「――」
ふと。
その言葉がこの状況を表すのに最も適しているだろうと、そんなどうでもいい事が頭の片隅に沸いて出た。
霞む視界は記憶を濁らせ、まどろみの中から抜け出せない頭は身体の自由を奪う。
それでもなんとなく、目が覚めたという事だけは脳が勝手に理解する。
目が覚める瞬間が如何様なものなのか。
幾度か考えた事はあるものの、これまで一度としてその瞬間に立ち会えた事がない。
正確に言えば、それこそ毎日立ち会ってはいるものの、記憶が定まらない。
眠る事によって辿り着く無の境地。
しかし目覚め――意識が覚醒すると共に流れ込む様々なものが、視覚を、触覚を、聴覚を、嗅覚を、味覚を刺激してはそれらを奮い起こし、生まれたばかりのその瞬間を、まどろみの中へと押し込めてしまう。
さしずめ今日の原因は――
「……さむい」
大の字になっていた身体を縮こませ、毛布と布団を引き寄せて赤子のように丸くなる。
それでも、布団の温かい部分などというものは、精々自分の身体が触れていた辺りだけ。容赦ない寒波によってすっかりと冷やされてしまった部分が素足に触れて、思わず一層丸くなった。
そうする内にいくらか覚醒してきた頭と身体は、更なる暖を要求。頭と身体という辺り、それに対する拒否権は最早自分の中にはなく、私は無駄に広いベッドの上をごろごろと転がった。
ごろごろと。
ごろごろと。
「……?」
二、三度ほど往復してしっかりと毛布と布団が自分の身体に巻き付いたところで、小さな違和感。
目やにが固まって少し開け辛かった両の目を、ぐるぐる巻きになった布団の中からなんとか出してきた手で擦ってみると、違和感の正体はすぐに解った。
――明るい。
目が覚めたのだから明るいのは当たり前だろうというのは、健康な人間の常識でしかない。
一部の不健康な人間と、自分のような健康な吸血鬼にとってみれば、寝起きで世界が明るいなどということは全くの予想外であり、それは正しく不健康極まりないこととも言える。
そう思うと同時に、身体が知らずぶるりと震えた。
毛布と布団を巻いて尚身体を冷やす寒さが原因かと、一つ溜息。こんな寒さであるからには、当然それもまた白く、そしてすぐに消えていった。
起きるべきか、このまま二度寝するべきか。
考えてはみるものの、ある程度の睡眠を得た身体はこの寒さで逆に覚醒したようで、いまひとつ眠気という物が残っていない。
何をするでもなくもう一つ、二つと転がって、そこでようやく視線を窓の外へと向けた。
遮光カーテンによって遮られた窓は外の景色を寸分も見せてはくれないが、分厚い布地の脇をすり抜けてきたほんの僅かな光だけでも、どことなくその向こう側に広がる情景というものは予想が出来る。
時間は正午。空は曇天。気温は見るまでもなく寒いと思えるほどで、風向きは……解る訳がない。
常時であれば、自分が目が覚めた時にはどこからともなく咲夜が現れるのだけれど、この時間は流石に向こうも想定外なのか、一向に姿を見せる気配はない。
「……起きるか」
簀巻きのような状態から脱するべく、またごろごろとベッドの上を往復して、ようやく自由になった身体を起こす。とはいえ立ち上がるのはまだ些か面倒で、もう一度身体を倒すと、シーツに残る温もりを噛みしめるようにベッドの端まで転がっていく。
ここで転がりすぎて床に落ちようものなら笑いの一つでも取れるのかもしれないが、生憎とそんな気分ではない。何しろ寒いのだ。下手にスベってこれ以上寒くしても、いい事なんて何もない。
「何を言っているんだか」
ぼんやりとした頭はロクな事を考えない。早く真っ赤なホットミルクでも飲んで、心身ともに暖めるべきだろう。
後ろ髪を引かれる思いで床に足を降ろすと、絨毯であるにもかかわらず、底はまるで氷のように冷たかった。
足裏に触れたその冷気は一気に身体の中を駆け抜けて頭の先にまで行き渡る。思わず跳ねるように足を上げてしまったが、本当に今日のこの寒さは如何なものなのか。
とてもではないが、素足で歩き回れるものではないと判断。ベッドの傍らに置いてあるはずの履き物を探すが、それは影も形も見あたらなかった。
はて、と思ったところで、昨日の――正確に言えば今朝の――ことを思い出す。
「そういえば、外を見ていたんだっけ」
その記憶どおり、ベッドの上を横断していくとすぐに履き物をは見つかった。
しかし、絨毯が凍り付くような寒さであれば、履き物の中もまたそうなっているのは道理。これで大丈夫だと両足を突っ込んだレミリアが、思わずうめき声を上げて背筋を奮わせたのもまた必然なのだろう。
それでもなんとか立ち上がって、レミリアは勢いよくカーテンを開け放った。
何もいきなり自殺衝動に駆られた訳でもない。この寒さだ、少しくらい身を文字通り焦がした方が暖まると考えたのだろう。
実際空模様は先程の予想通り曇天で、日差しはそんなに強くない。それでも何故だか外に広がる景色が酷く眩しく感じて、レミリアは目を細めた。
昨日眠る前に見上げた空からはらりはらりと降り始めた雪は、この数時間で見事に世界をその手中に収めたのだろう。窓から見える範囲であれば、右を見ても左を見ても、遠く前方を眺めてみても、どこもかしこも白の一色に染まっている。
なるほど道理で寒い訳だ。
身体の端々から小さく煙りが立ち上る程度には焦げた所で、くぁ、と欠伸を一つ。
やはりもう一度寝るべきかと思ったところで、不意に賑やかな声が聞こえてきた。
見てみれば、それは眼下。館の庭先、玄関から門へと続くその間にいくつもの影が忙しなく動いている。恐らくは雪かきでもしているのだろう。
この白の中では酷く目立つ赤髪の彼女を中心に、周りには幾人もの妖精メイドたち。
その様子はこちらからすれば遊んでいるようにしか見えないが、それでも既に終えたのであろう部分を見るに、仕事はきちんとこなしているのが解る。
これも彼女の纏め役としての成果か。そう思えば、もう一度寝るという選択肢は放棄せざるを得ないだろう。
「さて」
そうなれば、自分もいつまでも部屋に閉じこもっている訳にもいかない。妖精達がわらわらと動く様子は見ているだけでも飽きそうになかったが、いくら日差しが弱いとはいえ、いつまでもこうしていては身体が灰になってしまう。
寝間着を脱ぎ捨て、着替えはいつもよりも一枚多め。そもそも吸血鬼が暑さ寒さを感じるのがおかしいといえば反論は出来ないが、こうした世界、自然の理を何も感じなければ、きっとこの生はすぐに飽いてしまう。そういう点でも、この日本という極東の島国は実に刺激に溢れている。
春夏秋冬、事ある毎に何かしら好き勝手に意味を見出しては、意味のない事をさも楽しげに嗜む。
風情やら侘びと寂びやら、未だに理解できない事は多々あるが、逆に言えばそれら全てが未知であり、楽しみでもある。
――本当に、不思議な所だ。
そう考えている自分がどこか可笑しくて、レミリアはくすりと一つ、笑みを零した。
∽
「とはいえ、どうしたものかね」
部屋を出たはいいものの、行く当てもなければ予定もない。
メイド達は全員雪かきに駆り出されているのか、館の中は不自然なまでの静寂。自分の足音もまた絨毯の中に吸い込まれ、衣擦れの音さえも聞こえてくる程だ。
静は寒、寒は寂を連れてくる。
立ち止まれば一切の音は消えて、ただただ広大な館は、ひょっとすると今この世界に存在しているのは自分だけなのではないか、などという世迷い言さえ出てきそう。
先程窓から見えた光景は、本当にここと同じ世界なのだろうか。
一面の銀世界。どこまでも寒さを感じさせるその中で、楽しげに、愉しげに駆け回っていた彼女たち。
あの場所に感じた何かは、ここには一つとして存在していない。
館の中だというのに吐く息は白く、指先は悴んで上手く動かせずにいる。聞こえてくる音は耳鳴りだけで、じっとしていれば体の芯まで凍えてしまいそう。
静は寒、寒は寂を連れてくる。
そこで、とある少女の影が脳裏を掠めた。
ひょっとすると、あいつは普段からこんな事を思っているのだろうか、と。
けれどもすぐにその考えを否定する。
そもそも『アレ』がそんな事を思うだろうか。
そんな事を思うような者であれば、ここまで苦労する事もないだろう。あいつはそういう奴だ。
今考えた事を追い出すように頭を振って、手近な窓に身を寄せる。
外は相変わらずの銀世界。燻ったような色をした雲もまた変わらずに空を埋め尽くし、その先に広がる青空を覆い隠している。
個人的には大歓迎なのだが、人間としては詰まらない景色なのだろう。
「おや」
そんな空を見上げていると、そこに一番近い場所に影が一つ。
すぐに見なければよかったと後悔したが、それもまた「if」の話。
想ってしまったが故に見てしまったのか、そこに彼女がいたからこそ知らず想ってしまったのか。そんなことはどちらでも構わないが、アレが気にならないといえば嘘になる。
「人恋しい? まさか」
ほんの一瞬とはいえ湧き出たその言葉に、自分で自分を嘲笑う。
アレがどこで何をしていようが、自分には関係ない。
外に迷惑さえかけなければ、もっと言えば、自分に面倒が降りかからなければなんであろうと構わない。
アレが何を考えているかなんて事は解らないし、解ろうとも思わない。
――姉妹? 血縁? 馬鹿馬鹿しい。絶てるものならすぐにでもそうしたいところだよ。
けれど、時計台の下に見える彼女は果たしていつからそうしていたのだろうか。日よけの傘にはおよそ考えられないくらいの雪が積もり、微動だにしないその様子はまるで人形のよう。
恐らくは今朝方、もしくは昨日の夜からずっとそこにいたのだろう。
ますますもって何を考えているかが解らない。
その瞳は遠くを見つめたまま。あの場所からは、全てではないにしろ幻想郷の大部分が見渡せる。だが光を宿さないその目は、そこに何かが映っているのかという疑問さえ湧いてくる。
「何をしているんだか」
それでも、何もしないのならばそれはそれで好都合ではある。
寒さの所為か、はたまた別の何かか、どうにも動く気がしないのだ。何やら騒動を起こされるくらいなら、ああして雪の中に固まっていてくれた方が気も楽だろう。
「――?」
これ以上は見る価値もない。
そう思って窓から離れようとしたその時、豆粒程度にしか見えない彼女の、フランドールの唇が僅かに動いた事を、レミリアは見逃さなかった。見てしまった、と言った方が正しいかもしれない。
普通の人間であれば、この距離では表情を窺うことも出来ないだろう。
けれどレミリアは吸血鬼であって、その人間など遥かに凌駕した身体能力は、たとえこの距離でもそんな物まで見える、見えてしまうのだ。
「……ははっ!」
その唇が発した言葉は、僅か一言。
声など聞こえるはずもないから、何を言ったかは唇の動きから察する他にない。
けれど、レミリアは自分の見た彼女の声が間違っているとは微塵も思わなかった。
そして――嗤った。
「まさかまさか、あんな物が見られるとはね」
高らかに声を上げて、レミリアはその場を後にする。
フランドールは、一番空に近い場所からただただどこかを眺めている。
∽
「へぇ、あれがそんな事を」
「でしょう? パチェにも見せてあげたかったわ」
それからまた当てもなく歩いた先、なんとはなしに行き着いた暖炉のある部屋で、レミリアは旧友と場を共にしていた。
最初に見た時は、彼女がこんな所にいる事を少しは驚いたものの、聞いてみればなんてことはない。あの図書館はあまりにも寒すぎる、というだけの事だった。
それならば魔法で暖めればいいではないか、とも言ってみたのだが、本を読む時は本を読む事に集中したいという。
薪のくべられた暖炉は、今正にその性能の全てを遺憾なく発揮している。
空気を暖め、身体をほぐし、薄暗い部屋の中を灯すのもまたその役目。二人の間に会話は少なく、静寂こそ保っているものの、そこに先程まで感じていたような何かは存在しない。
時折暖炉の火が小さく爆ぜる音が響く事以外は、本当に何もない。
ロッキングチェアに身を委ね、椅子と同じようにゆらゆらと揺れる自分と友人の影を見ているだけでも十分だと感じられる。
丸くなったと思われるかもしれない。腑抜けになったと言われるかもしれない。
確かにそれはその通りで、反論の余地もない。
けれど、それは果たして悪い事なのだろうか。
この土地は、幻想郷という場所は不思議なもので、誰も彼もがそんな風なのだ。
そのおかげで妖怪が妖怪たりえないという事態に陥っているというが、実際この場所に居れば、それも仕方のないことだと思えてくる。
現にこうして腑抜けになった妖怪が二人ばかり。いや、三人か。
「パチェは――」
「なに?」
友人の名を呼んで、けれどその先に続けるはずだった言葉を飲み込む。
なるほど言うべきではない事がある。これが風情だとか、そういう事なのだろうか。
「なんでもない」
「そう」
彼女はどこまでも簡単に返事をする。
その視線は手元の本に向けたまま。こちらの事などお構いなしだとでもいう風に……いや、実際にお構いなしなのだろう。けれども呼べば答えてくれる。そんなこの状況が、どこか楽しい。
「……くぁ」
「眠そうね」
「早起きしたからね」
言いつつ目を擦る。
すっかり目が覚めたと思っていたが、暖炉の火に暖められた事によって再び眠気がぶり返してきたのだろう。身体も頭も既に半分以上はまどろみの中に沈み込んで、否応なしに眠りへと誘い込む。
「おやすみ」
その一言に返事が出来たかは、自分では解らなかった。
∽
「あら」
眠ってしまえば、次に起きるまでの間というのは実に一瞬のことであって、身の回りの変わりの無さに果たして自分は本当に眠っていたのだろうかと感じてしまうほどだった。
けれど目の前の彼女が手に持つ本は先程とは違っていて、小さな窓の外はいつの間にか白から黒へ。その中で変わらずに部屋を暖める暖炉も、けれど確実にその下に広がる炭の量は増えている。
館の中が妙に騒がしいのは、外に出ていたメイド達が引き上げてきたからだろうか。
「ずっと居たの?」
「する事もないし」
「その本、面白いの?」
「つまらなくはないわね」
意味のない受け答え。本当に意味なんてない。
それきり黙って、またゆらゆらと揺れる影に目を移す。
時折小さく火が爆ぜて、古びた椅子が軋みを上げて、遠くからメイド達の喧噪が聞こえてくる。
――と。
「……鐘の音?」
どこからか、聞き慣れたそれとは違う、重く響き渡るような音が届いた。
続けて二回、三回と聞こえてくる。
「除夜の鐘、と言うのだそうよ」
見ると、彼女は本を膝の上に置いてその視線を窓の外へと向けていた。
「除夜?」
「一年の最終日、大晦日の夜の事を除夜と言う。そしてその時に撞く鐘、と言えばそのままね」
百八回撞くらしいわね、という彼女に再び疑問を投げかけると、窓の外に向けていた視線をこちらに直して、一息。
「諸説あるけれど、とりあえずその意味する所は、その音を聞くことによって、この一年のうちに作った罪を懺悔し、罪を作る心を懺悔し、煩悩を除き、清らかな心になって新しい年を迎える……というところに辿り着くわ」
「煩悩……私たちには関係のない事だな」
「えぇ、そうね。煩悩とは正しく人の罪。人間の業。けれど、たまにはこういうのも」
「悪くない」
彼女の台詞を先取って、レミリアは子供のように笑う。
五百年生きているとはいえ、見た目は子供なのだから当たり前の事ではあるが、それでも尚子供のように思えるような、そんな純粋な笑みだったのだ。
「郷に入れば郷に従え、ここは蕎麦でも食べるべきかね」
そんなレミリアを見て、パチュリーもまたほう、と息をつく。
その顔がどこか楽しげに見えたのは、きっとレミリアの気のせいではないだろう。
「郷に入ればって諺、出自は中国じゃなくて日本らしいわよ」
「へぇ?」
「中国にも似た意味の言葉はあるらしいけれど、意味が微妙に違うらしいわね。まぁ私にしてみれば、そんなものは異口同音とでもいうべきことであって、どちらでも構わないとは思うのだけれど」
「……」
「なに?」
「いや、相変わらずよく知っているなぁ、なんて事をね」
「知ってる事しか知らないわよ」
「猫でも憑いていそうな台詞ね」
「猫が憑いているのは貴方でしょうに」
なるほど言われてみれば猫っぽい。
ならば呼んでみようか、その猫を。
時間も丁度頃合いだろう。
「咲夜」
「あと十五秒ですね」
言えば、どこからともなく現れた彼女がこちらの意図を汲んで答えを返す。
自他共に完璧を認める彼女であればこその芸当。しかしそれは、それ以上に自分と彼女がここまで積み上げてきたものの証とも言える。
思えば、この地に来てから様々な事があった。
振り返れば後ろは遥か。けれど今この場所まで続いているその道は、幻想郷に来る前に比べれば、とても充実していたようにも思える。
煩悩などというものは持ち合わせていないが、気持ちを新たに次の年を迎えるというその部分だけならば、共感できない事もない。
「それでは」
暖炉の火が小さく爆ぜる。
古びた椅子が軋みを上げる。
遠くから妖精達の喧噪が聞こえてくる。
百八回目の、鐘が鳴る。
「あけまして、おめでとう」
今年もまた、よい年を。
0:00:00を取りやがって!
こちとら12月上旬から用意してたのに!
糞SSなら叩きようがあったものの、情緒あふれる良SSじゃねーか!
畜生! 畜生!
おめでとう!
喪中ということですから返事は要らないです!
今年も超頑張れ! みんながんばれ!
あーもう、ビール飲んで寝る!