-1-
遠くの山々は赤く色付き、空には鰯雲が流れている。
時折、雲間から太陽が顔を覗かせるが、地に落ちる影は薄い。
冬はまだ遠い筈だが、街路では木枯らしが道行く人達の身を竦ませていた。
ふと、何かの気配を感じた。里を出て随分歩いたが、誰ともすれ違わなかったし、この方向へ向かう者などいなかった筈だが──。
振り返ってみるが、やはりそこには誰もおらず、吹き抜ける風に道端の枯葉が舞い上がるのが目に入るのみ。
何かの気配は消え去っていた。
白に近い銀髪の女性は、ふっと軽く笑うと、黒い外套を翻してまた歩き始めた。
里へ出るのは、もちろん初めてというわけではない。ひっそりと隠れ住むような生活を送っているとはいうものの、完全に自給自足をしているわけではないのだ。
ある意味、仙人のような暮らしと言えなくもないが、仙人のように霞を食べて生きるには、まだまだ年月が足りない。だからこうして、里へと出向くこともままある。
自分にとっては暇潰しの手慰み程度でしかないものだが、里に持っていくと非常に高い値段で取り引きされる。それは、人目を忍んで暮らしている自分たちにとっては極めて好都合な事で、大いに助かっている。
何しろ、彼女自身は、働いて日々の糧を得るというごく普通の営みを、概念的には理解しているものの、同居人たちはというと欠片ほども理解していないからだ。
例えば田畑を耕したり、家畜を育てたりしていてもいいのだが、それでは人目についてしまうし、それを想像してみると冗談と笑い飛ばすには趣味が悪すぎる。第一、頭では分かっていても働いたりする気など、彼女自身にもあるわけが無い。
それに──そうしていろいろな場所を移りながら隠れ住んでいるのは、元を辿れば自分がその元凶なのだ。
贖罪。
そんな呼び方は似つかわしくないが、頭脳労働は自分の領分だし、揃って平穏に暮らせるのならば苦にはならない。それは、罪の意識から来るものではなく、嘘偽りの無い彼女の本心だ。
そういえば、この頃は里に訪れるのを待っている者もいるようだ。
あまり顔が知られるというのも困りものだが、それも仕方のないことだ。所詮、独りだけで生きていくことなど誰もできはしない。
それが真理である。ましてや、自分はここでは異邦人と言っても過言ではないのだから。
そう自分に言い聞かせているのだが、里からの帰りはなぜかいつも酷い疲労感に襲われる。そろそろ別な場所に移り住む潮時なのかもしれない。
こうして幻想郷に住むようになってから、どれくらいの月日が流れたのか、それでもやはり自分には馴染めそうになかった。幻想郷のいろいろな場所を転々としているが、土地の住人たちと自分とでは、生活様式も趣味嗜好も異なる。
いや、趣味嗜好などは十人十色だし、ここには人間以外の知的生命体もたくさんいるから画一的には律し難く、直接の理由にはならない。
決定的に違うのは、物事や善悪の価値観が違うことと、生死に対する概念や人生観が違うこと、そして何より故郷と空気が違いすぎるのだ。
遠い日に、もう捨てたはずの故郷。
自らの手で同胞を惨殺し、故郷へと帰る道を閉ざしたというのに、それでいてなぜか、ひどく懐かしく思える。
望郷の念を振り払うように、辺りの風景を見渡す。
帰りたいと言えば嘘だが、帰りたくないと言ってもやはり嘘だ。同郷の者には会いたくないが、故郷の地をもう一度踏みたいと時々思うことがある。
もちろん、この幻想郷が全部嫌いというわけではなく、好きなところもあるのだ。こうして、季節によって美しく様相を変える自然などその最たるもので、それはとても気に入っている。残念ながら、彼女の生まれ育った故郷には、季節を感じさせてくれるものが何もなかったからだ。
だから、自然の豊かさを実感させてくれる、実りと収穫の季節である秋は、彼女にとっては最も安らげる時期のひとつになっている。
それはそうと、この辺りは異様なほどの魔力を感じる。
誰かが強大な魔力を発散している、といったものではなく、どうやらこの土地自体に魔力が集まっているようだ。先程の気配はこの魔力の所為かもしれない。
何か潜んでいるような気もするが、これほど魔力の強い場所となると、人も妖怪も好んで近寄ったりはすまい。気晴らしにでもと、帰りにいつもと違う道を選んだのはほんの些細な思いつきだったのだが、道理で街道からこちらへ向かう者が誰もいなかった訳だ。
だが、その考えはあっさりと裏切られる格好になった。
家がある。
「ほう…。」
少し驚いたと同時に興味をそそられる。何しろ、何か看板めいたものが立っているのだ。
道からは木々に邪魔されてよく見えないが、こんな場所に何かの店を構えているとしたら、余程の物好きか、それとも余程の偏屈者か、いずれにせよ訳有りだろう。
顎に手を当てて少し考え込んだが、好奇心のほうがそれに勝るのにはさほど時間を要しなかった。
里で貰ってきた銀は、すぐ別な買い物に使ってはいたものの、それでも結構な量がまだ懐に残っている。それを抜きにしても、いったい何の店なのか見ていくだけでもいいだろう。
鳥の巣箱のような手紙受けの脇を抜け、両脇に杭の打たれた小道を行く。さほど大きな建物ではないが、何か独特の不思議な雰囲気を醸し出している。
扉には店の名前と思しきプレートがかけられていた。
ノブに手をかけ、そっと開ける。
扉に取り付けられていた鐘が、カラン…と乾いた音を立てた。
-2-
扉の開く音と鐘の音に、読んでいた本から目を離して顔を上げると、男は少し驚いた。誰かの気配は感じたが、意外なことに客のようだ。
身体を起こすと、籐を編んだ椅子の背もたれが少し軋みを上げた。
人差し指で眼鏡を押し上げると、
「やあ…いらっしゃいませ。」
と、穏やかに声をかける。
仮にも店の主人だというのに、この言葉を口にするのは随分久しぶりのような気がして、思わず苦笑してしまう。何しろ、訪れる者は客とは到底呼べない輩ばかりなのだ。
端整な顔立ちだが、男の眼光は鋭利な刃物のように鋭い。だが、丸眼鏡と、作務衣に半纏という少しばかり年寄り染みた姿格好が、無機的で冷たい印象を与える容貌を丁度いい具合に和らげていた。
入ってきたのは女性。初めて見る顔で、若いが、子供と呼ぶほどではない。
銀色の髪を後ろで編み上げ、黒の外套で全身をすっぽりと覆っている。
軽く会釈すると、彼女は雑多な品々が所狭しと並べられた室内を、興味深げにキョロキョロと見渡した。
とにかくいろいろな物が雑然と、場所によっては整然と並べられ、あるいは堆く積み上げられたりしているおかげで、部屋の中は妙に狭く感じる。が、それでいて何か暖かみのある不思議な雰囲気に包まれていた。
古い物が多い。
長い間放置されていた物であるならば、ただ古さしか感じないものだが、ここにある物は全てが違っていた。かつて多くの人の手を渡り、また日々の営みの中で使われてきた物であろうことは容易に察することができよう。
多くの人にはガラクタ同然という見方もできるが、物の価値などそんなものだ。
「…悠久の永きに渡って、その使命を果たしてきた道具というものには、命を持つ物もあるそうね。」
不意に女が呟くと、男は僅かに眉を動かす。
「そういう話は聞き及びますが、残念ながらここには生きている物はありませんよ。」
「…いいえ、生きているわ。生きて、まだ使い続けられることを望んでいるかのよう。」
彼女は、銀色の丸い道具を手に取る。水差しのように見えるが、底部にはさらに金属の半球が重ねるように取り付けられ、鳥の嘴のように横から長い口のような管が突き出ている。
「使われない道具は死んでいるに等しい。でも、ここにある道具の数々は、天寿を全うするにはまだまだ時を要し、今はここで静かに暫しの休息を取っているような気がするわ。」
独白めいた口調。
男は立ち上がると、彼女のほうへ歩み寄った。
「至言ですね…失礼だが少々驚きました。お若いのに、なかなか達観なさっているようだ。」
「…この蒸解炉は小振りだけど、いい品物ね。」
「ほう、その道具の使い途をご存知とは。失礼だが、あなたは魔術──魔法の使い手では?」
男の言葉に、彼女はやや困ったように少し視線を外した。
蒸解炉は、超高温で材料を溶かし、特定の成分を抽出するために使う器具のひとつだ。もちろん一般家庭ではそんなものは必要が無いし、それほどの高温が必要となると、魔法の触媒などの精製に使うと考えるのが自然だ。
「いいえ、私は、ええと…薬師です。」
「ああ、薬師ですか、成程。」
男は頷いたが、女の言は方便かもしれない。魔法使いは、同じ人間からすると不気味な存在と考えられていることが多く、割と毛嫌いされることが多いからだ。
彼女にとっては重要なことかもしれないが、いちいち追及するまでもない瑣末な事と言っても良いだろう。思わず尋ねてしまったのは失言だったか。
相手が人であれ妖怪であれ、とりあえずは客なのだ。この店では、とりあえず客であれば種族・性別・生死については問わないのである。
とりあえず、初顔の女性客の素性についてはそれ以上穿鑿しないほうが賢明のようだ。むしろ、魔法使いだとすれば、ここにある数々の品物の秘めたる価値に気づいてもらえるかもしれないし。
「…どうです、お気に召すものがあるようでしたら、何かいかがですか。」
「…どれもあなたが大事にしているのではなくて?」
悪戯っぽい笑顔を見せると、彼女は男が先程まで読んでいた本を顎で指し示す。
「それは外の世界の書物ね。そんな彩色された装丁の本など、里でも見ないわよ。それに、あなたこそ、蒸解炉を知っているなんて、本当は魔法使いじゃないの?」
男は苦笑いを浮かべて頬を掻いた。どうやら薮蛇だったらしい。
「これはやられましたね。当たらずとも遠からず、といったところですか。若い頃に少しかじった程度の話です。」
まだ若い筈なのに、いやに年寄り臭い言い方である。それとも、こんな古道具に埋もれていると、考え方や言動まで年寄り臭くなってしまうのだろうか。
「まあ、趣味で集めた物が多いのは認めますが、その蒸解炉は僕が作ったものでしてね。お褒めに与って光栄ですよ。」
「へぇ…。」
その言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。だが、どこか上の空といった風情だ。
怪訝に思ってか、男が視線の先を辿ってみると、彼女の目は書架の上のほうに釘付けになっていた。
男は僅かに首を傾げると、その段に収められている本を一瞥する。
さて、いったいどの本に興味があるのか。
彼女の目に止まった本は、容易く見つかった。
「…さすがに専門、といったところですか。その本に目が行くとは。」
黒い背表紙の本を取り出すと、パラパラとめくる。
黒い布と銀糸で装丁され、表紙には大きな樹のシルエットが刺繍されているという、かなり凝った装丁の本である。その樹は、神話に登場する、世界の中心にそびえ立っていると言われる巨木がモチーフとなっているらしいのだが。
「この本は、幻想郷に自生している薬草や、薬の材料になる鉱物などについて解説した本です。この本は、あなたのように薬師ではなく、昔の魔法使いが記したものだと言われていますが。」
「それは興味深いわね、見せて頂けないかしら?」
「それは構いませんが…」
男はそこで言葉を区切ると、奥へと誘うように身体を横に向けた。
「立ち話もなんですし、持って読むには重い本ですからね。どうですか、お茶でもひとつ?」
意外な誘いに、彼女は一瞬だけ呆気に取られたような顔をしたが、
「…それって、口説いてるのかしら?」
と、小馬鹿にしたように喉の奥で笑いながら答えた。
でも何故か、その笑いには厭らしさは少しも感じられなかった。
(つづく)
氏の名前を発見するなり有無を言わず即クリックしてやってきました。相変わらずの丁寧な、じっくりと読ませる文章はやはり心地良いです。
なので、無粋で不敬だとは承知しているのですが――ひとつ意見を。
視点が店の店主よりに移った後の店内の描写なのですが、どうにも視点が客と店主との間を行ったり来たりしているように感じました。
私の気のせいであったり、故意のものならば、戯言として流していただけると幸いです。
無責任ではありますが、続きを拝むことができる日が来るのを楽しみにお待ちしております。
お久しぶりです。MUIさんの名前が出るのを、ずーっと待っておりました。相変わらずな燻し銀ストーリーは、流石と言いますか。
トレンドなど全然気になさる必要はありませんよ。
MUIさんの文章は私が無い物を全部持っているという、とても羨ましい方です。ああ、MUIさんレベルとは言わないけど、もうちょっと台詞に頼らない物語構成をしたい……(汗)
ただ人称のブレは私も気になりました。ちょっと混乱して読み直しをしたので。正確には一部、三人称も混ざってる気がするので注意してみてください。
内容に関しては、何となく分かる所もありますが作者さんにならって、私も全てノーコメントで。クラシックを聞いているような、そんな静かな美しさ、独特の世界を味わえるMUIさんの続きを期待してお待ちいたします。
ところで、この二人を書いた人はここでは初めてじゃないんでしょうか。
どんな物語が出来上がるのかとても楽しみです。
セリフに頼らないで、内容を的確に読者に伝える。そんなの自分じゃ無理っす。でも、その内やってみたいですな。
続きが出たら即クリック。(来る時間があれば…w)