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今日の夜、マリアは70年後の未来へ帰る。
未来ではマリアはいったいどんな結論を下すのだろうか。
その選択に対して、70年後の私たちはどう応えるのだろうか。
きっと、今の私たちはその結末を知ることができないだろう。
だが、この時代にマリアがいる今、私たちがまさにマリアの親なのだ。
だから私たちはマリアのために何でもやってやらなければならない。
マリアに幸福の種類を示してやらなければならない。
現代の私たちは未来のマリアにできるだけのことをしてやらなければならない。
敗北を認めるには早すぎる。
勝利を諦めるには急すぎる。
戦いはまだ終わっていない。
もし、今までマリア独りで戦ってきたというならば、
これからは三人で戦おう。
マリアが独りぼっちで戦っていると思い込んでいるなら、
私たちがいっしょにいるということを思い出させよう。
マリアが独りで戦わなければならないと勘違いしているなら、
そうじゃないことを皆で教えてあげよう。
私たちも戦う準備はできている。
さあ、マリア――――
いっしょに歩いていこう。
マリアが未来へと帰ってしまう日の朝、私は三人の中で一番初めに起きた。
隣にはすやすやと眠るマリアがいた。マリアの顔は本当にお姉さまにそっくりだった。改めてこの子がお姉さまの娘であることを実感する。昨晩の地下室での会話を思い出した。まったく、お姉さまの子供ならもっと我が儘でもいいのに。本当に自分たちにはもったいないほど良い子だった。だからといって、この子を手放そうだなんて絶対に思わないけど。
お姉さまはというと……………………ベッドから転がり落ちていた。何という寝相の悪さだ。ていうか落ちても気づかないのか、この人は。まあマリアと位置が変わってなかっただけ、よしとしよう。しかし、未来の私はお姉さまと一緒に寝ているのか…………その私は睡眠不足に悩まされたりしないんだろうか。
やがて咲夜が私たちを起こしに来た。マリアはすぐに目を覚ましたが、お姉さまが二度寝しようとしたので、咲夜はため息をついていた。これではマリアのほうが大人ではないか。私とマリアが声をかけて、ようやくお姉さまは起き上がった。
咲夜はその後、私たちの着替えを手伝ってくれた。普段はお姉さまと私だけだが、今日はマリアの分も面倒を見なければならなかった。だが、咲夜は嫌そうな顔をすることなく、それどころか、いつもより楽しそうな顔をしていた。
マリアの服は洗濯するために咲夜がもっていった。マリアはお姉さまの服を借りることになった。お姉さまの服を着たマリアは本当にお姉さまと瓜二つだった。
着替えて私たちは食堂に向かった。マリアは咲夜の料理の料理を美味しいと言って食べていた。未来とあまり変わらない味だそうだ。それを聞いて咲夜は、進歩がないようでお恥ずかしいです、と恐縮していたが、マリアは、咲夜の食事が自分の舌に一番合っているのだからそんなこと気にしないで、と咲夜を励ましていた。マリアは昨日の私たちの会話が何でもなかったかのように、元気そうに振舞っていた。無理のあるような感じは見られなかった。このとき、マリアはすでに覚悟を決めていたのかもしれなかった。マリアは覚悟を決めてしまったからこそ、自然に笑っていられるのかもしれなかった。そう思うと、とてもやりきれなかった。私はこんな小さな子がそんな悲壮な決意をしてしまったことがやるせなかった。
食事が終わると、お姉さまが、私とマリアは先に居間に行くように言った。おそらく、咲夜にもマリアが破壊の能力を持っていることを教えるのだろう。
「これは私たちの問題だけど、同時に紅魔館の問題でもあるから――――」
お姉さまは昨夜、眠る直前にそう言っていた。
私たちにできることは何だろうか。マリアが未来に帰ってしまうまでに何を伝えなければないか。
私はマリアと手を繋いで居間に行く途中、ずっと考えていた。
どうすればマリアの間違いを正せるか。
私はその問題に解答を出せずにいた。
頭を悩ませていると、マリアは小さな声で言った。その声には苦しみは感じられず、ただ郷愁のような温かさがあった。
「私、この時代に来てよかったよ、お母さま」
マリアはこう言った。マリアの目は廊下の向こうを見つめていた。マリアはそれよりも遠いところを見ていた。
「実は紫おばさまにほとんど強制的に送られてきたんだけどね。何でかはわからないけど、あなた悩み事があるでしょ、とか何とか言われて、過去に行けば解決するって教えられたんだ」
「………………………………………………………………」
「解決…………なのかはわからないけど、踏ん切りはついたよ。私は迷いなく未来に帰れる」
にこにこと母を安心させる笑顔を浮かべるマリアに対し、私は沈んだ声で答えるしかなかった。
「…………地下室は広いよ」
「………………………………………………………………」
「地下室は客間の寝室なんかよりもずっと広いよ。そんな部屋にマリアは独りで眠れるの?」
マリアは私の言葉に一瞬、唇をきっと結んだが、すぐに言った。
「――――大丈夫だよ」
マリアは笑って言った。
「私は強い子だから、そのうちに慣れるよ。だからお母さまは心配することないよ」
馬鹿な。私は自分の娘が地下室に閉じこもると言われて、平然としていられるほど冷たい親じゃない。だが、私はマリアにそう言ってやることができなかった。私も同じ力をもっている。その苦しみは私もイヤというほど知っている。マリアの決意が本物なら、私のその言葉は彼女を苦しめること以外の何もできないだろう。
「それに、」
マリアは続けた。
「フランお母さまは私よりもっと早いころから地下室にいたんでしょ。それなのに私だけが寂しいなんて我が儘言えないよ」
ああ、確かに私はマリアよりも小さなころからあの地下室にいた。私は地下室にいることをよしとしていたが、果たして閉じ込められたときの最初はどうだったのだろうか。
495年以上も昔のことだった。
正直、私も覚えていない。そのころは私の能力の暴走は酷かったという。そのためか私の記憶は、495年という年月のほこりを被っているということもあるが、かなり霞んでしまっていた。
「心配しないで、お母さま。マリアは平気だから。お母さまが心配しないほうが私は嬉しいから」
マリアはやはり微笑んで言うのだった。
「きっと――――これが私の幸福だから」
マリアの笑顔は朝露のように儚げだった。
「むきーー!!」
お姉さまが悲鳴をあげた。ああ、また負けたのか。もう8戦8敗か。
お姉さまはマリアとチェスをしていた。
「キスじゃないわよ。チェスよ」
「黙れ」
私とマリアが居間についてから十分ほど経って、お姉さまは居間にやってきた。お姉さまの隣にはパチュリーと咲夜がいた。おそらくお姉さまはパチュリーにもマリアの能力について教えたのだろう。パチュリーと咲夜はマリアを見た瞬間、一瞬だけ考えるような目をしたが、すぐにパチュリーはいつもどおりの無愛想な顔に、咲夜は優しそうな笑顔に戻った。
お姉さまはマリアと笑いながらお喋りをしていたが、やがてチェス盤をもってきて勝負しようと言った。
お姉さまは弱いわけではないが、マリアが強すぎた。パチュリー相手にも差してみたが、パチュリーもマリアに勝つことができなかった。
「八意先生や紫おばさまには勝てないけどね」
マリアはそう言ったが、得意気だった。あの二人にはコンピューターでも敵わないだろう。あの二人の名前が出てくるくらいだから、マリアは幻想郷でも相当強いのだろう。ちなみに私はチェスをあまりやったことがないので、駒の動かし方を知っているくらいだ。
「納得いかないわ。もう一度よ」
そう言って、お姉さまはまたマリアに勝負を挑んだ。マリアは苦笑いしていたが、満更でもなさそうだった。全く、どちらが子供なのやら。お姉さまとマリアを取り囲む面々は微笑ましげに二人のやり取りを聞いていた。
やがて美鈴があくびを噛み殺しながら居間にやってきた。マリアを見た瞬間、彼女も一瞬だけ目を厳しく細め、すぐにいつもの朗らかな微笑を浮かべた。どうやら美鈴もマリアについて聞かされているようだった。美鈴はテーブルを挟んで私の前に座った。
「シフト終了、美鈴?」
「ええ、昨日は夜勤でしたから。これから部屋に帰って寝る予定です」
私の言葉に美鈴は再びあくびを噛んで答えた。
「ご苦労様、美鈴。お茶を淹れるわ」
咲夜が微笑んで美鈴を労った。美鈴は、どうもすいません、と頭を下げる。すぐにテーブルに置かれたお茶に、咲夜に礼を言ってから口をつける。美鈴はお姉さまとマリアのやりとりをじっと見ていたが、やがて呟いた。
「不妊治療かぁ……………………」
同じくお茶を飲んでいた私は、危うく吹き出してしまいそうだった。お茶が気管に入ってごほごほと咳き込む私に美鈴は謝りながら、背中をさすってくれた。
「いきなり、何を言い出すのさ…………」
私が涙目で美鈴を睨みながら尋ねると、美鈴は少し申し訳なさそうな笑みを浮かべたが、何かを懐かしむような顔をして言った。
「いえ、少し思い出したことがありまして」
美鈴は私が落ち着いたのを見て、自分の席に戻り、再びお茶を啜った。それから、再びお姉さまとマリアを見る。美鈴は目は優しげに細められていた。
「何の話?」
「いえ、けっこう昔の話です。百年前、いやもっと昔のことですね」
美鈴は「もしかして、聞きたいですか?」と首をかしげた。私がうなずくと、美鈴は時々カップを傾けながら穏やかな声で話し始めた。
「今は妖精が主体の門番隊ですが、昔はもっと妖怪の隊員がいたのです。私が紅魔館のメイド長兼門番長のころですね。幻想郷に紅魔館が引っ越してくるよりも前のことです。その中に変わった妖怪がいまして、彼女は人間の男に恋をしてしまいました」
「今よりも、妖怪と人間の区分が厳しかった時代で、です」と美鈴は遠い目をして言った。
美鈴は紅魔館の従者で最古参の妖怪だった。お姉さまとの付き合いはパチュリーよりも長いという。今でこそ、にこにこと笑い、のんびりとした穏やかな妖怪に見えるが、昔は非常に恐ろしい妖怪だったらしい。時折、美鈴の武勇伝を聞くが、今の姿からはとても想像できなかった。
「人間の男もまた彼女のことを愛するようになり、二人は多くの苦難を乗り越えつつも無事結ばれることとなりました。認めてくれる人は少なかったですが、その人たちは彼らを温かく祝福してくれました」
そう言って、美鈴はふとお姉さまとマリアを見た。マリアが駒を動かして、お姉さまのクイーンをとった。「あ、ちょっと今のナシ! 今のナシ!」とお姉さまが慌てていた。美鈴は微笑んで話を続けた。
「結婚生活は楽なものではありませんでしたが、幸せな生活でした。彼女と彼女の夫は幸福を享受していました。裕福ではありませんでしたが、彼らはそんなことは気にしませんでした。彼らの望むものは少なく、すでにその望むものは手に入ってたのです。ですが、彼らには一つだけ――――どうしても一つだけ手に入らないものがありました」
美鈴は悲しげに笑った。一回、カップを傾けてから美鈴は静かに言った。
「何年経っても、彼らの間に子供ができなかったのです」
「………………………………………………………………」
「人間と妖怪の間にも子供ができます。ですが、その確率は本当に小さい。人間と妖怪のカップルですが、実はそんなに珍しくないケースなのです。しかし、彼らの中で子供を得ることができる夫婦はほとんどいません。この夫婦もそんなことはわかっていましたが、どうしても子供を作るのは諦められませんでした」
美鈴はカップの中の赤い水面を見つめていた。
「何年も夫婦は耐えました。最初は五年経てば大丈夫、できるだろう、そう思っていました。ですが、やがてその五年は十年になり、二十年になりました。彼女は妖怪の癖に、教会に行って毎日お祈りを捧げました。妖怪でありながら神に祈り続けました。そんな二十年の歳月が経ちました。彼女はともかく、人間である夫はもう若くありません。しかし、彼らは諦めることなく待ち続けました。子供と会える日を待ち続けました」
そして、と美鈴は微笑んだ。その微笑は慈愛に満ちていた。
「彼らは結婚して二十年とちょっとで、ようやく子宝に恵まれました」
「………………………………………………………………」
美鈴は明るく笑った。私は何も言えなかった。ただ、胸の中が熱くなるのを感じていた。
「いや、そのときの彼女の喜びようといったら、なかったですね。本当に幸せそうな顔をしていました。私は彼女のそのときの笑顔を一生忘れないでしょう」
美鈴はそう言って、紅茶を飲み干した。美鈴は少し切なげな微笑を浮かべていた。
「親というのは何なんでしょうね。もちろん親もそれぞれです。子供をいじめる親もいますし、放っておく親もいます。間違って生んでしまった、そう言う親もいます。ですが、望んで望んでやっと子供を得ることができた親もいます。昨日は突然のことで面食らってしまいましたが――――不妊治療ですか? 子供を欲しがっている親にしてみれば、それは神様の恩恵のようにありがたいものなんでしょうね」
「さすがにパチュリー様のはやりすぎかと思いますが」と、美鈴は苦笑してパチュリーを見た。パチュリーは美鈴の話を聞いていたらしく、本から目を上げてむっとして答えた。
「だから、今の私が作ったんじゃないって言ってるでしょ」
「でも、未来でパチュリー様は作るわけですよね。今から何か理由があるんじゃないですか?」
「知らないわよ。大体、女同士で子供を生すっていうのが自然の摂理に反してるんだから、本来無いものねだりなのよ」
「おや、魔法使いは基本的に無いものねだりではないのですか?」
「言ってくれるわね、美鈴。まあ、私の作る薬ね…………まあ、自然なスピードで増えるような仕様にしたんでしょ。他には…………雰囲気作りかしら? これから子供を作るっていう――――」
「まあ、おそらくは一番わかりやすくてとっつき易いってのもあるでしょうね。外の世界の本ではペトリ皿やら顕微鏡やらホルモンやら複雑な用語が並んでいましたが、素人にはわからない話ですからね。それでも何より、『需要』が一番だとは思いますが」
美鈴はそう言って、頭の後ろで手を組んだ。パチュリーは、「違いないわね」と言って本に目を戻した。
『需要』? 何の需要だ?
………………………………………………………………
ああ、そういうことか。
私は顔が赤くなるのを感じた。それを誤魔化すために紅茶をすする。だが、私の顔を見て、美鈴は悪戯っ子のように笑った。
「おや、妹様。何を想像していらっしゃるんですか?」
「……………………別に何も」
「恥ずかしがらないで教えてくださいよ」
私は顔を上げて、ニヤニヤと笑う美鈴を見た。もしかしてお姉さまの性質は前メイド長の美鈴から伝わったのではないだろうか。私が無言で美鈴を睨んでいると、美鈴は組んでいた手を外して、テーブルの上にひじをついた。そして、優しく微笑んでぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありません、フランドール様。からかい申し上げたことを謝罪いたします。ですが、」
美鈴は目を細めて言う。
「むしろ、それは…………『役得』のようなものですよ」
「『役得』?」
私はその言葉に首をかしげた。美鈴はうなずいてみせる。
「そう。『役得』です」
「何の『役』に対する?」
「それはですね」と美鈴はにっこりと笑った。自信満々の笑みだった。
「私たちが、人間や妖怪として生まれてきたことに対する役得です」
「………………………………………………………………」
「『役得』だと思えばいいのです。何も恥じることはありません」
私は美鈴の大げさな言葉に一瞬、吹き出しそうになったが――――吹き出せなかった。美鈴の言葉には何か説得力があったのだ。私はただうなずいて、再び紅茶を啜った。
「むきょーー!!」
どうやらお姉さまはまた負けたようだった。これで9戦9敗だった。いい加減諦めればいいのに。私はそう思うが、負けず嫌いなお姉さまはどうも納得がいかないらしい。大人気ないにもほどがあるだろうに。
「これ以上の敗北は親の沽券に関わるわ……………………」
お姉さまはうめいた。日ごろの変態行為のほうがよっぽど沽券に関わるだろうに。
「でも、これだけ強いんならご褒美を上げたくなるわね」
お姉さまは右頬に手を当てて言った。その言葉にマリアがやった、と笑顔になる。お姉さまは少し考えるように首をかしげ、やがて言った。
「そうね。ちょうど次で10戦目だし、この勝負にマリアが勝ったら、私は何でも言うことを聞いてあげるわ」
「ほんと?」
マリアの目が輝く。しかし、お姉さまは手でマリアを落ち着くように制した。
「その代わり、私が勝ったら、マリアは罰ゲームとして私の言うことを一つ聞きなさい」
その言葉に、マリアはびっくりしたような顔をするが、少し考えてうなずいた。
「いいよ、お母さま。了解だよ」
お姉さまは満足気に微笑んだ。そして、二人でチェスの駒を盤に並べ始める。
「でも、何にしようかな。いきなりお母さまにそんなこと言われても、悩んじゃうよ」
マリアは駒をいじりながら言った。お姉さまは微笑を浮かべ、それに答える。
「あら、そうかしら。何でもいいのよ。好きなことを言いなさい」
「うーん、どうしよう。…………思いつかないよ」
「あら、そうかしら。じゃあ、私が決めてあげようかしら?」
「お母さまが?」
不思議そうな顔をするマリアに対し、お姉さまは、
とても優しげで――――残酷な笑みを浮かべてこう言った。
「未来に帰ったあなたが、地下室で暮らせるように取り計らってあげる、というのはどうかしら?」
その瞬間、マリアの笑顔が凍りついた。手からチェスの駒がこぼれた。お姉さまは静かに笑って駒を並べ続けている。
「どうして……………………」
マリアが口を開けたのはお姉さまが自分の駒を並べ終わったときだった。マリアは呆然とした声で呟いた。
「どうして、そのことを……………………」
そして、マリアは私のほうを見た。目は驚愕と裏切られたという気持ちでギラギラと光っていた。私は胸が潰れてしまいそうだったが、その視線を正面から耐え続けた。愕然としているマリアに、お姉さまはマリアの側の駒を並べながら答えた。
「フランは違うわ。あのあと、私はあなたたちをつけたのよ。だから、フランはあなたのことについて自分から話すようなことはなかった。裏切ったのは私」
ついでに、もうここにいる全員は知ってるけどね、とお姉さまは本当におまけのように言う。マリアは憎悪のこもった目でお姉さまを睨みつけていた。お姉さまはにやりと笑って見せた――――膝に置いた手がふるふると震えていた。
「でも、あなたにとって悪い話じゃないでしょ? こうして、私はあなたの願いを聞いてあげようとしているのだから。この9戦、私のボロ負けだったわ。おそらく次の勝負も簡単にあなたは勝つ。無駄な事故なんて起こす必要はない。あなたは何一つ気にすることなく、地下室に暮らせるようになるわ」
――――大人は汚い。
本当にそう思う。子供から嫌われるのも当然だ。だが、お姉さまはきっとそれも覚悟の上なのだ。
「マリア、心配することは全くないわ。あなたは間違いなく勝つでしょう」
そう言って、お姉さまは微笑を消し、マリアに対して真剣な目を向けた。マリアが怯んだように身体を揺らす。マリアはお姉さまの強い視線を受け止めることしかできなかった。
もはや周りにいる私たちは口を挟める余地がない。母と娘の戦いをじっと見ているしかなかった。
――――無力だ。
私はそう思った。私はお姉さまとマリアの間に入っていけないのだから。私も親であるのにマリアに何も言えなかったのだから。だが、おそらくお姉さまもそれを感じていることだろう。こんな真似をしなければ、マリアに伝えたいことを語れないのだから。私は破壊の能力を知っているがゆえにマリアの意思を否定できない。お姉さまは破壊の能力を知らないがゆえにマリアの苦しみを否定できない。
――――どうかこんな親であることを許して欲しい。
私たちには願うことしかできなかった。
「さあ、始めましょう」
お姉さまはそう言って、駒を動かした。
戦局はお姉さまの有利に進んだ。
マリアは明らかに焦っていた。顔には焦燥の感情だけが浮かんでいる。
対するお姉さまの表情は紅茶を飲んでいるときと変わらなかった。何でもないことのように駒を動かしている。
お姉さまのポーンがマリアのポーンをとった。それをマリアがナイトで取り返すが、そのナイトもお姉さまのビショップで切られてしまった。
「何で、」
マリアは信じられないようにうめく。
「何で、こんなに上手くいかないの…………?」
マリアは焦っていた。マリアの手は全く冴えていなかった。恐らく三手先でさえ、まともに読むことができないだろう。マリアは必死に考え続けた。
どうやって母を倒すか。
どうやって自分の願いを通すか。
どうやって自分は孤独になれるか。
どうやって母達を傷つけないで済ませられるか。
しかし、マリアの知性は動かない。マリアの感情を裏切るようにマリアの知性は働こうとはしなかった。マリアは必死に考え続ける。どうしてこうも上手くいかないのか。まるでこれでは自分がその願いを拒んでいるようではないか。
何とかして他者を――自分の大切なものを傷つけないようにしないと――――
だが、いくら考えてもマリアの無意識はマリアの意識を裏切り続けた。
「お母さまは……………………」
マリアは呟いた。じっと盤を見つめていたお姉さまは顔を上げてマリアを見た。マリアは震える声で言った。
「お母さまたちは死んでもいいの?」
マリアは泣き出しそうな顔で言った。
「私が地下室に行かないと、お母さまたちは死んじゃうかもしれないんだよ…………お母さまたちは死んでもいいの?」
お姉さまは即答した。
「ええ」
お姉さまは力強くうなずいた。
「あなたのためだったら、死んでも何の文句もないわ」
「ふざけないでよ!」
マリアは怒鳴った。テーブルを強く叩く。マリアははあはあと肩で息をしていた。
「私は殺したくない! お母さまたちを殺したくなんかない! お母さまたちを殺すくらいなら自分が死んだほうがマシだ! それなのに、それなのに…………どうしてそれをわかってくれないのさ!」
マリアの絶叫にお姉さまは驚いたような顔をして答えた。
「あら、私はマリアが地下室に行くくらいなら、私が死んだほうがマシだわ」
お姉さまは飄々として言葉の先を続けた。
「マリアが不幸なら、私なんて生きている意味がないでしょうから」
そう答えるお姉さまをマリアは睨みつけることしかできなかった。マリアは息を荒くしながらも考え続けた。
どうすれば、目の前の親を説得できるか。
どうすれば、犠牲を自分だけにできるか。
どうすれば、自分は地下室行きになるか。
「私が不幸? 不幸だって?」
マリアはおかしそうに笑った。強張った顔を無理に動かして笑顔を作った。
「別に私は不幸じゃないよ。そんなのお母さまの勘違いだよ。私の幸福は地下室に行くことなんだ。私の幸福は私が決めることだって、お母さまたちは教えてくれたもの。私の幸福は地下室に行くことだって、そう決めたんだよ」
「嘘ね」
お姉さまはすぐにその言葉を切り捨てた。
「下手な嘘は見苦しいわ、マリア。確かに未来の私たちは、あなたに幸福は自分で決めるものだと教えるかもしれないけど、地下室に住むことを幸福なことだとは決して教えないでしょう」
「どうしてそんなこと言えるのさ!」
マリアが激昂した。頑固で理屈のわからない親に対してマリアは激怒していた。
「お母さまたちが教えてくれなくても、私が自分でそう思ったんだよ! どう考えても私はそうしないと幸せになれないんだよ! どうしてそれをわかってくれないのさ!」
「わかってるわよ」
お姉さまは興奮するマリアに対して、落ち着いていた。お姉さまは静かに言った。
「あなたの幸福は――――まだ私達のそばにいることだって」
「いたくない!」
マリアは叫んだ。もはやマリアは泣き出していた。今まで泣かなかったマリアは泣いていた。泣きながら、マリアは必死に自分の言を通そうとしていた。通さなければならないと必死になっていた。幼い魂は心にもない嘘をつき続ける。
「お母さまたちのところなんかにいたくない! 子ども扱いもいい加減にしてよ! お母さまたちなんか大嫌いだ! こんな大嫌いなお母さまたちの傍になんかいてやるもんか! お母さまたちなんか、お母さまたちなんか……………………」
マリアの言葉は続かなかった。しゃくりあげるのをマリアは必死に抑えていた。それをお姉さまはじっと静かに見つめている。やはり、テーブルの下でお姉さまの手は小刻みに揺れていた。
「そう。嫌われてしまったわね……………………」
お姉さまはふっと微笑んだ。そして、言葉を紡ぐ。
「でも――――それでも私はマリアのことが大好きだもの。マリアを地下室なんかに送りたくないわ」
「…………いい加減に!!」
マリアは荒い声の中、叫ぶ。半狂乱の子供は必死に駄々をこね続ける。マリアは自分の右手を開いて見せた。
「そんなに死にたいんだったら、殺してあげるよ! この右手の目を潰せば、私は何でも殺せるんだ! 本当に簡単なんだよ! お母さまなんてあっという間に ドカーン! なんだから! 怖いでしょう! 恐ろしいでしょう! だから、お母さま、だから、だから……………………」
だから、とマリアは呟き続ける。
だから、の先が出てこない。
その先の言葉はマリアにとって自分から言うことさえ恐ろしい言葉だったのだ。
だから、破壊の悪魔の娘は涙を流し続けて、母親の言葉を待っていた。
母親が自分を地下室に閉じ込めることを期待していた。
母親が自分を見限ってくれることを期待していた。
母親が自分を嫌ってくれることを期待していた。
母親が幸福になってくれることを期待していた。
だが、不幸かな。
あなたの母親は、あのスカーレットデビルなのだ。
お姉さまは、まあ、そうなの、とおどけて見せた。
「こんなに小さな右手が? どう見ても子供の手にしか見えないけど。あなたの可愛い手がそんなに恐ろしいものを握っているようにはとても見えないわ。ごめんね、マリア。お母さまは頭が悪いから、難しいことがよくわからないの」
そう言って、お姉さまは差し出されたマリアの右手をとって優しく撫でた。
「ああ、何て可愛い手なんでしょう。こんなに可愛いもの、目の前の女の子以外に見たことないわ」
お姉さまは優しげにマリアに微笑みかけた。もうマリアは何も言うことができなかった。何も言うことができずに涙を流していた。やがて、お姉さまはマリアの手を離して言った。
「さあ、続きをしましょう。もし、あなたが望みを叶えたいのなら、この勝負に勝てばいいのよ。まだ方法は残っているわ。もし自分の幸福を肯定したいのだったら、最善を尽くしなさい」
そう言って、お姉さまは盤に視線を落とした。マリアはその様子を見て、気の抜けたように駒を動かした。お姉さまは淡々と駒を動かし続けた。母娘は黙々とチェスを進めた。
チェスはお姉さまの勝ちだった。お姉さまのクィーンがマリアのルークをとればチェックメイトが確定する。マリアは呆然とした表情で盤を見ていた。
「ここで、チェックメイト、ね」
お姉さまはそう言って、微笑んだ。
「やっと、一勝だわ」
マリアはその笑顔を見て、掠れた声で訊いた。
「…………どうしてお母さまはそんなに嬉しそうなの?」
「え、そう? そうかしら?」
お姉さまは首を傾げてみせたが、やがてにっこりと笑って言った。
「たぶん、幸せだからじゃないかしら?」
その言葉にマリアは黙ってしまったが、やがて呟いた。
「わからないよ……………………」
マリアは首を振って言う。
「自分が死んでしまうかもしれないのに、幸せだなんて…………わからないよ」
「そうかもしれないわね」
お姉さまは笑ってうなずいた。そして明るい声で続けた。
「確かに私もマリアに会うまでわからなかったわ。でも、どうしてかしら? マリアに会ったとたんに自分も親の気持ちがわかるようになったのよ。ああ、親は子供がいるだけでこんなに幸せなんだなぁって」
「いい?」とお姉さまは言い聞かすようにマリアに語った。
「親は――――レミリア・スカーレットはマリアがいるだけで幸せなのよ」
「………………………………………………………………」
「きっと、フランお母さまもそう思っているわ」とお姉さまは微笑んだ。
「あなたは素晴らしい女の子なのよ」
マリアの頬を涙が伝った。それをお姉さまはハンカチで拭う。そうしながら、お姉さまは語り続けた。
「じゃあ、罰ゲームのことについて話さなきゃね」
お姉さまは意地の悪そうな笑顔を浮かべてみせたが、その声は優しげだった。お姉さまは真剣な顔をしてマリアに罰ゲームの内容について伝えた。お姉さまはマリアに自分の願いを伝えた。
「マリア――――」
それは、どんな母親でも自分の子供に願う――――平凡なものだった。
「幸せになりなさい」
マリアは驚いた顔をしていた。お姉さまは真面目な顔をして続けた。
「心の底から幸せになりなさい。自分の幸福に嘘をつくのをやめなさい。私達はそんなことは望まないわ。あなたは疑うかもしれないけど、本当に私はあなたのためなら死んでもいい、と思っているのよ。もし、これから先、自分から地下室に入るべきだと考えることがあっても、このことは忘れないでちょうだい。あなたの幸福はあなただけのもの。そして、私達もそれを何よりの幸せだと思っているのよ」
「それと」とお姉さまはふう、とため息をついた。お姉さまは怒ったような顔をしていた。
「あなた、フランを悲しませたらダメじゃない。あなたの言葉にフランがどれだけ悩んだと思ってるの。未来の私は、フランを悲しませたら罰としてあなたを地下室に閉じ込めているようだけど、今回はそれどころじゃすまないわ」
お姉さまはニッと笑って言った。
「罰として、未来に帰ったら、しばらくはずっと私達のそばにいること」
お姉さまはそう言って微笑んだ。マリアはじっとその優しい微笑を見つめていた。
「マリア、」
私はようやくマリアに話しかけることができた。今、私はようやくマリアに正しいことを伝えられるのだ。
「幸せになってもいいんだよ」
マリアがまた涙をこぼした。私もいつのまにか頬が濡れていた。
「私達は幸せになってもいいんだよ」
マリアは私とお姉さまを交互に見た。そして、呟くような声で言った。
「ほんとに?」
マリアの顔がくしゃりと歪んだ。
「ほんとに私は幸せになってもいいの?」
私はその問いにうなずいた。
「ほんとに私はお母さまたちのところにいていいの?」
お姉さまがその問いにうなずいた。
「私は皆の邪魔じゃないの?」
母親は娘の問いにうなずいた。
その後、マリアは激しく泣き出した。お姉さまが立ち上がり、マリアの頭をかき抱いた。マリアはお姉さまの胸で号泣していた。私は二人を見守る周りの視線にも気づいた。
咲夜は目を細めて微笑んでいる。美鈴もにこにこと笑っていた。パチュリーもわたしたちじゃない人が見てもわかるくらいに笑顔になっていた。
私達だけじゃない。
紅魔館の皆はマリアの存在をしっかりと受けとめていた。
「さて。まあ、勝負は勝負だし、この戦いを終わらせましょう」
お姉さまがそう言うと、マリアはうなずいた。もはやマリアの顔からは暗い感情がすっきりと流れ去っていた。
お姉さまが自分のクィーンを手に取った。それをマリアのルークに向かって下ろす。
あとはお姉さまがチェックメイトをかけて、マリアが投了すれば終わりなのだが――――
お姉さまはクィーンを下ろすことはなかった。
お姉さまのクィーンがマリアのルークを弾こうとした瞬間、
お姉さまのクィーンは――――
粉々に砕け散っていた。
「え?」
誰ともなく、全員が疑問の声を出した。マリアに全員の視線が集中する。マリアも自分の右手をじっと見ていた。
「え、嘘? 私は何もしてないのに…………え、何で、どうして?」
マリアは席から立ち上がった。依然、目は右手に向けられている。マリアは何が起こっているのか理解できないように、何事かを呟き続けていた。
だが、お姉さまのクィーンが壊れる刹那、確かに私は、マリアの右手に魔力が発生するのを感じていた。
それがもし、マリアの意思でないものとするならば――――
私の脳裏に二文字の言葉が浮かんだ。
――――――――暴走。
「に、逃げて!!」
マリアも同時に気づいたようだった。必死の形相で叫ぶ。その言葉に全員が状況を把握した。
だが、次の瞬間――――
マリアの右手に膨大な魔力が集まっていた。
刹那――――
居間は崩壊した。
,
さぁ続きを書く仕事に戻るんだ
俺にはこの話の続きが必要だ
だがまずはこれの続きが気になって気になって。。。
これからのお嬢様と妹様の活躍に期待します
リメイクとても楽しみです
それにしても、レミリアお嬢様が今回、マリアに説いた事………
「友達のつくりかたとQED」でレミリアがフランに言った事と同じですね。
それに気がついた時、目から心の汗が流れました………
さて、次はガチンコバトル。
紅魔館組たち全員が戦うのでしょうか?
なんにしても非常に楽しみですね。
それと「一瞬だけ考えるような目したが」
ですが、「を」が抜けてます。(礼)
これは卑怯だろぉ。
さすがは紅魔館現当主…いや、「母親」だな