雪の歌
ある冬の朝。
幻想郷は大雪に見舞われ、大量の雪が高く降り積もっていた。
「う~さっぶ~。またどこぞの亡霊が春奪っちゃってんじゃないの?」
私は境内に積もった雪を眺めて体をぶるりと震わせた。
雪は昨日の内に降り止んでしまい、今は突き抜けるような青空が広がっている。
境内にはおよそ三十センチは雪が積もっていて、それを見て私は早速気をげんなりさせる他ない。
「はあ……誰か変わりに雪かきしてくれないかなあ」
視界を覆うくらい大きな白い息の塊を吐き出す。
言っていても仕方が無い。普段から真面目ではないと指摘されていて自分でもそうかもなどと思ってはいるけど、神社の雪かきを怠る程落ちぶれているつもりはないから、シャベルを持って重い手取りで雪をどかしていく事にする。
ちゃんと参拝者が来れるようにしないといけないし。
………………。
参拝者……来るもん。
「こんな時に限って雑用押し付けられるような妖怪共は来ないし……」
ぶつくさ言いながら作業を進めていた時の事だった。
「……ん?」
石段から誰か登ってくる音が聞こえた。
まあ参拝者じゃないでしょうね、などと期待せずに石段の方を見ていると、案の定やって来たのは一人の妖精だった。
「チルノじゃないの」
氷の妖精チルノ。以前紅霧異変の時に私の前に立ちはだかった妖精だ。
その時はけちょんけちょんにのしてやったけど、それが悔しいのかその後度々神社を訪れては弾幕勝負を挑んで来るようになった。それでまあ負けたことなんて無かったけど、勝負が終わった後にお茶とお菓子を出してやってたら、次第にそれ目当てに来るようになって勝負はおまけみたいになってきた。最近では完全に遊ぶためだけに来ることも増えている。
呼びかけると、私を発見したチルノははっとした様子をして無言でスタスタと歩いてきた。
「一体どうしたの?」
私の声には答えず、ほとんど接触するくらい目前まで来てぴたりと止まる。そしてじっと私を見上げてきた。
なんか近い。
「……?」
私が首をかしげていると、チルノは眉を少し寄せて顔を硬直させ、どこか思い詰めたような表情でぐっと私を見つめてくる。
…………。
何?
何か怒ってる? いや怒られるような覚えは無いけど。
この前、酔った勢いで背中に付いてる氷の羽を一本折ってしまった事を根に持っていて文句を言いに来たのだろうか。いやすぐに再生されてたし謝ったしその時怒ってなかったじゃん。
それともこの前弾幕ごっこをした際に安置使った事をまた怒りに来たのだろうか。あの後泣きそうな顔で文句を言ってくるから思わず謝ってあげたじゃない。
それとも普段から私が馬鹿馬鹿言ってる事を怒りに来たのだろうか。あれはわざとじゃなくてつい口を突いて出ちゃうのよ。
……ん? 私って意外と怒られるような事やってる?
しかしチルノの顔を見ていると、どうやら怒っている訳では無いような印象も受ける。
「……どうしたの?」
妙な表情をしているチルノに取りあえず聞いてみる。
するとチルノは少し間を空け、何やらかくかくした素人の芝居みたいな口調で口を開いた。
「話があります」
「はい」
なぜ敬語?
思わずこちらも敬語で応じてしまった。
………………。
あれ?
そこで思い至る。この妙に思い詰めたような顔つき。下手な演技みたいな口ぶり。
…………もしかして、必死に真面目な表情を作ってるつもりなの?
普段、真面目から程遠い事ばかりしてるから、いざという時に真剣な表情をうまく作れない、ってことかしら。
……まあそれを確認するのはまたこじれるからやめとくとして、話したいことって一体何かしら。
などと思わず固唾を呑んで見ていると、チルノはやがて――
「…………」
「…………」
「…………」
「………………」
「…………」
「……………………」
いや話しなさいよ。
この子一体どうしたの? 様子がおかしい。前々から突拍子も無い事することがあるから今回もそれなのかしら。
でも何かを言いたそうな顔をしてるような、訴えているような……。
色々考えていたけど、まずは神社の中へ促してやることにした。
「……ええと、とりあえず神社の中で話す?」
「――!」
チルノはほっとした様子で笑顔になり、勢いよく何度もこくこく頷いた。
それを見て私はまた考える。
……もしかして、中に招かれるの待ってたの?
中で話をする計画が綿密にチルノの中で立てられてたけど、計画通りに招かれなかったからそこで停止してたとか?
なんという融通の利かなさ。紛れも無く――
バカ?
思わず言ってしまいそうになるのを何とか飲み込んだ。一度馬鹿と言ったら途端にぷんすか怒り出してなかなか機嫌が直らない。今は話をこじれさせたくないから言わないようにしよう。
居間に招いたチルノを炬燵に座らせお茶を出してやる。
別に氷の妖精だからといって熱いと溶けるわけでもない。この前は熱々のおでんを嬉々として食べていたし、お茶の中ではほうじ茶が好きとか言っていたり、炬燵で寝るのが好きでそのためだけにここに来たりなんてこともあった。
そう考えてみると、この子本当に氷の妖精なのかしら? などと疑問を持たなくも無い。まあステレオタイプな思考はいけないって教訓なのかもしれないわね。
煎餅を出してやると、チルノはぱあっと顔を輝かせて遠慮なく食べ始めた。
「バリボリバリバリバリボリ」
「…………」
「バリバリボリバリ」
「………………」
「ボリボリボリボリ、ずずー(お茶を飲む音)、バリボリボリ」
「……………………」
「バリバリバリ…………れーむ」
「はいなんでしょう」
「お茶お代わり」
いや話しなさいよ。
どうやらお茶と煎餅を出された時点で全てを忘れてしまったらしい。普段でもバカと言ってしまって怒り出した時にお菓子を出せば、大抵矛を収めるどころか放り投げてしまうチルノだった。
しかし今は話が進まないのでお茶を残して煎餅を引っ込めると、チルノは物欲しそうに煎餅の消えた先を眺めていた。本当に何しに来たのよ。
「で、何なの。お茶しに来ただけ?」
さっさと話を進めるために切り出すと、チルノは今思い出したとばかりにはっと真剣な表情に戻った。
……本当に忘れてたのかしら。
などと半ば呆れていると、しかし次の瞬間――
「――!」
私は驚愕せざるを得なかった。
なぜならチルノは座り直し、なんと正座になったからだ。
チルノが、正座を教えてやったものの嫌がりやらせても五分で足が痺れてしまうあのチルノが、自ら正座をしている。
これは余程の事に違いない、かもしれない。
思わず炬燵に足を伸ばしていた私まで正座になってしまう。
チルノはじっと私の目を真正面から見つめた。
青空を反射した静水のような瞳に思わず吸い込まれそうになっていると――
ゴン
そんな音と共に、チルノは膝に手を置いた正座の姿勢のまま勢いよく額を炬燵机にぶつけた。
そのまま頭だけで突っ伏した姿勢でじっとしている。
「…………」
私は頬がひくつく感覚を覚えながら奇怪な行動を取る妖精を見やった。
何? これ。
真剣な表情で正座までしていきなり寝た?
前々からバカだとは思っていたけど、とうとう私の理解を超えたっていうの?
それとも何、もしかして私からかわれてる?
私がただ呆然としていると、やがてチルノは突っ伏したまま若干くぐもった声を出して来た。
「れーむ」
「え? はあ」
どうやら寝てはいなかったようだ。
「お願いがある」
「へ?」
その時私は思い至った。
この姿勢、ひょっとして頭を下げているつもりなのだろうか。
「…………」
今度ちゃんとした礼儀作法を教えようかしら。いや多分無駄だからやめときましょう。などと考えつつ、私はチルノの手入れされてないぼさぼさの後頭部に向けてちゃんと聞き返してやった。
「お願いって何かしら」
「…………」
するとチルノは頭を炬燵机につけたまま、私がだれそうになるくらい長い間の後ようやくそれを口にした。
「泊めてほしい」
「……へ?」
意外な事を言われ、私は思わず間の抜けた返事をしてしまった。
妖精というのは森やら川やらどこぞの自然に消えるように住んでいて、その住処を見つけられた人はいないのだという。
一説には大自然に言葉の通り溶け込んでしまい、出たい時にそこからひょっこり現れるのだとか。
私だってチルノやら他大勢の妖精やらがどこに住んでいるかなど知らない。聞いても「あっち」としか教えてくれないのだ。妖精自身、自分がどこに住んでいるのか分かっていないのかもしれない。
妖精と言ったら自然に帰る事こそが家に帰る事なので、そんな泊めてほしいなどと言われる事自体が寝耳に水であった。
「……なんで泊めてほしいの?」
とりあえず聞いてみると、チルノはすっと顔を上げた。炬燵机に押し付けていた額がちょっと赤くなってるのが目についたけど、今はその大きな瞳を見つめておく。
チルノはやがて至って神妙な顔つきで言った。
「家が……無くなった」
「…………」
意外と深刻な理由なのかもしれない。
いやそれよりも、家があったのだろうか。どこに? なんで無くなってしまったの? どうしてここに来たの?
質問はいくつかあったけど、一度に複数の質問をしてもこの妖精の頭では処理しきれないことを知っていたので、一つずつ質問をすることにする。
「……あんたの家って、どこにあったの?」
するとチルノは少しきょとんとした様子で壁を指差し、
「あっちの方」
とだけ言った。
「…………」
駄目だ。
妖精の真実発見か、などと若干興奮した自分が恥ずかしい。
「えーと……」
チルノの家がどこにあるのかは置いておいて、他の質問に移ることにする。
「なんであんたの家は無くなったの?」
チルノはこくりと大きく頷いて説明を始めた。
「みんないっぱいで、分かってなくて、あたいがやったの」
説明になっていなかった。
「…………」
私は痛くなる頭を必死に抑え、チルノの話を一つ一つ丁寧に聞いてやることにした。
ようやく理解できるレベルに話を纏めるまでにおよそ一時間は掛かったと思う。そんな自分の根気の良さに驚いた。
「……要するにこういうこと? 妖精達の住む家がいっぱいあって、皆はそこに住んでてあんたも住んでたんだけど、最近妖精の数が増えて入りきらなくなった。でも頭の弱い妖精達はそれが分かってなくて、無理に住もうとして色々大変だった。そこで一人皆のことを考えたあんたが『あたいの家を使いなさい!』と言って出てきた、と」
「…………」
チルノはあらぬ方向に目を向けたまま、私の今言った言葉をうんうん唸りながら考えているようだった。
そして十秒近く経ってから、
「うん! そうなのよ!」
と元気よく頷いた。
私の言った事を完全に処理するまで少々時間が掛かったらしい。
それに呆れそうになりながらも私は続ける。
「出てきたはいいけど、これからどうしようかと考えたあんたは、とりあえず通ってる寺子屋の慧音の所に行こうとしたけど、『他人に頼り過ぎない』という慧音先生の教えを思い出して自分で何とかすることを決めた。でもどうにも思いつかなくて、とりあえずここ博麗神社に宿借りをすることにした。そういうことかしら」
慧音は普段人里で人間の子供向けの寺子屋を開いているけど、最近になって竹林の中で人外向けの教室を始めていた。縁あってチルノはそこで学んでいる。
「…………………………」
チルノは顎に手を当ててむんむん唸っており、首を何度もかくんかくんとかしげていた。
そして二十秒ほど経ってから――
ゴン
と事切れたように炬燵に突っ伏した。その小さな頭からはプシューという音さえ聞こえてきそうだ。
どうやら頭の容量が限界を迎えたらしい。
「…………」
私は大きく溜息をついた。
チルノのバカさ加減は置いておいて、そんな妖精インフレが起きているなんて。どうりで最近妖精が多いと思った。
何年かに一度、異常気象みたいに妖精が増えたりする事が確かにあるんだけど、裏ではそんな事になってたとは知らなかった。
というか妖精に家とかあったんだ。妖精の住宅事情も大変ね。
チルノは確かに妖精の中では力の強い方なので比較的頭が回るのかもしれない。あくまで妖精の中で比較した場合だけど。
そして彼女なりに考えた結果、自分の家を他の妖精に提供したと。
というか『他人に頼り過ぎない』って……結局私のとこ頼ってきてるじゃない。
いやそれはそれとして、それよりも疑問に思うことがある。
「ねえチルノ」
「な、なに……?」
未だに処理能力の限界によるダメージから復旧し切れてないチルノが呻く。
「一つの家に何人かの妖精が一緒に住むことってできないの?」
「――!」
するとチルノはばっと顔を上げ、唖然とした表情で口をぽかんと開け、右の拳で左の手の平をぽんと叩く。
その手があったか。
といった様子だ。
「…………」
やっぱりバカだ。
言うのを我慢してるけどそろそろ限界が近い。
「う……えと……うう……」
しどろもどろになったチルノが両手の指をわさわさと絡ませる。
どうやら一度大見得を切って家を明け渡した手前、今になってやっぱり戻ってきました、という事が恥ずかしくて嫌なようだ。
気が大きいのか小さいのか。
「ふー……」
私はそんなチルノを見ているとやがて大きく溜息をつき、
「分かったわよ。一晩くらい泊まっていきなさい」
そう言うと、チルノは顔を輝かせて私を見上げてきた。
子供特有の万遍の笑顔を浮かべられ、私も思わずへにゃりと顔が綻んでしまう。
「いいの!?」
「ええ。明日には妖精達の所に戻るのよ」
「ありがとう!」
「はいはい」
頭は足らなかったが、誰かのために身を犠牲にしてここまでやって来たチルノを追い返すのは忍びない。それに何だかこの子可愛いし。
一晩くらいはと思い、チルノを泊める事にした。
「何か手伝う」
流石に泊めてもらっておいて何もしない気にはなれないのか、そう言ってきたチルノに遠慮無く雪かきを頼む事にした。使えるものは何でも使うわよ。
とはいえ氷の妖精だから雪は専門分野だろう、などという期待を私はしない。この頭の弱い妖精に過度な期待は禁物だ。
「よーし!」
「あ、ちょっと待って」
シャベルを高々と頭上に掲げて走り出すチルノ。その両腕を後ろから掴んで引き止めた。
「?」
チルノはそのまま首をかくんと倒して私を見上げてきた。上下逆向きで見つめ合う私達。それが何だか可笑しくて思わず私はくすりと笑ってしまう。
「ちょっと待っててね」
不思議そうにするチルノを待たせ、私は箪笥からマフラーを取り出して来た。
「ほら、これ巻いてなさい」
「寒くないよ」
「見てるこっちが寒いの」
若干口を尖らせていたチルノだけど、マフラーを巻いてやるとどこか嬉しそうな表情に変わった。
「行ってくる」
「はい行って――」
――あれ。
「……?」
口を止めた私をチルノが首をかしげて見つめる。
…………。
気を取り直して私は続けた。
「行ってらっしゃい」
「? うん」
チルノはとことこ境内へと歩いて行った。
そんな彼女を見送りながら私は少し呆然とする。
いつ以来だろう。
行ってらっしゃい、なんて言うのは。
先代のあの人と一緒に暮らしていた時以来かもしれない。
昔の生活と、とうに枯れた悲しみを思い出し、感じるのは懐かしさだけ。
そんな事を考えていても詮無いことに違いない。
私は溜息をついて首を振り、無理やり思考を途切れさせた。
「ふう……」
炬燵に入ると全てを忘れる。
人に仕事をやってもらって、この肩の荷が下りる感覚は最高ね。なんてこと言ってるから魔理沙やら紫やらに不真面目だって言われるんだけど。使えるものは妖怪でも使うわよ。
私はもこもこと炬燵に潜り込んだ。
「むー……」
炬燵机に突っ伏すとこのまま寝てしまいそうだ。
やっぱり炬燵は睡魔を集めるのよねえ。
私は頭だけを炬燵机に乗せた姿勢のまま目を閉じる。
昼までにはまだ時間がある。
じんじんと冷えた足を暖めてくる熱と、突っ伏した頭に炬燵机から伝わってくるじんわりした熱を感じながら、私はうっとりと睡魔に身を任せた。
私の口の息を吐いて吸う音がやけに大きく響く。
トントンと聞こえるのはどうやら心音のようだ。
今はとても静か。
雪は音を吸収するっていうから、降り積もった雪に外の音が吸収されてるのね。
昨日みたいにしんしんと雪が降っている時はもっと静かになる。
耳を塞いでも自分の体の中の音が聞こえて無音ではないけど、あの静かに雪が降っている時、耳を塞がなくても音が消え、空間は頭が痛くなるような全くの無音で支配される。その無音の世界が私は何だか好きだった。
そんな取りとめの無い事を考えながら、次第に意識を落としていた時のことだった。
ふんふんふふふーん
静かなはずの神社に、何やら間の抜けた鼻歌らしきものが響いてくる。
ふんはーふんはうあ~
最早鼻歌とも言えない。
いやこれあんた口開けて歌ってるでしょうが、などと私は突っ伏したまま苦笑する。
どうやらチルノが鼻歌を熱唱しているみたいだ。
あたいーは~こーりのよーせ~
とうとう本格的に歌い出した。
音程がばらばらで歌詞も意味不明だけど、不思議と聞いていて不快感は無い。
そういえば、道に迷うは妖精の所為、とはチルノに初めて会った時に言われた事だったかしら。
後で紫あたりに聞いた話だと、妖精の歌は人を道に迷わせる効果があるのだという。どこぞの夜雀の専売特許かと思っていたけど。
でもこの歌を聞く限り、人を迷わせる効力は皆無のように思える。というかこんな間抜けな歌で迷うような事があったらそのまま永遠に迷っていたいくらい恥ずかしいわね。
……まあ、こんな子守唄があってもいいかも。
凸凹の歌を遠くに聞きながら、今度こそ私の意識はとろんと落ちていった。
「うー……」
呻き声と共に目覚めると、時刻は昼前になっている。
「ああ……」
そろそろ昼食の準備をしようかしらなどと思い、名残惜しいけど炬燵から出て立ち上がる。
「うーん……」
両手を振り上げて大きく伸びをすると、固まった体がほぐされていくのが分かる。
そういえばチルノはどうしたかしら。もうあの歌も聞こえないみたいだけど。
私は襖を開け放った。
そこには巨大な雪だるまが鎮座していた。
「…………」
今私は間抜けな表情をしている自信がある。
二段に重ねられた雪玉の背の高さは合わせて五メートル程だろうか、顔らしき部分には滅茶苦茶に枝や葉が突き刺さり、笑っているようにもとんでもなく怒っているようにも見える。そして見事なまでにまん丸とした胴体と頭だ。熟練のなせる業であることが窺える。
私しばし呆然とした様子でそれを見上げていた。
まあ……ここまで豪快に遊ばれると逆に怒る気も失せるっていうか。
雪だるまにもたれて小さな妖精が眠っていた。とても満足そうな寝顔である。
見ると、境内に雪だるまを作られた形跡はあるけど雪かきをした跡は無い。どうやら誰も踏んでいないふかふかに積もった雪を見たチルノは、雪かきという与えられた使命を瞬時に忘却して雪だるま作りへとその行動を移したようだ。
賽銭箱の横に放り投げられたシャベルが何だか哀愁を漂わせている。
幻想郷のあちこちにここ最近乱立する巨大な雪だるまはそのほとんどがこの娘の仕業である。美的センスは皆無なのか、滅茶苦茶に取り付けられた葉っぱやら枝やらでひどい顔のオブジェと化しているけど。
「はあ……」
どう対応してやればいいかと顔に手を当てて考える。
「………………」
放っておいて取りあえず昼食を作ることにした。
それから三十分ほど経っただろうか。
台所でトントンとご飯を作っていると、どうやら食べ物の匂いに惹かれて起きてきたのか、チルノがのそのそとやって来た。
「れーむ。手伝う」
てっきり仕事を忘れたことを謝ってくるかと思ったけど、何事も無かったかのようにそんなことを言ってくる。どうやら雪かきを頼まれた事自体を完全に忘却しているようだ。
「…………」
話は後にしましょう。
気を取り直し、なるべく簡単に実行できる仕事を与えてやった。それでも、全然触らせるような事をやらせなかったのにチルノは皿を割りそうになった。
直接触れても無いのにこれだもの。間違ってもこの子に皿洗いなんてやらせられないわね。
「いただきます」
「いただきまーす」
二人で手を合わせていただきますと言う。こういった所はちゃんとしているのがチルノらしい。意外と折り目正しいのよね。寺子屋に通ってる成果かしら。
ご飯に味噌汁、肉じゃがという何の変哲も無い和食だったけど、実に美味しそうに食べているチルノを見て私も思わずほんわりと心が穏やかになる。
「美味しい?」
「うん!」
ご飯を作った方が嬉しくなるようなじゃんとした笑顔で答えるチルノ。
私は薄く笑うと手を伸ばし、チルノの口元についた米粒を取ってやるとそのままぱくりと自分の口に入れる。
するとチルノがむーっとした様子で見つめてきた。
あれ?
ついやっちゃっけど軽率だったかな。ついつい子供みたいに扱っちゃうのよね。いや子供なんだけど。
などと考えていると、やがてチルノは気を取り直した様子で食事に戻った。
そこで思う。
……もしかして、米粒一つ取られた事が嫌だったの?
食い意地の張った妖精に半ば呆れてしまう。
「あんた普段何食べてるの?」
「んー、木の実とか。あと、えーと……木の実とか」
「……そう」
「れーむはいつもこんな美味しいの食べてるの?」
「え……まあ、普通だと思うけど」
「ずるい!」
「そう言われても……たまになら食べに来てもいいわよ」
「ほんと!?」
「ええ」
「やったやった」
「机を揺らすな」
美味しいと思うなら自分で作ればいいのに。と思ったけどまあ料理とか複雑な事は多分無理でしょうね。
やがて私達は揃って「ごちそうさま」と言って片付けに入った。
「ふう」
食後、私達は炬燵に戻って向かい合っていた。
「れーむ。何で遊ぶ?」
ばっちりの笑顔でそんな事を聞いてくる。
そういやこの子、見るといつも遊んでるわね。まあ妖精なんて遊んでるイメージしかないけど。
「…………」
私は気を取り直し、やがてほうっと溜息をつく。
「チルノ」
「なに?」
「雪かきはどうしたの?」
チルノはきょとんとした表情をしていたけど、数秒の間を置き、あっと口を開いた。
「そうだった!」
炬燵をがたんと揺らして勢いよく立ち上がる。
せわしないなあ、などと考えつつも、
「まあいいから座って」
と手をよいよいと下に振って促す。
チルノは何かが詰まったような微妙な表情をしていたけど、やがて炬燵に戻ると気まずそうに声を出した。
「ごめん」
しゅんとなって謝ってくる。
別に怒ってるわけじゃないんだけど。何だかこっちがいたたまれなくなってくる。
根はいい子なのよね。頭が弱いだけで。
「いいのよ」
そう言ってやると、チルノはぱあっと顔を輝かせた。切り替え早いなあ。
表情が百八十度変わるのを見てなんだか可笑しくなってしまう。
「いいの?」
「ええ。雪だるまにしたおかげで雪も結構減ったし」
「れーむも作る!?」
「え……」
「作ろうよ!」
「…………」
別にこの歳になって雪だるまなんてあまり乗り気じゃないけど。何だろう。こんな満点の笑顔を浮かべられたら断りきれない。
気づいたときには二つ返事で雪だるまを作ることを了承していた。
「あたいはー、雪だるま~、もこもこ~」
境内にて、もう一度歌ってみろと言われても二度と同じ歌詞は出てこないであろう即興の謎の歌を歌いながら雪玉を転がすチルノ。一方の私も手袋を嵌めて雪玉を作っていた。
この境内で雪だるまなんて久し振り。
雪玉を転がす度にぎゅっぎゅと藁を踏むような音が空気に染み込む。
やってみると案外楽しいものね。
「だってあたいは~フンフンフなんだよ~」
歌詞を思いつかない所は鼻歌で誤魔化しているらしい。
音程ばらばらで決して上手いとは言えないけど、やはり聞き心地は悪くなかった。妖精の歌だからなのか、それとも子供の元気の良さに誤魔化されているのか。
それにしても、と私は感心してしまう。
チルノが転がす雪玉は見る見るうちに大きさを増していく。しかも完全な球体を保ったままだ。
「雪玉作りのコツとかあるの?」
手を止めて寄って行き、その道のプロに聞いてみた。
「ん~……」
するとチルノは顎に手をあて目を閉じて考える仕草をしていると、やがて奇妙なジェスチャーを交えながら口を開いた。
「こう、ごろごろー、ってやって。でもぐるぐるぐるー、ってやる」
「…………」
まるで分からないし体全体を使ったジェスチャーも意味不明だったけど、まあ、半ば予想出来た事ではあったのかもしれない。
「そう。頑張ってみる」と言っておいて私は雪玉転がしに戻った。
ごろごろぎゅうぎゅう
私はひたすら転がし続ける。
どうしても縦長になってきちゃうのよね。かといって向きを変えても崩れたりするし。そこの所のバランスが難しいのよ。
………………。
なんだろう、この懐かしい感覚。
ごろごろ雪玉を転がしながら昔の事を思い出す。
私がもっと小さい時、先代の博麗の巫女に雪だるま作りをせがんだ事があった。
彼女もくすくす笑いながら一緒に転がしてくれたっけ。
その時のあの人の心境は今の私と同じなのかしら。
上機嫌のチルノを見やる。
「れーむと一緒に~、フンフンフ~」
「…………」
こんなにも昔の事を考えるのは、子供っぽいチルノに昔の自分を重ねてしまうからかしら。
私はそっと笑顔を浮かべ息を吐いた。
あの人と今の私が同じなら、きっとあの人は楽しかったんだろう。
自分にはまだ後継者なんて早いと思ってたけど、暇があったら探してみるのもいいかもしれない。
「れーむ! こっち出来た」
「もう? 早いわね」
チルノはあっという間に直径三メートル近い大玉を作り出していた。
一方こっちの雪玉はまだ抱えられるくらいしかない。
チルノには敵わないわね。
「一緒にやろっか」
そう提案すると、チルノはとびきりの笑顔で答えた。
「うん!」
ごろごろごろごろ
こうして一緒に同じ雪玉を転がしてみてしみじみと分かる。
この子は紛れも無く雪だるま作りの達人だ。
少しでも多くの雪が落ちている場所を瞬時に見抜き、最小限の力で雪玉のコースを変更している。
更には雪玉に360度の回転を加え、周囲の雪を巻き上げるようにしつつ完全な球体に保つ。どうすれば上手く雪玉を作れるのか、どうやら理屈じゃなくて感覚で分かっているらしい。
私は出る幕は無いと思い、手を離して見るだけになっていた。
そんな時だった。
チルノが不満そうに頬を膨らませてこっちを見てくる。
「もう。れーむもちゃんと転がしてよお」
「え? いやだってあんたの方が――」
――あ。
『ちゃんと一緒に転がしてよお』
『でも霊夢のほうが作るの上手いわよ』
『ダメ。ちゃんと押すの。サボるの禁止』
『ふふ。分かったわよ』
昔、私が今のチルノと同じように雪だるまを作っていたとき、先代の博麗の巫女と雪玉を転がしていた時があった。
あの人は一緒に雪玉を転がしていたけどほとんど私に任せていて。でも私はあの人と一緒に雪玉を作りたくて、ちゃんと押すようせがんだのだった。
綺麗に雪玉を作る事なんてどうだって良かった。ただあの人と一緒に何かがしたかった。
同じだ。
今は私があの人の立場にいて、チルノが昔の私と同じ。
「………………」
私は雪玉を勢いよく、思い切り押し始めた。
「おお!?」
置いていかれたチルノが慌てた様子で追ってくる。
雪玉の形を保つとか、多くの雪を巻き込むとか、そういった事を完全に無視して私はひたすら押して転がしていくのを楽しむことにした。
「ほらどんどん転がすわよ」
笑いながら呼びかけると、雪玉に再び手をついたチルノは私に向けてはち切れんばかりの笑顔で答えた。
「うん!」
二十分ほど後。
「かんせーね!」
「うん」
午前中にチルノが作っていた雪だるまと並んで、それより少し小ぶりだが巨大な雪だるまが並んでいた。こうして見ると中々に壮観である。
こんな大きな雪だるまがある家なんてそう無いわね。呼び物に出来ないかしら?
……こうやって時々人外に頼ってるから「妖怪神社」なんて人里では言われてるのかしら。
新しい方は頭の形は悪かったけど、顔は私がデザインしたのでその点はまともな出来となっている。
しかしそれをじっと見ていたチルノは言う。
「れーむが作った顔はちょっとおかしいね」
「ええっ!?」
そんなばかな……。
どうやらチルノなりのセンスがあるらしい。私には到底理解できないけど、別に私も子供じゃないんだから躍起になって否定したりはしないけど。そうなんだけど何だか納得できないなあ。
境内に積もった雪はそのほとんどが巨大雪だるまに巻き込まれ、所々地面が覗いている場所もあった。
まあ、結局雪はどけられたからいいか。
「おやつにしましょう」
「おやつ!」
目を爛々と輝かせたチルノは喜びを抑えきれないのか、ぴょんぴょん小刻みに飛び跳ね始めた。
私は思わず吹き出してしまい、それにきょとんと小首をかしげるチルノを連れて社内へと戻っていった。
「美味しい?」
「うん!」
炬燵に戻った私達。何だか気分が良い私はとっておきの羊羹を振舞っていた。
ちょっともったいないとは思ったけど、ここ最近、勝手に入り込んでお茶やらお菓子やらを漁っていくスキマ妖怪がいるので菓子類は溜め込まない事にしていた。
それに――
「むぐむぐむぐむぐ」
幸せそうにもぐもぐ咀嚼しているチルノを見ると、何だか美味しいものを食べさせてあげたくなってしまう。
私って子供に弱かったのかな。
だめよねあんまり甘やかしちゃあ。メリハリってもんが大事よ。
……これじゃあまるで親ね。
私はぼんやりとチルノを眺める。チルノは羊羹に集中しているらしく、じっと見られてる事に気づく様子も無い。
親か。話は聞かないけど、チルノに親とかいるんだろうか。妖精だから自然そのものが親なのかな。妖精とか生まれたときから周りにいたけど、いるのが当たり前すぎて生い立ちとか疑問に思った事も無かった。
生まれについて聞いてみたかったけど、何か深刻な理由だったら気まずい事になるのでやめておいた。今度紫にでも妖精の生まれ方について聞いてみよう。
かくいう私も親無しだけど、それを語ると長くなるのでやめておく。
「れーむ、食べないの?」
「ん? いる?」
「!…………いや、いい。れーむが食べて」
「ふふっ。そう」
「何がおかしいのよう」
「なんでもないわよ」
「むー……」
羊羹を食べ終えた私は、炬燵の付属品と言っても過言ではない綺麗な橙色の蜜柑を炬燵の上に置かれた籠からひょいと取った。
別にお賽銭だけでこの神社は運営されているわけではない。
お札を売ったりするし、お払いをして祈祷料を貰ったりする。
この蜜柑はこの前里長の依頼でお払いをした時に、今年は豊作で味も良いので、ということで頂いた物だ。
むしむし皮を剥いているのを見て自分も食べたくなったのか、
「あたいも食べたい」
「いいわよ」
チルノも蜜柑ににょいと手を伸ばす。
私は花びらを広げるように蜜柑の皮をむしむしと剥いていく。
むしむしむし
むしりむしりむしり
………………。
むしりむしりむしりむしり
……………………。
一方チルノは細かく千切るようにむしりむしりと剥いていた。
それじゃあ散らかるじゃないの。皮を捨てるとき大変よ。あーあーそんなにぼろぼろ零して。
ここは教育が必要ね。
「チルノ」
「?」
「正しい蜜柑の剥き方を伝授するわ」
「! でんじゅ!」
伝授という言葉に神秘的な何かを感じたのか、チルノはきらりと目を輝かせた。
私は大仰に頷いて新たに一つ蜜柑を取る。
チルノに私の横に座るよう指示すると、彼女はぴょんと立ち上がり私にぴたりとくっ付くように座った。
ひんやりとした体温を感じるけど寒いほどでもない。私はよく見えるようにチルノの前に蜜柑を示した。
「いい? まずは爪を使って指を蜜柑の腹に差し込むわ」
そうしてぶすりと蜜柑の腹に指の先を差し込む。チルノはうんうんと頷いている。ここまでは分かるみたいだ。
「そしてそのまま千切ってしまわないように蜜柑の頭まで剥いていく」
むしむしと垂れるように蜜柑の頭まで皮を剥いていくと、チルノはむううと呻りこみ、首をかしげて見上げてくる。
「れーむ」
「なに?」
「それって何かいいことあるの?」
「…………」
どうやら花びら状に剥かれた蜜柑の皮を見たことはあるものの、その利点が理解できていなかったみたいだ。
ちょっと観察していたり聞いたりすれば分かる事だと思うけど。疑問にも思わないのはやっぱり――
と思いかけてやめておく。思ったらつい口を滑らせちゃったりするのよね。
気を取り直し、私は先ほど自分が剥いた蜜柑の皮を示した。
「ああいった形にすれば一つに纏まっていて簡単に捨てる事が出来るわ」
「おお。確かに」
「更には蜜柑の実に付いた邪魔な皮もそこに乗せる事ができるの」
「!」
「まとめて捨てればたった一回の動作で全ての皮を片付けられるというわけよ」
「……れーむ」
チルノは愕然とした様子でどこかふるふると震え、目を大きく見開いて私を見つめてきた。
「一体……これはなんてげんしょう?」
「…………名前はまあ、無いけど受け継がれてきた伝統よ」
「おおー、でんとー」
伝統という言葉に神秘的な(以下略)、チルノは新しい蜜柑を取り、嬉々として剥きに掛かった。
感動した様子のチルノに満足して私はうんうんと頷く。
それにしても、知らないなんてこっちが驚きよ。日本人なら知ってて当然と思ってた。
…………。
あれ、チルノって日本人だっけ? 髪は青いし目も青い。名前も横文字だし。
……まあ、日本で生まれたんなら日本人なんでしょ。
「むうう……」
うまくいかないらしく、難しい表情でぶちぶち千切れる皮を炬燵の上に落としていくチルノ。
「剥くっていうより、中身に沿って指を進める、って感じね」
「沿って進める……」
それからしばらく蜜柑と格闘していたチルノは、四個目にしてようやく大部分が千切れているが短い花びらを形成するに至った。
炬燵の上には橙色の蜜柑の皮がぼろぼろと散乱している。それを片付けながら私は言う。
「まあ後は練習ね」
「うん!」
子供に何か教え、その子が習得し成長していくのを見るのって結構嬉しい事だったのね。
…………。
何となく自分を省みる。
私もまた本格的に修行でもしようかしら。
チルノの練習のおかげで余計に多く剥かれた蜜柑を食べ、お腹いっぱいになった私達はその後ごろごろと炬燵で横になる事にした。晩御飯を準備するまではまだ時間がある。
「にゅう……」
見ると、チルノは変な寝息を立ててもう眠りについている。
寝るの早いなあ。巨大雪だるまを二つも作ったから疲れたのかな。
すぐ隣でうつ伏せになって寝息を立てるチルノ。
そっと頬を撫でると、ひんやりした体温が伝わってくる。
冬場に抱きしめたりするとちょっと寒くなってくるけど、別に苦という程ではない。
慧音から聞くところによると、以前はもっと強烈な冷気を一日中撒き散らしていたらしい。それこそ凍ってしまうような。
でもそのうち周囲を凍えさせていたことに気付き、努力して冷気を抑えられるようになったのだとか。
他の妖精達と一緒に遊ぶため。傷付けないため。
「ふゆう……にゅう……」
私はチルノの安らかな寝顔を見てほうっと笑う。
妖精なんて後先考えない単なる悪戯好きかと思っていたけど、この子と会ってからその認識も変わったのよね。
馬鹿だけど優しい妖精。
そうこうしている内にあっという間に六時前になった。元々太陽が沈む時間だけど、薄い雲がかかっていていつも以上に暗い。
また雪でも降るのかしら。
蜜柑を食べ過ぎて何だかお腹いっぱいだけど、晩御飯の準備に取り掛かることにした。
「れーむ。手伝う」
しばらくすると、昼間みたいに食べ物の匂いにつられてきたのだろう、チルノがひょこりと起きてきた。
「そうね、それじゃあ……」
チルノには机を拭くなどといったあくまで簡単な仕事をやってもらう事にした。ちょっとは学習したのか、今度は昼間みたいに皿を割りそうになることも無かった。
「雪降りそう」
食事中、チルノは外を見てぼんやりと言った。
「へえ、分かるんだ」
「じょーしきよ」
「はあ……」
氷の妖精だからそこの所は感覚で分かるのだろうか。
「じゃあ明日も雪かしら」
「ううん。朝にはやんでる」
「へえ……そんなの分かるなんてすごいじゃない」
「そ、そうかな……」
照れた様子でぽりぽり頭を掻くチルノ。
このくらいの子供って褒められると素直に喜べるのよね。私なんか紫に褒められてもからかわれてるんじゃないか、とか変に勘ぐっちゃって……純粋な頃が羨ましいわね。
やがて晩御飯を食べ終えた私はお風呂を入れることにした。
そして氷の羽が生えたチルノを見やる。
「…………」
この子、お風呂入れるの?
聞いてみると、
「うん。あんまり好きじゃないけど」
などと答えた。
私は少々感心してしまう。
まあ、氷の妖精だからといったステレオタイプはアテにならないみたいね。
「入るわよ」
「うん」
うちのお風呂は大きくもなく小さくもなく、といった中くらいの広さ。二人で入っても足は伸ばせる。
沸いたお風呂にチルノを放り込むと、チルノはちゃんと肩まで浸かって数を数え始めた。
「いーち、にーい、さーん」
「あれ、数えるんだ」
お風呂嫌いだって言ったのにちゃんとしている。
感心しながら私も一緒に湯船に浸かると、ざぶんと少しお湯が零れた。
いつもの感覚でお湯を張ったら何だか入れ過ぎてしまったみたい。二人だって事忘れてた。
「うぷっ」
水位の増した湯船に呑まれそうになり、慌ててお湯から顔を出したチルノが答える。
「ちゃんと百数えてからでないとダメだって」
「ああ、慧音にそう教えられたの?」
「うん」
チルノはたまに寺子屋に泊まる事もあるらしい。慧音も面倒見良さそうだからなあ。
「えっと……」
チルノが顎に手を当ててかくんと首をかしげる。
どうやらどこまで数えたか忘れたみたいね。三までしか数えてなかったのにどうして忘れるのか不思議だけど。
「最初から数えなおせば?」
「でも、お風呂早く出たいし」
どうやら今まで数えたのがもったいないと思っているらしい。
さっさと数え直す方がどう考えても早いけど。
「そうやって悩んでると、もっと長い時間お風呂に入ってることになるんじゃない?」
「あ。ほんとだ」
チルノは気を取り直し、再び一から数え始めた。
「いーち、にーい、さーん……」
威勢の良い声が風呂場にかんかんと響き渡る。
それを聞いて、私はまた昔のことを思い出してしまう。
私も子供の頃は百数えてから出るように言われてたっけ。先代のあの人と一緒に入らなくなってからはいつしか数えなくなっちゃったけど。
チルノの数えるのに合わせて久し振りに百まで湯船に浸かるのもいいかもね。
私はそっとチルノの声に耳を傾けた。
「にじゅーいち、にじゅーに」
ふと見ると、何やらチルノの背中に生えている氷の羽が小さくなっているのが目に入った。
「チルノ、それいいの?」
「にじゅーふえ?」
私の指差す方を見ると、チルノは不思議そうに小さくなった羽を湯船の中でちゃぽちゃぽ揺らした。
「羽よ。なんだか溶けてるみたいだけど……」
「? うん。大丈夫」
そう言うと、チルノはむーんと力を溜める仕草をして呻り始めた。
見る間に氷の羽が大きくなっていく。ちょっと感心。
「その羽って、溶けちゃってもいいんだ」
「うん。すぐに生やせる」
「ふーん……」
私は不思議に思って聞いてみた。
「その羽って、無いと飛べないの?」
前に私が折ってしまった時も別に痛がってなかったし、感覚が通ってないように見えた。
チルノは何とも無しに答える。
「無くても飛べる」
「じゃあなんで羽付いてるのよ」
素直に疑問を述べると、チルノは何だか困った顔をした。
「……うーん」
チルノは腕組みをしてひとしきり首をひねっていると、
「分かんない」
と口にした。
もしかすると、「なんで髪の毛生えてるの?」と聞くのと同じような事なのかもしれない。
無くてもいいけど無かったら無かったで困る。
そんな事を考えていた時――
「あっ!」
チルノがはっとした様子でびくりとした。
「どうしたの?」
聞くと、チルノは途端に頬をぷうっと可愛く膨らませた。
「もー、れーむが話すからまた数忘れちゃったよお」
「はあ……」
記憶力の悪さは相変わらずね。
「二十二まで数えてなかった?」
「むー……二十四くらいだった気がする」
…………。
鯖読んでる暇があったらさっさと数え始めればいいのに。
「じゃあ二十から数え始めなさいよ」
「えー!……もう。今度は邪魔しないでよね」
「はいはい」
「むー……にじゅう、にじゅういち、にじゅうに……」
私はもう何も言わず、目を閉じてじっとそんな妖精の声に耳を傾けていた。
「ひゃーくう!」
一際大きな声で締めの百を数えた後、チルノはざばーとお湯を滝のように流しながら立ち上がった。
私の顔に少なからぬ量のお湯が飛び散ったけど、うん、まあ、気にしない。
顔に付いたお湯を拭って私も立ち上がったけど、
「おっとと」
思わずぐらりと立ちくらんでしまう。チルノが不思議そうにこちらを見るので、「何でもないわ」と言ってやる。
うーん、どうやら長く入りすぎたみたいね。あの後チルノは何度か数字を忘れては十の位の最初から数えなおしていたので、実質的には二百くらい数えていたような気がする。
気を取り直して湯船から出ると、椅子に座って頭からお湯を豪快にかぶっていたチルノの後ろに膝をついた。
「髪洗ってあげるわよ」
「ふえ?」
返事を待たず、洗髪料を手に出してチルノの頭に擦り付けてやる。
「わわ」
戸惑いながらも嫌がる様子は無いので続ける事にした。くせの強いぼさぼさした髪をほぐす様にわしわし洗っていく。
鏡に映ったチルノの顔は何だかとろんとしていた。人に髪を洗ってもらうのって気持ち良かったかしら。昔の事だから忘れちゃったわね。
泡立ってくるとチルノに目を閉じるよう言った。この子、まん丸に目を開けてじっと前の鏡を見てるんだもん。
「閉じるの?」
「泡が入ると目痛くなるわよ」
「むう、分かった」
ぎゅっと力いっぱい目を閉じるチルノを見て、私は静かに肩で笑った。
「シャンプーは初めて?」
「しゃんぷう?」
「洗髪料のことよ」
「せんぱつりょーって何?」
「……髪を綺麗にしてくれる石鹸みたいなものよ」
「おおー。そんなのあるんだ」
「これがそうよ。いつも髪はどうやって洗ってるの?」
「えっとお……お湯かぶって、れーむがやってるみたいにわしゃわしゃー、って」
「そう。水洗いも悪くは無いけど、女の子なんだから髪には気を使わないと駄目よ」
「そうなの?」
「そうよ」
やがて髪を洗い終わってお湯で流してあげる。
「はい終わり」
とそこで、チルノは私をじっと見上げてきた。
「?」
私が首をかしげていると、
「あたいもれーむの髪洗う」
と言ってきたので私はなんだか嬉しくなる。
上手くできないだろうけど、それはそれで楽しいかもしれない。
「じゃあお願いしようかしら」
「うん!」
チルノは嬉々としてシャンプーを手に取った。そして勢いよく出しまくるので私は慌てて、
「ちょ、ちょっとチルノ。少しでいいのよ」
「ふえ?」
結局かなり大量のシャンプーが私に擦り付けられることとなった。
シャカシャカシャカ
チルノの手はたどたどしいながらも意外と優しく私の髪を洗っている。やっぱり人に髪を洗ってもらうのって気持ちいいわね。それに、チルノのちょっとひんやりとした指がのぼせた私の頭を心地良く冷やしてくれる。その感触に思わずうっとりと息を吐く。
「あんた、人の髪を洗う才能があるわよ」
「そ、そうかな……」
照れたように答えるチルノ。髪を洗う才能があるなんて言われて嬉しがる人は少ないと思うけど、この子にとってはなんだっていいみたいね。
しかし少し経つと、
「むー……」
私の長い髪をどう洗えばいいのか分からないらしく、チルノは困ったような声を出して手を止めた。
「こうやって洗うのよ」
両手で挟んで撫でるように洗ってみせると、
「やってみる」
とチルノも見よう見まねで洗い始めた。
最初は慣れてないのか髪をこぼしながらだったけど、次第に勝手が分かってきたのか、ペースも速くなってきた。
「そろそろいいんじゃないかしら」
「うん」
少しして私の髪を洗い終えたチルノは、
「わっぷ」
豪快に私の頭にお湯をかぶせた。思わず変な声が出てしまう。
「?」
首をかしげるチルノに、気を取り直して「なんでもないのよ」と言ってあげる。
「次は背中を洗ったげるわ」
チルノを椅子に座らせると、タオルに石鹸を擦り付けて泡立たせる。
「…………」
羽邪魔だなあ。
小さな背中に生えた羽の根元を泡で包むように隅々まで洗っていると、時折チルノは何だかくすぐったそうに体を震わせていた。どうやら羽が邪魔で普段から背中をあまり洗ってないらしく、しっかり隅々まで洗うのに慣れてないみたいね。
羽の根元をごしごし洗ってみると、
「ひゃうっ!」
普段は聞けないような一際甲高い声を洩らした。
それがなんだか可笑しくて、私はくすりと笑い声が零れるのを必死に抑えた。
「くすぐったいの?」
「う、うん」
「でもちゃんと洗わないとだめよ」
そう言ってまた羽の根元をごしごし。
「ひゃあっ! ちょっ、やっ、れーむ! あは、あはは」
ちょっとやり過ぎたかしら。泣くような怒るような笑うようなチルノの視線が何だか痛い。
今度はチルノがお返しとばかりに力を込めて「れーむの背中洗う」と迫ってきた。全然迫力無かったけど。
洗いっこか。懐かしいなあ。こんなジト目で洗われるのは初めてだけど。
「じゃあお願いね」
「うん」
チルノはごしごし力を込めて私の背中を隅々まで洗い始めた。私にはちょうどいい加減だったけど。
「……そろそろいいんじゃない?」
「むうぅ。まだまだ」
私も同じ目に遭わせてやりたいのか、長いこと丹念に隅々まで擦っていた。
……確かに悪ノリが過ぎたかもしれないわね。
結局私が「くすぐったいからもうやめて」と言ってやるまでチルノの背中洗いは続いた。その後の満足そうなチルノを見て私は思わず笑ってしまう。
「? なによう」
「な、何でも無いわよ」
別にくすぐったくもなんとも無かった事がばれたらどんなにふくれる事か。それも何だか見たかったけど、悪ノリはいけないという事で私は困った表情を装うことにした。
「いーち、にーい」
「また数えるの?」
湯船に入り、再び数え始めたチルノに私は思わず聞いてしまった。
「うん」
「そ、そう……」
随分と時間をかけてお風呂を出た後、私は寝巻きに着替えて居間に戻った。一方のチルノは、寝巻きを貸してやると言っても首を横に振ったので相変わらず青のワンピースだ。いつも着てるしお気に入りなのかしら。まあ汚れは無いみたいだからいいけど。
歩くとちょっとくらりとする。のぼせたかも。
一方のチルノにそんな様子はない。
元気がいいのか、氷の妖精だからなのか。
私はつい、と自分の髪を摘んでみる。
何だかいつもよりさらさらになってる気がする。チルノのちょっと冷えた手のおかげかしら。本当に才能あるかもしれないわね。
「ああ、やっぱり雪降ってるわね」
窓の外を見ると、はらはらと雪が舞っているのが目に入った。チルノの予報は当たったみたい。
また積もるのかしら。雪かきも大変だっていうのにもう。
「…………」
見ると、チルノが無言でじっと外を見つめている。
どこか嬉しそうなその様子に、まあ氷の妖精だから雪は嬉しいのね、と小さく頷いて納得する。
私は炬燵に入ると色々とお札を書き始めた。貴重な収入源だから手抜きはできない。
魔除け、厄除け、火除け、水除け……雪除けでもあったらいいのに。
チルノも炬燵に入り、興味深そうにお札が出来るのを横から覗き込んでいる。
「魔除けのお札には触っちゃ駄目よ。妖精にも効くんだから」
「うん」
でもまあ昼間のチルノのはしゃぎようなんかを思い出すと、雪が降らないでほしいなんて安易に言うのも考えものね。
私の単調な作業が眠気を呼んだのか、しばらくするとチルノはごろりと横になって寝息を立て始めた。
その無邪気な寝顔に時折意識が向いてしまい、あまりお札を書く作業に身が入らない。
うーん……子供の寝顔って見てるほうが幸せになるのよね。私の周りにこんな小さい子いなかったしなあ。
雪がしんしんと降っていて、外の音は全く聞こえなくなっている。
聞こえるのは私がお札を書く音と、チルノのすぴーすぴーといった寝息だけ。
時折寝言を言うチルノにくすりと笑いながら、私はいつになく楽しくお札を書き続けている自分に気づいた。
三十分くらい経っただろうか。いつまでもここで寝かしておく訳にもいかないので、私は別室の布団にチルノを運んでいく事にする。
抱え上げると意外と軽い。
まあ妖精なんてこんなものかしら。
運んでいる最中も全く起きる様子の無いチルノにちょっと笑いながら、布団まで持ってくるとそっと寝かせてやった。
「むにゃ……」
布団をかけてやると早速寝返りをうって掛け布団をどかし始める。
まあ氷の妖精だから寒いのはいいかもしれないけど。こういうのは気分よ。
ちゃんと肩まで布団をかぶせてやると、やがてチルノは落ち着いた様子で寝始めた。
私はそれから今日やる分のお札を書き終え、自分もさっさと寝ることにした。チルノの隣に布団を敷く。
今日は疲れたわね。雪だるまなんて久し振りに作っちゃったし。
昼間遊んだ疲れが案外溜まっていたのか、私の意識はすとんと落ちていった。
これは朝まで熟睡してるでしょうね、などと意識の波が引いていく間際に頭の端で思っていたのだけど、その予想は外れることとなる。
それは夜中のことだった。
――――――。
――――――――。
歌みたいな音が聞こえる。
夢の中で聞いてるのかな。たまにあるのよね、夢だと分かって夢を見ることって。
心地良いその響きに耳を傾けていると、なんだかずっと夢から覚めたくないと思ってしまう。
しかしさあっと波が寄せるように、どうにも意識が目覚めていってしまうのが分かった。
ちょっと待って。もっと聞いていたいのに……。
「…………」
無情にも、私はどうやら目覚めてしまうようだ。ぼんやりした意識が次第にはっきりとしてくる。
天井が目に入って来たところでどうやら完全に目が覚めたことに気づく。まだ夜中らしく、暗い天井をはっきりと確かめる事はできない。
「……?」
なんだろう。てっきり聞こえなくなると思ったこの音はまだ聞こえる。夢の中の名残が耳に残ってるのかしら?
「…………」
しばし暗い天井を見つめながらぼーっと耳を傾けていると、どうやら現実の音だということに気づく。
澄んだ鳥の鳴き声のような、小人の歌声のような。
掠れる様に小さな声なのに、妙にぼんやりと私の耳に響いてくる。
どこから聞こえてくるのかと周りに目を向け、私ははっとした。
チルノがいない。
慌てて部屋の中を見渡しても彼女はいなかった。
あまりに寝相が悪いのでどこかに転がって行った……わけではないわね流石に。
トイレにでも行ったの?
「……?」
とそこで、外からの明かりが僅かに部屋に差し込んでいることに気づいた。
縁側に出る扉は二重構造になっている。普通の襖と冬に使う雪除けの重い引き戸。
雪除けの引き戸は鉄製の鈍い色で、これを使うと寒さと共に明かりも完全に遮ってしまい、部屋の中は昼間でも真っ暗になる。
それがどうやら人が通れるくらい若干開けられているらしく、襖を通して外から月明かりが僅かに部屋の中を照らしていた。
なんで引き戸が開けられてるのかしら。それにこの妙に聞き心地の良い音は何?
寝起きのあまり回らない頭でぼんやりと考えていると、私はおもむろに立ち上がって襖へと歩いて行った。あの音が少し大きくなる。
外から聞こえるみたいね。
導かれるように私はそっと襖を開けた。
――――――。
一段とはっきりと聞こえるその不思議な音に、私は寝起きの頭が完全に冴えるのを覚えた。
そして、境内の小さな影を確認する。
チルノだ。
こちらに背を向け、雪の地面に足を投げ出す格好で座り込み、膝の上で手を組んでいるその体には薄く雪が積もっている。
不思議な天気だった。雪がしんしんと降っているのに雲が薄く、薄雲を通して滲むような月がうっすらと弱い光で地上を照らしていた。小さな月明かりは地面に積もった雪に反射され、境内をぼんやりと浮き上がらせている。
あそこに座って何をやっているのか。そんな疑問はすぐに消え去った。
音はチルノから出ていた。後姿から観察できるチルノの頬の上下から、どうやらあの子が歌っていることが窺える。普段のあの間の抜けた歌を考えると、およそ信じられない光景ではあった。
――――――。
透き通るような声とはまさにこの事だと、私は初めて実感した。
あまりに透明な歌声に、私は最初チルノの声だと信じられなかったくらいだ。
山奥で清流を口にした時のように一瞬で体全体に痺れるような快感が行き渡る。
それは不思議と言うにはあまりに直線的な歌声。
何の疑問も抱かず、体の中心に直接響くのを許してしまう無色の声色。
霊妙にして不可思議で、神秘的と言うにはあまりに小さすぎる音色。
それはしんしんと降る雪に吸い込まれ、極僅かにしか私には届いてこなかった。
あまりに小さい歌声なので、私は思わず側に寄って行って耳を澄ましたくなる。
しかし彼女の歌を邪魔する事は何人にもはばかられる。そんな不可侵性に満ちた光景がそこにはあった。
――――――。
どんな歌詞を歌っているのか分からなかった。少なくとも日本語ではない。妖精同士で交わす言葉なのか、それとも大自然の根底を流れる木々の囁きを、そのまま口から紡いでいるのか。
でもそんな事は全く気にならなかった。
ただ呆然と聞き惚れるものだと、誰に言われるでもなく分かる事だった。
なぜこんな歌を歌えるのか。
普段のあの間の抜けた歌はどうしたのか。
どうして隠れるように歌っているのか。
―――――――。
惚けるような歌声に思考が途切れ途切れになりながら、私はある事を思い出した。
道に迷うは妖精の所為――
こんな歌を聞かされたら、この声を追ってどこまででも迷って行きたい気持ちになるだろう。
私だってこんな歌が聞けるなら迷うと分かっていても追って行きたい。
確かに妖精の歌は人を迷わせるものだった。
でもどうして普段この歌を歌わないのか。
恥ずかしいから?
それとも人間のためにわざわざ聞かせてやるような歌じゃない?
――――――。
違うと思う。
その理由は、普段のチルノを見れば分かるような気がする。
人に聞かせると迷うから。
必死に自分の冷気を抑えて今のチルノがある。
他人を傷付けないために努力してきた。
だから誰かを迷わせて傷付けてしまわないように、万が一にも歌声が届いてしまわないように、普段からこの歌を歌わないようにしているんじゃないのか。
もしかしたら人を迷わせるこの歌を嫌っているのかもしれない。
この子は馬鹿だけど、とても優しい妖精だから。
境内に座り込んで歌っているチルノを見て、私はこの子が急に大人になったような感覚を覚えた。
この子はいつもこうして隠れるようにして夜一人で歌っているのだろうか。
――――――。
そこで、静かに降り積もる雪に目がいった。
はっと気づく。
雪は音を吸収する。この人を惑わす霊異の歌声も極僅かしか空間に響かない。誰かの耳に入ることもない。
先ほど雪が降る外を見て嬉しそうにしていたのはこのためだったんだ。人を迷わせる歌の効果は嫌いだけど、この歌自体を嫌ってはいなかった。本当は歌いたい。
でも音を吸収してくれる雪が降る時にしか歌わない。きっとそうなんだろう。
だとするとこれはそう、まさに――
―――――――。
雪の歌だ。
―――――――――――。
やがて歌声は止んだ。
感動しきっていた私は惜しむ気持ちと共にはっと我に返り、体が芯まで冷えていることに気づく。震えは今になってやってきた。
体が寒いのも忘れさせる歌声。迷ってしまうわけね。
とそこで、
「――!」
チルノが立ち上がるのを見て、私は慌てて襖を閉めた。音は雪に吸収されて響くこともない。
襖を閉じた状態で寄りかかり、私は激しく心臓を鳴らす。
思わず隠れてしまった。
聞いていたことが知られると、もうこの歌を歌わなくなるような気がしたから。
雪を踏む音が聞こえ、私は慌てて逃げるように布団に戻った。
あれ? 私どっち向きで寝てたっけ?
いや落ち着こう。どっち向きでも関係無いし、そもそもあの子が覚えてはいないだろう。
やがてチルノが部屋に入って来ると、私はドクドクと頭に響く自分の心臓の音が聞こえてしまわないかと心配になる。それくらい周囲に音は無かったし、心臓はせわしなく働いていた。
チルノはそっと引き戸と襖を閉め、部屋には再び闇が戻る。
ふわ~、といった間の抜けた欠伸が聞こえ、どうやらチルノは布団にもぐり込んだようだ。すぐに寝息が聞こえてくる。
「…………」
目を閉じた私の頭の中では、さっきまでの冷涼な歌声がまだ響き合っていた。
もっと聞いていたかったけど、せがんで歌ってもらう事なんて考えに無かった。
妖精。大自然の化身。春を好む妖精の中で、例外的に冬を喜ぶ氷の妖精。
彼女の存在自体が自然現象であり、その行動もまたそれに同じなのかもしれない。あの歌を聞けたのはオーロラやダイアモンドダストを偶然垣間見たのと同じ事なのだろう。それはとても幸運なことで、一人の人間が干渉すべき事ではないんだと思う。
その後、頭の中であの歌声を何度も反芻していて私はなかなか寝る事ができなかった。
「れーむ。もう朝だよ。起きてってばあ」
体をゆさゆさ揺らされ目を開けると、私を覗きこんでいるチルノの顔が目に入ってきた。
「チルノ……?」
「ほらほら」
しきりにぐらぐら揺らされ、私は気だるく上半身を起こした。
もしやあの歌は全部夢、と一瞬思ったけど、興奮でなかなか寝付けなかったこの寝不足気味の頭があれは現実であることを示していた。
「うんしょ、うんしょ」
チルノが襖を引き、その向こうの引き戸もガラガラと開け始めた。
「うっ」
眩い光が目を直撃し、私は思わず顔を逸らしてしまう。
「うう……」
恐る恐る外へと目を向けると、昨晩の雪が嘘のように晴れ間が広がっていた。太陽を反射した雪の光が部屋を強烈に照らし出す。
晴れた、か。チルノの言ったとおりね。あの歌が聞けるならもうずっと雪が降っていてもいいけど。
「れーむ、朝だよ」
「うん……」
私はじっとチルノを見つめる。
何も考えていないような無邪気な子供の顔。昨晩どんな表情で歌っていたのか知りたかったけど、きっといつか私の目の前で歌ってくれる時が来たらそれも分かるのだろう。
そんな時が来るのは、おそらくこの子が大人になってから。自分が誰かを凍えさせる存在でも無く、道に迷わせる存在でも無いと実感できるようになったら、あの歌を歌って聞かせてくれるかもしれない。
「……?」
じっと見つめる私を、チルノが不思議そうに首をかしげて見てくる。
私は気を取り直して呼びかけた。
「さ、着替えて朝ご飯にしましょ」
「朝ご飯! いいの?」
そういえば一晩泊めるって話だったっけ。あと何日か泊まっていってもいいと思ったけど、甘やかしすぎるのは良くないわね。
「それくらい食べて行きなさいよ」
「……うん! ありがとれーむ!」
「はいはい」
やっぱりチルノに簡単な仕事を支持してやり、無事朝ご飯を作り終えた。ご飯に味噌汁、あと簡単な果物。
そして食べている最中、チルノが不意に聞いてきた。
「れーむ、昨日の夜何か聞こえなかった?」
「――!」
私は至って平静を装って、
「別に何も聞こえなかったけど?」
と答えると、チルノは少しほっとした様子をした。
「どうかしたの?」
その質問に、チルノは首をふるふると振った。
「ううん、何でもない」
「……そう」
近くで私が寝てたから、もしかして歌声が聞こえてしまったんじゃないかと確認したのかしら。
まあ聞こえてたんだけど今はそのことを言わない。またあんな機会が訪れるのを期待している自分がいる。
そしていつかチルノの方から聞かせてくれる日が来るのを待つことにした。
その時に言ってやろう。
あの時はとっても綺麗な歌声を聞いたって。
朝ご飯を食べ終えた私達は揃って外へ出て境内を見渡した。
「わあ……」
チルノが目を輝かせてふかふかの雪を見つめる。昨晩降った雪で境内は再び白一色に染まっていた。見ると、昨日作った巨大雪だるまにも帽子みたいに雪が積もって一層その背を高くしている。
雪は朝の日差しを反射し、私は眩しさで思わず目を細めながら言う。
「これはまた雪かきね……」
するとチルノは雪の上を駆けていき、くるりと踊るように振り向いて混じり気の無い笑顔を向けてきた。
「れーむ、雪だるま作ろうよ!」
それに倣うように、私は溜息をつくでもなく、ただチルノと同じようににこりと笑って言ってやった。
「そうね、作りましょう」
「やったあ!」
私達は揃って雪玉を転がし始めた。
雪の積もる境内。
夜中に降る雪に隠れながら小さな歌を妖精が口ずさんだ場所で、今彼女は雪玉を上機嫌で転がしながら再び歌っている。
「ふんふふふー。雪だるま~」
あの夜の歌とはまるで違うけど、どこか小気味良く氷の妖精の歌声は響いてくる。
こっちの歌も良いかもしれないわね。
私はしばしの間、チルノの歌声にそっと耳を傾けていた。
了
和みますねぇ…チルノが可愛らしいです。
霊夢との生活が微笑ましくて溜まりませんね。
でも読んでいると最後のほうの場面での綺麗な声で歌う幻想的なチルノが
頭の中で構成されました。
素晴らしく面白いお話でした。
……直径3メートルの雪玉って軽く数百キロ以上あるはずなんだけどなぁ。
最高だ
静かでゆっくりとした時間だった。
霊夢の母親っぷりが秀逸。
短い時間でしたがこの二人はまぎれもなく家族でした
素敵なお話有難うございます
何十年も人の立ち入らない自然の奥地に迷い込んでしまったような。
そんな情景を幻視してしまいました。
すごく和ませて貰いました。
無粋ですが
>やっぱりチルノに簡単な仕事を支持してやり
指示してやり
でしょうか?
シリアスだけでなく
ほのぼのも書けるとは・・・
すごい
とてもよいですね。面白かったです。
面白かったです、GJ!
>>ご飯を作った方が嬉しくなるようなじゃんとした笑顔で答えるチルノ。←?
>>支持→指示?
素晴らしい読了感でした。
自分もチルノの歌を聞いてみたいものです
霊夢とチルノの掛け合いも最高。