「咲夜ぁ、人間やめてみる?」
戯れのような一言だった。
事実、それは戯れだったのだろう。何の前触れもなく何の脈絡もなく繰り出された言葉は、明らかに私の返答を期待していない声音だった。冗談のように韜晦のように、ただ楽しむためだけに吐き出されたふざけておどけた声。
もっとも、そうでない声のほうが珍しいのだが。
はい、とも、いいえ、とも言わず、私はただ首をかしげた。お嬢様は私の仕草を見てけたけたと笑い、「冗談よ、冗談。ほんの余興」と声を笑いに乗せた。広い部屋の中に、不思議とその声は反響するように長く残り、やがて空気に溶けて消えていった。
赤く、蕩けるような空気だった。
密封された部屋、窓のない部屋の中は、白い湯気が薄く広がっていた。この色が紅ければ、かつての春の再現だったのだろう――それともお嬢様は、あえてそうしているのだろうか――実際はそんな物騒なことではなく、ただバスタブの湯から立ち上る湯気が、行き場をなくして漂っているだけなのだが。部屋の紅い壁と湯気の白が混ざって、空気は薄紅色に染まっていた。
冗談といえば、それこそ冗談のような光景なのかもしれない。
吸血鬼が浴身を楽しむというのは。
本人曰く「流れていなければ敵ではないわ」とのことなので、シャワーといった便利な器具はついていない。八坂神社には河童に技術提携されて完全自動化された風呂場があるらしいが、ここ、紅魔館においてはいまだに前時代的である。大きく白いバスタブ、波々と注がれたお湯、水面を覆う白い泡。バスタブを天蓋つきベッドのように囲うカーテンは布製で、洗濯に気をつかわなければならない一品だった。
そして、バスタブの裏面に描かれた火の魔術印。なんともはや、前時代的な魔女的代物だ。
「余興にしては悪趣味だわ。魔女にとってはその境目は大きなものよ」
その魔女的代物を作り上げた、前時代的な魔女――パチュリー・ノーレッジは、ちゃぷりと湯の表面を撫でながら言った。肩から上、むきだしになった白い肌が、今はほのかに紅くなっていた。
満月の夜。
余興を――湯浴みをする主とその友人を、私は少し離れたところから見守っていた。バスタブに深々と身をしずめ両足の膝を縁にかけて外に出してくつろぐ吸血鬼と、わざわざ防水加工した本を読みながら湯につかる魔女の組み合わせは、確かに余興、余暇というに他はなかった。どこで知識を仕入れてきたのか、お嬢様の右手にはワイングラスが握られている。和洋折衷な気もするが、本人が気にしていないので良しとした。
私は、その二人の隣にいなかった。
衣服を脱ぎ、裸身になって湯の中にいる彼女たちから、三歩離れたところに立っていた。己の意義たる従者服のまま、片方の手にタオルを持ち、傍にひかえていた。それがメイド長たる私の役目だからだ――『長』のやるべきことではないのかもしれないけれど、お嬢様がそれを望まれたのだから仕方がない。
それで良い、と私は思う。
心の底から、かけねなく、それだけで良いと思うのだ。
それこそが私なのだから。
けれどお嬢様は、それが不服らしく、私をすがむように見て、言ったのだった。
人間をやめてみる、と。
はい、とも、いいえ、とも答えなかったのは、そのどちらでも構わないと思ったからだ。彼女が望むならばどちらでも良いと思った。この身は悪魔の犬であり、この体は吸血鬼の従者であり、この名は十六夜 咲夜なのだから。
魔女のように悩むこともない。私の心は揺れることなく固まっている。完全に瀟洒な従者。それが私だ。
だから。
「そうね。だって咲夜は――」
続くお嬢様の――どこか退屈そうな――言葉を聴いても、私は一切動揺することはなかった。
「――もうヒトじゃないものね」
心の揺れ動く音は、聞こえなかった。
あなたへの月
紅魔館の朝は遅い。
館に住まう人間はただ一人であり、あとは魔女、吸血鬼、妖精で構成される紅魔館は、基本的に夜型の生活規則で動いている。そのため皆が動き始める『朝』というのは、一般的な外とは異なり、月が昇り始める時刻を指す。太陽が出ている時間は、紅魔館は眠りについている。
もっとも、生活リズムが規則正しいヒトなどいないので、いつもそうとは限らないが。窓が少ない紅魔館においては、吸血鬼も昼間に動く。最近では日傘を差して外すら出歩くので、従者としては気が抜けない。時間をとめることができなければ、とうの昔に過労で倒れていただろう。
――いえ、ヒトでないのなら、それくらいで倒れないのかしら?
ふいに頭に浮かんだ疑問に、私は足を止めて考え込む。時刻は五時を過ぎたあたり。外では太陽が沈みかけ、夕焼けの紅に染まりつつあることだろう。窓がないため薄暗く、常に紅色の紅魔館の内が、もっとも外と近くなる時間。
逢魔ヶ刻。
魔――吸血鬼の姿はここにはいない。薄暗い廊下に立つのは私だけだ。昨晩が満月だった為、今日は遅くまで眠り続けることだろう。勝手気ままな妖精たちが時折姿を見せるくらいだ。
さしせまってやることもなく、私はたっぷりと思考にふけることができた。昨晩、お嬢様に言われた言葉を。
「ヒトじゃない、ねぇ。そうなのかしら?」
独りごちてみるが、当然誰の答えもない。仕方がなく、自分の問いに自答してみた。
「そうかもしれないわ」
あっさりと答えは出た。
そうかもしれない。そうなのかもしれない。否定する材料はどこにもなく、否定する意味もなかった。
私たちの住む幻想郷は特異な空間だ。外の世界から切り離され、外の世界で失われたものの詰まった楽園。人間よりも、人間以外のモノの方が多い環境において、いつまでも自分だけが人間でいられるはずもない。
寝ている間にお嬢様に血を吸われて、知らぬ間に吸血鬼になっていたとしてもおかしくはないのだ――そんな蚊のようなまねを、プライドの高い彼女がするとは思えないけれど。
「それ以外にもヒトを止める方法はある」
そうだ。いくらでもある。復讐の念にかられて鬼と化す人間もいるし、半分死ぬことで半霊半人と成ることもあれば、完全に死んで亡霊となることもある。崇め奉られて現人神になる子もいれば、魔法を極めるために人間をやめる子もいる。問題があるとすれば、そのどれに、あるいはそれ以外の何になっているのかわからないことくらいか。
いや――違う、そうではない。
私はそもそも、人間ではないのだ。
悪魔の犬。
それが、私だ。
十六夜 咲夜という名前を得たときから、私はとうに、ヒトをやめているはずではなかった。
「そうすると……私は何なのかしら?」
自分でも間抜けと思う疑問が口をついて出た。犬なのか。犬度は低いと以前に言われた気がする。いや、あれは猫度だったか。猫よりは犬のほうが近いに違いない。そのわりには耳もなければ尻尾もないし、わんと吼える口もない。
では、何なのだろう。
「――――――」
おかしなものだった。自分のことなのに、自分が一番わからなかった。そして私は気づいていた――そのわからないことを、自身が重要視していないことを。優先順位の低い、どうでもいいことなのだと、完全に切り捨てている『私』がいた。今は思考が空いているから考え込んでいるだけで、仕事が始まればこうした悩みもすぐにどこかへ消えることだろう。
切り捨てて、割り切っている。
自分のことを。
そしてやはり、それこそが『私』だと考える私がいた。
「成る程。鬼の言うことも一理あるわ」
終わらない宴会の夜に、鬼がいったことを思い出す。あの鬼は確かに嘘はつかなかった。
いまさらのように、私は気づく。
――私は、『私』のことなど、どうでも良いのかもしれない。
悪魔の犬であれば、吸血鬼の従者であれば。完全に瀟洒なメイドであれば。
誰かを照らす月であれば、それでいいのかもしれない。
そう、思って。
「――――あ、」
考え事をしていたせいだろう。わずかに反応が遅れた。薄暗い通路の先、T字路になったそこを、黒白の魔法使いが飛び去っていくのが見えた。黒い姿は闇の中にすぐに消えてみえなくなり、わずかに空気の流れが残るだけだった。
人間の魔法使い、霧雨 魔理沙。
彼女は満月の翌日は静かだということをどこかで知って、この日には頻繁に訪れるようになっていた。実害はあるような、ないような。大抵図書館にいって本を盗んだり調理場にいって盗み食いをするだけなので、お嬢様には害がないとはいえる。埃をかぶった居候に文句を言われるかもしれないが、生憎と私は魔女の従者ではない。
いつもなら道中で立ちふさがり追い返すか、最初から無視を決め込んでいた。
前者なら今すぐ時を止めて移動すればいい。後者ならこのまま放っておけばいい。
私は――
「――――――」
私は、そのどちらも選ばなかった。時を止めることも、踵を返すこともしなかった。静かにその体を宙に浮かせ、足音なく飛んだのだ。魔理沙が消えたほうへと、その黒い背を追って。
自分でも不思議だった。そうする意味はどこにもない。素直に追い返すか、放っておけばいいのに、先まで考えていたことが、考えていた心が、私の体を押すように突き動かしていた。
私らしくもない、変なことを考えていたせいだろう。私は何か、と。ヒトなのか、と。そんなことを考えていたから――妙に気になってしまったに違いない。
同じ人間である彼女のことを。
多分、
誰もよりも人間的な、霧雨 魔理沙のことを。
「この行動は私らしい? 私らしくない?」
自問するが、答えはなかった。
向こうもしのぶように静かに飛んでいたため、すぐに見失った背中を捉えた。気配を殺し、気づかれないよう距離を置いて後を追う――どうしてそんなことをするのかは、やはり自分でもよくわからなかった――やがて彼女の行き先が図書館だと気づいたとき、私の指先は自然に動いていた。
いまさらだが、私の持つ能力は、時を操る程度の能力だ。
時間と、そして空間を操る能力。見かけよりもずっと広い紅魔館は、この能力によって形作られている。だから当然、やろうと思えば、こんなこともできるのだった――――
†
扉を開けたら部屋があった。
「――――へ、」
それ自体は、おかしなことではない。あけた扉が図書館へとつながる扉でなければ、そして開けた扉の先にあったのがこじんまりとした部屋でなければ、ごく当たり前の光景であるはずだった。
扉の先にあったのは、ごく普通の部屋だった。人一人が使う、小さな部屋。ひどく生活臭のない、最低限生きるための部屋だった。窓はない。部屋の正面には壁に沿うようにして簡素なベッドがあり、扉の脇には棚と鏡台があり、その奥、部屋の隅には小さなクロークがおかれている。そのすべてが、ランタンの薄紅色の光に淡く照らし出されていた。
それだけだった。
眠るための部屋、眠りから覚めて最低限整えるためだけの部屋。何かが欠けているその部屋は、今までに一度としてみたことがないものだった。だからこそ驚愕し、
反応がおくれた。
「、ぅ、わ――――っ、あ、あ?」
扉をあけたまま硬直する体を、後ろから押された。踏ん張ることもできず、体勢をくずして二、三歩つんのめるように前に進み、最後まで体勢をたてなおすことなく、前のめりにベッドへと倒れこんだ。ぼすん、と軽い音がする。シーツのしかれたベッドは、簡素な見かけから想像できないほどに柔らかかった。
同時に、ぱたん、と扉の閉まる音がした。
ひしひしといやな予感に襲われながら、魔理沙はベットの上で寝返りをうつようにして仰向けになり、足の先――内側から閉ざされた扉と、その前に立つ少女の姿を見た。
「…………咲夜?」
「今晩は」
いぶかしげに問いかける魔理沙に、咲夜は普段と変わらない落ち着いた声で挨拶をし、小さく頭を下げた。礼儀正しい挨拶――に見えるが、先程背中を押したのが彼女であることは疑いようもなかった。
どういうつもりだ、と魔理沙は問いただそうとし、けれどそれよりも早く、頭をあげた咲夜は横にかしげて、
「――でいいのかしら? それともおはよう?」
とぼけたように、そう言った。
「…………」
それがとぼけているのでもふざけているのでもないことに薄々気づいているからこそ、魔理沙は言葉に詰まった。
完璧に瀟洒な従者、ただしどこか抜けている。
短いとはいえない付き合いで、魔理沙が咲夜に対して得た印象はそれだった。欠点だらけの魔理沙にとって、彼女はひどく大人びた――とうよりも完成した――人間に思えるのに、時折信じられないくらいにピントのずれたことを言う。
――この状況も、そんなずれた行動なのか。
道を間違えた覚えはなかった。くぐったのは図書館に通じる扉だったはずだ。散々忍び込んだ館だ、目をつぶってでもたどり着くことはできる。
誰かが故意にいじくらない限りは。
そういうことができそうな知り合いは何人かいるか、今この状況においては、目の前の相手で間違いないだろう。それを証明するように、咲夜は扉を開けることなく、逆に一歩、魔理沙へと歩みよってきた。
ベッドまで、あと三歩。
三歩分の距離しか、隔てていなかった。
「な――なんだよ、咲夜。何か用があるなら――」
「用、というほどのものでも、ないのだけれど」
魔理沙の言葉をさえぎって、咲夜の声が小さな部屋に響く。あまりにも淡々とした、普段どおりの声。あまりもの自然さに、逆に魔理沙は危機感を覚え、とっさに咲夜の両手を見た。そこにナイフが握られているのではないかと危惧したからだ。とうとう自分を退治することにしたのだろうか――そう思っての視線だったが、咲夜の手には何も握られていなかった。
いつもどおり。
いつもどおりのまま、咲夜は、さらに一歩を踏み出した。
ベッドまで、あと二歩。
二歩分の距離しか、隔てていない。
「用がないのなら、私は帰るぜ――」
「貴方に聞きたいことがあるのよ」
なにか、まずい――頭の中で警鐘がなるのを魔理沙は確かに聞いた。見たかぎり今の咲夜はいつもどおりだが、それでもどこかいつもとは違う。よくわからないし、言葉にもできないが、なにかが違う。そして魔理沙の見るかぎり、咲夜はその微妙な差異に気づいていない。
満月と十六夜ほどに、わずかな差異。
注視しなければ気づくことのできない、わずかな欠落。
その欠落に気づかないまま、咲夜は、さらに一歩を踏み出した。
ベッドまで、あと一歩。
一歩分の距離しか、隔てていない。
「――――――」
「ねぇ、魔理沙」
距離といえるほどの距離を隔てず、手を伸ばせば届くほど近くに寄る咲夜に、魔理沙はとうとうかける言葉を失った。逃げるべきだ、と頭のどこか冷静な部分が囁くが、体はうまく動いてくれない。じり、じり、と自律を失った手足が後ろへと体をおしやるが、ベッドの上では遅々として進まない。進めば進むほど扉は遠くなり、こつん、と頭が壁に触れた。
十六夜 咲夜は。
止まることなく、真顔のままに、最後の一歩を踏み出した。
ベッドまで、零歩。
わずかの距離すら、隔てていなかった。
ぼすん――軽い音と共に、咲夜の両膝がベッドに沈んだ。同時に両の手が、魔理沙の首の両側に下ろされた。ベッドに仰向けになった魔理沙は、両脇を咲夜の手足に挟まれ身じろぎすらできない。
そうして、
すぐ真上に、咲夜の顔があった。
覆いかぶさるように――押し倒すようにして、一歩分の距離を隔てることもなく、咲夜がそこにいた。体は触れていないのに、その重みを魔理沙は感じた。ぎし、と意識の端で、ベッドがきしむ音を聞いた。感覚だけは鋭敏になっているのに、手足は完全に硬直し、視線をそらすことすらできなかった。
瞳がある。
月のように紅い、わずかに欠けた瞳が――満月のように輝く金の瞳と、視線を絡ませた。
魔理沙は咲夜の瞳に映る自身を見た。
咲夜もまた、魔理沙の瞳に映る自身を見た。
そうして。
吐息がかかるほどに間近で、咲夜は吐き出すように、声を零した。
「貴方、人間?」
†
……私は何をしているのだろう?
自問するが、答えはでなかった。気づいたら、としかいえない。気づいたら。いつのまにか。私は自室にいて、ベッドの上には霧雨 魔理沙がいて、私は彼女を押し倒しているのだった。
不思議だ。
どうしてこうなっているのか、よくわからなかった。
自分のことなのに――自分のことだから、かもしれない。私は思っていたよりも、『私』のことを知らないのかもしれない。時間を止めても自分の背中は見られないように。何かに映る姿を見なければ、自身を捉えることができないのかもしれない。
貴方は人間、と私は訊いた。
その質問が出た理由はわかる。昨晩お嬢様に似たようなことを言われたからだ。けれど、それがどうして今、私の口から彼女に向かって吐き出されたのかは、よくわからない。不思議な感覚。私は、私でもわからないことをためらいなく行っている。そのことに対して疑問を抱かないのが、何よりも不思議だった。
これこそが私、というには奇妙が過ぎる状況だ。組み敷かれた魔理沙は、暴れることも逃げ出すこともなかった。ただじっと、私の顔を見つめていた。何か変なものでもついているのだろうか。
もう一度、問いかけてみようか。
私は私の意志で口を開き、
「――人間だぜ」
私の意志で声が放たれるより先に、彼女はいった。
はっきりと。
ためらうことなく、自らの意志で、霧雨 魔理沙は断言した。
自分は人間だ、と。
「――――」
私は口を開けたまま――それは多分、一寸間抜けに見えるだろうと思いながら――放つべき言葉を失って硬直した。魔理沙の声はあまりにも明瞭で、何ら疑問を挟む余地がなかった。
強い意志だ。
これこそが私だ、と告げるような言葉だった。
言葉だけではないのだろう。私を見つめ、私の瞳を捉えたまま離さない金の瞳は、まったく揺れることがなく意志を表明していた。彼女の瞳に映る私の瞳のほうが、ともすれば湖面の月のようにゆれているように見えた。
何を言うべきか、わからなかった。
彼女は答えを返した。なら、私も何か言わなければならない。そう思うのだが、二の句は出てこない。呆けたように口を開いたまま、続く魔理沙の言葉を聴くことしかできなかった。
「……少なくとも今は。でも、これから先はわからない、何せ人間だからな――それに、」
私は気まぐれなんだぜ、と言葉を結んで、魔理沙は口を閉ざした。
そう、と頷き、私も口を閉じた。唇がひどく乾燥していて、舌の先で拭うようにして舐めると、ふいに喉の渇きを感じた。やっぱり吸血鬼にでもなっているのかもしれない。
同じことを思ったのかもしれない。魔理沙はやや眉をひそめて、
「お前は――人間じゃなくなったのか? まさか……」
まさか、何だというのだろう。
吸血鬼になったのか、といいたいのだろうか。
そんな、
心配そうな声と目で。
――どうしてそんな顔をするのだろう。
わからないままに、私は答えた。
「さぁ。私自身も、よくわからないのよ。昼間太陽にあたっても平気だったし、銀のナイフも持ったままだけど。ねぇ、魔理沙――私は人間に見える?」
「十六夜 咲夜には見えるぜ。ちょっと変だけどな」
「そう。――貴方の言う十六夜 咲夜って、どんな女?」
「言ったら傷つくから、言わない」
何気に酷いことを言う。それ自体が言っているようなものだ。
まあ何を思ったが知らないが、実際に言われても傷つきはしないだろう。鬼に言われたときも、閻魔に言われたときも、私は傷つきはしなかった。あとになって、成る程そうかもしれない、と納得したくらいだ。
――そう、貴方は少し人間に冷たすぎる。
いつか閻魔に言われたことが、ふいに頭に浮かんだ。あのとき私は、閻魔に対して何と答えたか……そう、そうだ。あのときも、私は自身を人だとは答えなかった。ナイフだと答えた。血の通わない金属こそが自分だと、そう答えたのだ。
なんだ。
つまるところ、答えははじめから出ていたのだ。
私は、
「私にはどうしても、私が人だとは思えないのだけれど――」
だからこそ、犬でも従者でもナイフでもなく。
――ヒトになりたかったのかもしれない。
そのことに気づいた瞬間、私は、自分の心が揺れる音を確かに聞いた。
†
泣いているのかと、そう思った。
けれど、十六夜 咲夜は泣いていなかった。彼女の頬は乾いていた。それでも、ヒトになりたかったのかもしれない、と今にも消えてしまいそうなか細い言葉を聴いた瞬間、魔理沙には咲夜が泣いているように感じた。見た目には何も変わらずとも、遠い場所で泣いている子供のように見えた。
なぜ泣いているのかも、きっとわからないままに。
――不器用なんだ。
魔理沙は思う。十六夜 咲夜は不器用だ。誰よりも完璧で瀟洒なのに、抜けていることに――欠けていることに気づかない。失ったのでもなく足りないのでもなく、欠落している箇所に気づき得ない。
彼女は、十六夜なのだ。
満月から少しだけ欠けた月。
欠けていることに彼女は気づかず、疑問にも思わない。欠けたことに気づくのは見ているほうだけで、だからこそそれが痛々しくてたまらなかった。
十六夜 咲夜は、泣かないだろう。
泣くだけの理由が、彼女には欠けているのだから。
「――咲夜はさ、人だよ」
気づけば。
言葉は、自然に口から漏れていた。自分でも驚くほどに優しい声。音のない――互いの息遣いと、鼓動の音しか聞こえない静かな部屋に、その声はゆっくりと満ちていく。
声にひかれるように、魔理沙の手は咲夜へと伸びていた。すぐ傍、声と共に息が触れるほど近くにある、咲夜の頬に、白い指先が恐る恐る触れた。
咲夜は、拒まなかった。
逃げることもなく、視線をそらそうともしなかった。
ただ、不思議そうに、
「そうかしら」
「そうだぜ。お前が人じゃなかったら――何なんだ」
「閻魔には、ナイフだと答えたわ。私は冷たすぎると言われたから」
指先がけなげな勇気を振り絞って動く。咲夜の輪郭をなぞるように指は動き、頬を手のひらが撫ぜてゆく。耳にかかった白銀の髪が柔らかな動きでゆれた。
触れた指の先は、暖かかった。
人間のように、暖かかった。
「……暖かい」
「魔理沙の手が、冷たいだけかもしれないわね」
不思議そうな顔をしたままに――けれど、瞳だけが、紅く爛々と揺れて魔理沙を捉えて離さず――咲夜は言い、その言葉を聴いた魔理沙の顔に笑みが浮かぶ。
「私は、人じゃないか?」
「さぁ――」
――確かめてみないことには、わからないわ。
言葉は途中で途切れた。わずかに残った距離を、どちらからともなく埋めたからだ。三歩分の距離が零へと変わる。隙間はない。唇がふれあい、体温が交わり、吐息が重なる。唾液にぬれた唇が、ランタンの炎を浴びてぬらぬらと薄紅色に輝いた。
魔理沙は、目を瞑らなかった。
咲夜は、目を瞑らなかった。
二人は月を見ていた。揺れる月が、混ざり合い、欠けたところのない月になるところを、ただ見詰め合っていた。
互いの熱を感じながら。
(了)
戯れのような一言だった。
事実、それは戯れだったのだろう。何の前触れもなく何の脈絡もなく繰り出された言葉は、明らかに私の返答を期待していない声音だった。冗談のように韜晦のように、ただ楽しむためだけに吐き出されたふざけておどけた声。
もっとも、そうでない声のほうが珍しいのだが。
はい、とも、いいえ、とも言わず、私はただ首をかしげた。お嬢様は私の仕草を見てけたけたと笑い、「冗談よ、冗談。ほんの余興」と声を笑いに乗せた。広い部屋の中に、不思議とその声は反響するように長く残り、やがて空気に溶けて消えていった。
赤く、蕩けるような空気だった。
密封された部屋、窓のない部屋の中は、白い湯気が薄く広がっていた。この色が紅ければ、かつての春の再現だったのだろう――それともお嬢様は、あえてそうしているのだろうか――実際はそんな物騒なことではなく、ただバスタブの湯から立ち上る湯気が、行き場をなくして漂っているだけなのだが。部屋の紅い壁と湯気の白が混ざって、空気は薄紅色に染まっていた。
冗談といえば、それこそ冗談のような光景なのかもしれない。
吸血鬼が浴身を楽しむというのは。
本人曰く「流れていなければ敵ではないわ」とのことなので、シャワーといった便利な器具はついていない。八坂神社には河童に技術提携されて完全自動化された風呂場があるらしいが、ここ、紅魔館においてはいまだに前時代的である。大きく白いバスタブ、波々と注がれたお湯、水面を覆う白い泡。バスタブを天蓋つきベッドのように囲うカーテンは布製で、洗濯に気をつかわなければならない一品だった。
そして、バスタブの裏面に描かれた火の魔術印。なんともはや、前時代的な魔女的代物だ。
「余興にしては悪趣味だわ。魔女にとってはその境目は大きなものよ」
その魔女的代物を作り上げた、前時代的な魔女――パチュリー・ノーレッジは、ちゃぷりと湯の表面を撫でながら言った。肩から上、むきだしになった白い肌が、今はほのかに紅くなっていた。
満月の夜。
余興を――湯浴みをする主とその友人を、私は少し離れたところから見守っていた。バスタブに深々と身をしずめ両足の膝を縁にかけて外に出してくつろぐ吸血鬼と、わざわざ防水加工した本を読みながら湯につかる魔女の組み合わせは、確かに余興、余暇というに他はなかった。どこで知識を仕入れてきたのか、お嬢様の右手にはワイングラスが握られている。和洋折衷な気もするが、本人が気にしていないので良しとした。
私は、その二人の隣にいなかった。
衣服を脱ぎ、裸身になって湯の中にいる彼女たちから、三歩離れたところに立っていた。己の意義たる従者服のまま、片方の手にタオルを持ち、傍にひかえていた。それがメイド長たる私の役目だからだ――『長』のやるべきことではないのかもしれないけれど、お嬢様がそれを望まれたのだから仕方がない。
それで良い、と私は思う。
心の底から、かけねなく、それだけで良いと思うのだ。
それこそが私なのだから。
けれどお嬢様は、それが不服らしく、私をすがむように見て、言ったのだった。
人間をやめてみる、と。
はい、とも、いいえ、とも答えなかったのは、そのどちらでも構わないと思ったからだ。彼女が望むならばどちらでも良いと思った。この身は悪魔の犬であり、この体は吸血鬼の従者であり、この名は十六夜 咲夜なのだから。
魔女のように悩むこともない。私の心は揺れることなく固まっている。完全に瀟洒な従者。それが私だ。
だから。
「そうね。だって咲夜は――」
続くお嬢様の――どこか退屈そうな――言葉を聴いても、私は一切動揺することはなかった。
「――もうヒトじゃないものね」
心の揺れ動く音は、聞こえなかった。
あなたへの月
紅魔館の朝は遅い。
館に住まう人間はただ一人であり、あとは魔女、吸血鬼、妖精で構成される紅魔館は、基本的に夜型の生活規則で動いている。そのため皆が動き始める『朝』というのは、一般的な外とは異なり、月が昇り始める時刻を指す。太陽が出ている時間は、紅魔館は眠りについている。
もっとも、生活リズムが規則正しいヒトなどいないので、いつもそうとは限らないが。窓が少ない紅魔館においては、吸血鬼も昼間に動く。最近では日傘を差して外すら出歩くので、従者としては気が抜けない。時間をとめることができなければ、とうの昔に過労で倒れていただろう。
――いえ、ヒトでないのなら、それくらいで倒れないのかしら?
ふいに頭に浮かんだ疑問に、私は足を止めて考え込む。時刻は五時を過ぎたあたり。外では太陽が沈みかけ、夕焼けの紅に染まりつつあることだろう。窓がないため薄暗く、常に紅色の紅魔館の内が、もっとも外と近くなる時間。
逢魔ヶ刻。
魔――吸血鬼の姿はここにはいない。薄暗い廊下に立つのは私だけだ。昨晩が満月だった為、今日は遅くまで眠り続けることだろう。勝手気ままな妖精たちが時折姿を見せるくらいだ。
さしせまってやることもなく、私はたっぷりと思考にふけることができた。昨晩、お嬢様に言われた言葉を。
「ヒトじゃない、ねぇ。そうなのかしら?」
独りごちてみるが、当然誰の答えもない。仕方がなく、自分の問いに自答してみた。
「そうかもしれないわ」
あっさりと答えは出た。
そうかもしれない。そうなのかもしれない。否定する材料はどこにもなく、否定する意味もなかった。
私たちの住む幻想郷は特異な空間だ。外の世界から切り離され、外の世界で失われたものの詰まった楽園。人間よりも、人間以外のモノの方が多い環境において、いつまでも自分だけが人間でいられるはずもない。
寝ている間にお嬢様に血を吸われて、知らぬ間に吸血鬼になっていたとしてもおかしくはないのだ――そんな蚊のようなまねを、プライドの高い彼女がするとは思えないけれど。
「それ以外にもヒトを止める方法はある」
そうだ。いくらでもある。復讐の念にかられて鬼と化す人間もいるし、半分死ぬことで半霊半人と成ることもあれば、完全に死んで亡霊となることもある。崇め奉られて現人神になる子もいれば、魔法を極めるために人間をやめる子もいる。問題があるとすれば、そのどれに、あるいはそれ以外の何になっているのかわからないことくらいか。
いや――違う、そうではない。
私はそもそも、人間ではないのだ。
悪魔の犬。
それが、私だ。
十六夜 咲夜という名前を得たときから、私はとうに、ヒトをやめているはずではなかった。
「そうすると……私は何なのかしら?」
自分でも間抜けと思う疑問が口をついて出た。犬なのか。犬度は低いと以前に言われた気がする。いや、あれは猫度だったか。猫よりは犬のほうが近いに違いない。そのわりには耳もなければ尻尾もないし、わんと吼える口もない。
では、何なのだろう。
「――――――」
おかしなものだった。自分のことなのに、自分が一番わからなかった。そして私は気づいていた――そのわからないことを、自身が重要視していないことを。優先順位の低い、どうでもいいことなのだと、完全に切り捨てている『私』がいた。今は思考が空いているから考え込んでいるだけで、仕事が始まればこうした悩みもすぐにどこかへ消えることだろう。
切り捨てて、割り切っている。
自分のことを。
そしてやはり、それこそが『私』だと考える私がいた。
「成る程。鬼の言うことも一理あるわ」
終わらない宴会の夜に、鬼がいったことを思い出す。あの鬼は確かに嘘はつかなかった。
いまさらのように、私は気づく。
――私は、『私』のことなど、どうでも良いのかもしれない。
悪魔の犬であれば、吸血鬼の従者であれば。完全に瀟洒なメイドであれば。
誰かを照らす月であれば、それでいいのかもしれない。
そう、思って。
「――――あ、」
考え事をしていたせいだろう。わずかに反応が遅れた。薄暗い通路の先、T字路になったそこを、黒白の魔法使いが飛び去っていくのが見えた。黒い姿は闇の中にすぐに消えてみえなくなり、わずかに空気の流れが残るだけだった。
人間の魔法使い、霧雨 魔理沙。
彼女は満月の翌日は静かだということをどこかで知って、この日には頻繁に訪れるようになっていた。実害はあるような、ないような。大抵図書館にいって本を盗んだり調理場にいって盗み食いをするだけなので、お嬢様には害がないとはいえる。埃をかぶった居候に文句を言われるかもしれないが、生憎と私は魔女の従者ではない。
いつもなら道中で立ちふさがり追い返すか、最初から無視を決め込んでいた。
前者なら今すぐ時を止めて移動すればいい。後者ならこのまま放っておけばいい。
私は――
「――――――」
私は、そのどちらも選ばなかった。時を止めることも、踵を返すこともしなかった。静かにその体を宙に浮かせ、足音なく飛んだのだ。魔理沙が消えたほうへと、その黒い背を追って。
自分でも不思議だった。そうする意味はどこにもない。素直に追い返すか、放っておけばいいのに、先まで考えていたことが、考えていた心が、私の体を押すように突き動かしていた。
私らしくもない、変なことを考えていたせいだろう。私は何か、と。ヒトなのか、と。そんなことを考えていたから――妙に気になってしまったに違いない。
同じ人間である彼女のことを。
多分、
誰もよりも人間的な、霧雨 魔理沙のことを。
「この行動は私らしい? 私らしくない?」
自問するが、答えはなかった。
向こうもしのぶように静かに飛んでいたため、すぐに見失った背中を捉えた。気配を殺し、気づかれないよう距離を置いて後を追う――どうしてそんなことをするのかは、やはり自分でもよくわからなかった――やがて彼女の行き先が図書館だと気づいたとき、私の指先は自然に動いていた。
いまさらだが、私の持つ能力は、時を操る程度の能力だ。
時間と、そして空間を操る能力。見かけよりもずっと広い紅魔館は、この能力によって形作られている。だから当然、やろうと思えば、こんなこともできるのだった――――
†
扉を開けたら部屋があった。
「――――へ、」
それ自体は、おかしなことではない。あけた扉が図書館へとつながる扉でなければ、そして開けた扉の先にあったのがこじんまりとした部屋でなければ、ごく当たり前の光景であるはずだった。
扉の先にあったのは、ごく普通の部屋だった。人一人が使う、小さな部屋。ひどく生活臭のない、最低限生きるための部屋だった。窓はない。部屋の正面には壁に沿うようにして簡素なベッドがあり、扉の脇には棚と鏡台があり、その奥、部屋の隅には小さなクロークがおかれている。そのすべてが、ランタンの薄紅色の光に淡く照らし出されていた。
それだけだった。
眠るための部屋、眠りから覚めて最低限整えるためだけの部屋。何かが欠けているその部屋は、今までに一度としてみたことがないものだった。だからこそ驚愕し、
反応がおくれた。
「、ぅ、わ――――っ、あ、あ?」
扉をあけたまま硬直する体を、後ろから押された。踏ん張ることもできず、体勢をくずして二、三歩つんのめるように前に進み、最後まで体勢をたてなおすことなく、前のめりにベッドへと倒れこんだ。ぼすん、と軽い音がする。シーツのしかれたベッドは、簡素な見かけから想像できないほどに柔らかかった。
同時に、ぱたん、と扉の閉まる音がした。
ひしひしといやな予感に襲われながら、魔理沙はベットの上で寝返りをうつようにして仰向けになり、足の先――内側から閉ざされた扉と、その前に立つ少女の姿を見た。
「…………咲夜?」
「今晩は」
いぶかしげに問いかける魔理沙に、咲夜は普段と変わらない落ち着いた声で挨拶をし、小さく頭を下げた。礼儀正しい挨拶――に見えるが、先程背中を押したのが彼女であることは疑いようもなかった。
どういうつもりだ、と魔理沙は問いただそうとし、けれどそれよりも早く、頭をあげた咲夜は横にかしげて、
「――でいいのかしら? それともおはよう?」
とぼけたように、そう言った。
「…………」
それがとぼけているのでもふざけているのでもないことに薄々気づいているからこそ、魔理沙は言葉に詰まった。
完璧に瀟洒な従者、ただしどこか抜けている。
短いとはいえない付き合いで、魔理沙が咲夜に対して得た印象はそれだった。欠点だらけの魔理沙にとって、彼女はひどく大人びた――とうよりも完成した――人間に思えるのに、時折信じられないくらいにピントのずれたことを言う。
――この状況も、そんなずれた行動なのか。
道を間違えた覚えはなかった。くぐったのは図書館に通じる扉だったはずだ。散々忍び込んだ館だ、目をつぶってでもたどり着くことはできる。
誰かが故意にいじくらない限りは。
そういうことができそうな知り合いは何人かいるか、今この状況においては、目の前の相手で間違いないだろう。それを証明するように、咲夜は扉を開けることなく、逆に一歩、魔理沙へと歩みよってきた。
ベッドまで、あと三歩。
三歩分の距離しか、隔てていなかった。
「な――なんだよ、咲夜。何か用があるなら――」
「用、というほどのものでも、ないのだけれど」
魔理沙の言葉をさえぎって、咲夜の声が小さな部屋に響く。あまりにも淡々とした、普段どおりの声。あまりもの自然さに、逆に魔理沙は危機感を覚え、とっさに咲夜の両手を見た。そこにナイフが握られているのではないかと危惧したからだ。とうとう自分を退治することにしたのだろうか――そう思っての視線だったが、咲夜の手には何も握られていなかった。
いつもどおり。
いつもどおりのまま、咲夜は、さらに一歩を踏み出した。
ベッドまで、あと二歩。
二歩分の距離しか、隔てていない。
「用がないのなら、私は帰るぜ――」
「貴方に聞きたいことがあるのよ」
なにか、まずい――頭の中で警鐘がなるのを魔理沙は確かに聞いた。見たかぎり今の咲夜はいつもどおりだが、それでもどこかいつもとは違う。よくわからないし、言葉にもできないが、なにかが違う。そして魔理沙の見るかぎり、咲夜はその微妙な差異に気づいていない。
満月と十六夜ほどに、わずかな差異。
注視しなければ気づくことのできない、わずかな欠落。
その欠落に気づかないまま、咲夜は、さらに一歩を踏み出した。
ベッドまで、あと一歩。
一歩分の距離しか、隔てていない。
「――――――」
「ねぇ、魔理沙」
距離といえるほどの距離を隔てず、手を伸ばせば届くほど近くに寄る咲夜に、魔理沙はとうとうかける言葉を失った。逃げるべきだ、と頭のどこか冷静な部分が囁くが、体はうまく動いてくれない。じり、じり、と自律を失った手足が後ろへと体をおしやるが、ベッドの上では遅々として進まない。進めば進むほど扉は遠くなり、こつん、と頭が壁に触れた。
十六夜 咲夜は。
止まることなく、真顔のままに、最後の一歩を踏み出した。
ベッドまで、零歩。
わずかの距離すら、隔てていなかった。
ぼすん――軽い音と共に、咲夜の両膝がベッドに沈んだ。同時に両の手が、魔理沙の首の両側に下ろされた。ベッドに仰向けになった魔理沙は、両脇を咲夜の手足に挟まれ身じろぎすらできない。
そうして、
すぐ真上に、咲夜の顔があった。
覆いかぶさるように――押し倒すようにして、一歩分の距離を隔てることもなく、咲夜がそこにいた。体は触れていないのに、その重みを魔理沙は感じた。ぎし、と意識の端で、ベッドがきしむ音を聞いた。感覚だけは鋭敏になっているのに、手足は完全に硬直し、視線をそらすことすらできなかった。
瞳がある。
月のように紅い、わずかに欠けた瞳が――満月のように輝く金の瞳と、視線を絡ませた。
魔理沙は咲夜の瞳に映る自身を見た。
咲夜もまた、魔理沙の瞳に映る自身を見た。
そうして。
吐息がかかるほどに間近で、咲夜は吐き出すように、声を零した。
「貴方、人間?」
†
……私は何をしているのだろう?
自問するが、答えはでなかった。気づいたら、としかいえない。気づいたら。いつのまにか。私は自室にいて、ベッドの上には霧雨 魔理沙がいて、私は彼女を押し倒しているのだった。
不思議だ。
どうしてこうなっているのか、よくわからなかった。
自分のことなのに――自分のことだから、かもしれない。私は思っていたよりも、『私』のことを知らないのかもしれない。時間を止めても自分の背中は見られないように。何かに映る姿を見なければ、自身を捉えることができないのかもしれない。
貴方は人間、と私は訊いた。
その質問が出た理由はわかる。昨晩お嬢様に似たようなことを言われたからだ。けれど、それがどうして今、私の口から彼女に向かって吐き出されたのかは、よくわからない。不思議な感覚。私は、私でもわからないことをためらいなく行っている。そのことに対して疑問を抱かないのが、何よりも不思議だった。
これこそが私、というには奇妙が過ぎる状況だ。組み敷かれた魔理沙は、暴れることも逃げ出すこともなかった。ただじっと、私の顔を見つめていた。何か変なものでもついているのだろうか。
もう一度、問いかけてみようか。
私は私の意志で口を開き、
「――人間だぜ」
私の意志で声が放たれるより先に、彼女はいった。
はっきりと。
ためらうことなく、自らの意志で、霧雨 魔理沙は断言した。
自分は人間だ、と。
「――――」
私は口を開けたまま――それは多分、一寸間抜けに見えるだろうと思いながら――放つべき言葉を失って硬直した。魔理沙の声はあまりにも明瞭で、何ら疑問を挟む余地がなかった。
強い意志だ。
これこそが私だ、と告げるような言葉だった。
言葉だけではないのだろう。私を見つめ、私の瞳を捉えたまま離さない金の瞳は、まったく揺れることがなく意志を表明していた。彼女の瞳に映る私の瞳のほうが、ともすれば湖面の月のようにゆれているように見えた。
何を言うべきか、わからなかった。
彼女は答えを返した。なら、私も何か言わなければならない。そう思うのだが、二の句は出てこない。呆けたように口を開いたまま、続く魔理沙の言葉を聴くことしかできなかった。
「……少なくとも今は。でも、これから先はわからない、何せ人間だからな――それに、」
私は気まぐれなんだぜ、と言葉を結んで、魔理沙は口を閉ざした。
そう、と頷き、私も口を閉じた。唇がひどく乾燥していて、舌の先で拭うようにして舐めると、ふいに喉の渇きを感じた。やっぱり吸血鬼にでもなっているのかもしれない。
同じことを思ったのかもしれない。魔理沙はやや眉をひそめて、
「お前は――人間じゃなくなったのか? まさか……」
まさか、何だというのだろう。
吸血鬼になったのか、といいたいのだろうか。
そんな、
心配そうな声と目で。
――どうしてそんな顔をするのだろう。
わからないままに、私は答えた。
「さぁ。私自身も、よくわからないのよ。昼間太陽にあたっても平気だったし、銀のナイフも持ったままだけど。ねぇ、魔理沙――私は人間に見える?」
「十六夜 咲夜には見えるぜ。ちょっと変だけどな」
「そう。――貴方の言う十六夜 咲夜って、どんな女?」
「言ったら傷つくから、言わない」
何気に酷いことを言う。それ自体が言っているようなものだ。
まあ何を思ったが知らないが、実際に言われても傷つきはしないだろう。鬼に言われたときも、閻魔に言われたときも、私は傷つきはしなかった。あとになって、成る程そうかもしれない、と納得したくらいだ。
――そう、貴方は少し人間に冷たすぎる。
いつか閻魔に言われたことが、ふいに頭に浮かんだ。あのとき私は、閻魔に対して何と答えたか……そう、そうだ。あのときも、私は自身を人だとは答えなかった。ナイフだと答えた。血の通わない金属こそが自分だと、そう答えたのだ。
なんだ。
つまるところ、答えははじめから出ていたのだ。
私は、
「私にはどうしても、私が人だとは思えないのだけれど――」
だからこそ、犬でも従者でもナイフでもなく。
――ヒトになりたかったのかもしれない。
そのことに気づいた瞬間、私は、自分の心が揺れる音を確かに聞いた。
†
泣いているのかと、そう思った。
けれど、十六夜 咲夜は泣いていなかった。彼女の頬は乾いていた。それでも、ヒトになりたかったのかもしれない、と今にも消えてしまいそうなか細い言葉を聴いた瞬間、魔理沙には咲夜が泣いているように感じた。見た目には何も変わらずとも、遠い場所で泣いている子供のように見えた。
なぜ泣いているのかも、きっとわからないままに。
――不器用なんだ。
魔理沙は思う。十六夜 咲夜は不器用だ。誰よりも完璧で瀟洒なのに、抜けていることに――欠けていることに気づかない。失ったのでもなく足りないのでもなく、欠落している箇所に気づき得ない。
彼女は、十六夜なのだ。
満月から少しだけ欠けた月。
欠けていることに彼女は気づかず、疑問にも思わない。欠けたことに気づくのは見ているほうだけで、だからこそそれが痛々しくてたまらなかった。
十六夜 咲夜は、泣かないだろう。
泣くだけの理由が、彼女には欠けているのだから。
「――咲夜はさ、人だよ」
気づけば。
言葉は、自然に口から漏れていた。自分でも驚くほどに優しい声。音のない――互いの息遣いと、鼓動の音しか聞こえない静かな部屋に、その声はゆっくりと満ちていく。
声にひかれるように、魔理沙の手は咲夜へと伸びていた。すぐ傍、声と共に息が触れるほど近くにある、咲夜の頬に、白い指先が恐る恐る触れた。
咲夜は、拒まなかった。
逃げることもなく、視線をそらそうともしなかった。
ただ、不思議そうに、
「そうかしら」
「そうだぜ。お前が人じゃなかったら――何なんだ」
「閻魔には、ナイフだと答えたわ。私は冷たすぎると言われたから」
指先がけなげな勇気を振り絞って動く。咲夜の輪郭をなぞるように指は動き、頬を手のひらが撫ぜてゆく。耳にかかった白銀の髪が柔らかな動きでゆれた。
触れた指の先は、暖かかった。
人間のように、暖かかった。
「……暖かい」
「魔理沙の手が、冷たいだけかもしれないわね」
不思議そうな顔をしたままに――けれど、瞳だけが、紅く爛々と揺れて魔理沙を捉えて離さず――咲夜は言い、その言葉を聴いた魔理沙の顔に笑みが浮かぶ。
「私は、人じゃないか?」
「さぁ――」
――確かめてみないことには、わからないわ。
言葉は途中で途切れた。わずかに残った距離を、どちらからともなく埋めたからだ。三歩分の距離が零へと変わる。隙間はない。唇がふれあい、体温が交わり、吐息が重なる。唾液にぬれた唇が、ランタンの炎を浴びてぬらぬらと薄紅色に輝いた。
魔理沙は、目を瞑らなかった。
咲夜は、目を瞑らなかった。
二人は月を見ていた。揺れる月が、混ざり合い、欠けたところのない月になるところを、ただ見詰め合っていた。
互いの熱を感じながら。
(了)
でも、貴方ならこのテーマをこういう解決/慰めよりももっとえげつなく書けるんじゃないかとも思うんです。
(1:36コメント)
と申しておりましたが、後書きを読んでタイトルのモチーフを把握しました。
まぁ咲夜さんが人間辞めたら完全にDIO様になっちまいますねw
あとしがない法則性ですけど、
東方の銀髪組はミディアンじゃないけどヒューマンじゃない方が多いんですよねぇ・・・
こいつぁグレイト!
人間としてギリギリのラインを歩く咲夜さんと魔理沙、何処か似たもの同士なのかもしれませんね。
相手を試すようなふれあいが、ウェットで素敵な雰囲気を醸し出してるお話でした。
そして後日談がパチュレミになりがちなのは咲マリの伝統ですかねw
だが読みにくい・・・
改行をちゃんとしてくれるとありがたいです。
落ち着いて読み直したら、素直に良い話じゃないですか。
うん、咲夜が実に咲夜らしい。
何より登場人物たちの距離感が好きです。
もっとやれ