Coolier - 新生・東方創想話

幻想郷

2009/02/01 23:22:09
最終更新
サイズ
15.9KB
ページ数
1
閲覧数
1175
評価数
20/48
POINT
2760
Rate
11.37

 私が幻想郷という世界がこの世に存在しているという話を聞いたのはそう遠い昔の事ではない。空想の世界として、または人生に疲れた人間が最後に行き着く終着点――あるいは理想郷として信仰を置かれるその地は、その名が示す通り幻想の代物である。勿論私もその話を最初に聞いた時は「何を馬鹿な」と思った事を確かに記憶している。
 彼の地には妖怪という人間とは懸け離れた生物が跋扈し、人間は強大な力を持つ妖怪に恐怖しながら、それでも尚文明の発達しない世を必死に生き、我々のように日々の焦燥に苛まれながら生き急ぐ毎日を送らずに過ごしているらしいと聞く。成程それは一刻さえ惜しむほどに仕事に明け暮れる我々からすれば理想郷であるかも知れない。が、我々が生きるこの世の中には突発的な怒りの元に殺人を犯したり、自らの欲望を満たす為に殺人を犯したり、または何も判らないまま殺人を犯したりと、同じ種族で在りながら狂悖した行動を取る輩は多く存在する。そういった事を踏まえれば、幻想郷と我々の生きるこの世界とに、大した違いはないのである。少なくとも私は生きる為にはまるで必要ではない殺人が、平然と起こり得るこの世の中の方が余程恐ろしく思える。単なる生物の力関係が成す殺戮ならば、少しは納得も出来よう。

 と、私がこういう考察を持っていても、その存在を心から信じているのか、と問われれば話はまた別である。自白すると私は「幻想郷」という非現実的な世界が、今も我々の知らぬ何処かで存在しているとは思っていない。むしろそれは現実に疲れ果てた誰かしらが一時の休息を得る為に創り出した妄想の類ではないかと疑っている。もしも本当にそんな世界が存在したのなら、この現実に疲れ果てて自殺に踏み切る人間の事が、平然と各メディアの中で報道されてはいないだろう。――が、それでも尚、そういう世界があるのかも知れないなどと思ってしまうのは、私もこの現実に疲れ果てた人間の一人であるからという確かな自覚を持っているからこそなのかも知れない。
 我々の生きる現実は人に優しくない。けれども一握りの人間には優しい。そういう理不尽がまかり通るこの世の中にはほとほと嫌気が差した。私みたような凡人が自殺する事で記者共が騒ぎ立てる事は決して有り得ないのだろうが、もしも私がそういう行為へと走った時に、「幻想郷」への入口が切り開かれたのならば、どんなに嬉しい事だか判らない。が、それも妄言となって笑い飛ばされるのだろう。時代は奇抜な考えに冷たいのだから。







 何時ものように仕事へ出向く前のニュースを目にした時だった。そこにはわざとらしい焦燥を顔面に張り付かせた記者が映り、マイクを片手にある事件の現場を取材しているところであった。
 その事件は最早皆が知っている有名な事件である。何処ぞの神社が一夜にして姿を消し、そこに住まう一部の住人を除いた全員が惨殺されたという稀有な事件の一つであった。テレビの中では記者が守矢神社界隈に住む住人に話を聞いている。その中で顔に靄を掛けられた人間は、一様にして同じ事を云っていた。曰く「何も判らない」、曰く「朝、起きてみれば神社は消えていた」、曰く「化け物の仕業だ」、――曰く「あそこの巫女がやった」。
 巫女とは件の神社に住まう人間の一人であったらしいが、どうもその巫女は妙な力を持っているらしい事をテレビの中で名も知れぬ人間が話している。興味深そうに頷く記者は、へえと云いながら熱心にその話を聞いているが、やはりそこから仕事に対する焦燥は拭い切れていなかった。如何に凄惨な事件が起ころうとも、その地に向かう記者は決して心の内に気の毒だ、と思う同情など感じない事だろう。彼らは等しく自分の生活の糧の為に、一種使命感のようなものを感じながら赴くのだ。我々とて同様である。自分とは何の関係もない神社で殺人が犯されたとて、特別感じる事はない。
 ふとテレビの隅に表示されている時刻を目にすると、そこには会社へ出勤しなければならない時間を疾うに過ぎた時間が残酷に映っていた。漸く我に返った私は、傍らに置いてあった鞄を取って、テレビを消し、ネクタイも曲がったまま家を飛び出した。そうして先刻テレビで見た内容などすっかり忘れて、満員電車へ駆け込むべく、寒空の下を駆ける羽目となった。とかくこの世は住みにくい。少しの遅刻でさえ説教の対象となるのだから。



 すし詰めとなった電車の中で人の背中を押し、人に背中を押され、暑苦しい思いをしながら強すぎる香水の臭いに辟易されていると、どうしてこんな目に遭っているのだろうと毎回不思議に思う。そんな考えてもどうしようもない事は、それでも私を苛めたまま離さないのである。こういう電車に乗って会社に行かねばならない運命を選んだのは紛れもなく私なのだから、それも道理なのだ。幾ら不満を感じたとて、それを吐露する相手は居ない。
 がたんと揺れる度に増す圧力が鬱陶しい。何処かで「痴漢だ」と叫ぶ声がする。そうして「やってない」と叫ぶ声が後から続く。後者は若い男の声であった。年端は私とそう変わらないだろう。騒いでいる中心を見ると、周囲の乗客に羽交い締めにされているのは実に誠実そうな男性であった。その傍らで怯えている女子高生は、そんな男を冷罵するように冷たい視線を向けながら鞄を胸に抱えている。私はそのすぐ傍でそそくさとその場を離れて行く中年の男性を目にしたが、私とは何も関係のない事だから敢えて何かを云う事もしなかった。
 ――次の駅で、在らぬ疑惑を掛けられた男性は強制的に電車を降りる事になった。



「遅刻するのは好いが、言訳の一つでもしたらどうかね」

 偉そうに煙草を吹かしながら上司の上島は云った。そうして黙っている私を見て腹を立てたのか、その声に含まれた怒気は更にあからさまになり、声量も大きくなる。背中からは同僚達の注目の視線を感じられるけれども、別段嫌になる訳でもなく、私は無表情を作りながら上島を見詰め続けていた。上島はやがて、机をばんと力強く叩いた。

「聞いてるのか。遅刻をした理由の一つでも話してみろと云ってるんだ」
「寝坊です。電車の時間に間に合いませんでした」
「ならさっさと云え! 無駄な時間を取らせるな馬鹿野郎!」

 こうして頬を張られるのも、上島の機嫌が悪い時には普通の事である。実際私は、今の私のように上島に殴られる同僚を何人も目にしたし、それが部長という平社員では決して逆らえない立場に居る者からもたらされる打擲であるのなら、度し難い怒りを感じたとしても耐えねばならない。だから私は殴られた後も、無表情のまま謝った。上島は未だ不機嫌な面持ちをあからさまにしたままである。私はこの上島という人間が、どれだけ権力に縋っているのかを思うと憐憫の情さえ感じた。この男から権力が失われたのならば、どれだけ陰惨たる様を呈するか、想像するのさえ哀れである。

「すいませんでした」

 そう云うと上島はふんと鼻を鳴らして、私から目を背けた。どうやら「天下の上島様」にも仕事はあるらしく、私なぞに構っている余裕はないようであった。私はそれなり自分の机に着くと、じんじんと痛む頬を摩りながら、昨日家に持ち帰った仕事を机の上に出し始める。ところへ隣の席に座っている友人の佐藤が声を掛けてきた。

「災難だったな。あいつ、昨日社長の飲み会に散々付き合わされたんで気が立ってるらしいんだ」
「どうりで苛々していると思った。俺に非がないと云えば嘘になるが」
「全部あいつの所為だって。事あるごとに責任を俺らに擦り付けようとするんだから」
「上島も必死なんだろうよ。ほら、此処にはお前みたいな優秀な奴がいるからさ」

 そういうと佐藤は頭を掻きながら「馬鹿云うな」と云った。佐藤はこの職場の中でも、最も将来を有望視されている社員である。金だコネだを使って部長の座に居座ったと噂されている上島と比べて、持前の実力を発揮した上での期待だから、部長が変わるのも時間の問題ではない。元々人間の移動が激しい会社だったから、大した実力も持たない上島はすぐに切り捨てられてしまうのだ。だからこそ、今も上島は必死になって仕事をこなしているのだろう。

「まあ、お前は要領悪い所あるからな。すぐ謝っておけば殴られる事はなかった」
「どうもそれが苦手でね。殴られる方がマシかも、なんて思えてくるから参る」
「お前って変な奴だよな。何だか浮世離れしてるというか、俺らとは何か違う」
「褒め言葉として受け取っておく。俺なんかは平凡で何の取り柄もない野郎なんだがな」

 卑屈だなあ、という佐藤の言葉は軽く流して、私は仕事に取り掛かり始める。時計を見れば、当然昼の休憩までに残された時間は有り余っている。一瞬にしてこの時が過ぎてしまえば好いのに、などと思ったが、そんな事が起こればそれこそ大事件である。私は嘆息を一つ零しながら、目の前のパソコンに向かい始めた。



 昼休みになり、適当な食事をコンビニで買ってから、私は本来立ち入り禁止であるはずの会社の屋上に一人佇んでいた。鍵を壊してから入れるようになったが、此処へ来る人と云えば掃除係の伊藤さん以外に居ないので、安心して一人の時間を過ごせる。伊藤さんは私のこの行動に対して、寛容な心を見せてくれている。
 今日もそんな時間が何ともなしに過ぎて行くはずであったが、昼食を食べ終え、汚い空気に汚染されて濁った空を見上げた時に、背後から突然声を掛けられた。若い女性の声である。私は驚かずにはいられなかった。

「こんにちは。こんな所でなにをしているの?」

 振り向くと、そこには綺麗な女性が穏やかに笑みながら立っていた。凡そ現代人とは思えぬ奇抜な服装は、似合ってはいるもののこの世界とは何処までも懸け離れている。お伽噺の中から飛び出てきた登場人物を見ているような心持ちになって、私は目の前の女を見詰め続けるしかなかった。声を発する事さえ忘れていたし、得体の知れぬ恐怖さえ感じる。女は尚も穏やかに微笑みながら、私に向かって話しかけてくる。

「驚いたかしら。この世界には私みたいな生き物は居ないから」

 女の言葉は何処までも不可解である。何を云っているのかまるで判らない。

「まあでも夏の夜に見た夢だとでも思って頂戴。すぐに忘れる儚い出会いなのよ」
「……君は一体」
「貴方が思った通りよ。化け物、妖怪、幽霊。人間は自分の知識の範疇にない事象に遭遇すると、皆一様にしてそういう括りを作るでしょう。貴方とて同じ事。“こんな妙な格好をしている女が常人であるはずがない”とでも思っているんじゃなくて? だとしたらそれで構わないわ。化け物も妖怪も幽霊も、私からすれば何も変わらない」

 女は私をからかうようにくるくると回りながら、日に翳した傘で身を隠して見せる。そうしてその傘が落ちると、そこには既に女の姿はなく、屋上に備えられた給水タンクが佇むばかりである。ところへ、後ろからまたあの女の声がする。

「こんな力は目にした事が無いでしょう。微かに震えているわね。無理もないわ、何もない所でいきなり消えて、何もない場所から突然出てくる能力なんてこの世には存在し得ないもの。だから貴方はまずこう考える。“誰か他の人を”“後で話しても信じて貰えないかも知れない”“もしかしたら危害を加えてくるかも知れない”」

 女の眼光が鋭く光る。捕食者が獲物に向ける燐光が私に向けられているようで、背筋が寒くなる。獰猛な生物はか弱い獲物を目の前にしてすぐに襲い掛からない。確実に仕留められる状況、決して仕損じる事のない状況に遭遇した時の獣は何処までも残酷な生物に変貌する。目の前の女が瞳に湛えた光はそれと何も変わらなかった。私という小さな存在など少し捻るだけで消してしまいそうな強大な力が私にも感じられる。それだから私の口は震えたまま、女の言葉に碌な返事も出来ずにいた。遠く何処かを飛ぶ飛行機の音が、大空に響き渡っている。

「安心して、私は何も貴方を取って食おうとして現れた訳じゃないのよ。ただ少しだけ興味が湧いたから声をかけてみただけで、この行動に深い意味がある訳じゃない。――質問でもすれば気が紛れるかしら? 貴方、幻想郷って知ってる?」

 そう云って女は屋上を歩き始める。私は女に敵意が無い事を確認すると、漸く安堵してその声に耳を傾ける事が出来るようになった。それでも払拭し切れぬ違和感は常にあったが、それを気にしても女は掴み所のない笑みを浮かべるばかりなのだろう。無駄な問答は何も実らせない。私にとって一番重要なのは、女の言葉を聞く事である。こちらを見て首を傾げている女に「知らない」と答えると、彼女は妖しく笑って、また歩き始めた。

「幻想が還る郷、幻想が逃げてくる郷、何もかもを受け入れる鷹揚な“私達”の故郷」
「それはこの世界に存在する物なのか」
「この世界に在って、この世界には無い。隔絶された世界の断片に在りし狭い土地。それが幻想郷」

 要領を得させる気がないように思われる女の話振りは、到底私の理解が追い付く代物ではなかった。それを理解しようとすれば、煙を掴もうとするが如くそれらは空に立ち上って消えて行き、後に残るのは空虚な手の平だけである。かと云って更なる煙を起こしても、やはりそれを掴む事は叶わず、全ては闇に溶けて行く。――女はそんな私を一瞥すると、楽しそうに笑んでからまた話し始めた。美しい、けれども妖しい艶のある笑みを浮かべながら。

「貴方は此処に居ない」
「居ない? 俺が?」
「そう、貴方が。この世界の上に立っていない。まるで不安定な氷の膜を隔てて、その上に立っているかのよう」
「云っている意味が判らない。俺は確かに此処に居る。生活だってある」

 女はふふと笑って、私に一歩近付く。

「確かに貴方には生活があるし、所属している場所もある。けれどそれが自己の証明になるかと云えば、それは違う。自らを括る為に集団を形作るのは人間じゃないわ。人間は自分を自分として認知しなければ自己を確立する事が出来ない。百年も持たない脆弱な肉体はそれが精一杯。逆に強靭過ぎる肉体を持つ者は自身の境界が曖昧で、一人では自分を定義する事が出来ない。他者を以て己が精神を安定させる。それが唯一の方法」
「だから何だ。俺は俺だ。他の誰でもない」
「“しかし現実に絶望している”」

 女の指が、私の頬をなぞった。

「取るに足らない些事が人生を左右する世の中に、大した能力も持たない人間が威張る世の中に、生きる為に必要な意義も存在し得ない世の中に、――絶望している。そうじゃなくって?」

 甘い香りが鼻孔を擽る。頭が回る。意識が一瞬途切れそうになる。他人を狂わせる狂気の匂いだ。美しき花が持つ恐ろしい毒だ。私はそれを嗅いだ。このままでは命が幾つあっても足りそうにない。自分が何を考えているのかも判らない意識の中で、私は何とか頷いた。女の云う事は私の心の深層に潜んでいた絶望感を確かに云い当てている。私自身も気付かないように、一片の光さえ当たらぬ深い闇の底に沈めた醜悪な塊を、掬い上げてしまった。

「絶望は現実との乖離の兆し。氷の上から足が浮き上がる前兆。貴方はこの世界の住人でありながら何処までも浮世離れしている。幽霊のようだわ。掴み所がなくて目立つ事もない。けれど、特定の者には見えてしまう」
「だから、どうした」
「それが幻想、この世にあるはずがないモノ。そして幻想郷は――」
「……幻想が還る郷、幻想が逃げてくる郷」

 無意識に漏らした私の言葉を聞いて、女は満足げに笑った。

「行けるのか、幻想郷に、俺が」

 私の声は心持ち震えていた。何故だか判らない。或いは感激の余りに生じた震えなのかも知れない。或いはこの女によってもたらされた恐怖の震えかも知れない。

「さあ、それはどうかしら。貴方の存在が真の幻想に近付いたのなら、或いは」
「ならば、幻想とはなんだ」
「幻燈の先に揺らめく陽炎」

 女はそれだけ云って、また笑った。二の句は紡がれなかった。ただ無機質な金色の眼が私を捉えている。まるで世の中の時間が止まったように思われた。屋上に吹く風は凪ぎ、眺望する事が出来る都会の海はことごとく森閑とした。駆ける車の音でさえ聞こえず、深海に沈み込んだ心持ちである。――やがて女は踵を返した。行く先には何もない。柵を隔ててこのビルの屋上の最果てがある。女はその柵まで歩くと、不意に私を顧みた。

「そうでなければ、人という枠を超えた所にある境地」

 一陣の風が吹く。目に塵が入ったのか鋭く痛み、僅か数瞬の間目を閉じた。そうして再び開いた時、あの女はそこに居らず、灰色の空が何処までも広がっていた。星が消えて死んだ空。







 満員電車に揺られて、通勤する日々は続いている。「天下の上島様」は異動に伴い私の所属する会社からは居なくなった。今では新たに部長の席に就く事になった佐藤が、私達の仕事場を仕切っている。彼には才能があった。同僚達も一昔前とは全く違った風で仕事に励んでいる。殺伐とした空気はそこから消え失せて、たまに催される宴会も楽しげな賑わいを見せている。何時か佐藤は部長に就任した時にこう云った。
「生きていれば好い事だと思えるような事に、一度は出会うものさ」
 私はその言葉を今も忘れられないでいる。一条の光を私に向かって投げ掛けたその言葉は、不思議な重みを持っていた。それだから私は今も窮屈な世界に身を置いている。幻燈の手前にある醜い世界は、そうして静かに動いているのだ。

 ――が、それでも私は忘れられない事として、彼の世界への憧憬をこの胸の奥底に秘めたまま毎日を生きている。私の人生の中で最も衝撃を受けたあの日、得体の知れぬ女が遺した言葉は、その魅力を一層際立たせて日々の焦燥に苛まれ、劣化して行くこの精神に甘い誘いの声をもたらしてくる。――その世界の名は「幻想郷」、幻想が還り幻想が逃げて行く理想郷。それは今この瞬間も、この世界の何処かで、ひっそりと佇んでいるのかも知れない。幻燈の先に揺らめく陽炎の中で。

 ところで、冒頭にて述べた事柄は、我が生涯に於いて最も衝撃を受けた経験をしたあの日から、幻想郷に関して私が調べ上げた結果、導き出された解釈の一つである。決してそれが「幻想郷」という世界を表しているという事はない。全ては私の妄言の類―― 一人の凡人が辛うじて持つ事となった解釈の一つである。彼の世の真実を知り得るには実際にその地に足を踏み入れねばならない。それが出来なかった私は、こうして勝手な推測を遺す事しか出来ないのである。
 私は今でもその地の存在を信じる事が出来ない。現実に疲れ果てた人間が生み出した逃避的な非現実的精神の理想郷だと考えている。けれども、仕事を終えて疲労に呻吟する肉体を家まで引き摺って来た時に、私はふと思う。もしかしたら本当にその地はあって、私がそこへ行く事も可能なのではないのかと。それは冒頭に示し出した通り、私もこの世に疲れ果てた人間の一人で、妄想の世界に逃げようとした惨めな姿の顕現なのかも知れない。

 私の人生の一部を切り取ったこの文書を書き終えて、私は机の引出しの中を見遣った。その中には何にも包まれていない、冷たい輝きを放つナイフが電灯に照らされて鈍く光っている。これで脈打つ手首を切ったなら幻想郷行けるのだろうかと幾度も考えた。
 が、その確証がない以上そんな狂った行動には走れない。私は過去も現在も未来も同じように満員電車に乗りながら会社に向かうのだろう。そういう運命が人間を縛り付けて、与えられた役割を碌々とこなさせる世界になっているのだ。願わくばあの女が再び私の前に現れん事を、今も切実に願っている。――












――了

 
ある行方不明者の手記より抜粋。 
twin
http://touhoudream.blog.shinobi.jp/Entry/105/#more
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1200簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
幻想郷と現実世界の話って大抵「幻想郷は素晴らしい!」だけで終わるけど、これはそういう訳でも無くて良かった。
2.90名前が無い程度の能力削除
いい雰囲気。
彼は逃げ出せたんだろうか。
3.10名前が無い程度の能力削除
発想自体もさほど珍しくは無いし、展開からオチまでが読めてしまいやすかったです。正直捻りが足りないと感じました。
4.100名前が無い程度の能力削除
あなたの書かれる文章は実に美しい。
6.80煉獄削除
あの早苗の話とはまた別の視点から捉えたお話ですか。
その会社員の心の疲弊などが見事に表されていたと思います。
ちょっと新鮮で面白かったですよ。

誤字と他なにかの報告
>私みたような凡人が~
ここですが「私のような凡人が」なのか「私みたいな凡人が」なのでしょうか?
>全ては私の妄言の類――一人の凡人が~
ここですが罫線と一が重なっています。
以上、報告でした。(礼)
7.90名前が無い程度の能力削除
何とも表現しがたい、でも嫌いではない類の余韻が残りました。
8.60名前が無い程度の能力削除
幻想郷に行きたいと思ったことのない東方ファン(絶対少数派だ俺は)の感想、になります。もうすげー正直言って、ゲームもアニメもパソコンもねえ世界はまっぴらです。
精神的に発達してようがそれがどうしたってなもんです。ぼかぁ又聞き程度がベストです。
なので、正直、読む価値がないかもしれません。

幻想郷観っつーと、言葉の選びが陳腐ですかね。ですね。
まーまー(疲れ果ててるかどうかは別として)幻想郷って妄想の類でFAなわけですよ。
幻想郷を好むそれぞれが、それぞれ異なった幻想郷を妄想してる、ってのが面白いとこなんですが。
で、あるわけないと思いつつあったらいいなと思ってしまう、というのはベタっちゃベタですが、語り手を(SSとしては)特殊な人物にする、ちょっと屈折させた描き方はいいですね。
ただ、直接幻想郷の人に語らせるのではなくて、読者側の人間に読者の思考を代弁させる……ってのは一番面白いところであると共に、「東方ならでは」のギミックが仕込みにくいので、欠点になりうるかなと思わなくもありません。作中では紫を登場させてましたけど。
「幻想郷」を別の作品の舞台(ヴァナ・ディールとか)に置き換えて、紫の登場シーンを別キャラにしちゃえば、東方じゃなくても話成り立つんじゃないのーとか、思わないといえば嘘になりますから。
いや、話自体の完成度とは別にして。
語り手の辿る顛末や安定した文章なんかは楽しく読ませて頂きました、はい。面白かったです。
13.70名前が無い程度の能力削除
どこの同人でも(それこそ東方じゃなくても)よくあるネタなぁ。
だからこそ作者さんの文章の綺麗さが光りました。
うまくまとまってるなーという感じがするのですがどうもおとなしくまとまりすぎてるというかなんというか、ここまでの文章かけるなら構成がもっとびっくりさせてくれたらなとか贅沢な願望。
14.90名前が無い程度の能力削除
一部難解な漢字があり、少しだけ読み辛い感がありました。
しかしそれがまた作品の雰囲気を引き出しているのでしょうか…。
17.100名前が無い程度の能力削除
シンプルな設定だったので文を見ました。
相変わらずきれいな文でした。
18.90名前が無い程度の能力削除
せめて彼の地に辿り着ける事を願う。
25.100☆月柳☆削除
読み手を引き込む上手さを持っている、そう感じさせるお話でした。
26.100名前が無い程度の能力削除
無駄が無く洗練された文章で読みやすかったです。
なんとなく構成がラブクラフト風という感じを受けました。
27.100名前が無い程度の能力削除
なんだろう・・・わからない
30.20名前が無い程度の能力削除
紫の選定基準が分からない
現実に絶望してる人間なんて星の数ほどいるだろうし、そのすべてが向こう側へ行けるとは思えない
そもそも、優秀な平社員が無能な部長のポストを奪うという発想自体が幻想
34.50名前が無い程度の能力削除
何というか現実社会の表現が、社会に出て働いたことが無い人が描いたサラリーマンという感じでした。
ラストも逆にそれがあるせいて在り来たりなものになっているように思えました。
35.60名前が無い程度の能力削除
とりあえず行けたとしても上白沢先生の所で保護してもらわないとね。
喰われるから。
40.90名前が無い程度の能力削除
タイトルが幻想郷なのに現実的というか・・・
幻想が題材の作品なのになんというかもうね

おっと、これ以上グダると慧音に叱られるからやめておこう

文章も綺麗にまとまってて読みやすかった
って慧音先生が言ってました
45.70名前が無い程度の能力削除
この主人公に紫が現れる理由を、もうちょっと具体的に書いたら良かったのではないかと。
47.100dai削除
幻想郷に行ってみたいという気持ちが一回だけなら行ってみたいになりました。