香霖堂は昼下がりに「らしさ」を醸し出すことが多々あると僕は密かにそう思っている。
朝は妙に明るすぎるし、
夕方西日が差し込む頃は、いやにセンチメンタリズムが強調されてしまう。
その点昼下がりは実に良い。
文々。新聞とコーヒーを用意してアンニュイな午後を過ごすには最適である。
もっとも、かの新聞は発行が非常に不定期なのが玉に瑕だが。
かれこれ一週間、あの天狗の少女はここを訪れていない。
新聞が無いならないで他の楽しみ方もあるのだが、
やはりあってくれるとなんだが嬉しいものだ。
そんな事を思いながら古書を捲りやや冷めた紅茶を啜っていると、
からん、からん、という音が聞こえた。
来訪者のようである。
僕は声をかけるのをためらった。
相手が客であるかどうかは、現段階では定かではないのだ。
残念ながらここ香霖堂には客以外の連中が頻繁に訪れては暴れてゆく。
今回もその類ではないかと勘ぐってしまうのも当然のことである。
はてさてと顔を上げてみると、珍しい顔であった。
左手で揺れる髪をおさえて入ってくるその少女は、紛れもなくお客様である。
「いらっしゃいませ。今日はどのような御用向きでしょうか」
挨拶を聞いて、少女は、ああ、と人好きのする笑みを浮かべた。
「ちょっと欲しいものがあって――それにしても、ここって暑いくらいにあたたかいのね。
体をあっためたいし、少しだけ店の中のものを見ても良いかしら?」
どうぞ、と許可を出して僕はまた本に視線を戻す。
少女はどうやらこの店の商品たちに興味を持ってくれたようである。
それにしても、マフラーといい手袋といい、重装備だ。
服装と先程の言葉から推すに外はよほど寒いのだろう。
ずっとストーブを炊いていたのでさっぱり分からなかった。
このように季節感を排斥するような事をしているとあの妖怪少女がいい顔をしないので、
ごまかしのためにも少しは自重するべきかもしれない。
あの子を騙し通すのは至難の技だろうし、そのような無理を通してまでストーブの恩恵を受けようとも思わない。
少女ははじめ古書の方に視線をやっていたのだが、すぐに調度品へと興味を移した。
それも仕方のないことかも知れない。外の本は小説でもない限りよく分からない内容のものが多いのだ。
それを解説するのも僕の仕事であり、魔理沙や霊夢にはその解説は概ね好評を博している。
「あれっ……」
少女が店内をぶらつきはじめて十分は経っただろうか、
彼女はやや小振りなトランクケースを持ってカウンターの前に来た。
「お気に召しましたか?」
尋ねると、少女はそうではないけれど、とやや申し訳なさそうな顔をした。
しかし僕としては幸甚である。
そのケースには新調した予備のティーカップが入っているはずだ。
何かがあった時のために買っておいたのものだ。
しかし、と僕は思う。
購入の意志がないにも関わらずわざわざ店主である僕のもとに持ってくるとはどういうことだろう。
少女はトランクケースのふたを開きながら言う
「これってどう使うのかしら。ちょっとよく分からなくて」
よく分からないも何もない。
それの中身はただのティーカップだろうに。
そう思って身を乗り出し、そして愕然とした。
思わずデジャヴを覚えてしまうその光景。
ティーカップは粉々に砕け散ってしまっていた。
辛うじて底の部分が残ってはいるが、これでは優雅なティータイムは楽しめまい。
しかし、以前の経験がある僕は冷静だった。
そもそもこの予備のカップはその経験を生かして購入したものなのだから。
「そのケースの中に何か紙切れが入ってはいませんでしたか?」
尋ねると、ああ、と少女は手を打った。
「何か落書きが入ってたから妖精の悪戯かもしれないとも思ったけど……」
そう言ってポケットの中から一枚の紙を取りだして、ひらりと広げてみせた。
半紙ほどの大きさのそれには、太い字で三文字「すまん」と書かれていた。
思わず、頭を抱える。
「成長が無いのか、あの子には!」
そんな僕の様子を見て全てを悟ったのか、少女はくすりと手を口元に当てて笑う。
「なんだ、やっぱりただの悪戯?」
「いいや、ただの悪戯なんかじゃないよ」
首をゆっくりと左右に振り、紙を受け取り、立ち上がった。
「たちの悪い悪戯だ」
そりゃ分かるけど、と笑みを苦笑に切り替えた少女をよそに、
僕は瞬間接着剤を取り出して、トランクケースにべったりとその紙を貼り付けて、
店の入り口からよく見える場所に置いた。
今度店に入ってきた時の魔理沙の顔が見物である。
今日という今日は許すものか。
今まで甘い顔をしてきてやったが、それが続くと思ったら大間違いなのだ。
しかし、今の気分とお客様は別問題だ。
さて、と椅子に腰掛けて少女を見やる。
「それで、御用向きは?」
ああ、と彼女は思い出したように顔を上げて苦笑した。
「見物に夢中になっててすっかり忘れてたわ。
素敵なお店ね、店主さん」
「そう言って頂けると道具屋冥利に尽きます。
この時間帯は特に素晴らしいのです」
それは得をしたわね、と少女は小さく笑った。
やや世辞臭くはあったが、それでも同意してくれたようで重畳だ。
「で、頼み事なんだけど……」
「ここは道具屋ですが」
「揚げ足取らないでよ」
今は道具屋のくせに異変解決を請け負う黒くて白い魔法使いが居る時代だ。
これは揚げ足取りではなく立派な断りだと説明しようとしたのだが、
どうでもいいと一蹴されてしまった。
「で、頼み事なんだけど」
しきり直し、少女は一枚の布きれを取り出した。
いや、どうやら布きれではないようである。
これは恐ろしく精巧に作られた小さな服だ。
やや技巧に走っている感は否めないが、
概ねシンプルで嫌味のないこざっぱりとした意匠である。
「立派なものですね」
「そう? ありがと」
少女はやや満足げに笑い、しかしすぐに不満げな表情になって続ける。
「それでこの部分なんだけど、見てくれるかしら」
少女の細い指が服の一部分を指し示す。
はじめ何の事を言っているのか分からなかったのだが、
注視してみると、そこにぽつりと褐色の染みがあることに気が付いた。
「とれないのよ」
残念そうに少女は言う。
それはそうだろう。
乱暴に洗えば素地が痛むし、
かといってこれだけ濃い染みならば生半可な洗い方では落ちまい。
「色々自分なりに調べてみたんだけど、
やっぱり素直に尋ねてみるのが一番かな、と思って」
ずいぶんと謙虚な子である。
そういえばこの子は魔法使いだったか。
大抵の子は引きこもって他人に頼ろうなどとはしないものだが
知識を外に広く求めることを躊躇しないこの子には展望がありそうだ。
それともやむにやまれずここを訪れただけであろうか。
なんとなくだが、後者の可能性が高い気もする。
「ふむ、少々お待ち下さい。良いものがありますよ」
衣類関連には僕も少々うるさい。
当然洗剤についても深い知識理解をもっているつもりである。
適当な棚をがさごそとあさり、その中で唯一ほこりを被っていない容器を引っ張り出した。
これは、と尋ねる少女に対し、うむ、と頷く。
「これは、合成洗剤という外の道具にヒントを得て作った僕のオリジナルの洗剤だ。
正直外のものより数段汚れ落ちが良いと自負している」
へえ、と少女は胡散臭そうな視線を向けてきた。
致し方あるまい。
いきなりラベルもなにも張っていない容器を持ってきて、どうだ、と言われても、
ハイハイそうですかすごいですね、と頷く客はそうそう居やしない。
たまに居ることには居るが、その時は運が良かったと笑うだけである。
なので、まずは実例を見せてみるのが良いだろう。
「では、まずこの汚れを落としてみせようか」
「本当に大丈夫なの? 水は要らないのかしら」
「必要ないよ」
僕は笑い、ハンカチを取り出してそれを溶液で十分に湿らせた。
そして、とんとんとん、と何度か軽く服の当該箇所を叩く。
まず染みはじわりじわりと滲みはじめ、
それから段々と薄くなり、
驚く少女の目の前で、瞬く間に綺麗さっぱりぬぐい取られてしまった。
「いかがですか?」
ハンカチをひらりと広げて笑ってみせる。
彼女は服を見て、染みのあった箇所を見て、そしてハンカチに目をやり、
最終的に手品でも見せられたかのような曖昧なぽかんとした表情になった。
「完璧に、汚れが落ちてる……」
ああ、と首肯する。
「汚れを落とす事自体は簡単だったのだけどね。
むしろ、今までのは落ちすぎて困っていたのさ。
汚れどころか服本来の色まで落としてしまうような強力な代物を
どうやって都合良く扱えるかと試行錯誤した結果が、これさ」
そう言って、ひらりとハンカチを振って彼女の注意をそこに集める。
「見てごらん。これに汚れが移っているだろう?」
ハンカチの溶液を浸した部分の一部には、きれいに先程の染みが移っているはずであった。
見ずとも分かる。それは絶対だからだ。
少女は、ええ、と小さく怪訝そうに頷く。
「確かに移ってるけど。で?」
「それが重要なんだよ」
腕を組み、僕は過去の苦労を思い出しながら語った。
「元々は外の世界の『塩素』とかいう物質……物質? うん、まあ、そんなものだ。
それを使おうとしたのだが、あれは駄目だったね。
色落ちは良いんだが、あんまりにも良すぎるのが問題だった。
どうにもその『塩素』というものには色彩を破壊する程度の効力があるらしく、
以前試しに魔理沙の服をそれの中に突っ込んでみたのだが、哀れなほど汚れのない白色になってしまったよ。
黒い色はどこにも移ることなく、完全に消滅してしまったようだった。目の前でどんどん薄れて、そして消えてしまった。
消毒効果があることが後から判明したんだが、残念ながら有毒なことも引き続き分かってね。塩素洗剤は今ではお蔵入りだ」
それに比べて、と僕は件の容器を軽く叩く。
「この洗剤はそんな半端な代物ではない。
今度僕が着目したのは、『界面活性剤』という奇跡のような魔法の品だ。
名前だけでも何だか凄そうだろう?」
「境界面を活性化する薬剤という意味で捉えて良いのかしら?」
少女の問いに、然り、と僕は首肯する。
「まさに然りだ。
知っての通り、この世の全てのものには境界が存在し、境界が存在するからこそこの世には個々がある。
稜線があるからこそ、山があり空があるようにね。
そして――」
僕はやや興奮気味に続ける。
「先程の君の洋服を思い出してみると良い。汚れがしっかりと付着していたね。
そこには汚れと洋服との間に明確な境界が無い。
洋服の一部が汚れと一体化してしまっている。
つまり、汚れと洋服という二つのものが、汚れた洋服という一つのものになってしまっているわけだ。
そこで、この『界面活性剤』の出番というわけさ」
僕はもう一度容器を持ち上げた。
「先に君が述べたように、この『界面活性剤』には境界面を活性化させる効果がある。
それを使って汚れと衣服を分離させ、分離した汚れは今度はハンカチに付着したというわけだ。
色そのものを消失させる上に有毒な『塩素』と違い、
こちらは汚れを引きはがすものだから布地に与える害も少なく、
更には洗濯の際に力が要らないときた。
先程見てもらった通り、軽くとんとんと叩くだけでみるみる汚れが落ちるからね。
この手軽さは元々の合成洗剤にはない特性だ。
残念ながらオリジナルは僕のものほどまでは使い勝手が良くない。
僕が解釈した『界面活性剤』という概念を水に組み込んだ結果として、
オリジナルよりも良い物が完成してしまったらしい」
ふうん、と少女は容器を見つめ、やや訝しげな表情になった。
「それって、ただ店主さんの解釈が間違ってるってことじゃないの?
間違った解釈で意味を無理矢理抽出するあたりに凄まじさを感じるけど」
それはないはずだと首を横に振って否定する。
「君は外の技術力を過小評価しているね。
僕が述べたような奇跡の代物が外に存在するわけがないと
心のどこかでそう思っているからそんな意見が出てくるのさ。
僕はこの『界面活性剤』の出現により外は格段の進化を遂げたであろうことを確信しているよ。
外の世界の人間たちは研究によって、あの古い妖怪の力を誰でも使える普遍的な物に変えたのだ。
そしてこれは憶測でしかないのだが、恐らく『界面活性剤』には幾つか種類がある。
本当の意味で、
ありとあらゆる全てのものの境界を活性化させてしまう『界面活性剤』が存在してしまったならば、
世界の全てが分解されて崩壊してしまうからね。
それを避ける為に、ある特定の効果を持ったそれが幾つか存在していてもおかしくない。
まったく、恐ろしい道具だよ。それを洗剤なんかに使おうと思う辺りに
外の人間の思考の柔軟性を感じるな。あやかりたいものだよ」
へえ、と少女は感心したように息を吐いた。
「そんなに危険な薬品なのね」
その通りである。
「だから外の世界の人間もこれを御するのにひたすら苦労しただろうし、
未だに戦争に『界面活性剤』が使用されたという話は聞かない。
外の世界で最強にして禁忌とうたわれるのものはABC兵器と呼ばれるが、
恐らくその一段上を行く危険物質が『界面活性剤』であろうと僕は睨んでいる。
なぜならば、それを用いた戦争はあまりにリスキーだからだ。
敵を倒そうとした挙げ句、大地を割ってしまっては自分たちまで被害を被ってしまうからね」
だが、と僕は言葉を続けた。
「これを上手く用いれば幻想郷に革新を起こすことが出来る。
例えば、緩くなりがちな大結界だが、この薬剤を利用すれば間違いなく安定性を増すことが出来るだろう。
問題は、外の世界と完全に分離され、外から人間も妖怪も入って来れなくなることなのだがね」
「へえ。でも、『界面活性剤』の種類についてはまだ全てを特定しきれてはいないのよね」
残念ながら、とそれについては肯定する。
「僕が知っているのはこの洗剤用『界面活性剤』ただ一種類だけだ。
恐らくそれ以外のものは危険性が大きすぎるのだろうね。
きっとあの古くて厄介な妖怪が独り占めしているに違いない。
何せ自分の能力をあまねく全ての人に分け与える薬だ。
彼女にとっては邪魔以外のなにものでもないだろう。
しかし、洗剤用の薬が見つかっただけでも幸甚だ。
僕はそれによって外の世界の恩恵を受けることが出来るのだからね」
さて、と一度大きく息を吐き、尋ねる。
「それでこの洗剤、気に入って貰えたかな?」
ううん、と少女は腕を組んで唸った。
そしてしばらく洋服と洗剤を見比べた後で、
「買うつもりは無かったんだけど……しょうがないわね。興味もわいたし」
苦笑を浮かべ、言い値で買い取ってくれた。
内心狂喜乱舞したい気分だったがそれを強靱な意志力でおさえつけ、僕は努めて冷静に尋ねる。
「ところで、その洋服だがやはり……」
ええ、と少女は頷いた。
それに伴い、さらさらと髪が揺れる。その時、彼女の背中に隠れるようにしている小さな背中が目に入った。
今までずっと上手く立ち回っていたのだろう、はじめてその子が視界に入った。
少女は笑う。
「そりゃ、人形の服に決まってるじゃない。
私を誰だと思ってるのよ」
お客様ですが、と冗談を返し、互いにしばし笑いあった。
その間も人形は少女――つまりアリス・マーガトロイドの後ろから顔を半分だけ出してこちらを伺っていた。
青い無垢な瞳が上目遣いにじっとこちらを見つめてくるので、気が気でない。
この子が弾幕戦で大暴れしているのを僕はとてもとてもよく知っているのだ。
「ん?」
アリスもようやく僕の視線に気が付いたようで、自分の肩の方に視線を動かそうとする。
もちろん人間の首と目の可動範囲でそこが見えるはずもなく、
彼女は自らの手を動かして、そこにいる物を掴んだ。
それはじたばたと暴れたが、アリスにより衆目(といっても僕と彼女しか居ないが)に晒されると大人しくなった。
「何してるのよ、上海……」
呆れたようにアリスが呟くが、人形はなおもこちらをじっと見上げている。
あまり好意的な視線では無いようだ。
ううん、とアリスは顎に手を当てて僕と人形を交互に見やったが、やがて小さく頷いた。
「店主さん、善人に見えないから嫌われたのかも知れないわね」
「へえ」
大して興味はない。
相手は所詮人形である。
「自律」して行動してはいるが、
実はアリスが居なくては動くことすら出来ない
半「自立」の人形であるということを僕は知っている。
「ほら見て。上海がすごく不安そうな目であなたを見てるわ」
「……へえ」
首根っこを掴まれてぶらぶら揺れている上海人形は確かに何か怨念ありげな視線を僕に向けている。
だが、この少女に何が出来るというのだ。
香霖堂の商品を買ってくれるわけでもない。
愛想を振りまく必要もないし、好かれる意味もない。
嫌われようが好かれようがそんな事は僕にとってはどうでもいいのだ。
「あっ、そっぽ向いた」
「……」
故に、完全に明後日の方向を向いてしまった上海人形など、僕は気にもとめていないのだ。
彼女が何をしようとどうでもいい。
人形だって道具だ。道具なんてただの売り物でありそれ以上のものではない。
第一可愛げってものがまるでないじゃないか。
人形というのは人に好かれてなんぼの代物だろう。
こんな役に立たない人形は生まれてこの方初めて見た。
無縁塚にでも捨てられてしまえ。
「もしかして、凹んだ?」
はっとして顔を上げる。
見ると、アリスはまるで童話に出てくる意地の悪い猫のように、にんまりと笑顔を作っていた。
実に不快感極まりない表情である。
「馬鹿を言ってはいけない。
これだけ多くの客を相手にしていると嫌われる事もままある。
この程度で凹んでいては商人失格だよ。
ところで、『界面活性剤』の面白い副次的効果について語っていなかった――む?」
ぽむぽむと、頭を優しく叩かれる感触に、僕は思考の泥沼に嵌っていた意識を浮上させる。
決して焦りに焦って我を忘れていたわけではない。
僕は香霖堂店主森近霖之助であり、あの草薙に認められた男だ。
この程度の些事に心を動かされたりはしない。
さて、顔を上げた先にいるのは申し訳なさそうな顔をした上海人形である。
はてなと首を傾げていると、アリスはくすりと小さく笑った。
「冗談よ。上海があなたのこと、からかってみたかったんだって」
僕はもう一度上海人形を見る。
彼女は慌てて目を伏せた。
そして、アリスに目をやった。
彼女はどこ吹く風という白々しい表情だ。
僕は半眼でアリスを睨め付けた。
「誰が誰をからかってみたかったと?」
「上海が、あなたをよ」
アリスは韜晦するように一笑した。
どう好意的に見ても、けしかけたのは彼女であり、そして操られたのは上海人形である。
しかし、ここでそれを指摘しては空気の読めない人間だと詰られてしまうだろう。
何故ならば、彼女はその表情を以てして言外に自分の非を認めたからだ。
上手い逃れ方である。僕は文句一つ言うことが出来なかった。
「……まあいいさ。用は済んだろう? 家に帰って研究なりなんなりを再開したらどうかな。
魔法使いとて無限の時間を持っているわけではないのだからね」
言われずとも、と彼女は上海人形に洗剤の容器を抱えさせて背を向ける。
実にさっぱりとした子である。
ここを訪れる客の多くはこの後僕との雑談に花を咲かせて、軽く一刻は浪費してしまうというのに。
しかしそれも致し方ないかも知れない。
何せあと数刻もしないうちに日が暮れてしまうのだ。
なるべくはやく家に帰りたいというのが人情だろう。
そして僕もそれを引き留めようとは思わない。
とりあえず立ち去る背に挨拶だけでもかけておこうと本を開いたまま視線だけを彼女に向ける。
結局アリスは一度も振り返らないまま、穏やかに香霖堂の戸を開き――、
ばたんっ、と派手な音を立ててそれを閉じた。
「……」
「……」
アリスは振り返り、そして僕と目があった。
彼女は一度だけ頷き、そして僕もそれに呼応するように頷いた。
アリスは再び扉に手をかけて、そっと開き、また、ばたん、とそれを閉じた。
扉の外は、笑いが零れてしまいそうなほどに真っ白だった。
つい先程までやや西に傾いた日の光が穏やかに降り注いでいた外は、
いつの間にか白銀の世界へと切り替わってしまっていた。
あきらかに尋常の自然現象ではない。
寒気を操る妖怪あたりがこの一辺で一暴れしたのかもしれない。
はた迷惑な話である。
アリスはぱんぱんと服を叩き(あの一瞬だけで服は雪まみれとなっていた)、
そして眉をハの字にして苦笑して言った。
「少しここで雪宿りさせて貰っても良いかしら」
雪宿り。
変わった言葉である。
しかしなかなかどうして情趣がある。
その風流心に免じて僕は頷いた。
「そこら辺のトランクケースを椅子にしてくれて構わないよ。
魔理沙たちはよくそうしている。
僕は本でも読んでいるからくつろいでいてくれ」
アリスは、どうも、とやや疲労の見える笑みを見せ、大きなトランクケースの上に腰を下ろす。
散らかっている店内もこのように使って貰えるのならば本望だろう。
どうせ大抵のものが価値のないがらくたである。
それに価値を見いだす奇特な客が居るからこの商売はやめられないのだが。
さて、と息を吐いて本に目を戻す。
残念ながら昼下がりの気怠い店内の雰囲気は完全に破壊されてしまっている。
あの不十分に差し込んでくる日光のおかげで店内は仄暗く彩られ、
それに対して何とも言えない温かさを感じる事が出来るのだが、
こう雪が酷くてはその淡い光が届くことはない。
これでは少々暗すぎる。日が沈んだ後のようだ。
目を思い切り細めて本の字を追うが、
明かりが足りずに見づらい上に、ハッキリ言って駄文である。
妙に汚れの少ない装丁だと思ったが、
どうやら駄作故に世界に忘れ去られてしまったらしい。
このような本の行く先は香霖堂ではなく他にあるのだが、
珍しい事に巡り巡ってこの店の棚に並ぶ事になってしまったのである。
もっとも、売れる事はないだろうが。
ストーブの上のやかんがしゅんしゅんと音を立てるのが聞こえる。
少し位置をずらしておいた方が良いかも知れない。
しかし、いつの間にか重くなっていた瞼を開いてまで行動する気にはどうしてもなれなかった。
眼鏡を外して本と共に脇に追いやり、そして腕を組んでそれを枕にして倒れ込むように顔を埋める。
駄目だ。妙に眠い。寝不足というわけではないのだが、このような唐突な眠気が襲ってくることがままあるのだ。
これに逆らっても無駄である。従ってこそ安寧と至福が得られるのだ。
客が来た時に、若しくはアリスが帰る時にでも起こして貰えば良いだろう。
そう思って一つ大きな息を吐いて、僕は思考を放棄した。
とん、ととん、と軽快に何かが跳ねる音にふと目を開く。
眠っていたのだろうか。
そうに違いない。両の腕が鈍い痺れを脳に伝えてくる。
これだけ強く腕に額を押しつけて眠ったのだから、跡が残っているかも知れない。
無様だな、と苦笑が漏れる。
ととん、とととん。
叩くように、跳ねるように、音が断続的に響き渡る。
そっと口元を拭ってみる。涎は垂らしていないようだ。
音を立てぬようそろりそろりと首をもたげ、そして眼鏡に手を伸ばす。
そうだ、本があまりにつまらないので眠ってしまったのだった。
僕の正面ではトランクケースに腰を下ろしたアリスが腕を組んで静かに目を閉じている。
眠っていると、まるでこの子そのものが人形のように見える。
いつの間に雪が止んだのか斜陽が店内に差し込み、暗い色調の木の机に光の帯を下ろしていた。
その帯の中では埃が煌めきを放ちながらゆるりゆるりと舞っている。
あるものは下へと、あるものは左右に、そしてまたあるものは上へと。
自由奔放に舞い上がり、舞い落ちている。
そんな素朴な照明のもとで、静かに人形が舞っていた。
いや、舞うなどという技巧的な言葉で表現するべきではないかも知れない。
彼女はただ足を軽く浮かせ、そして下ろし、それにあわせるようにその細い両腕を揺らしているだけだ。
いつの間に着替えたのだろうか、
彼女の身に纏っている衣装は先程僕が汚れを落としたそれに相違なかった。
印象的な青の瞳を静かに閉じ、口許に僅かに笑みをたたえて、
何かを噛み締めるように、彼女は右足で一歩、また左足で一歩。
そして片足でくるりと一回転して、ととんっ、とたたらを踏んだ。
綺麗なスカートがふわりと舞う。
光の粒のような埃がぱあっ、と舞い上がる。
僕はその光景に見入ってしまっていた。
肘を突き、じっと彼女を見ていた事に気が付いた時、軽い衝撃のようなものを覚えた。
柔らかな笑みと共に、一歩。
やはり目を閉じたままにステップを踏み、
スカートを僅かにはためかせ、静かに足と手を動かす。
まるで世界の全てを抱きしめているような。
まるで世界の全てに抱きしめられているような。
そんな幸せを、
些細ではあるがとても柔らかで温かくて、ちょっとだけお節介な幸せを噛み締めているような、
そんなどうしようもなく切なく健気な笑みを浮かべ、人形は舞っていた。
光の帯のただ中で、ただただ静かに彼女は舞った。
夕日の差し入る店内の一番綺麗なその場所で、
少しだけ恥ずかしそうに、少しだけ幸せそうに、彼女は舞った。
今まさに、その場所はこの人形のための場所だった。
この子はただの人形の筈である。
人形はどこまで突き詰めても所詮は人形だと、玩具という名の人の道具でしか無いと、僕はそう信じている。
道具は人に使われて初めてその価値を生じるものだ。
アリス・マーガトロイドは常々次のように言っていた。
自分の意志で自由に行動する人形が作りたい、と。
彼女の側でしか動くことが出来ないとはいえ、今の上海人形は確かに自由意志に則って行動している。
しかし、何故この人形は動くことが出来るのだろう。
いくら半分自分の意志で動くことが出来るとはいえ、
術者からの魔力の供給が無ければただの人形となってしまう筈である。
それこそがアリスが超えようとしている絶対の壁なのだから。
――その疑問に対する答えはすぐにでた。
アリスが僅かに身じろぎした瞬間、上海人形がぴくりと痙攣したのだ。
まさかとは思ったが、それから急に彼女の動きは鈍くなった。
まるでブリキの人形が無理矢理動いているような違和感を覚える。
ぎぎ、という音でも聞こえてきそうなそんな不器用なステップ。
彼女は小さく首を横に振り、そして淋しそうな笑みを浮かべた。
上海人形が動くことができた理由。
それはきっと、無意識にアリスが彼女の行動を許可していたからだろう。
彼女が起きていれば、その許可には必ずアリス自身の恣意が含まれる。
だが、眠っているうちに上海に行動を許可することが偶然にでもあったならば、
彼女は今のように全ての制約から外れて動くことが出来ても不思議ではない。
それは幻想的で、アリスにとっては少しだけ残酷な話かもしれない。
今まさに彼女の人形が自分の意志で行動しているというのに、
アリス自身がその光景を目にすることは出来ないのだ。
そして、上海人形もまた然り。
彼女を動かそうとする限り、たとえ塵のように僅かであるにしても、アリスの恣意は残ってしまう。
故に半自立。故に未完成。
意識を落とす寸前の上海人形は、最後に目を開き、じっとアリスを見つめていた。
そこに恨みの色は微塵もなかった。
感謝と、そしてたくさんの希望を込めた微笑みが、彼女が最後に残したものだった。
膝を折るようにして上海人形は崩れ落ち、ばたん、というやや大きな音が店内に空虚に響く。
「ん……」
その音を聞き、眉根を寄せてアリスはゆっくりと目を開いた。
むにゃむにゃと何度か口を動かして、そして彼女は僕を見つめて微笑んだ。
「寝ちゃったわ」
「そのようだね」
ううん、とお互いに伸びをする。僕自身、目が覚めたばかりである。
背伸びの一つでもしたかったのだが、しかしあのような雰囲気の中でそれを行えるはずがない。
アリスはきょろきょろと辺りを見渡す。
そして、柔らかな斜陽に照らされた、あたたかな机の上に崩れ落ちている自身の人形を見つけた。
自分の膝を見つめ、机を見て、そしてまた僕に視線を向けて、アリスは言う。
「上海に触った?」
僕はその質問に、否と答えた。
彼女の仕草から推すに、きっと上海人形はその膝の上で眠っていたのだろう。
それが机の上に無造作に横たわっていては疑われるのも無理はない。
しかしアリスは何の疑いも抱かずに、しょうがないなあ、と苦笑を一つ零しただけで、
のそのそとケースから腰を上げると机の方へと歩いていく。
そして、光の帯を遮って、そっと上海人形を抱き上げた。
人形のやや長い金紗の髪が、その端正な顔が、そっとアリスの服にもたれかかる。
意識はないはずなのに、何故だろう。まるでアリスに全てを任せているように見えてしまう。
彼女はくるりと一回転して、そして笑った。
それはさきほど上海人形が頻繁に行っていた仕草と全く同じだった。
その笑みだけが、少しだけ違っていたけれども。
上海人形の浮かべていたそれは、諦めと、そして希望をない交ぜにした複雑で繊細な笑みだった。
「ねえ、店主さん」
大切そうに人形を抱きかかえ、アリスは言う。
「私は、人形が自分の置いた場所に居なかった日はその子を『動かす』のをちょっとだけためらう事があるのよ。
今もそうなんだけど……そういうのって、変だと思うかしら?」
人形に自由を与える。彼女の言った『動かす』の意味は恐らくそれであろう。
それは彼女が人形に意志を与えるということだ。
人形はそれによって意志を持ったのではない。
アリスによって意志を持たせられたに過ぎない。
先程おそらくは完全に自分の意志で動いていた上海人形と、
いつもアリスに操られている上海人形。
その間には今光の帯の中を舞っている塵一つ分の差異すらあるまい。
しかし、確かに違いは存在するのだ。
明確に、その境界が存在するのだ。
――あの人形の考えている事など少しも理解できない僕の主観であるため、
それはただの戯れ言に過ぎない可能性も、勿論否定できないが。
ただ、アリスの質問に答えることならば出来る。
魔理沙の口癖を真似るように、口を開く。
「そんなことは、普通だよ」
無愛想な言葉に対してであろうか、
それともはじめに見せていた恭しい態度が今となっては霧散してしまっているのがおかしかったのであろうか、
アリスは口許に手を当ててくすくすと小さく笑った。
そうやって彼女はひとしきりその少女らしい控えめな笑い声をしんとした店内に響かせたあとで、さて、と言う。
「雪もあがったみたいだし……今のうちに帰ろうかしらね」
「そうした方がいいよ。近頃の天気は唐突に変わるからね」
確かに、と苦笑を漏らしてアリスはかつんかつんと足音を響かせて出口へと向かう。
そして扉に手をかけて、ゆっくりと音を立てないように開いた。
外の空はあれほどの豪雪が嘘であったかのように、赤く赤く燃え上がっていた。
そのまま彼女は去っていくのだろう。
僕はてっきりそう思っていたのだが、アリスは最後に一度だけ振り返った。
やはり、自身の人形を胸に抱えたまま、彼女は言う。
「玩具が夜中に動き出すっていうお伽噺――あなたは信じるかしら?」
アリスの質問に僕がどう答えようと、彼女にとっては何の教示にもならないだろう。
あの人形のあの笑みを見れば分かる。この子は誇りのある本物の魔法使いだ。
道具屋である僕が口出しできる事など何も、ない。
故に彼女のその問いは、自分の行いに対する不安からではなく、
ただ単に好奇心から来るものであろうと推測できる。
人形遣いであるアリスの研究に対する道具屋である僕の評価に興味があるのだろう。
それは、なかなか光栄なことである。
僕は視線を彼女に向けて、そして小さく頷いた。
「場合によってはね。君の人形なんかは動き出してもおかしくない」
ありがとう、と。
そう言って背を向けようとした彼女の言葉に覆い被せるように、だから、と僕は続ける。
「だから、見つけてやってくれ」
え、とアリスはきょとんとして振り返った。構わずに続ける。
「きっと夜中に玩具が動くのは、玩具が夜中という幻想の中でしか動けないからだよ。
だから彼女達は自分たちがいきいきと動いているその姿を見て欲しいはずだ。
僕は道具屋だから分かる。
人形達はきっと君に見て欲しいはずだよ。
ありのままの自分というものをね。
君がもし僕と同じようにそのお伽噺を信じる心を失っていないのならば、
人形に本物の自由を与えてやるといい。
きっとみんなして君に感謝してくれると思うよ」
アリスは笑う。
「反抗するかも知れないわよ?」
本気でそうなることもあるだろうと思っているのかも知れない。
いや、むしろ確信しているのかも知れない。
人形とはいえ、心がある。
その人の形をしたものを、この少女は弄んでいる。
もし人形が自由を得たのならば、反乱を起こしても何らおかしくはない。
だが――。
「少なくとも、その上海人形は刃を向けはしないだろうな。
君の寝顔を見ていた時の表情は、まさに母を慕うが如く、だったよ」
ぎょっとして、アリスは上海人形に目をやり、そして光の降り注ぐ机に目をやり、最後に僕を見た。
奇しくも彼女が目を覚ました時の視線の動かし方とそれは似ていた。
まさか、と何か口走ろうとする彼女の機先を制し、僕はにやりと笑って頭を下げた。
「本日はまことにありがとうございました。
またのご来店を、心よりお待ちしております」
その言葉と共に、がちゃんっ、と大仰な音を立てて扉が自然に閉じた。
そして再び店内には沈黙が降りる。
静謐というその二文字がよく似合う店内には一筋の光が差し入るのみだ。
だから夕暮れは嫌いなのだ。
どうにも感傷を刺激する。
しゅんしゅんと、遠くでやかんが音を立てているのが聞こえた。
億劫なのでそれを無視して、僕はまた深い眠りに落ちた。
とん、とん、とととん。
とととん、とんとん。
とん、とん、とととん。
とととん、とんっ。
稚拙なステップの音が、何故かひどく耳に残った。
朝は妙に明るすぎるし、
夕方西日が差し込む頃は、いやにセンチメンタリズムが強調されてしまう。
その点昼下がりは実に良い。
文々。新聞とコーヒーを用意してアンニュイな午後を過ごすには最適である。
もっとも、かの新聞は発行が非常に不定期なのが玉に瑕だが。
かれこれ一週間、あの天狗の少女はここを訪れていない。
新聞が無いならないで他の楽しみ方もあるのだが、
やはりあってくれるとなんだが嬉しいものだ。
そんな事を思いながら古書を捲りやや冷めた紅茶を啜っていると、
からん、からん、という音が聞こえた。
来訪者のようである。
僕は声をかけるのをためらった。
相手が客であるかどうかは、現段階では定かではないのだ。
残念ながらここ香霖堂には客以外の連中が頻繁に訪れては暴れてゆく。
今回もその類ではないかと勘ぐってしまうのも当然のことである。
はてさてと顔を上げてみると、珍しい顔であった。
左手で揺れる髪をおさえて入ってくるその少女は、紛れもなくお客様である。
「いらっしゃいませ。今日はどのような御用向きでしょうか」
挨拶を聞いて、少女は、ああ、と人好きのする笑みを浮かべた。
「ちょっと欲しいものがあって――それにしても、ここって暑いくらいにあたたかいのね。
体をあっためたいし、少しだけ店の中のものを見ても良いかしら?」
どうぞ、と許可を出して僕はまた本に視線を戻す。
少女はどうやらこの店の商品たちに興味を持ってくれたようである。
それにしても、マフラーといい手袋といい、重装備だ。
服装と先程の言葉から推すに外はよほど寒いのだろう。
ずっとストーブを炊いていたのでさっぱり分からなかった。
このように季節感を排斥するような事をしているとあの妖怪少女がいい顔をしないので、
ごまかしのためにも少しは自重するべきかもしれない。
あの子を騙し通すのは至難の技だろうし、そのような無理を通してまでストーブの恩恵を受けようとも思わない。
少女ははじめ古書の方に視線をやっていたのだが、すぐに調度品へと興味を移した。
それも仕方のないことかも知れない。外の本は小説でもない限りよく分からない内容のものが多いのだ。
それを解説するのも僕の仕事であり、魔理沙や霊夢にはその解説は概ね好評を博している。
「あれっ……」
少女が店内をぶらつきはじめて十分は経っただろうか、
彼女はやや小振りなトランクケースを持ってカウンターの前に来た。
「お気に召しましたか?」
尋ねると、少女はそうではないけれど、とやや申し訳なさそうな顔をした。
しかし僕としては幸甚である。
そのケースには新調した予備のティーカップが入っているはずだ。
何かがあった時のために買っておいたのものだ。
しかし、と僕は思う。
購入の意志がないにも関わらずわざわざ店主である僕のもとに持ってくるとはどういうことだろう。
少女はトランクケースのふたを開きながら言う
「これってどう使うのかしら。ちょっとよく分からなくて」
よく分からないも何もない。
それの中身はただのティーカップだろうに。
そう思って身を乗り出し、そして愕然とした。
思わずデジャヴを覚えてしまうその光景。
ティーカップは粉々に砕け散ってしまっていた。
辛うじて底の部分が残ってはいるが、これでは優雅なティータイムは楽しめまい。
しかし、以前の経験がある僕は冷静だった。
そもそもこの予備のカップはその経験を生かして購入したものなのだから。
「そのケースの中に何か紙切れが入ってはいませんでしたか?」
尋ねると、ああ、と少女は手を打った。
「何か落書きが入ってたから妖精の悪戯かもしれないとも思ったけど……」
そう言ってポケットの中から一枚の紙を取りだして、ひらりと広げてみせた。
半紙ほどの大きさのそれには、太い字で三文字「すまん」と書かれていた。
思わず、頭を抱える。
「成長が無いのか、あの子には!」
そんな僕の様子を見て全てを悟ったのか、少女はくすりと手を口元に当てて笑う。
「なんだ、やっぱりただの悪戯?」
「いいや、ただの悪戯なんかじゃないよ」
首をゆっくりと左右に振り、紙を受け取り、立ち上がった。
「たちの悪い悪戯だ」
そりゃ分かるけど、と笑みを苦笑に切り替えた少女をよそに、
僕は瞬間接着剤を取り出して、トランクケースにべったりとその紙を貼り付けて、
店の入り口からよく見える場所に置いた。
今度店に入ってきた時の魔理沙の顔が見物である。
今日という今日は許すものか。
今まで甘い顔をしてきてやったが、それが続くと思ったら大間違いなのだ。
しかし、今の気分とお客様は別問題だ。
さて、と椅子に腰掛けて少女を見やる。
「それで、御用向きは?」
ああ、と彼女は思い出したように顔を上げて苦笑した。
「見物に夢中になっててすっかり忘れてたわ。
素敵なお店ね、店主さん」
「そう言って頂けると道具屋冥利に尽きます。
この時間帯は特に素晴らしいのです」
それは得をしたわね、と少女は小さく笑った。
やや世辞臭くはあったが、それでも同意してくれたようで重畳だ。
「で、頼み事なんだけど……」
「ここは道具屋ですが」
「揚げ足取らないでよ」
今は道具屋のくせに異変解決を請け負う黒くて白い魔法使いが居る時代だ。
これは揚げ足取りではなく立派な断りだと説明しようとしたのだが、
どうでもいいと一蹴されてしまった。
「で、頼み事なんだけど」
しきり直し、少女は一枚の布きれを取り出した。
いや、どうやら布きれではないようである。
これは恐ろしく精巧に作られた小さな服だ。
やや技巧に走っている感は否めないが、
概ねシンプルで嫌味のないこざっぱりとした意匠である。
「立派なものですね」
「そう? ありがと」
少女はやや満足げに笑い、しかしすぐに不満げな表情になって続ける。
「それでこの部分なんだけど、見てくれるかしら」
少女の細い指が服の一部分を指し示す。
はじめ何の事を言っているのか分からなかったのだが、
注視してみると、そこにぽつりと褐色の染みがあることに気が付いた。
「とれないのよ」
残念そうに少女は言う。
それはそうだろう。
乱暴に洗えば素地が痛むし、
かといってこれだけ濃い染みならば生半可な洗い方では落ちまい。
「色々自分なりに調べてみたんだけど、
やっぱり素直に尋ねてみるのが一番かな、と思って」
ずいぶんと謙虚な子である。
そういえばこの子は魔法使いだったか。
大抵の子は引きこもって他人に頼ろうなどとはしないものだが
知識を外に広く求めることを躊躇しないこの子には展望がありそうだ。
それともやむにやまれずここを訪れただけであろうか。
なんとなくだが、後者の可能性が高い気もする。
「ふむ、少々お待ち下さい。良いものがありますよ」
衣類関連には僕も少々うるさい。
当然洗剤についても深い知識理解をもっているつもりである。
適当な棚をがさごそとあさり、その中で唯一ほこりを被っていない容器を引っ張り出した。
これは、と尋ねる少女に対し、うむ、と頷く。
「これは、合成洗剤という外の道具にヒントを得て作った僕のオリジナルの洗剤だ。
正直外のものより数段汚れ落ちが良いと自負している」
へえ、と少女は胡散臭そうな視線を向けてきた。
致し方あるまい。
いきなりラベルもなにも張っていない容器を持ってきて、どうだ、と言われても、
ハイハイそうですかすごいですね、と頷く客はそうそう居やしない。
たまに居ることには居るが、その時は運が良かったと笑うだけである。
なので、まずは実例を見せてみるのが良いだろう。
「では、まずこの汚れを落としてみせようか」
「本当に大丈夫なの? 水は要らないのかしら」
「必要ないよ」
僕は笑い、ハンカチを取り出してそれを溶液で十分に湿らせた。
そして、とんとんとん、と何度か軽く服の当該箇所を叩く。
まず染みはじわりじわりと滲みはじめ、
それから段々と薄くなり、
驚く少女の目の前で、瞬く間に綺麗さっぱりぬぐい取られてしまった。
「いかがですか?」
ハンカチをひらりと広げて笑ってみせる。
彼女は服を見て、染みのあった箇所を見て、そしてハンカチに目をやり、
最終的に手品でも見せられたかのような曖昧なぽかんとした表情になった。
「完璧に、汚れが落ちてる……」
ああ、と首肯する。
「汚れを落とす事自体は簡単だったのだけどね。
むしろ、今までのは落ちすぎて困っていたのさ。
汚れどころか服本来の色まで落としてしまうような強力な代物を
どうやって都合良く扱えるかと試行錯誤した結果が、これさ」
そう言って、ひらりとハンカチを振って彼女の注意をそこに集める。
「見てごらん。これに汚れが移っているだろう?」
ハンカチの溶液を浸した部分の一部には、きれいに先程の染みが移っているはずであった。
見ずとも分かる。それは絶対だからだ。
少女は、ええ、と小さく怪訝そうに頷く。
「確かに移ってるけど。で?」
「それが重要なんだよ」
腕を組み、僕は過去の苦労を思い出しながら語った。
「元々は外の世界の『塩素』とかいう物質……物質? うん、まあ、そんなものだ。
それを使おうとしたのだが、あれは駄目だったね。
色落ちは良いんだが、あんまりにも良すぎるのが問題だった。
どうにもその『塩素』というものには色彩を破壊する程度の効力があるらしく、
以前試しに魔理沙の服をそれの中に突っ込んでみたのだが、哀れなほど汚れのない白色になってしまったよ。
黒い色はどこにも移ることなく、完全に消滅してしまったようだった。目の前でどんどん薄れて、そして消えてしまった。
消毒効果があることが後から判明したんだが、残念ながら有毒なことも引き続き分かってね。塩素洗剤は今ではお蔵入りだ」
それに比べて、と僕は件の容器を軽く叩く。
「この洗剤はそんな半端な代物ではない。
今度僕が着目したのは、『界面活性剤』という奇跡のような魔法の品だ。
名前だけでも何だか凄そうだろう?」
「境界面を活性化する薬剤という意味で捉えて良いのかしら?」
少女の問いに、然り、と僕は首肯する。
「まさに然りだ。
知っての通り、この世の全てのものには境界が存在し、境界が存在するからこそこの世には個々がある。
稜線があるからこそ、山があり空があるようにね。
そして――」
僕はやや興奮気味に続ける。
「先程の君の洋服を思い出してみると良い。汚れがしっかりと付着していたね。
そこには汚れと洋服との間に明確な境界が無い。
洋服の一部が汚れと一体化してしまっている。
つまり、汚れと洋服という二つのものが、汚れた洋服という一つのものになってしまっているわけだ。
そこで、この『界面活性剤』の出番というわけさ」
僕はもう一度容器を持ち上げた。
「先に君が述べたように、この『界面活性剤』には境界面を活性化させる効果がある。
それを使って汚れと衣服を分離させ、分離した汚れは今度はハンカチに付着したというわけだ。
色そのものを消失させる上に有毒な『塩素』と違い、
こちらは汚れを引きはがすものだから布地に与える害も少なく、
更には洗濯の際に力が要らないときた。
先程見てもらった通り、軽くとんとんと叩くだけでみるみる汚れが落ちるからね。
この手軽さは元々の合成洗剤にはない特性だ。
残念ながらオリジナルは僕のものほどまでは使い勝手が良くない。
僕が解釈した『界面活性剤』という概念を水に組み込んだ結果として、
オリジナルよりも良い物が完成してしまったらしい」
ふうん、と少女は容器を見つめ、やや訝しげな表情になった。
「それって、ただ店主さんの解釈が間違ってるってことじゃないの?
間違った解釈で意味を無理矢理抽出するあたりに凄まじさを感じるけど」
それはないはずだと首を横に振って否定する。
「君は外の技術力を過小評価しているね。
僕が述べたような奇跡の代物が外に存在するわけがないと
心のどこかでそう思っているからそんな意見が出てくるのさ。
僕はこの『界面活性剤』の出現により外は格段の進化を遂げたであろうことを確信しているよ。
外の世界の人間たちは研究によって、あの古い妖怪の力を誰でも使える普遍的な物に変えたのだ。
そしてこれは憶測でしかないのだが、恐らく『界面活性剤』には幾つか種類がある。
本当の意味で、
ありとあらゆる全てのものの境界を活性化させてしまう『界面活性剤』が存在してしまったならば、
世界の全てが分解されて崩壊してしまうからね。
それを避ける為に、ある特定の効果を持ったそれが幾つか存在していてもおかしくない。
まったく、恐ろしい道具だよ。それを洗剤なんかに使おうと思う辺りに
外の人間の思考の柔軟性を感じるな。あやかりたいものだよ」
へえ、と少女は感心したように息を吐いた。
「そんなに危険な薬品なのね」
その通りである。
「だから外の世界の人間もこれを御するのにひたすら苦労しただろうし、
未だに戦争に『界面活性剤』が使用されたという話は聞かない。
外の世界で最強にして禁忌とうたわれるのものはABC兵器と呼ばれるが、
恐らくその一段上を行く危険物質が『界面活性剤』であろうと僕は睨んでいる。
なぜならば、それを用いた戦争はあまりにリスキーだからだ。
敵を倒そうとした挙げ句、大地を割ってしまっては自分たちまで被害を被ってしまうからね」
だが、と僕は言葉を続けた。
「これを上手く用いれば幻想郷に革新を起こすことが出来る。
例えば、緩くなりがちな大結界だが、この薬剤を利用すれば間違いなく安定性を増すことが出来るだろう。
問題は、外の世界と完全に分離され、外から人間も妖怪も入って来れなくなることなのだがね」
「へえ。でも、『界面活性剤』の種類についてはまだ全てを特定しきれてはいないのよね」
残念ながら、とそれについては肯定する。
「僕が知っているのはこの洗剤用『界面活性剤』ただ一種類だけだ。
恐らくそれ以外のものは危険性が大きすぎるのだろうね。
きっとあの古くて厄介な妖怪が独り占めしているに違いない。
何せ自分の能力をあまねく全ての人に分け与える薬だ。
彼女にとっては邪魔以外のなにものでもないだろう。
しかし、洗剤用の薬が見つかっただけでも幸甚だ。
僕はそれによって外の世界の恩恵を受けることが出来るのだからね」
さて、と一度大きく息を吐き、尋ねる。
「それでこの洗剤、気に入って貰えたかな?」
ううん、と少女は腕を組んで唸った。
そしてしばらく洋服と洗剤を見比べた後で、
「買うつもりは無かったんだけど……しょうがないわね。興味もわいたし」
苦笑を浮かべ、言い値で買い取ってくれた。
内心狂喜乱舞したい気分だったがそれを強靱な意志力でおさえつけ、僕は努めて冷静に尋ねる。
「ところで、その洋服だがやはり……」
ええ、と少女は頷いた。
それに伴い、さらさらと髪が揺れる。その時、彼女の背中に隠れるようにしている小さな背中が目に入った。
今までずっと上手く立ち回っていたのだろう、はじめてその子が視界に入った。
少女は笑う。
「そりゃ、人形の服に決まってるじゃない。
私を誰だと思ってるのよ」
お客様ですが、と冗談を返し、互いにしばし笑いあった。
その間も人形は少女――つまりアリス・マーガトロイドの後ろから顔を半分だけ出してこちらを伺っていた。
青い無垢な瞳が上目遣いにじっとこちらを見つめてくるので、気が気でない。
この子が弾幕戦で大暴れしているのを僕はとてもとてもよく知っているのだ。
「ん?」
アリスもようやく僕の視線に気が付いたようで、自分の肩の方に視線を動かそうとする。
もちろん人間の首と目の可動範囲でそこが見えるはずもなく、
彼女は自らの手を動かして、そこにいる物を掴んだ。
それはじたばたと暴れたが、アリスにより衆目(といっても僕と彼女しか居ないが)に晒されると大人しくなった。
「何してるのよ、上海……」
呆れたようにアリスが呟くが、人形はなおもこちらをじっと見上げている。
あまり好意的な視線では無いようだ。
ううん、とアリスは顎に手を当てて僕と人形を交互に見やったが、やがて小さく頷いた。
「店主さん、善人に見えないから嫌われたのかも知れないわね」
「へえ」
大して興味はない。
相手は所詮人形である。
「自律」して行動してはいるが、
実はアリスが居なくては動くことすら出来ない
半「自立」の人形であるということを僕は知っている。
「ほら見て。上海がすごく不安そうな目であなたを見てるわ」
「……へえ」
首根っこを掴まれてぶらぶら揺れている上海人形は確かに何か怨念ありげな視線を僕に向けている。
だが、この少女に何が出来るというのだ。
香霖堂の商品を買ってくれるわけでもない。
愛想を振りまく必要もないし、好かれる意味もない。
嫌われようが好かれようがそんな事は僕にとってはどうでもいいのだ。
「あっ、そっぽ向いた」
「……」
故に、完全に明後日の方向を向いてしまった上海人形など、僕は気にもとめていないのだ。
彼女が何をしようとどうでもいい。
人形だって道具だ。道具なんてただの売り物でありそれ以上のものではない。
第一可愛げってものがまるでないじゃないか。
人形というのは人に好かれてなんぼの代物だろう。
こんな役に立たない人形は生まれてこの方初めて見た。
無縁塚にでも捨てられてしまえ。
「もしかして、凹んだ?」
はっとして顔を上げる。
見ると、アリスはまるで童話に出てくる意地の悪い猫のように、にんまりと笑顔を作っていた。
実に不快感極まりない表情である。
「馬鹿を言ってはいけない。
これだけ多くの客を相手にしていると嫌われる事もままある。
この程度で凹んでいては商人失格だよ。
ところで、『界面活性剤』の面白い副次的効果について語っていなかった――む?」
ぽむぽむと、頭を優しく叩かれる感触に、僕は思考の泥沼に嵌っていた意識を浮上させる。
決して焦りに焦って我を忘れていたわけではない。
僕は香霖堂店主森近霖之助であり、あの草薙に認められた男だ。
この程度の些事に心を動かされたりはしない。
さて、顔を上げた先にいるのは申し訳なさそうな顔をした上海人形である。
はてなと首を傾げていると、アリスはくすりと小さく笑った。
「冗談よ。上海があなたのこと、からかってみたかったんだって」
僕はもう一度上海人形を見る。
彼女は慌てて目を伏せた。
そして、アリスに目をやった。
彼女はどこ吹く風という白々しい表情だ。
僕は半眼でアリスを睨め付けた。
「誰が誰をからかってみたかったと?」
「上海が、あなたをよ」
アリスは韜晦するように一笑した。
どう好意的に見ても、けしかけたのは彼女であり、そして操られたのは上海人形である。
しかし、ここでそれを指摘しては空気の読めない人間だと詰られてしまうだろう。
何故ならば、彼女はその表情を以てして言外に自分の非を認めたからだ。
上手い逃れ方である。僕は文句一つ言うことが出来なかった。
「……まあいいさ。用は済んだろう? 家に帰って研究なりなんなりを再開したらどうかな。
魔法使いとて無限の時間を持っているわけではないのだからね」
言われずとも、と彼女は上海人形に洗剤の容器を抱えさせて背を向ける。
実にさっぱりとした子である。
ここを訪れる客の多くはこの後僕との雑談に花を咲かせて、軽く一刻は浪費してしまうというのに。
しかしそれも致し方ないかも知れない。
何せあと数刻もしないうちに日が暮れてしまうのだ。
なるべくはやく家に帰りたいというのが人情だろう。
そして僕もそれを引き留めようとは思わない。
とりあえず立ち去る背に挨拶だけでもかけておこうと本を開いたまま視線だけを彼女に向ける。
結局アリスは一度も振り返らないまま、穏やかに香霖堂の戸を開き――、
ばたんっ、と派手な音を立ててそれを閉じた。
「……」
「……」
アリスは振り返り、そして僕と目があった。
彼女は一度だけ頷き、そして僕もそれに呼応するように頷いた。
アリスは再び扉に手をかけて、そっと開き、また、ばたん、とそれを閉じた。
扉の外は、笑いが零れてしまいそうなほどに真っ白だった。
つい先程までやや西に傾いた日の光が穏やかに降り注いでいた外は、
いつの間にか白銀の世界へと切り替わってしまっていた。
あきらかに尋常の自然現象ではない。
寒気を操る妖怪あたりがこの一辺で一暴れしたのかもしれない。
はた迷惑な話である。
アリスはぱんぱんと服を叩き(あの一瞬だけで服は雪まみれとなっていた)、
そして眉をハの字にして苦笑して言った。
「少しここで雪宿りさせて貰っても良いかしら」
雪宿り。
変わった言葉である。
しかしなかなかどうして情趣がある。
その風流心に免じて僕は頷いた。
「そこら辺のトランクケースを椅子にしてくれて構わないよ。
魔理沙たちはよくそうしている。
僕は本でも読んでいるからくつろいでいてくれ」
アリスは、どうも、とやや疲労の見える笑みを見せ、大きなトランクケースの上に腰を下ろす。
散らかっている店内もこのように使って貰えるのならば本望だろう。
どうせ大抵のものが価値のないがらくたである。
それに価値を見いだす奇特な客が居るからこの商売はやめられないのだが。
さて、と息を吐いて本に目を戻す。
残念ながら昼下がりの気怠い店内の雰囲気は完全に破壊されてしまっている。
あの不十分に差し込んでくる日光のおかげで店内は仄暗く彩られ、
それに対して何とも言えない温かさを感じる事が出来るのだが、
こう雪が酷くてはその淡い光が届くことはない。
これでは少々暗すぎる。日が沈んだ後のようだ。
目を思い切り細めて本の字を追うが、
明かりが足りずに見づらい上に、ハッキリ言って駄文である。
妙に汚れの少ない装丁だと思ったが、
どうやら駄作故に世界に忘れ去られてしまったらしい。
このような本の行く先は香霖堂ではなく他にあるのだが、
珍しい事に巡り巡ってこの店の棚に並ぶ事になってしまったのである。
もっとも、売れる事はないだろうが。
ストーブの上のやかんがしゅんしゅんと音を立てるのが聞こえる。
少し位置をずらしておいた方が良いかも知れない。
しかし、いつの間にか重くなっていた瞼を開いてまで行動する気にはどうしてもなれなかった。
眼鏡を外して本と共に脇に追いやり、そして腕を組んでそれを枕にして倒れ込むように顔を埋める。
駄目だ。妙に眠い。寝不足というわけではないのだが、このような唐突な眠気が襲ってくることがままあるのだ。
これに逆らっても無駄である。従ってこそ安寧と至福が得られるのだ。
客が来た時に、若しくはアリスが帰る時にでも起こして貰えば良いだろう。
そう思って一つ大きな息を吐いて、僕は思考を放棄した。
とん、ととん、と軽快に何かが跳ねる音にふと目を開く。
眠っていたのだろうか。
そうに違いない。両の腕が鈍い痺れを脳に伝えてくる。
これだけ強く腕に額を押しつけて眠ったのだから、跡が残っているかも知れない。
無様だな、と苦笑が漏れる。
ととん、とととん。
叩くように、跳ねるように、音が断続的に響き渡る。
そっと口元を拭ってみる。涎は垂らしていないようだ。
音を立てぬようそろりそろりと首をもたげ、そして眼鏡に手を伸ばす。
そうだ、本があまりにつまらないので眠ってしまったのだった。
僕の正面ではトランクケースに腰を下ろしたアリスが腕を組んで静かに目を閉じている。
眠っていると、まるでこの子そのものが人形のように見える。
いつの間に雪が止んだのか斜陽が店内に差し込み、暗い色調の木の机に光の帯を下ろしていた。
その帯の中では埃が煌めきを放ちながらゆるりゆるりと舞っている。
あるものは下へと、あるものは左右に、そしてまたあるものは上へと。
自由奔放に舞い上がり、舞い落ちている。
そんな素朴な照明のもとで、静かに人形が舞っていた。
いや、舞うなどという技巧的な言葉で表現するべきではないかも知れない。
彼女はただ足を軽く浮かせ、そして下ろし、それにあわせるようにその細い両腕を揺らしているだけだ。
いつの間に着替えたのだろうか、
彼女の身に纏っている衣装は先程僕が汚れを落としたそれに相違なかった。
印象的な青の瞳を静かに閉じ、口許に僅かに笑みをたたえて、
何かを噛み締めるように、彼女は右足で一歩、また左足で一歩。
そして片足でくるりと一回転して、ととんっ、とたたらを踏んだ。
綺麗なスカートがふわりと舞う。
光の粒のような埃がぱあっ、と舞い上がる。
僕はその光景に見入ってしまっていた。
肘を突き、じっと彼女を見ていた事に気が付いた時、軽い衝撃のようなものを覚えた。
柔らかな笑みと共に、一歩。
やはり目を閉じたままにステップを踏み、
スカートを僅かにはためかせ、静かに足と手を動かす。
まるで世界の全てを抱きしめているような。
まるで世界の全てに抱きしめられているような。
そんな幸せを、
些細ではあるがとても柔らかで温かくて、ちょっとだけお節介な幸せを噛み締めているような、
そんなどうしようもなく切なく健気な笑みを浮かべ、人形は舞っていた。
光の帯のただ中で、ただただ静かに彼女は舞った。
夕日の差し入る店内の一番綺麗なその場所で、
少しだけ恥ずかしそうに、少しだけ幸せそうに、彼女は舞った。
今まさに、その場所はこの人形のための場所だった。
この子はただの人形の筈である。
人形はどこまで突き詰めても所詮は人形だと、玩具という名の人の道具でしか無いと、僕はそう信じている。
道具は人に使われて初めてその価値を生じるものだ。
アリス・マーガトロイドは常々次のように言っていた。
自分の意志で自由に行動する人形が作りたい、と。
彼女の側でしか動くことが出来ないとはいえ、今の上海人形は確かに自由意志に則って行動している。
しかし、何故この人形は動くことが出来るのだろう。
いくら半分自分の意志で動くことが出来るとはいえ、
術者からの魔力の供給が無ければただの人形となってしまう筈である。
それこそがアリスが超えようとしている絶対の壁なのだから。
――その疑問に対する答えはすぐにでた。
アリスが僅かに身じろぎした瞬間、上海人形がぴくりと痙攣したのだ。
まさかとは思ったが、それから急に彼女の動きは鈍くなった。
まるでブリキの人形が無理矢理動いているような違和感を覚える。
ぎぎ、という音でも聞こえてきそうなそんな不器用なステップ。
彼女は小さく首を横に振り、そして淋しそうな笑みを浮かべた。
上海人形が動くことができた理由。
それはきっと、無意識にアリスが彼女の行動を許可していたからだろう。
彼女が起きていれば、その許可には必ずアリス自身の恣意が含まれる。
だが、眠っているうちに上海に行動を許可することが偶然にでもあったならば、
彼女は今のように全ての制約から外れて動くことが出来ても不思議ではない。
それは幻想的で、アリスにとっては少しだけ残酷な話かもしれない。
今まさに彼女の人形が自分の意志で行動しているというのに、
アリス自身がその光景を目にすることは出来ないのだ。
そして、上海人形もまた然り。
彼女を動かそうとする限り、たとえ塵のように僅かであるにしても、アリスの恣意は残ってしまう。
故に半自立。故に未完成。
意識を落とす寸前の上海人形は、最後に目を開き、じっとアリスを見つめていた。
そこに恨みの色は微塵もなかった。
感謝と、そしてたくさんの希望を込めた微笑みが、彼女が最後に残したものだった。
膝を折るようにして上海人形は崩れ落ち、ばたん、というやや大きな音が店内に空虚に響く。
「ん……」
その音を聞き、眉根を寄せてアリスはゆっくりと目を開いた。
むにゃむにゃと何度か口を動かして、そして彼女は僕を見つめて微笑んだ。
「寝ちゃったわ」
「そのようだね」
ううん、とお互いに伸びをする。僕自身、目が覚めたばかりである。
背伸びの一つでもしたかったのだが、しかしあのような雰囲気の中でそれを行えるはずがない。
アリスはきょろきょろと辺りを見渡す。
そして、柔らかな斜陽に照らされた、あたたかな机の上に崩れ落ちている自身の人形を見つけた。
自分の膝を見つめ、机を見て、そしてまた僕に視線を向けて、アリスは言う。
「上海に触った?」
僕はその質問に、否と答えた。
彼女の仕草から推すに、きっと上海人形はその膝の上で眠っていたのだろう。
それが机の上に無造作に横たわっていては疑われるのも無理はない。
しかしアリスは何の疑いも抱かずに、しょうがないなあ、と苦笑を一つ零しただけで、
のそのそとケースから腰を上げると机の方へと歩いていく。
そして、光の帯を遮って、そっと上海人形を抱き上げた。
人形のやや長い金紗の髪が、その端正な顔が、そっとアリスの服にもたれかかる。
意識はないはずなのに、何故だろう。まるでアリスに全てを任せているように見えてしまう。
彼女はくるりと一回転して、そして笑った。
それはさきほど上海人形が頻繁に行っていた仕草と全く同じだった。
その笑みだけが、少しだけ違っていたけれども。
上海人形の浮かべていたそれは、諦めと、そして希望をない交ぜにした複雑で繊細な笑みだった。
「ねえ、店主さん」
大切そうに人形を抱きかかえ、アリスは言う。
「私は、人形が自分の置いた場所に居なかった日はその子を『動かす』のをちょっとだけためらう事があるのよ。
今もそうなんだけど……そういうのって、変だと思うかしら?」
人形に自由を与える。彼女の言った『動かす』の意味は恐らくそれであろう。
それは彼女が人形に意志を与えるということだ。
人形はそれによって意志を持ったのではない。
アリスによって意志を持たせられたに過ぎない。
先程おそらくは完全に自分の意志で動いていた上海人形と、
いつもアリスに操られている上海人形。
その間には今光の帯の中を舞っている塵一つ分の差異すらあるまい。
しかし、確かに違いは存在するのだ。
明確に、その境界が存在するのだ。
――あの人形の考えている事など少しも理解できない僕の主観であるため、
それはただの戯れ言に過ぎない可能性も、勿論否定できないが。
ただ、アリスの質問に答えることならば出来る。
魔理沙の口癖を真似るように、口を開く。
「そんなことは、普通だよ」
無愛想な言葉に対してであろうか、
それともはじめに見せていた恭しい態度が今となっては霧散してしまっているのがおかしかったのであろうか、
アリスは口許に手を当ててくすくすと小さく笑った。
そうやって彼女はひとしきりその少女らしい控えめな笑い声をしんとした店内に響かせたあとで、さて、と言う。
「雪もあがったみたいだし……今のうちに帰ろうかしらね」
「そうした方がいいよ。近頃の天気は唐突に変わるからね」
確かに、と苦笑を漏らしてアリスはかつんかつんと足音を響かせて出口へと向かう。
そして扉に手をかけて、ゆっくりと音を立てないように開いた。
外の空はあれほどの豪雪が嘘であったかのように、赤く赤く燃え上がっていた。
そのまま彼女は去っていくのだろう。
僕はてっきりそう思っていたのだが、アリスは最後に一度だけ振り返った。
やはり、自身の人形を胸に抱えたまま、彼女は言う。
「玩具が夜中に動き出すっていうお伽噺――あなたは信じるかしら?」
アリスの質問に僕がどう答えようと、彼女にとっては何の教示にもならないだろう。
あの人形のあの笑みを見れば分かる。この子は誇りのある本物の魔法使いだ。
道具屋である僕が口出しできる事など何も、ない。
故に彼女のその問いは、自分の行いに対する不安からではなく、
ただ単に好奇心から来るものであろうと推測できる。
人形遣いであるアリスの研究に対する道具屋である僕の評価に興味があるのだろう。
それは、なかなか光栄なことである。
僕は視線を彼女に向けて、そして小さく頷いた。
「場合によってはね。君の人形なんかは動き出してもおかしくない」
ありがとう、と。
そう言って背を向けようとした彼女の言葉に覆い被せるように、だから、と僕は続ける。
「だから、見つけてやってくれ」
え、とアリスはきょとんとして振り返った。構わずに続ける。
「きっと夜中に玩具が動くのは、玩具が夜中という幻想の中でしか動けないからだよ。
だから彼女達は自分たちがいきいきと動いているその姿を見て欲しいはずだ。
僕は道具屋だから分かる。
人形達はきっと君に見て欲しいはずだよ。
ありのままの自分というものをね。
君がもし僕と同じようにそのお伽噺を信じる心を失っていないのならば、
人形に本物の自由を与えてやるといい。
きっとみんなして君に感謝してくれると思うよ」
アリスは笑う。
「反抗するかも知れないわよ?」
本気でそうなることもあるだろうと思っているのかも知れない。
いや、むしろ確信しているのかも知れない。
人形とはいえ、心がある。
その人の形をしたものを、この少女は弄んでいる。
もし人形が自由を得たのならば、反乱を起こしても何らおかしくはない。
だが――。
「少なくとも、その上海人形は刃を向けはしないだろうな。
君の寝顔を見ていた時の表情は、まさに母を慕うが如く、だったよ」
ぎょっとして、アリスは上海人形に目をやり、そして光の降り注ぐ机に目をやり、最後に僕を見た。
奇しくも彼女が目を覚ました時の視線の動かし方とそれは似ていた。
まさか、と何か口走ろうとする彼女の機先を制し、僕はにやりと笑って頭を下げた。
「本日はまことにありがとうございました。
またのご来店を、心よりお待ちしております」
その言葉と共に、がちゃんっ、と大仰な音を立てて扉が自然に閉じた。
そして再び店内には沈黙が降りる。
静謐というその二文字がよく似合う店内には一筋の光が差し入るのみだ。
だから夕暮れは嫌いなのだ。
どうにも感傷を刺激する。
しゅんしゅんと、遠くでやかんが音を立てているのが聞こえた。
億劫なのでそれを無視して、僕はまた深い眠りに落ちた。
とん、とん、とととん。
とととん、とんとん。
とん、とん、とととん。
とととん、とんっ。
稚拙なステップの音が、何故かひどく耳に残った。
毎回感じいってしまいます
持論の蘊蓄になると、やたらと饒舌になり、その蘊蓄が真実の斜め上を行っていようとお構いなしに自信満々で、突拍子も無い筈なのに、思わず信じてしまいそうになるトンデモ理論w
お見事でした。次回作も期待しております。
どうしても「さもしい」という単語が頭の中を占拠してしまう自分が悲しい
上海が良い、とても良い!
霖之助の視点が更に場を盛り上げていてとても好きですね。
面白かったですよ。
寝ていたアリスからすれば、人形が勝手に? いやいやとかそんな感じでしょうが、全てを見ていて沈黙する霖之助がたまらない。
自分も昔は玩具に意志があったら復讐されるんじゃないかと不安でしょうがありませんでしたが、そんなことはない……ですよね?
そして素晴らしいまでのトンデモ理論ww
ついにアリスも与吉さんの香霖堂にご来店。
投稿の間が開くと聞いていたのに、何と言うハイペース……
本当によくネタが尽きないものだと本当に感心してしまいます。
幻想的ですね。
にしてもこのこーりんは四季かどっかの劇団員かってくらい芝居がかったしゃべり方しますねw
そして魔法でそれを再現した香霖もすげえええ
上海とアリスの関係が最高だな!
幻想的な光景が目に浮かびました。
引き込まれるぜぃ
アリス来店とは予想外でした。
上海のかわいらしさが実にいいです。
毎回、与吉さんの新作が楽しみです。
キャラクターを動かすというのは明らかな恣意です。
ぶっちゃけてしまえば欲動に過ぎない。生物学的な欲望というわけではなく、そういう場合も多いでしょうけれど、マリオネットにしている時点ですでにキャラクターの人格を否定している部分はあるわけです。
ここが両義的な感じです。
まるきゅーの場合は、書くときにキャラクターに愛情を抱いてないわけではないですけれど、わりと簡単に殺しますね。割り切ることも書くためには大事というか。物に愛情をこめるという思想は物書きにとっては自由な空間を奪うものになりかねない。例えれば同人誌で陵辱してもOK。これを認めないとやはりどこかしらゆがみが生じる。
しかし、キャラクターを書き手の自我で押さえつけても、これも物語が腐臭を放ち始める。キャラクターの自発性を殺しすぎるとよくない。半分自動的な感覚かなぁ。
結局は、距離感なのか。
悩む。
作品からは若干はずれた感想になってしまいましたが、自分としてはそんな空想にも似た思考を抱きました。
上海かわいいよ上海。
洗剤の蘊蓄もこういう解釈を想像できるってのは本当にうらやましいです。
素晴らしい
あとストーブは燃料を燃やすものですから、「炊く」より「焚く」或いは単に「たく」があってるかと
かなり難しいハズなんだけどなぁ。
……でもある人のコメントで作品の余韻台無し。
ありゃ感想じゃなくて解説、もしくは押し付けって言うんだよ。
界面活性剤すげーww
アリスかわいいよアリス
流れるように読めて、雰囲気が生きていて、余韻の残るSSでした。
すごい。妙に饒舌になってる辺り文句無しでした。
2次設定に毒されすぎてるアリスが多い中、可愛いというか綺麗なアリスでした。
ありがとう。
香霖堂に近しいものでありながら、与吉さんの色が程よく混ざってる。
温かみとか、そういうの。
人形の自立に関する新しい視点についてもかなり感心しました。
序盤なかなか客の正体を明かさないのもちょっとしたお茶目でしょうか。
いいお話を読ませていただきました。
よいお話でした。ありがとうございます。
実際はどうだろう?というところですよね
人形でここまで奥深い話は初めて読んだ気がします
霖之助の洗剤の説明がお茶目ですね、でも本気なのかも?
読後感最高でした。
毎度ながら毒づいたかと思えば褒め称える霖之助が面白すぎますw
界面活性剤をここまで飛躍させるとは恐れ入りましたw
そして雰囲気が相変わらず本当にいいですね~
その時の情景が脳裏に浮かぶようで、尚且つキャラクターが活き活き
していて読んでいて楽しいです。
最後にアリスと上海もとっても可愛かったw
いやまあガスでも色落ちますけどね
色以外にもいろいろボロボロと
上海かわいいよ上海
道具が心を持ったらどうなるのでしょうか。
粗末に扱っていたとしたら復讐されてしまうのでしょうか。
そう言うことをアリスも考えたりするのかな?
界面活性剤がまさかそんなにも危険な代物だったなんて。
正しく「な、なんだってーーーーーっ!!?」ですよ。あと上海かわいいよ♪
登場人物が、上海含め幻想的かつリアルでした。
幻想の世界の住人でさえ出会えない真の幻そして想い。
本当に素晴らしいの一言です。
マジックリン片手に特攻する兵士を幻視した
自立人形の解釈が印象的でした
そう信じている私です。このお話の界面活性剤論も原作香霖堂に劣らず、
飛躍と妄想で紡がれているのに謎の説得力を醸し出していますねw
そして後半の上海パートはいつもの与吉さんらしく、
優しくて暖かな雰囲気に満ちていました。
道具の心、とかをちゃんと考えるようになったのは
霖之助さんを知ったのがきっかけだったなぁ…。