※注意:このお話は前話である作品集61「スキマとキュウビ/零」「スキマとキュウビ/前夜」及び作品集62「スキマとキュウビ/宴の始まり」の続きです。
もし未読でしたら、お手数ですがそちらをご覧になって頂いてからの方がよりお楽しみ頂けます。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宝永四年十月四日───
未曾有の大地震が日本を襲った。
中部をはじめ、近畿、四国、九州に於いても同時に発生したこの大地震は、少なくとも筆者が知る中でも最大級のものである。
地震、それだけの被害に留まらず、それによって発生した津波で多くの家屋が流失した。
我ら天狗は、各地の山に棲む同胞の情報を集め、その被害の概算を出した所、人間及び妖怪の死者は三万近くに及ぶものとなった。
しかし、この大地震が引き起こした恐怖はそれだけに留まらず、さらなる災害を次々ともたらしたのである。(後略)
───以上、或る天狗の手記を元にし、射命丸文が意訳し、百二十三季に発刊された「文々。新聞」の記事より抜粋。
■■■■■■■■■■■■
富士上空。
巨大な二つの金色の光が、雲間からちらちらとまるで雷鳴の如くぶつかり合うのが地上から見て取れる。
光が激突する度に耳を劈(つんざ)く強烈な音が周囲に響き渡り、衝撃波が時折混じって空気を振るわす。
八雲紫と九尾の妖狐の激突。
大地震より二十日余り経った現在もなお、二者の戦いは留まる所を知らず、それどころかますますその勢いは激しくなるばかりであった。
幾条もの閃光が八雲紫より放たれ、妖怪狐の金色の体毛から生み出される妖魔の類がそれを相殺する。
妖狐が巨大な狐火を吐き出すと、すきま妖怪はそれを何重にも張り巡らされた結界で防ぐ。
ひとつひとつの応戦そのものは、巷にはびこる妖怪の戦闘行為そのものと何ら変わらないのであるのだが、その規模や応酬の速度は常識を大きく外れたものだ。
そしてまた、彼女らが意図してかしていないか定かではないその弾幕は非常に優美で、もしこれを見ることが出来る者が居たとしたらおそらくその密度、速さ、美しさ、重厚さ、繊細さに心奪われたに違いない。
「さぁ! もっと! もっと、激しく踊りなさい! その程度ではこの私に痛みを与えることすら出来ないわ! もっと! もっと、狂々(くるくる)と踊りなさい、九尾!」
咆哮にも似た八雲紫の怒号。
九尾も戦いの初めのうちは、彼女の火の如き呼号に自らが内の妖怪としての本性、血が沸き立つのを否定せずに激しく戦いに応じた。
今も形の上では応じるように戦ってはいるが、狐には何故かすきま妖怪のその咆哮に違和感を覚える。
お互いに妖怪としての戦いの本性を剥き出しにしながら、しかし九尾は冷静にその違和感の原因を探る。
すきま妖怪と九尾の妖狐は、因縁こそ数千年に渡るものではあるが、直接対峙してきた年月で言えば数年にも満たないもので、戦った数は四度。
過去四度の戦いに於いて、今の彼女の姿が重なるのは一番最初、商の時代に対峙したそれに近く思える。
だが、最初の対峙の時も今のような狂喜を含んだ様相とはまた違った。
あの時の様子はどちらかといえば激昂そのものであったと感じる。
だが、少なくとも他三度の戦いでは、彼女は大層冷静で、まるでこちらをあざ笑うかのような冷笑を浮かべたまま他人を動かし、自らは補佐的な位置での立ち回りであった。
戦った事には変わりないが、直截対決した、と言うのには少々違う。
すきま妖怪は九尾の知る限りでは冷静で、常に策謀を張り巡らせる妖怪だ。
そう感じる要因のひとつとして、彼女の見せる狂喜はその内に秘められた別の感情を上塗りするかのような雰囲気を帯びていること。
ではその内に秘めた別のものとは。
おそらく策を練っているに違いない───九尾は八雲紫の違和感の原因とその先に待つ結果をそう結論付けた。
九尾は八雲紫の思惑の先にあるモノを読み、敢えて相手の手に乗った振りをして隙を伺う。
意識を戦闘行為に戻すと、既に狐の周囲には千を優に超えるであろう妖力で編まれた鋭利な弾丸が妖狐を覆っていた。
「オオオオオオオォォォォッッッ!」
山の如き巨大な体躯から発せられた地の果てにまで届かんとする狐の咆哮は、周囲を覆い尽くす弾丸を悉く消し飛ばし、同時に空気が爆ぜる音の波は八雲紫へ回避不能な攻撃として襲いかかる。
波がすきま妖怪を喰らう直前、彼女の身体は忽然と空間の裂け目に飲み込まれ、次の瞬間狐の上空に再び姿を現す。
眼下にいる妖狐を睨め付けながら、間をおかず八雲紫は片手に持つ洋傘を開き、回転させる。 その回転運動は人間の可聴域を超える程の高音を響かせた。
超高速で回転する傘は次第に妖気を纏い、青白く発光しながら肥大し、断首の刃となって直下にいる狐の首を欲さんと落下する。
刹那、妖狐の九本ある尾の一つの毛が瞬く間に伸び、傘を絡め取り、すきま妖怪の傘を彼女の妖気ごと締め砕く。
傘を締め砕いた毛は、そのまま九尾の上方に居る八雲紫目掛けて伸び、彼女を絡め取った。
みしみしと音を立てて締め付けられるも、すきま妖怪の表情は変化無く狂喜の笑みを浮かべたまま。
「まだまだ、足りないかしら」
彼女が唯一自由に利く右手をおもむろに振り下ろすと、妖狐が砕き飛散した傘の破片が閃光の刃となり、すきま妖怪を締め付ける狐の毛を刈り取った。
閃光の刃は毛を刈り取ると、刃のような鋭さから一転、八雲紫の右手に蛍が集まるかのように優しく収束し、再び元の洋傘へと姿を変える。
依然、八雲紫も九尾の妖狐も傷らしい傷は負っていない。 八雲紫に関して言えば、九尾の毛に拘束されたにもかかわらず、彼女の纏う服に一分の乱れすら見当たらない。
互いの実力が拮抗しているためか、はたまた互いにまだ余力を残して戦っているためなのか───いずれかを判断する第三者はこの場には、存在しない。
二者の戦う富士上空は、地震によって夥しい被害を受けその影響からか、二十日経過してなお厚く暗い雲に覆われ、夕方の赤い光も届かぬ地上とは打ってかわり、雲一つ存在しない透き通るような空気と血のような紅に満ちた世界。
それもそのはず。 地上から見た暗い雲は今まさに彼女達の眼下に存在し、二匹の妖怪達が死闘を演じている舞台は完全に下界とは遮断されていた。
しかし、あまりに大きな力を持った二者の激突は、分厚い緞帳の遮断すらも抜け、下界に影響を及ぼした。
張り裂けんばかりに叫ぶ天空を見た地上を這う人々は、その様がまるでこの世の終焉をもたらすかのように映り、彼らは神仏に祈る他無かった。
もがき苦しんでいるのは人間だけではなく、地上を這う妖怪達もまた同様だったが、島国を覆う人々の悲痛な叫びは、妖怪達の血を大いに沸かせ、活動的にさせる。
人間の暗く、絶望や悲痛等の負の気に当てられた妖怪の多くは我を失い、各地で暴走を始め、普段人目を避けるような大人しい妖怪ですら人間を襲い始めた。
江戸を始め、京都や摂津等の大都市はまだ政府の機能が僅かながら生きており、妖怪達の猛攻に耐えつつ地震の被害からの復旧を行うことが出来たが、都より距離が離れた農村や山村などの有様はおおよそ残虐を極めていた。
人々は見えぬ朝日を渇望し、眠れぬ夜を過ごし、絶望の淵で次々と息絶えていった。
弱りゆく人々の負の気質は天に立ち上り、それがまた天と地を分かつ厚い緞帳をより一層強固な物とする。
今、この島国は大地震の傷痕と魑魅魍魎が跋扈する地獄の坩堝と表現しても過言ではないだろう。
そして、その地獄の中を一匹の質量を持たない光る蝶が、富士へ向かって飛んでいることに気づく者など───居るはずがない。
いつまで続くかわからぬ日の閉ざされた世界は、人々の暗澹たる負の連鎖によって際限なく締め付けられていた。
ふたつの妖怪の戦いは昼夜間断なく続けられた。
妖怪である二者に食事や睡眠等は本来決して必要なものというわけではない。
確かに食わねば腹の虫は過激な演奏を行うし、眠らなければ睡魔は足音を立てて忍び寄る。
しかし、ただそれだけ。 食わずとも数百年や数千年死ぬことは無いだろうし、睡眠とて同義。
闘争に一旦火が灯れば、あとはどちらかが倒れるまで終わることは無い。
互いの全てを食い尽くすまで、この闘争に終止符を打つ術は存在しない。
太陽が昇り、月が顔を覗かせ、星々が思い思いに輝く。
夏の暑さも完全に消え失せ、秋から本格的な冬の訪れを感じさせる冷たく、身体の芯に刺すような透明な空気が二匹の妖怪が対峙する世界を支配する。
だが二者はそのような世界の移り変わり等、全く意に介さず、如何にして目の前の敵を討ち滅ぼすか───。
それのみであった。
僅かに二者が戦い以外のことに割いた思考といえば、地獄の坩堝と化した地上の人間や妖怪達の負の気質が遠く離れたこの天空にも届いていたことであろうか。
しかしながら、相手を倒すのみの闘争に僅かばかりの間が置かれる。
「夥しい数の人間が死んだな」
「ええ。 死んだわね。 負の気質が立ち昇り、素敵な緞帳を作り上げているわ」
狐の口から冷気とも妖気ともつかない吐息が零れる。
自分よりさらに高い位置に居る八雲紫を上目で睨め付け、言葉を交わした。
戦いより数十度目の夜を迎え、月を背にする八雲紫は敵である狐から見ても美しく感じた。
「…………私は過日、あの月に攻め入ったわ」
ふと、八雲紫は戦いの手を止め、洋傘を下ろすと背にした月の方へ向いて呟いた。
妖狐が先に放った一言を受けて、水入りのつもりだろうか。
何も返答せず、ただ上目ですきま妖怪を凝視し続ける。
「ええ。 月は地上に住まう私にとって、未知の存在だったわ。 こんな私もやはりこの星に住まう存在なのね。 それをありありと感じさせられたわ」
「…………」
返答はしない。
しかし、八雲紫も狐のその反応を見て、話を聞く気になったのだと認識し、言葉を紡ぐ。
月と星々の逆光により、八雲紫の表情はわからないが、笑っているように見える。
彼女の放つ気は、先までの狂喜と殺気とそれ以外の何かが入り交じったモノではなく、だいぶ落ち着いた、平静のそれに近い。
一旦矛を収めようというのだろうか。
「山に住まう者は海ではその力を完全に発揮することは出来ない。 水の属性にある者では火に相剋す。 如何に天にも地にも束縛されない者とて、この星で生を受けた存在はこの星の外にあっては益体もないのよ」
「げに恐ろしきは自らを知らぬ浅はかさだな」
「近すぎた故の勘違いね」
近すぎた───すきま妖怪の能力というのは月にまで影響を及ぼすと言うのか。
だが、彼女の能力を持ってしても月を討つこと能わず。
八雲紫のおしゃべりに釣られ口を開き毒づいたものの、妖狐は僅かに月に興味を覚える。
あのすきま妖怪を退ける程の存在。 如何に彼女の言うように地の利が向こうにあるとしても、それに興味を持たざるを得ない。
そして、月への侵略等これまで考えたことも無かった。
おおよそ、狐にとってそんなものは天に映るひとつの景色以外の何者でもなかった。
「貴様が我を欲するのは月への再戦のためか」
「近からず、遠からず、ね」
戦闘開始より既に一月近く。 今だ互いに決定打は無し。 おそらくこの先もしばらくは同じような戦局が続くのは必至だろう。
現状では互いにまだ小手調べの段階。
ならばここいらで小休止というのも悪くはないし、何より目の前のすきま妖怪の話に興味も沸いた───九尾はそう思い、八雲紫同様先までの昂ぶった気を少々遠ざけた。
「こんなにも憎らしく綺麗な月ですし、少し語るとしましょう」
そうして、八雲紫はゆっくりと語り出す。
■■■■■■■■■■■■
八雲紫と九尾の妖狐の水入りより時間は前後して、十月十五日。
その日三途の川の水先案内人、小野塚小町はいつもより早く仕事が終わってしまったために、時間を持て余していた。
普段ならば、霊達の渡しが溜まっていても気兼ねなく仕事を放棄し、そこいらで惰眠を貪るのであるが、逆にするべき仕事が既に片づいてしまうと妙に心許ない。
手持ちぶさたになってしまった彼女は、先日訪れた白玉楼の二人との会話について、閻魔である四季映姫に訪ねてみようと彼岸へ船を運んだ。
白玉楼の二人が訪れ、彼女の上司である四季映姫と会話を交わし、その後何かしらの手続きのための書類とおぼしき物が冥界へ運ばれて行ったのは、同僚の死神から聞き及んでいた。
同僚の話によると、彼女らの談義の内容はすきま妖怪に関することだったらしい。
すきま妖怪───八雲紫は、小町にとって友人というものではないが、割と古い顔なじみだった。
少なくとも二~三百年前に幻想郷に建立されていた地蔵から閻魔として彼岸に赴任した四季映姫や、五~六百年程前に冥界・白玉楼の主として収まった西行寺幽々子よりは長い付き合いである。
千年近く前、すきま妖怪がこの幻想郷の地に来た頃から知ってはいるが、その間特に二人で多くの言葉を交わしたわけでもない。
向こうは小町のことをただの一死神としてしか見ていないのだろうが、小町にとっては多少特別な妖怪であった。
人間以上に人間くさいのに、どの妖怪よりも妖怪らしいあのすきま妖怪への興味は尽きない。
立場上おいそれと探ることも出来ないし、自ら声をかけるのもなんだか妙な話だ。
いつか彼女が往生した際、その死後を見届けてみたいとは思うが、人間の死を管理している彼女にしてみれば叶わぬ思いでもある。
そもそも、あのすきま妖怪が往生する姿なぞ、この先どれだけの月日の果てか想像も出来ない。
小町は下働きのような仕事に従事しているとはいえ、神の一員。 人や妖怪のような寿命なんてものは無いが、それでもあの妖怪の最期を見るまで自分が存在しているかどうかは疑問に思える。
見えているのに見えない。 生きているのに生きていない。 "そこ"に在るのに"そこ"に無い。
つまり八雲紫というすきま妖怪はそんな妖怪なのだ、と小町は考えていた。
おいそれと触ることは出来ないが、かといって見て見ぬ振りをさせてはくれない。
不思議な距離を保ちつつ、小町は千年近く八雲紫を見てきた。
だが、小町が同僚から聞き及んだ映姫と幽々子の会話から想像される八雲紫はどうにも小町の想像する八雲紫像とずれがある。
不思議な距離を保ってきた自分と、あのすきま妖怪の間に生じた齟齬を埋めたいと思っていた。
そうしてぼんやりと小町が船を漕いでいると、次第に彼岸が見えてきた。
小町は船を彼岸につけると、櫂を無造作に置き、軽やかな身のこなしで船を下りる。
どこからともなく降り注ぐ暖かな光を受けている彼岸の花畑を横目に、小町はのんびりとした足取りで映姫の元へ赴く。
途中、見覚えのある幽霊がちらほらと見られたが、彼らに声をかけても返事などは無い。
此処に居る彼ら、幽霊達は閻魔の裁きを受けるためにただ待つことのみ許されている存在。
この待つ時間は、幽霊達が「自分は死んだのだ」と自覚出来るための時間とも言われている。
彼岸の先に目をやるとまだそこそこの幽霊達が列を成して裁きを待っていた。
「まだ少し終わるまでに時間がかかるかな」
今すぐでなくても、とりあえず時間を取ってもらえれば───小町はそう考えその旨を伝えるために幽霊達の列をかき分け前に進む。
例え小町が横から割って入ろうとも順番を待つ幽霊達は何も言わない。
死人に口なし、なのだから。
「小町、貴女また仕事放棄?」
一際列を進んで前に仕事に従事している閻魔の前まで着くなり第一声がこれだ。
「いやいや、遊びに行くなら四季様の前になんか顔出しませんよ。 今日の分の仕事はもう滞りなく終わりましたんです、はい」
「では何か用でも? 生憎、私はまだ仕事中だから。 用があるならあと一刻ほど待っていなさい」
普段が普段なのだから、仕様がないとはいえ少々出鼻をくじかれた気分だ。
ただ、映姫の仕事がまだ終わっておらず、待たされるであろうことは多少予想出来ていたので、適当な死神を見つけては話しかけ映姫にそれを咎められつつ、小町はその場を離れて時間を潰すことにした。
ぶらぶらと他の死神やら幽霊やらに声をかけ回り歩を進めていると、ふと彼岸の花畑に視線を取られた。
なんのことはない、いつもの彼岸の花畑だ。
ただ、何となく普段より早く仕事が片づいてしまって暇を持て余していたが故に、常日頃の風景が目にとまっただけ。
例え幽霊の数が少し減っていたとしても、気づかないくらの日常。
小町にとって、その日の幽霊の多い少ないの平均なんてものは余り気にしたことがない。
漠然と話し相手が多いか少ないかくらいの感覚だ。
仕事をせずに油を売っていれば咎められるし、仕事をしたとしてものんびりと幽霊に話しかけながらなので渡しの仕事が滞り、それもまた映姫に咎められる。
四季映姫が幻想郷の彼岸に赴任してからおよそ数百年。 これが今の小町の日常だ。
映姫が赴任してくる前の幻想郷の彼岸はどうだっただろうか。
朧気に覚えていないこともないのだが、あまり思い出す必要性も感じられなかった。
ただ、あまり今と変わらない。 それは間違いないだろう。
咎める相手が映姫か別の誰かか、その程度の違いだった。
そういえば、あのすきま妖怪にも咎められたことがあったな、と小町は思い出す。
あの時、幻想郷へ足を運びこの彼岸の花畑のような暖かな日差しの中昼寝をしていたら、突如現れたあのすきま妖怪に咎められたのだ。
「この地の人々は非常に安穏としている。 死神もまた暢気な仕事なのね。 人は絶えず死に続けているというのに。 怠け者め、閻魔様にこっぴどく咎められるが良い」
金髪金目に大陸風の道士服を纏い、凛とし身体の芯に突き刺さるような金属質な声。
優雅な午睡を貪っていた小町の前に忽然と姿を現したすきま妖怪に度肝を抜かれたのをよく覚えている。
普段誰かに死神の仕事云々と言われれば、言い訳のひとつでも返すのだが、あのすきま妖怪には有無を言わせぬ雰囲気を醸し出していた。
幻想郷の花畑に舞う花びらと彼女の見目麗しい姿が融和し、一瞬惚けてしまったせいもあったかもしれない。
これが小野塚小町と八雲紫の最初の出会いだった。
滅多に昔のことなど思い出さない小町は、ふとしたきっかけで昔日に思いを馳せると、次から次へと過去の出来事が思い出される。
たまにはこういうのも悪くは、ない。
柔らかな光の中が注ぐ花畑に身を任せると、次第に小町は声を上げて行進してくる微睡みの侵略に抗うこともせず、そのまま眠りに落ちた。
映姫の仕事が終わったら何から聞こうか、それを聞いて自分は何をしようというのか。
そんな思考を巡らせていると、あまり会うことはないのに、はっきりと思い出せる八雲紫の顔が小町の意識が落ちる最後の瞬間まで、瞼の裏に焼き付いていた。
幻想郷はもう冬になるというのに、ここは春の如き暖かさが一年中変わらずに続いている。
三途の川もこのぐらい華やかなら、賽の河原で石を積み続ける子供達ももっと早くに自分の死を受け入れられるのに。
そして小町は、賽の河原で常春の暖かさに包まれながら自らの死を受け入れる子供達の夢を見た。
人が死に、霊魂が三途の川を渡り閻魔の元へ訪れるのは死後三十五日後と言われている。
既に幻想郷を含んだ日本全土が、九尾を封印した殺生石の解放により大地震が起き、夥しい数の死者が顕界では出ているが、彼岸に於いてはそれらによる死者の魂は、まだ訪れてはいない。
三途の川の水先案内人・小野塚小町はいつもと変わらず幽霊を彼岸まで送り、楽園の閻魔・四季映姫もまた、いつもと変わらず幽霊達に引導を渡している。
もちろん彼女達は顕界で大きな災害が起きたことは知っていたが、急いで仕事を片づけるようなことはない。
なぜなら、大地震より三十五日後の五七日(いつなのか)のその日まで彼女達が忙しくなるようなことは無いのだから。
大地震の日より一ヶ月と少し後に大量の幽霊達が来る。 そういう心構えだけあれば良いのだ。
■■■■■■■■■■■■
十月四日、未の刻。
九尾の解放に依って引き起こされた未曾有の大地震は、幻想郷に於いても深刻な被害をもたらしていた。
地割れが起き、家屋は倒壊し、二次災害によって山からの土砂崩れ、火事。
多くの人間が亡くなったが、幻想郷は外の地域と比べ混乱の度合いは割合低い方であった。
幻想郷は、幻想郷の外の地域と比べ妖怪が多く跋扈している地域であり、常日頃から妖怪による被害は多かれ少なかれ人里に棲む人々の耳に入ってくる。
妖怪に食われる者、妖怪に誑かされ財産を失う者、そういった情報や状況は里の人々にとっては日常のひとつでもある。
今回のような大地震が起きても、彼らは自らの身を守る術を知り、かつこれから起こりうるであろう二次災害に対する心構えを持つことが出来ていた。
地震よりおよそ半刻後、幻想郷の迷いの竹林の中にひっそりと佇む永遠亭では、地震後の屋内の片付けのために住人達が慌ただしく動いている。
「屋敷の状況はどうなの、報告をお願い。 てゐ」
「被害の方は概ね本棚が倒れたり、食器や医療器具をはじめとした割れ物はほぼ全滅って感じ。 建物そのものは全然大丈夫。 柱への損害は見当たらないよ。 屋根瓦は結構落ちちゃって散らかってはいるけど」
「そう。 じゃあ、兎達と一緒に食器とかの割れ物の片付けをお願い。 書物や医療器具関連は私がやるから。 食器棚とか倒れるものは、まだ余震も考えられるからそのままにしておいていいわ」
永遠亭に棲む薬師・八意永琳は竹林の兎達の長であり、同じく永遠亭の住人である因幡てゐにその旨命じると、足早に書庫へと歩を進めた。
家具やらが散乱した居間に残されたてゐも兎達を集め、片付けに取り掛かる。
迷いの竹林の中に在るこの永遠亭では、人里や妖怪の山に比べて非常に被害は小さかった。
それはひとえにこの永遠亭の周囲に広がる竹林のおかげであることは言うに及ばない。
竹は一本の根が水平に広がり、そこから大きな家族を形成し、地面をしっかりと抱えるため非常に地盤が安定し、地割れが起きにくい。
また、この迷いの竹林は多少の傾斜はあるものの基本的に平地だが、山などに竹林がある場合、竹のその性質上土砂崩れ等の二次災害を防止するのにも有用とされている。
古来よりその性能を本能で知っている迷いの竹林に棲む兎達は、基本的に臆病な性格ながらも、地震の後は普段通りに振る舞っていた。
兎達の長であるてゐももちろん、そのことは既知のことであり、兎達を手際よく集め作業に取りかかってはいたのだが、どうも気分がささくれ立っている。
「"ただの"自然災害の地震ならともかく、どこぞの妖怪の八つ当たりだったり、見栄っ張りに付き合わされてこんな被害を出されちゃ堪らないね。 こんな大きな揺さぶりをかけられたら、起きなくても良い連中まで起きちゃうじゃないのさ」
「あら、その話、なかなか面白そうじゃない。 続きを聞かせてもらえないかしら」
「うぇっ! 姫、いつの間に」
ため息混じりに皿の破片を拾いながら気づかずぼやいていたてゐの独り言が、いつの間にか現れた永遠亭の主であり、元月の姫である蓬莱山輝夜に聞かれていた。
「いつの間に、だなんて酷いわね。 ずっと私は後ろに居たわよ。 地震の後、永琳は片付けで忙しそうだし、構ってくれないからあなた達が慌ただしく働くのでも見て暇を潰そうかと思っていたの」
「だったら手伝ってくれてもいいんじゃ……」
「それはあなたの面白そうな話次第かしら。 でも、私は割れ物拾うのは指を切りそうだから嫌だし、汗水流して重い物も持ちたくないわ。 木材なんかも服が汚れるから触りたくないけれどね」
まったくもっての姫様である。
手伝っても良いかもしれない、と言いながらも全く手伝う気など無い。
ともあれ、このまま輝夜を無視していたら暇を持て余した彼女が何をするかわかったものではない。
そうなれば余計に作業が進まなくなる可能性が非常に高くなる。
ただ、自分の愚痴を詮索されるのもあまり良い気もしない。
「別にそんなに面白そうな話じゃないよ。 それに、私はお師匠様から命令受けて片付けやってるんだから、油売ってたら地震に次いで雷も落ちてくるさね」
「火事と親父もあれば完璧ね。 親父とはいかないけれど、じゃあ、永琳も呼んでくればいいのね」
どういう道筋を辿ればそういう論旨に行き着くのか甚だ疑問である。
とにかく暇で暇で仕方のない輝夜はてゐの返事も待たずに言うや否やすぐさま永琳が居るであろう書庫へと走っていった。
嘘をついて煙に巻く暇すら与えてもらえなかったてゐは、その場に呆然と立ちつくすしかなかった。
「片付けをしなくて済むのはいいんだけど、何か釈然としないな……」
嘘のひとつでもついてやろう。
どこから沸き上がってくるかもわからず、そのやり場の無い苛立ちを抱えていると、あっという間に輝夜が永琳を連れて戻ってきた。
まだ先ほど拾っていた皿の破片を拾いきってすらいない。 どれだけ暇なんだ、あの姫は。
「さぁ、てゐ。 続きを聞かせてもらうわよ」
「てゐの話を聞くのに何で私が連れてこられなきゃいけないんですか」
「だって、てゐが怠けていると永琳に怒られるって言ってたから、じゃあ永琳も一緒に片付け休んでいたら怒られないよね。 って話になって」
完全に独自の理論で動いている。
その行動原理に一切の迷いなど無い。
姫の暇故のわがままに振り回される二人は半ば諦め気味で大きなため息をついた。
逆に言ってしまえば、地震による永遠亭への被害というのはその程度には軽いのだと裏付ける。
「姫に聞いたけれど、地震の原因を知っているそうね」
「別に知っているという程でもないよ。 ただ、外を歩く兎達の話をまとめたら、なんとなしに原因の推測に足る要素があっただけの話」
「竹林の外で何かあったの?」
てゐは輝夜と永琳の方へ向かず、兎達に片付けを続けるように命令すると、そのまま背中越しに話し始める。
その仕草から永琳はてゐが気が乗らずに話しているということはすぐに察したが、わがままなお姫様はそんなのは知ったことではない、と我が道を突き進む。
小さな背中から覗かせるように輝夜の待ちわびる姿を見ると、てゐは観念したかのように話し始めた。
「二月程前に妖怪達が慌ただしくなっていたの。 どうやら月に喧嘩を売りに行ったみたい。 全く、夜空に浮かぶお月さんに殴りかかりに行くなんて一体どこの馬鹿者なのやら」
「月に? ちょっと永琳。 私そんなこと知らなかったわよ」
月といえば輝夜の故郷でもある。
およそ千年ほど前にこの蓬莱山輝夜は、ある罪のために月から地上に堕とされた。
「確かに気になることでしたけれど、今の私達がなにがしか干渉しようとすれば、そこから居場所が割れてしまいますからね。 だったら看過していた方がよろしいかと思っていたまでです。 それに私はてゐと違って外の様子を知る術はありませんもの。 てゐが兎達と話している事柄からそれとなく感じていただけでしたので、今こうやっててゐから聞くまで確証はありませんでしたし」
「それはそうだけれど……でも、もし月に何かあったとしたらどうするつもりだったの」
「結果的に何もなかったから、姫も何も知らないのですよ。 万が一月の都が危機に陥っていたのであれば、勿論行動は致しましたけれど。 少なくとも私が夜空から月を見ていた限りでは、特に大きな変化は見られません。 あの姉妹が上手くやってくれたはずですよ」
八意永琳も月から訪れた人間だ。
輝夜と永琳の二人は月からの追手の目から逃れるために、この永遠亭に隠れ住んでいる。
そのため、永遠亭には人の目に付かない結界が貼られており、てゐは二人に取り入って、竹林の彼女の子飼いの兎達に知恵を与えることを条件に迷いの竹林から人を遠ざけるように仕向けている。
ただ、てゐの力では迷いの竹林を完全に隠すようなことは出来ず、あくまで人々の意識があまり竹林に向かわないようにしているだけであるが、元々妖怪や妖獣がうろつくこの迷いの竹林は人の足が踏み入ることは少ない。
そのため、現在の迷いの竹林に人が入ってくるようなことは、まず無い。
せいぜい筍取りと竹を原材料とする道具の製作を生業とする一部の者だけが、入口からそう遠くない場所まで入っていく程度である。
輝夜達がこの永遠亭に住むようになっておよそ千年、てゐが永遠亭に訪れてから数百年。 この場所に住人以外の人間が訪れたことは一度も無い。
「ふーん。 それでも私に一言くらい教えてくれても良かったのに。 で、てゐ。 それと地震、どう関係があるのかしら」
「お師匠様の見立て通り、月に喧嘩売りに行った連中は見事に返り討ちにあった。 それでちょっと前にその討ち入りの首謀者である妖怪とおぼしき者が鬼と会ってる所を見た子がいるらしくてね。 まぁ、教えてくれた子も別の妖怪からの又聞きだから信憑性は薄いけれども、要石がどうたらって言ってたのが聞こえたみたい。 要石と言えば天人が地震の制御に使う代物。 それから数日と掛からずにあの大地震が起きたのだから……さっきの地震は天変地異の類というよりは、作為的に誰かによって引き起こされたものなんじゃないかって思っただけ」
ふむふむと納得しながら聞く輝夜。
いつの間にか用意されていたお茶を飲みながら少し考え、背中を向けたままのてゐに質問を投げかける。
永琳は黙って輝夜の後ろに立って聞いていた。
「でもさ、あれだけの地震が起きれば妖怪にだって被害は出るじゃない。 要石を除いて地震を起こす理由がわからないわ。 それに、いくら鬼が地の者とはいえ神の眷属が打ち込んだ要石をそう簡単に抜けるのかしら」
「そんなのは私の知ったことじゃないさ。 兎達がそういう報告をくれて、あの地震が作為的なもので、結果として私達は今こうやって地震を被り、必要のない片付けに手間取らされている。 そう考えれば頭に来るでしょ」
「私は別に片付けするわけじゃないから頭には来ないけれど……。 それじゃあてゐの言った見栄と八つ当たりってのはその妖怪が月に負けた腹いせってことなのかしら」
しれっとその場で働いている者達全員の感情を逆撫でするような台詞を吐いたお姫様。
拳握って殴りたくなる衝動を抑えながらてゐは言葉を続ける。
握った拳で肩が震えているてゐの姿を見て、てゐの気持ちを察した永琳は笑いを噛み殺していた。
「そう考えるのが妥当だと思うけれど。 息巻いて月に攻め込んだは良いけど、結果は敗退。 妖怪達を率いたってことはそれなりに力のある妖怪なんだから、首謀者にしてみれば面目丸つぶれじゃない。 で、力を誇示するために地震を起こしたと考えれば筋が通るし」
「なるほど。 それなら筋が通るわね。 それじゃあ、次がもっとわからないんだけれど。 起きなくて良い連中まで起きるって何。 地震を起こした妖怪と関係があるのかしら」
「う……」
「起きなくて良い連中まで起きる……?」
それまで呆れつつも和やかに聞いていた永琳の顔が若干強ばった。
てゐもそこまで聞かれていたのは完全に不覚だったと、少し言葉を詰まらせる。
「てゐ、それはどういうこと。 貴方、何を知っているのかしら」
てゐの次の言葉を促す声は、輝夜ではなくその後ろに控える永琳から発せられた。
その声色は催促のものというよりは、次の言葉を促す命令に近い。
どうやって、どこから言を紡ぐべきか僅かに思案した後、てゐはやはり背中を見せたまま口を開いた。
「ね、眠っている者達がこの地震で起きちゃうかもってだけ、だよ」
明らかにはぐらかしていることがわかる。
このまま口を割らせても良いのか。 てゐの反応からすると決して良いとも思えない。
しかし、はぐらかされていることだけに気づいた輝夜はてゐの心情等全く気にせず言葉を続けさせようとする。
「私はその眠っている者が誰か聞きたいのよ。 そして、それが起きるとどうなるのか、知っているのね、てゐ」
確実にてゐはそのことに触れたがっていない様子ではあるが、聞いておけばてゐの不安を取り除くことも出来るかもしれない。
そう思った永琳はてゐの口を割らせることにした。
「安心なさい、てゐ。 誰も貴方を取って食ったりはしないから。 私達に話せば何か力にもなれるかもしれない。 さ、話してご覧なさい」
ひとしきり悩み、てゐは観念したかのように向けていた背中を返し、輝夜達の方を向いた。
「……あれだけの大きな地震が起きたら、地下に眠る八十神達が目を覚ますかもしれない……。 そうなったらオオナムヂ様……ううん、大国主様はまた殺されちゃう。 きっと建御名方様だって狙われるかもしれない。 八十神だけじゃない、あいつらみたいな悪神がいっぱい目覚めちゃう……」
「八十神……? ど、どういうこと……」
はじめはゆっくりと語り出したてゐは、一度語り出すと最後は一気にまくし立てるように声を荒げて言い終えた。
てゐは俯き、その小柄な身体を小刻みに震わせている。
自分の想像より以上に深刻そうなてゐの顔と、自分の理解の範疇外の単語が多く出てきたために輝夜は紡ぐ言葉を上手く見いだせないでいる。
それに反して輝夜の後ろに佇んでいる永琳はてゐの抱える不安を理解した。
そして永琳は静かに輝夜の前に出て、俯きながら戦慄くてゐの小さな身体をそっと包んだ。
「そう、そういうことなのね、てゐ」
「お師匠……さま」
不思議そうにてゐは目を見開いた。
不意に包まれた暖かさが理解出来ない。
そして僅かに時間を置いて、自分の態度と今の状況を理解すると顔を真っ赤にして永琳から離れようとする。
「ちょ……やめて。 恥ずかしいって!」
初めて感じる永琳の温もりにてゐは平静を取り戻せないでいる。
それもそのはず。 数百年も一緒に暮らしてきてこういった抱擁を受けるのは初めてなのだから。
それもそのはず。 とてもとても長い間生きてきて、こんな暖かい抱擁を受けた記憶等ほとんど無かったから。
「てゐ、貴方はこうやって貴方に暖かさ教えてくれた恩人が再び殺されてしまうかもしれないことがとても辛いのね」
「あ……」
永琳の言葉を聞いて、逃れようとしていたてゐは急におとなしくなった。
てゐは怯えていた姿の見えない恐怖の正体を指摘されることで、初めてそれを自覚した。
それは自分に降りかかるかもしれない災厄が怖いのではなく、記憶の奥深く、神話の時代に受けたただ一つの暖かさを傷つけられることへの恐怖だった。
「大丈夫よ、てゐ。 かつて決して開くことのない扉を開かせるために知恵を授けた神が居たわ。 扉を開かせるということは扉を閉める術も心得ているわ」
「それでも、それでも大国主様はあんな惨い殺され方をして……」
永琳の服を掴むてゐの手に力が入る。
かつて八十神によって二度殺された大国主の姿を思い出して恐怖に震えている。
「例え地祇の者でも、彼は大切な私の家族の恩人。 卑しき神々に手出しなんてさせないわ。 安心なさい、貴方の優しさはきっと彼を守ってくれるわ。 だって、貴方は幸運の白兎でしょう」
「……うん」
「だから貴方はここで祈るのよ。 それは必ず届くから」
「……うん」
懐かしい暖かさを小さな身体いっぱいに感じながら、てゐは永琳の胸の中で自然と涙をこぼしていた。
長く生きれば生きる程、抱える物の大きさと零れていく物の大きさのために心が摩耗し、病んでいってしまう。
だからてゐは抱える物も零れていく物もどんどん減らしていき、自分の心を守ってきた。
けれど、てゐは感じる。
今感じているこの暖かさはきっと、いつまでも永遠に変わらず自分が望む限り在り続けてくれるだろう。
ずっと在り続けてくれるのなら、この心はいつまでも大丈夫だろう、と。
胸の中にいるてゐは涙を流しながらも、温もりに包まれて安らかな笑顔を浮かべている。
永琳がふと後ろを向くと、輝夜が軽く目配せをするのが見えた。
■■■■■■■■■■■■
「なるほどな。 我の封印と此度の地震、主の取り巻く環境にはそのような背景があったのか」
八雲紫は九尾との戦闘を一時中断し、この戦闘に至るまでの経緯、つまり天人とすきま妖怪との確執や殺生石と要石について語った。
当初、剥き出しの殺意をあれだけぶつけておきながら突然の一方的な水入りを訝しんだが、思いの外饒舌に語るすきま妖怪に九尾はしばし聞き入ってしまっていた。
そもそもこの二者に於いて、戦闘開始から終了までの時間の制限等は無いのだから、この程度の中断等何ら問題はない。
強大な力を持つ二者だからこそ、勝利へ繋がる一瞬の糸口が見えるまで、それこそ一年でも二年でも互いの手を探りつつ戦い続けていてもおかしくはない。
その証拠に、九尾は確かに八雲紫の話に聞き入っててはいたものの、常に隙あらばその首を狙っていたし、何より彼女の狂喜の下に潜む何かを話の中から探っていた。
「しかし、下らぬな。 貴様程の者ならたかが一島国の神々を相手にしたとしても後れを取ることはあるまいて」
「あら、何もわかっていないのね。 確かに、一人二人ならば相手にもよるけれどさしたる問題ではないわ。 でも、その一人二人を相手にすることによってさらなる相手が増える。 この国には神々が多く、またそれらが非常に多くの血縁関係を持っているわ。 それら全員を敵に回したらいくら私とてただでは済まない」
神々に媚びへつらう自らの宿敵を一笑に付した狐だが、確かにすきま妖怪の言うことにも一理はある。
この国の神々は、自分の居た大陸の神々とは違いとかく繋がりが多い。
「それに、人々から恨みを買うのならともかく、神魔の類から怨恨を抱かれるのは、損こそすれど得すること等ひとつも無いのよ」
理解は出来る。
人間が放つ負の力、そして人間の肉はそれはとてもとても自分たち妖怪にとっては美味なるもの。
だが、根本的に存在の質の違う神や魔の類の気や肉というのは妖怪にとって摂食の対象外だ。
しかし、そうは言っても八雲紫の打算に満ちた言動は妖狐にとって少々癇に障った。
「気に食わぬな。 貴様の言は理解出来る。 が、その指向性が安寧へと向かっているのが気に食わぬ。 何故、最後の一分まで戦おうとしないのだ。 抗い、首だけになろうとも噛み付く程の気概こそが我らの本質であろう」
「それは一隅の管見ね。 妖怪だろうが人間だろうが、その本質は"生きる"ことよ。 されど、死が無意味というわけではない。 私が本当に恐れているのは、その存在が消滅してしまうことよ」
僅かに二者の周囲を取り巻く空気が凍り付く。
それは殺気によって引き締められる緊張感ではない。
すきま妖怪・八雲紫が自身の"消滅"を懸念すること、そのあまりにも意外な言葉から生まれたものだった。
「私が幻想郷を隔離した理由の一端も、後付ではあるものの、そこにあるわ。 私は自らの消滅を免れるために今画策している」
「貴様程の者が消滅……だと」
妖狐は理解が及ばない。
目の前にいるすきま妖怪は、おおよそ妖狐が出会ってきた数多の妖魔の類の中でも最も力を持った部類のモノだ。
自分に比類する力を持つ妖怪など、そう多くはいないはず。 妖狐はそう思っていた。
それだけ自分の力は絶対的なものだと信じて疑っていないからこそ、九尾には理解が及ばない。
そして理解の及ばぬことと、自分に類する程の力を持っているはずのすきま妖怪が漏らす不穏当な言動に、九尾は身体を震わせ微かな怒気を無言のまま放つ。
八雲紫は九尾の変化に気づきながらも微動だにせず、月を背に傘を携え優雅な立ち居振る舞いのまま言葉を続ける。
「はっきりと、淀みなく言うわ。 我々神魔を含めた妖怪は数百年後この世界に居られなくなる」
「なん……だと」
そして全く予想だにしなかったすきま妖怪の言葉。
自分たちがこの世界に存在出来なくなる。
それは全て駆逐されるというのか。
いや、有り得ない。
しかも八雲紫は言った。 「神魔を含めた妖怪」と。
神すらも存在出来なくというのか──。
人間にそのようなことが出来るというのか──。
あまりに唐突に、そして驚愕せざるを得ない言葉がすきま妖怪の口から零れた。
「数百年の間岩の中に居た貴方にはわからないでしょうけれど、人間達の存在は緩やかではあるが徐々に大きくなっていっているわ」
「さらに数百年経てば人間達の力は我々を駆逐するに足る、と言うのか。 莫迦莫迦しい。 そんなことは有り得るものか」
「有り得ないでしょうね。 いくら人間達が力を持とうとも、私達を完全に駆逐することなど出来ないわ。 それに、肉体が例え粉微塵に吹き飛ぼうとも私達が消滅するわけないでしょう。 かつて私は貴方を肉片一つ残らずに吹き飛ばしたのに貴方は今そうやって存在しているじゃない。 原因はもっと根本的なものよ」
微動だにせず、眼下の九尾を見下ろしながら空を漂うすきま妖怪。
月の姿は徐々に薄くなっていき、九尾のさらに下にある空の果てまで続く分厚い雲の床の先から僅かな光が差し込んでくる。
夜明けが近い。 あと一刻もすれば完全に月の姿は見えなくなり、朝日が世界を照らす。
だが、その明るくなるであろう世界とは一変して、八雲紫の話は暗澹たる方向へと転がっていく。
「人間達は我々の存在が無くとも生きていける。 けれども、その逆は無いのよ。 我々の存在というのは、すべからく人間の"畏れ"より生まれたモノ。 未知への恐怖が我々を生み出した。 人間達に未知への恐怖や畏れが無くなった時、それは我々の存在自体が無に帰すことに等しいのよ」
「……解せぬな。 確かに我は人の恐怖や憎悪から生まれたモノといって過言ではない。 だが、神々はどうだと言うのだ。 万物を創りし神々すらも人間の生み出したモノだと言うのか」
「ええ、そうよ。 そこに存在している、という結果が先に在り、その後に現在に至るまでの過程が付与されたのよ。 人間達の歴史以前に我々が存在するわけがない。 万が一そういうモノが居たとするならば、それは"今"の人間達よりもさらに前の時代に何者かが居たということ。 そして、その何者かが今も尚存在し続けるということよ」
話が飛躍しすぎている。
あまりに莫迦莫迦しすぎて、本来であれば一笑に付す程度の話なのだが、何故か狐はそれを笑い飛ばして聞くことが出来ない。
否、八雲紫の目がそうさせている。
彼女の目に宿る光は他者を欺くそれではないからだ。
如何にすきま妖怪が欺くことに長けていようとここまで突飛すぎる話の前では、目に映る光に違和感が生じるはず。
狐にはその違和感を感じられない。
どう判断して良いものか、さらなる言葉を紡げずにすきま妖怪を睨め付けたまま押し黙る。
そして八雲紫は妖狐の言葉を待たずにさらに饒舌に語る。
「この数百年の間、人間達を見ていて彼らの技術の革新は飛躍的よ。 おそらく、これからさらに加速していくことは間違いないはずだわ。 そうすれば人間達の未知への畏れはますます減り、彼らの生活圏はさらに増長する。 そうして人間達から畏れが消えた時、我々の存在はその意味を無くし、その存在は消滅して私たちは安寧に生きる場所を永遠に失うわ。 私は、この後しばらく様子を見て機会を得たときに幻想郷を外界から完全に隔離する。 そうやって畏れを持った人間が存在し続けられる場を維持すれば、私達の存在は決して消えることはない」
沈黙。
八雲紫は静かに口を閉じ、九尾の反応を待った。
妖狐はすきま妖怪の言葉を反芻し、幾度かの逡巡の後に、眼光に殺気を込め言葉を返した。
「主の言い分はわかった。 あながち解せぬ話でないことも理解した。 だが、あくまでそれら主の話は多くの仮定の上に成り立っている空想話に過ぎぬ。 例え人間達が増長し主の言う"畏れ"が消え失せたとしても、我らもそれと共に消え失せる確証など有りはせぬ」
「最もだわ。 けれど、消えない確証も無いわ」
そして九尾は眼光のみならず、その強大な全身から殺気を周囲に満たし、再び場を闘争の空気へと変え始めていた。
小さな音を立てながら九尾の毛が逆立っていく。
「ならば、我が証明してみせよう。 この地上のありとあらゆる人間達を喰らい尽くせば、"畏れ"を抱くモノなど消え失せる。 その後にこの我が唯一人地上に君臨し何が起きるか見届けてやろうではないか!」
妖狐の気が一気に膨れあがる。
九尾にとってもはやこの話はこれ以上続ける価値無し、という合図。
九尾が出した結論──それは、安寧を求め生き延びる術を構築する八雲紫とは対極に全てを破壊するという論旨。
この共に強大な力を持ち、それぞれ大陸より渡ってきた二大妖怪の根本的な違いは、八雲紫はその指向性が秩序へと向かうのであれば、白面金毛九尾の狐は混沌へと向かっていくのであった。
「虹よ、やはり主とは本質的に相容れられぬ存在だ。 主は言ったな! 妖怪であろうと人間であろうとその本質は"生きること"と。 なれば我が生きていくのに主は大きな障碍だ。 この場でその存在全てを喰らい尽くし、我は生き延びてみせようぞ!」
「虹……ね。 懐かしい名で呼んでくれるわね。 でもお生憎様、今の私は"八雲紫"よ」
虹──かつて商の時代、八雲紫はそう名乗っていた。
九尾は思い出す。
遙か昔、怠惰と快楽と憎悪と怨恨と、あらゆる負の感情が大きく入り乱れ自らの理想の城を築き悦に入っていた最高の瞬間を「虹」と名乗る奇妙な妖怪と太公望と名乗る仙人によって、見事に打ち砕かれたあの屈辱。
そしてその後、再度自分の理想郷を築かんとする度に現れるすきま妖怪。
これを憎まずして何を憎む。 これを除かずにどうやって生きるというのだ。
朝日が差し込み始め世界に光が満ちていくというのに、九尾の周囲はそれに反比例するかの如く黒く気が渦巻いていく。
やがて渦巻く気は巨大な黒い塊となり、その中から禍々しい赤い眼光が八雲紫を鋭く差す。
九尾は完全に臨戦態勢だ。
八雲紫もこれ以上の話は無駄と認識し、静かに潜めていた自身の気を放出し始める。
こうして再び違いの戦闘準備は整い、あとは僅かなきっかけが生まれた瞬間再び二者の闘争は開始される。
そう、されるはずであった。
互いの力が弾け合う寸前、二者以外存在しないはずの大空の舞台に意外なモノが飛び込んできた。
それは、一匹の質量を持たない蝶。
八雲紫の友人、白玉楼の主・西行寺幽々子のものである。
そして、八雲紫はそれが幽々子の放ったものであることは一瞬で理解出来た。
「遅かったじゃないの、幽々子。 待ちくたびれたわ」
九尾は蝶を凝視する。
あの質量を持たない蝶には見覚えがある。
そう、今より600年程前、殺生石に封じられる際、すきま妖怪と共に戦った人間の一人が使っていたものだ。
一度それを目にしている九尾はあの蝶が攻撃のためのモノではないということはすぐに理解出来た。
そして、刹那に止まった九尾の攻撃は、八雲紫が蝶を手にするのに十分な時間を与えていた。
彼女が蝶に手を触れると、幻想的な金属質な音を立てその姿が中空に散り、その飛沫は徐々に何もない空にひとつの歌を浮かび上がらせた。
「忌まわしく 彼岸の花が 満つるなら 幻へ至りて 神を迎えん」
狐にはその歌の意味は理解出来なかった。
だが、蝶の受け取り主は違った。
空に描かれた歌に気を取られた妖狐は、その一瞬後に突如として自らを飲み込む程の巨大な気に当てられ我に返る。
そこにいたのは、かつて妖狐の知るどのすきま妖怪の顔とも全く一致していなかった。
この上なく笑顔で、この上なく残虐で、この上なく歪つな、とてもとても昏い顔が空に浮かんでいた。
八雲紫だと思われる妖怪の周囲に、彼女の濃密な妖気によって乱反射した朝日が七色の環を描いていた。
戦闘も会話もとても読み応えがありましたし
綿密に練られた文章も面白かったですよ。
次回が楽しみですね。