死者は姿を見せずただ存在だけを誇示する。
記憶をもっとも揺さぶる五感。海馬の奥で深く眠る思い出を目覚めさせる鍵。それは嗅覚だ。
死者に引きずり込まれぬよう、人々は死者を悼むため香を焚いた。そうして死者の匂いは失くなった。替わりに香が死者の匂いを代弁した。
香り、音、気配。様々な手段で死者はこの世の者に訴えかける。
よしんば見えたとしてもその八割は恐怖が見せた幻覚だ。
東 方 叙 情 邸
~Burning Down the House.
十八世紀、イギリスにて――
それは東洋の香炉なのだと、父は言った。
仕事の関係上、父は何ヶ月、時には一年以上も家を空けることが多かった。そのためか詫びるように世界中の珍奇で貴重な品物を娘たちの土産にして機嫌を取るのだった。
末の娘は大きな父の手の平から渡された、銅製で持ち手がないティーポットのようなそれを丸々と目を開いて見つめた。父はそれをテーブルの上に置き、蓋を取って解説した。
――この国から海を越えて、山を越えて、野を越えて、砂漠を越えて、もう一つ海を越えた東の果てに島国があるんだ
――これはその国の品物なの?
――そう。なんでもね。この香炉で香を焚くと煙の中にホトケ様が見えるのだそうだよ
――ホトケ?
――神様のことだよ
――ふうん……
――うーん……ちょっと面白くないか。ならこんなお話をしてあげよう
世界中を飛び回る父は色々な物語をよく知っていた。末の娘はその物語を聞くことを姉妹の誰よりも好いていた。元来どこか空想好きな所のある娘だったのだ。
父の物語はこするとこの香炉のように煙を吐いて精霊が現れるというランプの話だった。願えばなんでも望みが叶うそのランプと波乱万丈な冒険物語、海千山千の商人たちと舌戦を繰り広げて鍛えられた父の巧みな語り口調に末の娘はたちまち引き込まれた。
無名の丘にて――
いつかの季節にはむせ返るような毒の匂いに浸されたこの丘も、今はまだ花も咲かせずただ静かに冷たい風に吹き荒らされているだけ――でもなかった。
「待てー!」
「仲間外れの人形を捕まえろー!」
「やっちゃえー!」
「うわーんっ、スーさんなんなのよこいつらー!?」
毒人形が何人もの子供たちに追い掛け回され賑やかに走り回っていた。
子供の遊びでは――大人の遊びでも――よくあることだが楽しんでいるのは一方的に追い掛け回している連中だけであり、追い掛けられている方にしてみればたまったものではないらしい。自分以外全員鬼の鬼ごっこである。メディスンの逃げる表情は魔理沙の目には限りなくマジに見えた。
霊夢が妖怪の山の方角に向かったので、なんとなし魔理沙は氷精などを蹴散らしながら反対方向に進んでみた。そうして人里からも離れた無名の丘に辿り着けば、異様な光景が広がっていたのである。
魔理沙が幼少の頃考えたことがある。果たして誰にも観測されていない場所は常にその形で存り続けるのだろうか? という疑問だ。箱を開けるまで猫が毒瓦斯で死んだかどうかわからないように、誰かが見るまでその場所はこの世に存在していないのではなかろうか。
もしかしたら幻想郷中が色とりどりの花で覆われたあの春が来るまで、この丘は存在しなかったかもしれない。今はもう人間も妖怪も誰も訪れない無名の丘。だからこそあの毒人形が力を蓄え妖怪化するほど放置されたのだ。
ともあれ――
「おーい、空飛んだら逃げられるんじゃないのかー?」
追いかけている相手はなんとなし人間の子供のように見えた。だからこそ異様なのだが、人間の子供で空を飛ぶ術を得ている奴などそうそういない。人間の子供で空を飛ぶ術を得ている魔理沙が言うのもなんだが。
「そ、そうね! あはははー! やーい、ここまで来れるもんなら来てみなさーい!」
宙に浮かんだメディスンは唖然とする子供たちを見下ろし、勝利の高笑いを上げた。相手と同レベルであった。
だが魔理沙は眉をひそめた。子供たちは集まって何やらひそひそ話をし合い、メディスンを指差しているのだ。
そして子供たちはかごめかごめでも始めようとでもいうのか、円陣を組み始める。腕は全員が中心に伸ばし、お互いの手を繋ぎ合った。
気がつけば、一人だけ仲間外れにされていた子供がいた。いや、その子供は意気揚々と明るい笑顔を浮かべながら、その円陣の真ん中めがけて飛び込んだのだ。
人間の子供の跳躍力ではなかった。だがさらに信じられない事態が起こった。
「「「「「せーのっ」」」」」
「どっきゅーん!」
円陣を組んだ子供たちが一斉に手を振り上げ、真ん中に降り立った子供をロケットよろしく打ち上げた。
高笑いを止めたメディスンはぎょっ、と目を剥き自分に突っ込んでくる子供を避けた。だがどこから湧いて出てくるのか、次から次へと弾丸のように子供が打ち上げられ、上空へ上空へ逃げざるを得なくなる。
それでも子供たちの追撃が止むことはなかった。傍で見ているだけの魔理沙ですら何か言い知れない不気味さに背筋がうすら寒くなる。
「な、なんだあれ? 妖怪か? なんの妖怪だ? なんで妖怪の子供がこんな群れをなしてるんだ?」
幻想郷の妖怪はおおよそ個人主義というか自己中心的というかアレな性格の連中ばかりなので、徒党を組もうという発想がとんとない。例外は妖怪の山に集う河童や天狗くらいなもので、子供と言えど力を合わせて何かを成し遂げようなどと考えるのは小賢しくて無力な人間ばかりなのである。
今魔理沙の目前にいる謎の個体集団は、言わば人間の思考に妖怪並みの力を持った妙な存在だった。生粋の人間で普通と自負している魔理沙ですら生活自体は妖怪染みていると自覚しているというのに。
「この――っ」
自分より格下で徒党を組んで調子に乗っている連中が気に入らないのか、幼いメディスンは頭に血が上ったらしい。凶悪な表情を見せるや否や、目視できるほど高濃度の毒霧が彼女の周囲に噴出していた。
「おい馬鹿っ、殺すつもりかっ」
色々と耐性のある魔理沙ならともかく、少々身体能力が優れている程度の力しか持たないあの子供たちにメディスンの毒など浴びせればひとたまりもないだろう。別にあれらが死のうと生きようとどうでもいいが、妖怪が人間――それも子供を大量虐殺するのは人と妖の間に敷かれた不言の条約に引っかかるのではなかろうか。
「大量虐殺も遊びのうちよ」
囁くような声が聞こえたかと思うと、魔理沙の脇をかすめて大量の魔力が怒涛の如く押し寄せ、子供たちを薙ぎ払った。
真っ白な熱と光が水平の瀑布となって全てを消し去る極大レーザー魔法。
魔理沙の十八番、マスタースパークは無名の丘に堀を穿ち、子供たちを跡形も無く消滅させた。
しょっちゅう他人の技はパク――参考にさせてもらっている。だからこそ魔理沙は、自分以外にこの魔法を使える相手が誰なのかよくわかっていた。
「ゆ、幽香!?」
「こんにちは」
「おいおいマズイぞさっきのは」
「最初から命の無い物から実体を奪って何か不都合でもあるのかしら?」
「あああるぜ。色々とな」
パラソルをくるくる回し、にこやかに幽香は微笑んで魔理沙に問いかけた。即座に減らず口を返しながら魔理沙は言葉とは全く逆の方向に思考を巡らせる。
幽香は頭の良い妖怪だ。魔理沙は彼女から技を盗――参考にさせてもらったが、幽香も誰かから技術や知識を盗んだことがあるのではないか、と踏んでいる。そして恐るべきことに、恐らく現状の魔理沙より幽香の魔法の腕は上だ。長く生きてきた妖怪ならではの超技術、超知識と言えよう。
だから幽香の言葉がてんででたらめなわけがない。咲夜が出かけた夢幻館にもなぜか幽香は先回りして居眠りこいていたという。間違いなく、幽香はこの異変の全貌を知っている。
というか、首謀者かもしれない。
「私が知りたいことを知っているんだからな! これが不都合で好都合でなくてなんだっていうんだ!」
「両方合わせたらプラスマイナスゼロで何事もなくなってしまうわね」
「ああそうだな。ここでお前を倒せば何事もなく異変解決ってわけだ」
「あらあら。異変解決なら巫女は正反対の方向に行っちゃったわよ?」
「なら私が一番乗りだな」
「そうね。私にやっつけられる一番乗りよ」
魔理沙は幽香から距離を取った。ミニ八卦炉に魔力を充填し、軽く息を吐く。メディスンが魔理沙の袖を引っ張った。
「ねーちょっと、私の花畑荒らしといて無視するってどういう了見なのー?」
「あーお前の相手は後でしてやるから」
「そうそう。ここでさっきの捨て子の幽霊と毒人形と一緒に末永く仲良く暮らしなさいな」
幽香が開いたままのパラソルを魔理沙に向け、くるくる回転させる。螺旋を描きながら花開く弾幕を魔理沙はレーザーで焼き払った。すかさず逆の手で星屑の弾幕を撒き散らす。
あたり一体を掃射した星屑はしかし、全てパラソルで弾き返されてしまう。
狙い通りだった。星屑の弾幕は動きの鈍い幽香のための牽制に過ぎない。防御で態勢を固めた幽香めがけてスカートから取り出したミニ八卦炉の照準を合わせ、スペルカード宣言。
「恋心――」
魔力の導火線となった射線軸が幽香に直撃。そのまま導火線は膨らむように熱光線となって幽香を襲う。
幽香は横に最低限移動して第一射目を避けた。しかし魔理沙は八卦炉を握っていないもう片方の手で幽香の回避ルートを潰すように照準を取った。
「『ダブルスパーク』!」
第二射は余裕の笑みを浮かべる幽香を丸ごと呑み込み、滝のように押し流し塗り潰した。
だが手応えが得られない。魔理沙の背筋を悪寒が走った。
「どうせ二本撃つのなら――」
左の方から幽香の声が聞こえた。しかし一度マスタースパークを撃ってしまった魔理沙は奔流する熱と魔力を暴走しないよう制御するため、しばらくまともに身動きが取れない。
「こうした方が効率的でしょう?」
横手と正面から同時に魔力の導火線が伸びてきた。そして次の瞬間放たれたのは、魔理沙を照準の中心軸としたマスタースパークの十字砲火である。
博麗神社程度の小さな家屋ならばその一撃で跡形も無く吹っ飛びそうなほどの火力だった。純粋に圧倒的な魔力にものを言わせただけの砲撃を上空から見下ろした魔理沙は額から流れ落ちた冷や汗を舐め取る。
初見殺す気満々である幽香式ダブルスパークを、奇跡的に魔理沙は避けることができた。それは魔理沙の正面に位置取っていた幽香の分身――もしかしたら本体かもしれないが――が魔理沙のダブルスパークを腕力で弾き飛ばしてくれたおかげである。
弾き飛ばされたダブルスパークの照準を制御し直し、ジェット噴射がわりにして魔理沙は上空へと逃げ延びた。幽香は感心するように魔理沙を見上げる。
上を取れたのはアドバンテージだった。そのチャンスを失う気など魔理沙には毛頭無かった。
「星符『ドラゴンメテオ』!」
十八世紀、イギリスにて――
そうして父は、再び長い旅に出た。
家族揃って父を乗せた船が出港するのを見送り、屋敷に戻る。
「ふぅ。これでようやく『いつも通り』ね」
母がそう言って自室に戻ってゆく。上の姉たちも末の娘にはよくわからない話題をしながら各々の生活に戻った。
九歳である。分別が付くにはまだ一歩及ばない年齢であった。しかし今年で九つの末の娘にもこの家は他の家と比べて少々異質だということは言葉では考えられずとも直感的に感じ取ってはいた。
この家は、女が強かった。母である『奥様』を頂点として動いている。そして父が帰ってきた時だけ『旦那様』が一時的に頂点となる。しかし召使たちの対応はどこかぎこちない。いや、それ以上にぎこちないのが娘や母たち家族自身か。
母は気の強い女である。その血を色濃く継いだ一番上の姉も物静かながら恐ろしく気の据わったお嬢様だった。ルナサにはプリズムリバー家の財産と家業を継ぐにふさわしい男を迎えなければ、というのが母の口癖であった。
すぐ上の姉は頭の回転が速く弁舌の立つ、父の血をもっとも色濃く継いでいた。彼女は末の娘と一つしか年が違わないのにも関わらず、色々なことを教えてくれた。
――私かレイラが男の子じゃなかったのが問題だったわけよ
――うーん、ならちゃんと生まれる前に『男の子に生まれなさい』って言ってもらわないと困るわ
――言ったそうだけど? 神様にもお願いしたんだって。でも私たちは見ての通り女の子
――そんなこと言われても……
――私から言わせればルナサ姉さんが男の子だったらなんの問題もなかったって話ねー
――ルナサお姉様が男の子だったらカッコ良すぎて私がお嫁さんになりたいくらいだわ
――やめときなさいやめときなさい。アレは結婚したら最悪なタイプだから。お父様もお父様よ。こんなもんで本当に機嫌が取れているとでも思っているのかしら?
姉は先日父がプレゼントしてくれた東洋の方位磁石なる、文字だらけの不思議な盤を指で突っついた。
――そんなことしたら壊れちゃうわ
――そうね。私も姉さんみたいに良く頑張っている使用人にあげようかな。こんなガラクタでも持っていくべき所に持っていけばお金になるんだろうし
末の娘は考えた。 原因を九歳の幼い頭なりに考えた。
なぜ父がこのように軽んじて扱われるかを。なぜこの家が他の家とは違うのかを。
そしてそれはきっと、父が普段出かけっぱなしだからなのだと考えた。
父が早く帰ってきたら良いのに。
末の娘は父のくれた香炉を焚きながら、父の語ってくれた物語を思い返した。あらゆる願いを叶え、幸せを運んだランプの物語を。
妖怪の山にて――
「人間は鬼には勝てない。けど鬼も神には勝てない。つまり鬼は巫女に勝てないのよ」
「さすが巫女です! 天狗(われわれ)にはできないことを平然とやってのける! そこに痺れる憧れるゥッ!」
ドロワーズを丸出しにしてひっくり返る萃香を前に仁王立つ霊夢は、この洞穴まで案内してきた文にやたらと囃し立てられた。
魔理沙の言っていた通り、既に失くなった建造物などが蘇る奇妙な現象は幻想郷中で起こっていた。天狗や河童が取り仕切る幻想郷内の閉鎖社会、妖怪の山でも変わらない。
ここで復活したのはかつて鬼たちが妖怪の山を取り仕切っていた時、鬼が住処としていた洞穴である。そこで酒呑んでクダ巻いている萃香がいると文が垂れ込んできたのだ。とりあえず霊夢は文をしばき倒し、『おうおう山伏がやってきたねぇ』とかなんとか言って絡んできた萃香もしばき倒すことにした。
「春高楼の花の宴。巡る盃影差して。全く、ちょっと懐かしい場所が出来たから酔ってみたらこの有様とは……随分偉くなったもんだねぇ天狗も」
起き上がった萃香は瓢箪からとぽとぽ杯を満たし負け酒をやっていた。嫌々滅相もないと文は血相変えて萃香に媚を売り出す。
「わたくし、清く正しい射命丸は我らが鬼神様がめでたくも里帰りなされたのでこれは是非とも巫女にも一つご挨拶していただこうと考えただけでございまして」
「私の友達にさー。地獄務めしていた奴がいるんだけどねぇ。なんでも嘘つきの舌を抜くのは我々鬼の役目らしいよ? 一つあんたの舌が一枚二枚どころか三枚四枚あるかどうかここで確かめようか?」
「どうぞどうぞ私が語るは常に一つ! 真実だけでございます。ですから虎の子の一枚はどうかお見逃ししていただきたく……」
「上司と部下の感動の再会に水を差すけど、ここまでやったんだから何も教えずに帰そうってわけじゃないわよね?」
霊夢は放っておけばいつまでも萃香相手に立て板に水をやり続けるだろう文のネクタイを引っ掴む。
今回の異変、昔の建造物が復活するだけならそこまで害はなかった。しかしそれらに所縁のある妖怪どもが住み着くことで霊夢も退治せざるを得なくなる。そしてどいつもこいつもしばき倒したところで『懐かしい場所が蘇ったので帰ってきてみた』と言うだけで異変の原因を見極めていない。
霊夢の勘はそろそろ誰かが何か教えてくれるはずだと告げていた。
というか、相手は情報通の鴉天狗だ。厄介な情報を売りつける以外に役立って貰わないといい加減存在価値の有無を問いかけてみたくなる。
文は顔を輝かせて指を舌でぬらし、文花帖をぱらぱらとめくった。
「お任せください! 巫女がサボっている間に出現した屋敷幽霊の数々はこの通り全て網羅して……」
「おいっ」
「問題ありません。この情報は他の鴉天狗にもない私独自の情報網で入手したのものです。さらにその屋敷幽霊に住み着いた元主人の素性まで調べ上げており……」
「皮や肉はいいのっ! 骨や髄をよこしなさい!」
「そこは神に仕える者として枝葉ではなく根を渡しなさいと言うべきでは?」
「肉食文化は文明開化の香りがするのよ――って、屋敷幽霊? なんか今あんたすごく重要なこと流さなかった?」
「さすが巫女ですね。その勘の良さを抜けばあなたは正に地に足が付かないを体現したお人柄です。ちなみに屋敷幽霊とは幽霊の屋敷のことです」
「道理で寒いはずだわ――ってことは、わかったわ! 今回の首謀者はまたぞろあの亡霊と半人前の一・五人前コンビね!」
数年前も春先であの連中はバカをやらかしたのだ。きっと暖かくなるとみんな馬鹿になるのであろう。ついでにいつまでたっても幽冥結界を修復しない紫も血祭りだ。
ところがどっこい、萃香は首を横に振った。
「うんにゃ。霊夢、そりゃ霊違いだね」
「あんたの言うことなら文よりずっと確かね」
「ひどい言われようです。我々はぁ、言論と討論の自由をぉ」
「霊夢は感じないの? この酒に混じった香りに、さ」
萃香は香りごと飲み干すかのように杯を傾けた。霊夢はそう言われてくんくんと鼻を鳴らすが、酒精と幽霊の気配独特の湿った匂いしかしない。
「人間にゃ感じられないか。じゃあ霊夢。一回家に帰ってみなよ」
「馬鹿言わないっ。まだ解決してもいないのに帰ることなんてできるもんですかい」
「まあまあ慌てない慌てない。一休み一休みっとぉ」
萃香はそう言って瓢箪を枕に寝転がり、いびきを立て始めた。文の顔が青くなる。そもそも文は萃香が邪魔だから霊夢に追っ払ってほしいと頼んだのだ。このまま居座られては特例的に人間の入山を許した文の立つ瀬がない。
「あのぉ、そのような所で横になられては風邪を召しますかと……」
「あぁん? そんならちょいと地底の我らの住処まで運んでくれんかね。何、私はこの瓢箪の中に入って大人しくしてるから重くもなんともないさ」
「うをおぉぅっ!? なんですかこの瓢箪は!? まるで海の水が全て入っているかのようで重くて紙一枚挟めるほども持ち上げられません! これでは仕方ありませんねどうしようもありませんねええそうですねさあ大変ですどうしましょう私はどうしましょうああ、そこの巫女さん。ちょうど良いです。この瓢箪を温泉にでも浸けこんでいただけますか」
「うーん、じゃ、お神酒にでもするわ。それじゃいったん帰るから」
「早く記事にしたいので早く解決してくださいねー」
ミニサイズになった萃香が入った瓢箪を霊夢は担ぎ、洞穴を出て家路を飛んだ。
霊夢も家に帰って休もうなどとは思っていない。絶対に嘘はつかない誠実な鬼がアドバイスするからには、きっと意味があるのだろう。少なくとも文のあやふやな情報を信じて右往左往するよりよほどわかりやすい。何より途中休憩で一服もできる。
そういうわけで。
少女帰宅中...
「ただいまー」
「おかえりー」
無い膝畳んで悪霊が正座して茶ァしばいていた。
魅魔である。
霊夢は古典的にもずっこけて縁側の板張りで思い切り額を打った。
「おやおや痛そうね。あんたはまだ生身があるんだからもっとそいつは大事にしないといけないよ」
「黙れ悪霊! あんた成仏したんじゃないの!?」
今は昔、なんの因果があったのかは今代の博麗の巫女である霊夢にゃ知ったこっちゃないが魅魔は博麗神社に怨みを持ち祟っていた。
幼い霊夢に負けて色々やっているうちに魅魔の荒御魂は鎮み和御魂の側面とのバランスが取れて比較的無害な存在となった。気がつけばいつのまにか霊夢の前から姿を消していた。
だから霊夢は成仏したんだろうと思っていた。
「私ゃ亡霊じゃないから死体を供養されても成仏なんかしないわよ」
「ふうん。あんたは靈魔殿に行かないの?」
「博麗神社の幽霊の方が今の私の性にはいいね」
「あー、もしかしてここぶっ壊されたの怒ってあんたがこの異変起こしたの? それならあの天人どつき倒してあんたも天人にでも転生しないさいよ」
「桃しか食べられない生活なんてまっぴらね。それと私はむしろこの異変の被害者だ。もっと労わってもらいたい」
「とりあえずぶちのめしてから労わるわ」
霊夢は袖中から針を取り出し、境内に出ろと指でジェスチャーした。魅魔は足も無いのに立ち上がり、霊夢を見下ろした。
「まだこの香りに気づいてないのかい? これ以上濃くなってあんたにも嗅げるようになると私みたいに命を持っていた霊どもが実体を取り戻すよ」
「今嗅げないんじゃ仕方ないじゃない! そうだ、いいこと思いついたわ」
「ろくでもないことね」
「あんたを叩きのめしてから警察犬代わりにするのよ!」
「神に飼われている巫女が祟り神を飼おうだなんて畏れ多い! 神は遣われるものではなく仕えるものと教えてあげるわ!」
十八世紀、イギリスにて――
――お父様が帰ってきた?
――馬鹿を言わないの。あの人は今頃イタリアよ
しかし末の娘は見た。いや、正確には聞いたのか。父の話し声を。
程無く、同じような声が召使たちの間にも広まった。
――おい、まさか今日旦那様が帰ってくる日だったのか?
――夏になるまでは帰ってこないはずだってば……
――だけど俺、ワインを持ってくるよう寝室から命じられて……
――あなた、書斎に勝手に入ったわね? あそこは奥様に許可貰わなきゃ……
――待って。ってことは、あなたも聞いたの? 書斎で誰かが動く物音……
――物音どころじゃないわ! 大事な書類や資料が勝手に引っくり返されていたのよ!
父へ手紙が送られた。返事が来る一ヶ月余りの間に、すっかり召使たちの間には噂が流れ尾鰭背鰭が付き、船をも呑み込まん大魚となっていた。
いわく、奥様が浮気をしているか疑心暗鬼に駆られて今も屋敷の天井裏で潜んでいる――
いわく、旦那様は既にこの世の人ではなく魂だけが家に帰ってきてさまよっている――
いわく、奥様が邪悪な異教の儀式を行い、旦那様のホムンクルスを造られた――
収集が付かなくなりかけていた矢先に、父の無事を伝える手紙が返ってきた。
筆跡は間違いなく父のものだった。
母はその手紙を召使たちに見せつけ、さらに厳しい声色で浮ついた根も葉もない噂を口にするものは重い罰を与えると宣言した。
結論から先に言うと、母の忠告は逆効果であった。
確かに屋敷の中での噂はなくなった。そのかわり、領地内で噂が広がったのだ。
――プリズムリバー邸は幽霊屋敷だ
――家の者は皆悪霊に取り憑かれている
――伯爵様がいつまでも帰ってこないのがいい証拠だ。旦那の存在を疎んじた奥様が暗殺者を雇って、旅先で殺してしまったのさ
――伯爵様はそれをお怨みになって、主の御許へも行けずに苦しんでおられるんだ
早く帰ってきてほしい。
皮肉にも、これほど一家の願いが一つになったことは無かっただろう。その期待がまた、事態を悪化させた。
気丈な母が門の前に馬車が停まった音一つで顔色が変わり、窓に身を乗り出した。
凛とした一番上の姉も最近は眠れないのか目の下に隈ができて、痩せてきていた。
もはや屋敷の者全員が、幻聴を耳にしない日は無かった。ある意味、悪霊に取り憑かれたという噂だけは真実そのものであったかもしれない。
そして雪融けの季節となったある日。
末の娘は暖炉の傍で自分を呼ぶ父の姿をはっきりと見てしまった。
プリズムリバー邸上空にて――
「こ――が――」
「あーー!? 何言ってるの!? 全然聞こえない!!」
「いへ――ゅうし――」
「あーーーやかましい!!」
あまりの騒音に耳がきんきんする。飛ぶ鳥落とす勢いで雪崩打つ音の洪水に霊夢は押し流されそうだった。
魅魔が案内した場所は幻想郷ミステリースポットで有名なプリズムリバー邸である。普段はせいぜい誰もいないはずなのに演奏の練習の音だけが聞こえる程度だというが、今日ばかりはまるで祭りのような有様だった。
屋敷の内外問わずひしめき合った幽霊たちは口も無いのに言いたい放題鳴りたい放題だ。魅魔もさすがにこの騒音はごめんなのか、霊夢を案内し終えるとさっさと引き上げてしまう始末である。
敷地内へ侵入した霊夢に幽霊たちはぴりぴりと反応した。隊列を組みやかましく行進しながら弾幕を撃つ姿はさながら幽霊軍隊である。
幽霊がこれほど統率の取れた動きをするということは誰か指揮者がいるということだ。誰か? 考えるまでもない。この屋敷の奥にいる奴に決まっている。誰でもいいからとりあえずぶっ飛ばせば解決だ。
正門めがけて霊夢は急降下した。玄関を死守せんとする幽霊編隊を針で薙ぎ倒して行くが、少々強引突破だったのか囲まれてきた。はて、そろそろボムるべきか。
そう考えると同時、幽霊たちの騒音にも勝るとも劣らない轟音を撒き散らしながら裏庭あたりと思しき方向から極大レーザー光が輝き、空をつん裂いた。
一瞬幽霊たちの注意がそちらに向いた隙を突いて、霊夢は飛行速度を上げて玄関をすり抜ける。
博麗神社がすっぽり入ってしまいそうなほど巨大なエントランスホールと、シャンデリアに腰掛けた騒霊楽団リーダー、ルナサ・プリズムリバーと、彼女が指揮する大量の幽霊軍隊が霊夢を出迎えた。
ルナサはすぐに攻撃命令を出さず、先ほどレーザーが発射された方向を注意深く見ている。おそらくも何もない。魔理沙だ。彼女は彼女なりの調査でここまで辿り着いたのだろう。襲撃タイミングが一緒とはお互いにとって運が良い。
「あっちはメルランが守っているから大丈夫ね」
「そう、どっちみち後で私が退治しておくから大丈夫よ」
「さて、こんな廃館までわざわざようこそ。早速で残念だが今ライブの予定は入れられない。幻想郷中を響かせる大きなライブを予定しているから」
「こんな調子で響かれちゃあ夜も眠れないわよー」
「私の音は鬱の音。安眠にはぴったり」
「自分たちの永眠のために鎮魂歌でも弾いた方がいいわね。さあ、そろそろ違法建築を撤去して貰うわよ」
「あれらはただそこに過去存った物たちが実体を得て復活しただけに過ぎない。命無き物にも霊は宿る」
「ちゃんと針供養はしているわ」
「だけど私たちが実体を戻させたいのは命有った者の方。それにはまだまだ香の濃度が足りない。巫女は邪魔。
始まりは幻聴。幻嗅が匂えば後一歩。幻視ができればもう終わり。たとえ身が凍えるほどに寒くても記憶に順じ、春の暖かな陽光があなたを包む」
「これでも春でも昼前には起きているわ!」
「記憶を揺さぶる優しい幻奏に抱かれて眠るがいい!」
シャンデリアから飛翔したルナサはヴァイオリンを構え、弦を引いた。演奏のリズムに合わせてルナサの周囲に弾丸が塊となって渦を巻き、糸をほどいて霊夢に襲い掛かる。
袖を羽根のように翻し、回避ルートを見切った霊夢は自ら弾幕の内部に突っ込んでいった。
同時刻、プリズムリバー邸裏庭にて――
「物色しても録なもんは無さそうな館だな。もう全部幽霊じゃないか」
「生きてないだけで性能は変わらないわよ?」
「私はじめじめした所で暮らしているからな。せめて生き生き暮らしたいんだ」
魔理沙は塀の上に着地し、箒を肩に担いでメルランと対峙した。
裏庭だからと言って守りが薄いわけでも無かったが、少々待って霊夢を先に仕掛けさせたのが幸いした。あちらに多くの戦力が回ったおかげで魔理沙は比較的楽に侵入を果たそうとしている。
だがこの屋敷は三姉妹のものだ。守りの要となる大駒も三つ。一つも潰さずに通れるほど甘くはない。
用意してきた魔力増強用魔理沙印のキノコポーションが後どれほど残っていたか、脳内で計算。無名の丘で少々暴れすぎたのが災いした。マスタースパークは後十発ほどしか撃てないだろう。
幽香は強敵だった。そして、半分くらい首謀者だと思って出し惜しみ無しで戦ったのがまずかった。不幸中の幸い、幽香はやはり異変の原因を知っていたのでプリズムリバー三姉妹が首謀者だとは仄めかしてくれたが、無傷の勝利には程遠い消耗であった。
どうせここで決着はつけられない。屋敷の奥で三姉妹全員を叩きのめさなければ、異変解決させられない。前哨戦で全力を尽くすのは危険だった。
だがメルランは力を出し惜しみして勝てる相手ではないことを、いつかの春雪異変で魔理沙は思い知っていた。もう少し実力の知れたリリカとかち合えていれば戦いもしやすいのだが。
魔理沙は、ふと静かになった玄関の方に意識をやった。メルランも少々気になっているのかそちらに視線をやっている。
帽子を深く被り、魔理沙は自分の表情をメルランに見せないようにした。
「大体なんで無機物の幽霊なんてあるんだ? 生きてないじゃないか」
「でも現にこうしているわけでしょ?」
「ああそうだがな。よく冥界も地獄も天界もパンクしないな」
「命無き物の霊は霊として生まれ霊として消えるのよ。転生も死後もない。今一瞬こそが全て」
「そういうことを言っているとろくでなしになるって親から言われなかったか?」
「親無しの気軽な性分なものですから」
「おお奇遇だな。私も一緒だ。ぜひここで義姉妹の契りでも交わそう」
「いいわね! それじゃあ義姉妹のよしみでここで一曲」
「義姉妹のよしみでここは一つ素通りじゃないのか?」
「歓迎ゼロ円! ハッピースマイルゼロ円よ! タダより安いものはないわ!」
トランペットが火を噴いた。粋なジャズ演奏のイントロが始まる中、魔理沙は箒に跨り襲い来る弾幕に意識を集中させた。
十八世紀、イギリスにて――
屋敷中の誰もが幻影に怯えていた。注意をせずとも噂することすらなくなった。語るまでもない恐るべき事実をどうしてわざわざ口にせねばならないのか。
幻影は父だけに留まらなかった。老衰で死んだ庭師のおじいさんが挨拶し、誰もが見知らぬ間に仕事を終えてしまう。盗みをして首にされたはずの召使が身なりに合わぬ豪勢な嗅ぎ煙草の箱を抱えて、許しを乞う。赤ん坊の泣き声がすると、突然侍女が泣き喚いた。
悪魔祓いも効果は無い。神にすがっても怪現象は収まらない。夏になる頃には召使の多くが辞め、屋敷は手入れが行き届かず見た目すらみすぼらしく――ならなかった。
気がつけば、辞めたはずの召使が当たり前のように働いていた。もう誰も彼も、目の前にいる存在が実体を持っているかどうかすらわからなくなっていた。
その日は暑かった。白昼夢でも見そうなうだるような暑さだった。だからかもしれない。
末の娘は、腹から血を流して浮浪者のように廊下の片隅でうずくまる父を見つけた。
――お父様?
――ああ、レイラか……大きくなったなぁ……ここにおいで
――お父様……お怪我をなさってるの?
――誰もが私を見たら怯えるのだ……まさか撃たれるとは思わなかったが。いいかいレイラ、よくお聞き
――お父様、今人を呼ぶから……
――良いんだ、レイラ……私の傍から離れないでくれ。話を聞いてくれ。この間、プレゼントした香炉があるだろう……? あれを、壊すんだ……いいね?
――で、でも……
――そうすれば何もかも元通りになるはずだ……また、姉さんたちと仲良く遊べる日が戻ってくるよ……
父は、急かした。末の娘は自分の部屋に駆け込んだ。笑い声で話しかけてくる姉の声は、二番目の姉の声か、一つ上の姉か、幻か。息を切らして香炉を出した末の娘は思い切りそれを振り上げて、床に叩きつけた。
高い音をさせて跳ねただけで、傷一つつかなかった。仮にも金属製だ。子供の腕力だけで壊せるようなものではない。
末の娘は召使たちの使う大工道具箱から、金槌を持ち出した。打ち付けて、打ち付けて、目測を誤って部屋中の物を壊しながら香炉に金槌を振るい続けたが、へこみはしても破壊するには程遠かった。
プリズムリバー邸、ダンスホールにて――
ヴァイオリンの音色に誘われるように、霊夢は屋敷を進む。ヴァイオリンの音色に誘われるように、幽霊軍団は霊夢を阻む。
後一歩まで追い詰めたかと思いきや、ルナサは霊夢に背中を見せて逃げ出した。目下追撃中である。
いつしか裏庭の方向から聞こえてくる砲撃音や金管楽器の音色も失せていた。果たしてどちらに軍配が上がったのか。
やがて、ルナサは再び霊夢に顔を向けた。ルナサと面立ちの似た少女二人、メルランとリリカも霊夢を注視する。
広大なダンスホールでは幽霊たちが思い思いに踊り合っていた。その姿は陽炎のように揺らめき、時折人影のような姿をとっては再び伸びた餅の如き姿に揺り戻る。
「うぅ~幻覚かしら? なんなのこの甘ったるい匂い……空気もこもってて一酸化炭素中毒になっちゃうじゃない」
「うふふ。火事の一番の死因を知ってる? 火事のもっとも恐ろしいのは酸素不足と毒ガス地獄で意識が朦朧としちゃって、そのまま焼け死ぬことなんだよ」
相手が騒霊だからか、その姿はエントランスホールにいる時より霊夢の目には曖昧模糊として映った。ぶんぶんと首を振り、なんとか意識を覚醒させる。
そして、霊夢は床で仄かに赤く灯る香炉に気づいた。
「なるほど、それが異変の原因ってわけね!」
「さすが巫女ね。一目見てわかっちゃった。でもなんで?」
「そんなの勘に決まっているじゃない!」
「リリカ、鎌にかかったわね」
「いやたぶんアレは鎌をかけようとか考えてないって」
「それよりこの釜戸焚きみたいに生暖かくって息がしにくい空気、どうにかしてよ。あんたらは生きてなくても私は生きてるんだからこんなんじゃあやってられないわ」
「ここに命有る者が来ていること自体間違いなのよー。このライブ会場は命無き物たちが命を吹き込まれる場所。胡蝶も紅白の蝶もお呼びじゃない」
服の色から喋っているのはリリカだと知れた。しかし、霊夢の耳には声色の似た姉妹の声が聞き分けられなくなっていた。顔すらも見分けられない。髪色すらもくもくと立ち上る香炉の煙中では信用できない。派手なライブ衣装だけが三姉妹の個性を主張していた。
少女の嘲笑する声が聞こえた。それはルナサか、メルランか、リリカか、はたまたこの場に漂う幽霊のどれかか。
「巫女すらあんなに参っているなら後一歩ね、姉さん」
「ええ。五識のことごとくは最早信用できなくなっている。これから取り掛かるライブに幻も現も何もないわ」
「さあライブを始めましょう! 明日生きる力も今日死ぬ力も振り絞って騒ぎまくるわよ!!」
鼓膜をつんざく騒音が演奏だと、霊夢は理解するのに一瞬の時間を有した。その合間に既に弾幕は展開されている。
意識は朦朧としていたが、霊夢の身体は自動的に回避ルートを見切って動いていた。たとえ初見の弾幕であろうが大体セオリーというものがある。それに沿って動けば無意識の内に勝手に弾というものは避けられて行くものなのである。
シャンデリアの輝きを受けてスペルカードが提示される。
「まずは私のソロから始めるわよ。魔奏『コンプリートダークネス』!」
聞いたこともない不思議な音とピアノの音色と共に、煙中から三日月を逆さにしたような刃が現れ、漂う幽霊を切り裂いた。
緑の長い髪が重力を無視して広がり、深い藍色のマントが霊夢の視界を遮る。
「み、魅魔ァ?」
奇妙な逆月杖を手にした緑髪の悪霊は、つい先ほど霊夢を案内したばかりの魅魔である。
だがどことなくその顔つきは先ほど見た時より凶悪に感じられた。霊夢の動揺にも軽口を返すことなく、出現するや否や即座に弾幕を放つ。
霊夢は直感した。悪霊の魅魔に対して表現するのは妙な話だが、目前の魅魔は幽霊だ。
博麗神社で戦った時の魅魔は、昔戦った時と大分違う弾幕を撃ってきた。ところが今対峙している魅魔は見覚えのある弾幕を撃ってくるだけに過ぎない。
この異変は過去の幻影を投影するというものだ。異変の中心で今まで戦ったことのある相手が復活してもなんら不思議はない。
「パターン化した攻撃なんて怖くもなんともないわね!」
弾幕を避けすがら、一方的に霊夢は魅魔の幻影に針やお札を撃ちまくる。やがて実体を保てなくなったのか魅魔は煙となって消えた。
と、なれば次の相手は予想できた。
「今度は私のソロ。夢奏『ストロベリークライシス!!』」
重低音の弦音と共に鮮烈な赤色の衣装に黒いマントがダンスホールに翻る。幻影として召喚された岡崎夢美は苺爆弾を雨霰と霊夢めがけてばら撒いた。
十字架状の爆風は一つ一つが信じられないほど巨大で、みるみる内に避ける場所を封鎖された。そこへとどめを差すかのように夢美は星屑の弾幕を放射する。
「ふ、『封魔陣』!」
慌ててボムで弾を消す。寝ぼけたかのように熱に浮かされた頭が、一気に覚めるようだった。久々に味わったが、相変わらず回避場所がほとんどわからない凶悪極まりない弾幕である。
おたおたしていては苺爆弾に押し潰される。霊夢は封魔陣で弾を消した隙を突き、一息に接近して大量の弾を夢美の幻影に撃ち込んだ。それをもものともせずに第二波の苺爆弾が降り注ぐが、炸裂した爆風が霊夢を直撃するより一瞬早く夢美の幻影は消え去る。
「さあハッピーソロライブの始まりよ! 綺奏『インフィニットビーイング』!」
荘厳な金管楽器の音色を従え、神々しい六枚の翼が煙を払った。幻想郷に顕現した魔界神は霊夢を見下ろし、翼から弾幕を放つ。
高速で密度の高い扇状の弾幕が霊夢の左右に展開し、壁となった。その制限された回避場所を埋め尽くすように、ぐねぐねと曲がるホーミングレーザーが時間差で何本も襲い掛かってくる。
一瞬でも精密移動する隙は無い。たとえアバウトでも全速力で動かなければ、たちまちホーミングレーザーは霊夢に食いつく。
それはわかっていたが、環境が最悪だった。判断力を奪う熱気と濃い匂いに絡みつかれたかのように、一瞬、動きが鈍る。次の瞬間、霊夢はレーザーをもろに受けた。
空中で体勢を立て直す。気を緩める暇すら無かった。思考を徐々に塗り潰す香の匂いは、霊夢の余裕をも奪わんとしている。
神綺の幻影は一回の被弾と引き換えになんとか打ち払った。しかし今の精神状態では、もう一発被弾して再び立ち上がれるか、霊夢自身疑問だった。
煙中に潜む騒霊は再び集い、合奏を始める。
「幽奏『イナニメイトドリーム』!」
幻影よりも何よりもまず真っ先に、魔力の奔流が噴出した。ダンスホールを埋め尽くさんほどの極大レーザー砲が幽霊も騒音も霊夢も何もかもを巻き込んで押し潰した。
だがスペルカード宣言と同時になんとなく嫌な予感を覚えていた霊夢は壁にぴったりくっついて、危うい所でレーザー砲をかわしていた。何分、似たような技を十八番にしている奴と日常的に弾幕ごっこをしている。経験がものを言った。
姿を現すより早く攻撃を仕掛けた幽香の幻影は、今より長い緑髪を揺らめかせ、今と変わらないパラソル一本を持ち穏やかな微笑を浮かべていた。
霊夢の周囲で弾幕の炸裂音が弾けた。三百六十度を包囲した弾幕は回避空間を限定。そこに幽香は悠々とパラソルから霊夢を狙った弾を発射する。寝起きからすっかり目が覚めたのか、力任せの攻撃に比べて芸が細かくなっていた。
そう考えた自分を、霊夢はまだ客観的に見れた。
五感を鈍らせる環境。
過去に相対してきた敵との再戦。
精神的余裕のない現状。
それらが総合し、ほんの一瞬霊夢の記憶を過去へと飛ばしていた。
パターン化した弾幕は既視感を呼び、過去と現在の境界をあやふやにする。霊夢はだんだん、ここが夢幻館なのか紅魔館なのか地霊殿なのかプリズムリバー邸なのか、わからなくなっていた。
気がつけば、幽香の幻影は消え去っていた。ボムも使いきっていた。針とお札は残り少なかった。
しかし三姉妹も焦っていた。彼女らの掲げるスペルカードも、最後の一枚となっていた。
十八世紀、イギリスにて――
父の葬式が執り行われた。
皆、どこか演劇でも見ているかのような面持ちだった。末の娘だけが本当にあの棺桶の中で父が眠っているのだと信じていた。
葬式を境に、怪現象はぴたりと止んだ。だが少なくなりすぎた召使たちと、当主を亡くしたプリズムリバー家に成す術は何もなかった。毎日毎日この家に所縁があると主張する誰かしらがやってきて、そのたび屋敷はみすぼらしくなってゆくのだ。
末の娘は壊しきれない香炉を捨てることにした。
だがそれは正しかったのだろうかと、一番上の姉が嫁いでいったことで疑問に思ったのだ。
あの禍々しく感じられた幻影たちが、今は愛しい。
末の娘は――否、最初から皆気づいていたのかもしれない。あの香炉が生み出す幻影は幽霊ではない。
記憶だ。
誰かしらの記憶が、再び生を得たかのように実体を持って流れ出ただけだ。
そして人の記憶とは決して良い思い出ばかりではない。恐れや不安は後ろ暗い記憶を揺り起こす。暗闇で自分の影に怯えぬ者は傍から見れば滑稽だが、恐怖に浸かりきった人間には真実以外の何者でもない。
一つ上の姉と一緒に、末の娘はどこかの家に引き取られるはずだった。
引き取られる当日。末の娘は今はもう人気の無い屋敷の中を隠れ回り、逃げ回った。絶対に行くのは嫌だった。
父は言ったのだ。姉さんたちと仲良く遊べる日が、戻ってくるはずだと言ったのだ。
暖炉の隅で煤まみれになってうずくまり、末の娘は泣きじゃくった。
――konnatokoromadenagaretesimatteitanone
未知の言葉が聞こえて、末の娘はびくりと顔を上げた。
暖炉の中からは部屋の様子が全て伺うことはできない。ただ、暖炉に腰掛けた少女の脚と思しきものだけが末の娘には見えた。
こほんとっ、と咳き込んだ頭上の少女は流暢な英語で喋った。
――落し物よ、お嬢さん
香炉が、暖炉の中に投げ込まれた。
火種が放り込まれたかのように、末の娘は香炉から距離を取ろうと狭い暖炉の中で身をすくめた。それが全ての元凶であると、末の娘はなんとなしに感じ取っていた。
――それは元々
ほぅっ、と頭上の何者かはため息をつく。脚は少女のものだった。しかし上半身はそれに順ずるものであろうかと、根拠も無く末の娘は疑問に思ったのだ。
――元を正せばそれが流れ出たのをきちんと管理できなかった私に責任があります。だから一度だけたずねましょう。人間のお嬢さん。貴女はその香炉に再び火を付けたい?
――レイラー! 早く出てきなさーい!
一つ上の姉の、リリカの声が聞こえた。
末の娘は、歯を鳴らしていた。夏だというのに、異様に寒かった。
突然虚空からシルクの手袋をはめた少女の手が現れ、末の娘の手を握り締めた。直感的に頭上の少女の手だと感づいた。そしてやはり
手の中に何かが押し込んで虚空に少女の手が引っ込んだ。マッチ箱と練香が収まっていた。
――レイラ! いい加減にしないと置いてっちゃうよ!
あれは幻聴だろうか?
――レイラ、早く来なさい!
――レイラ、お茶にしましょう?
――レイラ、おいで。お話を聞かせてあげる
――レイラ――
幻と現の境界は一体どこにあるのか。
それは立ち上る香の甘くきつい匂いと、真っ赤な火の中ではもう誰にもわかることのない曖昧なものだった。
「『虹色の橋を架ける幻奏の炎葬』」
最後のスペルカードが宣言された。
煙は渦を巻き、火の粉は立ち上り、炎が床を、壁を舐めた。しかし鼻を突く黒煙の匂いは届かず、ただただ甘ったるい匂いが霊夢の脳髄を満たしていた。
ぎしぎしと悲鳴を上げてシャンデリアが落ちる。床に散らばったきらきらとした破片が炎の色を照り返し、虹色に輝いて見えた。
どんな弾幕が放たれているのか、霊夢は視認しているはずなのになぜか認識できなかった。霊夢が見ているのは、炎に包まれて今正に燃え落ちんとする洋館だけだ。
それでも肌が、なんとなしに弾幕の気配を感じていた。熱風が吹き荒れているような錯覚を無視し、霊夢は触覚と勘を頼りに弾幕を避ける。
天井が崩れ、火の粉が雪のように舞った。柱は崩れ落ち、既に屋敷は立体的な構造を保てなくなっていた。
プリズムリバー三姉妹渾身の演奏も、今の霊夢には遠い。
ただ、最後の一枚となったお札を投げつけた瞬間、香炉の傍で茫然と座り込む少女の姿が見えた気がした。
博麗神社にて――
今年一番の桜は例年通り博麗神社がかっさらった。それを理由にぞろぞろ妖怪どもが集まってくるぐらいなら二番目でも三番目でも構わない。いや、片付けさえ自身以外の誰かがやってくれるのなら妖怪が集まって宴会を開こうがライブを始めようがどうだっていいのだ。霊夢はほろ酔い頭で妖夢あたりに片づけを押しつける手立てはないものか考えてみた。
招待もしていなければ日時も決めてもいないというのに、せいぜい三部咲き程度の桜を愛でに酒や珍味を各々手にして妖怪たちは博麗神社に集う。音頭を取る幹事すらいないのをいいことに到着順から勝手に酒盛りを始めるのっけからの無礼講だ。そこではもう人間も妖怪も幽霊も生き物も死に物も関係なく、少女たちが姦しく騒ぐだけである。
「で、なんであいつらはあんな妙な真似ができたんだ」
宴会芸に一曲演奏を披露しているプリズムリバー三姉妹を横目に魔理沙が霊夢のお猪口に酒を注ぎながらたずねてきた。霊夢も魔理沙のお猪口に注ぎ返してから答える。
「去年大掃除していたら変な香炉が出てきたからそれで色々遊んでいる内に使い方に気がついて、例のライブを企画したんだって。発端は、ほれ、あの一番ちっこいの」
「カラス並みの脳みそだな」
「そもそも霊体に脳みそなんてあるわけないし」
「猫の足音とか魚の吐息とか山の根元とかと一緒だな。そんなありもしないもんより、ほら霊夢。かにみそでもどうだ。紫が持ってきた海の珍味だとよ」
「ふうん……ところで紫、あんたが持ってきたこの黒い粒々何? 食べられるの?」
「ええ、キャビアですわ。正露丸を一粒混ぜ込んでおいたから大正浪漫の薫りがするわよ」
霊夢も魔理沙も既に興味は珍味と酒の方に移っていた。花より団子なお年頃である。
「ええ、キャビアですわ。正露丸を一粒混ぜ込んでおいたから大正浪漫の薫りがするわよ」
口元を扇で隠しながらそう言う紫の逆の手は、空間のスキマに突っ込まれていた。
スキマから抜け出た手にはところどころへこんだ古い香炉が握られている。それがまた別なスキマに放り込まれ、空間が閉じられる様を妖夢は見てしまった。
相手が相手なので、類友極まりない自分の主人の袖を引く。
「幽々子様、紫様がまたも何か妙なことを……」
「妖夢、そこのキャビア取って~」
「はあ、どうぞ」
「いや鉢ごと」
「高血圧になりますよ」
紫と類友な幽々子がわかりやすくまともな形で質問に答えてくれた試しはない。妖夢は目の前の疑問を諦めて、なんとなしに文からのインタビューを受ける霊夢と魔理沙を眺めた。
「ああ、で、無名の丘でなんか子供の幽霊がたくさんいてたわけだが。結局あれなんだったんだろうな」
「それは口減らしに捨てられた子供の霊ですね。親が妖怪に拾われて成長していたらこうなっていただろうと幻視していた姿が幽霊となって現れたんでしょう」
「捨て子の霊夢の正体もそんなもんかもな」
「じゃあ私がプリズムリバーん所のお屋敷で見た女の子も、そんな幽霊だったのかなぁ」
妖夢にしてみれば、先日の一件は迷惑以外の何物でもなかった。冥界からぞろぞろと幽霊たちが下界に降りて行ったのは最近よくあることだから仕方ないとしても、騒ぎを起こされてはたまったものではない。一部をぶった斬りながら幻想郷中を右往左往して幽霊どもを連れ帰った記憶は新しすぎる。
オマケに、白玉楼の桜も良い感じに咲き始めてきた。自分ん家の宴会の後片付けは自分の仕事。こんなに狭い家に住む霊夢が少し恨めしい。
「妖夢、どう思う?」
「はい?」
キャビアの鉢を掴んでいたはずの幽々子が、空の鉢を妖夢に突っ返しながらたずねてきた。あらゆる意味がわからない。
「霊夢が女の子の霊を見たのよ?」
「それがどうかしたんですか。女の子の霊ならあそこで演奏してますし私の半分もそうですし大体幽々子様ご自身それじゃないですか」
「あそこの騒霊は末の娘が魔法を使ったからまだいいのよ。でもなんで、末の娘がもういないのに末の娘自身の幽霊が実体化されたのかしら?」
「幽々子様、注ぎますか?」
「注いで」
「どうぞ」
「ありがとう。だってね妖夢。不思議なのよ。あそこの末の娘の霊は
「見間違いでしょう」
「あら妖夢、冴えてるわね。そう見間違い。錯覚。ただの幻覚。幻視に過ぎないわ」
幽々子は杯に満ちた酒を水鏡に博麗神社の桜を映し取ると、こくりと喉を鳴らして飲み干した。
悪霊とか教授とか魔界神とかの幽霊のところは光景が脳裏に浮かぶようでした。
それとも大丈夫?
大丈夫ならそれで良いけど…。
ただちょっと展開が早く感じたような気がするけど
楽しめました。