「あなたって、どうして生き続けるのかしら」
レミリアは側に控える咲夜に向かってそんな言葉を投げかけた。
十六夜咲夜はよく「お前は人間なのか」と感心される。この悪魔の館でメイド長として働いている存在がまさか人間とは思われないから、咲夜が人間と知って驚く者は多い。
十六夜咲夜はよく「お前は人間なのか?」と疑われる。彼女は「時間を操る程度の能力」を持っているし、それが無くとも素で強いので人外ではないかと疑念を抱かれるのだ。
そのような質問に、咲夜は若干の機嫌の悪さを表しながら決まってこう答えてきた。
「はい。間違いなく人間です」
紅魔館で働いてきた最初の十年程は、確かに自信をもってそう答えていた。
しかし今、
彼女が紅魔館で働き始めてから『百年目』の今、
「お前は人間なのか」と聞かれると、十六夜咲夜は自信の無さを大いに表しながら、
「多分……人間です」
と答えるしかなかった。
館で働き始めて十二年目くらいから「ちょっとおかしいな」とは思っていた。
別にそれ以上背が伸びるとか声が変わるとか胸が大きくなるとか、そういった類の変化は起こらなくても不思議ではない。
しかし顔が。
ある日ふっと鏡を見ると、全く成長していないように見えたのだ。
別に昔の写真があるわけではないし、過去の自分の顔つきがどんなだったか、などは他人と自分の記憶の中にしかない。だから別にそこまで不審に思わなかった。
しかし十五年目。
どうにもおかしいことにいい加減気づいた。
彼女だって元はまだ十代である。それから五年もすれば顔つきが変わることくらい当然の事だ。
しかし鏡を穴が開くほど見つめても、そこには五年前と全く変わらない自分がいる。
自分はこのまま童顔のメイド長になるのだろうか、などと悠長な事は、二十年目になってもう言ってはいられなくなった。
「私、成長してないみたいなんですけど……」
まさかこんな訳の分からないことを言うハメになるとは思ってもいなかった。
咲夜が働き始めてから二十年目の紅魔館。レミリアとパチュリーがお茶を飲む席で、咲夜は至って神妙な顔つきで二人を見渡していた。
「……ふう」
溜息と共に、パチュリーがどこか困ったような顔つきで咲夜を見やる。
レミリアとパチュリーは昔からずっと変わりが無い。それは普通だ。レミリアは吸血鬼だし、パチュリーは魔法使い。寿命など永遠に近いほどある。
しかし咲夜は間違いなく人間だし人間をやめた覚えも無いので、十年前から顔つきが全く変わらないのは不自然であるという他無い。
この紅魔館に住む人間は咲夜くらいなもので、ここの常識でいったらそう簡単に外見は変わらないのが普通である。なのでついつい変化が無いことに咲夜自身鈍感になってしまっていた。
だがそんな悠長な事を言っている場合ではない。自分はもう三十近いはずなのだ。いや正確な年齢は分からないが。とにかくおかしい。
「前々からおかしいとは思っていたけど……一応確認しておくけど、若作りしてるわけじゃないのよね」
「してません」
どうやらパチュリーは咲夜が必死に若作りしているのだと思い、あえてそのことについて触れてこなかったようだ。気遣いはありがたいがなんだか咲夜は悲しくなる。
「そうなのよね。人間ってすぐ顔が変わるものなのよね」
レミリアが思い出したようにしみじみと呟く。
「霊夢も顔が随分と変わったし。ああ、魔理沙もそうね」
「……なぜ私は変わらないのでしょうか」
「そう言われても私は人間じゃないし」
言われてみれば確かにそうだ。人間十六夜咲夜に起きている異変なのに、人間じゃないレミリアやパチュリーに分かる道理は無いのかもしれない。
「まあ、何か体に異変をきたしたら報告してちょうだい」
「今異変が起きているようなのですが……」
「その異変じゃなくて。どこか痛くなるとかよ」
「……分かりました」
原因は不明だが別に害は無い。だからとりあえず放っておこう。本当に童顔な可能性もある。
三十年目になるとそんなことも言っていられなくなった。
思えばこれまで色々なことがあった。
異変は数多く起きたし、博麗の巫女に後継者ができたりと大事件も多かった。
しかし今はそれらを置いておき、問題は変わらない咲夜だ。
「やっぱりおかしいですよ!」
またもレミリアとパチュリーの紅茶の席。美鈴もいる。咲夜は今にも頭を抱えそうな勢いで訴えた。
本当なら四十近い年齢のはずなのだが、その姿はやはり十代後半と変わりはなかった。
レミリアは溜息をついて咲夜を見やる。正直な所、咲夜が歳を取らない事でなんら困る事が無いので、レミリア並びに紅魔館の面々に危機意識は皆無であった。咲夜もそれは同様であったのだが、全く変わらない自分を不気味に思わずにはいられない。
「何か心当たりは無いの? ほら、うっかり蓬莱の薬を飲んだとか」
「うっかり飲んだ覚えもありませんし、傷も治らないので違うと思います」
「魔法使いになったとか?」
「それは違うわ」
否定したのはパチュリーだった。
「何度か調べたけど、あなたは紛れも無く人間よ」
「そうです、よね……」
「……ふう」
レミリアは特に困った様子でもなく、駄々をこねる子供に対するように溜息をついた。
本気で考える様子の無い主に重い疲れを感じながら、今度はパチュリーへと視線を移したが、彼女は「全く見当もつかない」とばかりに肩をすくめるだけである。
最後に美鈴に目を移すが、彼女は咲夜と目が合うと、授業中余所見をしていた生徒が突然名前を呼ばれた時のように挙動不審になって目をきょろきょろさせながら明後日の方向を向いた。彼女に聞いても分かる訳が無かった。
「……はあ」
頭を押さえて溜息をつく咲夜。そんな彼女にレミリアが、
「ところで晩御飯は何かしら」
などと能天気に聞いてくる。
歳を取らないとかそんなのどうでもいいじゃない。などと言われない分、多少気を使われてはいるみたいだ。直接言われないだけで態度からはそういった雰囲気が溢れているが。
「トマトの煮付けです……」
肩を落とした咲夜は力無く答えたという。
時の流れとは振り返ってみれば速いものである。
咲夜が紅魔館で働き始めて百年が経とうとしていた。
やはり咲夜に変わりは無かった。相変わらず十代後半の外見である。
「あなたって、どうして生き続けるのかしら」とレミリアに聞かれても、十六夜咲夜は「さあ……なんででしょう……」と引きつった表情で返すしかない。
一番の問題はそれによって何か不都合も無いし、時々それがおかしいとも思わないことだ。
紅魔館の住人も相変わらず変わりが無い。レミリアもフランもパチュリーも美鈴も、他に働く妖精メイド達も咲夜がここに来た時からなんら変化が無い。だからついつい変わらない自分が普通だと錯覚してしまうのだ。
そしてレミリア達も寿命が長い分、気も長い。たった百年程姿が変わらないからといってあまり不審に思っていない節がある。咲夜からすればその百年の間に生まれてから死ぬまでの行程が含まれているはずなのだが。本来なら。
本気で調べる気の無い紅魔館の面々に業を煮やし、何度か永遠亭の永琳の元を訪れて検査をしてもらった事もあるが、決まって「異常無し」である。永琳も首をかしげていた。
結局、この静かで小さくて奇妙な異変は解決されないままで今に至る。
そしてそんな異変が全く解決していないある日のことだった。
◇◇◇
「ちょっと出かけてくるわね」
館で働き始めて百年目のある日、レミリアにそう言われたので咲夜は慌てて、
「私もお供いたします」
そう言う咲夜にしかし、レミリアは静かに首を振った。
「何だか妙な運命を感じるの。私一人で行くわ」
そう言われては従者としては従わざるを得ない。日傘を持って夜出かけて行く主を、咲夜は心配そうな面持ちで見送ることにした。
その間際、
「もしかしたら、ここの住人が一人増えるかもしれないわ」
若干楽しそうにレミリアは笑った。
どう反応したらよいか分からなくて、
「……そうですか」
と咲夜は間の抜けた言葉を返してしまった。
ここ百年、この紅魔館に住む者に追加も減少も無いので、新しい住人が来ると言われてもあまり実感が無いのも事実であった。
「新しい住人だなんて楽しみですね」
隣の美鈴が嬉しそうに声を掛けてきた。レミリアが出かけた夜、咲夜はいても立ってもいられず門の前で主を待つことにしたのだ。
「……そうね」
コートを着込んだ咲夜はぶるりと震えながら、白い息と共に言葉を吐き出した。
新しい住人と聞いて素直に喜ぶ様子の美鈴。人間の自分とは違い、寿命の長い妖怪は百年振りの新たな住人も違和感無く受け入れるのだろうか。
咲夜は空を見上げた。
夜空は厚い雲で覆われ、ちらほらと雪まで降っている。
雪。
これを見ると、いつも咲夜は自分が拾われた時のことを思い出す。
忘れもしない雪の降る夜、まだ幼い自分はとある組織にゴミのように捨てられるところであった。
そこをレミリアに拾われた。聞くところによると運命に導かれたのだという。
それ以来咲夜は紅魔館のメイドとして働き、数年後にはメイド長になった。元々館には妖精メイドしかいなく、メイド長なるものも存在していなかった。お世辞にも有能とは言えない妖精メイド達の中、しっかり者の咲夜が加わればその長となるのはあっという間だった。
色々と葛藤もあったが、咲夜はこの紅魔館で働き、主に仕える事を至上として今まで生きてきた。
そう、葛藤が……咲夜が館で働き始めてから数年間の間、咲夜の心の中には激しい葛藤があった。その内容を咲夜は誰にも、レミリアにさえも話していない。
「新しい仲間かあ……なんだか咲夜さんが初めて来た時の事を思い出しますね」
咲夜と同じく昔の事を思い出していたのか、美鈴は空を見上げながら嬉しそうに呟いた。
「そうね」
それがなんだか可笑しくて、咲夜は小さく笑ってしまった。そんな彼女に美鈴は首をかしげる。
「何がおかしいんです?」
「なんでもないわ」
レミリアが帰ってきたのは明け方になってのことだった。
「あ、帰ってきました。誰かと一緒です」
美鈴が遥か遠くを眺めて言った。
「…………」
咲夜も美鈴が見る方角に目を向けてみるが、それらしきものは全く見当たらない。この門番の相変わらずの視力の良さに咲夜は少々呆れてしまうが、どうやら無事に帰ってきた主に心底ほっとする。
少しして、ちらほらと降る雪に紛れそうになりながら確かに米粒みたいな点がこちらに歩いてくるのが見えた。レミリアと、もう一人同じくらいの背丈の者が隣を歩いている。
「女の子みたいですね」
美鈴には性別まで分かるようだ。
「…………」
久し振りの新たな住人を、咲夜は少々緊張気味に待っていた。
しかしレミリアが門の前までやって来て、二人に「ただいま」と声を掛けてきて、咲夜と美鈴は揃って呆けた顔をすることになる。
レミリアの隣に不安そうな顔で立っている女の子。
白い髪をした八歳ほどの女の子。
その子に咲夜は、美鈴はどうしようもなく見覚えがあった。
「咲夜……さん?」
引きつった表情の美鈴が呟いたのはしかし、咲夜にではなく、少女に向けてのものだった。
「お嬢様……これは、一体……?」
咲夜も恐る恐るといった様子だ。
なぜならレミリアの隣で震える少女は、咲夜の小さい頃と瓜二つだったからだ。
その髪も、その瞳も。自分のものと相違ない。
咲夜は強烈なデジャヴを感じた。
今となっては遠い昔だが忘れるはずも無い。自分もこのくらいの歳にレミリアによって拾われ、ここに連れてこられた。
その時のその瞬間を今、別の視点から見ることになろうとは。
分からなかった。
なぜこんな子が存在しているのか。
なぜこんな子を主が連れて来たのか。
レミリアはどこか穏やかな様子で混乱する二人に笑いかけた。
「今日からこの子、うちで働くことになるわ。さ、自己紹介なさい」
促され、隣で不安そうにしていた少女はやがて、おずおずとした様子で言った。
「あの……十六夜といいます」
そんなことを言う少女に、二人はただ引きつった笑みを浮かべることしかできなかったという。
「お嬢様! あの子は一体!?」
レミリアの寝室。とりあえず少女に部屋をあてがって押し込んだ後、咲夜は主に慌てた様子で詰め寄った。
まさか何の説明も無しに通すつもりではあるまい。
しかしレミリアは穏やかな表情をしたままでそっと一言。
「運命に導かれた結果よ」
それだけ言って後は何も言わない。これで話す事は終わりだと言っているかのようだ。
しかしそんな事で納得できるわけも無いので、咲夜は言葉に詰まりながらも問いかける。
「一体どこから連れてきたんです! あれは――」
言いよどんだ。こんな事を言うのは不気味だ。
しかし、ごくりと唾を飲み込むと続けた。
「あれは私です!」
レミリアはほう、と一つ溜息をついた。
「さあ。どうかしらね」
何ともはぐらかすような主に、若干の苛立ちでも表す訳にもいかないが、とにかく咲夜は問いかけた。
「それは一体……?」
「私は運命に導かれただけよ。そこであの子に出会った。何も分からないのよ」
何も分からないと言われてはそれ以上追求するのは憚られる。しかし咲夜は納得することなどできず、俯いたまま険しい表情で呟いた。
「しかし……」
「咲夜」
レミリアは若干真剣な表情で咲夜を見据えた。
「あの子はほとんど外の世界を知らないわ。ずっと狭い所で暮らしていたみたい。だからあなたがあの子をちゃんと面倒見るのよ」
知っていた。
外の世界を知らないことも、狭い所で暮らしていた事も。自分がそうであったから。
「……はい」
咲夜は渋々といった様子で頷くしかなかった。
◇◇◇
少女は十六夜蕾と名付けられた。小さい咲夜だから蕾。安易と言えば安易である。
蕾は館のメイド見習いとして働く事になった。紅魔館二人目の人間の住人である。
咲夜はまだ人間であるのか正直自分でも怪しいと思ったが、とにかく人間として勘定しておく。
そして咲夜を更に驚かせたのは、蕾も『時間を操る程度の能力』を持っているということだ。
咲夜が時間を止めてみせてもその中で平然と動く蕾を見て、混乱で思わず頭が痛くなってしまう。
聞くと、かつてはその能力を元にある組織で道具のように扱われ、ゴミのように捨てられる所をレミリアに拾われたのだと言う。
咲夜と全く同じである。
時間が巻き戻る現象でも起きているのだろうか。それとも歴史が繰り返しているのか。自分が歳を取らないことと何か関係しているのか。
しかし誰かに聞いても何が分かるわけでもなく、仕方なく咲夜は小さい自分にメイドとしての教育を施す事にした。
当然家事など蕾はやったことが無く、最初は何事にも不慣れであった彼女だが、元々性格はきっちりとしているのか、教えてやるとなんでもすぐに出来るようになった。
そんな蕾を見て咲夜はますます顔を曇らせる。これではまるで自分の時と同じではないか。
「先輩。これはどこへ置けばいいですか?」
「先輩。明日は曇りだから二十分早く起きてピクニックの準備ですよね」
「咲夜先輩。美鈴がまた寝てます」
しかし人生で初めて先輩と呼ばれることに別に悪い気はしない。
実際、咲夜は蕾の面倒をよく見れていた。何しろこの子は自分自身と言っても差し支えない存在である。何を考えているかなどすぐに分かることだ。
自分が掛けてもらって助かった言葉。
自分が掛けてもらって役立った言葉。
自分が掛けてほしかった言葉。
それらを的確に助言してやると、時に蕾は驚いたような顔をし、時に慣れない笑顔をこぼす。
咲夜は蕾にとってこれ以上無い最高の先生であり、助言者であり、先輩であることが出来た。
「…………」
そう、分かるのである。
彼女が何を考えているのか。
自分が昔何を考えていたのか。
もしもこの子が昔の自分だとしたら――
「…………」
咲夜は時々、蕾のことを複雑な心境で眺めていた。
ある日、咲夜は蕾を連れて人間の里へと買い物に出かけた。
里を歩くと皆微笑ましい様子で二人を見てくるが、それも当然のことではあった。誰がどう見てもお揃いの服を着た仲の良い姉妹だ。
それはさておき、咲夜はてきぱきと買い物を済ませると――
「…………」
まだ時間はある。
「ちょっと寄りたい所があるの」
「? はい」
蕾を連れ、咲夜は花束を買って紅魔館とは別の方向へと歩いて行った。
「その花は……?」
「ちょっとね」
とだけ言って、咲夜は特に説明をしようとはしない。そんな咲夜を蕾は不思議そうに眺めていたという。
二人は博麗神社へとやって来た。
「ここって……」
「そう。幻想郷の要、博麗神社よ」
そう言って咲夜が長い石段を登り始めると、蕾も慌てた様子で後を追っていった。
やがて境内へ辿り着くと、そこでは一人の巫女が竹箒で掃除をしていた。二人に気づくと怪訝な様子で首をかしげる。
「咲夜じゃないの。……って、なんなの? そのチビ咲夜は」
彼女は霊夢より二世代後の博麗の巫女。不思議なもので、どうやら博麗の巫女は代々似たような性格らしい。育ての親の影響かもしれないが。
「うちの新入りメイドの蕾よ」
「よ、よろしくお願いします」
「はー……」
巫女は関した様子で蕾を見つめていた。
「あんたの子供?」
もっともな台詞だし何度も言われることだが、いつものように咲夜はきっちりと否定しておく。
「違うわよ」
「でもそっくりじゃないの」
「それは……」
そんなことは自分が知りたい。答えようが無いので本題に移る事にした。
「今日はお墓参りに来たのよ」
「ああ……どうぞ勝手に拝んで行って」
「そうさせてもらうわ。行くわよ、蕾」
「は、はい」
咲夜と蕾は博麗神社の裏手、林が生い茂る場所へと入っていった。一応案内は出ているが、一本道だし日の光が入っていて明るい。
「あの、ここは……」
「ちょっと知り合いに会いに行くのよ」
しばらく歩いていると、二人は少し開けた場所へと出てきた。そこにはいくつかの墓が並んでいて、その一つの前へ二人はやって来ると、咲夜は花を供えて静かに拝み、蕾も慌てて咲夜に倣った。
博麗霊夢
その墓にはそう刻まれていた。死んでしまってから何十年も経っているというのに、今も数多くの花が寄せられ、彼女がどれだけ慕われていたかが窺える。
「…………」
咲夜はじっとその名前を見つめる。
私もあなたと同じ人間のはずだったんだけどね。どうして私だけこんなに長く生き長らえてしまったのかしら。
『生きるものには皆使命があると思うの』
歳をとらない事を相談すると、霊夢は咲夜に向かってそう言ったことがある。
『使命?』
『そう。私は博麗の巫女として幻想郷を守ることが使命だと思ってる』
『立派すぎて泣きそうね』
『茶化すんじゃないわよもう』
『悪かったわよ。それで何? 私はその使命のためにこんな姿も変わらず生きてるって言うの?』
『そうなんじゃないの? あんたの使命って何よ』
『お嬢様にお仕えする事ね。使命と言ったらそれ以外無いわ』
『じゃあそうなんじゃない?』
『適当じゃない』
『知らないわよ他人の使命の事なんて』
『あなたが言ったんじゃないの』
『うーん……ただ、なんていうのかなあ……変わらないあんたを見てると、まるで何か心残りがあるような、そんな感じがするのよ』
『それじゃまるで私が亡霊みたいじゃないの』
『似たようなもんだと思うけど』
『ふう……まあ、そうかもね』
霊夢は自分に心残りがあるようだと言った。それについて聞いてもどうにも要領を得ない様子で、彼女自身はっきりとは分かっていないようだった。
しかし心残りと聞いて、咲夜はどこかしっくり来るような気がする。
私はそんなに寿命を捻じ曲げてでもお嬢様にお仕えしたいのだろうか? それとも他の何かがあるとでも?
(霊夢……あなたならこの子を見てなんて言うのかしらね)
隣でじっと手を合わせたままの蕾を目の端で捉えながら、咲夜は心の中で溜息をついた。
「行くわよ」
「はい」
二人はやがて墓に背を向け歩き出す。
その間際――
――あんたはもう分かってるんじゃないの?
霊夢の声が聞こえ、咲夜はばっと振り返った。
しかしそこには誰もいない。ただ木漏れ日を浴びて輝く墓石が置かれているだけである。
「……あの」
蕾が不思議そうにしている。
「…………」
幻聴。いや、きっと霊夢ならこう言うという妄想にも似た想像か。
咲夜は「何でもないわ」と首を振り、やがて墓地を後にした。
分かっている。
確かにそうかもしれない。私は全て分かっていたのかもしれない。
自分に何が起きているのか。
なぜ歳を取らないのか。
なんのために蕾がやって来たのか。
それでも私は、この小さな後輩を愛おしいと思わずにはいられない。
◇◇◇
「美鈴! また寝てたわね!」
「ひはあ!?……は、はい! すいません!」
いつものように立ったまま居眠りをしていたところをいつものように怒声と共に起こされ、思わず美鈴は間の抜けた声を出してしまった。
「昨日はそんなに忙しかったかしら?」
「い、いえ、異常ありませんでした」
「異常は無くてもちゃんと仕事をしなさい。後でお茶を持ってきてあげるから」
「は、はい。ありがとうございます」
そう言って去っていく白い髪のメイドを見て、美鈴は引きつった苦笑いを浮かべながら首をかしげる。
「ええと……あれは咲夜さんと蕾さんのどっちなんだろう……」
時の流れとは振り返ってみれば速いものである。
蕾が館で働き出してから十年が過ぎようとしていた。いつしかここでの暮らしに慣れた蕾は、すっかり紅魔館の一員として溶け込んでいた。
咲夜が感じていた不安など、もうすっかり心の奥にしまい込んでしまっていた。
咲夜としては紅魔館に来てから百十年目であるが、相変わらず自身の外見に変化は無い。一方蕾の外見はもう咲夜と見分けがつかないくらいそっくりで、このままだと蕾のほうが先に老けていってしまいそうだ。
美鈴は「咲夜さんが二人になった……」と二倍うるさく言われることについて頭を抱えている。
咲夜は相変わらずメイド長で、蕾はメイド副長になった。最近は仕事が減って咲夜も随分と楽をできる。
レミリアが食べたがるやたらと豪華な料理も、二人がかりならさほど苦労せずに完成させる事ができるし、美鈴の昼寝を注意しに行く回数も倍に増やせる(その事について本人は一人で泣いていた)。
曇りの日には皆でピクニックにも出かけ、二人のメイドによって完璧で優雅な時間をゆったりと過ごす。
そしてそんな事がもう日常になっていた、ある日のことだった。
「蕾を知らない?」
もう一日の仕事が終わった夜更け。妖精メイドに聞くと、彼女は「見ていませんが……」と首を横に振った。
「そう……」
そろそろお酒の飲み方でも教えてやろうかと、仕事が終わってから酒を片手に二人で話そうとでも思っていたが、どうやら先に自室にでも戻ったのだろう。
「蕾?」
自分の隣の部屋を開けると、しかしそこに後輩の姿は無かった。
「…………?」
何かやり残した仕事でもあるのだろうか。
仕方なく自室に戻ると、机の上の一枚の紙切れが目に入った。
不思議に思いながらも折り畳まれたそれを開くと、見慣れた筆跡で、
今夜、裏庭に来てください
とだけ書かれてあった。
「…………」
咲夜は険しい表情でそれをそっと机にしまうと、ゆっくりと首を振り、溜息をつくとやがて部屋を出て行った。
裏庭にはいくつかの木々が立ち並び、今はどれも葉を付けてなく槍のような枝をほうぼうに伸ばしていた。
夜中に降る雪はぼんやりと白く光り、凍えるような寒さの中、わざわざ外へ出てきた奇特な人間を薄っすらと照らし出す。
今そこには同じ姿の女性が二人いる。
蕾は林のようになっている裏庭に目を向けており、その身には薄く雪が積もっている。
咲夜は背を向けたまま立っている少女に向けてそっと呼びかけた。
「何の用かしら」
蕾は静かに振り向く。その表情はどこか険しい。
「咲夜先輩」
呼びかけ、少し間があってから再び言葉を紡ぐ。
「あなたなら分かるはずです。どうして私があなたを呼び出したかを」
咲夜は答えなかった。ただ悲しげな表情で自分と全く同じ姿をした後輩を見つめる。
分かっていた。彼女がどうして自分を呼び出したのか、他の誰より理解できた。
そしてそんな自分を蕾が理解できる事も知っていた。自分達は同じなのだから。
咲夜の沈黙が肯定だと、蕾は誰よりも分かっていた。
「だから、私が聞いてもいいですか」
問いに、咲夜は静かに頷いて応じた。
「…………」
永遠のような一拍の間の後、蕾はその言葉を口にする。ずっと感じていたことを、ずっと考えていたことを口にする。
「なぜこの館の異形達を殺さないんです」
その問いかけは静かに降り積もる雪に吸い込まれ、裏庭には瞬時にして静寂が戻ってくる。
「…………」
咲夜はじっと、困った子供を見るように蕾に目を向けていた。
薄いライトに照らされるように浮かび上がった裏庭。鏡のように瓜二つの人間二人が対峙する。
やがて咲夜は溜息と共に口を開くと、一際大きな白い息が宙に舞い上がった。
「私はあなたと同じように、組織に捨てられた所をお嬢様に拾われてここにやって来たわ」
咲夜も蕾も、その組織が何であるのか知らない。ただ機械のように動物のように飼われていたことは覚えている。
「そしてここで暮らして、沢山の人達に触れ合い、私は思ったのよ……ずっと、ここで暮らしたいって、そう思ったの」
「それが自らの使命を果たさない理由ですか。異形を殺すという生まれついての使命を忘れる原因ですか」
蕾の口調にどこか自分を責めるようなものを感じ、咲夜は悲痛な表情で小さく呟く。
「蕾……」
使命という言葉を聞いて、咲夜は霊夢との会話を思い出す。
『あんたの使命は何?』
当時は十六夜というだけの名前であった咲夜は、その組織で異形を殺す役目にあった。『時間を操る程度の能力』によって暗殺は容易。生まれてから異形の殺し方しか教えられてこなかった。
しかしある日のことだった。咲夜は捨てられた。いや、捨てられるのではなく、組織の手によって殺されようとしていた。何故なのかは分からない。その力によって自分達も殺される事に怯えたのか、もしくはただ殺す時期が来たのか。
咲夜はそのことに何の感情も抱かなかった。自分を殺そうとする男の手が目前に迫っていても、ただ無表情でじっとそれを眺めるだけである。死への恐怖など教えられていなかったから。
『けっ。これから死ぬっていうのに。ちょっとは慌てやがれ』
吐き捨てるように男が言うのが聞こえた。それが最後に聞く言葉になるとしても、咲夜は別に憎いとも悲しいとも思わなかった。そんな感情は教えられていない。
しかし次の瞬間。
壁が突き破られ、男の体が吹き飛び粉々となって、更には建物全体が崩壊していく。建物の破片はなぜか全て自分を避けた。
そして前方の瓦礫の山の上、紅い月を背景に不敵な笑みを浮かべながらこちらを見る幼い悪魔。
その光景を見て、咲夜はこれまでの人生の中で一番心を揺り動かされた。体をがつんと木槌で殴られたような衝撃にも似た感覚を味わい、それが感動というものだと後になって分かる事になる。
悪魔はにい、と唇の端を吊り上げて笑った。
『初めまして。私の完全で瀟洒な従者』
何を言われたのか全く理解できなかった。自分は異形を殺す。それが生まれたときから決められた役目である。しかしこの悪魔を殺す事など、この時全くもって頭の中から抜け落ちていた。
そしてレミリア・スカーレットと名乗ったその悪魔に連れられ、幻想郷の紅魔館へとやって来た。それまで十六夜とだけ呼ばれていた少女は咲夜という名を与えられた。
周りは全て異形達。そんな中に放り込まれ、咲夜は最初混乱していた。自分は異形を殺す。ならばこの館の住人を皆殺しにしなければいけないのではないか。
目の前で悠長に紅茶を飲む主の細い首を掻っ切ろうと何度思ったことだろう。
それが葛藤。彼女が誰にも言わないでいた心の中の戦い。
しかしやがてその感情は薄れていった。生まれて初めて人並みの生活を教えられ、人並みの幸せを学び、人並みに笑う。葛藤は静かに自分の中で押し潰した。この外見と同じ年齢になる頃には、もう自分は紅魔館のメイドとして一生を終える事、悪魔の主に仕える事を使命とするようになった。
「あなたは違うの? この館でメイドとして一生を終える。それを使命とはできないの?」
言われ、蕾は静かに、しかし即座に首を横に振る。
「咲夜先輩、私はそうは思えなかったんです。異形は殺すもの。その考えを捨てることができなかったんです。あなたとは違って」
ずっともどかしさを感じていた。
どうして自分は異形を殺さないのか。
どうして自分と同じはずのこの先輩は異形を殺さないのか。
人間でありながら成長しない不思議な先輩に自分の外見が追いついた時、一つの区切りにしようと思っていた。
そして今。異形を殺す気が無いと咲夜に言われ、蕾は自分と咲夜との決定的な違いに気づいた。
無理だ。
彼女はそう思った。
異形を殺さない生き方をするなんて、自分には無理だ。
異形と共に生きることを諦めたとか、そういう話ではない。自分は元からそういった存在ではないという事だ。この先輩と違って。
「だから私は――」
「殺すの? 館の皆を。お嬢様を」
咲夜の目がそっと細まると、蕾は薄く笑った。そしてはっきりと、自分の気持ちを、存在を確かめるように言ってのける。
「そうです。殺します。あなたを呼んだのは、それをするのにどうしてもあなたが邪魔だからです」
「……でしょうね」
「ええ。『時間を操る程度の能力』があれば例えどんな大妖怪であっても殺してのけることができます。しかしずっとあなたが邪魔だった。同じ力を持つあなたが。時間を止めた世界で動いてのけるあなたが」
「…………」
もしも蕾が館の住人を殺そうとしても、おそらく咲夜が止めていただろう。
そんな予想は、さっきの咲夜の言葉を聞いて確信に変わった。
だから決めたのだ。
そして蕾は口にする。咲夜が決して聞きたいと思ってはいなかった事を言ってのける。
「咲夜先輩、死んでください」
言った瞬間、蕾は自分の中で何かが軋んでひび割れる音を聞いた。
そんな感情を押し殺し、やがてナイフを構える。
「…………」
おもむろに、咲夜も懐からナイフを取り出す。
こうなる可能性は分かっていた。蕾が館に連れてこられたその日から。自分がそうであったから、この子も同じだろうと分かっていた。
同じ考えを持ち、同じことで悩み、しかし出た結果は違った。なぜ自分は異形と共に生き、この子は異形を殺すこと選んだのか。
その事だけは分からなかった。
どのくらいの時間が経っただろう。たった一瞬だったのかもしれないし、ずっとそうしていた様にも思える。
やがて蕾は険しい表情のまま咲夜目掛けて走り出した。咲夜も同時に走り出す。二人の頭に積もった雪がその場に置いていかれた。
駆ける音はすぐに雪によって吸い込まれ響く事もない。そうでなくても二人の足音は限りなくゼロに近かった。暗殺者。時間を止める最強の殺し屋。
そんな自分を捨てた女と、捨てられなかった女がどこまでも静かに、一瞬の交錯を交わした。
――これが私の使命だから
同じ言葉を心に掲げて。
血が流れる。
それは地面に積もった雪をじわじわと紅く染める。
自分と同じ姿をした女が仰向けに地面に倒れているのを、もう一人の女は傍らでじっと見つめていた。手に持っていたナイフは、今は倒れる女の胸に深々と突き刺さっている。
「うっ……」
倒れている女は呻き、口からは血が吹き出る。そして自分を見下ろす同じ姿の女をどこか穏やかな表情で見上げた。
「やっぱり……先輩には、敵いません……」
「…………」
咲夜は無言で自分の唯一の後輩を見つめていた。蕾の手からはナイフが転げ落ち、雪の中へとその身を沈めている。
咲夜はやがて自嘲混じりに薄く笑った。
「私たち同じなのに、どうしてこうなっちゃったのかしらね」
同じであった。咲夜と蕾は。蕾が何を考えているのか、何をするのか、そういった事は手に取るように咲夜には分かる。
しかし蕾がなぜ異形を殺す決定を下したのか。それだけが分からない。
だから問いかけるようにそう呟いた。
すると蕾は血で汚れる顔を薄い笑顔に変える。
「何、言ってるんですか……私は、あなたとは違いますよ」
どこか驚いた表情の咲夜に、
「私は……蕾ですから」
そう言ってまた血を吐いた。
それを聞いた咲夜はやがて穏やかな表情で微笑んだ。
「そう。そうだったわね」
そうだった。同じではなかった。
自分は咲夜でこの子は蕾。自分とこの少女は違う生き物なのだ。だから違う判断を下すのは当然の事だ。
蕾に言われ、咲夜はようやくその事に気づいた。
蕾は満足そうに笑うと、やがて苦しそうに血反吐が混じった咳を吐いた。
焦点の合っていない目で朦朧と呟く。
「咲夜、先輩。明日は曇りで、皆とピクニック、ですから。早く寝ないと、朝、辛いですよ」
「……ええ、そうね」
「美鈴が、きっとまた、寝てます。今夜は、寒いですから、暖かいお茶を、お茶を持っていってあげて、叱って、やりましょう」
「そうね……そうしましょう」
「咲夜、先輩……咲夜……先」
「蕾!」
蕾の瞳から涙が零れるのを見て、咲夜は思わず駆け寄った。頭を持ち上げ膝枕をすると、その血まみれの顔を覗きこむ。
泣いている。異形を殺す事を決めたはずの少女が、紅魔館での変わらない暮らしを思い描いて。
あなたは、本当はここでずっと働きたかったんじゃないの?
異形を殺す使命など本当は捨てたかった。でも捨てきれなかった。そうだというの?
あなた、本当は――
わざと私に殺されたんじゃないの?
「蕾……」
しかしそんなことは言えなかった。これから死ぬ少女に迷いを与えるなど、残酷な事はできなかった。
蕾に手加減は無かった。自分もそれはしなかった。
それぞれの使命を賭けた闘いだったから。
しかし咲夜と蕾の戦闘能力差は歴然であった。それを分かっていて、なお勝負を挑む事自体が――
咲夜はしかし、かぶりを振った。そんな事を考えて何の意味があるというのか。
「ああ……咲夜、先輩……泣いてるん、です、か……?」
「あなたもじゃない……」
「ああ……」
蕾は焦点の合わない目をきょろきょろさせていると、やがてにこりと微笑んだ。
最後の言葉でも言うのかと、震えるように涙を流す咲夜は彼女の口元へと耳を近づけた。
自分を殺した咲夜に恨みでも言うのだろうか。
それとも皆を殺そうとしたことを謝るのだろうか。
それとも言葉にもならない呻きを上げるだけなのだろうか。
しかし蕾はやがて、掠れるような小さな声で、そっと呟く。
「咲夜先輩…………ありがとうございます」
私に紅魔館の皆を殺させないでくれて、ありがとうございます。
あなたは私とは違う。でもやっぱり限りなく私と似ていた。
掃除は隅々までしないと気が済まない所。
お嬢様の要望に答えられるように料理の研鑚に余念が無い所。
居眠りをしていた美鈴をただ叱るだけじゃなく、ちゃんと飴を与える所。
紅魔館の皆を、好きだという所。
目を閉じもう動かなくなった後輩の頭を咲夜はかき抱いた。自分の半身を削ぎ取られたような痛みが襲ってくる。嗚咽を洩らすのは記憶に無いくらい昔のことだ。
「あああ……」
他に何も考えられず、ただ悲しみの慟哭を叫ぶのはいつ以来だろう。
「ああああ……蕾、蕾……」
ただただ一人の名を呼び、涙を流したのはいつの事だったか。
十年。
たったの十年。そう言えるほど咲夜は長生きをしていた。
しかし蕾といた生活は確かに、今までのどの時間よりも幸せだった。
いつだって失くしてからでないとそれを分からない。
そしてこれは、分かったところでどうなるものでも無かった。だからこそ、自分の無力に悲哀し、絶望し、涙は止まらない。
涙は血まみれの蕾の頬に落ちると、その血を僅かに洗い流す。
咲夜とよく似た少女の顔はどこか満足げで、いつまでも穏やかな微笑みが浮かんでいた。
しばらくそのままでいた後、やがて咲夜は蕾の体を地面に横たえ、墓を掘ってやろうと道具を取りに倉庫へ向かう事にした。
振り返ったそこにはレミリアが立っていた。
雪の中傘も差さず、どこか穏やかな表情で二人を視界に入れている。
「お嬢様……」
呼びかけると、レミリアはふっと溜息をつく。そして無言のままじっと蕾を見つめる主を見て、咲夜はおもむろに問いかけた。
「全部……分かっていたのですか。この子が私達を殺そうとすることも。それでもこの子を連れて来たのですか」
それにレミリアは静かに首を振った。
「言ったでしょう? 運命に導かれただけだって。でも――」
蕾を見るレミリアの瞳がほんの一瞬、悲しみの色で揺らめいた。
「可能性だった。その子が私達を殺そうとするか、やめるのか」
「やめる方に……賭けていたのですか」
「いいえ」
レミリアは再びゆるりと首を振る。
「どんな運命でも受け入れるつもりだったわ。あなたの時と同じように」
咲夜は目を見開いた。
主にさえ言っていなかった心の内を言い当てられ、一瞬言葉を失いそうになる。
「分かっていたのですか! 私が皆を――」
言いかけ淀み、しかし続ける。
「皆を……殺していたかもしれないことを」
傘を差していないレミリアに薄っすらと雪が積もり出す。
「ええ」
レミリアは頷いた。
「それで私達が死ぬなら、それが運命と思っていたわ」
レミリアは運命を操る。運命を深く知る。
そして自分が死ぬ運命を知った時、彼女は恐れおののく訳でもなく、ただ淡々と思った。
ああ、これが死期ってものなのか。
永遠にも近い寿命を持つ彼女だが、永遠に生きようとは別に思ってはいなかった。
いつかどこかで死ぬ事になる。それが今来たんだと。咲夜、そして蕾を見て、レミリアは自らの運命を受け入れる事にした。
しかし今、咲夜は涙を流しながら首を振る。そんなレミリアの考えを必死に否定するかのように。
「そんな! 私は――」
今度は言いよどむことなど無く続けた。
「皆に死んでほしくなどありません!」
嫌だった。まるで進んで死を受け入れようとするこの主が。その気構えが。
嫌だった。自分に世界を見せてくれたこの主が死んでしまうなど、絶対に。
駄々をこねるようだと、咲夜は今の自分をそう思う。
主に比べれば自分はまだ子供のようなのだろう。
そしてそういった扱いをされることが、今はどうしようも無くもどかしかった。
「お嬢様……」
目に涙を溜めていた咲夜はやがて、呼吸を整えてから言った。
「なんで私が歳を取らなくなったのか、分かったような気がします」
レミリアは若干目を丸めて見せたが、やがて静かに笑みを浮かべた。
「そう……何かしら」
「はい。この時のためなんじゃないかと思います。もしも私がいなかったら、この子は館の皆を殺してました。私はそれを止めるためにこれまで寿命を捻じ曲げ生きてきた。そう思います。そしてそんな事ができたのは――」
言いつぐむと頬を若干紅潮させ、早くなる動悸を抑えて咲夜は微笑んだ。
「お嬢様のことが、好きですから」
レミリアがきょとんとした様子で咲夜を見る。
「お嬢様だけでなく、妹様、パチュリー様、小悪魔、妖精メイドの皆、あと美鈴も、皆のことが好きです。私は、そんな皆を死なせたくなかった」
自分が歳を取らなくなったのは、皆の事を大切に思うから。皆を守りたかったから。その気持ちが自分を生き長らえさせたのだと、咲夜はそう結論を出した。
「それが……あなたが生き続ける理由?」
少し呆気に取られた様子で問いかけるレミリアに、咲夜ははっきりと答えた。
「はい」
「…………」
しばし茫然と咲夜のことを見ていると、やがてレミリアは背を向けて肩を震わせ始めた。そして「くっくっくっ」と笑い声を洩らし出す。
「お、お嬢様! 私は真剣なんです!」
咲夜は顔を真っ赤にし、抗議するように慌てた様子でレミリアに詰め寄った。
普段の自分ではあり得ない精一杯の告白を、案の定と言ってもいいかもしれないが、それでも笑われてしまい、今度は恥ずかしさで涙が出そうになる。
「分かってる。分かってるわ……くっ。くくく……」
「お嬢様!」
可笑しかった。この完全で瀟洒なメイドが、皆の事が好きだ、なんて恥ずかしそうに言うことが。
可愛らしかった。この子のために、これからは死の運命を受け入れたりせず、操って避けてやろうとも思うくらいに。
やがて二人は蕾をそのまま裏庭に埋葬してやり、小さな墓を作ってそこに名前を彫った。
十六夜蕾
「この子の、名前ですから……」
「ええ。そうね」
きっとこれが彼女の本当の名前なのだろう。紅魔館の住人達にとっては紛れも無くそうであったし、蕾もきっとそう望んでいた。
たったの数年間、紅魔館にはメイド副長がいた。最後の年はメイド長と見分けがつかないくらい似ている彼女。
やる事も似ている。考える事も似ている。
しかし似ているだけであって同じではない。
確かに自分だけの考えを持ち、それに従って行動し、死んでいった。
その最期は穏やかだったという。
じっと墓を見ていた二人は、おもむろに裏庭を後にする。
地面に広がった赤はやがて、白の雪でその色を隠されていった。
――咲夜先輩、本当は謝りたかったんです。皆を殺そうとした自分を。
そんな声が聞こえた気がして、一度だけ、咲夜は後輩の墓を振り返った。
それはきっと、咲夜の妄想にも似た想像なのかもしれない。彼女はきっとこう言うのではないか、きっとこう言いたかったのではないかという想像。
しかしそれを今は、時間を止めてもやめる事が出来ない。
――だって私も、皆のことが大好きでしたから。
◇◇◇
「で。いい加減話してくれてもいいんじゃない?」
事の顛末を話すと、パチュリーはレミリアに向けてそんなことを言った。咲夜は今自室に戻っている。彼女は彼女で色々と考える事もあるのだろう。
二人は居間でテーブルを挟み向かい合っている。
「何を?」
レミリアは軽く肩をすくめるようにして薄く笑った。
「とぼけないで。蕾は一体何者? いや、咲夜と蕾両方ね。彼女達は一体何者なのかしら」
レミリアは珍しく、本当に珍しく自分で淹れた紅茶を静かに一口飲むと、ああやっぱり咲夜の淹れたのが一番ねと思い、小さく溜息をついた。
「…………」
答える様子の無いレミリアに、パチュリーはその長い髪をいじりながら言葉を投げかけた。
「じゃあ私の推測を言うわ」
パチュリーは紅茶を一口飲み、レミリアの様子を窺いながら話し出す。
「蕾は『クローン』、って奴じゃないかしら」
レミリアの表情に変化は無かった。じっと彼女を見つめながらパチュリーは続ける。
「同じ人間を造り出すというクローン。蕾は咲夜の……いいえ、咲夜も誰かのクローンじゃないかしら。おそらく十六夜という名前の人間がオリジナル。外の世界のある組織が『時間を操る程度の能力』を持つその女性のクローンを作っては戦闘人形に仕立てていた。あなたは咲夜を拾ったときにその組織を潰した、って言ってたけど、完全には潰し損ねていたのか、もしくはどこかの組織が今になって残骸からクローンの核を掘り出したのか、とにかく今になって再びクローンの少女を作り出し、またあなたに潰された」
「…………」
そこまで言うと、パチュリーはほうと息を吐き出した。
「これなら合点がいくわ。あなたが妙な運命を感じたのも、蕾が咲夜のクローンだから。違う?」
「…………」
レミリアはただじっとパチュリーの話を聞いていたが、やがて薄く笑って息を吐く。
「はあ……あなたは物事をはっきりと分からないと満足できないのかしら」
それは肯定なのかどうか微妙だったが、おそらく追求しても答えは返ってこないのだろう。パチュリーは話を続けることにした。
「当然よ。咲夜が生き続ける理由だって今あなたの話を聞いて色々考えたわ」
レミリアが首をかしげる中、パチュリーはその考えを述べた。
「咲夜が成長を止めた原因はその能力によるものじゃないのかしら。『時間を操る程度の能力』によって、無意識に自分の成長の時間も止めてしまった。あくまで仮説だけどね」
「ふうん……」
レミリアは特に興味も無さそうに呟いた。
「彼女が自分の成長を止めた理由についてなんだけど」
それに構わずパチュリーは続ける。
「色々考えたんだけど、彼女の能力で蕾が私達を殺す未来の時間を感じ取った、とか」
「能力で未来を、ねえ……だとするととんでもない力だけど」
「あくまで仮説よ。それとももしかして、あなたの能力が原因かもしれないわ」
「私の能力?」
首を傾げるレミリアに、パチュリーは「そう」と言って頷いた。
「あなたの『運命を操る程度の能力』を側で感じていることによって、無意識に私達が死ぬはずの運命を悟ったのかも」
「私の能力がそんな影響を及ぼすかしら」
「あくまで仮説よ」
「ふうん……」
「そして蕾が私達を殺す事にしたのはおそらく、その組織の洗脳が咲夜の時より強力だったからで――」
「それは違うわ」
レミリアがきっぱりと否定すると、パチュリーは思わず眉をひそめた。
「咲夜と蕾は違うから。蕾という一人の人間が自分で考えた結果、そういった判断をしたのよ」
「…………」
パチュリーは小さく溜息をついて紅茶を飲むと、「そう」と呟き、十年間一緒にいたメイドの姿を思い浮かべた。
彼女は確かに自分で考え、自分で行動していた。洗脳なんかではない。レミリアはそれを言いたかったのだろう。
(そうね、確かにそうだったわね)
パチュリーはそんなレミリアをどこか楽しそうに見つめていた。
紅茶を一口飲むと、レミリアはどこか遠い目をして呟く。
「そうなると、咲夜の時間はもう……」
「動き出す可能性が高いわね」
「そう……」
レミリアは悲しんでいるのだろうか。
パチュリーはじっと向かいに座る悪魔の顔を窺うが、その表情から感情は読み取れなかった。
そして次の瞬間、その顔が笑顔に変わる。
レミリアは思い出したように「くっくっく」と笑い出した。パチュリーが怪訝な表情をする中、レミリアは言う。
「あなたが今言った仮説、咲夜には黙っていてもらえるかしら」
「? なんでよ」
レミリアは心底楽しそうに笑う。パチュリーにとって、こんな彼女を見るのは本当に久し振りだった。
「あの子、自分が生き続ける理由は『皆のことが好きだから』なんて言うのよ? そっちの方が素敵じゃない」
「はあ……」
私の言ったことは無粋だって言うのね。
パチュリーは呆れた様子で溜息をつくと、若干の皮肉を込めて言ってやった。
「あなたって意外とロマンチストなのね」
しかしレミリアは、いつもの不敵で不遜なカリスマ溢れる微笑みを浮かべると、ティーカップを掲げるように軽く揺らしてから言ってのけた。
「あら、今頃気づいたの?」
◇◇◇
それから時は流れた。
百年か、二百年か、それよりもっと長い時間が過ぎたのかもしれない。
厚い雲からちらほらと雪の降る昼間、レミリアは傘も差さずに墓の前で佇んでいた。
墓に刻まれた文字は削れてしまっていて、もうその名を窺う事はできない。
そっと花を手向けると、レミリアはぽつりと呟く。
「あなたがここに来たのも、こんな雪の降る日のことだったわね」
白い髪をしていた人間の墓を見る。この館で働いていたメイドの墓。彼女はこの下に眠っている。
「あなたが心配していた美鈴は相変わらず居眠りが多いわ。パチュリーは図書館でずっと本を読んでるし、フランはイタズラばかり」
ただじっと、自分の長い人生からすればほんの短い間だけ従者であった者の墓を眺める。
あれから新しい従者が紅魔館に来ることもなく、ここは時が止まったかのように変わらない面々だけがずっと暮らしていた。
幻想郷では大きな異変が何度も起き、そのたびに何代目かの博麗の巫女やらが飛び出しては、きまぐれにレミリアもちょっかいを出したり手を貸してやったりする。
幻想郷は刻々と変わりゆく。しかしこの紅魔館は何も変わらないままじっと佇んでいる。
変わらない者だけが住み、変わる者はもういなくなってしまった。
ここに眠るメイドのことも、少しずつ、確実にレミリアの記憶から薄れていってしまう。
あなたを拾ってきたのは私。
あなたに名前を付けたのは私。
あなたが仕えていたのも私。
そんな事を確認するのも、最近では少なくなってきた。
白い髪をして、てきぱきとして、きっちりとしていて、『時間を操る程度の能力』を持った有能で完全で瀟洒なメイド。
レミリアはやがて溜息をつくと、一人の少女を思い出して呟いた。
「あと、あの子。あの子はね――」
とそこで、館から駆けて来る者がいた。
勝手にいなくなったレミリアを慌てて探していた彼女は、裏庭で主を見つけるとほっとしたように笑顔を浮かべてやって来た。
「お嬢様、こんな所にいましたか。探しましたよ」
咲夜はレミリアの頭についた雪を丁寧に払うと、いつもしているように傘を差して雪を遮った。
「この子と話をしていたの」
レミリアがそう言うと、咲夜は墓へと目を向け、懐かしいような悲しいような微笑みを浮かべた。
「……今日は、この子が初めてここに来た日ですね……」
「私がこんなに長い間墓参りをするなんて思ってもいなかったわ」
「はい。でもこの子は――」
自分と同じ姿をしていて、しかし自分とは違った少女を思い出し、咲夜はそっと息を吐いた。
「私の唯一の、後輩でしたから」
「そうね……」
もう次の十六夜が現れることは無かった。そしてそれは確実に、喜ばしい事なのだろう。
しばらく蕾の墓を眺めていた後、やがて二人は館へと引き返していった。
その途中、レミリアはじっと咲夜の顔を見つめる。
「? どうしました」
戸惑う咲夜。しかし不思議に思っているのはレミリアの方だった。
咲夜は蕾が死んでからも変わらなかった。ずっと歳をとらないままだ。その理由が分からない。
何かまた危機が紅魔館に起きるので、そのために歳を取らないのだろうか。パチュリーはそうなんだろうと言っている。
しかし、
とレミリアは考える。
咲夜が自分の時間を止めたのは、紅魔館を守るためとかそんな使命感が理由ではないのではないか。
もっと安易で直感的なことが原因となっているのではないのか。
そのことをパチュリーに話すと、「あなたって本当にロマンチストね」などと言われてしまうが。しかしそう思わずにはいられない。
そう、その理由というのはもしかすると――
「ねえ咲夜」
「はい」
それはきっと確認するように。
「あなたって、どうして生き続けるのかしら」
レミリアは側に控える咲夜に向かってそんな言葉を投げかけた。
すると咲夜は言葉を詰まらせ、どこか困った様子で主を見た。
「またその質問ですか? 何度も言わせないでくださいよ……」
「主の質問には文句を言わず答える」
「分かりました……」
この主はたまに自分をからかうような行動を取る。この質問だって今まで何度も悪戯な笑みを浮かべた主から投げかけられて来たものであり、その度に自分は恥ずかしさを堪えながら、普段の自分からしたらそうそう言わないようなその答えを言ってきた。
昔はもっと難しい理由を覚えていた筈なのだが、長い時の中で覚えているのは、安易で直感的で、しかしどうにもしっくり来てしまう答えだけだった。心残りがあるようだ、とは誰に言われた事だったろうか。中々に的を得ていると思う。
数百年前からずっとその姿を変えない紅魔館。
一つの墓がぽつんと構えるその裏庭で、咲夜は若干不満そうに頬を膨らませると、緊張をほぐすように一つ深呼吸をした。
そして照れた様子で僅かに頬を紅潮させると、敬愛する意地悪な主を見つめ、やがてはっきりと――
十六夜咲夜が生き続ける理由を口にした。
了
前半の「年を重ねない自分」に途惑う咲夜さんも、何となくのほほんとした紅魔館メンバーの対応も微笑を誘われるような暖かさに溢れていました。
霊夢の扱いやオリキャラも、その設定、描写、共に納得のいくものでした。
でも、何より、咲夜さんが生き続けた理由(の可能性になるのでしょうか?)が素敵過ぎます。
幻想郷ならありえそうで、あって欲しいと思わせる切なくも愛しい理由‥ロマンチストなレミリアさまに終わりなく幸せが続きますように。
最後の最後でちっと老化しない理由についての考察が
蛇足ぎみに感じましたが、一つの紅魔館の将来としてしっくり来ました。
「先輩」に言いようできない何かを感じでしまうのですか何故かわかりません…
彼女が言っていた通り、きっと紅魔館に住む皆のことがとても大切だから
なのだと私は思いますね。
蕾がやってきたこと、深くは語られていないけどレミリアが連れて来たこと
そして蕾が咲夜さんとは違う考えのもとに行き着き、戦ったことは
なんとも悲しい出来事だと思いました。
でも、そんな彼女でも殺したくはなかったんですよね……。
もし彼女が咲夜さんと同じ道を歩むことになっていたとしたらどうなっていたんでしょうね。
咲夜さんと紅魔館組のこの日常がずっと続いて欲しいと
思うようなお話でした。
面白かったです。
いい話ですね。
面白かった。
とても読みやすくて良かったですよ。
ただオリキャラの名前が読めないorz
お嬢様のためにも紅魔館のためにも
話を読んでる最中に、実は咲夜が月人で寿命がはるかに長いとかいう無粋なことを思いついてしまった自分が恨めしい・・・
月人って元は地上の民と同じ種族なはずなのに何で長生きなんだろうか・・・
咲夜さんの美しい台詞が色褪せてしまう。
私の中では死んでほしかっただけに残念
構成もよかったし、蕾という少女の謎も、咲夜が死なない理由も一応納得のできる説明がちゃんとなされていたので、腑に落ちないものが残ることなく読後感はすっきりでした。
ただ、もう一ひねり欲しかったというか、やはり物語全体を通して安易な話だったような気がします。
特に蕾が紅魔館の面々を殺す理由がなんだか無理やりな感じに思えてしまった。
作品の空気がとても良かったです。
良い作品なのに自分が悲しい・・・(涙目
は、抜きにして本当に良い作品です。
幻想と言う名の運命・・・
運命言う名の幻想・・・
命言う名の理想・・・。
真剣なところで吹いたwww
オリキャラの名前が読めない(;_;)
コメへのレスになってしまいますが蕾の読み方は「つぼみ」ですよー
ロマンチストなところが素敵でした
最後に敢えてどちらの台詞を口にしたかを書かなかったのには美を感じました。
東方二次創作界隈(特に創想話)では、原作での台詞から、
咲夜さんは普通の人間と同様の寿命でないとダメ!みたいな風潮がありますが、
私はそんなことはない、と思っています。
この作品はそんな私の中にすっと入ってくるものを持っていました。
内容自体の素晴らしさもさることながら、上記の理由も加え満点を捧げます。
ご馳走様でした。
蕾ちゃん…(ブワッ
謎の組織め…許せん!
紅魔館も然り
素敵なお話をありがとうございます