高高度におけるダイナミクスは、地上のそれと決定的にスケールを異にする。
主役を張るのは、地球規模の気流である。
地上では建造物や地形に相当する大きさの雲が、生物のように生まれ育ち消える。
それらの間では、一発が地上では災害に匹敵する大電圧が、湯水の如くやりとりされる。
例えば、地上の取るに足らない異物が一点紛れ込んだとしても、空は何も変わらない。
それがたとえ、本質的にその空とあり方を異にする物であったとしても、一顧だにされないのだった。
紫電の暴圧が行き交う中を、リリーホワイトはただ上だけを目指して飛んでいた。
冷たく乾いて透明で、自分の好きな季節のそれとは徹底的に異なる大気。この空は彼女の居場所ではない。
ただ、その上空から僅かな春を感じて、それでリリーは翅を動かしていた。
遅すぎた今年の春。ようやく感じられたその気配は、どうしてあんなに酷く高い所にあるんだろう。
その行為はささやかに過ぎて、恐らくは何の結果ももたらさない事は、リリー自身にすら分かり切った事だ。
視界が閃光に覆われた。
舌の上に火花が飛ぶ感覚があった次の瞬間に、全てが分からなくなった。
モンシロチョウの翅は根本から焼け落ち、引き攣った全身の筋肉は強烈な不快感を訴え、そのまま力を失った。
緩慢に、身体が重力に引かれ始める。
ささやかな行為が、やはり何の結果も生まず無に帰しつつある中で、リリーは小さな手を空に伸ばした。
次に目が覚める時には、地上にもちゃんと春が来ていてほしいな。
そのささやかな願いすら、この空の下では消え入りそうだった。
春の力がなければ、傷を負ったリリーの身体は元通りにはならない。
もしこのまま春が永遠に来なかったとしたら。
その時は、リリーが目を開ける事も永遠に無いのだ。
上に向け伸ばされたその手は何も掴まず、何にも届かない、ただ伸ばされただけの手のはずだった。
しかし、その手を掴むものはあった。
「冬の空は、初めてかしら?」
天空の営みからすれば、取るに足らない大きさの存在である事は変わらずとも。
それを自覚してなお、空を居場所とする者もまた在る。
「よくやるのよ。こうして宛てどもなく、雲の間を彷徨うの」
レティ・ホワイトロックはそう言って、リリーを胸に抱いたまま、背面飛行を披露した。
耳がびゅうと風を切る。
「気流に煽られて、上空の寒気と混じりあい、雪の結晶がゆっくりと成長していくのを、ただのんびりと眺めるわけ」
背面を真下に向け、面積が最大になったその瞬間に合わせるように、強烈な上昇気流がそこを薙いだ。
風圧が二つの身体を一気に押し上げる。
続けて吹いた横風は、逆に身体を横にして受け流す。
風の吹く予兆を的確に拾っている。
続けて一手、また一手。
最小限の力で、着実かつ大胆に高度を稼いでいく。
上昇気流に沿って雲が出来る。時には雲の壁に沿い、雲の凹凸を回りながら二人は飛んだ。
「地上から見る空はいつも清々しく見えるけど、実際に飛んでみてもそうなのはこの季節だけよ。他の季節は気温が高いぶん湿度も高くて、雲に近づいたりしたらびしょ濡れになっちゃう」
さきにリリーを打ち落とした雷だが、今となっては問題にならなかった。
レティが選ぶ経路は、常に稲妻の通り道から外れている。
「もひとつ、雪を被った山々の眺めがあれば完璧ね。と、不服だったかしら?」
胸に抱かれたリリーの顔を、レティは覗き込んだ。
リリーは唇を噛んで、鼻の頭を赤くしていた。
冬の妖怪と春の精、せめぎあう二つの季節の縮図にも見えた。
今は、圧倒的な優位が冬にある。
「春は――」
「分かってる。近いようね」
舌足らずなリリーの言葉を、レティは早々に遮った。
春は近い。リリーの背、翅の焼け残った部分に、微かに光が走っている事から察せる。再生が始まっているのだ。
しかし、である。
「どう、して?」
春は近い。
しかしそれは、レティにとって何を意味するか。
彼女はずっと冬が続けば良いと考えているのではないか。
「さあ、どうしてかしら」
レティは答えなかった。
曖昧な笑みだけを残し、顔を前向きに戻した。
「春は近い、と。けど」
すんすんと風の匂いを嗅ぐと、レティは顔を曇らせた。
その表情が暗示した通りに状況が流れるのに、時間はさほど掛からなかった。
実のところ、レティが予見していたのは天候の崩れである。湿度の高い空気が混じりはじめている。
「高度はこの辺、でいいのね」
リリーは頷く。
そこは、無数の雲塊が浮かんでいる只中だった。
地上から見たら羊雲だろうか。間近でみる雲塊は一つ一つが民家ほどもあり、羊とは似ても似付かなかった。
さらに性質の悪さもその名にそぐわない。入り組んでいて視界が確保しづらく、このままでは行動が取り辛い事この上ない。
「上下の厚みはそんなに無いか。遠回りになるけど、ひとまず上に出るわ。いいわね」
雲を見下ろす位置を取るのが最善手だ。
「いい子だから」
にわかに悲しそうな顔を見せたリリーを宥め透かす。
待望を前にしてリリーは、気持ちを抑え切れなくなっている。
天気が崩れつつあるのは、肌で感じられた。
羊雲はその末端でしかない。
末端が連なる本体が何かは、雲海の上に出てみれば瞭然だった。
レティは巨大な暗雲の塊を見て、それから首を上に上げ、それが遥か上まで続いている事を確かめて感嘆した。
「道理で、これは、大物ね」
それは雲には違いなかったが、尋常でないのはそのスケールだった。
底面が人間の里をすっぽり覆う程で、高さはそれと比較にならない位に高い。
雲の塔、あるいはいわゆる入道雲である。
天の遥か高みまで伸びているというのに、その重苦しさもまた周りの雲を凌駕している。
というよりも、塔を中心とした集中線の上で、全ての雲が生成消滅を繰り返している。
傾いた天候がすべて一点、その奈落に向かって滑り落ちているかのよう。
遠くに目を遣れば、青空は相変わらずに広がっている。
レティたちは今、まさに悪天候の中心を臨んでいた。
「あそこ」
リリーの腕がゆっくりと上がり、指がその一点を指す。
「ちょっと、冗談でしょう?」
リリーは腕を下ろさない。
指差す先は真正面、入道雲の基を為す雲である。
広がる雲の中でも、最も暗い部分だ。
「あそこ、春が、ある」
「えっとね、常識から言えば、そんなはず無いんだけど。あそこには雷と雹だけしかないの。他のモノがあったとしても、数秒でバラバラになってしまうわ。まして春なんて、とても」
リリーは聞く耳なく、ふるふると首を振る。
「何かの間違いだったのよ。出直しましょ。ここでこうしているのだって、そろそろ危ないわ」
気圧差がそこここに生じ、風は出鱈目に吹く。
むくむくと膨らんだと思った雲が次の瞬間には砕かれ、せわしなく雲の版図が書き換えられていく。
そして、ひときわ大きく風がうねった。
不意打ちに、レティの腕が緩む。
リリーの身体が、宙へと向けて放り出た。
くるくると数回螺旋運動をしたリリーの身体が、その後心細げに安定姿勢を取った。
よく見れば、既に翅が半分ほど再生している。
リリーは、自らの意思でレティの許を離れたのだ。
揚力は明らかに充分でない。それ以前に、行為自体が自殺行為だ。
「ッ、まったくこれだから妖精は!」
レティは直ちにそれを追った。
気圧差に捕えられ、飛行の自由が利かなくなりつつあるのを感じる。
構わず、顔を前に向けた。
その目に一瞬だけ、暖色の光が映り込んだ。
「え?」
まさにリリーが目指した雲が、一瞬裂け目を見せたように見えたのだ。
冬の空の常識から言えば、そこには雷と雹しかないはずである。
何かの間違いか。或いは、本当にそこに何かあるのか。
しかし判断を鈍らさないために、その事をレティは敢えて頭から追い出した。
なりふり構わず速度を上げると、リリーには簡単に追い付けた。
代償として、低気圧の中心に向かう気流に完全に捕えられていた。
「お人好しねえ、私ってば」
胸に抱いたリリーに、わざと聞こえるように言った。
リリーは再び泣きそうになる。
「いじめ甲斐、ありすぎなの、貴女は」
それきり、腕の力をめいっぱい強めて、自身も顔を埋める。
それでも不十分な程に、乱れた気流が二人を揉みくちゃにする。
そしてそこに雹までもが混じり始めた。
ルールの上では、ゲームオーバー。
レティの知る、冬の空の約束事からすれば、あとは雷に打たれるか、ダウンバーストで地表に叩き付けられるのを待つ事しかない。
幸いここにいるのは妖怪と妖精。死にはしない。
このまま目を瞑って、再び目を開けられる時を待つとしよう。
そして、音が消えた。
「あ……れ?」
何故、今、音が消えるのだろうか。
終わりが来たのかとも思ったが、気は確かにあるし、あの世行きになったのでもないようだった。
気が付くと、全身の加速度と三半規管への揺さぶりもぱたりと静まっている。
レティは考える。雄大積雲の勢力圏に捕らえられた成れの果てに、どこかに辿り着いたのか。否。レティの経験は、雲の中は以ての外、冬の空の何処にも、こんな場所は無いと主張する。
凪のような無風。適度な湿度。そして。
「暖かい?」
そう、まるで。
何だろう。
分からないから、そうだ。
目を開けてみればいい。
眩しさを堪えながら、翳した手を外すと。
そこは、雲が開けて出来ていた。
空に据えられた4本の柱が暖気を纏い、足元の雲海を踏みしめているのだ。
シャボン膜のように揺らぐ巨大な天幕が、その柱の先には張られていた。
暖気は、ここと似ていて、それでいて決定的に違うとある場所との境に掛けられた、その天幕が揺らぐたびに、その隙間から吹き込んでいた。
上の方でも、暖気は雲の天蓋を打ち払いつつある。
その切れ目から、琥珀色の陽光が差し込んでいた。
自身も暖気に吹き付けられたレティは、その中に桃色のついた小さな何かが混ざっているのに気付いた。
桜の花びらだった。
「そっか」
レティは理解した。
「ここだけ、春なんだ」
レティに理が分かるはずもなかったのだ。
極小の花弁を除けば、風物詩の類は何もないはずの風景なのに、強く感じた。
春。姿を隠さないといけないな、などと条件反射で思ってしまったりもした。
「ほら、あったわよ、春!」
言って傍らを見ると、はぐれる事なくリリーはそこにいた。
翅が完全に復元されて尚、直視するに眩しい程の夥しい光が体表面を走っている。
陶酔するように、しばし光景を眺めていたリリー。
意を決したように目を瞑ると。
くるりとそれに背を向けてしまった。
「ちょっと、どうしたの。ここに来たかったんでしょ?」
リリーは小さく首を横に振る。
レティには意図が掴めない。
「春は、ここにある」
リリーが眼差したのは、眼下の雲海と、その向こうの地上だ。
「だから、告げにいかないと」
ああ。
そうだった。この娘はこういう妖精なんだ。
何故か、大笑いがしたい気分に駆られた。
そうせずに、代わりにリリーの帽子を外して頭をくしゃくしゃと撫でた。
眼下はまだ重苦しい雲に覆われていたが、何やら普段よりも騒々しい感じがする。
よく見ていると、そこでぱっと何かが咲いたのが見えた。
レティはそれに見覚えがある。
臙脂の四角い二重の陣、あるいは結界。終わらない冬に浮かれていたレティを、少し前に問答無用で打ち落としたのがあれだ。
使い手の顔を思い浮かべて、レティは思い至った。
「あれに春を告げてあげなさい。ここにこうして春がある事をね。そうすれば、数日中にきっと冬は終わるわ」
間違いないだろう。これで、長すぎた冬は終わるのだ。
もう自分の出る幕は終わりである事が、レティには分かった。
帰るにはどうしよう。などと思案する必要もない事が、よく見ると明らかだった。
なおも勢力を増す暖気の前に、雲は大分切れ切れになっていて、容易く外に出られる事だろう。
背中にリリーの目が注がれているのは、分かっていた。
「どう、して」
先程ははぐらかしたその質問。
今も答える義理はないが。
「妖怪は、自然に逆らったりはしないのよ。ちょっと打ち落とされて頭が冷えたら、まあ冬ももう沢山かなって。私も私なりにこの異変を調べてみよう、って気持ちが沸かなくもなかったっていうか。季節っていうのは、始まる予兆から、終わりの物悲しさまで、全部合わせてその季節だと思わない?」
独り言に近い。とりとめのない言葉を連ねてみた。
「はあ、もう、いきなり春の陽なんて浴びせられたから眠くて仕方ないじゃない。がんばってね、私はもう少しだけの冬空を、せめて精一杯満喫させて頂くわ」
なおもリリーは引き止めたかったのだろうか、何かを言おうとしたが、言葉が浮かばないようだった。
レティはそれきり振り返る事なく、空の向こうへ消えていった。
下から吹き上がる風はなおも冷たく、びゅうびゅうと音を立てている。
リリーは春の気をいっぱいに吸い込んだ。
この春も、しっかり持っていって伝えよう、とばかりに。
そして両手をいっぱいに広げ、リリーは冷たい大気へと飛び込んでいった。
主役を張るのは、地球規模の気流である。
地上では建造物や地形に相当する大きさの雲が、生物のように生まれ育ち消える。
それらの間では、一発が地上では災害に匹敵する大電圧が、湯水の如くやりとりされる。
例えば、地上の取るに足らない異物が一点紛れ込んだとしても、空は何も変わらない。
それがたとえ、本質的にその空とあり方を異にする物であったとしても、一顧だにされないのだった。
紫電の暴圧が行き交う中を、リリーホワイトはただ上だけを目指して飛んでいた。
冷たく乾いて透明で、自分の好きな季節のそれとは徹底的に異なる大気。この空は彼女の居場所ではない。
ただ、その上空から僅かな春を感じて、それでリリーは翅を動かしていた。
遅すぎた今年の春。ようやく感じられたその気配は、どうしてあんなに酷く高い所にあるんだろう。
その行為はささやかに過ぎて、恐らくは何の結果ももたらさない事は、リリー自身にすら分かり切った事だ。
視界が閃光に覆われた。
舌の上に火花が飛ぶ感覚があった次の瞬間に、全てが分からなくなった。
モンシロチョウの翅は根本から焼け落ち、引き攣った全身の筋肉は強烈な不快感を訴え、そのまま力を失った。
緩慢に、身体が重力に引かれ始める。
ささやかな行為が、やはり何の結果も生まず無に帰しつつある中で、リリーは小さな手を空に伸ばした。
次に目が覚める時には、地上にもちゃんと春が来ていてほしいな。
そのささやかな願いすら、この空の下では消え入りそうだった。
春の力がなければ、傷を負ったリリーの身体は元通りにはならない。
もしこのまま春が永遠に来なかったとしたら。
その時は、リリーが目を開ける事も永遠に無いのだ。
上に向け伸ばされたその手は何も掴まず、何にも届かない、ただ伸ばされただけの手のはずだった。
しかし、その手を掴むものはあった。
「冬の空は、初めてかしら?」
天空の営みからすれば、取るに足らない大きさの存在である事は変わらずとも。
それを自覚してなお、空を居場所とする者もまた在る。
「よくやるのよ。こうして宛てどもなく、雲の間を彷徨うの」
レティ・ホワイトロックはそう言って、リリーを胸に抱いたまま、背面飛行を披露した。
耳がびゅうと風を切る。
「気流に煽られて、上空の寒気と混じりあい、雪の結晶がゆっくりと成長していくのを、ただのんびりと眺めるわけ」
背面を真下に向け、面積が最大になったその瞬間に合わせるように、強烈な上昇気流がそこを薙いだ。
風圧が二つの身体を一気に押し上げる。
続けて吹いた横風は、逆に身体を横にして受け流す。
風の吹く予兆を的確に拾っている。
続けて一手、また一手。
最小限の力で、着実かつ大胆に高度を稼いでいく。
上昇気流に沿って雲が出来る。時には雲の壁に沿い、雲の凹凸を回りながら二人は飛んだ。
「地上から見る空はいつも清々しく見えるけど、実際に飛んでみてもそうなのはこの季節だけよ。他の季節は気温が高いぶん湿度も高くて、雲に近づいたりしたらびしょ濡れになっちゃう」
さきにリリーを打ち落とした雷だが、今となっては問題にならなかった。
レティが選ぶ経路は、常に稲妻の通り道から外れている。
「もひとつ、雪を被った山々の眺めがあれば完璧ね。と、不服だったかしら?」
胸に抱かれたリリーの顔を、レティは覗き込んだ。
リリーは唇を噛んで、鼻の頭を赤くしていた。
冬の妖怪と春の精、せめぎあう二つの季節の縮図にも見えた。
今は、圧倒的な優位が冬にある。
「春は――」
「分かってる。近いようね」
舌足らずなリリーの言葉を、レティは早々に遮った。
春は近い。リリーの背、翅の焼け残った部分に、微かに光が走っている事から察せる。再生が始まっているのだ。
しかし、である。
「どう、して?」
春は近い。
しかしそれは、レティにとって何を意味するか。
彼女はずっと冬が続けば良いと考えているのではないか。
「さあ、どうしてかしら」
レティは答えなかった。
曖昧な笑みだけを残し、顔を前向きに戻した。
「春は近い、と。けど」
すんすんと風の匂いを嗅ぐと、レティは顔を曇らせた。
その表情が暗示した通りに状況が流れるのに、時間はさほど掛からなかった。
実のところ、レティが予見していたのは天候の崩れである。湿度の高い空気が混じりはじめている。
「高度はこの辺、でいいのね」
リリーは頷く。
そこは、無数の雲塊が浮かんでいる只中だった。
地上から見たら羊雲だろうか。間近でみる雲塊は一つ一つが民家ほどもあり、羊とは似ても似付かなかった。
さらに性質の悪さもその名にそぐわない。入り組んでいて視界が確保しづらく、このままでは行動が取り辛い事この上ない。
「上下の厚みはそんなに無いか。遠回りになるけど、ひとまず上に出るわ。いいわね」
雲を見下ろす位置を取るのが最善手だ。
「いい子だから」
にわかに悲しそうな顔を見せたリリーを宥め透かす。
待望を前にしてリリーは、気持ちを抑え切れなくなっている。
天気が崩れつつあるのは、肌で感じられた。
羊雲はその末端でしかない。
末端が連なる本体が何かは、雲海の上に出てみれば瞭然だった。
レティは巨大な暗雲の塊を見て、それから首を上に上げ、それが遥か上まで続いている事を確かめて感嘆した。
「道理で、これは、大物ね」
それは雲には違いなかったが、尋常でないのはそのスケールだった。
底面が人間の里をすっぽり覆う程で、高さはそれと比較にならない位に高い。
雲の塔、あるいはいわゆる入道雲である。
天の遥か高みまで伸びているというのに、その重苦しさもまた周りの雲を凌駕している。
というよりも、塔を中心とした集中線の上で、全ての雲が生成消滅を繰り返している。
傾いた天候がすべて一点、その奈落に向かって滑り落ちているかのよう。
遠くに目を遣れば、青空は相変わらずに広がっている。
レティたちは今、まさに悪天候の中心を臨んでいた。
「あそこ」
リリーの腕がゆっくりと上がり、指がその一点を指す。
「ちょっと、冗談でしょう?」
リリーは腕を下ろさない。
指差す先は真正面、入道雲の基を為す雲である。
広がる雲の中でも、最も暗い部分だ。
「あそこ、春が、ある」
「えっとね、常識から言えば、そんなはず無いんだけど。あそこには雷と雹だけしかないの。他のモノがあったとしても、数秒でバラバラになってしまうわ。まして春なんて、とても」
リリーは聞く耳なく、ふるふると首を振る。
「何かの間違いだったのよ。出直しましょ。ここでこうしているのだって、そろそろ危ないわ」
気圧差がそこここに生じ、風は出鱈目に吹く。
むくむくと膨らんだと思った雲が次の瞬間には砕かれ、せわしなく雲の版図が書き換えられていく。
そして、ひときわ大きく風がうねった。
不意打ちに、レティの腕が緩む。
リリーの身体が、宙へと向けて放り出た。
くるくると数回螺旋運動をしたリリーの身体が、その後心細げに安定姿勢を取った。
よく見れば、既に翅が半分ほど再生している。
リリーは、自らの意思でレティの許を離れたのだ。
揚力は明らかに充分でない。それ以前に、行為自体が自殺行為だ。
「ッ、まったくこれだから妖精は!」
レティは直ちにそれを追った。
気圧差に捕えられ、飛行の自由が利かなくなりつつあるのを感じる。
構わず、顔を前に向けた。
その目に一瞬だけ、暖色の光が映り込んだ。
「え?」
まさにリリーが目指した雲が、一瞬裂け目を見せたように見えたのだ。
冬の空の常識から言えば、そこには雷と雹しかないはずである。
何かの間違いか。或いは、本当にそこに何かあるのか。
しかし判断を鈍らさないために、その事をレティは敢えて頭から追い出した。
なりふり構わず速度を上げると、リリーには簡単に追い付けた。
代償として、低気圧の中心に向かう気流に完全に捕えられていた。
「お人好しねえ、私ってば」
胸に抱いたリリーに、わざと聞こえるように言った。
リリーは再び泣きそうになる。
「いじめ甲斐、ありすぎなの、貴女は」
それきり、腕の力をめいっぱい強めて、自身も顔を埋める。
それでも不十分な程に、乱れた気流が二人を揉みくちゃにする。
そしてそこに雹までもが混じり始めた。
ルールの上では、ゲームオーバー。
レティの知る、冬の空の約束事からすれば、あとは雷に打たれるか、ダウンバーストで地表に叩き付けられるのを待つ事しかない。
幸いここにいるのは妖怪と妖精。死にはしない。
このまま目を瞑って、再び目を開けられる時を待つとしよう。
そして、音が消えた。
「あ……れ?」
何故、今、音が消えるのだろうか。
終わりが来たのかとも思ったが、気は確かにあるし、あの世行きになったのでもないようだった。
気が付くと、全身の加速度と三半規管への揺さぶりもぱたりと静まっている。
レティは考える。雄大積雲の勢力圏に捕らえられた成れの果てに、どこかに辿り着いたのか。否。レティの経験は、雲の中は以ての外、冬の空の何処にも、こんな場所は無いと主張する。
凪のような無風。適度な湿度。そして。
「暖かい?」
そう、まるで。
何だろう。
分からないから、そうだ。
目を開けてみればいい。
眩しさを堪えながら、翳した手を外すと。
そこは、雲が開けて出来ていた。
空に据えられた4本の柱が暖気を纏い、足元の雲海を踏みしめているのだ。
シャボン膜のように揺らぐ巨大な天幕が、その柱の先には張られていた。
暖気は、ここと似ていて、それでいて決定的に違うとある場所との境に掛けられた、その天幕が揺らぐたびに、その隙間から吹き込んでいた。
上の方でも、暖気は雲の天蓋を打ち払いつつある。
その切れ目から、琥珀色の陽光が差し込んでいた。
自身も暖気に吹き付けられたレティは、その中に桃色のついた小さな何かが混ざっているのに気付いた。
桜の花びらだった。
「そっか」
レティは理解した。
「ここだけ、春なんだ」
レティに理が分かるはずもなかったのだ。
極小の花弁を除けば、風物詩の類は何もないはずの風景なのに、強く感じた。
春。姿を隠さないといけないな、などと条件反射で思ってしまったりもした。
「ほら、あったわよ、春!」
言って傍らを見ると、はぐれる事なくリリーはそこにいた。
翅が完全に復元されて尚、直視するに眩しい程の夥しい光が体表面を走っている。
陶酔するように、しばし光景を眺めていたリリー。
意を決したように目を瞑ると。
くるりとそれに背を向けてしまった。
「ちょっと、どうしたの。ここに来たかったんでしょ?」
リリーは小さく首を横に振る。
レティには意図が掴めない。
「春は、ここにある」
リリーが眼差したのは、眼下の雲海と、その向こうの地上だ。
「だから、告げにいかないと」
ああ。
そうだった。この娘はこういう妖精なんだ。
何故か、大笑いがしたい気分に駆られた。
そうせずに、代わりにリリーの帽子を外して頭をくしゃくしゃと撫でた。
眼下はまだ重苦しい雲に覆われていたが、何やら普段よりも騒々しい感じがする。
よく見ていると、そこでぱっと何かが咲いたのが見えた。
レティはそれに見覚えがある。
臙脂の四角い二重の陣、あるいは結界。終わらない冬に浮かれていたレティを、少し前に問答無用で打ち落としたのがあれだ。
使い手の顔を思い浮かべて、レティは思い至った。
「あれに春を告げてあげなさい。ここにこうして春がある事をね。そうすれば、数日中にきっと冬は終わるわ」
間違いないだろう。これで、長すぎた冬は終わるのだ。
もう自分の出る幕は終わりである事が、レティには分かった。
帰るにはどうしよう。などと思案する必要もない事が、よく見ると明らかだった。
なおも勢力を増す暖気の前に、雲は大分切れ切れになっていて、容易く外に出られる事だろう。
背中にリリーの目が注がれているのは、分かっていた。
「どう、して」
先程ははぐらかしたその質問。
今も答える義理はないが。
「妖怪は、自然に逆らったりはしないのよ。ちょっと打ち落とされて頭が冷えたら、まあ冬ももう沢山かなって。私も私なりにこの異変を調べてみよう、って気持ちが沸かなくもなかったっていうか。季節っていうのは、始まる予兆から、終わりの物悲しさまで、全部合わせてその季節だと思わない?」
独り言に近い。とりとめのない言葉を連ねてみた。
「はあ、もう、いきなり春の陽なんて浴びせられたから眠くて仕方ないじゃない。がんばってね、私はもう少しだけの冬空を、せめて精一杯満喫させて頂くわ」
なおもリリーは引き止めたかったのだろうか、何かを言おうとしたが、言葉が浮かばないようだった。
レティはそれきり振り返る事なく、空の向こうへ消えていった。
下から吹き上がる風はなおも冷たく、びゅうびゅうと音を立てている。
リリーは春の気をいっぱいに吸い込んだ。
この春も、しっかり持っていって伝えよう、とばかりに。
そして両手をいっぱいに広げ、リリーは冷たい大気へと飛び込んでいった。
こうしてリリーは春を告げに行くんですねぇ。
良い雰囲気のあるお話でした。
面白かったですよ。
春と一緒にラ@ュタも見つかりそうだとうっかり思いました。
冬は寒いけどレティがいなくなるのはさびしいなあ。
雲の中を飛ぶ描写の深い話が読めてよかった。