,
再び目を開けると、居間はぼろぼろになっていた。タンスは全て倒れ、椅子はことごとくひっくり返っていた。窓の格子は外へ吹っ飛んでしまったらしく、冬の冷たい風が入ってきていた。
「………………………………………………………………全員無事かしら?」
お姉さまの声だった。お姉さまは倒れたタンスの下敷きなっていたが、自力で這い出してきた。
「無事ですわ……………………」
「……………………何とかね」
咲夜とパチュリーが声を上げた。パチュリーは防御壁を張って立っていた。マリアから一番離れていたパチュリーは防御壁を作る時間がわずかにあったらしい。咲夜は近くにいたパチュリーの防御壁で守られたようだった。もし、咲夜が防御壁の中に入っていなかったら、怪我では済まなかったかもしれない。
「……………………いや、死ぬかと思いましたよ」
美鈴が瓦礫の山から起き上がってきた。死ぬ、と言っている割には、美鈴は服が汚れているだけで、一切怪我は負っていないようだった。さすがは門番長だ。
「…………私も大丈夫だよ」
私も無傷だった。服はところどころ焦げてはいるが、身体にダメージはない。
私たちは全員そろって、爆心地を見た。
そこには破壊の仔が立っていた。
マリアの着ている白いドレスは満月の光に輝く雪のように白く、
母と同じ紫水晶の髪は、かすかな風にオーロラのように揺れる。
黒い翼にかかる宝石たちは新月の夜より暗く、
白き花顔は、幼子の無邪気さと残酷さを矛盾することなく顕していた。
その虹彩は世界を焼き尽くす炎のごとく紅く、
その唇は幾千万の生物が流す血の河のごとく緋い。
運命と破壊の仔、マリア・スカーレット――――
世界を相手に凛然と立つ姿に、私たちはしばらく魅入られていた。
マリアの目はうつろだった。どこを見ているのかわからない。近くを見ているのか。遠くを見ているのか。それとも何も見ていないのか。マリアはきょろきょろと周りを見回していた。それは何かを探すような動作でありながら、同時に何にも関心がないような動きだった。
「――――どう思う、皆?」
お姉さまが皆に尋ねた。美鈴が渋い声で答える。
「どう思うって…………ものすごく嫌な予感しかしないんですけど」
「美鈴に同意ね。私も何か恐ろしいものを感じるわ」
パチュリーが神妙な顔でうなずいた。咲夜が提案する。
「とりあえず、声をかけてみてはどうでしょうか?」
「……………………そうね。そうしてみるわ」
お姉さまはそう呟いて、マリアに一歩近づきながら話しかけた。
「ねえ……………………マリア。聞こえる? 聞こえたら、返事をしてくれるかしら?」
すると、マリアはお姉さまを見た。目の焦点はお姉さまに向いているが、表情がない顔だった。まるで、誰かがマリアを操っているような……………………
「ねえ、パチュリー…………マリア、どうしちゃったんだろう?」
私の問いにパチュリーはしばらく頭をひねっていたが、やがて重苦しい口調で答えた。
「…………『防衛機制』に入っているのかもしれない」
「『防衛機制』?」
「ええ。妖怪の本能的なものよ。妖怪っていうのは、普段、自分が制御している以上の力をもっているものなの。人間も普段は自分の筋肉を壊さないように力をセーブしている。たぶんそれと同じ理屈なんでしょう。でも、生命の危機に直面したら、そんな限界は消えてしまうわ。いわゆる火事場の馬鹿力という奴ね。ただし、妖怪に限っていうと、それと同時に普段持っている意識を引っ込めて、代わりに眠っていた無意識を表出させることになる場合もあるのよ」
「それが今のマリアなの?」
私はそう言って、マリアを見た。確かにマリアのあの様子は外敵を探しているように見えなくもない。今、マリアはお姉さまをじっと見つめているが、それはお姉さまが自分の脅威となりうるか考えているのかもしれない。
「でも、マリアは別に死にそうだったり、殺されそうになったりはしてないよ?」
私は反論した。だが、パチュリーは頭を振った。
「確かにマリアは生命の危険を感じたわけじゃないわ。でも、それに近いようなストレスを感じていたんでしょう」
――――チェスの一件か。
「マリアは必死だったでしょうね。自分の母親たちを殺すか殺さないかの勝負だったんだから。しかも相手が自分の母親自身と来ている。それこそマリアは死ぬような想いをしたに違いないわ」
それだけじゃない、とパチュリーは続けた。
「たぶん、マリアは未来にいたときからずっと悩み続けてきたんじゃないかしら? 自分から地下室に入るなんてあんな幼い子が決意するんだもの。それこそ心をすり減らしていたでしょうね。しかも破壊の能力を制御できなくなってきたとも言ってたんでしょう? これだけ大きなストレスがかかれば、それをきっかけに破壊の能力のコントロールを完全に失ってしまったとも考えられるわ。そして、マリアの意識が手放してしまった破壊の能力の支配権が、無意識へと委譲されたんでしょうね」
「それで、その無意識は生命の危機だと勘違いして、自分の脅威となる外敵を探している、と……………………」
「まあ、破壊の能力のオーバーコントロールのフィードバックとも考えられるけどね。破壊の能力は、ひょっとすれば自分自身すら破壊しかねないような強力な力なんでしょう? その能力が制御不能になって、彼女の無意識が慌てて彼女の精神の支配権を握ったのかもしれない。どちらにしろ、今のマリアはこれまでのマリアとは違うわ。きっと話し合いには応じてくれないでしょうね」
私は再びマリアを見た。マリアは無表情だったが、どこか寂しげだった。お姉さまが話しかけながら近寄っていくと、マリアはその何となく悲しげな顔で後ずさった。
――まるで迷子の子供のようだ。
私はマリアの姿から迷子になってしまった少女の姿が浮かんだ。親を探して泣き続ける子供。探しても探しても見つからない親をそれでも探し続ける子供だ。
さらにお姉さまが一歩近寄ると、マリアが右手を開いてお姉さまに向けた。次の瞬間、その右手に魔力が走った。
お姉さまの周りの瓦礫がいくつか吹っ飛ぶ。お姉さまは歩み寄るのを止めた。
「威嚇射撃?」
「でしょうね」
私の言葉にパチュリーはうなずく。だが、パチュリーは首をひねって呟いた。
「破壊の能力かしら?」
「たぶん、そうだと思うよ」
私は答えたが、パチュリーは納得いかないようだった。私も何か違和感を感じていた。パチュリーと同じように私も頭をかしげた。
別におかしいことでもなんでもない。マリアが能力を駆使して、お姉さまの周りのレンガやらを破壊しただけのことだ。だが、私はそのシーンに嫌な違和感を感じていた。
マリアがお姉さまをすぐに壊そうとしなかったのは、威嚇射撃だと考えれば何の問題もない。むしろ、私はお姉さまの周りの複数の瓦礫が消し飛んだことのほうが問題のように思えた。
ん?
複数?
………………………………………………………………。
そういえば、マリアはどうやって破壊の能力を発動させていたか?
私はマリアがお姉さまにどうやって能力を行使しようとしたかを思い出す。
………………………………………………………………。
まずい。
これは予想以上に重い事態かもしれない。
「ねえ、パチュリー。これ、ひょっとすると、相当やばいよ……………………」
私はそう言って、パチュリーを見た。パチュリーも私と同じ結論を下したようで、顔が真っ青になっていた。
「ええ。これは半端ないわ…………。100年以上生きてきたけど、ここまで危険な目に遭うのは数えるくらいしかないわ……………………」
マリアはさらに能力を行使しようと右手を動かした。マリアの右手は開かれ、
握られることなく、
お姉さまだけでなく、私たちの周囲の床を
複数個所、
爆発させた。
「………………………………………………………………!!」
そう。破壊の能力は『目』を潰さない限り、発動しない。これは破壊の能力が物体の壊れやすい概念的な点――すなわち『目』を自分の手のひらに移動させるだけのものだからだ。破壊の能力でモノを壊すときは、親指でこの『目』を潰さないといけないはずなのだ。
だが、マリアはこの『目』を潰す動作をせずに破壊の能力を使用していた。
「どういうこと、パチュリー!?」
私は腕を上げて瓦礫の破片から顔を守りながら叫んだ。
「破壊の能力は『目』を潰さないと発動しないんじゃないの!?」
「潰しているのよ、もちろん!」
パチュリーも叫んで答える。
「妹様もわかると思うけど、『目』は概念的なものだから、潰すには魔力的に潰さないといけないのよ! 妹様は魔力を帯びた親指で潰しているけど、重要なのはその魔力なの! だから、別に親指で潰す必要はないし、 ぶっちゃけ、『目』に小さい魔力を貫通させるだけで十分なのよ! マリアが複数の標的を同時に攻撃できるのもそのせい! たぶんマリアは魔力を通すだけでたくさんの『目』を破壊してるんだわ!」
私の破壊の能力は一度に一つの物体しか破壊できない。これは私がいちいち親指でそれを潰しているからだが、もし、マリアのように手のひらの上にいくつもの標的の『目』を移動させて魔力を与えることができれば、同時に複数の『目』を潰すことも可能だった。
「今の攻撃でわかったことは、マリアの同時破壊可能対象数は10以上! 妹様、あなたの標的識別範囲は?」
「……………………目に見えるもの全部かな?」
「となると、マリアは最低でも、目に見えるものすべてを同時に10個以上破壊できる程度の能力、ということになるわね」
何とも恐ろしい能力だった。ちなみに私も複数の『目』をみることができるが、10には到底届かなかった。マリアは私よりも高度な破壊の能力の遣い手だった。もちろん、物体を集合化させて、その集合の概念を破壊するということをすれば、10個以上のものを破壊することもできるが、それはもちろん、マリアもできるだろうということは簡単に予測がついた。
再び私がマリアを見た瞬間、マリアの空気が変わった。これまでの弱々しいものとは打って変わって、こちらが圧倒されそうなほど、強い気がマリアから放たれていた。
まずい!
今度こそ、本当の攻撃が来る――――!
マリアの右手に魔力がこもる。私たちの『目』がマリアの右手に集まる瞬間だった。
そして、その『目』に魔力の電流が――――
「咲夜!」
お姉さまが叫ぶ。
「御意!」
咲夜が答えた次の瞬間、私たちは居間の外にいた。咲夜が時間操作の能力で私たちを廊下へと運んだのだろう。一拍置いて、ドア越しにすさまじい衝撃が伝わってきた。
「…………危ないところだったわね」
お姉さまは、ふうと息をつきながら言った。
「なんとか、マリアの手の中の『目』が私たちの『目』から、空気分子の『目』に変わるように運命操作できたから良かったけど、コンマ一秒遅れてたら、危なかったわ」
そうか、やはり私たちの破壊の能力は、お姉さまの運命操作の能力で防御できるのか。私は納得したが、それならもっと良い使い方ができないか、とお姉さまに尋ねてみた。
「お姉さま、その運命操作でマリアが正気に戻るようにできないの?」
「ん? 残念だけど、それはちょっと無理ね」
お姉さまは難しそうな顔をして答えた。
「私の運命操作は確かに因果律に直接作用するものだわ。おそらく私の意志自体が因果律になって、時間軸や他の因果律に優位的に働きかけることで、運命を変更するのね。だけど、当然私の因果律が他の因果律に負けることはあるし、場合によってはいくら相性の良い因果律でも干渉することはできない。それに私は運命操作を意識的に使えることはほとんど限られてるのよ。無意識で――――私の知らない私が使ってることのほうが多いわ。少し先の時間軸の因果を見れるから、マリアの破壊の能力を避けることくらいできるけど、私の意志でマリアを正気に戻すことは無理ね。そもそも心とか魂とかの高度な概念存在に対してはものすごく相性が悪いのよ」
なるほど、運命操作は万能ではないらしい。マリアを正気に戻すように因果律を操作することはできないか。となると、別の方法でマリアの目を覚まさせるしかないのか。
「何かある、パチュリー?」
パチュリーも考えていたのだろう。パチュリーは私の問いにすぐに答えてくれた。
「マリアの魔力がゼロになれば、間違いなく防衛機制は止まるわ」
「……………………それって、まさか」
「マリアが魔力が尽きるまで暴れるということね」
一同は沈黙する。お姉さまは考えるように天井を見ていたが、やがてパチュリーに尋ねた。
「マリアが魔力切れはどのくらいかかるかしら?」
「そうね。まあ、レミィや妹様よりも魔力量は多い、と考えるべきかも知れないわね」
パチュリーの言葉に全員の目が丸くなる。パチュリーはやれやれと肩を竦めた。
「考えてもみなさい。あの子はレミィと妹様の子なのよ。並の吸血鬼が親ならともかく、かたや運命操作の能力、かたや全てを破壊する能力の持ち主が親なのよ。どれだけ優秀な遺伝子が揃ってると思っているの。まあ、確かに近親相姦は遺伝病の引き金になるから忌避されてるけど、あなたたちの場合はそれが逆に『上手く』いってしまったようね。不運なのか幸運なのか――――それはともかく、マリアの魔力切れには丸一日は必要だわ。紅魔館はおろか、幻想郷中を破壊するのにも十分な時間でしょうね。そうなれば、あの隙間妖怪や博麗の巫女がすっ飛んでくるわ。間違いなくマリアは死ぬし、幻想郷も消滅してしまうかもしれない」
「だめじゃん、パチュリー! もっと他にないの!?」
私は慌ててパチュリーに詰め寄った。そして、パチュリーは少し考えた後、答えた。
「マリアを気絶させることね」
パチュリーの視線はドアに向けられていた。
「マリアを気絶させれば、防衛機制が解ける可能性があるわ。あの防衛機制は一時的なものだから、一度気を失ってしまえば彼女はきっと元のマリアに戻るわ」
「気絶って……………………」
あのマリアをどうやって気絶させるというのか。今のマリアは存在自体が地獄だ。近づくことさえ不可能に近い。パチュリーは渋い顔をしながらも言った。
「スペルカードでの遠距離射撃が一番いいんじゃないかしら? レミィのマイハートブレイクとかグングニルなんかを頭に当てれば、卒倒すると思うけど?」
「普通の弾幕じゃダメかな?」
「通常弾は当たっても痛いだけで、気絶はさせられないわ。支援には使えるかもしれないけどね。グングニルとかの質量をもった弾じゃないと決定打にはならないでしょうね」
通常弾ではダメか――――私はパチュリーの言葉に少し考えて、答えた。
「……………………基本的に破壊の能力は対象を視覚的に確認しないと発動しにくいし、対象の『目』を自分の右手にもってきて破壊するまでにタイムラグがあるから、高速で飛翔する物体は破壊できないだろうし――――それしかないね」
私の言葉に皆がうなずく。方針は決まった。では、指示は――――
「咲夜、」
「はい」
お姉さまだった。お姉さまが咲夜に呼びかけると、咲夜は表情を引き締めて主の命令を待った。
「至急、メイドたちを避難させなさい。非常事態レベルⅤ+。エキストラメイド隊も避難させなさい。いくら彼女たちでも荷が重過ぎる。メイド隊の避難が終了したら、合流すること。了解?」
「了解いたしました」
咲夜は一礼すると、姿を消した。数秒も間をおかず、廊下に咲夜の緊迫した声が響き渡った。警報を使うのはマリアの刺激するからと判断したのだろう。少しして、すぐに紅魔館の中が騒がしくなるのを感じた。妖精メイドの避難が始まったらしい。
スピーカーから聞こえてくる咲夜の声とメイドたちが紅魔館を走り回る喧騒を背景に、私たちは作戦を練り続ける。
「マリアを相手にするのは私とフラン、パチュリー、美鈴でいいわね?」
「うん」
「異論ないわ」
「了解です」
お姉さまの言葉に全員が了解の意を示した。お姉さまは続ける。
「じゃあ、マリアを気絶させることだけど――――私のグングニルでマリアの頭部を狙撃する、というのが大まかな流れでいいかしら?」
「ええ、全員はそれを支援する形になるわね」
「弾幕で目くらましを作って、マリアの破壊の能力を撹乱。そこで私が後方からグングニルで攻撃する――――何か問題はないかしら?」
「まあ、気になるのはマリアの破壊の能力が、同時にどれだけの目標をロックオンできるか、だけど……………………」
パチュリーが渋い顔をする。続いて美鈴も目をきつく細めて言った。
「破壊の能力をどうやって回避するかも問題ですね。お嬢様の運命操作なら完全に避けられるとは思いますが、運命操作をしながらグングニルを投擲できますか?」
「……………………不可能ではないけど、同時は少し負担が大きいわね。私がグングニルを使うときは運命操作を止めているほうがいいわ……………………フラン、マリアの破壊の能力の発動までのタイムラグは?」
私はこれまでのマリアの破壊の能力を行使したときのことを思い出しながら答えた。
「…………マリアの手に『目』が集まるまで、0・8秒。その『目』が潰されるのに0・2秒。
合わせてだいたい一秒だね」
「一秒か…………意外と余裕ね」
お姉さまは少し安心したように言う。美鈴もそれにうなずいた。
「一秒なら、マリア様のところまで行って直接攻撃したほうがいいかもしれませんね」
二人の様子に私は慌てて言う。
「あ。でも、近寄れば近寄るほど、マリアが『目』を引きつける時間は短くなるから、接近戦はやめたほうがいいと思う」
「なるほど、確かにそうですね」と、美鈴が再びうなずいた。私はさらに付け加える。
「あと、マリアが破壊の能力を発動して次の発動まで魔力を充填する必要があるから、たぶん、その時間差も利用できると思う」
「フラン、マリアのその充填にかける時間はどれくらいかわかる?」
「んー……………………マリアが連続で破壊の能力を使ってるのを見たわけじゃないから、よくわからないけど…………ちなみに私は3秒くらいかな」
「1秒、3秒…………合わせて4秒。十分すぎるわ。グングニルを投擲するのも、1秒あれば余裕よ。マリアが全弾破壊の能力を使い終わった直後に、グングニルを命中させればいい」
「レミィが運命操作で破壊の攻撃を回避しつつ、私たちが弾幕でマリアを攻撃。マリアに防御のために能力を使わせて、破壊の能力を弾切れにする。そして、グングニルで攻撃して気絶させる――――」
「決まりだね」
私たちは居間に通じるドアを見た。ドアの向こうは不気味なほど静かだった。
「マリアは…………動いてないようね」
「うん。マリアの波動が感じられるから、たぶん、まだマリアは居間にいる」
「……………………最初から全力でかかって終わりにしましょう」
パチュリーが『賢者の石』を展開した。美鈴も懐から『極彩颱風』を取り出した。お姉さまが『スピア・ザ・グングニル』を発動し、私も『レーヴァテイン』を片手にもつ。
そして、全員が扉の前にはりつくように立った。
これは弾幕ごっこじゃない。
私はひどく緊張していた。
生まれて始めての生死をかけた戦いだ。
まさか、初めての戦場の相手が自分の娘になるとは――――
だが――――これは親の仕事だ。
マリアを救うために戦うのが私の仕事だった。
「いいかしら、皆? たぶん、この部屋に入った瞬間に、マリアの破壊の攻撃がくるけど、覚悟はいい?」
お姉さまの言葉に全員が首を縦に振った。
「美鈴、お願い」
お姉さまが言うと、美鈴がうなずいて一番前に立つ。
私だけではなかった。お姉さまもパチュリーも美鈴も顔を強く引き締めていた。
美鈴は一つ深呼吸した。
そして右足を一歩大きく引き、
ドアを蹴破った。
「――――――――今よ!!」
お姉さまが叫ぶ。その声に弾かれたように、私とパチュリー、そして、お姉さまが扉の向こうへと飛び出していった。美鈴も一歩遅れて私たちの後ろについてくる。
破壊の仔がこちらを見た――――
情けない話だが、死ぬほど恐ろしい。
しかし、私はマリアの笑顔を思い出し、気を強く引き締める。
マリアの目からは相変わらず意志が感じられなかった。だが、マリアは確かにそんなうつろ目で私たちを睨んで――――
開いた右手を私たちの方向に向けた。
その右手に魔力が集まるのを感じる。
背筋が寒くなる感覚――――
さらに一秒後、空気が震えた。
お姉さまが運命操作で『私たちが破壊される運命』を『空気の分子が破壊される運命』に切り替えたのだろう。だが、破壊された分子の衝撃は E=mc2 の法則の通り、すさまじいエネルギーをもって居間の大気を振動させた。椅子やテーブルの破片が飛び散る。壁にも大きな穴が開いていた。窓の格子はもはや原型をとどめていない。
パチュリーが『賢者の石』による射撃を開始する。美鈴も『極彩颱風』による弾幕を展開した。私も『レーヴァテイン』をマリア目掛けて振るう。
居間の中を色彩様々な光が溢れかえる。
居間は広かった。最初からすでにマリアと私たちの距離は20メートルくらいあった。マリアが後ろに飛び跳ねて私たちから距離をとる。居間とその横の部屋を仕切る壁はすでに全壊していた。2倍くらいの広さになった居間をマリアが端まで飛翔する。距離は35メートルほどに広がった。私たちはその35メートルを挟んで射撃戦を行っていた。
マリアが弾幕を展開した。スペルカードではないが、弾幕ごっこで使うのと同じ弾幕である。マリアの弾幕がパチュリーや美鈴、私の弾幕と衝突して、閃光と轟音を生む。ちかちかと痛む目を必死に開けてマリアを見据える。耳はもう轟音に慣れてしまっていた。ただ内臓を揺らす衝撃に息が漏れる。
さらにマリアの右手に魔力が集まる感覚――――
私たちの弾幕の一群が四散する。やはりマリアは防御に破壊の能力を使用してきた。
これはいける。
現在私たちは確実にマリアに対して優勢だった。再びマリアが破壊の能力は発動した。だが、お姉さまが運命を書き換えることで、マリアの周囲の空気を爆発する。突然の衝撃にマリアがひるんだ。マリアは慌てたのか、さらに右手の『目』を潰そうとした。だが、やはりお姉さまの能力に阻まれ、攻撃は失敗する。
マリアが10の破壊の力を使い切った。
右手に魔力が集まる気配はない。
やはりマリアが同時に破壊できる対象の数は10が限界らしい。
マリアの破壊の能力はリロードに入っていた。
「お姉さま!」
私が叫ぶと、お姉さまは右手に握っていたグングニルを構えた。
しかし、マリアの右手から閃光が放たれる。
その閃光はお姉さまの右足に命中した。
「ぐっ……………………」
お姉さまがうめいて構えを崩す。
閃光はどうやら弾幕ごっこで使うものと同じらしい。お姉さまの脚は破壊されることはなかった。痛みに耐え、お姉さまが再びグングニルを掲げる。
「てぇぇぇい!!」
お姉さまがグングニルを投擲した。
投擲と同時にマリアの能力の最充填も終了する。
リロード完了まで5秒。私より2秒ほど遅い。
お姉さまのグングニルは確実にマリアの頭を捉えていた。
もはやマリアの能力が発動したとしても、グングニルを破壊することはできない。
――勝った!!
私たちは勝利を確信した。
――――だが、
「え!?」
甲高い金属音とともに、グングニルが回転しながら、宙を舞っていた。
もちろん、マリアの頭には傷一つない。
「弾かれた……………………?」
パチュリーが呆然とした声で呟く。
手で弾いたのではない。マリアは全く身体で防御しようという姿勢を見せなかった。
だが、私はグングニルが弾かれる直前、
マリアの右手に魔力の電流が発生したのを感じていた。
「空気を破壊した……………………?」
私は唖然としてしまった。
マリアは破壊の能力で自分から進んで空気を破壊したのだ。マリアはお姉さまの運命操作でことごとく自分の狙った対象ではなく、居間の空気を破裂させることしかできなかったが、今回は自分の意志で大気の爆発を起こしたのだった。グングニルを捉えることはできないが、自分の周りの空気を捕捉することは造作もない。グングニルの飛翔する軌道を読み、そこを通る空気を破壊することで、グングニルを弾いたのだろう。
何ていう戦闘センスだ……………………
私は舌を巻き、ただ沈黙するしかなかった。
だが、それどころではない。
お姉さまは今、運命操作を展開していないのだ。
マリアの右手に再び魔力が集まる。
見えない死の恐怖に心が凍る。
「ぐ……………………!!」
お姉さまが急いで運命操作を展開した。一番近くにある因果律に無理矢理、世界を接続させる。
曲げられた因果律に従って、残っていた壁が爆散した。
居間が完全に消滅する。もはや窓の桟さえ残っていない。居間であった空間は完全に外界と繋がっていた。ドアも粉微塵になり、居間の有様が廊下から完全に丸見えだった。
今日が曇りで本当に良かったと思う。
まだ今の時間は昼間だ。正午をちょっとすぎたくらい。冬の太陽は高くはないが吸血鬼の身体に有害であることは確かだった。まあ、本当のところをいうと、真夏の日差しを浴びても一時間や二時間では私たちは死んだりしないのだが。
日の光を浴びたため、少し肌が痛い。お姉さまも不快そうに顔をしかめていた。
だが、
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!!」
マリアが絶叫した。物凄い形相だった。マリアは慌てふためき、転ぶようにして廊下へと逃げる。私たちも慌ててマリアの後を追った。
「どういうことよ、パチュリー!? 何でマリアが突然逃げ出すのよ!?」
お姉さまが飛翔しながら、パチュリーに訊いた。パチュリーも飛行してマリアの背を追いつつ、それに答える。
「日の光を浴びたから逃げたのよ! 防衛機制が働いてるから、吸血鬼の本能に従ってね!」
パチュリーは忌々しそうに目を細める。
「それよりまずいわよ! このままだとマリアは紅魔館中を破壊しながら逃げ続けることになるわ!」
マリアは逃げ出した勢いで、廊下を高速で飛翔していた。止まろうという考えはないらしい。
「どこかに誘導するとかできないんですか?」
美鈴が言う。お姉さまは首をかしげた。
「……………………確かに、どこか逃げられない場所に追い詰めたほうがよさそうね。それもできるだけ大きな部屋で――――となると」
「大ホール?」
パチュリーが言った。大ホールとは紅魔館の真ん中にある一番大きな部屋だ。部屋というよりは施設といったほうが正しいかもしれない。外の世界でいうと体育館くらいの大きさがあり、何かしらの行事やパーティーを開くときに使われていた。確かにあの場所は十分に広いし、ホールの扉を閉鎖すれば、マリアを閉じ込めることもできるかもしれない。しかし、お姉さまは首を振った
「あそこはメイドたちの避難場所になってる。とてもじゃないけど、使えないわ」
「じゃあ、残っているのは……………………」
パチュリーが私を一瞥する。お姉さまも私のほうを見ていた。私はうなずいて答えた。
「私の『遊戯室』だね」
「……………………皮肉ね。結局は地下室で決着をつけないといけないなんて」
お姉さまは苦笑した。だが、地下の『遊戯室』なら地上に被害を及ぼすこともあるまい。壁も頑丈で大ホール並みに広いし、決戦にはもってこいだった。
「あとは、誘導する方法ね…………」
パチュリーが呟くと、お姉さまはつまらなそうに答えた。
「ここは気に食わないけど、吸血鬼の習性を利用しましょう……………………」
お姉さまがそう言ったところで、咲夜が現れた。
「お嬢様、こちらにいらっしゃったのですか!?」
咲夜は息を切らしていた。メイドたちの避難が終わって急いで駆けつけてきたらしい。
お姉さまは咲夜を見て不敵に笑った。
「いいところに来てくれたわね、咲夜。ちょっと、紅魔館の『緊急工事』をお願いしたいんだけど、聞いてくれるかしら?」
私とお姉さま、パチュリーは逃走するマリアを追い続けていた。
マリアは私たちの周囲の空気を爆発させながら廊下を飛んでいた。どうやら先ほどの戦いで空気を破壊することを学んだらしい。マリアは振り返らず、でたらめに空気を爆発させている。そのため、お姉さまは飛行体制からグングニルを投擲することができなかった。たとえ投げたとしても、爆発の乱気流に呑まれてマリアに到達することさえ無理だ。私たちのスペルカードも同じだった。激しく振動する大気の中では、弾は真っ直ぐに飛んでいくことさえ不可能なのだ。私たちもパチュリーの防御壁に守られていなかったら、マリアを追跡することすらできなかっただろう。
マリアは周回魚のように、現在私たちがいる階、3階をぐるぐると回っていた。本当に本能だけで動いているらしい。壁を壊して外に出ようという気はないようだった。もちろん、このままではマリアを地下室まで誘導することは不可能だ。だが、お姉さまが咲夜と美鈴に頼んだ『緊急工事』が進めば、マリアは恐らくこちらの思うとおりに動いてくれるだろう。
ズシン――――、ズシン――――、
紅魔館が音を立てて揺れていた。
もちろん、『緊急工事』の音である。
マリアが曲がり角を曲がる。私たちもマリアを追って角を曲がった。
――――視界一面に、幻想郷の山々の風景が広がった。
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!!」
マリアがつんざくような悲鳴を上げて、すぐ脇にあった階段を下ってゆく。私たちも倣って2階へと進む。
『緊急工事』――――
それは言葉通りの意味である。
咲夜が美鈴を時間の能力を使って移動させながら、美鈴が紅魔館の壁を破壊。できた穴から漏れてくる光でマリアを地下室へと誘導させる試みだった。
どうやら成功したらしい。マリアの光への怖がりかたは異常だった。いや、吸血鬼の本性はこんなものなのかもしれない。それはともかく、お姉さまらしい強引な手法である。紅魔館自体を破壊して道を作るなんてことをするとは…………。今月は咲夜が会計処理で目の下に隈をつくることになるだろう。本当に親子そろって従者に迷惑をかける人達だった。まあ、私も人のことは言えないのだが。
そのまま1階に続く階段を下りればいいのに、マリアは2階の廊下に飛び出した。どうやら2階の壁も壊さなければならないらしい。パチュリーが簡易式の通信機で咲夜に伝える。
「マリアは2階の西側の大廊下を北に直進中。工事お願い」
『……………………了解しました』
咲夜の返事は渋々といったものだった。きっと、掃除も咲夜がするんだろうなぁ。
再び、ズシン――――、と紅魔館が揺れた。咲夜と美鈴は私たちのルートを先回りして、壁を壊しているのだ。
二又の道に出た。マリアが私たちの意図している方向とは違う道に進もうとする。
「……………………そっちは違うわ」
パチュリーが日符『ロイヤルフレア』で廊下を焼いた。『ロイヤルフレア』の光に怯えたマリアは進行方向を修正し、また飛翔を続けた。
逃走している間もマリアの攻撃は止まない。というより激しさを増していた。空気だけでなく、廊下の床も壁も天井も無作為に破壊している。顔に向かって飛んできた破片を手で払う。マリアは半狂乱になって逃げていた。
何を間違えたか、マリアは自分の前の廊下の壁を破壊した。
壁から日光がもれ、マリアの身体を照らす。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!」
再びマリアが断末魔のような悲鳴を上げる。
胸が張り裂けそうだった。
お姉さまも耐えるように唇をかみ締めている。
マリアの暴走は止まらない。もはや滅茶苦茶だった。マリアは手当たり次第に目に見えるものを破壊していった。また自分の進行方向にある壁を爆発させる。穴から差した日光がマリアの顔に当たった。マリアの顔が苦しげに歪む。
「もう嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!」
マリアが叫ぶ。もはやそれは泣き声だった。マリアは逃げながら泣いていた。泣きながらも逃げるのをやめなかった。
「もう嫌! 嫌なの!! 怖いの嫌ぁぁああ!!」
無差別な爆発はそれでも続いた。何度も何度も自分の飛ぶ方向の壁をマリアは破壊した。そのたびにマリアは自分の肌を焼く日光に悶える。マリアはあらん限りの力をこめて叫んでいた。
「お母さま…………お母さま!! …………お母さまお母さまお母さまお母さま!!」
マリアは必死で私たちのことを呼んでいた。無意識の逃走の中、マリアは迷子のように泣き喚いていた。
「お母さま、どこにいるの!? ねえ、助けて、お母さま!!」
マリアは一体何を見ているのだろうか。マリアはどんな気持ちで逃げ続けているのだろうか。マリアは暴走する意識でどれほど恐怖を感じているのだろうか。
一瞬、マリアの顔が見えた。マリアの頬は涙に濡れていた。うつろな、何を見ているのかもわからないような目で涙を流していた。
「お母さま、どこ!? どこにいるの!? 助けて! 私を助けて! 嫌だよ死にたくないよ! 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない…………………………………………!!」
もういいだろう、と私は思う。
もう十分じゃないか、と私は誰に言うでもなく思った。
どうしてマリアがこんなに苦しむ必要があるのか。マリアは何も悪いことをしていないじゃないか。
「お母さま、助けてよぉ……………………レミリアお母さまぁ、フランお母さまぁ…………………………………………」
私たちを罰するのはかまわない。マリアを望んでこの世に生んだのは私たちだ。
だけど、マリアは何もしてないだろう。
昔から言うじゃないか。
子供は親を選べない、と。
たまたまマリアは私とお姉さまの子供で、それで破壊の能力を受け継いでしまって――――
だけど、それはマリアの責任じゃない。
誰も望んでこんな能力をもっているんじゃないんだ。
私もマリアもこんな能力、欲しくなかった。
マリアも地下室に行きたくなんかなかった。
私も地下室に閉じ込められたくなかった。
こんな呪われた力、誰が欲しがるものか。
こんな恐ろしい力、誰も望んじゃいない。
それでも――私たちはマリアを地下室に送らなければならなかったのだろうか。
マリアを説得しようとしなければよかったのだろうか。
マリアの暴走を恐れて、ただ孤独に閉じ込めればよかったのだろうか。
私たちの幸福は――――
間違いだったのだろうか。
「絶対助けてみせるわ……………………」
お姉さまが呟いた。お姉さまの頬には涙が伝っていた。お姉さまはマリアのほうを――――だが、決してマリアではないものを強く激しく睨んで言った。
「私の可愛い子供を失ってたまるもんですか……………………!!」
再び視界が開けた。マリアが再度、悲鳴を上げる。私たちの思惑通り、マリアは一階へと進んだ。私たちもマリアの破壊の能力による爆発を避けながら、一階に続く階段を越える。
「あとは、私のほうから誘導しないとね……………………」
パチュリーが呟く。日符『ロイヤルフレア』が手に握られていた。
『ロイヤルフレア』がマリアの行く手を焼き払う。マリアは『ロイヤルフレア』の炎を避けながら、火が上がっていない方へと飛んでいく。私たちも遅れずにマリアの後ろを追いかけ続けた。
もうすぐだ。
もうすぐ、地下室への扉にたどり着く。
この次の廊下を曲がったところに地下室の階段に続く扉がある。
その先、どうやってマリアを気絶させるかも問題だが、恐らく何とかなるだろう。
そう思って、廊下を曲がると――――
一人の妖精メイドがその先にいた。
彼女は恐怖に染まった顔で廊下に座り込んでいた。腰を抜かしてしまっているのか、動けないようだった。
逃げ遅れか――――
マリアが彼女を見た。そして、当然のようにマリアの右手に魔力がこもる。マリアがそのメイドの『目』を捉えた瞬間だった。
いくら妖精が不死といえど、破壊の能力で概念的に破壊されれば生きていられない――――
そうなれば、マリアは人殺しだ。
吸血鬼が何を言うか、と笑う人もいるだろう。
だが、人間、妖怪双方からも恐れられる私たちとて、無駄な殺生はしたくないのだ。
まして、マリアみたいな小さくて優しい子にそんな罪を背負わせるなど――――
「この!」
お姉さまが運命操作で妖精をマリアの攻撃から守った。遠く離れた場所で爆発が起こる。
だが、マリアの妖精への攻撃は一度ではすまなかった。恐慌状態のマリアは振り返り、改めて妖精を見た。
そして、同時に、今まで背を向けていたため見えなかった私たちの姿が、マリアの目に映った。
マリアの右手に大きな魔力が集まる。
再び、お姉さまが能力で『私たちが破壊される運命』を『空気の分子が破壊される運命』に変更した。
だが、このとき、お姉さまは誤解していた。
マリアの右手に『私たちが破壊される運命』以外のものが握られていたことに気づかなかったのだ。
「なっ!?」
お姉さまの周りの空気が爆発する。爆風でできた乱気流に巻き込まれてお姉さまが床に叩きつけられた。
マリアは私たちだけでなく、空気の『目』も混ぜて破壊したのだ――――!
まだだ。まだマリアの『目』は残っている。
最初の妖精の攻撃で1発。その1発はリロードが間に合ったから、ノーカウント。その後の私、お姉さま、パチュリー、妖精の『目』で4発。最初のお姉さまの周囲の空気を破壊したのが5発。だから、合わせて9発。
まだ1発残っている――――!
「危ない――――!」
お姉さまの前に飛び出す。マリアの冷たい目が私を見ていた。
マリアの右手に私の『目』が捕捉されたのがわかった。
直後、
上半身と下半身が分離したのを感じた。
私は血を吐きながら、ぼんやりと思った。
――――破壊の力を使われるのって、こんな感じなんだ。
こんなに痛いもんなんだ、と。
薄れゆく意識の中、私は死の足音を聞いていた。
ああ、死ぬのか。
これが死か。
死ぬの、怖いな――――
私の意識は闇の中に落ちていった。
暗い。
薄暗い。
床にはひびが入っている。
壁にもひびが入っている。
天井にもひびが入っている。
天井にぶら下げた明かりはぼんやりと明るかった。
ここはどこだろう?
ここはいつだろう?
私は誰だろう?
私は膝を抱えて床に座り込んでいた。
物悲しい気分で私はじっとしていた。
やがて気づく。
ああ、ここは地下室だ。
ああ、ここは500年くらい前だ。
ああ、私はフランドール・スカーレットだ。
ん?
最初と最後のはいいが、真ん中のはなんだ?
500年前っていつが基準なんだ?
そこで私は再び気づく。
そうか、私は夢を見ているのか、と。
だが、ただの夢ではない。
これは私の記憶なのだろう。
ずっと昔。
私が閉じ込められてから、まだ数年しか経っていないころ。
そうか、私はひょっとしたら走馬灯を見ているのかもしれない。
じゃあ、私はやっぱり死ぬのか。
……………………でも、どうなんだろう?
走馬灯を見ても死ぬとは限らないらしいし。
まあ、どっちだってそう変わりそうになかった。
しかし…………………………………………
何で私はこんなに悲しいんだろう。
500年前の私はどうしてこんなに悲しいのだろう。
死の間際にいるからか?
……………………いや、そうではないらしい。
どうやらこの悲しみは、本当に500年前の私の記憶に起因するもののようだった。
500年前の私は何もすることなく、座っていた。
ただ無性に寂しかった。
ひたすらに悲しかった。
私は思い出していた。
495年間で錆び付いてしまった感覚を取り戻していた。
孤独とは――――こんなに寂しく悲しいものだったのだ。
こんな地下室に閉じ込められているのは、とてもつらいことだったのだ。
何もすることがない。
何処にもいけない。
誰も傍にいてくれない。
もはや涙も枯れ果てていた。
私は涙を流すこともできず、ただじっと孤独に耐えていることしかできなかった。
いつ終わるんだろう。
いつ私は外に出られるんだろう。
いつ私は皆といっしょになれるんだろう。
答えの出ない問題について、私はぐるぐると考え続けていた。
言葉を呟いても、泣き喚いても誰も聞いてくれない。
私の苦しみをわかってくれる人はいない。
私は泣くことしかできなかった。涙を流さず、泣いていることしかできなかった。
私を閉じ込めた人達――――
私のお父さまとお母さまは私のことが嫌いだったのだろうか。
私が邪魔でこんな地下室に置き去りにしたのだろうか。
そうだよね…………………………………………
邪魔だよね…………………………………………
こんな危険な能力をもっているんだもの、邪魔でないはずがないよね…………………………………………
ああ、何でこんな力をもっているんだろう。
こんなつもりはなかったのに。
こんなはずじゃなかったのに。
私は自分を呪い続けた。
私は能力を恨み続けた。
私は親を――――
親を――――――――
――――どうしたのだろうか?
私はお父さまとお母さまをどう思ったのだろうか。
思い出せなかった。
どうして思い出せない――――
私が悩んでいると、地下室は白い光に包まれていった。
次の世界では、私は部屋の中にいた。
私の前には二人の人間――――いや、吸血鬼か? がいた。
男性と女性だ。
男性は困った顔で女性をなだめ、女性は涙を流して男性を問い詰めている。
「あなた、どうしてフランを――――あんな小さいフランを地下室なんかに閉じ込めなければならないのですか?」
「私だってそんなことはしたくない。だが、臣下たちが不安がるのだ。フランドールの能力はあの幼い心には危険すぎるのだよ」
その声を聞いて、私は思い出した。
この男性は私のお父さまで、この女性は私のお母さまなのだと。
ならば、これは地下室に入るよりさらに前の記憶なのだろう。
お母さまは手で顔を覆った。
「だからって、フランを犠牲にしろとおっしゃるのですか? フランが幼いなら、それはまだ成長する余地があるということでしょう。フランを、道を違えることのないように育て上げるのが私たちの仕事なのではないのですか…………」
お父さまはお母さまの肩を掴んだ。
「我が妻よ、聞いてくれ。フランの能力は先日レミリアを危険な目にあわせたばかりだ。怪我がなかったから良かったものの、またあんなことがあったらと思うと、私は胸が張り裂けそうなのだよ。もちろん、フランとてレミリアを傷つけようなどとは思っていないだろう。しかし、フランの力は否がおうにも周囲を巻き込んでしまう力なのだ。私には城主としての義務があるし、レミリアの父親としての義務もある。だからこれしか選択がないのだよ」
お母さまは声を張り上げて泣いた。
「そんな…………なら、私もフランと同じ地下室に入れてください。あの子をあんな寂しい場所に独りにするなんて思うと、私は、私は……………………」
お父さまが片手で目を拭った――――お父さまは涙を流していた。
「どうか、私をあまり困らせないでくれ、我が愛よ。おまえを失うのもレミリアを失うのも、私にはとても耐えられないのだ。もちろん、フランドールを失うことも――――。だが、誰も死なないで済むのが最善なのだとすれば、本当にこんな選択しかないのだ」
お父さまの目がこちらを向いた。お父さまは泣きながら私に語りかけた。
「ああ、愛する娘、フランドール。許してくれなどとは口が裂けても言うまい。私はおまえをこれから地下室に閉じ込める。私は私の大事なものを守るためにおまえを独りにしなければならない。大事なものの中にはもちろんおまえも含まれている。おまえも私にとっては大切な宝なのだ。だが、私はおまえを地下深くに閉じ込めなければならない。どうか、自分を責めないでくれ。おまえは何も悪くないのだ。悪いのだとしたら、それは私であり――運命なのだ。頼むから自分を責めてくれるな。もしおまえが自分を憎むことがあったら、私は本当に悲しみの涙に溺れて死んでしまうだろう」
大丈夫だよ、と私は思った。
大丈夫、私はお父さまやお母さまのことが大好きだから。
私はお父さまやお母さまに何でもしてあげられるから。
私は独りでも平気だから。
だから、そんなに泣かないで――――
だが、お父さまとお母さまは涙を流し続けた。
いくら私が泣かないでと言っても、やめてくれなかった。
どうして、泣くのをやめないのか。
当時の私は不思議に思うしかなかったが、
今の私はようやくそのことに気づけたのだった。
できるわけがない。
泣き止むことなんか、できるわけがない。
娘を地下室に閉じ込めるなんて――――できるわけがない。
だが、やがて、その景色も眩い光に包まれていった。
気づくと、私は誰かの腕の中にいた。
手や足を動かしてみようとするが、上手く動かない。
顔を上げると、とても大きな女性の顔がすぐ近くにあった。
お母さまだった。
きっとお母さまが大きいのではない。
私が小さいのだ。
おそらく、このときの私は赤ん坊なのだろう。
赤ん坊の私はお母さまの腕に抱かれているのだ。
私を見下ろすお母さまの顔はとても優しく微笑んでいた。
「おお、何て可愛い子だろう」
男性の声が聞こえた。お父さまだった。
お母さまにだっこされている私の顔をお父さまが覗き込む。
お父さまも幸せそうに笑っていた。
「こんなに可愛いもの、見たことがない」
お父さまはにっこりと笑って呟いた。
「私もですわ」
お母さまも嬉しそうにうなずく。
「あら、じゃあ、私はどうなのかしら?」
幼い女の子の声が聞こえた。お父さまとお母さまが声のしたほうを向く。
二人は女の子を姿を見つけると、また楽しそうに笑った。
「おや、レミリア。拗ねているのかね?」
「拗ねてなんかいませんわ、お父さま」
女の子はそう言うが、その声は明らかにいじけているものだった。
ああ、そうか――――
この人が、私の――――――――
「こっちに来てよく見てみなさい、レミリア。あなたの妹は本当に可愛い女の子よ」
お母さまは椅子に座って腕を低く下げた。レミリアと呼ばれた女の子が私の顔を覗き込む。
「ふーん……………………」
女の子は口を少し尖らせて、私を顔をじっと見ていた。お父さまが優しげに笑んで、女の子に言った。
「どうだ。おまえもずっとこの子を楽しみにしていたのだろう?」
「まあ……………………確かに可愛いわね」
女の子は渋々とうなずいた。やがてこらえきれなくなったのか、ぷっと吹き出して、女の子はくすくすと笑った。
「憎たらしいくらいに可愛いわ」
女の子は私ににっこりと笑ってみせた。
「こんにちは、フランドール。私があなたのお姉さまのレミリアよ。ちゃんと覚えておきなさい」
――――お姉さまの笑顔はとても嬉しそうだった。
「……………………様? ール様……………………? フランドール様……………………?」
私の名を呼ぶ声に、私は意識を取り戻した。
視界はぼんやりとしていたが、やがてその霧も晴れる。
最初に視界に飛び込んできたのは美鈴の顔だった。
美鈴はいつもの呑気な笑顔ではなく、緊張に張り詰めた顔で私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「…………お目覚めになられましたか……………………」
美鈴がほっとしたように息をつく。私が身体を動かそうとすると、美鈴は片手で制した。
「動かないでください。一応傷はふさがったとはいえ、フラン様はまだ消耗されていらっしゃるのですから」
私は自分のお腹の辺りを見た。服は破け、臍が外から丸見えになっていた。傷らしい傷は見られなかった。
「私はお腹の辺りで真っ二つになったと思うんだけど……………………」
私が尋ねると、美鈴はうなずいて答えた。
「そうです。全く死んでてもおかしくない傷でした。脊椎まで完全に切断されて、上半身と下半身が別のところに転がっていましたからね。治療が後少しでも遅れていたら、命を落とされていたかもしれません」
私は周りを見渡す。すぐ近くに、隠されるように存在している小さな扉が見えた。地下室の階段へと続く扉だ。どうやら私はまだマリアの攻撃を受けて倒れた場所にいるらしい。
――好都合だ。
私は素早く立ち上がった。確かに腹の辺りが鋭く痛むが、こんなものは平気だ。美鈴はそれを見て、慌てて私を押しとどめようとする。
「何をしているのですか!? 瀕死の重傷を負ったばかりなのですよ! 後のことは私たちに任せて、フラン様はお休みなっていてください!」
私は美鈴を見ず、地下室への扉を睨んだ。そして、訊く。
「私はどれくらいの時間、倒れてた?」
「……………………二時間です」
「二時間か…………長いね。お姉さまたちは今、何を?」
「…………お嬢様、パチュリー様、咲夜さんが地下の『遊戯室』でマリア様と戦闘中です……………………」
「二時間ずっと戦ってるんだね……………………」
「…………………………………………はい」
「じゃあ、」
私は一歩前に進んだ。足は意外にしっかりしている。確かにお腹の傷がまだダメージになっているようだが、今からでも十分戦えるだろう。しかし、そんな私を美鈴は後ろから抱きとめて言った。
「行ってはなりません。今度こそフラン様は殺されてしまいます」
「………………………………………………………………」
「霊的な破壊もあったのですよ。魂が傷つくことはなかったとはいえ、フラン様の力は万全ではありません。今のフラン様では、最善の状態の半分の力も出せるかどうか怪しい。それなのに今戦おうとすれば、本当にマリア様に殺されてしまいます」
「……………………そんなことないよ」
「え?」
「そんなことはない」
私は確信をもって美鈴に言った。
「マリアは私たちを殺そうとしていない」
「………………………………………………………………」
「もし、本気でマリアが私を殺そうとしていたなら、もう私は治療の余地もなく、灰になってるだろうからね。簡単なんだよ。マリアは『私の存在』自体を壊せるんだから。もしマリアが『私の存在』を破壊していれば、私はもうこの世にはいないんだよ。だけど、マリアはそうしなかった。それどころか、『私の身体』も破壊しようとしなかった。マリアが壊したのは『私のお腹』だけなんだよ。いや、たぶん、それも偶然だったのかもしれない。きっとマリアは『私の身体の一部』だけを壊せば十分だったんだと思う。でも、パニックに陥っていたマリアは私の一番狙いやすい場所――――『お腹』を破壊してしまったんだろうね」
そう。私が死を覚悟したように、マリアの破壊の能力が本気で私を殺しに来ていたなら、私は走馬灯を見ることもなく現世から消えていたのだ。しかし、今私はこうして生きている。私は地面に二本の脚で立っていることができた。これはマリアが決してこちらを殺そうとしているわけではないことを証明していた。
マリアはただ逃げているだけなのだ。
恐怖から。
死の恐怖から。
迫害される恐怖から。
孤独に取り残される恐怖から。
私は、さっきまで見ていた夢のことを――――遠く過去の記憶を思い出していた。
もしかしたら、マリアがこんなにも激しく暴走しているのも結局のところ、パチュリーが言ったように積み重なったストレスが爆発しただけなのかもしれない。マリアは自分の能力のことを調べたのだろう。そして、どれだけ自分の能力が恐ろしいものかわかったことだろうか。どれだけ自分の存在が周囲から忌避されるものだと知ったことだろうか。
マリアは怯えていたのだ。
自分が皆から迫害されることを。
自分が孤独になってしまうことを。
自分が母親に嫌われて捨てられてしまうことを。
だから、あのとき、マリアは母親に助けを求め続けた。自分の前に現れない母親を呼び続けた。死にそうになって――――こんなに怖いのに、それでも助けに来てくれない母親を乞い続けた。
そして――――
私もそうだった。
私も地下室の中で孤独に耐えていた。
私も地下室の中で泣き喚いていた。
私も地下室の中で親が迎えに来るのを待っていた。
私の場合は代わりにお姉さまが迎えに来てくれたけど。
今のマリアには私たちしかいない。
私たちが迎えに行ってやるしかない。
それに――――
私はようやく知ったのだ。
私は望まれた子だったということを。
マリアと同じように私も、お母さまやお父さま、そしてお姉さまに望まれて生まれてきたのだった。
今までずっと忘れていた。
こんな危険な能力をもつ私だけど――――
それでも皆からこの世に生を受けたことを祝福してもらったのだ。
そして、私を地下室に閉じ込めたお父さまやお母さまがどれだけつらかったかということを――――
私だけではなかったのだ。
私だけでなく――――皆つらかったのだ。
親の心子知らず――――。
私は500年以上かけて、お父さまとお母さまがどれほどつらかったかを知ったのだ。
私は嫌われてなどいなかったのだ。
私は愛されていたのだ。
気づくのが少し遅かったかもしれないけど、
まだ取り返しはつく。
親と子供の気持ちをようやく知ることのできた私だから、
本当に今こそマリアを救ってやれる。
「マリアが待っているんだ」
私は言った。声には自然と力がみなぎっていた。
「私が来るのをマリアは待っているんだ。今、マリアを助けられるのは私たちだけなんだ。マリアに本当のことを教えてあげられるのは私たちだけなんだ」
「………………………………………………………………」
「美鈴、私を放して。私はマリアのところに行きたいんだ」
美鈴は私を後ろから抱きしめたまま黙っていたが、やがて呟いた。
「……………………似ていますね」
「え?」
「…………本当にそっくりですね」
私が振り返ると、美鈴は懐かしそうな顔で私を見ていた。美鈴は優しく微笑んで言った。
「レミリアお嬢様も、フランお嬢様も――――お館様と奥方様に本当にそっくりだ」
「……………………お父さまとお母さまに?」
「はい。素晴らしい方々でした」
美鈴は本当に嬉しそうに笑っていた。
「お館様と奥方様に、私はとてもお返しできないほどの恩を受けております。お優しい方々でした」
美鈴はわずかに悲しそうな目をするが、私に穏やかに語りかけた。
「確かにフランお嬢様を地下室に閉じ込められたのはお二方でしたが、たくさんの努力をされました。たくさんの気遣いをされていました。何とかしてフラン様の能力を落ち着かせることができないかと常に考え続けていらっしゃいました。フラン様を地下室に入れた後も、何とかしてお救いできる方法はないかと心を悩ませていらっしゃいました。お二人は決してフラン様を諦めようとはなさいませんでした」
「本当にそっくりです」と、美鈴は微笑んだ。美鈴の片目から涙がこぼれた。
「確かに、フランお嬢様とレミリアお嬢様は、あのお二方のご息女なのですね」
美鈴が涙を拭いながら言った。そして、私を放して立ち上がり、にっこりと笑った。いつもの美鈴の笑顔だった。
「わかりました。フラン様を信じましょう。ですが、この美鈴もごいっしょいたしますゆえ、決して無理はなさらぬよう――――」
そう言って、美鈴は深々とお辞儀をした。頭を上げるとき、美鈴は私にウインクしてみせる。
私は心の中に燃えるように強い力が湧き上がるのを感じていた。
私と美鈴は、地下室に向かう扉を強く睨んだ。
階段を降りると、二つある扉のうち、遠くの側の扉が開いていた。遊戯室の扉だ。
開錠の魔法を使って開けたのではなく、強引にぶち破られたものだった。おそらく、マリアが破壊の能力で粉砕したのだろう。
廊下を駆け抜け、倉庫の扉をくぐる。
地獄が広がっていた。
頑丈なはずの壁はところどころが崩れ落ち、床は破壊しつくされて瓦礫の山になっていた。平らな場所はほとんど残っておらず、立つのに苦労しそうだ。天井も削られているらしく、上から降ってきた思われる巨大な岩塊がところどころ床に突き刺さっていた。
およそ七十メートル先――――
マリアが肩で息をしながら、宙に浮いていた。
私たちから数メートルだけ離れたところにお姉さまたちがいた。
お姉さまと咲夜の息も荒い。パチュリーはごほごほと咳き込みながらマリアを睨んでいた。
互いに力を消費し切っているらしい。二時間も戦い続ければ当然だった。
マリアの右手に再び魔力が走る。
お姉さまが運命の能力を行使して、見えない死を回避する。
大気が悲鳴を上げ、床に転がっている瓦礫を飛び散った。
咲夜が時間の能力でマリアの後ろに移動した。しかし、乱気流のせいか、上手く接近できないようだ。咲夜がナイフを投げるが、やはり、空気の渦に巻き込まれてマリアには到底届かない。
お姉さまはグングニルを握っているが、マリアの攻撃を回避するのに必死だった。運命を操作しながらも、グングニルを投擲するが、激しい空気爆発に弾かれてしまう。
パチュリーは咳き込みながらもスペルを唱えていた。しかし、その弾幕は密度が薄く、もはや目くらましの役には立っていなかった。マリアは冷たい目でパチュリーの弾幕を睨むと、すいすいと弾の間を飛翔して避けた。
完全にマリアのほうが優勢、というわけではないが、お姉さまたちはマリアに対して決定打を与えられずにいた。暴走状態のマリアにはまだ余力がある。しかし、お姉さまたちはほとんど疲労し切っていた。このまま長期戦が続けば、魔力的に優位なマリアを倒すことはできないだろう。
勝負をつけるとしたら、今だ。
美鈴が『セラギネラ9』を取り出す。私も『スターボウブレイク』を構えた。私と美鈴はマリアに向かって飛び出す。
「お姉さま!」
私がお姉さまに向かって叫ぶと、お姉さまは大きく目を見開いた。だが、すぐに私たちの意図に気づいたらしく、右手にグングニルを再構成する。そして、大きく吼えた。
「咲夜、パチュリー、合わせなさい!」
咲夜とパチュリーも私たちを見て、一瞬驚いたようだったが、彼女たちもお姉さまの言葉に呼応してスペルカードを手に取った。
マリアが私たちに右手を向ける。マリアの右手に集まる魔力を確認する。神経を集中させ、私はマリアがいくつの『目』を捕捉しようとしているか、感じ取る。
1、2、3…………。
その間にスペルカードを展開させ、マリアに全員でありったけの弾幕を叩き込む。この世の色全てを集めたような弾幕がマリアに殺到した。
5、6、7…………、10!
マリアが全弾をかけて私たちの迎撃に出た。お姉さまが運命の能力を働かせ、マリアの手のひらに集まる『目』の因果に関与しようとする。
マリアの『目』は私たちにそれぞれ1つずつ、そして、残りはマリアを襲撃する弾幕を捉えていた。後はお姉さまが遠く離れた場所に私たちを捉えた『目』だけを移動させればいい。マリアの能力で弾幕が消えたところで、グングニルを投擲すれば、マリアはグングニルを迎撃できず、直撃は避けられないだろう。
ようやく私たちの勝ちが見えた。
マリアの右手の魔力が高まる。
一秒後に起こる爆発の轟音に身構えた。
………………………………………………………………
………………………………………………………………
………………………………………………………………
ん?
何で爆発が起こらない?
お姉さまを振り返ると、お姉さまは信じられない、という顔をしていた。
「…………攻撃をキャンセルした?」
私がばっとマリアのほうを向くと、無表情のマリアがにやりと笑ったように見えた。消えたはずの魔力が再び右手に集中する。
お姉さまが慌てて運命操作を開始する。
だが、違う。
マリアの手の中の『目』はまた私たちのものではなかった。
私はマリアの意図に気づき、叫ぶ。
「天井だ!!」
直後、高く轟音がし、
おびただしい数の巨大な岩石となった天井が頭上から迫ってきた。
……………………どうやら生きているらしかった。
まあ、吸血鬼だから、この程度じゃ死なないけど。
それより心配なのは咲夜とパチュリーだった。あの二人の身体は頑丈じゃない。この岩石流を直接身体に受ければ、簡単に死んでしまうだろう。
身体の上にのっている岩をどけて立ち上がる。
遊戯室は、一面瓦礫の山だった。
もう以前の遊戯室の面影はなくなっていた。
お姉さまもちょうど私と同じように、岩を押しのけて這いずり出てきた。頭から血が流れ、白いドレスを赤く痛々しく染めていた。お姉さまは近くの岩塊に手を突いて立ち上がった。
咲夜は――――無事だった。岩の下敷きにはなっていない。だが、脚から血が出ていて、岩の間にうずくまっていた。とても戦えそうになかった。
パチュリーは魔法による防御壁を構成して落石を防いでいた。だが、ごほごほと咳き込み、そのシールドが消える。ほこりと塵でいっぱいのこの遊戯室では、喘息もちのパチュリーはもう魔法が唱えられないのだろう。魔力的にも限界が来ているようで、七曜の魔女は息を荒くしながら岩の上に膝をついた。
美鈴を探したところ、岩の間から腕が出ているのが見えた。動いているから、ちゃんと生きていて、何とか脱出しようと試みているようだがどうにも抜け出せないようだった。
そして、
黒い異形の翼を広げて浮かんでいるマリアを見る。
私はマリアを見、ぼろぼろになった遊戯室を見て、マリアを止めようと戦って傷ついて、もう戦えそうもない皆を見渡した。
そして、最後にもう一度、マリアを見つめた。
マリアが右手を開いた。
どうやら、まだ続けるらしかった。
マリアの目がわたしたちを向く。感情のこもっていない目でマリアはわたしたちを見る。
否。
マリアの目はどうしようもないくらい悲しそうだった。諦めと絶望の中で、悲しそうに光っていた。
だが、マリアは独りで戦い続けることをやめなかった。
………………………………………………………………。
ほんと、これ以上どうしようというのさ。
もういい加減にやめない?
マリアにだって良いことないでしょ?
それでも続けたいの?
全く手間がかかるなぁ。
私は思わずため息をついた。
マリアのおかげで紅魔館はぼろぼろだよ。
廊下の床はずたずただし、壁だってあちこち穴が開いてる。まあ、いくつかはこっちが勝手に開けたんだけど。
瓦礫の山はどうするのさ? 妖精メイドたちはあまり働かないから、ほとんど咲夜が掃除することになるんだろうね。本当に咲夜が不憫だよ。それに修理はどうするの? どこかの業者に頼むとして、相当お金がかかると思う。たぶん、それもまた咲夜を悩ませるんだ。会計簿と睨み合いながら、徹夜で作業する咲夜の姿が目に浮かぶよ。いくら咲夜が優秀だからって、そんなに困らせたら可哀想でしょ?
パチュリーは一度不機嫌になると、なかなか機嫌を治してくれないって知ってる? ほんと大変なんだから。司書の小悪魔がまたびくびくするのかな。パチュリーは本当は優しいんだから、そんなに怒らせてはいけないよ。それにこんなにほこりを立てたりしちゃダメでしょ。パチュリーは喘息もちなんだから。あんなに苦しそうに咳き込んでるじゃない。パチュリーは病人なんだから、労わってあげないと。あなたも普段お世話になってるんでしょ。パチュリーのことも大事にしてあげなくちゃね。
美鈴だって大変なんだよ。昼寝ばかりしてるって言うけど、それはまあ、骨休みみたいなもんだよ。今まで紅魔館の門を守ってきたのは美鈴なんだ。雨の日も雪の日も。百年は優に超える歳月の中、美鈴は紅魔館を守ってきたんだ。彼女には感謝しなくちゃ。そんな人の上に岩を降らせるなんて、本当にしちゃいけないことだよ。
お姉さまは怒ると怖い、って言ったのはマリアだよね? よくわかってるじゃない。だったら、お姉さまを怒らせるようなことはしちゃいけないよね? 悲しませるようなことはもっとだめだよね? あなたのお母さまなんだから、大切にしなくちゃ。マリアは親孝行な子だってことはわかってるから、できるはずだよ。それなのに、お母さまを大切にしないどころか困らせるなんて、ちょっと感心できないよね。見てごらんなさい。レミリアお母さまは必死に立ってる。マリアを助けてあげようとして死に物狂いで戦っている。あんなにいいお母さまなんだから、ときどき変なことをするけど、もっと大事にしてあげなさい。
それにマリア。何でこんなことになる前にもっと早く相談してくれなかったの。そんなに未来の私たちは頼りなかったのかな。あなたのお母さまはあなたの話を聞いてあげることもできないのかな。きっとそんなことはないと思うよ。マリアはまだ子供なんだから、私達にもっと甘えていいんだ。どうしてそんなこともわからないの? 育て方を間違えたかな。自分で勝手に考えて、その挙句、自分で暴走して皆を傷つけて、明らかにマリアが悪いよ。お母さまはすごく悲しい。マリアはこの悲しみをわかってくれないのかな? お母さまは本当に悲しいよ。
ああ、全く。
本当にマリアは困った子なんだから。
本当にマリアは悪い子だ。
だけど、
だけどさ――――
マリアはどう思うかはわからないけど――――
それでも、私は――――
私とお姉さまは――――
あなたのことが可愛いんだよ。
皆を困らせるような子でも、
皆を殺しそうになっても、
マリアが可愛いんだよ。
それだけはわかってほしいな。
………………………………………………………………。
しかし、どうしたものか。
マリアに殺されるのだけは免れなくてはならないんだけど。
もう勝ち目がないのはわかるけど、さすがに死ぬわけにもいかない。
マリアが自分の手で私達を殺す――――その事態だけは避けなければならない。
お姉さまが運命の能力を使う。遠くの場所で爆発が起こった。
今は運命干渉の力でマリアの攻撃を防げているが、もう長くはないだろう。お姉さまも限界が近い。ここでお姉さまが倒れれば、破壊の力を防ぐ手段がなくなる。そのときが私たちの最後だった。
「フラン」
お姉さまの声だった。息も絶え絶えにお姉さまは言った。
「あなた、傷は大丈夫なの?」
こんなときでも私を心配してくれるお姉さまが少し可笑しかった。私はお姉さまを安心させるために笑ってみせた。
「うん。心配かけてごめんね。ちゃんと私のお腹はくっついてるから大丈夫だよ」
「…………本当に?」
「平気だって。それとも、私なんかいないほうがいいかな?」
お姉さまは心配そうに私を見つめていたが、やがて微笑んで首を振った。
「いいえ、とても心強いわ――――」
そして、二人で、マリアを見る。再び右手の能力が発動するのを感じた。
「――――フラン、こんなことをあなたに頼みたくないけど…………」
お姉さまはマリアに視線を向けながら言った。
「いざというときは、マリアの右手を破壊しなさい」
「――――――――――――――――」
「こんなことはしたくないけど、本当に最後の手段だわ。私たちは死ぬわけにはいかない。私の運命操作も限界が近いわ。私が力を使えなくなれば、マリアの攻撃を回避する手段は、あの右手を破壊するしかない」
――吸血鬼だから、また再生するでしょうし、大丈夫じゃないかしら?
お姉さまは冗談めかして、そう言った。
私もそれは考えたが、嫌な予感がしたのだ。
あの右手はただの右手ではない。今、マリアの攻撃手段は右手の破壊の能力に集中している。すると、あの右手は象徴的な意味において、マリアの暴走そのものなのだ。妖怪は象徴や記号といった概念的なものに左右される生き物だ。そうでなくても、今、マリアの無意識の唯一のよりどころはあの右手である。右手を失ったマリアの無意識がより激しく恐慌することが簡単に予想できた。あの右手を破壊することでマリアの暴走は止まるどころか、とりかえしのつかないものになってしまうのではないかと私は恐れていた。
私たちはマリアに殺されるわけにはいかない。
だが、マリアの精神を破壊してしまうわけにもいかない。
他に方法はないか。
マリアの右手を破壊せずに、マリアの破壊の能力を避ける方法は――――
私は考える。
破壊の能力から物理的に逃がれることは不可能だ。視界に入るもの全てが攻撃の対象になる。逃げるからにはマリアの視界外に逃げなければならなかった。だが、それではマリアに有効な攻撃を加えることはできないだろう。逃げるだけならともかく、私たちはマリアを気絶させなければならないのだ。マリアを攻撃するにはマリアの視界内に入る必要があった。
ならば、破壊の能力の『目』を捕捉できなくさせる――
いや、無理だ。どんなものにも『目』はある。『目』は厳然としてすでに存在するのだ。破壊の力はどんな『目』でも捉えることができる。破壊の力とその『目』の関係性を絶つ方法はあるか? …………ない。私はそんな方法を知らないし、あったらすでにパチュリーが試しているだろう。
では、『目』をマリアの右手の上に、移動させられないようにすればいいのではないか。
まさか。破壊の力はまさに『目』を自分の手のひらに移動させることこそがその意味なのだ。魔法の磁石で『目』を吸い寄せようとでもいうのか。
………………………………………………………………。
む?
『目』を吸い寄せる?
………………………………………………………………。
そうだ。
そうだ。これだ。
何でこれに今まで気づかなかった。
どうして私こそがこの方法に気づかなかったんだろう。
もっと早く気づいていれば、こんな面倒なことにはなっていなかったのに。
………………………………………………………………。
結局は私もちゃんと自分に向き合っていなかったということなのだろう。
全く――――本当に愚かな母だった。
マリアのことを叱れないではないか。
私は自嘲しながら、
自分の右手を見た。
「お姉さま」
私はお姉さまに呼びかける。運命の力で破壊の力を回避しながら、お姉さまは私のほうを向いた。私は笑っていた。お姉さまはそんな私の顔を見て、目を丸くする。私はかまわず、お姉さまに訊いた。
「ねえ、お姉さま。その運命の能力で空気の爆発を避けることはできないの?」
お姉さまは怪訝な顔をしつつも答えた。
「できるけど、優先的に私たちに向けられる能力を避けているから、どうしてもミスが出てしまうわね。連射されると、かわしきれないものもあるわ」
「じゃあ、優先的に空気の『目』を書き換えることができれば、避けることはできるわけだよね?」
「ええ、空気の『目』だけなら100パーセント避けられるでしょうね」
私はその言葉を聞いて、勝利を確信した。
私は翼を大きく広げて、お姉さまに言った。
「じゃあ、お姉さま、空気の『目』だけ、お願いするね」
「え?」
「私たちの『目』はもう守らなくていいから」
何を言っているのか、わからないという顔をお姉さまはした。そんなお姉さまに、私は自信満々の笑顔で、自分の右手を掲げてみせる。お姉さまはぽかんとしていたが、やがて、私の意図に気づき、表情をぱっと明るくした。
「そうか…………! 確かに、そういう使い方もあるわね…………!」
私は力強くうなずいてみせる。お姉さまは不敵な笑顔を浮かべた。弱々しいところのない、いつものお姉さまだった。私は大きく翼を揺らして、宙に飛び上がる。目を真っ直ぐにマリアに向けて、飛行体制をとった。
「それじゃあ、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」
私はマリアに向かって突撃した。今ならグングニルよりも速く飛べる気がした。
突撃してきた私に対し、マリアは後ろに飛び退りながら、破壊の能力を展開した。
マリアの右手に、私たちの――お姉さま、パチュリー、咲夜、美鈴、私の『目』が集合し始める。同時に他の『目』が握られているのにも気づいた。おそらく空気の分子の『目』だろう。一直線に飛行してくる私を迎撃するためだ。
お姉さまの能力が発動したのを背後に感じた。お姉さまの力は私の言った通りに空気の『目』だけに向けられていた。
マリアの右手に魔力が走る――――!
お姉さまの能力は発動していない。
だが、私たちは『壊れ』なかった。
マリアもそれに気づいたのか、無表情のマリアの顔が驚きに歪み、慌てたように自分の右手を見た。
遠くの場所で爆発が起こる。お姉さまは私と約束したとおり、私の障害になる爆発をすべて取り除いてくれた。おかげで私はマリアのところに真っ直ぐに飛んでゆくことができる。
再び、マリアの右手に力がこもる。
だが、もう私たちの『目』はマリアの右手には入ってこなかった。
当然だ。
私たちの『目』は全部、
私の右手の中にあるのだから。
破壊の力は普通、二段階で作動する。
第一段階、『目』を右手に集める。
第二段階、右手の上の『目』を潰す。
だが、この二つの段階は連動して起こるわけではない。
マリアが途中、自分の能力をキャンセルしてみせたのも、破壊の能力を第一段階で打ち切ったためだ。
破壊の能力の根本は万物に存在する『目』を自分の右手の上まで移動させられることにある。極端なことを言えば、潰すのはおまけなのだ。相手の最も壊れやすい点を、いつでも破壊できる場所にもってくることが、破壊の能力の意味なのだ。
だから、破壊の能力を使ったとしても、対象が必ずしも壊れるわけではない。
そして――――
どんなものを壊すときも、『目』は一つしか展開しないものだ。仮に私のことを殺すとして、その壊し方はその『目』の数だけある――『私の存在』、『私の身体』、『私の頭部』、『私の心臓』……………………――が、その中で同時に壊せるのは一つだけなのだ。なぜなら、右手に私の要素を含む『目』を複数出現させると、その『目』同士が干渉して、『目』自体が不安定になってしまうからである。だから、私を殺そうとすれば、その中で一つだけ『目』を選び、その『目』だけを破壊しなければならない。もちろん、私の心臓の『目』を破壊した後、頭部の『目』を破壊することはできるかもしれないが、そのときでさえ、心臓の『目』の残滓が頭部の『目』に影響を与えて、私の頭部を破壊するのに時間を置かなければならなくなるだろう。
このことから次のことが言える。
私たちの一人ずつに、一つの『目』しかターゲッティングできないということだ。
さらに、この事実に、破壊の能力を第一段階までで制御できるという事実を加えるならば、
私は破壊の能力で、自分の右手に皆の『目』を確保することで、マリアの破壊の能力から私たちを完全に守ることができる、という結論が得られるのだ。
確かに、私の破壊の能力がターゲッティングできる数は、マリアの数よりは少ない。精々7か8、多くて9だろう。マリアの10には届かない。
だが、私はマリアに、破壊の能力の『目』の捕捉時間、『目』の破壊時間、さらにはリロード時間において優れているのだ。マリアが『目』を捕捉するのに0.8秒、破壊するのに0.2秒かかるところを、私は0.4秒と0.1秒で行うことができる。魔力の再充填もマリアの半分以下、2秒でやってみせよう。
そして、これは同じ『目』に対する吸引力において、私がマリアに遥かに勝っているということである。
マリアの捕捉しようとする『目』を、私が先にこの右手に掌握することで、マリアは絶対に私たちを傷つけられない。
マリアは絶対に私たちを破壊できない。
私は生まれて初めて、自分の能力に感謝していた。
マリアが焦る。
マリアの無意識が焦って後ろに飛ぶ。
私は全速力でマリアに近づいてゆく。
空気が爆発するが、お姉さまの能力のために、もはや私をかすることさえない。
マリアが右手の破壊の能力を起動させる。
だが、虚しく空気を破壊するだけで、私たちは傷一つ負うことはない。
マリアの笑顔を思い出す。昨日、地下室で私たちを壊したくないといった、マリアの悲しい笑顔を思い出す。自分の大切なものを自分の右手で壊してしまうのが怖いと言った、マリアの言葉を思い出す。
大丈夫だよ。
もうあなたの手の中には、そんな恐ろしいものは載っていない。
マリアの大事なものは――――
ちゃんとお母さまが持っててあげるから――――
だから、安心して――――
私たちはようやく自由になれたのかもしれなかった。
自分の手で自分の大切なものを壊してしまうという恐怖から。
もう怖がることはないのかもしれない。
自分が誤って大切なものを壊そうとしても、傍にいてそれを止めてくれる人がいるのだから。
私が誤ればマリアがきっと止めてくれる。マリアが間違えれば私が絶対に叱ってあげる。
ああ、やっぱり、私にはマリアが必要なのだ。
マリアはもう無表情ではなくなっていた。マリアの本能には余裕などなかった。いくら迎撃しようとしても、破壊することのできない敵の接近に怯えていた。マリアが慌てて大きく翼を羽ばたかせ、さらに後ろへ飛んで私から逃げようとする。
だが、遅い。
私から逃げるには遅すぎる。
私のドロワーズを被って逃げるお姉さまのほうがまだ速い。
私は左手を思いっきり振りかぶって、
マリアの頬を――――強く張った。
派手に暴れていたようだが、実際のところ紅魔館の被害はあまり大きくなかった。被害が大きかったのは2階と3階。妖精メイドたちの部屋の壁が壊れてしまったりしたが、マリアを確保した後すぐに工事が進み、晩御飯の時には最低寝るのには困らないくらいに補修されていた。こういうときの妖精メイドたちの働きぶりは見事だった。もっと普段から働けば、咲夜もそんなに苦労しないですむのにと思う。壊れた廊下や居間の修理は『星熊建設』に頼むと咲夜が言っていた。最近、地下から地上に出てきた新しい企業らしく、価格の割りに仕事が迅速で丁寧だと評判だという。社長が鬼で、その誠実な人柄のため、会社も優良企業になっているそうだ。
三時間程度しか戦っていなかったのだが、丸一日戦争をしていた気分だった。マリアが気絶したのが午後3時くらいだった。もうとっくに夜になっていると思っていたのだが。
マリアはあの後、ずっと眠り続けていた。パチュリーが言うところによると、防衛機制は身体の限界を考えずに力を引き出している状態だという。おそらく、魔力を使いすぎたのだろう。私の張り手で気絶した後、すやすやと寝息を立ててぐっすりと眠っていた。
咲夜の脚の怪我は思っていたより酷いものではなかった。骨折もなく、美鈴の気功による治療で午後にはいつもどおり動けるようになっていた。咲夜はメイドたちを指揮し、瓦礫の山を片付けたり、壊れた部屋の壁を修理していた。普段と違い、よく働くメイドたちを見て苦笑していた。
パチュリーは戦いが終わるとすぐ、図書館の自室のベッドに送られた。小悪魔から渡された喘息治療薬の吸入器――――河童と永遠亭が共同開発したという――――を口に当てて、ものすごい不機嫌そうな顔をしていた。話しかけても、眉をしかめるだけで何も言おうとしなかった。去り際に、晩御飯には顔を出してね、と言うと、パチュリーはしかめっ面をしたが、一応うなずいてくれた。
美鈴はマリアをお姉さまの部屋に運び、咲夜の治療を終えると、自分の部屋に帰っていった。思い出してみれば、美鈴は夜勤のシフトを終えて寝るところだったのだ。美鈴は晩御飯まで寝ると言っていた。美鈴にごめんと謝ると、いえいえ、を手を振りながら笑ってくれた。昔はこんなことよくありましたから――――美鈴はあくびを噛み殺しながら、そう答えた。本当に美鈴はどんな生き方をしてきたのだろう。何か、今回私すぐに瓦礫に埋まって役に立ってませんでしたね、いやはや格好悪い――そう言って、美鈴は眠そうな顔で去っていった。
私はお姉さまの部屋で、マリアの寝顔をずっと見ていた。私の部屋は何一つ壊れていなかったが、何となく私はマリアの傍にいたかったのだ。飽きることはなかった。お姉さまにそっくりなマリアの寝顔はとても可愛かった。髪をなでてやると、気持ちよさそうに息を漏らした。いったいマリアはどんな夢を見ているのだろう。穏やかに眠る様子からは悪い夢を見ているわけではなさそうだ。これからもマリアが悪い夢を見ることがありませんように――――私は祈らずにはいられなかった。
そして、お姉さまは――――
「――――むにゅ?」
マリアが目を覚ました。7時だった。ちょうど夕ご飯の時間だった。
「おはよう、マリア」
私はマリアに微笑みかけた。マリアはしばらく、ぼーとしていたが、急に慌てたように自分の右手を見る。
「私の右手は!? 私の能力の暴走は!?」
どうやらマリアは紅魔館の中を暴れまわったことを覚えていないようだった。私はマリアの頭を撫でて言った。
「もう大丈夫だよ」
「………………………………………………………………」
「もう何も心配することはないよ。マリアはもう何も怖がらなくていいんだよ」
私がマリアの頭を撫で続けていると、マリアはきょとんとしていたが、やがて納得したようにうなずいた。そして、マリアは私の胸の中に抱きついてきた。マリアの細い腕が私の背中に回される。私もマリアの小さな背中を抱きかかえた。
「……………………たぶん私は暴走していたんだろうけど、よく覚えていないの」
「……………………うん」
「……………………私はずっと夢を見ていたの」
「……………………うん」
「…………物凄く怖い夢だった。恐ろしい怪物に追いかけ回されている夢だったの。逃げても逃げても怪物は追ってきて、誰も助けてくれなくて。お母さまたちも――――いなくて」
マリアの言葉が掠れてきた。声に涙が混じっていた。
「呼んでも、呼んでも――――お母さまたちは来てくれないの。何度呼んでも、お母さまたちは助けてくれないの。すごく怖くて、すごく寂しくて、すごく悲しくて……………………」
「……………………うん」
「…………だけどね、」
マリアが顔を上げた。頬が濡れていた。だけれども、マリアは微かに笑っていた。
「最後に誰かが助けてくれたような気がするの」
「…………………………………………うん」
「誰かが、怪物なんかいないよ、って言ってくれたの。怪物なんかそもそもいなかったんだよ、って教えてくれた気がするの。そうなのかなって思って、後ろを向いたら、怪物なんかいなかった。そしたら、怖いのも、寂しいのも、悲しいのも、皆なくなって。それで何だか優しい気持ちだけが残って……………………」
マリアの目から涙が溢れ出した。マリアはしゃくりあげながら、私に尋ねた。
「……………………私は地下室なんかに行かなくてもいいんだよね?」
「……………………うん」
「…………私は皆といっしょにいていいんだよね?」
「…………うん!」
「私はお母さまたちに愛されているんだよね?」
「うん!」
私が力強くうなずくと、マリアはまた私の胸の中に飛び込んできた。私たちはしばらくそのまま抱き合っていた。私の右手は優しくマリアの頭を撫でていた。
食堂に行くと、もうパチュリーと小悪魔、美鈴がいた。厨房からいい匂いが漂ってくる。今日の夕飯はカレーだった。
マリアは三人を見ると、申し訳なさそうな顔をして固まってしまった。だが、三人が微笑んでマリアのことを見ていた。
「大丈夫だよ」
私はマリアに微笑んでみせた。
「ちゃんと謝れば、皆許してくれるから」
マリアは私をじっと見つめていたが、やがて三人のほうを向いた。マリアは深々と90度に頭を下げて、ごめんなさい、と謝った。
私が促すと、マリアは椅子に座った。最初にマリアに話しかけたのは、あの一言もしゃべってくれないほどに不機嫌な顔をしていたパチュリーだった。パチュリーは微笑んでマリアに話しかけていた。
私は厨房を覗いた。
「どう? お姉さま、できた?」
お姉さまはカレーを作っていた。お姉さまは昨日のマリアの言葉を覚えていた。
――暴走を起こしてしまったマリアはたぶんすごく落ち込むだろう。
お姉さまはそう言って、厨房に向かった。お姉さまは生まれて初めて――最低でも数百年ぶりの料理に挑んだのだった。
出来上がったカレーの前でお姉さまは納得いかないという顔をしていた。咲夜は苦笑して、カレーの鍋を見ている。
私はお姉さまが作ったというカレーを、おたまで少しだけすくい、指につけて口の中に運んだ。
「………………………………………………………………あんまり美味しくないね」
お姉さまの作ったカレーはお世辞にも美味しいとは言えなかった。はっきり言うと、不味い。とても食べたいと思う味ではなかった。指についたのをなめてみてこの味だから、おそらくスプーンで食べたら相当不味いだろう。ちゃんとレシピ通りに作ったのだろうか。
「まったく。私が違うと言っても、お嬢様は聞いてくれないんですから……………………」
咲夜がため息をついた。お姉さまは人差し指と人差し指をつんつんとぶつけて呟いた。
「だって、こっちのほうが美味しいと思ったんだもん……………………」
「運命操作でこのカレーが美味しくなるように書き換えられないの?」
私が訊くと、お姉さまは頬を膨らませて、無理よ、そんなの、と言った。私は苦笑しながら、咲夜に訊いた。
「ひょっとして、今日のご飯って、お姉さま特製カレーだけ?」
私の問いに咲夜が安心させるように微笑む。
「ご安心ください。私が代わりを作ってありますから」
私は安堵のため息をついた。それを見たお姉さまはつまらなそうに頬を膨らませた。
咲夜が台車にカレーライスを乗せて、食堂のマリアたちが座っているテーブルの前まで来た。お姉さまと私もいっしょだ。
お姉さまと咲夜の姿を見たマリアは立ち上がり、二人にちゃんと頭を下げて謝った。咲夜は微笑んで何も言わずに一礼を返し、お姉さまは、気にしてないわ、と笑った。
私達がマリアと供にする最後の食事は和やかに進んだ。咲夜のカレーはいつもどおり美味しかった。皆、今日の戦闘でエネルギーを使ったのか、何杯もお代わりをした。咲夜は微笑んで、何度も何度もお皿にカレーライスをよそった。
「やっぱり咲夜さまのカレーは美味しいね」
マリアは笑って言った。もうマリアは悲しそうな顔をしてなかった。
「そうね、美味しいわね…………」
お姉さまはマリアの言葉に暗い声で答えた。どうやら自分のカレーが不味かったのを相当気にしているらしい。咲夜からいろいろと聞いたが、お姉さまはレシピに書いてあることにいちいち突っかかりながら料理していたという。数百年ぶりに料理する人が、何をしているんだと思ったが、まあ、お姉さまらしいと言えばらしかった。
「お姉さまもマリアのためにカレーを作ってたんだけどね…………」
私のさりげなく言った言葉にマリアの目が輝いた。それを見て、私はしまった、と思う。マリアは興奮したように言った。
「ほんと? お母さまのカレー食べてみたい!」
「え、でも、とても食べられたものじゃないよ」
「そうなの? でも食べてみたいなぁ」
「よしたほうがいいと思うな。本当に不味いんだから」
「それでも食べたいな、レミリアお母さまのカレー」
「うーん、『あらゆるお腹と精神を破壊する程度の能力』を持つカレーなんだけど、本当にいいの?」
「……………………妹なら、もうちょっと弁護しなさいよ、フラン」
「いいの! いいからもってきて!」
マリアはにっこりと笑って言った。咲夜が苦笑いをして、厨房に向かう。やがて、湯気の立ったカレーをもってきて、マリアの前に置いた。
「これが、この時代のレミリアお母さまのカレー……………………」
マリアの目がきらきらと光っていた。
「ああ。ついでに言っておくと、たぶん、お姉さまが作った初めてのカレーだから、あんまり期待しないでね」
私は忠告するが、マリアは聞いていないようだった。「へえ、しかも初めてなんだ」とマリアはうきうきとスプーンを手に取った。見た目は悪くないのだが、味はよくないカレーだ。マリアが後悔しないか心配だった。
マリアがスプーンをカレーに差し入れてすくい、口に運ぶ。
大きく開けた口の中にお姉さまのカレーが入っていく。
マリアは口を閉じると、カレーをよく咀嚼した。
数秒後、マリアはうつむき、黙りこくってしまった。
テーブルに座っている一同が沈黙して、マリアの様子を見守る。
沈黙に耐え切れなくなったのか、お姉さまが慌てたようにマリアに尋ねた。
「ど、どうしたのかしら、マリア? そんなに不味かったかしら?」
慌てぶりからすると、お姉さまはかなり傷ついているようだった。さすがに言い過ぎたかな、と少し反省する。だが、このお姉さまが70年後には美味しいカレーを作るというのだから、世の中不思議なものである。そう思いながら、私はマリアに改めて視線を向けた。
ぽたん、――――と、水がカレーの上に落ちた。
「あはははは」
と、マリアが笑った。マリアはとても嬉しそうに笑った。涙が目からぽろぽろと落ちていた。私とお姉さま、他の皆もマリアのきらきらとした笑顔を見ていた。
「あんまり美味しくないけど、」
マリアは涙を零しながら言った。
「お母さまのカレーだ。このカレーはお母さまの味だ」
マリアはにっこりして、目を丸くした私とお姉さまに言った。
「やっぱり、私はお母さまたちの娘なんだ」
マリアは私たちと瓜二つの顔で目を細めていた。
私たちは、心の中から全ての重苦しいものがさらさらと流れて去ってゆくのを感じていた。
屋上で私たちは『迎え』を待っていた。
マリアはお姉さまにおんぶされて眠っていた。
やはり疲れていたのだろう。夕ご飯が終わるとマリアはまた眠ってしまったのだった。
マリアはお姉さまが作った不味いカレーを最後まで食べた。本当にマリアは良い子だった。私達にはもったいないほど良い子だった。
お別れを言わせたほうがいいだろうか――――そう思って起こそうとした私とお姉さまを、皆は制してとめた。また、未来でも会えるから。皆はそう言って、マリアの穏やかな寝顔を笑ってみていた。
静かな夜だった。雲の隙間から、きらきらと月の光がこぼれ、冬の透き通った空気を満たしていた。月はその明るい恩恵を、幻想郷に存在するすべてのものの上に差し伸べていた。
すっと、空間に切れ目ができた。
空間の隙間が音もなく開く。
そこから現れる一人の女性――――
空間の妖怪、八雲紫だった。
いや、『70年後の』八雲紫のほうが正しいのだろう。
「どうやら、上手くいったようね。いいえ、そもそも上手くいくのは決まったことだったわね」
紫は、いつもの胡散臭い笑いではなく――――とても優しげな笑みを浮かべて言った。
お姉さまは紫の笑顔を軽く睨んで、訊いた。
「どうして、この時代にマリアを送ったの?」
その質問を聞いて、紫が扇子を開き、口を隠す。
「そもそも、あんたがマリアをこの時代に来るように差し向けたんだろう? マリアはフランの地下室を見に来たと言ったけど、何もこの時代じゃなくてもいいはずだ」
そこまで言って、お姉さまはいや違うな、と訂正した。
「どうして、この時代にマリアが送られてくる因果になっているのか、と訊いたほうがいいかもね。どうせ、あんたは最初からマリアがこの時代に来て何をするか知っていたんでしょう? あんたはそれをわかった上で、マリアを唆した。この因果にはあんたの意志が関わっている。あんたはどういう意志を持って、マリアを私達に会わせたんだ?」
「…………………………………………気まぐれですわ」
紫は扇子の向こうで笑った。だが、それは決して不快な笑いではなかった。
「これから私はあなたたちにお世話になるからね。まあ、サービス、とでも思っていただこうかしら?」
「実を言うとですね」、と紫は扇子を閉じて、にっこりと楽しそうに笑った。
「我がボーダー商事が、八意薬局と紅魔館に依頼して作った不妊治療薬ですけれど、その薬で一番最初に子供をお作りになったのは、あなたたち姉妹――――いえ、あなたたち夫婦なのです」
「………………………………………………………………」
「お客様第一号への特典だと思ってくださって結構ですわ。代金は要りません。よく考えると、スペルカードを取り入れた最初の異変――――紅霧異変でもあなたたちにお世話になりましたわね――――お得意様にサービスをするのは商売人として当然のことですわ」
「…………ふん、相変わらず、何を考えているのかわからない奴だわ。お節介というか、胡散臭いというか……………………」
お姉さまはそう言いながら、紫に背中のマリアを渡した。紫は眠っているのを起こさないように静かにマリアを受け取った。紫はマリアの寝顔を眺め、優しく笑った。
「本当に可愛い子ね……………………。がんばり屋で優しくて良い子で――歳が下のお母さまに似たのかしら? 上のお母さまにはとても似てないわね」
「余計なお世話だよ」
お姉さまは苦笑して言ったが、やがて考えるような顔をして、紫に尋ねた。
「……………………未来でマリアはどんな暮らしをするんだ?」
その言葉に紫は目を細めた。紫もしばらく考えるように沈黙したが、言った。
「それはこれまでの15年について? それともこれからのマリアの生について?」
「両方だ」
お姉さまは即答する。紫はじっとお姉さまの目を見つめていた。だが、ふっと笑って言った。
「…………答える必要がありませんわ。あらゆる意味で――――必要がない」
「…………そうか」
お姉さまはうなずいた。紫は空間の隙間に手をかける。
「それでは、ごきげんよう、過去のスカーレット夫妻。そちらの私とよろしくお付き合い願いますわ」
「…………最後に一つ聞かせなさい」
紫が身体の半分を隙間の中に押し込む。マリアの腰から下が、70年後の世界に入った。
「…………何かしら? レミリア・スカーレット」
「あなたはマリアと仲が良いのかしら?」
その質問に紫は微笑んだ。少し嬉しそうな笑顔だった。
「まあまあ、かしらね? 大人たちは私のことを胡散臭い、と言って相手にしてくれませんけど、この子は私のことをおばさまと呼んで慕ってくれますわ。お姉さま、と呼んでくれないのがわずかに心残りですけど。まあ、歳の離れた友人というところかしら?」
「まったく、こんな奴に懐かなくてもいいのに」
お姉さまはそう言ってため息をついた。そして、
紫に向かって、頭を下げた。
「マリアをお願いするわ」
「………………………………………………………………」
「どうか、マリアと、友人として遊んでちょうだい」
「……………………よく言ったものね、」
紫は愉快そうに微笑んだ。心の底から愉快そうだった。
「子供は親の背中を見て育つ、と言うけど、親は子供がいるから育つ、とも言う。本当によく言ったものだわ」
「心配することはないわ」と、紫は笑みを大きくする。
「何も心配することはない。マリアは多くの友達を作るでしょう。家族に囲まれて幸せに暮らすでしょう。たくさんの笑顔に囲まれて――――自らも笑顔でいるでしょう。何一つ心配することはないわ」
最後に紫は私を見て言った。
「フランドール・スカーレット。あなたは私に聞きたいことはないのかしら?」
私は少し考えて答えた。
「…………何一つないよ」
「そう? じゃあ、マリアに伝えたいことは?」
伝えたいことか――――
そうだな――――
「…………もう少し、私達に甘えなさい、と。それから、いつでも遊びに来ていいからね、とも――――そう伝えてください」
「……………………かしこまりましたわ」
その言葉を最後に、マリアを抱っこした紫の身体が完全に隙間の向こうへ入った。
空間の裂け目が消える。
マリアは70年後の世界に帰っていった。
私とお姉さまはしばらく、紫とマリアが消えた場所を、ぼーと見ていた。
何というか――――すごく寂しかった。
「行っちゃったね…………」
私の言葉にお姉さまはゆっくりとうなずいた。
「ええ、行ってしまったわね」
お姉さまは私のほうを向いて微笑んだ。
「55年後にまた会えるんだから、気を落とすことはないわ」
お姉さまは優しく笑っていた。私も笑うことにした。
私とお姉さまは屋上から出る階段へと歩き出した。
「さて、これからどうしようか?」
お姉さまが言った。
「どうするって、寝るだけでいいでしょ? 皆疲れてるし」
これから紅魔館の掃除でもしようというのだろうか。いや、それは考えられなかった。ずぼらなお姉さまである。自分から進んで掃除をするわけがない。ひょっとしたら、マリアとの戦闘で頭でも打ってしまったのだろうか。
「何でそうなるのよ。私が掃除するわけないじゃない」
お姉さまは唇を尖らせて言った。良かった。いつものお姉さまだ。まあ、仮にも紅魔館の主人なんだから、お姉さまが掃除をするわけがなかった。
じゃあ、他に考えられるのは……………………
「まさか、料理の練習でもするの? 確かにお姉さまは70年後には美味しいカレーが作れるようになっているらしいけど、いくら何でも早すぎるでしょ?」
しかし、マリアの言葉は本当なんだろうか。あのカレーの味ではお姉さまのカレーが美味くなることなんて到底信じられないのだが。まさか、マリアの味覚は実は狂っていたりするとか。信じたくないが、その可能性を否定することはできなかった。そして、これから練習すると言うことは、その味見に私がつき合わされるということだろうか? 『あらゆるお腹と精神を破壊する程度の能力』である。そのことを考えると、70年後のお姉さまの料理のために、どれだけの屍の山が必要だったか、想像するに余りあるものがあった。
「だ、か、ら、…………どうしてフランはそんな方向にばかり考えるの? もっと違うことがあるでしょう」
「違うことって何さ?」
「もう、決まっているでしょう」
お姉さまは私より数歩先に進んだ。そして、くるっと回って私のほうに振り向いて、極上の笑顔を浮かべる。
「子供がいないのよ。いるのは夫婦だけ。なら、やることは決まっているでしょう?」
お姉さまは妖しく微笑んだ。
「ここから先は大人の時間よ」
「………………………………………………………………」
「昨夜の続きでも、いかがかしら?」
………………………………………………………………。
どうして、この人はこんなに恥ずかしいのだろう。本当に恥ずかしい。もっと慎みというものを持ってもらいたい。
まあ、そういうところを含めて。
私はお姉さまのことが大好きなんだけど。
私とお姉さまはじっと見つめあった。お姉さまの紅い瞳が私を見つめる。私の緋い瞳がお姉さまを見つめる。
私はお姉さまに魅かれてゆく。お姉さまは私に惹かれてゆく。
どちらからともなく、二人の間が縮まっていく。
お姉さまの手が私の頬に添えられる。その手は私の首筋を舐めるように撫でて、私の小ぶりな顎にかかる。
くっと、私の顎が微かに持ち上げられる。
お姉さまの美しい顔が近づいてきた。
私は目を閉じて身構える。
お姉さまの息を感じられるくらいに、二人の唇と唇が近づいて――――
私達は、ぷっと噴き出した。
私達は笑った。腹がよじれるくらいに笑った。お姉さまが目に涙をためて言う。
「やっぱり、まだちょっと時期が早いわ」
私も腹を抱えながら、答える。
「時期が云々と言うより、何か私達のガラじゃないよね」
「全くだわ」
マリアが私達の子供だということは信じられた。
だが、私とお姉さまが結婚する、ということはなかなか信じられなかった。
私がお姉さまに向けるこの感情は何なんだろうか。何と名づけたらよいのだろうか。
恋? 姉妹愛? 家族愛? 友情?
どの言葉をとっても当てはまらなかった。
もし本気でお姉さまが私を欲しいと言ってくれるなら、私は喜んでこの身を差し出すだろうし、
このまま友達みたいにしていよう、と言われても私は何の違和感もなく、うんとうなずける気がしたのだった。
本当にこの気持ちは一体何なのだろうか。
まあ、考えるだけ馬鹿らしいのかもしれない。
私はお姉さまに「大好き」と言い、お姉さまは私に「愛してる」と言ってくれる。
その事実は変わりようがないのだから。
私とお姉さまは笑い続けた。この2日間の重圧がなんでもなかったかのように笑い続けた。笑って笑って笑い続けた。
「さて、そろそろ戻りましょうか」
お姉さまが目尻の涙を拭って、そう言った。私はそれにうなずいた。
だが、私はまた気まぐれを起こした。
「ねえ、お姉さま」
「何かしら、フラン?」
「私、マリアが来てから気づいたことがあるんだ」
「あら、何かしら?」
お姉さまは微笑んで私のほうを向いた。私はどきどきしながら口を開く。やはり、この胸の高鳴りがとても心地よかった。
「それはね。私達の関係が『フラレミ』じゃなくて、『レミフラ』だってことさ」
私の言葉にお姉さまはぽかんとした。私はほくそ笑む。やはり私はお姉さまのこの表情を見るのが大好きだった。
「『フラレミ』は私がお姉さまに対してリードする形になるんだったよね。お姉さまは私を幽閉してたから、そのことに負い目を感じている。だから私に対して素っ気無くて、強く出られない。だけど、私はお姉さまが大好きだから、お姉さまにたくさん甘えて、お姉さまをめろめろにしてしまう。…………それもなんかいいけど、やっぱり、お姉さまが素っ気無いってのは嫌だな。私は人付き合いが苦手だから、お姉さまが私のことを構ってくれるのがすごく嬉しい。他の世界の私はどうか知らないけど、この世界の私はこの世界のお姉さまみたいに、積極的なお姉さまが大好きだよ。『フォーオブアカインド』とか、破壊の能力とかはよくわからないけど、私はお姉さまをいじめるなんて嫌だな。いじめられるのは、その…………ほどほどだったらいいけど、いじめるのは絶対嫌だね。この世界の私は絶対にこの世界のお姉さまをいじめない。破壊の能力の痛みも今日知ったことだし、四肢破壊なんて論外だよ、うん。私もバッドエンドよりハッピーエンドのほうが好きだ」
お姉さまはにこにこと笑っていた。優しげな表情で私に微笑みかけてくれていた。
「それで、本題の『レミフラ』だけど、人の気持ちが良くわからなくて、他人を傷つけてばかりいる私を、優しくて素敵なお姉さまが助けにきてくれる話だったよね。私を独占するために幽閉しちゃうのは、あんまり嬉しくないけど、それでもお姉さまがどうしてもって言うなら、考えなくもないよ。少し話がずれたけど、臆病なくせにわからず屋の私をお姉さまは一生懸命、助けようとしてくれるんだよね。妹を心配して戦おうとする姉…………この世にこんなに格好いいものはないよ。スカーレット分がどうだとか、よくわからないけど、私はお姉さまなら何をしても許してあげるよ。もし、私のことを嫌いになっても、私はお姉さまをずっと好きでいつづけるから。だけど、本当にお姉さまみたいな素敵な人が私のことを大好きでいてくれるなんて嬉しいな。お姉さまの髪は北の夜空に輝くオーロラよりも美しくて、お姉さまの顔は薔薇の花束よりも華やかで、お姉さまの瞳は冬の夜空にかかる満月よりも輝いていて、お姉さまの頬は桜の花みたく艶やかで、世界で一番優しい声を紡ぎだす唇は三日月よりも貴くて………………………………………………………………」
お姉さまは目を閉じて私の言葉を静かに聞いていてくれた。私は続けた。
「お姉さまの容姿について褒めてきたけど、お姉さまの本当の魅力は、その心――心の美しさだね。全てのものに降り注ぐ月の光のような慈愛、地獄の炎に炙られても融けることのない冷静な強さ、苔が生えてもその場にじっととどまり続ける岩のような我慢強さ、春のうららかな日差しのような温かさ………………………………………………………………」
私はありったけの想いを言葉にこめた。
「……ああ、もう! 表現するにはこの世の言葉じゃ、とても足りないよ! とにかく、お姉さまは素晴らしいんだ。『フラレミ』も悪くないかもしれないけど、私は『レミフラ』だね。 お姉さま最高!! もうそれ以外、言えることはないよ!」
私は肩で息をしながらも言い切った。お姉さまを見る。お姉さまは幸せそうに微笑んでいた。私も自然に笑顔になる。
「ありがとう、フラン」
お姉さまは私を抱きしめてくれた。
「素敵な言葉を本当にありがとう」
私もお姉さまの身体を抱きしめる。
私、フランドール・スカーレットはこのレミリア・スカーレットに生涯の愛をささげることを誓います。いかなる苦難が立ちはだかり、いかなる不運が襲いかかろうとも、私の愛が消えるときは私の魂がなくなるとき以外にありえません。そして、この右手が――――
この右手が誰かを傷つけないように、私は努力し続けます。私はこの右手を、私の愛するもの以外のためには決して使いません。私はレミリア・スカーレットの誇りと寛容さ、そして私達が彼女と幸福を共にすることを許してくれると信じます。
私はレミリア・スカーレットの幸福をもって、私の幸福とすることをここに宣誓いたします。
私はお姉さまの頬に、小さく口付けさせていただいた。
娘は自分のベッドで目覚めた。
いつものように神格となったメイド長が起こしにやってきた。
メイド長は普段と変わらない様子だった。
娘は不思議に思った。
あれは夢だったのだろうか、と。
娘はメイド長に日付を聞いた。
メイド長が答える。
自分が過去に旅だったときから二日経っていた。
どうやら、自分は本当に過去に行ってきたらしい。
現実感はあったが、目の前のメイド長の様子を見ていると、だんだんと疑わしくなっていった。
食堂で朝食をとる。
今日は習い事は何もないようだった。
今日一日、自由にしていい、とのことだった。
娘は自分の時代に帰ってきてから、まだ母親達に会っていなかった。
だが、母達に会う前に、確かめておこうと思った。
娘は今は倉庫となっている地下室に行った。
片方の母親が昔、閉じ込められていた部屋だった。
地下室は娘の知っている通り、何の変哲もない倉庫のままだった。
だが――――目的はここではない。
娘は倉庫の中の一つの扉を見つめた。
70年前、『遊戯室』と呼ばれていた部屋だった。
娘は70年前の母親に言ったとおり、この部屋に入ったことがなかった。
ドアには鍵がかかっていた。
娘は少し悩んだが、叱られるのを覚悟で能力を使い、ドアを破壊した。
破壊したドアを踏み越え、『遊戯室』の中に入ってみる。
中は瓦礫の山だった。
娘は息を呑んだ。
これこそが証拠だった。
娘が過去の世界で暴走した証拠。
そして、母達が必死で自分を救おうとしてくれた証拠だった。
どうして『遊戯室』が70年前のまま放って置かれているのかはわからない。
だが、この『遊戯室』の姿こそ、まさに生ける証人なのだった。
――――過去に行っても因果は変わらない。
賢者はそう言った。
なら、母達は自分が過去に行って暴走することを知っていたということだろうか。
なら、母達は死にそうな思いをするのをわかっていたということだろうか。
なら、母達はそれを覚悟で自分を生んでくれたということだろうか。
このとき、娘はようやく悟った。
自分は愛されているのだと。
自分は母達に愛されているのだと。
喜びを堪えきることができなかった。
嬉しさを抑えることができなかった。
娘は『遊戯室』を飛び出した。
倉庫となった地下室を駆け抜け、
階段を走って昇る。
娘は全力で走り続け、
母親達のいる居間に飛び込んだ。
――あら、どうしたの、マリア?
お腹の膨らんだ母が椅子に座っていた。
母は娘を見ると、優しく微笑んだ。
娘は息を切らしたまま、母親の胸に飛び込む。
母は少し驚いたようだったが、娘をしっかりと抱きとめて、その髪を撫でた。
娘は母の胸で涙を流した。喜びの涙を流した。
母親は娘の頭を撫でながら言う。
――どうしたの、マリア? 今日は甘えん坊さんね。
ああ、そうか、と母親は気づいた。
もっと私達に甘えなさい、と言ったのは自分だったか。
母は目を細めて、娘を抱きしめた。
――そういえば、マリアは昨日行ってきたのだったかしら?
もう一人の母親が言った。
娘は顔を上げて、その母を見た。そして、力強くうなずく。母は笑った。
――そう。どうだった? お母さまたちは素敵な人たちだったでしょう?
娘はその問いに再び強くうなずいた。
――そうでしょう。そうでしょう。お母さまたちはいつだって素敵なんだから。
母は自慢げに笑っていた。お腹の大きな母は苦笑していたが、その目はとても優しかった。
――ねえ、お母さま。
娘は二人の母に尋ねた。真剣な目だった。
二人の母は微笑んで、娘の問いに応じる様子を見せた。
娘は、もっている全ての勇気を振り絞って、訊いた。
――私はお母さまたちの傍にいてもいいの?
二人の母は満面の笑顔を浮かべて、うなずいた。そうよ、と言って、答えてくれた。
再び、娘が涙を流し始めた。娘が母親に抱きつく。母も娘をしっかりと受け止めた。
娘は母の胸で泣き続けた。
こうして、世界は続いてゆく。
彼女たちは皆と一緒に歩いてゆく。
一喜一憂しながら、
悲喜交々を感じながら、
生き続けてゆく。
とくん――――、と。
妹が皆を励ますように母のお腹を蹴った。
,
娘の苦悩を右手に持つフランドールという構図が母だなあ。
そんな中、
>私のドロワーズを被って逃げるお姉さまのほうがまだ速い。
吹いたよ。
.......最高だ
点数に全てをこめた
レミリアとフランからの愛情、咲夜さんや美鈴、パチュリーと小悪魔からも
愛されているマリアは最後には、どれだけ愛されているのかというのを
知ったときには少し潤みました。
良いですね……素敵な想いが溢れてて、とても惹き付けられました。
きっと未来ではより家族の絆が深まった親子が幸せに
暮らしているのでしょうね。
完結、お疲れ様でした。
面白く、感動したお話でした。
誤字・脱字の報告
>威嚇射撃だ考えると
この部分ですが「威嚇射撃を考えると~」だと思いますが。
>「どうか、私をあまり困らせないでくれ、我が愛よ。」
我が妻…ではないでしょうか?それともこのままで良いのかな?
とりあえず報告でした。(礼)
レミフラの解説下りは彼女達に言わせる必要があったのかな?
と思ったけどフランちゃんの口から出たので満足です。
大人レミリャ&フランの描写が見たい。うぎぎ
言いたいことはたくさんありますが、とにかく面白かったです。
フランとレミリアとマリアにいや、みんなに幸せな未来を…………………願うまでもないですかね。
でもいずれは神格化した咲夜は死なないだろうけど、美鈴やパチェは死んでしまうんだよなぁ・・・
願わくばこの幻想郷が永遠の如く続かんことを
本当にお疲れ様です。素晴らしい「レミフラ」話、御馳走様でした。
アンタ最高だぜ…
マリアとフラン二人の能力が相補的に抑制として働くという発想は秀逸すぎます。
謹んで『レミフラの最高傑作』の称号を送らせて頂きます。
‥しかし、あの緊迫したクライマックスで『ドロワーズ』の話が出てくるとは。
レミフラばんざーい!ドロワーズ最高!!
恐らく彼女達にはまだまだ苦難の壁が立ち塞がることでしょう
しかし全部『すべてを破壊する程度の能力』で壊していきそうです
それとマリアの感想聞くとあまりカレーの味は変わってないのかな…
それともう一つ『すべてを破壊する程度の能力』が進化していたのは驚きです
マリアの子供はさらに進化してたりして
何度も涙ぐんで大変だったぜ。
ただ一言。・・・・最高です。レミフラも何も、全てが・・・・。
オリキャラ系のものの中でも読みやすい部類に入りました。
ただ最後まで引っかかっていたところがございまして。
悪魔の娘の名前に聖母の名前をつけるのはどうかな、と。
個人的なものなので評価には含めませんがそこだけが気になりました。
……ドロワ吹いた。
かなり長いのにそれが気にならないのはすごいな、と。
この三人とプラスの一人には言葉では言い表せないほどの幸せが待っているのでしょうね。
最高、でした。
面白かった。
この友達のような二人がこれから約50年の間にどうやって、夫婦になり子供を作る様な関係になるのか
すごい楽しみになった!!!早く読みたい!
オリキャラと感じさせない生き生きとした描写はお美事。
最高のお話、ありがとうございました。
こんなに素晴らしい作品を読ませていただいて、本当にありがとうございました!!!!!!!!!!
そしてこのお話は大好きだ!
幸せになれ!
この娘たちは何があっても家族みんなで乗り越えて、幸せをつかみながら生きていくんでしょうね。素晴らしい「レミフラ」をありがとうございました。
しかし、ドロワーズかwwww