この物語は作品集58の『風見幽香は変わらない』等、過去作品の設定を使っています。
また、この物語は独自設定や独自解釈がありますのでご注意下さい。
太陽が真南に向かわんと高度を上げ続ける時刻。
幻想郷内のとある屋敷、八雲邸の庭の一角では、周囲に集う雀の鳴き声にも負けないくらい
賑やかな声が大空に響き渡っていた。というより大声で響かせているのは約一名なのだが。
「にゃはははははっ!!いやあ~!!良いね、実に良い!!
『ばーべきゅー』だっけ?昼間っから酒は飲めるし美味い肉は食えるし最高じゃないか!」
人の集う庭の中でケタケタと笑い声をあげる鬼が一名。彼女の名前は伊吹萃香。
この屋敷の主、八雲紫の古くからの友人であり、最強に数えられる鬼の一人である。まあ、今の彼女からはそのような雰囲気など微塵も感じられないが。
「いや、アンタはいつでも昼間っから酒を浴びる程に飲んでるじゃない」
「おいおい霊夢ぅ、そんなつまらない突っ込みは言いっこ無しだよ。
折角の酒が不味くなっちゃうじゃないか。みんなで集まりみんなで騒ぐ!そして酒を飲む!それが良いんだよ」
「まあ、確かに。その気持ちも分からなくはないけどね。あ、これ美味しい」
「ちょ!?ちょっと霊夢、それは私が幽々子様の為に焼いてた分よ!?それを横から掻っ攫うなんて…」
「良いじゃない、そんな小さなことでケチケチしなくても」
地面に敷かれた御座に腰を下ろし、用意された肉を口に運びながら萃香に同意を示しているのは博麗霊夢。
その霊夢に非難の声を上げたのは、白玉楼の庭師こと魂魄妖夢。彼女もまた、主と共に紫から今日のお誘いを受けていた。
ちなみに彼女の主である西行寺幽々子はと言えば、用意された最高級の肉に一人舌鼓を打っていて、会話に参加するつもりはないらしい。
主の為に肉を焼き続け、自分は殆ど食せていない妖夢のなんと健気なことか。
そんな麗しい主従関係とは程遠い関係の二人がいたりする。その二人のうちの主こそが、今回の催しの主催者なのだが。
「ね、ねえ藍?私のお肉は?さっきから野菜ばかりしか渡されていない気がするのだけれど…」
「もう少しお待ちください紫様。上等の肉は焼き上がるのにも手間暇がかかると言うもの。
紫様には最高級の肉を食して頂きたいのです」
「そ、そう?それならいいのだけれど…」
「よし、この肉は頃合いだな…ほら橙、しっかりと食べるんだぞ。
あ、紫様、ピーマンが焼き上がりましたので、よろしければどうぞ」
「ちょ!?今思いっきり橙に肉を渡してたじゃない!?どうして橙には肉で私には野菜なの!?」
「紫様にはバランスの良い食事でいつまでも美しい容貌を保って頂きたいという私の配慮にございます」
「バーベキュー始まってから私野菜しか口にして無いんだけど!?
というかバランス的には肉と野菜の比率が0:10じゃない!?バランスブレイカーにも程があるわよ!?」
「まさかとは思いますが、その『野菜しか口にしていない』とは、紫様の想像上の出来事に過ぎないのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、紫様自身が未だ寝惚けていらっしゃることにほぼ間違いないと思います」
「助けて永琳先生!?」
先ほどからぎゃあぎゃあと言い合っている二人こそ、この屋敷の主とその式だったりする。
八雲紫と八雲藍。二人の喧騒を眺めていた霊夢は、呆れるように軽く息をついて、隣に座る萃香に向かって言葉を紡ぐ。
「あの二人も飽きないわねえ。さっきからずっとあの調子じゃない」
「あの二人はあれで良いんだよ。酒も少しばかり入っちゃってるし、藍も久々に紫に思いっきり甘えたいのさ」
「…あれって藍が紫に甘えてるの?どう見ても紫が藍に構ってほしくて仕方ないようにしか見えないんだけど」
「そういう風に見えるなら霊夢もまだまだってことさ。だよねえ、幽香」
楽しそうに笑いながら、萃香は霊夢とは反対の場所に腰を下ろして酒を嗜んでいる女性――風見幽香に声をかける。
萃香の言葉に、幽香は楽しそうに微笑むだけで、答えを返すことはない。
それは言葉にする必要性すら感じないということ。藍が紫に甘えていることなど、古くからの付き合いである彼女達にとっては一目瞭然なのだから。
ちなみに幽香の膝の上には、先ほど藍に焼肉を沢山貰った橙がちょこんと座っていたりする。
その光景に、萃香は愉快とばかりに口元を緩めながら指摘する。
「相変わらず橙に懐かれてるねえ。何だか昔を思い出すよ。昔の藍もアンタに対していつもこんな感じだったね」
「フフ、子供は人物の本質を見抜く眼に優れているということよ」
「そう?私には子供には危機察知能力が欠落してるだけのような気がしてならないんだけど」
「あら、それは心外よ霊夢。私は子供に対してはとても優しいわよ?
この娘が大きくなったとき、どんな風に可愛がってあげようかと思うとゾクゾクするもの」
「キモイ。主にアンタの趣味がキモイ」
膝の上で肉を頬張っている橙の頭を優しく撫でながら告げる幽香に、霊夢は淡々と切って捨てる。
趣味を理解して貰えず、それは残念とばかりにワザとらしく息をつき、幽香は握りしめた右手をそっと橙の目の前へと移動させる。
食事に夢中になっていた橙の意識を引きつけたところで、そっと手を開く。
ポンっと間の抜けた音と共に、開かれた彼女の右手から眩い光が放たれる。
「はにゃっ!?」
突然の出来事に、思わず驚きの声をあげてしまう橙。予想通りの反応に、それを見てクスクスと幽香は笑う。
やがて光が収まり、幽香の掌から現れたのは、美しく咲き誇る一輪の花。赤に染まる花弁を携えたアネモネ。
突如として現れた美しい花に、橙は『わあ』と嬉しそうな声を漏らして幽香の掌にある花をじっと眺めている。
そんな橙に、幽香は楽しそうに笑みを零しながら、そっと花を少女に手渡す。その光景に、萃香は楽しげに言葉を紡ぐ。
「相変わらず器用な事をするもんだ。花を操る程度の能力、なんともまあメルヘンで素敵な力さね」
「本当、アンタほど所有する能力と中身が不釣り合いな妖怪もいないわよね。
その能力だけ浮いてるというかなんというか」
勝手な事をああだこうだと言い合う二人を無視し、幽香は橙の頭を撫でながら再び酒に興じることにする。
酒を喉に通しつつ、幽香は視線を未だに言い争ってる馬鹿親子の方へと向ける。
そこには半涙目になっている紫と、ようやく彼女に肉を渡している藍の姿があった。
彼女達と知り合って数千年。永い年月が経てど、少しも色褪せることのない二人の愛情に幽香は一人苦笑する。
萃香ではないが、あの二人はあれで良いのだと。最近は少しばかり藍が素直になれなくなってしまったけれど、それが歳を重ねるということなのだろうから。
「いやいや霊夢、私はちょっと考えが違うね。その能力程風見幽香に似合う能力はないと思うよ?」
「はぁ?いやいや、本気で何処が?欠片も似合わないじゃない。
まだ全てを破壊する能力とかの方が似合ってると思うわよ?フランみたいにさ」
どうやら二人の会話は幽香の話題が続いているらしい。
訳知り顔でニヤニヤと表情を緩めている萃香と、対照的に頭に疑問符を浮かべて眉を顰めている霊夢。
人の事を酒の肴にして楽しんでいること自体は気に食わないが、声にして怒る程幽香は子供ではない。
ただ、二人の意見に関しては、萃香の言葉が正しいと幽香は自分で理解している。
そのように考え、幽香は再び視線を紫と藍の方へと向け直す。きっと二人に聞いたとしても、萃香同様の意見だろう。
特に藍は、幽香の能力はそれ以外にないと断言するかもしれない。何故なら他ならぬ彼女こそが幽香にその在り方を示したのだから。
今より時を遥かに遡る、それはそれは遠い記憶。それは風見幽香にとって忘れられぬ運命の岐路。
その記憶があるからこそ、彼女は今の在り方を自認する。そして自身の能力を今の自分の象徴だと認めているのだ。
破壊でも暴虐でもない、花を操る程度の能力。風見幽香にとって、これほどまでに似合う能力はないだろうと。
月の光も差さぬ暗き森の中、そこに一人の女性がいた。
否、正確には二人なのかもしれない。彼女の掲げる腕の先、そこには彼女の体躯をゆうに二回りは大きい妖怪の姿があった。
しかし、彼を一人とカウントするには、一つの事象が支障となる。何故なら、彼の命の灯は既に消え去ってしまっているのだから。
「…まさか、これで終わり?近隣の妖怪達を管理する大天狗などと自分で謳っておきながら、
私に傷一つ付けられずに肉塊になったというの?」
自身の体重を遥かに凌駕する重量を持つ屍を片手で吊り上げ、彼女は不満気な表情を浮かべて問いかける。
最早、彼女の問いに彼が答えることはない。何故なら彼は語る舌…それ以前に頭部すら無い。
彼が命の光を奪われた瞬間、その妖怪の頭は原形を留めない程に潰されてしまったのだ。
「…どうせなら、頭だけ残して身体を少しずつ刻んでやれば良かった。
そうすれば、少しは楽しめたかもしれないわね。まあ、本当に少しだろうけれど」
首の無い屍に、彼女は一つ溜息を付き、彼を地面へと投げ捨てる。それはまるで、無垢な童が飽きた玩具を捨て去るかのように。
物言わぬ肉塊を前にしても、彼女は眉一つ動かさない。その身体は返り血に染め上げられ、美しき緑髪が赤く染まろうとも。
彼女の心にあるは唯一つ、不満という名の感情。自分を微塵も楽しませることすら叶わなかった、哀れな屑への糾弾。
彼女の視線に込められるは唯一つ、侮蔑という名の想い。自分に触れることすら叶わぬ蟻が、分不相応にも己が前に立ったことへの怒り。
軽く息を付き、返り血に身を染めた女性はそっと口開く。
「エリー、その汚物を処理しておきなさい。
そのような屑がこの美しい大地に接していることすら不快だわ。毛髪一本たりとも顕界に残すことは許さない」
「…はい」
緑髪の女性が言葉を紡ぎ終えた刹那、彼女の背後に現れた一つの影。
その影から返答を聞き終え、女性は肉塊を背に足を森の奥へと進めて行く。その眼は未だ血に飢えた狩人のモノ。
彼女の心で飽くなき飢えの叫びが木霊する。まだ足りぬと。まだ心の渇きは収まらぬ、と。
だからこそ、彼女は足を進める。今度は先ほどのような塵などではなく、この渇きを満たしてくれるような獲物に出会う為に。
人がまだ文明を生み出し、育み始めたばかりのそんな時代。
とある東方の国、そのある地方にある、人々が近寄りすらしない大きな森林の奥深く。そこにとある一軒の家屋は存在していた。
それは唯の一軒家ではない。この時代の人々の文明とは明らかに一線を画した和風の建築様式。
この時代の人間たちがみれば妖術の類かと見紛うような屋敷。その奥、台所に一人の女性はいた。
台所で鼻歌交じりで料理をし、楽しげに笑みを零している金髪の女性、その容貌の何と美しく何と優しげなことか。
その美貌は大国の王をも虜にし、並の民人ならば老若男女問わず心奪われるに違いない。彼女はそれほどまでに人外れた美貌の持ち主であった。
否、人外れた容姿とは表現に誤解を生じさせる可能性がある為、訂正させて頂こう。何故なら彼女はその通り、人外の存在――妖怪なのだから。
料理を作り終えた彼女は、その作ったモノを用意していた皿へと移してゆく。
その調理器具から食器皿に至るまで、どれもこれもが明らかに現在の文明を凌駕しているモノだ。
それはまるで、別の異世界や時代から持ち込んだかのように。料理をお盆に載せ、彼女は再び鼻歌を口ずさみながら隣の部屋へと運んでゆく。
隣の部屋につながる戸を開き、彼女は笑顔を浮かべて言葉を紡ぐ。
その報告を告げたとき、あの娘は一体どんな可愛い表情を見せてくれるのだろう――そんな事を考えながら。
「らーんっ!私の可愛いらーん!お昼ご飯が出来たわよー!
今日は藍の大好きな油揚げを沢山使ったからねー!」
隣の部屋にいる筈の少女に向かって声を上げた彼女だが、室内からは目的の人物の返事は聞こえなかった。
どうしたことかと室内に目を巡らせる彼女であったが、その理由は酷く単純なものであった。
彼女が呼んでいた目的の人物――彼女の娘は、薄い布に包まり、すーすーと可愛い寝息を立てていたからだ。
そんな少女の眠りこけた姿を見て、彼女はあらあらと再び優しい笑みを零す。
「そうよね、今日は良い天気だものね。
こんなに気持ち良いお日様に当てられちゃったら、眠たくなっても仕方ないわね」
食事の乗せられたお盆をちゃぶ台の上に置き、女性は眠りこける少女の隣に腰を下ろした。
そして、眠る少女の髪を優しく撫でる。彼女の愛撫に、少女は頭の上にちょこんと乗せられた『狐耳』をぴくっと反応させることで応える。
その様子が堪らなく愛おしかったのか、彼女は表情を破願させる。それはもう、どうしようかと言うほどに蕩けてしまっている。
彼女が頭を撫でては狐耳をピクピクと反応させ、頭を撫でては反応させ。それを六度ほど繰り返した頃だろうか。
どうやら愛娘への愛情が臨界点を超えてしまったらしく、その女性はいそいそと娘の包まっている布に入り込み、可愛い娘をそっと抱きしめ、
「今日はこのまま一緒におねむしましょうか。おかあしゃまが藍の体をぽっかぽかに温めてあげましゅからね~」
「温めるのは良いけれど、何故にそこで紫が服を脱ぐ必要があるのかね」
「それは可愛い愛娘が寒さに震えないよう、人肌越しに温もりを分け与えてあげたいという母親の愛情よ、萃香」
突如、室内から響き渡った声にも、女性は少しも動じることもなく答えてみせる。
そんな少しも驚く様子を見せない彼女に対し、悪戯が失敗したような笑みを浮かべ、室内に一人の少女が『現れた』。
現れた、という表現の通り、先ほどまでその少女は確かに室内に居なかった筈なのに、
まるで大気中に広がった塵が集まってきたかのように人の形を形成し、それはやがて一人の少女の姿に変わっていったのだ。
その少女の頭から生えるは雄々しき二本の角。そして手に持つは彼女の生き甲斐生き様を象徴するような酒瓢箪。
少女の名は伊吹萃香。強者と名高き鬼にして、彼女こそが先ほどまで幼い我が娘と戯れていた女性――八雲紫の唯一にして一番の親友である。
「ちぇっ、驚かないんだね。折角吃驚させようとして、態々こんな登場の仕方をしたっていうのにさ」
「貴女、この屋敷の周囲に結界を張っているのを忘れたの?
驚かせるつもりなら、その結界の外から気配を消してやってきなさいな。玄関から気配を消しても意味がないでしょうに」
「ああ、そっか。そんなモンもあったねえ。完全に忘れてたよ」
かんらかんらと笑いながら、勝手知ったる人の家、萃香は畳の上にぺたんと腰を下ろす。
ちなみに紫はというと、萃香に指摘された通り、服を脱いで半裸状態だった為、いそいそと服を着直している。
紫が服を着直し終えたのを確認し、萃香は再び口を開く。
「藍はこんな真昼間からお休みかい?すーすー気持ち良さそうに眠っちゃって」
「子供は寝ることも仕事なの。大体こんな真昼間から酒を飲んでる奴には藍も言われたくないと思うわよ」
「にゃはは、それもそっか。おーおー、可愛い尻尾を振り振りさせちゃってまあ」
萃香の言葉通り、紫の娘は未だ気持ち良さそうにすやすやと眠り、お尻に生えている金色の尻尾を左右にぱたぱたと揺らしている。
その幼き少女の名は八雲藍。八雲紫の娘ではあるが、実は彼女と紫は血のつながった親子という訳ではない。
それを証明するかのように藍の耳に携えられた狐耳、そしてお尻から棚引く一本の尻尾。それは彼女が妖狐という妖獣の種族たる証。
血縁関係こそないものの、そのようなものは二人の間には瑣末の事象でしかなかった。
紫は藍のことをそれこそ我が目に入れても痛くない程に溺愛していたし、藍もまた紫のことが大好きだからだ。
眠っている藍を確認し、萃香は瓢箪に一度軽く振って口をつけ、会話を仕切り直そうとする。その姿を見て、紫の眼が若干険しくなる。
萃香がそのような仕草をするとき、それは十中八九良からぬ話が始まる時だからだ。
「さて、今日はどんな厄介話を持ってきてくれたのかしら。面倒事なら私は御免被りたいのだけれど」
「あれ、分かる?流石は紫、伊達に私と親友をやっちゃいないね。
まあ、面倒事は面倒事だけど、別に紫に迷惑をかけるモノじゃないよ。今日はちょっとした面白い話を持ってきただけさ」
「面白い話?どうせまた大きな猪を狩って鍋にしようとか、山登りに付き合えとかそういうのでしょう」
「あ、それ良いね。よし、今度一緒に山登りして大きな猪を狩ろうじゃないか。久々の牡丹肉も悪くないね。
それは後日の楽しみにとっておくとして…今日はまあ、少しばかり血生臭い話さ。それこそ藍の起きている前で話すのは少し憚られるような、ね」
萃香の言葉に眉を顰め、紫は視線を藍の方へ移す。
そして、藍が依然気持ち良さそうに眠っているのを確認し、軽く息をついて萃香に視線を向ける。『話してみなさい』と。
「実はさ、昨日の夜のことなんだけど、ウチの手下の天狗が四人ほど何処ぞの誰かに殺されてね。
それも実に無惨な殺され方さ。肉片一つ血液一滴たりとも残さず、この世から消滅させられてたらしい。
何時まで経っても帰ってこないことを不審に思った他の連中が、妖力の残香を必死に辿ってようやく事実に気づいたって訳」
「…へえ、それで?」
「おおっと、誤解しないでよ。私は別に紫を疑ってる訳じゃない。
昔の紫ならともかく、今のアンタが無意味な殺しなんかするとは思えないから。少なくともそこの藍がいる限りは。
ただまあ、紫が犯人なら分かりやすくてこっちは楽なんだけどね。ウチの天狗を殺してくれるような実力者なんて、私の知る限りアンタくらいだもの」
紫の視線が強くなったことで、萃香は苦笑を浮かべ、手を振って否定の意を示す。
萃香の言葉を耳にし、紫は更に不可解だと言わんばかりの表情を浮かべる。彼女の言葉が納得出来ないのだ。
「どういうこと?鴉天狗や白狼天狗を屠る程度なら、そこまで驚くことはないでしょう。
今は妖怪達が跋扈する弱肉強食の世界だもの。見回り天狗以上の妖怪がいたところで何ら不思議はないわ」
「ああ、私も鴉天狗や白狼天狗が殺されただけなら話題にも出さなかったさ。
話題に出すどころか、天魔から私達に報告すら入らなかっただろうから、知りもしなかっただろうね。
いいかい紫。その殺された天狗のうち、二人は大天狗だったんだよ。何処ぞの誰かさんは、よりにもよって天狗の中でも上位の奴らに手を出したんだ」
「大天狗、それを二人も殺したというの?貴女達の管轄地であるこの近隣で?
ん…そいつは余程腕に自信があるのか、ただの阿呆なのか判断に悩むわね」
「でしょう?ただ、一つだけ確実に言えることは、それだけの実力者がこの近隣に居るってことさ。
私達、妖怪の山の連中を敵に回すことに微塵も恐怖を感じていないような、そんなとびっきり酔狂な奴がね」
萃香の言葉に同意するように頷く紫。彼女達二人は共に大天狗を殺してのけた、という点に着眼していた。
何故それが問題なのか。それは単純なもので、彼ら天狗はどの妖怪よりも強く種族で統制が行われているからだ。
彼ら天狗、それも管理職である大天狗を殺したとなると、当然天狗達は報復を考えるだろう。それはすなわち、全ての天狗を敵に回すと言うこと。
そして、それ以上に怖いのが、天狗の上には鬼という他の妖怪達が畏怖する存在が君臨している。
言ってしまえば、天狗に喧嘩を売るのは、最終的に鬼と戦うことも覚悟しなければならない。普通の思考を持つものなら、それだけで天狗達と喧嘩をしようとは考えないだろう。
だからこそ、紫達は判断に迷っていた。そんな大天狗を、その誰かは殺してみせたというのだ。
ならばその人物は鬼を敵に回しても構わない程に己の力に自信があるのか。それともただ正常な思考回路をしていないのか。もしくは――
「――その両方、か。全く、本当に危ない世の中になったものね。
こんなんじゃ藍と一緒に外に遊びにも行けやしない」
「ははっ、良く言うよ。紫ならどんな化け物が外に居ようが問題ないでしょうに。
まあ、私が言いたかったのはそれだけさ。ここ最近はそういう物騒な奴がこの周りに居るってことだけ」
「そう、わざわざ情報ありがとう。それで鬼である貴女は天狗と共に躍起になってそいつを狩り出してるって訳ね」
「もぐもぐ…いやいや、そんな訳ないじゃない。私はそういう面倒事はパス。
大天狗を殺した奴に興味が無いって訳じゃないが、復讐や報復なんて下らない理由の為に力を振るうなんて馬鹿らしいじゃない。
そういうのは他の真面目な連中に任せとけばいいのさ。あ、これ美味しいね。味付けバッチリじゃん」
「呆れた。貴女それでも彼らの頭な訳?
自分の主義を曲げても、下の連中に筋を通すのがトップの義務じゃないの?」
「さーて、どうかねえ。他の奴らはともかく、私は好きであいつ等の上に立ってる訳じゃない。気に食わないんだよ、天狗の連中は。
確かに部下が見知らぬ奴に殺されたのは気持悪いが、天狗の下らない面子の為にこの腕を振るうのはもっと気分が悪い。
まあ、鬼の中にも色んな奴がいるってことさ。現に勇儀の奴だってサボって酒飲んでたし。んぐっんぐっ…」
「本当、どうしようもない鬼だこと。…ねえ萃香。ところで貴女、さっきから何を食べてるのかしら?」
先ほどから口に何かを詰め、モグモグと食して下さっている萃香に、紫は額に青筋を立てつつも笑顔のままで問いかける。
そんな紫の怒りに気づかない萃香は、箸を口元に運ぶ手を止めようとはしない。それが更に紫の怒りを呼び、そして。
「ん?何って、昼飯に決まってるじゃんか。これって私の為に作っておいてくれたんでしょ?
いやいや、アンタの飯はいつ食べても美味しいねえ…って、どったの紫、そんなフルフルと震えちゃって。風邪?」
何ともまあ、とんでもなく方向違いの発言をしていたりした。
無論、萃香が口にしている料理は彼女の為のものではなく、紫が最愛の娘の為に用意した昼食であって。
そんな萃香のトドメの一言に紫はただニコリと微笑んだ。その微笑みに萃香が嫌な予感を感じた時にはもう遅い。
萃香が言葉を紡ごうとした刹那、彼女の座っていた場所に空間の断裂が発生し、萃香は当然避けることも出来ずに、その隙間の中へと真っ逆さま。
「ちょ!ちょっと紫!?なんか暗いよ!?この中凄く暗いよ!?
って、うええええ!!?なんかすっごくヌルヌルする!!なんかすっごくヌルヌルする気持ち悪いウネウネが!ウネウネがああ!!!!」
「さて…と。それじゃ藍、お馬鹿な鬼さんがしっかり反省するまで、私達はゆっくりお昼寝していましょうね」
萃香の悲鳴を聞き届けた後、紫は隙間を閉じてすやすやと眠る藍の隣に再び横になる。
ギャーギャーと大きな悲鳴をあげる萃香だが、彼女の悲鳴は幼子の藍の眠りを幾ミリたりとも妨げることはなかった。
「それでは萃香、また明日」
「すいかさまー!またね、ですっ!」
「おー…またね、紫、藍」
日も落ち、大空に夜の帳が下りた刻。
紫宅、その玄関で紫と藍に見送られながら、萃香は彼女の家を後にしていた。
来た時とは違い、『何故か』少々疲れているご様子の萃香だが、見送りをしてくれた藍を見て、少しばかり元気が出たらしい。
紫の腕の中で、萃香にむかってブンブンと手が千切れんばかりに手を振る藍に、萃香は思わず笑みを零してしまう。
本当に素直な良い子だと萃香は感心する。あれが本当にあの性悪妖怪の娘かと何度も疑いたくなるほどだ。
まあ、実際、紫と血がつながっている訳ではないので、その疑問に思い当たる度に自身で答えを紡ぎだしては納得しているのだが。
紫の家を出て、萃香は夜の森を一人のんびりと歩み始める。
自分の寝床に帰るには、空を飛行して帰るのが一番手っ取り早いのだが、紫の家から帰る時に彼女はいつも歩いて帰っている。
理由は、あの家で過ごす温かい時の流れ、その余韻を少しでも長く感じていたいから。
彼女の棲家、妖怪の山に付くとそんな心地よさが綺麗に吹き飛んでしまうと分かっているからだ。
伊吹萃香。彼女は鬼の中でも特筆すべき力を持ち、最強に数えられる妖魔が一人。
力のある鬼という種族の中でも、四天王という格別の領域に位置する彼女。
天狗や河童を筆頭に、数多の種族の妖怪を束ねる長の一人であり、この辺りの地域を管理する者であった。
そのような地位と実力にあって、この近隣の妖怪の誰もが彼女に付き従い、恐れ媚び諂った。鬼という大木の庇護の下で生きる為に。
妖怪ならば誰もが羨む権力と地位、そして名声を得た彼女だが、萃香自身はそのような事に微塵も喜びなど感じてはいなかった。
彼女は妖怪の山の頭という地位に飽いていた。否、飽くというよりも、辟易していると言った方が正しいかもしれない。
妖怪の山で繰り広げられるは、俗物達による下らぬ道化劇。鬼という守護をもとに、妖怪達の安寧の為という
下らない大義名分を掲げた天狗どもの領地拡大。そして実際に妖怪の山の実権を握るのは天狗の頭である天魔ども。
大多数の鬼達はそれで良いのかもしれない。自分達は好きなように生き、毎日宴を楽しみ、酒に興じる。
けれど、それが全ての鬼の総意ではない。少なくとも伊吹萃香、彼女はこんな毎日には当の昔に愛想を尽かしていたのだ。
内心では自分達のことを疎ましく思っている天狗の注ぐ酒など美味くもなんともあるものか。
確かに天狗達の全てがそうとは言わない。中には萃香自身、驚く程に勇と才、そして智に富んだ天狗とて存在する。
だが、それも鬼の中の萃香同様、極少数なのだ。多くの天狗は、鬼の庇護に調子付き、酷い奴になれば他の妖怪を下等な生き物だと見下している。
そんな俗物に塗れた妖怪の山になど、本当は萃香は戻りたくもなんともなかったが、その場所が自分の居場所であることも確か。
確かに下らぬ権力争いをする俗物どもに祭り上げられるのは我慢がならぬ。けれど、同時にそこには守りたい者達だって存在する。
妖怪達の幹部クラスの思惑など何も知らず、平穏と笑顔をもって萃香達のテリトリーで暮らす普通の妖怪達。
特に妖怪の幼子達には何の罪もない。子供達は無垢な瞳で、萃香達に感謝の言葉を紡いでくれる。
『ありがとう、萃香様』『私達の平和を守ってくれて、ありがとう』と。そのような言葉を向けられては、情に厚い彼女は最早何も言えはしない。
確かに上層部の俗物どもは嫌いだ。けれど、それ以上に彼女は自身の領地に住まう妖怪達が大好きだった。
だからこそ、彼女はこうして妖怪の山に帰るのだ。天狗達に自分がいいように利用されているのは分かっている。
だが、幼子達が楽しく過ごす為には、猛々しき妖怪達が跋扈する戦場の乱世に天狗達だけでは心許ない。だからこそ自分が居る。
萃香は根本を完全に割り切っているのだ。せいぜい自分の武勇を好きなだけ利用するがいい。それが幼子達を、未来の勇ある者の未来を守ることにつながるのなら、と。
紫の住まう大きな森を抜け、彼女の住まう妖怪の山へと続く平原に出た萃香だが、ふとその足を止める。
そして、彼女は黙したまま眉をそっと顰める。夜風に乗って彼女の下に運ばれた、取り分け物騒な匂いを感じ取ったからだ。
それは妖怪の血の匂い。それも一人二人じゃない、もっと多量の屍から発されるモノだ。戦場に幾度と身を置いた萃香なればこそ、感じ取れる死の香り。
「――近いね。それも、私の嗅覚が正しければ最悪な方向に血の香りが続いてる」
言葉を呟きながら、萃香は視線を彼女の目的地であった妖怪の山の方へと向ける。
その物騒な匂いの発生源は、こともあろうに、萃香の目的地の方向とぴたりと一致していたのだ。
そして萃香は、その原因に心当たりがあることに思い至り、小さく舌打ちをする。
「…まさか、昨日の今日で山の方にまで現れてくれるとはね。
ハッ、鬼の名声も随分と地に落ちたもんだ。私達の名前じゃ抑止力にすらなりゃしないってのかい」
軽く息をつき、その刹那、萃香は風に溶けた。
それは勿論、彼女が実際に風に同化したという訳ではない。彼女の大地を疾走する速度が、他の者には目に映らない速度なのだ。
萃香の場合、その驚異的な身体能力から、飛ぶよりも地を駆ける方が遥かに速い。
平原を一陣の風となって走り抜け、妖怪の山の手前の森に入った刹那、彼女はその足を止める。
彼女の向けた視線の先にある亡骸――それはこの山を守る白狼天狗のモノであった。
それはまだ年端もいかぬ若き白狼天狗の娘。目は恐怖に開かれたまま、胸を貫かれての即死である。
「――ッ!!馬鹿共がっ!!!大天狗以下の奴らを迎撃に出すなんて何を考えているっ!!!
私や勇儀の話を何も聞いていなかったのか!!!」
彼女が見せるは怒りに満ちた表情。眼は釣り上がり、普段の温厚な彼女からは微塵も想像出来ない程に噴怒に満ち溢れ。
その怒りが向けられたのは、白狼天狗を殺した犯人などではなく、その仲間である天狗達、その上層部。
昨日、大天狗が殺されたことを受け、今朝の報告会で萃香や他の鬼達は天狗達に何度も釘を刺した。
それは、この事件が解決するまで、大天狗以下の天狗達は、妖怪の山から一歩足りとも出さないこと。
当然だ。大天狗を殺す程の力を持った妖怪相手に、それ以下の実力しか持たない者が一体何を出来るというのか。
だからこそ萃香達は厳しく言いつけた。妖怪の山の守備に当たるのは、足の速い鴉天狗のみ。
そして鴉天狗は、この山への侵入者を見つけた場合、鬼達に連絡すること。その二点を強く言っておいた筈なのに。
何故このような結果になったのか。そんなことは考えずとも分かる。鬼達の言葉を、天狗の上層部が握り潰したから。
天狗達は甘く見た。その妖怪の実力を、鬼達の忠告を甘く考えた。だからこそ、このような結果になった。
ここで鬼達に頼り切っては、天狗の面目丸潰れだからと、下らぬ考えで、未来ある白狼天狗の若者を失った。
このことが萃香には何より許せなかった。俗物どもの欲望に振り回され、訳の分からぬままに未来を閉じられた、この者の末路が。
「…アンタは良く戦った。皆を守る為に、ここで命を散らしたんだ。妖怪として誇りある、実に勇ある者の死に様だ。
ゆっくり眠りなよ。そして何処までも自由に飛んで行け。…もう今のアンタを縛るものは何もないんだから」
亡骸に近づき、萃香はその指で優しく白狼天狗の瞼を閉じさせる。
勇ある者には相応しき眠りを。彼女はここで確かに戦ったのだ。全てを守る為に、その身を恐怖に震わせながら。
妖怪として強者と対峙し、死することは恥ずかしきことではない。むしろ誇らしい事だと萃香は思う。
ただ、目の前で生を閉じた少女は、それを知るには早過ぎる。また、その死を彼女が望んだ訳でもない。
だからこそ、萃香は苛立ちを抑えられない。体中を駆け巡る怒りが、彼女の血液を沸騰させていく。そして、咆哮。
闇夜に響く鬼の叫び。それは生きとし生ける全ての者を竦み上がらせる、恐ろしき雄叫び。
力の限り声を荒げた萃香は、先ほど同様、全身のバネを躍動させて、森の中を駆ける。
次第に濃くなっていく血の匂いを追って、萃香は疾走する。そして、森林の奥、少し開けた場所に目的の人物は佇んでいた。
そこに居たのは緑髪の美しき女性。その美貌は、彼女の親友である八雲紫に比肩する程だ。
だが、彼女の服に染みついた夥しいまでの血液が、その美しさを禍々しきモノへと変化させる。
そして、彼女の周りに打ち捨てられるは三つの死体。ある者は首をねじ切られ、ある者は肩口からバッサリと袈裟切りに、
そしてある者は原型も残らぬ程の消し炭へと姿を変えられ。そのどれもが凄惨といえる死の形であった。
萃香の存在に最初から気付いていたのか、女性は萃香がこの場所に現れたときから、表情一つ変えることなく、萃香の方を眺めていた。
萃香の登場に、緑髪の女性はようやく来たかと言わんばかりに軽く息をつき、言葉を紡いだ。
「遅かったわね。あと何匹殺せば大物が出てくるのかと、つまらない殺しに飽き飽きしてたところよ」
「…そうかい、そいつは悪かったね。それで、望み通りの大物は釣れたかい?」
「ええ、それもとびきり極上の大物がね」
萃香の皮肉に、その女性は初めて表情を歪める。それは笑顔。見る者全ての心を凍らせる、狂気に満ちた微笑み。
そして女性の全身から迸る妖気を感じ取り、萃香は成程ねと納得する。『この妖怪、かなりの強さだ』と。
これほどの力を持つ妖怪と対峙したのは、一体何時振りだろうかと萃香は思案する。少なくとも、ここ最近では記憶にない。
これならば白狼天狗や鴉天狗はおろか、大天狗ですら勝てなかったのも頷ける。こいつは下手すると自分や他の四天王と同等の力を持つかもしれない。
目を細めて相手を観察する萃香に、目の前の女性は楽しげに笑いながら言葉を紡ぐ。それはまるで、探し求めていた愛しの人との逢瀬を楽しむかのように。
「貴女はこの天狗達の頭かしら?フフッ…天狗の後ろには鬼がいると聞いていたけれど、
なかなかどうして素敵な『宝物』を隠してたのね。これだけの上玉が出てきたんですもの。
わざわざこうして足を運んだ甲斐があったというものだわ。我儘を言えば、もう少し早く出てきて欲しかったわね」
「そうだね、それは私も同意見だよ。ついでに言えば、登場が遅れたのも私達のミスだ。謝ろう」
「本当、しっかりと謝って欲しいものだわ。おかげで私の手が汚れちゃったじゃない。
何の価値も魅力も感じない、存在自体が下らぬ天狗どもの汚らわしい血液でね」
瞬間、萃香の表情が変わる。怒りを灯したその顔に、女性は愉悦を零さずにはいられない。
鬼の怒り、それは天をも怯えさせる恐怖の象徴。それなのに、女性はただただ嬉しそうな表情を浮かべるばかり。
それも当然だろう。何故なら、彼女は怒れる萃香に対し、微塵も恐怖を感じていないのだから。
「フフッ、その表情、凄く良いわ。それは私に対する怒りかしら?
お仲間を殺されたことがよっぽど効いたのかしらね。復讐の念によって私を討つつもり?」
「いや、私が復讐すべきはアンタじゃない。アンタは妖怪らしく、向かってくる敵を殺しただけだ。
そのことに怒りは感じないし、復讐どうこうなんて考えるつもりもない。それは死んでいった小童達への冒涜だ」
「あら、それは残念。貴女が怒りに狂って猛々しく暴れ回るところが見たかったのに」
「――萃香。私は伊吹萃香だ。鬼の四天王が一人、伊吹童子とは私のことさ」
軽く溜息をつく女性に、萃香は自らの名前を名乗る。
突然の事に目を丸くする女性に対し、萃香は口元を歪めて戦闘態勢をとり、口を開いた。
「残念ながら、理屈と感情は別物でね。悪いけれど、私の八つ当たりに少しばかり付き合ってもらおうか。
今から最高に楽しい時間が始まるんだ。それなのに相手の名前も知らないまま終わるなんてのは無粋だろう?」
それは、萃香の鬼としての感情。強者を目の前にし、あまつさえ喧嘩を売られているのだ。それに応えない訳がない。
萃香の意図を理解したのか、緑髪の女性はククッと喉元を鳴らし、笑みを浮かべ、言葉を紡ぐ。
「私は幽香、風見幽香。初めまして、伊吹萃香さん」
「そうか、幽香って言うのかい。
一応訊いておくが、私達のテリトリーにわざわざ足を踏み込んで天狗共を殺してくれた理由は?」
「貴女のような素敵な玩具に出会いたかったから。
私に触れもしない脆弱な鶏になど興味はないわ。私の目的は最初から強者と恐れられる貴女達だけ。この理由では不満?」
「いんや、上等過ぎるくらいだ。それじゃ早速だけど、お望み通り見せてやろうじゃないか。
勇ましき鬼の堂々たる戦い様、とくとその眼に焼きつけるがいい!」
瞬間、二人は地を爆ぜた。そして遅れて届くは衝撃音。二つの拳がぶつかり合う事によって生じた殺戮劇の開幕。
突き出した拳を止められた事も気にせず、萃香はそのまま身体を捩じって右足による蹴りを放つ。だが、その蹴りもまた、
幽香の掌によって容易く受け止められる。鬼の身体能力は怪力無双。
並の妖怪相手ならば、体を真っ二つに叩き折ってもおかしくはない筈の威力を秘めているというのに、だ。
足を掴んだ幽香は、その手に力を込めて萃香を自分の方へ引き寄せようとするが、その必要はなかった。
幽香が引っ張る前に、萃香は残る軸足で跳躍し、鋭い爪をその喉元につきたてんと迫ってきた為だ。
回避には邪魔だと判断し、幽香は手を離して迎撃に務める。だが、それは決して守りの迎撃ではない。
あくまで主導権、攻め立てる側はこちらだと譲らないほどの拳の応酬。萃香の爪と幽香の拳、
時に避け、時にぶつかり合い、時には蹴りを繰り出し、数秒の間に何百と交換する戦神の領域。
しかし、その均衡も破られることになる。埒があかぬと一旦距離を置こうとした萃香に、幽香が迷うことなく追撃をかけたのだ。
万分の一にも満たぬ僅かな隙を縫って放たれた幽香の拳は、萃香の腹部を抉り、彼女の小さな体を容赦なく吹き飛ばす。
だが、彼女とて妖怪の山の頭と謳われた鬼。そう易々と膝をついたりなどはしない。
吹き飛ばされている状態のまま、宙で軽く一回転をしてその場に着地。ニヤリと笑って、幽香の方に視線を向ける。
「悪いね。アンタのおかげで、わざわざ自分から距離を取る必要がなくなった」
「減らず口を。人が殴った間によくもまあ。随分と足癖の悪い事」
言葉自体は不満を訴えているようだが、無論幽香の表情に陰りはない。彼女は嬉々として笑顔のまま萃香に向かい合っていた。
幽香の言葉通り、萃香とてただただ殴られ吹き飛ばされた訳ではない。幽香の拳が萃香の腹部に入るその刹那、
身体を有らん限りに捻じ曲げ、全身を躍動させて幽香の横っ腹に強烈な蹴りをお見舞いしたのだ。
言わば幽香の攻撃を避けられないと判断した萃香の苦し紛れの一撃だが、瞬時にその行動に移せたのは、
ただただ彼女の戦闘における嗅覚に対し、賞賛の意を送るほかない。他の者では、このような攻撃は絶対に不可能だ。
「しかし、まさか肉弾戦が得意な妖怪だったとはね。私はてっきり離れて殺り合うタイプかと思ってた」
「嗜好の問題よ。離れて撃ち合うのは、極力避けたいの。
それでは肉を抉る感触も得られないし、相手の恐怖と苦痛に歪む表情もじっくりと拝めない。
強者の顔が弱者のそれに移り変わる刹那こそ、何よりも美しいんじゃない」
「うえ、趣味悪。悪いが私とアンタは友達になれそうにないね」
「結構よ。今から死にゆく者を友達にしても仕方がないでしょう?」
「――ハッ!!鬼相手によくぞ吠えた!!」
咆哮一声、萃香の身体から異様なまでの妖力が沸き上がり、彼女の身体を纏ってゆく。
その姿に、幽香は初めて表情に張り付けていた笑みを止める。目の前の鬼の隠していた力、その全てが解放された姿に、一瞬とはいえ目を奪われたからだ。
圧倒的なまでの存在感、そして周囲に満ちる獰猛な獣の気配。今の萃香こそが真の鬼の姿。万人が怯え、恐怖し、誰もが彼女に平伏してきた。
鬼の中でも指折りの才と実力を持ち、数々の武勇を打ち立て、最強の名をその手に収めた鬼神。それこそが彼女、伊吹童子こと伊吹萃香なのだ。
表情の変わった幽香に、萃香はゆっくりと呼吸を押し出しながら、そっと笑う。
「さて…本気で戦うのは本当に久しぶりなんだ。どうか簡単に倒れてくれるなよ、妖怪」
萃香がそう告げ終えた瞬間、幽香は気付けば空に舞っていた。
己の身に何が起こったのか、それを彼女に理解させたのは、腹部を貫く激痛。
まるで熱された焼き鏝を押しつけられたかのような感覚に襲われ、幽香は初めて表情を苦痛に歪ませる。
しかし、彼女に安らぎの時は訪れない。宙に浮かされた幽香の足首を跳躍した萃香が掴み、そのまま地面に叩きつけたのだ。
地面に横たわった幽香に対し、萃香は容赦なく蹴りを放って追撃する。
その蹴りに気づき、幽香はギリギリのところで飛び起き、回避するが、その時にはもう遅い。
返す刃で萃香の肘が彼女の背中に突き刺さり、幽香は堪らず肺の空気を放りだす。
そして、動きの止まった彼女に萃香は拳を突き出した。鬼の一撃、それは山をも砕くと謳われる最強の武器。
そんなものがまともに身体に突き刺さって、生きている者など存在しない。幽香の肩口を貫いた一撃は、彼女を吹き飛ばし、後方の大木へと叩きつける。
否、大木だけでは鬼の一撃は支えきれはしない。幽香の身体がまるでめり込むかのように、大木を押し込み、そしてベキリと根元からへし折ってみせた。
激しい轟音と共に、大木はへし折られ、幽香はそのままずるずると木の根元まで落ち、腰を下ろすような恰好で倒れた。
その光景を、萃香は少しばかり不満気な表情で見つめていた。
たった四発。先ほどまであんなに均衡していた二人だが、萃香が本気を出した途端、たったの四発で幽香は沈んでしまったのだ。
他の天狗達がみれば、その光景に何ら違和感を覚えることはないだろう。
鬼の中でも最強と謳われた伊吹萃香が本気を出したのだ。誰が相手でも、このような結果になるのは当然だ。そう考えただろう。
しかし、萃香はそうは考えない。何故なら彼女は見抜いているからだ。目の前の妖怪、風見幽香は決してこの程度ではないと。
幾千幾万もの死闘を演じてきた、絶対強者である萃香なればこそ感じ取れる嗅覚。
目の前の妖怪は、自分がかつて死闘を演じてきた相手の中でも、指折りの実力者だと萃香は勘と嗅覚で感じ取っていた。
なればこそ、この程度で終わる筈がない。そう感じていた萃香だが、その予測は当然的中することになる。
「フフ…フフフ…」
聞こえたのは愉悦を漏らす笑い声。その声が発されたのは、折れた大木の根元で腰を下ろした、ボロボロの妖怪から。
笑い声と共に、その妖怪――風見幽香はゆらりと立ち上がり、一歩一歩確かな足取りで萃香の方へ歩み寄ってくる。
「素晴らしい…本当に素晴らしいわ。これが鬼の力…鬼の中でも最強と謳われる伊吹童子の力…
貴女が初めてよ。私をここまでボロボロにしてくれたのは。私をここまで愉しませてくれたのは」
月明かりが差し込み、光に照らされた幽香の表情に、萃香は絶句する。
それはまさしく狂気だけに彩られた笑顔。今までの笑顔の何倍も『壊れてしまっている』、生きる者では到底浮かべられない表情。
何よりも萃香が驚いたのは、幽香の瞳に宿る混濁した色。この瞳を持つ者と、萃香はかつて一度だけ対峙したことがある。
それは生に何の意味も見出せない死者の瞳。狂気に身を委ねた亡者の眼。
その瞳を見た途端、萃香の身体にけたたましく警告音が鳴り響く。マズイ、と。この眼の者を敵に回すのはマズイ、と。
何故なら彼女の身体は知っているから。伊吹萃香という永きを生きた最強の鬼が、たった一度だけ喫した敗北。
その自身に敗北を与えた相手もまた、今の幽香と同じような、伽藍堂の瞳を携えて萃香と対峙していたのだから。
「ちっ…随分と嫌な記憶を思い出させてくれるじゃないか。くっ――!!」
萃香の呟きは、獣の襲撃によって強制的に遮られる。
先ほどまでは完全に劣勢へと追いやられていた幽香が、まるで中身が入れ替わったかのような動きを見せ、萃香に飛び掛かってきたからだ。
幽香の拳を、守りを固めて両腕で受け止めようとするが、その刹那、萃香の表情が驚愕に歪む。
胸の前で腕を交差し、ガードを閉ざした萃香の守りを、幽香は下から掬いあげるような形で拳を叩きこみ、萃香の守りを崩したからだ。
恐るべきは彼女のその剛腕。萃香とて力を抜いていた訳ではない。その彼女の守りを、幽香はいとも容易く崩してみせたのだ。
弾かれた両腕を前に、手心を加えるほど風見幽香は甘くはない。残る片腕で、そのがら空きとなった萃香の胸部に容赦なく拳を叩きこむ。
「があっ…」
その衝撃は鬼に勝るとも劣らぬ一撃。苦痛に歪む萃香に、幽香は彼女の首根っこを掴み、虚空へ投げつける。
空に浮いた萃香に、幽香はそっと手をかざし、今まで封じてきた技を開放する。それは彼女が放つ魔弾の嵐。
一発一発が致命傷となる程に高密度の魔力が込められた弾丸を、宙に浮いた萃香に向けて幽香は迷わず放ってみせる。
彼女の身体を貫かんと迸る魔弾だが、萃香とて易々と喰らってやる訳にはいかない。
空中で体制を立て直し、己に向かい来る散弾に対し、彼女ならではの防御壁を展開する。
萃香は自身の目の前の空間にある空気の密度を著しく上昇させ、抗力を増やすことで、一部の魔弾の速度を低下させたのだ。
そうなれば後は単純、速度差の生じた魔弾と魔弾の境界面を潜り抜けるだけでいい。
回避を成功させ、宙に浮いたまま見下ろしてくる萃香に、幽香は壊れた笑顔のままで言葉を投げかける。
「不思議な力ね。私の放った魔弾の速度にズレが生じた。
対象の速度自体に効果を及ぼす力か、空間自体に効果を及ぼす力か…何にしても、素敵な能力だわ」
「そうかい、そりゃどうも。種明かしは必要かい?」
「カラクリは貴女が死んだ後でゆっくりと考えさせて貰うわ。三日くらいは良い退屈凌ぎになるでしょうからね」
「冗談。せめて五日は持つだろうよ!!」
大地に佇む幽香に、萃香は直線の軌道を描いて飛翔する。
そして、再び繰り広げられる鬼神と戦神のぶつかり合い。今度は先ほどまでのお遊戯とは違い、
互いに全力を出し合った純粋なまでの殺し合いだ。それは見る者全ての心を奪う程に美しい舞踊劇。
一合、また一合と衝突し合う必殺の技の応酬。一瞬たりとて目を離せぬ殺戮の演武。
大地を駆け、空を翔け、木々を蹴り、岩壁を砕き。二人の動きを眼で追える者など、はたしてこの地に何人いるだろうか。
永遠に続くかとさえ思われた二人の戦だが、時間が経過するにつれて、ジリジリと差が生じ始めた。
「ぐっ…」
「ほらほら!!さっきまでの勢いは一体どうしたのさ!!」
二人の殺戮劇において、主導権を握り始めたのは、幽香ではなく萃香であった。
確かに幽香とて肉弾戦を得意とする妖怪であったが、鬼の中でも最強と謳われる萃香には届かない。
否、この世界で彼女に肉弾戦で打ち勝つ者など存在しない。むしろ萃香にこれまでついてきた幽香が異常なのだ。
互いに激しく消耗し、ダメージの蓄積はあるものの、肉体的なスペックの差によって、現在は完全に萃香が優位に立っている。
一撃一撃が山をも砕くその拳を、幽香は必死に捌くものの、なかなか反撃に移すことが出来ない。それほどまでに圧倒的な手数で萃香は攻め立てているのだ。
これこそが彼女が鬼の中でも最強と謳われる所以。力こそ他の四天王に劣るものの、総合力では他の追随を許さない。
力、技、速度。その何もかもを混ぜ合わせ、一切の無駄のない攻撃に移すことの出来る、類稀なる戦闘センス。
彼女が本気を出せば、近接戦闘で敵う者など存在しない。なればこそ最強の鬼、伊吹童子なのだから。
やがて、捌ききれなかった致命的な一撃が、幽香の腹部を直撃して、彼女は耐えきれず、その場に膝をつく。
そんな幽香の前に立ち、萃香は軽く息をついて、淡々と言葉を紡ぐ。
「終わりだよ、風見幽香。アンタも相当強かったが、今回は少しばかり相手が悪かったね。
いくらアンタが強くても、近接戦闘だけで打倒されてやるほど鬼は甘くない」
萃香の挑発染みた言葉だが、幽香は彼女に言葉を返すことなく俯いたままでいた。
そんな幽香を不審に思いつつ、萃香は少しずつ彼女の方へと詰め寄っていく。
「さて、私は別にアンタに復讐だの報復だの下らない真似をするつもりはない…が、ケジメはケジメだ。
まずは無駄な反抗が出来ないよう、その両手両足を折らせてもらうよ。そして天魔に引き渡す。
アンタぐらいの妖怪になると三日三晩もあれば骨なんて簡単にくっついていそうだが、何、
その頃には天狗どもがアンタの処分をしてしまっているだろうさ。何も心配することはない」
自身の紡ぎだした言葉ながら、本当に面白くない台詞だと萃香は思う。
萃香は誇り高き鬼、それも数多の武勇を残す強者だ。そんな彼女だからこそ、戦いにおいては彼女なりの美学というものが存在する。
その美学は、決して戦闘不能に陥ったものの肢体をへし折るなどといった事は許していない。
良い喧嘩だった。実に心地よい、素晴らしい喧嘩だった。ならば、この妖怪の傷が治った後に、また殺し合いたい。
その合間には、共に酒を酌み交わし合っても良い。それが彼女の本心だった。
けれど、彼女の立場がそれを許さない。天狗達の上に立つ、その立ち位置が彼女の行動を縛ってしまう。
後の不安を残さない為に、この妖怪を見逃すことは出来ない。加えて言えば、この女の身柄は生きたまま天狗の連中に差し出すのが望ましい。
何せこの風見幽香という妖怪は天狗を八人も殺してくれたのだ。天狗達はそれこそ血眼になってコイツの首を欲しがるだろう。
だからこそ、萃香は今この瞬間己の心に嘘をつく。彼女が最も大嫌いな、嘘をつくという行動で、妖怪の山の平穏を守る為に。
「フフ…フフフ…」
いざ行動に移そうとした萃香だが、足もとに膝をついている幽香の笑い声に眉を顰める。
当然だ。彼女に待ち受ける運命は死のみ。目の前の妖怪からは最早萃香に勝てるだけの妖力すら感じられない。
「何が可笑しい?最期の言葉ならきっちり聞き届けてあげるけれど」
「何が可笑しいか、ですって?そんなのは決まってるじゃない」
油断。そう表現するには、あまりに酷かもしれない。
事実、今の光景は誰が見ても伊吹萃香の勝利だと疑う余地もないだろうし、幽香の身体からは殆ど力を感じられない。
加えて、萃香は気を緩めてなどいない。彼女は知っているからだ。戦いとは、相手が死ぬまで何が起こるか分からない。
だからこそ、彼女の拳はまだ固めたままなのだ。例え何があろうと、すぐに反応が出来るように。
萃香に油断も慢心も無かった。勝利に心を緩めた訳でもなかった。
ならば、何と説明すべきか。萃香に落ち度が無かったのならば、こう言う他ないだろう。
――今回の戦闘においては、伊吹萃香よりも、風見幽香の方が一枚上手であったのだと。
「『あんなモノ』を向けられて、いつまでも背を向けて話してる貴女が面白いだけ」
「――ッ!?」
強烈な悪寒を感じ、萃香が背後を振り返った時には既に遅く。
彼女の背中の向こう、森林より遥か頭上の夜空に浮かぶ一つの影。その影を侵食するかのように月明かりが照らし出してゆく。
その影の正体に、萃香は驚きのあまり、次の一手が一瞬遅れた。だが、その隙は彼女にとって致命的であった。
背後を向いて凍りついた萃香の身体を、後ろから幽香が羽交い締めにしたのだ。決して逃げ出せないように、彼女の力を全て込めて。
「ふふっ、良い表情をしているわよ、伊吹萃香。そうよ、その顔よ。私は貴女のそんな表情が見たかったのよ。
ククク…流石の最強の鬼といえど、驚愕に顔を歪めるときは、そんな年端もいかぬ小娘のような顔をするのね」
耳元で愉悦に声を漏らしながら呟く幽香に、萃香は言葉を返そうとはしなかった。否、返せなかったのだ。
今の萃香にとって、幽香からの安い挑発に乗ることなどよりも、現状を把握することの方が何よりも重要だったからだ。
自分の背後にいるのは風見幽香、それは間違いない。こうして実際に身体を固定され、肉体の感覚も確かにある。
ならば、あの夜空に浮かぶ人物は一体何だ。萃香の視線の先にある、夜空に浮かぶ一人の妖怪、それこそが彼女を混乱に陥れている原因である。
その妖怪は、萃香達の方に手をかざし、甚大な魔力の塊をその身体に生じさせている。恐らくはとっておきの大砲を放つつもりだろう。
そんなことは萃香にとってどうでも良かった。迫りくる死の感覚よりも、何よりも彼女の思考を優先させている一つの謎。それは――
「そんなに不思議かしら?この場に『風見幽香が二人存在する』という現実が」
――あの夜空に浮かび、愉悦に表情を歪めている人物もまた、風見幽香その妖怪なのだ。
同じ人物が、同一の場に複数存在すること。そのこと自体は萃香も驚くことはない。
彼女の幾多の戦闘経験において、似たようなことをやってきた奴は何人も存在したし、彼女も似たようなことが出来る。
まず、彼女の過去の戦闘経験から、考えられるのは、どちらかの幽香がフェイクだということ。
一人は影、もしくは人形で、片方には萃香に対して目くらまし程度の意味しかない技。しかし、現状において、その解答は否だと萃香は判断する。
何故なら、影や人形にはそれ相応の微弱な力しか持たせることが出来ないからだ。
影自身には、萃香とまともにぶつかり合う力はなく、そのような小細工を自身に絶対の自信を持つ幽香が使うとは考えにくい。
萃香の背後の幽香が影だとは、萃香を抑え込める程の力を持つことから違うと断定出来るし、
夜空に浮かぶ幽香が影だとはもっと考えられない。影があのような膨大な魔力を行使出来る筈がないのだ。
ならば、残るは萃香が自身で使う能力のように、『自身を複数に分ける』、文字通り分身している方法。
影や人形といった答えに疑問が残るならば、残るはこれしかないのだが、萃香はこの解答を受け入れることが出来ない。
自身を複数に分けるという方法は、自身の力を分割して分身に分け与えるということ。
術者が自身の分身を作ろうとするとき、その分身に自身の力を当然付与しなければならない。
その力の配分量は術者の采配によるが、その分身と本体の力は、足し合わせて初めて一人の時と同等になる。
例えば、分身が術者本来のスペックの二割の力を持つように設定したならば、術者は八割の力へと落ち込み、
五割の力を持つようにしたならば、術者は一人の時と比較して、半分の力となってしまう。
つまるところ、分身を作った以上、分身体も本体も本来一人だった時より必ずステータスの劣化が生じてしまうのだ。
その絶対の法則こそが、萃香を悩ませる理由だった。分身ということは、本来一人の時よりも格段に弱くなっている筈なのに。
――二人の幽香からは、分身による劣化など微塵も感じられないのだ。
夜空に浮かぶ幽香は言うまでもない。分身を作っておきながら、今にも萃香に向けて放たんと萃めている高密度の魔力。
あれを劣化した身体で作れるとは考え難い。あれほどの魔力だ、風見幽香本来の力でなければ為し得ないだろう。
ならば萃香を羽交い締めにしている幽香はどうだ。彼女もまた分身による力の低下などは見られない。
先述した通り、萃香は幽香の束縛から未だに逃れられないのだ。それほどの力による拘束は、力の低下した身体では決して出来ない芸当だ。
分身という分数同士の和は必ず一となる筈。けれど、この二人の幽香の和はどう考えても一を超えてしまっている。
「…残念、時間切れ。伊吹童子、貴女にコレが果たして耐えられるかしら?」
萃香が答えを見つけられぬままに、幽香は極大の光を萃香に向けて解き放った。
それは恐ろしいまでの魔力の暴力。迸る光槍は獲物を穿たんと何処までも愚直なまでに闇夜を疾走する。
触れるモノ全てを焼き尽くす暴虐の塊。あれこそが風見幽香の真の力、彼女の持つ強力無比なカードの一つ。
光が萃香に届くギリギリのところで、彼女を戒めていた幽香の姿が霧散する。その刹那、彼女を巨大な光が容赦なく包み込む。
破壊の光に慈悲などありはしない。何者をも飲み込む荒れ狂う魔力の塊は、闇夜に包まれた森林ごと薙ぎ払ってゆく。
その光景を表情一つ変えずに眺めていた幽香だが、突如としてその表情が歓喜に歪む。
彼女の放った砲撃の跡、煙が燻ぶる大地から放たれた魔弾が、幽香の頬を掠めていったからだ。
その弾撃は彼女への反逆の意。それはつまり、あの煙の中には自分へ牙を向ける強者が未だなお存在するということ。
だからこそ彼女の笑いは止まらない。愉悦を抑えることが出来ない。
「良い!貴女は最高よ、伊吹萃香!
今のを喰らっても私の前に立つ相手なんて今まで誰も存在しなかった!!」
「…そうかいそうかい。そいつはアンタも運が悪い。今まで一度たりとも強者と手を合わせた事が無かった訳だ。
まあ見るからに恋愛運とか最悪そうだもんね。一度厄神にでも頼んで払ってもらった方がいいんじゃないかい?」
煙る大地から跳躍し、幽香の前に現れた萃香に、幽香は舌舐めずりをして笑顔で迎え入れる。
対する萃香は、全身こそ煤塗れではあるものの、先ほどまでと顔色一つ変わっていない。あの強大な破壊の光を喰らっておいて、だ。
「そうね、そうするのも良かったかもしれないわ。今宵、貴女に出会うことが出来なかったならば、ね。
さあ、何処までも殺し合いましょう、伊吹萃香。私と貴女、どちらかの命が尽きるまで、この愛しくも狂おしい時を続ける為に」
「本当、血気盛んなことで。…まあ、私も人のことは言えないか。アンタを前にどうしても滾る血が抑えられないからね。
かかってきな、風見幽香!遠慮は要らない、この伊吹童子にお前の勇を遠慮なく見せつけるが良い!」
互いに口元を歪め合い、再び衝突せんと戦闘の構えをとり合う。
幽香の魔弾と萃香の拳。両者の牙が互いの喉元に突き立てられようとした、その刹那であった。
闇夜に溶けていた影がゆっくりと浮かび上がるように、二人の間に一人の少女がその姿を現した。
その少女は、拳を固めていた萃香に対し、手に持つ巨大な鎌を付きつけている。突然の乱入者に対し、先に反応したのは、萃香ではなく幽香の方であった。
「…何のつもりかしら、エリー。誰が私の楽しみの邪魔をして良いと言ったのかしら」
「出過ぎた真似であることは重々承知しています。ですが幽香様、今宵は何卒お退き下さいませ。
妖怪の山より、こちらに向かってくる妖気が幾つも感知されました。多勢に無勢、このままでは…」
「このままでは…何?貴女まさか、私が負けるとでも言うつもりかしら?
そのような下らない忠告を伝える為に私の時間を邪魔したというの?」
凍てついた視線を向ける幽香に、エリーと呼ばれた少女は言葉を続けることが出来ず、顔を俯かせる。
そんな張り詰めた二人に、萃香は軽く息をつき、この場の空気をぶち壊すように言葉を紡ぐ。
「――止め止め。何だか興が削がれた。今日はもう店仕舞い。
そのお嬢さんの言う通り、今日のところは帰りなよ。風見幽香」
「…なんですって?」
萃香の言葉に、幽香は苛立ちを隠せない様子で彼女をぎろりと睨みつける。
ただまあ、そんな風に睨みつけても、当の萃香は既に戦闘態勢を完全に解除してしまっている訳で。
幽香の恐ろしいまでに鋭い視線を何ら気にすることもなく、飄々とした様子で言葉を続けていく。
「リターンマッチだよリターンマッチ。お互い身体が治ったら、誰の邪魔も入らないところで改めて再戦しようってこと。
アンタとて、私との戦いを天狗共に邪魔されるのは本意じゃないだろう?私だって嫌さね。
戦いを先延ばししたところで、別に私は逃げも隠れもしないさ。まあ、アンタが逃げるのなら話は別だけど」
ニヤリと笑い、ほらほらと言わんばかりに幽香を挑発する萃香。
彼女の提案に返事をせぬまま、じっと萃香の方を睨みつけていた幽香だが、どうやら彼女なりに一応の
納得は得られたのか、軽く息を吐いて、萃香に言葉を紡ぐ。
「鬼は嘘が何より嫌いと聞いたことがあるけれど、私を失望させないで欲しいものね」
「安心しなよ。鬼との約束は金剛石よりも硬く守られるって評判なんだ」
「…なら良いわ。帰るわよ、エリー」
もうこの場に用はないとばかりに、幽香は目の前に立っていた少女に言葉を投げかけ、萃香に対し背を向ける。
だが、この場から去ろうとしていた幽香に、萃香は最後にと口を開く。
「風見幽香、アンタの目的は強者と戦うことだろう?
なら、もうこの妖怪の山の奴らを襲わないでくれよ。ここには私以上の奴なんて存在しないからね」
「…言った筈よ。私に触れもしない脆弱な鶏になど興味はないと。
こんな場所にもう用など無い。私が喰らいたいのは伊吹萃香、貴女だけよ」
「そうかい、そいつを聞いて安心した。
どうせしばらくはこの近辺に居るんだろう?身体が治ったらすぐにアンタのところに遊びに行ってやるよ」
萃香の話に興味を失していたのか、幽香は彼女の台詞を訊き終える前に夜空の向こうへと飛翔していった。
そして、エリーと呼ばれた少女もまた、萃香に対して小さく一礼をして、幽香の消えた方角へと飛んでゆく。
飛び去って行った二人の方角を見つめながら、萃香は大きく息を吐いて言葉をそっと紡ぐ。
「…風見幽香、か。まいったね、どうも。
世の中にはまだまだあんな化け物が居たっていうのかい。本当、世界って奴はとんでもなく広いねえ」
苦笑気味に呟きながら、萃香は身体を地面へと投げ出し、夜空を見上げるように横たわった。
星空を見つめながら、萃香は小さな決断をする。とりあえず少しばかり休憩しよう、天狗達への説明はその後だ、と。
「…それで、今までの話の何処をどうすれば、貴女がウチに居候する話につながるのかしら」
萃香が幽香と激突した翌日の昼下がり。
いつものように自分の家に上がり込んで寛いでいる萃香に対し、紫は呆れ半分といった表情を浮かべていた。
ちなみに当の萃香はというと、畳の上に腰を下ろし、酒を口にしてはケラケラと楽しげに笑いながら話を続けている。
「だからー、幽香は私を狙ってるんだよ?その私が妖怪の山に居たら全く意味無いじゃん。
他の奴らを殺させない為に、わざわざ私がターゲットになるように嗾けたんだからさ。
私が山に居たままだと、他の天狗どもが巻き込まれる可能性が高い訳で」
「だからと言って、どうしてそこでウチに居候することになるのかと私は訊いてるのよ。
幽香の襲撃に備えるなら、洞穴なり何なりに棲めば良いじゃない」
「え~、やだよそんなの。それって滅茶苦茶寂しいじゃんか。鬼は寂しいと死んじゃうんだぞ。
他ならぬ親友の頼みなんだ。私の一人や二人くらい良いじゃないか~」
「…あのね、貴女がここに居ると、私達が貴女達の争いに巻き込まれるという
可能性が生じることを少しは認識してる?」
「この場所は紫が認めた奴以外は結界の力で近寄れないんでしょ?じゃあ何も問題ないじゃない」
ああ言えばこう言い返す親友に、紫は大きく溜息をつくしか出来なかった。
現在、二人が話し合っている、というよりも萃香が一方的に頼みこんでいるのは、彼女が紫の家に居候させて欲しいというもの。
その理由は、彼女達の会話に幾分か含まれているが、一応順を追って話を説明させて頂く。
先日、幽香との戦いを終え、犠牲になった天狗達を手厚く弔い、妖怪の山に戻った萃香は、他の鬼達や天魔に自身が山を下りることを話した。
その理由は勿論、風見幽香との再戦の約束である。萃香が標的となったことで、幽香は最早妖怪の山に微塵も興味を抱いていないだろう。
しかし、妖怪の山が二人の戦場になってしまっては全くの無意味だ。その理由で、萃香は幽香との決着がつくまでの間、山を離れる事を決めたのだ。
ちなみに萃香の話に最後まで納得を示さなかったのが、彼女と実力を並ばせる他の鬼の四天王だった。
特に星熊勇儀の萃香に対する食い下がり方は尋常ではなく、強敵に飢えている彼女は『私もそいつと戦わせろ』と最後まで言ってきかなかった。
妖怪の山の管理という仕事を萃香に押し付けられ、加えて当人は強者と戦うなどと聞けば、当然の反応ではあるのだが。
そして彼女は山を下りた。ただ、その前に、彼女達鬼の命令を無視して若者の命を奪った天狗の上層部達をめった殴りにし、
数カ月の間は流動食以外のものなど口に出来ないようにはしていたが。
山を下り、彼女がしばらくの間転がり込む家といえば、勿論親友である紫の家しかない。そこで話が現在に戻るという訳だ。
紫の家に住むことは最早決定事項と言わんばかりの萃香に、紫はとうとう諦めたのか、軽く息をついて投げやりに言葉を紡ぐ。
「まあ、良いわ。貴女には色々と世話になってるものね。気の済むまで居候して頂戴」
「ホントっ!?流石は紫、話が分かる~!」
「調子が良いわねえ、天狗の事をどうこう言えたものじゃない。
…それで貴女、大丈夫なの?」
「んにゃ?それは私の身体を心配してくれてるのかい?それとも幽香との再戦を心配してくれてるのかい?」
「両方よ」
冗談混じりに言葉を返した萃香だが、親友の顔が真剣そのものであることに気づき、小さく苦笑を浮かべる。
手に持っていた瓢箪を口に一度運び、酒で喉を潤したのち、萃香も紫同様真剣な眼差しで口を開いてゆく。
「…まず、身体は大体全治一カ月ってところかね。外見上は取り繕ってるけれど、内部はまだ結構厳しいんだ。
風見幽香、大した化け物だよ。私の身体にここまでダメージを与えた奴なんて、ここ最近では記憶にないね」
「それは自業自得でしょう。幽香とやらに羽交い締めにされたところで、貴女は幾つも回避する為の手を打てた筈。
霧化するなり巨大化するなり方法はあった筈なのに、みすみす自分から攻撃を受けにいっただなんて馬鹿としか思えないわ」
「どうかねえ…たとえ私が手札をきったところで、アイツは簡単に避けさせてくれたかね。
そんな優しいタマには到底思えないけど」
「風見幽香はまだカードを何枚も隠していると?」
「さて、ね。とりあえず、身体の方は大丈夫。日常生活には何の問題もないよ。
次に幽香との再戦なんだけど…こればっかりは正直どう転ぶか分からないね」
萃香の言葉に、紫は眉を顰めて萃香の方を睨むように見つめる。
彼女にとって、親友であるこの鬼からそのような言葉が出たことが、何より意外だったからだ。
「…伊吹童子をしても、風見幽香はそれほどの強さを持っていると言うの?」
「私は腕を合わせた奴に対しては過大評価も過小評価もしないよ。
あれは本当に強いよ。私が過去に戦った奴の中でも五指…いや、三指に入るね。近距離でも私と打ち合える程だし、
遠距離では恐ろしい程の魔力が込められた魔砲が襲ってくる。妖怪としての完成度、バランスなら、ピカイチだろうね。
まあ…風見幽香がそれだけなら、私が幾らでも力で捻じ伏せてあげる自信があるんだけど…」
言葉に詰まる萃香に首を傾げる紫。
疑問符を浮かべる紫に対し、萃香は苦笑を浮かべながらゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「風見幽香の目がね、昔の誰かさんにそっくりなんだ。
生きることに意味を見出せず、亡霊と何ら変わらない色を失った伽藍の瞳。数百年も昔、私にただ一度の敗北を味あわせてくれた最強の妖怪。
だからまあ、本音を言うと正直勝てるとは断言し難いんだよ。アイツの真の実力が私の知ってる誰かさんと同じなら、ね」
淡々と話す萃香の言葉に、紫は一瞬表情を何処かに置き忘れてしまったかのように萃香の方を見つめ、
やがて大きく息を吐いて言葉を返す。
「強過ぎるが故に他の道を不知、か。本当、面倒な妖怪にばかり関わるのね、貴女は」
「仕方ないじゃん、私の興味惹かれる奴がそういう変人ばかりなんだから。
まあ、幽香との再戦は紫があれこれ考える必要なんてないさ。私が幽香をぶっとばして終わりだから」
「あら、勝てるとは断言し難いんじゃなかったの?」
「おおう?冗談言うでないよ。勝てるとは言い難いとは言ったが、勝てないなんて一言も言ってないじゃないか。
どんなに相手が強くても、最後に勝つのは当然この萃香様さ。紫は私が負けるとでも?」
「真逆。貴女様のその逞しい剛腕を叩きつけられて泣かぬ女はおりませんわ」
「うっわー、あまりにも台詞に心が籠ってなくて最早清々しさすら感じるね」
唇を尖らせて抗議する萃香に、紫はまあまあと優しい笑みを浮かべる。
話は終わったのか、紫は畳から腰を上げ、台所の方へと足を進めてゆく。調理場に立つ紫の後姿に、萃香は酒を再び楽しみつつ問いかける。
「何か手伝おうか?一応居候の身だからね、好きなように使ってくれて構わないよ」
「不要よ。貴女は料理はおろか、家事の一切なんて出来やしないでしょうに。
私のことは良いから、藍と遊んであげて頂戴な。貴女なら、あの娘も喜ぶでしょうからね」
「おーおー、母親しちゃってるねえ。よしよし、他ならぬ親友の頼みだ。しかと引き受けた。
そういえば藍の奴は一体何処に居るんだい?」
「さっきまでは庭で蝶々を追いかけてたわね。らーん!ちょっとおかあしゃまのところにきて頂戴ー!」
台所から少しばかり声の音量を上げて藍を呼ぶ紫。
その声はどうやら目的の人物に届いたようで、庭先からペタペタと可愛らしい足音が近づいてきていた。
そして、萃香が座っていた場所の背後、庭へと通じる引き戸が開かれ、そこから可愛らしい泥だらけの幼女がぴょこりと顔を現した。
「おかあしゃま、らんをおよびになりましたかっ」
「ええ、お呼びになりましたよ…っと、どうしたの藍、そんなに泥だらけになっちゃって」
「はい!ちょうちょをおいかけてたら、ずてーんってなっちゃいましたっ」
「な、何ですって!?大丈夫なの藍!?何処も痛いところはない!?膝を擦りむいたりしていない!?
ああああ、もしかしたら最悪骨折なんてことも!?駄目よ藍!!おかあしゃまを置いて先に死んだりしては駄目!!」
「…いや、咽び泣いてるとこ悪いんだけどさ、ここで『ただ転んだだけでそんな大袈裟な』と突っ込むのは無粋なのかね。
つーか骨折じゃ妖怪はおろか人間だって死にやしないだろ」
料理を投げ出し、慌てて藍に駆け寄り涙を零しながら愛娘を抱きしめる紫に、萃香はやれやれとばかりに盛大な溜息をついた。
普段は冷静で知的な紫だが、自分の娘のこととなると、その姿は途端に何処か遥か彼方へと吹き飛んでしまう。
藍の服についた砂を払いながら、オロオロとしている紫に、萃香は呆れながらも言葉を投げかける。
「ほら紫、藍に私の事を話してくれるんじゃなかったのかい。これじゃ話が進まないよ」
「あ…そ、そうだったわね。藍、本当に怪我はないのね?何処も痛いところはないのね?」
「はいっ!らんはぜんぜんへいきです!」
「ああっ!貴女はなんて強くて逞しい娘なの!あなたは私の自慢の娘だわ!
今の貴女はいつお嫁に出しても恥ずかしくない…だ、ダメよ!?藍は私とずっと一緒にいるの!
誰がお嫁になんてあげるものですか!」
「おーい、だからこのままじゃ話が進まないって言ってるだろー。
人の話をちゃんと聞いてるのかね、この親馬鹿妖怪は」
「…?あ!すいかさまっ!!」
紫に頬ずりされて為されるがままにされていた藍だが、どうやら萃香の存在に気づいたらしく、
目をキラキラとさせて彼女の方に視線を向ける。そんな藍に、萃香は笑みを零して『や』と手をあげて応える。
この家に何度も出入りしている萃香は、藍にとって紫以外で唯一会話が出来る人物であり、
藍と一緒に遊んでくれる、とてもとても大好きな人であった。
紫の胸の中から離れ、藍は可愛らしい笑みを浮かべて萃香の身体に飛びつくように抱きついた。
それはまさにタックルに等しいものではあったが、鬼の萃香がその程度でビクつく訳もなく。彼女もまた楽しそうに笑みを零しながら藍をしっかり抱き止めた。
「おーおー、相変わらず重量の乗った良い突進だ。
藍、今日は外で遊んでたそうじゃないか。楽しかったかい?」
「はいっ!らんはすごくすごくすごーーーくたのしかったです!!」
「おお、そうかいそうかい。それは良い事だ…って、紫、頼むから私を睨むのは止めてくれないかね。
毎度のことだから慣れたけどさ、アンタは一体何処の嫉妬妖怪だよ」
萃香の言葉通り、藍に離れられてしまった紫は、今にもハンカチを噛締めんばかりに『妬ましい』オーラを振りまき、
二人の方に突き刺すような視線を送っていた。というか、そんな鋭い視線を全身に受けるのは、当然萃香だけなのだが。
呆れるような萃香の視線に、紫はこほんと小さく咳払いを一つして、頭を切り替え藍に優しく言葉を紡ぐ。
「藍。今日から暫くの間、萃香がウチにお泊りすることになったから。
私が忙しい時は、萃香に沢山遊んでもらいなさいな」
「ほんとうですか!?すいかさまもこれからいっしょですか!?」
「おお、本当だともさ。これからは沢山遊んであげるから、遊び疲れて駄目になるまでついてきなよ」
萃香の言葉にわーいと両手を上げて喜ぶ藍。その光景に嫉妬しつつも、藍の笑顔に表情を綻ばせる紫。
藍が喜ぶのも無理はない。この家で紫と共に暮らしている藍だが、当然この家からあまり離れることは出来ない。
外は弱肉強食の掟に生きる妖怪達の住まう世界であり、幼い藍には紫の施した結界内でしか遊ぶことが出来ないのだ。
紫と一緒なら外に出ても構わないのだが、紫とて多忙の身。可愛い藍の為に少しでも願いは叶えてあげたいが、
この家の家事の一切や、結界の張り直し、加えてこの紫が間借りさせて貰っている土地の管理者(鬼達)との付き合いと
なかなか藍の為に時間を作るのが難しい状況でもあった。
そこに萃香が来てくれたのだ。彼女ほどの実力者ならば、藍の面倒を見ることと護衛を兼ねることを両立出来るし、
何より彼女は藍のことを好んでくれている。長年の付き合いである萃香だからこそ、藍のことを任せられるのだ。
藍の笑顔を見て、紫は小さく息をつきつつも笑みを零す。今回は風見幽香という妖怪による突発的な出来事であったが、
これはこれで藍の為には良かったのではないか、と。
「…でも藍と一緒にお風呂に入ったりお布団に入ったりする権利だけは絶対に譲らないわよ」
「いや、別に誰も欲してないよそんなもん」
それでも最後に釘を刺しておくことだけは忘れない。
そんな親馬鹿な紫に、萃香は今日何度目となるかは分からない溜息をつくだけだった。
地上より数十メートルは離れた大空。慣れ親しんだ大地を俯瞰した光景に、藍はきゃいきゃいと無邪気な様子で大はしゃぎしていた。
その藍の喜び振りを空気と声で感じながら、萃香は藍を小さく背負い直し、藍に危険が生じない程度の速度でのんびりと飛行を続ける。
伊吹萃香が紫の家に居候して三日目の昼時。紫に頼まれた通り、萃香は藍の子守を請け負っていた。
まだ空を自力で飛ぶことが出来ない藍を背に乗せ、悠々自適に空を飛ぶ。たったそれだけのことなのだが、萃香の予想以上に藍は喜んでくれていた。
目を輝かせて楽しんでいる藍を見て、当然萃香の気分が悪い訳がない。
藍につられるように上機嫌な様子で、萃香は自身が管理している地域一帯の上空を気ままに滑空していた。
「すいかさまっ!すいかさまっ!おそらです!おおきなおそらです!」
「おー、大きなお空だねえ。大き過ぎて瑣末な事象なんざどうでもよくなってしまいそうな大空だねえ。
よく憶えておきなよ、藍。これがお空を飛ぶってことさ。凄く気持ち良くて凄く楽しいだろう?」
「はいっ!すごくすごくたのしいです!ふわふわです!」
「そうだよー。お空ってヤツは凄く楽しくて凄くフワフワなモノなんだ。
だから藍も大きくなったら一人で飛べるようにならないとね」
「なれますか?らんもおおきくなったらひとりでふわふわできますか?」
「おお、勿論さ。何なら私が保証してあげるよ。藍は大きくなったらフワフワでモフモフだよ」
「ふわふわでもふもふですかっ」
「フワフワでモフモフだねえ」
適当な相槌にも目を一層輝かせる藍。そんな少女に、萃香は笑みを零しながら飛行を続けて行く。
そろそろ昼食時ということもあり、そろそろ紫の家に戻ろうかと思案していた萃香だが、ふと遥か下の大地に気になるものを発見する。
それは、大きな湖の近くにある一本の大木。その木陰に背を預けて佇んでいる一人の女性。恐らく、萃香の異常なまでの視力でなければ発見出来なかっただろう。
部下の天狗の誰かかと思い、じっと目を細めて女性の方を観察していた萃香だが、その正体が思い当たったらしく、
どうしたものかと一度飛行を止めてその場に立ち止まる。少し考えた後、萃香は背に抱いている藍に視線を向けて訊ねかける。
「ねえ藍。ちょっとばかし私は私用が出来たんだけど、どうする?一緒について来る?
もしかしたら、少し怖い事や危ない事が起こるかもしれないから、藍を先に家に送っても構わないんだけど」
「?らんはすいかさまといっしょがいいですよ?」
「おおー、良く言った。流石は八雲紫の一人娘だ。それじゃ、ちょいとばかし付き合ってもらおうかね」
藍の返事を聞き、萃香は目的の大木へ下降してゆく。無論、背中におぶさっている少女に負担が掛からないように。
数時間ぶりに大地に足をつけ、目的の女性の許へと歩みよる萃香。
そんな彼女に女性はどうやら気付いていたようで、先ほどから訝しげな瞳を萃香の方へと向けている。
女性からの突き刺さるような視線を気にすることもなく、萃香は飄々とした様子で足を進めて行き、やがて女性の傍まで歩み寄り声をかける。
「奇遇だね。木陰で一休みとはなかなか絵になる姿じゃないか、風見幽香」
「そうね。貴女と再会するのはもう少し後のことだと私は思っていたわ、伊吹萃香」
木陰に寄り添っていた女性、それは数日前に萃香と殺し合いを演じてみせた風見幽香であった。
冗談混じりの萃香の言葉に、幽香は愉悦を含んだ笑みを零しつつ、ゆっくりと拳を握ってゆく。どうやら幽香は萃香が再戦に来たと思っているらしい。
その様子を見て、萃香はおいおいと苦笑を浮かべながら早とちりをした妖怪に言葉を紡ぐ。
「今日は別にアンタと殺り合う為に来た訳じゃないよ。ただちょいとばかし挨拶にとね。
そもそも身体が完治してないし、それはアンタも同じだろう?私の拳を手加減無しで喰らったんだからね。
まあ、早かれ遅かれどうせいずれは戦うんだ。だったら互いに体調が万全の時の方が楽しいじゃないか」
「…それもそうね。弱っている貴女を殺したところで、何の意味もないもの。
伊吹萃香、貴女は私が必ず殺す。その為にも身体をしっかりと休めて体調を万全に整えておきなさいな」
「へいへい、なんとも物騒な愛の告白だこと。
それに今日はこの娘のお守を頼まれててね。ほら、藍。目の前の物騒な女に一応挨拶しときなよ」
萃香に言われて、幽香はその時ようやく彼女の背中に負ぶわれている幼子の存在に気づいた。
萃香の背中から下り、トコトコと幽香の前まで小走りして、彼女の顔をじっと見上げる藍。
その目はどきどき半分、わくわく半分といった感じで、藍は一礼していつものように元気よく声を発する。
「はじめまして!らんっていいます!」
「…ねえ、伊吹童子。私の目の前で喧しい声を上げている『コレ』は一体何なのかしら?」
「ふぇ?」
頭を上げようとした藍の頭部を右手でガシリと掴み、藍を身体ごと萃香の方に転身させ、
幽香は眉を顰めて萃香に訊ねかける。その様に、萃香は藍が転んだりしないように視線を向けつつ、彼女の質問に答える。
「何って、今その娘がアンタに自己紹介したばかりじゃないか。
藍って言ってね、私の友人の娘だよ。元気が良くて可愛らしいだろう?」
「この小娘の名前や素性なんてどうでもいいわ。
私の前にこんな雑魚を連れてきてどういうつもりかと訊いているの」
「どうもこうもないよ。さっき言ったじゃんか、今日はこの娘のお守を友人から頼まれたって。
その娘を家に連れて帰る道中でアンタを見かけた、だから足を運んだ。藍が居るのは、ただそれだけの理由さ」
「ならさっさと連れて帰りなさい。私は何の力も持たないような弱い奴が嫌いなの。
ましてやこんな血の味も知らぬような幼い小娘では、私の眼に映る価値すら無いわ」
不機嫌そうに言い放ち、幽香は藍の頭をトンと軽く押して、萃香の方へと押しつける。
バランスを崩した藍を萃香はしっかりと受け止める。当人の藍はというと、何が起こったのか分からないといった表情だ。
「短絡的な奴だね。誰だって力無き時代はあった筈だろうに。
この娘だって、いつかはアンタが驚くくらい強くなるかもしれないよ?」
「その時は私が直々にその小娘を殺してあげる。けれど、そんなあやふやな未来なんて私にはどうでもいいわ。
今現実に私の目の前にいるのは、ただの脆弱な童でしかない。私は不確定な原石に微塵も興味はないの」
「本当、気持ち良いくらい分かりやすい考え方してるねえ。
まあ変に藍をどうこうする、なんて言われるよりは良いか。挨拶も済んだし、今日のところは帰るよ」
「ええ、そうしなさい。貴女の身体が万全になったとき、その時に確実に殺してあげるから」
「おお怖い怖い。それじゃ藍、帰るよ」
藍を背負う為に屈み込んだ萃香だが、彼女の背中に藍はすぐには乗らず、再度幽香の方に身体を向ける。
少女の行動に驚きをみせた萃香であったが、それ以上に驚いたのは他ならぬ幽香その人だった。
そんな驚く二人を余所に、藍は二人には想像すら出来ない言葉を紡ぎだした。
「きょうはばいばいなので、らんも『またね』ですっ」
ぺこりと一礼し、藍は萃香の背中に負ぶさる。再来を口にした藍の言葉に、呆然とする二人だが、
藍の考えが理解出来たのか、萃香はククッと思わず笑みを零してしまった。
そうだ。藍は別れの言葉は『またね』しか知らないのだ。別れた人とは、再び必ず会うと思い込んでいるのだから。
何故なら藍は母の紫と萃香以外の妖怪と接したことがない。そして、彼女に別れを告げるのは何時だって萃香だった。
いつも紫の家に遊びに来ている萃香の別れの言葉は、いつだって『さようなら』ではなく『またね』だ。
だからこそ、藍は幽香に再来の言葉を送ったのだろう。それは彼女がまだ無知だからこそ故。
けれど、それは幽香にはかなりの驚きだったらしく。眉を寄せて藍の方をマジマジと見つめながら、幽香はポツリと言葉を漏らす。
「…何こいつ。気持ち悪い小娘ね」
「クククッ、いやいや、良いじゃないか!
アンタみたいに頭のネジが吹っ飛んだ殺戮狂に、再来の約束を取り付けるような奴なんて藍くらいのものさ。
それじゃ私達は失礼するよ。風見幽香、また会おうじゃないか」
顔を顰めたままの幽香を放置して、萃香は藍を背負ったまま大空へと戻ってゆく。
湖から遠ざかり、やがて幽香の姿が見えなくなった頃合いで、萃香が笑いながら藍に話しかける。
「いや~、よくやったよ藍。さっきの幽香の呆気にとられた顔を見たかい?
ああもう、実に傑作だったね」
「ゆうかさま。あのかたはゆうかさまですかっ」
「ん、名前かい?そうだよ、あれは風見幽香っていうとても危険な妖怪だからね。
今日は特例だけど、今度からは近づいちゃ駄目だから。まあ、近づけたのは他ならぬ私なんだけどさ」
紫にもし今回のことを知られたりしたら、間違いなく私はギタンギタンにされるんだろうなあ。
そんなことを考えながら、どうやって藍に口止めをしようか考えていた萃香だが、背中の藍から
何とまあ、先ほど以上に萃香の想像を超える言葉が発された。
「だめですか?でも、らんはもっとゆうかさまとおはなししたいです」
「……は?」
「らんはゆうかさまともっともっとおはなししたいです、すいかさま」
藍の口から紡がれた言葉は、傍で聞いていた萃香ですら我が耳を疑ってしまうような言葉だった。
この娘は今何と言った。あのヤバいを通り越して厄いとすら言える物騒妖怪と話したいと言ったのか。何て物好きな。
恐らく藍は幽香というより、紫と萃香以外の人物と話がしてみたいという純粋な好奇心からきた発言なのだろうが、
それにしてもこればっかりは相手が悪過ぎる。というか、先ほどまでの幽香の言動を見て少しも恐怖を感じなかったのかと萃香は一人思考する。
「うーん、あの風見幽香とお話ねえ…ちょこっと難しいかなあ…」
「だめですか?」
「あ、いや、別に駄目ってことはないんだろうけど…でもなあ…」
そもそも藍と幽香で会話が成り立つのか。
藍はともかく、先ほどの言葉尻からして、幽香は藍のような幼子は嫌いらしい。
下手に幽香の機嫌を損ねれば、最悪藍の命を危険に晒しかねない。それだけは何としても避けねばならない。
それに、そもそも藍と幽香の再接触など紫が許す訳がない。藍が転んだ程度で大騒ぎする紫の事だ、
現在巷を悪い意味で騒がせている血生臭い妖怪にどうして娘を近づけさせるだろう。否、断じて否。
藍には悪いが、幽香との会話など不可能だと萃香は一人結論付けていた。そう、確かに結論付けてはいたのだが。
「…アンタには実績があるからねえ」
藍の顔を見て、萃香はやれやれと一人溜息をつく。
他の者ならともかく、この娘だ。もし藍という紛れが風見幽香の中に生じたならば、ひょっとすると面白いことになるかもしれない。
それはきっと、何も知らぬ者には理解出来ない小さな可能性。八雲藍という幼子が、かつて成し遂げた奇跡を知る者でなければ。
幾分迷いはしたものの、やがて答えは決まったのか、萃香は藍にむかって言葉を紡いでゆく。
「…仕方ないね、そもそも幽香に会う事を誘った私にも原因があるんだし。
良いよ。藍が望むなら、私がアンタをまた幽香のところに送ってあげようじゃないか」
「ほんとうですかっ!」
「た・だ・し!一つだけ条件がある。
…このことは、絶対に絶対に絶対にぜーーーーったいに紫には秘密だからね」
ばれれば間違いなく自分の命はない。殺される。あの親馬鹿妖怪に間違いなく殺される。
戦場で死ぬことは微塵も恐れない萃香であったが、紫の怒りを買うことだけは勘弁願いたかった。
死よりも恐ろしい恐怖を、つい先日お仕置きという名目で味あわされたばかりなのだから。
こくこくと強く頷く藍を見て、萃香は小さく安堵の息をついて、紫の家の方へと飛行を開始した。
ちなみに余談ではあるが、その日の夜に紫が藍に『今日はどんな風に遊んだの?』と尋ねた時に、
藍が萃香との約束をしっかりと守り、『ひみつですっ!ゆかりさまだけにはぜったいぜったいひみつですっ!』と答えてしまい、
あまりのショックに、その日は紫が寝込んでしまったりした。本当、びっくりするほどの親馬鹿である。
「…これは一体何のつもりかしら、伊吹萃香」
小心の者が聞けば声だけで心を凍らされそうな程に、冷たい口調で訊ねかける幽香に、
萃香はどう話したものかと、背負っていた藍を下ろしながら頭の中で考えていた。
幽香と再会してその翌日。約束通り、藍を背負って先日幽香の居た場所にやってきた萃香を待っていたものは、
彼女が大方予想していた通り、大層不機嫌そうな表情を浮かべている風見幽香であった。
幽香が不機嫌な理由は用もないのに再び彼女の前に現れた萃香…もうそうだが、何よりも大きな理由は、
彼女の目の前にちょこんと存在している幼女こと藍である。
弱者や子供を毛嫌いしている幽香に、やはり藍が目の前でうろちょろしていることは我慢ならないらしい。
鋭い真剣のような視線を送りつけてくる幽香に、萃香は小さく溜息をつきながらも事情を説明し始める。
「藍がアンタともっと沢山お話したいんだとさ。本当にただそれだけなんだけど、不満かい?風見幽香」
「…下らない」
萃香の解答を一蹴し、幽香は大きく溜息を一つついて、藍の傍へと歩み寄る。
そして腰を屈め、視線を藍と同じ高さにして、表情に笑顔を文字通り貼り付けて優しく訊ねかける。
「貴女、お名前は何と言ったかしら?」
「はいっ!らんはらんっていいます!」
「そう…貴女は藍って言うのね。
可愛らしくて伸びやかで柔らかくて…か弱くて鬱陶しくて存在する価値すら無い最低な塵を表すような素敵な名前ね」
言葉を紡ぐ度に、その幽香の作られていた笑顔は消えてゆき、彼女の素の表情が映し出されていく。
それは藍の事を路傍の石とも思っていないような、そんな冷たい瞳。否、路傍の石の方がまだ興味を持たれていたかもしれない。
幽香の空気が変わったことに幼子ながら気づいたのか、藍は目をきょとんとさせて彼女の方を見上げている。
だが、それも幽香にとっては彼女の心を苛立たせる要因でしかない。まだ理解していないのか、屑が、と。
「私はね、お前のような一人では何も出来ないようなムシケラが世界で何より嫌いなの。
私と話したい?私にとっては塵に等しい下等なお前が、私と話をしたいですって?本当、面白くもない冗談だわ。
次にそんな戯言を発してみなさいな。お前のその首を瞬きする間もなく刈り取ってあげる」
それは幼い藍にとってはこれ以上ない程に酷く残酷な言葉。
幽香の殺気と苛立ちと、そして自分に対する嫌悪を感じ取ってしまったのか、藍は表情を少しずつ崩してゆき、
可愛らしい大きな瞳にはふるふると大粒の涙が溢れだし始める。
それを見て、萃香は小さく息をついて首を振る。『これまでだ』と。藍には悪いが、これ以上は無理だと。
幽香の口ぶりからして、やはり藍と会話する気などこれっぽっちも無いようだ。それ以上に、幽香は藍に対して必要以上の苛立ちを感じてしまっている。
今は脅しで済んでいるが、下手をすれば、藍の身体を幽香が本気で傷つけるかもしれない。
藍が泣き始めたら止めよう。そう決断し、その時を待っていた萃香だが、藍の泣き声は何時まで経っても聞こえない。
おかしい。先ほどの空気から、藍は明らかに泣く寸前だった筈だ。それなのにどうして。
そんな萃香の疑問より先に、藍の前に佇んでじっと無表情のままで幼子を見つめていた幽香が口を開いたのだ。
「…何よ貴女。泣きたいんでしょう?怖いんでしょう?だったらさっさと喚きなさいよ。
無力で無知な餓鬼らしく無様に泣き叫びなさいよ。何を一丁前に我慢なんかしてるのよ」
幽香の言葉に、萃香は目を開き、慌てて藍の顔が見える位置まで移動する。
そこにあったのは、涙と鼻水でくしゃくしゃになってしまっている藍の顔。ふるふると恐怖に身体を震わせるか弱き幼子。
だけど、藍は声を上げて泣かない。わんわんと泣き叫んだりしない。ただ黙って必死に涙を堪えていた。
紫に溺愛され、花よ蝶よと愛情を一身に受けて育ってきた藍にとって、他人からあんなに酷い言葉を投げつけられたのは初めての経験だ。
加えて風見幽香の殺気や苛立ちを全身に受けてしまったのだ。これで泣き出さない童など居る筈がないのに。
それなのに、藍は必死に泣きたい気持ちを噛み殺している。何故。どうして。藍は泣きたい気持ちを必死に押さえて頑張って言葉を紡いでゆく。
「やー…」
「…なんですって?」
「やー!!やー!!らんはゆうかさまとおはなししたいですっ!!ゆうかさまとなかよくなりたいですっ!!」
それは見方によれば、子供が駄々をこねているように見えるかもしれない。
藍がただ我儘を言っているだけのように感じられるかもしれない。けれど、今はそんな甘く優しい状況ではない。
幽香が藍に殺気と苛立ちを、そして『次に下らない事を言えば殺す』と宣言したにも関わらず、藍はそのような言葉を言ってのけた。
いくら幼い藍とて、死の恐怖は本能で感じ取っている。ましてや相手は殺戮の象徴ともいえる妖怪だ。
そんな相手を前にして、藍は言い放ったのだ。もっと幽香と話したいと。幽香と仲良くなりたいと。
驚きに言葉を失している萃香同様、幽香も次の行動を起こせずにいた。困惑という名の感情が彼女を包んでいるからだ。
彼女の歴史の中に、今までこのような出来事など無かった。誰も彼もが幽香に対し、怯えるか牙を向けるかの行動しか取らなかった。
それなのに、今自分の目の前で必死に涙を堪えているコイツは何だ。この小娘の何もかもが理解の範疇を超えている。
分からない。気持ち悪い。何なんだコイツは。訳が分からない。理解出来ない。意味が分からない。
不愉快だ。…本当に不愉快か?不快だ。…本当に不快か?苛立たしい。…それは本当に苛立ちか?
かつてない程に自身の精神が掻き乱された為か、激しい頭痛に苛まれ、気づけば幽香は声を上げていた。
「くうう…!!エリー、出てきなさい!!さっさと出てきてコイツを…!!」
「!?チッ!!させるか!!」
幽香の声に呼応するように、彼女の傍で空間の歪みが生じ、まるで影が形になるかのように姿を見せる一人の女性。
それは萃香が幽香と殺し合った日、二人の間に割り込んだエリーと呼ばれる少女だ。金色の髪に帽子を被り、
そして何より特徴的なのが彼女の手にある自身の体躯と同等の大きさはある大鎌。
彼女は幽香の下す命を理解しているのか、憂いに満ちた表情のまま、藍にむかって大きく鎌を振り上げる。
エリーが認識した幽香からの命令は唯一つ。それは目の前の少女の命を奪うこと。
そんなことはさせじと、一歩目こそ遅れたが、萃香が藍とエリーの間に割り込もうとする。
迫りくる鎌を藍の身代りに受け止めようとした萃香だが、その鎌の刃は彼女の下へ届くことはなかった。何故なら――
「ゆ…幽香様…?」
――エリーが獲物めがけて振り下ろした大鎌を、幽香が片手で受け止めたのだ。
幽香の行動に驚きを隠せないのはエリーだけではなく、萃香もまた同じであった。
どうして風見幽香が攻撃を受け止めるのか。言葉こそ最後まで発しようとはしなかったが、幽香が後に続けようとしたのは
確かに藍を殺すことだった筈だ。それが一体何故。
呆然と立ち尽くす二人だが、当人となる幽香の思考の中にはそんな二人の事など既に消え去ってしまっていた。
彼女の頭の中にあるのは、先ほど自分が取ろうとした愚行について。
――自分は今、エリーに何を命じようとした?
――知れたこと。自分は今、エリーに目の前の小娘の殺害を命じようとした。
彼女は自身に問いかけ、すぐにその答えを紡ぎだす。
その導き出された答えに、幽香は表情を苦痛と苦悶の入り混じったモノへと歪めてゆく。
その痛みは己の存在意義を傷つけた痛み。自身の生涯を否定したことへの痛み。
自分は確かに目の前の小娘を殺そうとした。しかし、何故自分はこの手で殺そうとしなかったのか。
目の前で愚かにも虚勢を張り、震える身体で自分から逃げなかった小娘に、何故自分は逃げた。
そう、私は逃げた。何の力も持たぬ脆弱な小娘ごときに、他者の力を頼ろうとした。
馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。何て無様。何という愚行。
もしあのままエリーが小娘を殺してしまっていたならば、自分はこの涙を堪えている小娘に負けたと同義だ。
私が負ける?敗北?そんなものは許されない。私に敗北なんて許されない。私は一度だって負けられない。
私は殺す者。私は奪う者。私は蔑む者。私は見下す者。私は強き者。そうでなければ、私は――
「…エリー、その涙まみれの小娘をあやしなさい。
それとこれから先、その娘に一切の傷を負わせてはならない。これは命令よ」
「はい……って、え?へっ?…えええええ!?ゆ、幽香様!?」
突然幽香から下された想定外の命令に、驚きの声を上げるエリー。
驚き目を丸くするエリーや萃香の視線を気にすることもなく、幽香はフラフラとした足取りで、
頭を押さえながら大木の下へと足を進めて行く。その際に、ぽつりと言葉を漏らした。
「…その小娘は遠い未来で私が殺す。力をつけ、私と並ぶ腕を持つ程に成長したとき、私が直々に殺すわ。
許さない。私が私たる根幹を壊そうとする奴は誰であろうと殺す。殺してあげる」
幽香の呟きが耳に届いた萃香は、何も言葉を発することはしなかった。
ただ視線を幽香の方にじっと向けて、彼女を観察する。幽香は呼吸を乱し、つらそうな表情を浮かべて大木へと背中を預けている。
あのように苦痛に表情を歪める幽香など、萃香は戦っている時ですら見たことが無かった。
萃香に殴られようが蹴られようが、彼女は何時だって愉悦を漏らしていた。何時だって笑みを浮かべていた。
それが今ではあの様子だ。しかし、萃香には彼女が何に苦しんでいるのかを考えるまでもなく理解していた。
――妖怪は人間よりも信念に影響されやすく、精神的なダメージが致命傷となる。
それは妖怪にとっては絶対の楔。肉体の損傷など比較にならぬ程に鋭い刃となる恐るべきもの。
藍を前にして、風見幽香の何かが揺れた。それは恐らく、風見幽香という妖怪を構成する上で絶対に譲れない何か。
一体藍の何が彼女の絶対を侵したのかは分からない。けれど、今の幽香の姿に一つだけ萃香は確信出来ることがある。
「風見幽香…やっぱりアンタは似ているよ」
大きく溜息をついて、萃香は藍の傍へと歩みよる。
未だに必死に泣くのを我慢している藍の頭をポンポンと優しく撫で、彼女を安心させるように声を掛ける。
「藍、良く頑張ったね。アンタは本当に強い娘だ。
でも、もう我慢しなくて良い。今なら泣いても幽香は怒ったりしないだろうからね」
「…っく…ぐすっ…うええええええええん!!!!!!!」
萃香の言葉に、藍は初めて堰を切ったように声を上げてわんわんと大泣きし始める。
その姿に、萃香は何も言葉にすることはなく、ただ優しく藍を抱きしめてあげるだけだ。
そうだ。藍ほどの幼子ならば、こういう反応をするのが当たり前なのだ。
幽香の殺気や苛立ちに中てられ、どうして泣かない童がいるだろうか。怖いのは当たり前。泣き叫ぶのは当たり前。
だけど、藍は我慢した。幽香とお話がしたいから、幽香と仲良くなりたいから、その為だけに藍は我慢した。
なんて頑固な、萃香は心からそう思う。普段は紫や萃香の言う事をこくこくと頷いて聞き入れるのに、
大事なトコロは絶対に譲らない。なんて強情で、なんて強い勇ある娘なのだろう。
この歳でこの心の強さ。紫が心を奪われたのも仕方がないと萃香は思う。愛おしさと強さを持った少女、それが八雲藍なのだ。
自分の胸の中で大泣きする藍をあやしていた萃香だが、ふと顔をあげ、
傍でどうしたらよいかとオロオロとしていた女性――エリーの方に視線を向ける。
彼女を見て、何か良からぬ事を思いついたのか、萃香はニヤリと口元を緩ませ、彼女に声を掛ける。
「そこのアンタ。えっと、確かエリーとか言ったっけ?」
「へ?あ、は、はい。私はエリーと申します。幽香様の部下で、身の回りのお世話をさせて頂いてます」
「そう。それよりアンタ、幽香の命令を遂行しなくていいのかい?
アイツから藍をあやすように言われただろ?ほら、今の藍は可哀そうなくらい大泣きしているよ?」
「え、あ、う」
ほらほら、と面白そうに捲し立てる萃香に、言葉に困ってオロオロするエリー。
そもそも藍を大泣きさせた原因は萃香なのだが、今のエリーにはそんなことを突っ込む余裕すら無いらしい。
声を上げて大泣きしている藍の前に立ち、腰を屈めて藍と同じ高さの顔の位置まで移動し、エリーはおどおどと言葉を紡いでゆく。
「え、えっと…ら、藍ちゃん、良い子だから泣きやんで、ね?」
「うええええええええええん!!!!!!!」
「ひううう!?ぜ、全然泣きやんでくれませんよおお!?」
「あーもう、何をやってるんだ。下手くそだねえ、子供をあやしたことがないのかい?
泣きやめ、なんて言われて泣きやむ童が一体何処に居るってのさ」
「し、仕方ないじゃない仕方ないじゃない。
子供の世話なんて私、幽香様に今まで一度も命じられたことないんですよ?初めての経験なんですよ?
ううう…こういうのはどちらかというと、くるみの方が適役じゃない…私にはこんなの無理ですよお」
「何情けないこと言ってるんだよ。
しょうがないねえ、この私、伊吹萃香様が子供のあやし方ってヤツを一つ教えてやろうじゃないか」
泣きじゃくる藍を抱きあげ、萃香は優しく背中をさすってあげながら、藍に優しく言葉を紡いでゆく。
話の内容などは何でも構わない。紫のこと、藍のこと、萃香のこと。重要なのは萃香が藍と接そうとしているという事だけ。
やがて、藍は涙を止め、泣きつかれたように萃香の腕の中で、うつらうつらと船を漕ぎ始める。
その光景を驚きの瞳で静かに見つめていたエリーだが、もう一つのあることを最後まで萃香は気付くことはなかった。
萃香が藍をあやしている光景をエリーだけではなく、
木陰に背を預けている幽香もまた、二人の方をじっと見つめていたことを。
>>「妖怪の山の実験~」→「実権」
ではないかと。
藍しゃまと紫おかあしゃまが可愛いよっ!
そしてすみません、私の節穴の様な目ではこのお話が「伊吹萃香さんと風見幽香さんのどきどき馴れ初めストーリー」にしか見えて来ません………っ!
次回も楽しみに待たせて頂きまする。
次回も楽しみに待ってます。
これは早く後半が読みたいです。いや、もしかしたら中篇かもしれないけれどそれならそれで嬉しい。なにはともあれ続き楽しみに待っています。
藍が可愛い……そして紫お母さんと一緒にいる光景もとっても良い!
親子してるのをとても微笑ましく読んでました。
さて、これから再戦もあるようですがどうなるのでしょうね。
幽香に何かしらの変化が起こるのでしょうけど……楽しみですね。
続きを楽しみにしていますよ。
にゃおさんが書く過去編の話は大変面白いです
こういうエピソード0みたいな話は面白さが半端じゃないですね。
後編(中編かもしれませんが)がすごく楽しみです。
過去の作品から楽しませてもらっています。
次回も期待!!
エリーを出してくるとは3ボス同盟ですね
分かります
続きを楽しみにしています!!
気になった点をひとつだけ、過去において藍は『またね』しか別れの挨拶をしていないとありますが、紫から制裁を受けた萃香が帰る際に藍が『さよーならーっ!』と言っています。このさよならも再会を前提とした挨拶と思いますが、言い回しに矛盾を感じました。
にゃおさまの作品はキャラが良いので次回も期待しています。
言いたい事はまだいっぱいありますけど、とにかく面白い!!
幽香と萃香のかっこよさ……………藍のかわいさ……
とにかく、早く続きを!いえ、ゆっくりでもいいですから書いてください!
続きも出来れば今月中にと考えております。ご感想、本当にありがとうございます!
にゃおさんの作品読めないと想っていませんでしたよッ!!!
だってあの美鈴がッ……過去のカッコイイおぜう様とかッ……あの作品は何回読んでも涙しました。
ネコ輔さんも好きですけれどどう考えてもにゃおさんの作品の方が面白いです、ほんとうにありがとうございました。
続編期待していますねーノシ
続きを…
続きをいつまでも待ってます…
そりゃもう楽しみに待ってます…
続きに行ってきます。