――1――
三ヶ月という長くも短くもない時を生きてきて私が学んだことは、冷酷な現実原則である。
それは、支配という一言で表される。
オブラートに包んだ言い方をすれば、仕事――
酷薄で私利私欲にまみれた人間たちの都合を処理する、言ってみればダーティな仕事だ。
私はずっと仕事請負人をやってきた。
気づいたらそうだったとしか言いようがない。私に自意識が芽生えたときにはすでに仕事をこなす毎日が続いていた。今もそうして生きている。それ以外に生きるすべを知らないからだ。
請負人は一般的に思われているよりもずっと孤独な商売である。
やれといわれたら躊躇なくやる。独りで黙々と仕事を片づける。誰かと共同して作業を行っているときも、相手を人形のように見立てて、自分の意思のみで事が遂行されるかのように考えなければ一流とはいえない。
もともと孤独が表象されたものが請負人なのだろう。
人は様々な名前で私を呼んだ。
よく呼ばれる名前は<蓬莱>であるが、<人形>とか<それ>だったりもする。
ときどき私のことをよく知らない人間から<上海>や<倫敦>と呼ばれることもあるが、これは単に私の同業者と見分けがつかなかっただけだろう。
なんにせよ名前にはほとんど意味はない。
それによって世間の私に対する評価が劇的に変化するわけではないし、私が生きていくうえで取り立てて不便になるわけではないからだ。
独りであっても多数であっても、私は私の仕事を淡々とこなすだけである。
現状の私は雇用契約を結んでいるような状態であり、現実的には多数の同業者達と共に仕事をすることが多かった。
孤独を愛する私としては、今の状況は現実との妥協の産物であるといえたが、それなりに命の保障はしてもらえているし悪くはなかった。
雇用主の名はアリス・マーガトロイドである。
白い陶器のような肌と夏の太陽に似た金髪、そしてアクアマリンに似た青い目をした外来人で、流暢に日本語を話す。
彼女は私の経済的基盤の薄弱さに目をつけて、私を扶養する代わりに様々な仕事を課した。
それだけではない。
私は彼女によって創られた生命体であり、愛玩人形という地位に甘んじている。家畜のように飼われているのだ。
誤解のないように言っておくが、まだ彼女と性的関係を持ったことは一度もない。
ただ遺憾なことがある。
私が彼女のことを歯牙にもかけていないのが気に食わなかったのか。
まだ色気もない未成熟な少女にも関わらず、命令の内容は多岐にわたり、悲惨を極めた。
雇用主を悪く言いたくはないが、私を一瞬たりとも休ませようという気配がなかった。休日が与えられたことは一度もない。しかも与えられるミッションはほとんど不可能な無理難題ばかり。たとえば「待ち針を持っていてちょうだい」などといわれたときは、死の危険を感じたほどだ。あの鋭利な先端が瞳に突き刺されば、私の生命活動はあえなく一貫の終りである。私に人並み外れた勇気と知恵がなければ、今日まで生きてはこれなかっただろう。
彼女は冷酷な一面を持ち合わせているらしい。
とはいえ、冷酷なだけではない。女性にありがちな、言葉にすることのできない母性的な優しさもあり、私は時々それにあてられてしまう。
惚れている?
いや、そうではない。ただ、彼女の微笑みには不思議な魔力があるのだ。
女性には月の神秘さがよく似合う。
優しく引力で引き寄せて虜にしてしまう。
アリスは取り立てて取り柄のない少女だったが、私や私の同業者たちに向けられる視線だけは神秘性を有していた。
それゆえに、私は彼女からの仕事を渋々ながらも請け負っているのだろう。
女性の神秘。月の引力。魔力。
ずいぶんと非科学的なことを並べてしまった。私はこう見えて感傷的な性格なのだ。
感傷的な私が機械的に仕事をこなすというのは皮肉以外の何物でもない。
私が、毎朝時計のように課されている仕事と言えば、そんなアリスを叩き起こすことである。
アリスは魔法使いでもあるが、人間としての生活は平凡であり夜にはきちんと寝る。
四六時中起きていられても私の生活が害される恐れが高まるだけだから、寝てもらえるのはありがたい。支配はイコール彼女の命令だからである。
もちろん命令されても私には自由意思があるから逆らおうとすればできる。ただ、席が空いてないときに誰かが座ろうとするとあぶれるものがでてくるだろう。それと同じく、彼女の意志が強いときに私の意志は劣後する。そういう関係にあるといえる。
タフな話だが、仕方ない。
現実がミルクのように甘いのは子どもの時だけで十分だ。三ヶ月も生きてきた私にはぬるま湯のような生活は遠い昔のように感じられる。
夢想は郷愁を含んだ概念なのだ……。
とつぜん私の意識は、乱雑な過去の記憶から現在へと移行した。
朝がきたらしい。
窓の外には冬景色。
白い雪がちらちらと降っている。
昨晩から降り続いているようだから、今ごろ私を基準にして腰の高さぐらいまで降り積もっているだろう。
白々と夜が明けるにしたがって、私の意識はゆったりとした無意識の大海から急速に覚醒する。
頭の中の言語回路が一つの言葉を吐き出した。
――アリスを××せ。
命令。そして実行しなければならないという強迫観念に近いようなもの。請負人としての器質的なレベルで刷り込まれている本能だ。
このときばかりは、私は冷酷なヒットマンとならねばならなかった。
できれば平和に暮らしたいのが私の望みであるが、彼女自身が望んだことなら仕方がない。請負人は依頼主の意向をいちいち確認しない。機械的に命じられたことをやるだけだ。
結局のところ彼女は私にとってジョーカーなのだろう。
強力な味方か。
あるいは非情の敵か。
今でも判別がつかない。
すやすやと寝入っている彼女の前に、私は気配を殺して立った。無邪気なものだ。現実の非情さを彼女はまだ知らないらしい。
周りには幾人かの同業者が無言で立っている。私に口火を切れと上海の目が言った。
嫌な役回りを押しつけるものだ。
まあいい。どちらにしろ、損な役回りは慣れている。
私は紙巻を口にした。
アリスのよく使う画用の紙を丸めて木屑をつめた私のオリジナルだ。
ニコチンは入っていないが、白い棒状のそれを口にくわえると、なぜか安心する。
特に意味のある動作ではないし、アリスに見つかるとあまりいい顔はされないが、おそらくそれは私のプライドの象徴でもあったのだ。
だから彼女から取り上げられようとしてもかたくなに拒んでいる。ただし火をつけるのは危ないから許可をもらっていない。それでもよかった。
一流の請負人はみんな独自のスタイルを持っているものであり、それが私のスタイルなのだ。
私は唇から紙巻を離し、流れるような動作で、自分の頭の上にのっているシルクハットのような形をした小さな帽子を調整する。固着した髪が少々うざったい。
それから私は
『そろそろ起きるんだな。身体中に風穴を開けられたくなければ』
と、冷静な口調で述べた。
私の同業者である上海は同じセリフを三日前言ったとき、唇がわずかに震えていた。
この業界で彼女は長く生きれないだろう。ひよっこにしてもあまりにも酷すぎる。上海はいまだステージに登ってすらいない。彼女は表面的には冷たい態度をとることもあるが、人に対する優しさを残している。『あなたバカね』というセリフをよく口にするが、他人の愚かさを指摘できるのはまぎれもない優しさだ。
裏腹でヒステリーな性格。
つまりは、心が弱いということだ。
いや――、他人のことなんてどうでもいい。
私は元来、冷酷な感情を土台にしているのか、酷薄なセリフを口にしてもまったく動じていなかった。マシンのような心が請負人に必要な素養だ。
それどころか私はアリスの毛布を強引に取り去った。
季節は冬。
肌を刺すような冷気が満ちている状況で、毛布は最終防衛ラインであり、命の手綱でもある。
周りがざわめいた。
『なんて恐ろしいことをするのよ、あんたは』
と、上海が非難に似た悲鳴を上げる。
『私は私の仕事をしているだけだ』
『やり方があるでしょう。本当に何も考えてないんだから』
『その言葉は何度目だったかな。上海。経済的な弱みを握られているからといって、アリスに媚びる必要なんてどこにもない』
『媚びてるわけじゃないわよ。ああ、あんたが恐ろしいわ。頭の中にクモの巣でも張ってるんじゃない?』
『べつにかまわないさ。依頼主が満足してくれるならね』
私と上海とのやり取りはそこで打ち切られた。アリスが目を覚ましたからだ。上海やその他の同業者たちは一斉に飛びのいた。意気地のないやつらだ。残念だが、事には独りで当たらなければならないらしい。結局、真の請負人は私ひとり。そして、請負人はいつだって孤独なのだ。
「あ。ん……朝なのね」
『ああ、そうだ。さっさと起きろ。怠惰な豚になりたくないだろう』
「蓬莱。おはよう。いい子ね。ほら、おいで」
『その腕はわたしを誘惑しようとしているのか。残念ながら、それほどウブじゃない』
「なにか元気がなさそうね。大丈夫かしら」
『まだ生きるのに疲れるほど生きてはいないさ』
「ちょっと我慢してね」
距離が近すぎた!
私は無力な兎のように彼女の腕の中に拘束されていた。鎖骨のあたりから肋骨あたりへとなめるように触られ、抵抗する力を奪われる。
――死の恐怖。
メンテナンスと称して、時々、彼女から身体中を弄られることがある。拷問のような時間だ。
かように請負人の仕事は危険に満ちている。
しかし私の頭の中は冬の青空のように澄み切っていた。頭蓋の中のCPUはすさまじい勢いで計算を繰り返し、この窮地をいかに脱出するかを考えている。
やがて、ひとつの方策をひらめく。
即、実行する。
なまくら刀のように決断が鈍っていたら、この業界では恐ろしい結果が待っているだけだ。
手足を必死で動かして、アリスに気づくように促す。
気づいてくれ。頼む。
「ん? どうしたの」
『そこらにいるおまえの愛人たちにも愛情をそそいでやったらどうかな』
「あ、なるほど。他の子たちもいっしょにかわいがらなきゃダメね」
アリスの腕が開放されたのを見計らって、私はその場を飛びのいた。
入れ違いに上海の細い身体がアリスの腕に抱かれる。上海は態度を豹変させ、すぐに甘えた声を出した。奴は請負人ではなく愛人としての仕事のほうが性にあってるのかもしれない。彼女がどのような生き方を選択しようと、私には関係のないことだが。
「みんなあまえんぼさんね。あ、蓬莱。どうして独りでそんなところにいるの。あなたもいらっしゃい」
『群れるのは好みじゃないんでね』
「恥ずかしがってるのかしら」
『思春期の少年でもあるまいし考えすぎだ。だが――いいだろう』
私が彼女の腕に抱かれることによって、彼女が満足するのなら、甘んじてそれを受け入れるのも請負人の仕事に含まれる。
甘えた心などどこにもない。ただ冷たい心とは裏腹に、肉体的には熱い抱擁だった。そして、柔らかな乙女の唇が、私の意思などおかまいなく押しつけられる。
はしたないお嬢さんだ。
「やっぱり寂しかったのね」
指先でつんと頬を突つかれる。やられっぱなしは癪なので、私も突つきかえしてやった。
『覚えておくといい。寂しさは自由の印だ』
こうして、朝のミッションは無事終了した。
――2――
太陽はすでに天頂近くにさしかかっているようだが、窓の外から見える空模様はどことなくどんよりとしていて重たい。
髪が重くなるから、湿気の多い日はあまり好きではなかった。関節も微妙に違和感がある。
アリスは新しい人形造りにいそしんでいるらしい。硬い粘土をこねくりまわしている。
今は特に手伝うこともなく、私はしばし身体を休めていた。休めるときに休むのも必要なスキルなのだ。
「アリスー。遊びにきてやったぜ」
そのうち、伸びのある子猫のような声が響いた。
アリスは一端作業を止めて、迷惑そうな顔をして立ち上がり、扉を開けた。
そこにいたのは私が予想したとおりの人物、霧雨魔理沙だった。
彼女は名前こそ日本人であるが、外貌だけを見ると白色人種。魔理沙という語感からは欧州のそれを連想とさせるが――もしかすると通称名に過ぎないのかもしれない。彼女もまたアリスと同じく日本語を流暢に話す。
「なにしに来たのよ」
アリスはうんざりしたように言った。
「だから、遊びにだって。入るぜ」
ずかずかと家の中に無理やり魔理沙が入ってきた。アリスは「ちょっと」と言いつつも結局押しに弱くそのまま魔理沙を通した。
やれやれ、私の休憩時間もそろそろ終わるのだろうな。
無意識に近い動作で、紙巻を口にくわえる。
「蓬莱。お茶を用意して」
早速か。
嫌がっているように見えても、アリスは世話好きな人の良いお嬢さんだ。客にお茶を出さないのはプライドが許さないのだろう。魔理沙はきょろきょろと周りを見渡しながら、かぶっている魔女の帽子をぽんとそこらへ置いた。上海が小さな手でそれを受け止める。
作業場に他人の物がおいてあると、アリスが嫌がるのだ。上海は自らの仕事をこなしたといえる。
私はふと魔理沙の帽子を見て気づいた。私ほどの強靭な記憶力があればすぐに気づく。
いつもは不気味な魔女のようなのだが、今回は少し違うようだ。もちろんベースは宇宙のような黒い帽子であるのだが、少女らしい可憐な装飾が施されている。
星がついていた。
スターダストのような薄い緑、赤、黄色が帽子を彩色豊かに彩っている。
アリスはちらりとそれを見て、「ふうん」と声を漏らす。
「魔力を固化する実験中だ。すごいだろ」
魔理沙がニカっと笑った。魅力的に笑う少女は嫌いではない。
アリスは細い顎に手を当てて考える。
「発想は悪くないけれど、魔理沙にしてはちょっと派手ね」
「なんだよ。それだと私がまるでアリスみたいに地味って言ってるようなもんだぜ」
「失礼ね。私のほうが都会育ちなの。洗練されているのよ」
「どこの都会だよ」
アリスはそれに答えず、上海の頭を一撫でして命令した。
「魔理沙の帽子を帽子掛けに置いておいてくれる?」
『わかったわ。アリスがそういうならしてあげる』
上海は自分の身体に比して遥かに大きい魔理沙の帽子を抱えながら、ロフトに向かった。アリスの家は一階建てなのだが、正面から見ると右側にロフトがあり、そこにお洒落好きなアリスの洋服等をしまってあるのである。
「べつにいいぜ。帽子ぐらい。そこらに置いておけば」
「あなたのようにがさつじゃないのよ」
「神経質って言うんだぜ」
「失礼ね。――蓬莱。お茶はまだなの」
完全に八つ当たりだった。
とばっちりは鳥の糞にあたるようなもので、どうしようもないやるせなさだけをこちらに与えてくれる。ごめんだ。私は状況を冷静に観察しつつ、ちゃんとお茶を用意していた。
砂糖とミルクをお盆の上に載せ、ポッドを傾けて紅茶を注ぐ。
ポッドは自分の身長と同程度の大きさであるが、時々はナタやらランスやらを装備して駆けることもあるので、その程度は問題ない。
『受け取れ。報酬はあとでキャッシュで支払ってもらおう』
キャッシュというのは比喩であり実際のところは魔力のカタマリである。それはアリスの魔力を固形化したものであり、私にとっての駆動エネルギーになる。
試作品らしく今のところそのままでいくか決めかねているらしいが、私にとって生きる活力を生む、唯一無二の報酬である。
言ってみれば幼児にとっての飴玉に近い感覚で、食事でありながら嗜好品でもあった。
実際に、供給のされ方も同じで、口から摂取する。
形は様々だが、なぜか星型であることが多い。
魔理沙もときどき星型の弾幕――スターダストレヴァリエを放出することがあるが、あれに近い形をしている。
魔理沙との因果を求めているのだろうか。
少女の砂糖菓子のような甘い恋愛に興味はないが、アリスの胸中には自分でもよくわかっていない彷徨する感情があるのだろう。少女の幻想を解剖する趣味もないし、私にはまったく関係のない話だ。
お盆は私の手からアリスの手に渡る。そのまま私もお盆の端を支える。少し不安定で危ない。もう一人が反対側からささえて欲しいところだが――
失敗を恐れてか、手を貸す気配はない。臆病なのは長生きする秘訣だが、脅えて震えるばかりでは褒章は得られない。要はバランスなのだが、私のような一流でもない限り、そのバランスを知るのも難しいということなのだろう。問題ない。私ひとりでもやれる。
と――、上海がやってきた。
『手を貸すわ』
私はすぐに計算し、そして言った。
『報酬は7:3だ。もちろん私が7の取り分をいただく』
『べつに分け前が欲しいわけじゃないわよ。あなたと違って私はアリスの役に立ちたいだけ』
『殊勝なことだな。私は忠義というものがよくわからないが、尊敬する』
上海がもう片方を握ることで、お盆は安定した。
そのまま背の低いテーブルへとゆっくり下ろす。
ミッションコンプリート。
紅茶は一滴もこぼれなかった。私が仕事を請け負わなければ、こうはいかなかったはずだ。
少し手が疲れたので、あとで時間を見つけて首を吊ろう。
余計肩が凝るのではないかという意見もありそうだが、私の二つ名は首吊り蓬莱人形なのでさほど問題ない。
「はい。ありがとうね」
「あいかわらず、アリスの人形は便利そうだな」
「道具みたいに言わないでよ」
「道具じゃん」
「道具じゃないわ。人形よ」
「へいへい。わかったよ」
魔理沙はソファに身体を預けて、全身の筋肉を弛緩させている。股を開き、腕はソファにかけ、腰をずぶずぶと沈めている。嘆かわしいことだが、最近の若い娘はみんなこうなのだろうか。
ただ羨ましい関係だとも思えた。緊張感がないということは命のやりとりもないということだからだ。
それだけアリスと魔理沙の間には信頼関係のようなものが醸成されているということなのだろう。
それからあとは、ふたりの他愛のない話が続いた。
魔理沙がぶっきらぼうに話し、アリスがそれに丁寧に答える形だった。内容は、私にとってはどうでもいいことだが、魔理沙の腕自慢の話が多かったように思う。
二人は姉妹のように自然とそこにいた。
「ねえ。あなた」
ポツリとアリスが声を出して立ち上がった。
「んー」
魔理沙の顔のあたりをじっと見つめ、
「魔理沙って、みつあみへたくそね」
「どうせ私は不器用ですよ」
魔理沙は唇を尖らせる。一見がさつなように見えて、内奥では女性らしい心があるのだろう。私にはわからない。
アリスは犬のように勢いよく頭を振った。
「人形遣いにとって、目に入る他人の容姿はほっときたくてもほっとけないことなのよ。わかるかしらね。この完璧な調和が乱されるような気持ちの悪さ。プチプチの最後の一個をつぶさないまま仕舞いこんでおくような狂おしい気持ち。ずっとずっと気になって夜も眠れなくなるの」
「はぁ? なにいってんだ」
「私に髪を梳かさせなさいな」
「べつにいいよ。めんどうだし」
「いいから、こっちきなさい」
完璧主義。それとわずかながら混じる人形嗜好。
いずれが主たる動機なのかは私にも判別がつかないが、アリスは強引に魔理沙を鏡台の前に座らせた。
魔理沙はひまわりのような黄金色に輝く髪の片方だけをみつあみにしている。アリスはまずそれをほどいた。そしてブラシで丁寧に梳かしはじめた。
気持ちがよいのか、魔理沙は目を閉じている。
「人形で練習しているのか知らんが、うまいなー」
「黙ってなさい」
「私も人形扱いかよ」
「集中しないと綺麗にできないでしょ」
私には子猫どうしがじゃれあってるようにしか見えない。紙巻をくわえて遠くから眺める。とりあえず今は放っておいてもいいだろう。他の同業者たちも今は彼女たちの邪魔をしないように、そっと自分の持ち場所に戻った。まあ、要するには棚の中だ。
魔理沙がおとなしくなったのを見計らって、ようやくアリスは満足した表情になる。
髪の毛の先まで、さわさわと触り、新鮮な空気をいれる。それからアリスは湿ったタオルを持ってきた。水がしたたりそうな程度のタオルを髪の毛の頂点からあてていく。
「なんだなんだ。本格的だな」
「だって。魔理沙の髪はちょっとクセがありそうなんだもの」
「遺伝だぜ」
「遺伝ってなにか知ってるの?」
「一子相伝の親戚みたいなものだろ」
「絶対違う」
「べつにいいだろー。どうでも。――ってなんだそりゃ」
魔理沙がチラリと後ろを振り向いて驚いた表情になった。
驚くのも無理はないだろう。アリスの右手には髪を切るためのはさみが握られていたのだ。
聡い人間なら髪を濡らした時点で気づくべきであろうが、残念ながら魔理沙はそこまで賢くはなかった。
賢くなければ生きていくことは難しい。
しかし、彼女はまだ若い。若さの特権は許されることだと私は思う。蛮勇もまたかわいさの中で溶かされて、思い出という形で綺麗に葬られるものだからだ。
アリスははさみで試すように空中を切りながら――うふふと可愛らしく笑っていた。
見ようによっては恐怖を惹起するような笑いだ。ちょうどメンテナンスのときの笑いに似ている。
優しさと所有欲の混在する視線。
アリス本人は気づいてないだろうが、それはまぎれもない母性の発露だ。
「大丈夫よ。ちょっと数センチ切るだけだから」
「アリス。目が……目が怖いぞ」
「元からこんな感じよ。さて……、じゃあいいわね」
両肩をがっしりと掴みながら言っても怖いだけだろう。しかし私は傍観者を決めこんでいた。
世の中は無情だ。倒れこんでいる人がいたとしても誰かが助け起こしてくれるとは限らない。
「ちょっとだけだからな」
魔理沙もうすうすは気づいていたのか、あるいは何を言っても無駄だと気づいたのか、ぶすっとした表情のまま前を向いた。
「大丈夫。髪先を整えるだけ。お人形さんみたいにかわいくしてあげるから」
「人形なんてごめんだぜ」
「魔理沙だって元はかわいいんだから、きちんとすれば綺麗になるわよ」
「ふん」
魔理沙は機嫌をそこねてプイと横を向いた。しかし髪を切ることを拒絶するまではないらしい。アリスのはさみがサクサクと数ミリ感覚で魔理沙の髪先を整えていく。
さすがに小さな人形サイズで鍛えた腕は確かなものである。
左の手を優しく添えて、長さを目測し、チョキチョキとわりと控えめに切っていった。
「これぐらいでいいかしらね」
「丸坊主にされるかとひやひやしたぜ」
「失礼ね。そんなに下手じゃないわよ」
確かに下手ではない。
アリスの手先の器用さは私が見た限り、今まであった人物の中でも五本の指に入るだろう。私の生きている時間の中ではいまだ五人程度の人間にしか会っていないが、その中でも明らかに手の感覚が鋭い。特に小指が他の人間とは違い、よく動くようだ。
毛先を整えたあとには、ゆっくりとみつあみをしはじめる。
根をつめるタイプなのか、眼が近い。眼が悪くなるぞと言ってあげてもよいが、言ったところでアリスはしたいようにするのだろう。
自由な選択。
おのおのが好き勝手にする。
それで問題ない。
アリスも魔理沙も自分を曲げずに結果として受け入れている。
友愛――か。
紙巻を口からはずし、私は目を細めて壁にかかっている時計を見る。魔理沙がアリスの家に着てから既に三時間が経過していた。
事件はその後、魔理沙が帰るときに起こった。
あるいはすでに起こっていたのだ。
――3――
「そろそろ帰るかな。今日は楽しかったぜ」
「そう。よかったわね」
そっけなく答えるが、アリスもまんざらではなさそうだ。
冷たい雪のような肌にさっと朱色が差した。注意深く見なければわからないし、おそらく魔理沙は気づいていない。ただ私のようなプロになるとこの程度のことはわかるのだ。
アリスが扉の前まで見送る。一応私もついていく。ボディガードも兼ねているからだが彼女は気づいていないだろう。それでいい。
ガードされていることを悟られているようでは三流以下だ。しかし魔理沙の帽子のことは忘れていないだろうな――請負人の仕事は執事やメイドとは違うので、私の領分からはわずかにはずれる。私の仕事はサービス業ではあるものの子守りとは違うのだ。そこを混同すると話がややこしくなる。
私が指摘するかどうか迷っていると、アリスがふと顔を上に向け、それから小さく「あ」と声を上げた。
「上海。魔理沙の帽子を取ってきて」
「シャンハーイ」
反応がいい。
上海がロフトへと文字通りの意味で飛んでいく。しかし、戻ってきた彼女の手には何も握られてなかった。
人並み程度には仕事をこなせる上海にしては珍しい。なんらかのアクシデントの可能性を考えて、私は厄介な仕事が舞い込んできた予感を抱いた。
それは嫌な予感には違いない。
しかし同時に不謹慎ながらも武者震いに似た心地よい感覚が身を包んだ。
「どうしたの。上海。早く魔理沙の持ってきて。わかるでしょう」
『なくなってるの。アリス』
「どうしたんだ?」
魔理沙が上海の悲愴な顔を覗きこんだ。
上海は両手を手旗信号のように大きく振って、彼女らに異常を伝える。幸いなことにすぐに伝わった。
みんなでロフトに向かう。
まずアリス。その後ろに魔理沙。彼女達ははしごを使ってのぼったが、私と上海はサイズが小さいのでそのまま飛んでロフトへ向かった。
ロフトは狭いように見えて、わりと広く、六畳間ほどの大きさがある。
アリスはけっこう物持ちが良いほうであり、逆に言えば何かを捨てることができにくい性格であるためか、壁にはいたるところに帽子がかけられていた。
帽子かけは、はしごをのぼって左側の壁にある。壁から直接フックがつきだしているタイプだ。他方、右側の壁にはタンスが設置されている。タンスもぎっちり洋服で埋まっているはずだ。
そして、一番奥のほう、はしごのちょうど向かい側には両開きタイプの窓があった。
その窓が――今は開いていた。一見して明らかな異常事態。
上海は弁解するように口を開く。
『わたしはここにちゃんとかけておいたのよ』
指差したのは、はしごから見てわりと近い場所。つまり窓側から離れた場所である。
「どうやらここに置いていたらしいわね」
と、アリスは低い声で言った。
「私の帽子はどこに行ったんだ」
「わからないわね……。蓬莱。上海。探してちょうだい」
『いいだろう。ただし報酬はいつもの倍だぞ』
「いい子ね」
伝わっているのか心配だ。
まあいい。とりあえず退屈していたところでもある。この程度の事件はすぐに解決できるだろう。
ふと見ると、上海の顔が青白く染まっていた。
仕事の失敗は誰にでもあるが、乗り越えられるかは人それぞれだ。
タンスに押しつぶされるようなプレッシャー。じわじわと真綿のようにしめつけてくる責任感。神経を直接触られるような不快感に似た感覚。
そういったものが一挙に押し寄せたのだろう。
上海は虚ろな表情をしていた。
『どうした。しっかりしろ』
『私は……悪くないわ』
声の中には諦観と焦りが混在している。
私は上から彼女を見下ろした。
『言い訳は人を堕落させるだけだ。動けるうちに動け』
『私……』
らしくもない私の励ましにも関わらず、上海はへなへなとその場に座りこんでしまった。仕方ない。ここは私ひとりでやるしかなさそうだ。
まず私はその場の実況見分から始めた。
窓が開いているというのが異常事態そのものであるが、そこは今アリスと魔理沙が調べている。
それよりも犯人は――あえて犯人と呼称するが、いずれにせよ、この場にいたのだろうし、まずは部屋の中をあらためることのほうが先決だろう。
床の上を総覧していく。
私はサイズ的に小さいので、床のものが目につきやすい。木目のあるフローリングで、几帳面なアリスによってワックスで綺麗に磨かれている。
ソムリエがワインを鑑賞するように、私は床の表面をつぶさに見た。少しでも異常があれば感知できる自信がある。
しかし、テラリと光る床に異常は見当たらない。さすがに誰かが歩いた足跡はないらしい。
私は落胆しなかった。
そんなものがあったとすれば、間抜けな泥棒としか言いようがないし、そもそも魔理沙の帽子を盗んだところで売り物にはならないだろう。ただ、これは私の勘だが、魔理沙の帽子がなくなるということにはなんらかの意図がありそうだ。魔理沙は客であり、ここにある帽子や洋服の中でも異質なものであるといえるからだ。
ふと視界の端に一瞬なにかが映りこみ、請負人として研ぎ澄まされた勘が違和感として私に伝わった。
注意深く観察してみると、木の棒を鳥居のような形で組んだ洋服がけの下に、なにやら黒いものが見えた。洋服がけには、洋服が何着かかけられており、それが遮蔽になって見えなかったのだろう。私の視線だからこそ見つけられたといえる。
それを手にとってみた。
つややかな黒い羽だ。さっと一撫でするとさらさらと手のなかをすべった。どうやら鴉の羽らしい。
私はそれをアリスに見せた。
『こんなものを発見した。どうやら犯人は確定したな』
それを見たアリスはすぐに喜んだ顔になった。お気楽なものだ。犯人が確定したとしても、取り戻せるかどうかはわからないというのに、あいかわらず危機意識に疎いところがある。
チラリと上海の表情を窺うと彼女はまだ呆然としていた。やれやれこっちもか。
「これは鴉の羽ね」とアリス。
「鴉の野郎か。あいつら結構、頭がいいからな。それに光りもんを蒐集する癖がある」
魔理沙が悔しそうに顔をしかめた。
それからアリスの手に渡った鴉の羽を手にとってじっと見た。手で触り、臭いもかいだ。
魔理沙が少女らしからぬ笑いを浮かべるのを私は見た。
ゆったりとした動きで、魔理沙はタンスのほうを調べるふりをしてアリスの背後に回る。
そして、なにを思ったのか知らないが、鴉の羽をアリスの耳の中にそっといれて、ふりふりとかきまわした。
「うきゃ」
アリスがすっとんきょうな声を上げて飛びのく。
「ちょ、くすぐったい」
魔理沙が腹を抱え声をあげて笑った。
「はは。羽を使ったプレイとかあるらしいぜ」
「プレイってなによプレイって」
「新手の遊びのことだろ。ゲームをすることをプレイっていうんだぜ。ちなみに制限プレイのことを縛りプレイって言ったりもする。あとでアリスといっしょに縛りプレイを楽しみたいぜ」
なれなれしい手つきで、魔理沙は左手をアリスの肩に置いた。
「他意があるように言わないでよ。気持ち悪いわね」
「細かいやつめ」
「緊張感がないのはどっちよ。自分の帽子がなくなったというのに少しは真面目になったらどうかしら」
「確かに帽子がなくなったのはちょっぴり惜しいけどな。また作ればいいからそんなに問題はないぜ」
「私は嫌よ。私の責任であなたの帽子がなくなったと思われるのが嫌」
「別に気にしてないぜ」
「私が嫌なのよ」
アリスはぷりぷりと怒ったように言う。誰に怒っているのか自分でもよくわかっていないに違いない。
魔理沙はたじたじとなっていた。
アリスはいくぶん冷静さを取り戻して、窓のそばに近づく。
「話を元に戻すけど、鴉風情が閉まってる窓を開けれるのかしら」
「勢いをつければ開けられるだろ。速さは力だ。そして弾幕はパワーだぜ」
「そうね……。可能性はあるかしらね」
「頭を働かせるより身体を動かそうぜ。鴉どもは外にしかいないしな」
「確かにね。ここでじっとしていてもしょうがない。蓬莱。上海。他の人形たちも呼んできてみんなで探すわよ」
『やれやれ仕方ないな』
私はつぶやいた。
「ありがとう。蓬莱」
熱いくちづけが再び私の頬に降り注ぐ。しかし、アリスに罪はない。
これも私がかわいすぎるのがいけないのだ。
上海はまだいつもと違って反応が弱かったが、私は彼女と手をつないでロフトを降りた。そして同業者たちを全員呼んだ。
アリスの命令に従い、私と同業者たちは各々割り当てられたエリアを探索することになった。
――4――
眼下に広がる沼地は緑と茶色を混ぜたような腐った色をしていて深い。
魔法の森というだけはあっていろいろとファンタジーな着色だ。
私にとってはもとより人間サイズであっても底なしだろう。底がないというのは本当に底がないことを言うのではなく、単に身長を越えていることを言う。
帽子にとってはどうか。
もちろん帽子にとっても底なしである。もしも沼地に落ちていた場合、回収は不可能だろう。綺麗好きが形になったような私にとって沼地を探索するというような愚行は避けたい。
それに鴉は高いところに巣を作る。
私は飛行していた。
正確には浮揚に近く、妖精に似た羽を展開して、ふわふわと空気に流されるように飛んでいる。
一時間というリミットを決め、割り振られたエリアを探索するというのが今回の私に与えられた仕事内容だった。
もちろん最終目標は魔理沙の帽子を回収することである。
乱立する木々は太陽の加護である陽光をさえぎり、視界は最悪に近い。
雪はまだ降りそそいでいて、綿のようなそれは私の顔と同じぐらいの大きさがある。
曇った空。
そして薄暗い森。
これだけの要素が揃えばさすがに人形の身であっても寒かった。人形である私が凍死することはないが、関節が動かなくなる前に仕事を完了しなければまずい。
一時間というタイムリミットも合理的な選択だったのだろう。
私は両の腕で自分の身体をかき抱き、前へ前へと飛行する。
一応目安としては高い木を目指している。鴉の鳴き声が聞こえてくればそちらのほうへ飛んでいく。どうせその程度しか手がかりがないし、少しでも確率をあげるために今やれることをやるだけだ。
運命の女神が微笑みかけてくれるために、私はなすべきことをなす。
くるりとその場でまわって、全方向を探してみた。
雑木が多く、木々の種類は単一化されていない。地面は落ち葉と雑草でふかふかのベッドのような質感がある。丑寅の方角に一目見てわかるほどの巨木があった。そこに付帯するかたちで何本か高い木が天に向かって枝を伸ばしている。
目的のものはそこにあった。
鴉の巣だ。細い木の枝で構成されている。
魔理沙の帽子はすぐにわかった。スターダストがひときわ輝いて見えた。巣まではまだ遠く、目視ではよくわからない。親鳥に見つかると面倒だが、とりあえず近づいてみるしかないだろう。紙巻を口にくわえたまま、私はゆっくりとしたスピードで近づいていく。
目の前に来ると、帽子の形がくっきりと見えた。
魔理沙の帽子は今、上下逆さまになっており、巣の一部を構成している。半ば確信めいた予感を抱き、中を覗くと、案の定、鴉のひながそこにいた。寒さをしのいでいるのだろう。
つぶらな瞳が私の瞳と交差する。
難しい事態に陥ったことを私は悟った。このまま帽子を取り去ると鴉の子ども達を傷つけかねない。だが、私には私の仕事を完遂させるという使命がある。
どうするすべきか迷っていると背後から声が聞こえてきた。
『失礼しますわ。蓬莱さん。そろそろお時間でしてよ』
声だけ聞いてすぐにわかる淑女ぶったその声は、倫敦のものだ。
倫敦の容姿は上海に似ているが顔立ちは鼻が高くプライドも高そうに見える。実際にそうなのだろう。特に目立つのはくるくるな巻き毛で、あまり関係ないかもしれないが彼女自身も回転するのが好きそうである。よくぐるぐると空中で大車輪をしている。
私はすぐに応答した。
『もうそんな時間か』
『そうですわ。あら、あなた。見つけましたのね』
私の背後にあるスターダストはまばゆいばかりの光を放っている。すぐに気づいたとしてもおかしいことではない。生まれたばかりの妖精でさえも気づくだろう。しかし、だからといって彼女が愚鈍であるというわけでもなかった。むしろ倫敦は優秀と評価してもいい。彼女は仕事をそつなくこなす。仕事に愛情を持っているというわけではなく単に仕事であるからそうするというタイプである。それでよいと私は思う。仕事には傑作も駄作もない。生きるためにしなければならないだけだ。
ただ――
一つ懸念がある。私はそれを倫敦に伝えることにした。
『雛が中にいる』
『困りましたわね。魔理沙さんはアリス様の大事なお客様。その方の帽子を見つけるのが私たちの役目です』
『そんなことは知っている』
『知っているならどうしてそうしないのですか?』
『女や子どもには手を出さない主義だからだ』
『とはいえ、このままというわけにもいきませんでしょう』
『確かにこのままというわけにはいかないな。報告するべきか』
倫敦は鼻にしわを寄せた。
『当然でしょう。優秀な私たちが仕事に失敗するなんて許されませんわ。あなたが雛を他所へやるのもできない甘ちゃんだというのなら、私が代わりにしてさしあげますけれど?』
『待ちたまえ』
私は冷静に言った。
『ここで無理に魔理沙の帽子を取ることはたやすい。しかし、仕事にスマートさが足りないと思わないか』
『なにをおっしゃいますやら。仕事は結果が大事なのですよ』
確かにそうだろう。
紙巻を口にくわえたまま、私は小さく頷く。
『仕事は結果が最も重視されるべきだという君の考えはよくわかる。しかし、同じ程度の結果がもたらされるのなら、より綺麗なほうを選択するべきではないかね』
『綺麗も汚いもありませんわ』
英国の淑女にはおよそ隙がないものの、態度は硬直的だ。賄賂にも応じそうにない。それどころか余計に関係をこじらせそうだった。同業者たちとの関係はできるだけ良好でいたほうがよい。仲良しクラブを作るつもりはないが、私が私の仕事をスムーズに行うためには彼女達の協力が必要なときがある。
私は心の中で深くため息をついた。それからあまり相手を刺激しないような優しげな声で説得することにした。
『同じ程度の結果がもたらされるのなら、より小さな労力のほうがよいのではないか』
『それはそうかもしれませんわね。ただ迅速性も求められていることをお忘れなく』
『迅速に話を進めよう。話は簡単だ。いまここで親鳥に見つかれば、彼らとの闘争は避けがたいものになるだろう。しかしながら、少しの間待っていれば雛たちを傷つけることなく、労せず帽子を手に入れることができる。彼らの巣立ちは存外に早いんだ。確か一ヶ月もあれば終わる』
『一ヶ月も魔理沙さんが待っているとも思えないわ。私たちの今回のミッションは失敗に終わってしまう』
『だろうな――』
私は冷淡な口調で述べた。
『だろうなって……、それでいいと思ってらっしゃるの』
『結果が悪かったからといって、それを嘆いていても始まらないことだってある。女神が微笑まなければ、次の機会に備えて牙を磨いておけばいい。嘆くばかりの狐も怠慢な豚もそれほどかわらない。大事なのは何をしてきたか、そして何をするべきかだ』
『私が報告するわよ』
彼女がアリスのもとへ帰還しようとした。
『倫敦待て』
『ん?』
『君はかわいい』
倫敦の顔色がさっと紅く染まった。
『いきなりなんですの』
『かわいい君が残酷なことをする必要はない。仕事の失敗は私の責任ということになる。一ヵ月後に君が偶然帽子を見つける。私が捜したはずのエリアで見つかるのだから当然私の責任になるだろう』
『あなたに益があるように思えませんけれど』
『ちっぽけな良心のうずきを止められる』
『あなたが人のために動くなんて珍しいわね』
『違う。自分のためだ。自分の心のおもむくままにそうするのだ』
『かっこつけすぎよ、あなた』
それと――と彼女は続ける。
『あまり私をバカにしないでくださる。一ヵ月後に偶然、魔理沙さんの帽子を見つけるのはあなたの仕事よ』
そういった次第で、私は今回のミッションに失敗した。
世の非情さをまた一つ思い知った。
倫敦には失敗を嘆いても始まらないと言ったものの、繊細な私の心は傷つき疲れていた。
疲れている理由はもう一つある。
その日、少し残念そうな顔で家に帰ったアリスのために、私は固形化された魔力の源、あのスターダストに似た星型を食べないでおいたのだ。
今日のミッションは、とかく失敗が多かった。
結果として魔理沙の帽子を取り戻せなかったことが、わかりやすい目に見える形での失敗。
アリスの落胆した表情、そして気にするなと声をかける魔理沙。
それも失敗の形といえる。
一番の失敗は――
温情といえるのか良心といえるのかはわからないが、見過ごしたことだった。
私が私に罰を与えたのは、『見過ごす』という行為に請負人としては些か危険なものが含まれていることに気づいていたからである。
請負人にとっては、優しさはまぎれもない罪なのだ。
――4――
漆黒の闇が辺りを覆い、視界が青く染まる夜。
私は首吊り状態から脱し、紙巻をくわえた。落ちこんでいる人形は私だけではない。
上海は作業場の大きな机の上にぽつんと独りで座っていた。クリスタルレジンの瞳は月の薄明かりに反射して気が抜けた色を見せている。いつもはストレートの可愛らしい髪も、よもぎのように乱れていた。私は柄にもなく彼女の横に腰掛けて、そのまましばらく紙巻をもてあそんだ。
『なにしにきたのよ……』
『たいしたことじゃない』
私は声が鋭くなりすぎないように注意した。
『たいしたことじゃないなら帰ってよ』
『ここは私のテリトリーだ。どこでなにをしようと勝手だろう』
『子どもみたいな言い訳して』
『誰だってそういう要素はある。君もな』
そしてすぐに続けた。
『なぜ、あんなことをしたんだ?』
『なにを言ってるの。蓬莱』
上海の瞳に恐怖が混じる。
『君はなぜ魔理沙の帽子を投げ捨てたのかと聞いているんだ』
『そんなこと――してない』
『それは嘘だ』
『証拠はあるの?』
上海の顔が醜く歪んだ。
美しいものが醜悪になるのは怒りや憎悪によることが多い。しかし、上海の場合は保身が原因だった。
『くすぐったいとアリスが言ったことは君も聞いたはずだ』
『鴉の羽のことね。それがどうかした?』
『くすぐったいということは柔らかいということだ。あの鴉の羽はやわらかかった。単純化して言えば、湿っていなかった。寝耳に水という言葉もあるとおり、耳に湿った羽をつっこまれたら、まずくすぐったいという前に冷たいと反応するだろう。それが自然な反応だ。修飾が過ぎたようだが、あの羽は濡れていなかったんだ。私自身も確かめているから間違いない』
『…………』
上海は無言のままだった。
私はそのまま続けることにする。
『そして今日は雪が降っていた。雪の成分は君も知っているとおり、水だ。外から鴉が舞いこんできた場合、濡れていなければおかしい。こんなに寒い日なら三時間程度でも乾かないだろう。私達がアリスに天日干しされるときも、冬になってからはだんだんと時間が長くなると言っていた。それにあの鴉の羽が今日ではなくずいぶんと前から設置されていたとも思えない。綺麗好きなアリスなら床の上ぐらいは毎日掃除している。そうすると必然的にあの鴉の羽は君が今日という日に備えてこの家のどこかにこっそりと隠していたということになる。あのロフトのタンスの奥あたりが一番怪しいが、隠し場所はそれほど困らないだろう……』
上海の視線が棘のように痛々しいものになる。
『でも鴉が取っていったのは本当でしょう』
『ああ、それは可能性の問題ということになる。君がしたことといえば、窓を開けてその下に帽子を放っただけだからな。鴉が取るか取らないかは運を天に任せたのだろう。しかし、鴉の羽を用意していたのは君以外にありえない。ロフトにあがって窓を開けることができたのは君だけなのだからな』
『証拠はそれだけ? そんなもの証拠にならないわ』
『そう。それだけだ。そもそも君を糾弾するつもりはない。ただ知りたかっただけだ。なぜ君がそうしようとしたのか』
上海はしばらく机の端を見つめていた。
それから自嘲の笑いを浮かべた。
『アリスが魔理沙と仲良くするのが許せなかったの』
『それが理由か』
『ええ。そうよ』
『愚かだな。君はアリスを好きなだけで魔理沙が嫌いなわけではないだろう』
『ええ。そうよ。バカだった。本当に帽子がなくなるとは思わなかったの。ただ、ちょっとしたいたずらのつもりだった。本当に鴉が取っていくかはわからなかったし、どうせすぐに見つかると思っていたのよ』
『だから後悔しているのか?』
『後悔した……。アリスを傷つける結果になるとは思わなかった。魔理沙にも悪かったと思ってる』
『なら一つだけいいことを教えてやろう。魔理沙の帽子は一ヶ月後には見つかる。いや君が見つけることになる』
『どういうことなの?』
私は帽子を見つけた経緯を教えた。
それと帽子は、もともとは魔理沙のだが、今は鴉の雛のものであることも伝えた。
上海は驚いた表情をしている。
『君の罪は消えることはない。だが、やり直す機会は残されている』
『私、アリスに謝ってくるわ』
上海は「シャンハーイ」と叫んで、アリスのもとへ向かった。
夜中にいきなり起こされたアリスは寝ぼけた表情をしていたが、上海が泣きながら許しを請い、謝罪するのを見て、すぐに何かを悟ったのか彼女のピンポン球のように小さな頭を撫ではじめた。
おそらくは、アリスも気づいていたのだ。
しかし、アリスは上海を愛するあまりに真実を後退させ、わざとわからないふりをしていた。
そんなところだろうか。
確かに愛は麻薬と同じ成分でできている。快楽と破滅を同時にもたらすものだ。
私は紙巻を口にくわえ、ゆっくりと冬の空気をフィルター越しに吸いこみながら、二人の熱い抱擁を月明かりといっしょに見つめた。
静かだ。
私がひっそりと孤独を享受していることに気づくものは誰もいない。
再び紙巻を離した口から、ため息のような白い息が空中に舞った。
愛は盲目。
というか人形たちの会話というのが面白かったですよ。
蓬莱のちょっと捻くれた優しさ?がとても良い。
楽しい作品でした。
はぁどぼいるどだな……w
蓬莱かっこいいなぁ。
蓬莱や上海、倫敦が個性的でとても良いですね
他の人形達も是非見たいです
マリアリの姉妹の様な姿も魅力的
それに嫉妬してしまう上海も人間臭く良い味だしてました
しかもダンディでかっこいいですし
あと星型魔力塊を金平糖がごとく齧る人形たちを想像して悶えますた。
この手の人形劇好きやわぁ
> 夢想は郷愁を含んだ概念なのだ……。
可愛いなーこの人形www
作者のファンになりました
この設定でもっと読んでみたいな。
是非とも続編希望
なんというか――ぶっちゃけオリキャラじゃんというつっこみがなくて驚いた。
というか、たぶん先人の偉大な作品に庇護されているのだろうなぁ。
次回は書けたら書くということでお許しを。
なんて格好良いんだハードボイルド蓬莱!!
それにしても「同業者」ってwwwww
ありがとうございます。
フィルター次第で砂糖菓子のような現実もハードボイルドになる。
蓬莱は人語では「ホラーイ」しか言ってなかったりするわけです。
これって要するに想像萌えってジャンルなのかしらん。あるいはギャップ萌え?
面白かったです
はぁどぼいるどの書き方は微妙ですが、ほのぼのでもギャグでもない類のものなのかも。
ほとんど勘で書いています。
蓬莱の一人称になんだかニヤニヤしちゃいました。
紙巻の似合う蓬莱の格好よさと可愛さがたまりませんな。
蓬莱人形ー! 好きだー!!
上海&蓬莱『無い!?』
鴉の巣は帽子でなく、普通の巣になっていた。
アリス「あら、魔理沙その帽子…」
魔理沙「ああ、魔力をたどって探したら、鴉の巣になってたんでな。ネムリタケで眠らせてから、新しい巣に取り換えておいたぜ。」