零
人里の桂と言えば絵画の鬼才。それに驕らぬ実直な性格と、絶世の美男として知られていた。
英雄色を好むという言に違わない男であったが、それは彼の非凡を示しても、評判を貶めるものにはならなかった。
しかしその桂もとうとう籍を入れることとなった。相手は大層気立ての良い娘で、桂の幼馴染でもある。
友人達は揃いも揃って、とうとう年貢の納め時か、これでもう奴から女を隠さなくて済む、等と囃し立てたものだ。それはどこか、腕白坊主が成人を迎える時の感傷にも似ていた。
これは、彼が結婚を一月後に迎えた日。つまり、桂の命日より三週間ばかり遡った所から始まる。
一
里より一寸出たところに、流れの激しい川がある。
そこには、里と共に歴史を刻んだ大橋があるのだが、栄枯盛衰。とうとう濁流に身を削られ、叩けば割れる程に、脆く成り果てた。
差し当たっては改築作業に移ることになるが、古くから人々を支えてきたそれを、どうしても何かに残したいという声が大きかった。
そこで手を挙げたのが桂である。彼はその橋が改築される二月ほど前から、日夜制作に勤しんでいた。
ただ単に写すだけならば、一日あれば容易いが、それは彼の信念と真逆に位置する。凡夫の百が彼の一であったが、彼は二や三の力で甘んずるを良しとしなかった。芸術家特有の潔癖症である。
そして、桂がその少女と出会うのは、天高く日が昇った、ある昼のことだった。
桂は地面の水を跳ね上げながら、小唄を歌って橋へ向かった。
昨夜の大雨が何時止むのか気がかりだったが、雨降って地固まる。増水した橋を、あわよくば氾濫の橋を描けるとなって、彼は上機嫌であった。
物事の一面のみを描いても、それは所詮虚構の偶像。多角より眺め、実像と成し、感性を吹き込むのが彼の仕事である。絵も人も、ともすれば万物さえも、同じやも知れない。
小唄が丁度終わった時分、桂は橋に辿り着いた。
より美しく後世に残りたいと願ったのか、それとも桂の願いに呼応したのか。判然としないが、ともかく川は氾濫していた。
しかし桂の目は、橋に打ち付けられる水よりも、その上に倒れている何かに注がれた。
人である。人が倒れているのである。
桂は突如、わき目も振らず走り出した。絵も、画材も、濡れそぼった地面に投げ出し、一心不乱に走り出した。
憑かれたように、とはこの事か。彼の脳からは、絵のことなど既に排された。
橋に駆け寄ると、滴一つが凍てつく程に冷たい。桂は仰向けに倒れている少女を、無我のうちに助け出した。
「もし、もし。大丈夫ですか」
少女の体を起こすのと、少女が目を覚ますのは図らずも同時であった。少女は半眼でも尚、大きいと見える目を桂に向けて、二人は見合った。
その時の桂の心境は、筆舌に尽くしがたい。
奇天烈としか形容出来ぬ服装に、人のそれとは思えぬ栗髪緑眼。映る全てが支離滅裂。されど、その我の強さが相対する事無く、見事に調和を果たしている。丁度、適当な色を組み合わせて一つの芸術とする、絵画のように。
それを認めた瞬間、雷が体を駆け巡ったと思うと、芸術家の本能と男としてのそれが混ざり合い、心臓が大きく爆ぜた。
それはどうやら少女も同じらしく、二人は熱に浮いたような視線を、長らく交差させていた。
桂はこの出会いが、酷く運命的なものに思えてきて、気付けば声を掛けていた。
「あの、お嬢さん。お名前をなんと申すのでしょう」
熱に浮いた顔の少女は、自分へ向けられたと気付いて、言葉を返す。
「私は……水橋。水橋パルスィと申します」
「良い名です。申し遅れました。私は……」
「知っております。評判名高い、里の桂さまでしょう。お噂はかねがね。お会いできて光栄ですわ」
熱に浮かされた少女の顔が、より一層熱を帯びる。
その深い碧緑の瞳に惹かれて、桂は次の言葉を足す。
「そもそも、どうしてあのような所で倒れていたのでしょう」
「恥ずかしながら、日の光を浴びたのは久方ぶりですので……つい眩暈が」
「それはいけない。先も冷水を浴びていたので、さぞ凍えることでしょう。すぐそこに里があります。そこでお休みになりなさい。案内します」
「いけません。それはいけませんわ」
「何故です」
「薄々感ずいておられると思いますが、私は人にありません。妖怪です。それも人の嫉妬を喚起する、低俗な妖怪です。今この瞬間でさえ、誰かに見られて、貴方の評判が落ちるのではと不安ですのに、里にまでお供するなんて……想像するだけで身の毛がよだちます。私たちは本来、出会ってはならないのです。禁断なのです」
禁断、という言葉は桂の情熱を強く焦がした。
恋愛において、何一つ不自由の無かった彼は、運命的な大恋愛を欲していた。
生来のロマンチシズムな傾向が、それに一層拍車を掛けた。
「しかし、このような所に居るということは、元より里に用事があってのことでしょう」
「お察しの通りですが、もう良いのです。その……桂さまとお会いできただけでもう……」
少女は爛れた果実の如く頬を染め、矢継ぎ早に言葉を放つ。
「す、すいません、お恥ずかしい……。これで失礼します」
言うが否や、少女は桂の手から飛び去った。
こうなると高まった興奮のやる方が無く、桂は数刻、その場に立ち尽くした。
彼は先ほど投げ出した橋の絵を、拾い上げた。水橋と名乗った少女を見た後では、低俗な落書きとしか映らず、桂はその絵を引き裂いた。情熱を創造ではなく、破壊に向けたのは初めてだったので、彼は自身の行動に酷く戸惑った。
二
その翌日のことである。
桂は昨日の少女が夢に出てきた。目覚めてからは意味も無く泣きたくなって、寝転がり、ひたすら夢の光景を追った。いつもははかどる朝食も、少女の姿を思い返すと全く箸が進まなくなる。そこまで想っている反面、彼の瞼に居る少女は、輪郭すらも判然としない。
彼はやっと、これが世間一般で言われる恋なのだと気付いた。いくつもの女性と関係を持ってきたが、彼にとっては初恋だった。
それに気付くと、丁度恋に恋する心持ちになり、彼は居ても立ってもいられなくなった。
「ちょっと橋へ行って来るよ」
彼がそう言ったのは、近々輿入れに来る、幼馴染の女である。朝から夕暮れまでではあるが、半ば同棲のような生活を送っていた。
「絵を描きに行くのですか? 精力的なのもよろしいですが、体を壊しては元も子もありません。お気をつけて」
絵は破棄したと出そうになったが、寸でで呑み込み、「ああ」とだけ答えた。
桂は歩きながら、少女と会ったらなんと言おうかと画策していた。
無論、少女と会える保障などどこにも無い。どころか、会えたら良いという願望五割に、例の運命的な直感五割であったが、彼の頭の中ではもう、少女と会うことが確約してある。良くも悪くも、単純な男なのである。
桂は橋に着いた。そして、当然のように笑いかけて手を振った。当然、少女に向けてである。
「やあこんにちは。またお会いしましたね。大変嬉しく思います」
「ここに居ればきっとまた会えると思いましたから」
「今日はどうなさいました」
「昨日のお礼とお詫びです。助けていただいておいて、礼も言わずに立ち去ってしまい申し訳ありませんでした。ひいては、何かお礼をしたく思いまして」
「そんなお気遣いなさらなくて良かったのに」
「いえ、このままでは私の気が済みません。出来得る限りのお礼は致します」
「では……」
礼儀上断っておいたが、実は昨日より燻っている強い願望があった。
「水橋さん。貴女の絵を描かせて欲しい」
「えっ……」
「駄目でしょうか」
「いいえ、光栄です。しかし、私でよろしいのですか」
「貴女でなくてはなりません。是非とも、お願いします」
「解りました。こちらこそ、よろしくお願いします」
桂は平静を気取っているが、その心中は狂喜乱舞の如しである。橋の絵を破ったことも、ともすれば本能が今日のことを見越したのかも知れない、とまで思った。彼は女性関係ではひたすら浮気性であったが、反面絵に関しては一途に誠直だった。
その後桂は、絵を描くと言って出て行った手前、すぐ家に帰ることも出来ないので、少女との会話に時間を費やした。ただ単純に少女と話したかった事と、それに因って本質を捉えることが目的であったが、いざ話して見ると彼は大層驚いた。少女は教養だけでなく、音楽や詩文に関しても、非常に造詣が深かった。多少の会話でそれほどのことが解るのだから、恐らくは自分が触れることも出来ないほどの高みに居るに違いない、と彼は思った。
「驚いた。貴女は途方も無い才覚をお持ちのようだ。もしや絵に関しても、私より遥かにお上手なのでは」
「まさか、そんなことはありません」
「またご謙遜を」
「いえ、本当です。私は筆すらも握ったことが無いのです。ですから素晴らしい絵を描かれる桂さんを、とても羨ましく思います」
「何、貴女ならきっとすぐに私も追い越せるでしょう」
話の種には事欠かなかった。
時に歩きながら、時に立ち止まりながら、時に空中遊覧をしながら、二人は話しまわった。
稜線に日が沈んだので、彼らは帰路に着くことにした。
「では三日後に、またこの橋で会いましょう。この三日間、貴女だけを想い貴女だけを描くことを約束します」
桂は少女にそう約束して、暗闇に浮かぶ少女を見送った。
ふと思い立って彼は、橋から川を見下ろした。虚ろな月に照らされた川は、浅瀬であるのに底が見えない。川の冷気に肝を冷やされ、彼は逃げるようにして立ち去った。
橋が崩れて川へ没する妄想が、何時までも桂の頭を離れなかった。
三
桂は家に着くとすぐに、三日間画室に篭る、とだけ女に伝え、ただちに制作に移った。
初めこそ鷹揚に構えていた桂であったが、一作目を描いている最中、妙な違和を感じた。その違和は筆を振るう毎に大きくなり、ついには描かれた絵となって顕現した。完成した絵が、当初の想像と全く懸け離れているのである。想定を違えぬ、どころか想定以上の創造が常であった桂にとって、これは未曾有の事であった。
彼はすこぶる怯えた。
その後は僅かな時間も惜しみ、寝食を廃して、唯々作画に耽った。
そうして三日が経った。
画室より久方振りに出た彼は、眼球炯炯とし、頬は痩せこけ、髪は乱れて今にも抜け落ちそうであった。その姿はさながら悪鬼羅刹の如くであり、彼を見た女が小さく悲鳴を上げた。
桂はそれを耳に留めず、短く女に告げた。
「出てくる」
「……何処へ行かれるのです」
「橋だ。部屋に入ってはならないよ」
彼は絵を三枚隠し持って、家を出た。
雲を通して差し込む光が、彼の意識をひたすら焦がした。
四
すごぉい、というありふれた感想はやはり、桂を癒してはくれなかった。
ただただ感嘆の吐息ばかりを漏らす少女に、彼はため息混じりの声をかける。
「気に入っていただけたようでよかったです。しかし、それらの絵はまだまだ貴方の魅力を引き出すに至らない」
「そうですか? とても良い絵だと思いますわ」
「……やはり、駄目です。平面のように空虚で、死んでいます。魅力を引き出すどころか、貴女の有りのままを描けてすらいない」
桂は大儀そうに頭を垂れて、そっと呟いた。
「もっと、画才を磨きたい。例え何を犠牲にしようとも」
「何を犠牲にしようとも、ですか」
「ええ、今の私の願いはただそれだけです」
「そう」
妖艶に輝く少女の瞳を、桂は奇しくも見なかった。
五
月明かりの落とす自らの影を見ながら、桂は家路に着いた。
淡い月光に照らされた雪は、まるで季節外れの蛍である。そよ風の中でたゆたうそれは、冬の中にある桂の意識を、感傷的な追憶に導くには充分だった。しかしそれもほんの一時のことで、蛍に誘われるように家へと着いた彼は、錆の目立ち始めた鉄製の玄関によって、突如現実に引き戻された。
玄関を開くと、空がそのまま続いているかのように暗い。
靴を脱いで明かりを点けた途端、桂は小さな悲鳴とともに後ずさって尻餅をついた。
彼の目の前には、亡霊の如く髪を滴らせた、彼の許嫁が立っていたのである。
尋常で無い雰囲気に呑まれながらも彼は、震える足よ棒になれと言わんばかりに立ち上がった。
黒髪の隙間より覗く目は、灼熱の如き輝きで暗闇の中に浮かんでいる。
目は口ほどに雄弁なりとは言うものの、日光の蒼穹に到底及ばぬ月の元では、その目にありありと漲る何かを見据えることは能わなかった。
「あなた……」
亡霊は言う。
「この女は……誰です」
その手には、桂が三日三晩不眠で描いた少女の一つがある。
桂は努めて平静を装いながら答えた。
「絵の手本の子だ。それがどうした」
「三日三晩引きこもって描いていたのですか」
「ああ、そうだ」
「橋は……あれほど心酔していた橋の絵はどうなったのです」
「愚作ゆえ破棄した。それだけだ」
「駄作と言うのなら、こちらの方が余程それに相応しいではありませんか」
「何を」
先刻まで桂の心を支配していた恐怖心は、量をそのままに質のみが怒気へと変貌した。
「何も知らない素人風情が、知った風な口を利くんじゃない」
「その素人でも解る程度には駄作だと申しているのです」
「感情でのみ動くのはお前の悪い癖だ。何も知らぬ癖に」
桂は背を向けた。
「貴方がこの娘に大層な懸想をしていることくらいは解ります」
取り留めのない話だと思い無視しようとした矢先――謂わば不戦勝の安堵にも似た油断が桂の心を過ぎた時――に叩きつけられたその言葉は、彼の動揺を悟らせるにこの上ないものだった。
「恋は盲目とはよく言ったものです。稀代の天才をここまで骨抜きにしてしまうとは。立ち上がれなくなったおかげで、地に足のつかない判断しかできなくなったのでは?」
「……なんだ、この子に嫉妬でもしているのか? 珍しいものだな」
「していません!」
まず桂の心中を驚かせたのは、その大声でもあったが、それ以上に苦し紛れの言葉が導いた女の反応であった。
女は図らずも取り乱したことへの後悔を、瞬く間、顔に書いて消した。
桂がそれを見逃さなかったのは、やはり腐っても鯛と言えよう。
女の根底に滾々と流れるそれを見極めた時、彼は家の中にまで月の光が差し込むような気持ちがした。
希望から絶望へ転落した時の悲哀は常よりも強いが、それは絶望から希望への上昇もまた同様である。
いつも以上に広がりを見せる精神は、やはりいつも以上のゆとりを生み出すのだ。
桂は咄嗟に、哀れむような声音でこう告げた。
「可哀想に。我が許嫁は愚かにも妬心を、それも年端もいかぬ少女にそれを向けていると見える。自らが盲目では、他人も同じく盲目に見えるのも仕方あるまいよ」
「私を許嫁と呼びますか。貴方がこの娘に気持ちを傾けるのであれば、私は貴方の許嫁という位置を唾棄して踏みにじりましょう」
「ああ、ああ、全く。何も見えていない。君が妄執に溺れるのは一向に構わないが、それを私に押し付けるのはやめてくれ。しばらく私からは離れて、少し頭を冷やすと良い」
「それが貴方の答えですか」
「答えだなんてまた大仰な言い方をするね。これはあくまで、君を想っての助言だよ」
「……そうですか。だったらもう、完全に愛想も尽きました」
女は、顔の見えぬよう踵を返し、感情を押し殺した声で告げた。
「昔から、他人の気持ちが解らない人ですね。貴方は」
女は一つも振り向かないまま、黒洞々たる夜へ溶けていった。
その姿の消えるまでは、長年の情か女を気にかけていた桂であったが、その姿が不可視の闇へと埋没した時、彼は目が覚めたように――或いは、夢へ誘われるように――少女の事ばかりを考えた。彼は再び、何日も家に篭って少女の絵を描いた。
彼の許嫁であった女が、原因不明の死を遂げたと聞いたのは、この日より数えて三日のことであった。
不思議と、否。当然のように、その知らせは彼の心を揺さぶりもしなかった。
婚約者を亡くした悲劇を演じる彼が思うこと――それは、少女との関係を知られていなくて良かった、という自己保身の念ばかりである。
六
それから、十日程度経った頃である。
桂は実質、不眠不休の飲まず食わずで、少女の絵だけを純白の水彩紙に描き記していった。
そのせいであろう。頬の肉は一際削げ落ち、鋭敏であった顎は、もはや乞食のそれである。
彼の友人、どころか近隣の者ですら、女の死により気を違えたか、と考えた。
万人によって同情せらるべき立場にある彼は、やはり身分の高低を問わず、様々な者から同情と恵みを受けた。
しかし芸術的完成にのみ自分の時間を割く彼は、酷い癇癪を起こして全て追い返した。人一倍彼を考えて中々退かぬ相手には、暴力を以って応対することさえあった。
日一日経つ毎に、彼から友は離れていったが、その反面、更なる画才の発露は留まる所を知らなかった。
その勢いたるや、まさしく破竹の如き日進月歩である。
そして、舞台は再び橋の上となる。
連日に渡る少女との逢瀬は、今や両手では表せられぬ程になっていた。
「すごいわ」
という言の葉は、桂が少女に絵を見せる度に聞く言葉である。
それは世辞でもへつらいでも無く、紛うこと無き本心と解るが、桂の心を慰めはしない。
「それでも、駄目です。やはり。技術の進歩はめざましいとさえ自負できますが、それでも貴女を絵に収めることが出来ない」
「そうかしら。とても上手だと思うけれど」
「上手いだけです。ただ、心が無い。これなら写真の方がよっぽど良い」
「いいえ、とっても良い絵……」
少女は陶酔に浸った表情で、一言一句を噛み締めるように言った。
「特に、この絵はとっても良いわ。貰っても良いかしら?」
「勿論です。しかし、もう少し待って頂けるのなら、それ以上の絵も描けると思いますよ」
「ごめんなさい。悪いけどこれ以上は待てないの」
少女の顔に影が差し込む。
それと同じくして、その表情は一抹の哀愁を帯びる。
「私は長く地上に留まり過ぎた。もう地底に戻らないとならないわ」
「なんと……それはとても悲しい。次はいつ会えますか?」
「もう会えないわ」
その短い一言は、取り付く島無き大海に放られた彼を、容易く沈める程に重い。
「ここで、永久に別れないとならないわ」
「そんな……そんなこと」
「急、だったわよね。ごめんなさい。どこか信じられないかも知れないけど、これは決して嘘ではないの。だから……さようなら」
「待ってください」
彼は、紡がれる糸が途切れるように、どこか不条理に言葉を区切った。
「私は貴女に、ずっと傍らに居て欲しい」
「どれほど素晴らしい夢を見ていても、いつかは必ず目が覚める。それと同じよ。どうしようも出来ないの」
少女は、身を照らす日の光を、名残と羨望の瞳を以って照らし返す。
「もう、目を覚まさないとならない時間が来たの」
「それがどうしようも無い困難と言うのであれば、私の心も同じです。私はずっと貴女だけを追い続ける。この想いは、我が魂魄が幾度生まれ変わろうとも、決して変えることは出来ないでしょう」
「ああ、お願いだから私を惑わさないで。そんな甘言を囁かれると、私は……」
「これで貴女を止められるのなら、幾らでも囁きましょう。ずっと私の隣に……いや、どうか私と添い遂げて欲しい」
「……ならば」
少女は俯く。
その顔に描かれた気色を黒く塗りつぶすように。
「全てを捨てる覚悟があるかしら」
「全て……」
「そう、全て。貴方にその覚悟があるのなら、貴方を地底へ――日も無き歪な二人の世界へ誘いましょう」
「……悩むべきもない愚問です」
桂は誇らしげに張った胸に、利きなれぬ左の手を置いた。
「私の全てを未来永劫、貴女へ託すと約束しましょう」
そして、彼は数多の芸術的偉業を成し遂げた右の手を、少女に向かって差し出した。
「良いのかしら。本当に……」
「ええ、勿論です」
「そう。嬉しい、とっても嬉しい……」
少女は自らの指を全て、どこか色情をそそるそれで、桂の右手に絡めた。
その指は次第に彼の腕を上っていき、とうとう首の後ろで手を結んだ。
吐息がかかる程に近い距離で、少女が囁く。
「これで、これでやっと……」
おもむろに顔を上げた少女の形相は、凄絶な笑みで塗りたくられていた。
「貴方の才能を頂けるのね」
桂はここにきて漸く、己の体がちょうど、少女を押し倒すような形に傾き始めたことを知った。
ただ、少女の背面に地はなく、轟々と流れる川があるばかりである。
どこか身投げ心中にも近い心持ちの中、本能が川は浅瀬だと嗅ぎつけたのか、桂は殊更身を固くした。
したたかに打ち付けるのを、今か今かと恐れていたが、川の深くへ沈むに連れて、彼の意識も沈んでいった――
七
目を閉じようとも開いてようとも、なんら変わらず見える景色は、桂に対し、一時の盲人の苦痛を植え付けた。
しかし太古より積み重ねてきた、人としての適応能力が、すぐにその芽を刈り取った。
目と鼻の、とはいかないが、人数人分程度先であろうか。そこには荘厳な橋が見えた。
桂は、酔人にも似た覚束ない足取りで、惹かれるように橋を渡った。
そしてその先に、やはり少女が居た。何かを描いているらしい。
「何をしているのですか?」
「絵を描いているの」
少女は桂に一瞥も与えず、滲み出るような微笑を湛えて応じた。
「貴方を描いているのよ。見る?」
桂はその言葉に、見慣れた物の輪郭をはっきりと想起出来ない時のような――どこか、非常に微妙な点での不快感を催した。
そして、少女の背後に立ち、絵を眺めた瞬間、その不快感は明確に形を成し、嘔吐物と混ざって彼の体から出ようとした。
「どう、とっても上手でしょ……。私の絵」
少女は描かぬ、筈である。どころか描けぬ、筈である。
だが、その少女の手になる一つの絵画が、例えようも無く美しいのだ。
時代の生んだ鬼才と言われた彼を、嫉妬の虜にさせ得るほどに。
「その絵は……」
その絵が引き金となったかのように、様々な光景や言葉、そしてそれらからなる推測が、頭の中を駆け巡った。
今の自分がどこか、今までの自分とずれているような、小さいがこの上なく深遠なる違和感。
絵画への造詣が不思議と浅い、少女の手になる美麗な絵。
地上で聞いた、少女の言葉。
桂は、この時やっと、自分の身に何が起こったかを知るに至った。
「その絵の筆致は……私の筆致そのものではありませんか」
彼は、少女――水橋パルスィ――に才を奪われ、滑稽なことに自らの才に妬心を抱いたのだ。
少女は言う。
「これは、私のよ」
死臭すら漂う冷気の中で、実に温和に微笑んだ。
「貴方が私にくれたんだから、これは私のものなの」
聞き分けの無い子供に告げるような、或いは、どこか駄々を捏ねているような口調であった。
「初めから……それが目的で私に近づいたのですか」
「……これまで私が好きになった人はね」
桂の視線は、地を右往左往と這っている。
「みぃんな、貴方のように才能のある人だったわ」
出すべき言葉が、巣に密集した虫のように蠢き、震えるばかりで、ただただ出ること叶わない。
「そう、みんな私とは比べるべくも無い才人で、毎日がとても楽しそうだったわ。私なんて居なくても、幸せで居られるかのように」
言葉は、未だ、蠢いている。
声帯に巣食い、うじゃうじゃと。
「でもね、自分で言うのもなんだけど、私はとっても嫉妬深いの」
少女は、柔和に笑う。
一方桂は、声が届かず、自らの内で蠢くばかりの多大な苦痛に、いよいよ発狂の感が抑えがたくなってきた。
「私は、私以上に幸せな人間を許さない。私以上の才能を許さない。私無しで幸福になれる人間を許さない」
「だ……だから、人の、人の才を奪ったのですか」
桂は漸く、自らの内なる蠢動を抑え、言葉を利くことが出来た。
少女は実に、悪びれも無く、あっけらかんと答えた。
「そうよ。信じられる? そうするだけで、みんなみぃんな四肢を切断されたように、羽を抜き去られたように、私に跪いて、私に縋り付いて、私だけを頼って、ふふ、ふふふふ」
思い出すものがあったのか、少女は陶然と笑いを漏らす。
「ふふ……それでね、そうなったらもう子犬のような愛らしさで、本当に、本当に可愛かったわ」
お気に入りのおもちゃを語るが如くに、少女は快活な口調で話す。
「才能を一つ奪う。ただそれだけで、みんな私を愛してくれたわ」
桂は、ここへきて漸く、自らが生命の岐路に立たされていることに気付いた。
生命活動の停止などといった、生易しく、そして無機質なものでは断じてない。
自分が自分たる所以――人として生まれた以上、誰もが追い求める命題。その有無を決する、二又の岐路である。
「返して……返して下さい……」
桂は正しく、子犬のように少女に縋る。
「……そんな目をして見ないでよ。興奮が抑えられないわ」
艶やかに濡れる少女の瞳は、微笑み以外の形を知らない。
「それに、返せと言われて返すことなど、今の貴方へは到底出来ない」
地を這う桂の渇する瞳に、もはやかつての光は無い。
「今の貴方はもう、私の羨む物を持っていない」
地を這う亡者の如き桂に、少女は一瞥のみを与える。
「貴方のことを第一に考える親友も、妬心を愛情で押しつぶすような許嫁も、才覚天地を揺るがすと言われたほどの能力も、みんなみぃんな私が奪っちゃったんだから」
「どうしてそんなことが出来るのです。何も……何も痛みはしないのですか」
「へぇ、よく言うわね。人を一番傷つけてたのは、他でもない貴方よ。私は貴方の残した傷跡を少し弄っただけ」
「詭弁だ」
「貴方が気付いてないだけよ。貴方は貴方の才能が、どれほどの人を傷つけてきたかを解っていないわ」
少女は続ける。
亡者へ与えた、一瞥すらも取り上げて。
「行き過ぎた才能は暴力に過ぎない。貴方がそれを発揮する度、周りの誰かは必ず傷つく。そしてその傷は劣等感と呼ばれ、その傷からゆっくりと希望という血が流れ出す。血の無き者は生きてはいけず、ただ絶望と諦観のみを体に残し、自傷の果てからそのままゆるりと死に至る」
桂はその言葉を、再び詭弁という包装で包み込もうとするが、死んだ許嫁の幻影が、それを許してはくれなかった。
「凡夫の決死の慟哭すら、才人の戯れにかき消される。解るかしら。彼らが全てをかけて創り上げたような物でさえ、日の目に当たることはない。貴方という大きな影が、全てを」
「嫌だ嫌だ! もうやめてくれ!」
桂はこの時、人から受ける小さな妬心が、濁った悪意や殺意などより、余程恐ろしいものに感じ始めた。
「ふふ、心当たりがあったみたいね」
桂は、頭を抱えて地にうずくまった。
自らが袖にした者達の虚妄を拭い去れず、冷たさの余り震え続けた。
「怖い?」
少女はそんな彼を、どこか歪んだ慈愛の瞳で見つめて言った。
「怖いでしょうね。解るわ。とっても解るわよ」
少女は桂の顎を上げ、その歪んだ瞳で彼を見つめた。
初めて会った時となんら変わらぬ、見る者を惹きつける深い碧緑の瞳である。
「でも、もうなんの心配もいらない。ここには欠片も、貴方が恐れる妬心は無い。ただ、私と貴方があるだけよ」
桂の意識は今や、たゆたうように流れる風に、飛ばされそうなほど揺らいでいた。
そうならずに済んでいるのは、少女が彼に触れているからである。
「貴方が私を愛してくれれば、私もずっと貴方を愛してあげるわ。私と貴方だけの世界で、共に生きていきましょう」
その言葉を聞いた桂の心持ちはちょうど、強制移住から救われたある民族の、神に対する絶大な信仰心と感激に似ていた。
もはや桂にかつての面影は無い。
人の妬心を何よりも恐れ、自らは何も行わず、心の安寧のみを求め拠り所に縋る木偶である。
「本当に……私にそのような生き方が許されるのですか」
「もちろんよ。私たちの間には、穢れたものなど何にも無い。ただ、互いを愛する感情があるだけよ」
救いの言葉に、桂は落涙を禁じ得ない。
流れる涙もそのままに、少女の瞳を見つめ続ける。
「貴方はただ、私を愛していれば良い。簡単でしょう。ふふ、ふふふふふ」
桂はずっと、少女の瞳を見つめ続けた。
この上なく深い碧緑の瞳に惹かれ、惹かれ、惹かれ――
「ひっ……!」
――そして、見た。
「あら、あら、どうしたの?」
少女は、正しく少女のような、純粋な微笑をしてのける。
しかし桂はそれが、般若が精巧な仮面を被っているように見えてならない。
「く、く、来るな!」
桂もまた、般若のように歪んだ表情で、必死に少女から後ずさった。
彼は確かに、少女の瞳の根底に見たのだ。
今までの何よりも激しい恐怖――様々な色が混じりあい、深く濁り果てた黒色の妬心を。
「返して……返してくれ! 私から奪った才能を!」
「あら、どうしてそんな事を言うのかしら」
少女は相変わらず微笑み続ける。
その仮面の下にある表情を、秘し隠しにしながら。
「どうしても返して欲しいの?」
「返してくれ……。今の私は、貴方が何よりも恐ろしい。これからは、地上に戻って静かに暮らしたい……」
「……ふふ、ふふふふ」
少女は俯き、音程の高低が著しい、狂人の如き笑いを漏らす。
「そう、そうなのね。貴方は私なんかより、自分の才の方が大切なのね」
少女は晴れやかに破顔して、桂に向かってこう告げた。
「良いわよ。それなら、返してあげるわ。貴方の才能」
「ほ、本当ですか!?」
「本当よ。……ふふ、嬉しそうねぇ」
桂は緊張が抜けて、そっと胸を撫で下ろした。
少女は続けて、こう言った。
「そんなに才能が大事なら、私の中で一つになりなさいな」
瞬く間すら、桂には許されなかった。
漸く、一度、瞬きをして、眼前の光景を更新すると、鮮やかな血潮が舞っていた。
それが己の血だと、桂が気付いた時、途方も無い激痛が彼の腹を満たした。
血が宙で停滞するような意識の中、桂は嫉妬に狂った少女の表情を、最期に見た。
生よりも死に近い現実にありながら――あるいはそうであるからなのか――彼の意識は台風の目にあるかのように平穏であった。
しかし、全くの平穏無事というと語弊が生じる。
彼は、嫉妬狂いの少女を見て、かつて無い感動に満たされていた。
自らが少女と出会って以来、絶えず感じ、そして自分では表現し得なかった、一個芸術としての少女――その姿が、今、妬心という一欠片を、漸く嵌め込み、完成に至って、ここにある。
「う……く……」
この感動を、誰にも伝えられないことが、芸術家として生きてきた彼にとって、どれだけの屈辱であったかは、想像に難しくない。
そうして桂は、多大なる屈辱と、絶対的な美への敬意を抱いて、事切れたように眠った――
八
「ふふ、ふふふふ」
とある少女が、血塗られた橋の袂にて、一人の男の絵を描いていた。
一瞬の内に閃き去って、夢の如くに消え失せた男の絵である。
「貴方の……すごぉい。こんな才能持ってたんなら、本当に幸せだったでしょうねぇ」
少女は、自らが描く絵にある男を、永遠に愛し続ける。
もとい、自らの描く絵にある男の才能を、嫉妬に値する他の才能が芽吹くまで、愛し続ける。
「全く以って、妬ましい」
かくして、一人の男が生涯を終えた。
しかしそれを知る者は、誰一人とて居はしない。
死んだのは桂自身であって、彼の才能ではないのだから。
→礼も言わずに
> 貴女だけを想い貴女だけを書くことを約束します
→描くことを
> 轟々と流れる川があるばかりある。
→あるばかりである?
これは凄い。
中頃までは「パルスィ、橋姫というよりもまるで食虫植物だな」と思いつつ読んでいたのですが、
終盤一気にやってくれましたねw
彼女を象徴するかのような最後の台詞にぞくりとさせられました。
適度に詩的な表現を施された文章もGOODです。
だけど、その嫉妬心に引き付けられました。
面白い作品でした。
人が美しい妖怪に心をとらわれ散らされる
妖怪とは恐ろしい存分だと言うことを思い知らされました
一番印象に残ったのは、物語を通じて知らしめられる桂の生涯でした。これが一番印象に残ったというのも可笑しな話ですが、私は芸術家として生き、芸術家として死んだ彼の生涯が、焼き付くように心に残りました。才能に保障された安穏とした生涯の中で起こってしまったパルスィとの出会いが、それにより悲劇ではなく、ある意味喜劇として終わるとは皮肉なものですね。
才ある人間は常にして嫉妬の念を買っている。自覚出来ない内に積み重なってしまったその塊がとても恐ろしいものである事を教えてくれるような作品だと思います。何も才能のある人間だけが、嫉妬を買う訳ではないのですから。
そしてこんな話が書ける貴方が妬ましい
あなたの文才にぱるしぃ……。
いずれにしてもイセンケユジさん、パルスィにその文才を奪われないように気を付けてください
橋が舞台なのもパルスィの元由来なのでしょうねぇ。
そしてそれに合う作品でした。これぞパルスィ。
GJ。
修正しました。ご報告、ありがとうございます。
途中まで「?」だった感想がラストの一文でひっくり返りました。素晴らしい。あぁ素晴らしい。
元の所持者を思い出して妬んだりするのだろうか、はたまた命ある限り新しいものを妬み続けるのか。
しかし彼女も橋姫なら、嫉妬こそがアイデンティティだろうに。対象を奪ってしまっては先は細いぞ……
いつかは身を滅ぼす嫉妬心だと思う。今で言う大量生産・大量消費社会。
>>「貴方の……すごぉい。」
これを読んだ時、その…下品ですが……フフ……
シンプルだけどよくもまぁここまで詰め込んだもんだ。
作品の濃さが半端無いな。
表現方法も題材と合っていて素晴らしい作品だと思う。
それほど長くはないけど読み応えたっぷりで楽しめました。
お風呂はいったばかりだというのに、どっと汗が……。
だれもがもっている嫉妬心が、こんなにおそろしいとは思いませんでした。
洗練された文章。淡々とした言葉で読者の想像力を惹起させ、キャラクターの心象を引き出す文体。
理解できそうで決して人には理解できない妖怪の感情を見事に描き出した作品。
パルスィが取り憑いた人間の才能を奪ってゆくというオリジナル設定があったものの、その素材を十分に使いこなしている。ため息をつくことしかできません。
概念に特化した妖怪かぁ。というより、妖怪が概念に特化しているのか。妖怪自体、感情の象徴だしなぁ…………うん。こういう書き方もあることを勉強させていただきました。
よくよく考えると人に嫉妬されるような才能を何一つ持ち合わせていない事に気付いてホッとした。
あれ、なんか気が緩んだら涙が出てきた………
この一作で俺の中のパルスィが一気に存在感を増しました。
あぁ、嫉妬の妖怪ってこういうことなんだ………
地底に行ってからのパルスィが艶っぽくてたまりません。
やばい。やばいぐらいに狂気。さすがはパルスィ。
そして、その彼女の魅力をこぼさず書ききった氏に、敬意を。
人から成った鬼のなんと凄まじきことよ。
素晴らしいパルスィでした。
>「全く以って,妬ましい」
この一言でストンと落とす構成に脱帽。
オリキャラもしっかりいい味出てますし。
心理・情景描写も素晴らしかったです。コレは怖いわ…。
次の作品もお待ちしています。
>凡夫の決死の慟哭すら、才人の戯れにかき消される。解るかしら。
彼らが全てをかけて創り上げたような物でさえ、日の目に当たることはない。
もしかすると、力無きものの小さな嫉妬を受け止める存在としては、パルスィという
存在は優しき女神のようなものかもしれない。などと凡夫は思いましたとさ。
点数は10点しか付けたくないし、口を開けば作品への文句しか出せない。
だけど凄まじく面白かった。引き込まれた。ああ気持ち悪い。
こういうパルスィもアリですね!
正にお見事。パルスィはこうでなくっちゃ。
あと受験頑張れ。
いいよいいよ。
GJ。
妖怪はやはりどこまで行っても妖怪。それを見事に表現した作品。
いや、妖怪だから、ではなくパルスィだから、と言うべきか。
嫉妬ってのは、本当に厄介な代物。あなたの才覚に私もパルスィします。
パルスィに、怪物としての存在を大きく感じる一方で、
奇妙ではあるが、強く凝縮された人間味を感じた。
妖怪は人の心から生まれる存在だからだろうか。
その人間味が一人の人間の生き様を強く投影してくれる。
それを見事に書ききったと思います。
こういう妖怪らしい話がもっと増えると良いな。
故に最高に魅力的だ。
作者がおっぱいの人だったという事だ