Coolier - 新生・東方創想話

チルノと旅立ちの日

2009/01/01 10:05:38
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一、


 幻想郷には春が来ていた。
 長い冬が終わると木々は一斉に蕾をつけ始め、ぬるい風がまだ残った雪を容赦なく掻き消そうとする。
 博麗神社の境内にはそれは見事な桜の木がその姿を晒している。霊夢が小さい頃に見たこの木はとてつもなく大きく、それは今でもそう感じた。
 今この桜の木は花びらを優雅に広げ、眼下でくつろぐ来訪者たちに自身の身を惜しげもなく振り撒いていた。
 縁側に腰掛けながら、霊夢は桜の下で酒盛りをする来訪者たちを見やる。
 博麗神社にはその桜目当てに連日様々な客人が訪れる。
 今日は妹紅や慧音、チルノが来ていた。
 寺子屋でチルノは学び、慧音は教える側だ。妹紅は何だか知らないが一緒に住んでいる。霊夢は詳しいことは知らない。
 最近やたらと仲の良い三人はまるで家族のようで、その輪に入るのが神社の主である霊夢であってもはばかられるような気がした。
「飲まないの?」
 隣に紫がお猪口を持ってやって来た。
 酒を入れ、霊夢に渡す。
「……ありがと」
 この妖怪が勝手に訪れるのはいつものことである。もはや突然現れたことに驚きもせず、霊夢は一気にお猪口の酒を飲み干した。所詮タダ酒である。
「あら、何か嫌な事でもあったのかしら」
「別に」
「一緒に飲まないの?」
「いいわよ。楽しそうだし」
「ふふ。それじゃあ私と一緒に飲みましょう」
「……勝手にすれば」
 渋々としつつもちゃんとつまみを取ってくるあたり、飲み相手となってくれた紫を少なからず嬉しく思っていることが窺えた。
 春はいい。霊夢は思う。
 日の光を浴びることになんの抵抗も無い。
霊夢はその場に寝転がった。紫があらあらと笑うが気にしない。
 この緩慢とした時間がいつまでも続くといいのに。
 しかしそんな望みは、その後やって来た一行に脆くも打ち壊される。
「……なんであんたがいるのかしら」
「それはこっちのセリフだ。酒が不味くなるから帰れ。いや、帰らなくていい。今すぐ桜の下に埋めてやる。この桜には赤が足りないと思ってたんだ」
「ふん。埋まるのはあんたよ」
 永遠亭一行がやって来た。
 霊夢は深く溜息をついて肩を落とす。
「なんでこいつらっていつも事前の連絡無しに、突然うちに来るのかしら」
「ほんと困っちゃうわねえ」
「あんたが言うな」
 霊夢が割って入り、仲良く酒を飲めないなら帰れと言うと、妹紅と輝夜は渋々桜の下に腰掛けた。しかし二人は一番遠いところに座っているし、全体の険悪な空気は消えない。
 仕方ないので霊夢と紫も輪に入り、一緒に酒を飲むことにした。
 幻想郷の頼りになる者の中で五番以内に入る二人が加わったことにより、場の雰囲気は幾分和んだようだ。皆の酒を飲むペースが早まる。
「でだ、私はそこで無数の妖怪に囲まれていた。このままでは八つ裂きにされて死んでしまう。いや死なないんだけどな。そんなときに現れたのが名の知れた退治屋でな」
「良かったー」
「でまあそれから一緒に退治屋をすることになったんだけど、そいつが大層強くてなあ」
「はいはい。あんたは足手まといね」
「なんだと輝夜てめえ! 私だって竜の一匹や二匹倒したさ」
「すごい。竜なんているんだ」
「昔はな。今はほとんどいないだろう。あいつらときたら歩けば大地は揺れ、口を開けば溶岩が噴き出す。おまけに他の生物を食料としか思ってない危険極まりない生物でな」
「はいはい」
「……お前はどうなんだよ。どうせ今まで何もしてこなかったくせに」
「してたわよ。まったく仕方ないわねえ。それじゃあ私と月との壮絶な争いの歴史を聞かせてあげるわよ」
「慧音、あいつの歴史喰えないか」
「馬鹿言うな……」
 夕暮れ時になった。
 出席者たちの酒の勢いは強くなる。
 その顔が赤く染まっているのは、夕日だけのせいではないだろう。
「輝夜あ。いい加減腹を割って話そうぜ」
「何よう」
「蓬莱の薬の効果を実験してみたことあるんだろ? 私は富士の火口にダイブしてみたぜ? あれは発狂しそうになった」
「あっははは! あんたってほんとに馬鹿ね!」
「なんだと!」
「あはははあははあは」
「チルノまでそんなに笑うな」
「いや……誰だ、チルノに酒を飲ませたのは!」
「てゐ、あんたまさか……」
「ジュースだって言ったら喜んで飲んでた」
「はあ……」
 霊夢は何だか意外な思いと共に妹紅と輝夜を見た。
 何やら千年以上前から殺し合っていると聞いていたが、そこまで深刻な関係ではないらしい。
 永遠を生きる二人に何があったかなど、たかだか十数年しか生きていない私にとっては知る由もない、か。
 相も変わらずゆるりとした時が流れる幻想郷。霊夢は溜息一つを春の空に浮かべた。

 昼から飲んでいたはずの一同は、夜中になってようやく帰る運びとなった。
 ぞろぞろと帰っていく客人たちを見送りながら、霊夢は小さく溜息をつく。明日もまた次第に人が集まり、自然と宴会が始まるのだろう。迎える身としては大変である。
 何人か責任感の強い人種がいて、色々と手伝ってくれるのがせめてもの救いであった。
「ほら、今日も泊まっていけ」
「うー、うーん……」
 妹紅に背負われて帰っていくチルノを見て、霊夢は薄く笑って肩をすくめた。
 チルノが寺子屋に通うようになった頃からか。彼女が頻繁に妹紅と慧音の家に泊まるようになったのは。
 家族のように連れ添って歩く三人を見て、霊夢はどこか懐かしいような苦しいような感覚に襲われた。
 私はあれを望んでいるのだろうか。
 今は失ってしまった家族という存在。
 先代の博麗の巫女との生活を思い浮かべ哀愁に浸るのは、きっと益無いことなのだろう。
 そんなことを考えていると、桜の下に女性が残っているのが見えた。
 紫だ。じっと桜を見上げている。
 他の来訪者は全員帰ったので、今境内にいるのは二人だけである。
 思えば、紫は何かと霊夢の面倒を見てくる。いつも面倒を掛けてくるように見えるが、そこにどこか優しさを感じるのは、霊夢がまだ人生経験の少ない若い娘だからだろうか。
 まるで霊夢が一抹の寂しさを感じていることを気遣うように、紫はそこから動く気配も無く桜を見上げる。
「どうしたの、紫。酔い覚ましでもしてるの?」
 声を掛けると、紫はおもむろに振り向いた。穏やかな表情だ。
 酔っ払っている様子はない。いつもの表情である。いや、いつも飄々としてからかう様な笑顔を絶やさない彼女を考えれば、こんなにも無条件に優しい表情はおかしいということになるのか。
 桜の下で向き合う二人。地面に置かれた灯りが風に揺れ、点滅するように二人を照らす。
「霊夢」
 いつの間にか紫は霊夢の目の前まで来ていた。紫は普通に歩いてきただけである。しかし半ば呆然と見ていた霊夢にとっては、スキマを使って移動してきたかのように、気づいたら目の前に彼女はいた。
「また来るわ」
 そう言って霊夢のすぐ側をすれ違い、去っていく。
 その時であった。

 霊夢は慌てて身を引き、目を見開いて紫を見る。紫はくすくすと可笑しそうに笑っている。
 片手で頬を押さえながら紅潮し、霊夢はわなわなと震えた。不意を突かれた自分に驚きが隠せないようだ。
「ゆ、紫」
「じゃあまたね」
 怒涛の抗議を避けるように、紫はスキマへと消えていった。
 哀愁に浸る自分の心を見透かされたような行動であった。いや実際そうなのだろう。チルノたちのことをじっと見ていたのがいけなかった。
 霊夢はやり場に困った怒りや恥ずかしさといった気持ちの昂ぶりをなんとか溜息に変え、地面で煌々と輝く灯りの片付けに取り掛かる。
 そしてその時には、もう胸の中の寂しさをすっかり忘れてしまっていた。

二、


 次の日の朝早くに、それは起きた。

「ごめんください」という声が玄関の方から聞こえ、霊夢は眉をひそめた。
「まさかもう……?」
 花見だろうか。こんなに早くに来るとは思わなかった。
 霊夢は部屋の掃除をする手を止めて窓の外に目をやった。
まだ朝といって差し支えない時間である。酒を飲むには早すぎる頃合だ。いくら何でもこんなに早くから一杯やる趣味は無い。酒好きの鬼でも来たのだろうか? いや、わざわざ玄関から入ってくる几帳面な者などそういない。
「……一体誰?」
 溜息混じりに霊夢は玄関へと出て行った。

 そこには見知らぬ女性が立っていた。
 妖精である。一目で分かる。
 背中に羽が生えているからだ。
そして、その羽には見覚えがあった。
 氷でできたようなガラス色の羽。透き通って綺麗なそれは、チルノの物とそっくりであった。彼女に触らせてくれと頼むと、最近渋々許可をもらえるようになった。あれは結構冷たい。女性の羽はチルノの物より一回り大きかった。
 髪は長くて青い。くせっ毛なのか、後ろで一纏めにされたそれは暴れるような激しいウェーブが掛かっていた。そのくせっ毛までもチルノに似ている。彼女はさっさと切ってやらないと、すぐ爆発したような髪型になってしまうらしいのだ。
そして、その顔にどこか見覚えがあった。
 あの生意気な妖精の少女と似たような顔。ガラスのように透き通った目。
 女性は、チルノとよく似ていた。似すぎていた。チルノがそのまま成長するとこんな感じになるのだろう。
 霊夢は今までに何度か異変を解決してきたが、この日起きたことは異変ではなく、かといって異常でもなく、しかし決定的に非日常が起きたのだと分かった。

 気を取り直して女性を見る。
 歳は二十前後か。外見上は、であろうが。妖精の歳の取り方には詳しくない。
 何やら寒気がするのは気のせいではないだろう。彼女から冷気が発生している。思わず霊夢はぶるりと震えた。
 呆気にとられていた霊夢が立ち話もなんだし、と中へ促すと、女性は静かに首を振った。
「ここの巫女の方が親切にしてくれると聞いてやって来ました」
「え? はあ……」
 確かに霊夢は博麗の巫女であり、今まで様々な異変や問題などを解決してきた。
 ときには道案内をしたりもする。迷い込んできた外の世界の住人が幻想郷を出る手伝いもたまにする。今では何かあれば霊夢に相談事を持ち込んでくる者も多い。
 だから何も分からずに幻想郷に来た者は、大抵ここに来るよう勧められる。この女性もおそらくその一人なのだろう。
「人を探しているのです」
 その女性は言った。
 チルノとよく似た羽で、チルノとよく似た髪で、チルノとよく似た顔で、そんなことを言う。
 霊夢が顔を硬直させていると、混乱する霊夢の心の準備を待つこともなく、とうとう女性はその名を口にした。
「チルノという氷の妖精をご存じないでしょうか」

 知っている、ということを告げると、女性は目を大きく見開いて笑顔を作った。そしてすぐにでも行きたいと言い、手を合わせてしきりに促した。
 結局着替えだけして出かけることになった。
 その途中、霊夢の頭の中では疑問と想像が目まぐるしく行きかう。
 だって、まさか、あの人は。
 誰が見てもそう思うであろう答えを、しかし霊夢はなかなか自分の頭の中で出せずにいた。出してしまうのがどこか怖かった。

「リフリと申します」
 妖精の女性はそう名乗った。幻想郷の外にある氷の妖精達の集落、氷の里からやって来たと。
 空は少し曇ってきたようだ。遠くを見ても、日が顔を出す見込みは薄いように思えた。
 二人は長い石段を下り、竹林を目指している。
 昨日チルノは慧音のところに泊まると言っていた。おそらく今でもいるだろう、ということで竹林の中の寺子屋に向かっていた。
 その途中、恐る恐る霊夢は確認を取ってみる。
「あの、あなたはチルノとはどういった関係で……」
「親子です」
 あっさり言われた。
 チルノは両親がいなくてずっと一人で暮らしていると聞いた。何でも、そもそも親の記憶が無いという。かなり小さい頃に別れたようだ。いや、捨てられたのかもしれないが。唯一覚えていたのが自分の名前だったという。
 チルノがどうやって幻想郷に来たのかは分かっていなかった。気づいたらここに住んでいたという。
 どうしてチルノと別れていたのか。
 どうして今になって会いに来たのか。
 聞きたいことは多かったが、しかし霊夢は部外者である。それを聞くのは無粋に思えた。
「……あの子に親がいるなんて初めて聞いたわ」
 それでも少しくらいなら、と思い、霊夢はリフリに話しかけてみた。
 リフリは一度目線を落として言った。
「事故だったんです」
 それは凄まじい風だったという。
 リフリの住む氷の里は竜巻に襲われ、多くの仲間が犠牲になった。家はなぎ倒され、木々は根こそぎ剥がれて飛んだ。その中で、彼女は胸に抱えた娘を飲み込まれてしまったのだ。
 必死に竜巻の後を追おうとしたが仲間に止められ、呆然と去っていく暴風を眺めるしかなかったという。決して自ら捨てたのではない、と。
「夫はその後すぐに死にました。毎日をただ呆然と暮らしていたとき、この幻想郷の話を聞きました。東に楽園のような人外の秘境があると。そしてそこにチルノという氷の妖精が住んでいると。私は居ても立ってもいられなくなり、こうして訪れてみたら、皆口々に知っていると言うではありませんか、チルノことを、チルノの存在を。あの子が憶えていた数少ない言葉の中に、あの子の名前があって良かった……」
 もう竹林に入っていた。竹林の奥は鬱蒼としていて暗く、こんなにも不気味だったろうかと霊夢は戸惑わずにはいられない。
 もう少し歩けば寺子屋に着く。
 行きたくなかった。
 到着してしまいたくなかった。
 もしも。
 もしかしたら、彼女はチルノを連れて帰りたいと言い出すかもしれない。それが怖かった。そして驚いた。こんな感情を抱く自分に。チルノの存在は自分の中でそんなに大きかっただろうか。
 少なくとも、妹紅や慧音にとっては大きいだろう。
 この女性を連れて行く事は、彼女らにとって酷い事になるのだろうか。
 昨日の三人の様子が頭に浮かぶ。とても幸せそうだったと霊夢は思った。
 霊夢はしかし、この女性を連れて行くのが正しいことだと分かっていた。

 そしてそれとは別に、さっきから霊夢は少しリフリから距離を取って歩いていた。
「もう少し離れましょうか」
 言われ、霊夢は怪訝な表情をする。
 寒い。
 リフリから発せられる冷気は、周囲を氷点下近くまで下げていた。
「……あの、その冷気抑えられないの?」
 チルノの場合、流石に肌に触れるとひんやりするが、側にいても寒くは無い。氷の妖精はそういうものだと思っていた。
 リフリは不思議そうに首をかしげる。
「氷の妖精の側にいて寒くなるのは当然だと思いますが」
「……そうなの?」
「はい。あの子は違うのですか?」
「ええ、まあ」
「そうですか……」
 二人は知らない。チルノが自身の冷気を抑えるために、どれだけの苦労をしてきたのかを。どれだけ辛いことがあって今のチルノがあるのかを。

 やがて二人は寺子屋に到着した。
「…………」
 止まっていても仕方が無い。来てしまったのだ。
 拳を握り締め、霊夢は戸を叩く。
「はーい。どなたかな」
 慧音が出てきた。彼女はここで教室を開いており、妹紅も一緒に住んでいるようなものであった。
 慧音は霊夢を見てきょとんとし、後ろの女性を見て目を見開いた。
「あなたは……」
 リフリがぺこりと頭を下げる。
「慧音。話は中で」
「あ、ああ……」
 霊夢に促された慧音は、おぼつかない足取りで中へと入っていった。

「チルノの母でリフリと申します。こちらに娘がいると聞いてやってきました」
「…………」
 一気に気温の下がった室内で、リフリは丁寧にお辞儀をした。気温が下がったのは彼女の発する冷気だけの影響だろうか。
 妹紅と慧音は緊張した様子で彼女を見ている。
「獣人の上白沢慧音です」
「人間の藤原妹紅だ」
 慧音はリフリをとりあえず卓袱台の前に招き、自分は台所へ行く。
「……どうぞ」
 出されたお茶を、リフリは不思議そうに見ていた。何やら困った顔までする。
 おもむろに湯飲みを掴むと、中を覗きこんだ。
「……?」
 一同が見ているなか、すぐに卓袱台に湯飲みを置いた。
「あの……こういった物は飲めないので……」
 見ると、湯飲みのお茶は全て凍りついていた。
「…………」
 慧音と妹紅はチルノが最初にここに来た時の事を思い出した。チルノも最初は出された湯飲みを凍らせたものだ。
 おもむろに妹紅は体から熱を発した。
 冷えていた部屋の空気が暖まり、慧音と霊夢の体を温める。霊夢はほっとした様子で今朝ぶりの暖かさを享受した。
 リフリは驚いた様子で妹紅を見ている。
「あなたは一体……?」
「私は炎の力を持っているんだ」
 そう言い、凍った湯飲みを掴むと、こちらに引き寄せて置いた。見ると、もう湯飲みは再び湯気を発している。
「…………」
 リフリが感心するでもなく、妹紅に不審な目を向けるのを霊夢は見逃さなかった。自身の天敵とも言える能力者に、良い感情を抱いていないようだ。ましてや娘と一緒にいるらしき人間である。
「……話は分かりました。チルノと早くに別れ、更には夫まで失ってお悔やみ申し上げます」
 事情を聞いた慧音が丁寧に対応する。その口調の硬さを霊夢は感じ取っていた。
「それで、チルノにどういった用件でしょうか」
「…………」
 リフリはじっと慧音のことを見ていた。
 そしてにこりと笑う。
 それは口だけしか笑っていなかった。それを見て霊夢は寒気を感じる他無い。
「あの、とりあえず娘に会わせてもらえないでしょうか」
 口調が硬い。発せられる冷気が激しくなる。霊夢は息が苦しくなった。
 親が会いたいと言っているのに、どうしてさっさと会わせないのか。
そう言っているようであった。
「……そうでしたね。少々お待ちください」
 口調は冷静に、慧音はまだ寝ているチルノを起こしに行った。
「…………」
 残された三人に気まずい沈黙が流れる。喜ぶべきことなのに、どうしてこんなにも空気が重苦しいのか。
「あの……」
 リフリはおもむろに妹紅に話しかけた。
「すみませんが、もう少し熱を抑えていただけませんか」
 妹紅から発せられる熱気は、たやすくリフリの冷気を打ち消していた。
 別にこの程度の熱気で氷の妖精が溶けるわけではないが、そもそも暑さで溶けたりはしないが、自身の冷気は縄張りを表す。それが打ち消され、リフリは本能的に落ち着かないようだ。
「悪いな。あんた以外の奴は寒いの苦手でな」
 全く悪びれた様子もなく言う妹紅に、リフリは目を細める。
 そんな二人を、霊夢はこの場で一番緊張した様子で見ていた。
(なんなのよ、この悪い空気……)

 少しして、慧音がチルノを連れてやって来た。
 チルノは突然母親が来たことを知らされ、まだ信じられない、といった表情をしながらも、緊張しているのかぎくしゃくした動きで歩いてくる。
 そして一同が見守る中、二人は再会した。
「チルノ!」
 リフリの行動は素早かった。
 笑顔とも泣き顔とも取れる表情をし、隣の慧音を押しのけてチルノに抱きつく。
「チルノ! チルノ……ああ良かった。またこうして会えるなんて……」
「え、あ、あの……」
 戸惑うチルノ。そんな彼女に、慧音は薄く笑いかけてやった。
「あの……」
 リフリは体を離すと、チルノの肩に手を置いて正面から顔を見つめた。
 その目には涙が浮かび、すぐに氷となって畳に落ちた。それをチルノははっとした様子で見つめる。自分もかつてはこの様に涙を氷に変えていた。
「ああ……チルノ。こんなに立派になって……」
「………………」
 呆然としているチルノ。いきなり自分の母親だ、などと言われれば戸惑うのも仕方が無い。
 しかしこの二人を誰が見ても、親子であることに疑問を抱かないであろう。それくらい二人はよく似ていた。
「憶えてない? 私のこと」
「お、憶えてない……」
「そう。小さかったものね。ごめんなさい。あなたに今まで寂しい思いをさせて……」
 口を開きかけた霊夢を妹紅が制した。静かに首を振る。
「…………」
 寂しい思いなんてさせたつもりはない。
 そう思っているのは、誰よりも妹紅であるはずなのに。
 しかし今そんなことを言うべきではない。親子の再会を素直に喜ぶべきなのだ。
 霊夢は自分の短絡さを恥じた。しかし納得できたわけではない。
 チルノに抱きつくリフリを、霊夢は複雑な表情で見つめていた。

「とりあえず落ち着いて話しましょう。チルノも戸惑っていますし」
 慧音に言われ、リフリは渋々チルノから離れて卓袱台の前に座った。
 チルノは正面から向き合うためか、それとも距離を取りたいのか、卓袱台を挟んだリフリの正面にぎこちない動きで座った。

 それからリフリは自分の娘が竜巻で飛ばされた事、いくら探しても見付からなかった事、夫が死んだ事、チルノの噂を聞いて死ぬ様な思いをしてここまで辿り着いた事などを涙混じりに語った。
 頭を混乱させて信じられない、といった表情でいたチルノも、次第に分かってきたようだ。目の前の人が、どうやら自分の母親であるようだ、と。

 チルノは長く一人で生きてきた。幻想郷で育ち、冬の妖精や妖怪のところを転々としながら面倒を見られて生きる術を学び、数年前からは木を改造した小さな家に一人で住む。
 友達はいなかった。自身から発する冷気は、大多数の同じ妖精を遠ざけた。
 唯一手を差し伸べてくれた妖精の友達がいた。
 彼女と一緒に遊び、しかしそしてその中で冷気によって彼女の体を蝕んでいる事に気づいたチルノは、一人竹林の中にあるこの寺子屋に辿り着き、教えを請うて冷気の制御方法を身に付けるに至った。
 それからというもの、すっかり明るくなったチルノは友達も増え、最近ではその友達の妖精や竹林の妖怪たちを交えて遊んでいる様子が見受けられる。
 何も考えていないように天真爛漫に活動するチルノを見て、妹紅も慧音も彼女が幸せなのだと思っていた。
 しかしチルノに親に会いたいという気持ちがあるのは当然のことであった。まだ子供である。最近は何かと世話を見てくれる慧音や妹紅を親のように慕い始めていたが、やはり本当の親に会いたかったようだ。
 リフリを驚嘆と愛敬の眼差しで見つめるチルノを見て、妹紅は人知れず目を伏せるのであった。

「チルノ」
 戻ってきて、とリフリは言う。
 当然のことであった。最初からそのつもりだったのだろう。
 子を失った。見つけたから取り戻す。それだけのことだ。親なら当然のことである。
「あたい、は……」
 視線を泳がせて手を握り締めるチルノに、リフリは優しく笑い、言い聞かせるように語り掛けた。
「氷の里には大勢の仲間がいるわ」
 ここにだっている。
「あそこは寒くて過ごし易い所よ」
 ここ以上に過ごし易い所なんて知らない。この安全でのんびりとした幻想郷の他には。
「あなたには帰る場所があるのよ。家もあるわ。だから、さあ、帰りましょう」
 霊夢は我慢できずに立ち上がった。
 妹紅と慧音が制するのも構わず、リフリに向かって叫ぶように訴える。
「ちょっと待ってよ! 戻って来て欲しい? そんなの親の勝手な都合じゃない! チルノの気持ちはどうなるのよ。チルノは幸せに暮らしてたわよ。少なくとも私にはそう見えた。昨日だって!」
「やめろ霊夢」
「妹紅! 何で止めるのよ! あんたが一番……」
「やめるんだ」
 妹紅の感情に合わせて部屋の温度が高くなったようだ。
 リフリは落ち着かない様子をしたが、しかし真剣な表情を崩さずにチルノのことをじっと見ている。
 霊夢の言葉などはなから耳に入っていなかった。
 可愛い可愛い自分の娘が目の前にいる。自分は当たり前の事をしているのであり、娘を連れ戻すのを邪魔する存在など有り得る訳が無い。
「ね、チルノ」
 彼女は再び呼びかける。何度だってそうするだろう。
「帰りましょう」
「あたいは……」
 とそこで、今まで口を閉ざしていた慧音が溜息をついた。それはこの場の注意を引き付けずにはいられない仕草であり、寺子屋で先生を生業とする者ならではのものであった。
「突然の話で理解するのにも時間がいるのでしょう。今日の所はチルノ、家に帰りなさい。帰ってよく考えるんだ。自分がどうしたいのかを。リフリさんは、霊夢、すまないが神社に泊めてあげてはくれないか。妹紅も一緒に頼む。明日の十二時に博麗神社に集まってくれ」
 先生らしい有無を言わせない口調に、リフリも文句の口を挟む隙が無い。
「それじゃあ行こうか」
 妹紅が立ち上がったのがきっかけだった。霊夢も溜息をついて立ち上がり、その流れに逆らえずにリフリも腰を上げる。
「チルノ」
 呼びかけられ、チルノはびくっと体を鳴らしてリフリを見る。
「明日、迎えに来るわ」
 そして居間には慧音とチルノが残された。
「………………」
 難しい表情で俯いているチルノの肩に、慧音は優しく手を置いた。
「時間はある。ゆっくり考えよう」
 しばし慧音の顔を見ていたチルノは、やがて力無く頷いた。


「何で止めたのよ」
 神社に戻った霊夢は、鳥居近くの境内で妹紅に口を尖らせた。
 リフリは本殿の中で休んでもらっている。
 もう日が落ちており、遥か西の空では僅かに残る日の明かりが夜の闇と混じり合って、ぼんやりとした半円の橙を浮かび上がらせている。
 境内の大桜は下で酒を飲む人がいないせいか、どこか寂しそうにその枝を垂らしていた。
「霊夢」
 妹紅は昨日まで酒を飲んでいたその大桜の下を見ながら呟いた。
「お前、一人で生きたことはあるか?」
「え……」
 霊夢は妹紅を見た。
 蓬莱の薬を口にした、不老不死の貴族の娘。
 千年以上を生きる存在の中で、唯一の純粋なる人間。
 妖怪でも幽霊でも月人でもない、人の身で千年を生きるというのは、一体どれだけの困難があったのだろう。
 たったの生まれて見かけ相応しか生きていない霊夢にとっては、まるで想像もつかない人生であったに違いなかった。
 霊夢はそんな周りに誰もいない状態を生きたことは無い。気づけば先代の博麗の巫女がいて、彼女がいなくなっても魔理沙がいて、霖之助がいて、他にも多くの人外達がいて、最近はその知り合いも増えてきた。そして、彼らのほとんどは彼女が死ぬまで存在し続けてくれるだろう。
 だから霊夢には分からない。妹紅がその長い人生の中に何を思ったのか。
「一人で生きる、というのは諦める事なんだ。自分以外何もいらない。自分一人いればそれでいい。誰かと共にある必要なんてない。でもな」
 妹紅の横顔に、霊夢は千年を見た。彼女はこんなにも遠い存在だったろうか。
「誰かと生きることを諦めていても、それでもやっぱり、誰かと一緒にいられるようになったら嬉しいものなんだ。それが親子なら尚更だ」
「妹紅……」
 霊夢は今の妹紅と慧音を思い浮かべる。二人はとても仲が良く思えた。
 それでも霊夢は問いかけずにはいられない。
「でも、じゃあ聞かせて妹紅」
 妹紅はおもむろに霊夢を振り向く。
「もしもチルノが残りたい、って言ったら、あなたはどうする?」
 風が吹いた。吹いたとなれば桜が舞う。花びらは一瞬二人の視界を奪った。それが髪につくのも気にしないで二人は向き合っている。
 妹紅はやがて、しかし答えに詰まった。
「……卑怯だ。そんなことを聞くのは」
 本殿に入っていく妹紅を、霊夢は俯いたまま見送った。


「これは自分で考えなければいけない事だ。その上で聞きたい事があったらいつでも来い」
 そう言って、慧音はチルノを家へと帰した。
 そして居間に戻り、卓袱台に両肘を突いて頭を手に預ける。
 部屋の端に重なっているプリントが目に付いた。
 ああそうか、明日生徒に返すテストの採点をしなくてはいけないな。
 しかしどうにも動けない。
 甘かった。
今日あった事を整理して、慧音はそう言わざるを得ない。
 妹紅がここに住んでいるのも成り行きである。正式に住処とされている訳でもない。いつの間にかここに来る機会が増え、その内住んでいると言っても差し支えないくらい居つくようになった。別に妹紅がふらっと何処へ行こうと咎める事も無い。
 チルノにも同じ感覚で接した。
 彼女には帰る家があって、来たい時に遊びに来る。
 心地の良い距離感。都合の良いとも言う。慧音も妹紅もそれに甘んじていた。
 しかし彼女達は既に巣立ちを終えていた。自ら親元を離れることを選び、自立の道を歩み、そして自分で居場所を作った。
 チルノは違う。彼女には故郷が無かった。だから妹紅や慧音のように故郷を捨てることもできなかった。
 チルノには決定的に、帰る家など無かったのだ。
 帰るべき場所が足りなかったのだ。
「………………」
 慧音は部屋が暗くなってからも、じっとその姿勢のままでいた。


 チルノは家に真っ直ぐ帰らず、いつも遊んでいる花畑に寄っていた。
 妖精達や、最近では同じ寺子屋で学ぶ竹林の妖怪達と一緒に来る場所である。
 日は落ちかけ、雲で濁った夕日が鈍く春の花畑を照らす。
「………………」
 花畑の中央に座り、チルノは手元の花を力無くいじくっていた。
 突然現れた母親。会った時、何となく分かった。あの人は母親に間違い無いのだと。
 冷気に含まれる微妙な魔力に覚えがあったのだが、今のチルノはそこまで詳しい事に自覚は無かった。
 一緒に行く。
 帰る。
 故郷へ。
 自分が本来住むべきだった場所。
 チルノは花畑を見渡した。
 ここでは大勢の友達と遊んだ。彼女達の多くは親の所へと帰って行く。
 そんな光景を見て、チルノはいつもどうしようもない惨めな気持ちに襲われるのであった。
 一人の家に帰ると何もする気が起きなくなり、普段では想像も付かないような虚ろな表情でただ飯を食べて寝る。
 最近は寺子屋に入り浸る回数も増えてきた。怖かったのだ。一人でいると驚くほど表情の出ない自分に。しかしそこは自分の帰るべき場所ではないと分かっていた。
 今日母親に会い、故郷の存在を知らされ、チルノは心のピースがぴたりと埋まった感覚を覚えた。
 自分がずっと求めていたのは其処なのかもしれない。
 本当の意味で「ただいま」と言える場所。おそらく其処はそうなのだろう。
 いつしか日は完全に落ち、月が代わって薄ぼんやりと雲の向こうから花畑を照らす。
 一人の妖精がやって来たのは、そんな時だった。
「チルノちゃん、どうしたの?」
「ダイちゃん……」
 緑の髪をした春の妖精で、チルノの最初の友達である。
 ダイは普段遊ぶ時と同じ様にチルノの正面に座った。
「どうしてここに……?」
 疑問を呈すチルノに、ダイは静かに溜息をついて答えた。
「何だか、チルノちゃんが悩んでる様な気がして」
 ダイは慣れた手つきで花を摘み、あっという間に王冠を仕立てていく。
「はい」
 チルノの頭に白い花の王冠が乗った。それは月明かりを僅かに反射し、この闇に薄い光の輪を浮かび上がらせていた。
「ダイちゃん……」
「なあに、チルノちゃん」
 チルノは今日あったことを話した。
 突然母親が来たこと。自分のことをずっと探していたこと。母親も一人で生きてきたこと。帰るよう言われたこと。そこは自分が帰るべき場所だと感じていること。
 それはつっかえつっかえで拙い説明だったが、ダイはしっかりとチルノの言いたい事を理解していた。
「そっか。そうなんだ」
 ダイもまだ子供である。仙人のような気の効いた助言をしたりはできない。
「チルノちゃん」
だから、彼女は彼女にできる範囲で精一杯のことを言おうと思った。
「私はチルノちゃんと遊んで楽しいよ。楽しかったし、これからもずっと遊べたらいいな、って思う」
「ダイちゃん……」
 ダイはチルノのことを抱きしめた。チルノはひんやりしていて気持ちが良い。以前の冷気を撒き散らしていた頃では考えられないことだった。チルノは自分のためにここまで努力をして冷気を抑えてくれた。だからこの心地良さはただそれ以上にダイの心を安らげてくれる。
「行ってらっしゃい、チルノちゃん。何処へ行っても、私達が友達だってことに変わりは無いから」
「…………」
 いつまでも雲が晴れぬ中、二人はいつまでも暗い花畑で抱き合っていた。


 翌日。
 博麗神社の境内に一同は集まっていた。
 雲は相変わらず晴れず、昨日より一層気圧が高くなったかのように霊夢の胸を締め付ける。
 昨日よりも寒いようだ。春を満喫していた鳥達も、今日は木の奥で羽を休めていた。霊夢は思わず身震いする。
「チルノ」
 リフリが呼びかける。
 チルノはやがて、しっかりとした口調で答えた。
 帰ると。
 氷の里に連れて行ってほしいと。
 リフリはほっとした様に溜息をつき、チルノを強く抱きしめた。
 その様子を、霊夢は苦しい表情で見つめていた。
 慧音を見た。悲しげな表情をして目を伏せている。
 彼女はチルノを引き止めないだろう。霊夢はどこかそう感じていた。いつも他人の事ばかり気にしている彼女は、きっとチルノの事を考えて止めないだろう、と。
 妹紅を見た。いつもと変わらない涼しげな表情だ。
 霊夢は妹紅が引き止めてくれるのでは、と思っていた。
 しかし妹紅は何も言わない。何を思っているのか、親子が抱き合うのをじっと見ているだけだ。

 すぐにでも出発したいとリフリは言い、チルノもそれに応じた。
「慧音」
 チルノは慧音に抱きついた。チルノの背にそっと手を回し、慧音は「いつか遊びに来い」と言った。それにチルノは胸に顔を埋めたまま頷く。
 慧音も故郷を捨てて幻想郷にやって来た。
 だからもしも次にチルノが彼女達の前に現れるとしたら、成長し、故郷を捨ててからのことであろう。
 もしかしたらそんな日は来ないかもしれない。でもその時になったらいつでも迎えてやろう。
 慧音は手が震えるのを必死に抑えていた。
 次にチルノは妹紅に抱きついた。
 妹紅はくせっ毛をぽんぽんと叩いてやり、静かに目を閉じた。
「元気でな」
「うん」
 妹紅が言ったのはそれだけであった。
 霊夢が眉を潜めていると、チルノは霊夢にも抱きついた。
「チルノ……」
 思えば誰かを失うのは久しぶりだった。この幻想郷に来る者はいても、去る者はそういない。
 この腕の中にいる小さな妖精は、今からいなくなってしまうのだ。
 たったの妖精一人。しかし気づくと、霊夢は強くチルノのことを抱きしめていた。
 昨日の内に心の準備はしていたはずだった。しかしいざ別れの時が来ると、どうにも引き止めたくなる。そしてそれを自分が言うべきでは無いのだろう。
 結局何も言えず、やがてチルノは母の元へと行ってしまう。
 二人は手を繋ぎ、鳥居へと歩いて行った。
 博麗神社の鳥居は外の世界への扉である。空間が歪み、外の光景が映し出される。
「…………」
 霊夢はじっとその様子を見ていた。隣にいる二人の姿をどうしても見る事ができない。どんな表情をしているのか、そんなことを知って何になるというのか。
 チルノが鳥居の前で手を振った。
 霊夢は慌てたように必死に手を振り返す。
 隣の二人の様子が気になったが、今は一瞬でもチルノの姿を記憶に焼き付けておきたかった。
 鳥居はやがて元の姿に戻った。
 霊夢はそれでもしばらくの間、じっとその様子を眺めていた。それは隣の二人も同じだった。
 空に雷鳴が轟く。風が吹き、葉が擦れる音がざわざわと波打つ。
 やがて無言で妹紅が歩き出す。つられて慧音も後を追う。
霊夢はただ呆然と。何の変哲もなくなった鳥居を眺め立ち尽くすしかなかった。


「元気無いわね」
 こたつに入りまだ呆然としていると、紫がやって来た。ことわりもせずにこたつに入ってくる。今はそれを気にする気分じゃなかった。
「……知ってたんでしょ」
「何が?」
「あの人が来たこと」
「チルノのお母さん?」
「そうよ」
 結界全般に詳しい紫が、部外者の侵入を察知できないわけが無かった。
 紫はこたつの上のみかんを手に取り、爪を立てた。
「私はこの幻想郷を守るわ。うまくやって行くコツはね、来るもの拒まず去るもの追わず」
「…………だから?」
「何が?」
「二人を送らなかったのは」
 紫がスキマを使えば一瞬で二人を氷の里とやらにまで送れたのだろう。しかし紫は現れなかった。
「去っていくなら、もう部外者よ」
 霊夢は頭に血が上るのを感じた。
 分かっていた。生き別れの親と再会して帰っていく。良い事だろう。しかし、
「あんたは寂しくないの?」
 この飄々とした妖怪は、誰かを失って寂しいと感じる事は無いのだろうか。
「しょうがない事よ」
 おそらくそれは肯定なのだろう。しかし今は聞きたくなかった。
 霊夢はこたつに頭を預けて目をつぶった。そしてそのまま意識を失う。その途中、紫が笑って頭を撫でたような気がした。


 妹紅と慧音は寺子屋まで帰ると、しばし無言で居間に座っていた。
「…………?」
 慧音は何やら暖かい事に気づいた。見ると、妹紅が顔を背けながら熱を発し、部屋全体を暖めている。それはとても優しい暖め方だった。
「………………」
 彼女なりに慧音を気遣っているのだろう。
 少し元気の出た慧音は幾分無理をして笑顔を作り、「晩御飯にしよう」と腰を上げた。
「………………」
 妹紅はただ呆然と窓の外を見ている。
 随分と久し振りだった。誰かを失うのは。
 忘れてしまうくらい昔のことだった。いつだったろうか、最後に友人を無くしたのは。
 この様に昔の事を忘れてしまうのは、自分が人間だからだろうか。妖怪なら百年前のことでも昨日の事のように思い出せるのだろうか。
 なあ、私は友人が私を置いて消えてしまう時、どんな事を思っていた? どうやって踏ん切りをつけていた?
 もう忘れてしまったよ。

三、


 それから二週間ほどが経った。
 最初に氷の里に辿り着いた時、チルノはその光景に思わず目を奪われた。
 どこを見ても氷があった。氷でできた木々は氷の葉まで付け、風に揺れる事も無くきらきらと日を反射して光っている。
 家は雪と氷でできていた。真っ白な家には所々窓らしきものが見受けられる。妖精らしい小さな家だ。そしてそれが無数にある。家は全て通りに面しており、ずらりと道を挟んで二列に並んでいた。
 里の中央には巨大な氷の木がそびえ立っている。遠くにあるので分からないが、おそらく葉っぱ一枚が直径一メートルはあるだろう。
 そして里の至る所でチルノと同じ氷の妖精が飛び回っている。
 空気まで凍りついたようなその場所に、チルノは格別の心地よさを感じた。
 氷の里は幻想郷と同じような人から隠れた存在である。しかしその結界の強度は比べるべくも無い。強い力を持った妖怪には容易く破られてしまうだろう。氷の妖精たちは身を潜めるようにひっそりとここで暮らしていた。
 昔から住んでいたという雪の家に二人はやって来た。他の家と同じ、白くて小さな家だ。
 最初にここに来たとき、チルノは少々戸惑っていた。何しろ全く知らない里である。右も左も分からないとはこのことであろう。
 しかし次第に慣れてきたのか、今では近所の同い年くらいの子と遊ぶようにもなった。リフリを母と呼ぶのにも、いつしか抵抗は少なくなってきた。
「この里には慣れた?」
「え……た、多分」
 家で食事をしながら、チルノは歯切れ悪く答える。
 二人の食事は凍りついた果実である。この氷の里で取れるものであり、氷点下でも構わず実を付けるのでここでの主食となっていた。
「チルノ、我慢しなくていいのよ」
 いつも言っているように、リフリは優しくなだめる様に言う。
「これからは冷気を思う存分出していいのよ」
「………………」
 よく言われることであった。
 最近知り合った近所の子と遊ぶときにも、「なんで冷気出してないの?」と不思議がられる。
 しかし冷気を抑えることは幻想郷で皆と暮らすために必要不可欠のことであり、あそこで暮らせる資格、のようなものだと感じていた。
 リフリはそれが気に喰わなかった。冷気を抑えているうちは、この子は幻想郷に帰る気ではないのか、と心配になる。
 だからしきりに冷気を出すよう言うのである。
「……さ、今日はもう寝ましょう」
 大きなベッドがある。氷点下でも凍らない生地でできたものだ。そこにいつも二人で寝ている。
 灯りを消し、二人はベッドに入る。
 チルノは次第に里の一員となっていた。新しく来たチルノを皆は疎外するでもなく受け入れる。
 このままここで暮らせば、時間は掛かるがおそらくチルノは問題なく氷の里の一員となるであろう。
 そして時が経って幻想郷に戻ってくる。すっかり大きくなったチルノを、全く変わらない妹紅と少しだけ変わった慧音が笑顔で迎え、再開を喜び合う。そんな時が来るかもしれない。
 遠い幻想郷を思い、チルノは眠りについた。

 その晩だった。


 ……ズル  ……ズル

 何か物音が聞こえ、チルノは目を覚ました。
「…………?」
 遠くから微かに聞こえる。何かを引きずるような音。
 体を起こし、耳を澄ましてみると確かに聞こえる。
 きょろきょろしていると、隣で眠るリフリも起きてきた。
「あの……お母さん、何か聞こえる」
「そう?」
 リフリはチルノを寝かしつけた。
「気のせいよ。きっと風の音」
「でも……」
「よくあることよ」
「…………」
 よくあると言われてはそんなものだと納得するしかない。チルノはまだまだ氷の里は初心者なのだ。
 チルノはやがて眠りにつく。
 そしてその薄れる意識の中、何かが崩れるような音と共に、声が聞こえたような気がした。

…………れぬ


 翌朝、チルノはリフリと朝食をとっていた。
「今日も近所の子と遊ぶといいわ」
 もう寺子屋に通う事もない。宿題を出される事もない。
 小難しいことからの開放感と、それでいいのだろうかという自責を感じ、チルノは今日も遊ぶべく外へと繰り出して行った。

「……あれ、ミヤちゃんは?」
 ミヤというのは近所の子で、最近チルノと遊んでいる女の子である。ここに来てから毎日一緒にいてくれるので、チルノは彼女に少なからぬ好感を抱いていた。
 今日はそのミヤの姿が見えなく、集まった氷の妖精達に聞いてみたのだ。
「………………」
 妖精達は答えなかった。なぜか暗い顔をし、「知らない」とだけ言って遊び出す。
 都合の悪い日もあるのだろう。そういえば彼女の家も知らないのだ。
 チルノは疑問を頭の片隅において、遊びの輪に加わった。

 こうして遊んでいると幻想郷でのことを思い出す。ダイとは永らく遊んでいたし、他の妖精達とも最近よく遊ぶようになった。寺子屋で一緒に学ぶ妖怪達とも放課後かくれんぼをしたりする。そしてそのまま竹林で迷子になった子が出て妹紅と慧音が探しに出る。
 そう、あの二人が、
いつものように、自分達を心配して、来てくれる。
「チルノちゃん、なにそれ」
 言われ、チルノは気づいた。
 泣いていたのだ。目からぼろぼろと大粒の涙が流れ、地面に落ちるとすぐに固まる。
 その様子を、周囲の妖精達は首をかしげて見ていた。
 何故泣いているのか、というより、そもそもなぜ目から水が出るのか不思議に思っていた。ここでの妖精達にとって、泣くというのは目から氷の塊を出す事なのだ。冷気を抑えているチルノから出る液体の涙など、初めて見る光景であった。
 しばし涙が止まらないチルノを、妖精達は不思議そうに眺めていた。

 昼時になって家に戻る。その最中、チルノは妙なことに気づいた。
「……?」
 家は全て大通りを挟むように並んでいる。通りに面していない家などない。
 そしてその家が、何やら昨日より減っているように思えたのだ。
 元々チルノの家は通りの端のほうにあった。五軒隣からは家は無く、ただ小さな雪の山がいくつも盛られているだけである。
 そして更に妙な事に気づく。その雪の山は、ちょうど家と家の間隔と同じような間隔でずっと向こうまで続いていた。
 今までは特に気にする事も無かった。何しろここの事には疎いチルノである。そういうものなのだろうと不思議に思う事も無かった。
 しかしここに来てようやく何かおかしいと思うようになった。
「お母さん、あの雪の山は何?」
 家に帰って聞いてみると、リフリは昼食を用意しながら薄く笑った。
「何でもないのよ」
 それだけで答えてくれない。
 チルノは目の前の食事に目を落とした。
 相も変わらず果実の食事である。別に不味くは無いし栄養もありそうだが、幻想郷での熱い御飯や味噌汁を思い、懐かしくなる事はある。
 そんなことを口に出すほどチルノは子供ではなかったが。
 午後、妖精達に雪の山のことを聞いてみても、誰もが「分からない」と言うだけで答えは返ってこなかった。
 そしてまた夜がやって来る。


 ……ズル ……ズル

 また聞こえた。
 チルノはこの音を聞くとどうしても落ち着かず、目が覚めてしまう。
 リフリは寝ている。チルノは、このリフリが実は起きているのではないか、と思うようになった。起きていて、この音が気になっていて、それでいて無理やり寝ようとしているのでは、とも思うのだ。

 だって。
 この音は。
 風の音とは程遠い。


 …………されぬ。

 またも声が聞こえた。それは昨日よりもっとはっきりと聞こえるようだ。
 やがてそれは去って行く。
「…………」
 そしてその音が去って行って初めて、チルノは再び眠りにつけるのである。

 翌朝、気になったチルノは朝食を食べる前に外に出てみた。
リフリが「朝食は」と言うが構わない。
 音のあった方に目を向けると、大人の妖精達が家を取り壊している最中であった。
「あの」
 話し掛けてみると、暗い顔をした男の妖精が振り向く。
「どうして壊してるんですか?」
 男の妖精はしばしチルノを見ていると、「それは聞いてはいけないことだ」と言って作業に戻っていった。もう話す気は無いようだ。
「………………」
 チルノはなんとなく、聞いてはいけない事なのだろうかと感じるようになった。
 そして気づく。
 取り壊された家は、あの小さい雪の山になっていた。
 通りの向こうを眺める。
 通りの左右には、延々と雪の山が続いている。
 そして分かった。
 この雪の山は全て、かつて家だったものなのだ。

 そのことをリフリに言うと、リフリは穏やかな笑顔をした。
 チルノはこの笑顔が何となく怖かった。
「引っ越したのよ。定期的に引越しをするの」
「そう、なの?」
「そうよ。うちももうじき引越しをするけれど、直ぐに済むから準備はしなくていいわ」
「…………」
 ならばなぜ聞いてはいけない事になるのか。
 分からなかったが、きっとそれは答えてはくれないことだと思った。

四、


「………………」
 ある日の夜、霊夢は境内の大桜をじっと眺めていた。
 連日宴会が開かれていたが、今日は誰も来ないようだ。
 そして何度宴会に参加しても、霊夢の心の隙間は埋まらなかった。妖精一人を失った悲しみ。そしてずっと引っ掛かっていたのだ。チルノと別れる時の妹紅の態度が。妹紅はあれから一度もここには訪れていない。
 あの妹紅を、自分はどこかで見たような気がした。どこであっただろうか。
「飲まないの?」
 紫がやって来た。もはや突然現れても驚きもしない。隣に座り、一緒に大桜を眺める。
「そんな気分じゃないのよ」
「そう」
 大桜が風に揺れた。大量の花びらが舞う。もうじきこの桜も全て散ってしまうだろう。
「もうじき花見も終わりね」
 言われると一抹の寂しさを覚える。
 終わってしまう。桜が。
 霊夢は隣に座る妖怪を見た。
「紫」
「なあに?」
「あんた、あとどれくらい生きるの?」
 今まで聞かなかった。きっと自分が死ぬまでは確実に生きているだろうと思っていた。だから聞く必要が無かった。なぜそう思ったのだろう。
「初めてね、そんなこと聞かれるの」
 そうだ。初めてだった。
 そこで気づいた。
 自分は無責任だったのだ。自分が生きているうちは存在し続けてくれるのだから、寿命を聞く必要も無い。
 そうやって自分の死に目を看取ってくれることを押し付けて。
 きっと死ぬ時になったら多くの妖怪達が枕元で自分を見下ろし、名前を呼んでくれている。そして静かに目を閉じるのだ。なんて安らかな人生。
 なんで自分勝手なのだろう。
 その妖怪が死ぬ時の事など考えもしなかった。彼らは一体誰に看取ってもらうのだろう。
 分かった。あの時の妹紅が。
 あれは自分自身だ。自分の大切な誰かが死ぬことから目を逸らしていた、自分そっくりだ。

 霊夢は立ち上がった。
「紫、ちょっと行って来る」
「行ってらっしゃい」
 紫は笑って見送った。
 全てを見透かしたような穏やかな態度。ここに来たのも、自分に何か気づかせるためではないのか。しかし霊夢にそんなことを気にしている余裕は無かった。
 霊夢は文字通り寺子屋へと飛んでいった。


「……何か用か」
 やって来た霊夢を見て、妹紅は面倒くさそうに応じた。
「ちょっと聞きたい事があるの」
 有無を言わさぬ口調だ。妹紅は渋々竹林の奥へと一緒に歩いていく。
その様子を慧音はどこか安心した様子で眺めていた。
 ここ最近、妹紅はずっと上の空である。話しかけても「……ああ」といった生返事しか返さず、まともに話を聞いていないようであった。外出も増え、寺子屋に泊まる機会も減ってきた。
 ほんの一年も経っていない。チルノが初めて寺子屋を訪ねてきてからたったのそれだけである。
 しかし彼女の天真爛漫な振る舞いは、近くにいる者をとても大きく元気付けてくれていたのだと、今になって分かった。
 霊夢は頼りになる巫女である。きっと妹紅に良い助言をしてくれる。
 二人が連れ添って歩いていくのを、慧音は願うような気持ちで見送った。


「……で? なんだ聞きたい事って」
「チルノのことよ」
 名前を出すと、妹紅は嫌そうに目を細めた。
「あいつがどうした」
「なんで引き止めなかったの?」
「……今更なんだよ」
「いいから答えて」
「……慧音にもそれを聞いたのか?」
「あんただけよ」
「どうして私だけに聞くんだよ」
「あんただからよ」
 霊夢の言っている意味が分からなかった。
「分かるように言ってくれ」
「あんたの事はあまり知らないわ。蓬莱の薬を飲んだ不死の人間。輝夜に求婚した貴族の娘。輝夜のライバル。炎を操る能力者。寺子屋に住んでる。竹林の案内人。でもね」
 霊夢はじっと妹紅を睨むように見つめていた。妹紅は霊夢の目を見ない。すっかり気力を無くした妹紅を霊夢は見る。
「あんたが誰よりチルノのことを思ってたのは知ってる。親と一緒にいるべきとか、そんな誰だって分かるような理屈じゃない。そんなものを平気で無視するのがあんた。それが藤原妹紅って奴だと思ってたのよ」
「………………」
 妹紅はおもむろに顔を上げた。目を逸らしてはいけないと思ったからだ。
 なぜこいつはこんなにも人の心を揺らすのだろう。
 自分でもうまく言葉にできなかった感情が、霊夢に言われた事でこぼれて落ちる。
「私はあいつと一緒に死ねない」
 霊夢は眉を吊り上げた。
 分かっていた。こんなことを言って説教を受けるのは。何度だって自問して、何度もその都度答えを出してきたはずなのに。
 幻想郷で暮らす内に忘れてしまっていた。ここの生き物たちは長生き過ぎる。自分と同じ不老不死の娘さえいる。失う悲しみを忘れてしまっていた。悠久の時の中で幾度と無く出してきた疑問への答えを、忘れてしまっていた。
「あんた何言ってるのよ! じゃあ慧音は! 慧音だってあなたより先に死ぬ! それだけじゃないわ。この世に生きる生物は全てあなたより先に死ぬ!」
 妹紅の中で憎たらしい姫が頭に浮かんだ。しかしそれはすぐに消える。
 霊夢は自分の思い違いに気づいた。自分は以前、この妹紅に永遠を見た。でも違う。
 遠い存在? そんなことはない。なぜなら、彼女はここにいる。今自分の目の前にいて、触れられる存在だ。自分と同じような悩みを抱えて迷っている、ただの人間だ。
「それであなたはどうするの!? 全ての人を遠ざけて生きるの!? 違うでしょう! 誰だって先に死ぬし、後に死ぬ。人間同士だってそうよ。輝夜は言ってたわ。先の事は考えず、一瞬一瞬の今を生きるんだって。それは決して大切な人を遠ざけることなんかじゃないわよ!」
 霊夢は大きく息を吸い込んで言った。妹紅の瞳は揺れている。
「あんたは失う悲しみから逃げてるだけじゃないの!」
 その通りだと、そう妹紅は思った。
 何度彼女と同じ事を言われただろう。何度彼女と同じ事を自分で考えただろう。その度にああそうかと思い、決意を新たに今日を生きる。それを何度も繰り返してきた。
 なんて自分は不完全なんだろう。こんな大切な事を忘れているだなんて。
 チルノが行ってしまうと聞いて、ほっとしていた自分に気づいた。
 これで彼女の死に目を見なくて済む。
 自分は逃げていた。自分を置いて誰かが死ぬ悲しみから目を背けていた。
 今まで何度も繰り返されてきたことで、分かっていたはずだったのに。何度も言われないと分からない。自分はなんて愚かな人間なんだろう。
「…………霊夢」
 霊夢は泣いていた。妹紅は泣かなかった。何度も経験して泣いてきたことだから、もう泣かなかった。
「会いに行くよ」
 霊夢の顔が晴れる。妹紅は、なぜ霊夢が博麗の巫女であるのか分かった気がした。
「ありがとう」
 そう言い、妹紅は走り出した。
 チルノに会おう。
 私はまだ全ての気持ちを伝えてない。
 私の全てを吐き出そう。私の全てをぶちまけよう。
 嫌がるチルノを強く抱きしめて、戻ってほしいと懇願しよう。
 断られた時の事など頭に無かった。今はただ会う事ことしか考えられない。
 チルノ。
 馬鹿な氷の妖精。
 言いたい事があるんだ。
 お前の事が大好きだ。


 走っていった妹紅を見て、霊夢は自嘲気味に笑う。
 何を偉そうな事を。
 自分がこんな説教をできる立場だろうか。今だに悩んでいるというのに。自分が老いて死んでしまっても、周りの妖怪たちはその姿も変えずに生きていく。何度自分ももっと生きたいと思ったことだろう。
 しかし妹紅に出会い、永遠の命を得た人間の少女だと知り、まさに自分の望みの体現者だと分かり、思い知らされたのだ。自分の考えの浅はかさに。
 永く生きることの重みを背負った少女。死を看取られる側から、長い寿命を持つ妖怪の最期すら看取る存在へ。それはどれだけ辛い事だろう。
 彼女に、霊夢は少なからず尊敬の念を抱いていた。
「立派なこと言うようになったじゃない」
 いつの間にか紫が側に来ていた。
「紫……」
 紫は嬉しそうに霊夢を見る。この可愛らしい巫女の成長が楽しくて仕方が無いのだ。
「紫」
 霊夢は紫に目を背けたまま歩き出した。そして小さく、しかしちゃんと聞こえるように言う。
「ありがとう」
 どういたしまして。
 紫は満足そうな笑顔で言ったという。


 門を激しく叩く音が聞こえる。
 慌てた様子で藍が開けると、そこには真夜中の森の中を突っ切ってきたのだろう、全身ぼろぼろでぐしゃぐしゃの妹紅が肩で息をついて立っていた。
「ぜえ……ぜえ……ゆかり……いるか」
「え、ええと……」
 異様な様子の妹紅に引きつった顔で応じていると、空間のスキマから紫が現れた。
「何か用かしら?」
「紫……氷の里まで連れて行ってくれ」
「なんでそんな事しないといけないのかしら」
「頼む!」
 九十度頭を下げる妹紅。それをおろおろした様子で藍が見ている。
紫はくすりと笑ってすぐに応じた。
「いいわよ」
 妹紅はばっと顔を上げて笑顔になる。しかしすぐに顔を曇らせた。
「……お前、全部知ってるのか」
「何の事かしら」
「……いやいい」
 紫の側に空間のスキマが生まれた。無数の目がぎょろりとこちらを向いてくる。このスキマというものはいつ見ても不気味だ。
 それを睨み返し、妹紅はずんずんと足を踏み入れた。その気迫に押されたのか、目が道を開けるように左右に避ける。
 チルノ、今会いに行くから。
 そしてスキマは閉じて消えた。

五、


 また聞こえる。
 再び夜中に目が覚め、チルノは布団から上半身を起こした。
 音は段々と大きくなっている。いや、これは近づいているのか。
 隣のリフリは変わらず眠っている。無言で「眠れ」と言われているようであった。

 ……ズル ……ズル

 何かを引きずる音だと思っていた。
 しかし違う。これは何かが這いずる音だ。
「お母さん」
 リフリは答えない。聞こえているのかもしれなかった。しかし何も言わない。
 這いずる音は大きくなってくる。

 そして音は、
 すぐ、
 隣まで。

 がらがらという音が響いた。まるで雪か氷が崩れる音だった。
 チルノは思わずベッドから降りようとする。その手をリフリが掴んだ。
「だめよ」
 強い力で枕元へ引き寄せる。腕が痛くなり、チルノは小さく呻いた。
「なんでも無いのよ」
 リフリは言う。ここ数日ずっと言っているのと同じように。
 何かがひしゃげる音が聞こえる。
 悲鳴が聞こえる。
 水のこぼれる音が聞こえる。
 啜る音が聞こえる。
 そして、あの声が聞こえる。

 …………たされぬ。

 ずる、ずる、という音と共にそれは去って行った。
 チルノの動機が早くなる。目には涙まで浮かんでいる。
「お母さん、何か、来てた」
 リフリはそれには答えなかった。ただ布団に入るよう言い、自分も目を閉じる。
「………………」
 チルノはその日、遅くまで寝付くことができなかった。


 次の日、チルノは隣の家を見た。雪の山が積もっているだけであった。
「………………」
 いつもの遊び仲間が集まると、最初の頃の半分くらいしかいないことに気づいた。
「他の皆は……?」
 聞いても誰も答えない。
「昨日の音、何だか知ってる?」
 聞いても誰も答えない。
 聞こえていないかのように皆は遊び始める。
「………………」
 チルノは手を強く握り締めた。
「もこ……」
 どうしてだろう。こんなに会いたい。

そしてまた夜がやって来た。

 晩御飯はいつもより豪華だった。
「これ、美味しいね」
「そう? 今日はとく……」
 言いかけて、リフリは口をつぐんだ。
「お母さん?」
「何でも、無いのよ」
 見るとリフリが泣いている。大粒の氷の塊がぼろぼろと音を立ててテーブルの上に落ちる。
 チルノはただ呆然とその様子を見ていた。
「ありがと、チルノ」
 リフリは泣きながら語りかける。
「なに、が?」
「あなたが、いてくれて。あなた、と、一緒に、暮らせて」
「………………」
 チルノはリフリをそっと抱きしめた。
「うん。これからはずっと一緒だよ」
「ええ、そうね」
 リフリは強くチルノを抱きしめる。
「ずっと一緒ね」
 とても強く抱きしめる。チルノが痛くて顔を歪めるくらいに。

「おやすみチルノ」
「おやすみお母さん」
 二人は布団に入った。灯りを消す。
 その日、リフリは強くチルノを抱きしめたまま眠った。
 そして、


 ……ズル ……ズル

 チルノはもう気だるげに目を開けた。
 気にする事は無い。母がそう言っているのだ。
 リフリを抱きしめる力を強める。
 すると、リフリも力を強めたようだ。チルノ以上の力で強く抱きしめてくる。まるで逃がさないかのように。

 ……ズル ……ズル

 音は大きくなった。今までのどれより大きい音だ。

 そして、
 音は、
 家の前で。

 ドアが、ひしゃげた。

 チルノが顔を上げる。そうせずにはいられなかった。
 それをリフリが強い力で押さえつけようとする。
「お母さん!?」
「大丈夫。大丈夫だから」
「離して!」
 リフリは決してチルノを離そうとしない。

 そしてドアが壊れ、
 それは入ってきた。

「あ……」
 チルノは言葉を失い、目を見開いた。

 それは巨大な顔であった。
 金色の目はぎょろぎょろと動き、二人を見つけるとにい、と細まる。
 大きな口は顔の横まで裂け、少し開いた口からは無数の鋭い牙が覗く。
 赤い鱗がびっしりと並べられ、血管がその下でどくどくと鼓動している。
 体は見えない。家の外から首だけを突き入れているようだ。
 そして首だけで分かる。
 おとぎ話で聞かされてきた。絵本でその姿を見た。

 それは竜であった。

 竜は一言、言葉を発す。

「満たされぬ」

「あ……あ」
 チルノは震えた。そしてそんな彼女をリフリが覆いかぶさるようにして抱きしめる。
「おか……さん?」
「大丈夫。目をつぶってれば終わるから。ね」
「あ……」
 竜がその首を伸ばしてきた。口を開き、真っ暗な口内の周りに牙が光る。
 唾液が流れ、チルノの頬にびちゃりと落ちた。
「ああ……」
「大人しくしてるのよ。すぐ終わるから」
 リフリは万力を込めてチルノを抱きしめる。
 そして、大きな口が二人に迫る。
「あ……あああ」
 そして、チルノの体が光った。
 目の前から無数の氷弾が発射され、竜の口の中へと吸い込まれていく。
「ぎあああ!」
 竜は口を閉じてのたうち、ドアの外へとその首を引っ込めた。
「チルノ!」
 それは喜びではなく、叱咤の口調であった。
「え……」
「何やってるの! だめじゃない! あれには抵抗しちゃだめなのよ!」
「なに……言って……だって」
「誰かが犠牲にならないと、里は全滅してしまうのよ! 皆そうやってきたのよ!」
 チルノの脳裏に、雪の山と化した家が浮かぶ。いなくなった友達が浮かぶ。
「おかあ、さん……?」
「早く! 生贄になりに行くのよ!」
 リフリはチルノを連れて外へと出た。
 そこには口の中に入った氷を必死に吐き出している竜の姿があった。
 しかし、
「……え?」
 そこにいたのは、おおよそ竜などと呼べる代物ではなかった。
 大きな目。大きな口。大きな牙。
 頭には長い首がついている。
 しかしそれだけなのだ。
 その竜には、体が無かった。
 それでもその首だけ竜はのたうち、唸るように言葉を発する。
「ぐうううう……貴様ら、誓いを破るか」
「違うんです!」
 リフリは前へ出て、膝をついて懇願する。
 他の家からも何人か妖精が出てきて、不安そうに事態を見守っている。騒ぐ様子は無い。この竜のことを承知のようだ。
「この子はここに来たばかりでして、ちょっとした手違いなんです! 今生贄になりますから!」
「お母さん……?」
 チルノは信じられない、といった面持ちで首だけ竜に懇願する母を見る。
 何を言っているのか分からなかった。生贄……?
「さ、チルノ」
 言って、リフリはチルノに笑い掛ける。その笑顔に、たまらない嫌悪感を覚える。
「あの竜に生贄を捧げないと、里は全滅なのよ。分かるでしょう?」
「……いけ……にえ?」
「そうよ。さ、早くいらっしゃい」
 リフリは力無いチルノの手を取り、強引に竜の前へと進む。
 氷の里はこの竜に襲われていた。そして毎日家一軒に住む妖精を生贄に差し出す約束をすることで、全滅を免れていた。
 里では掟を決め、決して逃げないこと、決してそのことについて話さないことを定めた。

「………………」
 チルノは放心した様子で、竜ではなくじっと母を見ていた。
 何を言っているんだろう。この母は自分に何になれと言っているんだろう。
 この母は、
 自分にどうしろと言っている。

 諦める?
 生贄になる?
 知らない。
 そんなことは知らない。

 妹紅の姿が脳裏に浮かぶ。

 そんなことは、教えられてない!

「……っ嫌だ!」
 チルノは母の手を振り払った。
「チルノ!」
 後ずさり、竜と母を見る。
「何をしているの! 早く!」
「嫌だああ!」
 チルノは人差し指を竜に向けた。
 そこから氷のレーザーが放たれる。
 リフリの叫び声が聞こえた。
 竜はそれを素早い動きで避けると、
「誓いを破りおったな蝿どもがあ!」
 叫び、口を開く。
 そこから巨大な火球が発射された。
「っく!」
 なんとか避けきり、空へと舞い上がって竜を睨む。火球の着弾点の雪が解けて蒸発する。
「ダイアモンドブリザード!」
 チルノの周囲から無数の氷弾が発生する。それはチルノを多い尽くすほどに広がり、四方八方から竜目掛けて殺到した。
 首だけ竜はまたも火球を吐き出した。それはた易く氷弾を貫き、チルノ目掛けて迫っていく。
 ひらりと避けたチルノは、体に力を練りこんでいく。
 かき消されなかった氷弾が竜に殺到する。しかし丈夫な鱗に阻まれて傷一つ無い。
「無駄だあ!」
 竜は地上から火球を次々と吐き出す。
「うっ! これくらい……」
 幻想郷で普段やっていた弾幕ごっこに比べれば楽なものである。
 ひょいひょいと避けきり、技を繰り出す。
「パーフェクトフリーズ!」
 チルノから丸い無数の氷弾が発射される。
「ふん!」
 竜はそれをするすると素早い動きでうねり避ける。
「無駄だと……むう?」
 見ると、無秩序にばら撒かれていた氷弾が空中で完全に静止している。
 一瞬の静寂。
 首だけ竜が首をかしげる。
 次の瞬間、止まっていた氷弾が一斉に動き出し、竜目掛けて殺到する。
「ちいぃ!」
 火球で打ち消しきれず、多くの氷弾をその身に受ける。そして、
「がああ!」
 一際大きな呻き声を上げた。
 チルノが訝しげに見ると、どうやら長い首の下の方、鱗の無い切断面のところに氷弾が当たったようだ。
 あそこが弱点。
 チルノは切断面目掛けて氷弾を放った。
「ぐうぅ!」
 弱点を見破られた事に気づいたのか、苛立たしげな声をあげて一度竜は身を引く。
 そして上空に向けて口を開いた。
「……?」
 チルノは不思議に思いながらも、構わず氷弾を放つ。
 そして、
 竜の口が、噴火した。
 そう思えるくらい、激しい灼熱の炎の塊が無数に口から噴き出たのだ。
 それはチルノの氷弾を一瞬でかき消し、氷の里に広がって木や家に降り注ぐ。
 妖精達が悲鳴をあげて逃げ惑う。
 木は溶け、家は崩れ、火炎弾に当たった妖精が呻き声を上げて倒れる。
「うっ!」
 あまりの数に避けきれず、チルノに炎の塊が衝突した。
 そのままきりもみしながら地面へ落ちる。
 雪の山に突っ込んだチルノは、それでも何とか起き上がった。雪がクッションになってくれたのだ。もう噴火はやんでいる。
「く……まだまだ……」
 起き上がったチルノを、妖精達が引き上げた。
「あ……あの」
 戸惑うチルノを、そのまま竜の方へと連れて行く。
「ちょ、ちょっと待って! 皆で力を合わせて……」
 次の瞬間、チルノは頬に熱さを感じた。ぶたれたと分かるのに少し時間が掛かった。
 目の前では、リフリが鬼の様な形相でチルノを睨んでいる。
 叩いたのは彼女であった。
「お……かあ、さん?」
「馬鹿な行動はやめなさい! あなた一人の行動で、どれだけの迷惑になってると思ってるの!」
「あ…………」
 叩かれた。
 なんで?
 悪い事をしたから叩かれる。
 妹紅も、慧音も、あたいが悪い事をしたら怒るし叩く。
 そしたら、あたいは泣いて謝るんだ。
 でも、
 今のは、何だか違う。
 どうしてだろう。
 どうしてこんなに悲しいんだろう。
 どうして涙も出ないんだろう。

 呆然とするチルノを、リフリは乱暴に掴んで歩き出した。そのまま竜の前へとやって来る。
「お怒りをお静めください。どうかこの通りですから」
 言い、無理やりチルノの膝を折って頭を下げさせた。
 地面を頭が勢いよく叩く。
 隣では同じようにリフリが頭を下げていた。
 竜が満足げに下品な笑いを浮かべる。
「ぐうははあ。蝿共め。我は竜ぞ。敵うわけが無かろう」
「はい。ですからどうか、どうかこの通り」
 チルノの唇が震える。頭から血が出ているのも気づかない。
 何も考えられなかった。
 頭が真っ白になり、体の震えが止まらない。
「では小娘からいただくとするか」
 竜の口が迫る。
「さ、チルノ。そのままよ」
 母の言葉も耳には入らなかった。ただ膝を折って頭をつけた情けない姿勢のまま、チルノは食べられるのを待っていた。
 何も思い浮かばなかった。
 母のことも、幻想郷のことも、苦労性の巫女のことも、いつも遊ぶ友達のことも、口うるさい先生のことも、口の悪い不死の娘のことも、何も考えられず、やがて涙が溢れ出る。
 ただ口からぽつりと出たのは、一人の人間の名前だけであった。

「もこ……」

 そして、
 轟音が響いた。
 直後に突風が吹き、チルノの髪を激しく揺らす。 
 あまりの音と風に、チルノも思わず顔を上げる。
 目前まで迫った竜の口が消えていた。
 竜が横に飛ばされ、家に勢いよく叩き付けられたと分かったのは少ししてからだった。
 訳も分からず竜の方を見ているチルノに、聞き慣れた声が届いた。
 毎日のように聞いていた、少々乱暴で、どこか温かい言葉使いであった。

「こんな時くらいちゃんと名前を呼べ」

 チルノは震え、さっきまでの脱力具合が嘘のように全力を持って振り向いた。
 そこには紅い炎を纏った少女が立っている。
 周りの氷はあっという間に水に変わり、激しく燃え上がる炎は寒い里を乱暴に熱する。
 周囲の家もどろどろと溶け出し、中で篭っていた妖精達が慌てて外へと飛び出してくる。
 闇夜は明るい炎で照らされ、鏡の様になった無数の氷がそれを映し出す。
 周囲の妖精達も呆然とそれに目を奪われていた。
 白く長い髪。赤い服。紅い炎。
 藤原妹紅。
 おとぎ話の娘。
 不老にして不死の存在。

「も……こ……?」
 チルノはふらふらと立ち上がり、おぼつかない足取りで妹紅へと歩いていく。
 信じられなかった。
 なぜいるのか。
 夢ではないのか。いやこれはもう走馬灯というやつか。
 死ぬ間際に夢を見ているのだろうか。
 しかしこの熱さは忘れる訳も無い。この熱さまで幻なのだろうか。

 ふらふらとやって来たチルノの頬を、妹紅はぐいと引っ張った。
「ふ、ふふぇふええふ」
「ははは。何やってんだ。にしてもさっきの何だ? 地面に頭ついてさあ。最高に馬鹿っぽかったぜ」
 ようやく離された頬をチルノは呆然とさすった。
 痛い。
 夢ではない。
「もこ……」
「無事か。ってまあ、頭から血い出てるな」
「う……」
 夢ではない。
 抑えきれず、チルノは妹紅の胸に飛びついた。
「うあああああ! もこ! もこお!」
 妹紅は優しく頭を叩いてやる。
「うえあああ! うう、う、ぐ。ううううああ」
「もう大丈夫だから。な?」
「う……うううう。ぐ……」
 泣きじゃくりながら、それでも必死に抱きつき、離すまいとしながらチルノは激しく頭を縦に振る。
「ほら、チルノ」
 妹紅は肩を叩き、抱きつく小さな妖精をなんとか引き剥がした。その顔は涙でぐしゃぐしゃで、鼻水が妹紅の服から糸を引く。
「まったく。ひどい顔だな」
 涙と鼻水を拭いてやると、チルノは「ひっく。ひっく」としゃくり上げながら妹紅を見上げる。
「もこ……どうして?」
「…………」
 妹紅は気まずそうにぽりぽりと頬を掻いて明後日の方を見る。
「まあ……あれだ。お前に言いたい事があってな」
「……?」
「それは後だ。今は……」
 妹紅は氷の瓦礫に埋まる竜を見やった。つられてチルノもそちらを向く。
 そこでは、竜が呻き声を上げながら身を起こす最中であった。いや、首だけなので身など無いが。
 炎を発する妹紅を見やり、ぎりぎりと歯を食いしばって唸る。
「ぬうううぅ。なんだ貴様は」
「首だけ、ねえ……」
「もこ! あいつに毎日生贄食べるって。出せって」
「うんうん」
 言葉としては失格だったが、チルノの言いたいことは分かった。
「お前、大蛇の首か」
 首だけ竜が目を細める。
 聞きなれない単語にチルノが首をかしげる。
「おろちの首……?」
「ああ。首を切り取られた竜の成れの果てさ。腹が無いもんだからいくら食べても腹ペコ状態。際限なく喰らい尽くすもんだから、見つけたら速やかに退治する事になってる。まさかこんな所でお目にかかるとはな」
 とそこで、妹紅は背後のリフリ達妖精を見て言う。
「お前らこいつに付き合ってたら、ここの奴ら全員食い尽くされてたぜ」
 どよめきが生まれる。
 それに構わず、妹紅は竜に向き直った。チルノに下がっているよう言うと、彼女は素直に従った。
 指の骨をぽきぽきと鳴らし、歯を噛み締めてにいと笑う。
「さあて。久し振りの竜退治といこうか。ああ、竜とも言えない成れの果てか」
「貴様……」
 馬鹿にされていることは分かったのか、竜は呻き声をあげて口を開いた。
「小娘があ!」
 竜の口から火球が放たれる。それは寸分違わず妹紅に炸裂した。
 その様子を見届け、竜が高らかに笑い声を上げる。
 妖精達から絶望のどよめきが生まれた。
 しかしチルノは動じない。
 分かっていた。これくらいで妹紅がやられるわけがない。いくらやられてもやられないのが妹紅なのだ。
 案の定、妹紅は炎を受けても立っていた。むしろ妹紅の炎に竜の火球が飲み込まれている。
「な……!」
 炎に包まれながら不敵な笑みを浮かべる妹紅に、竜が驚愕の表情を浮かべる。
「なんだこんなもんか。不死の力を使うまでもないかな」
 今度は妹紅の体から炎が分かれた。それは不死鳥の形を作り、一声美しい鳴き声をあげる。鮮烈な明かりが放たれ、暗い里が紅く照らされた。
 その荘厳な姿に、その場の妖精達も氷の化身であるにも関わらず、思わず炎に目を奪われる。
「火の鳥 ‐鳳翼天翔‐」
 巨大なフェニックスが竜目掛けて突撃した。
「っく!」
 流石に当たったらただでは済まないと察知したのか、素早い動きでぎりぎり回避する。
 しかし次の瞬間、竜の体が火で包まれた。
「っがああああ!」
 連撃である。妹紅から即座に二匹目の不死鳥が放たれていた。
 自身も炎を使うというのに、妹紅とは違い、鱗は剥がれ肉は焼ける。血が吹き出しては即座に蒸発する。
 単純な力の差である。
 更にはもう一匹の不死鳥が妹紅から生まれている。
 特別大きなそれは優雅に、しかし高速で羽ばたいて竜に直撃した。
「――――!」
 もはや声を発することもできないのか、炎に包まれた竜はのたうち、雪の山に頭から突っ込んだ。
 雪は水にもならずに一気に蒸発し、竜の体から蒸気が立ち昇る。
「ぐ……ううう」
 それでもなんとか火を消すことに成功した竜は、呻き声を上げながら妹紅に向き直る。
「貴様……何者……だ」
 竜の顔は所々鱗が剥げ、止まらなくなった血がどくどくと流れ出している。
「藤原妹紅」
 その名を聞いて、竜の目が見開いた。
「貴様、退治屋の」
「昔はな」
「く……!」
 竜は顔を上に向けた。
 さっきまで妹紅の炎に見とれていた妖精達が、悲鳴のような声を上げて逃げ惑う。
「もこ!」
 チルノが危険を訴える。
 妹紅が訝しげな顔をしていると、竜の口から無数の火炎弾が噴射された。
 それは火山の噴火のように空高く立ち昇っていく。
「へえ……」
 それを妹紅は感心したように眺めていた。
「破れかぶれだな。そんなんで私を倒せるわけでも無しに」
「もこ、お願い!」
 チルノが悲痛な表情で訴えている。逃げ惑う妖精達を心配しているのだ。
 それを見ると、妹紅は溜息をついて薄く笑った。
 自分を見捨てるような奴らをよく心配できるものだ。
 そして妹紅の体が、揺れる。
 いや、揺れたのではなく、あまりに強力な炎で空間がぶれて見えたのだ。
 途端、竜の口から放たれていた火炎弾が動きを止める。
 竜が怪訝な表情をする中、それらは一斉に妹紅の元へと飛び込んでいった。
「なっ!」
 火炎弾は妹紅に集まり、その炎の一部と化す。そして妹紅の炎は一層その勢いを増して燃え上がる。
 自分の炎だけではなく、場の炎までも自分の支配下としたのだ。
 圧倒的な力の差。
 妹紅がこちらに手の平を向けてくるのを見て、竜はぎりぎりと歯を噛み締めて呻いた。
「この……人間風情があ!」
 苦し紛れに吐き出した火球を、妹紅の巨大な炎のレーザーが貫いた。
 レーザーの通った地面の氷は溶け、一瞬で蒸気へと変わる。
 寸分違わず、それは竜の体を打ち抜いた。
「がああああ!」
 あまりの熱に、鱗も肉もまとめて竜の体が蒸発し、骨へと変わる。
 熱は周囲の木々や家を溶かし、どろどろと熱い水が流れ出す。
 強い光が生まれ、暗い里を煌々と照らし出していた。

六、


 後には大きな竜の骨が残った。
 蒸気に混じってぶすぶすと焦げたような煙を出し、首だけで生きた竜の成れの果ては、やがて崩れて落ちた。
「もこ!」
 腰に手を当てて満足げにしていた妹紅に、チルノが飛びついた。
「もこ! やっぱりもこはさいきょーね!」
「はは。当たり前だろ?」
 笑い、そして妹紅は妖精達を見た。
 妖精達は一様に安堵の表情を浮かべている。
 妹紅はその中のリフリを睨むように見つめた。それにつられてチルノも母を見る。
「………………」
 リフリは黙っていた。
 皆のように喜べはしない。喜べるわけがない。
 娘を生贄に差し出した愚かな女は、やがて体を震わせて怒鳴るように泣き出した。
「仕方なかったのよ!」
「黙れ」
 冷たく言い放され、リフリの体がびくりと震える。
「なぜ戦わなかった」
「勝手なことを言わないで!」
 リフリから大粒の氷の塊がぼろぼろと零れ落ちる。
「誰もが……誰もがあなたみたいに強くない!」
「チルノは戦ったんじゃないのか」
 リフリは言葉に詰まると、やがて吐き捨てるように呟く。
「……敵いっこなかったわ」
 妹紅の手を握るチルノの力が強まった。それを握り返してやり、妹紅はリフリに問いかける。
「なぜチルノを引き取った」
「…………」
「答えろ」
「…………あなたには……あなたには分からないの!? 親も夫も失い、独りで死ぬ悲しみが! 寂しさが! みじめさを!」
 チルノははっとした様子で妹紅を見る。
 決して死なぬ少女を見る。
 妹紅の表情に変化は無い。
「私は嫌だった! 独り寂しく死んでいくなんて、嫌だった!」
「だからこいつを引き取ったのか。一緒に死んでもらうために」
「そうよ。愚かでしょうね、私は。でも私はそんなに強くない。独りで死ねるほど、私は強くないのよ!」
 里に竜が現れ、生贄として一日一軒、家の妖精が喰われていく。一日、また一日と自分の番が近づいてくる。未練は無かった。自分には何も無いのだ。
 しかしそこに噂が舞い込む。遠く離れた幻想郷に、チルノという氷の妖精が住んでいる、と。
 希望が湧いた。自分は独りではなかった。しかし自分はいずれ死ぬ。嫌だ。独り寂しく死ぬのは嫌だ。
 放っておけばわが子は生きるのだろう。しかしリフリは幻想郷を訪れる。わが子を生かすのではなく、自分と一緒に死んでもらうために引き取った。
 妹紅の周囲が熱くなる。その感情に合わせるように。
「私は独りで死ぬ悲しみを知らない。だが、独りで生きる悲しみは知っている。だから、独りのあんたはチルノと一緒に生きればいいと思った。でもそれは間違いだったよ」
 水が流れ、固まりかけていたそれは、妹紅の側に来ると蒸気に変わった。
「一緒に死ぬ? 違うな。あんたは自分の子を、チルノを殺そうとしたんだ。わが子を殺す親がどこにいる。独りで死ぬと寂しい? それは、こいつを殺していい理由になるわけがない!」
 リフリはもう妹紅を見る事もできない。ただうな垂れ、黙り込み、震えて地面を見る。
「私は、あんたを許さない」
 自分の大切な人を殺そうとした、あんたを許さない。
 
 妹紅はチルノの手を握っていた力をほどき、歩き出した。
 リフリの側を通るとき、彼女がびくりとおののき震える。そんな彼女に一瞥もくれず、妹紅は外へ向けて歩みを進める。
 周りを取り巻いていた妖精達が慌てて道を空けた。
「………………」
 チルノは、やがて歩き出した。
 母にではない。
 熱気を撒き散らして進む、不死の娘へ。
 その側に追いつき、隣を歩く。
 妹紅の熱気は暖かく、そして今はそれがどの冷気よりも心地良い。
 母が呻くようにその名を呼んだ。
「チルノ……」
「お母さん」
 母の体がぴくりと震える。
「また来るよ。だから」
 母は顔を上げ、震えながらわが子を見る。
 チルノは振り向き、きっと笑顔で言った。
「さようなら」
「――!」
 氷と雪が覆う銀世界。夜でも輝くその里に、一人の女の慟哭が響いた。
 ここにおいて、チルノは確かに、巣立ちを迎えたのだ。


「良かったのか?」
 無粋とは思いながらも、この際だからということで妹紅は聞く。
 二人は雪の残る山の中を歩いていた。もう氷の里は出ている。こっちを歩いて来たというチルノの案内に従って、二人は足取りもゆっくりと進んでいた。
「うん」
 チルノは笑うでもなく、悲しそうでもなく、ただただ真剣に頷いた。
 その横顔を見て、妹紅は笑い声を抑えて微笑む。
 たった数週間離れていただけというのに、どうしてこうも変わるものだろうか。
「あ、そうだもこ」
「ん?」
「あたいに言いたいこと、って何?」
「…………!」
 妹紅は決まりが悪そうに明後日の方を向く。
「う……いや……」
 まるで告白みたいなことである。こう改めて言うのも恥ずかしい。
「もこ?」
「それにしても遠いんだよなあ。幻想郷までどのくらいかかることやら」
「五日くらい掛かったけど……ってもこ! 答えてよ!」
「ちょっと急ごうかな」
「ねえ教えてよお」
「紫ー! さっさと来てくれー!」
「もこってば!」
 逃げるように走り出す妹紅の後を、チルノは憮然とした様子で追いかける。
 空は白み始め、数刻もせずに日は昇る。
 遊ぶように走る二人の姿を、春の日差しが明るく照らし出したという。

                                             了
チルノと妹紅の話三作目です。
別に続きものではないので前のを読んでなくても問題ありませんが、微妙に話がリンクしていたりもします。
色々と書き方を模索していましたが、どんな小説であっても、人の心の動きって重要だと思いました。これからはそこに注意して書いていこうと思います。
yamamo
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コメント



0.2720簡易評価
7.80煉獄削除
チルノと妹紅がなんとも・・・・。
オリキャラが出てきたのはちょっと意外でしたけど、
それが良い味をだしていたと思いました。
11.80名前が無い程度の能力削除
話の展開はある意味王道と呼べるものだけど
個々のキャラクターの動きが素晴らしくって読んでいて飽きなかったです。
氷の里に登場した時のもこのかっこよさに感動した。

ただ、大妖精が会話以外でもダイと表記されてて
誰か解らず若干現実に戻されました。
次も期待しますだぜ。
17.100リペヤー削除
良かった。すんごい良かった。
生きていく上で死んだり死なれたりする。妹紅がそれを恐れるのは当然とも言えます。
だけどだからこそ、誰かと繋がっていくことが大切なんですね。
チルノの「旅立ち」の意味も、幻想郷からでは無いというのが上手いと思いました。
竜の部分も伏線が張られていてすごかったです。
楽しませていただきました。
20.100名前が無い程度の能力削除
もこたんがつえー話はいいな。
27.無評価yamamo削除
色々と感想ありがとうございます。

この作品は前につまらない物書いた腹いせに、焦って必死になって二日ほどで書き上げた代物でして、そのせいで余計に粗いものとなってしまったと思います。
四日は推敲の時間にあてたいというのに、書いたその日に投稿する始末。
おかげで前半結構だるかったかもしれません。
今度からはもっと落ち着いて書きたいと思います。
あと前に書いた作品を結構引きずっているので(大妖精の名前とか)、そこもやめていこうと思います。

この創想話に投稿し始めたのは最近ですが、他の作者さんの作品を読んでいると、日常のほのぼのした作品やギャグなどもあって良いなー、と思うのですが、どうやら自分には合ってないようです。書こうとしても失敗します。
この話も母親に引き取られていったチルノと、悩みながらもなんとか心の整理をしようとする妹紅、といったものを主軸にと考えていたのですが、気づいたら竜が出てきてました。
どうしても話が膨らんでいってしまいます。
そのおかげか、自分でもまさか三万字を超えるとは思いませんでした。
もっと小規模な話を書きたいのですがどうにも難しいです。
というかいくら焦っていたからって、ネタもないのに無理して書こうとするな、というわけです。いえこの作品ではありませんが。おかげでひどい作品をいくつか投稿するハメに。
もっと安定して書ければいいなと思います。
40.100名前が無い程度の能力削除
もう、最高です。
41.100名前が無い程度の能力削除
やっぱりヒーローが助けに来る、そんな話は誰もが待ち望んでるから王道になるんでしょう
妹紅の不器用な優しさがいいです
46.90名前が無い程度の能力削除
王道。だがそれがいい。
47.100名前が無い程度の能力削除
もこたんがかっけぇ
48.40名前が無い程度の能力削除
小学生が考えたような竜と妹紅のセリフが残念。
チルノを連れ戻す話の流れが強引すぎ残念。
リフリの辺りをもう少し整理できてればよかった。
しかし前半の話の流れと、姿の見えない竜の恐怖感
がよくでておりました
49.100名前が無い程度の能力削除
かっこいいよ妹紅
50.100名前が無い程度の能力削除
いいよ
53.100名前が無い程度の能力削除
感動!
世界観がすばらしすぐる
56.90名前が無い程度の能力削除
氷の妖精達には村を捨てて
幻想郷に住むという選択肢はなかったのだろうか
その辺りが疑問
しかしおもしろかった
74.100あやりん削除
これを見に戻って来たんですよ
75.40名前が無い程度の能力削除
チルノが弱気すぎる性格なのがちと気になった