二.紅蜻蛉と妖夢
ふと涙ぐみたくなるような、それは夕焼けでございました。
その下に対峙する、二つの影を思い浮かべてください。
一人は双剣を引っさげ、飄然と立ち尽くしています。
かたや、もう一人の手には槍。
得物は投げ槍と見えました。
両者の間合いが、じわじわと狭まってまいります。
戛ッ。
孤槍が、放たれました。
双刀の剣士、太刀をでもってこれを反らし、躱します。
いえ。いいえ。躱しきれておりません。
槍は意志を持つかのごとく、投擲者の手に舞い戻っておりました。
「――紅蜻蛉」
リグル・ナイトバグがいいました。
赤く濡れた穂先が、夕映えに一層きらめいておりました。
魂魄妖夢は、無言で片剣を放りました。
先ほど舞い戻った槍に片手を抉られ、もはや手負いになっていたのです。……
◇
「ちょっとお待ちなさい」
従者の言葉をさえぎったのは主の声。
「いったいその二人は、」
どうしてまた、かくも殺伐とした手合わせをすることとなったのか。
「むろん」
理由あってのことです、と従者がいった。
「その発端は――」
◇
それは(大方のことがそうであるように)些細なことだった。
当節、虫どものあいだで
――最強の虫は誰ぞ。
といった子供じみた争いが起きていた。
ある者は、カブトムシこそ最強なりという。
「いやいや」
と別な者がいわく、「クワガタこそ最強なり」と。
「どっこい」
これまた別な者が主張。「ザリガニに勝るものなし」
「いないな」
と否定する声も出る。「ムカデを忘れてもらっては困る」
「いやいやサソリが」「いいえハンミョウが」「毒グモをお忘れなく」「カマキリが」「リオックが」
そんな具合に議論百出・口論沸騰、これはどうでも決着をつけずば収まらぬという次第とはなった。
そこで、裁定役として虫妖たるリグルへとお鉢が回ったのである。
(バカバカしい)
と、リグルは思う。
(強かろうが弱かろうが、どだい虫は虫じゃないの)
およそ道理であったが、それを理解するほど虫どもは冷静ではない。
しょうことなしに知恵をしぼったリグルは、おもだった虫らを集めると
「思うに、一番強い虫を決めようと言ったって、これは難しいわ」
たとえば闘って決めようとしても、虫によっては得意不得意な地形もあれば条件もある。
空中戦か地上戦か、はたまた地上でも水辺なのか砂上なのか樹上なのか、これは大いに勝敗を左右するところであろう。
そこで、とリグル。
「ある手立てを使って、一番強い虫を決めようじゃないの」
そこで虫どもは尋ねた、「その手立てとは?」
「他でもない――」
リグルは、はるかに望む湖を指した。
「あそこに、紅い屋敷がある」
ざわめく虫ども。
虫なみの知識しかない彼らだが、かの屋敷の悪名くらいは知っている。
血の気の多い吸血鬼とか、紙魚まみれの魔女であるとか、人でなしなメイドであるとか。云々。
「あそこには庭園があって、そこにはひどく甘い――
血のように甘い蜜をもつ花が咲いているとか」
その蜜を持って来た者を――勝者としよう。
すなわち肝要なのは腕っ節ではなく、度胸。心の強さ。
それをもって最強を決めよう、というリグルの提案であった。
虫ども口をそろえていわく、「よきかな!」
そこで一同ぞろぞろと真紅の館へと向かったが、次第にその威容が分かってくるにつれ、一体去りまた一群れと去っていった。
剛勇のカブトも奸智のハンミョウも怖気去り、気付けばもはやリグルひとりという塩梅。
(いやはや)
とホッと一息したリグル、これでバカげた争いも終わったと思ったが、
(おや?)
たった一体だけ、付いてきている虫が居る。
「何だ。赤トンボじゃないの。何してるの?」
無論――勝者となるために。
「ちょっと」
リグルは焦った。「あんたじゃ無理よ……第一、強いの弱いのなんて、興味ないでしょうに?」
――そんなことはない、と赤トンボ。
およそ虫に生まれた以上は、強さに憧れぬはずはない。
されど硬い殻も鋭い牙も苛烈な毒も持たぬ身ゆえ、ぼんやり飛んでいるだけのこと。
――トンボ族の誇りを見せ付けたい。
そう、主張するのである。
再三慰留したリグルであるが、ついにその熱意に負けた。
かくして赤トンボは、紅い館へと侵入し……
勝者となり、かつ、敗者となるのである。
そのとき……
リグル・ナイトバグは、紅い屋敷にほど近い茂みにひそみ、
赤トンボの帰還を待ちわびていた。
(! 来た)
妖怪的な直感が、待ち人の到着を告げる。
はるかに遠く、門をくぐって、赤トンボが飛来してくるのが見えた。
「…………っ」
息がつまったのは、これで二度目。
一度は、最初に門をくぐるときのこと。
門番がいる。
かつて門を守っていた、のん気そうな妖怪ではない。
二刀を引っさげた、剣士である。
せんだってリグルは、門に近づいた妖怪ばらがたちどころにほふられたのを見たことがある。
とはいえさすがに、
(よもや、たかが赤トンボまで)
斬ることはないだろう。
とはいえ確信はなかったので、手に汗を握ったが……
(どうやら)
赤トンボは運を拾ったらしい。
「――――っ」
リグルは息を呑んだ。
剣士の双剣が、ゆるゆると震えていたのである。
次のせつな。
赤トンボだったものは、十文字にふわりと分離、ハラハラと散り、風に混じりさっていた。……
◇
「おやおや、」
館の主がいった。「悲劇的な話ね」
「いかさま」
嬢の従者がいった。「悲劇的といえます」
妖夢も妖夢、たかが虫くらい……
とは、あるじは言わず、
「それで、決闘を仕掛けたと?」
いいえ、と従者。
「虫妖は虫よりは知恵がありますゆえ」
◇
無謀な仇討ちなど、目論みはしなかった。
しかし日に日につのる無念の思いは、リグルをさいなんでやまない。
そんなおり。
――いいものをあげようじゃないの。
そんな言葉を耳元でささやく者があった。
小柄な体躯にそぐわぬ大業物を引っさげた影。
――いいもの?
――そう。あなたの思いを力に変えてくれる、代物を。
武骨な青龍刀をきらめかせ、少女は妖しく嗤った。
かくして。
魔性の声に導かれて分け入った山中で、リグルは一振りの槍を見い出した。
それは手にしただけで精気を吸い取られるような、しかし同時にいかなる者にも打ち勝てそうな、そんな妖しい力を秘めていた。……
◇
……そして、場面は冒頭に立ちもどる。
夕暮れどきの野っ原で、一人は槍、一人はダンビラを掲げた無粋な情景。
「――どうして斬った?」
問うていた。答えはないと感じつつも。
「…………」
案の定、剣士の口からは何もこぼれぬ。
ただ一筋の脂汗が、頬をつたい、落ちた。
「ッッ」
槍。火を吹くように放たれる。
剣。その一撃を跳ね上げる……
否、迎え撃ったのは、
掌。
「!」
徒手が、空を裂いた。
孤剣を放り、投げ槍を手刀一閃、はたき落としていた。
轟! と地に深々めり込んでは、いかに魔槍といえど手も足も出はしない。
絶句するリグルに、無腰の剣士が殺到していた。
(この剛力は!)
とうてい、赤トンボを斬ったような芸当が、出来ようはずは。
“なんの”
目の前で、剣士の口が動いた。
“こと”
そう問いかけているようだ、とリグル・ナイトバグは思い……
その網膜は、ひときわ紅い夕焼けを映した。
◇
「というわけで」
瀟洒なこと比類なき従者が、槍を差し出した。
「これがくだんの槍ですわ」
「……フムン?」
じろりと目をやり、カリスマには定評のある主人は小首をかしげた。
「どこかで見たような?」
それも道理、とメイド長。
「これは当家所蔵の魔槍ですもの。グング……なんとやら」
あぁ、と心得顔の館主。
「なるほどね。すっかり合点がいったわ」
そうですか? とチト不満げな従者。
「いったいどうしてこの槍がかの虫妖の手に渡ったのか、なぜ私がことの一部始終を語れたのか、どうしてこの槍を持っているのか……とか、そういったことは」
気にならないのですか?
べつだん、とスカーレット家の娘は肩をすくめた。
「どうでもいいことじゃないの。詮索するようなことじゃないわ」
「それはまぁ」
あるじにならって肩をすくめ、メイドは槍を抱えた。
「あぁ、でも」
ふと思い出したように、悪魔。
「けっきょく下手人は誰だったのかしらね。つまりその――虫を斬った当人だけれど」
さぁ、と人間。
「私でないことは確かですけれど」
「ふうん」
興味を失ったように、レミリア・スカーレットは小さくあくびをした。
「退屈しのぎにはいい話ね。またそんながらくたと一緒に拾ってきて頂戴」
◇
――秘蔵の神器をがらくた扱いとはひどい話だ、と十六夜咲夜は苦笑しつつ、廊下を進む。
「おや……これは」
ふと停止して、優雅な一礼。
そこにごく微量なりとはいえ戸惑いの成分が混じっていたのは、それがひごろこの場では見かけぬ意外な顔であったからに他ならない。
「今日はお加減が宜しいようで。……何か御所望でも?」
「…………」
顔色の悪い少女は答えず、分厚い書物に見入っている。
パラリ、とめくられるページ。
「……では、ちょっと蔵に行って来ますので」
咲夜は会釈をひとつ、その場を離れ……
「っ!」
思わず声を漏らしたのは、ほんの数瞬後のことである。
しっかり抱えていたはずの槍が、ポロリとこぼれ落ちていた。
いつの間にやら、鋭利な切り口で寸断されていたのだ。
それも、十文字に。
はっ、となって振り向いたが、既にそこにかの人の姿はない。
わずかに聞こえたのは、小さな咳だったか、囁くような嗤い声であったか……
メイド長がうかべた表情からは、それをうかがい知ることはおよそ不可能であった。
(次回『園芸帖と妖夢』につづく)
ふと涙ぐみたくなるような、それは夕焼けでございました。
その下に対峙する、二つの影を思い浮かべてください。
一人は双剣を引っさげ、飄然と立ち尽くしています。
かたや、もう一人の手には槍。
得物は投げ槍と見えました。
両者の間合いが、じわじわと狭まってまいります。
戛ッ。
孤槍が、放たれました。
双刀の剣士、太刀をでもってこれを反らし、躱します。
いえ。いいえ。躱しきれておりません。
槍は意志を持つかのごとく、投擲者の手に舞い戻っておりました。
「――紅蜻蛉」
リグル・ナイトバグがいいました。
赤く濡れた穂先が、夕映えに一層きらめいておりました。
魂魄妖夢は、無言で片剣を放りました。
先ほど舞い戻った槍に片手を抉られ、もはや手負いになっていたのです。……
◇
「ちょっとお待ちなさい」
従者の言葉をさえぎったのは主の声。
「いったいその二人は、」
どうしてまた、かくも殺伐とした手合わせをすることとなったのか。
「むろん」
理由あってのことです、と従者がいった。
「その発端は――」
◇
それは(大方のことがそうであるように)些細なことだった。
当節、虫どものあいだで
――最強の虫は誰ぞ。
といった子供じみた争いが起きていた。
ある者は、カブトムシこそ最強なりという。
「いやいや」
と別な者がいわく、「クワガタこそ最強なり」と。
「どっこい」
これまた別な者が主張。「ザリガニに勝るものなし」
「いないな」
と否定する声も出る。「ムカデを忘れてもらっては困る」
「いやいやサソリが」「いいえハンミョウが」「毒グモをお忘れなく」「カマキリが」「リオックが」
そんな具合に議論百出・口論沸騰、これはどうでも決着をつけずば収まらぬという次第とはなった。
そこで、裁定役として虫妖たるリグルへとお鉢が回ったのである。
(バカバカしい)
と、リグルは思う。
(強かろうが弱かろうが、どだい虫は虫じゃないの)
およそ道理であったが、それを理解するほど虫どもは冷静ではない。
しょうことなしに知恵をしぼったリグルは、おもだった虫らを集めると
「思うに、一番強い虫を決めようと言ったって、これは難しいわ」
たとえば闘って決めようとしても、虫によっては得意不得意な地形もあれば条件もある。
空中戦か地上戦か、はたまた地上でも水辺なのか砂上なのか樹上なのか、これは大いに勝敗を左右するところであろう。
そこで、とリグル。
「ある手立てを使って、一番強い虫を決めようじゃないの」
そこで虫どもは尋ねた、「その手立てとは?」
「他でもない――」
リグルは、はるかに望む湖を指した。
「あそこに、紅い屋敷がある」
ざわめく虫ども。
虫なみの知識しかない彼らだが、かの屋敷の悪名くらいは知っている。
血の気の多い吸血鬼とか、紙魚まみれの魔女であるとか、人でなしなメイドであるとか。云々。
「あそこには庭園があって、そこにはひどく甘い――
血のように甘い蜜をもつ花が咲いているとか」
その蜜を持って来た者を――勝者としよう。
すなわち肝要なのは腕っ節ではなく、度胸。心の強さ。
それをもって最強を決めよう、というリグルの提案であった。
虫ども口をそろえていわく、「よきかな!」
そこで一同ぞろぞろと真紅の館へと向かったが、次第にその威容が分かってくるにつれ、一体去りまた一群れと去っていった。
剛勇のカブトも奸智のハンミョウも怖気去り、気付けばもはやリグルひとりという塩梅。
(いやはや)
とホッと一息したリグル、これでバカげた争いも終わったと思ったが、
(おや?)
たった一体だけ、付いてきている虫が居る。
「何だ。赤トンボじゃないの。何してるの?」
無論――勝者となるために。
「ちょっと」
リグルは焦った。「あんたじゃ無理よ……第一、強いの弱いのなんて、興味ないでしょうに?」
――そんなことはない、と赤トンボ。
およそ虫に生まれた以上は、強さに憧れぬはずはない。
されど硬い殻も鋭い牙も苛烈な毒も持たぬ身ゆえ、ぼんやり飛んでいるだけのこと。
――トンボ族の誇りを見せ付けたい。
そう、主張するのである。
再三慰留したリグルであるが、ついにその熱意に負けた。
かくして赤トンボは、紅い館へと侵入し……
勝者となり、かつ、敗者となるのである。
そのとき……
リグル・ナイトバグは、紅い屋敷にほど近い茂みにひそみ、
赤トンボの帰還を待ちわびていた。
(! 来た)
妖怪的な直感が、待ち人の到着を告げる。
はるかに遠く、門をくぐって、赤トンボが飛来してくるのが見えた。
「…………っ」
息がつまったのは、これで二度目。
一度は、最初に門をくぐるときのこと。
門番がいる。
かつて門を守っていた、のん気そうな妖怪ではない。
二刀を引っさげた、剣士である。
せんだってリグルは、門に近づいた妖怪ばらがたちどころにほふられたのを見たことがある。
とはいえさすがに、
(よもや、たかが赤トンボまで)
斬ることはないだろう。
とはいえ確信はなかったので、手に汗を握ったが……
(どうやら)
赤トンボは運を拾ったらしい。
「――――っ」
リグルは息を呑んだ。
剣士の双剣が、ゆるゆると震えていたのである。
次のせつな。
赤トンボだったものは、十文字にふわりと分離、ハラハラと散り、風に混じりさっていた。……
◇
「おやおや、」
館の主がいった。「悲劇的な話ね」
「いかさま」
嬢の従者がいった。「悲劇的といえます」
妖夢も妖夢、たかが虫くらい……
とは、あるじは言わず、
「それで、決闘を仕掛けたと?」
いいえ、と従者。
「虫妖は虫よりは知恵がありますゆえ」
◇
無謀な仇討ちなど、目論みはしなかった。
しかし日に日につのる無念の思いは、リグルをさいなんでやまない。
そんなおり。
――いいものをあげようじゃないの。
そんな言葉を耳元でささやく者があった。
小柄な体躯にそぐわぬ大業物を引っさげた影。
――いいもの?
――そう。あなたの思いを力に変えてくれる、代物を。
武骨な青龍刀をきらめかせ、少女は妖しく嗤った。
かくして。
魔性の声に導かれて分け入った山中で、リグルは一振りの槍を見い出した。
それは手にしただけで精気を吸い取られるような、しかし同時にいかなる者にも打ち勝てそうな、そんな妖しい力を秘めていた。……
◇
……そして、場面は冒頭に立ちもどる。
夕暮れどきの野っ原で、一人は槍、一人はダンビラを掲げた無粋な情景。
「――どうして斬った?」
問うていた。答えはないと感じつつも。
「…………」
案の定、剣士の口からは何もこぼれぬ。
ただ一筋の脂汗が、頬をつたい、落ちた。
「ッッ」
槍。火を吹くように放たれる。
剣。その一撃を跳ね上げる……
否、迎え撃ったのは、
掌。
「!」
徒手が、空を裂いた。
孤剣を放り、投げ槍を手刀一閃、はたき落としていた。
轟! と地に深々めり込んでは、いかに魔槍といえど手も足も出はしない。
絶句するリグルに、無腰の剣士が殺到していた。
(この剛力は!)
とうてい、赤トンボを斬ったような芸当が、出来ようはずは。
“なんの”
目の前で、剣士の口が動いた。
“こと”
そう問いかけているようだ、とリグル・ナイトバグは思い……
その網膜は、ひときわ紅い夕焼けを映した。
◇
「というわけで」
瀟洒なこと比類なき従者が、槍を差し出した。
「これがくだんの槍ですわ」
「……フムン?」
じろりと目をやり、カリスマには定評のある主人は小首をかしげた。
「どこかで見たような?」
それも道理、とメイド長。
「これは当家所蔵の魔槍ですもの。グング……なんとやら」
あぁ、と心得顔の館主。
「なるほどね。すっかり合点がいったわ」
そうですか? とチト不満げな従者。
「いったいどうしてこの槍がかの虫妖の手に渡ったのか、なぜ私がことの一部始終を語れたのか、どうしてこの槍を持っているのか……とか、そういったことは」
気にならないのですか?
べつだん、とスカーレット家の娘は肩をすくめた。
「どうでもいいことじゃないの。詮索するようなことじゃないわ」
「それはまぁ」
あるじにならって肩をすくめ、メイドは槍を抱えた。
「あぁ、でも」
ふと思い出したように、悪魔。
「けっきょく下手人は誰だったのかしらね。つまりその――虫を斬った当人だけれど」
さぁ、と人間。
「私でないことは確かですけれど」
「ふうん」
興味を失ったように、レミリア・スカーレットは小さくあくびをした。
「退屈しのぎにはいい話ね。またそんながらくたと一緒に拾ってきて頂戴」
◇
――秘蔵の神器をがらくた扱いとはひどい話だ、と十六夜咲夜は苦笑しつつ、廊下を進む。
「おや……これは」
ふと停止して、優雅な一礼。
そこにごく微量なりとはいえ戸惑いの成分が混じっていたのは、それがひごろこの場では見かけぬ意外な顔であったからに他ならない。
「今日はお加減が宜しいようで。……何か御所望でも?」
「…………」
顔色の悪い少女は答えず、分厚い書物に見入っている。
パラリ、とめくられるページ。
「……では、ちょっと蔵に行って来ますので」
咲夜は会釈をひとつ、その場を離れ……
「っ!」
思わず声を漏らしたのは、ほんの数瞬後のことである。
しっかり抱えていたはずの槍が、ポロリとこぼれ落ちていた。
いつの間にやら、鋭利な切り口で寸断されていたのだ。
それも、十文字に。
はっ、となって振り向いたが、既にそこにかの人の姿はない。
わずかに聞こえたのは、小さな咳だったか、囁くような嗤い声であったか……
メイド長がうかべた表情からは、それをうかがい知ることはおよそ不可能であった。
(次回『園芸帖と妖夢』につづく)
でもせめて二年と言わず、もちっと早く――
今日は好き日