―8 さくらちる―
「しっかし、随分とまた」
とんでもなく見事に咲いたものだ。
空を見渡しながらそう思う。
そこに広がっているのは先程までの夜闇じゃなく、
眼前の妖怪桜から広がっていった桜色の雲。
その桜色は他の新鮮な桜たちの花よりも幾分か白味が強いように見える。
私はこの妖怪桜の咲かせる花が、いつもならもっと濃い朱をしている事を知っている。
広げた花の海が広すぎて、赤みが全体に行き渡っていないという証拠だ。
つまり、この容量の花を咲かせていても、こいつは満開になってないということ。
西行妖は、今まで一度も満開した姿を私に見せた事が無い。
何か意地でも張っているのか、こうして莫大にその領空を広げた今でさえも、
私にその満開の花模様を見せようとしないのだ。
こんな半端な桜色でできた雲が見たいんじゃなくて、
夜空の暗黒に真っ向から喧嘩を売るような、華々しい朱を望んでいるのに。
「桜雲、ね・・・普通は比喩で使う筈だわ」
この雲は月光を遮るどころか、
むしろ光量を増幅して下界に照らしているかのようで、
夜だというのに冥界は昼のように明るくなってしまっている。
ずうっと向こう、夜が見えないくらいに遠くまで続いている桜は、
多分だけれども、この幻想の郷全域まで広がっているんじゃないだろうか。
それどころか外界にまで届いていそうな気もする。
「というかこれ、結界じゃないの」
結界に関しては素人の私にも、この桜の空の異常ぶりは見て取れるというものだ。
恐ろしいまでの範囲を覆い尽くす桜花結界。
直接の害は無さそうに見えるけれど、さにあらず、だ。
月光を増幅するということは、その狂気も増幅するということに他ならない。
こんな状態が何日も続いたら、元からおかしい妖怪だけじゃなく、
昔からおかしい人間たちも全部纏めて余計におかしくなってしまうではないか。
幸い、冥界にはおかしくない奴が余りいない。
死霊はみんなおかしいくらいに呑気で享楽的だから、
私を除くとまともそうなのは妖夢ぐらいだ。
同じ名前を付けてみたけど、冥府の扉のそれと比べてはいけないのである。
あれはただの標識に過ぎないのだし。そういう役割にして、と私が友人に頼んだのだ。
「そういえば」
そこまで考えたところで私は思い出した。
その友人、結界術師の八雲紫のことを。
「こんな夜更けなのに、挨拶にも来ないなんて、珍しい事もあったもんだわ」
毎日というわけではないけれど、
紫はここのところ頻繁に私を訪ねてくる。
いつも上物の酒を差し入れてくるので迷惑がるでもないのだけど、
出不精の紫にしては不自然に思えるほどの頻度なので、
一度「紫、何か変わった事でもあった?」と聴いたら、
「変わらないものがあったら見てみたいわ、ホント」なんて、
これまた彼女にしては珍しい溜息と共に返されて、
なんだかそれ以上聞くのも野暮ったいので追求しなかった。
そんなだから今日もまた紫が来るだろうと思って、
私と妖夢は一足先に月見酒をしていたのだ。
まさかこんな大事になるなんて思わなかったし、
それ以上に今このとき紫が姿を現さないことに疑念を覚える。
「ま、私としては丁度いいけど」
ものぐさでも、紫は調停者の一端、
“曲線を真っ直ぐに歩く”境界規定師である。
彼の幻想郷全てを包む大結界も紫の作品の一つだなんて眉唾もあるくらいで、
彼女ほど間隙という概念に長じた妖怪はそうはいない。
弾幕ごっこも得意だから、私の遊び相手にもうってつけだ。
同様に彼女ほど不精という言葉が似つかわしい存在もそうそう見れない。
面倒を嫌うのは大体の妖怪に該当する。
十を知るのに一から学ぶなんて愚かだといって、一息に十まで行ってしまう。
紫はこの遥か先を行く面倒くさがりだ。
何かをしなければならない、あるいはしようかと思うと、
それをするのが面倒だ、では済まずに面倒くさがって事態が滞るのも面倒な話だ、
どう面倒なのか考えるのも面倒で、面倒くさがる事自体が面倒だと、
堂々巡って考える自分というのも面倒な奴よね、と面倒の世界に篭っている間に、
結局誰かが事態を解決してしまうかもしれないけどそれを待つのも面倒。
こうして全てを面倒がる紫は、
いつしか面倒の世界に篭るのも面倒になって、
出る寸前に止まっていた地点での答えを引っ提げて出てくる。
そこにはあらゆる思考と思索と思案があるが思想と思慕と思慮はなく、
結果、事態に対してどういう態度をもって接しているのか、
少し付き合った程度ではまったく割り切れないのである。
その辺りの性格が紫を恐ろしく胡散臭い怪物に見せ、
この郷でも一目置かれる存在となっているのだ。
そう。長年の友人である私にも、
紫の行動原理は掴み切れていない。
かく言う私も余人とは大分外れた感覚の持ち主と自覚していて、
我ながら行動の支離滅裂な様が可笑しくてたまらないけど、
彼女の場合は少々事情が違う。
紫は、言っていることはまともであることが多い。
勿論とんでもないことも言うのだけど、
何か喋っているときは思ったよりも筋が通っている。
しかし紫の話は、通っていた筈の筋が何時の間にか全く違うものになっているのだ。
筋も境界、紫は無意識に赤かった線を青くして流れを行き違わせる。
だから、私も紫がこの事態にどう対応するか全くわからない。
もし首を突っ込みに来たら、困るのに。
「こんな大物・・・誰にもあげないわ」
今まで思いつかなかったのが不覚だった。
家の庭に、こんな化け物が長々と居座っているのだ、
所場代がわりに遊んでもらおうと、どうして考えられなかったのか。
「本当に、丁度いい」
さっきから桜の足元でぶるぶる震えながら私を睨んでる純白とは違う。
この妖怪桜はここにしっかりと根を張ったまま、
私や妖夢、それにその他大勢の妖怪たちが、
思うさま弾幕する日々の隣にいつもいたのだから。
見ようとしていなくても、視界の端にきっと見えてしまっていただろう。
私は何故か確信している。この妖怪は、弾幕ごっこができる、と。
私はこの妖怪と、弾幕ごっこができる。
それがまた不思議なくらいに、なんとも私の心を躍らせるのだ。
自分がニヤニヤと変な顔を浮かべていると気付いていたけど、
それを止められないままに私は所々パーツの欠けた純白に声をかける。
「ねー! ちょっと、そこの白い雑魚A!」
私の言葉に何か思うところがあったのか、
欠けた部分から血も出さない妖怪の顔面が見るからに赤くなって、
「ふ・・・! ふざけんじゃないよッッ!!
誰がザコだってのよ! 元から許してなかったけど、あんた、絶対殺すわ!!
私がその気になれば、あんたなんか一捻りなんだから!」
とっても判りやすい、負け惜しみを尽くしてくれた。
殺気だけは一人前のこの白い妖怪、
私を殺したいと思う気持ちは確かに並々ならぬものがあるけれど、
如何せん実力が伴わない。
言っていることの物騒さにその姿勢が付いてきてない。
私を殺すつもりなら、私にその存在を知られる前がベストなのに、
もう一度ボロクソにやられてしまった後でまだ殺気をぶつけている姿は、
意固地になった子供か、若しくは道化芝居の一幕にしか見えないのである。
それに、実力が伴ったところで果たして、
こいつに私を、既に死んでいる亡霊を殺すなんて芸当ができるのだろうか?
素性なんかはどうでもいいけど、能力が便利なら用立ててみるのも面白いかもしれない。
そんな風に思ってはニヤニヤ笑いを続けていると、
純白の顔面の赤がすうっと唐突に引いて、私よりもずっと不気味な歪みを形作る。
「いつまで笑っているつもりよ。
いや、いつまで笑っていられるつもりなのよ。
あなたがいくら死を操る化け物でも、
今此処にこうして在る限り、殺す方法はいくらでもある・・・!」
言うや否や、純白は折れ曲がった方の腕を鞭のようにしならせて、
座り込んだまま凭れている西行妖の太い幹にばぁんと叩きつけた。
その動きに呼応するかのように、いや、実際呼応していたのだろう。
『ざらり』と空気が震え、
西行妖の周囲の地面がバキバキと割れて下から突き破られ、
黒々とした根がそれ自体が一個の生命体であると錯覚してしまうほどに蠢き、出でる。
ざわざわと花も波を作り、
花と根、天と地、美と醜が生む妖気はその狭間の大気を鳴動させる。
「まあ。荒っぽいのね」
渦巻く妖気の嵐が起こす風に髪をなびかせて、
私は地割れでボコボコになってしまった庭土と、
最早瘴気すら漂わせて周囲の桜からも妖気を吸い上げる西行妖を眺めて思う。
この惨状を妖夢が見たら、元に戻す年月を思ってあの子は失神してしまうだろうな、とか。
しかし一声かけるだけで留めておいてよかった。
私は純白の妖怪に、この妖怪桜との通訳を頼もうと思っていたのだけど、
もしそんな頼み事をしていたら庭木の被害は数倍に及んでいただろう。
即ち妖夢の寝込む日数と確率が増えていたであろう。
この庭園と妖怪桜の異常は、実力こそないものの確かにこの純白の仕業、
花を操る程度の能力によるものであるとわかっているのだから、
挑発するのはほどほどにしよう、と思った。
妖夢が寝込むと、手入れの仕方も知らない私は何もしないから、
庭はどんどん自然に任せて有象無象の雑草や雑幽霊の溜まり場になってしまう。
「ああ、いやだいやだ、そんなお庭じゃ散歩も出来ない」
そっとぼやいて、私は袖から扇を出すと手首を鋭く捻ってそれを開く。
雲と車の描かれた扇を口元を隠すようにしてかざし、
「さて―――そろそろ。
溜まりに溜まったツケ、払ってもらおうかしら」
私は引き絞るように目をキュッと細めると、
車の絵を携えた巨大な扇を、再び自分の背中に呼び出した。
目の前の妖怪桜が強大であることは明白で、
こいつを挑発するなら―――こちらもそれなりに真面目にやる風に見せなければ。
本気を少し出しただけで、眼下の純白が急に卑小なものに見えてきた。
明らかに動揺した様子だけれど、これは背中の扇のせいかもしれないので、
私はニタァとこの純白の真似をするつもりで笑ってみた。
獲物が決まった瞬間の殺人鬼あたりを想定して。
うろたえぶりから、この笑いで恐慌に追い込めるかという淡い希望もあったけれど、
この純白も並大抵の狂いじゃなかったようで、ぶるぶると気味の悪い身震いをしながら、
いっそ壮絶な笑いをして目をぎらぎらと光らせて言う。
「あ、はは、あはは。は・・・あはは!!
なによ、本当に化け物みたいじゃないの、あんた。
そうよ、そうだ、あんたは真実化け物なんだわ! あ、あはははは!!
ははは、は・・・化け物は化け物らしく―――化け物同士で、遊んで死ね」
純白の呼びかけに答え、
ざぁっ、と一際大きく桜色が波打ち、対応した形で根がぐだぐだと地面を這い回る。
先程からのこの現象、長いこと近くでこの木を見ている私が始めて見るものだ。
恐らくこれが、純白の妖怪の行使する花を操る程度の能力なのだろう。
しかし、この桜ほどの妖怪が、
こんな雑魚っちい白色に操られているというのが、
どうにも私には腑に落ちないものがあった。
不自然かつ不可解だ。私の勝手な想像に過ぎないかもしれないけれど、
この桜からは何か得体の知れない孤高さを感じていた。
だから格下の者から命令なんかされても、平気で無視してしまうに違いないのだが。
この雑魚の能力には、そこまでの強制力があるのだろうか。
と、その時、急激に周囲が明るくなった。
目を細めていたのでその強烈な光に焼かれることは無く、
眩しいながらも身の回りを確かめることは出来る。
さっきの酒蓋の使った目くらましと比べれば、急に発生した光ではなく、
既に明るかったところで光量が増加しただけだったため、影響は薄いのであった。
が、そう思った途端。急激に視界が暗闇に包まれ、
細い視界には縦に伸びるいくつもの光の束が遠近ばらばらに映った。
いや、あれはただの光の束には見えない。束ねすぎた光が、破壊力を持った姿である。
そのレーザー一つ一つが、遠近と左右にゆっくりと揺れ動いて、
―――全て、私のいるところ目掛けて近寄ってくる。
これは、私に対する攻撃だ。
いや、より正確に言おう・・・これは、弾幕だ。
やはり、この妖怪桜は弾幕ごっこを知っていた。
しかも、頼みもしないのに弾幕で攻撃をかけるということは、
弾幕戦への理解度も相当なものだと言えるだろう。
決闘なら弾幕、という基本的な風潮を理解している。
更に言えば、ここで弾幕攻撃を仕掛けてくるということは。
「ちょ、こら! 何してんのよ!
何も見えないわよ、何するつもりなのよ!!」
・・・案の如く。取り乱した純白の声が高く響いて聴こえた。
あの白いのには、この妖怪桜の動きを制御できていないのだ。
お馬鹿さんである。久々に、こういう手合いを見た気がした。
さて、どうやらこの徐々に近寄る光の柱、
何の小細工もなく寄って来るだけのようだ。
その動きが緩慢なこともあって、冷静に動けば当たる事はないだろう。
ただ、さっきから下の方でジュウジュウと物の焦げる危ない音が聞こえていて、
その音はこのレーザーの殺傷力の高さを私に教える。
勿論、悪魔やなんかとは違うので、光に焼かれたって物凄く熱いだけでなんともない。
なんともないけど、避けられるのに避けないのは、
相手がこちらを見ているときに余裕の態度を示す為以外にすべきでないと思う。
だから私はちょっと動くのが億劫になる大扇を何もしないままに仕舞いこんで、
光の柱の間を通り抜けてやり過ごそうとした。
どうも良くない癖なのだ。私はどうしても、
相対した相手を過小評価して応対してしまう。
そのつもりは無いのに、油断して危機を招くのが当たり前になっている。
そうなってから逆転するだけの余裕はいつでもあるし、
またそうして逆転できなかったことは、まぁ、妖夢ではないけれど殆ど無かった。
この時も、私は然程考えもせずに光の隙間の闇に身を躍らせたのである。
その、隙間から。
爆音と共に、真っ黒な何かが凄まじい勢いで私を襲う。
咄嗟に反応して躱そうとしたけれど、
私を襲った闇は容赦無くその腕を伸ばして、
それを予想できなかった私に肉薄し。
「・・・!つ・・・!?」
がぎぎ、という嫌な音が意識を殺さんばかりの衝撃と一緒にやってくる。
果たして私は何物かの凄絶な勢いを己が身に全て受け、
本当に久し振りに、命の危険を覚えるほどの痛みを感じた。
躱せずとも防御を、と張った結界をも軽く突き破って襲った黒き腕は、
亡霊の私にすら肉体的な痛撃をしてのけたのだ。
失うべき命も無いというのに。
(この・・・痛み・・・!!)
痛い。痛い。痛い、という感覚。
それは傷んでいる部分が自分のものでなくなってしまう予感。
痛みに誘われて、自分からどこかへ消えていってしまう悪寒。
傷の無い自分を犯し、痛めつけて殺してしまおうという、
殺して消し去ってしまおうという、消し去って終わらせてしまおうという暴力。
「かふっ・・・!?」
黒き腕に跳ね飛ばされて宙をきりきり舞いに舞い、ぼすっ、と深い桜の花の海に突入して、
その雲海を突破した先に広がっていた夜空と月にくるくる回りながら挨拶をし、
私は、あの妖怪桜が私に何をしたのか、ということを考える。
(あれは・・・)
錯覚でもなんでも無い。考えるよりは考えを再確認するのが大事だった。
再び花の海に没入する前に、飛ばされた力に反抗して体勢を整え、
体の痛む個所を確認する。直接打たれた胴体に、軋んでいるような感覚が残っていた。
「そう・・・か」
あの純白が呟いていたのは、そういうことだったのか。
激痛に身を苛まれながらも、私は思考を働かせる。
いや、もうわかりきったことだ。あとは答えへ至る道を突っ走るだけ。
あれは、私と同じ力だ。死を、操る、能力。
私に肉体的な打撃を与えた方法に思考が辿り着くより早く、
桜色の雲海を貫き破って黒い何かが現れ、
と同時に雲海の波間から先程暗闇の只中に見えた光芒が、
サーチライトのように無数に天を衝いてゆっくりと撃たれた。
光と闇の対称が、月下の元にさらされる。
「月光を増幅した照射レーザーと・・・。
ああ、忌々しい、あの黒いのは根だったんだわ」
私はそれをはっきりと目にした。
根が枝よりも高く伸び、花が照り返す月光で空を焼く光景。
けれど、段々酷くなってきた痛みで頭がくらくらしてしまって、
次第にまともに物を考えるのが辛くなってくる。
それでも考えた。それは一瞬で済むのだから。
幽霊に眩暈があるなんて、初めて知った。
不意の直撃。あれは、死を操る力。
死んだ脳組織と感覚神経を操って一時的に蘇らせる。
元からそんな物が在るはずも無い死霊にその感覚を与える。
死を感じる為のシステムを無理矢理付け加える。
私にただの攻撃をしても無駄だ、ということをあの桜は知っているのだ。
そしてこれは、長らく真実の痛みを覚えなかった私にとって、正しく手痛い攻撃。
しかしそれにしても、この異常な世界はどうしたことだろう。
この世の物とは思われぬ桜色の海。割れる大地と、突き出すどす黒い腕。
海から差す光、昼の如く明るい夜に光る月、身体に走るどうしようもない痛み。
「うぅ、痛い。 ・・・これは、たまったもんじゃないわ。
痛いにも程が・・・うう」
でも私は、その痛みのお陰で。
人が死を恐れるのは、生と死の狭間にある痛みを怖れるのだということ、
私が誘う者が死を恐れないのは、そこに痛覚が介在しないからなのだということを。
そんな当たり前を、数百年の長い永い亡霊生活を過ごした今、
ようやくにして気づくことが出来た。
「まずい、か・・・も・・・」
だけど今は、その事に感謝も怒号もできない。
鈍痛に胴を中心とした全身を襲われ、私は辛うじて夜空に浮かんでいる。
生半な痛みじゃない。痛覚自体をなぞられているようなものなのだから。
痛みは私から正常な視界と自由に動く体を奪おうと、
しきりに体内でその存在をがなりたてている。
ぐらぐら世界が揺れていて、夜空の黒と桜色の海が混ざり合う。
何故か、朦朧とする私に化け桜は攻撃を仕掛けてこない。
段々と、形状を認識する視力が失われつつあった。
色しか見えない。形を表す無意識の縁取りが消えていき、
一つ一つの色がべたべたと塗りたくられた平面の世界。
空には、一面の黒と丸い白。眼下には、一面の桜色と、根のものと思しき黒。
そして、正面には、半分の黒と、半分の桜と、
「あは」
それら二色の境界線をぐしゃぐしゃに溶かして薄める、歪んだ純白。
その褶曲した白線は、黒と黒の間を抜けてゆっくりと私に近付いてくる。
「は、はは。無様。無様。無様。無様。無様。あはははははは」
笑い蠢く、純白の歪み。近寄れば近寄るほど、私の視界はぼやけて白む。
「何よ、全然、勝負になっていないじゃない!!あ、あは、あは!
しょうがないわねぇ、もう。こいつに何をされたか知らないけど、
そんなにふらふら飛んで、見てらんないわよその姿」
声が、純白のものだと気付けないぐらいの歪み。
どちらから聴こえるのかも判らない。
辛うじて残っている理性が眼前の白とその声を結び付けるまでに、
これだけの時間の経過を要したのだ。
純白は続ける。
「私がこんなに近くまで来てるのに何もしない。
あんた、目が見えてないわね?それなら―――
直接枯らすよりも、あんたの過去の花を咲かせる。
自分のしたことでも思い出して、ずうっとそこで後悔しているが良いわ」
純白が私に触れる。私はどこを触れられているのか判らない。
手か、足か、腿か、腹か、胸か、腕か、胎か、
頸か、顎か、頬か、口か、耳か、目か、髪か、―――脳か。
ピシ、と。
聞きたくない音がした、気がした。
ずぶ、ずぶ、ずぶ、ずぶ。
幻想だけで出来た脳髄が、純白の見えざる手にまさぐられている。
非常識の中にある非日常を私は普通と言う。
だけど、こればかりは・・・無理だ。駄目だ。
在りもしない脳をかき回され、愛撫されよう、なん、て。
優しい手つき。子をあやすような慈愛。滑らかな心地。
私も触ったことの無いような惰弱な器官を、
事もあろうかこんな雑魚に、あまつさえ愛でるように撫でられるなんて。
こんなのは普通じゃない。気持ちが悪い。口からこの純白の汚れを吐き出してしまいたい。
ピシ。
『私は私の知らない私の脳髄から離れた。亡霊が魂からどこへ抜け出すのかはわからない。
だけど、あんな淫蕩な気持ち悪さに耐え続けてまで固執する程の脳だとは思えない。
脳から離れ、五感から切り離された私の私という形だけの姿は、
本当の五感、第十感までを総動員して現状の把握を試みる。
そこには先程と全く同じ光景が、すこし俯瞰した形で見えた。
この世の物とは思われぬ桜色の海。割れる大地と、突き出すどす黒い腕。
海から差す光、昼の如く明るい夜に光る月、身体に走るどうしようもない痛み。
付け加えて宙に浮かぶ私と、傍らで私へ向けて手を伸ばしている純白。
その腕の先端には髪を撫でる手などなく、私の頭を貫くような形で手首が埋没していた。
手は、私の顔面のつくりを全く壊す事無くめり込んでいる。
それは見ようによっては、頭を掴まれた私が純白に片手で吊り上げられているようにも。
―――あいつ、本当に触ってる。
音無き声で私を弄くる純白への呪詛を吐く。
私も知らなかった、私の脳のありかを、あの雑魚は雑魚の分際で一目見て探し当てたのだ。
そういう大事なことは開口一番に言えっていつも言っているのに。』
ピシ。
『さっきから、変な音が聴こえる。何の音だろうか。
少なくとも、私の内部から聴こえる音には相違ない。
何だろう。境界条件が曖昧になったせいで、五感まででは聴こえなかったものが聴こえる。』
ピシ。
『この音は、五感との同期を取って考えるならば、
何か硬い、ガラスのような物にひびが入った時の音だろう。
まとめると、私の内部で何かが割れようとしているということになる。
私の中に、割れるようなものがあったんだろうか。
・・・いや―――』
ぱきり。
『ちょっと待て、こんな音よりも気になることがあったじゃないか。
この、痛みは、何だ?
オカシイ。今の私は五感から切り離されているのに、
どうして身を切るような痛みがまだ延々と続いているんだろうか?』
ピシ、パキ。
『起説。五感の切り離しは完全でなく、この音は頭蓋を砕く音。
却下。私を俯瞰する私を私は自覚した。五感は切り離されている。
承説。境界条件の模糊化が感覚のスイッチにまで及べば起説が成立。
却下。境界の条件を設定したのは八雲紫。白は紫に勝てない。
転説。境界条件の設定者が八雲紫であることを何故知っているのか。
証明手段が無ければ前説の却下は無効。
却下。証明するだけの材料が精神内に揃っている。
提起。情報の開示を求める。
了承。以下。略す。
結説。境界条件を操っているのは桜。
却下。
じゃあ、何でこの桜は境界を操ろうとしているのよ。』
がきん。
答えが出ないままに、より一層の嫌な音が鳴った。
続けて、きっと開く事は無いだろうと思っていた記憶の扉が、
ぎぃぎぃと五月蝿く軋みながら開こうとして。
がしゃぁぁぁぁ・・・・・・ん。
認識していた全てが、思考していた全てが、夢想していた全てが、
一遍に、まったく同じタイミングで割れ。
* * *
その瞬間、感じられる筈の無い十の感覚全てが捉えた。
禍々しい極光のように、はたはたと揺れる天幕のように。異常な世界。
ぶれる。桜色の海。視界がぶれる。割れる大地。ドアを叩く音が聴こえる。
突き出すどす黒い腕。饐えた死臭が香ってくる。海から差す光。
涸れ切った大気の肌触りを感じる。昼の如く明るい夜に光る月。
口の中に広がる、真っ赤な私の血の味が美味しい。
身体に走るどうしようもない痛み。
* * *
そこにいるのは私ではない。
誰だろう、あの女の子は。
考える余裕は無かった。
花開いた過去がその腐敗した香りで私を覆うと、
すぐさまその花弁を閉じて再び過去への道を閉ざす。
だがその腐臭が、私の意識を遠のかせる。
そうして過去の香りが私に染み渡って。
―――私は、私のことを知る。
***
彼女は怨念だけで突き動かされている。
感情が理性よりも先にある妖怪。
特定の人物を恨み、怨み、憾み、余り余って怨嗟のみで殺し遂せようという化け物。
妄執の先立つ、これもまたある意味では幻想郷において珍しい妖怪だった。
彼女は大昔、とある酒師に生み出された。
その酒師の憎悪の対象を、酒師の命が果てた後であろうとも追い続け、
必ずやその命脈を討ち絶つために。
彼女は、酒師の持っていた憎しみを糧に作り出された酒師の劣化コピー体であった。
彼女は今、その憎悪の大元の首を叩き折ってしまいたい衝動に耐えながら、
対象の脳内に片手を突き込んでかき乱し、
本人が思い出したくないが為に奥底に隠してある記憶を探している。
その手つきは、まるで親が子の頭を撫ぜるが如く優しいものだったが、
彼女は自分のそうした無意識の動作に気付く事無く作業を続ける。
やがて、「あった!!」と誰も聴く事の無い声を高く上げ、
より強く激しく相手の脳髄を揉みしだくようにして掴む。
彼女が産みの親から与えられた能力は一つ。
酒師自身の持っていた途轍も無い能力と比べると、
今一つぱっとしない力の規模であった。
だが、この場合においてはその力ほど有効なものは無いだろう、
と酒師は踏んだのだ。花を操る程度の能力である。
彼女は、記憶の中にある禁断の領域、
過去の花が咲く夢の畑に手を差し入れて、
その花びらの一つ一つを丁寧に摘まんで開く。
すると中から花粉のように記憶が漏れ出で、
記憶の世界全体に広がっていった。
過去の花の饐えた匂いが広がるのを確認して、
彼女はその美しい肌からは想像もつかないような凄絶な表情を浮かべて嗤う。
「かは、あは、あは、あは、あは」
一頻り笑ってから、次なる過去の花びらに手をかける。
と、その時。
「そこな、危ないお嬢ちゃん。何が楽しくてそんなに笑う?」
彼女の耳に、聞き覚えのある声が響く。
「ッ!?」
彼女は生み出されてすぐ酒瓶の中に封じられた為、
まともに意識を持って行動し始めたのはついさっきなのだから、
この声に聞き覚えなどある筈が無かったのだが、
自分でも不思議がりながら、咄嗟に彼女は手を憎悪の対象の頭脳から離した。
もう一つ、彼女が奇妙に感じたのは、今の声が耳元で囁かれたときのそれだったこと。
耳元に、である。どこからか響き渡ってきたものではなかった。
が、見回してみたところで、彼女の周囲には蠢く黒き根と桜の雲、
それに今身を離した西行寺幽々子の浮きっぱなしの身体しか見当たらない。
「だ、誰よっ!? どこにいるの!」
言い知れぬ恐怖にかられた彼女は、虚空へ向けて問い掛ける。
するとそれに答えるように、
「誰ということも無いんじゃがの。
ほれ、よく見なさい。わしは嬢ちゃんの目の前におるわえ」
と諭す声を聴いて純白の妖怪は目を凝らしてみる。
彼女の眼前、そこには成る程確かに妙な物が浮いていた。
それはふわふわと浮沈しつつ、
「そうそうそれ。その酒蓋がわしじゃよ」
と惚けた声で続ける。
「しかしこりゃ、何と表現したもんか・・・
絶景というならまさに絶景、異形というならそれもまた、じゃなあ」
酒蓋はふむふむと頷くような雰囲気のまま呟く。
「あ、あんた一体、何物よ」
「ん、見ても判らんのか。
このちっぽけな姿が酒船に見えるのかの?」
「ばっ、見えるわけないでしょ!どう見たって酒蓋じゃあないの!」
「ほ、判っておるじゃないか。よしよし」
「んなこたぁどうでもいいのよ!」
「いやぁ、どうでも良くはあるまいに。
―――嬢ちゃんは、わしに封印されとったようなもんじゃからね」
酒蓋が告げて後数瞬。
苛烈な表情をおさめ、純白の少女は得心がいったというような顔で言う。
「ああ、そうか。思い出した。花咲じじいの人」
「人じゃあないがね」
「いいわよ酒蓋で。それで? 何か用なの、妖怪」
「いや、の。大した事じゃないのだけど、頼み事があってなぁ」
「嫌」
「そこをなんとか。年寄りを労わると思って」
「お断りだわ。私は今、この憎い女を苦しめて、
苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめてその挙句に殺す使命の真っ最中。
忙しいのよ、私はその為に生み出されたんだから」
欠けた少女は嗤う。己の為すべき事を為すのが、何よりも楽しいと言わんばかりに。
「ううむ、まぁ、それはそうじゃな」
「あんたの台詞だよ、爺さん。見て判るでしょう?
共犯者なら、目的の遂行までは互いの邪魔をしてはいけないわよねぇ」
「むぅ、しかしじゃな」
「大体、あんたはもう自分の仕事を終えてるでしょ。
とっととどっかに行くか、私を手伝うべきじゃないの」
「ふむ、生憎とどっかに行く、は無理じゃよ。
こんな桜の苑があったら、引っ込もうにも引っ込めん」
「じゃあ私の邪魔しないで、手伝うなりなんなりしなさい。
私の命令を聞くのも契約の内でしょう、妖怪。負けて接収された事の言い訳は後で聞くわ」
「ふむふむ。そう、そこなんじゃよ、嬢ちゃん」
気分よく喋っていた所の意表を突かれ、少女は面食らった顔をする。
酒蓋はのらくらと喋りつづける。
「は?」
「先刻わしはこの幽々子嬢ちゃんと遊んでのう。
いや最近の流行は楽しいもんじゃ。
わしは性質上流行に順応するのに長けておってな。
実に楽しい時間を過ごしたんじゃが」
「・・・何? あんた、こいつと殺し合ったんじゃないの?」
「決闘は、決闘のようなんじゃがの。
まぁ随分と平和的、それでいて殺伐としてスリリングな、
一風変わった決闘方法じゃなぁ、ありゃあ」
「ああ、さっき何か言ってたよ、この女も。なんとかごっこだっけ?」
「そう弾幕ごっこ。あれがもう、わしにこれ以上なくしっくり来てのう」
「無駄口が多いよ、蓋。そこどきな。
そいつを早く夢見殺さなきゃいけないのよ、私」
少女は段々と苛立ちを顕わにし、酒蓋を睨みつけはじめた。
そこへ、酒蓋は更に調子を変えて語る。
「だからなぁ、すみか嬢ちゃんよ。
―――お前さんとちょいと遊びたいんじゃ、わし」
「あぁ? 人でも無いくせに呆けたの?」
「ちょっとしたゲームじゃ。わしがこの姫さんを守って弾幕を張る。
嬢ちゃんは、この姫さんを殺す為にそれを避けて近付く。
面白いじゃろ?やるじゃろう?」
「冗談はそこまでにしな。どきなさい」
「ほ、お断りじゃよ」
「・・・なんだって?」
「勘違いをされちゃ困る。わしは、あんたの作り主と契約したのじゃよ。
同位体、不完全なそっくりさんなんぞの言う事を聞いてやる義理は無い」
「な・・・何を・・・」
そこまで温和に答えていた酒蓋の声音が、
掌を返したように冷たいものとなっていた。
「さぁ、始めようかね。
心配せんでも、手加減はしてやるわい」
「ふ、ふざけるなっ! あれからどれだけの時が流れたか知らないけれど、
どうせもう本物の私なんか死んでいるに決まってるんだ!
下らないことを言っていないで素直に私の言う事を聞くんだよ!!」
「ふむ、わからん奴じゃなあ、嬢ちゃん。妖怪を何だと思っているんじゃ。
自分よりも弱い輩からそう居丈高に命令されては、そりゃああんた。
いくらなんだってわし、ちょっと怒るぞ」
酒蓋はそこで一息ついてから、
「わしを負かしたお嬢さんを保護するくらいに、のう」
と重々しく言った。
冷ややかな、それでいて凄みのある酒蓋の声に圧倒され、
純白の少女は怒りと驚きと怯えの混ざり合った苦しげな表情を隠そうともせずに、嗤う。
「あは、あは。あはは。どうしてこう、上手くいかないのかしらねぇ」
「知らんわい」
「やることなすこと、上手くいった試しが無いわ、昔から」
「昔なんぞ無いじゃろ。それは彼奴の過去じゃ。
己の物のように語るもんじゃあない」
「知るもんか、誰もあの私の事なんかもう覚えてない」
「わしが覚えておる」
「他にはいないわよ」
「・・・西行寺幽々子嬢は」
「過去の花が厳重に枯らされている。私にしか咲かせられない」
「枯らした奴が誰だか知っておるのかな?」
「あんなもの、自分でしか枯らせないわよ」
「さぁて、それはどうかのう・・・」
「どっちでもいい。どうせ殺すから」
「邪魔するぞ、わしが」
「良いわよ、乗ってあげる。躱して、当てるだけでしょう?
簡単じゃないの。ついでにあんたの花も咲かせてやるわ」
「ほ、少しは妖怪らしくなってきた」
「私は元々人間じゃないわ」
「やらせんというに」
「私を誰の花からも忘れさせるよ、酒席の怪!!」
「枯れた花も昔日を夢見るんじゃ、偽の酒神!!」
* * *
一風変わった酒気交じりの弾幕が、吹きッ曝しの幕間を飾り立てる中。
死人嬢は、ただ己の回顧に沈んでいた。