( 壱 )
悲鳴とともに空から少女が降ってきた。
ぽっかりと、という言葉が相応しい満月が、漆黒の夜空に浮かんでいた。
そんな月を見ながら少女たちと妖怪は宴会をしている。
ここは博麗神社。夜な夜な少女や妖怪達が宴会を開く場所でもある。
酔った勢いもあるのだろう。しかしそれ以上に、たったいま立てられた弾幕勝負七連敗という屈辱が、行動の動機だった。
「あぁーあ。まったく歯が立たないじゃないか」
「余興としては毎回面白いけど」
魔理沙とアリスが地面に転がっている少女を見て言った。
「筋は悪くないと思いますが、どう思いますか幽々子様?」
「もっと魚が欲しいわね」
妖夢と幽々子の会話は相変わらず成立していない。
そんなギャラリーの視線を一身に浴びた少女がばっと勢いよく起き上がる。
「は、博麗霊夢!」
あちこち破けた巫女服を取り繕うこともなく、東風谷早苗は博麗霊夢を指差して言い放った。
「次は……守矢神社の信仰全部賭けて勝負です!」
ブふッ! 背後で神奈子が飲みかけていた酒を吹き出す音が聞こえたが無視。
早苗は本気だった。
「へぇ……弾幕勝負通算七連敗目を味わったばかりのやつが何を言い出すかと思えば」
ふわりと着地した。月に照らされた汚れひとつない赤い巫女服から伸びる白い肌。冷たく、鉄のような瞳が早苗を射抜き、紅い唇が半月状に歪んだ。
――ように早苗は感じた。
「さ、早苗!? あんたなんてこと言ってんのよ! どうしたの、ねぇどうしたの早苗?」
神奈子が狼狽しながら早苗の肩をガクガクと揺すった。
『どうして?』
早苗は心に浮かんだ言葉を反芻しながら、昼間の博麗神社を思い出す。
参拝客の対応に、笑顔で忙しそうに動き回る博麗霊夢の姿を、思い出す。
先週、ついに作り置きしていた博麗アミュレットが全部売れてしまったとぼやいていた博麗霊夢の勝ち誇った笑みを、思い出す。
噛み締めた奥歯が軋んだ音をたて、それが早苗を現実に引き戻した。
守矢神社は博麗神社営業停止騒動からつい最近まで、人間の里の信仰を十分に得ていた。それに反比例し、いよいよ人が寄り付かなくなり、妖怪神社の名が定着していた博麗神社。
その図式が崩れたのは、とある宴会の最中に霊夢と早苗が酔った勢いで、里の信仰の一割をかけて弾幕勝負を始めたことだった。
つまりは、陣取り合戦である。負けたほうが、今持っている布教活動の土地を相手に譲渡する、というルールだった。
瞬く間に二連敗を喫し、二割もの布教活動の土地を失った時点で、われに返った早苗は冷静になって考えた。
賭けで負けたのだから、賭けで取り返す。
……自分が冷静だと思っていたのは早苗本人だけだった。
神奈子も諏訪子も必死になって早苗を止めたのだが、早苗は強情にも聞き入れなかった。
その姿はさながら、ギャンブルに狂った子供を止めようとする哀れな家族のようだったと、後に【文々。新聞】に掲載されることになるほどだった。
それから霊夢と早苗の賭けはその後宴会の都度行われ――
いまや、人間の里における博麗神社と守矢神社の信仰シェアは、完全に逆転していた。
博麗神社は常に参拝客を抱え、魔理沙による焼きキノコの出店と、永遠亭が勝手に作った薬屋の支店が常設化。さらに週一回アリスによる子供向けの人形劇も博麗神社の信仰を集めることに一役買っている、という状態だ。
それに比べ、守矢神社はといえば……
人間は誰もいない境内。その隅で厄神と河童が甘酸っぱくイチャついている姿を、天狗が隠し撮りし、誰もそれを咎めない。神様二人は一日中ゴロゴロしているだけだ。
神社からは全く活気というものが無くなっていた。そもそも厄神が神社にいる時点で参拝してもご利益が無さそうだ。
しかしながら本殿は人間の姿が見えなくてもしょうがない。妖怪の山にあるので、参拝客らしいものといえば妖怪がほとんどだ。
だが早苗や神奈子を焦らせているのは、里に置いた分社も閑古鳥が鳴いているということだ。
早苗はもう一敗もできない覚悟だった。
けれど、霊夢に弾幕勝負で勝てる見込みが全くない。それは十分分かった。
だから弾幕以外の勝負を仕掛けるのだ。
「さ、早苗! もういいから! もうこれ以上頑張らなくていいから!」
慌てふためく神奈子を手で制し、早苗はかねてから考えていた勝負を霊夢に申し込むのだった。
「私と……最後の勝負よ!」
「へぇ。弾幕?」
「いえ」
と、早苗はかねてから暖めていた計画を口にする。
「勝負は……人間の里でのお祭りです!」
「……お祭り?」
かくして、早苗の発言によって人間の里を巻き込んでのお祭りが始まったのだった。
(弐)
早苗の宣戦布告から数日後、六人の少女が香霖堂に集った。
博麗神社にシェアを奪われている信仰を一気に取り戻す早苗の奇策である。
そしてそのお祭りのメインはといえば――
「ふふっ。のこのこ来ましたね博麗一味!」
「一味って、なんだか私たちが悪者みたいだぜ」
「ったくなんなのよ、今日は神社で人形劇の日でしょうが……」
魔理沙とアリスを引き連れた霊夢が早苗たちの前に現れた。二人とも朝神社に到着した瞬間、霊夢にひっ捕まったそうだ。なんだかんだで霊夢はいつも勝負に来るのだ。
「御柱レース、ねぇ」
霊夢は目の前にでんと置かれた二つの丸太を一瞥し、早苗に言い放つ。
「弾幕勝負で勝てないからって、お祭りで勝負? 笑わせるわね」
「そう言っていられるのも今のうちですよ」
「早くルールを説明しなさいよ」
「いいでしょう」
早苗は霊夢をしっかりと見据えたまま言った。
「この御柱をいち早くここから人間の里の中心に用意された奉納台まで運んだ方が勝ちです。勝者が信仰全てを得ます。ついでに今回のお祭りの主催も行うことができます」
「信仰心を集め放題ってことね。まぁそれにしてはやけにルールが簡単ね」
「あと、参加者の弾幕使用と飛行は一切禁止です。なお、コースは一直線ですから、道に迷って負けたなんて言い訳はできませんよ」
「まぁ、妥当なところね」
「分かったぜ」
「簡単ね」
魔理沙とアリスも各々了解したらしい。意外と二人ともノリノリだ。
「早苗! 頑張ろうね!」
「奇しくも、あの紅白と白黒にいつぞやの借りを返すことになるとはね」
早苗側は当然諏訪子と神奈子だ。二神とも気力十分といった様子で準備体操をしていた。
「じゃあ、このルールでOKといことで」
早苗は再び霊夢にルールの確認を行った。
「了解したわ」うなずく霊夢。
その瞬間、早苗は神奈子と一瞬目配せを行ってから――
「じゃあ、スタートの合図は森近霖之助さんから行っていただきます」
「よろしく!」
香霖堂の主である森近霖之助が、外の世界では運動会などで使用される銃を持っていた。
早苗は地面に置かれた自分たちの御柱へと向かう。
「(早苗、この勝負……勝ったわね)」
神奈子が耳打ちしてきた。
「(本当に、やるんですか)」
「(やれば勝てるわ。絶対勝たなきゃいけない勝負に勝てるわ)」
すでに勝利を確信した表情である。
早苗は神奈子に悟られないように嘆息した。でも、やるしかないのだ。
「さぁ皆さん? 用意はいいかな?」
霖之助が芝居がかった声音で早苗たちを促した。
その声でいよいよ6人の少女はそれぞれの丸太を担いだ。
「いつでもいいぜ香霖!」
魔理沙が親指を立てた。
「東風谷さんの方も大丈夫かい?」
「いつでもどうぞ」
「よし。じゃあ……」
言って、霖之助は重厚を空へ向けた。
「よーい、どん!」
パんッ、と乾いた音が合図だった。
スタートと、
早苗の奇跡が発動するのが。
神風が舞ったのだ。
局地的かつ瞬間的な大竜巻は、天狗が発するそれとは比べ物にならないほど強力で、
「「「へ?」」」
そんな間抜けな声を出した時は、まだ地面から数メートル浮いているだけだった。
次の瞬間、音もなく、霊夢たち三人は驚愕の表情を浮かべたまま、も御柱ごともの凄いスピードで妖怪の山の方角へ吹き飛ばされていった。
「勝った!」
神奈子が改心の笑みで早苗を見つめた。
「やったわね!」
「おお~よく飛んだね~」
諏訪子も、いまや空に浮かぶ黒い点となった霊夢たちを見ながら、早苗を見上げる。
「さすが早苗! いい仕事するわ~」
「あ、ありがとうございます」
これこそが、神奈子が考え出した必勝法だった。
弾幕や飛行が禁止でも、個人の能力を使うのは禁止していないのだ。だから早苗の奇跡で神風がおこり、『たまたま』霊夢たちがどこかへ吹き飛ばされても、ルール違反ではない。ということだ。
「さ、行こう! 開始数秒で消化試合だけど、一応レースだからね」
諏訪子が嬉々として御柱を持つ先頭に立ち、走り出す。
「あ、ちょっと諏訪子」
「あ、わわ」
諏訪子に引きずられるにして、神奈子と早苗も走り出した。
里までは走って数十分の道のりだ。
約束された勝利の道を走り出した少女たちの背中を、霖之助は苦笑を浮かべながら見送った。
――走ること数分。
「ねぇ八坂様、洩矢様」
御柱を運びながら、早苗が口を開いた。
「どうしたの早苗? もう疲れたとか?」
「いえそうじゃなくて……」
一瞬早苗は迷ったそぶりを見せた後、口を開いた。
「あの、こんなこと、本当によかったんでしょうか」と。
「よかったも何も、こうでもしないと、あの巫女に勝てないじゃない」
神奈子は当然といった表情だった。
「まぁ、そうですけど」
「それに、勝負を言い出したのも、何か勝てる方法を考えて、って言ったのも早苗じゃない」
その通りだ。
酔った勢いとはいえ、守矢神社の残りの信仰を賭ける真似までした後、青ざめて神奈子に相談したことは、当然覚えている。
すべて起こるべくして起こったことだ。
この作戦を行わなければ、いくら純粋な競争だとしても、勝率は非常に低かっただろう。それは幻想郷の住人と、外の世界から来たばかりの自分との体力差をことあるごとに感じている早苗自身理解していることだった。
これでようやく勝てるのに。
早苗の心の中で、暗い気持ちがザラついていた。
こんな卑怯な手を使って、信仰を集めてもいいのだろうか。
「いいのいいの。結果的オーライだったらいいじゃない」
それはこの競争のことを言ったのか、東風谷早苗の心を見透かしたのか。諏訪子が早苗に笑顔を向けた。
神奈子も同意する。
それでいい筈なのだ。信仰を得るために、早苗たちは幻想郷にやってきた。
でも、目の前にいる神様と、自分の温度差は何なのだろう。
眉間に皺を寄せる早苗。
だから。
そんなことを考えていたから。
早苗は地面から出っ張っていた石に気づかなかった。
「え!?」
声が漏れた時には、ミシ、と足首が小枝を折ったような音を立て、体が宙を舞っていた。
(3)
突然の激痛に、早苗は受身も取れず頭から地面に倒れてしまった。
「早苗!」
「大丈夫!」
御柱を放り投げて、神奈子と諏訪子が早苗を抱えて道の端へ移動した。
「足捻ったみたいだけど」
諏訪子が早苗の右足に触れた。
「あつっ」
「ご、ごめん早苗」
「い、いいんです洩矢様。大丈夫ですから」
早苗は、顔を歪ませながら立ち上がった。
「ほ、ほら。大丈夫ですから」
「嘘おっしゃい。動けないじゃないの」
「う、動けます! ほ、ほら。全然平気ですから」
早苗は左足だけでずりずりと動いたが、
「あっ」
「早苗っ」
バランスを崩して倒れそうになった早苗を、神奈子が抱きとめて地面に座らせた。
「ダメじゃないの」
「……ごめんなさい」
「う~でもどうしよう。早苗が動けないとなると……」
諏訪子が不安そうな声を出した。
「ごめんなさい。八坂様、洩矢様。本当にごめんなさい。あたし、いつも肝心なところでヘマばっかりで……」
「あ、こら。早苗泣かないの!」
「そうだよ。何かきっといい案がある筈だから。きっと……うぅ~」
ぽろぽろと泣き始めた早苗を前にして神奈子と諏訪子は、おろおろするしかできなかった。
「と、とりあえず、早苗をおぶってでも里まで行こう。大丈夫。なんとかなる」
「諏訪子……まぁ仕方ないか。かなり時間かかりそうだけど」
「勝てるかなぁ」
「分からない。だけど、やるしかない」
「……ごめんなさい」
悲壮感すら漂わせた三人が、決意を固めかけた時だった。
「ふふ……」
何もない筈の空間から軽やかな声と共に、
「因果応報、というものですわ」
大きな日傘を持った金髪の少女が現れた。
「誰!?」
空間がただならぬ妖気を孕んだ。
神奈子が自然と早苗の盾になるように動き、諏訪子が少女を睨み付けた。
「ただの妖怪ですわ」
どっさりとフリルのついた洋服をふわりと揺らしながら日傘を畳んだ少女は、にこりと三人に微笑みかけた。
「近くを通ったら、何かお困りのようでしたから」
「見ず知らずの妖怪に助けてもらうほど困っちゃいないよ」
諏訪子が警戒心を隠そうともせず言い放つ。
早苗は見た。神奈子も、早苗を庇うようにしながら臨戦態勢に入っているのを。それだけ目の前の妖怪は胡散臭い雰囲気を醸しだしていた。
「あら、そうでしたの。私はてっきりそこの巫女が貴方達に何かを伝えたくてしょうがないように見えましたので……」
いつの間にか、目の前の妖怪の手から傘が消えて、代わりに蝶があしらわれた黒い扇子を開いた。
「博麗霊夢の友人として、何かできることがあれば、と思ったんですが」
その言葉に、早苗は無意識に反応していた。
「博麗霊夢を知っているんですか」
そう言ってから、馬鹿な質問だと自嘲した。これだけの妖気を放つ妖怪で、博麗霊夢を知らない者なんているだろうか。それにしても、この妖怪は何者だろう。霊夢の友人と自称するなら、宴会で一回くらい顔を合わせてもよさそうだが、早苗は見たことがなかった。だから、余計怪しい。
「何か?」
妖怪は視線だけの微笑みを早苗に向けた。
その視線が、早苗の心を見透かすような感じがして、
「いえ、その」
早苗は思わず胸に手を当てていた。
「迷っていますわ。結果的に勝てれば、いいのかどうか」
はっとした。
唐突に、早苗の心を突いてきたのだ。
「あ、あなたは何者ですか」
「そうよ、名前を名乗りなさい」
早苗の言葉を引き継ぐようにして、諏訪子が言った。
「あらあら。そんなに警戒しなくてもいいですのに。私は八雲紫。スキマ妖怪ですわ」
少女の姿をしたスキマ妖怪――八雲紫はにっこりと笑った。
「幻想郷に最近来た愉快な神様と巫女は貴方たちですね」
「それはどういう意味よ……」
「あらごめんなさい」
神奈子に半眼で睨まれた紫は、大仰に肩をすくめてみせる
「神様だけで盛り上がって、巫女の心は置き去りですもの。愉快というよりはおめでたい、と言ったほうが適切かも」
「聞き捨てならないね」
諏訪子が一歩前に出た。
「待って洩矢様」
今にも飛び掛りそうだった諏訪子を慌てて早苗が止める。
「早苗?」
「その方の言うとおりです」
「え?」
諏訪子が驚いた表情を向ける。
「そうなんです……あたし、何か納得がいってないんです」
「納得……この勝負のこと?」
「はい八坂様」
早苗は神奈子の瞳を正面から見据えた。神奈子の瞳は、早苗の言葉を促すようだった。
「確かに最初は、霊夢たちを奇跡の力でどこかへ飛ばさないと勝てないと思ってましたし、実際やりました。でも、どうしてか分からないんですけど、何か心の中にわだかまっているんです。上手く言えないけど、うまく言えないんですけど……」
言葉を捜すが、出てこない。もどかしかった。
「腑に落ちなくて」
「結局――」
と、八雲紫が口を開いた。
「貴方は霊夢と対等になりたかったんですわ」
「え!? ち、違います」
咄嗟に否定してから、早苗は口に手を当てた。
「違います……」
「そうかしら?」
片眉を上げる紫。
「私にはそう見えましたわ。今、貴方だけが霊夢に対する負い目を感じていて、神様は何も感じていない。だって神様は信仰のみに生きることができるけど、人間は信仰のみでは生きられませんわ。まして一人では生きられない」
何を偉そうに、と憤る諏訪子だったが、早苗はなるほどと思った。
今早苗が抱えていたものは、負い目だったのだ。
どうして奇跡の神風で吹き飛ばした霊夢たちに負い目を感じていたのか。
どうして、分の悪い賭けをずっと続けていたのか。
どうして、ひどい目にあったりする宴会に毎度行っていたのか。
そして。
どうしてそこまでして、幻想郷での人との繋がりを求めていたのか。
「何か。気づきました?」
早苗は気づいていたのかもしれない。対等に話せる相手が欲しかったんだと。対等に戦える相手が欲しかったんだと。
そこまで考えてから、早苗を後悔が襲った。
そこまで知ってたら、正々堂々と勝負したのに、と。
「早苗……」
「気づかなくて、ごめんね」
神奈子と諏訪子が、早苗をなんともいえない表情で見つめる。
「貴方」
三人は、紫の声で弾かれたように顔を上げた。
「霊夢は、あの程度のことなんとも思ってませんわ」
「え?」
「だって霊夢は博麗の巫女だから。あらゆる障害からすべからく無重力。貴方が特別だったという外の世界の常識は通用しませんわ」
そう。もう自分は特別ではないのだ。
守矢の巫女として、外の世界では特別だった。神であり、人である早苗はどこまでも特別だった。
そんな早苗も、この幻想郷では特別ではない。
紫の言葉は、早苗の心を深く抉った。
「あたしは、もう、特別じゃないんだ」
それが事実なのだ。あの日、妖怪の山を登ってきた霊夢と初めて戦って敗北した瞬間から、心のどこかで認めていたのかもしれない。
「あたしは……特別じゃない」繰り返す言葉は弱々しくて。
「えぇ。そうですわ」
かくんと、肩の力が抜けた。
「早苗!?」
「ちょっとあんた! 早苗に何したのよ!」
諏訪子の土製を無視して、紫は続ける。
「だから、まだ間に合いますわ」
博麗の巫女は無重力。神の奇跡からすら、無重力。それが幻想郷の常識。
「あ」
そうだ。今紫が言ったばかりだった。あの程度のこと、霊夢は気にしてないと。
「ふふ。博麗の巫女に手加減は無用ですわ」
紫は、視線を早苗達から空へと向けた。
「ほら、言ってるそばから」
「こ、こんなところでなにをやってるんですかー!」
血相を変えてやってきたのは、自称新聞記者こと射命丸文だった。
「こんなところでゆっくりしていたら負けちゃいますよ」
「はぁ? まさか」
「そのまさかですよ。私、驚きました。いきなり山まで飛ばされた巫女たちが、御柱に乗って山の斜面を猛スピードで駆け下り始めたのです。そこから怒涛の追い上げですよ! このままじゃ大差で負けちゃうじゃないですか。新聞の記事を面白くするためにも、皆さんには頑張って欲しいんですから」
文は熱っぽく語った。
「ほらね」
紫は微笑む。
「ってあなたは、八雲紫!」
そこでようやく紫に気づいた文は、人間が妖怪にでも遭遇したかのような表情を浮かべた。
「わ、わ、どうしよう神奈子。急がなきゃ」
「急ぐって言ったって、早苗がこれなのよ」
紫は驚く文や、焦りだす神様をみながら、
「幻想郷は、全てを受け入れますわ」
そんなことを言って、スキマに姿を消した。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
諏訪子がスキマに向かって怒鳴る。
「あぁ、そうそう忘れてた」
再びスキマから紫が上半身だけ露出させた紫。
「東風谷早苗さん? 貴方の足だけど、痛みとキズの境界をいじっておきましたから」
意味不明なことを言って、こんどこそ姿を消したのだった。
「はぁ?」
諏訪子はわけが分からない、といった表情で早苗を見たが、早苗自身はその言葉を実感していた。
「あ、足、痛くないです」
早苗は笑顔と共にすっと立ち上がった。
「え、え?」
「紫さんが治してくれたみたいです」
早苗はそういうと、地面に投げられていた御柱まで歩み寄った。
「さ! 行きましょう。八坂様、洩矢様」
「う、うん!」
「そうね」
「お~ようやく動き出しましたね~」
そんな三人を、文はバシバシと写真に収めていた。
「行きますよ!」
そして再び走り出す二神と一人。
(四)
「はぁ! はぁっ!」
さすがに御柱を担いで数十分も走ると、早苗の息が荒くなってくる。
「早苗、頑張んなさい! 霊夢に勝つんでしょ」
「そうだよ。負けちゃダメだよ」
「は、はひ。頑張りましゅ」
呂律ももうよく回ってない。こんなことならもっと外の世界で運動しておけばよかったと己の過去を憎む早苗であった。
「あ! 見えてきた!」
諏訪子が指差す先に、里の入り口が見えた。
すでにたくさんの人で賑わっている。
観客が早苗たちの姿を確認するや否や大歓声を挙げた。
その歓声を纏うように、早苗たちは里へと駆け込む。
すると、里の反対方向からも同様の歓声が上がった。
確認するもない。霊夢たちだ。
今博麗霊夢と台頭の勝負をしている。その実感で、早苗は胸がいっぱいだった。
勝負です! 博麗霊夢!
負けたくない。
現人神でも巫女でもなく、一人の少女として。早苗は霊夢と戦って勝ちたいと、勝って思い切り叫びたいと。初めて心の底から思ったのだった。
何故か別々の方向からやってきた御柱というサプライズと、どっちが勝つか分からない祭りのクライマックスに、里は今までにないくらいの活気と熱気を孕んでいた。
「ほほぉ~この結果は……」
それらを上空から見ていた天狗が、レースの結果に感嘆の声を上げたのだった。
(了)
悲鳴とともに空から少女が降ってきた。
ぽっかりと、という言葉が相応しい満月が、漆黒の夜空に浮かんでいた。
そんな月を見ながら少女たちと妖怪は宴会をしている。
ここは博麗神社。夜な夜な少女や妖怪達が宴会を開く場所でもある。
酔った勢いもあるのだろう。しかしそれ以上に、たったいま立てられた弾幕勝負七連敗という屈辱が、行動の動機だった。
「あぁーあ。まったく歯が立たないじゃないか」
「余興としては毎回面白いけど」
魔理沙とアリスが地面に転がっている少女を見て言った。
「筋は悪くないと思いますが、どう思いますか幽々子様?」
「もっと魚が欲しいわね」
妖夢と幽々子の会話は相変わらず成立していない。
そんなギャラリーの視線を一身に浴びた少女がばっと勢いよく起き上がる。
「は、博麗霊夢!」
あちこち破けた巫女服を取り繕うこともなく、東風谷早苗は博麗霊夢を指差して言い放った。
「次は……守矢神社の信仰全部賭けて勝負です!」
ブふッ! 背後で神奈子が飲みかけていた酒を吹き出す音が聞こえたが無視。
早苗は本気だった。
「へぇ……弾幕勝負通算七連敗目を味わったばかりのやつが何を言い出すかと思えば」
ふわりと着地した。月に照らされた汚れひとつない赤い巫女服から伸びる白い肌。冷たく、鉄のような瞳が早苗を射抜き、紅い唇が半月状に歪んだ。
――ように早苗は感じた。
「さ、早苗!? あんたなんてこと言ってんのよ! どうしたの、ねぇどうしたの早苗?」
神奈子が狼狽しながら早苗の肩をガクガクと揺すった。
『どうして?』
早苗は心に浮かんだ言葉を反芻しながら、昼間の博麗神社を思い出す。
参拝客の対応に、笑顔で忙しそうに動き回る博麗霊夢の姿を、思い出す。
先週、ついに作り置きしていた博麗アミュレットが全部売れてしまったとぼやいていた博麗霊夢の勝ち誇った笑みを、思い出す。
噛み締めた奥歯が軋んだ音をたて、それが早苗を現実に引き戻した。
守矢神社は博麗神社営業停止騒動からつい最近まで、人間の里の信仰を十分に得ていた。それに反比例し、いよいよ人が寄り付かなくなり、妖怪神社の名が定着していた博麗神社。
その図式が崩れたのは、とある宴会の最中に霊夢と早苗が酔った勢いで、里の信仰の一割をかけて弾幕勝負を始めたことだった。
つまりは、陣取り合戦である。負けたほうが、今持っている布教活動の土地を相手に譲渡する、というルールだった。
瞬く間に二連敗を喫し、二割もの布教活動の土地を失った時点で、われに返った早苗は冷静になって考えた。
賭けで負けたのだから、賭けで取り返す。
……自分が冷静だと思っていたのは早苗本人だけだった。
神奈子も諏訪子も必死になって早苗を止めたのだが、早苗は強情にも聞き入れなかった。
その姿はさながら、ギャンブルに狂った子供を止めようとする哀れな家族のようだったと、後に【文々。新聞】に掲載されることになるほどだった。
それから霊夢と早苗の賭けはその後宴会の都度行われ――
いまや、人間の里における博麗神社と守矢神社の信仰シェアは、完全に逆転していた。
博麗神社は常に参拝客を抱え、魔理沙による焼きキノコの出店と、永遠亭が勝手に作った薬屋の支店が常設化。さらに週一回アリスによる子供向けの人形劇も博麗神社の信仰を集めることに一役買っている、という状態だ。
それに比べ、守矢神社はといえば……
人間は誰もいない境内。その隅で厄神と河童が甘酸っぱくイチャついている姿を、天狗が隠し撮りし、誰もそれを咎めない。神様二人は一日中ゴロゴロしているだけだ。
神社からは全く活気というものが無くなっていた。そもそも厄神が神社にいる時点で参拝してもご利益が無さそうだ。
しかしながら本殿は人間の姿が見えなくてもしょうがない。妖怪の山にあるので、参拝客らしいものといえば妖怪がほとんどだ。
だが早苗や神奈子を焦らせているのは、里に置いた分社も閑古鳥が鳴いているということだ。
早苗はもう一敗もできない覚悟だった。
けれど、霊夢に弾幕勝負で勝てる見込みが全くない。それは十分分かった。
だから弾幕以外の勝負を仕掛けるのだ。
「さ、早苗! もういいから! もうこれ以上頑張らなくていいから!」
慌てふためく神奈子を手で制し、早苗はかねてから考えていた勝負を霊夢に申し込むのだった。
「私と……最後の勝負よ!」
「へぇ。弾幕?」
「いえ」
と、早苗はかねてから暖めていた計画を口にする。
「勝負は……人間の里でのお祭りです!」
「……お祭り?」
かくして、早苗の発言によって人間の里を巻き込んでのお祭りが始まったのだった。
(弐)
早苗の宣戦布告から数日後、六人の少女が香霖堂に集った。
博麗神社にシェアを奪われている信仰を一気に取り戻す早苗の奇策である。
そしてそのお祭りのメインはといえば――
「ふふっ。のこのこ来ましたね博麗一味!」
「一味って、なんだか私たちが悪者みたいだぜ」
「ったくなんなのよ、今日は神社で人形劇の日でしょうが……」
魔理沙とアリスを引き連れた霊夢が早苗たちの前に現れた。二人とも朝神社に到着した瞬間、霊夢にひっ捕まったそうだ。なんだかんだで霊夢はいつも勝負に来るのだ。
「御柱レース、ねぇ」
霊夢は目の前にでんと置かれた二つの丸太を一瞥し、早苗に言い放つ。
「弾幕勝負で勝てないからって、お祭りで勝負? 笑わせるわね」
「そう言っていられるのも今のうちですよ」
「早くルールを説明しなさいよ」
「いいでしょう」
早苗は霊夢をしっかりと見据えたまま言った。
「この御柱をいち早くここから人間の里の中心に用意された奉納台まで運んだ方が勝ちです。勝者が信仰全てを得ます。ついでに今回のお祭りの主催も行うことができます」
「信仰心を集め放題ってことね。まぁそれにしてはやけにルールが簡単ね」
「あと、参加者の弾幕使用と飛行は一切禁止です。なお、コースは一直線ですから、道に迷って負けたなんて言い訳はできませんよ」
「まぁ、妥当なところね」
「分かったぜ」
「簡単ね」
魔理沙とアリスも各々了解したらしい。意外と二人ともノリノリだ。
「早苗! 頑張ろうね!」
「奇しくも、あの紅白と白黒にいつぞやの借りを返すことになるとはね」
早苗側は当然諏訪子と神奈子だ。二神とも気力十分といった様子で準備体操をしていた。
「じゃあ、このルールでOKといことで」
早苗は再び霊夢にルールの確認を行った。
「了解したわ」うなずく霊夢。
その瞬間、早苗は神奈子と一瞬目配せを行ってから――
「じゃあ、スタートの合図は森近霖之助さんから行っていただきます」
「よろしく!」
香霖堂の主である森近霖之助が、外の世界では運動会などで使用される銃を持っていた。
早苗は地面に置かれた自分たちの御柱へと向かう。
「(早苗、この勝負……勝ったわね)」
神奈子が耳打ちしてきた。
「(本当に、やるんですか)」
「(やれば勝てるわ。絶対勝たなきゃいけない勝負に勝てるわ)」
すでに勝利を確信した表情である。
早苗は神奈子に悟られないように嘆息した。でも、やるしかないのだ。
「さぁ皆さん? 用意はいいかな?」
霖之助が芝居がかった声音で早苗たちを促した。
その声でいよいよ6人の少女はそれぞれの丸太を担いだ。
「いつでもいいぜ香霖!」
魔理沙が親指を立てた。
「東風谷さんの方も大丈夫かい?」
「いつでもどうぞ」
「よし。じゃあ……」
言って、霖之助は重厚を空へ向けた。
「よーい、どん!」
パんッ、と乾いた音が合図だった。
スタートと、
早苗の奇跡が発動するのが。
神風が舞ったのだ。
局地的かつ瞬間的な大竜巻は、天狗が発するそれとは比べ物にならないほど強力で、
「「「へ?」」」
そんな間抜けな声を出した時は、まだ地面から数メートル浮いているだけだった。
次の瞬間、音もなく、霊夢たち三人は驚愕の表情を浮かべたまま、も御柱ごともの凄いスピードで妖怪の山の方角へ吹き飛ばされていった。
「勝った!」
神奈子が改心の笑みで早苗を見つめた。
「やったわね!」
「おお~よく飛んだね~」
諏訪子も、いまや空に浮かぶ黒い点となった霊夢たちを見ながら、早苗を見上げる。
「さすが早苗! いい仕事するわ~」
「あ、ありがとうございます」
これこそが、神奈子が考え出した必勝法だった。
弾幕や飛行が禁止でも、個人の能力を使うのは禁止していないのだ。だから早苗の奇跡で神風がおこり、『たまたま』霊夢たちがどこかへ吹き飛ばされても、ルール違反ではない。ということだ。
「さ、行こう! 開始数秒で消化試合だけど、一応レースだからね」
諏訪子が嬉々として御柱を持つ先頭に立ち、走り出す。
「あ、ちょっと諏訪子」
「あ、わわ」
諏訪子に引きずられるにして、神奈子と早苗も走り出した。
里までは走って数十分の道のりだ。
約束された勝利の道を走り出した少女たちの背中を、霖之助は苦笑を浮かべながら見送った。
――走ること数分。
「ねぇ八坂様、洩矢様」
御柱を運びながら、早苗が口を開いた。
「どうしたの早苗? もう疲れたとか?」
「いえそうじゃなくて……」
一瞬早苗は迷ったそぶりを見せた後、口を開いた。
「あの、こんなこと、本当によかったんでしょうか」と。
「よかったも何も、こうでもしないと、あの巫女に勝てないじゃない」
神奈子は当然といった表情だった。
「まぁ、そうですけど」
「それに、勝負を言い出したのも、何か勝てる方法を考えて、って言ったのも早苗じゃない」
その通りだ。
酔った勢いとはいえ、守矢神社の残りの信仰を賭ける真似までした後、青ざめて神奈子に相談したことは、当然覚えている。
すべて起こるべくして起こったことだ。
この作戦を行わなければ、いくら純粋な競争だとしても、勝率は非常に低かっただろう。それは幻想郷の住人と、外の世界から来たばかりの自分との体力差をことあるごとに感じている早苗自身理解していることだった。
これでようやく勝てるのに。
早苗の心の中で、暗い気持ちがザラついていた。
こんな卑怯な手を使って、信仰を集めてもいいのだろうか。
「いいのいいの。結果的オーライだったらいいじゃない」
それはこの競争のことを言ったのか、東風谷早苗の心を見透かしたのか。諏訪子が早苗に笑顔を向けた。
神奈子も同意する。
それでいい筈なのだ。信仰を得るために、早苗たちは幻想郷にやってきた。
でも、目の前にいる神様と、自分の温度差は何なのだろう。
眉間に皺を寄せる早苗。
だから。
そんなことを考えていたから。
早苗は地面から出っ張っていた石に気づかなかった。
「え!?」
声が漏れた時には、ミシ、と足首が小枝を折ったような音を立て、体が宙を舞っていた。
(3)
突然の激痛に、早苗は受身も取れず頭から地面に倒れてしまった。
「早苗!」
「大丈夫!」
御柱を放り投げて、神奈子と諏訪子が早苗を抱えて道の端へ移動した。
「足捻ったみたいだけど」
諏訪子が早苗の右足に触れた。
「あつっ」
「ご、ごめん早苗」
「い、いいんです洩矢様。大丈夫ですから」
早苗は、顔を歪ませながら立ち上がった。
「ほ、ほら。大丈夫ですから」
「嘘おっしゃい。動けないじゃないの」
「う、動けます! ほ、ほら。全然平気ですから」
早苗は左足だけでずりずりと動いたが、
「あっ」
「早苗っ」
バランスを崩して倒れそうになった早苗を、神奈子が抱きとめて地面に座らせた。
「ダメじゃないの」
「……ごめんなさい」
「う~でもどうしよう。早苗が動けないとなると……」
諏訪子が不安そうな声を出した。
「ごめんなさい。八坂様、洩矢様。本当にごめんなさい。あたし、いつも肝心なところでヘマばっかりで……」
「あ、こら。早苗泣かないの!」
「そうだよ。何かきっといい案がある筈だから。きっと……うぅ~」
ぽろぽろと泣き始めた早苗を前にして神奈子と諏訪子は、おろおろするしかできなかった。
「と、とりあえず、早苗をおぶってでも里まで行こう。大丈夫。なんとかなる」
「諏訪子……まぁ仕方ないか。かなり時間かかりそうだけど」
「勝てるかなぁ」
「分からない。だけど、やるしかない」
「……ごめんなさい」
悲壮感すら漂わせた三人が、決意を固めかけた時だった。
「ふふ……」
何もない筈の空間から軽やかな声と共に、
「因果応報、というものですわ」
大きな日傘を持った金髪の少女が現れた。
「誰!?」
空間がただならぬ妖気を孕んだ。
神奈子が自然と早苗の盾になるように動き、諏訪子が少女を睨み付けた。
「ただの妖怪ですわ」
どっさりとフリルのついた洋服をふわりと揺らしながら日傘を畳んだ少女は、にこりと三人に微笑みかけた。
「近くを通ったら、何かお困りのようでしたから」
「見ず知らずの妖怪に助けてもらうほど困っちゃいないよ」
諏訪子が警戒心を隠そうともせず言い放つ。
早苗は見た。神奈子も、早苗を庇うようにしながら臨戦態勢に入っているのを。それだけ目の前の妖怪は胡散臭い雰囲気を醸しだしていた。
「あら、そうでしたの。私はてっきりそこの巫女が貴方達に何かを伝えたくてしょうがないように見えましたので……」
いつの間にか、目の前の妖怪の手から傘が消えて、代わりに蝶があしらわれた黒い扇子を開いた。
「博麗霊夢の友人として、何かできることがあれば、と思ったんですが」
その言葉に、早苗は無意識に反応していた。
「博麗霊夢を知っているんですか」
そう言ってから、馬鹿な質問だと自嘲した。これだけの妖気を放つ妖怪で、博麗霊夢を知らない者なんているだろうか。それにしても、この妖怪は何者だろう。霊夢の友人と自称するなら、宴会で一回くらい顔を合わせてもよさそうだが、早苗は見たことがなかった。だから、余計怪しい。
「何か?」
妖怪は視線だけの微笑みを早苗に向けた。
その視線が、早苗の心を見透かすような感じがして、
「いえ、その」
早苗は思わず胸に手を当てていた。
「迷っていますわ。結果的に勝てれば、いいのかどうか」
はっとした。
唐突に、早苗の心を突いてきたのだ。
「あ、あなたは何者ですか」
「そうよ、名前を名乗りなさい」
早苗の言葉を引き継ぐようにして、諏訪子が言った。
「あらあら。そんなに警戒しなくてもいいですのに。私は八雲紫。スキマ妖怪ですわ」
少女の姿をしたスキマ妖怪――八雲紫はにっこりと笑った。
「幻想郷に最近来た愉快な神様と巫女は貴方たちですね」
「それはどういう意味よ……」
「あらごめんなさい」
神奈子に半眼で睨まれた紫は、大仰に肩をすくめてみせる
「神様だけで盛り上がって、巫女の心は置き去りですもの。愉快というよりはおめでたい、と言ったほうが適切かも」
「聞き捨てならないね」
諏訪子が一歩前に出た。
「待って洩矢様」
今にも飛び掛りそうだった諏訪子を慌てて早苗が止める。
「早苗?」
「その方の言うとおりです」
「え?」
諏訪子が驚いた表情を向ける。
「そうなんです……あたし、何か納得がいってないんです」
「納得……この勝負のこと?」
「はい八坂様」
早苗は神奈子の瞳を正面から見据えた。神奈子の瞳は、早苗の言葉を促すようだった。
「確かに最初は、霊夢たちを奇跡の力でどこかへ飛ばさないと勝てないと思ってましたし、実際やりました。でも、どうしてか分からないんですけど、何か心の中にわだかまっているんです。上手く言えないけど、うまく言えないんですけど……」
言葉を捜すが、出てこない。もどかしかった。
「腑に落ちなくて」
「結局――」
と、八雲紫が口を開いた。
「貴方は霊夢と対等になりたかったんですわ」
「え!? ち、違います」
咄嗟に否定してから、早苗は口に手を当てた。
「違います……」
「そうかしら?」
片眉を上げる紫。
「私にはそう見えましたわ。今、貴方だけが霊夢に対する負い目を感じていて、神様は何も感じていない。だって神様は信仰のみに生きることができるけど、人間は信仰のみでは生きられませんわ。まして一人では生きられない」
何を偉そうに、と憤る諏訪子だったが、早苗はなるほどと思った。
今早苗が抱えていたものは、負い目だったのだ。
どうして奇跡の神風で吹き飛ばした霊夢たちに負い目を感じていたのか。
どうして、分の悪い賭けをずっと続けていたのか。
どうして、ひどい目にあったりする宴会に毎度行っていたのか。
そして。
どうしてそこまでして、幻想郷での人との繋がりを求めていたのか。
「何か。気づきました?」
早苗は気づいていたのかもしれない。対等に話せる相手が欲しかったんだと。対等に戦える相手が欲しかったんだと。
そこまで考えてから、早苗を後悔が襲った。
そこまで知ってたら、正々堂々と勝負したのに、と。
「早苗……」
「気づかなくて、ごめんね」
神奈子と諏訪子が、早苗をなんともいえない表情で見つめる。
「貴方」
三人は、紫の声で弾かれたように顔を上げた。
「霊夢は、あの程度のことなんとも思ってませんわ」
「え?」
「だって霊夢は博麗の巫女だから。あらゆる障害からすべからく無重力。貴方が特別だったという外の世界の常識は通用しませんわ」
そう。もう自分は特別ではないのだ。
守矢の巫女として、外の世界では特別だった。神であり、人である早苗はどこまでも特別だった。
そんな早苗も、この幻想郷では特別ではない。
紫の言葉は、早苗の心を深く抉った。
「あたしは、もう、特別じゃないんだ」
それが事実なのだ。あの日、妖怪の山を登ってきた霊夢と初めて戦って敗北した瞬間から、心のどこかで認めていたのかもしれない。
「あたしは……特別じゃない」繰り返す言葉は弱々しくて。
「えぇ。そうですわ」
かくんと、肩の力が抜けた。
「早苗!?」
「ちょっとあんた! 早苗に何したのよ!」
諏訪子の土製を無視して、紫は続ける。
「だから、まだ間に合いますわ」
博麗の巫女は無重力。神の奇跡からすら、無重力。それが幻想郷の常識。
「あ」
そうだ。今紫が言ったばかりだった。あの程度のこと、霊夢は気にしてないと。
「ふふ。博麗の巫女に手加減は無用ですわ」
紫は、視線を早苗達から空へと向けた。
「ほら、言ってるそばから」
「こ、こんなところでなにをやってるんですかー!」
血相を変えてやってきたのは、自称新聞記者こと射命丸文だった。
「こんなところでゆっくりしていたら負けちゃいますよ」
「はぁ? まさか」
「そのまさかですよ。私、驚きました。いきなり山まで飛ばされた巫女たちが、御柱に乗って山の斜面を猛スピードで駆け下り始めたのです。そこから怒涛の追い上げですよ! このままじゃ大差で負けちゃうじゃないですか。新聞の記事を面白くするためにも、皆さんには頑張って欲しいんですから」
文は熱っぽく語った。
「ほらね」
紫は微笑む。
「ってあなたは、八雲紫!」
そこでようやく紫に気づいた文は、人間が妖怪にでも遭遇したかのような表情を浮かべた。
「わ、わ、どうしよう神奈子。急がなきゃ」
「急ぐって言ったって、早苗がこれなのよ」
紫は驚く文や、焦りだす神様をみながら、
「幻想郷は、全てを受け入れますわ」
そんなことを言って、スキマに姿を消した。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
諏訪子がスキマに向かって怒鳴る。
「あぁ、そうそう忘れてた」
再びスキマから紫が上半身だけ露出させた紫。
「東風谷早苗さん? 貴方の足だけど、痛みとキズの境界をいじっておきましたから」
意味不明なことを言って、こんどこそ姿を消したのだった。
「はぁ?」
諏訪子はわけが分からない、といった表情で早苗を見たが、早苗自身はその言葉を実感していた。
「あ、足、痛くないです」
早苗は笑顔と共にすっと立ち上がった。
「え、え?」
「紫さんが治してくれたみたいです」
早苗はそういうと、地面に投げられていた御柱まで歩み寄った。
「さ! 行きましょう。八坂様、洩矢様」
「う、うん!」
「そうね」
「お~ようやく動き出しましたね~」
そんな三人を、文はバシバシと写真に収めていた。
「行きますよ!」
そして再び走り出す二神と一人。
(四)
「はぁ! はぁっ!」
さすがに御柱を担いで数十分も走ると、早苗の息が荒くなってくる。
「早苗、頑張んなさい! 霊夢に勝つんでしょ」
「そうだよ。負けちゃダメだよ」
「は、はひ。頑張りましゅ」
呂律ももうよく回ってない。こんなことならもっと外の世界で運動しておけばよかったと己の過去を憎む早苗であった。
「あ! 見えてきた!」
諏訪子が指差す先に、里の入り口が見えた。
すでにたくさんの人で賑わっている。
観客が早苗たちの姿を確認するや否や大歓声を挙げた。
その歓声を纏うように、早苗たちは里へと駆け込む。
すると、里の反対方向からも同様の歓声が上がった。
確認するもない。霊夢たちだ。
今博麗霊夢と台頭の勝負をしている。その実感で、早苗は胸がいっぱいだった。
勝負です! 博麗霊夢!
負けたくない。
現人神でも巫女でもなく、一人の少女として。早苗は霊夢と戦って勝ちたいと、勝って思い切り叫びたいと。初めて心の底から思ったのだった。
何故か別々の方向からやってきた御柱というサプライズと、どっちが勝つか分からない祭りのクライマックスに、里は今までにないくらいの活気と熱気を孕んでいた。
「ほほぉ~この結果は……」
それらを上空から見ていた天狗が、レースの結果に感嘆の声を上げたのだった。
(了)
台頭ではなく対等では?
信仰の取引云々はなんとも言えませんが霊夢と早苗さんのライバル関係は対等でこそもっとも輝くんですね。
でうすえくすまきなー
でも作者がババァを愛してるなら仕方ないね