだ残っているからして、へべれけになってぶっ倒れるというみっともない事態は避けられたようだ。
本当にもう少し遅かったらわからなかったけれども。
救い主は庭からやってきた。
剣士であり、庭師であり、でも最近は雑用係に身をやつしているような気がしないでもない、妖夢さんだった。
でもこの時は、彼女が天使に見えた。
「まったく、ちょっと目を放している間にこの有様ですか。どこからこんなに持ち出してきたんです」
「いいじゃない」
「よくありませんよ。片付けるほうの身にもなってください」
「あら、宴の場で片付けの話は御法度よ」
「う…もう、ルナサさんもついていながら」
「いや、私も来たばかりで…すまない」
何となく謝る。
もちろん彼女とて本気で怒っている訳でははなく、口調にも棘はない。
けれども、あまりの部屋の惨状に、唖然としているのは確かなようだ。
そして、幽々子の手から酒瓶を奪いながら言った。
「とにかく、これじゃ足の踏み場もないじゃないですか。ちょっと片付けますから、もうちょっと抑えてください」
「ええ~。これからが盛り上がるところなのに」
「ええ~じゃないです。お願いしますよ幽々子様」
「ん~もう、仕方ないわねぇ。妖夢ったら我侭なんだから」
「どっちがですか~」
二人の会話を聞いていると、主と従者という関係にありながら、もっと深い絆が感じられる。
姉妹…は違う気がする。家族っていうなら、まぁそのとおりかもしれない。
けれど、多分一番近いのは……幼なじみ…かな。
自然にそうなったのか、あるいは幽々子がそう望んだのか。それは二人にしかわからないこと。
それは二人の間だけの大事な秘め事なのだと思う。それを詮索する気は全くない。
ただ、そういう存在のいない私は、ちょっとだけ二人のことをうらやましく思った。
これは、妹たちを想う気持ちとは全く別次元の話であって、もしかしたら彼女たちの方も、似たような思いを私たちに抱いているかもしれないし、これっぽっちも考えていないのかもしれない。
そんな事は考えてもわからない。わからない事だらけ。人の心は難しい。騒霊でも、亡霊でも。
そんな間にも、少しずつ広くなっていく部屋。
空いた酒瓶を、片っ端から部屋の外に放り出す。
それでいいのかと問うと、今は屋敷中が宴会場ですよ。という答えが返ってきた。
確かに、それでは片付ける場所がない。
酔いつぶれた人型の幽霊を廊下なり庭なりに運び出す。小柄な妖夢さんには大変そう。
それから、やっぱり酔いつぶれている人魂の尻尾を、楼観剣と白楼剣の鞘に結び付けて、まとめて運び出す。
で、その辺の柱とか木とかに括り付ける。踏まれて潰されるよりはマシ、ということか。
彼女の半身である人魂は、辺りをくるくる回って応援している…のか?
ちなみに、白楼剣で運ばれると翌日は二日酔いもなく、目覚めもすこぶる快適だという。
逆に楼観剣で運ばれると、世にも恐ろしい悪夢にうなされるというもっぱらの噂である。
あくまで噂なので本当かどうかは定かではない。
その間私がどうしていたかというと、お猪口に残ったお酒を、ちびちびと飲みながら、
まだお酒を諦めきれずに、ふて腐れた様子の幽々子嬢の話し相手をしているのだった。
本気なのか、そういうふりをしているだけなのか、それはわからないけれども。
でも、これはこれで結構大変だというのは偽らざる気持ちだった。
-4ー
しばらくしてある程度のスペースができ、宴は仕切りなおしとなる。
幽々子嬢は上座に戻り、他の幽霊たちもめいめいが適当に並んで座った。
今ここに残っているのは余程の強者か、あの騒ぎの中、ひたすらに自分のペースを守り通した、
ある意味やっぱり強者だけである。
外の喧騒はいまだに続き、それは白玉楼全体を包みこんでいる。
それでも、今この時、この部屋だけは、周囲と切り離されたかのように静かだった。
私は幽々子嬢の強い意向により、半ば強引に一番上座に近いところに座らされていた。
「皆さん、本日は忙しい中お越し下さいまして、ありがとうございます」
そう切り出したのは妖夢さんだ。幽霊たちもそれぞれが頷いたり、尻尾を振ったりして応える。
それから、簡単な挨拶が続き、結びとなる。
「それでは、宴の再開に先立ちまして、主催の幽々子様より、琴と舞を披露させて頂きます」
そう言って妖夢は会場を辞した。まだまだ仕事があるのだと思う。
観客の前で恭しく礼をする幽々子嬢。
それからの彼女は優雅の一言に尽きた。
ぴんと伸びた背筋は、外見の幼さを補って余りある気品にあふれ
弦を爪弾く指先は、ただの一時も迷いを見せず
ほんの僅かの動作さえ、全て計算されているのではないかと思えるくらい、終始乱れることがなかった。
彼女の紡ぐ音色は、老若男女、動物植物、あるいは生者も死者も問わず、全ての者に滲みいってゆく。
時に激しく心を揺さぶり、時に優雅に聴くものを魅了し、時に力強く西行寺の誇りを語る。
けれども、なぜか、どうしても拭い去ることのできない静けさ。物悲しさ。
それが、私たちを惹きつけてやまない。
そこにいるのは、まごうことなき西行寺幽々子であり、この部屋は外界と隔絶された彼女の世界。
そして私たちは、彼女の世界の中で、彼女の心に触れる。
彼女を彼女たらしめている、数多くのもの。そのうちの、ごくごく僅かな欠片。
それはあまりにも漠然としていて、しかし、それは確固として『それ』であった。
『それ』を語ろうとして言葉を積み上げれば積み上げるほど、その本質から遠ざかっていってしまう。
だから、それがどういうものかと問われても、私には答えることができない。
周りの誰一人、おそらく幽々子嬢本人にも答えることはできないだろうと思う。
ただ、この世界の中で、『それ』を感じ取った者は、一人として例外なく涙していた。
それが、この世界の全てだった。
演奏が終わり、再び礼をとっても、拍手はなかった。
それどころではなかったというのが正しい。
だが、当の幽々子嬢だけはそれがわかっておらず、しんとしてしまった部屋の雰囲気に当惑しているようである。
不安になったのか私のほうに視線を向けてきたが、私とてかけられる言葉もない。
できたことといえば、ただ彼女の目を見て頷く事だけだったが、それで十分だったらしく、いつもの柔和な笑顔に戻った。
この笑顔もまた、彼女の大切な欠片の一つなのだと思った。
襖が開いて妖夢さんが戻ってきた。
「それでは引き続きまして、舞を披露させていただきます。伴奏はこちらのプリズムリバーさんたちにお願いします」
ちょっと待った。そういう話は聞いていない。
いつもどおりに場を盛り上げるだけだと考えていたのだが…。
そう、彼女に聞こうとすると、彼女は首を振って目だけで答えた。
ついさっき決まったんですよ…と。
そして彼女の後ろから二人の妹たちが出てきた。
片方はそれこそ女神のような微笑を周囲みなに振りまき、もう片方は、手を振って客の拍手に応えている。
そして、二人ともまだほんのりと頬に朱が刺している。
二人を軽くにらむと、メルランはそ知らぬふりを、リリカはちろっと舌を出し、ついで片目を瞑る。
ごめんねと言っているのだ。
一応、二人とも反省しているのだろうか。だとしても、帰ったらきっちりとお説教しなければ。
幽々子嬢に促されて、私も舞台に上がった。
打ち合わせも何もない即興になってしまうが、こうなっては自分と妹たちと幽々子嬢を信じるしかない。
一同、礼をする。
私たちも、一通りの礼儀作法は知っているものの、さすがに先ほどの幽々子嬢のような優雅さは出せない。
あれは、やはり持って生まれた資質の一つなのだろうと思う。
ただ、それについては別にうらやむような気持ちはなかった。
彼女には彼女の持っているものがあるように、私には私の持っているものがある。
今はそれを精一杯出し切るだけだ。
「では…」
そう言って演奏を始めようとしたとき
「ちょっと待って」
と、幽々子がとめた。
いぶかしむ皆に向かって幽々子嬢は言う。
「妖夢は舞とは言ったけど、二つもそんなのが続いたら宴の興が殺がれてしまうわ。」
そして、私たちに向かって言う。
「だから、曲目は思いっきり激しいもの。お願いできるかしら」
それを聞いて目を輝かせたのはメルランとリリカ。
目を剥いたのは妖夢さん。
「ちょ、幽々子様、聞いてませんよ!」
「もちろんよ。今決めたんだもの…そうね、妖夢も一緒に踊りなさいな」
「ええっ!? 駄目ですそんなの。やめてください」
「何事も経験よ」
そう言って妖夢さんを引っ張りあげる幽々子嬢。
じたばたともがいているものの、なすすべのない妖夢さん。
「そういうことなら遠慮しないよ、幽々子さん」
「ついてきてくださいね」
と、これはそれぞれリリカとメルラン。
「もちろんよ。なめてもらっちゃ困るわ」
「私はよくないです~」
嬉しそうな幽々子嬢と心底困った様子の妖夢さん。
この二人は、見ていて本当に飽きない。
一瞬ほうけて乗り遅れた私を置いて、演奏が始まる。
激しく、楽しく、リズムよく、まさにお祭りのためにあるような曲。
時とともに曲は勢いをどんどん増していく。
それに苦もなくついていく幽々子嬢。さすがは冥界の舞姫。
曲にあわせて、扇を振り、宙を舞い、くるくるぴたりとターンを決める。
必死についていこうとしているのは妖夢さん。
とっさの身のこなしはさすがだけれど、不慣れなダンスに、足元がどうもおぼつかない。
観客のみんなも、一緒に混じって踊りだす。やっぱりみんな騒がしいことが大好きなのだった。
部屋は一瞬にして元の喧騒を取り戻した。
そして、口々に私に声をかける。
「幽々子さん、さすがにたいしたものね」
そうだな。
「お姉ちゃんなにやってるの、このままじゃ負けちゃうよ!」
こらこら、負けってなんだ…。
「ルナサさん、一人だけ傍観者なんてずるいですよう」
だが、こういうのも悪くはないか?
「どうしたの、宴に乗り遅れるなんて、騒霊の名折れじゃなくて?」
だとしたら、やることは一つ。
「容赦しませんよ幽々子さん。メルラン、リリカ、いくぞ」
そう言って愛用のバイオリンを構えた。
さらに勢いを増した音楽が、会場のみんなの熱気が、場をますますヒートアップさせていく。
夜も、宴も、まだ始まったばかりだ。
ICさんのSSは好きなので、また投稿されることをコッソリと心待ちにしていました。
さてにこの作品。ルナサの目を通して宴の様子が描写されていますが、やはり幽々子が演奏する箇所が印象的です。
けれど宴そのものはまだ始まったばかり。はたして彼女達(特に幽々子)が何をやらかしてくれるのか。現状では私の想像が及ばないので、大人しく続きを待つことにします。