ざんざんざん。
勢いもよく筆走る。
僅かにくすんだ白色が紙、記すは文字の連なりを。
黒なる墨にて白なる紙をば切り込み刻まんとするばかり。
私がひとたび筆を動かすときは、躊躇いひとつあること無く。
りりん、りん。
音が聴こえて、私はひとまず休憩を入れることにした。蝉の声もせわしい夏の一時、ひとたび外へ出れば身を焦がさんとするお天道様が輝いている。幸い家の風通しは良い具合で、夏草の匂いの混ざる穏やかな流れが頬に当たって心地よい。流石にちょっと汗ばんでいた所為で、前髪がおでこのあたりでぴったりくっついてしまっていた。ふぅ、と一息つきながらはたはた右手団扇で顔をあおぎ、左手で紅茶の杯を取り口をつける。暑い日にはつめたいものを口にすれば良いものを、と若干思いはするものの、何せ私は紅茶が好きだ。すんと匂いをかいだなら、その香りは私をしあわせな気分にしてくれる。
縁側にぶらさげられた風鈴も、風が吹けば喜ぶのだなと思う。凛々と鳴る様はなんとも控えめだが、響く音は心地良い。そして何だか、ひどく懐かしい。この音は、私の心をくぅと締め付ける。硝子の透明には桔梗の花があしらわれていたから、透き通る音に薄い青色が混ざれば良い。夏の陽炎、その紅に、しっとりと馴染んではくれないだろうか。
今日は筆の走りも快調だった。白紙に切り込み刻んだ黒文字が、薄く色付いているような気さえする。風鈴の音を聴いたせいではないだろうが、普段から調子の良いときの文字には、白と黒との境界にほんのりと青色が混ざる。逆に体調だの精神だのが不良なときは、何を書いてもうまくいかない。のりが悪い、とでも表現すれば良いのだろうか? 墨が紙にちゃんと染み込んでくれず、ぼんやりと曖昧に、くすんだ灰色が滲んでしまう。
流石は夏、したためた文字はすっかり乾いてしまっていた。それを人差し指で、つぅとなぞる。
些か、疲れた。今日はこのまま、そろそろ休もうか。
「精が出ますね」
ふと顔を上げると、日陰の部屋の空間に、ぱっくりと口が開いている。私以外に誰も居ないはずのこの部屋なれば、声の主はその隙間の先に居るに違いなかった。
「これはこれは紫さま。如何なされましたか」
「いえいえ、大した用ではありませんけど。それにしても暑いですわね」
「ええ全く」
汗ひとつかく様子の見えない大妖、八雲紫がぬるりと隙間から身体を出して、部屋の中へと降り立った。彼女は折に触れて私の元にやって来ることがある。これはずっと前、私がこうして転生し我が身を持つ前から変わらないことらしいが。残念ながら、そこで交わした会話の記憶を私は持ち合わせてなどいない。
「こうも暑いと、思い切って髪など切りたくもなりますが」
「それはそれは。ですが紫さまのその御髪、切ってしまうには惜しくはありませんか」
「そうかしら? 髪は切られどまた伸びましょう」
「しかし、髪は女のいのちとも申しますれば」
「それは一理。さりとて、たったひとつの理でしかないとも言えましょう。理など、凡そ世を生きればごろごろ転がっているものですわ。如何です? 私は存外上手くやれると思うのですけれど。伸び始めのあなたの御髪、丁度良い具合にすっきりさっぱり。ああ宜しければ、私のも上手く切って欲しいのですけれど。ざくざくざんざん、思い切り良くざっくりと」
「いえ、折角ですがご遠慮させていただきたく」
そんな固辞に「あらあら残念」と、たおやかな笑みを零しながら返す彼女だった。こんなやりとりはいつものことで、別段今の会話で私が気分を害することもなく、ちょっとやわらかい心地にさえなる。この家で生きることが窮屈だとは言わないけれど、我が身は儚く短きいのち。その折々に挟み込まれる会話はどんなことでも愉しいし、その相手をしょっちゅうしてくれる彼女には感謝こそすれ、負に傾く気持ちなど抱きようも無い。
筈、であった。
「まさにあなたが筆にて刻まんとするは、幻想郷の記録、その全て。私の髪などではありませんでしたか」
「それをするのが、私の役割で御座いますゆえ」
「役割。天命なるもの、そう仰いますか? 成る程あなたはこの先も生まれ変わり、文字を記していくのでしょうね」
「ええ、そうです」
ひゅうと弱く風が吹き、私たちの髪を揺らす。
「大した用では無いと言ったのだけれど。ひとつ、聞きたいことがあったのです」
「何、でしょうか?」
「御阿礼の子は短命。幾度とそのいのちを繰り返し、文字を紙へと刻み込んできた。そこで聞きたいこと。それは死、死の話。そのいのち尽きる、際(きわ)のお話」
「それは、なにゆえで御座いましょう?」
「私自身が、知らないことだからですわ。友人に亡霊もおりますが、凡そ自らのいのちが尽きた瞬間のことを、覚えては居ないらしく。ですから、私も知りようが無いのです。他の亡霊にいちいち聞いて回るのも面倒なので、身近なるあなたに尋ねようと思いますれば」
不躾な、と言う声が頭に浮かんだが、それが口から放たれることは無かった。
頭がくらりとする。今日は気を入れて書きすぎた。頭の端っこがぼんやりとし始めて、それが中へと浸透していく心地。
「あなたは、あなたの死を如何に捉える。そう、私は問うております。第九代阿礼乙女、稗田阿求」
りりん、りん。
夏の陽炎、その紅に。
混ざる青色、懐かしくも透明なる音は、何処か遠い処から……
*********
風鈴の響く音は涼しくつめたく、それでいて何処か物悲しい。今の私は、そう感じている。
暑さ寒さも彼岸までと言われども、それを過ぎてもそれらは残る、確かに残る。実際の処、私の額を流れる汗は夏の残滓が起因していることに他ならない。
「何故、あんなことを」
彼女は私に問うたのだろうか。何時の間にか姿を消していた様子だったから、それを尋ねることは出来なかったけれど。
何となく。何となくならわかる。御阿礼の子、確かに彼女はそう言った。
あの日中から一夜明けて、またお天道様はぎらぎらこれでもかとばかりに外を変わらず照り付けている。この身の強き弱きに関わらず、その下へと晒されたならば、ただ焦がされて私は呻きの声をあげるだろう。身体、だけではなく。心までもが焦がされる。勢いよく燃え盛るのならまだ良い。ただ、そんな炎が上がることなど勿論無く。
机の脇に乱雑に置かれた紙の束を、なんとなく見やる。本にする前の原文など私の頭にすっかり残っているけれど、それを他人の眼に触れさせるとなれば、きちんと纏めて体裁を整えなければならない。
白紙にしたためられた黒文字。刻み刻みて、大層な量にもなった。もう残せるものは残せたわけで、これ以上私は何を書けば良いだろう。
その思考は、些か気弱。書き記すものなどそれこそ無限の無尽蔵、書けども書けども新しいことは世に起こるわけで、其処に迷いを抱くこと自体が少しばかり情けない。
「私のいのちが、短いから?」
問いかけのかたちで言葉をぽつりと呟いた処で、受け止めてくれる誰かが居なければ、それはただ空白に吸い込まれるだけ。声とは、ただ崩れやすく脆いものでしかない。
その点、文字は違う。確かに刻まれ、確かに残る。それは何処か安心で、だからこそ続けられるのかもしれない。いのち短き、この身なれども。
いのち。いのち、か。
私が、私の死を、どの様に捉えるか。そう、彼女は私に問うた。
それが尽きる日のことから、私は眼を逸らそうとはしていない。つもり。
この身を授かったときから把握出来ていることで、生きる時分から次の一生のことを考えなければ追いつかない。出来るならば穏やかに、この身は果ててくれないだろうか?
残念なのか幸いなのかわからないけれど、私は先代の私が死ぬ瞬間、どのような気持ちを抱いていたかを覚えていない。わからないからこそ、少しは怖い……
「少し」と思う自分に、自嘲が零れる。未知なるものとは、心躍らせるにも恐怖を宿すにも、秤の目方を振り切るくらいの重さを持っている。知ってしまえば軽かった、などというのはあくまで事後の話。其処に至るまで、未知は私を押し潰さんばかりの重さを以てのしかかる。
捨て鉢、という言葉がある。どうでもよく、投げやりになる有様。私の先祖、私そのものである代々において、今の私のような気分に陥った者は、果たしていなかったのか? そう思えども、確かめようも無い。己を端に疑問を発しながらも、その事実を知るのもまた恐ろしい。
紙に記された、私の成果。これこそは、私の全て。
もし今、この刻まれた文字に火を放ったなら、勢いよく燃えてくれるだろうか?
天に届く程の炎を、あげてくれるだろうか?
その問いに対し、私はひとまず否という声を心であげた。理由はふたつ。
折角紡ぎあげたものを燃やすことがまず有り得ないだろうという、そもそも解すら出したくなかったという意味の否定がひとつ。もうひとつは、どうしても私の文字が記された白紙が、炎を纏う姿が想像出来なかったため。
全て、と私は思った。言い換えれば、これらは私の裡に秘めたる念の全て。それが高々と炎をあげるなど。華やかに昇り行く火の粉、それが天へと昇ることはあるまい。炙られ焦がされ、じらじらとただ炭にならん。いずれ我が身が、そうなるように。
そんな、暗い気分になっていた私だったから。
「今日は、書き物をしないのですか?」
その原因を作り出した大妖怪の声ですら、今となってはありがたい。
「中々にして、気分も乗らず。あなたの所為と言っても良いですか? 紫さま」
「申し訳ありませんでしたわ。私としては、どうしてもあなたに尋ねなければならなかったので」
「なにゆえ、ともう一度問うことなどは致しませんよ?」
「ええ、そうしていただけると有難く」
「茶を用意いたしましょう、良い玉露などありまして。暑い最中の熱い飲み物も、かえって涼しい心地を染み込ませてくれますよ」
「いえいえどうかお構いなく。今日も今日とて、私はあなたとお話が出切ればそれで満足」
時の刻みが、未の八つ半を過ぎる頃合だった。この時刻のお天道様の光が、何処か特別のものであると常日頃考えたりもする。陽暮れ時、今は其処に至る前。
こんな暑い時分に物好きと言われるかもしれないが、物書きの合間合間にて、私は庭に出ることもある。光に焦がされ炙られないよう、庭の樹下へと素早く入り込み、幹へ背を預ける。
光の角度、が問題なのだろうか? そんな時の私が上を見上げれば、お天道様の光が白く葉の隙間から零れ落ちてくるのはわかるが、何よりその葉が揺れる様が、くっきり一段と濃い影を映しているような気もするのだ。遠くに見える空は薄く青く、そこへ割り居るように影が刻まれる。それは一枚の影絵だった。
文字のように、うつくしい。空色の紙へ、鋭く切り込む影の有様。
あんなにも際立った陰影を顕すというのに、少しの風が吹いてはさわさわと揺れ、緑の匂いをそれは振りまく。
ああ、丁度今、庭へと降りて樹下より上を見上げたならば、そんな光景が広がるに違いない。
けれど、少し我慢。お客人を誘ってまですることでも無いし、今交わされるとりとめもない声のやりとりだって、かたちには残らないけれどそれなりの色を持つ。
「こんなに暑い日は。海もまた恋しくなったりもしますわ。海、をご存知?」
「知識としては、若干。大きな大きな水溜りであるなど。あと、文字のかたちならば記憶しております」
うみ。
この山間、私は直接に海というものを見たことが無い。文字による知識はある。例えば、潮の香りがするという。例えば、青を映し出しているという。色は辛うじて捉えられても、それ以上のことは想像しようも無かった。
筆を手にとり、「海」と一文字、ざくりと紙へしたためる。文字と紙との境界に、じわりと灰色の滲みが広がる。私はこの言葉から何の感慨も抱けなかった。
「海、とはどのようなものでしょうか」
「どのような、ですか? 見たままを語るならば、広く、そして大きい。あなたの言うとおり、それは大きな水溜り。ただその様子は、静けさと荒ぶる様の両方を孕みます。風が吹いていなくとも、水と空気の境界は、常にゆらゆら揺れるばかり」
「途方も無いものですか。私が見ては、眼が眩んでしまうでしょうね」
「あら。あなたはよく、空を見上げるでしょう。そうですね、丁度あの色に似ているようにも思いますが」
彼女は部屋の縁側に立ち、日陰の下より上を示しながら言う。
「海の青は、空のそれと似ているのですか」
「ええ。ああ、でも……」
「でも?」
「海は、誰もが身体の裡に有するものでもありますわ。私、そしてあなたにも。この小さき器、その内側は果てしなく広い」
りりん、りん。
風鈴の音が、空気を震わせながらに響く。暫くお互い何も語らず、ただ在る夏の一時を、過ごす。
「静かなるもの、荒ぶるもの。その両方をあなたが持ち合わせなければ、外側からそれらが訪れたとき、しかと受け止めきれることは出来ないのでは」
「私は私なりに、思うまま書き連ねてきたつもりですけれど」
だが、刻み連ねて「やりきった」と言を発するのもおこがましい。そう思う自分も居る。
「そう……時に。この風鈴は、とてもうつくしい音を奏でますね」
「はい、それはもう」
「静かなるもの。静物」
彼女は縁側から部屋へと踵を返し、丁度机を挟んで私に向かい合う位置にて腰を下ろす。
「静物のこころは怒り、そのうわべはかなしむ」
「詩句の類ですか?」
「作者の名は忘れました。いずれにせよ、私の言葉ではありませんけれど」
「この涼しげな音も、実は怒りを孕んでいる?」
「いえ、喜びかもしれませんわ?」
結局の処、わからないということ。私たちは、ただ奏でられる音を耳にする他ない。
そもそも、その心の内側までを、私が見透かす必要があるのだろうか?
見透かし、それを刻む必要があるのだろうか?
でも。
「それを想像するのは、愉しいものでもありますね」
「そうですか。あなたが記すは、幻想郷縁起。あなたはそれ以外に、物語を綴ってみても良かったのでは」
「いえ、そこまで時は待ってくれないでしょう。詩吟の感覚は、私には必要無きもの。そういった類は」
書くという行為そのものに対する迷い。
迷いそのもの、かたちなど有しない筈のそれ。
それが輪郭を持ち始めた時は。
「……そういった類は。次、次なる私へと。託してみるのも、悪くありませんね」
私が、この時代の阿礼乙女としての役割を。
須らく、終える時。
ざわりと、背筋を下から上へ何かが走り行く感覚。それが丁度首の後ろあたりまで辿りつき、ざ、ざざ、ざ、という音を発している。
手で触れようとしても、掴めまい。この気配、怖いようでもあって、不思議と気分が落ち着くようなものでもあった。
「申し訳ありません、紫さま。先日のあなたの問いには、やはり答えられそうにありません。本日、私のいのちは尽きましょう。ですから、それはこれから実感として捉える他ありません」
「……そう、ですか。ならば。また次なるあなたに、問うことと致しましょうか。本当に不躾な質問でごめんなさいね。あなたは矢張り忘れてしまっているけれど、これは『あなた』との約束ですから」
生温い風が吹く。一度お天道様が顔を隠そうとすれば、それなりに夜は涼しい。
そうか、そろそろ夏も終わるか。
「これより、身支度に入りますゆえ。それでは、また」
「ええ、またいつか」
最期の言葉は、再会の意を汲みながら。大妖怪の姿は、隙間の向こうへと吸い込まれ、消えていった。
そろそろ、陽が暮れる。
そうなれば空は、紅々と染まるばかり。
そして程なく、闇は全てを覆い隠さんとする。
* *
『これより私の部屋へ、何人も立ち入ることの無き様』
家人に言遺し、私は自室へと戻る。
父と母は、私の言葉を聞いた端から、泣きに泣いた。御阿礼の子はいのち短しと言えども、私はまっとうに母より生まれし人の子であるから。
子が、親より先に逝く。阿礼の家系ならば、ある一定の周期を持って訪れる必然の出来事。私は勿論、人並に恋をして誰かと結ばれ、そして子を宿すことも無かった。自らが親にならなければ、わからない感慨? どうなのだろう。
私は私で良かったと、今は思う。その涙で、私は御阿礼の子としてだけではなく、ちゃんと愛されていたのだと知ることが出来た。
腰を下ろす。使い慣れた古びた筆と硯、紙を押さえるための文鎮、そんな書き道具諸々を載せたこの机。ああ、家の猫が飛び乗って、墨汁塗れにしてしまったこともあったっけ。拭き掃除はしてみたものの、跡になって残ってしまっている。
「……」
静かに静かに息をしながら、様々な思いが、私の心の裡にて荒ぶる。
準備は、最早万端だった。
あとは死、死を。
「待つばかり、とは言え」
それまで何もしないと言うものも、何とも退屈……退屈、という表現は合わないだろうか?
勿体無い、そうだ勿体無い。死するにあたって、それは穏やかなものでありますようにと、考えていたけれど。我が代にて、残せるものは全て遺した。あとの纏めは家人がしてくれる。
ならば今、今の想いは?
それを抱えたまま、私のいのちが尽きるなど。
勿体無くて仕方無い!
筆をとる。
私の身体が保つのは、果たして幾許なるものか?
* *
ざんざんざん。
勢いもよく筆走る。
僅かにくすんだ白色が紙、記すは文字の連なりを。
黒なる墨にて白なる紙をば切り込み刻まんとするばかり。
私がひとたび筆を動かすときは、躊躇いひとつあること無く。
部屋を満たす静謐に、紙を刻む音が割り入る。
書いては投げて、書いては投げて。
紙は花びらの如く、ばっさばっさと部屋を舞う。
取り留めなく思うまま、切り込む筆は縦横無尽。
思いの丈はとめどなく、紙へと粛々刻み込まん。
何故私はこうして書いているのだろう。
天命だから? それが御阿礼の子、その運命だから?
今は、今だけは違うと答える。
文字浮かぶ。言葉溢れる……さればこそ、さればこそ!
一枚一枚、また一枚。
静物の、心は怒りてうわべのかなしむその様。「器」の一文字、ざくりと刻む。
かくも短しこの人生、痺れる腕を抑えつけ。「身体」の二文字、ざくりと刻む。
涙の今流れるは、今だに息をするがゆえ。「いのち」の三文字、ざくりと刻む。
「っくぅ」
溢れる言葉は止まらないのに、眼の前がどんどん暗くなっていく。
わかっていた筈。そのわかっていた筈のことが、今眼の前に迫り来る。
でも、不思議と焦りは無かった。
平生の私は、あくまで淡々と、書くべきことを記してきたのだから。
今の私が、もっと時を、もっと言葉を、もっと知識をと求めてみても。
これ以上私の器は、それらを抱えきれない。
そうか。
満ち足りてしまったから。
今の私は、溢れてしまうのか。
ざざ、ざざん。
筆の切り込む音とは別に、身体の裡よりそれは響く。
今存分に溢れる有様、私の血、紅の血が踊っている。
「血」
一言漏らす。
「血潮」
「ちしお」。その言葉を、また紙にしたためる。
きり、と唇の端を噛んだ。そして口の中に広がるは、血の味。少し鉄っぽい、紅い匂いなどのする。
潮の香りを、私は知らなかった。でも、私の小さな身体の中に、やっぱり海はあったんだ。
こんなにも、こんなにも熱く滾る。彼女の、言った通り。
ああ、海、海の、なんて、あかい。暮れ時の空を抱いて、やわらかい光の放つ……
本当の、海を。
もう今の私は、眼にすることなど出来ない。
次代の私は、どうだろう。
私と同じように、いのちはきっと短いだろうから。
それでも。それでも。
新しい私。次なる私は、求めても良いかもしれない。
呼吸が、驚くほど落ち着いた。舞っていた紙は、部屋の畳へ幾重にも折り重なっている。
私も居住まいを正して、装いも新たに紙へと向き合う。
「阿求」
私、第八代阿礼乙女、稗田阿弥が紙に刻む言葉は。
次なる私の名を記し、これにて最期。
ぽつりと血が零れて、黒文字に吸い込まれていく。
筆を置いて、私は障子の戸を静かに開ける。
夕暮れはすっかりなりを潜めて、今は深い深い夜の最中。
夜の海は、どうだろう。
うつくしいだろうか。それとも、どこかさみしいだろうか。
満ち足りてしまった私は、溢れる言葉を抑えることが出来ない。
ああ、それでも――
りりん、りん。
夏の終わりを告げる風。
懐かしくも透明なる音は、ひっそりと夜の闇に混ざる。
そのまま、遠い処へ。
何処か遠い処へ、届けば良い……
*********
涼やかな風が顔に当たるのを感じ、私は目蓋を開く。
「お目覚めですか?」
「ん、……」
視界の先には、はたはたと団扇で私を仰ぎつつ、顔を覗きこんでくる大妖の顔。
俗に言う、膝枕。そんなものを今、私はされているらしい。何たることとばかりに、私は身体を起こそうとする。
「紫さま、」
「急に起きられては、立ち眩みを起こしますよ? 私のことはお気になさらず、もう少しお休みくださいまし」
大した力を込められたわけでも無かったというのに、おでこの辺りをつんと指で押され、私は為すがままにまた膝元へ頭を預けることになった。
「申し訳御座いません」
「何を謝る必要があると言うのでしょう? 幾ら風が吹くとはいえど。これだけ暑ければそれにあてられることもありますわ。ああ全く、海が恋しい」
「海」
「ええ。あなた、海をご存知?」
「……」
海。その言葉を想う。私は紙にその言葉を刻む前から、「うみ」という響きに想いを馳せる。
「紫さま」
「はい」
「先ほどの紫さまの問いと合わせて、お答えします」
「成る程、お聞かせ願いますか」
「海なるものを、私は見たことがありません。この幻想郷には、ありませんからね。でも私の裡には、海、と読んで然るようなものが、何となくあるのだと思います。私の小さき身体が裡に収まる、広く大きなもの。それは私が求める全て、書くべきものの全てを、広く抱いて包んでくれるのです」
「……」
「死は……今の私にとっては、やはり些か恐ろしい。でも、それでも」
それでも、それでも。
「いつか私の海が満たされたとき。もう、文字にて刻みきれなくなるとき」
私は。
「受け入れられるだろう、そう、思います」
次の私へと、また繋がることが、出来るのだから。
伝えきったのち、私はよっこらと身を起こす。
「夏は夕暮れ」と聞き及んでいる通り。空は本当に紅い色を抱え、綿雲を寂しげに照らしながら、そこにあった。その様が、どうしようもなく美しくて、私はまた胸が締め付けられる。
「そうですか。その答えを聞けたのならば。私はもう、次のあなたへ同じ問いをする必要は、無いようです。私はただ、あなたの言葉、その答えを伝えれば良いのですから。なんとも、未知とは恐ろしいもの。けれど一度知ってしまえば、恐れも軽いものとなりましょう」
「えっ」
「いえいえ。こちらのお話です」
言っていることがよくわからなかったけれど。
彼女は微笑みを浮かべるだけで、そのままはぐらかされてしまった。
今の私にとって、死とは未知なるもの。それが恐ろしいことには、変わりない……
けれど。
もう凡そ自らが書ききれないと思える処まで到達出来たなら、少なくとも後悔は無かろう。
そんなことも、考える。
「紅茶、冷めてしまいましたね。新しいものを淹れましょう、紫さまも、如何ですか?」
「ええ、頂こうかしら」
もう半刻も数えない間に、夜がやってくる。
凛々と風鈴は揺れて、透明な青い音が夕暮れの紅に染み込んでいく。
そうしていつしか、陽も沈む頃。
すっかり闇が覆ってしまうまでの、ほんの少しの時間。
空は本当に不思議な、紫色を映し出す。
そんな様子を、私は生きる内に、紙に刻んでみようか。
今代の幻想郷縁起はもう少し書き足さなければならないから。
余裕は、恐らくないかもしれないけれど。
言葉は、とうとうと溢れ。
まだまだそれが尽きることは無い。
それだけでなく、私はもっと求めていこう。
幻想郷狭しと言えど、書くべきことは山とある。
私。第九代阿礼乙女、稗田阿求。
己の海が満ちるまで、このいのちを謳歌せん。
勢いもよく筆走る。
僅かにくすんだ白色が紙、記すは文字の連なりを。
黒なる墨にて白なる紙をば切り込み刻まんとするばかり。
私がひとたび筆を動かすときは、躊躇いひとつあること無く。
りりん、りん。
音が聴こえて、私はひとまず休憩を入れることにした。蝉の声もせわしい夏の一時、ひとたび外へ出れば身を焦がさんとするお天道様が輝いている。幸い家の風通しは良い具合で、夏草の匂いの混ざる穏やかな流れが頬に当たって心地よい。流石にちょっと汗ばんでいた所為で、前髪がおでこのあたりでぴったりくっついてしまっていた。ふぅ、と一息つきながらはたはた右手団扇で顔をあおぎ、左手で紅茶の杯を取り口をつける。暑い日にはつめたいものを口にすれば良いものを、と若干思いはするものの、何せ私は紅茶が好きだ。すんと匂いをかいだなら、その香りは私をしあわせな気分にしてくれる。
縁側にぶらさげられた風鈴も、風が吹けば喜ぶのだなと思う。凛々と鳴る様はなんとも控えめだが、響く音は心地良い。そして何だか、ひどく懐かしい。この音は、私の心をくぅと締め付ける。硝子の透明には桔梗の花があしらわれていたから、透き通る音に薄い青色が混ざれば良い。夏の陽炎、その紅に、しっとりと馴染んではくれないだろうか。
今日は筆の走りも快調だった。白紙に切り込み刻んだ黒文字が、薄く色付いているような気さえする。風鈴の音を聴いたせいではないだろうが、普段から調子の良いときの文字には、白と黒との境界にほんのりと青色が混ざる。逆に体調だの精神だのが不良なときは、何を書いてもうまくいかない。のりが悪い、とでも表現すれば良いのだろうか? 墨が紙にちゃんと染み込んでくれず、ぼんやりと曖昧に、くすんだ灰色が滲んでしまう。
流石は夏、したためた文字はすっかり乾いてしまっていた。それを人差し指で、つぅとなぞる。
些か、疲れた。今日はこのまま、そろそろ休もうか。
「精が出ますね」
ふと顔を上げると、日陰の部屋の空間に、ぱっくりと口が開いている。私以外に誰も居ないはずのこの部屋なれば、声の主はその隙間の先に居るに違いなかった。
「これはこれは紫さま。如何なされましたか」
「いえいえ、大した用ではありませんけど。それにしても暑いですわね」
「ええ全く」
汗ひとつかく様子の見えない大妖、八雲紫がぬるりと隙間から身体を出して、部屋の中へと降り立った。彼女は折に触れて私の元にやって来ることがある。これはずっと前、私がこうして転生し我が身を持つ前から変わらないことらしいが。残念ながら、そこで交わした会話の記憶を私は持ち合わせてなどいない。
「こうも暑いと、思い切って髪など切りたくもなりますが」
「それはそれは。ですが紫さまのその御髪、切ってしまうには惜しくはありませんか」
「そうかしら? 髪は切られどまた伸びましょう」
「しかし、髪は女のいのちとも申しますれば」
「それは一理。さりとて、たったひとつの理でしかないとも言えましょう。理など、凡そ世を生きればごろごろ転がっているものですわ。如何です? 私は存外上手くやれると思うのですけれど。伸び始めのあなたの御髪、丁度良い具合にすっきりさっぱり。ああ宜しければ、私のも上手く切って欲しいのですけれど。ざくざくざんざん、思い切り良くざっくりと」
「いえ、折角ですがご遠慮させていただきたく」
そんな固辞に「あらあら残念」と、たおやかな笑みを零しながら返す彼女だった。こんなやりとりはいつものことで、別段今の会話で私が気分を害することもなく、ちょっとやわらかい心地にさえなる。この家で生きることが窮屈だとは言わないけれど、我が身は儚く短きいのち。その折々に挟み込まれる会話はどんなことでも愉しいし、その相手をしょっちゅうしてくれる彼女には感謝こそすれ、負に傾く気持ちなど抱きようも無い。
筈、であった。
「まさにあなたが筆にて刻まんとするは、幻想郷の記録、その全て。私の髪などではありませんでしたか」
「それをするのが、私の役割で御座いますゆえ」
「役割。天命なるもの、そう仰いますか? 成る程あなたはこの先も生まれ変わり、文字を記していくのでしょうね」
「ええ、そうです」
ひゅうと弱く風が吹き、私たちの髪を揺らす。
「大した用では無いと言ったのだけれど。ひとつ、聞きたいことがあったのです」
「何、でしょうか?」
「御阿礼の子は短命。幾度とそのいのちを繰り返し、文字を紙へと刻み込んできた。そこで聞きたいこと。それは死、死の話。そのいのち尽きる、際(きわ)のお話」
「それは、なにゆえで御座いましょう?」
「私自身が、知らないことだからですわ。友人に亡霊もおりますが、凡そ自らのいのちが尽きた瞬間のことを、覚えては居ないらしく。ですから、私も知りようが無いのです。他の亡霊にいちいち聞いて回るのも面倒なので、身近なるあなたに尋ねようと思いますれば」
不躾な、と言う声が頭に浮かんだが、それが口から放たれることは無かった。
頭がくらりとする。今日は気を入れて書きすぎた。頭の端っこがぼんやりとし始めて、それが中へと浸透していく心地。
「あなたは、あなたの死を如何に捉える。そう、私は問うております。第九代阿礼乙女、稗田阿求」
りりん、りん。
夏の陽炎、その紅に。
混ざる青色、懐かしくも透明なる音は、何処か遠い処から……
*********
風鈴の響く音は涼しくつめたく、それでいて何処か物悲しい。今の私は、そう感じている。
暑さ寒さも彼岸までと言われども、それを過ぎてもそれらは残る、確かに残る。実際の処、私の額を流れる汗は夏の残滓が起因していることに他ならない。
「何故、あんなことを」
彼女は私に問うたのだろうか。何時の間にか姿を消していた様子だったから、それを尋ねることは出来なかったけれど。
何となく。何となくならわかる。御阿礼の子、確かに彼女はそう言った。
あの日中から一夜明けて、またお天道様はぎらぎらこれでもかとばかりに外を変わらず照り付けている。この身の強き弱きに関わらず、その下へと晒されたならば、ただ焦がされて私は呻きの声をあげるだろう。身体、だけではなく。心までもが焦がされる。勢いよく燃え盛るのならまだ良い。ただ、そんな炎が上がることなど勿論無く。
机の脇に乱雑に置かれた紙の束を、なんとなく見やる。本にする前の原文など私の頭にすっかり残っているけれど、それを他人の眼に触れさせるとなれば、きちんと纏めて体裁を整えなければならない。
白紙にしたためられた黒文字。刻み刻みて、大層な量にもなった。もう残せるものは残せたわけで、これ以上私は何を書けば良いだろう。
その思考は、些か気弱。書き記すものなどそれこそ無限の無尽蔵、書けども書けども新しいことは世に起こるわけで、其処に迷いを抱くこと自体が少しばかり情けない。
「私のいのちが、短いから?」
問いかけのかたちで言葉をぽつりと呟いた処で、受け止めてくれる誰かが居なければ、それはただ空白に吸い込まれるだけ。声とは、ただ崩れやすく脆いものでしかない。
その点、文字は違う。確かに刻まれ、確かに残る。それは何処か安心で、だからこそ続けられるのかもしれない。いのち短き、この身なれども。
いのち。いのち、か。
私が、私の死を、どの様に捉えるか。そう、彼女は私に問うた。
それが尽きる日のことから、私は眼を逸らそうとはしていない。つもり。
この身を授かったときから把握出来ていることで、生きる時分から次の一生のことを考えなければ追いつかない。出来るならば穏やかに、この身は果ててくれないだろうか?
残念なのか幸いなのかわからないけれど、私は先代の私が死ぬ瞬間、どのような気持ちを抱いていたかを覚えていない。わからないからこそ、少しは怖い……
「少し」と思う自分に、自嘲が零れる。未知なるものとは、心躍らせるにも恐怖を宿すにも、秤の目方を振り切るくらいの重さを持っている。知ってしまえば軽かった、などというのはあくまで事後の話。其処に至るまで、未知は私を押し潰さんばかりの重さを以てのしかかる。
捨て鉢、という言葉がある。どうでもよく、投げやりになる有様。私の先祖、私そのものである代々において、今の私のような気分に陥った者は、果たしていなかったのか? そう思えども、確かめようも無い。己を端に疑問を発しながらも、その事実を知るのもまた恐ろしい。
紙に記された、私の成果。これこそは、私の全て。
もし今、この刻まれた文字に火を放ったなら、勢いよく燃えてくれるだろうか?
天に届く程の炎を、あげてくれるだろうか?
その問いに対し、私はひとまず否という声を心であげた。理由はふたつ。
折角紡ぎあげたものを燃やすことがまず有り得ないだろうという、そもそも解すら出したくなかったという意味の否定がひとつ。もうひとつは、どうしても私の文字が記された白紙が、炎を纏う姿が想像出来なかったため。
全て、と私は思った。言い換えれば、これらは私の裡に秘めたる念の全て。それが高々と炎をあげるなど。華やかに昇り行く火の粉、それが天へと昇ることはあるまい。炙られ焦がされ、じらじらとただ炭にならん。いずれ我が身が、そうなるように。
そんな、暗い気分になっていた私だったから。
「今日は、書き物をしないのですか?」
その原因を作り出した大妖怪の声ですら、今となってはありがたい。
「中々にして、気分も乗らず。あなたの所為と言っても良いですか? 紫さま」
「申し訳ありませんでしたわ。私としては、どうしてもあなたに尋ねなければならなかったので」
「なにゆえ、ともう一度問うことなどは致しませんよ?」
「ええ、そうしていただけると有難く」
「茶を用意いたしましょう、良い玉露などありまして。暑い最中の熱い飲み物も、かえって涼しい心地を染み込ませてくれますよ」
「いえいえどうかお構いなく。今日も今日とて、私はあなたとお話が出切ればそれで満足」
時の刻みが、未の八つ半を過ぎる頃合だった。この時刻のお天道様の光が、何処か特別のものであると常日頃考えたりもする。陽暮れ時、今は其処に至る前。
こんな暑い時分に物好きと言われるかもしれないが、物書きの合間合間にて、私は庭に出ることもある。光に焦がされ炙られないよう、庭の樹下へと素早く入り込み、幹へ背を預ける。
光の角度、が問題なのだろうか? そんな時の私が上を見上げれば、お天道様の光が白く葉の隙間から零れ落ちてくるのはわかるが、何よりその葉が揺れる様が、くっきり一段と濃い影を映しているような気もするのだ。遠くに見える空は薄く青く、そこへ割り居るように影が刻まれる。それは一枚の影絵だった。
文字のように、うつくしい。空色の紙へ、鋭く切り込む影の有様。
あんなにも際立った陰影を顕すというのに、少しの風が吹いてはさわさわと揺れ、緑の匂いをそれは振りまく。
ああ、丁度今、庭へと降りて樹下より上を見上げたならば、そんな光景が広がるに違いない。
けれど、少し我慢。お客人を誘ってまですることでも無いし、今交わされるとりとめもない声のやりとりだって、かたちには残らないけれどそれなりの色を持つ。
「こんなに暑い日は。海もまた恋しくなったりもしますわ。海、をご存知?」
「知識としては、若干。大きな大きな水溜りであるなど。あと、文字のかたちならば記憶しております」
うみ。
この山間、私は直接に海というものを見たことが無い。文字による知識はある。例えば、潮の香りがするという。例えば、青を映し出しているという。色は辛うじて捉えられても、それ以上のことは想像しようも無かった。
筆を手にとり、「海」と一文字、ざくりと紙へしたためる。文字と紙との境界に、じわりと灰色の滲みが広がる。私はこの言葉から何の感慨も抱けなかった。
「海、とはどのようなものでしょうか」
「どのような、ですか? 見たままを語るならば、広く、そして大きい。あなたの言うとおり、それは大きな水溜り。ただその様子は、静けさと荒ぶる様の両方を孕みます。風が吹いていなくとも、水と空気の境界は、常にゆらゆら揺れるばかり」
「途方も無いものですか。私が見ては、眼が眩んでしまうでしょうね」
「あら。あなたはよく、空を見上げるでしょう。そうですね、丁度あの色に似ているようにも思いますが」
彼女は部屋の縁側に立ち、日陰の下より上を示しながら言う。
「海の青は、空のそれと似ているのですか」
「ええ。ああ、でも……」
「でも?」
「海は、誰もが身体の裡に有するものでもありますわ。私、そしてあなたにも。この小さき器、その内側は果てしなく広い」
りりん、りん。
風鈴の音が、空気を震わせながらに響く。暫くお互い何も語らず、ただ在る夏の一時を、過ごす。
「静かなるもの、荒ぶるもの。その両方をあなたが持ち合わせなければ、外側からそれらが訪れたとき、しかと受け止めきれることは出来ないのでは」
「私は私なりに、思うまま書き連ねてきたつもりですけれど」
だが、刻み連ねて「やりきった」と言を発するのもおこがましい。そう思う自分も居る。
「そう……時に。この風鈴は、とてもうつくしい音を奏でますね」
「はい、それはもう」
「静かなるもの。静物」
彼女は縁側から部屋へと踵を返し、丁度机を挟んで私に向かい合う位置にて腰を下ろす。
「静物のこころは怒り、そのうわべはかなしむ」
「詩句の類ですか?」
「作者の名は忘れました。いずれにせよ、私の言葉ではありませんけれど」
「この涼しげな音も、実は怒りを孕んでいる?」
「いえ、喜びかもしれませんわ?」
結局の処、わからないということ。私たちは、ただ奏でられる音を耳にする他ない。
そもそも、その心の内側までを、私が見透かす必要があるのだろうか?
見透かし、それを刻む必要があるのだろうか?
でも。
「それを想像するのは、愉しいものでもありますね」
「そうですか。あなたが記すは、幻想郷縁起。あなたはそれ以外に、物語を綴ってみても良かったのでは」
「いえ、そこまで時は待ってくれないでしょう。詩吟の感覚は、私には必要無きもの。そういった類は」
書くという行為そのものに対する迷い。
迷いそのもの、かたちなど有しない筈のそれ。
それが輪郭を持ち始めた時は。
「……そういった類は。次、次なる私へと。託してみるのも、悪くありませんね」
私が、この時代の阿礼乙女としての役割を。
須らく、終える時。
ざわりと、背筋を下から上へ何かが走り行く感覚。それが丁度首の後ろあたりまで辿りつき、ざ、ざざ、ざ、という音を発している。
手で触れようとしても、掴めまい。この気配、怖いようでもあって、不思議と気分が落ち着くようなものでもあった。
「申し訳ありません、紫さま。先日のあなたの問いには、やはり答えられそうにありません。本日、私のいのちは尽きましょう。ですから、それはこれから実感として捉える他ありません」
「……そう、ですか。ならば。また次なるあなたに、問うことと致しましょうか。本当に不躾な質問でごめんなさいね。あなたは矢張り忘れてしまっているけれど、これは『あなた』との約束ですから」
生温い風が吹く。一度お天道様が顔を隠そうとすれば、それなりに夜は涼しい。
そうか、そろそろ夏も終わるか。
「これより、身支度に入りますゆえ。それでは、また」
「ええ、またいつか」
最期の言葉は、再会の意を汲みながら。大妖怪の姿は、隙間の向こうへと吸い込まれ、消えていった。
そろそろ、陽が暮れる。
そうなれば空は、紅々と染まるばかり。
そして程なく、闇は全てを覆い隠さんとする。
* *
『これより私の部屋へ、何人も立ち入ることの無き様』
家人に言遺し、私は自室へと戻る。
父と母は、私の言葉を聞いた端から、泣きに泣いた。御阿礼の子はいのち短しと言えども、私はまっとうに母より生まれし人の子であるから。
子が、親より先に逝く。阿礼の家系ならば、ある一定の周期を持って訪れる必然の出来事。私は勿論、人並に恋をして誰かと結ばれ、そして子を宿すことも無かった。自らが親にならなければ、わからない感慨? どうなのだろう。
私は私で良かったと、今は思う。その涙で、私は御阿礼の子としてだけではなく、ちゃんと愛されていたのだと知ることが出来た。
腰を下ろす。使い慣れた古びた筆と硯、紙を押さえるための文鎮、そんな書き道具諸々を載せたこの机。ああ、家の猫が飛び乗って、墨汁塗れにしてしまったこともあったっけ。拭き掃除はしてみたものの、跡になって残ってしまっている。
「……」
静かに静かに息をしながら、様々な思いが、私の心の裡にて荒ぶる。
準備は、最早万端だった。
あとは死、死を。
「待つばかり、とは言え」
それまで何もしないと言うものも、何とも退屈……退屈、という表現は合わないだろうか?
勿体無い、そうだ勿体無い。死するにあたって、それは穏やかなものでありますようにと、考えていたけれど。我が代にて、残せるものは全て遺した。あとの纏めは家人がしてくれる。
ならば今、今の想いは?
それを抱えたまま、私のいのちが尽きるなど。
勿体無くて仕方無い!
筆をとる。
私の身体が保つのは、果たして幾許なるものか?
* *
ざんざんざん。
勢いもよく筆走る。
僅かにくすんだ白色が紙、記すは文字の連なりを。
黒なる墨にて白なる紙をば切り込み刻まんとするばかり。
私がひとたび筆を動かすときは、躊躇いひとつあること無く。
部屋を満たす静謐に、紙を刻む音が割り入る。
書いては投げて、書いては投げて。
紙は花びらの如く、ばっさばっさと部屋を舞う。
取り留めなく思うまま、切り込む筆は縦横無尽。
思いの丈はとめどなく、紙へと粛々刻み込まん。
何故私はこうして書いているのだろう。
天命だから? それが御阿礼の子、その運命だから?
今は、今だけは違うと答える。
文字浮かぶ。言葉溢れる……さればこそ、さればこそ!
一枚一枚、また一枚。
静物の、心は怒りてうわべのかなしむその様。「器」の一文字、ざくりと刻む。
かくも短しこの人生、痺れる腕を抑えつけ。「身体」の二文字、ざくりと刻む。
涙の今流れるは、今だに息をするがゆえ。「いのち」の三文字、ざくりと刻む。
「っくぅ」
溢れる言葉は止まらないのに、眼の前がどんどん暗くなっていく。
わかっていた筈。そのわかっていた筈のことが、今眼の前に迫り来る。
でも、不思議と焦りは無かった。
平生の私は、あくまで淡々と、書くべきことを記してきたのだから。
今の私が、もっと時を、もっと言葉を、もっと知識をと求めてみても。
これ以上私の器は、それらを抱えきれない。
そうか。
満ち足りてしまったから。
今の私は、溢れてしまうのか。
ざざ、ざざん。
筆の切り込む音とは別に、身体の裡よりそれは響く。
今存分に溢れる有様、私の血、紅の血が踊っている。
「血」
一言漏らす。
「血潮」
「ちしお」。その言葉を、また紙にしたためる。
きり、と唇の端を噛んだ。そして口の中に広がるは、血の味。少し鉄っぽい、紅い匂いなどのする。
潮の香りを、私は知らなかった。でも、私の小さな身体の中に、やっぱり海はあったんだ。
こんなにも、こんなにも熱く滾る。彼女の、言った通り。
ああ、海、海の、なんて、あかい。暮れ時の空を抱いて、やわらかい光の放つ……
本当の、海を。
もう今の私は、眼にすることなど出来ない。
次代の私は、どうだろう。
私と同じように、いのちはきっと短いだろうから。
それでも。それでも。
新しい私。次なる私は、求めても良いかもしれない。
呼吸が、驚くほど落ち着いた。舞っていた紙は、部屋の畳へ幾重にも折り重なっている。
私も居住まいを正して、装いも新たに紙へと向き合う。
「阿求」
私、第八代阿礼乙女、稗田阿弥が紙に刻む言葉は。
次なる私の名を記し、これにて最期。
ぽつりと血が零れて、黒文字に吸い込まれていく。
筆を置いて、私は障子の戸を静かに開ける。
夕暮れはすっかりなりを潜めて、今は深い深い夜の最中。
夜の海は、どうだろう。
うつくしいだろうか。それとも、どこかさみしいだろうか。
満ち足りてしまった私は、溢れる言葉を抑えることが出来ない。
ああ、それでも――
りりん、りん。
夏の終わりを告げる風。
懐かしくも透明なる音は、ひっそりと夜の闇に混ざる。
そのまま、遠い処へ。
何処か遠い処へ、届けば良い……
*********
涼やかな風が顔に当たるのを感じ、私は目蓋を開く。
「お目覚めですか?」
「ん、……」
視界の先には、はたはたと団扇で私を仰ぎつつ、顔を覗きこんでくる大妖の顔。
俗に言う、膝枕。そんなものを今、私はされているらしい。何たることとばかりに、私は身体を起こそうとする。
「紫さま、」
「急に起きられては、立ち眩みを起こしますよ? 私のことはお気になさらず、もう少しお休みくださいまし」
大した力を込められたわけでも無かったというのに、おでこの辺りをつんと指で押され、私は為すがままにまた膝元へ頭を預けることになった。
「申し訳御座いません」
「何を謝る必要があると言うのでしょう? 幾ら風が吹くとはいえど。これだけ暑ければそれにあてられることもありますわ。ああ全く、海が恋しい」
「海」
「ええ。あなた、海をご存知?」
「……」
海。その言葉を想う。私は紙にその言葉を刻む前から、「うみ」という響きに想いを馳せる。
「紫さま」
「はい」
「先ほどの紫さまの問いと合わせて、お答えします」
「成る程、お聞かせ願いますか」
「海なるものを、私は見たことがありません。この幻想郷には、ありませんからね。でも私の裡には、海、と読んで然るようなものが、何となくあるのだと思います。私の小さき身体が裡に収まる、広く大きなもの。それは私が求める全て、書くべきものの全てを、広く抱いて包んでくれるのです」
「……」
「死は……今の私にとっては、やはり些か恐ろしい。でも、それでも」
それでも、それでも。
「いつか私の海が満たされたとき。もう、文字にて刻みきれなくなるとき」
私は。
「受け入れられるだろう、そう、思います」
次の私へと、また繋がることが、出来るのだから。
伝えきったのち、私はよっこらと身を起こす。
「夏は夕暮れ」と聞き及んでいる通り。空は本当に紅い色を抱え、綿雲を寂しげに照らしながら、そこにあった。その様が、どうしようもなく美しくて、私はまた胸が締め付けられる。
「そうですか。その答えを聞けたのならば。私はもう、次のあなたへ同じ問いをする必要は、無いようです。私はただ、あなたの言葉、その答えを伝えれば良いのですから。なんとも、未知とは恐ろしいもの。けれど一度知ってしまえば、恐れも軽いものとなりましょう」
「えっ」
「いえいえ。こちらのお話です」
言っていることがよくわからなかったけれど。
彼女は微笑みを浮かべるだけで、そのままはぐらかされてしまった。
今の私にとって、死とは未知なるもの。それが恐ろしいことには、変わりない……
けれど。
もう凡そ自らが書ききれないと思える処まで到達出来たなら、少なくとも後悔は無かろう。
そんなことも、考える。
「紅茶、冷めてしまいましたね。新しいものを淹れましょう、紫さまも、如何ですか?」
「ええ、頂こうかしら」
もう半刻も数えない間に、夜がやってくる。
凛々と風鈴は揺れて、透明な青い音が夕暮れの紅に染み込んでいく。
そうしていつしか、陽も沈む頃。
すっかり闇が覆ってしまうまでの、ほんの少しの時間。
空は本当に不思議な、紫色を映し出す。
そんな様子を、私は生きる内に、紙に刻んでみようか。
今代の幻想郷縁起はもう少し書き足さなければならないから。
余裕は、恐らくないかもしれないけれど。
言葉は、とうとうと溢れ。
まだまだそれが尽きることは無い。
それだけでなく、私はもっと求めていこう。
幻想郷狭しと言えど、書くべきことは山とある。
私。第九代阿礼乙女、稗田阿求。
己の海が満ちるまで、このいのちを謳歌せん。
独特のしんみり来る感覚が心地よかったです
阿弥が最後の筆を取るシーンでは、全身の毛が総立ちになりました。
素晴らしい作品をありがとう御座いました。
ひたすら文字を走らせるシーンの迫力に圧倒され、同時に涙が出そうになりました。
どうもありがとうございました。
お見事でした。
いや、素晴らしいお話でした。
彼女たちの感情などが文章の中に詰め込まれているようでした。
彼女たちの想いに惹き付けられるような良いお話でした。
自らの想いを少しばかり次代へと託す御阿礼の子、阿求はどんな想いを託して行くのでしょう。
美しいという表現が真に正しい物語。
お見事と言う他ありません。
あとがきの締めも余韻を消すことなく、むしろ感動を増していて。
久々に心が震える物語を見られて、感謝しています。
そして後書きの一文にもやられました。お見事です。
たった三十年で満足できる死を迎えられる人間がどれだけいるのか。
できることなら、自分もどこまでも広い海を持ちたいものです。
>>30さま
ええと、はい。八代目です……
あと投稿日を見て、真冬にこの夏の描写が書ける事自体がすごいとも思った。
素晴らしい
なんかもうひたすら素晴らしい
ありがとうございました
こと、阿求ファンのわたしにはとても気に入る作品でした!
古風な雰囲気を漂わせながら、書くべきこと・書くべき雰囲気が細大漏らさず伝わってきました。
物語の流れに合わせて盛り上がるこの文章の魅力など、敬服いたします。
繊細な作品かと思いきや、阿弥のシーンの何と力強いことか。
少女の、死を前にした最期の生命力に思わず鳥肌。
語彙の選び方も、文のリズムを損ねぬよう、慎重に選ばれていて、流れるような綺麗な文章でした。
きれいな字面の文章なのに熱を感じる