狂気の定義など存在しない。
その判断は個々人の価値観に委ねられ、規格化など決してされない。
このラインからは狂ってるという明確な線引きはできない。
故に、自覚ある狂人というのも証明することは不可能だ。
曖昧で、定義と言うことすらできないとしても。
狂気を狂気と指摘できるのは結局のところ――己ではなく他人なのだから。
だけれど。
そんな当然のことはわかっているのだけれど。
私は己が狂っていると思う。
狂っていると断じれる。
狂い切っていると言い切れる。
何時から狂っていたのか。
きっと、最初から。
あの少女に出会ったあの瞬間から――私は狂った。
あの子の首を絞める夢を見た。
「……っ」
跳ね起きる。
息は乱れて顔の筋肉は引き攣っている。
正気を――疑う。
己の正気を、疑う。
あんなことは欠片も望んでない。
あんなことをしたこともなければ考えたことすらない。
仮令、狂っても――あんなことは、しない。
あの子を殺すなんて、想像もしたくない。
あの細い首に指を巻きつけて。
力を込めて。
息を断ってしまいたいなんて想わない。
「……何を、考えているんだ私は」
夢より、生々しく想像してしまった。
夢の光景より鮮明に想像してしまった。
だけど、それは夢に肉付けされただけのこと。
なんのことはない、単なる記憶の処理だ。
夢。
ただの夢。そうだと理解はしていても、気分が悪くなる。
吐き気がする。
この手に、あの子の首の感触が残ってるような錯覚。
縁起。縁起なんて非科学的なものは信じていないけど。
科学で非科学も凌駕できると信じているのだけれど。
「――縁起でもない」
夢を操ることはまだ出来ない。
気分が悪い。
何をしても気が紛れすらしない。
だけど、それも今日まで。
明日――あの子を迎えに行くのだから。
「カグヤ……」
戻る。
私の世界に。
色が戻る。
あの日から。
彼女が罰せられたあの日から。
一色ずつ消えていった私の世界。
それも終わる。
彼女に再び出合えれば、色は戻る。
禁薬を作った罪で穢れし土地に落とされたカグヤ。
その罰ももう終わる。
私が負う筈だった罪を全て背負わされた罰ももう終わる。
恐らくは戻れても幽閉される。この世の終わりまで閉じ込められる。
それでも、彼女は戻ってくるのだ。
また、逢えるのだ。
「……今度は」
だから、共に在ろう。
「私も一緒だから……」
この世の終わりまで閉じ込められると云うのなら。
「カグヤ」
この世の終わりまで付き添おう。
あの子の世界が狭い部屋の中だけに、そこに在るのが私だけになったとしても。
「カグヤ――」
あの子が認識できるのが私だけになったとしても――構わない。
気の遠くなる永劫の時をかけてでも。
裁かれなかった私の罪を――償おう。
「…………」
覚悟を決めた。
決めたのに。
己の顔の歪みに気づき、ぞっとする。
手で触れ、指で確かめ、血の気が引く。
私は、笑っていた。
カグヤの迎えは恙無く進む。
使者を率い満月の光を通り穢れし土地に向かう。
何故か邪魔をする帝を名乗る者の軍勢を蹴散らす。
私が出るまでもない。後方で見ているだけ、指示する必要もなかった。
ただの弓矢に剣だけで月人に勝てると思う方がどうかしている。
だのに抵抗を続ける愚かな地上の民を見下ろし――その後ろで老夫婦に抱かれているカグヤを見つけた。
走り出したい。
今すぐにでも駆けだして、抱き締めたい。
月人から見れば僅かな時間だったけれど、私からすれば永遠に思える長い時間。
それだけの時間を離れ離れにされていたのだから。
我慢など出来る筈もない。
だけど、私の足は止まる。
駆けることなど論外で、一歩を踏み出すことも出来ない。
私を止めたのはあの子の顔。あの子の表情。
カグヤは――怯えて、いる。
「……カグヤ?」
何故怯えられるのか、わからない。
今のあの子の力では使者に敵わないというのはわかる。
だけど、そんなのは脅威にならない筈だ。私たちは、ただ迎えに来ただけなのだから。
私たちは、味方、なのだから。
最後の兵士が吹き飛ばされる。
もう、カグヤを迎える邪魔をする者は居ない。
足が、動かない。
あの子に、近づけない。
だって。
あれではまるで。
カグヤは、帰りたくないようで――
「えーりん……っ」
カグヤの声。
動けない。
あの声、助けを求める声。
なのに、動けない。
余計に、動けない。
その名で呼ばれるから、動けない。
『八意××? 言いにくいし、仰々しいわね。そうだ、私が愛称をつけてあげる。
そうね。んー……うん。えーりん。うん、これね。えーりん。えーりんっ。
どう? 私はこれからずっとずっとあなたのことをこう呼ぶわ』
彼女がくれた大切な名。
だから拒絶されてる気がして。
迎えなんて要らなかった。帰りたくなんかなかったと言っているようで。
近づく使者から逃げようとするカグヤ。
その顔に映るのは恐怖だけで、今にも泣き出しそうで。
覚悟――していなかった。
こんな、彼女が傷つくだなんて、考えもしなかった。
連れ帰って、幽閉されて、いつか傷つくと、時間はあると、思い込んでいた。
私のもとに帰って来てくれると、信じ込んでいた。
落ちている穢れし民の剣を手に取る。
誰を斬ればいいのかわからない。
なんで拾ったのかもわからない。
そもそも、何故斬らねばならないと思ったのか――
「いや……っ!」
その瞬間。
理性は役目を放棄し狂気が脳髄を支配した。
赤が広がる。
八意様!? なにを――っ!?
ヤゴコロ?
誰だそれは。
私はエイリン。
彼女がつけてくれた名。
彼女が与えてくれた存在。
それ以上でも、以下でもない。
八意様っ!!
うるさい。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいウルサイ。
そんな別の誰かの名で私を呼ぶな。
もっと。
もっと赤くしろ。
そうだ。私の視界をもっともっと赤く染めろ。
うわぁぁぁぁぁあっ!?
ゴミ屑が、うるさい。
そんな悲鳴みたいな音を出すな。
おまえらはただ赤をばら撒いて止まればいい。
動き回るな。
気持ち悪い。
カグヤを泣かせるしか能が無いくせに、人のふりをするな。
潰れろ。
潰れろ潰れろ潰れろ。
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れて赤を出せ。
それだけの価値しかないのだからそれだけのことをしろ。
「えー……りん……」
静かになった。
それでいい。悲鳴みたいな音を出されては気が散ってしょうがない。
「えーりん……っ」
あとはもう赤を絞り出してばら撒けば
「えーりんっ!」
カグヤが泣いている。
怯えて、震えて、泣いている。
真っ赤だった視界に色が戻る。
「あ……?」
なのに、赤い、まま。
月明かりに照らされた光景は、赤いままだった。
血。
死体。
血。
死体。
血。
死体。
血。
死体。
血。
死体。
それだけ。
それだけしかない。
血溜まりに映る己の姿。
なんだ、この姿は。
返り血に塗れて刃毀れした剣を放すこともできず彼女を見ることすらできずに呆けるこの無様は。
まるで悪鬼だ。
罪人。
この上ない罪人。
禁忌中の禁忌。
法で定められた罪などではなく、感情で咎められる罪などではなく。
生物本能に刻みつけられた原初の禁忌。
ひとごろし。
同族殺し。それも、生きるためでも群れを守るためでもなく、ただただ狂って犯した罪。
なんで、殺したのか、今でもわからない。
「カグヤ」
顔を上げると、びくりと震えるあの子が見えた。
反射的に手を伸ばそうとして、止まる。
手を、伸ばせない。
万に一つもこの手を掴んでくれなどしない。
わかっているのに。わかっているのに手を引き戻せない。
中途半端に上げられた手が止まったまま動かない。
怖がらせるだけ。怯えさせるだけ。彼女の心に刻んだ傷を、さらに深くさせるだけ。
逃げればいいのに。
このまま仲間と呼んだ死体を放りだして逃げてしまえばいいのに。
そうすればカグヤは今までの生活に戻れる。
怯え恐れる月に戻ることもなくなる。
また使者が来るまでの僅かな間であろうと、平穏が戻るのに。
そういうことだってわかっているのに。
私は逃げ出すどころか一歩引き下がることすら出来ないでいる。
嫌になる嫌になる嫌になる。
あさましい己が嫌になる。
縋っている。
守ったふりをして守ってもらおうと縋っている。
カグヤが私の手を取ってくれるって期待している。
この殺戮はカグヤのため?
ああそうだ。
でも間違っている。
怯えるカグヤを守りたかった。
拒絶された怒りをぶつけたかった。
カグヤを泣かせる奴らが許せなかった。
私より地上を選んだカグヤが許せなかった。
狂っていると――自覚する。
カグヤと共に在れないほど狂っていると自覚する。
いつか見た夢。
カグヤの首を絞める夢。
あれは遠からず訪れる現実だった。
私は、このままでは、カグヤを殺してしまう。
不死のカグヤを、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も殺してしまう。
それだけは。
狂っている。
でもそれだけは。
狂っていても。
許せない。
赦せない。
剣の刃を持つ。
柄を握っていては長すぎる。
私は、生きていてはいけない。
一秒でも早くカグヤの前から消えなくてはならない。
カグヤを守りたい。カグヤを傷つけたくない。
これは、これだけは、僅かに残った正気が訴える――私の真実なのだから。
刃を握った拳を振り上げる。
心臓に剣を振り下ろす。
それだけで終わる。
なのに。
剣は私の胸に飛び込んできたカグヤの肩に突き刺さる。
「カグヤっ!?」
すぐに剣を引き抜く。蓬莱の薬の力で傷は消えていく。
だけど、傷は消えても……その時受ける痛みは……
「な、なにをやってるの!? 死ななくても、痛みが消えているわけじゃないのよ!?」
「――だって」
刺された痛みに震えながら、涙を零しながら、カグヤは私を見た。
「えーりんが死ぬのなんて、いや」
剣が、手から落ちた。
カグヤの着物に血が染み込んでいくのが見える。
私が浴びた返り血。
私の犯した罪そのもの。
カグヤが、汚れてしまう。私なんかの罪で、汚れてしまう。
突き放せばいいのに。
剣を握っていた手は痛むけれど、カグヤを突き飛ばすことくらいはできるのに。
「……カグヤ、私は、人を殺したのよ?」
あなたに、守ってもらう価値なんてないのに。
「私を助けてくれたわ」
ただ憎しみを晴らそうとしただけなのに。
「カグヤを、傷つけてしまった」
殺そうとして、しまった。
「あなたの薬ですぐに治るわ」
涙に濡れながら――花咲くような、微笑み。
あぁ、震えながら
壊れながら
笑ってくれるのか
壊して、しまった。
カグヤを、私の愛する少女を。
こんな、血の海の中で笑えるように壊してしまった。
これが――私への罰なのか。
肩が震える。喉の奥が痙攣して止まらない。
笑いを、堪えることが出来ない。
あぁ、これが罰だと云うのなら――喜んで受け入れよう。
どれだけの時間をかけても償おう。
どんなに苦しんでも最期まで付き合おう。
「ねぇカグヤ――」
再び、禁を犯す。
再び、罪を犯す。
ためらいなど最早無い。
迷いなど既に無い。
「もう一度だけ、あなたの能力を貸して」
薬を呑み込む。
苦い。
反射的に吐き出しそうになる。
吐き出せるものか。
これは、誓いなのだから。
生理反応を無視して呑み込む。
「もういいの?」
少女の問いかけに、頷くことで答える。
蓬莱の薬を飲んだ。
これで私はカグヤと同じ体。同じ罪。
満月に照らされる少女を見る。
カグヤはもう笑っていない。心の壊れた少女はもう笑っていない。
次に何時、どのようなことで笑えるのか――私でもわからない。
……治してみせる。いつか、カグヤが普通に笑えるようにしてみせる。
償いなどにはならないけれど。
私の自己満足でしかないけれど。
「カグヤ」
カグヤの手を取る。
永遠に、などと云うのは覚悟を示す比喩表現。
限りある者ではその言葉を全うできない。
だが今ここでは夢想でも幻想でも妄想でもなく、冷たく厳しいただの現実。
「不肖――八意永琳――」
だから私は、その言葉を選ぶ。
「永遠にあなたと共にあることを誓いましょう――姫」
優しく、これ以上壊さぬように抱き締める。
「なんに誓うの?」
「もちろん」
笑わぬ少女に微笑みかける。
「永遠不変なあなたに」
その判断は個々人の価値観に委ねられ、規格化など決してされない。
このラインからは狂ってるという明確な線引きはできない。
故に、自覚ある狂人というのも証明することは不可能だ。
曖昧で、定義と言うことすらできないとしても。
狂気を狂気と指摘できるのは結局のところ――己ではなく他人なのだから。
だけれど。
そんな当然のことはわかっているのだけれど。
私は己が狂っていると思う。
狂っていると断じれる。
狂い切っていると言い切れる。
何時から狂っていたのか。
きっと、最初から。
あの少女に出会ったあの瞬間から――私は狂った。
あの子の首を絞める夢を見た。
「……っ」
跳ね起きる。
息は乱れて顔の筋肉は引き攣っている。
正気を――疑う。
己の正気を、疑う。
あんなことは欠片も望んでない。
あんなことをしたこともなければ考えたことすらない。
仮令、狂っても――あんなことは、しない。
あの子を殺すなんて、想像もしたくない。
あの細い首に指を巻きつけて。
力を込めて。
息を断ってしまいたいなんて想わない。
「……何を、考えているんだ私は」
夢より、生々しく想像してしまった。
夢の光景より鮮明に想像してしまった。
だけど、それは夢に肉付けされただけのこと。
なんのことはない、単なる記憶の処理だ。
夢。
ただの夢。そうだと理解はしていても、気分が悪くなる。
吐き気がする。
この手に、あの子の首の感触が残ってるような錯覚。
縁起。縁起なんて非科学的なものは信じていないけど。
科学で非科学も凌駕できると信じているのだけれど。
「――縁起でもない」
夢を操ることはまだ出来ない。
気分が悪い。
何をしても気が紛れすらしない。
だけど、それも今日まで。
明日――あの子を迎えに行くのだから。
「カグヤ……」
戻る。
私の世界に。
色が戻る。
あの日から。
彼女が罰せられたあの日から。
一色ずつ消えていった私の世界。
それも終わる。
彼女に再び出合えれば、色は戻る。
禁薬を作った罪で穢れし土地に落とされたカグヤ。
その罰ももう終わる。
私が負う筈だった罪を全て背負わされた罰ももう終わる。
恐らくは戻れても幽閉される。この世の終わりまで閉じ込められる。
それでも、彼女は戻ってくるのだ。
また、逢えるのだ。
「……今度は」
だから、共に在ろう。
「私も一緒だから……」
この世の終わりまで閉じ込められると云うのなら。
「カグヤ」
この世の終わりまで付き添おう。
あの子の世界が狭い部屋の中だけに、そこに在るのが私だけになったとしても。
「カグヤ――」
あの子が認識できるのが私だけになったとしても――構わない。
気の遠くなる永劫の時をかけてでも。
裁かれなかった私の罪を――償おう。
「…………」
覚悟を決めた。
決めたのに。
己の顔の歪みに気づき、ぞっとする。
手で触れ、指で確かめ、血の気が引く。
私は、笑っていた。
カグヤの迎えは恙無く進む。
使者を率い満月の光を通り穢れし土地に向かう。
何故か邪魔をする帝を名乗る者の軍勢を蹴散らす。
私が出るまでもない。後方で見ているだけ、指示する必要もなかった。
ただの弓矢に剣だけで月人に勝てると思う方がどうかしている。
だのに抵抗を続ける愚かな地上の民を見下ろし――その後ろで老夫婦に抱かれているカグヤを見つけた。
走り出したい。
今すぐにでも駆けだして、抱き締めたい。
月人から見れば僅かな時間だったけれど、私からすれば永遠に思える長い時間。
それだけの時間を離れ離れにされていたのだから。
我慢など出来る筈もない。
だけど、私の足は止まる。
駆けることなど論外で、一歩を踏み出すことも出来ない。
私を止めたのはあの子の顔。あの子の表情。
カグヤは――怯えて、いる。
「……カグヤ?」
何故怯えられるのか、わからない。
今のあの子の力では使者に敵わないというのはわかる。
だけど、そんなのは脅威にならない筈だ。私たちは、ただ迎えに来ただけなのだから。
私たちは、味方、なのだから。
最後の兵士が吹き飛ばされる。
もう、カグヤを迎える邪魔をする者は居ない。
足が、動かない。
あの子に、近づけない。
だって。
あれではまるで。
カグヤは、帰りたくないようで――
「えーりん……っ」
カグヤの声。
動けない。
あの声、助けを求める声。
なのに、動けない。
余計に、動けない。
その名で呼ばれるから、動けない。
『八意××? 言いにくいし、仰々しいわね。そうだ、私が愛称をつけてあげる。
そうね。んー……うん。えーりん。うん、これね。えーりん。えーりんっ。
どう? 私はこれからずっとずっとあなたのことをこう呼ぶわ』
彼女がくれた大切な名。
だから拒絶されてる気がして。
迎えなんて要らなかった。帰りたくなんかなかったと言っているようで。
近づく使者から逃げようとするカグヤ。
その顔に映るのは恐怖だけで、今にも泣き出しそうで。
覚悟――していなかった。
こんな、彼女が傷つくだなんて、考えもしなかった。
連れ帰って、幽閉されて、いつか傷つくと、時間はあると、思い込んでいた。
私のもとに帰って来てくれると、信じ込んでいた。
落ちている穢れし民の剣を手に取る。
誰を斬ればいいのかわからない。
なんで拾ったのかもわからない。
そもそも、何故斬らねばならないと思ったのか――
「いや……っ!」
その瞬間。
理性は役目を放棄し狂気が脳髄を支配した。
赤が広がる。
八意様!? なにを――っ!?
ヤゴコロ?
誰だそれは。
私はエイリン。
彼女がつけてくれた名。
彼女が与えてくれた存在。
それ以上でも、以下でもない。
八意様っ!!
うるさい。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいウルサイ。
そんな別の誰かの名で私を呼ぶな。
もっと。
もっと赤くしろ。
そうだ。私の視界をもっともっと赤く染めろ。
うわぁぁぁぁぁあっ!?
ゴミ屑が、うるさい。
そんな悲鳴みたいな音を出すな。
おまえらはただ赤をばら撒いて止まればいい。
動き回るな。
気持ち悪い。
カグヤを泣かせるしか能が無いくせに、人のふりをするな。
潰れろ。
潰れろ潰れろ潰れろ。
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ
潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れ潰れて赤を出せ。
それだけの価値しかないのだからそれだけのことをしろ。
「えー……りん……」
静かになった。
それでいい。悲鳴みたいな音を出されては気が散ってしょうがない。
「えーりん……っ」
あとはもう赤を絞り出してばら撒けば
「えーりんっ!」
カグヤが泣いている。
怯えて、震えて、泣いている。
真っ赤だった視界に色が戻る。
「あ……?」
なのに、赤い、まま。
月明かりに照らされた光景は、赤いままだった。
血。
死体。
血。
死体。
血。
死体。
血。
死体。
血。
死体。
それだけ。
それだけしかない。
血溜まりに映る己の姿。
なんだ、この姿は。
返り血に塗れて刃毀れした剣を放すこともできず彼女を見ることすらできずに呆けるこの無様は。
まるで悪鬼だ。
罪人。
この上ない罪人。
禁忌中の禁忌。
法で定められた罪などではなく、感情で咎められる罪などではなく。
生物本能に刻みつけられた原初の禁忌。
ひとごろし。
同族殺し。それも、生きるためでも群れを守るためでもなく、ただただ狂って犯した罪。
なんで、殺したのか、今でもわからない。
「カグヤ」
顔を上げると、びくりと震えるあの子が見えた。
反射的に手を伸ばそうとして、止まる。
手を、伸ばせない。
万に一つもこの手を掴んでくれなどしない。
わかっているのに。わかっているのに手を引き戻せない。
中途半端に上げられた手が止まったまま動かない。
怖がらせるだけ。怯えさせるだけ。彼女の心に刻んだ傷を、さらに深くさせるだけ。
逃げればいいのに。
このまま仲間と呼んだ死体を放りだして逃げてしまえばいいのに。
そうすればカグヤは今までの生活に戻れる。
怯え恐れる月に戻ることもなくなる。
また使者が来るまでの僅かな間であろうと、平穏が戻るのに。
そういうことだってわかっているのに。
私は逃げ出すどころか一歩引き下がることすら出来ないでいる。
嫌になる嫌になる嫌になる。
あさましい己が嫌になる。
縋っている。
守ったふりをして守ってもらおうと縋っている。
カグヤが私の手を取ってくれるって期待している。
この殺戮はカグヤのため?
ああそうだ。
でも間違っている。
怯えるカグヤを守りたかった。
拒絶された怒りをぶつけたかった。
カグヤを泣かせる奴らが許せなかった。
私より地上を選んだカグヤが許せなかった。
狂っていると――自覚する。
カグヤと共に在れないほど狂っていると自覚する。
いつか見た夢。
カグヤの首を絞める夢。
あれは遠からず訪れる現実だった。
私は、このままでは、カグヤを殺してしまう。
不死のカグヤを、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も殺してしまう。
それだけは。
狂っている。
でもそれだけは。
狂っていても。
許せない。
赦せない。
剣の刃を持つ。
柄を握っていては長すぎる。
私は、生きていてはいけない。
一秒でも早くカグヤの前から消えなくてはならない。
カグヤを守りたい。カグヤを傷つけたくない。
これは、これだけは、僅かに残った正気が訴える――私の真実なのだから。
刃を握った拳を振り上げる。
心臓に剣を振り下ろす。
それだけで終わる。
なのに。
剣は私の胸に飛び込んできたカグヤの肩に突き刺さる。
「カグヤっ!?」
すぐに剣を引き抜く。蓬莱の薬の力で傷は消えていく。
だけど、傷は消えても……その時受ける痛みは……
「な、なにをやってるの!? 死ななくても、痛みが消えているわけじゃないのよ!?」
「――だって」
刺された痛みに震えながら、涙を零しながら、カグヤは私を見た。
「えーりんが死ぬのなんて、いや」
剣が、手から落ちた。
カグヤの着物に血が染み込んでいくのが見える。
私が浴びた返り血。
私の犯した罪そのもの。
カグヤが、汚れてしまう。私なんかの罪で、汚れてしまう。
突き放せばいいのに。
剣を握っていた手は痛むけれど、カグヤを突き飛ばすことくらいはできるのに。
「……カグヤ、私は、人を殺したのよ?」
あなたに、守ってもらう価値なんてないのに。
「私を助けてくれたわ」
ただ憎しみを晴らそうとしただけなのに。
「カグヤを、傷つけてしまった」
殺そうとして、しまった。
「あなたの薬ですぐに治るわ」
涙に濡れながら――花咲くような、微笑み。
あぁ、震えながら
壊れながら
笑ってくれるのか
壊して、しまった。
カグヤを、私の愛する少女を。
こんな、血の海の中で笑えるように壊してしまった。
これが――私への罰なのか。
肩が震える。喉の奥が痙攣して止まらない。
笑いを、堪えることが出来ない。
あぁ、これが罰だと云うのなら――喜んで受け入れよう。
どれだけの時間をかけても償おう。
どんなに苦しんでも最期まで付き合おう。
「ねぇカグヤ――」
再び、禁を犯す。
再び、罪を犯す。
ためらいなど最早無い。
迷いなど既に無い。
「もう一度だけ、あなたの能力を貸して」
薬を呑み込む。
苦い。
反射的に吐き出しそうになる。
吐き出せるものか。
これは、誓いなのだから。
生理反応を無視して呑み込む。
「もういいの?」
少女の問いかけに、頷くことで答える。
蓬莱の薬を飲んだ。
これで私はカグヤと同じ体。同じ罪。
満月に照らされる少女を見る。
カグヤはもう笑っていない。心の壊れた少女はもう笑っていない。
次に何時、どのようなことで笑えるのか――私でもわからない。
……治してみせる。いつか、カグヤが普通に笑えるようにしてみせる。
償いなどにはならないけれど。
私の自己満足でしかないけれど。
「カグヤ」
カグヤの手を取る。
永遠に、などと云うのは覚悟を示す比喩表現。
限りある者ではその言葉を全うできない。
だが今ここでは夢想でも幻想でも妄想でもなく、冷たく厳しいただの現実。
「不肖――八意永琳――」
だから私は、その言葉を選ぶ。
「永遠にあなたと共にあることを誓いましょう――姫」
優しく、これ以上壊さぬように抱き締める。
「なんに誓うの?」
「もちろん」
笑わぬ少女に微笑みかける。
「永遠不変なあなたに」
あれよあれよと展開が進んで「えちょなに落ち着けえーりんうわあああああ」ってなりますた。
面白かったです。
でも、私はダークとかって思わなかったですねぇ。
なんだか普通に静かに読めた感じがします。
面白かったですよ。
いう印象で、ちょっと残念でした。
全体的にしっとりと静かな狂気、大変おいしゅうございました。
自覚ある狂人、狂気の愛、それを受け止めてしまえる者もまた狂人と。
永遠を生きる二人だからこそ、「永遠に」という覚悟は成程、正気の沙汰ではありませんね。
方向性が強固過ぎて、多くの人に評価されるとは言いがたいけれども。
でも、何かを感じさせてくれる作品だと思いました。