言い合うような声に椛は目を覚ました。片方は男の声――霖之助の声で、もう片方は聞き慣れぬ少女のものだ。
朝っぱらからうるさいな、などとそんなことを思いながら彼女はぐしぐしと右手で両目を擦って欠伸をかみ殺した。
ここに居候をしはじめてかれこれ二週間である。
こう何日も寝起きを共にしているとだんだんと気も大きくなるものである。
勝手知ったる香霖堂といわんばかりの無防備さであった。
その間も二人の言い合いは続いている。やがて、僅かな沈黙があって、
「……しょうがないですねえ。でも、絶対怒りますよあの子。あと、責任は全て店主さんに持ってもらいますから」
「結構。何とかなるよ」
「ならないと思いますけどねえ」
「どうせあの子もこの件が終われば二度と香霖堂を訪れはしないさ。嫌われたって構わない」
「……釈然としませんが」
「では、帰路お気を付けて」
そしてまた沈黙が降りた。なんとなくではあるが、あの給仕服の少女かも知れないと椛はそう思った。
もぞもぞと体を起こす。着物はすっかりはだけてしまっていた。
ううん、と大きく伸びをして乱雑にそれをただし、椛は、ぼうっと壁を睨め付けた。
頭の回転がまだ鈍いのだ。今立ち上がったらそのまま転んでしまいそうである。
寒いのでもぞもぞと布団をかきあつめて抱きしめる。なんとなく幸せである。
こくり、と大きく首が揺れた。まだ眠り足りぬようだ。
それは当然である。昨日の宴会は凄絶を極めるものだった。
霖之助は倉庫から次から次に自慢の品を取り出しては訳の分からぬ難しい話をはじめるし、
椛は椛で剣と盾を持って己の数少ない(本当に数少ない)勝利譚を延々と語った。
そのせいで酷く喉が痛い。だが、霖之助の方は朝からぺらぺらと調子よく接客しているようだった。
もしかしたらあのような長々とした口上はいつものことなのかもしれないな、と椛はしみじみとそう思う。
そのようにして、座ったまままどろんでいると、唐突に口元に柔らかな紙のようなものを押しつけられた。
「わふっ!?」
奇特な悲鳴を上げて、椛は目を白黒させる。驚いて顔を上に上げると、そこにはやや怒りを含んだ表情の霖之助が居る。
寝坊そのものに対しての感情ではあるまい。まどろむ少女の口元にちり紙を押しつけるような男だ、
いつまでも寝ているのが許せないのであれば寝乱れた衣類など気にせず布団を蹴り上げたたき起こしにくるだろう。
だとするならば、と椛は自らが抱きかかえていた布団をじっと見やる。
情けなくも、丁度自分の口もとと垂直になる部分の布が円形に湿っていた。
「……すまん」
素直に頭を下げる。はむはむとちり紙を口に含んだまま頭を下げるその様は不格好以外のなにものでもない。
髪は好き放題にはねているし、マヌケを絵に描いたような少女だ。抜き身の剣のような初日の印象は全くない。
「すまんで済めば閻魔は要らないよ。とにかくさっさと布団を退けてくれ。朝食が冷めてしまう」
見れば霖之助は片手で盆を持っていた。
右手のちり紙で自分の口をおさえるためには仕方のない事だったのだろうが、見ていて不安になる。
いつ均衡を崩して皿の中身を撒き散らさぬとも分からない状況であったために、
椛は勢いよく跳ね起きて敷き布団と掛け布団を纏めて蹴り飛ばした。
ひゅんひゅんと鞘に入った刀と盾が宙を舞い、椛は覆輪と盾の端を、はし、と掴む。
「なんだ。結局一晩中剣を――」
霖之助は呆れたようにそう言いかけて、はっと口をつぐんだ。
椛は最初その意味が分からなかったのだが、やがてその表情に怒気を滲ませる。
だんっ、という震足の音が響く。
「……どういう意味だ? 私が枕もとに剣と盾を置いていたのは朝起きた時にも目に入るはずだが?」
形勢が逆転したようである。霖之助は、むむ、と神妙な顔をしてうなり、椛はずずいっ、と一歩前に踏み出す。
「確か初日の夜に言ったはずだぞ。私の事など気にせずいつも通りに振る舞って良いと」
よもや、と一字一句区切りながら、椛は摺り足で霖之助との距離を詰める。
「この数日、私に気を遣って奥の間の外で寝ていたなどということはあるまいな!」
怒気と共に椛は一歩、二歩。彼女の考えは的中していた。なので霖之助はぐっ、と唸って更に後じさりする。
そのさまがしばらく続いたのだが、どん、という音と共に霖之助の背が壁に衝突し、逃亡劇は終わりを迎える。
それと同時に、椛がその無骨な鞘の石突きをびしりと眼前に突きつける。
「何も言わぬということはそういうことだな、この不埒者め!」
普通逆ではないか、自分の態度は紳士的と捉えられて然るべきものではないのか。
霖之助は少女の取り扱いに窮したが、彼とて言い分がある。臆することなくその剣先を退けて、彼は一歩、二歩。
「なんだ、開き直ったか!」
大した悪党だ、という椛に、霖之助は怒りも顕わに言ってのける。
「確かに僕は外で寝たが、決して君の事を思ってのことじゃあない!
とてもじゃないが寝ていられなかったからだ!」
何、とうろたえる椛を前に、霖之助はたたみかける。
話法を戦わせてこの男に勝とうなどという椛の考えは浅はかさに充ち満ちていたらしい。
「布団は跳ね飛ばすわ寝言で訳の分からん声を上げるわ挙げ句僕を蹴り飛ばすわ……。
何度文句を言おうと君を揺り動かしたことか。
その度に君は僕の腕を掴んで投げ飛ばしてくれたよ。
傍若無人な蛮族のような真似をしておきながらよくもまあそんな事が言えたものだな!」
普段から一人で寝起きしていた椛には当然そんなことが分かるはずもなく、
顔を真っ赤にしてうつむいた。ぶれた剣先を見て好期と見たか、霖之助は、ばし、と椛の剣を叩き落とす。
驚きなのは、逃げ回っていたにもかかわらず皿の中身はいまだ宙に舞うことなくほかほかと美味しそうな湯気を立てていることだ。
「すまん……」
今度こそ椛は完全に沈んでしまったようだった。少女としてこれほど恥ずかしいことはないだろう。
故に霖之助も毛ほどしかない思いやりの心を最大限に駆使して数日来の文句を封じていたのだが、
ちょんちょんとその封印を突かれるものだから、堰を切ったように不満が飛び出したわけである。
両膝をついて剣を拾うその背中は何ともいえない哀愁が漂っていた。
「もうだめだ。お嫁に行けない」
ぶつぶつとそんな事を言いながら椛は幽霊のように起きあがる。
嫁に行くつもりはあったのか、と霖之助は内心驚いたが、
「嫁に行くつもりはあったのか……」
しょせん霖之助は霖之助であり、何の気遣いもなく呆れたような声が漏れた。
泣きそうな椛は、ばっ、と顔を上げて怒鳴る。
「悪いかっ! 誰だって一度くらいは憧れる!」
どうどう、とまるで馬の手綱でも握るようにして霖之助はなんとか椛をなだめる。
「まあまあ。僕はそのくらいの事を気にする男ではないよ?」
「誰がお前なんかの嫁に行くと言った! ばかにしているのかッ!」
椛の中では霖之助の嫁にいくという行為は恥以外のなにものでもないらしい。
確かに、この男に嫁ごうとする女が居るならば、その人は少々気が触れていると思われても仕方がない。
話していて面白い男ではあるが、決して人好きのする男ではない。
ともあれここまで言われてしまうと霖之助としてはやるせない。
「矛を収めてはくれないか? 今朝君が寝ている間に珍しい差し入れもあったことだし」
なんだ、とぎらぎらした目で椛は霖之助を睨む。
うむ、と頷いて霖之助はちゃぶ台の上に盆を置いた。
二人の皿の上に乗っていたのは、やや小ぶりな――
「オコゼじゃないか!」
椛の喜びようは並大抵のものではなかった。尻尾があったらぶんぶんと振り回しそうな勢いでちゃぶ台に吸い寄せられていく。
いや、本当に尻尾があるのかもしれない。
見たことはないが、文も羽があると自ら言っていたことだし椛に尻尾があっても不思議ではない。
だが、真実は闇の中といったところであろう。彼の好奇心はそれとは全く別のところに向いていたのだ。
「ふうむ。古書によれば白狼天狗と鴉天狗とはそもそも発祥が全く異なると記されているが、
やっぱり天狗というだけあって形の土台は変わらないのかもしれないな」
どういう意味だ、とオコゼと格闘しながら椛は尋ねる。上機嫌のようだ。
「その衣装のために、山伏から天狗のイメージが生まれたと考える人々は多い。
だが、昨日も語ったと思うが元々天狗――大天狗や鴉天狗は山の神が転じて生まれた妖怪なんだよ。
といっても八坂神奈子のような神のことを言っているわけじゃない。
もっと漠然とした、弱い神のことだ。第一あれは一山の神に収まって良い器じゃないし。
閑話休題、その山の神の大好物がオコゼなんだ。
だから、天狗にもその習性が受け継がれているのだろうかと思って試してみたら案の定だったというわけだ。
しかし、白狼天狗と大天狗では発祥が随分違う。
あくまで伝承上の話だし、君たちにしてみれば職業区分でしかないのかもしれないけど、
とにかく学術上本来の天狗と白狼天狗は発祥が違うのだと思ってもらって構わない。
それでもなお好物が符号するということは、
やはり天狗の二文字にそれだけ深い強制力があるということなのだろう。
いや、白狼天狗も山から生まれた妖怪だし、やっぱり山の神の影響はあるのだろうけどね」
長い口上をふんふんと楽しげに聞きながら、椛はまた尋ねる。
「それで、霖之助。山の神がオコゼが大好きな理由なんてものもあるのか?」
あるよ、と彼は笑った。がつがつと米飯を喉に流し込んで、彼はまた語る。
「オコゼっていう魚は見た目が酷いだろう? 醜悪以外のなにものでもない」
「……美味そうにしか見えんが」
「まあ、君たち天狗にはそうなんだろう。好物、という概念だけがなんとなく残ったんだろうさ。
とにかく一般にはオコゼという魚は醜いものなんだよ」
それでだ、と彼は続ける。
「実は山の神というのもなかなかの醜貌をしていてね、その事にコンプレックスを抱いているんだ。
だから、自分より醜いオコゼを見ることで、こいつよりはマシだな、と安心していたというわけさ。
オコゼにまつわる話は他にもあるよ。有名なのは子供の食い初めに食わせれば
一生の間魚の骨が立たないっていう話かな」
へえ、と椛は笑う。
「それなら、あの山の上でふんぞり返ってる偉そうな神様たちも段々不細工になっていくかもな。
山の神なんぞになるからそういう目に遭う」
「そのときは香霖堂に来るよう言ってくれ。いい商品があるんだよ」
「……永遠亭に行ったほうが確実な気がするのは私だけか?」
「営業妨害はほどほどにしておいてくれ」
相も変わらずの自己中心的な言葉に椛は苦笑を漏らす。
一月にも満たぬ滞在ではあったが、その間に彼があることないことをべらべら喋って
商談を成立させていくのを椛は見ていた。
だが、それと同時に客が欲しい欲しいと金を積むにもかかわらず
断固として首を横に振り続け、結局喧嘩別れになってしまった図もまた目にした。
そして、気が付かぬ間に椛自身も次々と香霖堂の本を購入してしまっていた。
商人としての才能はあるのだ。しかし心意気というものが全くといってよいほど欠如している。
森近霖之助に商売する気はあるのかと問われたならば、椛は自信を持って否と答えるであろう。
物を売りさばく手法に優れていても売るつもりがなければ同じ事である。
つくづく商人には向かぬ男である。
しかし――霖之助が椛に渡していた本、その全ては店の中からではなく倉庫の中から選び抜かれた一冊一冊であった事を彼女は気づいていただろうか。
「それにしても」
沢庵漬けを突きながら霖之助は言う。
「君が刀を振るっているのをここ数日全く目にしていないのだが、大丈夫なのか?
僕としては意気消沈してぐずっているようにも見えるのだが」
親の財力に頼る子のように居着かれてしまってはたまったものではない。
香霖堂は今も昔もそして未来もたった一人での営業なのである。
椛はそんな霖之助の意を汲んだのか、快活に笑って言う。
「こんな辛気くさい店は文さんがテストに来たらすぐにでも出て行ってやる。
それに、剣と盾には一日中ずっと尋ね続けている。
私は不器用だからな、剣を振りながら剣に尋ねるなんてことは出来んのだ」
「そうは思えないけどね」
霖之助は世辞か感想かそんな事を呟きながら茶を飲み干した。
椛もばりばりと沢庵漬けを囓っていたが、不意にぽん、と左手でちゃぶ台を叩いた。
「行儀が悪い」
霖之助はたしなめるが、椛は気にしない。片膝を立てた姿勢で飯を食う男が何を言おうと説得力はないのだ。
「文さんが前に得意そうに言っていた。沢庵漬けは沢庵が考案したものじゃないんだぞ、みたいなことを」
「ああ、そりゃ僕が教えたものだよ」
むぅ、と椛は唸った。少しは霖之助を驚かせてみたかったらしい。
「さも自分が発見したみたいな口ぶりだったが」
「僕が教えたものだよ」
可愛いところもあるじゃないか、と霖之助はくつくつ笑う。実に邪悪な笑みだった。
これは文には申し訳ないことをしたかもしれない、と椛は背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
先日霖之助にからかわれて逃げていった彼女の姿が目に浮かぶ。
「沢庵漬けは沢庵が考案したものではないという意見は実に有力だ。
たくわえ漬けがなまってたくあん漬けと呼ばれるようになり、それが偶然沢庵の名と合致した、というのが真相らしいよ。
まあ、他にも沢庵の墓が漬け物石みたいだったから、なんていう強引極まりない考え方もあるが、
理論は突飛であればいいなんてものじゃない。きちんとした証拠にもとづいていないと駄目だと僕は思うな」
「……どの口が言うのだ、どの口が」
「僕はいつも正しいことしか言わない」
「閻魔に舌を引っこ抜かれるが良いさ」
全く、と呆れたように言う椛に、霖之助は指を立てて驚愕の一言を発する。
「ああ、その閻魔は舌を抜くって話がそもそも嘘だ」
何っ、と椛は目をまん丸にした。どうやら本気で信じていたらしい。
「君は少し純真に過ぎる。閻魔様が舌を引っこ抜くなんて話はうそっぱちに決まってるじゃないか。
まあ閻魔様側も嚇し文句としてよく使ってるから信じる輩も多いのか」
「え、閻魔様が嘘を吐いてもいいのか?」
「良いに決まっているだろう。
閻魔様は「裁く」という自分の罪にたいする罰を毎日被っているからね。
具体的には、どろどろに溶かした銅を呑むらしい。地獄で最大の苦行だそうだ。
あの方々が偉いのにはちゃんとした訳があるんだよ。何の苦みもなくふんぞり返っているとでも思ったかい?」
「あー、そうなのか……」
椛は何度も神妙に頷いた。うむ、と霖之助は満足げに息を吐く。
今の話は古い書物に書かれたものだが、彼岸でその慣行が死滅せず残っているとは彼は断言していない。
本当に未だ銅を呑んでいるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
とにかく、確かなことは大半の閻魔様は二交代制で流れ作業の仕事をしており、
休憩時間はのんびりと彼岸ライフを満喫しているということだ。
珍しくお堅い幻想郷担当の閻魔様は生真面目に一人だけ灼熱の銅を啜っているのかも知れないが。
休日返上で説教に来るあの人の仕事ぶりには頭が下がる。なんだかんだで彼女も幻想郷が大好きなのだろう。
だからこそ誰も地獄に落とすまいと日々説教を繰り返すのだ。善人にも程がある。人々はもっと彼女に感謝するべきである。
「話は戻るが、ちゃんと考えがあって修行をしていないのなら言うことはない。
でも今日明日にはテストとやらがあるだろうし、覚悟だけはしておいたほうがいいよ」
何、と椛は顔を上げた。
「どうしてそんな事が分かるんだ? 文さんとこっそり会っているのか?」
まさか、と彼は両手を広げる。
「僕の我慢がそろそろ限界だというだけだ。彼女もその辺は理解していると思う。
だから何らかの行動を起こすなら、今日、若しくは明日だ」
文さんがそんな事に気を遣うだろうか、と椛は首を捻る。
霖之助の我慢云々の事には興味がないらしい。もし明日までに文が来なければ次の宿を探さねばならないだろうなと彼女は思った。
むしろ覚悟せねばならぬのはそちらの方であるような気もした。天狗達ならいくらでもかかってきてくれて構わない。
だが、寝床がないのは問題である。草の枕など洒落にもならない。
霖之助に対しては土下座して頼んでも無駄な事は重々承知である。そういう男なのだ。
むしろ脅迫されたからといって今まで泊めてくれた事の方に違和感を覚える。
恐らくは何か企みがあってのことなのであろうが。文はそこまで読んだ上で霖之助に頼んだのであろうか。椛としてはやや不安である。
幻想郷の賢者達からの評価として、文は狡猾ではあるが所詮その程度、と受け取られている。
問題は霖之助が賢者に含まれるのか否かということである。
八雲紫や蓬莱山輝夜などは文に対して厳しい評価を下しているが、霖之助は文の上を行く頭脳を持っているのであろうか。
少なくとも、知識と発想力(良くも悪くも見事な発想力だ)だけならば遙か上であることは分かるのだが……。
「呆れたものだ。人の心配より自分の心配をしたらどうかな」
考えを読まれたらしい。霖之助が言葉通りの表情で椛を見やっていた。
「お前が胡散臭いからだ。何だか疑い始めるときりがないぞ……何をたくらんでいる!」
「臨時収入」
悪びれる事なくはっきりと霖之助は言ってのけた。やはり何事か画策しているらしい。
自分が妖怪の山を追放されたことにより、霖之助や文をはじめ、どうも複数人が暗躍しているような気がしてならない。
時々霖之助は訳の分からないことを言うし……
「大体、あの給仕服は何者だ? 趣味か? コレか?」
小指を立てて尋ねる椛の頭を霖之助はすぱん、と軽快な音を立てて叩いた。
「ありえないね。彼女は紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だよ」
それを聞くと、椛は少し驚いたようだった。
「なんだ。香霖堂ってそんな凄い人が毎日のように来る場所だったのか」
「……前に博麗の巫女がよく遊びに来ると言わなかったか?」
「言ってたけど、博麗の巫女は大した奴じゃないだろう?」
「……いや、かなり強いと思うけどね」
空を飛ぶ程度の能力。霊夢は多くを語らぬが、霖之助は知っている。あの能力は反則であると。
「まあ、兎に角紅魔館か……。いいなぁ。あそこの吸血鬼にはちょっと憧れを感じてるんだ」
椛は沢庵漬けをぱくつきながらそんな事を言う。
「レミリアをかい? それはやめた方が良いな。図に乗る」
霖之助はあの我が儘気ままなお嬢様を思い出して言った。
天狗の一人が君の事を尊敬しているようだ、などと言えば有頂天になるのが目に見えている。
「いや、だがな霖之助。実際あの人は凄いぞ! 吸血鬼だから滅茶苦茶強いし、なんといってもその行動力だ!
嫌われる事もいとわずに汚れ役を引き受ける所なんか痺れてしまうな」
「……そうかい」
霖之助は曖昧な笑みで答えた。あのレミリアがそんな悲壮な覚悟を以てして戦いに臨んだとは霖之助には到底思えなかった。
基本的に自己中心的な少女である。
むしろ他人を見下しているからこそ可能であった所行だろう。凄いのは彼女ではなく彼女の友人達である。
いや、レミリア自身もなかなかの好人物であることもまた霖之助は知っているが。
まあいいさ、と椛は笑う。
「とにかく、天狗の山には害は無いんだろうな」
霖之助は、ふい、と目をそらした。口元には曖昧な笑みが浮かんでいる。怪しい。
椛は、貴様ぁっ、と立ち上がると彼の襟首を掴んでぶんぶんと揺さ振った。
「おい、妖怪の山に手を出したら承知せんぞ!」
はっはっは、と霖之助は笑う。笑いながら、眼鏡の奥の瞳で椛を睨め付けた。初対面の時に感じた薄ら寒い何かを椛は感じた。
「君が言うところの道具屋風情の策略に屈するほど、妖怪の山が脆弱だと?」
そう言われると椛は言葉を詰まらせるしかない。だが、相手はただの道具屋店主ではないのだ。森近霖之助である。
人材だけなら事欠かない。スペルカードルールに則るならば、それこそ博麗の巫女一人派遣すればそれで事が済む。
巫女自身は親しい仲ではないと公言しているそうだが、何かと世話を焼きに来ることが多いらしい。
それはあの白と黒の魔法使いにしても同じ事だ。更に古い妖怪や冥界のお嬢様などとも知り合いという話である。
その気になれば、妖怪の山を相手取って闘争を起こす事が可能であるどころか、
歴代の異変の主を総結集させて大異変を引き起こしてもおかしくはない。
僕は天下を取れると霖之助は常々豪語していたが、確かに、と椛は最近では納得し始めていた。
冷静になり、客観的にその考えを評価するならば霖之助の自信は穴だらけなのだが、
彼と一緒に長く暮らしすぎたのだろう、少々毒されてしまっている様子である。
その証拠に、椛の頑固さと自信の強さは三割ほど増していた。
森近霖之助、つくづく人に影響を与えるだけ与える男である。ちなみに責任は取らない。
とにかく、と霖之助の襟から手を離し、その手を腰に当てて椛は上目遣いにその顔を見やった。
「何かとんでもないことをしているのならば、承知しないからな」
うむ、と霖之助は少々嬉しそうに頷いた。
「ならば幸甚だ。僕は罰されそうにないな」
なぜなら、と彼は笑う。
「すでに行動は起こしたからだ」
はっはっはっはっは、と悪役よろしく大笑いする霖之助を前に、
椛は、この越後屋め、だの、悪代官はどいつだ、だの騒ぎ立てるが全く相手にされない。
長身痩躯の霖之助に椛がぶらさがって暴れているので、犬が飼い主にじゃれついているようにも見える。
霖之助は余裕であり、椛は必死であるという精神状態もまさに一致する。
実に和やかである。
これが近頃の香霖堂の朝であり、しかし、これがその最後の日となるのだった。
霖之助はそれを理解していただけに、ほっとするような、どこか淋しいような感慨を抱きながら、
まとわりついてくる椛の頭をぽんぽんと叩いた。小さな頭巾は、いつの間にか少しだけ可愛らしく思えるようになっていた。
ひゅっ、ひゅっ、という鋭い音が空を裂く。椛は久方ぶりに剣を振るっていた。長い影を落とす夕刻にその姿は映えた。
暗雲が日光を覆っていないのであれば尚良かったであろう。
椛には剣を振るうその音が変わっているように思えた。
わずか数日で、しかも修行を怠っていて剣筋が良くなるはずも無かろうに、と椛は苦笑する。
だが、不思議なことに剣も盾もとても軽い。今の今まで剣も盾も自分の問いには全く答えてくれてはいない。
なのにどうしてだろう、と椛は不思議に思う。霖之助が言うところの親孝行というやつを全くしてやってはいないのに、
どうしてこんなにも剣が軽いのだろう。椛の言葉を代弁するように、店の壁面に背を預けている霖之助は言った。
「上機嫌じゃないか」
彼の言葉に、ああ、と椛は短く答えた。無論、椛のことを言っているのではない。剣と盾のことだ。
椛にも何となくだが、剣が嬉しそうにしているのが音で分かった。
これだけ音の違いが顕著であるのならば、そうとうの業物だよ、と霖之助は目を丸くしている。
ふふん、とそれに対して椛は得意げに口元を歪めた。
「鬼を切り裂くことのできた時代の剣だ。強くて当たり前だろう。とりあえず言っておくが、売らんぞ」
買わないよ、と霖之助もおどけて答える。
「君から引きはがしたら、その剣はきっと僕を呪い殺そうとするだろうからねえ。馬鹿親め」
「せめて親馬鹿と言ってやれ。可愛そうだろう」
「やれやれ」
親も親なら娘も娘、禁断の愛着だな、などと霖之助は揶揄する。
「黙れ、気が散る。一瞬の油断が命取り」
そんな台詞で霖之助のからかいを封じて椛は延々と剣を振るう。
その様子は真剣というよりとても楽しげだった。
笑みはない。眼光も鋭い。全てを一太刀に集中している様子である。
だが、彼女はそれを確実に楽しんでいる。
鋭い眼光は、剣が発する幽かな一言を聞き漏らすまいとするがためだ。
興が乗ればのるほど椛の表情は鋭くなり、剣は縦横無尽に空間を裂く。
凡人が見れば、厳しい鍛錬を積んだ剣豪が無心の境地に至り、一刀を繰り出しているようにも見えるのだろう。
だが、と霖之助は頬の弛みをおさえることができない。
なんという微笑ましい光景だろうか。彼には椛と剣とがじゃれ合っているように見えた。
まったく、と我慢しかねて一声かける。
「こら、嬉しいのは分かるがもっと真面目にやったらどうだ。
そんなきゃっきゃうふふとした光景を見せつけるために僕をわざわざ外に連れ出したのか? 惚気るならよそでやってくれ」
悪い悪い、と急に表情を崩して椛は照れくさそうに頬を掻いた。
先程まで修羅の如く剣を振るっていた者とは思えぬ豹変ぶりであった。
変わったのは表情だけであり、内面はただ浮かれているだけで、何の変化も見られないのだが。
ははっ、と椛は笑う。
「端から見たら相当怖い顔していたと思うんだけど、やっぱり霖之助はお見通しか。さすがだな」
「そろそろ天狗の心を見通す程度の能力に目覚めそうだよ、有り難う」
「そうなったら私のせいだな。天狗社会への不利益の責任を取って自刃しよう」
あはは、と二人揃って大笑いする。ひとしきり笑ったあと、笑みの残る表情で椛は言う。
「いや、本当に感心しているんだ。よく分かったな、楽しそうにしているだなんて」
「感心するのは良いが、もう少ししゃんとしたらどうだ、だらしがない」
それを聞いて、また椛は笑った。
「まったく。霖之助は剣を教える才能があるよ」
「あのへなちょこ演武でかい?」
「ああ……あれじゃ無理だな」
くすり、と椛は笑う。しかし、その上で少しだけ真面目な顔をして、言った。
「だが、少なくとも私に対しては、霖之助は立派な師だったぞ」
「道具以外を扱ったつもりはないけどね」
照れているのかいないのか、そっぽを向きながら霖之助は言う。
後者だとは思うが前者であったら面白い、などとそんな事を椛は思った。
「いいや、霖之助は教えてくれたよ。
剣との付き合い方をここまで真剣に教えてもらったのは初めてだ。ありがとう」
やれやれ、と彼は溜息を吐いた。そして、顔を上げることなく言葉を発する。
「一つ、覚えておくと良い。
道具屋というのはね、椛。感謝の言葉に何よりも弱いんだ。
笑顔と共に礼を言われると、代金なんて支払ってもらわなくても良いと思えるくらい、舞い上がってしまう生き物だ」
ミニ八卦路を受け取ったとある少女の見せた値千金の笑顔を思い出し、
霖之助は自分の言葉に嘘偽りが無いことを確認して、続けた。
「だからね、懇意にしようと思う店があるのならば、とにかくお礼を忘れないことだ。
ひょっとすると、そのうち大割引とか、おまけとか、そんな得点がついてくるかも知れない。いや、確実についてくる」
遠回しなその言葉に、椛はくすりと笑った。
「暗に香霖堂をごひいきにって言ってないか、霖之助」
「商売人根性が据わってるだろう?」
「いいや、そりゃひねくれ者根性っていうんだ」
「言うか、マヌケが」
「ふふん。阿呆の師匠ほど良く吠える」
まあしょうがない、と椛は剣を振り上げた。背筋は伸び、剣はぴたりと制止して動かない。完璧な型である。
「他人に見せる趣味はないが、特別に本気の剣を見せてやる。その目に焼き付けるがいい」
「三日で忘れるよ」
折角本気になったというのに、霖之助は興をそぐような言葉を返すだけだ。
椛はやれやれと息を吐いた。その仕草が霖之助そっくりであることに、本人は気がついただろうか。
もう椛は前しか見ない。眼前にいるのはにやにやとして自分を見下ろす長身の男だ。
朝昼晩の飯は勿論、風呂や寝床の世話まで、ずっと頼りっぱなしであった。
彼は彼なりの計略があって親切にしてくれたのだろうが、それでも椛には嬉しかった。
天狗全てを敵に回したような状況の中で、味方が居てくれるのは本当に心強かった。
だから、これはその礼だ。全身全霊の剣を彼に、魅せる。見せるのではなく、魅せる。
椛は、小さく、誰にも聞こえぬように、ゆっくりと剣を振り上げた。口許が小さく動く。
「お前の記憶から一生消えぬ、最高の一撃を魅せてやる」
椛は小さな笑みと共に剣を振り上げた。だが、その笑みは瞬く間に消え去り、手には剣と己の感覚のみが残る。
戦場での敵と己と剣の与える雰囲気とはまた違う。斬る為の技ではない。魅了するための技なのだから、それは当然のことである。
浅い呼吸を徐々に落ち着けていき、ただ一刀、何よりも美しい一刀をと願う。
呼吸が、刀を持つ手が、そして刀自身が、その全ての挙動が一致した瞬間、かつ、と彼女は目を開き――
「な……ッ!」
その、千里先まで見通す目で確かに捉えた。とある方向へ向かい、まるで弾丸のように飛んでいくものを、一瞬だけ視界に捉えた。
呼吸が乱れる。手が、そして足が震える。
見えたものは、どこまでも紅く、どこまでも他人を見下したような紅い紅い瞳だった。
白を基調としたナイトキャップのような帽子。腰と帽子の側面には同じ赤の色に白のラインが入ったリボン。
そして、その矮小な体に似合わぬ蝙蝠のような硬質で禍々しい一対の翼。
波打つ髪に隠されたその目は、確かに自分を見下ろしていた。
否、違う! 彼女が目をやったのは自分ではなく、その先の――!
背筋が凍るような感覚と共に、彼女は目の前の男を見やった。
その口許には、にやり、と薄い笑みが浮かんでいた。間違い、無かった。
「……冗談だろう」
霖之助は、やはり同様の笑みだ。とん、と音を立てて壁を蹴り、彼は腕を組んだまま近づいてくる。
「テストで負けるのは確実だからね。君が英雄として山に戻ることができるよう、色々と手を回しておいてあげたよ。
まあ、僕だけでなく、裏では紅魔館の瀟洒なメイドと動かない大図書館、それから当然あの新聞記者にも暗躍してもらったが。
レミリアの事を随分評価していたみたいだし、一回くらい手合わせしてみたかったろう?」
椛は茫然自失として霖之助を見やる。
「妖怪の山の連中が緩みきっているというのは常々あの妖怪少女からも聞いていたことだ。
僕がやらずとも、君が動かずとも、ここいらで誰かがやっただろう。というか、ここ数ヶ月の内にレミリアは攻撃に出るつもりだったそうだけど。
無理を言って早めてもらったんだよ。いやはや、これには苦労した」
何故、どうして、という疑問が椛の頭の表面をぐるぐると巡る。だが、不思議と芯の部分だけは冷静だった。
大丈夫、この男が妖怪の山を崩壊させるような事は絶対にしない。そんな確信めいたものが椛にはあった。
彼が画策したこと、そしてレミリアがあと数ヶ月以内に行おうとしていたこと。
独自の社会を形成しているが故に旧態依然としたその危うさに、彼らは警鐘を鳴らしたのだ。
紅霧異変の犯人、西洋では不死の王とまでうたわれる化け物、レミリア・スカーレットを送り込む事によって。
霖之助は言う。
「さっさと行ってくるといい。
咲夜とパチュリーと僕の三段構えの策略で、絶対にレミリアが負けるように仕組んではいるが、
あの子は万が一を起こすのが非常に得意な妖怪だ。
自分が「負けねばならない」ことを理解していても、あの我が儘さでは理屈より感情が先行する事もあり得る。
というか、妖怪の山が天狗が守るには過ぎた代物だと判断したなら、その瞬間に容赦なくあの子は爪を振るうだろうな」
まあ、妖怪の山がどうなろうが知ったことではないけれど、と霖之助は最後に付け加えて、椛に背を向ける。
挨拶をするつもりは無いらしい。このまま香霖堂の扉を開き、そして閉じる事で自分との接触を完全に断とうというのだろう。
その時、あれ、と椛は思った。何かが変だと思った。霖之助が自分に背を向けて歩いている。
何故だか随分弱気な後ろ姿である。老婆に冷たい言葉をぶつけてもびくともしなかったその後ろ姿に、何か嘘くさいものを椛は感じた。
直感的に椛は思った。この男は、演技をしていると。
思わず、椛は駆けだしていた。扉に手をかけた霖之助の服を、ぐい、と力一杯引っ張った。
彼は驚いたように振り返る。引っ張る力があまりに強かったのか、眼鏡が外れ、地面に落ちて、かしゃん、と乾いた音を立てた。
椛も、自分が何故そのような行動に出たのか分からなかった。霖之助の言葉は理解できていた。彼が今までやってきた事は全部正しかった。
だから自分は気分良く妖怪の山に向かうつもりだった。
据え膳を食って、そしていつかその役得を天狗の皆に還元し、恩返しだってするつもりだった。
だというのに、霖之助が何も言わずに背を向けた時、椛は、かあっ、と自分の頭に血が上るのを感じた。
何故だか分からないが、彼の態度が許せなかった。理屈が追いつかないままに椛は口火を切った。
「……頑張れとも言わないのか?」
驚くほど低い声だった。霖之助は何も言わない。先程まで能弁にべらべらと正論を語っていた時とは大違いだ。
それが、苛立たしい。椛はゆさゆさと、彼の服を揺さぶった。霖之助は困ったように両手を広げた。
「言える立場ではないからね。君たちに迷惑をかけたのは事実。どの面下げてそんな事を言えという」
演技だ。この情景全てが滑稽に見える。レミリアの登場も取って付けたようだったし、霖之助の態度もつぎはぎだ。
まるで前もって台詞も登場も準備していたような、そんな「くささ」を感じる。
椛は一歩踏み出した。
「思えばずっと変だったさ。人気のない店なのにあの給仕服は毎日のようにやって来るし、
いつだったか、私に頑張れ、みたいなことも言ってた。たぶんあのおばあさんもぐるだろう? 一枚噛んでるんだろう」
詰るというよりは、だだを捏ねるように椛は怒鳴った。やはり霖之助は何も言わない。それが口惜しくて、椛はまた言う。
「後ろめたい事でも、あるのか? 悪いことでもしたと思っているのか?」
彼は確かに悪いことをした。天狗の山に吸血鬼を送り込むなど、正気の沙汰ではない。
だから霖之助は自分に背を向けた――否、それは違う。
椛はもう一度顔を上げた。やはり、霖之助の痛々しい表情はどこまでも偽物臭かった。
いつもの彼ならば開き直って、僕が正しい、と高笑いしただろう。
天狗の山に吸血鬼を送り込む程度の事、彼にとっては天狗が家に転がり込んでくるのと同じくらいに日常的なことであるはずだ。
森近霖之助という男がこんなちっぽけな事に罪悪感を覚えるとは思えなかった。
この犬走椛がいけすかないと思っている男が、そんな小悪党であるとは思えなかった。
それにもかかわらず彼がわざわざ気をつかってくれたということは、つまりだ。
自分は対等に話し合っても意味がない未熟者だと思われている――そういうことだ。
椛は腸が煮えくりかえりそうだった。今まであの夜言われた事を忠実に守りきってきた。そして、成長することが出来た。
その成長を見て、霖之助が自分を認めてくれたものだと思っていた。だが、違ったのだ。
彼にとってはまだ自分は子供でしかなかった。だから椛が都合良く英雄の気持ちに浸れるように、悪役に徹そうとしてくれたのだ。
店を閉じることで、椛に背を向けることで、「自分には後ろめたいことがあります」と、そう宣言することで、だ。
もし椛が霖之助の演技に気が付かねば、椛は霖之助を一発殴っていただろう。多分、霖之助は文句一つ言わないだろう。
悪党は成敗するべきだ。その椛の考えを否定しない為に、霖之助は芝居を打ったのだ。
森近霖之助に、後ろめたいことなどあるはずがない。この男はこんな小さな事で一々くよくよする男ではない。
さっき背を向けたのは、単なるポーズである。卑小な悪役に扮するためのポーズである。
その擬態を行いながら、彼はきっと苦笑しているのだ。青いな、と。初めて意見を口にした、あの日のように。
そう思った上で、彼は気をつかってくれているのだ。文やあの老婆に対する霖之助の態度を見ていれば分かる。
霖之助は認めている人間に対して気を使うなどという事はしない。言いたい放題だし、やりたい放題だ。
こんな子供だましに腐心したりはしない。今から出陣するのが文だったならば、霖之助はいつもの木訥とした表情で、
「まあ、頑張ってくれ」
くらいは言ってくれただろう。
そして、椛はその言葉をこそ欲していた。
あの給仕服――十六夜咲夜や老婆だって応援してくれたのに、ずっと一緒だった霖之助が最後の最後までこんな扱いをしてくるとは思ってもみなかったのだ。
だが、驚いたのは霖之助にしても同じ事である。彼にしてみれば、少しばかり愛着のわいた少女が戦いを前に悶々とせぬように、
「良い奴か悪い奴か訳の分からん男」という霖之助像を曲げ、わざわざ「明らかに小悪党」である霖之助を演じて見せたのだ。
この案は、咲夜にも文にもいい顔はされなかったが、どうやら本当に愚策であったらしいな、と彼は痛感した。
だが、はじめたからには続けねば格好が付くまい。霖之助はまだまだしらを切るつもりらしかった。しかし、ここから先はもう駄目を詰めるようなものだろう。
椛は霖之助を見る。問いつめられた犯罪者のような惨めな顔をしているが、絶対にこの男はそんな事を考えてはない。
一皮はげば、苦笑が見える。だったらそれを見せてくれればいいのだ。もう自分はそんな事で怒ったりなんかしない。
霖之助と対等でありたかった。この男には、堂々と見送って欲しかった。
給仕服も、おばあさんも、文も、皆「がんばれ」と言ってくれた。恐らく、椛の為に暗躍してくれていた人達だろう。
みな、椛を認め、そして「がんばれ」と応援してくれていたのだ。だが。
霖之助だけは違った。申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ている。下手な演技であった。
「何でそんな顔をするんだ。霖之助は、悪いことをしただなんて微塵も思っちゃいないだろう!」
それは、と彼は視線を泳がせた。呆れるほど、へたくそな演技だった。ぎり、と椛は歯を噛み締める。
「どうせお前のことだ! 異変に乗じて天狗の宝の三つや四つくすねてやろうと思ってるんだろ!
天狗が混乱して大変だ、申し訳ないことをした、だなんて微塵も考えてないだろう!
それなら何故そんな顔をする! 私はそんなに幼いかッ!」
うーん、と霖之助の仮面に軽くヒビが入った。この時の椛の激情ぶりに至ってようやく、霖之助は自分の気遣いが大失敗であったことに気が付いたらしい。
つくづく鈍い男である。駄目だと分かったらすぐさま冗談だと言えば良かろうに、自尊心がそうはさせなかったようである。霖之助もまだまだ青いということだ。
ともかく、と霖之助は自分の襟首を両手で掴んで、じっ、とこちらを見上げてくる椛に視線をやる。
口を結び、顔を真っ赤にしているが、怒っているというよりもむしろ泣き出しそうだと表現するのが適切な表情であった。
眉などはすっかりハの字である。捨てられた犬のような、との形容がぴったりと当てはまる。
噛ませ犬になるつもりであった悪人第一号、森近霖之助は、やれやれと溜息を吐き、その役割を放棄した。
仮面の下から出てきたのは、しくじった、と言わんばかりの苦笑である。
先程まで烈火の如く怒っていた椛だったが、その苦笑を――本物の苦笑を見ると、何故か自然と笑みがこぼれそうになってしまった。
どうしようもなく、嬉しかった。そうだ、こいつはこういう奴だ。天狗に戦争吹っ掛けた程度で罪悪感を覚えるような小物じゃない。
むしろ、今目の前にいるじゃじゃ馬の対応に辟易するような、そんな奴だ。
やっと本性を現したか。お前はやっぱり悪い奴だ。いけすかん。だから嫌いなんだ。
頬がゆるんでしまいそうだ。しかし、先程まで怒鳴り散らしていた手前、いきなり機嫌を戻すのも癪である。
「私は、子供ではないッ!」
そう言うと霖之助は、ぷふっ、と小さく吹き出した。たまらない、といった表情だった。
自分の言葉が蛇足だと気が付いた時、椛は怒りとは別の意味で頬が熱くなるのを感じた。
「何がおかしい!」
別に、と霖之助は大げさに肩を竦めた。目を閉じ、やれやれと溜息を吐き、そして彼は顔を上げた。
そこにはいつもの蘊蓄を語る時の得意気な顔があった。
「青いな、と思っただけだよ」
「むむむ」
その言葉だけは言われたくなかったのに、何故だか不快ではなかった。相変わらずいけすかない男だが、彼の態度は嫌いではない。
レミリアはすでに豆粒ほどの大きさになっていたが、椛の目は飛んでいく彼女を捉えて離さなかった。
「前後の文脈が……つまり、説明が欲しいか? 何がどうしてこうなったか。レミリアがなぜあっちに飛んでいったか。
僕が何をしていたのか。老婆は何者か。どうして咲夜が毎日のように此処に通っていたか。何を話していたのか……エトセトラエトセトラ。聞くつもりはあるかな?」
霖之助は尋ねた。確かに唐突の強襲であった。椛には何が起こったのか全く分からなかった。
とりあえず、霖之助と文と給仕服と老婆、あと吸血鬼がぐるになって何かとんでもない事をしでかしたということだけは分かった。
だから椛は尋ねた。
「お前が何をするつもりなのか、それをちゃんと言えば良いんだ。いきなりへたくそな演技で背中を向けるから少し怒っちゃったじゃないか」
悪かった悪かった、と。霖之助は椛の頭を、ぽんぽんと叩く。頭巾ごしに叩くその手が、椛は少しだけ嫌いではなくなっていた。
「そういう事なら正直に言わせてもらうが……ぶっちゃけ、魔理沙を投入してお宝ざっくり大作戦としゃれ込もうと思っていた」
悪びれずにそんなことを言う霖之助を見て、やっぱりこいつはこういう奴だと椛は安心した。
掴んでいた手の片方を離し、しかし片方は未だしっかりと掴んだまま、椛は言う。
「許してやる。それじゃあ、行くぞ」
は、と霖之助は呆れた顔になった。椛の言っていることが理解できない、という様子である。
椛はひしと前だけを見据えた。今、霖之助の顔などまともに見ることが出来る訳がない。
もう一度、言い聞かせるように椛は言った。
「とりあえず分かることはただ一つだけだ。レミリアが悪者の総大将なんだろう?
それなら、行って、レミリア・スカーレットを見事討ち取る様を見せてやる。
そうすればいくら馬鹿な天狗も道具屋も、私の言うことを聞いてくれるだろう?」
まあ、と霖之助は頷いた。自分は妖怪の山へ行くのだ、と自覚した。
実は、ちょっと嬉しかった。妖怪の山は警備が厳しいので最奥部に行くのは余程の実力者でない限りは不可能だ。
天狗や河童の織りなす文化について、霖之助は前々から興味を持っていた。
季節が秋ではないのが些か残念ではあるが。
今回の事は天魔とも話をつけ、自惚れた幾人かの天狗たちの目を覚まさせる一大作戦だ。
その要がレミリアであり、そして椛なのだった。
賢い天魔が椛の今までの言動を愚かの一言で片づけるはずがない。
社会の平和のために黙してはいたが、内心この少女の言葉を彼らは好ましいとさえ思っていた。
射命丸文をはじめ、こっそりとレミリアの襲来を知らされている天狗たちは、
犬走椛が一番の大役を務めることに対して何の異論もなかったという。
これまで鼻ばかり高くしていた馬鹿な天狗たちに一泡吹かせてやろうとの思いはみな一緒だった。
椛の言葉が今まで誰の心にも届かなかったのは、彼女が弱いからだ。
行動の伴わぬ言葉ほど空虚なものはない。だからこそ、皆は椛を推した。
椛に勝たせ、椛の言葉であいつらの目を覚ましてやろう。
そういう意気が天狗たちの間で高まっていた。
目下最大の心配は、本気のレミリアをどうやったら椛如きが倒せるのか、ということであったが、これにも何重もの策が仕掛けてあり、
その次第を知った天狗たちは驚き、そしてその次の瞬間には痛快な笑いを発したという。
香霖堂店主と紅魔館の瀟洒な従者が何度も綿密なミーティングを行い、更には天魔自らが姿を変えて確認に訪れる始末。失敗するはずがなかった。
そう、これは幻想郷を挙げた一大行事なのだ。
レミリア・スカーレットが世に叩き付けた情け容赦ない決闘方式「スペルカード戦」を、
この幻想郷中に完全に浸透させる為の、最後の戦いなのだ。
この作戦が成功し、天狗が事の重大性に気が付けば、スペルカードルールの定着は盤石のものとなるだろう。
椛は知らない。
自らがそのような大役を任ぜられている事を。
幻想郷の賢者たちが静かに見守る中、決戦が始まった。
……。
というのが悪人軍団の総意だったはずなのだが、霖之助は少しばかり情が移ってしまったようであった。
彼に見えぬように、しかし本当に楽しげに笑う椛の左の手を、霖之助は軽く握りしめた。
「ん、どうした? やけにやる気じゃないか」
椛は笑顔のまま振り返ってしまった。声の調子までご機嫌そのものであった。
楽しいぞ、嬉しいぞ、と体全体で表現しているようなものであった。
だが、霖之助はゆっくりと首を横に振った。
「いや、やっぱり行くのはよしておくよ」
先程のような演技ではない、本当に、少しだけ申し訳なさそうな顔で、霖之助は言った。
椛はきょとんとして、握られた手を、そして霖之助のその表情を見やる。
「僕はね、椛。霊夢や魔理沙がどんなに苦しい戦いに出向く時でもついていった事はない。
いつも店に居る。店にいて、君たちが勝利の報告をするのを待つ事が僕に出来る唯一のことだ。
行っても役に立てないから、僕は行かない。僕には他にすべきことがいくらでもある」
やや冷たく言い放ち、しかしその後で霖之助は珍しく、ほんの少しだけ優しく笑って見せた。
「だから、勝っておいで。君の武勇伝はあんまり聞けなかったからな。
じっくり聞いてあげるよ。一晩中でも聞いてやる。美酒と最高のつまみを用意しているから、勝っておいで」
椛は霖之助がついてきてくれた方が心強かった。何せ、ここ二週間唯一の味方だったのだから。
しかし、あえて霖之助はその申し出を断った。断って、自分の欲求を優先した。
ということは、だ。霖之助は自分を認めてくれたということで、良いのだろうか。
我が儘を言ったところで、ちゃんと分かってくれる相手だと、見なしてくれたのだろうか。
そう捉えてしまって、いいのだろうか。
「あ、いや……うん」
椛は急にあたふたし出した。しかし、珍しく霖之助の方から差し出してきた手をふりほどくわけにもいかず、結局空いた手をばたばたさせるに留まった。
そうやってうろたえること数秒、椛は霖之助が差し出した左の手の中に薄っぺらくて固いものが何枚か握られていたのに気が付いた。
ん、と小さく首を傾げて椛は言う。
「なあ、霖之助」
奥の間でごろごろしている時のような調子とは違い、少し上ずった声で椛は尋ねる。どうやらまだ恥ずかしいらしい。
「今お前が握ってるのって何だ?」
気まぐれに尋ねた彼女に対し、霖之助はうむ、といつものように淡々と答えた。
「五銭と十銭だよ。持って行くと良い。千本針で縫いつけられたのがこの二つだ。
死線(四銭)苦戦(九銭)を乗り越えられますように、っていう意味だよ。
僕からのせめてものお守りだ。香霖堂謹製のアイテムの効果を味方に付ければ、吸血鬼など物の数じゃあない」
最後まで蘊蓄混じりの激励に、椛は不覚にも涙腺がゆるんでしまった。だが、泣きはしない。
吸血鬼に勝てるかどうかなど分からない。少なくとも一発攻撃を受ければおしまいだろう。
それでも椛は退くわけにはいかなかった。
敵の姿は見えている。
たった一人の味方が居る。
その味方は、とてもとても心強い。
何せ、天狗の剣を叩き落とすような奴だ。
何せ、天が認めたと自ら豪語する男だ。
吸血鬼が何様のものだという。負けるはずがないではないか。
敵の姿は見えている。すぐにでも行って、斬り倒してくれよう。
不思議なことに、剣も盾も、重さを感じぬほど軽かった。
「まったく」
椛は、不器用に笑って見せた。
「お金なら、香霖堂が作ったアイテムじゃないだろうが!」
そして、彼女は地面を蹴った。暗雲を切り裂くように飛んでいく少女を眩しそうに見やり、霖之助は、違いないな、と苦笑した。
レミリア・スカーレットは松の古木に背を委ね、荒い息を吐いていた。彼女の視線の先には厳としてそびえる妖怪の山がある。
紅い瞳は、その山の上空で赤い弾幕を放つ幾十もの自身の分身を満足げに眺めていた。
「さすが、パチェねえ」
吐く息は些か荒い。咲夜やパチュリーの勧めもあって、妖怪の山攻略大作戦に出てみたのだが、やはり急ごしらえであったようだ。
フランドール直伝の分身の術も上手く機能してはいない。身体能力の大半を分身体に持って行かれてしまい、立っているのがやっとだ。
しかし、とレミリアは笑う。あの分身は倒しても倒してもそれこそ妖精のようによみがえる。
本体を倒さぬ限り敵に活路はない。しかも、本体は妖怪の山から遙か遠く離れた場所にいるのだ。見つかる筈がない。
ぜえ、はあ、という荒い息と共に薄い胸が上下した。レミリアは改めて自身の妹の魔法使いとしての才覚に感心した。
分身とはかくも身体に負荷を与えるものであったのか。驚きである。しかし、もはや、勝ったも同然――
「なーんてね」
レミリアは、くすりと笑った。話が上手くいきすぎている事はレミリア自身理解できていた。
咲夜は「妖怪の山の防御が手薄になった日」を的確に言い当ててきたし、
パチュリーは分身の術についての魔導書を書き上げたばかりだと言っていた。
いくらなんでも好都合が過ぎるというものだ。まるで攻め込めと言わんばかりである。
恐らく何か裏があるのであろうとレミリアは確信していたが、一々それを訊くようなことはしなかった。
咲夜は信頼できる従者であるし、パチュリーは親友である。
何か考えがあるにしても、それは自分にとってマイナスになるものではない。
質より量を重視する紅魔館の主は、しかしながら誰よりも同居者を信じている。
例え自分の立ち位置が絶対に敗北を免れないものであったとしても、だ。
それでも、とレミリアは思う。このままなら本当に天狗の山を制圧できてしまうのではないかと。
咲夜の話によれば、天狗の弾幕攻撃はきちんと統率が取れており、それこそ壁のように迫ってくる恐ろしいものだということだ。
ところがどうだ。統率どころか戦力の逐次投入としか言いようのない敵の出現具合である。
一人、また一人と飛び出してきては叩き落とされている。厄介なのは、とレミリアは息を吐く。
遠目にも分かる。ほんの数人ではあるが、天狗風を巻き起こしながら分身たちを蹂躙する天狗が居る。
その中にはレミリアの見知った顔もあった。例えばそう、射命丸文である。
新聞記者としての得体の知れない笑みは無く、それでもやはり笑顔を貼り付けて彼女は舞っていた。
しかし、その攻撃は、生かさぬよう、殺さぬようといった風である。
まるで、妖怪の山でレミリアを暴れさせるのが目的であると言わんばかりの様子だ。
まるで、天狗達を余さず叩きのめしてくれと言わんばかりの様子だ。
分身全てを倒せば攻撃は一時的にとはいえ収まるだろう。
迎撃を諦めても攻撃は止むだろう。
だが、文達は分身達を進軍させては押し戻し、押し戻しては誘い込み、という動作を繰り返していた。
そのたびに、雑魚としかいいようのない天狗が現れては叩きのめされていく。そして、強い天狗だけが大空を舞い続ける。
自然淘汰という言葉が、レミリアの脳裏に浮かんだ。まあいい。その内全員倒されるのがオチだ。頂点に立つのは自分なのだから。
勝ちを千里の外に決すという言葉がある。レミリアはそれを実感し、にやりと笑って腕を組み――
「ふむ。自陣で余裕綽々に考察に耽るのは良いが、すでにチェックメイトのようだな」
ばっ、と勢いよく顔を上げた。思考の海に溺れていたという訳ではない。
あまりにも大量の分身を作りすぎたせいで、本体の方にガタが来ているのだ。
振り返りもせずに、レミリアは言う。
「悪かったわね。絶対に見つからない場所で分身を操れば良いだけの話だから、本体に力を残す必要は無いってパチェが言うものだからさあ」
やれやれ、呆れた、と。肩で息をするレミリアは本当に辛そうだった。彼女はそこでようやく振り返る。
もしやとは思ったが、こうも早くばれてしまうとは。目の前には、見知らぬ天狗が立っていた。天狗は問う。
「……皆に騙されている事には、気が付かなかったのか?」
馬鹿なのあんた、とレミリアは目を細める。そこには深い怒りの色があった。
古木の威厳が霞むほどに、その重圧は場を支配しきっていた。
「んな事、最初から気づいてたに決まってるじゃない。
私を騙す気満々の連中がごろごろしてるのは分かってた。というか、あの店主と文の二人、かしらね。
でも、パチェと咲夜は騙してないかな。私がこうすれば良いことが起こるって知ってるから進言してくれただけ。
ま、この場合どー見ても私が悪役だし、敗北しそうな感じはしてたんだけどねえ。
というか、見たところ騙されたのはあんたも同じか。お互い大変ね」
言いながら、レミリアは両手を広げる。この状況でも戦うつもりらしい。
否――この状況でも、恐ろしく強いに違いなかった。椛が、じり、と一歩前に踏み出した。
ああ、とレミリアは初めて気が付いたとでも言わんばかりの様子で、彼女を見やる。
「そういやあんたが私を見つけたのかい? やるじゃない」
楽しそうに彼女は笑い、椛は力が抜けぬよう、必死で足に力を込めた。
やはり、格が違う。本体に残っている力など、本来の力の何十分の一程度のものでしかないのだろう。
それでもなおやはり、この少女の絶対性は揺るがなかった。
今にも倒れそうだというのに、どこまでも強大だった。
先程、彼女は気が付いていると言った。
たぶん、と椛は思う。
自分が騙されたように、レミリアも騙されたのだろう。
なのにレミリアは信じ切っていた。悪役を任ぜられているというのに、問題ないと一笑に付した。
もしかしたら、幻想郷の未来を案じての事なのかも知れない。だが、椛はレミリアはそんな大それた事は考えていないな、となんとなく思った。
自分の信頼している人達がそうするのが良いと何度も言ったから、意見を取り入れただけのように思われる。
しかし、それは何よりも難しいことのはずだ。妖怪の山に放った分身はいつまでたっても山を攻略できない。
自分の体は弱り続ける。そして絶対に見つからぬはずの自陣がいとも簡単に暴かれる。
まるで、「シナリオ」に沿って事が進んでいるかのような違和感をレミリアは覚えたはずだ。
不自然だと思ったはずだ。疑ったはずだ。しかし、彼女は動じなかった。
このような状況に陥ってなお、レミリアは仲間を信じていた。
もしかしたら、と椛は思う。紅霧異変の時もそうだったのかもしれないな、と。
彼女は一人で何でも出来るはずなのに、大切な皆の意見を取り入れ、それを実行する事を決断したのである。
君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す、との言葉がある。
何も言わず、レミリアはただ皆の言葉を受け入れ、そしてその言葉通りに、敏速に行動したのかも知れない。
その通りに動けば自分は悪役になることも、負けてしまうことも理解しておきながら、それでもなお笑って悪役の座についたのかも知れない。
格が違う。椛はそう、確信した。
はぁ、はぁ、と荒い息を吐きながら、レミリアは空に手を振り上げる。その口許には力強い笑みが宿っていた。
その手は大きく開かれている。まるで世界を包み込まんとするように、彼女の手は極限までに、開け放たれている。
汗にぐっしょりと濡れた体は、松を背に屹立していた。
そして、そのまま大きく開いた右手を、まるで彼女の妹がするように、ぐっ、と力を入れて握りつぶす。
沈黙が降りる。やや遅れて、ぼがッ、というふざけた大音量が夜空に響き渡った。まさか、と椛は上空を見やった。
こんな弱り切った状況で「それ」を行うはずがない、と椛は思っていた。
話には聞いていた。レミリアが本気を出す時には、必ずそのデモンストレーションを行うと。
しかし今回だけは例外であろうと椛は思っていた。
「それ」を行えば、一割はあったであろう勝利の道は、完全に途絶える。
だがレミリアは躊躇しなかった。残った滓のような力の大半を更に浪費し、雲を消し飛ばした。
ニヤリと凄惨な笑みをたたえて、彼女はゆっくりと腕を下ろした。
「雲はみな、払い果てたる冬風を――」
ぜえぜえ、と荒い息を吐いて、レミリアは一歩進み出た。何だ、と身構える椛を見て彼女は薄く笑み、そして天を指さした。さらり、と梢が揺れる。
「――松に残して月を見るかな」
藤原良経の名歌の本歌取りである。先日霖之助から購入した新古今和歌集に載っている歌だ。
それは、あまりにも的確にこの情景を指し示していた。まるで、この時を歌ったかのように。
だが、それよりも。椛は呆然として、雲一つ無い夜空を仰いだ。漆黒の中でただ一つ、確かに月が浮かんでいた。
その月は血染めだった。月は、鮮血で染め上げたかのように真っ赤だった。
その月を愛おしげに見上げ、そしてすぐに苦痛に胸を押さえ、レミリアはそれでも笑った。
ここまで、つまり「ラスボス」にまで辿り着いた者への賞賛を込めて、彼女はいつものように、その台詞を口にせねばならない。
紅魔館の最奥ではない。万全の状態でもない。情けないと形容しても仕方のない姿だとレミリア自身も思う。
それでもなおやはり、自分を主とする館の皆の為にも、レミリアはその言葉を口にせぬ訳にはいかない。
両手を広げ、酷薄に笑み、その紅の瞳を伴って、ただただ自身に刃向かう愚者に対して憫笑する。
「悪いわねえ、端敵も用意できないで。いきなり立敵相手じゃあ準備運動もままならないでしょ?」
自らの置かれた状況を、シナリオに沿っているだけのこの状況を歌舞伎に例え、彼女はまた一歩を踏み出す。
まあいいわ、と都合の良い敵役に選出されたことも許し、レミリアはただただ目の前の好敵手を見つめる。
そして、言った。
「こんなにも、月が紅いから……」
焦点の合わぬ目で、一歩、二歩。ふらりふらりとレミリアは歩き、
「……本気で、殺すわよ」
その台詞の直後だった。体のどこにそんな気力が残っているのか、と言わんばかりの膂力を以てして、レミリアは椛に殴りかかってきた。
対する椛は、それを全く知覚することが出来なかった。文ならば出来たであろう、だが椛にはそれは不可能だった。
しかし、彼女の剣がそれを許さなかった。
手は無理矢理覆輪を握り、そしてそのまま帯取を引きちぎり、未だ抜刀できぬ状況で拳を受けた。
一瞬の判断だった。いや、判断ですらなかった。椛は鞘を力一杯上空へ投げ飛ばし、そして剣と盾を構える。
拳を受けた腕は、ただの一撃であったにもかかわらず、じんじんと痺れていた。
本当に、これが今にも意識を失いそうな吸血鬼の一撃なのかと疑いたくなるような猛攻だった。
情けをかけるべき相手ではないのだ、と椛は思った。
この吸血鬼は、きっと霖之助と同じだ。
自分のやっていることに罪悪感を全く覚えず、楽しんでいるのだ。
そして、この少女の場合は、それを相手にも強制する。
自分が本気を出すのだから、相手も本気を出さねば許さない。
いや、出して当然だと思っているのだろう。
レミリアはぶれる視界に椛を捉え、大きく息を吸った。そして、一切のよどみなく、余裕と共に言葉を発す。
「あんたも、何か言いなさいよ。主人公でしょうが……」
息をすることすらやっとのはずだ。歩くことでも疲労を感じるはずだ。
それでもレミリアは余裕を失ってはいなかった。楽しくないことは、やらない質なのだ。
そして、今彼女はとても楽しい。
門番や魔法使いやメイドは居ないけど、それでも自分の所に辿り着いた者が居ることが嬉しかった。
やはり誰とも戦わずに終わってしまうのはつまらないものだ。
そんな事を思いながら、レミリアは再び腕を振り上げる。
椛は剣先を彼女に向けて、そして静かに言う。
「こんなにも月が紅いんだったら――」
無理矢理に、レミリアを真似て、余裕の笑みを形作って見せた。
「――こんなことをしでかした悪人共は、皆纏めて斬り倒してやる」
良い口上だ、とレミリアは笑った。
今回の事件には、色々と悪者が暗躍している。
もっとも分かりやすい悪は確かにレミリアだが、それを騙した文と霖之助も、当然ながら悪である。
咲夜もパチュリーもまた、レミリアに対する信奉を更に多く集める為の行為とはいえ、彼女を騙したというその点では悪だ。
とりあえず悪い奴は全員やっつける、と。
椛はそう言ったのだ。
実に彼女らしい、青臭い台詞だった。
だが、そのストレートさはレミリアに受けたらしい。
「あんたなら、倒してやっても良いわ」
そう言うと同時に、紅い槍を三本纏めて投げつける。
盾を構え、椛はそれを弾き飛ばす。だが、その衝撃は凄まじく、足は地面に埋まった。
それを好機と見たか、レミリアは地を蹴り、山なりに飛んで、椛の顔面に向かって弾を放とうと両手を向ける。
しかし、椛のそれに対する反応は予想外だった。彼女は剣をレミリアに投げつけたのだ。
無論、彼女は慌ててそれを回避するが、椛にはもう攻撃手段はない。
馬鹿め、と笑ってレミリアは軌道を修正して椛に迫った。
段々と視界が紅くなっていく。
もう敵の姿も殆ど見えない。
だからこそ、好機を逃すレミリアではなかった。
追撃だとばかりにもう一度両腕を振り上げて――
「が……ッ」
胸の辺りを、固い何かで突かれたような激痛を覚えた。
目を見開くと、椛が自分の胸に、鞘の石突きを突き立てているのが分かった。
先程空にこれを放り投げたのは、布石だったらしい。
自分の攻撃も、確かに椛の体に命中した。しかし彼女は止まらない。
椛は鞘を引くと、それを思い切り横凪ぎに振るった。
レミリアの矮躯は面白いように地面を跳ねたが、しかし彼女は立ち上がる。
鬼神のような精神力である。椛は地面に突き刺さった剣を引っこ抜き、レミリアを睨む。
椛は一歩踏み出そうとし、自分の膝ががくりと崩れかかったのを感じて愕然とした。
たった一撃。一度の被弾だ。それだけで椛は崩れ落ちてしまいそうだった。
レミリア・スカーレット。その何十分の一。それだけでこの力。
なんだ、とレミリアは笑う。
「スペカ二枚で倒せそうな貧弱さじゃないか。あと一撃ね」
「……戯れ言を。今すぐ剣の錆にしてやるから黙っていろ」
互いに笑みを浮かべ、今度は僅かに距離を置いた。レミリアは弧を描く紅の弾を続けざまに放ち、
椛はそれを打ち消さんと剣を振るう。蜘蛛手に、袈裟懸けに、剣を振るう。
そのたびに、ごう、という天狗風が吹き荒れる。
まともに攻撃を受けたら一撃で沈んでしまいそうだ、とレミリアは思う。
というか、後一発食らえば確実に落ちる。それは確信だった。
相対している敵はそんなに強い奴ではない。たぶんあと一発、要所でスペルカードを叩き込めば潰せる程度の相手だ。
だからこそ、勝負は五分。どう転んでもおかしくはない。
目の前のデータにしか左右されない愚鈍な商人には分からぬかも知れないが、まさに条件は互角だった。
レミリア・スカーレットはどんなに力が弱まろうと、最強を自負する化け物なのだということに何ら変化はない。
紅に染まった視界はむしろ心地よいとすら言える。敵は見えぬが音で十分だ。叩き潰してくれる。
レミリアは、ただただ近づいて一撃を加える為の好機をうかがっていた。
椛は、じりじりとすり足で間合いを取る。
最早目は見えぬだろうに、敵の視線は椛の目を射抜く。その弾丸は、椛の心臓目がけて一直線に飛んでくる。
彼女は剣を振り下ろし、駆けた。危ないところだった。何度も弾にぶつかりそうになるが、不思議な事に被弾することはない。
目の前の敵が手心を加えているわけではない。そうだとするならば、と椛は冷静に考察を重ねる。
自分は今この敵の攻撃を見切る事に成功しているのだろうか。
槍が強かに剣を打った。普段ならばそれで剣が吹き飛んでも不思議ではなかった。だが、そうはならない。
腕が千切れんばかりの衝撃こそ受けるが、剣だけは手元に残った。渾身の力で槍を叩き落とし、椛はまた駆ける。
とにかく、肉薄しなければならない。自分のちゃちな弾幕ではいつまでたっても彼女には届かない。このまま捻り潰されるのが見えている。
椛は好機をうかがった。レミリアがそうするのと同じように。二人が敵を注視する時間が重なり、必然的に弾幕のない静寂が生まれた。
面食らったように、二人は立ち止まる。風が止んだ。お互いの息だけが聞こえる。余力があるのは、当然椛である。
しかし、レミリアの攻撃をもう一撃受ければ、間違いなく沈んでしまうだろう。
今にも倒れ落ちそうなのは、レミリアである。だが、彼女は吸血鬼の意地にかけて、崩れ落ちそうな体を不屈の意志で動かし続ける。
椛の攻撃を受けぬ限りは、いつまで経っても決して倒れそうにない。
「おい……」
レミリアは、掠れた声で言う。膝は震えていた。
「今どこに居る? あんたが動く音がしないから、攻撃できそうにないのよ」
椛は無言だった。無言のまま、軽く地面を剣で叩いた。レミリアは、満足そうに頷く。
「ありがと」
そう言って、右手を広げた。紅い光が掌を中心として上下に伸び、
それは今まで投げ槍のように使っていた物とは全く違う形状の、彼女の身長より更に巨大な一本の槍となる。
彼女はその後、おもむろに一枚の紙切れを取り出した。そして、それを椛に向かって提示する。
剣で斬りかかってくるであろう椛に敬意を表したのであろう。
他にも強力なスペルカードはいくらでもあっただろうに、彼女が選んだのは、
神槍「スピア・ザ・グングニル」だった。
体力の問題もあり、必殺「ハートブレイク」の方が命中精度も威力も高いであろう事はレミリアも承知していた。
だが、それは勝つ為だけのカードであり、紳士的ではない。
相手は恐らく自身の最強の一撃を以て斬りかかってくるのであろう。
はらり、と音がした。椛が一枚の真新しいカードを取り出したようだった。そして、彼女はそれをレミリアに提示する。
霞んだレミリアの視界では、当然その文字を読むことは出来なかった。
「私の最後の一撃は、空からだ。あなたを直上から斬り倒す。だから、あなたは私が地を蹴り、タイミングが来たと思った時にその技を放ってくれ。
くれぐれも――馬鹿正直に正面に放ってくれるなよ?」
親切な説明をどうも、とレミリアは笑み、照準をやや上向きに変えた。
この段階でも彼女は勝利を確定させる事が出来た。
得意の不夜城レッドを叩き込めば、相手はこちらに手を届かせる事無くくたばるだろう。
しかし、レミリアはその手に握ったスペルカードを持ち替えることをしない。
これを持ち替えるということは、このカードが「破られた」ことを認めるに他ならない。
レミリアにとってそれは恥であったし、第一フェアではない。また、何より楽しくない。
そういうルールの裏を掻くような方法まで使って勝つなど誇りある吸血鬼のするべきことではなかった。
正々堂々、真っ正面から力で叩き潰す。それが、吸血鬼のやり方だった。
難しい事は全て魔法使いやメイドに任せておけばよい。レミリアにとって、策など猥雑以外の何物でもなかった。
敵は真上から襲いかかってくると宣言した。上等である。攻撃のレンジがそもそも桁違いなのだ。
レミリアの目が見えているならば負ける筈がなかった。
椛は剣を握った。哨戒に過ぎぬ天狗には出過ぎた真似なのかも知れない。
危険が訪れたらすたこらさっさと逃げて上に報告するのが仕事の白狼天狗がここまで頑張る意味は無いのかも知れない。
だが、と彼女は耳を澄ます。どこからともなく風が吹き、どこからともなく哄笑が起こる。天狗風に天狗笑い。
幽かな幽かな音である。強い妖怪にしか聞こえぬだろうし、レミリアのように弱っていてもまた、聞こえぬであろう。
だが椛には確かに聞こえた。どこか遠くから自分を見ている者達を感じた。
今剣を握り、敵に向き合っている己を、他の天狗たちが見ている。
ある者は嘲っているだろうし、ある者は呆れてもいるだろう。何を出しゃばっているのかと、そう怒る者も居るだろう。
それでも構わない。恐れるものなど何もない。
「その目に焼き付けると良い」
椛は小さく呟いた。やはり、その声は誰にも届かなかった。
「これが、史実に名高い――」
言葉の中途、椛の姿が消えた。どんっ、という大音声に伴い、砂埃が勢いよく舞った。
砂埃だけではない、岩石が砕け、その破片が勢いよく飛散する。
そして、その時にはもう椛の姿は何処にも見えなかった。
レミリアはただただじっと上空に目を遣っていた。
見える筈がない目はしかし紅い月を射抜いていた。
その口許にはうっすらと笑みすら浮かんでいる。
スペルカードルールは弾幕戦ではないが、しかし、肉弾戦からはほど遠い。
これほどまでに肉薄した戦いはいつ以来であったろうか。
山に送り込んでいた分身たちはあらかた天狗を排してしまったようであった。
故に残ったのはただ一人。弱っちい哨戒天狗さえ叩き潰せば事は済む。
だが、同時に自分一人やられてしまえば分身は霧散し、当然ながら一瞬にして形勢はひっくり返ることとなる。
勝ちたいわねえ、とレミリアは思った。本当に、心底、そう思った。
たぶんパチュリーや咲夜は負けて欲しいのだろう。
負けた方が幻想郷での居心地もずっと良いだろうし、なにより平和に繋がる。
それでも、そんな「どうにでもなる」未来の事など彼女には些細な問題だった。
勝ちたいと、心底本当にそう思える。
スペルカードルールは素晴らしいものだ。
取るに足りぬ矮小な存在を相手に、こんなにも必死になって、奥歯を噛み締める事が出来るのだから。
最強は心地良いが、無敵ではつまらぬのだ。最強であり、かつ楽しみが欲しいのだ。
負けるかもしれないという恐怖を感じ――それを克服して勝利する、という最高の高ぶりを味わいたいのだ。
最早音も聞こえぬ。目も見えぬ。前後不覚という状況の中、レミリアを勝利へ誘うものは彼女の直感以外のなにものでもなかった。
全てが紅に染まった視界の中で、レミリアは、槍を握る手に力を込めた。
今やその右腕の感覚と、椛から受けた胸の痛みだけが、淀んだ意識のなかで数少ない明瞭なものであった。
体を僅かに捻り、そのまま倒れ込みそうな体を無理矢理制御する。足が悲鳴を上げ、情けなくもがたがたと震える。
乱れる息は邪魔だから、完全に呼吸を止めた。もう何の音も聞こえない。もう紅しか見えない。
そして、もう犬走椛という強敵以外の、何者も感じられない。
絶対に、叩き落とす。
全身をばねとし、腕を振り上げ、まるで月を穿てと言わんばかりに、彼女の全てを込めた槍を投げることなく、突き出した。
彼女の持つ最高のスペルカードではない。
彼女の持つ最優の手段でもない。
だが、それは確かにレミリアが選んだ最良の一撃だった。
相手が刀を振り上げた時に、投げ槍を放つ馬鹿が何処にいる。
例え負ける確率が更に上がろうとも、自分は絶対に尋常の白兵戦にて勝つ。
敵の剣を弾き飛ばし、自らの槍で胸を抉る。
その強い意志がレミリアにはあった。攻撃を命中させることが出来ないかもしれない、などという考えは全くなかった。
果たして、彼女の腕に、まるで巨大な隕石のような手応えが返ってきた。
踏ん張る足は地面に埋まり、腕は曲がりそうになり、骨は軋んだ。だが、穿った。
確かにレミリアはそう思った。
だが、返ってきた音は金属を強く打ち鳴らすような澄んだものだった。
レミリアには何が起こったのか全く分からなかった。だから、慌ててもう一撃を放った。しかし、またも金属を弾くような音が響く。
一瞬の沈黙の後、再び先程の重圧を更に上回る一撃が彼女の脳天に振り下ろされた。
影から見守っている天狗たちには見えていたのであろうか。
レミリアのスペルカードを盾で受け、その圧力をとんぼ返りして発散し、そのまま剣を叩き込んだ椛の暴挙とも言える攻撃が。
ざんっ、という音と共に両の足で椛は地面を踏みしめた。
まるで泥か何かのように地面は割れ、彼女の足を膝近くまで飲み込んだ。気にした風もなく、椛は剣を横に一度だけ凪いだ。
ぶんっ、という音に続き、一陣の鋭い風が奔った。
「これが史実に名高い、天狗飛斬ノ術だ」
きんっ、という音と共に刀を鞘に収め、椛は静かにそう言った。
そして、その直後に、自らを最強と自負する紅の吸血鬼は膝を折り、笑みを浮かべたまま、地面に倒れ伏した。
その倒れた背中を見、未だ立っている自らを確認し、そしてしっかりと握られた剣と盾を確認し、椛は笑った。
そして、やはりそのまま、膝を折る余裕すらなく、ばたりと地面に倒れ伏した。
空はただただ黒々とし、その中で、月だけが静かに蒼い光を放ち続けていた。
ぎい、という軋んだ音に霖之助は目を開いた。結局椛を待ったままこのようにして店の椅子に腰掛けて眠ってしまったのだ。
今は何時であろうか。恐らく未の刻ほどであろうかと思われるがやはり定かな事は分からない。
腰がぎしぎしと痛む。だがそれよりも、と霖之助は嘆息した。もはや夜も更けた。決戦は終結しているであろう。
レミリアは必ず敗北しただろう。あのように弱り切った状況の中で戦いきる事など出来はしない。
しかしな、と霖之助は苦笑する。紅魔館のメイド長に老婆に化けた天魔と共に考えた案を出した時、彼女はそれを快諾した。
ああいいですよ、そういうのはうちの十八番ですから、と。
お嬢様なら立派にやり切ってくれますよ、と。
レミリアが敗北者になることは確定しているというのに、彼女は何の躊躇もせずにその案を受け入れた。
懐の大きさが違うのだ、紅魔館の一団は。平気で一番汚い仕事を持っていき、そして最も格好の良い形でそれを全うする。
悪のカリスマという言葉があるが、その美学を極めれば正義にも似るものだなと霖之助は思った。
彼はゆっくりと立ち上がった。もう夜も遅い。そろそろ布団に戻って眠ろう。店内は染み渡るような冷気に包まれていた。
椛は勝ったであろうか。レミリアを倒せたであろうか。天狗達の間に入り交じって祝杯をあげている頃であろうか。
そうであるならば嬉しいことだ。二週間の我慢のかいがある。もしかしたら、あの得意気な笑顔で自らの天狗像を熱く語っているかもしれない。
青いな、と霖之助は小さく笑んだ。
一歩、二歩と歩く。その度に床が軋んだ音を立てた。
だから霖之助はぎいい、という音がした時に不思議に思わなかった。
しかし、二度も三度もしつこくその音が響くと、さすがの彼も異変に気が付く。
霖之助は立ち止まった。しかし、扉は開かない。また、ぎいい、という音がした。
霖之助は、扉に近づき、それを開こうかと思った。しかし、彼はそれをやめた。
そのかわりにきびすを返し、ゆっくりと椅子に腰掛けた。肘をカウンターにつき、酒瓶を片手に、じっと待つ。
ぎいい、と音がした。寒風が吹き込んでくる。ゆっくりと、ゆっくりと、扉が開きはじめる。
そして、ひょっこりと小さな頭が顔を出した。白髪に、ちっぽけな頭巾。次に清楚な白い衣装と、見慣れた盾と剣。
びっこを引くようにして、右手で左胸をおさえながら、彼女は自分の足だけで、香霖堂に入ってきた。少しだけ、気まずそうな笑顔だ。
そして、かた、という小さな音を立てて、扉を閉める。霖之助は、そっとろうそくに火をともした。
漆黒の闇に包まれていた店内は、ぼんやりとした掴み所のない、ゆれる照明に照らされる。
見慣れた顔は、痛みに耐えるように、しかし本当に嬉しそうに、口許を歪めた。だらんと垂らしていた左腕を持ち上げ、ガッツポーズを作って、彼女は言った。
「勝ったぞ」
ただ一言、彼女はそう言った。霖之助は、一度だけ頷いた。椛はふらりふらりと揺らめきながら、霖之助の元へ、一歩、二歩。
奇しくもその歩みはレミリアが椛に対して行ったものと酷似していた。ぜえ、はあ、と荒い息を吐いて、椛は手近なテーブルに腰を下ろす。
霖之助は小さく軋む音と共に椅子から立ち上がると、彼女の隣まで行って、そこに腰を下ろした。
「お守り」
椛は黄色い巾着袋を霖之助の膝の上に置いた。その中には、霖之助が彼女に渡した小銭が入っていた。
袋は破け、その中身はひしゃげてしまっていた。
「一発目は、盾で受けたんだ」
静かな声で、椛は言った。霖之助はレミリアとの戦いのことだろうな、と思った。
「二発目は、目で追うことも出来なかったよ」
でも、と彼女は笑んだ。そして、小さな右手を霖之助の膝に置かれた巾着袋に添える。
「お前のお守りが、助けてくれたよ。最後の最後に、守ってくれた」
霖之助は小さく頷いた。ちち、という小さな音がした。ろうそくの火がわずかに揺らめいた。
寒さのためであろう、ほんの少しだけ朱の混じった椛の顔が一瞬だけ鮮やかに映し出された。
俯いたまま、彼女は言う。
「……なあ、霖之助」
なんだい、と彼は言った。そしてまた、沈黙が降りた。柔らかで、穏やかな沈黙だった。
自己中心的で傲慢な店主がなんでこんな心地よい雰囲気を作り出せるんだろう、と、椛はずっと不思議でならなかった。
いや、今でも不思議だ。全然分からない。どうしてこんな自分勝手な男がこんなにも優しい空気を持った店を作り出せるのだろう。
その空気におされるようにして、椛は頬を掻いて、言った。
「話したいことが、いっぱいあるんだ」
ゆっくりと、霖之助の方に目を遣った。お互いに、疲れ切った顔だった。だけれど、達成感に満ちた表情だった。
「聞いてくれるか?」
椛の問いに、霖之助は頷いた。
「聞くよ」
肯定し、もう一度、霖之助は口を開く。
「君の武勇伝を、聞かせて欲しい」
そして、軽快な音と共に、酒の封を切った。とくとくとく、という音と共に、いつ用意したのであろうか、二つの杯に透明の液体を注いだ。
火の光を反射して、それは時折橙色に輝いた。椛はそれを眩しそうに見つめた。二人は杯を手に取ると、そっとその縁に口づけた。
ろうそくの火が、ゆらりと揺れた。
必要以上に毒々しい感じになってしまった気がします
文への評価とか
誤字誤字
面白かったw
霖之助が明らかに嫌な奴なのに、ちゃんと魅力的に描かれていたのは見事でした。
違和感を覚える点もありましたが(雑魚天狗たちが弱すぎるとか、妖怪の山に攻め入ったら天狗以外も黙って無いだろうとか)、それを瑣末と流せる勢いがあったと感じたので満足です。
ただ、「お守りで攻撃を受けた」という部分は蛇足だったかと。
予定調和の戦いだったとはいえ、椛自身の実力以外の点が決め手になったことで読後感を損ねていると思います。
個人的に公式に性格の設定があまりない椛がいつも丁寧orいつも強気というわけでなく、
状況によって口調を変えるのが生き生きとして魅力的に感じました。
とても素晴らしいと感じました。
そして設定があまりない椛が生き生きとしていたことも
とても楽しく読むことが出来ました。
面白かったですよ。
霖之助の見せる優しさみたいなのは、優しいっていうより甘いなって感じでなんか微笑ましいな
椛も凹んで成長して最後に勝ってと主人公してて良かったです
こんな結末なら妖精たちも文句なしでしょう。
二次の椛は敬語でひ弱な印象が強いからこの椛は貴重だ…
そしてお嬢様かっこよすぎです 負けた後どうなったのか気になる
なんだかんだで与吉さんの霖之助はレミリアを度々評価してますね。
素直でまっすぐ進もうとする椛もよかったです。
作品ごとに試行錯誤してらっしゃるんだなーってのは分かりますし、作品ごとにキャラの描き方が変わるのは当たり前だと思うんですよ。
ただ、うまく説明できるかわかりませんが、「傲岸不遜だし好きにはなれないけど、憎めない」みたいな人間像は一貫してると思うんですよ。
でも、例えばその「傲岸不遜」の部分の度合いが揺れていたり、「憎めない」の部分が揺れていたりするように思えるのです。今までは作品ごとでしたが、今回は一作品内でそれが発生していたように思えたので、やや不自然に思いました。
あ、誤解して欲しくないんですが、話自体はすごく面白かったです。
レミリアや文の立ち居地も好きですし、咲夜さんもさりげなく良い味出してますし、スペカルールに対する見解も(作者さんの個性が目立って見られる部分の一つだと思うんですが)面白かったですし。
長めですが、しっかりと筋の通った話で、飽きることなく詠み進められました。こういう書き方本当はご法度だと思うんですが、最後の最後で霖之助のお守りが役に立っちゃうのはちょっとなーと僕も思いましたが。
ストーリーで+80、たくさんのキャラクターを登場させつつ話を進めていたことに尊敬の念をこめつつ+10、霖之助のキャラ造形が一貫していないと感じたので-10、ラストのお守りで-10、って感じです。
なんでもお見通しな原作の神主少女像に引っ張られてしまったというか
どこかしかでから回っている愛らしさのようなものが薄れてしまっている感じです
いつかあなたが本当に納得のいく完成した店主さんを見られるよう、これからも読ませていただきます。
言いたい事は他の方が言ってくれてる事だし割愛
今後のあなたの書く霖之助に期待しつつこの点数を
すんごいかっこいい
流石です
たぶん毒じゃなくて、硬さなんかな
ぶつかると痛いけど、支えになると心強い
厳しさが強いだけ、根の良さに触れた時に心地良い
頑固親父の涙に通ずるもんがある。
つまりこーりんはツンデレ。
霖之助を知らない人から見たら確かに椛のような印象しか残らないでしょうね。
こういう霖之助以外からの目線もいいですね。
一週間にも満たぬ滞在ではあったが
って矛盾してないかな?
お話は面白かったです。
かなり踏み込んだ作品なので細かい所は気になるけど、最後まで読ませる力が有りました。
次回作にも期待してます。
こればっかりは作者様にもどうこうするのは難しいでしょうし、言っても詮無い事ですが。
作品はいつも通り表現は豊かで作調も単調ではなく、きつ過ぎる事もなく大変読みやすかったです。
これを毎回維持することはかなりシンドイことと思いますが、次回もいつも通り素晴らしい作品を期待しています。
よし 俺が(ry
与吉さんの作品は、芸風の確立や深化を手探りしている感じが実に好ましいです
ここまで沢山真剣に意見が来るのは珍しいと思います
自分としては他の方がおっしゃったように最初の方の霖之助の毒、ですかね。
最初の素っ気なさはあとの余韻と感動を増幅させてくれますが、宿借りやこの作品だとそれが濃くありすぎて読後感にしこりのように残ってしまったような気がします。
下手な意見しか言えなくてすみません。
与吉さんの作品を読むのはとても楽しいです。応援しています。
汚名を被ることすらかっこいいレミリアはもうどうすればいいんだろうか。俺が脱げばいいのかい?
ただの犬では終わらない椛もかっこよかったです
キャラが揺れている段階というのは作者様も評価者様も言っていますが、
今回はそのキャラクターの揺れと固まった幻想郷観の間で起こるズレが主張しすぎているように思えます。
普段はそれほど目立たない部分なだけに、長編故に表面化したということなのでしょう。
お嬢様かっけえぇぇ!!
あと誤字報告をひとつ。
>レミリアはには何が起こったのか
『は』が余分かと。
これからも作品楽しみにしております。
椛と店主の交流と、後半の展開の繋がりとの不自然さ。
他の方が指摘されてる剥離という言葉に同意します。
これなら、テーマを明確に一つの物にしぼって
短く纏めた方が作品としては良くなると思います。
そういう意味では、後半は丸ごと不要で
上下に分ける必要は感じられません。
残念ながら風呂敷を広げすぎた感が否めませんでした。
(筆が乗って思うままに書き上げたように見えますが、
そういうものの方が時として
勢いがあって読み物としては面白かったり……
でも直してるのか。テーマ自体が難しいんですね)
誤字脱字に関しては後で読み直すよりも、書いている時に
間違えないよう注意を払った方が確実だと思います。
推敲の際に面倒ですし;;
文や天魔の気持ちがわかります
そしてこのレミリアは素晴らしい!
悪の華とでもいうべき信念や美学は見ていて感動すら覚えます
椛はカリスマは無いけど一生懸命で良い子です。
面白くて,上下あわせて一気に読ませてもらいました。
良いSSをありがとうございます。
椛とレミリアが格好良く、スラスラと楽しく読めました。
が、コメントを見るとテーマの問題云々という文字を見つけてしまったので、「ああ、そうういえば」と思いマイナス十点。日和見サーセンw
思うに、「既存の破壊」と「正義のあり方」がこのお話の主題のように思えましたので、そこにもっと力を入れればこういう評価にならなかったのではないかと思います。どちらか一方だけに絞るとか。
ただ、問題や疑問を提示する「小説」ではなく、世界観の補完や付与たる「ss」を書くのであれば、このままでもそう問題はないかと思います。
その辺りは、自分の矜持次第で。自分が小説書きなのか、ss書きなのかによるのではないかなぁ……なんて。
ああ、長くなってしまってすみません。
これからも応援していますね。
また心理描写、情景描写の深さに圧倒されました。私ももっと突っ込んだ描写ができるようになりたいなあ……。
本当に楽しませて頂きました。ありがとうございました。
長いのにスラスラ読める面白さ、尊敬します。
椛はまだまだ未熟でまだまだ伸びるという感じがするので私は、お守りの扱いはあれで良かったと思います。
あとがきを読むと、まだまだ与吉さんも満足されていないようですし、
さらにパワーアップしてくるつもりのようなので、100点は付けないでおきます。
ぜひ、もっとあなたの書く幻想郷を見せて下さい。次も楽しみにしています。
長編SSで珍しくそう思えました。
ありがとうございました。これからも頑張ってください。
最初と最後で強烈に描写している「悪の意味」が主題に思えますが
そう考えると中盤の椛と霖之助の掛け合いが主題から逸れているように思えます。
キャラのぶれも、そこで描きたい物が異なるためでは無いでしょうか。
一冊の文庫小説になるような長編であったり、あるいは短編の別の物語ならこれでもいいですが
創想話に投稿するサイズの一つの物語の中で主題から逸れた描写は極力省いた方が良いと思います。
例えば物語の中でレミリア等はそれ自体が限定的な出番であるため、どんなキャラか、何を象徴しているかが明快で強烈です。
ここまで削ぎ落とした扱いは必要ないとは思いますが、一つの指標になると思います。
話自体の出来が良いだけに構成が気になりましたが、描いている物も描き方も素晴らしいと思います。
これからも頑張って下さい。
霖之助の元に帰ってきて武勇伝を話す椛、うんまぁ最後はこうくるだろうねとは思った。
けど何故か涙が込み上げてきた。 いいお話でしたGJ。
個人的には私は子供ではない!の所らへんが最高に好きでした。 これからも頑張ってくださいなっ!