遠い、遠い昔の話だ。里に新たな赤子が生まれたとの報せを聞いた彼女は、とてもとても―――――まるで我が事のように祝い、喜んだ。
それから年月を経て少年になった赤ん坊は、彼女の家によく遊びに来ていた。
家の中を走り回り、障子を破り、畳を汚し、それはもう大童だったと記憶している。
だが、それはそれで楽しかった。
更に年月を経て、大人になった赤ん坊は結婚して子を成した。
大人になった赤ん坊によく似た、元気の良い子だった。
更に年月が経ったある日、この間生まれたばかりだと思っていた赤ん坊の赤ん坊が成長し、何時の間にか大人になっていた。久し振りに顔を合わせた時に子供を連れていたので、大層驚いたことを覚えている。
更に年月が経ち――――赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が子を成した頃、一番最初の赤ん坊が皺だらけになっており、間も無く死んで逝った。
彼女は何をするでもなく、それを見ていた。
更に年月が経ち、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が生まれた頃、赤ん坊の赤ん坊が枯れ木のように朽ち果てて死んで逝った。
彼女は何も言わず、それを見ていた。
更に年月が経ち、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が生まれた頃、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が死んで逝った。
彼女はただじつと、それを見ていることしか出来なかった。
更に更に更に年月が経ち、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が死んで逝ったときも、彼女はただそれを見ているだけだった。
彼女は悲しかった。
それでも赤ん坊は生まれる。悲嘆する間も無く生まれて生まれて生まれて生まれる。
そして赤ん坊は死んで逝く。祝福する間も無く死んで死んで死んで死んで逝く。
彼女はそれが――――ただただ、悲しかった。
さあさあと雨が降っていた。
小降りだが霧雨混じりのその雨は、傘を差しているというのにしっとりと服と肌を濡らしていく。
傘を差さないわけにはいかないが、差したところで然したる効果もない――――まるで現在の心境を天が代弁してくれているかのような、厭な雨だった。
そんな雨の中を、上白沢慧音は独り歩いている。
その足取りはしっかりとしており、上体は棒でも入れられているかのように揺ぎ無い。口元は真一文字に引き締まり、瞳は真っ直ぐ前を捕らえて放さない。慧音はただ歩いているだけだというのに、そこには確かに凛とした雰囲気と存在感があった。
長年の癖というものは恐ろしいものだ。気分はどうあれ、体だけは普段と同じように、いつも通りに動いてしまう。
だが――――それは体が勝手に動いているだけに過ぎない。
前方に、水溜りとまではいかないまでも、泥濘んで柔らかくなった地面が見えた。
普通ならばそれを跨ぐなり、回り込むなりするのだろう。だが今日の―――いや、最近の慧音には、そんな気力も無かった。
慧音が足を踏み出す。
僅かに跳ね上がった泥が靴を汚したが、幸いにもスカートまでは届かなかった。
慧音は体の底に溜まった澱みを吐き出すように息をついてから、意識を前方に戻して歩き続ける。
そうしてそのまま暫く歩いていると――――目的の場所である民家が見えてきた。
「御免」
慧音は玄関の戸を開け放ってそう告げる。決して大きくはなかったが、よく通る声だった。
事前に来訪の旨は伝えてあったので、程なくして奥から一人の女が現れた。
「―――ようこそお出で下さいました」
年のころは四十といったところだろうか。年齢相応に落ち着いた雰囲気の持ち主で、恭しく頭を下げる動作にもどこか品がある。
「いや、いい。好きでやっていることだ。此方こそ迷惑でないかと思っていた」
女は、とんでもありませんと言って、もう一度深く頭を下げた。
慧音は女に招かれて家に上がり、外に面した廊下を渡る。
古い家であったので、先を行く女が一歩歩く度、後に続く慧音が一歩歩く度に、くすんだ廊下の板が、ぎぃ、と鳴る。
慧音にしてみれば、この家が建ったのもつい昨日の出来事のような気がするのだが――――やはり、この家は古いと言わざるを得ないのだろう。その証拠が、今から行く場所に在る。
家の一番奥の部屋の前で女の足が止まり、障子の前に正座をする。慧音もそれに倣って膝をついた。
「慧音様がいらっしゃいました」
女が静かに言った。部屋の中からの返事は無い。
「――――それでは、失礼致します」
無言で頷き、去っていく女を見送る。
「失礼するよ、刀自殿」
慧音は一度断りを入れてから、す――――と、静かに障子を開けた。
そこには、布団の中で横になった一人の老婆が居た。
雨風が入らないように障子を閉め、老婆の枕元に座り直した。その隣に持参した薬箱と鞄を置いたが、それが必要かどうかは甚だ怪しいところだろう。
見下ろした老婆の顔は塩のように白く、呼吸に力が無い。今は眠っているようだが、例え目を覚ましたとしても自力で起き上がれるかどうか。
もう、誰が見てもそれと分かるほど―――――――
「・・・・・・・失礼」
掛け布団を捲り上げ、老婆の手首を取る。
今更――――と思わないでもないが、他にやる事も無く、無理に起こすなどできはしない。
弱々しい脈を採り終えた慧音は布団を元に戻し、薬箱を掴んで立ち上がる。
「また、明日来る」
そう言って、音も無く部屋を後にした。
上白沢慧音は半分が人、半分が妖で出来ている。しかしその中途半端な体とは裏腹に、その心は既に一方に傾いている。
慧音は人の身では決して及ばぬ歳月をかけて修めた学と力を、人の為に振るっていた。
それも正しくは己の為であろうが、その行為が人から感謝されているのもまた事実だ。
彼女は普段人里から離れた場所に構えた一軒家で寝起きし、幻想郷の歴史を綴りながらひっそりと日々を過ごしている。しかし彼女の性格、性質上、その家を訪れる者は後を絶たない。
それは智慧を借りる為であったり、助けを乞う為であったり、災厄を防ぐ為であったりと――――目的は様々だ。この医者の真似事も、そのうちの一つである。
人の医者がいないわけではないが、それでも手が足りなくなる事はあるし、またその医者自身が不養生をした場合なども慧音にお呼びが掛かる。
慧音の豊富な知識と技術と経験を慮れば、自ら医者を名乗ったところで何らおかしくはない。しかし、その道に傾倒していなければ、やはりそれは真似事でしかないのだろう―――――と、慧音は思っている。
玄関に戻る途中に、先ほどの女――――老婆の娘と鉢合わせた。様子を窺っていたのか、慧音を見送るつもりだったのか。どちらにしろ、経過を伝える必要はあった。
「今日明日、だろうな」
「・・・・・・はい。有難う御座います」
女は伏せていた顔を上げ、真っ直ぐ慧音を見詰めて言った。
―――――礼など止してくれ。
咽喉から出かけた台詞をなんとか飲み込む。
「また、明日来る」
それだけ言って、慧音は泥だらけになった靴を履く。
足に纏わりつく不快感が、今の慧音には心地よかった。
◆
腰まで届く透けるような蒼い髪が舞い、スカートが翻った。
続けて、紅をさしていない白い唇が動き、澄み切った綺麗な歌が紡がれる。
聞いたことも無い歌だった。童謡か、民謡かも分からない。
彼女はまだ十にも満たないであろう子供達と手を繋いで、くるくると回る。楽しそうに回る。
その顔は、前に見たときのような敵意剥き出しのものとはまるで違う。朗らかに―――笑っていた。
「よう」
知った顔ではあったので、魔理沙は一応声を掛けてみた―――――のだが、途端に顰めっ面になられると、流石にこちらも気分が悪かった。とは言え、自分の表情が子供達から見えないようにすかさず立ち位置を変えたあたりは――――中々ちゃっかりしていて好感が持てた。
「―――――お前か」
「魔理沙だぜ。霧雨魔理沙」
「・・・・・・・・上白沢慧音だ」
名乗り上げられたからには返さねばならぬ―――――とばかりに、青い髪の少女は苦々しく答えた。そこでお互いの名前すら知らなかったことに思い至る。まあ、よくある話だが。
自己紹介を済ませたところで、慧音と名乗った少女が子供達を庇うように前に出る。
「やる気満々だな」
「――――何をしに来た」
「何をしに来たと思う?」
愛用の箒で肩を叩きながら、魔理沙は口元を歪める。
「知らん」
「早速降参か。私の勝ちだな」
にべもなく言い放つ慧音に、魔理沙は得意げに笑って見せた。
「――――正解は、『里に食材と調味料を買いに来たはいいが、御足を忘れたんでしょうがなくふらふらしていた』だ」
嘘ではない。森から出て人里を訪れることはしばしばあるが、大体がこのような理由だ。
「・・・・・・・・・・分かるか、そんなもの」
呆れた様子で呟く慧音に、魔理沙は尚も挑発的な視線を送る。
「で、どうするんだ?別に私はどっちでもいいぜ。でも、ま、やるなら早目がいいなぁー」
慧音は魔理沙を睨んで、次に後ろに隠れている里の子供たちに視線を移した。
「そちらに敵意が無いのなら、私が争う理由など無い」
慧音は子供達の方に向き直り、言葉遣い以外は優しく、諭すように言った。
「お前達はもう帰るんだ。私はこれから用事がある」
後ろを向いているため、魔理沙の方からは慧音の表情が窺えない。が――――恐らく微笑んでいるだろうことは容易に想像できた。
失礼にも怯えた目で魔理沙を見ていた子供達は、花の咲いたような笑顔を浮かべると、勢い良く首肯してから去っていった。走り去りながら手を振るものもいれば、慧音の名を呼ぶものもいる。
魔理沙はその様子を見ながら、まるで母親か姉のようだな――――などと思った。
「で、いつもああなのか?」
「ああ、とは?」
「子供と遊んでるのかってことだぜ」
「手が空いたときだけだ」
「――――の割には随分と楽しそうだったが」
「・・・・・・・・・・・・・」
魔理沙は目の前にある水溜りをひょい、と飛び越えた。昨日振った雨の所為で出来たのだろう。
「・・・・・・・・何故、ついて来る」
魔理沙に先行して歩いていた慧音が立ち止まり、背中越しに振り返って半眼で睨んできた。
「用事が『できた』んだろ?」
「――――――お前の相手をするという意味ではない。用事は元々あったんだ」
魔理沙と慧音は、どこぞの道を歩いていた。
二人が人里から離れて既に久しく、遠目には見事に実った里の田畑が見える。絨毯のように敷き詰められた稲が風で揺れる様は、まるで黄金色の海原が波打っているかのように美しい。
「別に用事があっても私は気にしないぜ」
慧音は暫く睨みつづけていたかと思うと――――こめかみを抑え、諦めたような溜息を吐いて歩き出す。
魔理沙は変わらぬ笑顔のまま、その後に続いた。
それから半刻ほど歩きつめた頃だろうか、小高い丘の上―――――鬱蒼と生い茂る木々に隠れるように、その家はあった。
墨色をした瓦屋根の日本家屋で、くすんで黒くなった木材が否が応にも年季を感じさせる。それなりの大きさを誇っており、一家族が住んでいたとしてもおかしくはなかった。
「――――やけに遠いな。何で飛ばなかったんだ?」
「お前が諦めて帰るのを期待したんだよ」
言いながら戸を開け放ち、慧音は自宅へと上がっていった。挨拶が無いところをみると、どうやら独り暮らしのようだ。
魔理沙は靴を脱いで揃え、慧音に続く。
上がり込んだ瞬間、素足にひやりとした床の冷たさが伝わった。だが、不快ではない。年月によって慣らされた木材の感触は足に心地良かった。
何気なく壁についた手には、滑らかな感触。改めて指でなぞってみても、指先には塵ひとつ付かない。
「いい家だな」
素直にそう思った。
よく手入れが行き届いている。愛着がなければこうはいかないだろう。それに――――
「本の匂いもする」
魔理沙がまるで犬猫のように鼻を鳴らした。それもかなりの量なのか、玄関だというのに古書の饐えた匂いがしてくる。
「本当に――――――呆れた奴だ」
慧音が眉根を寄せて口を開け、これまでにないほどに落胆した表情をしてみせた。
「なあ、何冊か借りていってもいいか?」
だがそんなものはお構いなしとばかりに、魔理沙はひとりはしゃいでいる。
「珍品奇品の類など無いぞ。あるのは史書と―――――学術書くらいのものだ」
「何でもいいぜ。読めるならそれでいい」
食い下がる様子に埒が明かないと思ったのか、それとも幼児のように輝く瞳に中てられたのか――――――いかにも不承不承といった風情で慧音は首肯した。
「後で書庫に案内してやるから、取り合えずついて来い」
「いや、悪いな」
浮かれて軽くなった足で、慧音の背を追った。
魔理沙が通されたのは、畳張りの居間だった。
慧音の姿は無い。茶を用意すると言い残して、部屋から消えていた。
黙って待っている謂れも無いので、暇つぶしとばかりに魔理沙はぐるりと部屋を見渡す。
居間の中心には縦長―――長方形の卓が置かれ、その奥には腰模様の襖が見える。その他には壁際に寄せられた箪笥と――――その上に置かれた棚があるくらいで、花瓶も、妖しげな掛け軸も、神棚も、仏壇も無い。ある種の潔ささえ感じさせる。
だがその中で、不自然に目に付くものが一つあった。
それは頂点に取っ手のある木製の箱だ。一辺が一尺に及ばない程度の大きさのその箱には細かい引出しが幾つも付いており、角に鋲が打ってある。
興味本位で引出しを開けてみると、中には多量の紙包みが入っていた。
「――――――お前の家には薬箱も無いのか?」
不意に後ろから声を掛けられ、魔理沙はばつが悪そうに箱から離れる。
盆を手にした慧音が、居間の入り口に立っていた。しかし慧音はそれ以上何を言うでもなく、湯飲みを盆から卓の上に移した。
「やけに本格的な薬箱だな」
魔理沙は置かれた湯飲みを手にとって口を付ける。茶は、冷たかった。冷茶というやつか。
「それは往診で使う物だからな。家庭用のはもう少し簡素だ」
「そっちの心得もあるのか」
へぇ、と魔理沙は興味深げに息を漏らす。
往診という位だ。どれ程のものかは知らないが、医術を修めているのだろう。
魔理沙とて魔女の端くれ。医術など必須科目の一つだ。やはり目の前の相手に対して興味が湧く。
「で、腕前の方はどうなんだ?」
慧音は魔理沙から視線を外し、薬箱の前に座って中身を検め始めた。
「――――藪だよ。人ひとり助けられん」
慧音が、ぽつりと漏らす。
自嘲気味に吐いた一句。たったそれだけ。
しかしそれだけで魔理沙は得心がいったのか、ああ、と呟いた。医者のような真似をするのだ。ただ気楽に診るだけでは立ち行かないのだろう―――――と。
「大変だな」
だが、所詮は対岸の火事――――――とでも揶揄するように、魔理沙は笑う。
慧音はそれきり押し黙り、部屋には薬箱を弄る音だけが断続無く響いていた。
魔理沙にしてみても、特に会話を続けようという気はない。この家の何処かにあるであろう本に思いを馳せながら茶を啜っていた。
そして、二人の間に沈黙が降り立つ。
一秒が長く、一分は更に長かった。いつまでもこのままのようであり―――――過ぎてしまえば、それはそれで短かったような気もする。
「そうだな、大変だ――――」
先に静寂を破ったのは――――慧音だ。
慧音はその手を止めることなく続ける。
「子供達と遊び、田畑を耕し、智慧を貸し、時には心身を診る。里を隠し、妖怪を追い払い、血に塗れる事も少なくない」
立ち上がってやたらと饒舌に―――抑揚なく語りだした慧音を、魔理沙は見上げた。
「だというのに、方々手を尽くしたというのに、必死に智慧を絞ったというのに――――――彼等は死ぬ。すぐ死ぬ。疫病で死ぬし怪我で死ぬし老衰で死ぬ。あっさりと死ぬ。実は羽虫か何かなんじゃないかと――――――勘違いしたくなるくらい死ぬ。まったく、ふざけた話だとは思わないか?」
魔理沙は答えない。変わらず茶を啜っているものの、内心僅かに気圧されていた。堰を切ったように慧音の言葉は流れ続ける。
「厭になる。泣きそうだ。泣いたこともある。いい加減止めてしまおうかと思った事だって一度や二度じゃあない。だが―――――だがな、私はこのまま、変わらぬまま、暗澹たる思いを抱えたまま生きるのだろう」
なんとなれば、と。
「私は人間が好きだからな」
「――――――」
別に目の前の半獣と親しい間柄であるわけではなく、詳しい事情など知りはしない。
だが――――――
「それは――――――惚気か?」
湯飲みを空にして台の上に置き、魔理沙は呆れたように言った。
「そうだ」
臆面も無く真顔で言ってのける慧音に、からかう気も失せた、とばかりに魔理沙は立ち上がった。
「帰るのか?」
「ああ。御馳走さん」
「本は如何する?」
さも意外そうに慧音は声を上げた。
「また今度、覚えてて気が向いたら来るぜ」
「――――そうか、ならば其処まで送ろう。どうせ私も出るところだ」
慧音は薬箱を掴んで、魔理沙に並んだ。
そのままお互いに何も言わず、入ってきたときとは逆に二人は無言で外に出た。
軒先で慧音と分かれた魔理沙は、箒に跨りふらふらと―――――風の向くまま、気の向くままに空を飛んでいた。
ふらふらと、馴染みの神社の在る方に向かって飛んでいた。
その理由など分からないし、どうでもいい気がする。ただ――――ちょっとあいつの顔を見に行くのも悪くないかもしれない―――――。
そんなことを思いながら、魔理沙は空を飛んでいた。
◆
慧音は障子の前に膝をついた。
「失礼するよ、刀自殿」
昨日と一言一句違わずに告げてから、す―――――と昨日と一挙手一投足違わずに障子を開ける。
そして、驚いた。
昨日は寝ていた老婆が、今日は起きていた。いや、起きているのはいい。老婆は、布団の上で―――――上半身を起こしていた。
慧音を見とめた老婆は、顔に刻まれた皺を更に深めてにっこりと笑った。
「ようこそお出で下さいました。昨日はお構いもできませんで――――――」
その一言で我に返った慧音は、足早に老婆の傍に寄る。
「いいのか?その―――――体は」
老婆は笑顔を崩さぬまま、はい、と頷いた。
「今日は体の調子も頗るいいようです」
「そう、か。ならばいい」
慧音は薬箱を置き、老婆の脈を採り始めた。
「慧音様は―――――――――」
名前を呼ばれた慧音は、老婆に顔を向けた。
「今も昔も変わらず、お美しゅう御座いますね。――――私はほら、このとおり」
老婆は自らの頬を撫でながら、照れたように笑った。
「・・・・・・・・・そうか?お前は今も昔も変わらずお転婆だったぞ?丁度この家が出来た頃だったな、お前が生まれたのは。あまりに五月蝿く泣くので、そういう化生なのかと勘繰ったこともあるくらいだ」
「生まれたばかりの事なんて、覚えてやしませんよ」
「――――それだけではないぞ。確か嫁入り前だったな、私に符を教えろと言ってきたのは。いや、あれには流石に私も驚いた。心意気は買うが」
「そうだったでしょうか?」
老婆はそら惚けた調子で、慧音から、ふい、と視線を外す。
「まだある。あれは確か――――お前の娘が二十くらいの頃だ。娘と顔を会わせるたびにさっさと結婚しろと言っていたそうじゃないか?お前の娘が偶に私に愚痴りに来るので、えらく迷惑した覚えがある」
「・・・・・・親ですから。そういうものです」
「いやいや、まだまだ―――――――」
「―――――もう。そのくらいでいいじゃありませんか。堪忍してください」
今度はそっぽを向いた。
それを見た慧音の口から、堪えきれなかった笑いが漏れる。
「ふ―――――ははは」
「ふふ」
老婆も、口元を押えて忍び笑いを漏らす。
そのまま暫く笑い続けた後――――――老婆が一つ息を吐いた。
「少し―――疲れてしまいました」
「・・・・・そうか。なら、横になるといい」
「はい。では、失礼します」
慧音にその背中を支えられながら、老婆はゆっくりと仰向けに倒れる。
「また、明日来る」
慧音が布団を直して昨日と同じように言うと、老婆はにっこりと微笑んだ。
薬箱を掴み、老婆に背を向けて立ち上がり―――――――――
「―――――有難う御座いました」
全く予期していなかった礼に、慧音は弾かれたように振り向いた。
しかし、既に老婆の目は閉じていた。
老婆の口は閉じていた。
老婆の耳は閉じていた。
老婆の歴史が、閉じていた。
慧音は向き直って障子の縁に手を掛ける。さして力を入れたわけでもないのに、音も無く障子は開いた。
元々は新しかったであろうそれは、今ではくすみ、色褪せ、傷つき、枯れている。
まるで―――――――そこに居た老婆のようだと、思った。
「礼など止してくれ」
しかし、その姿は美しかった。
「そんな事を言われる筋合いなど無い」
その在り様が美しかった。
「そうとも。これは私がやりたいからやっているだけに過ぎないのだ」
その歴史を――――確かに美しいと感じたのだ。
「なにしろ――――――」
たん、と。慧音が後ろ手で障子を閉め、その姿は戸の向こうへと消える。日光を受けて出来た影が、障子紙にぼんやりと映し出された。
「私は人間が大好きだからな」
それから年月を経て少年になった赤ん坊は、彼女の家によく遊びに来ていた。
家の中を走り回り、障子を破り、畳を汚し、それはもう大童だったと記憶している。
だが、それはそれで楽しかった。
更に年月を経て、大人になった赤ん坊は結婚して子を成した。
大人になった赤ん坊によく似た、元気の良い子だった。
更に年月が経ったある日、この間生まれたばかりだと思っていた赤ん坊の赤ん坊が成長し、何時の間にか大人になっていた。久し振りに顔を合わせた時に子供を連れていたので、大層驚いたことを覚えている。
更に年月が経ち――――赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が子を成した頃、一番最初の赤ん坊が皺だらけになっており、間も無く死んで逝った。
彼女は何をするでもなく、それを見ていた。
更に年月が経ち、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が生まれた頃、赤ん坊の赤ん坊が枯れ木のように朽ち果てて死んで逝った。
彼女は何も言わず、それを見ていた。
更に年月が経ち、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が生まれた頃、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が死んで逝った。
彼女はただじつと、それを見ていることしか出来なかった。
更に更に更に年月が経ち、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が、赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊の赤ん坊が死んで逝ったときも、彼女はただそれを見ているだけだった。
彼女は悲しかった。
それでも赤ん坊は生まれる。悲嘆する間も無く生まれて生まれて生まれて生まれる。
そして赤ん坊は死んで逝く。祝福する間も無く死んで死んで死んで死んで逝く。
彼女はそれが――――ただただ、悲しかった。
さあさあと雨が降っていた。
小降りだが霧雨混じりのその雨は、傘を差しているというのにしっとりと服と肌を濡らしていく。
傘を差さないわけにはいかないが、差したところで然したる効果もない――――まるで現在の心境を天が代弁してくれているかのような、厭な雨だった。
そんな雨の中を、上白沢慧音は独り歩いている。
その足取りはしっかりとしており、上体は棒でも入れられているかのように揺ぎ無い。口元は真一文字に引き締まり、瞳は真っ直ぐ前を捕らえて放さない。慧音はただ歩いているだけだというのに、そこには確かに凛とした雰囲気と存在感があった。
長年の癖というものは恐ろしいものだ。気分はどうあれ、体だけは普段と同じように、いつも通りに動いてしまう。
だが――――それは体が勝手に動いているだけに過ぎない。
前方に、水溜りとまではいかないまでも、泥濘んで柔らかくなった地面が見えた。
普通ならばそれを跨ぐなり、回り込むなりするのだろう。だが今日の―――いや、最近の慧音には、そんな気力も無かった。
慧音が足を踏み出す。
僅かに跳ね上がった泥が靴を汚したが、幸いにもスカートまでは届かなかった。
慧音は体の底に溜まった澱みを吐き出すように息をついてから、意識を前方に戻して歩き続ける。
そうしてそのまま暫く歩いていると――――目的の場所である民家が見えてきた。
「御免」
慧音は玄関の戸を開け放ってそう告げる。決して大きくはなかったが、よく通る声だった。
事前に来訪の旨は伝えてあったので、程なくして奥から一人の女が現れた。
「―――ようこそお出で下さいました」
年のころは四十といったところだろうか。年齢相応に落ち着いた雰囲気の持ち主で、恭しく頭を下げる動作にもどこか品がある。
「いや、いい。好きでやっていることだ。此方こそ迷惑でないかと思っていた」
女は、とんでもありませんと言って、もう一度深く頭を下げた。
慧音は女に招かれて家に上がり、外に面した廊下を渡る。
古い家であったので、先を行く女が一歩歩く度、後に続く慧音が一歩歩く度に、くすんだ廊下の板が、ぎぃ、と鳴る。
慧音にしてみれば、この家が建ったのもつい昨日の出来事のような気がするのだが――――やはり、この家は古いと言わざるを得ないのだろう。その証拠が、今から行く場所に在る。
家の一番奥の部屋の前で女の足が止まり、障子の前に正座をする。慧音もそれに倣って膝をついた。
「慧音様がいらっしゃいました」
女が静かに言った。部屋の中からの返事は無い。
「――――それでは、失礼致します」
無言で頷き、去っていく女を見送る。
「失礼するよ、刀自殿」
慧音は一度断りを入れてから、す――――と、静かに障子を開けた。
そこには、布団の中で横になった一人の老婆が居た。
雨風が入らないように障子を閉め、老婆の枕元に座り直した。その隣に持参した薬箱と鞄を置いたが、それが必要かどうかは甚だ怪しいところだろう。
見下ろした老婆の顔は塩のように白く、呼吸に力が無い。今は眠っているようだが、例え目を覚ましたとしても自力で起き上がれるかどうか。
もう、誰が見てもそれと分かるほど―――――――
「・・・・・・・失礼」
掛け布団を捲り上げ、老婆の手首を取る。
今更――――と思わないでもないが、他にやる事も無く、無理に起こすなどできはしない。
弱々しい脈を採り終えた慧音は布団を元に戻し、薬箱を掴んで立ち上がる。
「また、明日来る」
そう言って、音も無く部屋を後にした。
上白沢慧音は半分が人、半分が妖で出来ている。しかしその中途半端な体とは裏腹に、その心は既に一方に傾いている。
慧音は人の身では決して及ばぬ歳月をかけて修めた学と力を、人の為に振るっていた。
それも正しくは己の為であろうが、その行為が人から感謝されているのもまた事実だ。
彼女は普段人里から離れた場所に構えた一軒家で寝起きし、幻想郷の歴史を綴りながらひっそりと日々を過ごしている。しかし彼女の性格、性質上、その家を訪れる者は後を絶たない。
それは智慧を借りる為であったり、助けを乞う為であったり、災厄を防ぐ為であったりと――――目的は様々だ。この医者の真似事も、そのうちの一つである。
人の医者がいないわけではないが、それでも手が足りなくなる事はあるし、またその医者自身が不養生をした場合なども慧音にお呼びが掛かる。
慧音の豊富な知識と技術と経験を慮れば、自ら医者を名乗ったところで何らおかしくはない。しかし、その道に傾倒していなければ、やはりそれは真似事でしかないのだろう―――――と、慧音は思っている。
玄関に戻る途中に、先ほどの女――――老婆の娘と鉢合わせた。様子を窺っていたのか、慧音を見送るつもりだったのか。どちらにしろ、経過を伝える必要はあった。
「今日明日、だろうな」
「・・・・・・はい。有難う御座います」
女は伏せていた顔を上げ、真っ直ぐ慧音を見詰めて言った。
―――――礼など止してくれ。
咽喉から出かけた台詞をなんとか飲み込む。
「また、明日来る」
それだけ言って、慧音は泥だらけになった靴を履く。
足に纏わりつく不快感が、今の慧音には心地よかった。
◆
腰まで届く透けるような蒼い髪が舞い、スカートが翻った。
続けて、紅をさしていない白い唇が動き、澄み切った綺麗な歌が紡がれる。
聞いたことも無い歌だった。童謡か、民謡かも分からない。
彼女はまだ十にも満たないであろう子供達と手を繋いで、くるくると回る。楽しそうに回る。
その顔は、前に見たときのような敵意剥き出しのものとはまるで違う。朗らかに―――笑っていた。
「よう」
知った顔ではあったので、魔理沙は一応声を掛けてみた―――――のだが、途端に顰めっ面になられると、流石にこちらも気分が悪かった。とは言え、自分の表情が子供達から見えないようにすかさず立ち位置を変えたあたりは――――中々ちゃっかりしていて好感が持てた。
「―――――お前か」
「魔理沙だぜ。霧雨魔理沙」
「・・・・・・・・上白沢慧音だ」
名乗り上げられたからには返さねばならぬ―――――とばかりに、青い髪の少女は苦々しく答えた。そこでお互いの名前すら知らなかったことに思い至る。まあ、よくある話だが。
自己紹介を済ませたところで、慧音と名乗った少女が子供達を庇うように前に出る。
「やる気満々だな」
「――――何をしに来た」
「何をしに来たと思う?」
愛用の箒で肩を叩きながら、魔理沙は口元を歪める。
「知らん」
「早速降参か。私の勝ちだな」
にべもなく言い放つ慧音に、魔理沙は得意げに笑って見せた。
「――――正解は、『里に食材と調味料を買いに来たはいいが、御足を忘れたんでしょうがなくふらふらしていた』だ」
嘘ではない。森から出て人里を訪れることはしばしばあるが、大体がこのような理由だ。
「・・・・・・・・・・分かるか、そんなもの」
呆れた様子で呟く慧音に、魔理沙は尚も挑発的な視線を送る。
「で、どうするんだ?別に私はどっちでもいいぜ。でも、ま、やるなら早目がいいなぁー」
慧音は魔理沙を睨んで、次に後ろに隠れている里の子供たちに視線を移した。
「そちらに敵意が無いのなら、私が争う理由など無い」
慧音は子供達の方に向き直り、言葉遣い以外は優しく、諭すように言った。
「お前達はもう帰るんだ。私はこれから用事がある」
後ろを向いているため、魔理沙の方からは慧音の表情が窺えない。が――――恐らく微笑んでいるだろうことは容易に想像できた。
失礼にも怯えた目で魔理沙を見ていた子供達は、花の咲いたような笑顔を浮かべると、勢い良く首肯してから去っていった。走り去りながら手を振るものもいれば、慧音の名を呼ぶものもいる。
魔理沙はその様子を見ながら、まるで母親か姉のようだな――――などと思った。
「で、いつもああなのか?」
「ああ、とは?」
「子供と遊んでるのかってことだぜ」
「手が空いたときだけだ」
「――――の割には随分と楽しそうだったが」
「・・・・・・・・・・・・・」
魔理沙は目の前にある水溜りをひょい、と飛び越えた。昨日振った雨の所為で出来たのだろう。
「・・・・・・・・何故、ついて来る」
魔理沙に先行して歩いていた慧音が立ち止まり、背中越しに振り返って半眼で睨んできた。
「用事が『できた』んだろ?」
「――――――お前の相手をするという意味ではない。用事は元々あったんだ」
魔理沙と慧音は、どこぞの道を歩いていた。
二人が人里から離れて既に久しく、遠目には見事に実った里の田畑が見える。絨毯のように敷き詰められた稲が風で揺れる様は、まるで黄金色の海原が波打っているかのように美しい。
「別に用事があっても私は気にしないぜ」
慧音は暫く睨みつづけていたかと思うと――――こめかみを抑え、諦めたような溜息を吐いて歩き出す。
魔理沙は変わらぬ笑顔のまま、その後に続いた。
それから半刻ほど歩きつめた頃だろうか、小高い丘の上―――――鬱蒼と生い茂る木々に隠れるように、その家はあった。
墨色をした瓦屋根の日本家屋で、くすんで黒くなった木材が否が応にも年季を感じさせる。それなりの大きさを誇っており、一家族が住んでいたとしてもおかしくはなかった。
「――――やけに遠いな。何で飛ばなかったんだ?」
「お前が諦めて帰るのを期待したんだよ」
言いながら戸を開け放ち、慧音は自宅へと上がっていった。挨拶が無いところをみると、どうやら独り暮らしのようだ。
魔理沙は靴を脱いで揃え、慧音に続く。
上がり込んだ瞬間、素足にひやりとした床の冷たさが伝わった。だが、不快ではない。年月によって慣らされた木材の感触は足に心地良かった。
何気なく壁についた手には、滑らかな感触。改めて指でなぞってみても、指先には塵ひとつ付かない。
「いい家だな」
素直にそう思った。
よく手入れが行き届いている。愛着がなければこうはいかないだろう。それに――――
「本の匂いもする」
魔理沙がまるで犬猫のように鼻を鳴らした。それもかなりの量なのか、玄関だというのに古書の饐えた匂いがしてくる。
「本当に――――――呆れた奴だ」
慧音が眉根を寄せて口を開け、これまでにないほどに落胆した表情をしてみせた。
「なあ、何冊か借りていってもいいか?」
だがそんなものはお構いなしとばかりに、魔理沙はひとりはしゃいでいる。
「珍品奇品の類など無いぞ。あるのは史書と―――――学術書くらいのものだ」
「何でもいいぜ。読めるならそれでいい」
食い下がる様子に埒が明かないと思ったのか、それとも幼児のように輝く瞳に中てられたのか――――――いかにも不承不承といった風情で慧音は首肯した。
「後で書庫に案内してやるから、取り合えずついて来い」
「いや、悪いな」
浮かれて軽くなった足で、慧音の背を追った。
魔理沙が通されたのは、畳張りの居間だった。
慧音の姿は無い。茶を用意すると言い残して、部屋から消えていた。
黙って待っている謂れも無いので、暇つぶしとばかりに魔理沙はぐるりと部屋を見渡す。
居間の中心には縦長―――長方形の卓が置かれ、その奥には腰模様の襖が見える。その他には壁際に寄せられた箪笥と――――その上に置かれた棚があるくらいで、花瓶も、妖しげな掛け軸も、神棚も、仏壇も無い。ある種の潔ささえ感じさせる。
だがその中で、不自然に目に付くものが一つあった。
それは頂点に取っ手のある木製の箱だ。一辺が一尺に及ばない程度の大きさのその箱には細かい引出しが幾つも付いており、角に鋲が打ってある。
興味本位で引出しを開けてみると、中には多量の紙包みが入っていた。
「――――――お前の家には薬箱も無いのか?」
不意に後ろから声を掛けられ、魔理沙はばつが悪そうに箱から離れる。
盆を手にした慧音が、居間の入り口に立っていた。しかし慧音はそれ以上何を言うでもなく、湯飲みを盆から卓の上に移した。
「やけに本格的な薬箱だな」
魔理沙は置かれた湯飲みを手にとって口を付ける。茶は、冷たかった。冷茶というやつか。
「それは往診で使う物だからな。家庭用のはもう少し簡素だ」
「そっちの心得もあるのか」
へぇ、と魔理沙は興味深げに息を漏らす。
往診という位だ。どれ程のものかは知らないが、医術を修めているのだろう。
魔理沙とて魔女の端くれ。医術など必須科目の一つだ。やはり目の前の相手に対して興味が湧く。
「で、腕前の方はどうなんだ?」
慧音は魔理沙から視線を外し、薬箱の前に座って中身を検め始めた。
「――――藪だよ。人ひとり助けられん」
慧音が、ぽつりと漏らす。
自嘲気味に吐いた一句。たったそれだけ。
しかしそれだけで魔理沙は得心がいったのか、ああ、と呟いた。医者のような真似をするのだ。ただ気楽に診るだけでは立ち行かないのだろう―――――と。
「大変だな」
だが、所詮は対岸の火事――――――とでも揶揄するように、魔理沙は笑う。
慧音はそれきり押し黙り、部屋には薬箱を弄る音だけが断続無く響いていた。
魔理沙にしてみても、特に会話を続けようという気はない。この家の何処かにあるであろう本に思いを馳せながら茶を啜っていた。
そして、二人の間に沈黙が降り立つ。
一秒が長く、一分は更に長かった。いつまでもこのままのようであり―――――過ぎてしまえば、それはそれで短かったような気もする。
「そうだな、大変だ――――」
先に静寂を破ったのは――――慧音だ。
慧音はその手を止めることなく続ける。
「子供達と遊び、田畑を耕し、智慧を貸し、時には心身を診る。里を隠し、妖怪を追い払い、血に塗れる事も少なくない」
立ち上がってやたらと饒舌に―――抑揚なく語りだした慧音を、魔理沙は見上げた。
「だというのに、方々手を尽くしたというのに、必死に智慧を絞ったというのに――――――彼等は死ぬ。すぐ死ぬ。疫病で死ぬし怪我で死ぬし老衰で死ぬ。あっさりと死ぬ。実は羽虫か何かなんじゃないかと――――――勘違いしたくなるくらい死ぬ。まったく、ふざけた話だとは思わないか?」
魔理沙は答えない。変わらず茶を啜っているものの、内心僅かに気圧されていた。堰を切ったように慧音の言葉は流れ続ける。
「厭になる。泣きそうだ。泣いたこともある。いい加減止めてしまおうかと思った事だって一度や二度じゃあない。だが―――――だがな、私はこのまま、変わらぬまま、暗澹たる思いを抱えたまま生きるのだろう」
なんとなれば、と。
「私は人間が好きだからな」
「――――――」
別に目の前の半獣と親しい間柄であるわけではなく、詳しい事情など知りはしない。
だが――――――
「それは――――――惚気か?」
湯飲みを空にして台の上に置き、魔理沙は呆れたように言った。
「そうだ」
臆面も無く真顔で言ってのける慧音に、からかう気も失せた、とばかりに魔理沙は立ち上がった。
「帰るのか?」
「ああ。御馳走さん」
「本は如何する?」
さも意外そうに慧音は声を上げた。
「また今度、覚えてて気が向いたら来るぜ」
「――――そうか、ならば其処まで送ろう。どうせ私も出るところだ」
慧音は薬箱を掴んで、魔理沙に並んだ。
そのままお互いに何も言わず、入ってきたときとは逆に二人は無言で外に出た。
軒先で慧音と分かれた魔理沙は、箒に跨りふらふらと―――――風の向くまま、気の向くままに空を飛んでいた。
ふらふらと、馴染みの神社の在る方に向かって飛んでいた。
その理由など分からないし、どうでもいい気がする。ただ――――ちょっとあいつの顔を見に行くのも悪くないかもしれない―――――。
そんなことを思いながら、魔理沙は空を飛んでいた。
◆
慧音は障子の前に膝をついた。
「失礼するよ、刀自殿」
昨日と一言一句違わずに告げてから、す―――――と昨日と一挙手一投足違わずに障子を開ける。
そして、驚いた。
昨日は寝ていた老婆が、今日は起きていた。いや、起きているのはいい。老婆は、布団の上で―――――上半身を起こしていた。
慧音を見とめた老婆は、顔に刻まれた皺を更に深めてにっこりと笑った。
「ようこそお出で下さいました。昨日はお構いもできませんで――――――」
その一言で我に返った慧音は、足早に老婆の傍に寄る。
「いいのか?その―――――体は」
老婆は笑顔を崩さぬまま、はい、と頷いた。
「今日は体の調子も頗るいいようです」
「そう、か。ならばいい」
慧音は薬箱を置き、老婆の脈を採り始めた。
「慧音様は―――――――――」
名前を呼ばれた慧音は、老婆に顔を向けた。
「今も昔も変わらず、お美しゅう御座いますね。――――私はほら、このとおり」
老婆は自らの頬を撫でながら、照れたように笑った。
「・・・・・・・・・そうか?お前は今も昔も変わらずお転婆だったぞ?丁度この家が出来た頃だったな、お前が生まれたのは。あまりに五月蝿く泣くので、そういう化生なのかと勘繰ったこともあるくらいだ」
「生まれたばかりの事なんて、覚えてやしませんよ」
「――――それだけではないぞ。確か嫁入り前だったな、私に符を教えろと言ってきたのは。いや、あれには流石に私も驚いた。心意気は買うが」
「そうだったでしょうか?」
老婆はそら惚けた調子で、慧音から、ふい、と視線を外す。
「まだある。あれは確か――――お前の娘が二十くらいの頃だ。娘と顔を会わせるたびにさっさと結婚しろと言っていたそうじゃないか?お前の娘が偶に私に愚痴りに来るので、えらく迷惑した覚えがある」
「・・・・・・親ですから。そういうものです」
「いやいや、まだまだ―――――――」
「―――――もう。そのくらいでいいじゃありませんか。堪忍してください」
今度はそっぽを向いた。
それを見た慧音の口から、堪えきれなかった笑いが漏れる。
「ふ―――――ははは」
「ふふ」
老婆も、口元を押えて忍び笑いを漏らす。
そのまま暫く笑い続けた後――――――老婆が一つ息を吐いた。
「少し―――疲れてしまいました」
「・・・・・そうか。なら、横になるといい」
「はい。では、失礼します」
慧音にその背中を支えられながら、老婆はゆっくりと仰向けに倒れる。
「また、明日来る」
慧音が布団を直して昨日と同じように言うと、老婆はにっこりと微笑んだ。
薬箱を掴み、老婆に背を向けて立ち上がり―――――――――
「―――――有難う御座いました」
全く予期していなかった礼に、慧音は弾かれたように振り向いた。
しかし、既に老婆の目は閉じていた。
老婆の口は閉じていた。
老婆の耳は閉じていた。
老婆の歴史が、閉じていた。
慧音は向き直って障子の縁に手を掛ける。さして力を入れたわけでもないのに、音も無く障子は開いた。
元々は新しかったであろうそれは、今ではくすみ、色褪せ、傷つき、枯れている。
まるで―――――――そこに居た老婆のようだと、思った。
「礼など止してくれ」
しかし、その姿は美しかった。
「そんな事を言われる筋合いなど無い」
その在り様が美しかった。
「そうとも。これは私がやりたいからやっているだけに過ぎないのだ」
その歴史を――――確かに美しいと感じたのだ。
「なにしろ――――――」
たん、と。慧音が後ろ手で障子を閉め、その姿は戸の向こうへと消える。日光を受けて出来た影が、障子紙にぼんやりと映し出された。
「私は人間が大好きだからな」
人と、人でないものの哀しみを、
そのどちらでもない者が誰よりも良く知っている。
否、識っているだけでなく、深く深く智慧っている。
その智は、報われる事を求めない尽力の、美しく哀しいことも知っているのですね。
それでも。知っているからこその、智であり慧。
俯いていても、決して後退はしないという。
哀しくて綺麗な彼女の姿勢を、しっとりと感じました。
死にゆく人間を助けようと努力しても、ついには死んでしまう。
病気や怪我ですぐに死んでしまうような儚い生き物故、
慧音からはその人が見せる一瞬一瞬が光って見える。
想いの詰まった記憶なのだなぁ、とぼんやり感じました。
徒労に終わったとしても、彼女は人を救うのを止めないのでしょうね。
辛いとか、悲しいとか、そういう気持ちよりも人間が好きだから。
そんな慧音が愛しく思えるような作品でした。
楽しいひと時をありがとうございました。
さらりと読めてグッと来る。
読んでいて気持ちよかったです。
(最後のコメントで笑ってしまった自分を許せ orz)
慧音の人が好きだというのと人とのかかわりがよくあらわされていると思います
人ではないから、人を誰よりも好きになれる。でも、人の生は瞬きの光のようにあっという間に消え失せてしまう。
好きだからこそそれが耐えられない。でもどうする事も出来なくただ悲しいだけ。
歴史の中、一人残される慧音にちょっと引かれました。
一瞬の間に強く光り輝いて、そして消える。
羽虫と慧音は例えましたけれど、まるで蛍のように。
慧音が歴史を守るのは、消えた光の残滓を歴史を見る事で眺める事ができるからなのかもしれませんね。懐かしさの中にある悲しさ。
慧音は人間が本当に好きなのでしょう。圧倒されるお話でした。
※なお。あとがき、最初の一文でしんみり感が全部吹っ飛びました(爆笑)
慧音はこれからも、人間達の喜びと悲しみの歴史を見つめ続けていくのでしょうね。
……なんだか慧音は、半人であるにもかかわらず、人間以上に人間らしいなあと、ふと思いました。
ちなみに、私もコメントで吹いた一人です(笑)。
丁度こちらを読む前に同じく慧音の話を読んだのですが、そちらもかなり素晴らしい話でしたので一気に慧音ファンになってしまいました。
他の方のコメントが素晴らしく、そして代弁されてしまった感がありますのでこの辺で。
コメントのおかげで吹き飛びました。
私もあとがきで吹きました。
同じ時間軸で生きることのできない人と半獣の差に涙を流す慧音を想像して。
それと、後書きで飲んでたコーヒーをディスプレイに思いっきりぶちまけて。
これぞ慧音と思えました。
>いいぞベイベー!
これはないwwwwwwwww
だがその重さが心地よい……がんばれけーね!