○これは以前投稿させていただいた『文と椛の現界漫遊記』『文と椛の現界徒然話 』の続編に当たります。
○射命丸文は大正時代の日本に記事を探しに来ていますが、のんびりしています。
射命丸文は妖力の殆どを封じられています。
以上を、ご承知していただければ一話完結型ですので問題なく読んでいただけると思います。
----------
「あーあーあー。聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにちただ今より放送を開始致します」
人が人に意思を伝えるために言葉が生まれ
言葉を留め置くために文字が生まれ
記録媒体として紙が生まれ
そして高度に発達した社会の中で情報を発するものとして『新聞』が生まれた
それ以来、新聞は定期性を持つ情報伝達手段としてどのような対抗馬が現れようと消えることなく続いている。
その一つ、画期的な情報伝達手段として生まれた『ラジヲ』が日本の歴史に刻まれたのは大正十四年三月二十二日午前九時三十分。
これは、その幕開けのほんの少しだけ前にあった何があろうと人は新聞を求め、何があろうと新聞記者は世界を飛び回る。
そんな物語。
『文と椛の現界奔走記』
季節は夏。
射命丸文と犬走椛が上野の外れに建てられている長屋に住み着いて、初めての夏が訪れていた。幻想郷では常日頃空を飛んでいた哨戒天狗の椛は強い日差しには慣れている。しかし標高の高い妖怪の山はこれほどまでに暑くなることはまず無かった。
「暑い~~」
浅草の下町商店街まで足を伸ばしたため買物をしてきただけなのに全身汗だらけだ。少しふらつきながらも井戸端に寄った椛は、中を覗き込んで釣瓶の他に何も無いことを確認した後、近くに置いてある縄を手に持って買ってきた西瓜を器用に縛り井戸の中にするすると落としてゆく。
ぽちゃんと小気味の良い音がして水に漬かった事を確認したところで手に持っていた片側を近くの大石に縛り付けると、その傍ら寝かせてある『すいか井戸にアリ、注意。割るなよ、食うなよ』と汚い字で走り書きしてある使い古された木の札を井戸端に立てかけ椛は家に戻った。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、ずいぶん遠出したみたいね」
「晩ご飯は冷麦です。文さんに『素麺じゃいや。冷麦が食べたい』と言われていましたから結局浅草まで足を伸ばしちゃいました」
「それはお疲れ様」
六畳間の座敷の奥に座っている文と会話をしながら、椛は買ってきた物を包んである唐草文様の風呂敷を土間にある木目の台に置いて広げる。中身の整理を終えると一息つくために水瓶を開いた。
「あ、椛、私にもお水を一杯頂戴」
「分かりました。よろしければお茶を入れますよ? それと西瓜が安かったから買ってきました。井戸で冷やし始めたばかりですけど」
「ありがとう。でも、今はお水だけで良いわ」
揃いの湯飲みを並べて柄杓で掬った水を入れると、椛はお盆を片手に座敷に上った。視線の先では文が大量の新聞紙に囲まれている。
暑い日の続く近頃は文は用事の無い限り日の高いうちに外へ出ようとしない。腰を上げるのは日が暮れてから銭湯に行くときぐらいである。
その代わり長屋の人が読み終えた新聞をもらい、その一つ一つを穴の開くほど読んでは重要と思える記事を切り抜いてまとめている。
大きな記事を探すために現界に来たというのに外にも出ないで何をしているのですかと椛が小言を言うと、家の中で出来ることをしているわと軽く返されてしまった。
その返事に面白そうな出来事でも飛び込んでこない限り、夏が終わるまでこの調子だと椛は小さくため息をついたのだった。
夕食を作り始めるには少し早いので、椛は散らばる新聞を踏まないように気を付けながら文の手元に湯飲みを置くとそのまま自分も隣に座る。
「何か面白そうな記事はありますか?」
「色々あるけど、注目しているのはラジヲに関する記事ね」
「えっと、ラジヲって何ですか?」
全く分からないようで椛は遠慮する素振りも無く質問する。
「そうなの、椛はラジヲを知らないのね。通信装置の一つで、言葉つまり情報を電波に乗せて遠くまで飛ばすことが出来るのよ」
「電話みたいなものですか?」
電話ならば現界に来てから椛も何度か見たことがあった。
「そうね。でも電話は一対一でしょう? ラジヲは発信する場所から広範囲に電波を出すから、受信機を持つ人間に対して一度に情報を送ることができるのよ。それこそ何千人、何万人に対してね」
説明しながら文は散らばっている新聞の一つを指差した。そこには可愛らしいイラストと一緒に簡略化した説明が載っている。
子供向けの要点だけまとめた記事のようだが、機械に慣れていない椛にとってはこのような記事が一番読みやすい。
読者が求めているものは『完璧な真実』ではなく『間違いではいけないが、興味深くかつ理解しやすいもの』であると文に教わったことがある椛だが、このような時にしみじみとそれは真実だと思うのだった。
「機械はいつも、お友達に任せていますので」
「そういえば、椛は機械いじりが得意な友人がいたわね」
「はい。天狗ではなく河童の子ですが、仲良くしています。詳しい仕組みは、幻想郷に戻ったら彼女に聞いてみようと思います」
何となくは理解したつもりになった椛が、言い訳をするように視線を泳がせると文はゆっくりと返事をする。
「それが良いと思うわ。全然分からないのはダメだけど。頼りになる知り合いを沢山作っておけば、必要な時に聞くことができるものね。良い友人を持っている椛は偉いわ」
ゆっくりと話すのは文が大事なことを言うときの癖だ。叱られるかと思っていたのに、逆に誉められたようで椛は少し顔が熱くなった。
「ラジヲは便利な物なのですね」
椛の呟きに頷くと文は今日の仕事は終わりと決めたようで身の回りに散らばっている新聞を片付け始めた。
真っ白い指が床を走ると乱雑だった新聞が綺麗にまとまってゆく。文は椛が感心するほど整理整頓がうまい。
「でも椛。ラジヲは新聞の敵と言えるかもしれないわよ。情報を素早く、しかも広範囲に送れるなんて凄いわよね」
そう言われて初めて気付き、椛は頭を抱えてしまった。文の言う通りかもしれない。近い将来ラジヲが一家に一台普及する時代になったら、新聞は要らない存在になるかもしれない。
そう思うと、現界の新聞記者という訳ではないが椛の心を不安が染め上げてゆく。顔色にも出ていたようで文がくすくすと笑い出した。
「そんな心配そうな顔をしなくて良いわよ。ラジヲには弱点はあるわ」
言いながら、文は手に持った新聞をひらひらと振る。
「色々あるけど、例えば新聞はいつでも自分の読みたい時に読めるけど、ラジヲはそうはいかないでしょう?」
「それでは、ラジヲが出来ても心配することは無いのでしょうか?」
椛が質問すると、文は新聞を丸めてぽかりと椛の頭を叩く。
「何事も簡単に答えを出さないようにと、いつも教えているでしょう」
そして、文は手に持っていた新聞を伸ばすと束に戻した。
「私が興味深いのはね。新しい物が生み出された事だけでなく。生み出される前にどのように人に噂され、そして実際にそれが世に出回った後、どんな影響が表れるかなのよ」
文の言いたいことは漠然としていたが不思議と椛は理解できた。
この時代を知って思うことは、何事も変化が激しすぎるのである。少し前までそこにあった風景が一変する。今まで見た事も無かった高い建物や外国の商品が当たり前のように店に並んでいる。言い出したらきりが無い。
人が変化をすれば自然も変化し、その影響はそこに住む動物も、植物も、そして妖怪も受ける事になる。
椛は現界にきた当初、人が皆やる気に満ち溢れていたことに興味を持った。それは素晴らしい事であり、変わらず興味深いと思いつつ、それがこの世界に溢れる自然や住んでいる妖怪たちに与える影響を考えることが多くなっていた。
「さて、難しい話はこれぐらいにして、今日の仕事は終わりとしましょう」
大きく伸びをして畳の上に文は寝転がった。自分の考えに浸りそうになっていた椛はその姿に小さなため息をつく。
「ところで文さん、もう少しまともな姿をしてくれませんか?」
文は暑い暑いと言って男物の開襟シャツに袖を通し、下はレースの下着一枚という姿なのだ。
「何よ、一応裸じゃないわよ」
「それはそうですけどね」
しかしボタンを留めていないシャツの合わせ目から見える胸元や、僅かに見える下着は見ようによっては裸よりよほど色っぽい。
「だって暑いんだもの。良いでしょう家の中ぐらいこんな姿でも」
そう言うとわざとらしく手足を伸ばしてポーズを撮る。浅草の活動写真の女優だってこんな色っぽいポーズはしないだろうと椛は思った。
手足はほんの僅かに焼けているが象牙のようにすべらかで白く、濡れ羽色に艶やかな黒髪は吐息のような透間風にさらさらと流されている。
「それはそうですけど、誰かが尋ねてきたらどうするのですか?」
「こんな長屋に誰が来るのよ。椛は暑くないの? そんな服装をしていて」
「夏が暑いのは仕方が無いので我慢しているのです」
椛はいつものように袴に矢絣の和服である。家に帰ってきたのだから帯ぐらい緩めてもいいのだろうが、文にあてつけるようにわざとらしく背筋を伸ばす。
「そうね。それに椛はその服装が似合うから。私もそのままが良いな」
面と向かって笑顔でそう言われると椛は返す言葉を失ってしまう。一瞬前の威勢など瞬時に無くなり、暑さ以外の理由で赤くなりそうな顔をごまかす為に上に向けた椛だったが、その瞬間に文は椛の手を掴んで引き寄せる。
油断していたために抵抗する間も無くころりと転がされ、気付くと文が馬乗りになっていた。
「ちょっと、文さん。やめてくださいよ」
「まだ何もしていないし。言って無いわよ」
そう言って文は満面の笑顔を浮かべる。文がこういう笑顔をしたときは、碌な事が無いことを椛は経験上知っている。
とはいえ、巻き込まれるならまだ良い。今の標的は、考えるまでもなく自分だ。
「そういえば、最近椛の裸を見てないわね。どれくらい成長したのかしら」
「嘘を言わないでください。毎日毎晩銭湯で見ているはずですよ」
「もう、面白味の無い突っ込みはしなくていいのよ」
見下ろす文の姿はこの上も無く扇情的で、袴越しに感じられる太ももの柔らかさと温かさと、何よりゆっくりと伸ばされる手が椛の身体をこわばらせる。
「あの、その、まだ、日が出てますよ?」
「あら、日が落ちた後ならば良いの?」
「なんでそういう方向に話を持っていくんですか」
泣き声が混じってきた椛の言葉を無視して、文は器用に袴の帯を解いてゆくと手を滑らせて襦袢の前をはだけさせる。
「あと残るは肌襦袢だけね」
「ひえぇ、私、嫁入り前なんですけど」
「そりゃそうよ。嫁入り後にこんなことしたら犯罪でしょう」
怪しく目を光らせる文に椛が小さな悲鳴をあげたところで、勢い良く引き戸が開いた。
「文さん、椛姉ちゃん。太郎さんが飯を一緒に食べないかだってさ」
明るい声と共に飛び込んできたのは、先日知り合った弥助と名乗るイタチの少年だった。
開かれた引き戸から風が入り込み、文の頬と少し熱を持ち始めた椛の身体をそよぐ。目の前に広がっている予想などしていなかった光景に、家に半歩足を踏み入れたところで弥助は固まった。涙目でそれを見ている椛も固まっている。
「とりあえず他の人に見られる前に中に入って、戸を閉めてもらえるかな?」
唯一悠々としている文の言葉に操られるように、弥助は中に入るとそっと戸を閉める。そして状況をやっと理解できたようで、慌てて自分が通れる分だけ戸を開けると、外に飛び出して勢い良く閉めた。
「そ、外で待っているから。準備できたら呼んでくれ」
その様子に、文は心底楽しそうにくすくすと笑った。
「それじゃあ椛には悪いけど冷麦は明日にして、太郎さんの所へ行きましょうか」
「分かりましたから、そろそろ降りてください」
上野から電車を乗り継ぎ、目的地の神保町に着いた。ここには現界に住み着いて長い、天狗の太郎がいる。
文と椛、そして弥助は陰り始めた日差しの下、数え切れないほど古本が並んでいる、神保町の古本屋街を進んでゆく。
弥助の手には、お土産として椛が井戸から引き上げた西瓜があった。
「ごめんなさいね。まさか弥助君が飛び込んでくるなんて思わなかったから。驚いた?」
「おいらのほうこそ、いきなり戸を開けたりしてすまなかった」
身支度を整えて家を出た時は弥助は顔を赤くして下を向いてばかりで、人の多い電車の中では会話などできるわけなく、ここまできてやっと文の言葉に返事をする。
「おいらが言うのも変だけど、いくら暑いからって家の中でも、もうちょっと気をつけたほうが良いと思うぜ」
「ご忠告ありがとう。でもどうしようかしら。見られても減るものでも無いしねえ」
「文さん、そういう訳にはいかないだろう。そうそう他の目に晒しちゃいけないはずだぜ」
「その見られちゃいけない物を、私は弥助君に見られてしまったのね」
「それは、その、だからさっきから悪かったって」
「ああ、でも、考えてみればもう少し後にきたら椛の裸も見られたわね」
横で聞きながら、文は謝っているようでからかっているだけだと椛は小さくため息をつく。きっと太郎の店に着くまでこの調子だろう。
日の出ているうちに文と歩くのはしばらくぶりだと椛は思った。家の中ではだらしの無い姿の文だが、今はいつものようにスーツにボルサリーノの男装である。
歩きながら、椛は面白いことを発見した。男装の麗人を絵に描いたような文が街を歩くと、すれ違う人の目を引くことが多いのだが、この神保町ではほとんどそれが無い。
なぜなら道行く人はみな本に意識がいっているからである。百貨店のショーウンドウより、汚れたガラス戸の向こうに並ぶ、古ぼけた背表紙に魅力を感じる人たちがこの日本最大の古本屋街には集うのだ。
妖術で耳や尻尾を人の目には見えないようにしてあるが、そんな事をしなくてもこの場所なら誰も気付かないかもしれない。
隣では、まだ文が弥助をからかっている。家を出る前に弥助が来なかったとしてもそろそろやめる気だったと文に謝られたが、どこまで信じられるものかと椛はため息一つで返事しただけだった。もっとも、文の悪戯には慣れているので怒る気にはならないが、思い出すと少し顔が赤くなる。
「あら? 椛、さっきから黙っているけど何か考え事? それに顔が赤くない?」
するとすぐさま目敏い文に気付かれる。わざと腰を屈め、下から見上げる体勢で質問してくる。上目遣いの視線は、いたずら心に満ち溢れているのが手にとるように分かった。
ここで動揺しては、今度は自分がからかわれる対象になってしまうので、精々椛は不機嫌そうに返事をしたのだった。
「知りません、きっと夕日が顔にあたっているだけでしょう」
天狗の太郎は神保町で古本屋を営んでいる。それと同時に繋げた店の裏側で安くて美味しく、量の多いラーメンを出す店として有名だった。
目の前に広げられた山菜を中心とした中華風のおかずは、豊富というより机からはみ出そうなほど数が多かった。
行儀良く箸を動かす椛の横で、美味しそうなものを手当たり次第食べている文が質問する。
「ねえ、暖簾も出てないし。ラーメン屋はやってないの?」
「夏休みだよ。夏休み。学生はみんな帰省して、何処にもいねえのよ」
「ああ、そういえば人間社会には、夏休みなんて風習があったわね」
「学生がいなけりゃ。うちみたいな量と安さが売りの店には誰もこないのさ」
なるほどと文が納得したところで、太郎は言葉を続けた。
「今日はよ。帝都の妖怪の寄り合いだったのさ」
「それはお疲れ様。揉めたりしませんでしたか?」
群れることを好まない妖怪であるが、それでも社会を形成しないと不都合が多い事は理解している。
そのため年をとった妖怪を中心に数ヶ月に一度寄り合いが行われ、情報の交換だけでなく、時には勝手な行動ばかりする妖怪を自分たちの手で何とかする場合もある。
太郎は知恵も力もある天狗であり、なにより人間社会に溶け込んでいるので、寄り合いの中心人物の一人とされている。
椛は以上のような、文に説明された通りの知識しかないが、時には年を取った人間がこっそりと呼ばれて参加することもあるそうだ。
「まあ、色々話をしてきたが、まとまんねえのはいつもの事だ。それで、そん時に畑で取れた物だとか、人が供えていったものだとか言われて食い物を貰う事が多いんで普段はオマケとして客に出すんだが、今はこの通りだからよ。それで文ちゃんたちを呼んだのさ」
箸を動かしながら椛は納得する。確かにどれもこれも不揃いな形ながらも、地の味がしっかりしている野菜ばかりだった。
「椛さんよ。晩飯の準備はまだだったんだろ?」
「はい、今日は冷麦の予定でしたから。日持ちもしますし大丈夫です」
「そりゃあ良かった。作るときは天ぷらを付けてやると良い。それと大根おろしもな。春菊食べられるか?」
「はい、大好きですよ」
「俺はあれだけは苦手でな。野菜と一緒に全部持っていってくれ。おい、おまえら、そこいらの風呂敷に包んでおけ」
太郎が声をかけると、金属が擦れる僅かに高い音が響きだし、店の奥にいた真鍮製の招き猫が動き出した。全部で五体になる招き猫を太郎は使役している。
椛は、この可愛らしく、良く働く人形たちが大好きだった。テキパキと野菜と山のような春菊を風呂敷にまとめて終えると、そのうちの一体が椛の手元に持ってゆく。
「どうもありがとう。美味しく食べさせてもらいますね」
丁寧にお辞儀をする椛に、さっきから何も言わずひたすら食べつづけていた弥助が怪訝な顔をする。
「太郎さんの人形にお礼を言ったって、何にもならねえんじゃねえの?」
「弥助君は、まだまだ女心がわからないわね」
やれやれとわざとらしく首を振りながら文が言うと、太郎はそれにつられて豪快に笑い声を上げたのだった。
食事が終わると、お土産に持ってきた西瓜が切られて机に並べられた。もっとも盛んに手を伸ばしているのは食べ盛りの弥助だけで、文と椛と太郎は、日も落ちて涼しくなった風を受けながら聞こえてくる風鈴の音を楽しんでいる。
穏やかな夏の一時を破ったのは、低く腹の底から出ているような迫力のある声だった。
がらりと音を立てて正面の戸が開かれると、何者かが入ってくる。
「連絡もせず失礼、太郎さんはいらっしゃいますか」
四角張った強面の顔が、常人より頭一つ分高そうな身体の上に乗っており。頑強な肉体を着流した縞の浴衣で包み、帯だけはきりきりと固く締めている。
その姿はどう見ても無頼漢で、古本を買いに来た客には見えないが全身から僅かに立ち上る妖気を見逃す文と椛ではない。
「池袋の雷太じゃないか。他に客もいないしここにいるのはお仲間だ。こっちに来てまずは座れや」
太郎の言葉に、雷太と呼ばれた男は体格からは意外なほど素早い動きで移動すると、近づいた所で小さく頭を下げる。
「どうもお初にお目にかかります。俺は雑司ヶ谷の鬼子母神の近く、竹もとって店の長男、狸の雷太と申します。以後お見知りおきを」
「座ったままで失礼します。私は鴉天狗の射命丸文と仲間の犬走椛。幻想郷は妖怪の山の出ですが、今は故あってこの帝都にお邪魔させてもらっています」
弥助はすでに顔見知りなのだろう。西瓜を手に持ったまま、文の挨拶の後に小さく頭を下げていた。
「これはこれは、太郎さんの店で花を見るとは珍しいと思いましたが、幻想郷の天狗とは油断したら痛い目を見そうですな」
「油断しなかったら大丈夫って事かしら?」
文と椛をじろじろと見る雷太を軽く挑発するような文に、椛は止めて下さいと視線に込めて訴えたが、気付いても聞き入れてくれる文では無い。
「それで、何か用があるのだろう? ここにいるのは身内だけだ。遠慮無く言うがいい」
太郎が声をかけると、そこで雷太は空いていた椅子に座る。すかさず招き猫の一匹が差し出した茶を受け取ると、音を立てて一気に飲み干し盆に戻す。人で例えると二十中盤の風貌だが一つ一つの動作に貫禄があって、絵になる男だった。
「では、話をさせてもらいます。最近人が調子に乗っているのは帝都は何処でも彼処でもですが、鬼子母神の少し北、池袋のあたりにある森を丸々一つ潰して、研究所を作るそうじゃないですか」
「そのようで、すでに工事も始まっているようだな」
「これはどういう事ですか。あの辺りは狸の仲間も、他の妖怪たちも住んでいる。なんでも泣き寝入りして引っ越せと意見がまとまったそうで」
「そういう言い方はねえだろ。確かに寄り合いではそう話がまとまった。住処を失った者たちは鬼子母神を始め、他の森に移動しようということになった」
我々も無念なのだという言葉を口外に忍ばせながら、太郎は辛い表情で返事をするが雷太の追及は弱まる気配を見せない。
「人が調子に乗っているときに、冷や水を掛けるのも我ら妖怪の役目の一つと思いますが?」
「その分、寄り合いに出てきた人間たちには、他の場所の開発を控えるよう厳しく申し渡してやった」
「もはや、老人たちの言うことなど相手にされない時代のようですがね。皆さんの腰が引けているならいつだってこの雷太、仲間を引き連れて江戸の頃より伝わる狸の技、八百八町に披露してみせますが?」
「雷太、お前わし等が腰抜けとでも言いたいのかい?」
「みなまで言わなければ通じない訳ではございますまい」
さすがの太郎が表情を厳しくするが、それを真正面から受けても雷太は引く気配を見せない。弥助は急に流れ始めた険悪な空気に着いて行けず、今はただ小さくなっている。
「ところで聞くところによりますと、池袋に出来るのはラジヲとか言う物の研究所だそうじゃ無いですか。強い電波を四方八方に撒き散らすらしいですが、それで空飛ぶカラスやお仲間が焼き殺されたりはしないんですかね」
「聞いた限りでは、そんな危ないもんじゃなさそうだがな」
一見脅しに弱そうで、哨戒天狗として修羅場を幾度も潜っている椛は、このような場面に強い。弥助のように小さくなるわけでもなく、黙って事の成り行きを見守っていた椛だったが、今の雷太の言葉は捨てて置けない。
「文さん、あの、ラジヲの電波ってそんな危険なんですか?」
「ちょっと黙っていなさい」
「はい、すみません」
小声で質問する椛に、腕を組んで同じように成り行きを見守っている文が鋭く返事をする。
「まあ、今日の所はこれぐらいで失礼しますが。それこそ完成して何かあってからじゃ遅いと思いますがね。では、文さんと椛さんでしたっけ? お客人の前で詰まらない物を見せてしまったお詫びはまたの機会にでも」
そう言い捨てると、雷太は席を立ち颯爽と立ち去っていった。黙ってそれを見届けると、太郎は穏やかな表情に戻り、文と椛に深々と頭を下げる。
「わざわざ来て貰った日だというのに、争い事を見せてしまって申し訳ねえな」
「気にしなくていいですよ。太郎さんこそ大変ですね」
「なんせこの数十年で帝都は一気に変わったからな。何処の妖怪も大変だぜ」
「しかし、いかにも乱暴者という感じでしたね。放っておいて大丈夫なのでしょうか?」
椛が心配そうに口を挟むと、文と太郎は二人同時に苦笑する。
「椛さんよ。あの雷太は悪い奴じゃねえんだ。根は優しい、良い男なんだぜ」
「そうなのですか? 私には押しの強い乱暴者にしか見えませんでしたが」
訳がわからないという表情の椛の頭を、文が軽く叩いてそしてゆっくりと撫でる。驚いた椛が視線を送ると、怒っているわけでもない、だけど楽しんでいる訳でもない、複雑な表情をしていた。
「あの雷太って子が若い子をまとめているんでしょう? それはそれで大変ね」
「それなんだがな。雑司ヶ谷の狸の長老たちはみんなのんびりとした性格で、若いのが何を言ってものらりくらりとしちまっているそうだ」
「まあ、まさに狸という感じなのね」
太郎に向き直った文は、少し考えた後に付け加えた。
「あの雷太とか言う子、気に入っているんでしょう?」
その言葉に、太郎は曖昧に笑いを返した。続いて文は弥助のほうを見る。
「弥助君も、まずは太郎さんにあれぐらい言えるようにならないとね」
「えっ、俺があんな口を利けるわけねえよ」
文の言葉に慌てる弥助だったが、話し掛けられたことで小さくなっていた状態からやっと戻れたのであった。
「さて、小難しい話はこれぐらいにしましょうか。太郎さん、折角ですから何か出してくださいよ」
「おう、そうだな。折角だから一杯やろうか。ちょっと持ってくるわ」
そのやりとりに少しだけ重苦しさを漂わせていた雰囲気が吹き飛び、招き猫たちがいそいそと机の上を片付け、酒宴の用意をする。
「これ、寄り合いで貰った酒で彩霞っていうんだがよ。名は知られてないが良い酒なんだぜ」
天狗は鬼に負けず劣らず酒に強い。その日の酒宴は、空が白み始めるまで続いたのであった。
そして数日たったが、文と椛の生活に大きな変化は無い。
目を覚ました椛は近くの草原で日課である剣の修行をし、人気の無い古井戸で汗を流すと家に戻り朝食の準備をする。
先日のようなことを防ぐために、文を起こすと同時に部屋着を着なければ朝食は食べさせませんと脅かし、なんとか服を着させると朝食を済ませる。
文は新聞を読み始め、すぐに読み散らかした新聞に囲まれてしまう。椛は文の手伝いをしたり、太郎が薦めてくれた本を読んで勉強したりしている。
太郎の所へ夕食を食べに行った時に、ここ一月分の各社の新聞を貰う事が出来たので、今までにも増して文は新聞に囲まれた生活をしているのであった。
昼食を終えて、井戸端で洗い物を済ませてきた椛は、食器を片付け終えると文の側によって質問した。
「そういえば、太郎さんの所で気になった話ですけど、ラジヲって本当に電波で空を飛ぶ者に悪影響を与えたりするんでしょうか?」
椛の質問に文は少し考えた後、近くにあった記事を一つ手渡す。椛が視線を走らせるとラジヲに付いて非常に詳しい説明が書かれていた。
数式のような物から、小さなグラフまである。何時間眺めていても理解できそうにないということだけは即座に理解できた。
「文さん、良く分かりません」
「うん、私も良く分からないわ」
即答されたことで、椛は思わず体勢を崩しそうになる。
「そ、それで良いんですかっ」
「だって、私は新聞記者であってラジヲの専門家じゃないですもの。それこそ椛の友人の河童さんに聞いた方が良いと思うわ」
そして人差し指を唇に当てて文は少しだけ考え込んだ後、ゆっくりと答える。
「とりあえず、空飛ぶ鳥が焼け死ぬような事は無いはずよ。ただ、私には『絶対に無い』と断言する知識が無いから、必要だとしたら、それを理論的に説明できる人に取材をしないといけないわよね。ところで椛、あなた雷太とかいう狸の若者が気になっているんでしょう?」
「その通りです。その、雷太さんが気にしていたようなので説明してあげることができれば良いかなと」
「それを口実に会いに行ってみたい訳だ」
「えっと、その、別に何かやましい気持ちが有る訳じゃなくて。私には乱暴者にしか見えなかったんですけど、文さんや太郎さん認めている様子だったのがどうしても分からなくて」
椛の長所は素直な所だと、文はしみじみと思った。周りに素直でいることは難しいが、自分に素直でいることはもっと難しい。
「興味を持ったというだけで、少なくとも新聞記者にとっては動く理由になるわよ。行ってみれば良いじゃない」
「分かりました。夕飯までには帰ってきますね」
きっぱりとそう言うと、椛は暑い日差しの降り注ぐ中、確かな足取りで駅へと向かって行ったのであった。
雑司ヶ谷へ行く方法はいくつかあるが、網の目状に張り巡らされた路線図をまだ頭に入れきってない椛は、のんびりと山手線で池袋へ出た。
電車を降りて鬼子母神に向けて歩き始めれば、風景はすぐに緑に溢れたものになる。帝都の中でも、このあたりはまだまだ雑木林が点在し、暑い日差しの下で人のざわめきよりも蝉の声のほうが大きい。健脚の椛なら、三十分もあるけば鬼子母神に着いた。
視界を埋め尽くすほどの鬱蒼と茂る森の周りに、小さな商店街が肩を並べている。見渡してみれば藁葺き屋根の民家も点在し、虫取り網と竹籤で作った籠を持った少年がそこかしこを走り回っている。上野とも違う、浅草とも似て非なるのどかな賑わいに包まれている。
参道を進んで鬼子母神の森を進んでゆく、中は日差しも和らいでいて、木々を抜ける風がうっすらと汗ばんでいた椛の体を冷やしてくれる。
「まだまだ、自然が豊富なんですね」
思わず独り言を呟いてしまうほど、この辺りは緑が豊かだった。何よりも、近辺には数え切れないほどの妖怪が住んでいることを椛はその肌で感じていた。
本殿に参拝を終えて振り向くと、視線の先にあるお茶屋さんで老婆がのんびりと団子を食べていた。
「すみません、お茶を一杯と団子を一皿お願いします」
椛はお茶屋に近づくと、店の奥に向かって注文をする。そして老婆に向かって頭を下げた。
「お隣、お邪魔してよろしいですか?」
「構いませんよ?」
畳のはめ込まれた縁台に腰をおろすと、椛は出されたお茶をのんびりと飲む。しばらくした後、先に口を開いたのは椛だった。
「怪しい者では無いです。神保町の太郎さんの知り合いでして犬走椛と申します」
「あらやだ、太郎さんの知り合いかい。そりゃ、失礼をしたね」
乾いた笑い声をあげながら、老婆は二度三度頭を下げる。
「よろしければ教えていただけますか? この近くに竹もと、というお店があると思うのですが。そこの雷太さんに会いにきたのです」
「ほう、あの乱暴者に用とはのう。余り、近寄ることはお勧めしないが」
不機嫌そうな顔をして、いまいましさを隠そうともしない声色で老婆は店への道を教えてくれた。
「若い者のを集めて、我が侭しほうだいの奴じゃよ。天狗さんは新聞記者かい?」
「いえ、まだ見習いにもなっていません」
「そうか、では頑張りなさい。一生懸命勉強して、良い記者になるんだよ」
丁寧にお礼を告げて老婆と別れた椛は、言われたとおりの道順で、竹もとに辿り着いた。
「あれ? ラーメン屋なんだ」
近くに漂う匂いと店の上に掲げられた看板を確認して椛は呟く。太郎さんのラーメンとどちらが美味しいだろうと思いながら引き戸に手を伸ばした所で、勝手に勢い良く戸が開かれ、目の前に雷太が姿を表した。
「おや? 昨日の天狗の片割れじゃないか、どうしたんだ?」
どうやって雷太に取り次いでもらおうかと道々考えていた椛は、驚いて一瞬固まってしまったが、小さく頭を下げると椛は正直に言う。
「よろしければ、雷太さんのお話を聞きたくてお邪魔したんです」
「俺の話を聞きに? わざわざここまで?」
「はい、そうなのですが」
「ラーメン食いに来たわけでも、遊びに来たわけでもなくて?」
話を聞かせて欲しいなどと生まれて初めて言われたのだろう、戸惑いを通り越して不思議そうな顔をする雷太だっだが、少し考えて納得した表情になる。
「犬走椛さんで合ってるよな。そういえば、天狗ってのは新聞記者を生業とするんだったな」
「えっと、まだ、記者では無いんですけどね」
「そうか、卵か。母さん、ちょっと客が来た。掃除は誰かにやらせといて」
振り返って店の奥に声をかけると、雷太は椛を連れて歩き出した。
「椛さんは、今、何処に住んでいるんだ? 神保町?」
「いえ、浅草の外れに住んでいます」
「そうか、それじゃあこのあたりのほうが、自然が多いだろう」
街道沿いに歩き始めたところで、雷太の方から色々と椛に話し掛け始めた。会話を上手く切り出せなかったらどうしようと少し不安のあった椛だったが、雷太は話し好きらしい。
「なあ、幻想郷ってのは住んでいるのは妖怪が殆どなんだろう?」
「そうですね。人里は小さく、住んでいる人は僅かです」
「仲良くやっているのか?」
「妖怪と人が和気藹々という訳ではありませんが、悪くも無いと思いますよ。特に子供なんて、平気で妖怪と遊んでいますし。あ、寺子屋を開いている妖怪もいます」
どちらかというと、弾幕合戦をしたがる妖怪の方が人間よりよっぽど危険だ。
「このあたりも、ちょっと前まではそうだった。俺は明治元年の生まれで五十ぐらいだな。人間のガキがよく森に遊びに来て、俺も混ざっていた。人数が足りないと、わざわざ呼びに来るぐらいだった」
「なんだか、凄い話ですね」
「それが普通だった。妖怪の年寄りも人の年寄りも良く話をしていたようだし、たまに力を貸してやったりもしたようだ。そうやって上手くいっていたんだがな」
話しながら椛は、目の前の雷太と、昨日太郎の家で凄んでいた雷太が同じとは思えなかった。威勢の良い話し声は耳に心地良いし、厳つい顔も不器用な笑顔に溢れている。もしかしたら、こちらの雷太が本物なのだろうかと椛は話しながら考えた。だとすれば、文や太郎が誉めていたのも頷ける。
いつのまにか街道から細い道に入り込み、大きな森の奥へ進んでいた。そしてその中心は、まるで空から大きなスプーンで掬い上げたかのように空き地となっている。
「どういう事ですか? これは」
「話すよりも、見せた方が早いと思ってな」
その場所は自然に出来た空き地ではなかった。木は切り倒されていて、そこかしこの地面は掘り起こされている。端には休憩所らしい小屋と、その周りには道具らしい物が山のように積み上げられていた。
「ほんの数ヶ月前に人が出入りするようになったと思ったらこの有様だ。今日は日曜日で休みだが、他の日は朝から晩まで何十人もの人がここで働いている」
そう言いながら雷太は悔しそうに地面を蹴る。
「まさか、そんな、こんなに」
椛としてみれば、こんな大掛かりなものとは予想もしていなかったのである。これだけの大工事となれば、それは被害を受ける妖怪の数も少なくないだろう。
「それで、雷太さんはどうするんですか?」
「長老や太郎さんは止めるが、このまま何もしない訳にはいかない。特に、若い奴らの気が治まらない」
苦々しく呟く雷太の表情を見て、椛は項垂れてしまった。この状況を前にしては、何を言って良いのか分からないのだった。
「さて、それはともかくとして」
急に雷太の声の調子が変わり、椛は顔を上げる。
「なあ椛さんよ。あんた、幻想郷の天狗ってことは、相当やるんだろ?」
雷太は右手で力瘤を作り、それを勢い良く叩く。つまり、椛と腕試しがしたいと言っている事はすぐに理解できた。
「俺は色んな奴と喧嘩してきたが、天狗とやった事は無いんだ。もしかしたら太郎さんとやる事になるかもしれないし。腕試しをしてもらっていいかな?」
「一体何を言い出すのですか」
椛は呆れるように呟く。もしかしたら良い人なのかもしれないと思えてきた所だというのに、分からなくなってしまった。
それはともかく、自分は何を言われても構わないが、天狗の一族を侮られるような事は許す訳にはいかない。
面子だけの問題ではない、侮りは詰まらぬ戦いを生む。それを防ぐために、哨戒天狗は敵と思われるものには即戦即滅を教え込まれている。
まさしく、今の雷太のような存在を放置しておいては後々面倒なことの火種になる事が多いのだ。
「妖怪の山を守る哨戒天狗の力お見せしましょう。一つ断っておきますが、文さんは私より強く、太郎さんはさらに強いはずです」
「つまり、太郎さんに文句を言いたければ、まずは椛さんを叩きのめせということだな」
「私に叩きのめされるようでは、百年経っても天狗には敵わないと言っているのです」
椛が右手に愛刀を取り出すと、太郎は後ろに飛ぶ。上から見下ろせば、広場の中心に椛がいて、森との境目に雷太が居る事が良く見えたであろう。
「そうかい、じゃあ、その力を見せてもらおうか」
雷太は腕に力を込めて勢い良く木を叩く、枝が揺れざわめきと共に青い葉が次々と落ちてくる。椛が気付いたときには、それぞれの葉が二つ、四つ、八つと分裂し、いつの間にか視界を葉っぱが覆っていた。
「葉っぱを媒体とすることで、少ない妖力で沢山の弾幕を用意するとはやりますね」
「あんたに恨みは無いが、いくぜ椛さんよ」
その言葉と共に、時間差を付けながら端から順番に弾幕が放たれる。袴の裾を翻して椛は駆け出した。
時間差を持つ弾幕を避ける方法は二つある。一つは進行方向に一緒に動き、一度タイミングを合わせてしまえば順番に避けていくことは難しくない。多少時間はかかるが確実だ。
もう一つは、あえて戦闘の弾幕に突っ込んで、それを突破できれば時間をおいて動き出す弾幕は無視することが出来る。
そして、自分の速度に自信を持っている椛は後者の方が得意だった。風を切って迫り来る弾幕に砂煙を上げて飛び込むと、全て余裕を持って避けてゆく。
数は多いが、動きは不揃いだし大きさも統一されていない。狸にしては良くやっていると言いたい所だが、天狗に挑戦したからには手加減をするわけにはいかない。
「つまり、美しくない弾幕ですね」
傷一つ無く突破すると、椛はそのまま飛び込んでゆく。慌てて展開していた弾幕を消して身軽になった雷太は木から木へと飛んでゆく。
体格に似合わず身軽な動きに一瞬椛が戸惑っていると、体勢を立て直した雷太は四方八方に弾幕を展開した。
「自分の生まれ育った場所は、霊的に相性が良いので能力が底上げされる。と、前に文さんに教わった事がありますけど」
見渡す限りの弾幕に囲まれながら、椛は小さく呟いた。
「どうだい、中々の物だろう」
雷太の返事に椛は素直に答える。
「そうですね、中々の物ですね」
その言葉を合図としたように飛んでくる弾幕に椛はまず右手の刀を振りかざす。すると一瞬にして色鮮やかな弾幕が展開された。数こそ雷太の物より少ないが、大きさも、何より込められた妖力が全く違う。
「天狗の力を、少し見せましょう」
のの字に動き出した椛の弾幕は、雷太の弾幕とぶつかると爆音と共にそれらを軽々と飲み込み蹴散らしてゆく。相殺するどころか、広場のそこかしこに抉り取られたような傷跡が出来たほどだった。
その様子を見ても、再び葉っぱを舞い散らせ始めた雷太に、諦めの悪い相手だと心の中で呟いた椛は、左手を振って風を巻き起こすと容赦なく葉っぱを吹き飛ばした。
「さすがは天狗だ。やってくれるな」
「もうそろそろ終わりにしませんか?」
言いながら椛は小走りに間合いを詰めて、風が収まった頃には雷太の喉元に刀を突きつけていた。
「わかった、負けを認める」
「もう一度だけ言いますが、私に勝てないようでは太郎さんに勝つなんて夢のまた夢ですよ」
雷太が一歩後ろに下がり、大人しく頭を下げると椛は刀をしまった。そこで我に返って顔色を変える。手加減をしたつもりだったが、ずいぶんと空き地を荒らしてしまったのである。
「ど、どうしましょう。これ」
「ああ、うちの若いやつらに片付けさせるよ。気にするな」
「はい、ありがとうございます」
椛は心底ほっとしたように頭を下げる。先ほどまでの戦いぶりとの変わりように雷太は大笑いする。
「どうにも変わったお嬢ちゃんだな。天狗っては椛さんみたいのが多いのか?」
「さあ、余り私みたいのは多くないと思いますけど」
妖怪の山を思い出しながら椛は答える。天狗の仲間も色々いるので一概に答えることは出来ない。
「それじゃあ、あの文さんって人みたいのが普通なのか」
「いえ、そんな事は全くありません」
それだけは即答できる椛だった。
腕試しに付き合わせて悪かったと謝る雷太に、気にしないでくださいと椛が頭を下げると、再び元のように和やかな雰囲気に戻った。
場所を近くの公園に移した後は、天狗の一族と、狸の一族の取りとめの無い話を重ねているうちに時間が過ぎてしまい、椛は雷太と別れて家に戻ったのだった。
「そういえば、昨日池袋で一暴れしたと言っていたわよね」
「はい、何かありましたか」
次の日の昼下がり、椛は繕い物をしていて、文は変わらず新聞に囲まれて色々と調べ物をしている。
昨日の体験を椛は包み隠さず文に伝えてある。隠す必要は無いと思ったし、それに太郎に伝えるべき事だとしたら文が判断してくれると思ったからである。
「さっき通りかかったカラスの一団に聞いたんだけどね。池袋のとある工事現場では、物の怪が出たらしいと噂になっているそうよ」
「そんな。ちゃんと片付けておくって雷太さん言っていたんですけど」
顔色を変える椛の前で、文はにやりと笑った。
「椛、あなた嵌められたわね」
「どういうことでしょうか?」
「工事現場で物の怪が暴れたような痕があったら、工事は延期、運がよければ中止になるかもしれない。椛が偶然だけど顔を出してくれて、都合が良いと喜んだことでしょうね」
「なんで私だと都合が良いんですか?」
「だって、仲間と暴れたら騒ぎが大きくなるし、一人でやったら仲間が納得しないでしょう? 天狗と一勝負したというのが一番収まりやすいじゃない」
文の説明を聞いて、椛は全てが繋がったような気がした。やはり、あの雷太という狸は悪い妖怪では無いのだ。
手に持った繕い物に視線を落とす。それは、いつも履いている紺色の袴だった。昨日、雷太と争った時に所々破れてしまったので直していたのである。
「それで、雷太さんはどうなったのですか?」
「しばらくの間自宅謹慎を命ぜられたそうよ。そして他にはお咎め無し。ちなみに身内の恥を外に漏らしたくないから太郎さんの所には話もいっていないようね」
そう言って文は満面の笑みを浮かべる。何か面白そうなことや、悪戯を思いついたときにこういう顔をするが、今日のところは雷太の手際の良さが愉快でたまらないという雰囲気である。
上手く自分一人で話をまとめた雷太に、良いように利用された立場であるはずの椛であったが不思議と心の中は清々しかった。
「文さん。雷太さんの家は竹もとってラーメン屋なのですよ。今度食べに行きましょうか。奢ってもらっても良いはずですよね」
今の自分の笑顔は、きっと文の笑顔にそっくりだろうと鏡を見るわけでもなく椛は確信できたのだった。
しかし数日後、事態は悪い方向に転がってゆく。家に飛び込んできたカラスの話を聞いた文は、深刻な表情をして椛を呼び寄せた。
「池袋の工事は再開ですって。しかも遅れを取り戻すために人を沢山雇って、一気に進めるそうよ」
「そんな、人は危険と思ってくれないのでしょうか」
「時代の流れね。人は自然を無視し、妖怪を恐れなくなる」
「一体、これからどうなるのでしょうか」
悔しさと絶望感を滲ませながら呟く椛に、文は鋭い視線を送って問い掛ける。
「まずは今後の事を考えるより、今の問題をどうするかよね?」
その問い掛けに、椛は考え込む必要も無く一つの結論に達した。
「雷太さんが、何かをするかもしれない」
「その通りよ。様子を見に行った方が良さそうね」
勢い良く洋服箪笥を開けると、文は手早く身支度を始める。
「あの、文さんも一緒に行ってくれるんですか?」
「私も心配だし、それに大事になったら太郎さんまで出てくることになるわ」
そして文は冗談めかして付け加えた。
「太郎さんは、怒ると怖いのよ」
さすがに日中空を飛ぶわけにもいかないし、人で溢れる大地を走り抜けるわけにもいかないので、文と椛は焦る心を抑えて電車で向かう。
池袋駅につくと、何処に向かうべきか悩む椛に、まずは鬼子母神に行くべきと断言した文は先に歩き出した。
本殿を通り過ぎ、夏の日差しも突き抜けることを許さない薄暗い森の奥では、妖怪の一団が何かを話し合っていた。
良く見てみると、年老いた妖怪と若い妖怪たちが二つに分かれて今にも掴みかからんばかりの勢いである。
近づいた所で、先日の老婆を見つけた椛は、そっと話し掛ける。
「あの、すみません」
「おや、先日の天狗さんじゃないか」
「ずいぶん騒ぎが大きいようですね」
「これはこれは、天狗さんに見られては何処で記事にされるか分からんの。見ての通り喧嘩の真っ最中じゃ」
老婆がやれやれと首を振ったところで、周りをみてきた文が近づいてくる。
「椛、どこにも雷太さんは居ないわね。実家の方かしら」
「おや、そちらも可愛らしい天狗さんだね。お二人は雷太をお探しかい」
「ご存知なんですか?」
椛の問い掛けに、老婆は皺だらけの顔をさらに歪めて答える。
「入れ違いだよ。さっき血の気の多い若いのを連れて、池袋の工事現場のほうに向かったよ。ほんと、何を考えているんだかね、あの乱暴者たちは」
「それでは、ここでは何を話しているのですか?」
文が先ほどから激論を戦わせている人たちを指差す。
「あの乱暴者をどうするかだよ。わし等はとっとと追放しちまった方が良いと思うんだが、情状酌量の余地があるだろうと言うやつらも多くてね」
その老婆の言い方に、椛は考えるよりも先に口を開いてしまった。
「貴方たちは、いったい何をしているんですか」
その剣幕に、老婆だけではなく周りにいた全ての妖怪たちが注目する。
「戦っている仲間を放っておくどころか、その人たちをどう処罰するかを話し合っているなんて、恥ずかしくないんですか」
「お嬢ちゃん、他所からきて生意気な口を叩くんじゃないよ」
「では、貴方は今の事態を避けるために何をしたというのですか。何も知らない余所者と一体何が違うというのですか」
椛の訴えに何も言い返せず、老婆が数歩後ろに下がると同時に、文が前に出て椛の頬を叩く。痛烈な音が森の中に響き渡った。
「失礼、うちの若いのが取り乱しまして」
そう言って老婆に向き直った文は、帽子をとって丁寧に頭を下げる。それと同時に、今まで黙っていた妖怪たちが、そもそもお前らは誰だと口々に言いながら文と椛を囲み始めた。
「ふ、ふん。これだから天狗は偏屈と言われるんだよ」
老婆は目を白黒させながらも、これ以上事態を混乱させたく無い様で、勢い良く文に向かって手を振る。
「こいつらには私から言っておくから、とっとと消えな」
その言葉に、文はもう一度深く頭を下げると椛の手を取って素早く森を抜ける。
「椛、行くよ」
「え、ど、何処へですか」
「何言っているの。工事現場よ。案内して」
早足で目的地へ歩きながら、興奮して出てきた涙を拭い、呼吸を整えてた椛は文に小さく頭を下げる。
「文さんすみません、さっきは取り乱しまして」
「新聞記者は、何があっても怒っちゃいけないと言っているでしょう」
そういうと文は椛の頬をそっと撫でる。
「ごめんね、痛かったでしょう」
手加減など出来る状態ではなかったのだろう。相当な力で叩かれた椛だったが、腫れた頬など妖怪の回復力では瞬時に回復してしまう。だが、今の椛にとってはその回復力が恨めしかった。優しく微笑む文の表情が、自分の未熟さを感じさせてさらに椛の心を締め付ける。
だが、今は椛には感傷に浸っている余裕も、反省にうなだれている時間も与えられない。
工事現場の森は、もうすぐそこまで迫っていた。
文と椛が森へ足を踏み入れた頃、三十人ほどの男たちが働いていた工事現場は、日も高いというのに混乱の極地だった。
奇怪な声がする、化け物があちらこちらに姿を現すといったものは優しい物で、切り倒して重ねておいた木材が轟音と共に崩れてくる、休憩小屋が揺れに揺れるので大地震かと外に飛び出してみれば、大地はぴくりとも揺れていない。
騒ぎがどんどん大きくなってきたので、落ち着かせるために全員集めて点呼を取ってみれば、減っているどころか三人ほど人数が増えている。
ここまで来ると、命知らずの日雇い工夫といえど祟りだ、化け物だと、顔色を青くし始める。
そこへ突風が巻き起こり、目も碌に開いていられないほどの砂煙に包まれ、全身を飛んできた小石の群に叩かれれば、もう誰にも騒ぎを止めることはできなかった。
無論全て狸たちの仕業である。このままでは相当な数の怪我人が出たことであろうが、人が闇雲に動き出そうとした瞬間、今まで起こっていた怪現象がぴたりとやんだ。
まるで戦場のように荒れ果てた森の中の空き地の中で我に返った人たちは、それこそ先を争うように外へと逃げ出した。
怒っていた狸たちは、もう少しは人に痛い目をみせるつもりだった。それを中止しなければならなくなったのは、外からの侵入者を確認したからである。
外から中へ通じる細い道を、人に姿を見られないように木々の枝から枝へ飛んで走りぬけた文と椛は、最後に大きく跳ぶと、小気味のいい音を立てて空き地の中心に着地した。
森のあちこちから殺気だった妖気が感じられる。少し間をおいて姿を現したのは言わずと知れた雷太だった。
「椛さんに、そちらは文さんで良いんだよな。俺らは忙しいんだが邪魔をしないで欲しかったな」
先日と違う暗い表情の雷太を見て、椛は一歩前に出て訴える。何かを口にしなければ居た堪れなくて胸が張り裂けそうだった。
「こんなことして何になるのですか。人を傷つけたら、雷太さんは更に重い罰を受けることになりますよ」
「ああ、こないだ利用したのは謝る。申し訳ない」
「そんなことは気にしていません。それでは足りなかったのですか」
「見れば分かるだろう。警告だけでは人は止まらなかった。人の愚かさに仲間たちは怒っているし、俺も怒っている。これは当然の報いだ」
そう言う雷太の表情はとても怒っているように見えなかった。その様子が椛を苛立たせる。
「さて、これ以上話をしてもまとまりそうにないし、邪魔をするのはやめて帰ってもらおうか。時間が惜しい」
「私たちが帰ったら、何をするつもりなんですか?」
「せめて、この現場に有る物を壊すぐらいはしておかないとな。うちの長老連中は怖くないが、天狗の太郎さん辺りが出てくる前に片を付ける」
誰かを止めるということが、誰かに何かを訴えるということが、いかに難しいかを椛はひしひしと感じていた。きっと、雷太は何度もこんな思いをしながら仲間たちと話しをし、長老たちに訴え、無力感を味わってきたのだろう。
何倍も悩んだ末に諦めることができず選んだ選択肢を、椛が横から口を出した程度で変えられる訳が無い。
その時、椛の肩を文が優しく叩いた。
「どうするの? 椛」
いつものように悪戯っぽい物でも、からかうような表情でも無く、文は悲しみを含んだ表情で問い掛ける。
「文さんは、分かっているんですね」
言葉にならないぐらい小さく呟いて、椛はうなだれる。この場所にこなくても、文は雷太の立場と決意を理解していたのだ。だから、雷太を責めることもしないし、その遣り切れなさも理解しているから、先ほどのように暴力を振るってでも椛を止めるようなこともしない。
椛は思う。自分に何が出来るのだろう。
それは正直分かっている。自分に正解を導くことなど出来はしない。
だが、一つだけ分かっている。今の雷太は悪い方向に転がっていて、そして自分はそれを止めたいからこの場所に来たのだ。
「止めます。太郎さんが来る前に、誰かが来る前に私の手で雷太さんを止めます。見過ごす訳にはいきません」
椛が顔を上げてきっぱりと言うと、文は笑顔で軽く椛の頭を叩いた。
「良いわ、付き合うわよ」
「そうか、天狗と戦う事になるとはやっかいだな」
そう呟く雷太の声が、今までより明るく聞こえたのは自分の勘違いでは無いと椛は思った。
「それでは私が、雷太さんの相手をします」
「では、他の狸は任せておきなさい」
椛はその場に残って愛刀構え、文は高々と左に飛ぶ。森に入ったところで文は神経を集中して気配を調べる。感じられるのは木々の間に点在するように十体で、しかも誰もがそれほど強い妖気では無い。本来の文ならば一瞬にして決着が付くだろうが、残念なことに今は妖力の殆んどを封じられている。
「ほほほ、男装の麗人とはこれいかに」
「天狗の高い鼻を折って見せましょう」
「自分が負けるところを記事に出来るよう、カメラは持ってきましたか?」
木々の間に響く相手の挑発に、何か言い返そうと文が口を開こうとした瞬間、四方八方から弾幕が飛んできた。
「手加減は無しってことね」
軽い足取りで避けてゆき、速度の速いものは帽子を振って叩き落した。ふと、正面が弾幕が薄いことに気付いた文は、少し考えた後に前へ走る。
まずはこちらのペースに持ち込まないと集団戦は戦い辛い。
罠があるなら掻い潜って相手の意表を突こうと思った文だったが、弾幕を避けながら前へ進んだところで驚いた表情を浮かべる。なんと身長をはるかに越える大木が二本、自分に向かって倒れてきたのである。
前には倒れてくる木、周りには弾幕、いくら相手の慣れた土地とはいえこんな罠が仕掛けてあるとは意表を突かれたのは文の方だった。
走る勢いのまま前へ飛びたくなるが、文はあえて後ろに飛んだ。弾幕の中に戻るのだから自殺行為といえたが、逆にいえば後ろには罠は無い。お気に入りのスーツを土に汚しながらもなんとか避けきると、文はさらに後ろに飛んで一度森から空き地へ戻ったのだった。。
一方、椛は愛刀を右手に持ちながら雷太との間合いを詰めてゆく。
その表情にはすでに迷いの色は無い。戦うと決めたからには、中途半端な感情は相手を侮辱することになる。
「雷太さん。お相手お願いします」
「迷いの無い良い表情だな。俺らみたいな半端者じゃなくて、ちゃんと己の腕を磨いてきた自信に溢れた顔だ」
そこで雷太は全身に力を込めて前傾姿勢になる。
「椛さんよ。自分が必ず勝つと思っているだろう」
そう言われて椛は考える。侮るわけではないが、こないだの戦いで雷太の実力は理解している。妖力を比べても、実戦経験からしても椛は負ける気はしない。
「戦いはそっちの方が慣れているんだろうけどな」
その瞬間、雷太は駆け出していた。
「喧嘩はどうかな」
走りながら雷太は次々と弾幕を投げてくる。だが目で追って、数えられる程度でしかない。椛はその場から動くことなく全てを受け流す。
そこへ雷太が拳に唸りを上げて飛び込んできたが、椛は刀の峰でその拳を叩く。苦痛に顔を歪めながら雷太が数歩後ろに下がった時、椛は嫌な気配を感じて後ろを確認すると、先ほど受け流した弾幕が戻ってきていた。
「戻り弾幕とは、やりますね」
幻想郷でも使い手の少ない高等技術だ。椛も避けるのは苦手だが、残念なことに数も速度も少なかった。隙を見せぬよう正面の雷太を意識しながら、一つ一つ丁寧に避けてゆく。
次に雷太は両手を前に出す。戻り弾幕と、自分の新たな弾幕で挟み撃ちにするつもりだ。
その考えは良いが、それには一瞬でも力を溜めることが必要で、これだけ近い距離に居る場合、それは致命的な隙となる。椛は一瞬で間合いを詰めると刀を返し、峰を使って勢い良く斬り下げた。
その衝撃で戦闘不能にしたと思った瞬間、雷太の姿が消え失せて変わりに一枚の葉っぱがひらひらと舞った。
「分身?」
椛は驚きの声を上げると同時に、まずは迫る戻り弾幕から逃れるために横へ飛ぶが、着地した瞬間、椛は『雷太』に囲まれていた。
袴の右裾を抑える雷太に、左手を抑えつける雷太。後ろにも前にも複数の雷太がいて、次の瞬間前から砂を投げつけられる。
目にこそ入らなかったが、瞑ってしまった目を開くわけにはいかない。暗闇の中で、自分に向かう攻撃を肌で感じた椛は、とにかく全力で体を振り回し戒めを解くと、後ろに飛んだ。
お互いの気配を感じた文と椛は、そのまま空き地の真ん中で背中合わせになる。
「椛、ずいぶんと苦戦しているようね」
「喧嘩慣れしている相手ですね。まさか分身の術が得意とは思いませんでした。そういう文さんこそどうですか」
軽い調子の文に、椛は真面目に返事をする。砂を手で拭って前を見と、すでに雷太は分身の術を解いていた。
文の視線の先では、木々の枝から枝へと小さな妖気が絶え間なく動いている。森を丸々吹き飛ばす訳にもいかないし、そもそも今の文にそれほどの妖力は無い。
「ご丁寧に森の中に罠が仕掛けてあってね。少し苦戦しているわ」
そういう文に、椛はちらりと振り返った後に小首をかしげる。
「ああ、そうか。文さん。本当に力が落ちているんですね」
納得したようにそう呟くと、まるで文の真似をするように意地の悪い笑みを浮かべて、椛は言葉を続ける。
「文さん。相手に罠を仕掛ける時間なんて、ある訳無いじゃないですか」
その言葉に、文はあることに気付いて、悔しそうな表情になる。
「そうか、どおりであいつらはちょこまか動いているわけね」
「きっとそうだと思いますよ」
椛が嬉しそうに頷くと、文はお返しとばかりに質問する。
「椛も苦戦しているようだけど、何体に分身しているの?」
「えっと、確か八体ですね」
「そう、分身の術を使う相手との戦い方は、教えなかったっけ?」
今度は、文の言葉に椛か小さく頭を下げる。
「思い出しました。幻想郷は弾幕合戦ばかりだったので、色々と忘れているのかもしれませんね」
そして申し合わせたように文と椛は笑い合った。背中に感じる相手の体温が心地良い。
「さて椛。これだけ苦戦する相手にこの姿のまま戦うのは失礼かもね。服を交換してもらえるかしら」
「それは風を呼ぶだけですから構いませんけど。そんなに妖力が無いんですか?」
「これから使わないといけないから、少しでも溜めておきたいのよ」
「分かりました。では、呼びますよ」
椛が左手を掲げると、音も無く巻き上がった風が二人を包み込む。それは砂埃をあげて周りの視線を遮り、しばらくして砂埃が消え去ると文と椛の服装が変わっていた。
文は黒のスカートに白のブラウス、頭には赤烏帽子に足には一本歯の高下駄。そして右手には雲を裂き風を呼ぶ天狗の団扇が握られている。
椛は赤袴に白の和装。頭には赤烏帽子が乗っているが、特徴的な耳と尻尾がその姿を現し風に靡いている。
「さて、鴉天狗の射命丸文。お相手させていただきます」
「白狼天狗の犬走椛です。いざ、尋常に勝負っ」
高下駄を鳴らしスカートをはためかせ文が再び森へ飛び込んでゆく。もっとも速度は先ほどとあまり変わらないので、瞬時に展開された弾幕に囲まれる。
その薄い隙間を縫うように文は横へ横へと避けてゆく。相手の妖気は森の奥だが、今は弾幕に阻まれて前に進むことはままならない。
横へ横へと走りながら、先ほど倒れてきた二本の木が視界に映った。文は距離を測ると、横走りの状態から勢い良く上へ飛ぶ。
と、その瞬間。倒れていた木の枝が文へと向かってゆく。一瞬の事で避けるどころか体勢を立て直すこともできない文の、両手両足だけでなく身体にも纏わりつき、一瞬にして体の自由を奪われた。
「残念、惜しかったわね狸さん」
そこから数歩離れた場所で文は汗を拭う。普段どおりの速度を一瞬出しただけで、今の文には全身汗だらけになるほど負担がかかるのだった。だが、そうしなければ捕まっていただろう。
目の前からは焦った気配が感じられて、視線の端では絡み合った枝をほぐそうと懸命に動かしている様子が見えるが、絡み合った物がそう簡単にほぐれる訳が無い。
文が右手の扇を振ると風が巻き上がり、空き地のそこかしこに転がっている掘り返された木の根のうち、大ぶりの物が二つ飛んでくる。
「それじゃあ、まずは二匹ね」
文が扇をもう一度振ると勢い良く木の根は倒れていた二本の大木に激突する。すると、空気が弾けるような音と共にその場には気を失った二体の狸が姿を現した。人型を保てないほどなので、相当ダメージを受けたのだろう。
背中に迫る他の狸たちの気配を感じると、文は振り返って声を上げる。
「罠を仕掛ける暇なんか在るはず無い。それさえ気付けば、この大木は狸が変化したものと分かるわ。本来なら待ち構えていれば良い貴方たちが、わざとらしいほど森の中を飛び回っていたのは、この大木の妖気を悟らせないためだったのね」
喋ることで余裕を相手に感じさせながら、文は汗が流れる頬を扇で仰ぐ。哨戒天狗の椛ならばちらりと見ただけで分かった罠であるが、もう少し集中して見れば今の自分でも分かったかもと内心呟く。
「それじゃあ、残り八匹いくわよっ」
時間を稼いで呼吸を整えた文は、森の中に飛び込んだ。急いで弾幕が張られるが、文の体を掠めることすらできない。避けつつ森の奥へ進みながら視線を動かし、文は狸たちの位置を把握する。
そして相手の弾幕が途切れると、文はその場で舞うように一回転する。次の瞬間、黄金に輝く弾幕が文の周りに浮かび上がった。
「まあ、たった八個で弾幕というのも情けない限りだけどね」
それでも現在の文の妖力の全て注ぎ込んだそれに、左手を腰に置き、右手の扇を高々と掲げ誇らしく命令する。
「飛べ!!」
そして狸たちの弾とは比較にならない速度で森の中を縫うように飛んでゆくと、各所で標的を違うことなく捉えた弾幕は、小気味の良い音を立てて炸裂した。
一方、椛が飛び込んできたことを確認した雷太は、その両手に隠し持っていた小石を空に投げると妖力を込める。
「当たると痛いぜ、椛さんよ」
風を切って飛んできた弾幕を、椛は得意技であるのの字弾幕を放って相殺する。問題は待ち構えていた雷太に対して、力を込める時間の無かった椛の弾幕では完全に相殺することはできず、あたりに小石の破片が飛び散る事となった。
だが、今の椛は小さな傷など無視してその石の破片の中へ飛び込んでいく。
「なっ、そうきたか」
雷太が驚きの声を上げたときには、椛はすでに間合いに飛び込んでいて全力を込めて刀を振り下ろす。
反射的に十字に両手を前に出したことで、雷太は骨が折れるかと思うほどの衝撃を受けたが何とか持ちこたえた。椛が刀を反していなければ両腕もろとも真っ二つになっていただろう。
だが、今の椛は雷太を殺す気は無いが容赦をする気も無い。次の瞬間には刀を引いて空いた腹を横薙ぎに払い、衝撃に体勢を崩した雷太の顎を峰で正確に跳ね飛ばした。
大地を轟かせて倒れこむ雷太に、椛は刀を向けながら告げる。
「一応聞きますが、意識はありますか?」
両手に残る衝撃を椛は覚えている。腹の一撃はともかく、顎の一撃は意識を断ち切ったはずであった。
全く気配の動かない雷太を見下ろしながら、さて紐で縛っておくか狸にそんな物は意味が無いだろうから面倒だが妖術を使おうかと椛が刀を引きながら思った瞬間、雷太は顔を上げると勢い良く両手を地面に叩きつけた。すると大地が振動し土煙が舞う。
「そんな、どれだけ頑丈な体をしているんですか」
椛が刀を構えなおしたときには、目の前には八つに分かれた雷太が立っていた。
「痛かったぜ。三途の川の渡しまで意識が飛んだぞ。なんだか胸のでかいお姉ちゃんに会ったような気がする」
「それは、本当に危ない所でしたね」
どうやらサボり癖のある死神のお陰で帰ってこられたらしい。
「ここまできたら、悪いがこっちも手加減する余裕はねえ。骨の一本や二本覚悟してくれ」
そう断言すると、四方八方から雷太の拳が唸りを上げて迫ってくる。どうやら言葉に偽りは無いらしい。だが、椛の表情に焦りも恐れも無かった。
「分身の術を使う相手に最も有効な手段は」
かつて文に教わったときは単純すぎて頭を抱えてしまったが、実際に自分で戦うことになると、非常に有効だと思った。
「本体を探すのではなく、全員を本物と思って戦うべし」
椛はまず右足を掴もうとしている雷太を切り下げると、返す刀で左肩に手を伸ばしている雷太を切る。その二体が消えうせる事を確認することなく、正面にいた雷太を斬り下ろした。無駄の無い動きで椛は一体、また一体と斬り捨ててゆく。そして最後に残った雷太と向き合うと、椛はつむじ風のように走り抜けて、峰打ちで後頭部を思いっきり叩いた。
「強いな、天狗は。俺もそれぐらい強ければ、こんな無様な生き方をせずに済むのかな」
そう呟いて倒れこむ雷太に、椛は何も返事が出来なかった。
戦いが終わった後は簡単だった。どこかで様子を見ていたのだろう。狸の一族が姿を現し、一人一人担いで連れて行った。
空き地の真ん中でぼっと立っている椛の耳に、狸の長老と名乗る男が文と話しているのが聞こえる。
『……どうか、今回のことは太郎殿や他の方に御内密に……』
『……ええ、こちらも好き勝手してしまいましたら、御相子ということで……』
笑顔で話をまとめてゆく文と狸の長老を横身に見て、少しだけ、一瞬だけだが耳の良い白狼天狗に生まれた自分を嫌になった椛だった。
結局、誰も椛に話し掛ける者は無く、空き地には文と椛が取り残される。
「それじゃあ、帰ろうか?」
そう言って肩を叩く文に、何も返事をすることができず椛はただ頷いただけだった。
こんなにも悲しいのに、なんで涙一つ出ないのだろうと、自分の心の中に向けて椛はずっと問い掛けていた。
それから一週間後、文と椛は池袋にいた。そして目の前には旅支度を整えた雷太が立っている。
「文さんにも椛さんにも苦労をかけたな。でも、二人に止めてもらえたお陰でこの程度の
お咎めで済んだ」
謹慎中だというのに仲間を集めて騒いだ罪により、雷太は帝都からの放逐処分と決まった。
ちなみに他の若者たちは譴責だけで終わり、狸の一族内で起こった騒ぎであるので、太郎たち他の妖怪たちには事後報告だけで、今回の件は大きな問題にはならずに終わった。
「放逐処分ってのは厳しく聞こえるけど、数年もすれば帰ってこられるでしょう」
「そうだな。大手を振って旅に出られると考えれば、かえって清々しいぐらいだな」
「雷太さんのしたこと、無駄では無い所もあったみたいよ。研究所が建つのは止められなかったけど、鬼子母神周辺の開発計画は町の老人たちが文句を言い出して殆ど延期になったそうよ」
「それは本当のことかい」
「噂が広がるのは止められないからね。妖怪の祟りが怖い物だって思い出した人も少なく無いみたいよ」
明るい遣り取りをする文と雷太の横で、椛は胸が一杯で何も言う事が出来なかった。
処罰は、考えられる中で一番軽い物であろう。
ここで文句を言っては事態は悪くなるばかりで、決して良くはならない。
子供でも分かるその理屈だ。
それでも、椛はどうしても納得がいかなかった。
誰よりも悩んだこの人が、なんで罰せられなければいけないのだろう。
そして、理不尽な境遇に落とされてもなんで笑っていられるのだろう。
「椛さんにも世話になったな」
だから、雷太に話し掛けられても俯くばかりで碌な返事を返すことが出来ない。
そんな椛を温かい目で見つめる文と雷太は、二人同時に小さく苦笑すると再び向き合う。
「これから、どうするつもりなのですか?」
「まずは中山道を北上して川越に抜けようと思う。そこか、もしくは荒川を越えれば大宮だからな」
目の前を真っ直ぐ伸びる道は、はるか昔より旅人が踏み固めてきた中山道であり、北上すればまず埼玉県にたどり着く。
「川越も大宮も、人も多い割に自然も豊富で妖怪も多いからね」
「文さんは、埼玉に行った事あるのか?」
「埼玉の西にある秩父山三峰神社は天狗に縁が深いから何度かね。それと、鷲宮神社という所を取材に行った事あるわ。一時期話題になったことがあってね」
「そこは知らないが、いざとなったら氷川神社を尋ねようと思っている。武蔵国一宮と呼ばれるぐらいだから、一匹ぐらい狸が紛れ込んでもばれないだろう」
ふと、優しく風が吹いて文と雷太の会話が途切れる。しかし、訪れた沈黙は決して重苦しいものではない。
そこで、文が思いついたように口にした。
「ねえ、雷太さん。ラジヲってわかるわよね」
「それは色々話題になっているからな」
「あれ、結構便利な物なのよ。もう数年すれば世に出回ると思うから、金持ちから盗んででもいいから手に入れると良いわよ」
突拍子も無い提案に雷太は考え込むが、たいして間を置かずに笑い声をあげた。
「何処にいても電波の届く限り情報が来る。帝都の様子が良くわかるわよ」
「人も便利な物を作ってくれるな。天狗のお勧めなら安心だからな、使わしてもらうか」
「そうよ。残さなければならない物も沢山あるけど、そのためにも便利な物はどんどん吸収してゆくべきなのよ」
両手を腰に手を置き、上目遣いでわざとらしい口調の文に、雷太は首を振って降参とでも言うように両手を上げる。
「それでは、名残惜しいがそろそろ行くことにするよ」
「わかったわ。私たちはまだまだ現界に居るつもりだから、また何処かで会いましょう。ほら、最後ぐらい挨拶しなさいよ」
文が後ろに下がって背中を押すと、弱々しい足取りで椛は前へ出る。
俯いたまま懸命に言葉を捜した椛だったが、口に出せたのは平凡な一言だった。
「お体に、気をつけてください」
「ああ、ありがとう。椛さんも頑張れよ。あんたは、きっと良い新聞記者になれるよ」
そっと椛が視線を上げると、最後まで雷太は笑顔だった。
そして地面に置いてあった大きな旅行鞄を背負うと、雷太はしっかりとした足取りで北に向かって歩き出した。
一度も振り返ることなく小さくなってゆく後姿が見えなくなるまで、文と椛はその場で見送りつづけたのだった。
どんな出会いがあろうと、別れが生み出されても日々の喧騒が変わることは無い。
見送りを終えた文と椛は、浅草の家へ戻るために人に溢れた電車に乗った。
ずっと黙ったままの椛は、そっと窓に映った文を見る。スーツに身を包み、目深にボルサリーノを被っているため表情の全てを窺うことはできないが、口元を見る限り厳しさは無い。
何か言おうと口を開きかける椛だったが、どうしても言葉にならず、結局何も話せないまま家に辿り着いてしまう。長屋の戸に手をかけたところで、文は少し考えるそぶりを見せた後に振り返る。
「椛、銀座まで買物に行くわよ。のんびり歩いてで良いわよね」
そう言うと返事を待たず文は歩き出した。慌てて後を追う椛だったが、すぐにいつもと違うことに気が付いた。いつもは足の長い文に合わせて椛は小走りになりがちなのに、今は椛に合わせるようにゆっくりと歩いている。
文の優しさを感じた椛は、大きく息を吸って腹に力をこめると口を開いた。
「文さん。私はどうしても納得がいきません。なんで雷太さんが帝都を出ていかないといけないのですか?」
「仲間と徒党を組んで騒ぎを起こし、多少とはいえ人間を傷つけたからよ」
「仕方が無い事じゃないですか。雷太さんが何もしなかったら、もっと悪い状況になっていた訳ですよね」
不思議な物で、一度口を開くと言葉は止まることなく次々と出てくる。
「仕方が無い事だと誰に訴えるの? 太郎さん? 帝都の妖怪全員? とても無理よね」
「仲間だったら想いを理解して、守ってあげるべきじゃないですか」
「そしたら狸の一族がまとめて他の妖怪たちに、乱暴者に甘いやつらだと誤解されるわ。そうすると更に大きな存在。太郎さんや寄り合いの長老たちが狸の一族を罰しないといけない。幼い狸も、年老いて体の不自由な隠居狸も平等にね。それを雷太さんが望むかしら」
「でも、雷太さんが正しいことを誰も分かってくれないのはどうしても納得がいきません」
「椛、そもそも立場によっては、どんなに説明したって雷太さんが正しいと思ってくれるとは限らないわよ」
話しているうちに日本橋を渡り、京橋を過ぎて銀座に足を踏み入れていた。
文の言っていることに間違いが無い事が理解できない椛ではない。しかし自分の考えを譲る訳にもいかない。
どうして立場が違うと話は変わってしまうのか。相手の事も含めて考えることは出来ないのだろうか。
気付くと文と椛は伊東屋の前にいた。数え切れないほどの文具や和紙を取り扱っている、椛も大のお気に入りの店だ。だが今は、いつものように心が躍るはずはない。
文は何も言わず店に入ってゆくと、手早く買い物を済ませて椛を連れて店を出る。そして道を引き返し、日本橋の袂に来たところで足を止めた。
「どう? 何か皆が納得できそうな名案は浮かんだ?」
その言葉に椛は首を横に振る。世界の広さに対して、椛はあまりにも小さく無力な存在だ。
「ねえ椛。沢山の種族、その数だけの価値観、皆がひしめき合って生きている。それは現界でも、幻想郷でも変わらない。そこに絶対の正義なんてないし、だとすればいつも誰かが何処かで犠牲になっているのかもしれない」
ゆっくりと紡がれる言葉は椛の胸に染みたが、それは飲み込むにはあまりにも寂しすぎる。
「だけど、相手の事を考えることはできるんじゃないかしら。それぞれの立場があるのは仕方の無い事だけど、少しずつでも相手の事を考えれば、より良い答えを導き出せるかもしれない」
「はい、そのとおりです」
「そのために必要な物は、思いやる心とか、多少の余裕とか色々あるけど、まず大前提となる重要な物があるわ」
そこで文は一度言葉を区切り、一呼吸置いた後に告げた。
「情報よ」
その一言に椛は顔を上げる。何かが、今、自分の中で組みあがった。
ずっと靄の掛かっていた心の視界が晴れ、足掻くだけだった手足が軽くなる。
「まずは知ることから始まって、それが相手を理解する足がかりになる。それを積み重ねれば、誤解も争いも少なくなるし、良い知恵も生まれるかもしれない」
風が吹いた。
文は帽子を手に取り髪を風になびかせる。しばらくぶりに視線を前へ上げて、真正面から見た文の表情は穏やかな微笑を湛え、何よりも自信に溢れた瞳は輝いている。
幻想郷最速と褒め称えられる天狗でも、妖怪の山でも指折りと恐れられる妖怪としてでもなく、興味を持った物に対する飽くなき探究心と、不屈の闘志を持った新聞記者としての文の顔である。
「良い? 『知識』や『答え』を記しておくのならば本があればいいし、知りたければ図書館に行けばいい。なのにこんなにも新聞が必要とされるのか。それは『正解』なんて、一瞬ごとに変わっていくのが世界だからよ。それを常に伝えるために、新聞はある」
そして文はさっき買った物を差し出した。
「私からの贈り物よ。開けてみて」
その言葉に従い椛が丁寧に包装を開くと、そこには万年筆と分厚い本皮のカバーに覆われた手帳があった。
「伊東屋の万年筆は使いやすくて私のお気に入りよ。そっちの手帳は奮発して本皮だから、雨風にも負けないわ」
明るく文は説明するが、椛の手は震えが止まらなかった。この品物が意味している事は一つである。手元と文の顔を交互に見る椛の様子を確認すると文は真面目な顔になり、気配が変わったことに気づいた椛も背筋を伸ばす。
「哨戒天狗の犬走椛、私の下で助手として働くことを認めます。あなたは、もう、新聞記者の仕事が持つ重みを理解している」
そして心の底から嬉しそうに、文はにっこりと笑った。
「そろそろ大きな記事を探し始めたいし、明日から手伝ってくれるかしら?」
その笑顔に、その言葉に、胸の中に重く残っていた悔しさと無力感が溶け出し、喜びと共に感情が込み上がってくる。
刀で止める事ができるのは相手一人だが、ペンを使いこなせるようになれば相手にできるのは決して一人ではない。
涙が零れ落ちそうになったところで、素早く前に踏み出した文が椛のおでこを強く突く。
「いたっ」
「悔しさは飲み込みなさい。そして、喜ぶにはまだ早いわよ」
早速怒られてしまったと椛は思った。そして必死に涙を堪えると、呼吸を整えて文と向き合う。
「喜んで手伝わせて頂きます。文さんの側で勉強させてください。ずっとついてゆきます」
「ずっと、ついてくる必要は無いんだけどね」
言葉と共に勢い良く頭を下げる椛に、文は苦笑すると振り返って歩き出した。
「さて、お腹も減ったし、椛のお祝いを兼ねて何か食べて帰りましょうか?」
「それなら真っ直ぐ帰りましょう。今日は腕によりをかけてご馳走をつくりますから」
「そう? 自分のお祝いを自分で作るって……まあ、椛らしいか」
「言われてみるとちょっと変かもしれませんね。でも良いじゃないですか」
そして文と椛は声を揃えて笑うと、家に向かって歩き出した。
今日も日本橋には多くの人が溢れている。
しばらくして椛はそっと歩みを止めると、周りを見渡す。
何処にでも必ずいる人間。
そして何処かに必ずいる妖怪。
その全員にそれぞれの物語がある。
それを見聞きしまとめ、広く伝えるのが新聞記者の役目なのだ。
離れたところに見え隠れする文の背中。
ただ一心に憧れていたその背中は、今は目標とし、追いつくための背中になった。
「こら椛、何をしているのよ。置いていくわよ」
気付いて振り返った文の呼び声に、周りの視線など気にせず椛は大きな声で返事をする。
そして
初めて空を飛んだ時よりも胸を高鳴らせ。
何よりも大事な宝物をその手に握り締め。
いつの日か射命丸文の隣に並び立つ日に向かって、犬走椛は走り出したのだった。
○射命丸文は大正時代の日本に記事を探しに来ていますが、のんびりしています。
射命丸文は妖力の殆どを封じられています。
以上を、ご承知していただければ一話完結型ですので問題なく読んでいただけると思います。
----------
「あーあーあー。聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにちただ今より放送を開始致します」
人が人に意思を伝えるために言葉が生まれ
言葉を留め置くために文字が生まれ
記録媒体として紙が生まれ
そして高度に発達した社会の中で情報を発するものとして『新聞』が生まれた
それ以来、新聞は定期性を持つ情報伝達手段としてどのような対抗馬が現れようと消えることなく続いている。
その一つ、画期的な情報伝達手段として生まれた『ラジヲ』が日本の歴史に刻まれたのは大正十四年三月二十二日午前九時三十分。
これは、その幕開けのほんの少しだけ前にあった何があろうと人は新聞を求め、何があろうと新聞記者は世界を飛び回る。
そんな物語。
『文と椛の現界奔走記』
季節は夏。
射命丸文と犬走椛が上野の外れに建てられている長屋に住み着いて、初めての夏が訪れていた。幻想郷では常日頃空を飛んでいた哨戒天狗の椛は強い日差しには慣れている。しかし標高の高い妖怪の山はこれほどまでに暑くなることはまず無かった。
「暑い~~」
浅草の下町商店街まで足を伸ばしたため買物をしてきただけなのに全身汗だらけだ。少しふらつきながらも井戸端に寄った椛は、中を覗き込んで釣瓶の他に何も無いことを確認した後、近くに置いてある縄を手に持って買ってきた西瓜を器用に縛り井戸の中にするすると落としてゆく。
ぽちゃんと小気味の良い音がして水に漬かった事を確認したところで手に持っていた片側を近くの大石に縛り付けると、その傍ら寝かせてある『すいか井戸にアリ、注意。割るなよ、食うなよ』と汚い字で走り書きしてある使い古された木の札を井戸端に立てかけ椛は家に戻った。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、ずいぶん遠出したみたいね」
「晩ご飯は冷麦です。文さんに『素麺じゃいや。冷麦が食べたい』と言われていましたから結局浅草まで足を伸ばしちゃいました」
「それはお疲れ様」
六畳間の座敷の奥に座っている文と会話をしながら、椛は買ってきた物を包んである唐草文様の風呂敷を土間にある木目の台に置いて広げる。中身の整理を終えると一息つくために水瓶を開いた。
「あ、椛、私にもお水を一杯頂戴」
「分かりました。よろしければお茶を入れますよ? それと西瓜が安かったから買ってきました。井戸で冷やし始めたばかりですけど」
「ありがとう。でも、今はお水だけで良いわ」
揃いの湯飲みを並べて柄杓で掬った水を入れると、椛はお盆を片手に座敷に上った。視線の先では文が大量の新聞紙に囲まれている。
暑い日の続く近頃は文は用事の無い限り日の高いうちに外へ出ようとしない。腰を上げるのは日が暮れてから銭湯に行くときぐらいである。
その代わり長屋の人が読み終えた新聞をもらい、その一つ一つを穴の開くほど読んでは重要と思える記事を切り抜いてまとめている。
大きな記事を探すために現界に来たというのに外にも出ないで何をしているのですかと椛が小言を言うと、家の中で出来ることをしているわと軽く返されてしまった。
その返事に面白そうな出来事でも飛び込んでこない限り、夏が終わるまでこの調子だと椛は小さくため息をついたのだった。
夕食を作り始めるには少し早いので、椛は散らばる新聞を踏まないように気を付けながら文の手元に湯飲みを置くとそのまま自分も隣に座る。
「何か面白そうな記事はありますか?」
「色々あるけど、注目しているのはラジヲに関する記事ね」
「えっと、ラジヲって何ですか?」
全く分からないようで椛は遠慮する素振りも無く質問する。
「そうなの、椛はラジヲを知らないのね。通信装置の一つで、言葉つまり情報を電波に乗せて遠くまで飛ばすことが出来るのよ」
「電話みたいなものですか?」
電話ならば現界に来てから椛も何度か見たことがあった。
「そうね。でも電話は一対一でしょう? ラジヲは発信する場所から広範囲に電波を出すから、受信機を持つ人間に対して一度に情報を送ることができるのよ。それこそ何千人、何万人に対してね」
説明しながら文は散らばっている新聞の一つを指差した。そこには可愛らしいイラストと一緒に簡略化した説明が載っている。
子供向けの要点だけまとめた記事のようだが、機械に慣れていない椛にとってはこのような記事が一番読みやすい。
読者が求めているものは『完璧な真実』ではなく『間違いではいけないが、興味深くかつ理解しやすいもの』であると文に教わったことがある椛だが、このような時にしみじみとそれは真実だと思うのだった。
「機械はいつも、お友達に任せていますので」
「そういえば、椛は機械いじりが得意な友人がいたわね」
「はい。天狗ではなく河童の子ですが、仲良くしています。詳しい仕組みは、幻想郷に戻ったら彼女に聞いてみようと思います」
何となくは理解したつもりになった椛が、言い訳をするように視線を泳がせると文はゆっくりと返事をする。
「それが良いと思うわ。全然分からないのはダメだけど。頼りになる知り合いを沢山作っておけば、必要な時に聞くことができるものね。良い友人を持っている椛は偉いわ」
ゆっくりと話すのは文が大事なことを言うときの癖だ。叱られるかと思っていたのに、逆に誉められたようで椛は少し顔が熱くなった。
「ラジヲは便利な物なのですね」
椛の呟きに頷くと文は今日の仕事は終わりと決めたようで身の回りに散らばっている新聞を片付け始めた。
真っ白い指が床を走ると乱雑だった新聞が綺麗にまとまってゆく。文は椛が感心するほど整理整頓がうまい。
「でも椛。ラジヲは新聞の敵と言えるかもしれないわよ。情報を素早く、しかも広範囲に送れるなんて凄いわよね」
そう言われて初めて気付き、椛は頭を抱えてしまった。文の言う通りかもしれない。近い将来ラジヲが一家に一台普及する時代になったら、新聞は要らない存在になるかもしれない。
そう思うと、現界の新聞記者という訳ではないが椛の心を不安が染め上げてゆく。顔色にも出ていたようで文がくすくすと笑い出した。
「そんな心配そうな顔をしなくて良いわよ。ラジヲには弱点はあるわ」
言いながら、文は手に持った新聞をひらひらと振る。
「色々あるけど、例えば新聞はいつでも自分の読みたい時に読めるけど、ラジヲはそうはいかないでしょう?」
「それでは、ラジヲが出来ても心配することは無いのでしょうか?」
椛が質問すると、文は新聞を丸めてぽかりと椛の頭を叩く。
「何事も簡単に答えを出さないようにと、いつも教えているでしょう」
そして、文は手に持っていた新聞を伸ばすと束に戻した。
「私が興味深いのはね。新しい物が生み出された事だけでなく。生み出される前にどのように人に噂され、そして実際にそれが世に出回った後、どんな影響が表れるかなのよ」
文の言いたいことは漠然としていたが不思議と椛は理解できた。
この時代を知って思うことは、何事も変化が激しすぎるのである。少し前までそこにあった風景が一変する。今まで見た事も無かった高い建物や外国の商品が当たり前のように店に並んでいる。言い出したらきりが無い。
人が変化をすれば自然も変化し、その影響はそこに住む動物も、植物も、そして妖怪も受ける事になる。
椛は現界にきた当初、人が皆やる気に満ち溢れていたことに興味を持った。それは素晴らしい事であり、変わらず興味深いと思いつつ、それがこの世界に溢れる自然や住んでいる妖怪たちに与える影響を考えることが多くなっていた。
「さて、難しい話はこれぐらいにして、今日の仕事は終わりとしましょう」
大きく伸びをして畳の上に文は寝転がった。自分の考えに浸りそうになっていた椛はその姿に小さなため息をつく。
「ところで文さん、もう少しまともな姿をしてくれませんか?」
文は暑い暑いと言って男物の開襟シャツに袖を通し、下はレースの下着一枚という姿なのだ。
「何よ、一応裸じゃないわよ」
「それはそうですけどね」
しかしボタンを留めていないシャツの合わせ目から見える胸元や、僅かに見える下着は見ようによっては裸よりよほど色っぽい。
「だって暑いんだもの。良いでしょう家の中ぐらいこんな姿でも」
そう言うとわざとらしく手足を伸ばしてポーズを撮る。浅草の活動写真の女優だってこんな色っぽいポーズはしないだろうと椛は思った。
手足はほんの僅かに焼けているが象牙のようにすべらかで白く、濡れ羽色に艶やかな黒髪は吐息のような透間風にさらさらと流されている。
「それはそうですけど、誰かが尋ねてきたらどうするのですか?」
「こんな長屋に誰が来るのよ。椛は暑くないの? そんな服装をしていて」
「夏が暑いのは仕方が無いので我慢しているのです」
椛はいつものように袴に矢絣の和服である。家に帰ってきたのだから帯ぐらい緩めてもいいのだろうが、文にあてつけるようにわざとらしく背筋を伸ばす。
「そうね。それに椛はその服装が似合うから。私もそのままが良いな」
面と向かって笑顔でそう言われると椛は返す言葉を失ってしまう。一瞬前の威勢など瞬時に無くなり、暑さ以外の理由で赤くなりそうな顔をごまかす為に上に向けた椛だったが、その瞬間に文は椛の手を掴んで引き寄せる。
油断していたために抵抗する間も無くころりと転がされ、気付くと文が馬乗りになっていた。
「ちょっと、文さん。やめてくださいよ」
「まだ何もしていないし。言って無いわよ」
そう言って文は満面の笑顔を浮かべる。文がこういう笑顔をしたときは、碌な事が無いことを椛は経験上知っている。
とはいえ、巻き込まれるならまだ良い。今の標的は、考えるまでもなく自分だ。
「そういえば、最近椛の裸を見てないわね。どれくらい成長したのかしら」
「嘘を言わないでください。毎日毎晩銭湯で見ているはずですよ」
「もう、面白味の無い突っ込みはしなくていいのよ」
見下ろす文の姿はこの上も無く扇情的で、袴越しに感じられる太ももの柔らかさと温かさと、何よりゆっくりと伸ばされる手が椛の身体をこわばらせる。
「あの、その、まだ、日が出てますよ?」
「あら、日が落ちた後ならば良いの?」
「なんでそういう方向に話を持っていくんですか」
泣き声が混じってきた椛の言葉を無視して、文は器用に袴の帯を解いてゆくと手を滑らせて襦袢の前をはだけさせる。
「あと残るは肌襦袢だけね」
「ひえぇ、私、嫁入り前なんですけど」
「そりゃそうよ。嫁入り後にこんなことしたら犯罪でしょう」
怪しく目を光らせる文に椛が小さな悲鳴をあげたところで、勢い良く引き戸が開いた。
「文さん、椛姉ちゃん。太郎さんが飯を一緒に食べないかだってさ」
明るい声と共に飛び込んできたのは、先日知り合った弥助と名乗るイタチの少年だった。
開かれた引き戸から風が入り込み、文の頬と少し熱を持ち始めた椛の身体をそよぐ。目の前に広がっている予想などしていなかった光景に、家に半歩足を踏み入れたところで弥助は固まった。涙目でそれを見ている椛も固まっている。
「とりあえず他の人に見られる前に中に入って、戸を閉めてもらえるかな?」
唯一悠々としている文の言葉に操られるように、弥助は中に入るとそっと戸を閉める。そして状況をやっと理解できたようで、慌てて自分が通れる分だけ戸を開けると、外に飛び出して勢い良く閉めた。
「そ、外で待っているから。準備できたら呼んでくれ」
その様子に、文は心底楽しそうにくすくすと笑った。
「それじゃあ椛には悪いけど冷麦は明日にして、太郎さんの所へ行きましょうか」
「分かりましたから、そろそろ降りてください」
上野から電車を乗り継ぎ、目的地の神保町に着いた。ここには現界に住み着いて長い、天狗の太郎がいる。
文と椛、そして弥助は陰り始めた日差しの下、数え切れないほど古本が並んでいる、神保町の古本屋街を進んでゆく。
弥助の手には、お土産として椛が井戸から引き上げた西瓜があった。
「ごめんなさいね。まさか弥助君が飛び込んでくるなんて思わなかったから。驚いた?」
「おいらのほうこそ、いきなり戸を開けたりしてすまなかった」
身支度を整えて家を出た時は弥助は顔を赤くして下を向いてばかりで、人の多い電車の中では会話などできるわけなく、ここまできてやっと文の言葉に返事をする。
「おいらが言うのも変だけど、いくら暑いからって家の中でも、もうちょっと気をつけたほうが良いと思うぜ」
「ご忠告ありがとう。でもどうしようかしら。見られても減るものでも無いしねえ」
「文さん、そういう訳にはいかないだろう。そうそう他の目に晒しちゃいけないはずだぜ」
「その見られちゃいけない物を、私は弥助君に見られてしまったのね」
「それは、その、だからさっきから悪かったって」
「ああ、でも、考えてみればもう少し後にきたら椛の裸も見られたわね」
横で聞きながら、文は謝っているようでからかっているだけだと椛は小さくため息をつく。きっと太郎の店に着くまでこの調子だろう。
日の出ているうちに文と歩くのはしばらくぶりだと椛は思った。家の中ではだらしの無い姿の文だが、今はいつものようにスーツにボルサリーノの男装である。
歩きながら、椛は面白いことを発見した。男装の麗人を絵に描いたような文が街を歩くと、すれ違う人の目を引くことが多いのだが、この神保町ではほとんどそれが無い。
なぜなら道行く人はみな本に意識がいっているからである。百貨店のショーウンドウより、汚れたガラス戸の向こうに並ぶ、古ぼけた背表紙に魅力を感じる人たちがこの日本最大の古本屋街には集うのだ。
妖術で耳や尻尾を人の目には見えないようにしてあるが、そんな事をしなくてもこの場所なら誰も気付かないかもしれない。
隣では、まだ文が弥助をからかっている。家を出る前に弥助が来なかったとしてもそろそろやめる気だったと文に謝られたが、どこまで信じられるものかと椛はため息一つで返事しただけだった。もっとも、文の悪戯には慣れているので怒る気にはならないが、思い出すと少し顔が赤くなる。
「あら? 椛、さっきから黙っているけど何か考え事? それに顔が赤くない?」
するとすぐさま目敏い文に気付かれる。わざと腰を屈め、下から見上げる体勢で質問してくる。上目遣いの視線は、いたずら心に満ち溢れているのが手にとるように分かった。
ここで動揺しては、今度は自分がからかわれる対象になってしまうので、精々椛は不機嫌そうに返事をしたのだった。
「知りません、きっと夕日が顔にあたっているだけでしょう」
天狗の太郎は神保町で古本屋を営んでいる。それと同時に繋げた店の裏側で安くて美味しく、量の多いラーメンを出す店として有名だった。
目の前に広げられた山菜を中心とした中華風のおかずは、豊富というより机からはみ出そうなほど数が多かった。
行儀良く箸を動かす椛の横で、美味しそうなものを手当たり次第食べている文が質問する。
「ねえ、暖簾も出てないし。ラーメン屋はやってないの?」
「夏休みだよ。夏休み。学生はみんな帰省して、何処にもいねえのよ」
「ああ、そういえば人間社会には、夏休みなんて風習があったわね」
「学生がいなけりゃ。うちみたいな量と安さが売りの店には誰もこないのさ」
なるほどと文が納得したところで、太郎は言葉を続けた。
「今日はよ。帝都の妖怪の寄り合いだったのさ」
「それはお疲れ様。揉めたりしませんでしたか?」
群れることを好まない妖怪であるが、それでも社会を形成しないと不都合が多い事は理解している。
そのため年をとった妖怪を中心に数ヶ月に一度寄り合いが行われ、情報の交換だけでなく、時には勝手な行動ばかりする妖怪を自分たちの手で何とかする場合もある。
太郎は知恵も力もある天狗であり、なにより人間社会に溶け込んでいるので、寄り合いの中心人物の一人とされている。
椛は以上のような、文に説明された通りの知識しかないが、時には年を取った人間がこっそりと呼ばれて参加することもあるそうだ。
「まあ、色々話をしてきたが、まとまんねえのはいつもの事だ。それで、そん時に畑で取れた物だとか、人が供えていったものだとか言われて食い物を貰う事が多いんで普段はオマケとして客に出すんだが、今はこの通りだからよ。それで文ちゃんたちを呼んだのさ」
箸を動かしながら椛は納得する。確かにどれもこれも不揃いな形ながらも、地の味がしっかりしている野菜ばかりだった。
「椛さんよ。晩飯の準備はまだだったんだろ?」
「はい、今日は冷麦の予定でしたから。日持ちもしますし大丈夫です」
「そりゃあ良かった。作るときは天ぷらを付けてやると良い。それと大根おろしもな。春菊食べられるか?」
「はい、大好きですよ」
「俺はあれだけは苦手でな。野菜と一緒に全部持っていってくれ。おい、おまえら、そこいらの風呂敷に包んでおけ」
太郎が声をかけると、金属が擦れる僅かに高い音が響きだし、店の奥にいた真鍮製の招き猫が動き出した。全部で五体になる招き猫を太郎は使役している。
椛は、この可愛らしく、良く働く人形たちが大好きだった。テキパキと野菜と山のような春菊を風呂敷にまとめて終えると、そのうちの一体が椛の手元に持ってゆく。
「どうもありがとう。美味しく食べさせてもらいますね」
丁寧にお辞儀をする椛に、さっきから何も言わずひたすら食べつづけていた弥助が怪訝な顔をする。
「太郎さんの人形にお礼を言ったって、何にもならねえんじゃねえの?」
「弥助君は、まだまだ女心がわからないわね」
やれやれとわざとらしく首を振りながら文が言うと、太郎はそれにつられて豪快に笑い声を上げたのだった。
食事が終わると、お土産に持ってきた西瓜が切られて机に並べられた。もっとも盛んに手を伸ばしているのは食べ盛りの弥助だけで、文と椛と太郎は、日も落ちて涼しくなった風を受けながら聞こえてくる風鈴の音を楽しんでいる。
穏やかな夏の一時を破ったのは、低く腹の底から出ているような迫力のある声だった。
がらりと音を立てて正面の戸が開かれると、何者かが入ってくる。
「連絡もせず失礼、太郎さんはいらっしゃいますか」
四角張った強面の顔が、常人より頭一つ分高そうな身体の上に乗っており。頑強な肉体を着流した縞の浴衣で包み、帯だけはきりきりと固く締めている。
その姿はどう見ても無頼漢で、古本を買いに来た客には見えないが全身から僅かに立ち上る妖気を見逃す文と椛ではない。
「池袋の雷太じゃないか。他に客もいないしここにいるのはお仲間だ。こっちに来てまずは座れや」
太郎の言葉に、雷太と呼ばれた男は体格からは意外なほど素早い動きで移動すると、近づいた所で小さく頭を下げる。
「どうもお初にお目にかかります。俺は雑司ヶ谷の鬼子母神の近く、竹もとって店の長男、狸の雷太と申します。以後お見知りおきを」
「座ったままで失礼します。私は鴉天狗の射命丸文と仲間の犬走椛。幻想郷は妖怪の山の出ですが、今は故あってこの帝都にお邪魔させてもらっています」
弥助はすでに顔見知りなのだろう。西瓜を手に持ったまま、文の挨拶の後に小さく頭を下げていた。
「これはこれは、太郎さんの店で花を見るとは珍しいと思いましたが、幻想郷の天狗とは油断したら痛い目を見そうですな」
「油断しなかったら大丈夫って事かしら?」
文と椛をじろじろと見る雷太を軽く挑発するような文に、椛は止めて下さいと視線に込めて訴えたが、気付いても聞き入れてくれる文では無い。
「それで、何か用があるのだろう? ここにいるのは身内だけだ。遠慮無く言うがいい」
太郎が声をかけると、そこで雷太は空いていた椅子に座る。すかさず招き猫の一匹が差し出した茶を受け取ると、音を立てて一気に飲み干し盆に戻す。人で例えると二十中盤の風貌だが一つ一つの動作に貫禄があって、絵になる男だった。
「では、話をさせてもらいます。最近人が調子に乗っているのは帝都は何処でも彼処でもですが、鬼子母神の少し北、池袋のあたりにある森を丸々一つ潰して、研究所を作るそうじゃないですか」
「そのようで、すでに工事も始まっているようだな」
「これはどういう事ですか。あの辺りは狸の仲間も、他の妖怪たちも住んでいる。なんでも泣き寝入りして引っ越せと意見がまとまったそうで」
「そういう言い方はねえだろ。確かに寄り合いではそう話がまとまった。住処を失った者たちは鬼子母神を始め、他の森に移動しようということになった」
我々も無念なのだという言葉を口外に忍ばせながら、太郎は辛い表情で返事をするが雷太の追及は弱まる気配を見せない。
「人が調子に乗っているときに、冷や水を掛けるのも我ら妖怪の役目の一つと思いますが?」
「その分、寄り合いに出てきた人間たちには、他の場所の開発を控えるよう厳しく申し渡してやった」
「もはや、老人たちの言うことなど相手にされない時代のようですがね。皆さんの腰が引けているならいつだってこの雷太、仲間を引き連れて江戸の頃より伝わる狸の技、八百八町に披露してみせますが?」
「雷太、お前わし等が腰抜けとでも言いたいのかい?」
「みなまで言わなければ通じない訳ではございますまい」
さすがの太郎が表情を厳しくするが、それを真正面から受けても雷太は引く気配を見せない。弥助は急に流れ始めた険悪な空気に着いて行けず、今はただ小さくなっている。
「ところで聞くところによりますと、池袋に出来るのはラジヲとか言う物の研究所だそうじゃ無いですか。強い電波を四方八方に撒き散らすらしいですが、それで空飛ぶカラスやお仲間が焼き殺されたりはしないんですかね」
「聞いた限りでは、そんな危ないもんじゃなさそうだがな」
一見脅しに弱そうで、哨戒天狗として修羅場を幾度も潜っている椛は、このような場面に強い。弥助のように小さくなるわけでもなく、黙って事の成り行きを見守っていた椛だったが、今の雷太の言葉は捨てて置けない。
「文さん、あの、ラジヲの電波ってそんな危険なんですか?」
「ちょっと黙っていなさい」
「はい、すみません」
小声で質問する椛に、腕を組んで同じように成り行きを見守っている文が鋭く返事をする。
「まあ、今日の所はこれぐらいで失礼しますが。それこそ完成して何かあってからじゃ遅いと思いますがね。では、文さんと椛さんでしたっけ? お客人の前で詰まらない物を見せてしまったお詫びはまたの機会にでも」
そう言い捨てると、雷太は席を立ち颯爽と立ち去っていった。黙ってそれを見届けると、太郎は穏やかな表情に戻り、文と椛に深々と頭を下げる。
「わざわざ来て貰った日だというのに、争い事を見せてしまって申し訳ねえな」
「気にしなくていいですよ。太郎さんこそ大変ですね」
「なんせこの数十年で帝都は一気に変わったからな。何処の妖怪も大変だぜ」
「しかし、いかにも乱暴者という感じでしたね。放っておいて大丈夫なのでしょうか?」
椛が心配そうに口を挟むと、文と太郎は二人同時に苦笑する。
「椛さんよ。あの雷太は悪い奴じゃねえんだ。根は優しい、良い男なんだぜ」
「そうなのですか? 私には押しの強い乱暴者にしか見えませんでしたが」
訳がわからないという表情の椛の頭を、文が軽く叩いてそしてゆっくりと撫でる。驚いた椛が視線を送ると、怒っているわけでもない、だけど楽しんでいる訳でもない、複雑な表情をしていた。
「あの雷太って子が若い子をまとめているんでしょう? それはそれで大変ね」
「それなんだがな。雑司ヶ谷の狸の長老たちはみんなのんびりとした性格で、若いのが何を言ってものらりくらりとしちまっているそうだ」
「まあ、まさに狸という感じなのね」
太郎に向き直った文は、少し考えた後に付け加えた。
「あの雷太とか言う子、気に入っているんでしょう?」
その言葉に、太郎は曖昧に笑いを返した。続いて文は弥助のほうを見る。
「弥助君も、まずは太郎さんにあれぐらい言えるようにならないとね」
「えっ、俺があんな口を利けるわけねえよ」
文の言葉に慌てる弥助だったが、話し掛けられたことで小さくなっていた状態からやっと戻れたのであった。
「さて、小難しい話はこれぐらいにしましょうか。太郎さん、折角ですから何か出してくださいよ」
「おう、そうだな。折角だから一杯やろうか。ちょっと持ってくるわ」
そのやりとりに少しだけ重苦しさを漂わせていた雰囲気が吹き飛び、招き猫たちがいそいそと机の上を片付け、酒宴の用意をする。
「これ、寄り合いで貰った酒で彩霞っていうんだがよ。名は知られてないが良い酒なんだぜ」
天狗は鬼に負けず劣らず酒に強い。その日の酒宴は、空が白み始めるまで続いたのであった。
そして数日たったが、文と椛の生活に大きな変化は無い。
目を覚ました椛は近くの草原で日課である剣の修行をし、人気の無い古井戸で汗を流すと家に戻り朝食の準備をする。
先日のようなことを防ぐために、文を起こすと同時に部屋着を着なければ朝食は食べさせませんと脅かし、なんとか服を着させると朝食を済ませる。
文は新聞を読み始め、すぐに読み散らかした新聞に囲まれてしまう。椛は文の手伝いをしたり、太郎が薦めてくれた本を読んで勉強したりしている。
太郎の所へ夕食を食べに行った時に、ここ一月分の各社の新聞を貰う事が出来たので、今までにも増して文は新聞に囲まれた生活をしているのであった。
昼食を終えて、井戸端で洗い物を済ませてきた椛は、食器を片付け終えると文の側によって質問した。
「そういえば、太郎さんの所で気になった話ですけど、ラジヲって本当に電波で空を飛ぶ者に悪影響を与えたりするんでしょうか?」
椛の質問に文は少し考えた後、近くにあった記事を一つ手渡す。椛が視線を走らせるとラジヲに付いて非常に詳しい説明が書かれていた。
数式のような物から、小さなグラフまである。何時間眺めていても理解できそうにないということだけは即座に理解できた。
「文さん、良く分かりません」
「うん、私も良く分からないわ」
即答されたことで、椛は思わず体勢を崩しそうになる。
「そ、それで良いんですかっ」
「だって、私は新聞記者であってラジヲの専門家じゃないですもの。それこそ椛の友人の河童さんに聞いた方が良いと思うわ」
そして人差し指を唇に当てて文は少しだけ考え込んだ後、ゆっくりと答える。
「とりあえず、空飛ぶ鳥が焼け死ぬような事は無いはずよ。ただ、私には『絶対に無い』と断言する知識が無いから、必要だとしたら、それを理論的に説明できる人に取材をしないといけないわよね。ところで椛、あなた雷太とかいう狸の若者が気になっているんでしょう?」
「その通りです。その、雷太さんが気にしていたようなので説明してあげることができれば良いかなと」
「それを口実に会いに行ってみたい訳だ」
「えっと、その、別に何かやましい気持ちが有る訳じゃなくて。私には乱暴者にしか見えなかったんですけど、文さんや太郎さん認めている様子だったのがどうしても分からなくて」
椛の長所は素直な所だと、文はしみじみと思った。周りに素直でいることは難しいが、自分に素直でいることはもっと難しい。
「興味を持ったというだけで、少なくとも新聞記者にとっては動く理由になるわよ。行ってみれば良いじゃない」
「分かりました。夕飯までには帰ってきますね」
きっぱりとそう言うと、椛は暑い日差しの降り注ぐ中、確かな足取りで駅へと向かって行ったのであった。
雑司ヶ谷へ行く方法はいくつかあるが、網の目状に張り巡らされた路線図をまだ頭に入れきってない椛は、のんびりと山手線で池袋へ出た。
電車を降りて鬼子母神に向けて歩き始めれば、風景はすぐに緑に溢れたものになる。帝都の中でも、このあたりはまだまだ雑木林が点在し、暑い日差しの下で人のざわめきよりも蝉の声のほうが大きい。健脚の椛なら、三十分もあるけば鬼子母神に着いた。
視界を埋め尽くすほどの鬱蒼と茂る森の周りに、小さな商店街が肩を並べている。見渡してみれば藁葺き屋根の民家も点在し、虫取り網と竹籤で作った籠を持った少年がそこかしこを走り回っている。上野とも違う、浅草とも似て非なるのどかな賑わいに包まれている。
参道を進んで鬼子母神の森を進んでゆく、中は日差しも和らいでいて、木々を抜ける風がうっすらと汗ばんでいた椛の体を冷やしてくれる。
「まだまだ、自然が豊富なんですね」
思わず独り言を呟いてしまうほど、この辺りは緑が豊かだった。何よりも、近辺には数え切れないほどの妖怪が住んでいることを椛はその肌で感じていた。
本殿に参拝を終えて振り向くと、視線の先にあるお茶屋さんで老婆がのんびりと団子を食べていた。
「すみません、お茶を一杯と団子を一皿お願いします」
椛はお茶屋に近づくと、店の奥に向かって注文をする。そして老婆に向かって頭を下げた。
「お隣、お邪魔してよろしいですか?」
「構いませんよ?」
畳のはめ込まれた縁台に腰をおろすと、椛は出されたお茶をのんびりと飲む。しばらくした後、先に口を開いたのは椛だった。
「怪しい者では無いです。神保町の太郎さんの知り合いでして犬走椛と申します」
「あらやだ、太郎さんの知り合いかい。そりゃ、失礼をしたね」
乾いた笑い声をあげながら、老婆は二度三度頭を下げる。
「よろしければ教えていただけますか? この近くに竹もと、というお店があると思うのですが。そこの雷太さんに会いにきたのです」
「ほう、あの乱暴者に用とはのう。余り、近寄ることはお勧めしないが」
不機嫌そうな顔をして、いまいましさを隠そうともしない声色で老婆は店への道を教えてくれた。
「若い者のを集めて、我が侭しほうだいの奴じゃよ。天狗さんは新聞記者かい?」
「いえ、まだ見習いにもなっていません」
「そうか、では頑張りなさい。一生懸命勉強して、良い記者になるんだよ」
丁寧にお礼を告げて老婆と別れた椛は、言われたとおりの道順で、竹もとに辿り着いた。
「あれ? ラーメン屋なんだ」
近くに漂う匂いと店の上に掲げられた看板を確認して椛は呟く。太郎さんのラーメンとどちらが美味しいだろうと思いながら引き戸に手を伸ばした所で、勝手に勢い良く戸が開かれ、目の前に雷太が姿を表した。
「おや? 昨日の天狗の片割れじゃないか、どうしたんだ?」
どうやって雷太に取り次いでもらおうかと道々考えていた椛は、驚いて一瞬固まってしまったが、小さく頭を下げると椛は正直に言う。
「よろしければ、雷太さんのお話を聞きたくてお邪魔したんです」
「俺の話を聞きに? わざわざここまで?」
「はい、そうなのですが」
「ラーメン食いに来たわけでも、遊びに来たわけでもなくて?」
話を聞かせて欲しいなどと生まれて初めて言われたのだろう、戸惑いを通り越して不思議そうな顔をする雷太だっだが、少し考えて納得した表情になる。
「犬走椛さんで合ってるよな。そういえば、天狗ってのは新聞記者を生業とするんだったな」
「えっと、まだ、記者では無いんですけどね」
「そうか、卵か。母さん、ちょっと客が来た。掃除は誰かにやらせといて」
振り返って店の奥に声をかけると、雷太は椛を連れて歩き出した。
「椛さんは、今、何処に住んでいるんだ? 神保町?」
「いえ、浅草の外れに住んでいます」
「そうか、それじゃあこのあたりのほうが、自然が多いだろう」
街道沿いに歩き始めたところで、雷太の方から色々と椛に話し掛け始めた。会話を上手く切り出せなかったらどうしようと少し不安のあった椛だったが、雷太は話し好きらしい。
「なあ、幻想郷ってのは住んでいるのは妖怪が殆どなんだろう?」
「そうですね。人里は小さく、住んでいる人は僅かです」
「仲良くやっているのか?」
「妖怪と人が和気藹々という訳ではありませんが、悪くも無いと思いますよ。特に子供なんて、平気で妖怪と遊んでいますし。あ、寺子屋を開いている妖怪もいます」
どちらかというと、弾幕合戦をしたがる妖怪の方が人間よりよっぽど危険だ。
「このあたりも、ちょっと前まではそうだった。俺は明治元年の生まれで五十ぐらいだな。人間のガキがよく森に遊びに来て、俺も混ざっていた。人数が足りないと、わざわざ呼びに来るぐらいだった」
「なんだか、凄い話ですね」
「それが普通だった。妖怪の年寄りも人の年寄りも良く話をしていたようだし、たまに力を貸してやったりもしたようだ。そうやって上手くいっていたんだがな」
話しながら椛は、目の前の雷太と、昨日太郎の家で凄んでいた雷太が同じとは思えなかった。威勢の良い話し声は耳に心地良いし、厳つい顔も不器用な笑顔に溢れている。もしかしたら、こちらの雷太が本物なのだろうかと椛は話しながら考えた。だとすれば、文や太郎が誉めていたのも頷ける。
いつのまにか街道から細い道に入り込み、大きな森の奥へ進んでいた。そしてその中心は、まるで空から大きなスプーンで掬い上げたかのように空き地となっている。
「どういう事ですか? これは」
「話すよりも、見せた方が早いと思ってな」
その場所は自然に出来た空き地ではなかった。木は切り倒されていて、そこかしこの地面は掘り起こされている。端には休憩所らしい小屋と、その周りには道具らしい物が山のように積み上げられていた。
「ほんの数ヶ月前に人が出入りするようになったと思ったらこの有様だ。今日は日曜日で休みだが、他の日は朝から晩まで何十人もの人がここで働いている」
そう言いながら雷太は悔しそうに地面を蹴る。
「まさか、そんな、こんなに」
椛としてみれば、こんな大掛かりなものとは予想もしていなかったのである。これだけの大工事となれば、それは被害を受ける妖怪の数も少なくないだろう。
「それで、雷太さんはどうするんですか?」
「長老や太郎さんは止めるが、このまま何もしない訳にはいかない。特に、若い奴らの気が治まらない」
苦々しく呟く雷太の表情を見て、椛は項垂れてしまった。この状況を前にしては、何を言って良いのか分からないのだった。
「さて、それはともかくとして」
急に雷太の声の調子が変わり、椛は顔を上げる。
「なあ椛さんよ。あんた、幻想郷の天狗ってことは、相当やるんだろ?」
雷太は右手で力瘤を作り、それを勢い良く叩く。つまり、椛と腕試しがしたいと言っている事はすぐに理解できた。
「俺は色んな奴と喧嘩してきたが、天狗とやった事は無いんだ。もしかしたら太郎さんとやる事になるかもしれないし。腕試しをしてもらっていいかな?」
「一体何を言い出すのですか」
椛は呆れるように呟く。もしかしたら良い人なのかもしれないと思えてきた所だというのに、分からなくなってしまった。
それはともかく、自分は何を言われても構わないが、天狗の一族を侮られるような事は許す訳にはいかない。
面子だけの問題ではない、侮りは詰まらぬ戦いを生む。それを防ぐために、哨戒天狗は敵と思われるものには即戦即滅を教え込まれている。
まさしく、今の雷太のような存在を放置しておいては後々面倒なことの火種になる事が多いのだ。
「妖怪の山を守る哨戒天狗の力お見せしましょう。一つ断っておきますが、文さんは私より強く、太郎さんはさらに強いはずです」
「つまり、太郎さんに文句を言いたければ、まずは椛さんを叩きのめせということだな」
「私に叩きのめされるようでは、百年経っても天狗には敵わないと言っているのです」
椛が右手に愛刀を取り出すと、太郎は後ろに飛ぶ。上から見下ろせば、広場の中心に椛がいて、森との境目に雷太が居る事が良く見えたであろう。
「そうかい、じゃあ、その力を見せてもらおうか」
雷太は腕に力を込めて勢い良く木を叩く、枝が揺れざわめきと共に青い葉が次々と落ちてくる。椛が気付いたときには、それぞれの葉が二つ、四つ、八つと分裂し、いつの間にか視界を葉っぱが覆っていた。
「葉っぱを媒体とすることで、少ない妖力で沢山の弾幕を用意するとはやりますね」
「あんたに恨みは無いが、いくぜ椛さんよ」
その言葉と共に、時間差を付けながら端から順番に弾幕が放たれる。袴の裾を翻して椛は駆け出した。
時間差を持つ弾幕を避ける方法は二つある。一つは進行方向に一緒に動き、一度タイミングを合わせてしまえば順番に避けていくことは難しくない。多少時間はかかるが確実だ。
もう一つは、あえて戦闘の弾幕に突っ込んで、それを突破できれば時間をおいて動き出す弾幕は無視することが出来る。
そして、自分の速度に自信を持っている椛は後者の方が得意だった。風を切って迫り来る弾幕に砂煙を上げて飛び込むと、全て余裕を持って避けてゆく。
数は多いが、動きは不揃いだし大きさも統一されていない。狸にしては良くやっていると言いたい所だが、天狗に挑戦したからには手加減をするわけにはいかない。
「つまり、美しくない弾幕ですね」
傷一つ無く突破すると、椛はそのまま飛び込んでゆく。慌てて展開していた弾幕を消して身軽になった雷太は木から木へと飛んでゆく。
体格に似合わず身軽な動きに一瞬椛が戸惑っていると、体勢を立て直した雷太は四方八方に弾幕を展開した。
「自分の生まれ育った場所は、霊的に相性が良いので能力が底上げされる。と、前に文さんに教わった事がありますけど」
見渡す限りの弾幕に囲まれながら、椛は小さく呟いた。
「どうだい、中々の物だろう」
雷太の返事に椛は素直に答える。
「そうですね、中々の物ですね」
その言葉を合図としたように飛んでくる弾幕に椛はまず右手の刀を振りかざす。すると一瞬にして色鮮やかな弾幕が展開された。数こそ雷太の物より少ないが、大きさも、何より込められた妖力が全く違う。
「天狗の力を、少し見せましょう」
のの字に動き出した椛の弾幕は、雷太の弾幕とぶつかると爆音と共にそれらを軽々と飲み込み蹴散らしてゆく。相殺するどころか、広場のそこかしこに抉り取られたような傷跡が出来たほどだった。
その様子を見ても、再び葉っぱを舞い散らせ始めた雷太に、諦めの悪い相手だと心の中で呟いた椛は、左手を振って風を巻き起こすと容赦なく葉っぱを吹き飛ばした。
「さすがは天狗だ。やってくれるな」
「もうそろそろ終わりにしませんか?」
言いながら椛は小走りに間合いを詰めて、風が収まった頃には雷太の喉元に刀を突きつけていた。
「わかった、負けを認める」
「もう一度だけ言いますが、私に勝てないようでは太郎さんに勝つなんて夢のまた夢ですよ」
雷太が一歩後ろに下がり、大人しく頭を下げると椛は刀をしまった。そこで我に返って顔色を変える。手加減をしたつもりだったが、ずいぶんと空き地を荒らしてしまったのである。
「ど、どうしましょう。これ」
「ああ、うちの若いやつらに片付けさせるよ。気にするな」
「はい、ありがとうございます」
椛は心底ほっとしたように頭を下げる。先ほどまでの戦いぶりとの変わりように雷太は大笑いする。
「どうにも変わったお嬢ちゃんだな。天狗っては椛さんみたいのが多いのか?」
「さあ、余り私みたいのは多くないと思いますけど」
妖怪の山を思い出しながら椛は答える。天狗の仲間も色々いるので一概に答えることは出来ない。
「それじゃあ、あの文さんって人みたいのが普通なのか」
「いえ、そんな事は全くありません」
それだけは即答できる椛だった。
腕試しに付き合わせて悪かったと謝る雷太に、気にしないでくださいと椛が頭を下げると、再び元のように和やかな雰囲気に戻った。
場所を近くの公園に移した後は、天狗の一族と、狸の一族の取りとめの無い話を重ねているうちに時間が過ぎてしまい、椛は雷太と別れて家に戻ったのだった。
「そういえば、昨日池袋で一暴れしたと言っていたわよね」
「はい、何かありましたか」
次の日の昼下がり、椛は繕い物をしていて、文は変わらず新聞に囲まれて色々と調べ物をしている。
昨日の体験を椛は包み隠さず文に伝えてある。隠す必要は無いと思ったし、それに太郎に伝えるべき事だとしたら文が判断してくれると思ったからである。
「さっき通りかかったカラスの一団に聞いたんだけどね。池袋のとある工事現場では、物の怪が出たらしいと噂になっているそうよ」
「そんな。ちゃんと片付けておくって雷太さん言っていたんですけど」
顔色を変える椛の前で、文はにやりと笑った。
「椛、あなた嵌められたわね」
「どういうことでしょうか?」
「工事現場で物の怪が暴れたような痕があったら、工事は延期、運がよければ中止になるかもしれない。椛が偶然だけど顔を出してくれて、都合が良いと喜んだことでしょうね」
「なんで私だと都合が良いんですか?」
「だって、仲間と暴れたら騒ぎが大きくなるし、一人でやったら仲間が納得しないでしょう? 天狗と一勝負したというのが一番収まりやすいじゃない」
文の説明を聞いて、椛は全てが繋がったような気がした。やはり、あの雷太という狸は悪い妖怪では無いのだ。
手に持った繕い物に視線を落とす。それは、いつも履いている紺色の袴だった。昨日、雷太と争った時に所々破れてしまったので直していたのである。
「それで、雷太さんはどうなったのですか?」
「しばらくの間自宅謹慎を命ぜられたそうよ。そして他にはお咎め無し。ちなみに身内の恥を外に漏らしたくないから太郎さんの所には話もいっていないようね」
そう言って文は満面の笑みを浮かべる。何か面白そうなことや、悪戯を思いついたときにこういう顔をするが、今日のところは雷太の手際の良さが愉快でたまらないという雰囲気である。
上手く自分一人で話をまとめた雷太に、良いように利用された立場であるはずの椛であったが不思議と心の中は清々しかった。
「文さん。雷太さんの家は竹もとってラーメン屋なのですよ。今度食べに行きましょうか。奢ってもらっても良いはずですよね」
今の自分の笑顔は、きっと文の笑顔にそっくりだろうと鏡を見るわけでもなく椛は確信できたのだった。
しかし数日後、事態は悪い方向に転がってゆく。家に飛び込んできたカラスの話を聞いた文は、深刻な表情をして椛を呼び寄せた。
「池袋の工事は再開ですって。しかも遅れを取り戻すために人を沢山雇って、一気に進めるそうよ」
「そんな、人は危険と思ってくれないのでしょうか」
「時代の流れね。人は自然を無視し、妖怪を恐れなくなる」
「一体、これからどうなるのでしょうか」
悔しさと絶望感を滲ませながら呟く椛に、文は鋭い視線を送って問い掛ける。
「まずは今後の事を考えるより、今の問題をどうするかよね?」
その問い掛けに、椛は考え込む必要も無く一つの結論に達した。
「雷太さんが、何かをするかもしれない」
「その通りよ。様子を見に行った方が良さそうね」
勢い良く洋服箪笥を開けると、文は手早く身支度を始める。
「あの、文さんも一緒に行ってくれるんですか?」
「私も心配だし、それに大事になったら太郎さんまで出てくることになるわ」
そして文は冗談めかして付け加えた。
「太郎さんは、怒ると怖いのよ」
さすがに日中空を飛ぶわけにもいかないし、人で溢れる大地を走り抜けるわけにもいかないので、文と椛は焦る心を抑えて電車で向かう。
池袋駅につくと、何処に向かうべきか悩む椛に、まずは鬼子母神に行くべきと断言した文は先に歩き出した。
本殿を通り過ぎ、夏の日差しも突き抜けることを許さない薄暗い森の奥では、妖怪の一団が何かを話し合っていた。
良く見てみると、年老いた妖怪と若い妖怪たちが二つに分かれて今にも掴みかからんばかりの勢いである。
近づいた所で、先日の老婆を見つけた椛は、そっと話し掛ける。
「あの、すみません」
「おや、先日の天狗さんじゃないか」
「ずいぶん騒ぎが大きいようですね」
「これはこれは、天狗さんに見られては何処で記事にされるか分からんの。見ての通り喧嘩の真っ最中じゃ」
老婆がやれやれと首を振ったところで、周りをみてきた文が近づいてくる。
「椛、どこにも雷太さんは居ないわね。実家の方かしら」
「おや、そちらも可愛らしい天狗さんだね。お二人は雷太をお探しかい」
「ご存知なんですか?」
椛の問い掛けに、老婆は皺だらけの顔をさらに歪めて答える。
「入れ違いだよ。さっき血の気の多い若いのを連れて、池袋の工事現場のほうに向かったよ。ほんと、何を考えているんだかね、あの乱暴者たちは」
「それでは、ここでは何を話しているのですか?」
文が先ほどから激論を戦わせている人たちを指差す。
「あの乱暴者をどうするかだよ。わし等はとっとと追放しちまった方が良いと思うんだが、情状酌量の余地があるだろうと言うやつらも多くてね」
その老婆の言い方に、椛は考えるよりも先に口を開いてしまった。
「貴方たちは、いったい何をしているんですか」
その剣幕に、老婆だけではなく周りにいた全ての妖怪たちが注目する。
「戦っている仲間を放っておくどころか、その人たちをどう処罰するかを話し合っているなんて、恥ずかしくないんですか」
「お嬢ちゃん、他所からきて生意気な口を叩くんじゃないよ」
「では、貴方は今の事態を避けるために何をしたというのですか。何も知らない余所者と一体何が違うというのですか」
椛の訴えに何も言い返せず、老婆が数歩後ろに下がると同時に、文が前に出て椛の頬を叩く。痛烈な音が森の中に響き渡った。
「失礼、うちの若いのが取り乱しまして」
そう言って老婆に向き直った文は、帽子をとって丁寧に頭を下げる。それと同時に、今まで黙っていた妖怪たちが、そもそもお前らは誰だと口々に言いながら文と椛を囲み始めた。
「ふ、ふん。これだから天狗は偏屈と言われるんだよ」
老婆は目を白黒させながらも、これ以上事態を混乱させたく無い様で、勢い良く文に向かって手を振る。
「こいつらには私から言っておくから、とっとと消えな」
その言葉に、文はもう一度深く頭を下げると椛の手を取って素早く森を抜ける。
「椛、行くよ」
「え、ど、何処へですか」
「何言っているの。工事現場よ。案内して」
早足で目的地へ歩きながら、興奮して出てきた涙を拭い、呼吸を整えてた椛は文に小さく頭を下げる。
「文さんすみません、さっきは取り乱しまして」
「新聞記者は、何があっても怒っちゃいけないと言っているでしょう」
そういうと文は椛の頬をそっと撫でる。
「ごめんね、痛かったでしょう」
手加減など出来る状態ではなかったのだろう。相当な力で叩かれた椛だったが、腫れた頬など妖怪の回復力では瞬時に回復してしまう。だが、今の椛にとってはその回復力が恨めしかった。優しく微笑む文の表情が、自分の未熟さを感じさせてさらに椛の心を締め付ける。
だが、今は椛には感傷に浸っている余裕も、反省にうなだれている時間も与えられない。
工事現場の森は、もうすぐそこまで迫っていた。
文と椛が森へ足を踏み入れた頃、三十人ほどの男たちが働いていた工事現場は、日も高いというのに混乱の極地だった。
奇怪な声がする、化け物があちらこちらに姿を現すといったものは優しい物で、切り倒して重ねておいた木材が轟音と共に崩れてくる、休憩小屋が揺れに揺れるので大地震かと外に飛び出してみれば、大地はぴくりとも揺れていない。
騒ぎがどんどん大きくなってきたので、落ち着かせるために全員集めて点呼を取ってみれば、減っているどころか三人ほど人数が増えている。
ここまで来ると、命知らずの日雇い工夫といえど祟りだ、化け物だと、顔色を青くし始める。
そこへ突風が巻き起こり、目も碌に開いていられないほどの砂煙に包まれ、全身を飛んできた小石の群に叩かれれば、もう誰にも騒ぎを止めることはできなかった。
無論全て狸たちの仕業である。このままでは相当な数の怪我人が出たことであろうが、人が闇雲に動き出そうとした瞬間、今まで起こっていた怪現象がぴたりとやんだ。
まるで戦場のように荒れ果てた森の中の空き地の中で我に返った人たちは、それこそ先を争うように外へと逃げ出した。
怒っていた狸たちは、もう少しは人に痛い目をみせるつもりだった。それを中止しなければならなくなったのは、外からの侵入者を確認したからである。
外から中へ通じる細い道を、人に姿を見られないように木々の枝から枝へ飛んで走りぬけた文と椛は、最後に大きく跳ぶと、小気味のいい音を立てて空き地の中心に着地した。
森のあちこちから殺気だった妖気が感じられる。少し間をおいて姿を現したのは言わずと知れた雷太だった。
「椛さんに、そちらは文さんで良いんだよな。俺らは忙しいんだが邪魔をしないで欲しかったな」
先日と違う暗い表情の雷太を見て、椛は一歩前に出て訴える。何かを口にしなければ居た堪れなくて胸が張り裂けそうだった。
「こんなことして何になるのですか。人を傷つけたら、雷太さんは更に重い罰を受けることになりますよ」
「ああ、こないだ利用したのは謝る。申し訳ない」
「そんなことは気にしていません。それでは足りなかったのですか」
「見れば分かるだろう。警告だけでは人は止まらなかった。人の愚かさに仲間たちは怒っているし、俺も怒っている。これは当然の報いだ」
そう言う雷太の表情はとても怒っているように見えなかった。その様子が椛を苛立たせる。
「さて、これ以上話をしてもまとまりそうにないし、邪魔をするのはやめて帰ってもらおうか。時間が惜しい」
「私たちが帰ったら、何をするつもりなんですか?」
「せめて、この現場に有る物を壊すぐらいはしておかないとな。うちの長老連中は怖くないが、天狗の太郎さん辺りが出てくる前に片を付ける」
誰かを止めるということが、誰かに何かを訴えるということが、いかに難しいかを椛はひしひしと感じていた。きっと、雷太は何度もこんな思いをしながら仲間たちと話しをし、長老たちに訴え、無力感を味わってきたのだろう。
何倍も悩んだ末に諦めることができず選んだ選択肢を、椛が横から口を出した程度で変えられる訳が無い。
その時、椛の肩を文が優しく叩いた。
「どうするの? 椛」
いつものように悪戯っぽい物でも、からかうような表情でも無く、文は悲しみを含んだ表情で問い掛ける。
「文さんは、分かっているんですね」
言葉にならないぐらい小さく呟いて、椛はうなだれる。この場所にこなくても、文は雷太の立場と決意を理解していたのだ。だから、雷太を責めることもしないし、その遣り切れなさも理解しているから、先ほどのように暴力を振るってでも椛を止めるようなこともしない。
椛は思う。自分に何が出来るのだろう。
それは正直分かっている。自分に正解を導くことなど出来はしない。
だが、一つだけ分かっている。今の雷太は悪い方向に転がっていて、そして自分はそれを止めたいからこの場所に来たのだ。
「止めます。太郎さんが来る前に、誰かが来る前に私の手で雷太さんを止めます。見過ごす訳にはいきません」
椛が顔を上げてきっぱりと言うと、文は笑顔で軽く椛の頭を叩いた。
「良いわ、付き合うわよ」
「そうか、天狗と戦う事になるとはやっかいだな」
そう呟く雷太の声が、今までより明るく聞こえたのは自分の勘違いでは無いと椛は思った。
「それでは私が、雷太さんの相手をします」
「では、他の狸は任せておきなさい」
椛はその場に残って愛刀構え、文は高々と左に飛ぶ。森に入ったところで文は神経を集中して気配を調べる。感じられるのは木々の間に点在するように十体で、しかも誰もがそれほど強い妖気では無い。本来の文ならば一瞬にして決着が付くだろうが、残念なことに今は妖力の殆んどを封じられている。
「ほほほ、男装の麗人とはこれいかに」
「天狗の高い鼻を折って見せましょう」
「自分が負けるところを記事に出来るよう、カメラは持ってきましたか?」
木々の間に響く相手の挑発に、何か言い返そうと文が口を開こうとした瞬間、四方八方から弾幕が飛んできた。
「手加減は無しってことね」
軽い足取りで避けてゆき、速度の速いものは帽子を振って叩き落した。ふと、正面が弾幕が薄いことに気付いた文は、少し考えた後に前へ走る。
まずはこちらのペースに持ち込まないと集団戦は戦い辛い。
罠があるなら掻い潜って相手の意表を突こうと思った文だったが、弾幕を避けながら前へ進んだところで驚いた表情を浮かべる。なんと身長をはるかに越える大木が二本、自分に向かって倒れてきたのである。
前には倒れてくる木、周りには弾幕、いくら相手の慣れた土地とはいえこんな罠が仕掛けてあるとは意表を突かれたのは文の方だった。
走る勢いのまま前へ飛びたくなるが、文はあえて後ろに飛んだ。弾幕の中に戻るのだから自殺行為といえたが、逆にいえば後ろには罠は無い。お気に入りのスーツを土に汚しながらもなんとか避けきると、文はさらに後ろに飛んで一度森から空き地へ戻ったのだった。。
一方、椛は愛刀を右手に持ちながら雷太との間合いを詰めてゆく。
その表情にはすでに迷いの色は無い。戦うと決めたからには、中途半端な感情は相手を侮辱することになる。
「雷太さん。お相手お願いします」
「迷いの無い良い表情だな。俺らみたいな半端者じゃなくて、ちゃんと己の腕を磨いてきた自信に溢れた顔だ」
そこで雷太は全身に力を込めて前傾姿勢になる。
「椛さんよ。自分が必ず勝つと思っているだろう」
そう言われて椛は考える。侮るわけではないが、こないだの戦いで雷太の実力は理解している。妖力を比べても、実戦経験からしても椛は負ける気はしない。
「戦いはそっちの方が慣れているんだろうけどな」
その瞬間、雷太は駆け出していた。
「喧嘩はどうかな」
走りながら雷太は次々と弾幕を投げてくる。だが目で追って、数えられる程度でしかない。椛はその場から動くことなく全てを受け流す。
そこへ雷太が拳に唸りを上げて飛び込んできたが、椛は刀の峰でその拳を叩く。苦痛に顔を歪めながら雷太が数歩後ろに下がった時、椛は嫌な気配を感じて後ろを確認すると、先ほど受け流した弾幕が戻ってきていた。
「戻り弾幕とは、やりますね」
幻想郷でも使い手の少ない高等技術だ。椛も避けるのは苦手だが、残念なことに数も速度も少なかった。隙を見せぬよう正面の雷太を意識しながら、一つ一つ丁寧に避けてゆく。
次に雷太は両手を前に出す。戻り弾幕と、自分の新たな弾幕で挟み撃ちにするつもりだ。
その考えは良いが、それには一瞬でも力を溜めることが必要で、これだけ近い距離に居る場合、それは致命的な隙となる。椛は一瞬で間合いを詰めると刀を返し、峰を使って勢い良く斬り下げた。
その衝撃で戦闘不能にしたと思った瞬間、雷太の姿が消え失せて変わりに一枚の葉っぱがひらひらと舞った。
「分身?」
椛は驚きの声を上げると同時に、まずは迫る戻り弾幕から逃れるために横へ飛ぶが、着地した瞬間、椛は『雷太』に囲まれていた。
袴の右裾を抑える雷太に、左手を抑えつける雷太。後ろにも前にも複数の雷太がいて、次の瞬間前から砂を投げつけられる。
目にこそ入らなかったが、瞑ってしまった目を開くわけにはいかない。暗闇の中で、自分に向かう攻撃を肌で感じた椛は、とにかく全力で体を振り回し戒めを解くと、後ろに飛んだ。
お互いの気配を感じた文と椛は、そのまま空き地の真ん中で背中合わせになる。
「椛、ずいぶんと苦戦しているようね」
「喧嘩慣れしている相手ですね。まさか分身の術が得意とは思いませんでした。そういう文さんこそどうですか」
軽い調子の文に、椛は真面目に返事をする。砂を手で拭って前を見と、すでに雷太は分身の術を解いていた。
文の視線の先では、木々の枝から枝へと小さな妖気が絶え間なく動いている。森を丸々吹き飛ばす訳にもいかないし、そもそも今の文にそれほどの妖力は無い。
「ご丁寧に森の中に罠が仕掛けてあってね。少し苦戦しているわ」
そういう文に、椛はちらりと振り返った後に小首をかしげる。
「ああ、そうか。文さん。本当に力が落ちているんですね」
納得したようにそう呟くと、まるで文の真似をするように意地の悪い笑みを浮かべて、椛は言葉を続ける。
「文さん。相手に罠を仕掛ける時間なんて、ある訳無いじゃないですか」
その言葉に、文はあることに気付いて、悔しそうな表情になる。
「そうか、どおりであいつらはちょこまか動いているわけね」
「きっとそうだと思いますよ」
椛が嬉しそうに頷くと、文はお返しとばかりに質問する。
「椛も苦戦しているようだけど、何体に分身しているの?」
「えっと、確か八体ですね」
「そう、分身の術を使う相手との戦い方は、教えなかったっけ?」
今度は、文の言葉に椛か小さく頭を下げる。
「思い出しました。幻想郷は弾幕合戦ばかりだったので、色々と忘れているのかもしれませんね」
そして申し合わせたように文と椛は笑い合った。背中に感じる相手の体温が心地良い。
「さて椛。これだけ苦戦する相手にこの姿のまま戦うのは失礼かもね。服を交換してもらえるかしら」
「それは風を呼ぶだけですから構いませんけど。そんなに妖力が無いんですか?」
「これから使わないといけないから、少しでも溜めておきたいのよ」
「分かりました。では、呼びますよ」
椛が左手を掲げると、音も無く巻き上がった風が二人を包み込む。それは砂埃をあげて周りの視線を遮り、しばらくして砂埃が消え去ると文と椛の服装が変わっていた。
文は黒のスカートに白のブラウス、頭には赤烏帽子に足には一本歯の高下駄。そして右手には雲を裂き風を呼ぶ天狗の団扇が握られている。
椛は赤袴に白の和装。頭には赤烏帽子が乗っているが、特徴的な耳と尻尾がその姿を現し風に靡いている。
「さて、鴉天狗の射命丸文。お相手させていただきます」
「白狼天狗の犬走椛です。いざ、尋常に勝負っ」
高下駄を鳴らしスカートをはためかせ文が再び森へ飛び込んでゆく。もっとも速度は先ほどとあまり変わらないので、瞬時に展開された弾幕に囲まれる。
その薄い隙間を縫うように文は横へ横へと避けてゆく。相手の妖気は森の奥だが、今は弾幕に阻まれて前に進むことはままならない。
横へ横へと走りながら、先ほど倒れてきた二本の木が視界に映った。文は距離を測ると、横走りの状態から勢い良く上へ飛ぶ。
と、その瞬間。倒れていた木の枝が文へと向かってゆく。一瞬の事で避けるどころか体勢を立て直すこともできない文の、両手両足だけでなく身体にも纏わりつき、一瞬にして体の自由を奪われた。
「残念、惜しかったわね狸さん」
そこから数歩離れた場所で文は汗を拭う。普段どおりの速度を一瞬出しただけで、今の文には全身汗だらけになるほど負担がかかるのだった。だが、そうしなければ捕まっていただろう。
目の前からは焦った気配が感じられて、視線の端では絡み合った枝をほぐそうと懸命に動かしている様子が見えるが、絡み合った物がそう簡単にほぐれる訳が無い。
文が右手の扇を振ると風が巻き上がり、空き地のそこかしこに転がっている掘り返された木の根のうち、大ぶりの物が二つ飛んでくる。
「それじゃあ、まずは二匹ね」
文が扇をもう一度振ると勢い良く木の根は倒れていた二本の大木に激突する。すると、空気が弾けるような音と共にその場には気を失った二体の狸が姿を現した。人型を保てないほどなので、相当ダメージを受けたのだろう。
背中に迫る他の狸たちの気配を感じると、文は振り返って声を上げる。
「罠を仕掛ける暇なんか在るはず無い。それさえ気付けば、この大木は狸が変化したものと分かるわ。本来なら待ち構えていれば良い貴方たちが、わざとらしいほど森の中を飛び回っていたのは、この大木の妖気を悟らせないためだったのね」
喋ることで余裕を相手に感じさせながら、文は汗が流れる頬を扇で仰ぐ。哨戒天狗の椛ならばちらりと見ただけで分かった罠であるが、もう少し集中して見れば今の自分でも分かったかもと内心呟く。
「それじゃあ、残り八匹いくわよっ」
時間を稼いで呼吸を整えた文は、森の中に飛び込んだ。急いで弾幕が張られるが、文の体を掠めることすらできない。避けつつ森の奥へ進みながら視線を動かし、文は狸たちの位置を把握する。
そして相手の弾幕が途切れると、文はその場で舞うように一回転する。次の瞬間、黄金に輝く弾幕が文の周りに浮かび上がった。
「まあ、たった八個で弾幕というのも情けない限りだけどね」
それでも現在の文の妖力の全て注ぎ込んだそれに、左手を腰に置き、右手の扇を高々と掲げ誇らしく命令する。
「飛べ!!」
そして狸たちの弾とは比較にならない速度で森の中を縫うように飛んでゆくと、各所で標的を違うことなく捉えた弾幕は、小気味の良い音を立てて炸裂した。
一方、椛が飛び込んできたことを確認した雷太は、その両手に隠し持っていた小石を空に投げると妖力を込める。
「当たると痛いぜ、椛さんよ」
風を切って飛んできた弾幕を、椛は得意技であるのの字弾幕を放って相殺する。問題は待ち構えていた雷太に対して、力を込める時間の無かった椛の弾幕では完全に相殺することはできず、あたりに小石の破片が飛び散る事となった。
だが、今の椛は小さな傷など無視してその石の破片の中へ飛び込んでいく。
「なっ、そうきたか」
雷太が驚きの声を上げたときには、椛はすでに間合いに飛び込んでいて全力を込めて刀を振り下ろす。
反射的に十字に両手を前に出したことで、雷太は骨が折れるかと思うほどの衝撃を受けたが何とか持ちこたえた。椛が刀を反していなければ両腕もろとも真っ二つになっていただろう。
だが、今の椛は雷太を殺す気は無いが容赦をする気も無い。次の瞬間には刀を引いて空いた腹を横薙ぎに払い、衝撃に体勢を崩した雷太の顎を峰で正確に跳ね飛ばした。
大地を轟かせて倒れこむ雷太に、椛は刀を向けながら告げる。
「一応聞きますが、意識はありますか?」
両手に残る衝撃を椛は覚えている。腹の一撃はともかく、顎の一撃は意識を断ち切ったはずであった。
全く気配の動かない雷太を見下ろしながら、さて紐で縛っておくか狸にそんな物は意味が無いだろうから面倒だが妖術を使おうかと椛が刀を引きながら思った瞬間、雷太は顔を上げると勢い良く両手を地面に叩きつけた。すると大地が振動し土煙が舞う。
「そんな、どれだけ頑丈な体をしているんですか」
椛が刀を構えなおしたときには、目の前には八つに分かれた雷太が立っていた。
「痛かったぜ。三途の川の渡しまで意識が飛んだぞ。なんだか胸のでかいお姉ちゃんに会ったような気がする」
「それは、本当に危ない所でしたね」
どうやらサボり癖のある死神のお陰で帰ってこられたらしい。
「ここまできたら、悪いがこっちも手加減する余裕はねえ。骨の一本や二本覚悟してくれ」
そう断言すると、四方八方から雷太の拳が唸りを上げて迫ってくる。どうやら言葉に偽りは無いらしい。だが、椛の表情に焦りも恐れも無かった。
「分身の術を使う相手に最も有効な手段は」
かつて文に教わったときは単純すぎて頭を抱えてしまったが、実際に自分で戦うことになると、非常に有効だと思った。
「本体を探すのではなく、全員を本物と思って戦うべし」
椛はまず右足を掴もうとしている雷太を切り下げると、返す刀で左肩に手を伸ばしている雷太を切る。その二体が消えうせる事を確認することなく、正面にいた雷太を斬り下ろした。無駄の無い動きで椛は一体、また一体と斬り捨ててゆく。そして最後に残った雷太と向き合うと、椛はつむじ風のように走り抜けて、峰打ちで後頭部を思いっきり叩いた。
「強いな、天狗は。俺もそれぐらい強ければ、こんな無様な生き方をせずに済むのかな」
そう呟いて倒れこむ雷太に、椛は何も返事が出来なかった。
戦いが終わった後は簡単だった。どこかで様子を見ていたのだろう。狸の一族が姿を現し、一人一人担いで連れて行った。
空き地の真ん中でぼっと立っている椛の耳に、狸の長老と名乗る男が文と話しているのが聞こえる。
『……どうか、今回のことは太郎殿や他の方に御内密に……』
『……ええ、こちらも好き勝手してしまいましたら、御相子ということで……』
笑顔で話をまとめてゆく文と狸の長老を横身に見て、少しだけ、一瞬だけだが耳の良い白狼天狗に生まれた自分を嫌になった椛だった。
結局、誰も椛に話し掛ける者は無く、空き地には文と椛が取り残される。
「それじゃあ、帰ろうか?」
そう言って肩を叩く文に、何も返事をすることができず椛はただ頷いただけだった。
こんなにも悲しいのに、なんで涙一つ出ないのだろうと、自分の心の中に向けて椛はずっと問い掛けていた。
それから一週間後、文と椛は池袋にいた。そして目の前には旅支度を整えた雷太が立っている。
「文さんにも椛さんにも苦労をかけたな。でも、二人に止めてもらえたお陰でこの程度の
お咎めで済んだ」
謹慎中だというのに仲間を集めて騒いだ罪により、雷太は帝都からの放逐処分と決まった。
ちなみに他の若者たちは譴責だけで終わり、狸の一族内で起こった騒ぎであるので、太郎たち他の妖怪たちには事後報告だけで、今回の件は大きな問題にはならずに終わった。
「放逐処分ってのは厳しく聞こえるけど、数年もすれば帰ってこられるでしょう」
「そうだな。大手を振って旅に出られると考えれば、かえって清々しいぐらいだな」
「雷太さんのしたこと、無駄では無い所もあったみたいよ。研究所が建つのは止められなかったけど、鬼子母神周辺の開発計画は町の老人たちが文句を言い出して殆ど延期になったそうよ」
「それは本当のことかい」
「噂が広がるのは止められないからね。妖怪の祟りが怖い物だって思い出した人も少なく無いみたいよ」
明るい遣り取りをする文と雷太の横で、椛は胸が一杯で何も言う事が出来なかった。
処罰は、考えられる中で一番軽い物であろう。
ここで文句を言っては事態は悪くなるばかりで、決して良くはならない。
子供でも分かるその理屈だ。
それでも、椛はどうしても納得がいかなかった。
誰よりも悩んだこの人が、なんで罰せられなければいけないのだろう。
そして、理不尽な境遇に落とされてもなんで笑っていられるのだろう。
「椛さんにも世話になったな」
だから、雷太に話し掛けられても俯くばかりで碌な返事を返すことが出来ない。
そんな椛を温かい目で見つめる文と雷太は、二人同時に小さく苦笑すると再び向き合う。
「これから、どうするつもりなのですか?」
「まずは中山道を北上して川越に抜けようと思う。そこか、もしくは荒川を越えれば大宮だからな」
目の前を真っ直ぐ伸びる道は、はるか昔より旅人が踏み固めてきた中山道であり、北上すればまず埼玉県にたどり着く。
「川越も大宮も、人も多い割に自然も豊富で妖怪も多いからね」
「文さんは、埼玉に行った事あるのか?」
「埼玉の西にある秩父山三峰神社は天狗に縁が深いから何度かね。それと、鷲宮神社という所を取材に行った事あるわ。一時期話題になったことがあってね」
「そこは知らないが、いざとなったら氷川神社を尋ねようと思っている。武蔵国一宮と呼ばれるぐらいだから、一匹ぐらい狸が紛れ込んでもばれないだろう」
ふと、優しく風が吹いて文と雷太の会話が途切れる。しかし、訪れた沈黙は決して重苦しいものではない。
そこで、文が思いついたように口にした。
「ねえ、雷太さん。ラジヲってわかるわよね」
「それは色々話題になっているからな」
「あれ、結構便利な物なのよ。もう数年すれば世に出回ると思うから、金持ちから盗んででもいいから手に入れると良いわよ」
突拍子も無い提案に雷太は考え込むが、たいして間を置かずに笑い声をあげた。
「何処にいても電波の届く限り情報が来る。帝都の様子が良くわかるわよ」
「人も便利な物を作ってくれるな。天狗のお勧めなら安心だからな、使わしてもらうか」
「そうよ。残さなければならない物も沢山あるけど、そのためにも便利な物はどんどん吸収してゆくべきなのよ」
両手を腰に手を置き、上目遣いでわざとらしい口調の文に、雷太は首を振って降参とでも言うように両手を上げる。
「それでは、名残惜しいがそろそろ行くことにするよ」
「わかったわ。私たちはまだまだ現界に居るつもりだから、また何処かで会いましょう。ほら、最後ぐらい挨拶しなさいよ」
文が後ろに下がって背中を押すと、弱々しい足取りで椛は前へ出る。
俯いたまま懸命に言葉を捜した椛だったが、口に出せたのは平凡な一言だった。
「お体に、気をつけてください」
「ああ、ありがとう。椛さんも頑張れよ。あんたは、きっと良い新聞記者になれるよ」
そっと椛が視線を上げると、最後まで雷太は笑顔だった。
そして地面に置いてあった大きな旅行鞄を背負うと、雷太はしっかりとした足取りで北に向かって歩き出した。
一度も振り返ることなく小さくなってゆく後姿が見えなくなるまで、文と椛はその場で見送りつづけたのだった。
どんな出会いがあろうと、別れが生み出されても日々の喧騒が変わることは無い。
見送りを終えた文と椛は、浅草の家へ戻るために人に溢れた電車に乗った。
ずっと黙ったままの椛は、そっと窓に映った文を見る。スーツに身を包み、目深にボルサリーノを被っているため表情の全てを窺うことはできないが、口元を見る限り厳しさは無い。
何か言おうと口を開きかける椛だったが、どうしても言葉にならず、結局何も話せないまま家に辿り着いてしまう。長屋の戸に手をかけたところで、文は少し考えるそぶりを見せた後に振り返る。
「椛、銀座まで買物に行くわよ。のんびり歩いてで良いわよね」
そう言うと返事を待たず文は歩き出した。慌てて後を追う椛だったが、すぐにいつもと違うことに気が付いた。いつもは足の長い文に合わせて椛は小走りになりがちなのに、今は椛に合わせるようにゆっくりと歩いている。
文の優しさを感じた椛は、大きく息を吸って腹に力をこめると口を開いた。
「文さん。私はどうしても納得がいきません。なんで雷太さんが帝都を出ていかないといけないのですか?」
「仲間と徒党を組んで騒ぎを起こし、多少とはいえ人間を傷つけたからよ」
「仕方が無い事じゃないですか。雷太さんが何もしなかったら、もっと悪い状況になっていた訳ですよね」
不思議な物で、一度口を開くと言葉は止まることなく次々と出てくる。
「仕方が無い事だと誰に訴えるの? 太郎さん? 帝都の妖怪全員? とても無理よね」
「仲間だったら想いを理解して、守ってあげるべきじゃないですか」
「そしたら狸の一族がまとめて他の妖怪たちに、乱暴者に甘いやつらだと誤解されるわ。そうすると更に大きな存在。太郎さんや寄り合いの長老たちが狸の一族を罰しないといけない。幼い狸も、年老いて体の不自由な隠居狸も平等にね。それを雷太さんが望むかしら」
「でも、雷太さんが正しいことを誰も分かってくれないのはどうしても納得がいきません」
「椛、そもそも立場によっては、どんなに説明したって雷太さんが正しいと思ってくれるとは限らないわよ」
話しているうちに日本橋を渡り、京橋を過ぎて銀座に足を踏み入れていた。
文の言っていることに間違いが無い事が理解できない椛ではない。しかし自分の考えを譲る訳にもいかない。
どうして立場が違うと話は変わってしまうのか。相手の事も含めて考えることは出来ないのだろうか。
気付くと文と椛は伊東屋の前にいた。数え切れないほどの文具や和紙を取り扱っている、椛も大のお気に入りの店だ。だが今は、いつものように心が躍るはずはない。
文は何も言わず店に入ってゆくと、手早く買い物を済ませて椛を連れて店を出る。そして道を引き返し、日本橋の袂に来たところで足を止めた。
「どう? 何か皆が納得できそうな名案は浮かんだ?」
その言葉に椛は首を横に振る。世界の広さに対して、椛はあまりにも小さく無力な存在だ。
「ねえ椛。沢山の種族、その数だけの価値観、皆がひしめき合って生きている。それは現界でも、幻想郷でも変わらない。そこに絶対の正義なんてないし、だとすればいつも誰かが何処かで犠牲になっているのかもしれない」
ゆっくりと紡がれる言葉は椛の胸に染みたが、それは飲み込むにはあまりにも寂しすぎる。
「だけど、相手の事を考えることはできるんじゃないかしら。それぞれの立場があるのは仕方の無い事だけど、少しずつでも相手の事を考えれば、より良い答えを導き出せるかもしれない」
「はい、そのとおりです」
「そのために必要な物は、思いやる心とか、多少の余裕とか色々あるけど、まず大前提となる重要な物があるわ」
そこで文は一度言葉を区切り、一呼吸置いた後に告げた。
「情報よ」
その一言に椛は顔を上げる。何かが、今、自分の中で組みあがった。
ずっと靄の掛かっていた心の視界が晴れ、足掻くだけだった手足が軽くなる。
「まずは知ることから始まって、それが相手を理解する足がかりになる。それを積み重ねれば、誤解も争いも少なくなるし、良い知恵も生まれるかもしれない」
風が吹いた。
文は帽子を手に取り髪を風になびかせる。しばらくぶりに視線を前へ上げて、真正面から見た文の表情は穏やかな微笑を湛え、何よりも自信に溢れた瞳は輝いている。
幻想郷最速と褒め称えられる天狗でも、妖怪の山でも指折りと恐れられる妖怪としてでもなく、興味を持った物に対する飽くなき探究心と、不屈の闘志を持った新聞記者としての文の顔である。
「良い? 『知識』や『答え』を記しておくのならば本があればいいし、知りたければ図書館に行けばいい。なのにこんなにも新聞が必要とされるのか。それは『正解』なんて、一瞬ごとに変わっていくのが世界だからよ。それを常に伝えるために、新聞はある」
そして文はさっき買った物を差し出した。
「私からの贈り物よ。開けてみて」
その言葉に従い椛が丁寧に包装を開くと、そこには万年筆と分厚い本皮のカバーに覆われた手帳があった。
「伊東屋の万年筆は使いやすくて私のお気に入りよ。そっちの手帳は奮発して本皮だから、雨風にも負けないわ」
明るく文は説明するが、椛の手は震えが止まらなかった。この品物が意味している事は一つである。手元と文の顔を交互に見る椛の様子を確認すると文は真面目な顔になり、気配が変わったことに気づいた椛も背筋を伸ばす。
「哨戒天狗の犬走椛、私の下で助手として働くことを認めます。あなたは、もう、新聞記者の仕事が持つ重みを理解している」
そして心の底から嬉しそうに、文はにっこりと笑った。
「そろそろ大きな記事を探し始めたいし、明日から手伝ってくれるかしら?」
その笑顔に、その言葉に、胸の中に重く残っていた悔しさと無力感が溶け出し、喜びと共に感情が込み上がってくる。
刀で止める事ができるのは相手一人だが、ペンを使いこなせるようになれば相手にできるのは決して一人ではない。
涙が零れ落ちそうになったところで、素早く前に踏み出した文が椛のおでこを強く突く。
「いたっ」
「悔しさは飲み込みなさい。そして、喜ぶにはまだ早いわよ」
早速怒られてしまったと椛は思った。そして必死に涙を堪えると、呼吸を整えて文と向き合う。
「喜んで手伝わせて頂きます。文さんの側で勉強させてください。ずっとついてゆきます」
「ずっと、ついてくる必要は無いんだけどね」
言葉と共に勢い良く頭を下げる椛に、文は苦笑すると振り返って歩き出した。
「さて、お腹も減ったし、椛のお祝いを兼ねて何か食べて帰りましょうか?」
「それなら真っ直ぐ帰りましょう。今日は腕によりをかけてご馳走をつくりますから」
「そう? 自分のお祝いを自分で作るって……まあ、椛らしいか」
「言われてみるとちょっと変かもしれませんね。でも良いじゃないですか」
そして文と椛は声を揃えて笑うと、家に向かって歩き出した。
今日も日本橋には多くの人が溢れている。
しばらくして椛はそっと歩みを止めると、周りを見渡す。
何処にでも必ずいる人間。
そして何処かに必ずいる妖怪。
その全員にそれぞれの物語がある。
それを見聞きしまとめ、広く伝えるのが新聞記者の役目なのだ。
離れたところに見え隠れする文の背中。
ただ一心に憧れていたその背中は、今は目標とし、追いつくための背中になった。
「こら椛、何をしているのよ。置いていくわよ」
気付いて振り返った文の呼び声に、周りの視線など気にせず椛は大きな声で返事をする。
そして
初めて空を飛んだ時よりも胸を高鳴らせ。
何よりも大事な宝物をその手に握り締め。
いつの日か射命丸文の隣に並び立つ日に向かって、犬走椛は走り出したのだった。
このシリーズは奥が深く、面白くてとても好きですよ。
文と椛がこれからどんな記事を作っていくのか……。
面白かったです。
これにて完結と言わずこれからの話も読みたいと思いました。