「ああ、先生! 八意先生! どうか、わたしを助けてください!」
診察室に駆け込んできたのは、一人の大柄な男だった。
突如として現れたこの男に医者としてまず私がすべきことは、相手の機嫌をとるような愛想のいい笑顔を浮かべることではなく、この男が患者として扱えるかどうかを見極めることに限られた。私は、皿に盛られた芸術品を舌よりも先に目で舐めまわす美食家のように、その男をじろりと観察する。
胸を上下させるその疲れからでは明らかにない汗に隠れているが、瑞々しい顔つきは青年を思わせる。しかし、その口元には似つかわしくない豊満な髭が備わっていて、若い男とは思い難い風情を漂わせていた。白髪がわずかに混じった頭部を抱えて、男は寒さに耐えるかのように小刻みに震えている。総合して、この男は見た目よりもずっとくたびれているのだと思う。壮年というべきかもしれない。
そして何よりも、男がこの部屋に入ってきてから続く、私の耳に押し込まれる鳴き声の主が特に目立った。それは男の腰にぶら下がっており、曲がらずにぴんと背筋を伸ばし続けた。男が自身の不安に歩を合わせるように体躯を揺らす。その度に上下して金属的な声を短く上げることを繰り返すが、それは別に問題ではない。つまるところ、この男が剣客なのだろうというだけのことだ。しかし、その音が長い悲鳴になることだけは許してはならなかった。
医者という、傍から見れば善意と慈愛を履いて歩いている者が、どうしても気に入らないという恐るべき第三者もどこかに存在するのだから。
「まずは、静かにお話を伺うことにしましょう」
私は、その浮ついた心と一緒に腰を下ろすよう、男に患者用の椅子を勧めた。
男は未だに荒い息を続け、ふらふらと足を滑らせながら手を泳がせ、まもなく私の正面に鎮座した。だが、男が疲弊から立ち直る間もなく、腰に備わっている刀が窮屈そうに声を荒げて訴える。遅れて、男を案内していたであろう因幡がやってきたのを一瞥してから、私はやさしく言った。
「あら、お腰にあるものが嫌がっていますわ。因幡、お預かりして」
男の項垂れた頭がぴんと飛び上がり、明かりに照らされた表情はひどく強張っていた。その態度が私のささやかな提案を拒んでいるのは明瞭である。しかし、私が口を閉じたままでいることに、男はなんらかの居心地の悪さを感じ取ったのか、躊躇いながらもようやく椅子に深く腰掛けることを選んだ。
それでいい。私もようやく患者として扱える。
「お答えするのが随分と遅くなってしまいましたが、勿論ですと言いましょう。私がここにいるのも、つまりそのためなのですから」
男の顔は医者としての私の言葉を聞いて安寧の花を咲かせるが、すぐさま、いや、でも、と続けて最後には先ほどと同様の慄然とした面持ちに戻ってしまった。男は身をじっとさせることもできず、狂おしげに叫んだ。
「だめです! きっとだめなのでしょう! 先生がどこの医者よりも秀でていることは承知しておりますが、しかし、わたしを救うことはできないに違いない!」
「ええ、わかります。わかりますよ。医者は全能ではありませんからね。あなたの体内に沈んだ苦悶を取り除くことを確然のお約束にすることは残念ながらできません」
すっかり気が動転してしまった男のために、私はいったん言葉を切る。
焦慮より滲み出た苦味が殺到した男の喉は、それらを飲み込もうと口いっぱいに唾液を溜め込んだ。ですが、と私は体温で溶かすように続ける言葉を口内からゆっくりと転がした。
「それに向けて尽力することだけはお約束できます。ですから、どうしたのか私にお話してみませんか?」
男の不幸を慰めるように言う。男は自分の狂態が目蓋の裏に浮かんだのか恥ずかしそうにして、静かに居住まいを正した。
そうして、ようやく話し出そうと開いた男の口は、大気を取り込みそのまま光源を目指す言葉も飲み込んでしまったように思えた。男は一度、深く息を吐いた。たちまち、男の汗は蒸発を終える。震えはじっと目を凝らさなくてはわからないほどになり、なんとも落ち着いた様子を見せる。少なくとも、表面上は。
それから、男は堰を切ったように話し出した。まるで、事態がいかに最悪であるかを私に一刻も早く告げることこそが、唯一の身を守る手段であるかのように。
「わたしは、ここから東の方へと大分離れた外れの集落に居を構えております。その東の集落は森ばかりに囲まれており、他の集落からも孤立しているのです。なんといっても森の薄暗さときたら、小腹を空かせた通りすがりがわたしたちをひょいと摘んでその不機嫌な胃袋を落ち着かせるのにぴったりなのですから。唯一、道といえるほどに整っているものではありませんが、やはり森の中にあるそれらしい西へと続く草の少ない地面を少し歩けば、ある集落に行き着きます。この西の集落もまた東の集落と同じように周囲は森ばかりです。つまり、東の集落と西の集落は一本の道を行き来してお互いに助け合っているからこそ、成り立っているのです。頼る相手も選べるほどにいるわけではないのですからね。ええ、どうしてこのようなことを長々と話すのかといいますとですね、先生。わたしの話にとても関係しているからなのです」
なるほど、と私は相手にもわかるよう必要以上に大きく頷いた。
同時に、診療記録に相手の話す内容を走り書きする。
「ところで、あなたの目もそのお話に関係しているのかしら?」
私は、男がそのひび割れたガラス玉をなんとか使えるようにと目論んでここを訪れたのではないと確信しているが、事態の輪郭を早々に浮かべるためにたずねた。
しかし、男は驚愕したようで、声を部屋中に響かせた。
「ご承知だったのですか! さすがは八意先生だ! しかし、誤解しないで頂きたいのです。わたしはこの光も通さない錆びついた目のためにあなたを頼ったのではありません。この目はわたしが未熟だった頃に受けた罰であり、わたしの話にはあまり重要ではないのです」
男の両目は一見、傷痕の一つもなかったが、覗き込めば瞳がこちらを映していないことがわかる。曇った鋼の玉は、柔らかな眼球のような水気が全くなかった。だが、そんなことは椅子を勧めたときの男の挙動で容易に想像がついたのだが。
私は微笑みながら言う。
「わかりました。どうぞお話を続けてください」
はい、と男は短く答え、再びその赤々とした舌を躍らせる。
「わたしはこの通り、盲目です。ですが、こんなわたしでも幼少の頃より父から学び研鑽を重ねた剣の腕があります。そして、東の集落と西の集落の間の道はどうしてもお互いが通らなくてはならないものなのですが、やはり森に囲まれているせいかたまに獣が襲ってくるのです。わたしはそこで、通行人の用心棒のようなことを生業にしたのです。道を通らなくてはならない人にぴったりとついて歩き、敵意に向かい剣を振るう。そんな具合ですね」
男の同情すべき苦労に、私の顔は眉を上げた。
「それは、ご苦労なさっているのですね」
「いえ、そんなことはありません。もう大分長くやっていることですし、襲ってくる獣とくれば空腹の悲鳴に耐え切れず物音も気にしない様で唸りながら飛び出してくるのですから、見えなくとも問題ではないのです。ですが、少し前から、獣ではなく……」
そこまで言って、男は途端に黙ってしまった。
男の視線は重力に従った。内から這い出るおぞましさをどうにか押し殺そうと、唇は薄く引き結ばれている。膝の上に置かれた拳は硬く握られ、震えが再び息を返した。
熱に浮かされ床にひれ伏す病人の肩をあらん限りの力で引っ掴み、休みなく揺らし続けて激励の声を張り上げるのは愚か者のすることに間違いない。しかし、沈黙を保ったこの事態は医者としてあまりに歓迎すべきものではなかった。というのも、医者と患者ほどにすばらしい組み合わせなどこの世に存在しないのだ。それも、患者の悩ましき苗床が潤いを増すほどに良くなる次第だ。
つまり、熱心な喋り手と熱心な聞き手ほどうまが合う仲間は滅多にないわけである。だからこそ、私の口は落ち着きを払うことをせずにこの不愉快な沈黙を打破するべく、男に話の続きを促すのも道理であった。
相手を心底気遣う調子で、私は囁いた。
「お辛いようでしたら……無理にお話されることはありませんよ」
「いや! いやいや! そんな、そんなことはありませんよ、八意先生! ただちょっと、何からお話するべきなのかを思い悩んでいただけなのですから」
男は慌てたように、両手を宙に漂わせながら早口で言った。
それでいい。人間ほど自分に嘘つきで他人に正直な者などいないことを、私はよく知っている。
脳裏に浮かべた光景が目の前にあることに、頬の筋肉が緩むのを感じた。だが、元より患者を慈しむ微笑で彩られたこの顔には、誰もがその変化には気付かないに違いない。
ああ、笑顔とはまったくなんて便利な代物なのだろう! これを発明した者は天才だ! 間違いない! なんといっても、この私が言うのだから。
「ええ、先生。今なら言ってしまえます、ええ……最近になって獣の代わりにやってきたのは、歌で人を惑わし、払えぬ目隠しをつけさせるあのおぞましき怪異だったのです!」
私の白熱した議論が終わった頃には、男の決心は既に過ぎ去った後であった。
患者の言葉を上の空で眺めるなど医者としてあるまじき失態だ。そもそも、この男は私が如何なる表情をしたところで、全くそれについて言及してこないじゃないか。
顔が紅潮して、火照るように熱くなるのを感じた。私はそれを誤魔化すように慌てて男の言うことに反応した。
「はい。はい。なるほどそのような。つまり、あなたの苦悩の中心には夜雀が居座っているのだと、そう仰るのですね」
「……いえ、それは違いますよ、八意先生。わたしの胸の内で息巻く葛藤は、人間の女より押し付けられたものなのです。あの女の、あの女の声が……わたしの耳の奥にこびりついてじっと蹲っているのです!」
男はたまらず、金切り声をあげる。だが、男の話を聞くほどに私はある一種の強迫的な誘惑に手を引かれた。それは、男の不調は目の見えないところに置かれているのではないかという疑惑であり、つまるところ、脳の不全が生み出したものなのではないかという至極真っ当な見解であった。そうなれば、私がこの男にしてやれることは、気を楽にして夜を泥のように過ごさせる手伝いをする気休めをカプセルに閉じ込めて渡すくらいである。
男は落ち着きも震えも見せず、熱を帯びた口調で話を続ける。その口は、今後の身の振り方を考える私の思考を引き裂くように歯を見え隠れさせた。
「失礼しました、先生。いい加減にお話しなければなりませんね。わたしが口ずさむ勿体らしいこの身に降りかかった不幸のお題目を。ええ、あれはいつも通りに森を抜けなければならない方がわたしの住まいにいらっしゃったときのことなのですが……それが、なんとも声の透き通った女だったのですよ、先生。耳だけでしか判断せざるを得ないのが口惜しいほどに、見目麗しい方だとわたしは思っております。勿論、その女の実際の姿形にわたしの想像がぴたりと当てはまるはずもありませんが、そんなことは問題ではないのです。そんなことよりも、その女は持っている声にふさわしく、わたしの目が見えずにあることを差し引いても、なんとも素晴らしい甘露のような歌を喉元より奏でるのです」
男はそこまで言って、こちらをじっと見つめる。それは私への気遣いだとわかった。少々疲労を溜めてしまっている走り書きする手は、感謝の念を抱きながらも速度を落とさずに働き続けた。
女性の歌が惜しみなく敬意と愛情を注ぐことのできるものであったことや、歌の達者な女性が見事な声の変化までも遂げたこと、西の集落にいるたった一人の身内である妹に贈り物をしようとしていることなど、およそ関連の見えない情報が広くはない紙面に落とされていく。
それから、男はさらに早口になった。それには、焦りからではなく、嫌なことを早々に済ませてしまおうという子供のような思惑がちらついた。
「森に入って、そろそろこの陰気な空気から出られないかと思い始める頃でした。突如として、女が短くもよく響く衝撃に打ちひしがれた声をあげたのです。身構えたわたしの手の中には既に、鋭く冷たい鉄の歯が襲い掛かるであろう愚かな獣に噛み付くのを今か今かと待ち焦がれていました。悲鳴の次にわたしの耳に押し込まれたのは女の切実な訴えでした。女は叫んだのです。なにも、ああ、なにも見えませんっ! 助けて! 助けてください! と。ざりざり、と土を荒らす乱暴な足の動きが聞こえました。しかしですね、八意先生。事態はわたしの想像していた悲劇よりも遥かに重みのないものだったのです。わたしの右手のそばで息を潜めた猟師がカチンと声を出したその瞬間、女が言ったのですから。ああ、助かりました! あの妖怪は逃げ帰ってゆきました! そう言われて、わたしは改めてその得物の心強さを実感したのです」
男の短気な説明に、私は丁重な頷きを返したつもりだったが、鏡を見れば、ぎこちない動きをしていたように思える。
私は相手に気付かれないように、重苦しい息を吐いた。若干の苛立ちが肺の中に混じってしまったがためである。診療記録に書き写した男の言葉の一つ一つに注釈を加えなければならない作業は、そういった乾いた焦燥の微風を受けながら続けられた。
私は男に、悪臭を放つ植物の腐敗を目の当たりにしたような、自身の不快な調子を見抜かれないように確認を重ねる。
「では、あなた方は助かったわけですね。夜雀に遭遇しながらも、満足に目的の集落に辿り着くことができたのだと?」
「その通りです、先生。そのはずなのです」
男は妙な言い回しをした。
しかし、その鈍い返事の意味するところを理解した私は、すぐさま質問を投げかける。
「はず、とは?」
「ええ、先生。確かにわたしはその女を森の出口まで送り届けたはずなのです。森と集落の間には、ほんのわずかな距離がありましたが女は一礼したらしく、そのまま去ってしまいました。それから東の集落へと戻り、後日に今度は年若い男を送り届けたとき、わたしは西の集落にいるはずのあの歌の上手い女に会おうとしました。一時的とはいえ鳥目になってしまったのですから心配だったし、女の妹に贈り物を無事に渡すことができたのかも気になりましたからね」
しかし、と男はそこまで言って一度言葉を切った。そして、身軽な状態で酒を煽り、胃の中にアルコールが染み渡ったときの奇妙な感覚に戸惑いを隠せないような、怯えにも似た口調で続けようとする。
なんらかの情熱を携えて意気込んでいる相手に水をぶっかけるような真似をするのは憚られた。だが、患者の不明な経緯を取り残すことがどれだけ危険なことか熟知している私は、男に微笑して遠慮がちにたずねる。
「どうしてもお伺いしたいのですが、あなたはその後日に年若い男を連れて森に入ったのですね?」
話し出そうと踏み出していた男の口は、何も吐き出さず、かといって閉じることも忘れたままであった。張り詰めていた、か弱い神経から湧き出した唾液をごくりと飲み込むことでようやく男は言葉を返す。
「ええ、そうです」
「それで、道中になにか不幸な事態は起きなかったのですか?」
「はい、全く。その前日とは違って、変わりありませんでしたよ」
「なるほどよくわかりました。大変助かりましたわ」
私は医者としての決断を下すことにした。診断は男を、女性にどうしても怖気をふるわせる類のものであると判定した。最早、長々と男の恐怖に付き合う必要はない。
いや、そもそもこの男に私は必要であったのだろうか。思考を重ねるまでもなく、答えはすぐ脳裏に浮かんだ。ないのだろう、恐らくは。
そういう考えに行き着いた私は、自身の内側を駆け巡る血液が沸々と蠢くのを感じた。この場にとてもふさわしくない燃える皮膚をどうにか静めるために、私は一度目を閉じた。訪れたのは平和な闇であった。
そうして次に、眩しさが目蓋が動揺させる頃には以前と変わらない光景が広がっている。勿論、落ち着きに敬意を示す私も存在している。私は言う。
「あなたにお薬は必要ありません。そして、これからの顧客を男性に限定するようお勧めしますわ」
しかし、私の判断がまるで見当違いだとでも言いたいかのように、男は明白な抗議から生まれたであろう嘆息を吐き出した。
待ったをかけたかのように男の手は中空に固められ、それから言った。
「八意先生、あなたほどの優秀な医者がどうして患者の熱意を最後まで受け止めないのですか。どうか、わたしの話を最後までお聞きになってくれませんか。そうすれば、あなたの助けはわたしの全身を甘い心地で満たすでしょう」
男の持って回った言い方は、私に事情の続きを促せようとしていた。同時に、先ほどまでの私の行いが軽率であることを自覚する。
ああ、憎らしい。そう放った先にいるのは自身であり、男もである。もしも弁明の機会を与えられるのであれば、この男と私はどうにも素晴らしい組み合わせにはなり得ないのだと声高に叫ぶだろう。心臓がはげしく動悸し、喉がつまるような息苦しさを感じた。
しかし私には確かに、男が納得するその最後まで相手をしてやる義務がある。私の頭は、のろのろとあてのない動きで左右に揺れた。
その動作をどのように受け取ったのか、男は適当に雅量のある態度で自らの不幸を再び語り始めた。
「よろしいですか、八意先生。ようやく捜し当てた女の妹に聞かされた話は、わたしを狼狽させるのに十分なものだったのですよ。その女の妹は、姉はまだ来ていません、と。ちょっとした不思議にでも遭遇したかのように言ったのです。わたしからすれば、それはちょっとしたものでもなければ、不思議なんて生温いものでもありませんが……ね」
再び、男の目が瀕死の光を投げる程度になった。男が辛苦の困難にひしがれて参ってしまうことのないように、私は重々しく頷いて話を進ませようと慎重にたずねる。
「では、その女性は行方知れずになってしまったのだと?」
「勿論、西の集落の若い男たちが森の近くを短くはない時間をかけて見回りました。しかし結果は先生もご存知の通りです。わたしがここに助けを求めてやって来たのですから。ですが、先生。事態がそれで静まる気配を見せなかったことがわたしを混乱に陥れたのですよ。幾日かが経過して、またもや女を連れて森を通ることになったからです。そして、以前と同様に……ええ! 女が目の不調を訴えたので今度こそは斬りかかろうと刀が長い悲鳴を上げ終わる前に妖怪は逃げていったのだと! そう聞こえた女の声に安心して出口まで送り届けたのに! 何故いなくなってしまったのか! その次の女も! 次も! 全く同じ成り行きで蒸発したのです! ……それから時間をかけてわたしは自分なりにこのおぞましい怪奇をどうにかしようと頭を捻り、先ほど先生が仰ったように連れて行く相手を男だけにしたのです。今思えば解決にもならないその愚策が、わたしには天啓のように思えました。しかし」
「どうぞ、気を落ち着けてください」
憎悪の震えを抑えるかのように、男は早く早く口を動かすので私はついに嗜めた。言葉の羅列はあまりに凄まじい速度で流れて、走り書きをしていた私の手は遥か後方に置き去りにされてしまっていた。
男の恐慌は成長円熟し、みごとな果実を結ぶに至った。それは丸々と肥えた玉の汗。頬を伝い、そのまま流れて顎の先で留まった。
「こちらから、おたずねしましょう。女性にのみ起こるその不幸の原因はわからずとも、とりあえずは顧客を男性にすることであなたは助かったのではないのですか?」
「……いえ、この不快な話はそう単純に済んではくれなかったのですよ……八意先生」
「と仰ると、今度は男の声がしたのですか?」
その質問に、男の体は貪るような注意力の集中のために硬直したように思えた。その様子はまるで、空中の高い高い位置から長い時間をかけて地面との壮絶な接吻に備える落下物のようであり、自身に襲いかかるものがしっかりとわかっていながら避ける術を持たずただ祈るばかりの哀れな末路に今こそ直面しているかのようでもあった。
今日初めて出会ったこの男のどれよりも恐々とした調子に、これこそが男の恐ろしい真実であることを心中に悟る。私は妖しい身震いを催した。
「先生、わたしは男を連れて森を抜けようとしました。何事も起きるはずがないと自分にたっぷりと言い聞かせて、しかしすぐにでも不愉快な声を斬ることのできるように両腕に緊張を張り詰めました。そして、何事も起きなかったのです。無事に出口まで送り届けて、次に再び訪れた頃にもその男の声を聞くことができました。男を連れて森を抜けるようになってから、夜雀に遭遇することがなくなったのです」
そして私の知らぬ間に、腹の底にある決心をただひたすらに全身を揺する怖気に抵抗する多くはない勇気で塗り固めた男が、よく動く薄い唇の間より一音ずつはっきりと言葉を紡いだ。
私は無言で先を促す。
「そうした安心がわたしをより、どん底に落とす手助けをしたのでしょう……幾日かの後、新しい習慣になり始めた男に限って森を抜ける生業は、破綻したのです」
「一体、どうなったと仰るのですか?」
「ああ、先生、八意先生! 一体どうなったと思いますか! その日にわたしが男を連れて森を通って中ほどまで歩いた頃に! あのおぞましき怪異が再び姿を現し、連れている男は鳥目になったことを主張したのですよ! わたしはすぐさまに男ではない、もう一つの気配に向かって斬りつけた! そうして!」
男はがたりと椅子から立ち上がり、腕を振り、その恐ろしさに呼応するように声を張り上げた。私の鼓膜がびりびりと振動するのを自覚した。
「ああ、ああ! そうして、この耳に確かに聞こえたのです! あの場にはいないはずの女の声が! あのときの、助けてと耳を切り裂く歌のような叫びが!」
そう言って糸の切れた人形のようにがくんと膝から崩れた男は、大きな衝突の後で椅子に座ることになった。
事情を説明するという患者としての大業をやり遂げた男に、労わりの言葉の一つくらい投げかけても罰は当たらないが、しかしこれまでの時間が全くの徒労に終わってしまった私にそのような温かで同情的な感情は一筋も流れていない。
まず真っ先にやるべきことは、この男に自身が患者ではないのだとわからせることだ。やはり、この男と私は素晴らしい組み合わせではなかったのだ。当然だ。私は鋭く言う。
「よくわかりました」
「八意先生! どうかこのわたしを助けてください。あの女の声が今もなお、頭蓋に響いているのです。これはあの女の怨念なのでしょう。この苦しみからわたしを救ってやってください!」
「落ち着きなさい。やはり、あなたに薬は必要ないし、あなたは助けの必要な患者ではないの。自分ではどうにもできない不幸を抱える人だけが患者と言われるのよ」
今までとは明らかに違う、すっぱりと男の得物のように切り裂く私の物言いに、男は若干の驚きを隠せずにいた。
男はやかましく騒ぎ立てる。
「わたしは助けを求めています! そしてこれはわたしにはどうにもできない問題なのですよ、先生!」
「いいえ、これはあなたにしか解決できない問題なのよ」
断言する私に、男は餌を欲しがる雛鳥のように口をぱくぱくとさせたが、恐らくは本人の思うように雑言の一連隊が出てこないのだろう。
親が子に優しく言い聞かせるように、私はゆっくりと相手が聞き逃さないように囁いた。
「あなたは不思議に思わないのかしら? 鳥目になったその女性が、一体どうしてすぐに夜雀の逃げていく姿を見ることができたのかを」
男の音にならない悲鳴が聞こえる。
私は続けて言ってあげた。
「では、誰なのかとあなたは考えるでしょうね。ところでこれはあなたが言ったことだけれど、歌の上手い者は声の変化に長けているそうじゃない? さすがに性別が違えば似せることもできないのだろうけど」
そう言った瞬間、男は先ほどのような危うい足取りではなく、がっちりと筋肉で固めたかのような動きで入り口に控えていた因幡が持つ預け物を引ったくって、乱暴な音を立てながら凄まじい速度で出て行った。あんな勢いでどこかにぶつかってしまわないだろうか心配だ。
因幡が心底不思議そうにして、首を傾げている。男の豹変した態度について考えているのだろう。
「あまりの憤怒に恐ろしさが消えてしまったのよ。だって、凄い形相だったもの。人は目に見える妖怪よりも姿のない人間の方が怖いのねえ」
私は解答を教えてあげた。
そうして、机に向き直り、目の前にある診療記録を破り捨てた。
個人的には最後まで平静な永琳が一番の恐れどころなんじゃないかと。
万が一みすちーと男の立場が結末で逆転してても、永琳はなんとも思わないんだろうなあ。
読み応えがあって面白かったです。
ミスティアの行動と男の緊迫感がとても引き付けてくれました。
さり気に出された伏線も上手かったです。
これは傑作。
ちょっとくど過ぎたり、よりよい表現があるのではないかと思うところもあった、興奮していた割には、永琳の答えをダイレクトに伝えたわけではないのに即座に理解した男は頭が切れ過ぎるのではないか、などとも思った。
でもそれ以上に構成と、伝わってくる切迫感に飲み込まれてしまった。
永琳の状況記述と独白、そして永琳と男の会話のみという構図なのにここまで引きつけられるとは。
差し詰め、永琳は探偵ポワルですかね。
描写がすごい。みすちー流石だよみすちー
この雰囲気はなかなか出せないと思います。素晴らしい
すばらしい切迫感でした