薄暗い地下室には、ただ一つの光源である燭台と、寝床の横の丸机。
そして、一人用には余りに広い、真っ白なシーツの海。
その海から上半身を起こして来訪者を見る、炯々とした紅い瞳。
香るような明るい髪が揺れ、無邪気な笑い声が響く。
そこから発せられる明るさに導かれるように、目の前までゆっくりと歩いて行き。
その笑顔の頬に柔らかい、触れるような口づけを、吸血鬼は落とす。
「いらっしゃい、お姉様!」
くすぐったさと純粋な歓喜を混ぜて笑いながら、その金髪の女の子は姉を見上げる。
「ええ、お邪魔させてもらうわね」
青白い吸血鬼も、微笑みながら妹の隣に腰を下ろした。
吸血鬼が、五歳か六歳か、そんな時であった。
無邪気に、本当に楽しそうに何もかも壊す小さな妹を見て、
ああ、この子は普通には生きられないだろうな、と、妙な諦観と共に彼女は思った。
気がつけば、周囲の何もかもは壊されていた。自分に抱かれる、生まれたばかりの妹に。
彼女の中でまだ妹の位置が定まっていない頃であったが、世界は無情に選択を迫る。
酷い喪失感と、それでいてどこかでこうなることを予感していた諦めの中で、吸血鬼は自分の妹を思った。
抱いたその体を、顔を、頭を、ゆっくりと、壊れものに触る様に撫でながら。
自分の腕の中で、血まみれなのに、この世で最も清らかな無垢を湛えて眠るその顔を、何よりも綺麗だと思った。
この顔は、この妹が己を知り、他者を知り、全てを知った時、二度と見られなくなるのだろうか。
自分の力へ向けられる感情を理解した時に、戻しようがないほどに汚されてしまうのだろうか。
この子は、その時が来ても生きていけるのだろうか。
彼女が得た、ただ一人の肉親への初めての愛。
とにかくこの寝顔を、暴れる時の楽しそうな笑顔を、生まれたばかりの心を、そのまま守り続けよう。
そうすれば、何もかも壊してしまうお前でも、ただ一つ、己の心だけは壊せないだろう。
体躯のさほど変わらぬ妹を膝に乗せ、透き通るような髪をゆっくりと手で梳く。
「ねえ、最近私、本を読んでいるの。外についての本よ」
青白い吸血鬼にされるがままになりながら、妹は相変わらずとても無邪気に話しかける。
「そう、穏やかじゃないわね」
「どうして?外はとても楽しそうなところよ」
妹の真白い耳に口を寄せ、そっと呟く。
「違うわ。外はとても怖いところだよ」
耳に当たる吐息にくすぐったそうに身をよじりながら、妹は笑顔を絶やさない。
「ええー、本当?」
「本当さ。私がお前に嘘を言ったことがあるかい?」
「お姉様は嘘が服を着て歩いているような人だと思うわ」
ぷく、と、口をふくらませて妹は抗議。
「そうかしら?ふふ、でも、こればかりは本当よ」
「でも私、外の色々なものに触れてみたいわ。そしてくしゃっと壊すの」
妹が手を握ると、壁の一部が破裂したように崩れた。
「どんな感触がするのかしら」
目を輝かせる妹に、吸血鬼は呆れた様子でその頬をなでた。
「どこだって、ここと変わらないわよ。壊す感触だって、何も変わらない」
そう言って、妹を真っ直ぐ見つめると、その唇に己を重ねる。
互いが軽く触れただけで、すぐ離れた。
「何も変わらせない」
きょとんとしている妹の瞳は、そこに何も反射しないくらいにただ紅かった。
「ただいまー」
灰のような銀の髪を揺らして、この妹は本当に唐突に帰ってくる。
書類と睨めっこしていた顔を上げ、紫色の短髪が声の方向を向く。
「おかえりなさい、一週間ぶりね」
「そんなになるかしら?」
椅子に座ったままの紫のさとりに、妹は近づきながら尋ねる。
「なるわ。もっと頻繁に帰って来てくれると嬉しいのだけど」
「努力する」
そう言って、背後から姉に抱きついた。首筋に顔をつけ、銀と紫が軽く触れあう。
「外に何か、楽しいものはあった?」
紫の姉は胸の前に回された妹の手に、自分の手を重ねながら。
押し付けられる体からは、微かに血の匂いがした。
「ええ、楽しいことだらけよ。恋するみたいに」
背中の妹の顔は見えない、でも、きっと笑っているのだろう。
紫髪に隠れた首筋に、柔らかい感触がした。と、同時に、痛いくらい強く、そこを吸われる。
「お風呂入って、寝るわ」
たっぷり三十秒くらい経ってから、そっと、銀髪の触れるくすぐったさが首筋から離れると、耳元でそう聞こえた。
鼻唄混じりに、くるくると踊る様に部屋を出ていく妹の後姿を見送りながら、姉は首筋についた痕にそっと触れた。
妹から心が消える以前のこと。
灰髪の妹は紫の薄暗い姉のさとりと違って、とても感情豊かだった。よく喜び、よく笑い、よく泣き、よく怒った。
心優しく、清らかで。この能力のせいで見えてしまう決してきれいでないものや、直接浴びせられる誹謗の中にあってなお、折れることなく真っ直ぐな娘だった。
誰かと互いに心を繋ぐことを、いつまでも夢見ていた。
だから姉は、そんな妹を強く信じていた。
姉の中で妹は、希望に近い存在だった。
段々とその感情から喜びに関するものが減り、悲しさが反比例するように増えても。
妹が、傷だらけで、力なく笑いながら帰って来ても。何度となく、自分の能力に対する疑問と弱音を吐いても。
今は辛くても、いつかきっと、その運命を乗り越えてくれると信じていた。
自分のような悲しい生き方をしないで済むかもしれないと信じていた。
やがて、妹の心が、その髪色のようになり、その顔から心底楽しそうな笑顔以外が消えても。
姉は妹を憐れみはした、気づくことのできなった自分を責めもした。
しかし、そうなってもなお、残酷なまでにさとりは妹を信じている。
あなたは強い子ですもの、ねえ?私より、ずっと……
卓を挟み、紅茶を前に向き合うは、紅き館の当主と知識の魔女。
「あの子に本を渡した」
当主は腕を組みながら、椅子に深く腰掛けて、呟くように低い声を発する。
「余計なことだったかしら」
受ける魔女は、本から視線を外さない。
「かなりね。殺されてしまうわよ」
「誰に?」
答えは返ってこない。
魔女はゆっくり本を閉じて、目の前の吸血鬼に向き合う。
「悪いことじゃないはずよ」
「私はあの子を守らないといけないの」
姉が発したのは、呻くような声だった。
「知らなければいけない」
「知らなくてもいいんだ」
「あの子のためよ」
「それが何なのかは、私が一番よくわかっている」
魔女は射殺されるような視線に、深くため息をついた。
「知ってさえいれば、いつか……」
「いつか、何?」
目の前の、姉の表情が変わるのを見た。
そこには、怒りも、悲しみもなかった。
問いかけるように微笑んでいるのだ。
純粋に、その『いつか』が何のことなのか、この姉は理解出来ていない。
言いようのない息苦しさを感じて、言葉が詰まる。
魔女は空気を変えるように、言いかけた言葉を、紅茶と共に飲み下す。
「……悪かったわ、今度から気をつける」
「そうして頂戴」
そう言って当主も、すっかり温くなった紅茶を飲んだ。
からん、と、来訪者の履き物の音が玄関に響く。
ペットに知らされて、出迎えにきたさとりは珍しい来訪者に、微かに驚いたような顔をする。
「邪魔するよ」
派手な金の髪を揺らしながら、一本角の鬼は主の意志を問わずに上がり込んだ。
地霊殿の主は紅茶を出したが、鬼はカップにまったく手をつけることなく元から持っていた杯を傾けた。
「何の用ですか?」
「読めよ、そっちの方が面倒がなくて済む」
主の問いかけに、薄く目をつぶって舌の酒を楽しみながら、鬼は突き放すように言った。
主も両目をつぶる、残った胸の目の焦点を絞るように。
「へえ、こいし……あの子はまた……そのことですか」
左目だけを開いて鬼を見る。
「ああ、困っている。私もだが、住人も、その上も」
鬼も右目だけで見つめる。
「旧都は元より無法の街。殺戮で咎められるようなことも、妖怪にとっては馬鹿らしい」
「限度ってのはある。決闘は許すが、一方的な殺戮はその限りじゃない。特に妖怪同士ならな」
主は一口、紅茶を飲んだ。
「潔白なのね、鬼という種族は。それともあなた自身かしら」
「鬼は元々そんなもんさ。私より、それが行き過ぎちまった奴もいる」
鬼の心に、淡い茶の髪と二本の角が浮かぶのを、一瞬だけ見た。
「……こいしのことですけどね」
主は話題を戻す。
「あの子がやりすぎるようなら、制裁でも何でも、強引に止めてもらって構いませんよ」
目の前に映る心が、微かに波打つ。
「あの子の身体能力なんて、私と似たようなものです。鬼にかなうはずもない」
心も、もう読むことはできませんし。
そうして、さとりは笑った。
長年染み着いた、不気味で、何もかもを見透かすような、誰もが嫌う笑顔だった。
「わかっていてそんなことを言うのだから、好きになれないんだよ、お前は」
一気に酒を飲み干す鬼の色は、怒りで染まっていた。
「あいつを、並の鬼や妖怪で倒せるものか。私か、他の二人が出張る必要がある」
「なら、どうぞあなたが。なんなら、お二方でも。それとも、あの方でも……」
「そこらで、やめておけよ」
怒りの色は、底冷えのするような青のイメージに変わる。
さとりは言い掛けた言葉をしまい、笑顔をやめた。
「すいません、言葉が過ぎました」
「……お前さんの気持ちも、わからんでもないさ」
鬼は、心をゆっくり冷ますように。
「私が出張るにしろ、お互いただでは済まなくなる。あいつに、限度のある決闘……弾幕ごっこで済ます意識があるのかどうかが」
「難しいところですからね」
鬼が望めば、飲み干した杯からもまた新たな酒が湧き出る。
満ちた杯の水面を揺らした。
「一番いいのは、あいつをここから出さないことだ。結局お前の監督次第だよ」
「だからこうして、あの子ではなく私に言いにくる。旧知の仲は大変ですね。私と少し親しかっただけで、したくもない仕事も押しつけられて」
「そう思ってくれるなら、もう私をここに来させんでくれ」
主と鬼は苦笑しながら、同時に、各々の飲み物に手をつけた。
「あの子の監督は、努力しましょう。でも、もっといい方法はあります」
ゆっくりと、カップに両手を添えて置く。
「あの子自身が、変わるんです」
さとりの視線は遠い何かを見るように。
「いつか、今の自分を乗り越えて、もう一度目を開く。心を、取り戻す」
「出来るのか?」
問う鬼の声は、何かを諦めたような。
「私は、あの子を信じていますよ」
姉は笑う。
純粋で、美しくて、先刻とは比べものにならない、きれいな笑顔。
けれどそれに、前よりも得体の知れない嫌悪を、鬼は感じていた。
「まあ、頼むよ」
それだけ言うと、鬼にあるべからざる、不味そうな顔で酒を飲み下した。
薄暗い地下の図書館に、耳障りな笑い声が響く。
「あはっははははは!!ひぃー、いや、すみません、くふふ」
小悪魔は前後左右、本に囲まれた空間に浮かびながら、重力の存在を感じさせないような浮遊で腹を抱えて転がる。
「いやいや、まさかそんな……いい笑い話ですねそれは、す、ふふ、素敵な喜劇です、あはは」
上下反転し、深く濁った赤の髪を逆さまに、見た目通りの童女のように笑う。
その光景を、椅子に座って主人は苦々しげに睨みつけていた。
「いや、しかし、酷い御方ですね、お嬢様も」
ようやく落ち着いてきたのか、目の端に溜まった涙を拭いながら、ゆっくりと重力に従った向きに戻る。
「お前に何がわかるの」
彼女の主人は相変わらず、射抜くような眼光を向けながら、呻くように呟いた。
「そりゃ、当人以外にその気持ちなんて理解できませんがね」
「お前にそれを笑う資格はない」
小悪魔は、薄く笑いながら主人の話に耳を傾ける。
「あの姉は、何に代えても妹を守ろうとしているだけなのよ」
それをさらに強く睨みつけながら。
「たとえば正しい姉妹の関係とか、そういうものがあったとしたって」
そんなものを、お互いに寄り添って、ぶつかり合って築いていく前に。
誰かに教えてもらう前に。
妹を、守らなくてはいけなかった
友の想いを知る魔女は、静かに声を荒げる。
「ただ一つ抱いた愛を拠り所に、それを続けてきた想いが、お前に」
それを、今更捨て去ることが出来ないほどに歪ませた年月が、目の前の悪魔に。
「それはまあ、何とも悲壮で歪んだ愛ですね」
それでも、小悪魔は退屈そうな表情で髪を指に巻き付けながら言う。
「そんなもの、知っていたところで、あの可哀想な妹様の現状が変わるわけではないでしょうに」
雨戸と障子を開け放ち、床より少し高い窓枠に座りながら、苦い顔で鬼が酒を飲んでいた。
二階であるここからは、旧都がよく見える。
夜しかないから、夜を知ることがない街の、絶えることない明かり。
青い着物一枚だけを、引っかけるようにだらしなく羽織り、金の髪を揺らす。
「ふふふふ、あはっ!そんなことになってるの、あそこ?」
鈴を転がすような笑いが、大して広くもない畳の和室に響く。
襦袢一枚の橋姫が、部屋の中程に敷かれた布団にうつ伏せになりながら、枕に頬をつけて、窓に座る鬼を見上げていた。
「お前にはわかるまいよ」
鬼は橋姫の濁った緑の瞳を横目に一瞥すると、また杯を傾けた。
「わからないわね」
橋姫は、うつ伏せから、ごろんと横向けになると、体を丸めるように片足を抱く。
「あれは、あいつにとっての希望なんだろうな」
鬼は、紫色の薄暗い、それを思う。
「昔にあった、自分と違う、妹の心を、強さを、生き方を、心のどこかでまだ信じている」
疎まれ、誰からも避けられるそれを。
「自分達が夢見た理想の生き方が、妹なら出来ると」
その中で、その目に映る、灰銀の妹を。
「それが妹の幸せでもあるはずだと」
自分と同じ諦めを、誰が愛する者に味わわせたい。
「素敵じゃない、妬ましくなるほど歪んだ愛だわ」
それでも、橋姫はそれを笑う。
立ち上がり、鬼にゆっくりと近づきながら言う。
「そんなもの、わかっていても、あの空っぽな妹の何が変わるのかしら」
そして小悪魔は、またもおかしそうに笑いながら、主人を見つめる。
「でも、一番残酷なのは周りの人ですねぇ」
そして、けしからんという風に、頷きながら。
「何で誰も言ってあげないんですか」
鬼の側まで来ると、視線の高さを合わせるように体を屈める。
「でも、一番わかってないのは周りじゃない?いや、わかっていて、しないのかしら?」
鬼の耳元に口を寄せ、そこにかかる透き通るような金と、寄せる顔にかかる鈍い金が触れ合う。
「何故、誰も言ってあげないの?」
テラスで一人、夜空を見上げる吸血鬼。
レミリア・スカーレットは信じている。
変わらぬ、純粋な、決して壊されることない、妹の心を信じている。
空のない旧都、窓から雪を見つめる覚り。
古明地さとりは信じている。
明るくて、優しい、いつの日か戻ってくる、妹の心を信じている。
「それもう壊れてますよ、って」
「それもう直らないわよ、って」
妄信しているのか
其れとも眼を逸らしてるのか
ココロというモノほど 壊れたものは直せない、たとえ直ったと思ってもソレは歪なモノに成り果てているのだろう
だから信じるのか
だから護るのか
愛しいモノほど・・・
こいしもフランちゃんもかわいそうです
穣子が壊れて秋姉妹も仲間入りフラグか・・・
あと妹といえばリリカ・メルラン・レイラがいるが・・・
三姉妹もとい四姉妹は無理があるな
>妹
夢月、夢月ー!!
秋姉妹はどちらかというと姉が壊れそうなイメージがある
ただ、目が痛いです。
最後の二行にこれほど絶望させられたのは久しぶりです……。
最後のとどめが凄すぎる....
なんとも綺麗で哀しいうらはらな姉妹愛。
この2組の姉妹はバックグラウンドが暗いせいか、悲劇も耽美も似合いますねえ。
上の米の方の例にある虹川さんらもその点はクリアしてますね。
逆にそんな風味のなさそうな秋姉妹は満腹まで幸せ姉妹でいいんでないかな、とか。
人間のプリズムリバー姉妹も、確かに末女が狂ってますね。
家族の居ない家にしがみついて、姉によく似た騒霊まで作って。
秋神は……互いに優越感持ってるあたりが歪と言えなくも無い、かな?
そしてそれ故に二つの姉妹の痛々しさがより強く伝わってきました。
妹の境遇を悲しみ、けれどその心を信じる姉。そんな心も知らず、自分を不幸とも理解できない妹。
そんな姉妹を傍から見て、それを哀れに思う者。歪だと言って笑う者。
登場人物の立て方とその組み合わせ。構成のあまりの綺麗さにも思わず感動の息がもれます。
私にとって、鳥肌が立つほど素晴らしい作品でした。
つ※
ひたすら明るいの、期待します
こちらの胸に突き刺さるような迫力。
お見事というしかないです。
胸を抉られた気分だぜ……