霊夢は空になった杯に酒を注ごうとして徳利に手を伸ばした。
つまみも用意せずにひとりで呑んでいるせいだろうか、既にいい塩梅に酔いが回り始めている。
ほろ酔い気分の火照った頬を冷ます、早春の夜気が心地よかった。
頬を撫でる夜風はあくまでゆるく、時折いたずらに霊夢の前髪を揺らしてはかすかな風鳴りと共に吹き抜けていく。
一足早い花見酒をしようと思い立ったのは、夕餉を食べ終わってお茶を啜っていた時のこと。
ここ数日のうららかな陽気で境内の桜がようやく五分咲きとなり、酒の肴としても充分な見栄えになってきた。
幸い今夜は月も満ちている。どうせ酒を呑むのなら夜桜と満月を楽しめる場所で、と思うのは霊夢でなくとも風情を解する者ならば必然の流れであろう。
皓々と白く輝く月に照らされ、境内は思いのほか明るい。
特に目を凝らさずとも隅々まで見渡せるほど視界がよく、そのせいか無人の境内の人気の無さがより際立っているように感じられ、霊夢は思わずくすりと笑った。
こんなにも月が綺麗な夜なのに。今夜は、誰も来ていない。
白黒の魔法使いも、七色の人形遣いも、大酒呑みの鬼も、わがままな天人も、紅い館の吸血鬼も。人間にしろ人外にしろ、呼んでもいないのに勝手にやってきては好き放題騒いでいく喧しい連中が、今日は一人も来ていなかった。
賽銭箱に背を預け、注いだ酒を一息に呷る。
霊夢は名残惜しげに唇から杯を遠ざけると、艶っぽい吐息を洩らしてぼんやりと夜空を仰いだ。
こうしてひとりで酒を呑むのはいつ以来だろう。数週間か、数ヶ月か。一年……は、流石にない気がする。
もとより孤独が好きなわけでも、恋しいわけでもない。
ただ、久しく味わうことのなかったさざ波に揺らぐ水面のような静寂に包まれ、不思議と心が安らいでいるのも事実だった。
それに、こんな風にゆったりとした時間が過ごせるのは多分今だけだろうという思いもあった。
数日後の境内の様子を想像した霊夢は、胸に去来した愚痴とも諦めともつかない複雑な感情に苦笑を浮かべる。
境内の桜が満開になれば、花見と称して連日連夜の宴会が行われるのは目に見えている。
霊夢自身が言い出さずとも、普段から何かと理由を付けては宴会をしたがる魔理沙や萃香が黙っているはずがないのだから。
いつものように皆がやってきて、いつものように騒いで酒を呑む。
普段と何ら変わりのない日常がやってくる。ただそれだけのことのようにも思えた。
霊夢は小さく鼻を鳴らすと、再度徳利に手を伸ばして酒を注いだ。
いつもよりペースが早いという自覚はあるが、桜も月も綺麗なこんな夜は、深酒も悪くあるまい。
自分でもよくわからない半ば自棄のような乗りに背中を押され、酒を注いだ勢いのままに杯に口をつけようとして、ふと動きを止めた。
ゆるやかな夜風が木々を優しく揺らし、幽かな月光が降り注ぐ境内。
虚空に満ちる心地よい静寂を壊さぬように、無人のはずであった境内にひっそりと佇む人影があった。
顔は見えない。彼女が差している傘が月光を遮り、陰になっていた。
それでも霊夢の脳裏には、場違いな傘を差した人影が誰であるのか、視界に捉えた瞬間に確信に近いものが閃いていた。
そもそも、ところ構わず傘を持ち歩いているような物好きな知り合いは、指折り数えても片手でお釣りがくる。
霊夢が境内に佇む人影を認めたのと、その人影がこちらへ向かって歩き出したのとほぼ同時だった。
一歩また一歩と距離を詰め、次第に輪郭や色彩が鮮明になる人影を、霊夢は身じろぎもせずにじっと視界に捉え続けた。
結局、今夜も私の隣には誰かがいることになるのか。そう思うと、頬が自然に緩むのを感じた。
やがて、人影は足を止めた。霊夢との距離は歩数にして三歩。
相変わらず日傘が月光を遮って陰になっているとはいえ、この距離ならば姿かたちを見間違えるはずもない。
「こんばんは、霊夢。ご機嫌いかが?」
日傘の下で淡く微笑む見慣れた顔に、霊夢は小さく溜め息を吐いた。
時間にして僅か半刻にも満たなかった、月下の独酌。肴は五分咲きの夜桜。
ほんのちょっぴり、後ろ髪を引かれる思いではあるけれど。
誰かと一緒に呑むお酒も、きっと悪くない。そんな気がするから。
だから、霊夢は屈託のない笑顔でこう応じた。
「こんばんは、幽香。今夜はお月様も出てるし、桜も綺麗だし、いい気分よ。わりとね」
チェック柄のスカートとベストといういつもの服装に身を包んだ風見幽香は、霊夢の笑顔に呼応するように日傘の下で笑顔という華やかな大輪の花を咲かせた。
奥から持ってきた来客用の酒徳利と杯を幽香に渡し、お互い酒を注ぎ終えたところで、特に示し合わせた訳ではないが視線を交わして軽く杯をぶつけ合う。
そのまま一口で杯を空け、一緒に酒気混じりの吐息を洩らした二人は、顔を見合わせてくすくすと笑い合った。
並んで仲良く賽銭箱に寄りかかった二人の距離は、何かの拍子に肘と肘が触れ合う程度には近く、肩を寄せ合うにはいささか遠い。
「久しぶりのお酒だからかしら。なんだかとっても美味しく感じるわ」
さっそく徳利から酒を注ぎ足し、幽香がしみじみとした口調で呟く。
霊夢も至極当然のように自らの杯を満たした。
「そういえば、最近宴会にも顔出してなかったわね。冬眠でもしてたの?」
「冬眠なんてしないわよ。どこぞのすきま妖怪じゃあるまいし」
幽香は苦笑を浮かべた。
「季節は刻一刻と移り変わっているの。寝てる暇なんて無いぐらいに、ね。たとえば、そこの桜」
そう言って、幽香は境内の桜を指さした。
「満開の桜もいいでしょう。でもね、桜が徐々に開花していく過程を知っておいたほうが、いざ満開になった時、より一層美しく感じられる。そう思わない?」
「んー。確かに、そうかも」
「私はね、できる限り多くの、季節のうつろいを目に焼き付けておきたいと思ってる。人知れず咲き、枯れてゆく花があったとしても、私だけはそれに気付いてあげたいのよ」
わかるかしら、と小首を傾げて視線をよこす幽香に、霊夢は小さく頷いてみせた。
花を眺める時の幽香の表情を思い起こせば、それはごく自然なことのように思えた。
でも、と霊夢は思う。
幻想郷屈指の強さを誇る大妖怪とは到底思えない、子を持つ母親のような穏やかな表情の彼女を、いったい何人の人妖が知っているのだろう。
風見幽香という妖怪は、幻想郷の自然を愛している。妖怪としての強大な力の陰に隠れてしまいがちなその事実を、忘れずに胸に留めている人妖が何人いるだろうか。
不憫とまでは思わない。幽香自身がそう思われることを嫌うであろうことは、霊夢にもわかっている。
わかっていても、花を愛し花に愛される彼女が多くの人間や妖怪から畏怖の念を抱かれている現実が、ひどく理不尽なものに思えた。
「でも」
霊夢は柄にもなく神妙な気分になった自分を鼓舞するために、わざと茶目っけのある口調で言った。
「ちょっと意外だわ。あんたはどっちかって言うと、自分の好きな花を一年中咲かせて満足してるようなイメージがあるから」
「意外とは心外な言い草ね。私は今も昔も変わらずに花や草、木々たちを愛している。その私が、自然の摂理に反した所業をするわけがないでしょう」
茶化すような霊夢の言葉には乗らず、幽香はただ静かに笑っていた。
四季折々の花々を愛でることこそ花鳥風月の真髄だ、と。暗に彼女は主張しているのかもしれなかった。
「ねえ、霊夢」
ん、と生返事をして、もう何杯目かもわからない杯を空ける。
「さっきまで、ずっとひとりで呑んでたの?」
「ええ。今夜は誰も来ないみたいだし、他所の宴会もないから」
答えながら、境内の桜へと視線を投げた。
白い月明かりの下、五分咲きの桜が夜風に吹かれてかすかに枝を揺らす様を見詰め、霊夢は続ける。
「今夜は月も綺麗だし、一足先に花見酒をしようかと思って」
「月見に一杯、花見に一杯ってところかしら」
「そういうこと。ま、たまにはゆっくり静かにお酒を呑むのも悪くないでしょ」
花札の役に例えた幽香の言葉に首肯を返す。
「ふぅん。なるほどね」
幽香はふっと視線を逸らすと、なにやら含みのありそうな呟きを洩らした。
その、少しばかり人を馬鹿にしたような言い方が気になって、霊夢は何気なく幽香の横顔を見遣り、目を見張った。
月光に照らされた幽香の白い頬に、歪な笑みが刻まれていたからだ。
「……なによ。何か文句でもあるの」
気付けば、霊夢は自分でもびっくりするほど強い声で、薄笑いの張り付いた幽香の横顔に噛みついていた。
幽香の唇からこぼれた取るに足らない一言。普段なら聞き過ごしても何ら違和感を感じない程度の呟きが、ひどく癪に障った。
根拠はないが、どうしようもなく子ども扱いされたような気がして、無性に腹立たしかった。
霊夢の胸中を知ってか知らずか、幽香は口元を手で隠して心底可笑しそうに声を洩らした。
「やあねぇ、そんな怖い顔しないで頂戴な。ほら、そんな顔してると、せっかくのお酒が不味くなってしまうわよ?」
霊夢は「む」と唸って口をへの字に曲げた。
私をこんな顔にさせているあんたにだけは言われる筋合いはない、と心の中で毒づく。
「ね。後生だから、怒らないで聞いて欲しいのだけれど」
「怒ってないわよっ」
「本当に?」
「怒ってないっ」
「……怒ってるじゃない」
「怒ってないったらないのっ」
有無を言わせぬ口調で言い切り、勢いよく顔を背ける。
苦笑いを浮かべた幽香の視線を振り切って明後日の方向を向いた瞬間、霊夢は激しい自己嫌悪に襲われた。
自分の言動を顧みて、これじゃまるっきりヒステリーを起こした子どもじゃないの、と気付いたのだ。
普段の自分らしからぬ醜態にほぞを噛んでも、もう手遅れ。引っ込みがつかなくなってしまった現状を悔やんだところで、事態が好転することはないのだから。
それでも霊夢は半ば意地になって殊更に不機嫌な顔でそっぽを向き続けていたが、向き直るきっかけは思いのほか早くやってきた。
幽香がこれ見よがしにわざとらしい、大げさな溜め息を吐いたのである。そして、間髪入れずに容赦のない言葉が霊夢の耳朶を打った。
「まったく、あなたも少しは年頃の女の子らしくなったかと思っていたのに、まだまだお子様ね。ちょっとがっかりだわ」
霊夢は「う」と顔を引き攣らせた。
普通はもうちょっと婉曲な言い回しをするものだと思う……と、霊夢が恨みがましく思ったのも無理はない。
だが、幽香の言葉には続きがあった。
「でもね」
囁くような幽香の声がやけに近くから聞こえたのと、優しくそっと顎を掴まれたのと、どちらが先だっただろうか。
あ、これはやばい。他人事のような危機感を覚えた時には、幽香の馬鹿力で強引に首の向きを変えられていた。
鎖骨の辺りからコキッと変な音が鳴ったような気がするが、幻聴だと信じたい。
驚きからわずかに目を見開いた霊夢の鼻先では、幽香がにっこりと満面の笑みを浮かべていた。
「安心なさい。私はそういう無邪気なあなたも、嫌いじゃないから」
「……ありがとう、とでも言えばいいのかしら。こういう場合」
「人の好意は素直に受け取るものよ」
「あんたみたいな妖怪の好意を受け取っても、ねぇ」
霊夢は仏頂面を作り続けるのも何だか馬鹿らしくなってしまい、苦笑を浮かべた。
ついでに、いつまでも顎を掴まれているのも間抜けな気がするので、幽香の手をやんわりと振り解く。
素直じゃないのはお互い様かな、と思う。
力任せに振り向かされた形になったけど、多分、それはきっと幽香なりの優しさなのだろう。
物理的に強引過ぎてちょっと首が痛いのはご愛嬌だが、くだらない意地を張っていた自分に助け舟を出してくれたのは、感謝してもいい気がする。
そんなことを考えながら空の杯に酒を注ごうとしたところ、傍らからすっと手が伸びてきて、霊夢の手から杯と徳利をひったくっていってしまった。言うまでもなく、幽香の仕業である。
「ちょっと。なんのつもりよ」
霊夢が抗議の視線を向けると、幽香は依然として満面の笑みを浮かべたまま、しれっとした口調で応じた。
「自分のお酒を注ぐ前に、私に言うべきことがあるんじゃないかしら」
「……あー」
霊夢は幽香の言わんとしていることに気付き、決まりの悪さからつい視線を逸らした。
頬を掻きつつ「その、ね」と口篭り、霊夢はしばらく横目でちらちらと幽香の表情を窺っていたが、やがて小さく溜め息を一つ洩らしてからようやく口を開いた。
「悪かったわ。子どもみたいな意地張って。ちょっと悪酔いしてたみたい」
「よろしい」
幽香が満足げに頷く。
直接的な強制はせずに形の上では自発的に謝らせ、それを見て心の底から嬉しそうに笑っているあたり、幽香の意地の悪さが滲み出ている気がして、霊夢は思わずぽつりと呟いた。
「あんたって本当に性格がひねくれてるわね」
「あら、それはどうも。純粋な馬鹿と思われるより百倍はマシな評価だわ」
悪びれずにそう言ってのけるのが、幽香の幽香たる所以である。
霊夢は一瞬「それもそうね」と言いかけて、口をつぐんだ。肯定してどうする、肯定して。
「……まぁ、いいわ。呑み直しましょ」
霊夢は気だるげに酒盛りの再開を宣言し、幽香の手から杯と徳利を奪い返そうと体ごと手を伸ばして、
「―――あ」
この上なく盛大にバランスを崩した。
思えば、遅かれ早かれこうなるのは必然だったのかもしれない。
つまみを食べずに酒を呑むとアルコールの回りが早くなるのは、ごく当たり前なことだ。
それは年齢のわりには酒に強い霊夢とて例外ではなく。
平衡感覚を失った身体を立て直そうにも腹筋に力が入らない。
急に動いたためだろうか。頭は鉛を詰め込んだように重く感じられ、視界が一瞬にして白く染まった。
伸ばした腕は力無く空を切り、霊夢はそのままなすすべも無く倒れこんだ。
ぼふっ。
「あぶないわねぇ、お酒をこぼすところだったじゃないの」
「ご、ごめん……」
頭上から落ちてきた呆れ混じりの声と、うつぶせになった胸の下に感じる体温を伴った柔らかさ。
図らずも幽香の太ももの上に崩れ込む恰好になったのは不幸中の幸いと言うべきなのだろう。
地べたに突っ込んでいたら、手足を擦りむくだけでなく、顔に傷のひとつやふたつはできていたかもしれない。
幽香が抜群の反応速度で杯と徳利を避難させてくれたのも助かった。このあたりはさすが妖怪である。
「大丈夫? 前後不覚になるまで呑むなんて、あなたらしくないわね」
「……うん。ほんとごめん。面目ない」
しおらしく謝りながら、霊夢は鼻腔をくすぐる微かな匂いを感じていた。
幽香がつけている香水だろうか。柑橘系の仄かに甘い香り。
後味のすっきりとした香りは爽やかな夏を連想させ、幽香のイメージによく似合っていて全く違和感を感じさせなかった。
「私が来る前からひとりで呑んでたんでしょう? 今日はそろそろ止しときなさいな。お酒は無理して呑むものじゃないし、ね」
ぽん、と優しく頭に手を置かれて、我に返った。
この体勢で反論したところで一ミリたりとも説得力がない上に、肝心の杯と徳利は例によって幽香の手中にある。
霊夢は溜め息と共に小さく「そうする」とだけ答えた。
本音を言わせてもらうと、もう少しだけ花見酒と月見酒を楽んでいたかったが、こうなってしまっては仕方がない。
幸い、頭はまだ少し重く感じるが、視界は正常に戻りつつある。
酒は諦めるとして、とりあえずこの状況を何とかしないと。そう思い、両手をついて身体を起こそうとした霊夢だったが、
「だーめ。大人しくしてなさい」
敵は思いのほか手ごわかった。一瞬にして両方の手首を掴まれ、動きを封じられたと気づいた時にはもう遅い。
まるで獲物が動くのを待っていたかのような、時機を狙い澄ました幽香の手の動きには一切の無駄がなく、たとえ霊夢が酩酊状態でなくとも反応できたかは怪しいほど。
おまけに、両手首をがっちり掴まれてしまっては、妖怪と人間という歴然たる身体能力の差がいやが上にも響いてくる。
幽香はにっこりと微笑んで霊夢の耳元に口を寄せると、反射的に振り解こうとした霊夢の努力を文字通り腕力にまかせて一蹴し、悪戯を思いついた子どものような弾んだ声音で囁いた。
「ねぇ霊夢。膝枕してあげる」
「んなっ」
いらんわ、そんなもん。
叫びにも似た霊夢の抗議は、言の葉になることはなかった。
幽香が両手首を拘束したまま器用に霊夢の身体を反転させたのである。
身体が宙に浮いたかと思ったのも束の間、うつぶせの状態からくるりと綺麗に半回転し、再び着地。
一瞬のうちに仰向けにされた霊夢の視界に最初に映ったのは、満天の星空と満月を背負ってこちらを覗き込む、清々しくも憎らしい幽香の笑顔だった。
屈辱感という名の汚泥に全身を浸しながら、せめてもの抵抗として霊夢は尖った声で呟いた。
「……楽しそうね、あんた」
「あら、わかる?」
「誰だってわかるわよ。そんだけ露骨に『嬉しくて嬉しくてたまらない』って顔してれば」
霊夢の声にはありありと諦観が漂っていた。
現在の自分の酔い具合と不利な体勢を踏まえると、足掻くだけ無駄な気がしてならない。
元来無駄なことは嫌いな性質の霊夢である。無益と覚れば、ここは大人しくしておくのが上策か、という判断を下すのも早い。
「あんたに膝枕してもらう日が来るとは思わなかったわ」
「言ってくれればいつでも膝くらい貸してあげるわよ」
「要らん。と言うか、あんたの場合、寝てる間にとって食われそうで嫌なのよね」
それか目潰しとか。幽香なら笑顔のまま嬉々としてやりそうな気がする。たぶん。
「こら。今ものすごく失礼なこと考えたでしょ?」
がら空きのおでこをこつん、と拳骨で小突かれた。
見ると、幽香が目を細めてこちらを覗き込んでいる。口元には相変わらず笑みを浮かべているものの、眼差しは真剣だった。
痛くはなかったが、心にやましいところがあるので、霊夢は逃げるように視線をずらした。
「気のせいよ」
「じゃあなんで目を逸らすの。こら、ちょっと霊夢。白状なさい」
「ああ、なんだか急に眠くなってきちゃった。おやすみ」
狸寝入りは許さないわよだの誤魔化すなだの、耳元で騒ぐ幽香に無視を決め込む。
開き直ってこの状況を受け容れてしまえば、することは一つしかない。
霊夢はもぞもぞと寝返りを打って顔を横に向けると、なるべく不機嫌そうに聞こえるよう素っ気ない風を装って言った。
「寝る。起こしたら夢想封印かますから」
ほっぺたに感じる幽香の太ももの柔らかさと体温が殊のほか心地よく、背骨の辺りがこそばゆい。
明確な記憶があるわけではないが、昔、こうして誰かに膝枕をしてもらったことがあるような気がして、どこか懐かしい気分だった。
霊夢は気を抜くと緩みそうになる頬を必死に引き締めながら、ゆっくりと眼を閉じた。
ふと頭上を仰げば、黒く透き通った空に真円を描き、夜を白く照らしてその存在を示す満月が静かに地上を見下ろしていた。
雲はなく、月の輝きに負けるまいと数多の星の瞬きが夜空を彩り、暗い夜空にあるまじき煌びやかな様相を呈している。
視線を下げて境内を見渡すと、月光を浴びて闇に映える淡紅色の花びらが目に留まった。
五分咲きながらも健気に咲き誇り風に揺れるその姿は、単純な華やかさとは一線を画すある種儚げな美しさがあった。
そして、更に視線を下げれば、膝の上であどけない寝顔を晒している紅白の巫女。
穏やかな寝息を立てて、無防備に身を預けてくる霊夢を見ていると、年相応の幼さをもった普通の人間の少女のようにも思える。
「案外かわいい寝顔なのね」
幽香は触り心地のよいなだらかな曲線を描く頬に指を這わせ、ぽつりと呟く。
くすぐったそうに霊夢が「んん……」と呻いた。
反応が気に入ったらしく、幽香はしばらくの間ぷにぷにと霊夢の頬を弄んでいた。
が、やがてそれにも飽きたのか、手を止めると今度は黒々とした艶のある髪の毛を指で梳き始めた。
暢気に寝息を立てている霊夢の横顔を見詰める幽香の眼は、花を眺める時のそれと同様に優しい。
人間と花。幽香にしてみれば『可愛いもの』という点では大差のない二つの存在。
基本的に分け隔てなく草花を愛する幽香だが、その中にもお気に入りの花があるように、お気に入りの人間もまた存在する。
たとえば、今まさに眼前であどけない寝姿を見せている博麗の巫女。黒白の魔法使いや、吸血鬼の館のメイドもそうだ。
最近少し気になっているのは、外界から妖怪の山に引越してきたという新しい神社の巫女。
霊夢とは少し違ったタイプの巫女だと聞いているが、実際はどうなのか。一度会ってみたいという思いはある。
今度、訪ねてみようかしら。うん、思いつきにしては悪くない。
わずかに乱れて顔にかかっていた霊夢の髪の毛をそっと撫でつけ、幽香は薄く微笑んだ。
若干、風が強くなってきたようだ。酒も入っているし、幽香自身の感覚としては寒いというほどではないが、霊夢の薄着が少し気になった。
幽香はあまり身体を動かさずに器用にベストを脱ぐと、素肌が見えている霊夢の肩の辺りにかけてやった。所詮気休めだが、ないよりましだろう。
当の霊夢は一向に起きる気配がない。寝息は一定のリズムを刻み、細い肩もそれに合わせて規則正しく上下している。
随分と深酒をしていたようだし、朝まで寝かせてあげたほうがいいのかもしれない。
幽香は既にだいぶぬるくなってしまった残りの酒を杯に注ぎ、ひとくち口に含んだ。中途半端なぬるさが舌の上に広がる。
おそらくは上物であったろう吟醸酒は、不味くはないが、特別美味いとも感じなかった。
「お酒は無理して呑むものではない、か。その通りね、まったく」
醒めた呟きと同時に杯と徳利を脇へと置く。
それっきり酒に対する興味を失ったのか、この後幽香がそれらに視線を向けることはなかった。
幽香は自身の膝下に視線を落とし、眠り続ける霊夢の頬を、ゆっくりと、いとおしげに撫でた。
羽を休めている紅白の蝶に、ねえ、と声には出さずに呼びかける。
ねえ、霊夢。
石段を上り、鳥居をくぐって境内に足を踏み入れたとき。
賽銭箱に背を預けて月を見上げるあなたを見つけて私が何を思ったか、わかるかしら。
ひとりぼっちのあなたが、とてもとても寂しそうに見えたと言ったら、やっぱりあなたは否定するのかしらね。
五分咲きの夜桜と月を肴にひとりきりで呑むお酒は、美味しかった? それとも―――
不意に、一際強い一陣の風が境内を通り抜けていった。
びゅうという風鳴りと共に境内に生えている木々がざわめき、霊夢の肩にかけてあったベストがわずかにはためいた。
幽香は風で乱れた髪を撫でつけながら頭上を仰いだ。
いつの間にか雲が出始めている。満月と星の瞬きで彩られていた夜空は、灰色のまだら模様に塗り替えられつつあった。
膝の上からは、穏やかな寝息が変わらずに聞こえてくる。
悩みなど何も無さそうな無垢な横顔を一瞥し、幽香は「さて」と気持ちを切り替えた。
この眠り姫が見ているであろう安らかな夢を妨げずに寝床まで運んでやるのは、少々骨が折れそうだった。
<了>
絵を想像できました。
この夜の雰囲気がとても良く、また幽香や霊夢の会話
幽香の優しげな表情や口調など、頬が緩む思いでした。
素敵なお話でしたよ。
とてもよかったです。
霊夢との関係もすばらしい。
という花の夢を見たんだ。
いや、捉えてるというか事実なのか。
後は、賽銭箱に背を預けて月を見上げる霊夢の部分とか良かったです。
ほのぼのした気分になる良いお話でした。
割とシュールでした
話はすごくほのぼので、見てるこっちがニヤニヤしちゃいました!
幽香好きだったけど、輪をかけて好きになってしまった
床下にしまってある取って置きでも飲もうかなぁ
幽香の性格や振る舞いが好みすぎて嬉しい
霊夢も勿論素敵な巫女でしたよ
なにより絵が綺麗だ