Coolier - 新生・東方創想話

もしも彼女が二人なら(3)

2004/10/09 12:36:36
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 夕方、森に蒐集活動に行っていたクレアが戻ってきた。おそらく帰ったのか、魔理沙は
一緒ではなかった。両手でワンピースの前の裾を軽く持ち上げており、おそらく収穫品の
重みでそうなっているのであろう、その生地はボウル状に垂れ下がっていた。
「随分と長かったわね」
「すみません、ちょっと色々とあったもので」
アリスはベッドの上で横になっていた。採集してきた薬草やら鉱石やらを部屋の机に置く
と、クレアは心配そうに側に寄ってきた。
「調子はどうですか?どこか具合が悪いところとかありませんか?」
「大丈夫よ。疲れていただけだったみたい」
勿論大丈夫なはずはなかったが、使い魔であるクレアに本当のことなど言えるはずも無か
った。それに、疲れからくる魔力の減少であると思いたかった。そして勤めて普段どおり
に会話を続ける。
「色々拾ってきたみたいね」
「ええ、今夜の夕食の材料になるかと思って魔理沙さんと集めてきました」
机の上に置かれたものの大半はキノコや木の実など、食材になりそうなものばかりだった。
アリスも見たことの無い、毒キノコと思われるような色をしたキノコもあった。本当に食
べれるのかしら、そう疑わずには居られなかった。
「じゃあ、早速取り掛かって頂戴。消化のいいものを頼むわ」
そう言ってアリスは上半身を起こして、ベッドに腰掛ける。そのまま立ち上がろうとする
のを、クレアがあわててとめに来た。
「マ、マスターはまだ休んでいてください。夕食の準備が終わったら呼びにきますから」
「もう心配いらないわ。それに何時までも寝ていては示しがつかないでしょう」
立ち上がりキッチンのある部屋に向かおうとするアリスを、クレアはなおも止めにかかる。
「いえ、大事をとってというか、もしかしたら意外と重大な病気だったりするかもしれま
せんし」
その言葉に少し胸が一瞬跳ねたような心地がしたが、明らかに動揺とあせりの浮かんだク
レアの顔を見ると、あまり深い考えがあって言ったものではないように見える。それにク
レアの雰囲気もどこと無くおかしい。
「あなた、何か隠し事をしているとかじゃないでしょうね」
「そ、そんなことはないですよ」
ますます顔に焦燥の色が窺える。クレアは素直な分、嘘やいいわけには慣れていないのだ
ろう。言葉からするとどうもキッチンに向かって欲しくないようだった。
「ま、いいわ。キッチンに行けば分かることでしょ」
そう言って何か言うクレアの制止を振り切り、部屋のドアを開ける。そのままキッチンへ
向かって廊下を歩く。あわててクレアも自分の後をついてくる。そしてアリスがキッチン
の部屋のドアを開けると意外なものがそこにあった。と言うよりも、居た。
 それは白い毛の小さな子犬だった。テーブルの側で短い尻尾を嬉しそうに振りながら、
皿に注がれたミルクを舌で器用にすくって飲んでいた。赤く輝く目や発達したあごからす
ると、単なる犬では無いのかもしれなかった。それでもドアの側にアリスの姿を見ると、
すぐにうれしそうに走りよってくるところからすると、やっぱり単なる犬なのかも知れな
かった。
「・・・これはどういうことかしら。説明して頂戴」
じゃれる相手が違うでしょと思いつつ、子犬にワンピースの裾をかじられながら、同じく
部屋に入ってきたクレアに聞く。お気に入りのワンピースを少し汚されて、アリスは自分
の顔が少しばかり不自然な笑みをしているのを感じた。
「・・・ええと、その、ごめんなさい」
その表情で何かを察したのか、クレアは恐る恐る謝罪の言葉を返す。
 アリスはその言葉を聞き終わることなく、足元の子犬を両手で胸の前まで持ち上げる。
するとまるでそれを見計らっていたかのように、子犬は下半身から黄金色に輝く液体を青
いワンピースに向けて放射したのであった。しばらく二人は唖然とした顔でそれが終わる
のを眺めていた。そして子犬がアリスの手から逃げるように落ちると、アリスはクレアに
向けてさわやかな笑顔で言った。
「夕食の材料が増えたわね」
「ご、ごめんなさい!」


 要するにこうだった。
 森を探索していたクレアは森の奥から何かの吠える声を聞いた。魔理沙も聞こえたらし
く、興味津々といった感じで二人はその方向に急いだ。するとそこには、階級分けをする
のであれば底辺あたりに住んでいるであろう魍魎や妖怪が、3・4匹で子犬を取り囲んで
いるのであった。
 これで大義名分が立ったとばかりに、魔理沙はどう見ても過剰なほどの火力で妖怪を粉
砕していった。大義名分が立ってなくても彼女なら嬉しそうにやるに違いなかった。クレ
アは魔砲に子犬が巻き込まれないように保護し、魔理沙に加勢し使い魔として何回目かの
妖怪退治をしたのだった。


「・・・」
アリスは先ほどの黄金水を浴びた服を脱いで、自分の寝間着を着ていた。思わぬアクシデ
ントのおかげで、夕食が風呂よりあとになってしまっていた。床にはクレアが必死で雑巾
をかけた跡が見え、いつもより綺麗に見えるほどだった。
「魔理沙さんは、一種の山神だぜ、拾い得したな、と言っていました」
「山神ねぇ・・・」
魔力とともに幻視力も失ってしまったアリスには、毛並みのいい普通の子犬としか映らな
かった。椅子に座るクレアに抱かれている子犬は、気持ちよさそうに腕の中でくつろいで
いた。
「で、その子犬をどうするつもりかしら」
アリスは森の特製スープを口に運びながら尋ねた。どうやら毒キノコは入っていないよう
で安心した。
「責任を持って育てますので、飼わせてください。お願いします」
クレアはいつになく強い口調でそう懇願した。
「・・・どうしようかしらね」
クレアはその返答に不安な表情を見せた。それを見てアリスは少しだけ意地悪したくなる。
「助けた使い魔の主人に向かって粗相するような犬だしね」
ますますクレアの表情に落ち着きがなくなる。だが、山神という魔理沙の話が本当である
なら、飼ってみても面白いかもしれなかった。
「まあいいわ。絶対に私の部屋に入れないこと。食事している時に私に向けないこと。と
りあえずこれだけは守って頂戴」
それを聞いてクレアは顔を綻ばせた。すごい勢いで、首を上下に振る。子犬だけが、我関
せずと言った様子ではしゃぐクレアに揺られていた。
「ところで名前はなんてつけるの?」
「ぽち、です」
アリスは、その素直というか平凡というか安易な名前に頭を抑えたくなった。その代わり
に、健康になりそうな色のスープをスプーンですくって飲む。
「魔理沙さんが言うには、それが犬の世界じゃマーベラスかつパーフェクトなんだそうで
す」
「そう・・・」
無邪気に言ってのけるクレアに、とりあえずアリスは何もいう気が起こらなかった。
 ただこの夕食の会話のおかげで、自分のやり場のない気持ちがいくらか軽くなったのは
事実だった。



 いつも通り庭で魔理沙の弾幕講座が行われている間、アリスはテラスに座って考えをめ
ぐらせていた。
 ここ何日か、魔法が使えないことにショックを受けて打ちひしがれていたアリスだった
が、よくよく考えると意味無く魔法が使えなくなることなどありえない。並みの人間なら
ともかく、アリスは種族自体が魔法使いなのだ。魔力を持って生まれ、魔法とともに育っ
てきたのだから、使いすぎで疲れることはあっても魔法が使えなくなることは考えられな
い。要するに、何か原因があるに違いなかった。


 アリスが教わった理論では、普通の人間が魔法を使えない理由は主に二つある。
 一つ目は構造からして魔力を制御する器官が備わっていないからである。意識しても魔
力を捉えられないから、とでもいうべきかも知れない。もっとも、そんな器官を持つ人間
は既に人間かどうかも怪しいのではあるが。一般的な魔法使いが魔法を使うのに、知覚で
きる声やら物やら媒介を通して行う場合が多いのはそのためである。
 二つ目は単純に魔力がないからである。これはエネルギーの問題で無いものは無い、あ
るものはある、と言ったあまりにも当たり前の話だ。あるからそれが魔法という現象とし
て現れる。ない場合は現れない。なんでと聞かれても、神に聞け、としか言いようが無い。
 その他の理由や、学派によっては様々な理由があるのだが、とりあえずアリスの知って
いる主な理由はこれだった。
 この理由から考えるとなると、どうやら原因は二番目の方だった。なぜならアリスは魔
法使いとして生まれているのだから、魔力を司る器官は備えている。よって消去法でも二
番目しか考えられない。ただ問題は原因である。理論は正しいが、こうなった原因が分か
らなければどうしようもなかった。


「マスター、紅茶が入りましたよ」
ふと気が付くと、いつの間にか庭で遊んでいた二人と一匹がテーブルの周りに座っていた。
テーブルの上にはクレアが言うように、氷の入った冷たそうなグラスに紅茶が注いであっ
た。
「何かぼうっとしてるな。本当に日射病になったのか?」
向かい合って座った魔理沙がニヤニヤしながら聞いてくる。
「違うわよ」
そう言ってグラスを右手に持って口をつける。冷たい紅茶が喉に心地良かった。アリスは
下手なことは言わない方が良いと判断した。魔理沙に今魔法が使えないなんてことが知れ
たらと思うと、目の前が暗くなっていくようだった。
「ところで、人形の扱い方は教えないのか?」
そう言って魔理沙は飲み干したグラスをクレアに向けて差し出す。クレアはそれを見て再
びグラスに注ぎ、少量ミルクを追加する。琥珀色の紅茶が白くにごっていくのを見ながら
アリスは答えた。
「そのうちね」
 クレアがアリスの空になったグラスに紅茶を注ぐと、ティーポットに残っていた紅茶は
丁度切れてしまった。それを見て魔理沙はミルクティーを飲み干し、テーブルの上に置く。
もはや注ぐべきものはなくなってしまったが、クレアは笑いながらそれに余っていたミル
クを入れた。魔理沙は少し笑いながらそれを飲んだ。ごく少量残ってしまったミルクはク
レアが手に受けて、例の子犬になめさせているようだった。
 それを見て、アリスはなんとなく疎外感を受けるのであった。アリスに出来ることとい
えばそれから逃げるように、今回の原因について考え込むことだけだった。
 
 そして気が付けばいつの間にか魔理沙は帰っており、日は既に西に低く傾いていた。
 
 
 
 ある日を境に魔理沙の訪ねてくる頻度は下がっていった。もしかすると、何か新しい研
究に取り組み始めたのかもしれない。クレアは朝から二人分の朝食を作っては、魔理沙が
こないことが分かると余った分を子犬に上げるのだった。さも美味しそうに食べる子犬を
見て、クレアは少しだけ寂しそうに笑う。最近アリスが構って上げられなくなったせいか
も知れなかった。
 思うに、クレアはアリスの理想の使い魔に限りなく近づいた。あとは魔理沙の言うとお
り、人形操術さえ教えられればほぼ完璧になるだろう。ただ悲しいことに、それを教える
ことはかなわなかった。その代わり、使い魔の技術としては不要であるかもしれないピア
ノの弾き方を教えるのだった。
 
 
 
 その日の夜もクレアはピアノを習っていた。
「その音符は小指で弾くのよ。上に数字がうってあるでしょう」
そう言って、横に立つアリスは右手の小指で鍵盤を叩いてみせる。クレアはピアノ用の横
長い黒い椅子に座って、その様子を見ていた。
「じゃあそれを踏まえて、この譜面の第二小節まで弾いてみて頂戴」
アリスは目の前に立てかけられた楽譜の一部を指さして言った。難しそうな譜面だったが、
クレアはそれを見ながら必死に指を動かす。

 クレアにとってピアノは今まで教えられたことの中でも、一番難しい部類に入った。使
い魔としては不要な技術だからかも知れなかった。でも自分のマスターが教えてくれるこ
となのだから、頑張って上手くならなければと思った。
 教えてくれるマスターはとてもピアノが上手い。理由を聞いたことがあったが、昔から
やっているからかしらね、としか答えてくれなかった。自分の方を向き、鍵盤を見ないで
手本の曲を弾くマスターを見てびっくりしたこともある。その理由を尋ねても、手が覚え
ているからよ、と言ったクレアには到底理解できない理由だった。
 ピアノの指導は正直に言うとスパルタで厳しい。けれどマスターが演奏するピアノは好
きだった。滑る、という表現が相応しい程に両手が動き、そこから紡ぎだされる音色はク
レアのそれと全くの別物だった。演奏する曲によって、音色は変化した。ある曲では情熱
的で攻撃的に聞こえ、またある曲では明るく楽しそうに聞こえることもあった。また演奏
している姿はとても綺麗だった。
 
「今日はこれでお仕舞にしましょう」
その言葉を聞いてクレアはほっとした表情を浮かべる。そばに立っていたアリスを見ると、
なんだか落ち着かない様子だった。顔もどこか思いつめた表情をしている。
「ちょっと外に出かけてくるから、家のことはお願いするわ」
「分かりましたが、でも外はすごく暗くなっていますよ?」
「大丈夫よ、森は私の庭のようなものだし」
そう言ってアリスはきびすを返すと、足早に部屋を出て行ってしまった。クレアはアリス
が行ってしまうと、またピアノの練習を続けた。そして何十分か経って、腕が疲れてきた
ところで止めた。
 
 部屋を出ようとしてクレアがドアを開けると、練習の邪魔になるということで出されて
いた子犬が座っていた。
「ぽちはマスターがどこに行ったか分かる?」
両手で掴んで持ち上げて聞いてみた。勿論返答など期待していないし、急に喋られても困
る。持ち上げられた子犬は目を細めてクレアの方を見ている。
「まあ分かる訳はないよね」
そう言ってクレアは子犬を床に下ろした。自由になった子犬は廊下を歩きだした。クレア
もなんとなく付いて歩く。どうやら家の玄関に向かって歩いているようだった。クレアよ
り先に玄関に着いた子犬は、何やら前足でドアを掻いていた。
「外に出たいの?」
クレアが試しにたずねて見ると、子犬はすぐにワンと吠えた。
 
 開けたドアから見える外の風景は昼間とは別物だった。
 昼間は照りつける日光を遮り、涼しげな場所を提供してくれる森も、月の光でやっと
木々の輪郭が分かる程度だ。その間から覗く深い闇は、まるで蠢いて獲物を待っているか
のように見えた。一歩でも足を踏み入れてしまえばもう帰れない、そんな雰囲気だった。
クレアは少なからず夜の森に恐怖を覚えた。マスターはもしかしてこの森の中に入ってい
ったのだろうか、そう思うとクレアは不安を感じずにはいられなかった。
 威圧感のする森にたじろぐクレアをよそに、子犬は元気よくドアを出て走っていく。
「待って、危ないから戻っておいで」
クレアはそう言って庭に出た子犬を追いかける。子犬は外に出れたのがそんなに嬉しいの
か、走って追いかけてくるクレアから楽しそうに逃げ回る。
「こら、危ないって言ってるでしょ」
クレアが注意しても子犬は聴く耳を持たない。ただ楽しそうに庭を走り回っているだけだ
った。
 しばらくして突然、子犬は動きを止めた。その目は森の方を睨み、何かを威嚇するよう
に体を低く構えていた。クレアも何事かと思ってそちらに目を向ける。すると木々の闇の
中に、不思議な赤い点がいくつか見えた。それ自身が何かの意思を持ち動いているような、
そんな感じを受けた。それを見てクレアはあとずさり始める。まるでその歩調に合わせた
かのように、闇の中の赤い点は増えてゆく。赤だけではなく、黄や緑などと言ったものも
あった。だんだんと近づく様々な色の点、子犬はそれらに向かって吠え続けていた。
 クレアは本能でそれらが何かを察知していた。次々と現れる点の数を数え始める。すぐ
に数え終わり、その結果に少なからず驚いた。森で子犬を助けたとき相手にした数の少な
くとも五倍ほどはあろうかという数だった。それに目に見えているものだけしか数えてい
ない。もしかすると、まだ大量に森の中に潜んでいるかもしれなかった。
 
 月の照らす光の下、点の集合は次第に姿を見せ始める。
 やはりクレアの察知した通りだった。一目見ただけで、生理的に嫌悪感を覚える生き物、
低級妖怪たちだった。統一感のないそれらの姿は、輪郭だけで異形と分かるものもあれば、
巨大な昆虫のようなものもあった。中には首のとれた人間らしき姿も見え、クレアは胸を
悪くされた。周りの森から次々と現れる忌むべき生物、なんでこんな危険な場所に家が建
っているのだろう、クレアはそう思わずには居られなかった。しかしクレアはなんだか楽
しい気持ちになってくるのだった。
「申し訳ないのですが、あいにく私のマスターは外出しておりまして・・・」
クレアはそれらに向かって笑って言ってみる。勿論冗談のつもりで言ってみただけである。
けれど面白くなかったのか、良く聞こえていないだけなのか、それとも聴覚が無いのか全
く反応がなかった。その代わり、時折気持ち悪い笑い声のような音が聞こえてくる。
「まあ、最近は魔理沙さんも遊びに来てないから、丁度いいかも」
クレアは未だに吠え続けている子犬を左手に抱くと、右手を前にかざした。妖怪たちは既
に庭の中に入ってきていた。クレアが手入れをしていた花壇の花も、まるで存在しないか
のように踏みつけて近寄ってきた。
「そうそう、私はマスターほど上品に戦えないので」
そう言って微笑みながら前方に数個魔法陣を生成する。まるで透明な画家が何人か同時に
描きこんだかのように、何も無い空中に円や文字が展開される。様々な色のそれは月明か
りの中、輝く不思議な光を発していた。既に目の前まで迫った妖怪たちを眺めながら、ク
レアは一言続ける。
「その点はご容赦を」
そしてその言葉が合図になり、周りの妖怪達は飛び掛ってきた。




 アリスは暗い森の中を必死に走っていた。自分を取り囲む木々からこんなに恐怖を感じ
たのは初めてだった。幻視も使えない今、アリスの走る先を照らすのは手に持ったランタ
ンの灯りだけだった。走るたびに揺れるランタンは、不気味にざわめく森の内部をほのか
に照らし出す。
 突然、視界が急に傾く。
「・・・っ!」
木の根元に足を取られ、アリスはしたたかに地面に打ちつけられた。もう何回転んだか分
からなかった。魔理沙の家に向かう途中でも、3回は転んでいる。
 しかし倒れたままで居るような余裕はなかった。アリスの本能が今さっきから、いや魔
理沙のところに向かう途中からずっと最大限の危険信号を送っていた。思わず顔をしかめ
るような顔の痛みに耐えつつ、アリスはなんとか地面を押して起き上がる。ぬかるむ地面
の感触が嫌だった。ここら一帯は不快なにおいがする。もしかするとつまづいたのは木の
根などではなく、何かの死骸なのかもしれなかった。そう思うと手に付いたぬめりや、服
に付いた臭いで泣きそうになった。
 体のあちこちが熱い。もしかするとつまづいた際に怪我もしているのかも知れない。た
だそれを確認している時間はなく、ランタンを拾ってアリスは再び走り出す。既に自分が
どのくらい走って、今何処に居て、後どれくらいで家に着くのか分からなかった。

「あっ」
上がりかけた足を再び木の根にすくわれ、そのまま勢い余ってランタンと転がる。そして
しばらくして仰向けの状態で止まった。
 どうやらもう体が限界らしかった。足はもういう事を聞かないし、呼吸するたび胸が痛
い。酸欠でなんだか頭がいたい、体中がぎしぎしと軋んでいる感じだった。だが今はとり
あえず少しでも逃げなければいけない、そう思って立ち上がる。そしてアリスは周りの様
子を見て、もう逃げなくてもいいと分かった。言い換えるなら、逃げられなかった。
 
 アリスを取り囲むように悪意の塊が集まってきていた。木々の隙間から覗くそれらは、
どれもこれも人の形からかけ離れた姿をしている。この世界においては到って普通の存在
であるはずの、低位の妖怪達だった。ただ今のアリスにはそれが恐怖の対象でしかなかっ
た。
 アリスも分類上は妖怪であるが、人間以外という意味の定義である。理性と気概を持ち、
欲望とバランスを取りながら生活する点で言えば人間とほぼ一緒だ。しかし低位の妖怪達
はそれとは全く異なる。自らの存在意義が欲望を満たすことのみで成り立っており、その
外見たるや見るものを気持ち悪くさせることしかなかった。
 そんな妖怪たちに囲まれて、アリスは拾ったランタンを握り締めることしか出来なかっ
た。少なくともアリスは魔法以外の戦闘経験はないし、某庭師のようになにかしら武器が
扱えるわけでもない。目の前に迫る危機を回避する手段は魔法以外になかったのだ。魔法
を使えない魔法使いはただの人間、そんな言葉が浮かんでくる。そう思うとアリスは自分
の無力さが悔しくて泣きそうになった。
 もしも魔理沙がちゃんとアリスの話を聞いてくれていたら、もしもアリスがもっと冷静
になって当初の目的を果たせていたら、こんなことにはならなかったかもしれなかった。
 
 アリスは目前まで近づいてきた妖怪に対して、もう何の感慨も受けなかった。このまま
自分は食われるかして死んでしまうだろうという確信しかなかった。昼間でもこんな森の
中を通る人間は居ないし、それに今は夜だ。暗い闇の中すき好んで歩く人間は居ないはず
だった。
 ただ一人、あの人間を除いては。
 
「ふせろ!アリス!」
それは目の前の妖怪たちが飛び掛ってくると同時に聞こえた。それを聞いたアリスは反射
的に身を地面に投げ出していた。直後、耳をつんざく轟音とともに周囲が眩い光で照らさ
れるのが見えた。視界が白く染まったかと思うと、次の瞬間には白く輝く光の濁流が、ア
リスの頭上の妖怪とともに生い茂る木々をなぎ倒していった。周りで様子を見ていた妖怪
は一瞬何が起こったか分からない様子だった。ただ地面を揺るがす光の発生源の方向に居
た人物を見ると、生き残った妖怪は散り散りになって逃げて行く。だがその光の濁流は旋
回して方向を変え、逃げようとしている妖怪を容赦なく一匹残らず消し屑にしていった。
 アリスは地面に伏せて、その様子をしばらく何か他人事のように眺めていた。
「もういいぜ。起きても」
後ろから聞きなれた声がした。アリスは無言のまま立ち上がった。そのままゆっくり振り
返ると、同じ森に住むもう一人の魔法使いの姿があった。
「しかし、ひどい格好だな。まるで水溜りに向かってヘッドスライディングかました、っ
て感じになってるぜ」
「伏せろといったのはあなたよ」
「死ぬよりはマシだろう」
魔理沙は笑いながら近寄ってきた。人が死に直面していたというのに、よく笑っていられ
るものだ。
「・・・一応ありがとうと言っておくわ」
アリスは感謝を口にした。誰に向かって素直に感謝の気持ちをいう事など滅多に無い。と
ても珍しいことだった。
「今日は意外と素直だな」
この魔法使いはいつもこうなのだ。そういう思ったことは黙っていればいい。

 ―――そう思いながらアリスは少しだけ泣いてしまった。今までの張り詰めていた緊張
が一気に緩んでしまったせいかもしれなかった。
 魔理沙の前で涙を流すのは初めてかもしれなかった。魔理沙は嗚咽を漏らすアリスを見
てかなり慌てたが、すぐに気を取り直して右手に持っていた箒に跨った。
「送ってくぜ。どうせ飛べないんだろう」
アリスは何も言わず、ただ言われるままに箒に乗り魔理沙につかまった。
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