ちっちゃな頃から悪餓鬼で~、七つでお山に放られたよ。
“おにぎり”
昔々のお話です。
近江の国、伊吹山と呼ばれる山に伊吹弥三郎という男が居りました。その名の示す通り、彼は代々この伊吹山の主たる家筋の者でありました。
また同じ土地に、大野木と呼ばれる名家がございました。この家には見る目麗しき娘が居りました。彼女は弥三郎と恋に落ち、やがては結ばれる事となりました。
さてこの弥三郎という男、見目良く、また大層に力も有る男ではありましたが、これがまた幼い頃からの大酒呑み。それがどれ程のものかと言いますれば、正体も無く呑み過ぎて酒を枯らしては、街道筋に下りて道行く旅の商人を襲いその荷に有る酒を有無も言わさず持ち去るような有様。
また酒の肴として野山の獣を狩っては、そのままに引き裂いて血肉を喰らい、喰らい過ぎて獲物が取れなくなれば、今度は里に下りて家畜の牛馬までを襲い奪う始末。真、怖ろしいものでございます。
昔、出雲の国に八岐大蛇という大蛇が居りました。この大蛇は生贄として生きた人間を喰らい、また怖ろしい迄の大酒呑み。けれどもそれが仇となりました。八つの頭にて八つの大甕に満たされた酒を呑み尽くし、酔いて潰れた所を素盞嗚尊に退治されたと言われております。
さてこの大蛇、死して後に変じて神と成りました。今に言う伊吹大明神であります。伊吹大明神とは即ち伊吹の山に座します神。
弥三郎はこの伊吹大明神、八岐大蛇を祀る家筋の者なのです。なれば酒を好み獣の生き肉を喰らうもこれ道理、人々はそう言って弥三郎を怖れて山に近付かず、近くの街道は誰も通る者も無く、里も閑散として荒れるまま。
そんな話を聞くに及んで大いに驚いたのが大野木の主。可愛い娘が嫁いだ先がよもやこの様な男とは。こやつは人ではない、化生の類だ。このままにしておけばいずれどの様な災いを引き起こすかも知れたものではない。
どうにかして弥三郎を殺してしまわねば。大野木の主は一計を弄しました。
娘の嫁ぎ先、伊吹の家に自ら出向き、贅を尽くした美味珍味の類と酒とを以って弥三郎を持て成したのです。
嫁の親父殿からこの振る舞い、弥三郎は大いに喜び、宴となっては食べに食べて呑むに呑む。大野木の主が馬七頭を以って用意した酒の悉くを呑み尽くさんとするその勢い、さしもの大上戸もついには酔い潰れ座敷に倒れ臥せました。
それが運の尽き。
しめた、とばかりに大野木の主は弥三郎の躰に深く、深くに刀を突き刺し、そのまま己の屋敷へと舞い戻りました。
三日が過ぎ、酔いも抜けて目の覚めた弥三郎、自身の躰に刀が突き立てられている事に気付き、これは大野木に嵌められたか、そういきって立とうとするものの急所を深く突かれた身ではそれもままならず、とうとうその命を落とす事となったのです。
こうして弥三郎が退治されて後、彼を怖れていた人々も大喜び、里も元の賑わいを取り戻したという事です。
めでたし、めでたし。
◆
◆
「この化け物がっ」
その言葉を聞いて私は噴き出さずにはいられなかった。ああこりゃ、何て可笑しいのだろうって。
何が可笑しいかって、言ったそいつの見た目が可笑しい。全身毛むくじゃらで突き出た口にはずらりと牙。どう見たって山犬。そんな奴がご苦労な事にわざわざ二本の脚だけ立ち上がって、ついでに人の言葉まで喋ってくる。
で、その喋った言葉が化け物、ときたもんだ。
「お前のその口で言えたものかよ」
草木も眠る丑三つ時の山中、草木ではないからなのか何なのかは知らんが、ぎゃんぎゃん喧しく騒ぎ立てるその犬を前にして、私は笑わずにはいられない。てめぇだって立派に化け物じゃあないか。
「知っているぞ、知っているぞ。
伊吹童子め、儂は知っているぞ」
こちらの言う事には耳も貸さずに犬はぎゃあぎゃあと吼え立てる。犬が吼えるはそりゃ道理だけど、その中身が人の言葉とあれば聞いていてどうにも耳に煩わしい。吼えてばかりでないで噛み付いて来りゃあまだ面白いのに。
「人の腹から出で来た餓鬼が、悪行過ぎては愛想も尽かされ、ついには山へと棄てられた。
それがお前なのだろう。伊吹の山に棄てられた伊吹童子っ」
一体何が嬉しいのだろう。犬はきゃんきゃん吼え続けている。全身血塗れ傷だらけの癖して、まあ元気で結構な事だ。
心で嘲りながら手に持つ瓢箪を口へ付けその中身を喉に流し込む。酒でも呑まなけりゃあ、とてもじゃないがまとに聞く気も起きないその戯言。
喧嘩を売ってきたのは奴の方だった。調子に乗っている人崩れに山での道理を教えてやる、そう言って噛み付いてきた。
それがまあ、軽く二三発叩いてやったらもうこの有様。間合いを離して決して近付かず、立派な牙の生えたそのでっかい口を只々罵詈雑言を吐き出す為だけに回し続ける。
使わないんだったらへし折ってやろうかね、その牙全部。
「人の癖をして人にも交じれぬ人崩れめ。貴様の様な半端者が山の獣を妖を打ちて殴りて好き放題。調子に乗るなよ小娘が」
ああそうね。全くもって言う通りだわ。
私は人の腹から生まれた。それなのに人の世では生きられずに山へ棄てられ外道に入った。
腹が減ったら獣を殺して喰ってるし、こちらを捕って喰おうと襲ってきた化け物どもは例外なく返り討ちにしてきた。
ついでに七つで棄てられてからこの数年、殆ど見た目も変わっちゃあいない。言われた通りの正に小娘だ。
まあ、背丈は一応伸びているけれどもね。背ぇの代わりに角が生えて伸びてきてるから。それも二本。
で、奴の言ってる事は正にその通りなのだが、だから一体何だと言うのだろう。それが気に喰わない、と言うのであれば力で示せば良いだけの話。出来ないのなら黙って隠れてろ。
なのにまあ、こいつときたら、人でない癖をして人の噂をその耳で取って、それをそのまま口に出しては何故だか随分と大威張り。山がどうだ妖がこうだと偉そうなこと言う割りにさ、てめぇの方がよっぽど肝っ玉の小さい人間みたいじゃあないかってんだ。
「母に棄てられた悪童が。さっさと喰われて果てれば良かったものをっ」
ったく。ああ、もう良いよ。もう飽いた。こいつの下らないお喋りに付き合ってやるのも。
小物相手に無駄に力振るうも阿呆らしいからと思ってはいたけど、もう良いや。
殺そう、こいつ。
「来るかよ伊吹童子」
こっちの殺気に気付いたんだろう。犬はまたじりじりと間合いを離す。
って言うかさ、半端やってないで逃げるんならケツ見せてさっさと走って逃げれば良いのにねえ。見得張ってる心算なのかね、二本足の畜生風情がご大層に。
ああそれとも、山中走る分には自分の方が速いとかって、そう思って余裕こいてるのかしら。逃げようと思えばいつでも逃げられるって。
なるほど確かに、足だけで見たらそりゃ山犬の方が速いでしょうよ。
でももう遅いよ。
私は力を使うって決めたんだ。逃げて近寄らぬ相手は無理矢理にこっちへ引き寄せてしまえば良いだけの事。
もう、逃げられない。
「ぶぎゃう」
これまた不恰好な叫びだった。そうして一瞬にして消え失せる化け犬の姿。
でも、私じゃない。
「やれやれ。全く」
代わりに見えていたのは一人の人間。
結構でかい。大きな編み笠を深くに被って顔もよく見えないが、声からして女。それでも並の大人の男に劣らぬその背丈。
「弱い犬ほどよく吼える。別に恨みも無いが見ていて鬱陶しかったんでね、ちょいとどいてもらったよ」
この女が犬を消した。普通の人間よりも大きな化け物の首根っこを左手一本でむんずと掴み、そのまま河原の小石でも投げ捨てるかの様にして軽々と。
只の人間じゃあない、このデカ女。
「あんたが伊吹童子だね。この山で一番強いっていう」
言ってそいつは腕を打って鳴らしてみせる。
その言葉、その態度。ああ、成る程ね。大体判った。
「力試しがしたい。そういう事かしら」
「そ、話が早いね。一勝負、付き合っちゃあくれないかい」
「……勝負?」
勝負って、はっ。
その言葉を聞いて、思わず私は鼻で笑ってしまった。勝負ってさあ、何を馬鹿げた話を。
確かにあの山犬の化け物を投げ飛ばした、その力の程は認めるよ。人間にしちゃあ大したもんだ。
でもその程度だったら私にだって軽く出来る。私だったら手だって使わない。
そもそもが違い過ぎるのよ。私と人間とじゃあ。
「勝負をしようと言って、勝負になる筈が無いんだけどねえ」
そう言って私は仁王立ちになる。
普通にやっても面白くも何ともない。それでもまあ、山に入ってからここ迄、人間から勝負を挑まれるなんて珍事は初めてなのだ。もうこれ二度と無いかも知れない機会、折角なんだから楽しませてもらおう。
その為にちょっとした工夫をしてやる事にしたのだ。始める前から結果の判りきった勝負を、それでも少しは楽しくしてやる為の工夫を。
「あんた、まずは一発、私を殴って良いよ。その際こっちは手を出さない。
それで一歩でも私の足が動いたならそっちの勝ちだ」
「良いのかい。こう見えて私、力には結構自信が有るんだけど」
「構わないさ。
但し許してやるのは一発だけ。その一発で動かせなかった時は、私も遠慮なく反撃させてもらう」
こっちの提示した条件を前にデカ女はうんうん唸って見せる。
何を悩む必要があるんだろうね。まさかこれじゃ公平じゃないとか、そんな巫山戯た事でも考えているのだろうか。
確かに公平ではないけどね。これだけやってもまだ私の方が遥っかに強い。
「正直最初っから普通の勝負でいきたかったんだけど、まあ、こっちがお願いをする立場なんだし文句は言えないか」
やっとデカ女は納得してくれた様だ。て言うか納得したその理由が何処かずれてる気もするけれど。
木っ端を散らした程度で調子に乗っているのかしら。分をわきまえろっての、人間如きが。
「それじゃあ一発、本気でいくから」
「どうぞ、遠慮なく」
デカ女は右手に拳骨を作って高く掲げる。そうしてそれは一瞬にして私の頭上に。
◆
◆
「……よ。そう、それが貴方の名前」
声が聞こえる。
何だかとても懐かしい声。
でも駄目。音が遠くて、何故だかとっても遠くて、言葉がちゃんと聞き取れない。
「その名前のように、…………ように、いつかは貴方の周りにも、…………が……ますように……」
音は更に遠く離れていく。
駄目、行かないで。
私は必死に手を伸ばして。
◆
◆
むにゅ。
「むにゅ?」
伸ばした手の先に感じるその感触。柔らかい、のだけども結構弾力もある、ような。
何よ、これ。確かめるようにして指を動かす。
「おやおや。寝起きにチチ恋しいとは見た目以上に子供なのかねえ」
ちょっと困った感じのその声。誰だろう。聞いた事のある声。
そうだ。あのデカ女の声だ。
でもチチって何だろう。ちち。父かしら。それとも。
それともこれは。
「乳っ」
思わず飛び起きた。ぱっちり目も覚めた。私が伸ばしたその手の先にあったのは、あのデカ女のっ。
「な、何するのよっ」
「え。そりゃ私の言い分じゃない?」
咄嗟に叫んで手を離す。ちょっと不意を突かれた様な間抜け面で応えるデカ女。編み笠は被ってない。結構可愛い顔してるわ。
って言うか、そうよね。冷静に考えればナニをしたのはこっちの方じゃない。何を混乱しているんだ私は。
「にしても大したもんだねえ」
そもそも何だ、この状況は。
私の目の前には爽やかに笑うデカ女の顔。辺りは暗い。ここは夜の山中なんだから、うん、暗いのは正解。それで正しい。でも上を向いても空も木々も見えやしない。見えるのはごつごつ岩肌だけ。
あれ? て言うかこれって薄暗いって感じかも知れない、暗いって言うより。いやむしろ、暗い中に一筋の光が差し込んでるとかそういう。
駄目、思考が纏まらない。ここは冷静に。順序良く。
丑三つ時の伊吹山、散歩してたら犬が何だか噛み付いてきて、次にはデカ女が現れて、それで。
「私の全力の拳骨を頭の天辺で受けてさ、並以上の妖怪だって丸三日は目を覚まさないっていうのに、それが僅か半日。
流石、子供ながらに一つの山で大将を張るだけはあるわ」
っそうだ。そう。ここは洞窟だ。犬やデカ女とやりあったあそこのすぐ近く、私が寝ぐらに使ってる小さな洞窟。差し込んでくるのは太陽の光。もうすっかり夜は明けてる。
つまりは何だ。私はこのデカ女の一発を受けて、一歩も動かないどころか一歩も動けない状態に。
「ああっくそっ」
何ていう醜態。余裕かました心算が一撃でのされて、その上敵にわざわざ寝床にまで運んでもらって。
最っ悪だ。山に入って以来、ううん、生まれてこの方こんな屈辱を味わった事なんてありゃしない。
煮えくり返った腹の内と頭をそのままで手を動かす。すぐにそれは見付かった。私の瓢箪。
ああもうっ。酒! 飲まずにはいられないッ!
「負けた腹いせかい? そういう後ろ向きな呑み方は良くないねえ。
酒はもっとこう、楽しく笑って呑まなきゃ」
言ってデカ女はこっちの顔を覗いてくる。随分とまあ元気な良い笑顔なことで。お手本とかそういう心算なのかしら。わざわざありがとう、貴方の目に写ってる私の顔はさぞかし不細工なしかめっ面なんでしょうねっ。
って言うか人の心情を勝手に探って、判った顔で決め付け代弁するとかすっごいむかつく。まあ、当たりではあるんだけどさ。
瓢箪に口を付けたまま、非難の意識を籠めて眉と眉の間に思いっ切り皺を寄せて睨みつけてやった。その腹立たしいまでの爽やかな笑顔を。
にしても。
こうして改めて見ると、うん、思ったより遥かに可愛い顔をしてる、こいつ。
あれだけの馬鹿力なんだ、これ編み笠の下の顔は、猪の顔面に岩でも叩きつけてやったかの様な厳つい見た目に違いないと思いきや。
見た感じ、歳は十の半ばか少し上、といった所か。若い。女、と言うよりまだ少女。
こいつ、さっき人のこと子供とか言ってくれたけど、何だよ、私と大して差も無いじゃん。
いや、こっち見た目は確かに十に行くか行かずかって感じではあるけどさ。実際はもっと上なんだ、これでも。
それとこいつの髪の毛。私も普通の奴らと違う、黒じゃあない、もっと薄い亜麻色の髪だけど、こいつもまた普通じゃない髪の色。
まるで夕日に映える晩夏の穂波みたい。長くてふわふわしていて、触ったらちょっとあったかそうかもって、そんな風に思えるその色。
瞳の色も普通じゃない。赤い色。そしてそれと同じ色した立派な角が一本、にょきっと額から。
……にょきっと。
額から。
って。
「角!?」
角だっ。角っ。
編み笠を被ってる時は隠れてて見えなかったけど、こいつ私と同じ、ううん、ちょっと違うけど、一本だし、ああでも間違い無く角が生えているっ。
私は人間じゃない。だって人間は頭から角なんて生えないもの。そして目の前のこいつ、こいつもまた角が生えていて。
「あんた、人間じゃあなかったのかっ」
巫っ山戯るなよな。道理でこの私が一発でのされる訳だ。ってかそういう事は先に言えってのっ。そうしたら私だって。
「あれ。気付いてなかったのかい」
私だって油断しなかったのに。
そう文句を言ってやろうと思ったけど、やっぱやめた。
何だよこのデカ女、如何にもさあ、びっくり驚きましたあ、みたいな面見せつけやがって。
「気付いてなかった訳じゃない」
こんな状況で気付いてませんでした、なんて言えるものか。
それじゃあ私まるで、自分で自分の事を気の抜けた阿呆だと言い触らしているみたいなもんじゃないか。相手の力量も見抜けず気を抜き過ぎる阿呆。
認められるか、そんなもの。気に喰わない。
「人の姿をした妖怪は、自分以外には見た事なかったのかねえ。
そこそこ格の高い奴だったらむしろ、人に変化している方のが多い位なんだけど」
こっちの話を聞けっての。気付いてたって言ってるでしょ。
……まあ、妖怪かどうかは兎も角、普通の人間じゃあないってのは判っていたんだし。
それにさあ、何だよその言い方。
確かに私、化け物らしい化け物しか見た事ないけどさ。それって何さ、私が今まで相手してたのは雑魚ばっかだ、だからそいつら倒して調子乗ってた私も格が低い、そう言いたいのかってんだ。
本当、腹が立つ。
「て言うか、そもそも普通なら気配で判断もつきそうなもんなんだけどなあ。見た目幼いとは思ったけど、もしかして実際、まだ二十三十の子供って事なのかしら」
本当に、本っ当にまあ、一々こっちの気に障るのがお上手な事でっ。
そうかよ、あんたにとっちゃあ二十三十でもまだ餓鬼かよ。あんたも見た目通りの歳じゃあないって事かよ。そりゃこっちも同じだけどね、それでも私ゃまだ二十にも届かぬ餓鬼ん子だよ。
ああ悪かったね、ご期待にそえなくってっ。
「笠で頭隠してたのは道中要らん面倒を避ける為だったんだけど、気付いてないんだったら端から脱いで見せるべきだったね。
その辺こっちの不手際だった。ごめんよ」
ごめん、だって?
「構わないよ。勝負は勝負だ」
巫山戯るな。
本当に、本当にもう巫山戯やがって。
頭ん中がもう、熱でどろっどろに溶けてぐつぐつ煮立ってるみたいな感じがする。叫び声上げて殴りかかってやりたい。
でもそれを抑えて、爪が食い込んで甲の側にまで突き出るんじゃあないかってくらい強く強く拳を握って、それでも努めて冷静な声で応えてやる。ここで切れたらこっちの負けだって、何だかそんな気がするから。
ああっでも。駄目だ。こいつ本っ当にむかつく。
何が許せないかって、ごめんと謝るその言葉、その声色や見せる表情に一切の皮肉の色も感じられないからだ。
敵を前にしてまともに力量も見抜けぬ愚か者め、とか、そんな嘲りは一切見えない。
こいつ、本当の本気で申し訳ないと思って謝ってやがる。お互い全力を出した真っ向勝負をする心算が、自分の不手際で不意討ちみたいな形になってごめんさなさいって。
大したもんだよ。とてもご立派。ご立派すぎて叩き潰したくなる位。
ああきっと、このデカ女は思っているに違いない。自分は大人、相手は子供なんだからって。だからこんなご立派でお優しい態度がとれるんだ。大人は子供の前ではきちんとしなくちゃねって、そんな感じでさ。
畜生、馬鹿にしやがって。
「さてと、それじゃあ」
言ってデカ女はその手をこっちの目の前に差し出してきた。
って言うか、いきなり何よこれ。何の心算よ。
いやまあ、大体想像はつくけどさ。
「同じ鬼同士、お近付きのご挨拶に」
「まず最初に喧嘩吹っ掛けてきておいて、よくもまあ」
「強い奴とは力試しをしたくなる。それが鬼の性分だろう」
「知らないわよ。って言うかあんたって鬼なの」
「あんたも鬼じゃないか。頭に生えた立派な角がその証拠。
鹿じゃあないし、山羊でもないよ」
へえ、そうか。
そうなんだ。鬼なんだ、私。
人間じゃあないって自覚はあったけど、化け物だとは判ってたけど、でも具体的に何かっていうとはっきりはしてなかった。でもそうか。これからは鬼って名乗れば良いのか。
鬼。頭に角生えその剛力は並ぶ者なし。最大最強、そうして最悪の、人間の敵。
良いじゃあないか。強過ぎて、秀で過ぎていたせいで糞弱い人間どもから弾かれた私にゃあ、この上ない呼び名だ。気に入った。
「てな訳で、さあ」
爽やか笑顔で声かけてくるデカ女。けれど私は応えてやんない。
鬼。確かにそれは気に入った。私は鬼。んでもって、こいつも鬼。
でもね、だからといってこいつと仲良くしてやる義理も無い。
喧嘩してすっきりした後はお手々繋いで仲良し小好しってか?
はっ、巫山戯んなっての。怪力が過ぎて頭の中身まで筋肉になってるんじゃあないの、このデカ女ってば。
「ああそうか。自己紹介の方が先よね」
私の沈黙を何か別の意味に受け取ったみたい。デカ女がちょっと恥ずかしそうに頭を掻く。
私があんたの手を握らないのは単にあんたが嫌いだから。それだけ。変な勘違いするなっての、気持ち悪い。
ああ、でも良いや。一々あれこれ言うももう面倒。話がしたけりゃ勝手に話してれば良いよ。
「私は星熊勇儀。お空の星に獣の熊、勇ましいの勇で礼儀の儀。良い名前だろう?」
自分で言うかよ、自分の名前を良い名前だなんて。
ああ、でも。
「確かに、熊ってのはあんたにぴったりよね。正に熊女って感じだし」
無駄にでかくて力だけの能天気馬鹿。熊ってのは確かに合ってるよ。私は鼻で笑ってやる。
「お。良いねえ、それ。熊女か。強そうだし格好良いわね、何だか。
気に入ったよ、その呼び方」
何故だか嬉しそうにしてやがるし。皮肉も通じないのかよ、この動物頭は。
判ったよ、んじゃああんたは今から熊女だ。
「で、あんたの名前は」
デカ女改め熊女が訊いてくる。ってかさ、訊く意味あるのかしらね、それ。
「答える必要なし。だって知ってるんでしょう、あんた。最初に会った時に言ってたじゃない」
「伊吹童子っていうのは通り名みたいなもんだろう。
そうじあゃなくって、誰かから貰ったあんただけの名前っていうものがある筈だ」
誰かから貰った、私の名前、ねえ。
……ああ、糞っ垂れ。何だか凄い嫌なこと思い出した。
「そう言やずうっと前、弱っちくて何の役にも立たない愚図な人間が付けたっけかね。私に。名前を」
「そう、それだよ。それを教え」
「殺すぞ」
熊女の言葉を途中で切る。人間だったら小便垂れ流して泡吹いてぶっ倒れる位の殺気を籠めてやって。
「ああ、すまない。もしかいつか、気が向いたら、ね」
随分あっさりと熊女は退いてみせた。でもそれ、死にたくないから、じゃあないのだろうね。
腹立たしい事この上ないのだが、正直こいつは今の私よりは強いだろう。
私は人間なんか歯牙にも掛けないし、山の魑魅魍魎どもを相手にまともな手間を煩った記憶すらも無い。そんな私より、けれども恐らくこの熊女は強い。
それは単純に歳の差経験の差、そのせい。あと数年あれば絶対に追い付き追い越してやるさ。でも、悔しいけど今はまだ勝てない。
だからこいつが、私の言葉に臆して退いた訳じゃあないって、その事は判る。自分より力が弱い奴の脅しに屈する頓珍漢なんて居る筈もない。
ああ、どうせきっと、余計な話を訊いて気を悪くさせちゃったな、とか何とかご立派な事を考えて下さったりしてるんでしょうよ、この良い子ちゃんの事だから。むかつく。
「まあそれは兎も角、お近付きの印に、これ」
こいつ、お近付きごっこってのをまだ続ける心算らしい。また無駄に元気の良い笑顔で熊女が差し出してきたのは。
「にしても凄いねえ、ここ。こんな山奥の洞窟で水だの米だの釜だの、塩まで置いてあるなんてさ」
子供の頭くらいはありそうな、馬鹿でかくて不恰好なおにぎり一つ。ぶっちゃけ炊いた米をそのまま丸めただけって感じの代物。
「寝起きには腹も減るだろうと思ってさ、悪いけど勝手に使わせてもらったよ」
あらまあ、何とお優しい事なのかしら。
喧嘩の相手をわざわざ寝床まで運んでくれただけでなく、目を覚ました時の為に食事の用意までして下さってただなんてっ。
でもね、悪いけど。
「嫌いなんだよ、おにぎり」
鬱陶しい羽虫を散らすかの様に無造作に手を振るう。熊女の手に在るそれを叩き落してやる。
洞窟の地面に転がって砂利だらけになる、でかくて丸い米粒の塊。
「あああ。勿体無い。食べ物を粗末にすると罰が当たるわよ」
「バチが怖くて鬼なんかやってられるか」
「あはは、確かにそりゃそうだ。巧いこと言うねえ」
笑いながら熊女は転がった汚いおにぎりを拾う。
全く、心底気に障るなあ、こいつ。こっちの言う事に一々笑顔で返してくるその態度。私の吐く毒に、まずは肯定を合わせようとしてくる。頭ごなしの否定をしようとしない。
鬼の癖に、化け物の癖に何良い子ぶってんだよ。気持ち悪いし鬱陶しい。
「ま、好みはそれぞれだしねえ。嫌いなら仕方ない」
拾ったおにぎりを、汚れを払いもせずにそのままじゃりじゃり音立てて熊女は貪り食う。
こいつ本当に獣並ね。ある意味羨ましいわ、その何も考えてなさそうなお気楽さ。
「でもさあ、おにぎり嫌いなら何で米なんか置いてあるのよ」
「おにぎりが、嫌いなだけ。米飯を食べないとは一言も言っていない」
酒はわざわざ用意しなくても幾らでも呑める。食事も、肉ならばその辺の獣を捕って喰らえば良いし辺りでは木の実だって取れる。
が、偶には米も食いたくなる。だから水だの釜だの塩だのと共に置いてあったって、それだけの事。
「にしても。
こんな山中でよくもこれだけ。水は沢から汲んでくれば良いにしても、米だ何だはどうしたの。まさか自作でもないでしょうに」
当然だ。田んぼも何も無い山奥で米が作れるかってんだ。釜だって塩だってそう。って言うか水だって別に、わざわざ沢まで汲みになんか行きやしないし。
「萃めたんだよ。そういうのは」
「人里襲って強奪かい? 良いねえ、鬼らしくて」
っておい、良いのかよ、それ。何さこいつ、善人ぶってるのかと思えばいきなり、訳の判らない。
そもそもそれ以前、言ってる事が的外れだし。
何でわざわざ人里に下りなきゃいけないのよ。面倒だし、それに私は人間の面なんて見たくもない、こっちの顔だって見せてやりたくないんだ。
「私は山から動かないよ。ただ座って待ってるだけ」
「何だい、そりゃ」
獣頭に人間の言葉使って説明したってどうせ無駄手間。何も答えず手にした瓢箪を口に付け、一口の酒を呑み込む。空きっ腹に熱い液体が染み渡っていくその感覚。ああ、確かに寝起きは何か喰いたくもなるわね。
確か洞窟の奥に干し肉を置いてあった筈。
「お、お」
ふふ、驚いてるよこの熊女。
まあ当然だろうね。何せ誰も一歩も動いてはいないというのにさ、洞窟の奥から干し肉一切れ、ふわふわ宙を漂いながらこっちに飛んで来てるんだ。
「ま、こういう事さ」
手の内に迄やってきたそれを噛み千切って言い放つ。
こりゃ凄い、言って阿呆面かましてる熊女。
良い気分だ。やっとこいつに一泡吹かせてやれた。
どんなものでもそう。
私が欲しい、欲しいと強く念じれば、ものの方から勝手にこっちへと萃まってきてくれる。それが私の持つ力。お蔭で山中に座したままで何の不自由もありはしない。
詳しくは知らないけど、きっと近くの里から飛んで来てるのだろうな。人間どもの驚き慌てる顔が目に浮かぶ。こりゃ何だ化け物の仕業か、そう言って訳も判らず怖れ慄いているんだろうさ、きっと。
ざまあ見ろ。その通りだよ、化け物の仕業だよ。
「鬼ってのは単純に力が自慢だからねえ。そういう不思議な術を使う奴もそう多くはないってのに。
よくもその若さで。随分と修行も積んだんだろうなあ」
私の力を見て熊女、何だか一人勝手に納得顔でうんうん言ってるけどさ。
何よそれ、修行とか。そんな面倒で無意味な事、する訳ないじゃん。
「生まれた時から出来てたよ、この程度の事」
「へえっ、そりゃ凄い!」
ふふん、本当に良い気分。
そうよ、確かに単純な力では負けるかも知れないけれどね、あんたみたいな獣女にはこんな芸当、逆立ちしたって無理でしょうよ。
「さて、それは兎も角」
ってこら、随分と簡単に話を流すわねえ。折角こっち、初めて優位に立てたってのに。
「おにぎりが駄目ならさ、何なら良いかしら」
「何って、何が」
「お近付きの印」
……ちょっと。
ああもう、ちょっと。
こいつ何なのよ。この期に及んで何、まだお近付きごっことか言えちゃうわけ?
何だかもう、腹立つの通り越して疲れてきた。どんだけ仲良し小好しが好きなのよ、この天然女は。
「もう良い。さっきのおにぎり、あれでお近付きはハイもうばっちり上手く出来ましたって、そういう事にしといて」
「あれ。おにぎり嫌いじゃなかったの」
「嫌いだよ。大っ嫌いだよっ」
でもねえ、もう疲れたの、あんたと無駄話を繰り広げるのも。
だから良いよ。あんたの勝ち。お近付き完了だよ良かったねっ。
ったく、何だかなあ。こいつ、どうにも話してて調子が狂う。
一方的に噛み付いて来るなり何なりしてくれる様な奴ならまだやり易いってのにさ。そういう奴にはこっちもやり返してやる、それだけで良いから。
でもこいつは違う。訳が判らないんだよ。だからやりにくい。
「何でそんなにおにぎり嫌いかなあ。お米のご飯を食べるんだったらそれと大差も無いだろうに」
そういう問題じゃあないっての。まあ、空腹と満腹の区別しか出来なさそうな獣の頭じゃ、その辺の理解も難しいのかも知れないけどねっ。
「聞きたい? 理由」
「そっちが話してくれるって言うのなら、是非」
ああ、ああ。まただよ。
相手の意思をまず尊重しますよーって、とてもご立派その態度。これ、さっき迄だったらまた腹も立ったのだろうけどさ。
ああでも、こいつのさ、如何にも大人だ善人だーって、そんな態度に心底いらいらさせられてさ、それがこっちの術を見せ付けて驚かせてフフンざまあ見ろって良い気分になってさ、でもをれを天然の惚けで見事にすかされてさ。
あれこれやってたら本当、疲れた。腹立てるだけの気力も失った。
だから、まあ良いか。昔話くらい。
面白くも糞もない話だけど、それを口にしたところで減りもしなけりゃ増えもしない。状況何にも変わりやしないんだから。
尤も、世の中にはそんな現実に目も向けず、だらだら愚痴ばっか垂れ流す弱い人間も居るんだけどね。
私は違うよ。私は愚痴なんて下らないものは吐かない。
これも只、請われて仕方なく話す、それだけの事。
◆
「また悪さをして。やめなさいと言っているでしょう」
私が野駆けから帰って来た時に、母が浴びせてくる言葉はいつも同じだった。
その顔に浮かんでいるのは怒り、ではなくて悲しみ、いや、それも少し違うかも知れない。焦燥、と言うのが一番近いのだろうか。周囲の人間達が立てる噂に気を削られてる、そのせいなんだろう。
私は生まれたその時から言葉を知っていた。小さな子供の身でありながら、大人の男を含めた周りの誰よりも力が有ったし頭も良かった。
別に鍛えた訳でも勉学に励んだ訳でもない。只、生まれた時からそうだったのだ。
化け物の血が半分混じっているからだ。周りの人間達は皆そう噂した。
最初の頃はこっちが道を歩いていると、侮蔑の言葉と一緒に石ころなんかを投げてきた。痛くはないが鬱陶しいので叩いて黙らせた。
それを暫く繰り返すとやがて誰も何も言わなくなった。口と石ころの代わりに恐怖と嫌悪の視線を投げてくる様になったのだ。そうして蔭では相変わらず口も回す。
以前にも増して鬱陶しいが直接手を出してくる訳ではないので、こっちとしても直接叩いて返すというのも気が引ける。むしゃくしゃして物や家畜に八つ当たりをしてやった。
ますます私への風当たりは強くなった。
それがどうした。言いたい奴には言わせておけ。代わりに私はやりたい事をやるだけだ。
私はそう思っていた。私は強いから。
でも母はそうは思えなかったらしい。私と違って弱いから。
それに母は元々は良家の出身、それだけに人の立てる悪い噂というものに敏感なのだろう。悪さはするな、人に迷惑はかけるな。何度も何度も私に言い聞かせてきた。
けれども私は納得しなかった。
先に手を出し口を出してきたのは奴らの方なのだ。私はそれに仕返しをしただけ。弱い母と違って、強い私にはそれが出来る。だから母の言う事など私には護る必要も無かった。
とにかく口うるさい。それが私の持つ母への印象だった。
それともう一つ。
「知らなかったのよ。私は、お父様があの人を殺めようとしていただなんて」
非常に言い訳がましい人間。そんな印象がもう一つ。
私が生まれてすぐに言葉を話し、人並み以上の知性があったからなのだろう。
母は幼い私に父の事を何度も話して聞かせた。それは私にとって単なる愚痴にしか聞こえなかった。自分は悪くないんだと、そう言い聞かせる為の。
聞いた話によると、私の父は人間ではなかったらしい。大蛇の化身だとか、その末裔だとか。
実際の所は私は知らない。生まれる前に父は死んでいるから。
けれどもその形見として私に遺された瓢箪。
伊吹瓢と言われるそれは、見た目は質素な只の瓢箪、それが何故だか何を入れずとも中から無限に酒が涌いて出てくる。
こんな不思議な物を持っていたくらいなのだから、取り敢えず普通の人間ではなかったのだろう。
とは言えこの瓢箪、無限に涌きはすれどもその酒は格別に美味いという程のものでもない。だから父はわざわざ旅の商人を襲っては荷から酒を奪ったりもしたらしい。あとは肴として里に飼われる家畜を持ち去ったりも。
素手で牛馬を殺して引き裂いて喰ったというのだから、確かに父は人間ではないのかも知れない。
鬼、だったのかも知れない。
尤もこの辺も人がそう話しているというだけで、その実際は今となっては知りようもない。
只、私には何となく父の気持ちも判らないでもない気はする、かも知れないが。
兎も角、そんな悪行の程が響き渡る父を、良いとこのご当主様である母の父親、つまりは私の祖父は良く思っていなかった。
祖父は父を騙して酒を呑ませ、酔い潰れた所を襲い殺害したのだ。
義理の父が催す宴、それを信じ、けれども裏切られて、憤怒の内に父は死んだのだろう。
そんな祖父の企みを、しかし当時私を身籠っていた母は知らされていなかったのだという。祖父の策によって宴の際には実家へと呼び戻されており、三日後に戻った時には父は既に息絶えた後だったのだと。
そんな話を私は何度も聞かされた。何度も、何度も。
正直、鬱陶しくて仕方が無かった。
確かに母は悪くはないのだろう。でもそれを、言い訳の様にして何度も幼い子供に聞かせるというのがどうにも私には不愉快だった。この人は何て弱いんだろう、って。
父が祖父によって殺されたのは事実。それを母が止められなかったのも事実。幾ら言を重ねた所でその事実が変わる訳でもないのに。
あの日もそうだった。
人に迷惑をかけるな。私は悪くない。
あの日も、そう、そんないつも通りの母の言葉を聞き流しながら、私は父の形見を逆しまにして酒を呑んでいたのだ。
それが。
「やめなさい、お酒は」
私は生まれて間も無くには酒を呑んでいた。親が親なら子も子、ってやつなんだろう。そして母もそれを咎めたりはしなかった。
普通の人間じゃない私はそれで躰を壊すなんて事もないのだし、それに酒を呑み過ぎて一度潰れてしまえば滅多な事では目を覚まさなくなる。
要は悪餓鬼が手間もかからなくなるという事なのだ。だから母も咎めはしなかったのだろう。
それがこの日は違った。
「やめなさいって。お願いだから、お願いだからお酒はもうやめて」
泣きそうな顔で、焦る様にして何度も母は繰り返した。
今迄だって散々愚痴に付き合ってきてやったというのに、ついには酒についてまで文句を付け始めたか。
何だか無性に腹が立ち、だから私は母の言う事にはまるで耳も貸さずに酒をあおり続け、やがては眠ってしまった。
そうして目が覚めた時には。
◆
「山に棄てられてたって訳。伊吹瓢と、あとはおにぎり一個だけを持たされてね」
伊吹瓢は父の形見、言うなれば化け物の持ち物。そんな物騒な物をいつ迄も置いておくのも気味が悪いからと、その化け物の子供と一緒に棄てるはそりゃ当然。
「でもさ、おにぎり一個って、そりゃ何よ!?」
まさかそれで食いつないで生き延びてくれって、そんな戯言をほざく訳でもあるまいよ。
当時の私は七つの幼子だ。おにぎり一個持たされただけで山で生きていけるとか、普通に考えて絶対あり得ない。
おにぎり一個食べ終わってさ、んじゃあその後はどうするんだよ。何を食べるんだよ。あっと言う間に飢えて死ぬっての。って言うか餓死以前に獣に喰われてハイさよならってのが落ちだっての。
まあ、私は普通じゃなかったから平気だったけどさ。腹が減ったら獣を喰ってやったし。
「結局はさ、それもあの女の言い訳だったんだよ。自分は悪くないって、そう自分自身に信じ込ませる為のっ」
泣く泣く子供を棄てました。でもちゃんと食べ物は持たせましたよ。
そういう事実をあいつは作りたかっただけなんだ。父が死んだ時と同じ、自分が悪者にならない理由を作ってさ、それによって自分を安心させたかっただけ。
その為に、あの女の言い訳の為だけに作られ持たされたおにぎり。
「だから嫌いなんだよ。おにぎりはっ」
私は思い出したくない。無力で子供に愚痴こぼす以外の何も出来なかった、あの哀れな人間の女を。
だからおにぎりは嫌い。食べるのは勿論、見るのも聞くのも嫌だ。
「以上。大して面白い話でもなかったでしょう」
正直、話してて少しだけ感情が昂ぶっていた。少しだけ、だけど。額にうっすらと汗が滲んでいるのを感じる。
でもそれを悟られるのも何だか癪だ。
だってそうでしょう。これだと私、熊女に愚痴を聞かせて鬱憤を晴らしているみたいに思われかねない。
そうじゃあない。私はあの女と違って強いんだ。だから飽くまで平静な顔と声とで以って話を締めくくった。
「あんたの母親がさ」
私の話している間はずっとだんまり決め込んでいた熊女が、ここに至ってやおら口を開いた。
「悪さをするなって口を酸っぱくして言ってたその訳、判ってるのかい」
おいおい。何よこいつ、いきなり。
あれかしら。親を悪く言う子供に対して大人の自分が説教してやろうとか、まさかそんな心算なのかしら。
「ちゃんと話聴いてなかったの」
「聴いてたよ」
「なら判るでしょう。
体裁の為。自分の身を護る為。私と違ってあの女は弱いから。私の行いで周囲からの風当たりが強くなるのが嫌だったんだ」
「そりゃ確かにそう、だろうけどさ」
けどさ、って。何よ、けどさって。
言いたい事があるならはっきり言えっての。そう睨み付ける私の前で。
「ま、良いか」
けれども熊女は拍子抜けするくらい、あっさりと議論の口を投げ捨ててしまった。
「話を聴いてた限り、あんたは確かに頭が良い。判るべき点はしっかりと判っていると感じたわ。
だから良いさ。今の所は、判っているっていうそれだけで充分」
何だよ、それ。言っている意味がよく判らない。
今は判ってるだけで充分って、何よそれ。判るってこと以上に何があるって言うのかしら。
けれども、まあ良いわ。私が道理も知らぬ餓鬼ではない、それだけはこの熊女も理解してくれた様だし。
ならもう私も噛み付かない。そういう不様は弱い奴のする事だから。
「ところで、さあ」
黙ってしまった私を前に、そう言って熊女は切り出してきた。
「山に入ってからこっち、母親には一度も会ってないのかい」
……またいきなり、何を言ってるんだこいつは。
阿呆らしい。一々答えようって気がまるで涌いてこない。
だって答は一つ。誰にでも判って当然のものなんだから。
「会ってないのか」
私の沈黙から、その判って当然の答を読み取る熊女。つうかさ、そんな当然の事、一々訊いてどうすんよ。
「ならさ、ちょっと会いに行ってみれば」
「……あ?」
吼えてくる獣にわざわざ口で言い返す人間は居ない。だから私も、獣並の頭しか持たないこの熊の戯言に一々答えてやんない。
そうは思ってたけどさ、ああ駄目だ。
こいつ、本当の本っ当にまともな脳味噌持ってない。形は一応は人の成りをしてるってのに。頭の中身がその外見にまるで釣り合っていない。
「あのさあ、何言ってるの。頭大丈夫? つうかその中身、まともに使えないんだったらさ、くり抜いて塩ふって、酒の肴にでもして喰ってしまえよ」
「遠く旅して幾千里、って訳でもなし。それどころかこれだけ近くに住んでるんだ。偶に顔を見る位したって良いだろう」
「聞けよ、こっちの話」
「山に入ってもう数年。何かしら状況の変化だってあるかも知れないし」
おいおいおいおい、何だよこいつ。
あれか? 確執持って別れた親子が感動の再会だとか、そんなお涙頂戴劇をお膳立てしたいとか、そういう心算か?
全く、おめでたい位にご立派な善人様だこって。私と同じ化け物の癖してさ。どんだけ幸せな人生送ればこんな能天気が作れるんだろうね。
羨ましい限りだよ、本当。
「私はあの女が嫌い。弱いから嫌い。それに関してはあんたも理解してくれたんでしょう。
だったら」
「それはそれ、これはこれ。
別に良いじゃあないか。何も仲直りしてこいって言ってる訳でなし、暇潰し程度にちょっと顔見てきなってだけの話で。
その位したって何の損も無いだろう?」
「得も無いけどね」
「だから暇潰し。喰う物には一切困ってないみたいだし、別に忙しくも何ともないんだろう、あんた」
「そりゃまあ、忙しくはないけど」
ったく、やれやれ。こりゃどうしたもんだろうね。
正直、あの女の面になんて今更何の未練も興味も無い。嫌っちゃいるが別に恨んでる気持ちも無い。どうでも良いんだよ、もう。あんな奴の事は。
だからさ、単純に面倒なの。まるで興味の涌かないどうでも良い用事を済ませる為にさ、わざわざ山下りて里に行くとか。暇だとか忙しいとかそういう問題じゃあない。
だけど。
「良いから良いから。行ってみなって行ってみなって」
赤ら顔で上機嫌で、わあわあと吼えてる熊女。
本当こいつのこの態度、人間の形してるのが勿体無く思えてくるよ。それこそ名前の通り毛むくじゃらの熊の格好してる方がよっぽどお似合いだっての。
て言うか何でいつのまに赤ら顔なんだよ。その酒なんだよどうしたんだよ。
「あんた、何勝手に人の酒を」
この無礼講熊め。水を入れてあった桶に伊吹瓢から勝手に酒を注いで呑んでやがる。そりゃ確かに伊吹瓢からは無限に酒が涌くけどもさ、だからって余所様の物を勝手に。何が礼儀の儀だよ。
「良いじゃあないかっ。おんなじ鬼の仲間同士、固いこと言うなってえ」
おいおい。いつの間に私はこの動物と仲良し小好しの間になったんだ?
……って、ああそう言えば、さっきこいつのお近付きごっこに、勢いで了承の返事をしてしまった気がする。畜生、一生の不覚。
「ほら行けやれ行けどんと行けー!」
ああ、本っ当にこいつと居ると調子狂う。て言うか五月蝿い、鬱陶しいよ、この酔っ払い。
「はいはい。判った、判りましたよっ」
今迄こっち、ずっと一人気ままに暮らしてきてたってのにさ、冗談じゃあないってんだ喧しい奴め。
いつ迄もぎゃんぎゃん喚かれてては堪ったもんじゃない。
仕方なく私は山を下りてあの女の所に行ってやる事にした。畜生、ここは私の住み処だぞ。何でこんな、私が追い出されるみたいな羽目に。
まぁでも、これでこの熊女もご満足してくれる事でしょうよ。だからちっとは静かにしてくれ。
……そう、私は仕方なく行くんだ。これは私の望む行動ではない。望んでいた行動ではない。
山に入ってからずっと、変わらず一人で過ごした日々。誰ともまともに口を利かない。精々が木っ端妖怪どもとの喧嘩の前口上。そんな生活。
それを訳の判らない闖入者に乱されて、しかもそいつは無遠慮に、昨日今日の付き合いの癖をして私の隣に座ってでかい顔をして、どうでも良い昔話なんかさせて、何だかどう仕様も無く調子が狂って。それで仕方が無く。
決して、背中を押された訳なんかじゃあないんだ。
◆
夕暮れ迫った人里の外れ。
太陽はもう半分以上も姿を隠して、道行く人々の顔だってろくには見えなくなる、そんな時間。
けれども私にははっきりと見えていた。
鬼の顔。
「おねえちゃん、だぁれ」
生まれ育った伊吹の家の、そのすぐ裏手。
鬼の顔がずるりと剥がれる。そこから覗く童子の顔。舌っ足らずな声で私に誰だと問うてくる。
被っていたのは鬼の面。それも祭礼用の立派な物とは程遠い、一目で素人の手と判る不恰好。木を無理矢理に削って何とか形を作ってある。色も塗っちゃいない。
けれどもその見た目、大きな口に生え揃う牙、そして頭から伸びる二本の角。だから私には判った。
これは確かに鬼の顔。
「すごいね。おねえちゃん、これといっしょだぁ」
面を手にして子供は笑う。角の事を言ってるのだろう。
五つにも届かぬ様な幼い男の子。鬼だ化け物だを理解できる程に頭も育っていないのだろうか、私を前にして何の怖れも見せずに屈託も無く笑う。
「まだ外に居るの。もうお家に入りなさい」
声が聞こえた。大きな声。伊吹の家、私の家の中から。女の声。
畜生。とっくの昔に忘れてやった心算だったのにさ、一発で判っちまったよ。
この声、私を生んだ、そうして私を棄てた女の声。
「はあい」
家の中からのそれに負けず劣らずの大声を男の子は返す。
ああ、そうかよ。やっぱり、そういう事かよ。この餓鬼は。
「ねえ」
刻々と暗く、寒くなっていく世界から温かい家へと向けて踵を返したその子の肩、私は優しく手を当て、そうして訊ねる。
「今の、お母さん?」
「うんっ」
何の不信の色も見せずに男の子は即答した。
ははっ、やれやれだ。
別に、何の期待もせずに来たのではあったけどもさ。あの熊女、言った事が見事に当たってやがった。確かに変わってたよ、状況。
そりゃそうだ。あの女は良家のお嬢、それがいつ迄も寡婦で置いておかれる訳が無い。
いや、そもそも。
化け物と結婚した、化け物の子を産んだ、そうした話そのものが汚点として無かった事にされてるかも知れない。
「ねえ、坊や」
面白いよ。全く、お涙頂戴劇どころかさ、こりゃとんだお笑いだっての。
「お姉ちゃんが良い所に連れてってあげる」
◆
「おうおう。やるねえ、人攫いかい」
夜も深くの山の奥、火をたて明かりとなした洞窟の中で、帰ってきた私を出迎え開口一番、酔っ払い馬鹿熊が放ったのはそんな言葉だった。
人攫い。
「良いね、良いねえ。鬼ときたらやっぱ、人を攫ってこそその立つ意味が出るってもんだ」
何だよこいつ。本当に訳の判らない。善人面して説教かましてたかと思えばこれ、人攫いを良い事と言って手を叩き喜んでやがる。
「すごい! このおねえちゃんも!」
訳が判らないと言えばこの子もそうだ。
私に抱きかかえられて狼の駆けるより疾く山を登って、なのにその間、きゃっきゃ喜ぶだけで泣き顔一つ見せやしない。
今だってそうだ。熊女に駆け寄ってその角に熱い視線を寄せてやがる。熊女は熊女で、わざわざ屈んで角を触らせてやって。
肝っ玉が据わってる、って訳じゃあないのだろうな。単純に理解できていない。今のこの状況がどんなものかって。子供の頭じゃあ仕方の無い事なのかも知れないけど。
私にゃとても真似の出来ない能天気さだ。こちとら生まれた時から頭が良かったからね。
まあ馬鹿熊の方は、何だか未だに子供と大差ない脳味噌してそうだけど。ったく、お似合いだよ、こいつら。
……ああ、それにしても。
参ったなあ。どうしようかしら、この子。
正直、何でこいつを攫ったのかってその理由、私にもよく判っていない。と言うより、そもそも理由なんてあったのかなあ。衝動的に、気が付いたらこいつを抱えて山を駆けていた。
今更になって何だか急に冷静にもなってきたけどさ、本当、どうしようかねえ、これ。
化け物らしく喰っちまっても良いけどさ、別に腹は減ってないし、そもそもこんなチビじゃぁまるで食い出が無さそうだ。
とは言え。
「ねえ、坊や」
「なぁに、おねえちゃん」
鬼が人の子攫っておきながらこのまま何もせずってのも、こりゃどうにも格好が付かないだろうし。
だから私は訊いてみる。
「坊やのお父さんって、どんな人なのかしら」
あの女に今更未練も無い。だからあの女がどんな男と再婚したのかだって、そんなのにもまるで興味が無い。知ったところで何がどうなる訳でもないんだし。下らない。
でもまあ、仕方が無いさ、仕方が無い。他に話をする内容も無いんだから。
「おとうさんはねぇ、いないよ」
男の子は何の感慨も無く、あっさりとそう言い放った。
それを聞いて。
「はっ」
駄目だ。思わず小さな笑いが漏れるのを止められなかった。
ざまあ見ろ、あの尻軽女め。父を見殺しにし、私を棄てたってのに、またほいほい他の男に飛び付いた罰が当たったんだ。
「そっか。お父さん、死んじゃったんだ」
「ううん。ちがうよ」
僅かに弾む私の声に、けれども男の子は首を横に振る。
何だよそれ。じゃああれか、逃げられたって訳だ。それはそれでお笑いね。良家のお嬢がとんだ恥晒し。
「おとうさんはねぇ、さいっしょからいないの」
……ああ?
何だよこいつ、また訳の判らない事を言い出して。
「おとうさんもね、おかあさんもね、さいっしょからいないの。でもね、いまはおかあさんがいるの」
駄目だ。餓鬼の言い分って聞いててさっぱり理解できない。
何なのさ。居るのか居ないのか、どっちなんだよ訳の判らない。はっきりしろっての。
「捨て子か、或いは事故か病かで両親を亡くしたか。兎も角、そんな身寄りの無い赤子を引き取ったとかそういう事だろう。
よくある話さ」
子供の頭を撫でながら、表情一つ変えずに熊女が言ってのける。
何それ。じゃあ、あの女は未だ独り身でいるってそういう事?
ああ、でも。確かに、思い返してみれば。
伊吹の家に未だにあいつが住んでいる、それからしてよく考えればおかしな話だ。
父も私も居なくなったんだ。化け物の家なんかさっさと捨てて実家に帰るのが普通だろうに。或いは再婚したのであれば相手の男の家に。
「おおう、こりゃ何だい」
私の思考を余所に熊女と子供は楽しそうにお喋りをしている。彼女が見ているのは鬼の面。あの子供、私に抱かれ山を登る間ずっと、あれを手放さなかった。
そんなに大事なもんかね。あの不恰好で汚らしいお面が。子供の考える事ってのはさっぱりだ。
「これはねぇ、おとうさん!」
っておいおい。おいおいおいおい。
本っ当にこいつ、一体何を言ってるんだよ。
「居ないんじゃあなかったの、お父さんは」
「ううん。いたの、おとうさん」
苛立ち隠せぬ私の言葉に、またも餓鬼は横に首振る。
ああもう、人間相手に話をしてるって気がまるでしない。言ってる事がさっきと真逆になってるじゃないか。
勘弁してよ、もう。本気で疲れてくるわ。
「あのね、おかあさんがいってたの。ぼくのね、おねえちゃんがいたんだって」
……お姉、ちゃん?
「おねえちゃんのおとうさんなの。だからおとうさんなの。
このおめんね、おかあさんがつくってくれたんだ」
子供が言ったその意味。
けれどもそれを考える前に私の思考は遮られる。
「気付いてるかしら」
熊女がこっちに視線を向けてきた。
「当然」
一言だけを返してやる。一々言われる迄もないっての。こっちだってちゃんと気付いてる。馬鹿にするな。
……って、いや、まあ、本音を言えば、言われてから気付いたんだけどもさ。ああでも、こいつにこれ以上弱みを見るのも癪だし。
それはさて置き。
気配がする。獣ではない。化け物でもない。
人間だ。それも十、いや二十、結構な数。ゆっくりと、けれども確実にこちらへ向かって来ている。
くそ、しくじったか。攫ったところ、逃げた先を誰かに見られていたか。
当然といえば当然か。
夕暮れ時とはいえ夜にはならぬ時間、里外れの家の裏手とはいえ、それでも人間の領域に変わりはない。しかもこっちの頭には馬鹿みたいに目立つでっかい角二本。
迂闊だった。もっと気を張るべきだったのに。あの時はちょっと、ちょっとだけれども気が揺れていたせいで、それでこんな不覚を。
「偉い偉い。ちゃあんと攫った痕跡住み処の場所、人に判る様に置いてきたか。
そうでないと退治に来てもらえないもんねえ。うんうん、若いのに鬼の流儀が判ってる」
そうして何故だか嬉しそうにしている馬鹿熊。
知るかっての、鬼の流儀なんか。こちとら自慢じゃあないが今日初めて自分が鬼だって自覚した位なんだから。
「まあ、良いか」
呟いて私は洞窟の口に目を向ける。鬱陶しくはあるけれど、別に怖くはない。人間如きが何十、いや、百人千人来ようとも軽く蹴散らしてやるさ。
何せ私は鬼なんだ。化け物なんだ。
私は人間を怖れない。人間どもが私を怖れるんだ。
「一人で平気かい」
熊が何か言っている。私は応えてやんない。一々判りきった事を口にするのは馬鹿げているから。
「そんじゃあ私はここで子守でもしてるさ」
そうだよ。あんたに出番は無い。ここで酒でもかっくらって寝っ転がってろ。
ここは私の山だ。これは私の戦いだ。もうこれ以上、この無遠慮な熊に引っ掻き回されて堪るものか。
「坊や、ちょっとこれ借りるわね」
そうして私は男の子の手から、おとうさん、とやらの面を取る。
「いいよ。おねえちゃん、おにごっこするの?」
っへえ。
小さい癖に、随分と面白いこと言えるじゃない。
思わず笑ってしまったその顔を面で隠す。鬼の面で以って鬼の面を隠す。
「そうだよ。私が鬼だ」
◆
「頭上に伸びるその二本角。そなたが里から子を攫った鬼に相違無いなっ」
鎧兜を纏った人間どもの群れ。大将と思しき男が大声を張り上げる。
結構な数、ざっと見て十人ちょっとといったところか。人間以外にゃ馬三頭、それぞれが大きめの甕二つをその身にぶら下げている。荷運び用として連れて来たか。
しかしまあ、さっき感じた気配じゃ二十は居るかと思ったんだけどね。はてさて。
全員がそこそこに上等そうな槍だ刀だを手にしてる。流石、腐っても良家のお嬢のそのご子息ってところか。こんなご大層な捜索隊を出してもらっちゃってさ。
ああ、いや。捜索隊じゃあなくて討伐隊、か。化け物退治にやってきた勇者様ご一行。こんな夜中の山にわざわざご苦労様なこって。
「攫った子は何処に居る」
男がまた声を張り上げる。けれども私は応えてやらない。顔すらも見せてやらない。
別に意地悪しようって訳じゃあない。単純に嫌なんだ、こいつらと面合わせて話してやるのが。
昔を思い出す。
この鬼子め、里の恥め。そう言って蔑みの視線で石投げてきたあの人間どもを。
あの時と今は同じだ。私は口を利かない。私を攻撃してくる奴らは黙って叩きのめす。
それで良いんだ。私は昔からずっと、そうやって全部解決してきたんだから。私にはそれが出来るんだから。
だから私は口を利かない。言葉で解決できる事なんて何一つありゃしない。力さえ有ればそれで良い。だから。
「待て、待てっ!」
拳を握り一歩踏み出した私を前に、しかし人間どもは情けない声を出して両手を挙げる。がらがら音立てて地面に落っこちるその手にしていた得物達。
「我々は戦いに来たのではない。刀持ち鎧纏うは、そなたの前へと至る迄に他の妖に害せられるを用心したが故の事。
今こうして無手になった、それを以ってどうか我らの言葉、虚偽無き事だと信じて頂きたい」
ああ、成る程ね。
確かに敵の前で得物をわざわざ手放したって、そこだけ見りゃあ敵意が無いってのも信じられそうではあるかも知らんね。そこだけ見りゃあ。
「我らは話し合いに来たのだ。その証拠として、そなたに贈る物が有る」
おいおい。何だよこりゃまた随分とお優しい勇者様だなあ、おい。良家の坊っちゃんを攫った化け物をさ、誅殺にもせずご丁寧に貢物まで持って話し合い。誰も傷付かず平和に済ませられりゃそれが一番、ってか?
ああ、そうだね。確かに、それが一番だよ。それで済めば。
「これは我らの誠意の証」
馬が運んで来た甕六つ。それがこちらの前に並べられる。蓋を取られたその中身は。
「さあ、どうか遠慮なく呑んで下され」
はっ。
はははははははは。
凄い、こりゃおかしいっ。本っ当に面白いよ、こいつら。
鬼の面のその下で、鬼の面が酷く歪む。涙まで出てくる。駄目だ、声を抑えるのも一苦労だよ。大声出して笑い出してやりたい。
甕の中身は酒。
良いねえ良いねえ、よく判ってるじゃあないか。確かに私は生まれた時からの酒好きさあ。こんなもん前に出されちまったらもう我慢も出来ないってね。素晴らしい贈り物だよ、本当。
面を僅かに上へとずらす。甕を片手で持ち上げて、露出した口に当ててそのまま中身を注ぎ込む。
人間どもが黙って見守るその中で、付けた口離さず息の一つもつかず、一気に甕の一つを空にして。
おおっと?
「いかがされたか」
人間が何か言ってきてるけど、あれあれ、よく聞こえないなあ。頭がくらくらするなあ。おっとうっかり、こりゃあちょいと呑み過ぎたかなあ?
目蓋がすっごく重くなってきたぞ? とてもじゃあないがもう、目なんて開けてられないね。目ぇ閉じて、どかりと座り込んで口からはだらしなく涎も垂れて。
おやおや? もう目は見えないし、耳も大分不確かになってきたけどもさあ、何だかがちゃがちゃと音がするぞ? 何だろうなあ、これ。
よく判らないけど、もしかしたらあれかな。さっき落とした得物をさ、話し合いに来た筈の勇者様達が何故だか拾っているのかも知れないね。何でだろうね。何に使うんだろうね。不思議だね。
まあ、でも私にゃ関係無いか。
だって今は戦いの時じゃないんだものね。人間がさっき、確かにそう言ってたものね。だから私は贈り物のお酒を呑んで、安心してぐっすり眠ってて良いんだよね。
じゃあ、お休みなさい。
◆
「今だっ!」
◆
「ぶぎょ」
すっごい面白い音がした。そんでもってぐるぐる独楽みたいに回って吹き飛んでいく勇者様その一。
にしても何なんだろうね、ぶぎょって。人の言葉を喋れっての。人間なんだろう、お前らは。私と違って。
「何とっ、こいつ動けるのか!?」
人間どもがまた何か言ってる。偉い偉い。今度のはちゃんとした言葉になってるわね。
でも意味が判んない。こいつ動けるのか? 動けるよ、そりゃ当然。私の事を木彫りの仏像か何かかと思ってたのか?
ってかそれ以前、今だ、ってのも意味不明。
何が今なの? ようし、お酒を呑んで酔っぱらって寝ちゃったから、今なら怖ぁい鬼をやっつけられるぞー! そう思っちゃったのかしら?
巫山戯るのも大概にしろよ。私が、鬼が甕一杯の酒如きで酔い潰れるもんかよ。
「おのれ謀ったかっ」
おいおい。
おいおいおいおい。
ほんっと大したもんだよ。どういう口の造りしたらそんな糞面白い言葉が吐き出せるようになるんだよ。いっそ感心しちゃうわね、ある意味。
酒に呑まれて殺られた大蛇。酒に呑まれて殺られた我が父。ならば今回も、ってか?
舐めるなよ。人間の浅知恵がそう何度も通用するか。
「眠った振りで油断させるなど、そんな卑怯がぼほっ」
口上終わるまで待っててやる義理なんぞ微塵も無い。
右の拳骨一発、勇者様その二が重い鎧を着たままで素敵に軽やかに空を飛ぶ。でも残念、すぐに大地へ戻ってきて、そのまま泡吹いて白目むく。
私が卑怯だってか。騙しに騙しで対抗するのの何処が悪い。先に謀ったのはお前らの方だろうに。
ああ、良かった。こいつら相手に口きかないで。こんな薄汚い奴らと一言でも話してたら、こっちの口まで穢れるところだった。
顔も見せなくて正解だ。こんな下衆どもの頭の中に、この顔を残されて堪るかってんだ。穢らわしい。
「撃て、撃てっ」
鎧着て刀持って槍持って、だったら気を入れてこっちに向かってくりゃ良いのにさ、たった二人黙らせただけで見事に腰の引けてる人間ども。そうして引けた腰のままで、恐慌の声色で撃て撃て叫ぶ。
刹那、背後から風切り飛んできた矢が狂いも無く私の背中に。
「何っ!?」
当たった。
刺さった、ではない。当たった。そうしてそのまま地に落ちる。ちょっとは痛かったよ。傷の一つも無いけど。小石ぶつけられるのと同じ位の感じかね。
にしてもこいつら、どんだけこっちを舐めてくれてるんだか。
感じてた気配より明らかに少なかった人間の数、しかも全員の得物が近接用の物のみ。そうして、その得物さえ鬼の目の前でわざわざ手放して無防備を見せる。
弱くて卑怯な人間が、何の備えも無くそこ迄の危険を冒せるものか。
んな訳ない。ここ迄されりゃ熊だって気付くっての。予想通り、こちらの背後に数名、弓兵を回らせ忍ばせていた。
そうしてそれが判って気を張ってさえいれば、こんなか細い矢如きで鬼のこの身を傷付けられる筈も無い。眠って緩んだ躰に刀を刺すのとは訳が違うんだ。
私に一切の傷も付けられなかった。そんな事実を前にして、それでも身を隠した人間達は懲りずに何本も矢を放ち続けてくる。
まあ、それがお仕事だもんね。通じなかったからってハイそうですかとやめる訳にもいかないもんねえ。何せ、お前らに残された手はもうそれだけなのだろうし。
ああでも、流石にこう何本も何本も当てられるとそれなりには痛いし、何より鬱陶しくって仕方が無い。
何も出来ずに呆っとしてる目の前の腰抜けどもとは違ってさ、弓撃つ奴らは距離が離れて安全だって、そう思ってるから、こう遠慮も無く鬼に弓引く事が出来るんだろうね。
確かにそうだ。こんだけ離れてりゃあ私の拳骨も届かせようがないさ。
嗚呼、困ったわねえ。遠くで弓引く人間さん達、どうか私の手の届く所まで来てくれないかしらん。私を殺しにやってきた逞しき勇者の方々、どうか怖れず、さあこちらへ。
「!? 何がっ、何でっ」
お願い叶って私の目の前、何が起きたか訳も判らずに目ぇ白黒させてる人間の面。それがずらりと二十弱。皆そろってさ、何ぃ、だとか何だっ、とか口走ってる。こんだけ人数居て、ほんと皆、同じ事ばっかで面白味も無い。お前らそれを言うしか能が無いの?
もう面倒だからさ、弓兵も腰抜けも、全部まとめて萃めてやった。
ああでも、勇敢な兵士の方々よ、折角ここ迄お越し頂いたのに、こんな事を思うのも真に心苦しいのですが。
お前ら息臭いから顔近付けんなよ。
物を引っ張って萃める事ができるのなら、その逆できるもまた然り。
私に引き寄せられた勇者様その三以下を全て、今度は一気に私から引き離す。投げ棄てられた木偶人形みたいに勢い良く吹き飛ぶその躰、地面を転がり木に打ち付けられ、そうしてそのままお休みなさい。
こうして悪ぅい鬼を退治しに夜の山へと登ってきた勇者様ご一行は、残念無念、鬼の躰に傷の一つも付けられぬまま、皆やられてしまいましたとさ。
めでたくなし、めでたくなし。
◆
「お、鬼よっ」
あ?
何だよ。確かに全員のしてやったと思ったのに、たった一人、まだ動ける奴が居た。
可哀想な位に弱々しく震えるその声、随分とまた細くて高い声。
まるで。
「私が、まだ私が」
躰も小さい。そのせいかよ。ごてごて鎧着た男どもに隠れて今まで見えなかったのは。夜の山に、鬼退治に来たにしては余りに小さくて細いその躰。
まるで。
まるで女。
「返して。あの子を、私の子を返してっ」
糞っ垂れ。巫山戯てやがる。
その声も、その姿も、もうどうでも良いものなんだ、とっくの昔に忘れてやったんだ、そう言ってやりたいのに、畜生、知ってるよ、覚えてるよ、この女。
母親だ。私が攫った、あの餓鬼の。
何だよ。良家の元お嬢の身分で、まさか夜の山に来るとは思ってなかった。
私を殺しにやって来た兵士ども。それはさっき全て萃めて吹き飛ばしてやった。
だがこいつは違う。気絶した兵の手から取った刀を持っちゃあいるが、まともに刀身も上がらず、がちゃがちゃ音鳴らしながら切っ先も定まらない。刀ってのは鉄の塊だ。心得の無い素人女が持つにはちょいと重いだろうよ。
そう、こいつは戦う術をまるで持たない、弱い人間の中でも特にか弱い女なんだ。だからさっきは萃められなかったんだ。
そんな無力な奴がさ、兵に囲まれていたとはいえ、わざわざ鬼の目の前に迄その面出すかよ、普通。
そんなに、そんっなにあの餓鬼が大事か。一度は自分の子供を棄てた癖をして、血も繋がってないあの餓鬼がそんなに大事か。
あいつは人間だからかよ。私は化け物だったからかよっ。
「お願い、あの子を」
五月蝿い。
面で顔を隠したまま、私は答えない。
こいつも同じなんだ。父を騙して殺した奴らと。里で私を蔑んだ奴らと。今ここで私を騙して殺そうとした奴らと。同じ、薄汚い人間なんだ。
だから私はこいつに声を返さない。顔も見せない。
全身がたがた震わせ、泣きそうな顔で、ううん、もう完全に泣き顔で、そんな不様を晒しながらそれでも女はこちらに歩み寄る。
「ぎゃう!」
でも私はそれ許さない。伊吹の子を棄てたあの女。
そう、あいつは私を拒絶したんだ。だから今度は私があいつを拒絶する。
鎧纏った男の群れを苦も無く弾く私の力。望まぬものを引き離すその力。身の軽い女一人なんぞ、ほら、木の葉を散らす様にあっさり吹き飛ばされて地面を転がる。
はい、これでおしまい。
「……返、して」
おい。
おいおい。
何だよ、こいつ。立ち上がって来た。
訓練された兵が一撃で倒れ伏すその力。鎧も纏わぬ女の全身、着物は擦り切れ、その下の肌、無数に付いた傷から流れる血に薄く染められる。
それでも立っている。落とした刀を再び手に取る。
手加減をした心算は無い。私は確かに、全力であいつを拒絶した。私を拒絶したあいつを。
例え死んでしまったところで構いやしない。それだけの力を籠めたんだ。
なのに何故立てる。何故私の力が通じない。
それ程あの子に未練が有るのか。子棄ての業を負った母が、そこまでしてあの子を救いたいと言うか。
「あの子を、返して」
来るな。
巫山戯るな。
お前は弱い女なんだ。化け物と怖れられた私を棄てたんだ。そんな奴が何故、ここまでの事が出来るんだ。
来るな。来るんじゃあない。
伊吹の子を棄てた女が、私を愛せなかった女が、今更、今更になって私の元になんて来るんじゃあないっ。
「……私は、お父様があの人を殺すのを、止められなかった」
来るな。私は必死に力を振るう。心で叫ぶ。私を愛せなかった女を拒絶しようと。
そう。それだけで良いんだ。心で願うだけで、私は望んだものをこの身に引き寄せられる。望まぬものを引き離せる。
なのに、駄目。
止まらない。一歩一歩、ゆっくりだけれども、確実に、その女は私の元へと近付いて来る。
「遺された子を、護り切る事が出来なかった」
何だよ、こいつは何なんだよ。
私は鬼なんだぞ。強いんだぞ。
こいつは人間の女だ。弱いんだ。弱い人間の女はこっちに来るな。
そうやって、必死に、必死に押し返そうとしてるのに。
何で離れないんだよ。何で止まらないんだよっ。
「私は、弱かった。私は、あの子を棄てた」
そうだよ。お前はそんな弱い女なんだよ。
だから止まれ。これ以上私に近寄るなっ。
「そうじゃ、なかったのよ……私は、あの時、この身を賭けてでもあの子を護るべきだったのに、それなのにっ……」
近寄らせるもんかよっ。
私を愛せなかった女は、絶対に、絶対に近付けさせはしないっ。
「嫌だっ……もう、あんな思いは」
来るなよ。
やだっ、来るな。
来るな来るな来るな来ないでっ。
「私は、今度こそ護るの……今度こそ」
来るなっ。
やめて、やだ、来ないでっ!
私を愛せない母は、私の所には来ないでよ!
「今度こそあの子を助けるんだからああああ!!」
◆
躰に感じる熱いもの。生まれて初めて知る感覚。
熱い、痛み。
この身に初めて付いた傷。初めて流れる血。初めて知る痛み。そうして、初めて感じる熱さ。
それを鬼の躰に刻んだのは、とても弱い人間の女だった。
「見事、だ」
声を出した心算は無かった。けれども自然に漏れていた。
そう、これは決して私の声なんかじゃあない。
これは鬼の言葉。人の子を攫い、そうして今ここで人に斬られた鬼の言葉。
「え」
女は顔を上げた。初めて聞く筈の鬼の声に、驚く様にして。
ああ。刀一本、まともに扱う事も出来ない非力の癖に。
「よくぞ我に一太刀を浴びせた」
鬼の面は動かない。鬼の顔を隠したまま、鬼の面は僅かもその表情を変えはしない。
「お前の勝ちだ。攫った子はお前に返そう」
そこまで言うのが精一杯だった。これ以上は駄目。
熱い。傷跡が、焼ける様に熱くて痛い。だからもう、これ以上はここに居られない。
そう、背を向けようとした私を。
「待って」
けれども女が呼び止める。
「貴方、まさか」
「あり得ぬよ」
何かを言いかけた女の声。何かに気付いたのか。何かを期待しているのか。何かを後悔しているのか。
しかしその声に鬼の言葉を被せて切る。鬼の面は揺るがない。鬼の心も、揺るがせる心算は無い。
けれども、鬼の声は僅かに揺れる。
「七つの幼子が、握り飯一つで山を生きる事なぞ出来る筈もなかろう」
そうなのだ。あり得ない。そんな筈は無い。
女が今斬ったのは、彼女の子供を攫った悪い鬼なのだ。
私は改めて女に背を向ける。そうしてゆっくりと歩き出す。もう振り返る事もせず。
「人に退治され鬼は消える。もう、会う事も無い」
人外巣食う夜の山。そこで見事鬼斬りを成し遂げたのは、とても弱い人間の女だった。
そして。
とても強い、子供の母親だった。
◆
「どうだった。初めて人を攫い、初めて人に退治されて」
月明かりの照らす深夜の山。洞窟の前で、私の隣に座る熊女が何か言ってきている。けれども聞こえる音はそれだけ。
さっき迄はもうちょっとは賑やかだったのにさ。子供が居て、人間達が大勢で鬼退治にやって来て。
けれどももう子供は帰った。目的果たし、人間達も皆、山から下りていった。残った物は私の被る面一つ。
今はまた二人だけ。私とこの熊、二人の鬼が居るだけだ。
「私さあ」
呟いて胸に手を当てる。
袈裟に斬られた刀傷。血はもう止まっている。けれどもその上に手を這わせれば、確かに赤い固まりがこびり付く。痛みも、少しも薄らぎはしない。
「母親に斬られちゃった」
私を斬ったのは、この傷を付けたのは、父と結ばれ、私を生んだあの女だった。
「そうかい」
熊女は一言を返す。静かに、何の抑揚も無く、只一言のみを。
「あの子を助ける為って言ってさあ、ずばあっと、刀でさ」
「そうかい」
また熊女は一言だけを返す。
何を言うでもない。何を否定もしない。慰めもしない。
ただ私の言葉を聴いているという、その証だけを相槌として返してくる。
ははっ。こういう時はさあ、あれだろ?
よしよし可哀想に、知らぬとはいえ実の子供を斬るたぁ酷い母親だ。そん位は言って慰め図ろうって場面じゃあないのかよ。
私は可哀想な子なんだぞ? 母に棄てられ、母を恨み、そうして今、母に斬られた。その傷確かにこの身に残っている。心にだってそう、その痛みと熱さ、僅かにも損なわれずに刻まれている。
何て酷い話。何て可哀想な私。そうだろう?
なのに、さあ。
それなのに。
何故なんだろう。
「嬉しいんだよ、私」
何だよ。あり得ないだろ。
母親に、血の繋がった実の母親に斬られたんだぞ。怨嗟の声上げ暴れ狂うか、世の無情に涙しこの身を儚くするか、そこまでしてやったって当然だろうにさ。なのに。
「はは。どうしたんだろうね、私。頭、おかしくなっちゃったのかなあ」
おかしくなってしまった頭の中。それが可笑しくて笑ってみる。狂った頭が可笑しいから、狂った様にけらけら笑う。
表情変わらぬ鬼の面、その下で私の顔が酷く歪む。笑い過ぎだ。声も揺れる、いや跳ねる。そこに湿りが混じる。畜生、鼻の頭が熱くて痛い。
面の内側が湿気で一杯になる。でも私は笑っているんだ。鬼の顔が何も見せずに隠すから、私は笑ってると言えるんだ。
「ねえ」
私の隣、それ迄はただ相槌のみを返していた熊女が。
「人間ってのはね、そんなに強くないんだ」
唐突にそんな事を言い出した。
何だよそれ、いきなり。訳が判らない。
「自分より大きな力を前にして平気で普通でいられるって、中々そうもいかないもんなのよ。人間ってのは。
これは決して、良い悪いって話じゃない。どうしようもない、仕方のない事なの」
私は何も応えない。応えられない。彼女の言いたい事が判らないから。
「私らは、鬼は、人間より強い。遥かに。哀しくなってしまう位に。
だから私らは人と普通に交わる事は出来ない。
私らが幾ら言を尽くそうとも、強すぎるって理由だけで、人は鬼をまっすぐに見る事は出来なくなってしまう。心のそのままを鬼に見せる事も出来なくなってしまう」
ああ、それは判る。それは知っている。
大人よりも遥かに高い力と知恵を持って生まれた伊吹の幼子を、里の人間達は化け物と怖れ蔑んだ。人の道に私の居られる場所は無かった。
だから私は外道を歩んだんだ。歩まされたんだ。
「だからね、鬼は人を攫うんだ」
彼女は夜空を見上げて言う。その赤い瞳が何を見ているのか、それは判らない。只々、ずうっと遠くを見詰めている。
「攫われた大事なものを奪い返す為、人は我らに立ち向かってくる。
そこにはもう、力の上下なんて関係無い。たった一つの強い想い、それだけを持って真っ直ぐ鬼に突っ込んで来る」
私に立ち向かってきたのは、弱い、本当に弱い人間の女だった。
そんな奴が、鬼の私の力を前にして、それでも退かず、ただ我が子を助けたいと、その想いだけを頼りとして、そうしてついには鬼を斬った。
「そうして初めて、鬼と人間はそのまんまの心同士をぶつけられるんだ」
人攫いと鬼退治、それこそが人と鬼との信頼関係を築く唯一の手段。そんな事を熊女は言う。
「どんだけ不器用なんだよ。それ」
彼女の話を聴いてる内に、いつの間にか笑いは止んでいた。頭も落ち着いてきた。
鼻を啜り、未だ少し湿った声を私は返す。
「はは、違いない。本当、とんだ不器用だ。
でもま、良いじゃないか」
その分、鬼は躰が頑丈なんだ。そう言って熊が笑う。
「で、どうだった。母親の本当の心と真正面からぶつかってみて」
どうだった、って。
どうだ、って。
確かに私は、この身に受けた傷を嬉しく思った。気持ちを刻み付けられた、その事を。
でも。
その事が、私の過去までを変えてくれる訳ではないんだ。
「親の気持ちも判ってやれって、そう言いたいの」
「うんにゃ。判れ、なんて、今更そんな事も言うまいさ。何せお前さん、そんなものはとっくのとうに理解してる。
だからこそ、母親に斬られて、その気持ちを真っ直ぐぶつけられて、それを嬉しいと言えたのだろう?」
……ああ、もう。
これだから、これだからこの熊は嫌いなんだ。
力しか能の無い筋肉頭の癖して、勝手に人の心をああだこうだ推理して、そうして知った顔で代弁しやがる。
酷く無礼。鬱陶しいったらありゃしない。
しかもそれが一々的を外さない。だから余計に腹が立つ。
「知ってたよ。判ってたよ。当然だろっ、私は生まれた時から頭が良いんだぞっ」
母は事あるごとに私を戒めた。
化け物である私を、同じ化け物である父を、そうして化け物と結ばれ化け物の子を成した母を、里の奴らは見下し蔑んだ。それを私が叩いて黙らせるその度に、母は泣きそうな顔で何度も私を叱った。
母は弱いから、周囲からの風当たりが強くなるのを怖れたから、だから私を大人しくさせようと必死だった。
そう。そんな事は判っている。判っているんだ、全部。
私は強いし、私は私が正しいと信じてる。
けれどもそんな強さや信念は、人に交じって暮らす為の障害にしかならなかった。
例えどんな理由が有ろうとも、人の悪意に私が暴力だけを以って抗すれば、私への怖れは只一層増していくだけ。
やはりこいつは化け物の子だ、こうして人に仇を成す、父と同じにさっさと殺してしまえ。風当たりはどんどんと強くなる。
私は強かった。だから人にそんな事を言われても何とも思わなかった。私は誰から拒まれても構わない。ずっと独りで良い、と。
でも母は違う。
母は望んだ。私が人との関わりの中で生きていく事を。そして、孤立していく私の姿を悲しんだ。
だから必死になって私を諭そうとした。弱い自分では、日に日に強まっていく風当たりを前に、人の世界の中で子供を護り切る事は出来ない。それが判っていたから、ならば少しでも風を弱めようと、私に力以外での人との関わり方を教え込もうとしたんだ。
「判ってるさっ、そんな事。それに、あの日だって」
私が棄てられたあの日、泣きそうな顔で、お酒はやめて、お願いだからやめて、そう何度も母は懇願してきた。
彼女は知っていたから。私が一度酔い潰れてしまえば簡単には目を覚まさなくなる事を。
悪行三昧の鬼子めが。さっさと殺してしまえ。出来ぬなら山にでも棄ててしまえ。
人間である母に、人の中で生きる彼女に、いつ迄も人の声を無視し続ける事なぞ許される筈が無い。それでも私が酒を呑みさえしなければ、酔い潰れる事なく目を覚ましてさえいれば、怪力以って暴れる子には手も足も出せぬ、そうやって言い訳も立つ。
それに、酒をやめればもしかすれば気性も改まるかも知れない。
「とっくの昔に理解してたさっ」
化け物との関係を持ったとはいえ良家の娘。
夫が殺され、子も棄てて独り身に戻れば、当然の如く新たに、今度はまともな人間の男を宛てがおうと、誰でもそう思う。
けれども母は再婚しなかった。
その過去のせいでどんな男も寄り付かなかったか。
多分、そうじゃあない。例えそうだとしたって、それでも本家の方は、娘を取り敢えずは家に引き戻そうとした筈だ。化け物の家にいつ迄も置いておける訳が無いのだから。
しかし母は伊吹の家に残っていた。
そうして身寄りの無い男の子を引き取った。血も繋がらぬその子を自分の子供として育てた。
自分と夫の、二人目の子供として。
私の、弟として。
「そうしてあいつは、今度こそ自分の子供を護る為に、絶対に敵う筈のない鬼を前に、それでも立ち向かってきた」
私は拒絶した。必死になって、持てる力の全てを振り絞って、私の事を愛さなかった女を私に近付けさせまいとした。
けれどもあいつは、母は、私の元にまで辿り着いたのだ。
何故なら、母は私を。
「でもっ。だから何だって言うんだよっ」
判ってる。判ってたさ。全部っ。
人の行いなんてどんなものだって、悪し様に言おうと思えば幾らでも言える。悪く解釈しようと思えば幾らでも貶められる。
今までずっと、そうやって屁理屈つけて、判らないふりしていただけさ。餓鬼みたく駄々をこねていただけ。
納得したくなかったから。判ってはいたけど、それを認めたくなかったから。
それが今、母の気持ちをこの身に叩きつけられて、目をそらしていた事が確かな真実だと、それが改めて思い知らされた。
自分への嘘を、もうつけなくなった。
でもそれがどうしたんだよ。
それが判って何が変わるんだよっ。
死んだ父親が生き返るか? 私が外道に棄てられた事実がどっかに飛んで消えちまうのか!?
いいや、何にも変わりやしない。言葉だ心だをどう混ぜっ返したところで過去は事実はひっくり返りはしないんだ。
「誰が何を思ってどう行動した。それを理屈にして理解して、それで何がどうなるんだよっ」
気付けば私は、心の内を全部そのままに熊女へと叩き付けていた。
こんな、昨日今日会ったばかりの奴に。それ迄は私の事を何一つ知らなかった様な奴に。私の気持ちなんかが理解できる筈もない奴にっ。
「どうにもならんさ」
熊女は応える。そうだよ、どうにもならないんだよっ。
なら。
「ならさ、私はどうすりゃ良いってんだよっ。あんたは私に何をしろってんだよ!」
私は母の愛を知っている。でも駄目なんだよっ。
母が弱い人間だったのも事実。そうして私を護りきれず、山に棄てたのもまた事実。事実は事実なんだ。
母の想いを理屈で理解しても、母の弱さを仕方ないものだと納得しようとしても、心がそれを受け入れちゃくれないんだよっ!
「何もしなくて良い。そのままで良いさ」
言って彼女は、やおら着物をはだけてみせる。夜の冷たい空気の中、露に見せられるその躰。
「あんた、それ」
私は思わず息を飲む。あれだけ昂ぶっていた筈の私の感情が、一気にその熱を冷まされ静けさを取り戻す。
それだけの力が、その光景には有った。
月明かりに照らされて青白く映える少女の肌。
そこに刻まれた生々しい傷の跡。
それも一つや二つじゃあない。無数の傷痕が彼女の躰を覆っていた。
「ま、多分あんたの想像する通りさね」
私にも、鬼であるこの躰にも、たった一つの傷がある。人間の、母の気持ちを受け止めたその痕が。
それじゃあ、こいつも。
「あんたは、さあ」
私は訊ねる。
目の前に居る、私よりも長く生きてきたもう一人の鬼に。
どうしても、訊かずにはいられなかった。
「あんたはそれを、受け入れられているの」
彼女は答えなかった。ただ黙ったままで笑顔を向けてくる。
……それで充分だった。その顔を見て一目で判ってしまった。
だってその笑顔には何の誤魔化しも無い。嘲りも無い。何をも否定しない。そんな、とても真っ直ぐで誠実な笑顔だったのだから。
「どうしたら、そうなれるんだ」
私は確かに、母の気持ちをぶつけられて嬉しかった。頭では、理屈では母の愛も理解している。
それなのに、そこまで全てが綺麗に整っているのに、けれども心が納得してくれない。
事がここまで至りゃあ、過去の全てを受け入れてめでたしめでたしって、そういう話の流れだろう?
でも駄目なんだ。人に怖れ蔑まれた過去の怨みが消えてくれない。棄てられた事実が忘れられない。
そのせいで、心の中を綺麗さっぱりにする事が出来ない。母の全てを受け入れる事が出来ない。
嫌なんだ。こんな状態は、もう。苦しくって仕方ないんだ。
判っているのに判らない。受け入れたいのに受け入れられない。素直になりたいのにそれが許せない。
「言ったろ。何もしなくて良いって」
答を望む私に、しかし彼女が返したのはそんな言葉。
「あんたは若いのに頭が良い。ちゃんと全て、理解は出来ている。今はそれで充分さ」
そう言って彼女は手を伸ばしてくる。私の肩を抱き、ゆっくりと、その傷だらけの躰へと引き込む。
「歳を取ると、大人になると、当然身体がでかくなる」
身体全体で感じる肌の温かさ。彼女の体温。
何故だろう。
懐かしいなってそう思ってしまった。その温かさに。私じゃない誰かの肌に触れる、そこから感じる熱に。
一体いつ以来だろう、こんな温もりを感じたのは。
「身体だけじゃない。心だってでかくなる。でかくなればその分、中に入れられるものも増えていく。
それだけの話さ」
言いたい事が判らない。それが何の解決策だと言うんだ。
そう文句をつけてやろうと思ったけど。
でも出来なかった。
よくは理解できなかった筈なのに、何故だか心が、うん、と頷いてしまったのだ。
今は判らないけど、いつかは判るんだ、って。
ああ、それに。
身体中が温かさに包まれてとても気持ち良くて。
心が落ち着いて、身体が温められて。
だからもう、何だか凄く、眠くなってしまって。
「このまま、眠ってもいい?」
何いきなり恥ずかしいこと言い出してるんだろう。これじゃあまるで、ちっちゃな子供みたいじゃないか。
自分自身、そうは思う。
でも駄目。このどこか懐かしい温かさに触れていると、自然とそんな言葉が出てしまうんだ。
ああ、そうだ。
きっと、今日はきっと、とても疲れたから。そのせいだ。
だからこんなに、眠くて仕方が無いのだ。
そのせいで、こんな子供みたいな事を言ってしまったんだ。
だからこれは、今日一日のせい。今日一日だけ。
今日は、今だけは、どうかこのままで……。
「ああ、お休みなさい」
私の頭のその上で、私を抱いたまま彼女はそう言った。
◆
◆
「その名前のように、美しい花の香りに誘われ人々が萃まるように、いつかは貴方の周りにも……」
◆
◆
「おかあさん、ねえ、おかあさんっ」
一晩明けた伊吹の家。
夜に於いては山の中、傷だらけになって現れた母を見て驚き泣き出しはしたものの、その傷も大したものではないと知るに至れば、遅くまで起きていたせいもあったのだろう、安心してすぐに眠ってしまった男の子。
その子がこうして朝早くに起き出しては、昨晩の騒動を騒動とも思わぬ普段の元気で、未だ少々疲れも取れぬ様子の母を家の口にまで引っ張って出す。
「これ。ほら、これっ」
子の指す先には、母が子の為に作った父の面。
それと、まるで石ころみたいに不恰好で飾り気の一つも無い大きなおにぎりが二つ。
「あのおねえちゃんからだね」
子はすぐに理解した様子だった。
昨日に出会った、面と同じの二本角を持った少女。彼女が、子の貸していた面を返しに来てくれたのだと。
おまけにこんな大きなおにぎりまで。
明るく笑う子の前で、母は一瞬その口を両手で覆う。その目が大きく見開かれる。
けれどもそれもほんの一瞬。
母はゆっくりと屈み込み、子の頭をそっと撫でながら確かな声で言うのだった。
「そうだよ。
お前の、お姉ちゃんからだよ」
◆
「ねえ、あれで本当に良かったの」
丸々元気なお日様が明るく照らすその下で、野道を行きながら彼女はそんな事を訊いて来た。
頭に被るのは大きな編み笠。初めて会った時と同じだ。
「良いのよ」
あっけらかんと私は応える。
頭にゃ同じく被った笠、といきたいところだけど、こっちは角が二本ある上に大きいので笠も被れない。仕方がないので二本同時に布でぐるぐる巻き。
何だか奇妙な帽子みたいな格好になっちゃったけど、一本一本巻くのも面倒だし、まあ良いか。
「子はいつか親元を離れる。そんなのは当然の事だろう。
こう見えて私ゃ十五だ。巣立ちに早い時期ではないさ」
街道筋を行くと要らぬ面倒も起こしかねない。て言うか、そもそもこちとら躰は滅茶苦茶に頑丈なのだから、強引に野山を突っ切った方がむしろ楽だし速い。そんな感じで私は歩く。
私と同じ、鬼である彼女と一緒に。生まれ育った土地を後にして。
「ま、そうだね。あんたが良いと思った。なら良いさ」
うん、とても良い。そう頷いて彼女は笑う。何の嘘も哀れみも入れない、誠実な鬼の笑顔を見せる。
数年ぶりに母と会った。その心の内をぶつけられた。漠然と知っていた母の想いを、確かな言葉として改めて理解もした。
そうしてさっき、母と、そうして弟に、ちゃんと別れも告げてきた。
ならこれで良い。旅立ちの流れとしてはこれ何の不足も無し。しかもお空を見上げりゃぽかぽか陽気の気持ち良いお天道様。本当に、何の申し分も無い。
正直私は、未だに母の全てを受け入れてはいない。未だに理屈と気持ちが、ぐるぐるぐるぐる頭の端っこで回ってたりもする。それは昨日以前までと変わらない。
でもね、私の隣を歩く彼女は言ったんだ。
そんなのは放っておけば良い。時が経てばいつかは勝手に、受け入れるだけの器が心に出来るからって。
そう言われちゃあ仕方も無い。
私は頭の中のぐるぐるを、そのまま頭の端っこに置いておく事にした。ぐるぐるはぐるぐるで、それも確かに私の気持ちなんだって受け入れてやる事にした。
そしたらまあ、何だか随分と心が軽くなった。ぐるぐるしてるのは変わらずなのに、さ。
未だ母の全てを受け入れられていないという事実、その事実を受け入れたって事なのかしら。何だか下手な禅問答みたいな気がしてよく判らないけど、ま、良いか。
そうして心が軽くなったなら、急に外の世界が見たくなってきた。
一つのお山に籠もりっきりでさ、いつ迄も一人で大将面しててもやがては飽きも来る。それより私は、今まで私の知らなかった世界を見てみたい。そう思ったんだ。
こちとら鬼だ。化け物だ。きっと行く先々、また面倒に巻き込まれたり恐怖や嫌悪の視線を向けられたりもするだろう。昔と同じ様に、心抉られて傷付く事も多いだろう。
でも。
「ああ、そうだ」
歩きながら私は懐から取り出す。
竹の皮に包まれた小さなそれ。本当に小さい。実際はともかく形としては十の前後なこの幼い躰、その片手に収まる位。
「あげるよ、これ。あんたに」
少し不思議そうな顔で手に取る彼女。
包みを開けたその中身は、米の固まりを丸めただけの小さなおにぎり。
「先に言っておくけど。
別にあんたの為にわざわざ作ったって訳でもないから。ちょっと中途半端にお米が余っちゃったんで、それで」
私は、まあ、あれだ。彼女と出会ってまだ二日も経っちゃいない。
初印象は最悪だったし、その後もこいつのお人好しのせいであれこれ引っ掻き回されたし。しかもまあ、昨日の夜に至っては、何だ、幾ら色々あって疲れてたとはいえ、あんな赤ん坊みたいな……。
まあ兎も角っ。
正直こいつに対しては色々つけたい文句も大量に有ったりはするのだ。私とこいつはそういう関係なのだ。贈り物をしてやる程の仲良しでもないのだ。決して。
ただ、まあ、その。
「昨日、一応、お近付きの印ってのを貰った訳だしさ。そのお返し。
その程度の義理は果たさないとね。私も子供じゃないんだし」
ああっくそ。昨日の夜を思い出したら流石にちょっと恥ずかしくなってきた。
そうして上手く視線も合わせられなくなってる私を前に。
「ありがとう」
心底嬉しそうな、屈託の無い笑顔でそう言って、それから。
「でもさ、昨日の私が作ったの、結局受け取ってはもらえなかったんだし」
その手にしたおにぎりを二つに割った。その内の一つを私に向けて差し出してくる。
「これで改めて、お互い、お近付きの印って事で」
私は言葉を返せなかった。
本当もう、こいつったら、何でこう良い人な言葉を真顔で口に出来ちゃうかね。
私は無理。何て言うかこう、そういう風にするの、どうしても恥ずかしいとか、格好つかないとか思っちゃって出来ない。
こういうのもあれかなあ、歳を取れば自然と出来る様になったりするものなのかしら。
ああ、でも残念。私はまだ若い。だから何も言わずに黙ったままで、半分になったおにぎりを手に取る。
そうして二人同時にぱくり、一口にして飲み込んだ。
もぐもぐ。
ううむ、我ながらあれだ、たかがおにぎりなのに、子供でも簡単に作れる程度の物なのに、何だか微妙に美味しくない。出来が悪い。
むう、ちょっと塩が濃かったかも。
「ご馳走様でした」
けれどそんな私のおにぎりを文句一つ言わずに食べ終えて、彼女はまた真っ直ぐにお礼の言葉を渡してくる。
本当にこいつ、今の私にはちょっと真似の出来ないくらいの良い子ちゃんだ。
正直、良い子が過ぎてちょっと鬱陶しいくらい。
とか、思ってたけど。
あーあ。昨日一日中こいつのお人好しっぷりに振り回されてさ、そうしたらもう、何だか慣れちゃったわ。こんな短い期間で、もう。
慣れちゃったせいで、まあ、彼女のこういう性格、嫌い、とも言えなくなってしまった。
「じゃあ改めて」
歩いていた足を止め、真っ直ぐ私の方を向き、そうして彼女は右手を差し出す。
「今後とも宜しくね」
昨日までの私だったら、馴れ馴れしい、気持ち悪い、そう言ってこの手をはたいたりもしただろうけど。
「ああ。宜しくね」
まあ、こいつの性格にももう慣れたし。
決して嫌い、って訳でもないし。
「勇儀」
だから彼女の、勇儀の手を私は握ってやったんだ。
「え」
小さくそうこぼして、ちょっと不意をつかれたみたいな不思議そうな顔を見せてくる。
でもその顔、すぐにまた、もっの凄く判り易いにこにこ顔になって。
「うん、宜しくね!
……ええと」
そうしてすぐに詰まってしまった。
ああ、そうか。そう言えば私、彼女に、勇儀に教えてなかったしね。私の名前。
私がこの世に生まれたその時に、母が私にくれたその名前。
今ならはっきりと思い出せる。私のこの耳に、確かにあの時の、生まれたばかりの私に話しかける母の声が聞こえてきて。
『萃香よ。そう、それが貴方の名前』
「萃香。香りを萃めると書いて萃香」
それを聴いて勇儀は。
「萃香か。良い名前ね」
そう笑ってくれた。
ああ、そうだろう。とても、とっても良い名前だろう。
私の、萃香というこの名前。
「って、ああ成る程っ」
っと、突然にこっちの握ってた右手を離して、それと左手とをパンと打ち鳴らして叫び出した。
何よ、何いきなり。
「幾ら鬼とはいえ、大蛇の血筋とはいえさ、生まれたばっかりで修行もしてない子が、何で物を好きに萃めたり何だりとかそんな不思議な術が使えたのかと思えば」
思えば、何よ。
「その名前のお蔭かあ」
その名前って、萃香っていう私の名前?
「言霊ってやつね。母親の強い願いが込められたその名前、それのお蔭で萃香、あんたは生まれた時から萃める力を使う事が出来たのよ」
私の名前、萃香という名前に籠められた、母親の願い。
『その名前のように、美しい花の香りに誘われ人々が萃まるように、いつかは貴方の周りにも』
「そうかそうか、これで得心がいったわ。だから私はここに来て」
って、勇儀は未だに何かを一人で納得してうんうん頷いている。
「勇儀がここに来てって、それは何の話」
「ああ、いやさ、私があんたの山に来た、その理由」
「理由って、あれでしょ、腕試し。私っていう強い奴が居ると知って」
「いやいや、それはさ。山に着いてから初めて聞いたのよ。ここには伊吹童子って無茶苦茶強い奴が居ます、って」
「そうなの? だったらさ、そもそもの山に来た理由は何だったのよ」
「それがねえ、ずっと私にも判らなかったのよねえ」
おーい、おいおい。
それじゃあ何か、さしたる目的も無くふらふら本能のままに歩いてたら、結果、私と出会ったとかそういう事?
流石は熊。勇儀ってば、本当に動物並の頭してるのねえ。
「でもそれが今、判ったのよ」
今更判るなよ。行動の理由は行動する前に判れよ。
「萃香ってさあ、望めば何でも萃められるんでしょ」
「そうだけど」
「何でもって事はつまり、心も萃められるのよね」
心、とな。
……心?
どうだろう。そう、なのかなあ。心って言われてもよく判らないと言うか、どうなんだろう。
って言うか、心を萃めるってそれ、一体どういう状況なんだ?
さっぱり判らず私は首を傾げる。
「つまりさあ、私の心が萃香の力によって引き寄せられてたって事」
ああ。何となく理解が出来た気がする。
つまりはあれか、心を萃めるってのは誰かを私の元に引き寄せるって、自然とこっちに足を向けさせる様にするって、そういう事なのかしら。私は自分の望んだものを引き寄せる事が出来る訳だから、それによって無意識に。
……いやちょっと待て。
この理屈だと、んじゃあ何か、この私が、伊吹萃香が、こいつを、星熊勇儀を、無意識の内に。
うん。まあ、その、何だ。
うん。
「ふんはッッ!!」
「ぐぼッ!?」
気合一閃、今の私が出せる最速最強の一撃。それが勇儀の鳩尾に綺麗に吸い込まれた。
呻き声上げてくの字に折れ曲がるその躰。
「ちょ、何を、いぎなり……」
息も絶え絶え、言葉も絶え絶え。
うん、こいつも無敵じゃあない。決める所に決めるもん決めればしっかり倒せるみたいね。
「思い出したのよ。
そう言えば私、最初会った時勇儀に一発頭に貰ってさ、そのお返しがまだだったなって」
恩も仇も貰ったもんはしっかり返す。それが鬼の義理ってぇもんじゃないの。違うのかしら?
と言うのはまぁ、一応の理由で。
ちっくしょう!
ああもう、駄目だ駄目っ。
勇儀の言ってる理屈が当たりだとすればさ、それじゃあ私、何だよ、もうとんでもない寂しがり屋とかそういうのみたいじゃんかっ。
それってどんだけ餓鬼なんだよ私は!? 巫山戯るな、認められるかそんなもの! こっ恥ずかしいっ。
「ところでさあ、これから私達、何処に行くの」
この話はもう終わり。多少強引にでも取り敢えずは話題転換。
腕組んでそっぽ向きながら私は、うずくまってる相棒の頭に声をかける。
「んまあ、そうさねえ」
ゆっくり立ち上がる勇儀。ってか、もう立てるんだ。くそう、やっぱ歳の差、力の差。結構本気の一撃だったからそれなりに悔しい。
でも、まあ良いわ。誰にだって得手不得手はあるんだ。単純な力では、良いよ、こいつに一歩譲ってやる。その分、私は術を磨けば良い。
取り敢えずは未だにちょっと涙目な勇儀の顔、ここはそれ見て我慢するとしよう。
「比叡山にでも行こうか。あそこは名高い霊山だ。萃香の術を伸ばすには丁度良いだろう」
何だよ、このお人好しさんめ。まずは最初に私の為にってか。そいつはありがとうございますっ。
……って結構、皮肉ではなく心の底からそう感謝できてる自分が何だか不思議だ。
僅かの間に随分と丸くなったもんだなあ、私も。
「でもまあ、術を伸ばす以前、まずは鬼の流儀をしっかり教えとかないとね。
どうも萃香は下手な嘘をつく癖があるみたいだし。鬼としてはちょっと誠実さに欠ける」
「余っ計なお世話だっ」
心の底っからそう思う。
悪かったね、素直になれない捻くれた餓鬼ん子でっ。
「んじゃまあ、行こうか」
「うん」
そうして再び勇儀は歩き出す。ちょっぴり頬を膨らませながら、私も一緒に歩き出す。
私達の歩くその旅路、決して平らなものではないだろう。
人々から怖れられ、蔑まれ、傷付けたり、傷付けられたり。辛い事、悲しい事、きっと沢山待っている。
それでも私は歩く。私は知りたいんだ。私の知らない世界を。
そうして。
星熊勇儀。
私の隣を歩く、馬鹿で失礼で無遠慮で馬鹿で、でもとても真っ直ぐで面白い奴。
こいつみたいな面白い奴ともっと、もっともっと会ってみたい。私はそう願う。
だから私は歩くんだ。胸を張って、顔を上げて。
たった今始まったばかりの、長い長い私の旅路を。
◆
◆
萃香よ。そう、それが貴方の名前。
その名前のように、美しい花の香りに誘われ人々が萃まるように、いつかは貴方の周りにも、貴方を心から想ってくれる人達が萃まってきますように……。
『鬼退治』の下りも丁寧に描いていて好き。
良作でした。
君と生きてく明日だから はい上がるくらいでちょうどいい
そんな歌をなんだか思い出した
「伊吹童子」の話を元にした設定かな? 母の気持ちを理解しても簡単には改心できないあたりの描写がリアル。
なのに最後はカラッと気持ちよく。ウン、いい話だ。そしてもしかしてコレ「夏去りて」に繋がる?
で、タイトルとタグと今日の日付を深読みしすぎて「萃×勇で鬼が義理(と言いはる)チョコを上げる話だな!?」と勘違いしたのは
……私だけだろうな、やっぱ
ロマンのある作品は良い。
作者さんの名前だけで読む前から『ギャグSS』と決め付けてましたごめんなさい。
とてもキュンキュンしましたありがとうございます。
>コメント3様
萃×勇の勘違いに激しく同意。
よい話をありがとうございます。
アニメ映画の脚本に使えそうなまさに『いい話』
例年にないバレンタインSSラッシュな今日の創想話ですが、
こういうのもいいですね。勇儀がカッコイイ大人です。
つ100
ツンデレ萃香GJ!
ただ一言。「良かった」
なにげにかなり重い話なのに、それでも明るいラストが印象的。
何も言えねえ…
余計なことは言わず。ただこれだけで。
勇儀の包容力で萃香がツンデレにっ!(ぉ
良い話だったぜ
言い換えるとこれ伊吹童子を元にした話ってことで劇の台本にでもして
中学高校の文化祭あたりで上演しても普通にイイ話として受け入れられそうな出来と思う
子どもから大人への成長話として、もしこれが『夏去りて』に繋がるのだとすると
萃香の成長ぶりが感慨深くなるなー
にしてもこれの萃香といい前の地子といいオリキャラ外の少女といい
傷ついた子どもの心理描写がエライ真に迫ってるって気が
でもそれがいいって感じッス!
萃香の感情がダイレクトに伝わってきました
お母さんやっぱつえええ
オリ設定を上手く使っていて非常に読みやすかったです。
おにぎりうまい