それから、夕食になった。
マリアは明日の夜に帰るらしい。八雲紫が迎えに来るのだという。せっかく未来から来たお客なのだから、精一杯もてなししようということになり、夕食のおかずはマリアの好物のハンバーグになった。
「あの隙間妖怪から、未来について何か口止めされなかったの?」
パチュリーはマリアに訊いたが、マリアは、ううん、と首を振って答えた。
「いくら未来について話しても、どうせ何も変わらないから、いい、って言ってた」
そんなこと、あるんですか、と美鈴はパチュリーに訊いた。パチュリーは、むむむ、と唸り、やがて言った。
「因果律が閉じているのでしょうね。もし因果律が無限ならこんなことにはならないのかもしれないけど、因果律が有限でありさえすれば、可能かもしれない」
ぽかんとする美鈴にパチュリーは捕捉の言葉を続けた。
「カオス理論の基礎では、未来に関する情報を知っていること自体が未来に干渉するというけど、私たちの意志を超越して私たちの行動を決定するものがあるならばそれは否定されるわ。たとえば、小説ね。小説のキャラクター、世界観はすべて作者の心の世界に従わざるを得ない。仮に小説の出来事が現実の真実に反していたとしても、それが小説の真実であることには違いないわ。もし、この世界が誰かの書いた小説なのだとすれば、私たちの与り知らない法則が働いているのかもね」
パチュリーはよくわからないことを言っていたが、「あの隙間妖怪が何を知っているか知らないけど、彼女が何も変わらないと言えば、そうなのでしょうね。魔法学の至上目的もまたその知識を得ること。絶対に私もその知識を手に入れてみせるわ」と締めた。
夕食の席で、お姉さまはマリアにどのような生活をしているのか訊いた。マリアは70年後の紅魔館の生活を楽しそうに話していた。
「あれ、お嬢様、今日はちゃんと、ピーマ……………………ぐえ!」
珍しくお姉さまが大嫌いなピーマンを文句も言わず食べている様子を指摘しようとして、美鈴はグングニルを喰らった。お姉さまは好き嫌いを言わず、出された食事を綺麗に平らげていた。その様子を見て、咲夜は嬉しそうに微笑んでいた。
「そういえば、今のお母さまは料理をしないの?」
「え、料理?」
お姉さまはぽかんとした。マリアはうなずく。
「普段は咲夜さまが料理してるけど、ときどきお母さまが作ってくれるの。お母さまのカレーライス、とても美味しいのよ」
「…………そうなの」
……………………このずぼらなお姉さまが料理をするようになるのか。美鈴はお姉さまがエプロン姿で台所に立つ姿を想像したらしい。ぶふっ、と噴出すと、グングニルのお代わりを喰らった。美鈴もほんと懲りないなぁ。お姉さまは美鈴とのやりとりを何事もなかったように、マリアに微笑みかけた。
「わかったわ。70年後までに覚えておくわ」
「よろしくね、お母さま」
マリアはにっこりと笑った。
しばらく談笑しながら、食事を続けていた。話はマリアの趣味や好みは何かという話になっていた。
「ぬいぐるみ集めかな。アリスさんに人形をもらうこともあるよ」
「へえ、あの人形遣いが」
パチュリーは意外そうに呟いた。
「うん、お部屋にたくさん置いてあるんだ」
「あら、マリアは自分のお部屋を持っているのね…………まあ、それもそうか。マリアはお部屋でちゃんと一人で寝ているのかしら?」
「もちろん、大人だもん!」
そう言って胸を張るマリア。そんなことで自慢げになる姿はとても大人のようには見えなかった。私たちは思わず頬を緩んでしまった。
「お母さまたちはいっしょの部屋で寝てるけどね」
「………………………………………………………………」
全員の緩んだ頬はそのまま固まってしまった。そして、マリアは不思議そうな顔をして呟いた。
「ときどきお母さまたちの部屋の前を通ると、息切れしてるような声が聞こえてくるんだよね。何をしてるんだろう?」
…………大人たちは彼女の質問に答えず、黙々と食器を動かしていた。
一瞬、私とお姉さまの目が合った。
お互いに慌てて目をそらす。
私もお姉さまも頬を真っ赤にしながらフォークとナイフを動かしていた。
その後、話題はマリアの趣味の話に戻っていき、食卓の重苦しい空気はすぐに消えていった。
夕食も終わり、食後の紅茶を楽しんでいると、私はふと気になったので、マリアに訊いてみた。
「ねえ、マリア」
「何、フランお母さま?」
咲夜のつくってくれたショートケーキを食べながら、マリアは私の言葉に答えた。マリアは頬についたクリームをお姉さまに拭きとってもらっていた。こうしていると、親子というより双子の姉妹みたいだ。
「そういえば、一番訊かなきゃいけないことなんだけど」
「うん」
「どうして、マリアはこの70年前の世界に来たの?」
「………………………………………………………………」
私の言葉に、マリアは目を大きく見開いた。
そして、一瞬、ものすごく悲しそうな顔をした。
あれ?
私、変なこと訊いたかな?
「あ、それはね……………………」
マリアはすぐに笑顔に戻った。なんでもないかのように手をぱたぱたと振った。
「紫おばさまに相談してみたの。退屈だから……何かおもしろいことはないかって。そしたら、70年前の幻想郷に連れて行ってくれるって言ったから……………………」
マリアは明るい口調で話していたが、どこか無理をしているように見えた。私は違和感を覚えながらもうなずいた。
「へえ。じゃあ、ただ単に遊びに来ただけなんだ?」
「うん、そう。……………………迷惑だったかな?」
「まさか。そんなことないよ」
私は慌てて首を振った。
「娘が遊びに来て、迷惑に思う親なんていないと思うよ…………たぶん」
「そうよ、」
と、お姉さまがマリアの頭を撫でて言う。
「いつでも遊びにいらっしゃい。私やフランは娘を疎ましく思うような吸血鬼ではないわ。たとえ、それが未来の娘であってもね」
マリアはお姉さまの笑顔を見、私の顔を見た。そして、うん、と微笑んでうなずいた。
だが、それは、どこか悲しい陰がある笑顔だった。
「いい湯だな~~、あははん♪」
マリアと私はいっしょにお風呂に入っていた。マリアは湯船につかりながら、変な歌を歌っていた。何の歌かと訊くと、名前は知らないがお姉さまが教えてくれたのだという。私もタオルで髪を丸めながらお湯の中に入る。正直、湯船はあまり好きではないのだが、マリアは大好きだというので、お付き合いすることになったのだ。
ちなみに吸血鬼もお風呂に入ることができる。吸血鬼の弱点は水というより、流水なのだ。流水がなぜ吸血鬼の弱点になるかというと、流水が土地の境界を表すためだという。吸血鬼は伝承ではアンデッドで不安定な存在なため、境界を渡ることができない。昔から川や湖などは国と国とを分ける境界である。まあ、現実的な話をすれば、仮死状態のまま埋葬された人間が復活して家に帰ろうとしたとき(人間が吸血鬼と信じるもののほとんどはこれだった。もちろん、私たちは違うけど)、疲労困憊していたため、川を渡れなかっただけらしいが。その余波で私たち本物の吸血鬼も境界を示す流水を渡れないが、シャワーやお風呂の水は境界を表すものなどではない。だから、私たちはシャワーを浴びるし、お風呂にも入ることができた。
マリアがお風呂に入るというと、まず、お姉さまが、じゃあ、いっしょに入ろうかしら、と言っていたのだが、その瞬間、お姉さまの目がギラリと光った。私はその怪しい目の輝きを見逃さなかった。妹に変態行為を行う姉である。娘にも行わない保証はなかった。マリアは、え~、別にいいのに、と不思議そうな顔をしていたが、70年後のお姉さまはともかく、この時代のお姉さまは信用ならない。何よ、フラン、親子のスキンシップじゃない、とギャーギャー言うお姉さまを、咲夜に言って、引っ張って行ってもらった。
「ところでさ、」
私は、蛇足になりそうだなぁ、と思いながらもマリアに訊いた。
「マリアがお姉さまに会ったとき、すぐに、お母さま、って言ってたけど、お姉さまはドロワーズ被ってたじゃない。どうしてわかったの?」
「ああ、それ?」
マリアは何も不思議なことはないかのように言った。
「レミリアお母さまは、未来でもときどきフランお母さまのドロワ被ってるよ」
「………………………………………………………………」
それで、いつも鬼ごっこが始まるんだよね、とマリアはおかしそうに笑った。どうやら、70年後のお姉さまもとても信用ならない人物のようだった。というか、親がもう一方の親の下着を頭に被っている姿って、子供のトラウマにならないんだろうか……………………
「ごめんね、マリア」
私はどうしようもなく申し訳ない気持ちになって、マリアに謝った。だが、マリアは、手を振って笑ってくれた。
「別に謝ることなんてないよ。変なのはわかるけど、お母さまたちだからそんなに気にならないし」
私は大丈夫だよ、とマリアは天使のような笑顔を浮かべた。ああ、なんておおらかな子なんだろう。よくこんないい子に育ったもんだ。でも、お姉さまの真似だけはしないでね。
「ねえねえ、」
そんなことより、とマリアは心配そうな顔をした。
「夕食のときに訊いて誰も答えてくれなかったけど、本当にお母さまたちは夜に何で息を切らしてるんだろう?」
「………………………………………………………………」
「病気なのかな? 夜間発作性呼吸困難? お母さまたちは心臓の病気でもしているのかな?」
どうして夜間発作性呼吸困難なんて難しい用語を知っているのに、この子は70年後の私たちが何をしているのか知らないんだろう……………………ほんとはこの子は私たちをからかってるんだろうか? 心配だなぁ、と呟くマリアの様子からは本当に知らないように見えるけど…………
私は、『お母さま』たちが夜に息を切らしている様子を、少し想像してしまった。
……………………………………………………………………………………。
…………まずい…………変な気分になってきた。『治療法』やら、『フランのお腹から生まれた』などの言葉が頭をよぎり、さらに私の想像は進んでいった。胸の奥が熱く、締め付けられるようだった。自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。いけない、いろいろ我慢できなくなってきた。しっかりしろ、自分。このままだと、プチどころか夜伽逝きになるぞ。
私が悶々と理性と情動の戦いを繰り広げていると、マリアが、あ、そうだ、と話を切り替えてくれた。そのおかげで私の理性は情動に対して脳の支配権を奪い取ることに成功していた。なんとか心を落ち着けて、マリアと話す。
「何が、そうだ、なの、マリア?」
「うん、お母さまにお願いしたいんだけど、」
と、マリアは上目遣いに私を見た。何かためらっているようだった。私はマリアを安心させるように言った。
「何? お母さまにできることなら、なんでもしてあげるよ」
自分のことをお母さまと呼ぶのは気恥ずかしかったが、同時に誇らしくなるものがあった。マリアはそれでも気を遣うような顔をしていたが、思い切ったように言った。
「あのさ…………この後、この時代の紅魔館を見学させてもらえないかな」
私はその言葉にきょとんとした。だが、マリアの目には真剣な光が宿っていた。私はマリアの強い視線に気圧されながらも、言った。
「うん。そんなことなら、喜んでするよ」
「本当に?」
「うん。だけど、結構広いから、少し時間がかかるよ」
うん、別に大丈夫、とマリアはうなずいた。
マリアは嬉しそうな顔をしていたが――どうしてだろう、やはり、その笑顔はどこか悲しげに見えるのだった。
「…………じゃあ、レミリアお母さまといっしょにこの後、紅魔館を回ろうか」
私がそう言うと、マリアは首を横に振った。そして、ためらいがちに口を開いた。
「あの、フランお母さまだけにお願いしたいの…………」
「え、私だけ?」
私はますます驚いた。マリアは申し訳なさそうな顔をしてうつむいている。私は少し躊躇ったが訊いてみた。
「その…………レミリアお母さまのこと嫌いなの?」
「ううん! そんなことない!」
マリアは強く即答して、ぶんぶんと先ほどよりも大きく首を横に振った。
「レミリアお母さまのことは大好きだよ。だけど、今回だけは…………フランお母さまにお願いしたいの」
マリアはそう言って、口をつぐんでしまった。私は目を丸くするしかなかったが、ずっとそうしているわけにもいかないので、うなずいてみせた。
「わかった。じゃあ、二人でレミリアお母さまには内緒で行こう」
「うん、ありがとう…………」
マリアはそう言ってぺこりと、頭を下げた。私にはわからないが、何かありそうな感じがした。先ほどはマリアはただ遊びにこの今の時代に来たのだと言っていたが、ひょっとしたら、別の理由があって、それは紅魔館を散策することに関係しているんじゃないだろうか。
「じゃあ、そろそろ出ようか」
私はそう言って、湯船から立ち上がった。少しのぼせ気味だ。私はけっこうのぼせやすい体質なので、あまり湯船に入りたくなかったのだった。マリアも私に従って、湯船から出ようとした。
と、そのとき、
お湯の水面から何か管が出ているのが見えた。
私は不思議に思って、管に手をかざしてみた。管から風が出てくるのを感じた。私は試しに指を突っ込んでみた。
その数十秒後、
「ぶはあぁぁぁああ! 死ぬかと思った!」
お姉さまがお湯から飛び出してきた。
お姉さまは黒いスイムスーツに身を包み、水中ゴーグル、シュノーケルをつけていた。手に持っているのは…………防水カメラだろうか。お姉さまは水中ゴーグル、シュノーケルをとって、ぜえぜえと肩で息をした。スイムスーツには、『NITORI』のロゴが入っていた。なるほど、光学迷彩だったから今まで気づかなかったのか。
「ねえ、お姉さま…………」
私は話しかけた。お姉さまは荒く息をしながらも、私に微笑んで見せた。
「何かしら、フラン?」
「やっぱり、こういうことはプチでやるべきじゃない?」
「そうよね。私もそう思ってたのよ。でも我慢できなくなっちゃって」
てへ、とお姉さまは自分の頭を小突いた。私はむかついたので、お姉さまを殴った。
「痛ッ! フラン、痛いわ!」
「何が、痛い、だ! 私の心のほうがもっと痛いわ!」
「マリアが見てるわ! ……痛い! ドメスティック・バイオレンス反対!」
「ドメスティック・バイオレンス言うな!」
「ただ、娘の成長具合を見ようとしただけじゃない!」
「どこに、湯船で光学迷彩を着て、水中カメラをもって娘の成長具合を見る親がいるか!」
私とお姉さまの『夫婦喧嘩』が始まった。騒がしく言い合う私たちを、マリアは目を細めて笑って見ていた。
その後、私とマリアは紅魔館中を散策した。お姉さまは、書類仕事があるから、と言ってついてこなかった。おそらく私たちの会話を聞いていたのだろう。お姉さまは考えるような目でマリアを一瞥しただけで、文句を言うこともなく自分の部屋に帰っていった。
私たちは、厨房、倉庫、ホール、客間、図書館……………………紅魔館中の部屋を歩いて回った。
「あんまり変わらないね」
マリアはそう言った。紅魔館は70年後もあまり変わっていないようだった。人間の館ならともかく、妖怪の館なら何の不思議もないことだった。
「今日はどこで寝るの?」
私はマリアに訊いた。マリアは、うーん、と唸った。
「どこに寝ようかなぁ。お客様用の寝室はあんまり好きじゃないんだよなぁ」
広いんだけどそれが逆にいや、とマリアは眉をしかめて言った。
「あれ、マリアは大人だから平気じゃないの? それとも怖いのかな?」
私がからかうように言うと、マリアは赤くなった。
「怖くないもん! マリアは大人だもん! ちょっと広いくらい、どうってことないもん!」
「じゃあ、決まりだね。マリアはお客様の部屋で寝ること」
私の言葉に、マリアは「うー…………」とたちまち元気がなくなってしまった。どうやら、この子は本当に子供のようだった。私はマリアの頭をぽんぽんと叩いて、微笑んだ。
「嘘だよ。レミリアお母さまの部屋で寝よう?」
マリアはすぐに、ぱあと笑顔になったが、やがて頬を膨らませて言った。
「フランお母さまはそうやっていつも私をいじめるのよ」
ほう。どうやら70年後の私もマリアをからかっているようだ。まあ、これだけ可愛いなら仕方がないだろう。私は人に見せられないくらいに頬が緩んでいるのを感じた。
私はマリアの手を引いて、紅魔館中を歩いた。マリアの手は私よりも少し小さくて、温かかった。
一時間以上かけて館の中を回り、私たちはスタート地点である、居間に戻ってきた。
「さ、これで全部の部屋を見てきたよ。じゃあ、そろそろレミリアお母さまの部屋で寝ようか?」
私はマリアに微笑みかけた。お姉さまはもう仕事が終わっただろうか。あれだけ顔がにやけているお姉さまは初めて見た。マリアがベッドに入ってきても決して文句は言いまい。マリアにいたずらする可能性もあったが…………さすがにそれは考えられなかった。というか、考えたくなかった。きっとマリアは布団の中で、お姉さまからいろいろな話を聞かせてもらえるだろう。私はお姉さまが嬉しそうな顔で、マリアに咲夜や美鈴、パチュリー、小悪魔、私、そして、他の紅魔館の皆、幻想郷の人々の話を教えてあげる姿を想像した。マリアはそのたびに目を輝かせてお姉さまの話に聞き入っているのだ。
私はそんな楽しい想像をしながら、マリアの手を引いた。
だが、マリアはついてこようとはしなかった。
「――――――――?」
私は不思議に思って、マリアのほうを振り向いた。
マリアは唇を真一文字に閉じていた。うつむいていて、よく表情が見えないが、マリアは何かを耐えているように見えた。マリアの姿は、何か言わなければならない、だが、それを言い出すことができないでいる子供のものだった。
「どうしたの、マリア?」
私は驚いていた。さきほどまで楽しそうにしていたのに、どうしてマリアがこんなに悲しそうな顔をしているのか、わからなかった。私の問いかけにマリアは答えられずにいたが、やがて、ぽつり、と呟いた。
「…………お母さま。もう一つ、行きたい場所があるんだけど、いい?」
マリアの声は掠れて弱々しかった。私は心配になりながらも言った。
「うん、いいけど。どこ?」
マリアはすっと息を吸い――そして、おそらく、彼女のありったけの勇気をこめて――言った。
「フランお母さまの寝室」
その言葉に、私は頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けた。
「お母さまの地下室に行ってみたい」
マリアの目は、悲しみと罪悪感と、そして何より――――何かに対する決意に満ちていた。
私たちは螺旋階段を下りていた。私が地下室から出られるようになったころの始めは、かびの匂いも酷く、明かりもあちこち壊れているオンボロな階段だったが、しばらくしてお姉さまが改修工事をしてくれたため、階段の壁は新しく白く塗られ、明かりも一つかけることなく灯されていた。
あれからマリアとの会話はほとんどなかった。私はマリアが過去にやってきた理由を考えていた。おそらく、それは私の閉じ込められていた地下室に関係しているのだろう。そして、マリアの悲壮な姿を見ると、とても尋常な理由ではないように思えた。
そういえば、私は70年後の地下室がどうなっているのか、とか、私は70年後も紅魔館の外には出ていないのか、などと自分のことについてあまり訊いていなかった。
――――果たして、私が今自分の部屋にしている地下室は、未来ではどうなっているんだろう。
地下室に行くと言ってから、マリアの顔からはすべての表情が消えていた。まるで、これから自分の罪悪とか、運命だとか、得体の知れないものと戦いに行くような顔だった。私はただ不安になるばかりだった。
地階に着いた。私たち二人は手前の扉へと進む。
私は開錠の呪文を唱えた。数年前のまだ私が閉じ込められていたころは、その呪文を教えてもらっていなかったが、紅魔館を自由に行き来できるようになってから私はその呪文を使うことを許可されていた。
音もなく、大きくて頑丈な扉が開く。
その扉の向こうには、木製の、豪華な飾り付けがされている扉があった。
これも私が外に出られるようになって、こんな倉庫みたいな扉じゃ可哀想だ、とお姉さまがわざわざ部屋の中に新しく作ってくれたものだった。
私はその扉を開けて部屋の中に入り、扉のすぐ横にある、明かりのスイッチを押し、電気を点けた。
「へえ……………………」
マリアは感嘆の声を上げた。とてとてと、部屋の真ん中に歩いていく。
「綺麗なお部屋だね。私の時代のお母さまたちの部屋とあんまり変わらないよ」
マリアは部屋一面を見渡して言った。
私の部屋も改修されていた。495年前の幽閉生活のときは、壁はあちこちひび割れ、床にも亀裂が入っていて、家具も簡単な机と椅子、本棚、ベッド、タンスくらいしかなかったのだが、今は部屋の壁、床は修復工事がされていてひび一つない。家具もお姉さまの部屋にあるような豪華で贅沢な調度品に変わっていた。
「昔はもっと汚かったんだけどね」
私がそう言うと、マリアは「そうだったらしいね」と答えた。
「お母さまたちから、聞いたとおりだったよ」
マリアは切なげに目を細めていた。どうやら、彼女は未来の私たちから地下室の話を聞かされていたらしい。おそらく、私がここに閉じ込められていたことも知っているのだろう。
「70年後、ここはどうなってるの?」
私はマリアに訊いた。マリアは力なく微笑んで答えた。
「70年後、ここは、倉庫になってるよ。まさか、昔から本当に倉庫みたいな場所だったとは思わなかったけど」
――――お母さまたちはいっしょの部屋に寝てるけどね。
先ほどの言葉から、私は自分がもう地下室に住んでいないことがわかっていた。そうか、私は70年後にはこの地下室から外に出られるようになっているのか――――
この事実は私には喜ばしいことのはずだった。実際に私は今、少しだけそれを嬉しいと感じている。だが、マリアの様子が気になって、私はあまり喜ぶことができないでいた。
「いたずらをして――フランお母さまを悲しませるようなことをしたときは、レミリアお母さまに、きまってこの地下室の中に入れられるの」
マリアは笑って言った。子供に似合わない――何かを懐かしむような笑いだった。
「レミリアお母さまって、おもしろくて、いつも優しいけど――怒ったときは、本当におっかないの。特にフランお母さまのことになるとすごいんだから。咲夜さまとか、いつもはレミリアお母さまより厳しいフランお母さまが止めに入るほど、怖いの」
「『フランの気持ちになって考えてみなさい!』」マリアはお姉さまの口真似をした。
「レミリアお母さまは私をここに入れるとき、必ずこう言うわ」
マリアはくすくすと笑った。それは何かを愛おしむような笑いだった。
「本当にレミリアお母さまは、フランお母さまが好きなんだね」
マリアは優しげに微笑んだ。その笑みを私はじっと見ていたが、どうしてか胸が締め付けられるのだった。
「嬉しいよ」
マリアは言った。とても綺麗な笑みを浮かべて言った。
「お母さまたちが幸せでとても嬉しいよ」
――どうして、マリアが私にそんなことを言うのかわからなかった。
だが、私はマリアのその様子に嫌な予感を感じていた。
私の嫌な予感は大抵当たる。
――――本当に自慢したくなんかない。
私は誰に言うでもなく、そう思った。
「お母さまたちは私に優しくしてくれる。良いことをしたときには褒めてくれるし、悪いことをしたときは叱ってくれる。温かいご飯を食べさせてくれるし、綺麗なベッドで寝かせてくれる。清潔な服を着させてくれる」
マリアは自分に言い聞かせるように言った。私を見て、にっこりと微笑む。それは、天使の笑顔だった。
「いっしょにいてくれる。頭を撫でてくれる。お話をしてくれる――――」
マリアはそう言って笑う。紅よりも儚い永遠のように笑う。
「お母さまたちは、私に何でもしてくれる――――」
「だからね」とマリアは私を安心させるように笑った。
母を安心させるために幼子は笑った。
「私もお母さまたちのために何でもしてあげなきゃ――――」
私は親孝行な娘だからね――――と、マリアは冗談めかして言った。その笑顔にお姉さまの顔が重なった。
私が何も言えずにいると、マリアは部屋の横についている、大きな扉を見た。マリアは不思議そうに訊いた。
「お母さま、この扉、何?」
私は呆然としていたので、マリアの言葉に反応するのが少し遅れてしまったが、何とか、「…………そっちは遊戯室だよ」と答えた。
「遊戯室?」
マリアは首をかしげた。私は説明するために口を開く。
「うん。言い換えれば室内運動場かな。友達が来たときとか、ここで弾幕ごっこをするの。他の部屋でやるわけにもいかないしね」
私の言葉を聞いて、マリアは目を大きく開いた。
「…………弾幕ごっこができるんだ?」
「うん、できるよ」
私はうなずくと、マリアは地下室に来て、初めて嬉しそうに笑った。「じゃあ」と、救われたように言う。
「寂しくないね」
「………………………………………………………………」
――――寂しくない?
――――どういうことだ?
私の疑問が増えるのに比例するように、嫌な予感が加速していく。そんな私の不安に気づかないかのように、マリアは笑って言った。
「弾幕ごっこができるなら、私、寂しくないや」
「………………………………………………………………」
私はマリアが何を言っているのかわからなかった。マリアがどうしてそんな救済されたみたいな顔をするのかわからなかった。どうしてそんなに嬉しそうに笑顔を浮かべているのに、そこに悲しい陰が見えてしまうのかわからなかった。
いや、これは嘘だ。
私は何かに気づき始めていた。どうしようもなく重苦しい事実に気づき始めていた。ただ、それを口にしたくなかっただけなのだ。
「…………マリアも弾幕ごっこするの?」
違う。訊きたいのはこんなことじゃない。もっと別に訊かなければならないことがあるじゃないか。マリアは私の問いにやはり微笑んで答えた。
「うん。するよ。大好き。とても今はお母さまたちには敵わないけど、いつか勝てるようになるといいな」
マリアは微笑むのをやめなかった。 ああ、どうして、そんなに笑っているのに、目は悲しみでいっぱいなんだろうか。
臆病な母はそれを訊くことができない。
「遊戯室に入っていいかな?」
マリアは遊戯室の扉を指差した。私は黙ってそれにうなずくしかなかった。
遊戯室に入ったマリアは、「わあ、広い」と歓声を上げた。
「…………ここは倉庫になっていないの?」
私が訊くと、マリアは、わからない、と首を振った。
「お母さまの部屋が倉庫になっているのは知ってるけど、ここには入ったこともないし。普段、地下室に行くこともないから」
マリアは遊戯室を端から端まで見回した。パチュリーの図書館ほどではないが、遊戯室は弾幕ごっこをするには十分な大きさだった。私はマリアが無邪気に喜ぶ様子をじっと眺めていた。
やがて、マリアは私のほうを振り向き、笑って言った。
「ありがとう、お母さま。案内してくれて」
「満足したよ」とマリアは私に微笑みかける。
なんて儚い笑顔だろう。
私は背筋が凍る気持ちだった。
「さあ、お母さま、帰りましょう」とマリアは右手で私の左手をとった。だが、私はそこに立ち止まって動かなかった。怪訝そうに首をかしげるマリア。
「どうしたの、お母さま? 帰らないの?」
私はマリアの言葉を無視して、私の左手を掴んだマリアの右手を、目の高さまで持ってきた。
私は、マリアの少しだけ小さくて、女の子のもの以外のなんでもない、その右手を見つめた。
言うべきか。
言わないべきか。
否。
今、言わなかったら、私はマリアの母親じゃない。
「……………………『目』が見えるんだね?」
私は持っているだけすべての勇気をもって、マリアに尋ねた。
マリアの目が大きく見開かれる。
私は微笑んで――はたして成功したかどうかわからないが――遊戯室の壁によかかっている、壊れたタンスを指差した。
お姉さまが私のドロワーズを漁っているのを現行犯で捕まえたとき、とばっちりで壊れてしまったタンスだった。タンスはまだ原型を保っていて、修理すればひょっとしたらまだ使えるかもしれなかった。
私はマリアを見つめて言った。
「『壊して』ごらん?」
マリアは口をぎゅっとつぐんで躊躇っていたが、やがて諦めたように私の左手を離して、右手を開いた。
そして、右手の親指が、右手の手のひらを強く叩く。
タンスは粉々に砕け散った。タンスはこれ以上ないというほどに壊れてしまった。
私はマリアを見る。マリアはもはや元が何だったかわからないほどに壊れたタンスを、目に涙をためて見つめていた。
私とマリアはじっと黙っていた。やがて、掠れた声でマリアが私に言った。
「やっぱり、お母さまはすごいや」
私は何も言えなかった。言おうにも、私の喉はとても動いてくれそうもなかった。
「私のこと、何だって知ってるんだから」
そう言って、マリアは微笑んだ。目には涙がいっぱいにたまっていた。だが、マリアは決して涙を流さなかった。
何も話すことができない母親に、マリアは告白するように話し始めた。
「…………この時代にきた理由は、本当はこの地下室を見に来ることだったの」
嘘ついててごめんなさい、とマリアは頭を下げた。
「私と同じ『あらゆるものを破壊する程度の能力』をもつお母さまがまだ地下室にいたころ、どんな暮らしをしていたのか、知りたかったの」
それを知ってどうするのか――――
そんなこと、訊くまでもなかった。
「……………………最近、制御できなくなってきたの」
マリアは恥ずかしそうに言った。マリアは苦しそうに言った。マリアは自分を責めるように言った。
「いや、どちらかというと、私が今までこの力を使うのを嫌がってたから、この力の使い方を忘れてしまったのかもしれない」
「――――未来の私たちはそのことを聞いているの?」
私はやっとそう言うことができた。マリアの顔を見ることはできなかった。マリアが頭を振るのが視界に映った。
「ううん、まだ」
マリアは叱られたように、申し訳なさそうな声で答えた。もし、私がマリアを引き止めなかったら、マリアは決して自分の能力を私に話すことはなかっただろう。
私は、どうしてマリアがお姉さまがついてくるのを嫌がったかがわかった。
マリアはお姉さまに知られたくなかったのだ。
自分の能力を。
自分の危険性を。
自分が皆の邪魔以外の何でもないことを。
「実はね、」
マリアは懺悔するかのように言う。
「70年後、フランお母さまのお腹の中には、私の妹がいるの――――」
「………………………………………………………………」
「どんな子かなぁ?」
マリアは明るい声で言った。私はようやくマリアの顔を見た。マリアの微笑はお姉さまのものとそっくりだった。
「私は嫌だよ」
マリアは冗談を言うかのように笑った。私は笑えなかった。
「この右手の中に、その妹の『目』が乗るなんて、考えただけでもぞっとしちゃうよ」
「だからね――――」
マリアは安心させるように私に微笑んだ。
「未来に帰ったら、まあ、適当に事故でも起こして、私はこの地下室に引っ越す予定でいるんだ」
「制御できない力でお母さまたちや妹を殺すなんてことをしたら、私はとてもじゃないけど、自分を許せないだろうから――――」マリアはそう言って笑う。
――――その目は悲しみと苦しみと、そして何より、決意に満ちていた。
「ねえ、お母さま、そろそろ帰りましょう?」
そう言って、マリアは何もなかったように、優しく微笑んで、小さな右手を私に伸ばした。
小さな右手は、小さな女の子のもの以外の何でもなかった。
マリアの目には涙がたまっていた。
だが――――決して、涙を流すことはなかった。
愚かで臆病な母は、娘が差し出した手を握ることしかできなかった。
、
ここからレミリアとフランがマリアにどういった道を示すのか……。
それにしてもマリアは賢い子ですね。
でもその幼い身と心には少し重すぎるのかもしれませんね。
いずれにしても今後の展開が非常に気になるところです。
過去に来た理由とはフランのかつての部屋を見に来ることとは……。
レミリアたちがこらから取って行く行動に期待してしまいますね。
続きを楽しみに待ってます。
なんだかレミリアとフランをもっと好きになった………マリアは二人に似てて良い子ですね。
そしてレミリアは、本当にフランのことが好きなんですね。性的な意味でなくw
この三人に、暗い未来は似合いません。
ハッピーエンドでありますように…
だからマリアの方もきっと…
バッドエンドにならぬ事を私は願っています
マリアがあんなにいい子なのだから、レミリアお母さんとフランお母さんはよいご婦婦(ふうふ)なのでしょうね♪
早く続きが読みたくて堪りません。ハッピーエンド超期待!
ギャグではなくシリアスでしたか。
良い感じに混ざった作者のセンスが良いですね。