*** 以下の今現在有効かどうかは分からない設定を踏まえてお読みください ***
・ 幻想郷の人間たちはみんなけっこうそれなりに強い(妖々夢マニュアル)
・ 風見幽香には異質な神性のようなものが宿っているらしい(稀翁玉)
――――紅魔館
己は生まれてくるべきではなかった――昔のフランドール・スカーレットはそう思っていた。
そして今でもたまに思うことはある。
フランドールはこの世に生まれ落ちた直後、自身の能力を暴走させ両親を殺した。そのことは従者の美鈴から聞いている。美鈴本人はそのことをフランドールに告げたくはなかったようなのだが、フランドール本人が教えるように命令を下したのだ。
知らない方が良かったのかもしれない、と思うことはあった。
現にその事実を初めて聞かされたとき、フランドールはどうしようもない破壊衝動に駆られたことを覚えている。
壊したくなったのだ。
フランドール・スカーレット自身をぐしゃぐしゃに壊してしまいたくなったのだ。
自分がいるからこんな有り様だ。
姉も従者も、自分のせいで傷付いてしまっている。
己が生きているという事実に対する負い目が――存在し、この世界の内に在ること自体に対する罪悪感のようなものが、フランドールの内側から一気に噴出して、結果あのときは見苦しく喚き散らしてしまった。
そして、自分がいない方がこの館は上手く回っていくし、そちらの方が合理的だ――そう思いそのことを美鈴に告白したら、美鈴はフランドールを叩いた。頬をぱんと一張りしたのだ。
――痛かったな……
痛くて痛くて、涙が出た。そして叩かれたフランドールと同じくらい、叩いた美鈴が辛そうな顔をしていたことが今でも忘れられない。ただそれも随分と昔のことである。
地下にある私室を出ると、フランドールは姉のいる部屋に向かって歩き出した。
フランドールがこの館にとってたいそう厄介な『荷物』であるのだということは事実だと思う。それはごまかしようのないことだ。
ただ、それでも姉や従者はそのフランドールのために苦しみながらも『外部』と関わり続けた。その思いや苦労を無下にすることはしたくない。
生きてほしいと願われて守られてきたのだ。ならば自分は絶対に生きなくてはいけない――今ではそう思うことの方が多い。
『外部』というのは館の外の世界のことである。
フランドールは館から出てしまえば、能力の制御が追いつかなくなってしまう。未熟、ということではない。ただあってはならない極め付きに強力な能力が、何の因果かフランドールには宿ってしまっているというだけのことだ。
ともあれフランドールは館から足を踏み出すことは出来ないのであり、だからフランドールにとって館の外は即ち別世界なのである。そしてこの館が壊れれば、フランドールは能力の統御を失い、自分で自分を破壊して消滅するだろう。
それを防止すべく館にはさまざまな仕掛けが施されているのだが、それがどういったものであるのかはフランドール本人はあまり知らない。
「ふん……」
現在の紅魔館の内部および周辺は、姉が手に入れた兵隊たちで埋め尽くされている。
また周囲の湖一帯は、レミリアが発生させた真っ赤な――というより赤が過ぎてほとんど黒に近い色をした――霧により閉ざされている。
日光も生物もその霧の内に入っては来られない。人にとっても妖怪にとってもそれはある種の猛毒となる。内にいられるのはレミリアが認めた者だけなのである。
そしてそれら兵隊たちは沈黙し、人形のようにたたずんでいる。主であるレミリアが眠りについているからだ。彼女は数日前の宣戦布告により力を大きく消耗してしまっていた。
――早苗……
どんな強いヒトにも支えは必要だ――館の外の世界の、そのまた外部にいた友人はそう言っていた。
今が、そしてこれからが、その時なのだろう。たどたどしくも確りと語られた友人の言葉をフランドールは噛みしめる。
館を覆う霧は早々突破できるものとも思えないが、もし何者かがそれを抜けこの館に入って来たのなら、その時は自分が戦う。眠りについた姉を守るのだ。
幸い館の内部にいる限りにおいてフランドールに敵は無い。現れたそばから『目』を潰してやればいいだけである。
そうしたことを考えているうちに、姉の眠る部屋へと至る。扉を開けると、薄暗い室内に天蓋の付されたベッドが置いてあった。
そこにレミリアが眠っている。小さな裸身を布にうずめ、昏々と眠り続けている。
――本当に
小さな身体だと思う。
その身体に一体どれほどのものを背負って来たのかフランドールには想像が付かないし、それを背負えと言われてもおそらくは無理だろう。
そして王女として振る舞おうとするその姉の姿は立派ではあるし、強く魅力的にも見えるのだけれど――やはりそれは歪な状態なのだろう。のびのびとしているだとか、子どもらしいとか、純粋だとか無邪気だとか――たぶんこの姉にはそういうふうでいられた時間がほとんど無かった。フランドールがそういう時間を姉から奪ってしまったのだ。
翻ってフランドールはどうなのかと言えば、館の内部という限られた空間でこそあれ、比較的自由奔放でいることができていたと思う。その環境を与えてくれたのはレミリアだ。
だから――自分は子どもだとフランドールは思う。
外見が、ではない。心も、物事に対する接し方も受け取り方も、何もかもが幼いと思う。それなりの時間を生きたから知識こそ増えはしたが、そんなものは精神の成熟とは何の関係もない。
そしてレミリアとフランドールは年齢的には大差ないはずなのである。それなのにこの差は何なのだろうか。
「姉様……」
姉の小さな手を握る。綺麗な手だ。けれどその手は今まで幾度も血に汚れてきたのだろう。
その手をフランドールは自身の額へと押し当てる。そして祈るように、何かに懇願するかのように目を閉じる。
「姉さま……」
無理なことだと分かってはいるけれど――姉がただの女の子になってくれればいいと思う。
王女でなんかなくなってしまえばいいのに、我ままで奔放な子どもになってくれればいいのにと、フランドールは切に願っている。
「こちらでしたか」
小悪魔が室内に入ってくる。彼女も良くやってくれていると思う。自分たちの戦いに付き合わなければならない義理など彼女には無かったはずだ。
「その子は誰だい?」
その小悪魔の隣には、小悪魔と同じ楚々とした司書の服を身にまとった少女が立っている。すでにレミリアの『鎖』を受けているのだろう、目には自我の類は宿っていないようである。
妖精だろうか? さらさらとしたフロスティブルーの髪に、『六枚』の『氷』の羽が生えている。
「ふふ、ちょっと面白い『素材』でしてね。色々弄っちゃいました」
「色々って?」
「うふふ、お嬢様にはまだ早いです」
あらやだ、と言わんばかりの仕草で小悪魔は言った。そしてその横にいる妖精の少女の頭を撫でた。反応はない。
「冒涜的なこと?」
「違いますよ。そういうのも悪くないかなー、とは思ったんですけど、今回はむしろ私たち悪魔のアンチテーゼになり得るような術を施しておきました」
「アンチテーゼ?」
「この子の記憶を少しのぞいてみたのですが、どうもねえ……『あのお方』がここにいるようでして、そうなると相応の対策は取っておかないと」
まあ良く分からない封印が施されているようでしたが――と小悪魔が呟く。
「誰のこと?」
「それは追々。まだ確信できてはいませんし、それを確認するために明日は少々出かけようかと思います。偵察もしておかないといけないですから。そういうことなので、お留守番お願いしますね」
「ん、了解。あんたも無理はしないでね」
「ふふ、大丈夫ですよ。こう見えて天才魔法使いの使い魔ですから」
準備が万全な魔法使いは生半可な妖怪では歯が立たないほど強い。そしてここは希代の魔法使いの居城でもある。そうした準備には事欠かないのだ。
それにしても明るい声である。この状況下においてそういう声が出る辺り肝が据わっていると思う。フランドールの方はと言えば、内心不安だらけであるというのに。
そうして部屋を出ていこうとする小悪魔にフランドールは声をかける。
「ねえ、小悪魔」
「はいな」
「貴女はどう思う? 私たちは間違っているのか、それとも正しいのか――どっちだと思う?」
普通に考えるならば、いまフランドールたちがやっていることは愚行の極みとも言うべきことなのだ。到底肯定し得る行いではないだろう。
「そうですねえ……他ならぬレミリア様がこの選択をされたのです。ならばそれは最終的には必ず正しい形で結実すると思いますよ? だからこそ私は今回は悪役に徹させていただきます」
そう言って怪しい笑みを浮かべると、小悪魔は部屋を後にした。
そしてフランドールは再び姉の手を取る。
「フラン……」
眠るレミリアの口から小さな声が漏れる。
「お姉様……」
「フラン……大丈夫だから。お姉ちゃんに任せておけば大丈夫だから」
「うん。分かってるよ」
夢の中でくらい、力を抜いてしまえばいいのにと思う。
そうやって今を忘れてしまっても、誰もレミリアのことを責めたりはしないだろうに。
「パチェ……美鈴……」
うわ言のようにレミリアは繰り返す。フランドールはその彼女の手を放さない。破壊をもたらすその手は、今はレミリアの手を優しく包み込んでいる。
この温もりは失いたくない。フランドールにとって姉を喪失することは、世界が壊れてしまうことにも等しい。フランドールの居場所はこの紅い館の内にしかないのだ。
――早苗……
友人はもう違う世界の、思い出の中の存在になってしまった。しかしそれでも――
――私は負けないさ。そう誓ったんだ。
約束は果たす。生きてこの場所に居場所を作るのだ。そのためには――戦わなくてはならない。
そしてフランドールは姉の手を放すと、ゆっくりと前方に右手をかざした。
「誰だか知らないが……のぞき見は良くないねえ」
拳を握る。
フランドールの背後に開いていたわずかな空間の裂け目――その裂け目自体が、破壊される。その向こう側からこちらをのぞいていた存在までは捕捉できなかったが、その気配はいったん遠ざかった。
「ふん、逃げられたか」
「……サクヤ」
「え?」
姉がフランドールの知らない何者かの名前を呟く。
――誰だろう?
そのことに戸惑いを覚えつつも、フランドールは再び姉の手をそっと握るのだった。
―― 第六章 ~ Lotus Land Story ~ ――
――――冥界
八雲紫はいつものように白玉楼の中庭に面した回廊に座り、茶をすすっていた。
目の前の庭には白砂が敷き詰められていて、それが流水のような砂紋を描いている。砂紋の合間に点々としているのは松の木と、14個の無骨な庭石である。
実はこの庭に配された石の数は本来は15個なのだが、そのうち一つは必ず見えなくなるような配置となっている。京都の竜安寺と同じで、どこからこの庭を眺めようが、必ず一つだけ見えない石が発生する仕組みになっているのである。無論俯瞰すれば全ての石を拝むことも可能なのだろうが、それをするのは無粋というものだ。
空には朧月が弱々しく輝いている。
中庭そのものは大きく片仮名の『コ』の字を描いた白玉楼の建物と、その欠けた部分を補う一枚の油土塀により囲われている。その土塀の向こうに生えているのは桜の木である。花の季節は半月ばかり前に終わっているから、今は青々とした葉が茂っている。
花の頃には動きのない石の庭と、はらはら散る桜の花が対比となって実に美しいのだが――
「あーあ、境界いじって咲かせちゃおうかしら?」
そんなことを紫は呟く。するとその背後の障子を開いて出てきた西行寺幽々子があらあらとのんびりした口調で言った。
「花がないなら、ないなりの楽しみ方というものがあるわ」
幽々子はほほ笑みながら紫の隣に座ると、落雁を置いた。実のところ紫はそれほど落雁が好きということでもないから、おそらく自分で食べるために持ち出したのだろう。
「ねえ、紫」
「ん?」
「余裕がない感じ?」
「……ちょっとだけ」
ついつい幽々子の前だと弱気になってしまう。
――そう
状況は予断を許さない。この場所に争いを起こすという紫の当初の目的は達されているのだが――しかし達されすぎてもいるのである。
はっきり言ってここまで一気に攻め入られるとは思ってもみなかった。
いつもより少しだけスリリングな『異変』といった程度で終わるはずだったのだ。そして頃合いを見計らって幽香なり魅魔なりといった、吸血鬼を止めることができそうな輩をけしかけて異変を収束させようと紫は思っていた。
それがこの有様である。
よもやここまでやるとは思ってもみなかった。あの吸血鬼にとって同行した家族たちや、あるいは外の世界に残してきた仲間たちといったものは、紫が思っている以上に大切なものであったらしい。
妖怪の強さは精神の強さだ。だからこそ、負けられない理由がある輩は強い。途轍もなく強い。今の幻想郷の妖怪たちと比べて、背負っているものが段違いに大きいのだ。あんなにも幼いなりをしているというのに。
幸い今のところ人間については目立った怪我人や死人は出ていない。さすがに幾星霜にもわたり妖怪を退けてきた場所、といったところだろうか。
人里が紫をはじめとする妖怪の賢者たちの庇護下に入ったのは大結界構築後のことなのであって、それ以前においては何らの保護策も施されてはいなかったのだ。それでも里を防衛し続け、かつ妖怪の数多跋扈する幻想郷に人里の面々が留まり続けたのは――人と妖怪の間の暗黙の約束事のようなものもあるのだが――、やはり彼等が妖怪の退治を生業とする退治屋であったことが大きい。
実のところ今幻想郷にいる人間の多くはそうした系譜の上に立つ者たちなのである。だから今人里に住まう人間たちも、相応の技術を受け継いでいる場合が多い。だからこそ妖怪の巣食う幻想郷に留まり続け、結果として大結界の内側に囲い込まれることとなったのだ。
ただしそれら技術は生存のためにやむを得ず身に付けた、といった類のものでもない。そうしたことが要求されるほど今の――正確に言えば数日前までの――幻想郷は危険な場所ではない。阿礼の乙女もそう記述している。本来妖怪の対策書を記し、妖怪の危険性を訴え続けるべきはずの御阿礼の子が、である。紫はそれなりに彼女が記す書物には目を通してはいるが、それほど大きい手直しを施すことはしない。
要するに――そういった技術を身に付けた方が、この場所の暮らしはずっと楽しいのだ。楽しいから、皆戦う術を体得するのだ。だからそれは戦う術というよりは、遊び戯れるための術と表した方が正しいのかもしれない。
ただし、今回に限って言えばこれは遊びでも何でもない。紛う事なき、真の戦なのである。
だから――犠牲者が出る可能性はある。無意味な人死が出る可能性がある。
否、人間たちはひょっとすると妖怪たちが守り切るかもしれない。だが結果がそうであっても、もとから人里に肩入れする立場にいる者たちはかなりの肉体的、精神的苦難を強いられることになるだろう。
――ごめんなさい
耐えてくれ、としか言いようがない。紫はミスを犯したのだ。
本物の苦痛は与えたくなかった。この場を構成するファクターたちにいたずらに重荷を背負わせることはしたくなかった。
偽りだらけの、しかし本物の楽園――それをこそ、紫は作りたかったのだ。
だが、さすがに今回ばかりは事態は紫の掌よりこぼれ、幾人かの者たちはそれに伴い一緒に流されていってしまうのかもしれない。
――でも
始めてしまったからには最後までやる。そうでなければ示しが付かないし、遅かれ早かれこうした施策は必要なことでもあったのだ。
今回の件が上手く収束しなかったのなら、そのときは紫はこの場の管理人としての立場を別の者に譲ろうと思っている。それは紫にとっては断腸にも等しいのだが――
――どちらにしたって、言い訳よね
また罪が増えるのだろう。
「紫」
「ん?」
「この件で命を落とす輩がいるのなら――まあここではきちんともてなすわよ」
「幽々子……」
「貴女ばかりが背負うことではないわ。そうした命は私や――この件を予め了承していた全ての者が背負うべきこと」
死を司る姫。冥界の管理者。そして桜のような少女。
彼女がこうして『伝わりやすい』言葉を発するのは珍しいことである。それだけ紫が余裕のない表情をしていたということだろうか。
「……ねえ幽々子、お饅頭が怖いの」
気を取り直して八雲紫は八雲紫を取り戻す。
「あれ、そうだったかしら? じゃあ持って来ましょう。確かめでたい紅白のお饅頭があったわ。ほんとは私のおやつなんだけど――運動で疲れた貴女に特別ご奉仕」
「運動?」
「手と膝をゆかについて、頭を下げる運動」
「ばれてたか」
「ばればれよ。大変だったわね」
幽々子が再び障子の向こうへと消える。
今回の紫の目的は要するに幻想郷に戦を起こすことだったのだが、実はこの異変そのものは博麗大結界が出来上がった直後からすでに目論まれていた。大結界の完成に伴う平和という名の弊害を紫は見越していたのだ。
そのための方策として――弛んでしまった幻想郷の妖怪たちのブラッシュアップの手段として――紫は幻想郷に一つ仕掛けを施していた。
それが人里である。
紫が人里を一つしか幻想郷内に設けなかったのはこの時のためだった。もちろん他にもいくつか理由はあるのだが、どうあれ人里を一つしか設けず、それを幻想郷の妖怪全員で共有するという形をとっておけば、人里という場所に関しては全ての妖怪たちの利害は一致する。そしてその場所を危機的状況へと追い込んでやれば、ある程度の判断力のある妖怪たちは必ず人里を守る側に回るのだ。人間がいなければ妖怪もまた立ち行かなくなってしまうのであり、人と妖怪のバランスこそが幻想郷にとっては肝要なのだから、これは当然のことである。
そこにおいて問題となるのが、強力な勢力の存在だ。
長が紫同様システムの側に立つ存在であるならば説得も通じうるし、ことによっては何も言わずとも状況を察してもくれようが、当然そうではない者たちもいる。そうした勢力の内特に、動けば即座にこの騒動を収束させてしまい得るような力を持った連中については、紫はまだ動かないように頼み込んでいた。その最たるものが妖怪の山を治める天魔である。
そして幽々子が言った運動というのは、その時の叩頭する動作のことだ。天魔やあるいは風見幽香などは大人しく引き下がってくれたのだが、当然全員が全員そのような聞き分けの良さをもっているわけではなかった。幾度か土下座まがいのことをさせられることもあった。
もちろん紫にとって真実大事なのは幻想郷なのであり、そのために頭を下げるのならば一向に苦にはならない。幻想郷を良い方向へと先導していくことこそが紫のプライドなのであって、むしろつまらない自尊心に囚われて頭の一つも下げられないようなら、それは管理者失格というものである。
――そういえば
幽香は何をしているのだろうかと紫は思う。
実のところ風見幽香とは何者であるのか、紫は知らない。そして紫が知らないということは、たぶん他の誰もまた知らないだろう。
妖怪――ではあるのだろう。あれほどストレートに妖怪らしい妖怪はかえって珍しい。
――ただ
同時に彼女からはある種の異質な気配――神性とでも言うべき何かを感じることもままある。
零落し忘れ去られた神や、あるいは恐れられ疎まれた神。そうした存在と妖怪というものの境界は曖昧である。元は神だったと思われる妖怪も多々幻想郷には見受けられる。存外風見幽香とはそういう存在なのかもしれない。
それに幻想郷における『妖怪』の定義は結構いい加減なものがある。その他にカテゴライズされるような存在は、ほとんど無分類で妖怪扱いとなる。
たとえばルーミアなどは厳密に言うならば妖怪として分類すべき存在ではないのだが、おそらく次回の幻想郷縁起においても彼女は妖怪として記載されるのだろう。それ以外のカテゴリー基準を記述者である稗田阿求が知らないのだから――というより紫が知らせていないのだから――仕様のないことである。
――でもねえ
お世辞にもあのどこか間の抜けた感じのする風見幽香がそういう存在であるとは思えないし、当人は自身をして妖怪であると思っているのだから妖怪扱いでも問題はないのだろう。
「藍は?」
戻ってきた幽々子が問う。手には紅白饅頭の乗った皿をもっている。
「頼りない王様のお世話役」
「王様?」
「虫の」
予定外というのなら、地下の古き蟲たちによる暴走も全くの予定外だった。今までは特に野心等見せることなく、ある意味虫らしく大人しく暮らしていたというのになぜいきなりこういうことになったのか。
暴走の原因そのものについては粗方紫も見当はついているのだが、それは分かったところでどうこうなる類の問題ではなく、仕方がないのでとりあえずそれを解決し得る力を持った存在――即ち、いまいち頼りない感のある地上の虫の王のもとへと藍は送ってある。この件に関してもやはり後手に回ってしまっているようで、紫はまったく面白くない心持ちである。
ちなみに藍に憑けてあった式は現在は外してある。地下に八雲の式が入り込むことは協定違反となるからである。そのようなことを言っている場合ではないような気もするのだが――
――藍ならまあやってくれるでしょ
穏やかで、ややもすると頼りない印象のある藍だが、それでもかつての極東最悪の名は伊達ではない(彼女がそう呼ばれるに至った経緯においてはまた諸々ややこしい事情が重なり合っているのだが、それは今は関係ない)。
「ところで紫~」
ゆるゆるとした声で幽々子が言う。その普段通りな感じがありがたい。
「なあに?」
「喧嘩する?」
唐突に幽々子は紫の首筋に扇子を突き付けた。そして、やはり見通されていると紫は思う。
「結構よ。幽々子は冥界の管理をしっかりやってちょうだいな。私を負かす役回りは――そうねえ、あの悪霊にでもお願いしようかしらねえ。あれならまあ役不足ということはないでしょうから」
「じゃあ神社に行くのね」
「ええ」
「気を付けて伸されてきなさいな」
「はいはい。でもまずはもう一杯」
空になっていた紫の茶碗に幽々子が茶を注ぐ。
冥界の風は湿潤で、今の時期は暖かくも冷たくもない。浄土らしい空気だ。
その風を受け、桜の葉がそよそよとする。月は少し雲をかぶり始めている。
「ちょっと前に閻魔様が来たの」
「また説教?」
四季映姫には幽々子を介して色々と面倒事を押し付けてしまっていた。
幻想郷という狭い地域に対してわざわざ専属の閻魔が付いているのは、例によって例のごとく紫の姦計の賜物である。要するに彼女と紫は幻想郷という場所に関し、一種の共犯関係の中にいるのだ。
そして閻魔は通常二交代制となっているのだが、もう片方の閻魔と紫との間にはこれといった繋がりはない。顔を知っている程度である。
というか――頻繁に是非曲直庁を下っては、衆生の様子見に訪れる映姫が異常なのである。ふつう閻魔というものはもっとドライで、衆生に対して生前アドバイスを下すような面倒見の良い真似はしないのだ。
そういう意味ではありがたい存在ではあるのだけれど――苦手であることに変わりはないので、紫は彼女のことは敬して遠ざけるのが通常である。
「違うわ、言伝を頼まれたのよ。ほら、直接貴女に会って伝えると、役割上長々と説教をしなくちゃいけなくなるでしょう?」
「で、四季様なんて言ってたの?」
「ええと、まず龍神様からの伝言。だからこれは伝言の伝言だけど――あ、でも通訳を介していたみたいだから伝言の伝言の伝言ね」
「……龍神様か」
内心気が重い。この秩序の乱れきった状況、何を言われるか分かったものではない。
「えー、おほん。これ以上秩序が乱れたら――粛清する」
「うわあ……」
やっぱりと思う一方で、勘弁してほしいとも思う。こう見えて結構自分は頑張っているのである。
「……などと言われると紫は思っているかもしれませんが」
「はい?」
紫の予想に反して伝言はまだ続くらしい。
「いざとなったら自分が動くから、まあそれまでは伸び伸びやりなさい。管理もきちんと頑張っているみたいだからちょっと失敗したくらいでは私は何も問いません、だって」
拍子抜けである。何やらかえって疲れた気すらする。
「……それ本当に龍神様が言ったの? 閻魔様の脚色入ってない?」
「嘘はつかないと思うわよ、あのヒトだし」
「方便として有効ならけっこう平気で嘘つくわよ、彼女は」
「面と向かって話を聞いた私が言うんだから間違いないわよ。まあ本音を言うと、私も紫とおんなじふうに思ってね、問い質しちゃった。おかげで要らない説教まで付いてきたわよ。閻魔を疑うのですか、って。やんなっちゃうわ」
「……うーん、何だかなあ」
正直管理役の降板くらいは覚悟していたのだが。
肩の力が一気に抜けてしまったような気がする。無論現状の幻想郷が難局に立たされているということは揺るぎようのない事実なので、心配の種が一つ減ったというだけではあるのだが、それでも随分と気が楽にはなったように思う。
「あと、閻魔様と一緒に変な奴が来たわねえ」
「変な奴?」
「シンキ、とかいう」
「ああ。彼女はなんか言ってた?」
「いや、終始なに言っているのか分からなかったわ。とりあえずそのまま伝えれば分かるからって」
幽々子はメモ用紙を懐から取り出す。そんなことをさせるのなら神綺本人が直接書置きを残しておけばいいだろうに、肝心な部分であの神は抜けている。
「『えーと、どうもこんにちは。一応念のため、この場所について利害を有する面々で会議を開催することにしました』」
「会議?」
「何の会議かしらね? ええと『メンバーはまずタカミムスビノカミ様』」
――は?
紫は己の耳を疑う。
高御産巣日神――外界の巷間に伝わる日本神話(特に『古事記』)においては、天地開闢に関わる五柱の原初神『別天津神(ことあまつかみ)』の一柱として伝えられる特別な神格である。また高天原に一番初めに出現した三柱の神――造化三神の内の一柱でもある。
知恵の神である八意思兼神の親神であり、また天孫降臨の折に狼藉を犯したアメノワカヒコを天から矢で射殺した存在でもある。
神話は別天津神による天地開闢の後、神世七代と呼ばれる七代の神の時代を経て、イザナミイザナギによる国産みのくだりへと至る。この二柱が交わり大八洲国――つまり日本の国土が生み出される。
そして日本の島々とともに、20柱以上の実に多くの神々を産んだイザナミは、火の神カグツチの出産により命を落とし黄泉国へと隠れた。
妻を失ったイザナギはその怒りからカグツチを斬り殺すのだが、その血からはあの中臣(藤原)氏の氏神であるタケミカヅチ神をはじめとする八柱の神々が生まれた。
カグツチを斬り殺した後、イザナギはまたともに国を造るべく黄泉にいるイザナミへ会いに行くのだが、そこで見るなと言われたイザナミの姿――腐り、蛆がたかり、身体の各所に八柱の雷神をまとっていた――をお約束のように見てしまう。
その後は追手にタケノコを食べさせたり、葡萄を食べさせたり、桃を投げつけたり、その桃が神様になったりとまったく常識にとらわれない出来事が相次ぐのだが、最終的にイザナギは黄泉比良坂を大岩で塞ぎ、これにより幽明の境が生まれた。
――でもって
黄泉より帰ったイザナギは、身体の穢れを落とすべく禊を行う。
これによりまたしても多くの神々が生まれた。八十禍津日神、伊豆能売、住吉三神といった神々はこのとき生まれた。
そして最後にイザナギが左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うとツクヨミが、そして鼻を洗うとスサノオがそれぞれ生まれた。三貴子である。
無論これらはあくまで人間がそう語り伝えているというだけのことであって、神代における事実とは異なる部分も多々あるのだが。
「えーっと」
そして幽々子が続ける。
その内容はまたしても紫の心労の種を増やす類のものだった。
「『次にヤハウェ様の代理でミカエル君』」
「ち、ちょっと待って」
――耶蘇の神がなぜ動く? 『あいつ』絡みか?
「でもって『北欧からはオーディン様の代理として、ロキ様とトール様。あとはギリシャ方面からゼウス様の代理でヘルメス様。それから通訳としてラタトスクちゃん。とりあえず以上。ことによっては増える場合もありそうだけれど、いかんせん皆忙しく都合が――』」
「な、なんで――」
「『そうそう、あの吸血鬼姉妹だけれどね、どっちがどっちかは分からないけどグングニルとレーヴァテインをそれぞれ所持している模様。ロキ様の悪戯みたい。気を付けてね~』って」
「ロキって――」
――あんの馬鹿……
大人しくラグナロク対策でもやっていればいいものをと思う。
そして紫は頭を抱えた。ストレスで腹の中がやられるのではないかと自分で自分が心配になる。
幻想郷は身も蓋もない言い方をするなら、外界に見られる社員寮のようなものだ(本当に身も蓋もない)。そして会社に相当する各幻想領域の連中としてはその寮が潰れるのは困るということなのだろう。
頭が痛い。
神綺がその会議とやらを開催するに至った理由はだいたい見当が付く。
いま名のあがった神々がまともに動けば、この狭い箱庭じみた世界は瞬く間に解体されることだろう。そうした決定を勝手に下されないようにするべく、事前に意思の連絡を講じておこうというのが神綺の狙いなのだ。彼女もまた親幻想郷派とでも言うべき立場の存在なのである。
「紫~」
「な、なにかしら?」
「よしよし」
春でもないのにほのかに桜の匂いがした。幽々子が紫を軽く抱きすくめたのだ。
「ちょっと、いきなりどうしたの?」
「髪の毛が荒れてる。枝毛もちょっとある。手入れをした方がいいわよ?」
そう言って幽々子が紫の金の髪を優しく撫ぜる。少しこそばゆいと紫は思う。
「そういう場合でもないのよ」
「楽しくやった方がいいわよ? 貴女が楽しくないのなら、たぶん他の連中だって楽しくない」
「そりゃ異変なら楽しむわよ。でもこれは異変ではないもの。楽しむのは難しい」
「そういうもん?」
「そういうもん」
――それにしても
どいつもこいつもちっとも管理人の意向なんか鑑みてはくれないのだ。無秩序なファクターを、極力そのままの形で内包する――そういう世界を維持管理するのにどれほどの苦労が伴うのか分かっていない奴が多すぎる。
もちろんそれは紫が選択した世界の形でもあるので文句を言うのは筋違いではあるのだが、それにしたって――
――それにしたって
「あー、もう! また面倒ごとが増えたじゃないのよ……はあ」
その面倒なことを引き込んだ当の本人は、大儀そうに肩をすぼめるのだった。
◇◆◇
――――人里
里の中心部にある広場に設けられた長椅子に腰かけ、稗田阿求は月を眺めていた。
夜間の人里の街路は、平時であれば夜更かしを決め込んだ人間と妖怪がたむろしていて結構にぎにぎしいのだが、いかんせん今は状況が状況であるから人々は各々の家にて待機、または避難所に当たる稗田や小兎の屋敷に大人しく収まっている。いま広場にはわずかばかりの人間たちしかいない。酒を飲んでいる者、ヤツメ堂のものと思われる鰻を食む者――刀を持った者、棒を持った者、護符を忍ばせる者――おそらく今こうして出歩いているのはある程度腕に覚えのある面々だ。自警、ということなのだろう。
避難所に入っているのは身を守る術を持たない者たちだ。大結界構築の頃はおおよそ大半の里の住人たちが何らかの形で戦う術を有してはいたのだが、さすがに平和な時代が百年続けばそうした心得のない者たちも目立ってくる。それが良いことなのか悪いことなのかは阿求には判断できない。
里の四方位に設置された半鐘台は夜通しで番がなされているから、その明かりが良く見える。そしてその下には敵の郷への侵入を防ぐための人員が集まっているはずだ。どちらも交代性である。
数日前に血涙のような液体を滴らせていた龍神像は、今は沈黙している。壊れてしまったのか、それともこの異常事態に対応する眼光が存在しないのか、その目はただの黒い穴になっている。
さすがに非常事態であり、また妖怪側としても人里が陥落したり荒されたりするのは避けたいところではあるのだろう。今の人里近辺には結構な数の妖怪たちが集合している。それらは里の外側、外壁の向こうにて番を張っている。たとえば数日前までミスティア・ローレライが屋台を出していた辺りである。平素から里によく出入りしている妖怪たちは里の中にまで踏み込んでいる。
――というか
そうやって妖怪が守護に当たらなければさすがに持たない。普通の妖怪ならばまだ御しようもあるが、もしも強力な妖怪がなりふり構わず本気になったのなら、それに対処できる人間などは稀である。
そして――それだけの実力がある妖怪も相当の数が敵の手に落ちている。例えば妖怪の山の天狗たちもかなりの数を持って行かれたのだそうである。それらが一気に襲いかかって来たなら、この場所は人間だけでは絶対に守り切れないだろう。
現在吸血鬼の勢力は不気味な沈黙を維持していて、本格的に人里やその他の地域に対して危難を及ぼすような事態には発展していないのだが、それも時間の問題だろう。吸血鬼の食料と、この場所の構造を考えれば明らかである。
「はあ……」
ちなみに阿求がこうして外に出ているのは特に理由があってのことではない。外の空気が吸いたかっただけである。
そして阿求は現在記している手記を読み返す。
題名は『異聞吸血鬼異変』。この騒動が今後いか様な扱いを受けるのかは分からないが、やはり己の本分は記録するという行為にこそあると阿求は思うのだ。
――『まずはこの手記の題名に『異聞』と付されている理由から説明しなければならないだろう。それは大きく分けて二つある。
一つ、今現在幻想郷が置かれている状況は、平時と比較して極めて異常な状況であるということ。
そして今一つは、この異変は厳密に言うならば『異変』ではないのだということ。
これら二つの要因が、この手記の題名の所以となっている。
まず一つ目に関してであるが、人と妖怪の関係というのは襲い襲われるというものであって然るべきなのであり、そうでないのは少々不健全というものである。もちろんそれは今では儀礼的なものにすぎないのだが、そもそも儀礼というのは事象から意味をいったん抽出し、その意味に対して新しい事象を付与することで生まれるものなのであって、儀礼的であることが即座に無意味であることへと繋がるわけではないのであり、それがまったく形骸化してしまわない限りにおいては、儀礼は儀礼としての意味を堅持し続け――ああ、めんどうくさい。端折ってしまおう。ともかくそういう関係は残していかなければならない。詳しいことは詳しい人に聞いてください。え? 一番詳しいのはお前だろって? 知らないですよ、ふん。お前で鬱憤を晴らしてやろうか!
……失礼しました。最近は妖精相手に鬱憤を晴らす機会もなくなって苛々していたせいか、見えない敵と戦ってしまった。筆の乱れは心の乱れ、そう、すべては妖精が悪いのです。きっとそう。
さて、筆書きは修正が効かないから困ります。八雲紫が置いて行った『ろけっとえんぴつ』なる魔具は、それに相反する『ねりけし』により文字を打ち消すことができるから便利なのですが、あいにくと先ごろ芯がなくなってしまいましたし、またねりけしのほうも穢れが溜まって真っ黒くなっている有様。これではベタ塗りくらいにしか使い道がありません。香霖堂さんに適当言って売りつけようかしら?
まあ、ともあれ便利さは人を堕落させます。やはり毛筆に限る。負け惜しみではありません。八雲紫が言うには最近はそれの上位互換品である『しゃーぷぺんしる』なる魔具も開発されたそうなのですが、そして彼女はすでにそれを何本も所持しているのだそうですが、知りません。人間、足るを知ることこそが肝要なのです。いつの時代も自己満足こそが最強。負け惜しみではありません。
そういえば鉛筆を日本で最初に使用したのは『具能山御道具之覚』等の記述から徳川家康であるとされるそうですが、その鉛筆は久能山の東照宮にて発見されました。久能山というのは駿河国――あ、そういえば廃藩置県がなされたので今は静岡県とかいうのでしょうか? まあ何にせよその辺です。日光の東照宮完成以前に徳川家康が埋葬された神社です。日光へは改葬、ということになるのでしょう。
ただ、本格的に鉛筆の製造が開始されるのは大結界の構築のおよそ十年前、明治七年まで待たなければなりません。墺太利は維納にて学んだ政府伝修生、井口直樹と藤山種重によりその製造技術がもたらされ、同年小池卯八郎により製造が――
ああ、もう。鉛筆の歴史はどうでもいいのです。どうも私自身がそれほど気持ちの整理が付いていないせいでしょうか、文面の覚束ない感があります。脱線も著しい。
ここはいったん気を取り直して――
今この記録を綴っている私の部屋から人里を見下ろしてみると、人と妖怪が結託して里の防衛にあたっている様子が見て取れる。それは本来あまり好ましい状況ではない。非常時であるが故に許されることなのである。
人間である私がそれに言及することは正直気が引けるのだが、人里に取って代わることができるような領域は現在の幻想郷には存在していない。
たとえば、である。何かの原因であの妖怪の山が崩れ去ってしまったらどうだろうか? 理由は何でも良い。石長比売と木花之佐久夜毘売の姉妹喧嘩が再燃したとか、適当なもので良い。
その場合損なわれるのは妖怪間でのパワーバランスなのであって、人と妖怪のパワーバランスではない。そういう意味では大事件ではあるが、幻想郷の非常事態と言えるようなものではないのだ。二番手の勢力が一番手に浮上するというだけのことである。
翻って人里は代えが効かない。ここが陥落した時点で人と妖怪のバランスは崩れ去る。そうなれば、ここを手にした勢力こそが幻想郷の覇権を握るという構図が出来上がるだろう。人間が恐れれば恐れるほど、妖怪は強い力を発揮するのだ。
ただそう考えると今の今まで人里の覇権争いが起こらなかった点も鑑みて、やはり妖怪は優れた文化的センスを有しているとも言えるだろう。そして――』
「はあ……」
いまいち手記としての体が怪しい文章をそこまで読んだところで、阿求はもう一度ため息をついた。
――うんざりだわ
そう阿求は思う。大結界が構築され、平安の時代が訪れたのだと思っていた矢先にこれである。まだ阿求が転生してから二年と経っていないではないか。
はっきり言って、状況はかなり悪い。手記の記述内容がおかしいのも、何割かくらいは阿求本人の性格によるものだが、やはりこの状況が響いているからである。少しはお茶を濁したくもなるというものだ。
吸血鬼の軍門に下った妖怪たち。それらはみな『真の意味で』人間にとっての脅威となってしまっている。
つい最近まで酒屋で人間とともに酒を飲んでいたあの妖怪も、稗田家を訪れては本を借りていく本読み妖怪も、ヤツメ堂で修業をしていたあの妖怪も――みな敵になってしまった。
厭だ、と思う。
その連中が虚ろな瞳で人間に襲いかかって、その身体をむしゃむしゃ貪り喰らっているところを想像すると物凄く嫌な気分になる。幸い今のところ吸血鬼の勢力は沈黙を守っていてそういう事態には及んでいないのだが、しかし今後はいつそうなってもおかしくはないのである。
もちろん妖怪は人を喰う。それは事実だ。外から攫ってきて、喰う。
だが同時に妖怪とは精神を重んじるものでもある。
外の世界の人間ですら、意志の疎通が図れない家畜を屠殺する際であってもきちんと安楽死させてからさばき、曲がり間違っても必要以上に苦しませて死なせるようなことはしない。いわんや妖怪をや、である。
この騒動が始まる少し前、外界でサッカーの選手をしていたという青年が幻想郷に帰化していたが、その彼は妖怪が人を喰うと聞かされた折には何故か苦しみ悶える人間を頭からばりばり喰らっていくような、阿求でも勘弁してほしいと思いたくなる図像を想像したらしい。そして概して外の人間はそういうイメージで妖怪を捉えているとのことだ。
その彼のイメージに従って考えて、仮に自分が喰われる側だったとしたらどうだろうか?
腕や足といった部位に食い付かれれば、恐らくショック死か失血死だろう。出来れば前者がいい。痛くないからだ。しかし一思いに噛み千切ってくれればまだいいが、おそらくそうはならず、皮膚の繊維だの神経だの、あるいは肉だの骨だのがぶちぶちと、いちいち激痛を伴って断裂していくのだろう。
ではその青年が想像したような、頭からぼりぼりという喰われ方だったらどうだろうか?
これは最悪である。噛む力が凄まじく一気に首ごと持って行ってくれるのであればまだ救いもあるが、人間の骨は存外に硬いし、妖怪の口はそれほど大きくもない。だからまずは頭皮を歯で削がれることになるだろう。皮を削がれたぐらいでは人間は死なないから、痛い。そして口に血だの肉片だの皮脂だの髪の毛だのをべったりと付けた妖怪は、にいっと微笑んで、その下から出てきた血塗れの頭蓋骨を叩き割るのだ。いや、ひょっとしたら光線で焼き切って蓋のように開けるのかもしれない。この時もズタズタになりつつも残っていた頭皮周りの神経が直接熱線を照射されることになるから、物凄く痛いし熱い。切り取られた頭蓋骨はからんと音を立てて転がって、そして妖怪はその奥から出てきた脳味噌を啜る。聞くところによると脳に痛覚は無いらしいのだが、何にしたって自分の脳を喰われたり脳漿をずるずる音を立てて啜られたりすれば、お終いである。脳を食す場合は、いったん全部取り出して丸ごと喰らうのか、それとも持参したスプーンを柔らかいピンク色の脳味噌にぶにぶにと突き立ててデザートでも食べるかのように愉悦の表情を浮かべてすくっていくのだろうか? いや、そこで首を落としてしまえば弁当代わりになるはずだ。髪の毛を引っ掴んで苦悶の表情を浮かべた生首を持ち歩いて、どこかの綺麗で清涼な丘で頭蓋骨を開帳し、仲間たちと談笑しながら旨い旨いと言って脳味噌をかっ喰らうのか? 他の部位はどうだろう? 乳房だの男根だのもかなり厭だ。
ともあれ――彼はそういう様を想像したらしいのだ(阿求ほどいちいち細かく描写はしなかったが)。
とんだ誤謬である。
人間だって生きた豚や鶏にそのまま齧りついたりはしない。美味しそうだとすら思わないはずだ。
妖怪を人間の常識で測るなかれという声向きもあるだろうが、別に妖怪だからと言って何もかもが人間のアンチテーゼめいていて、一事が万事人間の常識と違えてしまっているなどということはない。
第一、である。そこまで物騒な状況下であるのなら、阿求が幻想郷縁起の記述内容を迷うことなどないというものだ。相応に平和だからこそ、ネタに困っているのである。特に風見幽香辺りは全くネタがない。普通に買い物に来るし、冴月の花屋とも妙に懇意だったりするからほとんど怖がられていないのだ。力は馬鹿みたいに強力だし、強い者には対しては厳しいのだが、弱い者に対しては至って普通なのである。というか戦う対象として里の人間に興味が一切ないのだ。だからただのご近所さんのような有様である。
ちなみに何を隠そう阿求のお気に入りの花飾りも彼女のくれた品だったりする。それもあって、阿求としては相応に強そうに書いてあげたいとは思うのだが――実際、強力でもあるのだし――、やはりいかんせんネタがない。
太陽の丘の向日葵を焼き払ったりすれば、おそらくその時は自然の権化のような破壊をもたらしていくのだろうが、そもそも幻想郷にそんな阿呆なことをする輩もいない。妖精は別だが、あれはいくら叩かれようがすぐに復活するので気にすることもないだろう。
――まあ幽香さんの話はどうでもいいのです。
妖怪の食の話である。
そもそも食料担当の妖怪は大別して略取班、解体班、提供班に分類される。必然的に外部との関わりが増えることにもなるので、年長の妖怪がこれらの職務を担当している。
そして外界からかどわかされた人間たちは――
そこまで阿求が考えたところで、広場の空気が変わった。
「侵入者だ!」
阿求の正面方向――里の西方より伸びる大路を一体の妖精が駆けてくる。
妖精というには少々日本的な感じもする長い黒髪と、揚羽蝶のような形の、透けた四枚羽。髪は星を反射し、羽を逆に星を空かしている。
目付きを見るにあの鎖を受けているのだろう。妖精特有のあの腹が立つくらいの明るさがない。あれはたしか、悪戯好きな三妖精の内の一人――
――スターサファイア、だったかしら?
守備班が取りこぼしたのだろう。仕方がない。あの妖精の運動能力は、かけっこの得意な子どものそれと大体等しい。追って追えないものでもないが、逃がせばそれなりにすばしっこいから厄介だ。
スターはそのまま広場の方へと走ってくる。そして――生意気にも――弾幕を発する。もちろんこの妖精はそもそも戦いが苦手なタイプなので、その威力も密度も微々たるものである。
案の定広場にいた面々は全く冷静にそれをかわすなり弾くなりしてやり過ごす。阿求に至ってはそもそも弾の軌道上に乗っていなかったので、動く必要すらなかった。
そして走り込んできたスターに対し、護符が一枚投じられる。里の誰かが放ったのだろう。それを受けた彼女は、あっけなく気を失って転んで沈黙した。
一方阿求は周囲の『音』と『風光』に気を払う。
鎖を受けている以上、あの小憎たらしい三妖精間の連携が維持されているとも思えないが――というか普段から連携もへったくれもないのだが――ルナチャイルドとサニーミルクの能力は有効に使えばかなり便利な力ではある。里の今後のことを考えても、ぜひ確保しておきたい代物なのだが――
――いないか
三妖精は現在ばらばららしい。三つそろえば憎さは三倍以上だが、こうして切り離されている様を見るとそれはそれでどことなく哀れだ。
「阿求様、これどうしましょう?」
護符を放ったと思われる主婦が阿求にたずねる。
「そうですね、とりあえず小兎の当主に頼んで揺り戻しを。その子の能力はレーダーとしてはかなり優秀ですから、監視にかかる手間を幾分か省けるでしょう」
そしてスターの性格、好きな食べ物、弱点等を教える。その辺が分かっていれば妖精は大体使いこなせる。妖精とハサミは使いようと古来より言う。
「なんだ、なんだ? 騒動かい?」
背後から声がかけられる。
声の主は藤原妹紅だった。現状を鑑みて、これほど頼りになる人員もそうはいないと阿求は思う。
その彼女は眠っているらしい少女を抱きかかえている。上白沢慧音だ。
「妖精が暴れただけです。それより先生は」
「過労だ、過労。こいつ寝ないし食べないしいい加減限界だったんだろう。私とは違うんだから無理はしないでほしいよ」
妹紅は死なない人間――なのだそうだ。具体的な事情は阿求は知らない。
ただ彼女はそれを喧伝されるのは嫌であるらしく、幻想郷縁起では適当にごまかしておいてくれるよう頼まれていた。別にこの場所の人間は妙なことには慣れっこであるし、今さら不死身の人間が一人や二人加わったところで動じもしないだろうが、ともあれ稗田家と藤原氏の間には浅からぬ縁もあるのでその辺りのことについては阿求も便宜を図るつもりでいる。
「ちょっと寝所を貸してもらえるかしら? こいつを寝かせたい」
「分かりました、屋敷の方へ参りましょう」
「ありがとう。ああ、それと私は明日はここを空けるだろうからそのつもりでな」
「どこかへ行くんですか?」
「ええ、大っ嫌いな奴のところにね」
ふてくされた表情を浮かべると、妹紅は迷いの竹林があるであろう方角へと目をやった。
◇◆◇
再思の道――魔法の森を通り越した先にある小さな道で、ここを進むと無縁塚へと至る。森の合間の小道である。
幻想郷の中でも端寄りの一帯であり、桜花結界の下層と博麗大結界の交点付近に位置する。その関係で外部や冥界と繋がることも多く、幽霊や亡霊に出くわす確率が高い。
再思の名の由来は、外から自殺志願者等が迷い込む場合が多いことによる。彼岸花の名所であり、その毒がそうした者たちに不快感と気力とを同時に与え、思いとどまって道を引き返すことが多いから再思の道と呼ばれている。
大妖精はそういうようなことをその道々でルーミアから聞かされていたのだが、あまり頭には入っていなかった。
周囲は森に覆われているので、風の声はほとんど聞こえない。静かである
空には五月の太陽が照っている。雲もまばらであり、上だけを見上げていれば静けさと相まって今この場所が騒乱の内にあるのだということを忘れそうになる。
「ふあぁあ~」
間延びしたあくびの声。隣を歩くルーミアのものだ。
彼女はいったい何なのだろうかと大妖精は思う。
発される気配や、ほとんど怠惰といっても差支えないような種々の物言いは、まったく下級妖怪のそれである。チルノや大妖精とさして変わらない程度の存在であるとしか思えない。
しかし他方で妙にこの事態を冷静に眺めている節がある。おおよそほとんどの妖怪や妖精が混乱しているであろう現状においても、彼女はほとんど動じていないように見える。
それはおそらくこの事態を始めからある程度予測していたが故の態度なのだろう。
――『こんなことになるとは思ってなかったよ』
数日前に大妖精がチルノの一撃をくらい昏倒する直前、彼女は確かにそう言った。
大妖精が目を覚まして以降はその辺りのことについて触れないでいるが、彼女は明らかに何か知っている。大体それ以前においても大妖精に対して彼女はアドバイスじみた言葉を寄せていた。
そして大妖精が何とはなしに気になっているのは、彼女がチルノのことはどう思っているのかということである。
親しくはあるのだろう。それはこの騒動が始める前の、湖の一件を見れば分かる。あの鎖の飛び交った一夜にしても、チルノに累が及ぶことは彼女にとって不本意なことであったとしか思えない。
「ところでどこに向かっているんです?」
「食肉処理場だよ……つまり、屠殺の現場」
「トサツ?」
「本当はこういうことはゆっくりと学習するに限るんだけどね、今は悠長にしていられないから。まあそれは到着してから……ねえねえ、大ちゃん」
「なんでしょうか?」
「これからちょっと長い話をするよ? 面倒だけど。ちなみに私が真面目な話を真面目にするのは割と貴重なことだから、ありがたく拝聴するように」
「はあ」
「返事はわん」
「わ、わん」
「ん、よろしい。さて、何から話そうかなー……まあ、まずはこの騒動そのものの話かしらね」
そう言うと、ルーミアは路傍にあった岩に腰を下ろした。隣に座るようにと促されたから、大妖精も同じ岩に腰掛ける。
そして正体不明の宵闇の妖怪はとつとつと語り始めた。
「正直ね、そろそろ一波乱来るかなとは思ってたの。さすがに平和すぎる感じだったからね。平和であることが悪いってわけではないんだけど、それで身を守るための牙まで抜け落ちてしまっては話に――いや、そういう話はどうでもいいや。有り体に言うならね、あの吸血鬼を呼び込んだのはこっち側の奴らなのよ」
「こっち側?」
「戦いを通して、停滞しつつあった幻想郷を再び活性化させる――そういう目論見でこの騒動は引き起こされてる。あの吸血鬼は言ってみれば倒されるべき悪役として白羽の矢が立ったってことね」
全て仕組まれていたということだろうか?
それは大妖精からしてみるとあまり愉快な話ではない。そのせいでチルノは危機的状況に瀕しているのであり、また自身の命を救ってくれた存在も、ああして悪の権化のようなふるまいを強いられているのだ。
どうしても大妖精はレミリア・スカーレットが悪であるとは思えないでいる。もちろんそう思っているのは大妖精だけなのであって、ここに住まう者たちの大半は彼女のことを排除すべき敵として認識していることだろう。それが大妖精には辛い。
他方、大妖精とルーミアはチルノを助けだせはしないかと思い動いている。それが二人の行動の理由である。現状ではあの霧や無数の兵隊たちに阻まれてそれはままならない状況ではあるのだが。
妖精の命は本来無限大に等しい。それは彼ら彼女らの生命力が自然の力により担保されているからに他ならない。だからこそ身体が崩れようが焼かれようが消滅しようが、じきに復活することができる。
だが妖精が力を付け過ぎた結果、その存在が自然の持つ力ではカバーしきれないほど大きくなってしまうときがある。その時その妖精は輪廻の内側に組み込まれるのだ。命が有限になるのである。場合によっては妖怪となり果てることもあり得る。妖精は力を持ち過ぎてはいけないのだ。
そして大妖精があの晩に受けたチルノの攻撃は、並の妖精のそれとは比べ物にならないほど強力な力が込められていた。現にそれなりに力のある妖精でもあった大妖精が、一撃で昏倒した。
その力を鑑みるに、チルノがこの騒動の渦中で妖精の枠から逸脱してしまう危険性はかなり高い。それをこそ大妖精は恐れている。
それに、そもそも元々のチルノの力からして妖精としては破格なものでもあった。
「あいつ、あれで結構いいとこのお嬢さんでしょう? 人間ふうに言うなら」
「ご存知だったんですか?」
「まあね。しかしそれはひとまず置いといて――話を続けるよ? 人里の重要性についてはさっき話した通り。あの場所を中心にして、幻想郷の住人たちの関係図は蜘蛛の糸のような構図を描いている。あの場所が巣の中枢――即ち因果の中心。そこに刺激を加えてやれば、幻想郷のほぼ大半の領域は同様の刺激を受容することになる。ああ、しゃべるためのカロリーがもったいない~」
やはりルーミアの言葉には、下級の妖怪の物言いとは思えないものがある。大妖精が感じたところでは、その髪に巻かれたリボンは何かの封印であるようだし、ひょっとすると本来はある程度高位の妖怪であったのかもしれない。
「その――裏で糸を引いたヒトとルーミアさんは知り合いなんですか?」
「知り合い……かなあ? でもそいつにかかわると面倒くさいことになるから、私はあんまり会いたくない。あ、私は今回の件にはノータッチだよ? そもそも大ちゃんは私のことをなんか凄い妖怪みたいに思ってるようだけど、そんなことはないの。私は雑魚、STGだったらせいぜいが一面のボス止まりなの」
「STG?」
外界の娯楽の一種だよ、とルーミアは答えた。
「これが誰かの手により引き起こされたことなら……この騒動は今もそのヒトの手の内ってことですか?」
もしそうであるなら、事情を説明すればチルノについては何らかの便宜が図れるのではないかと大妖精は淡い期待を抱く。しかしルーミアは首を横に振った。
「蜘蛛の巣では、蝙蝠を捕らえきることは出来なかった。この騒動の首謀者は、八雲紫っていうここの管理者さん。共犯はそれと同様に、この場所のシステムにかかわっている妖怪の賢者たち。そしてそれに踊らされた実行犯があの吸血鬼。これはそう言う構造の『異変』だったはずなんだけど……もうあの吸血鬼はそいつの制御下にはない。だからこれは『異変』ではなくなってしまったの」
――異変……
どうもその言葉をここの住人たちは特別な意味合いを込めて用いているようである。
岩に座る二人の前をふわふわとした綿飴のような物体が通り過ぎる。幽霊だろう。それも人や動物のものではなく、より自然に近い植物の幽霊であるように思われる。
幽霊というのは大妖精が思っていたのとは少々異なり、木や花の幽霊といったものも存在するのだそうだ。
だからそれは妖精に性質が近い。妖精が自然の具現であるのなら、幽霊は気質の具現である――とルーミアは言っていた。大妖精にはよく分からない話である。
「異変ねえ……」
ルーミアは少し考える仕草をする。
「まああんまりこういうことを言うのは良くないんだけどね、非常時だからいいか。異変てのはね、『イベント』と言い換えると分かりやすいと思うよ?」
「イベントって――お祭りとかのあのイベントですか?」
「そう、そのイベント。ここには強いヒトがいっぱいいるからね、みんななんか起こしたくてムズムズしているんだよ。最近は制約が厳しくなっちゃって、起こしにくくなってきたけどね。ちなみに私はそんな暇があったら寝ていたい。けれどまあ仮に私が異変を起こすとするよ? そんな面倒なこと絶対やんないけど」
そうだろうなあ、と内心で大妖精は思う。
「仮に――私が身体から真っ黒い霧を出して幻想郷を覆ってしまったとする。そんなこと出来ないけど」
「出来ないんですか?」
「出来ません。ともかく私がそういうことをやらかしたとして、さてどうなるだろうね? 特に『かよわい』人間たちは、さ」
どことなく皮肉の混じったような口調だった。
「どうなるんですか?」
「ちょっとは考えようよー」
「生活リズムが乱れる」
「妖精らしくない答えだなあ……あのね、日光遮っちゃったら食べるものが育たなくなっちゃうでしょ? そうすると遠からず餓死」
「それがイベント――なんですか?」
イベントといえばもう少しめでたい感じのするものだという印象があるのだが。
「ま、これは成功した場合。でもね――本当はこういうこと言っちゃいけないんだけどさ――異変てのは『解決されることを前提に』引き起こすもんなの。特に害のない異変ならともかく、ほっとけば被害甚大って感じの異変はそういう前提で起こさなきゃいけない。当然よね? 成功してしまったら、この世界そのものが壊れてしまうんだから。ゲームじゃないんだからさ、自分の住んでる世界を壊す馬鹿はいない。そしてこの世界は極めて危ういバランスの上に成り立ってる状態、ちょっとかたむけば何もかもが駄目になってしまいかねない場所……大ちゃん、この世界はね――掃き溜めみたいなものなのよ」
「掃き溜め――ですか?」
「そうだよ。消えかかった幻想が最後に行きつく美しき掃き溜め。鶴がいっぱいいる掃き溜め。妖怪はさ、精神的優位性だの何だのが重要になるナイーブなものだからさ、みんなふんぞり返っているけれど――本当は私たちはここ以外に行き場はない。生きる場所がない。帰るべき『領域』が存在している奴もいるけど、でもかなり多くの連中はここを失ったら相当な苦境に立たされる」
私たちは弱いよ――そうルーミアは言った。淡々としてはいるけれど、そうであるが故に逆に一抹の悲哀の情が見える。
おそらくそれはこのような事態でもなければ口にしてよい類の文言ではないのだ。それが事実であるのだと皆が理解していても――それでもなお口にしてはいけないことというのはあるのだろうと思う。
そして大妖精の記憶は、あの孤独だった日々へと帰る。
――私だって
欧州の峰々に囚われていた頃、幾度も己は見放されたのだと思うことがあった。
標高8000メートルの極寒の嶺に一人でたたずむ――そういう時間を大妖精は生きてきた。
そして彼女がその寒さや孤独に耐え忍んでいるとき、チルノ以外の仲間たちはみな自分のことを忘れて暖かい場所でぬくぬくと暮らしていたのだ。
それを恨んでいるというわけではない。妖精とはそういうものだ。あの場所に氷精以外の妖精が立つことはほとんど不可能と言ってよかった。
でも――あの時大妖精は自分という存在の余りの『軽さ』に押しつぶされそうになったのだ。
自分は仲間の誰の内にも、己の『重さ』とでもいうべき何かを残すことができなかった。その事実に慄然として、そして――忘れられたと思った。
本当に仲間たちが自分のことを忘れてしまったのかどうかは知らない。でもそう思ったのだ。思ってしまったから、絶望した。
そうして雪に閉ざされた世界に、『シルフィード』という名前の鎖をもって大妖精は幽閉された。
一人に――なった。
チルノだけがいた。
モノクロームの空間で、彼女だけが色を伴って存在していた。
チルノだけが世界の色彩で、でもその彼女もいなくなって――
――私は
永遠に一人ぼっち――あの時はそう思った。だから分かる。
「口にしたくないことって――あるよね」
独り言だった。ルーミアに聞かせようと思った言葉ではない。自然と口をついて出たのだ。
――そう
その事実を――永遠の孤独にたたき落とされてしまうかもしれないという可能性を、大妖精は気が付いていたのだ。
それでもそれを口にすることは出来なかった。口にしてしまったらそれが本当のことになってしまうような気がして、怖くて怖くて言えなかった。それを口にしてしまうことは、わずかに、本当にわずかに残った希望に鉄槌を下すことに等しいと思ったのだ。
『一人ぼっち』――たったそれだけの音節が、心をどこまでも蝕んで壊していくことがあるのだと大妖精は知っている。
だから、言ってはならないことというルーミアの物言いはすんなりと理解できた。
「大ちゃん」
ルーミアに名を呼ばれ、大妖精は我に帰る。
「なんですか?」
「もう少しチルノを見習った方がいいよ、貴女。もっと馬鹿になった方がいい。今は分からないかもしれないけど――この騒動が終わったらそうなるといいわね」
「? よくわかりません」
「いいよ、今はそれでも。あー、なんか暗くなっちゃったねえ。太陽光は少なめに、内なる光はいっぱいに。でもってお話の続きだけどね、そう言う規模がおっきくて、かつ解決の必要性のある異変を起こすってことは、倒されるべき悪役として立候補することと同じなのね」
ルーミアは元ののんびりした感じの口調に戻った。
「悪役ですか?」
「そうだよ。そういうわざとらしいぐらいに物語じみたお約束事を異変って言葉の中に集約させることで、この場所は逆に『本物の異変』を回避しているの。儀礼ということ。プロレスのヒールが椅子振り回したって楽しいだけでしょ? でもそこに椅子振り回す観客がなだれ込んできたら騒然とするよ。そいつは高確率で本気ってことだから、けが人が出る可能性はある」
ちなみにプロレスというのは外界の娯楽ショーのようなものであるらしい。大妖精は初めて聞いた。
「でもって異変がある程度進行したら、適当な頃合いで解決屋が動く。これは人間であれば誰でもいい。下位の妖怪なら一般人でも足りるし、足りないようなら巫女だの魔法使いだのといった専門家連中が動く。そして異変が想定外に伸びて実害が出始めた場合、あるいはその辺の約束事を理解できていない奴が『本気で』異変を起こした場合は、妖怪をはじめとする管理サイドの連中がおっとり刀で腰を上げる。もちろんそこまでいってしまうと、それは異変としてはスマートさに欠けるわ。本来悪役は倒されたらそこまで。大人しく異変を終結させて、遊びはお終い。晴れてめでたくエンディング。そうあるべきなの。だから規模が大きくて、かつ管理人の動く必要性のない異変こそが理想の異変だね。逆にさっき言った八雲紫――そいつが動かなきゃならないような異変は、異変としてはいまいちかな。まあそれはどうでもいいか」
長くしゃべると疲れるよ――とルーミアはぼやいた。
「解決に関わらない人たちはその間どうしてるんです?」
「別になんにも。まああそこの連中は下手すると妖怪よりのんきだからせいぜい休む口実ができただとか、解決屋の活躍に胸を躍らせるとか、その程度なんじゃない? 里にいたって天狗が適当に知らせていくしさ。それでいてそれなりに怖がってるポーズもしてくれるんだから、ノリのいい奴らだよ」
ルーミアは面倒くさがりだからだろうか、一般の妖怪よりもやや目線が冷めている部分があるように思える。
大妖精がこちらに来てから話を聞いた妖怪たちは、みな程度の差はあれ人間のことは見下しているような印象があったのだが――
「そりゃあそうさ。そういう形の信頼関係があるんだもの。でもね……実際ここにいるわずかばかりの人間たちがそういった遊びに付き合ってくれてるから――きちんと異変の観客をやってくれるから、この場所は妖怪の楽園なの。外の世界では私たちに観客はいない。それはたぶんみんな分かってるよ。だからこそ、いま在野の妖怪たちは里に集結しつつある。いま人里は……あれ?」
何かに気が付いたか、ルーミアが道の先へと目をやる。つられて大妖精も同じ方向を見る。
「なんだろう?」
僅かばかり吹いてくる、騒々しさを孕んだ風。この風は――
――誰かが戦ってる?
そしてその方向から、何かの炸裂音が聞こえた。
「外から人間が迷い込んだのかなあ? でもその割には……」
「行ってみましょう、ルーミアさん。どうせこの道の先に行くんでしょう?」
「そうだけど、面倒くさいなあ」
そうルーミアは言うのだが、行こうと呼びかけた大妖精よりも素早く再思の道を飛んで行くのだった。
しばらく道を行った先で、一目で外の人間と分かる格好をした少女が三体の妖怪兎たちに囲まれていた。
その兎たちは瞳が危うい。レミリアの魔力に感応したタイプなのだろう。
そしてそのうちの一匹が腕を振るう。
「わっ!?」
囲まれていた少女は、その肩の辺りまで伸びた赤茶の髪を振り乱し、尻餅をついた。
それは彼女なりの回避行動だったのだろうが、その後を考えていないとしか思えない。
――いけない
案の定、残りの二匹の兎が左右から爪を振りおろす。
大妖精は、その爪が彼女の脳天へと打ち込まれる様を想像し思わず目を反らした。
だが、実際にはそうはならなかった。
外の世界から迷い込んだと思しき少女が両側に手をかざすと、そこにピンク色の光が生まれ、それにより両サイドからの兎たちの一撃は宙で止められたのだった。しっかりとした霊的防御方法を彼女はとったのだ。
――え?
外の人間がなぜ妖怪と張り合えるのだろうか?
大妖精がそうした疑問を抱いている横で、ルーミアが動く。生成した黒烏のような形の弾丸を、初めに爪を振るった兎に向けて撃ち込む。その兎は両手を防御行動で塞がれていた少女に対し、二撃目を加えようとしていたのだ。
弾丸を喰らった兎はそのまま道の向こうへと吹き飛ぶ。
そのルーミアの動きをきっかけに、大妖精も動く。
風を掌に集め、それを手前側にいた兎にぶつけて倒す。もちろんそれは天狗や魔法使いたちが行使するそれよりもずっと弱々しい風ではあったのだが、それでも下級の妖怪相手であれば十分な武器にはなる。
そして残った最後の一匹に対し――大妖精が一体倒したことで、片手を防御に割く必要がなくなったのだろう――外の少女は空いた方の手をかざし、先ほどまで防御に用いていた光をそのままぶつけた。
そこに至ってようやく大妖精は、その少女が生み出したピンク色の光が十字架の形をしていたことに気が付く。
「いやー、驚いた驚いた。神隠しなんて本当に遭うとは思わなかったわ」
立ち上がった少女はパンパンと衣服の砂を払った。服装も髪同様に赤みの目立つ茶色をベースとしている。
頭が良さそう――そういう印象を大妖精は抱く。
「危ないところをありがとう。そっちの緑の子も」
「どういたしましてー」
「一応聞くけどさ、ここ幻想郷ってところよね?」
「そうだよー。でもなんで外界の人がそんなことを知ってるの? 幻想郷なんて名前は一部の人間しか知らないと思ったんだけど」
ルーミアが不思議そうにたずねる。先ほどまでの若干しんみりとした感じは完全になくなって、単純に不思議だといった顔で外から来た少女を観察している。
「色々知っているわよ。今は吸血鬼が暴れているんでしょ?」
「そうだけど――ほんとになんで? さっぱりわかんない」
「あー、いたいた。ほれ、帰るよ。あんたに大事があると早苗に叱られる」
別の声が会話に混ざる。道の脇、森の奥から――
――カ、カエル?
ものすごい帽子をかぶった少女が現れる。
カエルを連想させる帽子にカエル模様の服。何というか――インパクト溢れる格好である。
おそらくこの国の神様の類なのだろうと大妖精は目星を付ける。そうしたことは大体気配で分かる。
「あ、洩矢様」
赤茶の髪の少女が、カエルの少女の名を呼ぶ。
「まったく、神様が神隠しに遭うなんてシャレにならん。ここは結界の交点なのね」
「一体どうなってるんです、洩矢様?」
「結界の綻びに呑まれたのよ、あんたは。でもって私はそこを通って追いかけてきた。閉じる前にとっとと帰るよ。やっぱりノートパソコンでアカシックレコードにアクセスしようってのが間違いだった。まさかこんなとこに繋がるとは……偶然てのは怖いねえ」
「あの、私のノートパソコンは?」
「たぶんおしゃかだわ」
「そんなあ」
「弁償の請求は宗教法人守矢神社までどうぞ。ともかく帰ろう。私がここにいるのはちょっとばかり不味い。そこの貴女」
「んー?」
洩矢と呼ばれた少女はルーミアを呼び付ける。
「八雲紫に会うことがあったら伝えて」
「そんなヒト知らないよ」
「パチュリー・ノーレッジと紅美鈴は無事確保したので、あんたも早めにこっちの騒動を終わらせろって言っといて。会うことがあったらでいいからさ」
「え!? パチュリーさんは無事なんですか!」
突然恩人の名前が飛び出したから、大妖精は声を張り上げてしまった。
それを見て神と思しき少女はおおらかな笑みを浮かべる。
「シルフかい? 話は聞いているよ。安心しなさい、彼女はちゃんとこっちで預かってる。そっちの騒動が落ち着き次第、私らで転送する」
「よかった……」
「木を隠すなら森――私らは東京にしばらく潜伏するよ。あ、東京って分かる?」
「東京府――この国の首都でしょ? ここが閉ざされる十年ばかり前に廃藩置県は完了してたから知ってるよ」
「今は東京都という」
「へー、そーなのかー。それよりもさ、いま貴女たちが通ってきた綻びからぽいしちゃえば、そのヒトたち? せっかく開通したんだから」
「そういうわけにはいかないわよ。早苗に叱られるし、それに――『三人目』がまだいない」
――三人目?
そして二人は大妖精や赤茶色の髪の少女には理解の及ばない会話を始める。
「アカシャにアクセスしようとした、って言ったよね。ひょっとしてカンニング?」
「そうよ。ていうかもうした。さすがにうちの祝の身が気になるし、そこの子を巻き込んでも安全かどうか確認する必要もあったからね。だから私らは部分的にはこの一連の『物語』の結末は把握している」
「ずるいね」
「あくまで部分的に、よ。部分的。大半のことは知らないし、そもそも全部知ってしまったら面白くない。だいたい八雲紫が悪いの。私と神奈子はまるで機械仕掛けの神様の役回りさ。そんなもんを振られたんだ、このくらいしたって問題ないはずよ」
「そうかなあ……アレは是非曲直庁の管理下にあるんでしょ? 神様でも叱られるかもしれないよ?」
「ま、そんときゃそんときよ。そろそろ閉じるみたいだから、じゃあね」
そう言うと洩矢様と呼ばれた神は踵を返した。赤茶色の髪の少女もそれに追随する。
「最後に一個聞かせて」
その背中をルーミアが呼び止める。
「ちょっとそこの貴女に興味がわいたわ」
「へ? 私?」
神の後に付いて行こうとしていた少女は自身を指さした。そしてルーミアがこくりとうなずく。
「そう、貴女。名前だけでいいから、教えて。愛煙禁煙っていうでしょ?」
「それは合縁奇縁。かわいい顔しておじさんギャグかい。ていうか私の名前?」
えーっと――と言うと、少女は一瞬大妖精の方を見た。
「洩矢様、言っちゃって大丈夫なんですか?」
「あんたは人間だから、名前なんざただの識別記号さね。教えてあげなさいな」
「そうですか……」
そして赤茶色の少女は自身の名前を告げる。
外界にありながら、幻想郷の妖怪たちと相応に張り合えるだけの力を有した存在――
「私は夢美。岡崎夢美よ」
そう言ってほほ笑むと、彼女は森の中へと消えた。
(⑦へ続く)
これからが非常に気になるところです。
続きが楽しみですよ。
ゆっくり書いてね!
パチュリー一行が守矢一行と出会うとこまでの模写は果たしてあるのだろうか
メイソン連中に咲夜が囚われて(?)いるから、何かしらの接触はあるのでしょうが
いやもう面白くてたまらないです。いひひ、予測の修正だ。
……俺、このシリーズが完結したら最初から読み返すんだ。
パチュ美サイドのエピソードも待ってますわ
大物達が好き勝手にやってゆかりんの胃に穴が開きそうな展開は好きです。
U1だろうが百合だろうがエロだろうがね。
しかし投稿速度がなぁ。
面白いだけに待たされる時間が苦痛で仕方ない。
そして>>10の気持ちがすっごい解ります
私も全く同じ印象でしたからw
ここからまた1ヶ月かと思うと正直辛いですが……
でも期待しまくりながら待ってます
頑張ってください~
続きが気になって困る。虚無らないように頑張ってね!!!
それから分類は半角スペースじゃないと区切れないです。
ゆかりんがんばれ
実は先に早苗さんと美鈴と教授が東京うろついたりゆうかりんと神奈子様がこそ泥したりする章があって、それを書いていたのですが、順序的にこっちが先の方がいいと思い書き始めたのが二週間前。今後はナンバーと章番号を対応させることをあきらめたのでちょっとペースは上がるかもしれません。でもって
>>8の方
すみません、出会うまでのプロセスは省かせてもらってます。どうやっても東方からかけ離れた内容になりそうなので(それをいまさら気にするか)。
>>20>>27>>34の方
遅くてごめんなさい。お話を書くのは創想話が初めてなので、ノウハウや蓄積が……そろそろ初投稿から一年経ちそうなのですが一向に。読書不足のツケがこんなところに……でも少なくともこの章は三分したのと、幻想郷の外に話が飛ばないのとで、そこそこ早くなるかもしれません。
あと>>34の方、まったく気付いてませんでした、タグ。今さかのぼって全部修正してきました。ご指摘ありがとうございます。
この規模の風呂敷を短時間で畳めというのは酷なんで一言だけ。
がんばれ(;´Д`)
間違いなく創想話で一番期待してるシリーズです。
どう転んでもいいので、軸線がブレないよう突っ走ってくだされ。
この作品と会わせてくれた作者様に多大なる感謝を。
毎度の事ながら世界観が良い・・。
因みにパチュ美サイドを激しく希望です。
作者様のペースで納得のいく作品を作り上げて下さい。
コンビとラタトスクってのが、良い意味で不安を煽って素敵っすね!
現時点で文句無しに貴方の作品を一番楽しみにしています。
どんだけ遅くなってもいいです。(早いほうが嬉しいですが…。
作者様が心の底から納得できる作品に仕上げてください。
描写・セリフ・キャラ付け。全て文句ありません。
思うままに筆を進めてください。文が生きてると思います。
そうすれば自然と評価は付いてくるんじゃないかと。
正直これだけ広げた風呂敷をどう畳むのか,畳めるのか不安でもあります。
逆に,どう畳んでくれるのか考えると期待が止まりません。
唯の一読者が大きなことを言ってすいません。
しかしどうしても言いたかった。
続き,首を長くしてお待ちしています。
続き期待!
神がコソドロww早く読みたいです
頑張ってください!
旧作キャラ活躍とかEx発動とか。
こうなってくるとやっぱりサミエル様とか伊吹・大江・コンガラの鬼さん達も出てくるのかな。
個人的には霖之助・妖忌翁・霧雨父母やらにも活躍の機会を与えて欲しいですw
次回も頑張ってください!
動かしてるキャラクターの多さや原作の雰囲気を思わせる台詞回しなど賞賛したいことが多すぎるから一言言わせてくれ。あんた最高や!!
いやあ、見事だ。
今回も楽しませてもらいました。