紺碧は渦を巻き、見つめる視線を引き込んでどこまでも誘うようだった。
指を這わせると、ごつごつとした感触が、さとりの中から見知らぬ音を紡ぎ出すようだった。
ゼンマイ仕掛けに爪弾かれるオルゴールのように。
耳元で空気が動いた。ひとしずくの埃がきらきらと舞う。
どこかで窓が開いているのかもしれない。あるいは、猫か鴉が館に出入りしたか。
さとりは、崩した膝に乗せたそれに、もう一度胸元の「眼」を近づけた。自然と力の抜けた肩に、やがてぬくもりが降りてくる。
あたたかな日の光。
白く輝く昼間の世界で、さとりは物憂げに身を起こす。水を含んだ朝霧がやさしく身を包む。あざやかな緑の木々。苔むした地面は、踏みしめた足を柔らかくうけとめて沈み込み、香ばしい匂いを立てる。
やがて森が途切れ、見晴らしのいい高台の下には人の街が広がる。それは、以前に見た地上の光景に似て、どこか違うようでもあり――。
さとりは、閉じていた両の目を開いた。かすかな物音はドア越しに続いている。ベッドに広げたフェルトの布に手にしたものを包み、ため息をついて立ち上がる。
「どうしたの?」
ドアを開けると案の定、毛糸の玉のようなものが駆けてきて、しゃがみこんださとりの手の中に飛び込む。
最近地霊殿のペットの仲間入りしたばかりのその子犬は、「送り」の妖怪らしい。山道でひたひたと旅人のあとをつけ回したりするというが、まだ到底、燐や空のように人の姿に変化したりはできない。
「お腹が空いたのかしら?」
子犬の濡れた鼻先が抱き上げたさとりの腕に押し付けられる。その心を読む。湧きあがるイメージは、中庭に吹き上がる熱風、遠い炎、茶色く枯れた草、高く飛ぶ鴉。
それから、ほの暗い廊下に佇む枯れ木のような姿――さとり自身。
まるで自分自身を覗き込まれたように感じて、さとりは顔の前に上げた手をまじまじと見つめた。
光も、指を桜色に染めていた熱も、もうそこにはない。
鬼が酒を持ってきた。
鴉が皿を並べる。
猫が吊り下げた鉄鍋から、シチューを注いでいく。
「ちょっと塩辛くなっちゃったかも。――に、にゃん! 尻尾つかまないでおくれよ、手がふさがってるんだからさ!」
「いや悪い、目の前で揺れてるからさあ。塩っけがあるのはいい、酒のつまみにはね」
二本の角の影が、遠いろうそくの炎を受けてゆらゆらと揺れる。伊吹萃香はいつもの瓢箪ではなく、持参したらしい瓶から注いだ酒を一気に干した。
「私、しょっぱいのいやだなー」
そう言いながらも目の前に置かれたシチューを我れ先にとスプーンですくった空が、近づいてきたさとりに気づいて、しまったという顔をする。
「いいのよ、おくう。私を待たなくても」
さとりは萃香に向き合って腰を下ろした。石造りの殺風景なテーブルにも、シチューのほか乾燥パンや腸のように曲がりくねった果物、温泉卵などが盛られ、それなりに宴の体裁ができている。
空が暴走し地上の人間がやってきた一件以来、まれにではあるがこの地霊殿にも客が訪れるようになった。玄関から続くホールにこうやって「客間」をこしらえたのは、手間を省くためと、もうひとつ。
「まあ、あんたも飲みなよ」
「『ここなら、館の奥まで入り込んでこいつと出くわさずにすむもんな』……ですか。すみませんね、のこのこ顔を出して」
差し出された杯をさとりは遠慮なく受けて、注がれた酒に口をつけた。萃香はにははと毒気なく笑う。読んだ内心を口に出しても、彼女はあまり嫌がらない。嫌がる気持ちは見えるのに、三度のうち二度は顔に出ないよう、我慢する。すべてさとりには筒抜けなのを承知の上らしい。
珍しい鬼だ、と思う。昔、彼女が地底に住んでいるころからそうだったのか、どうも覚えていない。
「さとり様、あたい吸血鬼の住んでる館に行ったんだ! あいつら光が苦手だから、屋敷の中、ここみたいに暗いんだけど、たくさんたっくさん召使がいてね、いい匂いがするの。血みたいに赤いお茶、飲ませてもらったよ」
黙りこんださとりたちに気を使ったのか、燐が地上の話をはじめる。二本のおさげがぴょこぴょこ跳ねて、それにあわせて流れ込んでくる、地上の光景。彼女の見たイメージ、感じた心。
銀の髪を揺らした女性が暗い廊下を遠ざかっていく。燐のかすかな怯えも伝わってくる。その後走り出た、花の咲き乱れる庭に遠く光る湖と、開放感。
「ウチもさ、メイドでも雇えばいいんじゃない。入ったことのない部屋もいっぱいあるしさ。きっとすみずみまでピカピカにしてくれるよ。手すりも、絨毯も、ステンドグラスも」
さとりの隣でいつの間に現れたのか、こいしは固いパンを引きちぎり、よそ見をしている空のシチューに浸してかじりつく。
「こいし、行儀が悪いわよ」
「はーい」
どうせこいしが本気で言っているわけはないのだ。 飲み食いする口の代わりににぎやかに断想が飛び交うテーブルの上で、心を閉ざした妹は輪郭をともなった暗闇のようだった。
斜めに吹き上がる風が足元をすくう。中庭をまばらに覆う草は、みな熱をもとめて灼熱地獄跡に向かって伸びている。
のしかかるような地霊殿の屋根を越えて吹き込んできた粉雪が、地面に触れる前に溶け、蒸気になってふたたび吹き上がっていく。
皿のミルクを飲み干した子犬が、風のゆくてに鼻先をあげて駆け出した。
「気をつけるのよ」
さとりが声をかけると、一度立ち止まってくぅん、と鼻を鳴らし、草むらに消えた。
遠く、鈍色の光が岩盤を照らす。ごおごおと風がこだまする。地獄跡の蓋が空いているのだ。きっと空が、朝一番の習慣として火熱を調節しているのだろう。
「送り犬かあ。地底じゃあんまり用がなさそうだね」
ミルク皿をとりあげて立ち上がると、さとりの傍に歩いてきた小鬼がふわりと浮き上がる。
「じゃあ、あなたを送らせましょうか」
「転んだら食われるって言うじゃん。ごめんだね」
(剣呑、剣呑。酒が抜けてるのに、あまり心を読まれたくはない)
声をかけると、面倒くさげに萃香はさとりを見おろした。
「地上に戻るの?」
「たぶんね」
「どうして? ここにはあまり居たくない? あなたの仲間がいる場所なのに。地上の方が、性に合っているのかしら?」
たずねてから、どうしてこんなことを聞いてしまうのだろうと、さとりは自分を訝しむ。
「どうしてって」
鬼の内心は忙しく動いた。さとりもよく知る、星熊の鬼の姿がちらと見えて、それから地上の神社が浮かぶ。空をこらしめにやってきた巫女の隣で魔法使いが笑う。彼女の黒い服には暖かそうな陽だまりが出来ている。
「ああ、勇儀はね」萃香は皮肉っぽく唇をゆがめる。「あんたのことが嫌いってわけじゃないんだ。ただ、根っからの鬼なのさ、あいつは。私よりもね。悪く思わないで欲しい」
そう言ったきり、萃香は身を翻して高く舞い上がった。長い髪を結わえたリボンの赤が、花びらのように闇に舞い消える。
旧都に暮らす者のリーダー格である星熊勇儀は、地底の案内役を引き受けたりするものの、萃香のようにただの客としてさとりたちに会いに来ようとはしない。
館に入ると、後ろ手に閉じた扉が馴染んだ静寂を作り出す。朱色の絨毯には窓枠の黒い影が落ちている。長い階段を上り、さとりは自室にたどり着いた。ベッドの端に腰を下ろすと、枕元の戸棚を引きあけ、布にくるんでいたものを取り出す。
それは、一枚の絵だった。
画面のほとんどを、青の絵の具が埋め尽くしている。筆の痕跡は生々しく、気ままに右往左往して、なだらかに、所によっては岩壁に浮き出た化石に似た起伏を残して駆けまわる。
青の色味もまた一筆ごとに変化していく。まるっきり法則性などないような全体が、少し離れると調和して見えるから不思議だ。
描かれたのは水面なのか、地上の晴れた空なのか、絵の題材にさとりは興味はなかった。画面の右上に、星座を模したように橙色の引っかき瑕があるのも、この絵にとって欠くべからざる要素と考えていたくらいだ。
窓の外を、ため息に似た音をたてて怨霊が飛び過ぎる。目を細めて、さとりは胸元に絵を寄せた。
暗がりに並ぶ火、と思ったのはさとりが長らく地上の夜空から遠のいていたせいだ。明かりに満ち溢れた夜が、さとりを包んでいた。天からは地底のものとは違う、しっとりふくらみを帯びた雪が舞い、肩に髪に降り積もる。それでいて寒さは感じない。ぬくもりに満ちた窓明かりがおびただしく広がり、そこここに笑い合う人間たちの姿すら、さとりは確かに感じた。まるでその輪の中に、自分が居るようにすら。
にゃーん。
反射的にさとりは体をこわばらせる。「眼」に寄せていた絵を離し、戸棚にしまって廊下に出た。
「お燐?」
燐が自分を呼んだのか、そもそも鳴き声がしたのかも定かではなかったが、なんとなく後ろめたい気分で、さとりは赤い影の落ちる廊下で見慣れた姿を探す。
「お燐なら、さっき出かけたよ。また地上に行ってくるって。今のは私の鳴きまね。にゃあーん」
全く似ていない。
さとりの影を踏んで、こいしは微笑んでいた。そのまま躊躇なく近づいて、さとりの鼻の頭を指先でちょん、とつまんだ。
「お姉ちゃん、なにかいいこと、してたでしょ。隠したってすぐにわかるよ。お姉ちゃん、隠し事下手くそなんだもん」
帽子を気障に胸に当て、姉の呼びかけるのも待たずに、こいしは階下への階段に身を躍らせた。
心とはなんなのか、どこにあるのか。さとりは知らない。知ろうとも思わない。だから、ごくごく稀に木や石ころ、長椅子や洋服箪笥から何かイメージが見えても、気に留めなかった。それらのものはたいてい曖昧で、色も形もはっきりせず、煙のようにすぐ立ち消えてしまうのが常だったから。
だからこの絵を見つけたときには驚いた。使われていない部屋に積まれていたガラクタを手探っていて、なにげなくつまみ上げたキャンバスの埃を払った途端、あざやかな色彩がさとりの身中を満たしたのだ。
何かの間違いかと、自室へ持ち帰ってためしても絵は変わらずイメージを見せてくれる。それどころか、見える光景はそのたび変化するようだった。まるで絵が、さとりの問いかけに応えて、記憶の引き出しを次々と開け放っているかのように。
――絵の心だっていうの?
さとりも、馬鹿馬鹿しいとは思う。油で溶いた絵の具で描かれているらしいが、それ以上にわかることはなかった。サインらしいものもない。描いたのは人間か、妖怪なのか――絵画をたしなむ妖怪など、さとりは会ったことはなかったが。
地霊殿は、灼熱地獄跡をふさぐため、いわば急ごしらえにあつらえた建物だ。建築というより集積に近い、魔法的なプロセスを用いて築かれている。だから、さとりの知らぬものがどこからか混じりこんでいてもおかしくはないのだ。実際ほかにも、肖像画が何枚か、出自のわからない壷や彫刻といった古美術のたぐいも発見されている。けれども、「覚りの眼」が例の絵以外のものから何かを見出すことはなかった。
毛布にこもる熱気に、さとりは目を覚ます。
ベッドの上で起き上がり、胸元に抱いたままだった絵をしまって、枕元の水差しをとる。直接口に流し込んだ水は、体の奥底に氷柱のようにそそり立った。
部屋を出て、広間に面して左右から階段の合流した踊り場に降りてくると、天井から羽音がして、さっと影がよぎる。
「さとり様ったら、最近あの犬っころばっかり相手にしてるから、つまらないですよう」
どこか蒸し暑さをおぼえる夜だった。乱暴に手すりに着地した空の額には、わずかに汗すらにじんでいる。心を読まずとも、退屈をもてあまして屋敷の中を飛び回っていただろう彼女の姿が想像できた。燐もこいしも、留守なのだろう。
「あら。そうだったかしらね」
「そうですよ。私らなんて、あんなに一日に何度もご飯を出してもらった覚えないのに」
「あなたは私に相手してもらえないのが嫌なのか、ご飯の量について不満なのか、どっちなの?」
「うう、お見通しのくせに」
空の言うこともわからなくもない。先だって空が暴走を起こすまで、さとりはペットたちの世話をほとんど放り出していたからだ。
「誰かさんが大暴れしてくれたおかげで、ペットのやることから目を離せなくなったんじゃないの」
「さとり様、いじわる……」
黒い羽をすぼめて、そのまま器用に空は天井から下がる燭台に飛びうつった。
唇をとがらせ、階段を降りていくさとりを目で追いながら空は考えている。
(今の私だったら、さとり様にだって勝てちゃうのかな。頭の上で火の玉を爆発させたら、さとり様、どんな顔するんだろ)
いまやすっかり見上げるくらいの高みで、空の無邪気な瞳は猛禽類のようなするどい光を帯びている。
ホールを振り向かず歩き、薄く開いたままの扉から、さとりは外へ滑り出た。つまらないの、と言わんばかりの羽ばたきが背中で聞こえた気がした。
知らず苦笑が漏れる。地霊殿門前の丘陵に、さとりはゆっくりと登っていった。
どうも空は、さとりが心を読めるということが、どういうことなのかわかっていない節がある。さとりを倒せるか、などと考えてみて、悪びれる様子はまったくない。
軽石がごろごろ転がるゆるい斜面に、膝をかかえて座る。遠く広がる旧都は、水盤に映した星空のようだ。
振り仰げば、かまどの残り火のような地獄跡の残照の中を、地獄鴉が輪を描いて飛んでいる。
なにもかも、さとりの慣れ親しんだ地底の眺めだった。
伊吹の鬼は、退屈に耐えかねたのかもしれない。ふとそんなことを思う。無意識に、さとりは胸元の「眼」につながる管をまさぐっている。眠りの中で絵が見せたかもしれない幻を、さっきから思い出そうとして躍起になっていたのだ。
子犬がまる一日戻ってこなかった。ペットたちにはそれぞれ、食事をしたり寝床にしたりする好みの場所があるのだが、子犬がよくあらわれる中庭の一角に置かれたミルクと干し肉は、何度のぞいても手付かずで、そのたびさとりは中身を入れ替えて屋敷に戻るのだった。
燐に訊いても知らないという。
「だいじょーぶですよ。ここのところ、あたいなんにも運んでませんから」
「縁起でもありませんね」
死体を運ぶ火車の性質と、猫の習性がごっちゃにならなかったのは幸いだ。いくら妖怪のさとりとはいえ、目覚めの枕元に死体を置かれたのではたまらない。
「おくうがぶーたれてた子のことですよね。どんな毛並みでしたっけ? 赤毛? それともぶち?」
中庭の端に立つ、曲がりくねった低木のてっぺんに登ってあたりを見渡していた燐が、身軽に飛び降りてくる。やわらかく膝が曲がり、しなやかに広がる黒いスカートからは、強い匂いが立ちのぼる。嗅いでいるだけで口の中に甘みが広がるような独特の香りだが、悪くはない。
「青」
「青い犬なんていませんよ。さとり様ったら」
余り気味の袖をくわえ、燐はくしくしと笑う、
「おくうもわかってないなあ」
「え?」
「さとり様を放り出して、外へ遊び出てるのはあたいたちも同じなのに」
地上から戻ってきたばかりなのだろう。やたらと花弁の長い白い花が、燐の中でいっぱいに咲いている。花の中にうずくまるように、身を隠しているらしい。芳香のもとは、この花かもしれない。
「いいのよ、私には」
なぜか絵のことを思い出し、さとりは押し黙る。わかってもらえないとは思わなかったが、話すのはためらわれた。
白い花びらが散り、突き抜けてきた銭の形の弾幕を、身軽に飛び越えていく燐の心は、いきいきと弾んでいる。子犬のことも空のことも置いて、さとりに話したい気持ちが喉元まで押し寄せているのが、ありありとわかる。
「全部、わかってしまうから」
期待をこめてさとりを見つめる顔つきが、地上から来た人間たちを思い出させたから、偏屈になってしまったのかもしれない。
そうですよねー、とからから笑いながら屋敷へ入っていく燐からは、寂しげな感情がほの見えた。
いつの間にか、生き物の気配が中庭のあちこちで蠢いていた。枯れ草の影にすばしこく走りこむのは鼬だ。小さな頃の燐そっくりの黒猫が尻尾を立ててやってくる。灰色の空からは、地獄鴉たちが鳴き交わしながら下りてくる。
さとりへの親愛とおそれが、吹きゆく風に混じる。鴉の一羽が、空のことを思い出している。
地獄跡の上に浮かぶ空は悠然と翼を波打たせている。彼女が宙を踏み、手を振り上げるたびに頬に映る火勢がぐっと強まる。
萃香が訪れた晩、燐の話につられて、空もまた地上でのことを思い出していた。
さとりは黙ってそれを見ていた。穏やかな目つきをした赤い服の女が、空の胸元にじっと手を置いて、やがてつぶやく。
『うん、安定してる。一時はどうなるかと思ったけれど、これなら大丈夫。あんたはこの力を、使いこなせるさ』
女は、空に太陽の力とやらを与えた、神なのだろう。あめ玉を含むように彼女との体験を思い返し、空は柔らかな安堵に浸っていた。
あの笑顔は、さとりには与えられない。
ふと気配を感じて振り返ると、いつの間にかあらわれた子犬が、斜めに傾けたミルク皿に顔を突っ込んでいた。
「どこへ行っていたの」
さとりが近づくと、子犬が顔をあげる。しばたいたその目の奥に、馴染んだ地底の風物がだんだらに過ぎ去っていく。
軽い混乱にさとりは立ち止まる。あらためて、胸元に浮く「眼」を手で支えて集中してみても、子犬の心をわしづかみにしてすぐ消えた何かは、もう見当たらなかった。
勘違いだったのかもしれない。
その色が見えていいのは、さとりの心だけのはずなのだから。
乳白の衣に、一滴の青をこぼしたような、やわらかく曖昧な斜面がそそりたち、やがて先端を巻き込んで崩れる。
可愛らしい音がはじける。妖精の鼓笛隊が転んで将棋倒しになったかのようだ。やがて透明の水の層が押し寄せてくる。靴下を脱いださとりの足をくるぶしまで浸した波は、細かい砂地を名残惜しげにひっかいて、戻っていく。水の引いた砂は小さな穴をあけて深呼吸、さあ次の波だ。
波打ち際で転がる、青緑のガラス瓶を見つけて、さとりは拾い上げた。コルクの栓を抜いて、耳にあててみる。
――○○。
聞いたこともない言葉だった。なのにさとりには、間違いなく自分が呼びかけられたとわかった。
波に洗われ、ざらざらになったガラスの感触を楽しみながら、しばらく歩く。沖合いからひっきりなしに押し寄せる波は、さとりに届く寸前でくしゃりとつぶれ、そのたび紋白蝶のような泡の塊が、水と陸の境界から飛び立つ。
遠い水平線は、白く煙る空と融け合っている。
砂を波がさらうたび、体をめぐる血流のような音が生まれる。それは、隣り合った部屋で自分について囁かれる好意的な噂話に似ていた。
気がつくと、まったく知らない歌を口ずさんでいた。腿があらわになるくらい、スカートの裾を蹴り上げて、さとりは陽気になる。
やがて、雲が晴れて、水が色を強める。沖に向かって、ガラス瓶を投げつけた。見たこともない翼の大きな鳥が、広大な世界を飛び越えていく。
――青い鳥よ。この場所は、私だけのもの。
最初に感覚が戻ったのは、肘掛けを痛いほど握っている指だった。
赤と黒のコントラストが、椅子にかけた体を真っ二つに分けている。いつも通りの、さとりの部屋だ。
大質量の疲労が身体にのしかかっている。膝にまったく力が入らない。胸に抱いた絵を引き離すのが精一杯だった。少し、深く集中しすぎたのかもしれない。
背もたれに体をあずけて、さとりは長い息を吐き出した。海岸、という場所を自分が知っていたことを、意外に感じながら。
地底へと居を移す前にも、さとりは海というものを見た覚えがない。あるいは本当に絵の記憶なのかもしれないし、本で得た知識と一緒くたになっているのかもしれない。
さとりは時に思う。他者の心を読み、その心で考え、思うところを言葉にする。ならばその、覚りの妖怪自身というものは、いったい存在するものなのか。相手の考えに寄生しているだけの、いやひょっとしたら誰かの思考の一部分でしかないのではないか。
長らく考え、長く放り出していたことだ。ひさびさに会った人間たち、巫女や魔法使いの赤らんだ頬が、はやる心を染めた強い色が、さとりに思い出させた。
自分が、空っぽなのではないかということを。
館の内も外も静まり返っている。住人たちも動物も、あらかた出払っているのだろう。
じわじわ力の戻ってくる身体の真ん中で、さとりはそれでも、淡い幸福に浸っていた。もしもこのまま誰も帰らず、屋敷に独り取り残されたとしても、絵の見せる幻想はさとりを満たすだろう、半ばそう信じられるくらいには。
膝に置いたままの絵は、この部屋でほとんど唯一の色を、天井へとぼんやり映している。
窓枠がぎしぎし鳴る。しばらく開けていなかったからさび付いているのだろう。
バルコニーに積もった砂埃に足跡をつける。地霊殿の屋根を、ミルクのように濃密な霧が取り巻いている。しめった感触が頬を包んだ。
尖塔のてっぺんや出窓の屋根の上でぼんやり佇むのは怨霊だ。白い霧を背景にすると、普段は煙のようなその姿も、黒いしみのように見える。
体を浮かせ、さとりは手すりの向こう側に身を躍らせた。力を抜いて、霧の流れに身体をのせる。地霊殿の屋根を吹き上がる風に押されて、少しずつ速く、高く。
時刻を告げる半鐘が遠くから聞こえてくる。やがて霧を透かして、黒い家並みが浮き上がってくる。午後にさしかかったばかりの旧都の明かりはまばらだ。
ところどころ、ごく狭い範囲で細かな雨が降っている。どこから降っているのかはわからない。長く住んでいても、地底には知られていないことがたくさんある。ほとんどの妖怪は、そんなことは気にもとめない。
霧を抜けて、さとりは低く街の屋根をかすめて飛ぶ。
街道に沿って流れる川が見えてくる。舳先に松明を吊るした小舟が行き交う。櫂をたくみにあやつる妖怪が、さとりの姿を見て目を丸くする。同乗の客も顔を見合わせ、何事か囁きながら指をさす。
心が見えそうになったので距離をとったつもりが、長屋の屋根に上り修繕していた鬼と鉢合わせてしまう。あんぐり開けた口が声を発する前に、霧の中へとさとりは引き返した。
男の精神というのは奇妙だといつも思う。心を読む妖怪として強く疎んじながら、さとりの体と密着することを望んでいたりする。あられもない姿にしてひっくり返したり裏返したり、想像の中でなら彼らはさとりのことを少しも嫌がらない。
地上への洞穴近くまで行ってみようかという腹積もりは、すっかり霧散してしまった。
舟の客が指さした方角に、地霊殿が霧に角の取れたシルエットを浮かべている。たどりついて階段を上がり、部屋へ戻って窓を閉めなければならない。そういえば、あの絵も出しっぱなしのままだ。さとりはひどく億劫になる。
このところ、絵の見せる幻影が違ってきている。あの海辺を最後にしてぷつりと、具体的なイメージは何ひとつ見えなくなってしまった。巨大な歯車の噛み合うような音が轟いていたり、姿の見えない存在の硬い足音がひっきりなしに響いていたり、そんなものばかり。
物足りずに何度も絵をかき抱き、更に失望する。つい今しがたも、その繰り返しだった。
正面の玄関前に降り立ち取っ手を引く。すぐ目の前にこいしが立っていた。
「お姉ちゃん、お帰り」
ステンドグラスを抜けた淡い赤を頬に受け、驚いていたこいしはすぐに曖昧な微笑を浮かべる。
「どこに行ってたの? 部屋から風の音がするから、留守だって思ってたけど」
「散歩よ」
「もう帰ってこないんじゃないかって思ったよ」
鼻歌まじりにすれ違うこいしの体からは、いつかの燐によく似た強い香気がした。――こちらの台詞よ、とさとりは言いかける。いつの間にか地上に出て、巫女たちとひと悶着起こしたりしているのは、こいしの方ではないか。
少し歩いて振り返ると案の定、こいしの姿はかき消えている。
階段を上って廊下にさしかかると、自室のドアの前で子犬が尻尾を振って出迎えた。
「まだ、ご飯の時間じゃないと思うけれど。……ずっと待っていたの?」
ドアと床の隙間に鼻を押し付けたりしているから、部屋に入れて欲しいのかもしれない。抱き上げたさとりの指のにおいをしきりに嗅いでいた子犬が不意に顔を上げる。もこもこと毛が隆起した額の下から黒い瞳がのぞいた。
「あなた、どうして――」
今度こそ、さとりは確信した。
ドアが隙間をつくると、風の流れが襟元を冷やす。子犬が身をよじり、さとりの手を逃れる。
子犬が部屋の奥へ駆け出した途端、鏡台のあたりでわだかまっていた影が動き、開け放していた窓から外へ飛び出した。
怨霊だ。部屋に入り込んでいたらしい。別に珍しいことではないが、管理がなっていないと燐に苦情をつけてもいいかもしれない。と、子犬が窓際に置いた椅子にひょいと飛び乗った。
「あ、待ちなさい!」
さとりの呼びかけは、遅れて椅子のがら空きになった背もたれを叩いただけだった。肘掛けを軽々と踏みつけ、子犬もまたバルコニーの向こうへと消えていった。
あわててバルコニーの手すりから下を覗くが、薄くもやのかかった中庭はがらんとして、地表の黄肌がむきだしになっているばかり。子供とはいえ妖怪である以上、この程度の高さならば平気なのだろうが、ひとまずさとりは胸をなでおろす。
窓を閉めて振り返ると、ベッドの上に置いた絵が目に入った。戸棚にしまわず部屋を離れたことは、これまでなかった。
つまり子犬がこの絵に近づいたのは、ベッドに駆け上がった今このときがはじめてのはずなのだ。あんな一瞬で、しかも興味のなさそうな対象に気づいたか疑問ではあるが。
ならばどうして渦巻く青が、そしてそこから連想するように森や街や海が、あの犬の中に見えていたのだろうか?
腕の中で黒光りする瞳を、こわごわとさとりは思い出している。
夜が更けて霧は晴れた。
そろそろペットたちの食事を用意してやらねばならない。根が生えたように座り込んでいたベッドから、体を引き剥がし、さとりは階下に向かう。
鼻歌が聞こえた。こいしかと思えば、食材をたくわえた部屋から軽い足取りで出てきたのは空だ。
肉の腸詰めをくわえ、壁にかかる燭台にじゃれるようにゆるやかにジャンプしながらやってくる。
燐や空は変化できないペットたちと違い、自分たちで食べるものを用意する。とはいえこれはいささか行儀が悪い。注意してやろうと廊下の角で待っていると、不意に空の心が見えた。
子犬がそこにいる。
空が腸詰めを一口噛みちぎる。記憶の中の彼女の眼差しは、駆けてくる子犬を見おろしている。さとりの部屋を飛び出してそのまま来たのか、ふよふよ漂う怨霊をめがけ、その上を飛ぶ空に気づく様子もない。幾重にもひだになって重なった、炎と熱の冷え固まった谷底をおぼつかなく走り抜け、真っ直ぐに火焔の地獄が口を開けた、穴の淵へ、ただひたむきにやってくる。
空の目線はほとんど揺るがない。どこか、楽しむような心境が繰り返されている。あたりの空気は張り詰め、地獄跡が開放されていることをさとりに伝える。このまま進めば、飛ぶこともできない無力な子犬はころげ落ちて、火に触れることもなくかき消えるだろう。
それなのに、空はじっとしている。このまま放っておいたらどうなるのだろう? という今度は明確な好奇心が浮き出て、ただ今の空の食欲と混ざり合っていく。
「あれ? さとり様」
何度目かのジャンプのてっぺんでさとりに気づいた空が、羽を広げてゆるやかに降りてくる。無邪気な瞳がくりくりとさとりの全身を観察する。
「ねね、さとり様。心読んでますよね」朗らかな喜びを頬に浮かべて空は詰め寄ってくる。「じゃあ、私が美味しいって感じたなら、さとり様も同じように美味しい思いが出来たりするのかなって。これってなかなかアイデアだと思いません?」
いきますよー、などと言いながら腸詰めにかぶりつく唇。油にぬれて光っている。
「おくう、あの子は」
「え?」
貪婪な獣の本能がぐっと盛り上がり、呼応するようにしてぐるりと反転した視界を赤銅色の地獄の底が舐める。熱を受けて束の間勢いを取り戻した怨霊が青白い尾を引いてすれ違う。
次の瞬間、空の意識はごっそり切り替わり、さとりへの感情で埋め尽くされた。
子鴉のような、甘えとかすかな不安と。
さとりは踵を返した。
「さとり様?」
後ろ手をひらひら振って、なんでもないと安心させるつもりで。空は追ってこなかった。ゆっくり階段を上がり、長い影の落ちる廊下を踏んでいく。
――心が見えるなんて。
実はただの思い込みなんじゃないか。それは違う、そんなことは考えていない。そう否定してもらえれば片がつく、他愛ない子供だましなんじゃないのか。
繰り返し願ったのは、どのくらい昔のことだったろう。
自室を締め切って、さとりは窓際の椅子にかけていた。布にくるんだ絵を膝にのせて、赤みを帯びた遠い荒れ地の端を眺めていた。
子犬が焼けてしまったのだとしても、空を責めようとは思わなかった。責めれば、空に弱さを知られてしまうだろうから。
包みから絵を取り出そうとした指に、小さな痛みを感じた。よく見れば、青い画面の右肩へと走る橙色の筋から、何かが突き出している。
何度か指でつまんで、どうやらそれが紙片の角らしいことがわかる。方形のやや厚めの紙が、絵の具に塗り込められているのだ。
引っ張っても剥がれそうにないので、さとりは手近のペーパーナイフを取り、紙片に重なる部分の絵の具を慎重にこすり落としていく。
カラカラに乾いた絵の具は非常に硬かった。青と橙の削りかすが、さとりの膝の上に積もっていく。
はじめは、別の小さな絵が貼り付けられているのかと思った。
おぼろに見えてきた陰影は、人の輪郭に似ている。膝に手をやり、ゆったり座って、けれど表情も服装も、それ以上薄くならない絵の具の層に阻まれて、判然としない。
長い髪のシルエットから、女性であるらしかった。そしてさとりは、紙片が絵ではなく、写真というものであることに気づく。
ついこの前地上への風穴から落ちてきた、天狗の新聞を飾っていたものなどとは違う、ずっとずっと古い写真だ。
青を切り取る四角い枠に、そっと指を這わせたとき、さとりの心臓の真上に浮いた「眼」が、ひとりでにぶるりと震えたように感じた。
確かめる暇すらなかった。急速に力の抜ける体を折り曲げ、絵を抱え込むようにしてさとりはうずくまる。
つるりと落ち込んだ。
洞窟そのもののような濃い闇の底を、さとりはゆっくり歩いていく。足裏に硬い感触をとらえていても、天も地もまるで見透かせない。体がすっかり溶けて、足音だけの存在になったかのようだ。
何度目かに見回した目に、淡い光が届く。
それと認識したところで、足元の感触に柔らかく乾いた草の感触が混じる。見上げると、弱弱しい星の光が、網目になった漆黒の向こうにある。どうやら、深い森の中にいるらしい。そしてほどなくたどり着いた明かりの出所は、古びて蔦の這い回る出窓だった。
ガラスに手をついて覗き込む。黒々とそびえる壁には他にも窓があったが、明かりがついているのはそこだけだった。
窓際に置かれたランプがゆらゆらと炎を揺らしている。ランプが置かれているのは広いテーブルで、部屋の奥は薄闇に覆われている。住人らしい姿も気配もない。
テーブルの上にはところ狭しと物が積み上げられている。読みかけらしく開かれた本、黒びかりする万年筆。端の欠けたコーヒー・カップに、棘だらけの植物の鉢植え。木彫りの人形、地上の――熊といったか、それを模した縫いぐるみ。
それらを取り巻くように動いているものが、とりわけさとりの目をひいた。楕円を描いて小物たちを閉じ込めているでこぼこした道の上を、ゆっくりこちらを目指してくるものを、さとりははじめ、縦に並んでやってくる鼠の群れかと思った。
目の前を過ぎるそれは、どうやら生き物の類ではないとわかる。赤い屋根に白壁の、細長い家のようなものを引く先頭は、鉄骨を組んだ甲虫のような外観で、足の先についた巨大な車輪を、せわしなく回している。
本の挿絵でなら見たことがある、とさとりは思い至る。汽車とか、鉄道とかいうものだ。地上の外の世界では、こういったものに大勢の人間が乗り込んで、旅をするのだという。
もう一度、律儀にその姿が、楕円の遠い端にやってきたところで、可愛らしい客車の窓にランプの明かりがきらめくのに、さとりは素直なあこがれを感じた。乗ってみたい、と思った。
どうしたことか、思った途端に列車の窓が広がる。その前にあるはずの出窓の枠すらはみ出して、さとりの鼻先まで迫って、気がついた。窓と思っていたのは、金色の取っ手がついた古めかしいドアだった。
取っ手をつかむと、複雑に折りたたまれるようにしてドアが引っ込んでいく。
目がくらんだ。狭い天井は、奇妙にのっぺりした白い光で満ちている。光源がはっきりしないその明かりは、さとりに言い様のない不安を感じさせた。
狭い?
いや、さとりの立つ床は決して狭くはない。わずかな隙間から、壁についた窓を過ぎる外の風景が見えた。雲のように巨大な白い放物線は、遠ざかるにつれてさっき見たコーヒー・カップだとわかる。
うおっほん!
どこかわざとらしい咳払いとともに、目の前に立ちふさがった膨らみが波打ち、さとりは気づいた。さとりの背より頭ひとつぶん高く、周囲を取り囲んでいるものが何であるのか。
人間だ。もしくは、人の姿をした妖怪だ。
心を持つものの群れだ。
心を読めばその正体はわかるだろう。一様にさとりに背を向けた彼らの背後には、同じような背格好の存在がまたひとり。その後ろにもひとり。その後ろにも、また。
信じられないほどの数だった。地霊殿の廊下ほどの幅の床に、ありえないほどのヒトガタが、誰も彼も同じような姿勢でうつむき、それぞれぴったり密着して、ただ立っているのだ。
思い出したように、足元がごとりと揺れた。背中に硬い衝撃が伝わる。
「あら。ごめんなさいね」
沈んだ声が耳を叩く。振り向くと、髪を長くたらした女がさとりを見下ろし、鞄を肩にかけなおす。寒々とした天井の白を背にして、表情はまるでうかがえない。
彼女の声をきっかけに、囲んでいる数人がやはり振り向いて、さとりへと顔の影をさらす。その後ろの人影も、のろのろ同じ動作を始める。その後ろも隣も、そのまた後ろも、ゆっくり開く薄闇色の花びらのように、繰り返す。
やがてすべての顔が、さとりをめがけて花開く。すべての視線が、立ち並ぶものたちの後頭部をつきぬけて、さとりに注がれる。
また客車が、ごとりと揺れた。
「覚りの眼」を掲げようとする、連結する管の弱弱しい動きに気づき、さとりはうろたえた。
――やめて。今見てはいけない。
こんなにたくさんの心を一度に向けられたら。経験がない。怖い。見せないで、私に。向けないで、心を。
どこかで誰かがくすりと笑う。無我夢中で包囲を押しのけようとしたさとりの肩は、石垣にでもぶつかったかように跳ね返された。
よろめくところに、注がれる。
(関係ない)
(関係がない)
(あなたと私とは関わりがない)
(俺はあんたのことを知らない)
(交わらない)
(生まれて死ぬまで、なんの縁もない)
そのくせに、すべての意思はがっちり足並みをそろえ、さとりの四肢にからみつき、どこまでも執着しようとする。
やめて。もう到底、おさまりきらない。このままでは、私は。
(この世の果ての果てまでさまよっても、その手には、一本の藁さえ掴むことはできない)
丸く切り抜かれた床に膝から崩れ落ちる。意識の絶える間際、後ろからさとりの手を握った女は、絵に塗り固められていた写真の人物によく似ているようだった。
「だからせいぜい、描き続けることしかできないのよ」
最後に聞こえたのは、嗚咽にも似た嘲笑だった。
赤らめたこめかみに幾筋も汗をしたたらせた妹が、さとりと色違いの「眼」を握り締めている。
顔についた目と同じく、その瞼は祈るように強くひき結ばれている。彼女が何をしようとしているのか、さとりにはすぐにわかった。
「よしなさい、こいし。私は大丈夫だから」
ばさばさと乱雑な音をたて、空がさとりの視界にさかさまに現れる。
「さとり様! よかった気がついた!」
「お姉ちゃん、もう……。びっくり、させないで、よね……」
あっけにとられていたこいしは、思い出したように荒い息を吐いて、さとりの横たわるベッドに突っ伏した。
明かりの落とされたさとりの部屋は、薬草や香を炊いた匂いで満ちている。妹とペットたちがさとりのため手を尽くしたことが知れた。
「どのくらい?」
伏せたままのこいしが指を立てる。「まる一昼夜。寝てるのかと思ってたら、いくら呼んでも反応ないし、体がどんどん冷えていくし。……もう。私、疲れたよ」
「ごめんなさい」
薄緑のこいしの髪は滅茶苦茶に乱れている。手を伸ばしかけたとき、ドアが乱暴に開いた。
「見つけたよ、おくう! たぶんこいつだ、さとり様の部屋を覗いてたやつは!」
尻尾やら編んだ髪やら耳やら、あちこち尖がった様子の燐がなだれ込んでくる。だらしなく椅子にへたりこんでいた空が腰を浮かす。
左の手に、さとりは熱を感じた。ベッドの脇に置かれたナイトテーブルから、ぼんやり燐光をまとって浮き上がってくるのは例の絵だ。同時に、燐が周囲に浮かばせていた怨霊の一体がそっくりの光を放ち、身をくゆらせる。
「あ、待ちなっ!」
燐があわてて床を蹴る。絵を掴もうと身を起こしたさとりの前に、空の黒い翼がひるがえった。
「やっぱり、こいつが原因なんだ。さとり様、あとでいくらでも叱っていいですから!」
六角の棒を掲げ、両足に異なる鐙をはめて空は完全武装だ。ひねるようにその腕が宙を薙ぎ、紅蓮の火の玉が絵を中心に生まれる。吹き上がる風に髪を押さえてこいしが、素早く障壁を張って熱を防いだ。
過程すら見せずに、跡形もなく青い絵は業熱に融ける。
「あっ」
燐と空が同時に叫ぶ。ひととき部屋の真ん中に立った火柱の前で一瞬たたらを踏んだ亡霊が、意を決したようにそこへ飛び込んでいったのだ。
束の間勢いを吹き返した炎は、やがて力を失い、うす青い火の玉になって、どんどんしぼんでゆく。その周りに、空洞のように穏やかな闇が広がってゆく。
あとは時間の問題だろう。
「寝ているさとり様、ずっと苦しそうだった。私、気が気じゃなくって」
はかない光を頬に受けた空は、ぼろぼろと涙をこぼしていた。音もなく燐が、その傍らに立つ。
「心を読めるって、つらいんですか? 私にはよくわからないけれど。心って、そんなに恐ろしいものなんですか?」
「おくう」
「さとり様が怖いのなら、辛いのなら、この世のすべての心という心を、私が喰らってあげます。全部、ぜーんぶ、私の熱で溶かしちゃいます。だから」
(元気でいてください)
震える雄大な翼を、さとりは指の腹で撫で付けた。
「それは違うわ、おくう」
振り向いた土砂降りの顔を、さとりは胸元に抱きかかえた。懐かしい日差しを思わせる匂いは、皮肉なことに核の力がもたらしたものなのかもしれない。
顔を上げさせて、さとりは空としっかり目を合わせた。覚る力のない相手なら、ちゃんと言葉で伝えなくてはいけない。当たり前のことなのに、忘れていたような気がする。
「心というのは大きいの。ただ一人分の心だけでもね、とっても広くて深いのよ。たとえあなたの力でも、溶かしきれるものじゃない。どんな強力な妖怪でもね、一人で抱え込めるものじゃないのよ。だいたい、既にあなたの心で一杯なところに、誰の心が入り込めるっていうのかしら?」
「でも」
「もしも、心と同じくらい大きなものがあるならば、それはあなた。あなたの名前くらいね」
涙のしたたる鼻先を指で軽くはじいてやると、疑問符を沢山思い浮かべたまま、空は照れくさそうに笑った。
「消えていくよ」
燐とこいしの見つめる先で、青い炎は壁掛けランプぐらいに縮まっていた。
履物を脱がされていたさとりの足に、ふわりと絡みつくものがあった。かがみこみ、さとりは子犬を抱き上げる。
「お前、無事だったの」
空と目を合わせた子犬の中に、おそらくは地獄跡の淵で、差し伸べられた手と黒い翼、ふて腐れたように横を向く空の姿がかすめた。
やせ細った炎は一切の抵抗を見せることもなく、上下に引かれた糸となってぷつりと消えた。哲学者の最後の思索のような長い長い煙が立ちのぼり、熱風がこじ開けた窓に向かって、ゆっくり流れていく。
さとりの手を抜けて、子犬は静かに歩き出した。
「送っていくのね」
声をかけると、子犬は短い首を曲げてさとりを顧みた。バルコニーの手すりに乗り、霧散してゆく煙の行く末を見やって、宙に飛び上がってくるりと一回転すると、その姿は見えなくなった。
油を燃やしたようなにおいも薄れ、開いた窓が風に蝶番を鳴らすばかり、赤い影が交差する天井が、いつもより広く感じられて静まり返るのを、ベッドの傍に寄り添った四人は、黙って見上げているのだった。
尖塔を渦巻いた風が、錐を回すような音をたてる。たぶん気のせいなのだろうが、地上との行き来が再開して以来、地底を吹く風の流れも変わったように思える。
中庭の真ん中に、さとりは用意してきたペットたちの食事を置く。とたんに、寂れた荒地の隅々でざわめきがはじまる。
立ち上がり髪をかきあげる。すると、可愛らしい靴先がさとりの面前ににょっきり突き出された。
「主自らお出迎えとは、殊勝殊勝」
中庭に置かれた岩の上に小鬼はぺたりと着地する。さとりの足元に集まっていたペットたちが後ずさり、またじりじり戻ってくる。
「あきれたわ。もう呑んできたの」
「下の町でね。勇儀と会ってさ。今日は勇儀も来るって。後からちょいとのぞきに来てみるってさ」
赤ら顔で愉快そうに、萃香は腕をぐるぐる回す。「宴会やろう」などと、めずらしく事前に燐を介して言付けてきた裏には、それなりの腹積もりがあったのかもしれない。
「そう。うちのお酒、足りるかしらね」
「出迎えついでに買ってくればいいじゃん。主自ら」
「中庭で客を出迎える主って、おかしくないかしら」
「あの犬、いないじゃん」
片膝を立てて岩に座り、芝居がかった身振りで萃香は睥睨する。すっかり警戒をといたペットたちは、各々皿を舐めたり突っついたりしている。
「そうね。あの子は仕事中」
「へええ。まだちっちゃいのに偉いもんだ」
数日過ぎても、子犬は戻ってこなかった。
送り犬という妖怪は、「もういいよ」「ありがとう」などと言われるまで、どこまでも相手を送り届けるともいう。
いつどこで交わされた約束が、子犬と怨霊を結びつけていたのだろう。絵そのものだけではなく、絵の見せた風景までも、子犬は記憶しているようだった。
なりは子供だったが、実のところずっと前から探し続けていたのかもしれない。
もしまた帰ってきたなら、名前をつけてやろう。さとりはそう心に決めている。
「ねえ。この前あなたに聞いたこと、覚えてる? 私、なんとなく答えがわかったような気がするのよ」
館へ向かいかけた足を止めた萃香は、明らかに思い出すのを嫌がっている。
嫌がるくらいに、思い出している。
「なんのことよ」
「仲間たちと離れて、あなたが地上へ出ていったわけ」
「覚りのあんたが、なんとなくわかった、なんてのも可笑しな話だね」
観念した顔で、誤魔化そうとしている。
「あなたは強欲なのよ。どこに居ても、すっかり満足することがない。地底にも飽きたし、地上も刺激が足らないんでしょう。ずっと寂しがってる。でも寂しいから、自分だけの夢がもてるのね。いつかきっと」
「おっと、そこまで」
姿が煙ったように見えて、瞬きしたさとりの右も左も、手のひらサイズの萃香がわあわあ叫びながら次々と飛び抜け、館への入り口に殺到していく。
(そう簡単には、読ませてあげないよ、と)
柔らかな感触を残して、頬に触れていったしんがりが、そう告げた気がした。
橋姫に土蜘蛛、それに一戦まじえて以来の地上の巫女までも勇儀は連れてきたから、その夜は地霊殿はじまって以来の大きな宴となった。
料理など、さとりや燐だけでは到底手が回らない。肉や果物をほとんどそのまま並べる羽目になったが、酒が目当ての面々にはどうでもよかったらしい。見かねた橋姫が調理場に入ってくれて、広間との往復からようやくさとりは解放された。
喧騒を抜け出して、門前の荒れ野をぶらりと歩く。火照った頬が、穏やかにそよぐ風の穂先に涼む。
大勢の中で心を読むのは、まだ少し怖かった。いずれまた平気になると、わかってはいても。
あの後、さとりは絵の見つかった部屋を片付けてみたが、手がかりになるようなものは何も見つからなかった。絵の見せたイメージも、夜の夢のごとく、どんどん記憶から抜け落ちていく。
怨霊は絵描き本人だったのか。写真の女性だったのか。そのどちらでもなかったのか。
さとりにわかるのは、ただひとつだけだ。
絵の心などではない。やはりありふれた、変わり映えもなく生きて死んだであろう、心を持つなにものかの思い出に、さとりは重なったのだと。
覚りの妖怪として、いつもどおりに。
「さとり様ー」
追加の酒を買ってきたらしい燐が頭上を越えていく。さとりは手を振ってねぎらった。
やがて館の窓から歓声があがる。
絵を描いてみようか、と。このところの思いつきの天秤に、今またさとりは実行の錘をひとつ加えた。
絵筆を握る妖怪なんて、やはりどう考えても滑稽だったが、どうせ地底の疎まれ者、そんな輩が一人くらいいてもいいだろう。
何を描こうか。どこで描こうか。そもそも絵の具をどうやって手に入れればいいのか。そういったことを考えるのが、少し愉快だった。まるきり読めない心を相手にしているようだった。
それでも、はじめに筆にのせる色だけは、もう決めているのだから。
<了>
ところどころで、イメージがしづらいところがあったのは、私の読解力不足なのか、それとも別の理由からか。
でも、読み終わっていい気分になれました。
ありがとうございました。
狙いなのかどうか目的語がよくわからない部分があり、ちょっと読みにくさを感じました。
でも地霊殿一家の絆とさとりの葛藤が印象的でした。
おくうが非常に「らしくて」よかったです。
>ところどころで、イメージがしづらいところがあったのは
>狙いなのかどうか目的語がよくわからない部分があり
このあたりのご指摘、とても考えさせられるところがありました。
自分の我侭やら執着やらと折り合いをつけたり、あるいはもっと噛み砕いたり、もうちょっと上手く出来るようになりたいですね。
>読み終わっていい気分になれました
>おくうが非常に「らしくて」よかったです
嬉しいお言葉、励まされます。
おくうは、書きながらどんどん好きになっていきました。今回の大きな収獲であります。
お読みくださったほかの方々にも、この場を借りて感謝いたします。
気の利いた言葉が思い浮かびませんが、個人的に気に入ったところ
>飲み食いする口の代わりににぎやかに断想が飛び交うテーブルの上で、心を閉ざした妹は輪郭をともなった暗闇のようだった。
さとりの目から見たこいしの、希薄な存在感の書き出し方が鮮やかで、見事だと感動しました
この物語はこの文体でなければ成立しないなあというのが正直な感想
終始過不足ない描写、絶妙のバランスで書ききられた、とても美しい物語だと思いました
ただ、送り忠犬が良かったとだけ。
大好きです。
創想話にはもっと多くの人に読まれてもよい話が山とある
良作ありがとうございました。