妹紅。
呼ばれ、思わず辺りを見渡した。使いの途上であった。
辺りは暗い。人里と言えど、普段なら大勢が行き交う筈の大通りは、雑踏を避けるため一歩引いた様に静まり返っていた。
家には厄除けの札が貼られる。開いた窓など一つも無く、目立つのを避けるように灯りも少ない。見ると、窓の奥で僅かに蝋燭の光が見える。
家々の軒先からは幾筋の煙が立ち上がる。大根の葉を焼いているのだ。葉には厄除けの効果があるという。煙は互いに交わる事も無く、秋の薄暗い空へと消えて行く。
人影は見当たらなかった。しかし聞こえた声にどこか覚えがあった。
使いの端書を懐に仕舞うと、妹紅は目当ての店へ足を速めた。赤のもんぺの擦れる音が早まる。面倒事は御免であった。最近、人里は騒然としているのだ。
妖が出たそうだ。
幻想郷に妖怪は多い。しかし彼らは妖怪であって妖でない。ここで外の住人には区別のつき難い二つを分けるのは、ひとえに人を喰うか否かであった。
妖は人を喰う。
妖怪は人と喰う。
聞いた話だと、妖は死肉を求めてはばりばり喰うのだという。あくまで噂であった。初めて人が喰われた一月前からある噂である。
家の灯りの少なさを補うように、通りの提灯は数多く揺れる。慌てて倉庫から持ち出したのだという。何やら直ぐにでも祭が始まりそうだ。それにしては活気が無さ過ぎるが。
人は灯りを好むものだ。しかし妹紅の知る限り、妖も灯りを好むように思えた。
妹紅。
呼ぶ声が聞こえる。
遠い日の記憶にある声に似ていた。
暗い道で呼ぶ声に振り返ると喰われてしまう。そんな話もあった。誰が話してくれたのかは忘れた。妹紅に使いを頼んだ獣人かもしれない。
歩くにつれ、次第に人も増えてきた。商店街に入ったようだ。肉屋が閉まっているのが見えた。流石に妖に餌を見せる様なものなのだろう。目的の雑貨屋は程近い。
「妹紅」
声は甘味処と看板の出た店の中から聞こえた。古い建物で、以前慧音と行った事がある。中々に人気の店だとか。声は奥の席からだ。
目を凝らしてみると、誰かが手を振るのが見えた。顔は見えない。どうやら男のようであった。
店内に足を踏み入れた。店の軒先にも葉が炊いてあるのが目に付く。
店は人が少なかった。やっとの客にほっとして寄ってくる接客係に一瞥し、妹紅は奥の席を目指す。
店は明るい。暗くては商売をする気が無いと言われても仕方が無い。全て板で仕切られた座敷であった。それぞれの座敷の上には天井から雪洞がぶら下がる。昔はここで幾多の密談が囁かれたという。そんな時代もあった。
それ程多くもない座敷の一番奥、二足の藁草履が几帳面に並んで外を向く。男はそこにいた。
「こっちだ」
男は烏帽子を被っていた。更には束帯に身を包み、妹紅に笑顔で呼び掛ける。出された餡蜜はほとんど残ってはいない。歳は妹紅より少し上か。纏められた黒髪がぬめりと光る。傍らには刀が立て掛けてあった。
呆然と立ち尽くしていると、男は前の席を目で示した。
「座れ」
ふらふらとした足取りで座敷に上がり腰掛ける。並んだ二つの座布団の内の、男と正面の方に座る。唐草色の座布団は、妹紅が座ると溜息をつくように空気を吐き出した。すぐに利発そうな接客係がやって来る。
「どうした」
何も言わない妹紅に接客係が困っていると、男が妹紅に促してきた。
ただ目の前にあったから。それだけの理由で餡蜜を注文する。
「久し振りだな」
男は妹紅を見て話し掛ける。その口調を忘れる訳も無い。
「私の事を忘れているかと思ったぞ」
男は妹紅を見て笑い掛ける。その笑顔を忘れる訳も無い。
「お前は変わらないな」
全く変わらない男は、全く変わらない口調と笑顔と外見と服装で永遠の少女に話しかけた。
「兄上」
兄と呼ばれた男が匙で餡蜜を掻き混ぜる。白玉が無いかと探っている様だ。男の顔を映していた黒い汁が波立ち揺れる。
「なぜここに」
接客係が餡蜜を持ってきた。座布団と同じく唐草色の袖を捲くり、細く白い腕が器を運ぶ。兄の目が妖しく揺れた。それが女の腕を見ていたのか、餡蜜を見ていたのかは定かでない。
或いは、その両方か。
「噂を聞いてな」
何のとは言わなかった。妹の噂か、それとも幻想郷の噂か。また別の何かか。
白玉を探すのを諦めたのか、粒餡を汁と共にすくって口に運ぶ。兄は甘いものが好物であった。
「ここはいい。甘味処に入るのは久し振りだ」
少し風が出てきたのか、表の煙が店に入り込んできた。それは薄く広がり、視界を僅かに白くぼかす。
目を向けると、他の客はもう全て帰ったようだ。いや、仕切りがあるので全ては見えないが。
接客係が掃除をしているのが見えた。身を座敷に乗り出し、尻を突き出して雑巾をかける。それを兄は物欲しそうに見ている。女の体を見ているのか、それともまた餡蜜を注文しようとしているのか。
或いは、その両方か。
「この煙は何だ」
「妖除けです。最近出たようです」
煙はゆらゆらと天井に集まり、どこかに吸い込まれるでもなくたゆとっている。
兄は興味があるのか興味が無いのか、そうかと言を返すとまた粒餡を口に運んだ。その仕草に淀みは無い。
「父は」
ぽつりと呟くように言葉を紡ぐ。
「どうしたかな」
「ご存じ無かったのですか」
「知らんよ、あのような家系の恥の最後は」
「憤死だと聞きました」
「蓬莱の娘か」
吐き捨てるように兄は言う。そして匙の腹で粒餡を一つ一つ押し潰し始めた。
「父は愚かであったな」
「そう思います」
妹紅はおもむろに匙を手に取った。それに兄がぴくりと眉を動かす。どうやら妹の餡蜜を狙っていたようだ。
粒餡と一緒に白玉を口に運ぶ妹を見て、兄は溜息をついて眉を寄せる。
「甘い物は嫌いではなかったか」
「かつては」
ふうんと、兄は残念そうに呟く。
「お前は変わっていないと思ったがな」
「兄上は、変わりましたか」
兄はそれに答えなかった。
「今は何処に住む」
「竹林に」
「ならば出会わぬ訳だ」
兄は潰した粒餡を溶かし込むように餡蜜を掻き混ぜては、再び残った粒餡を探して黒い汁の中を匙で探る。匙と器が時折触れ、かちゃかちゃという音が店内に響く。
「兄は」
妹紅は口が進まなく、おもむろに匙を下ろす。
「今どこに」
「宿だ」
この幻想郷に宿は無い。何をもって宿と言っているのか。
「兄上」
妖が出るという。妖は人を喰うから妖だ。
「いつ来ました」
妖は家の主を喰うとそこに住まうという。その騒ぎはいつから起きたか。
「一月前だ」
灯りにつられてやって来たのか、羽虫が天井に吊るされた雪洞の周りをぶんぶんと音を出して飛ぶ。
粒餡を全て潰し終わったことを確認したのか、兄は一気に餡蜜をかき込んだ。
そして立ち上がる。
片膝を立てた妹を見て、僅かに目を細める。
「いつ気付いた」
それに妹紅は最初からと答えた。
「そうか」
「兄上」
妹紅は聞き返す。接客係は客が来る見込みが無くなったのを見越してか、奥に引っ込んだらしく姿が見えない。
「いつ人をやめました」
煙は益々勢いを増したようだ。店内はもやが掛かった様に白み、天井に溜まった濃い白がとうとう外へと流れ出す。
「妹紅」
兄は答えなかった。そして逆に聞き返す。
「お前は人をやめていないのか」
「恐らくは」
「生きているのか」
「永遠に」
兄はそうかと呟くと、刀を手に取り座敷を降りて藁草履を履いた。店内から見える外はもう夜に包まれていた。草はほとんどが焼け切ったのか、立ち上る煙が糸の様に細く揺れる。
兄はそのまま歩いて行った。
「兄上」
「妹紅」
呼びかけに応じるかのように、または遮るかのように、名を呼び合いたかったのか、後姿で兄は語る。
「一条橋で待つ」
煙に巻くように兄は消えた。
妹紅はただ誰もいない通路と、その先の闇をじっと眺めていた。
「剣、ですか」
もう夜であるが、白玉楼を訪れた妹紅は、妖夢に剣を貸してほしいと頼んだ。
大きな門の中を覗き見れば、大きな桜がその身を揺らす。西行妖という名のその妖怪桜は、今は蕾も無く、ただ他の木々と同じ様な枯れた姿を晒している。妖怪桜はそれが不満なのか、枝を擦らせてはその存在を鼓舞するようにざわざわと鳴らし喚く。
白玉楼を訪れたのは偏見にも似た単純な考えである。ここの庭師がいつも刀を持っているので、予備くらいあろうという事であった。
「何でもいい」
「物騒ですね。また輝夜さんと?」
「迷惑は掛けない」
「…………」
真剣な妹紅に押し切られたのか、妖夢は溜息一つついて「少々お待ちを」と言い、屋敷の奥へと消えて行った。どうやら本当に予備があるようだ。
屋敷は広い。そしてその庭には大量の桜が植えられている。春は観光地にもなり、多くの人や人外が見物に訪れるという。
ひいふうみいとその桜を数え、成程確かに春になるとそれは見事だろうと納得する。慧音を誘って来るのもいい。いや自分よりずっと幻想郷に詳しい彼女の事だ。ここにも何度か来た事があるに違いない。春になるときっと彼女の方から誘って来るだろう。ならば自分が覚えておく必要も無い。
物ぐさな妹紅に抗議するかのように、妖怪桜がまたその身を揺らす。
しばらくして妖夢は戻って来た。手には一振りの刀を抱えている。屋敷の主に相談したところ、貸してやれ、それでさっさと帰ってもらえと言われたのだ。
死を操ると言われる主は、死なぬ妹紅が大の苦手であった。
「打刀か」
「銘無しですが」
「礼を言う」
受け取り、妹紅は夜の闇へと消えて行く。
空は満月であり、その月光の邪魔をしまいとばかりに星は僅かにしか瞬かない。雲はあるが、月を隠す気は無いようだ。遥か遠くの空をゆらりと流れる。
空を見ると昔を思い出す。世間は変わるが、空はいつの世も変わらない。そして常にあの忌々しい月を眺めないといけない。新月の夜が常になるためなら、自分は命を賭けてでも世を敵に回すだろう。
しかし、と妹紅は笑う。
自分の命を賭けたら狡いというものだ。いくら賭けても無くならない。この世の誰もが揃ってこの世で一番大切な物というそれを、自分は履いて捨てることも迷惑なくらい無数に持つ。この命の一つでも誰かに与えられたらどんなにか良かったか。
そこまで考え、かぶりを振る。
悠久を生きる彼女に今までどんな困難があったのか。しかし彼女はそれを語るにも時間が掛かる。時間の無い者に語るにはあまりに長く時間が掛かる。
だから彼女は話さない。恐らく彼女と思い出話に花を咲かせる事ができるのは、同じ永遠の娘だけであろう。
その娘のことを思い浮かべ、妹紅は地面の石を蹴りつけた。石は不規則に跳ね返り、やがて茂みに分け入った。
姿を隠した石を眺め、溜息一つ、妹紅は歩みを進める。
幻想郷に数少ない橋。一条橋と呼ばれるその上に、一人の男が立っている。
烏帽子を被り、束帯を羽織る。およそ時代遅れとも言えない時代錯誤の格好をした男は、橋の中央でじっと空を見る。彼にとっても月は忌々しい物であった。
あれのお蔭で家は廃れ、父は死に、母は嫉妬に狂い、妹は消えた。しかしあの蓬莱の娘を恨む気は無い。愚かであったのは父だ。母というものがありながら子程の娘に現を抜かし、家財の限りを投じて探し回った宝は見付からず。娘が美し過ぎた事など言い訳になる筈も無い。
だがしかし、あの月を見るとどうしても体の内から湧き出る感情の高ぶりを抑える事ができない。それは時に食欲となって現れる。いくら食べても満たされない。そしてそんな自分が怖くもある。
やがて妹紅はやって来た。
手には打刀、身はもんぺ。
橋の上で向かい合う。
「兄上」
虫の鳴き声は相も変わらず風情がある。これも昔と変わらない。
「何故来ました」
「風の便りでお前の噂を聞いた」
兄は妹を見つめ、じっと虫の声に耳を傾ける。
「聞いたら会いたくなった」
だから来た、と。
風は無い。しかし雲は流れる。忌々しい月が煌々と輝き、その身をもってその人生を狂わせた二人の兄妹を明るく照らす。
湖とも池ともつかない水の溜まりが二人の姿を映し出す。その水に映った二人さえ、同じく映し出された月が執拗に照らす。
呪われたのはその身か、それは月によってか。
「兄上」
妹紅は呼び掛ける。悠久の昔そうしたように。
「いつ人をやめました」
兄はやはり答えなかった。
代わりに剣を抜く。月の光を反射し、妹紅の顔を照らす。
「いざ」
呼び掛けられ、妹紅も剣を抜く。
ここは一条戻橋。二人の兄妹が相対する。
兄は体を前へ押し出した。妹紅もそうした。
闇夜に火花が散る。それはすぐに闇に吸い込まれて消える。
闇夜に音が響く。それもすぐに虫の鳴き止んだ林に吸い込まれていく。
悠久の時を経て、ここに兄妹は雌雄を決す。月光の元、それは舞っている様に優雅な剣舞であったという。
しかし七合もせずにそれは終わる。あまりに早い剣舞の終わりに抗議するかのように、虫たちの鳴き声が一斉に林の中から再び響く。
鉄を胸に埋め込ませ、妹紅は血を吹きなお言を吐く。
兄は剣の達人であった。
「兄には敵いません」
「そうであろう」
「兄は死んだと聞きました」
「そうであったか」
妹紅の体から灼熱が吹き出す。
獄炎が剣を伝わり、兄の体に纏わり付く。
「綺麗だな」
炎に身を包まれ、尚も兄は呻き呟く。妹と自分を取り巻く炎に見入っていた兄は、妹に呼びかけるように呟いた。
月明かりの闇の中、大きな二つの灯りが橋の上で激しく揺れる。最早月の明りなどこの場に不要であった。人と人であったものの灯りで橋は照らされ暖まる。
「私は死ぬか」
「とうに」
兄は笑うように溜息をつく。
「では滅するか」
妹紅は答えなかった。代わりに一つ問いかける。
「何故呼びました」
「お前以外に誰が相応しい」
「兄上」
妹紅は三度問いかける。
「いつ人をやめました」
兄の体は崩れて落ちる。その途中、兄は答えて述べた。
お前が、私の前から消えた時だ。
ここは一条戻橋。橋の上には一人の少女。炎は収まり、悲鳴をあげていた橋も幾分落ち着いたようだ。焼け焦げたその上に、妹紅はただ立ち尽くす。
かつて人であり兄であったものの残骸には、未だに火が消えずとうとうとその身を揺らす。
そこに虫が一匹飛び込んだ。
炎に惹かれ飛び込んだ。
その様子を妹紅はただただじっと見る。
ここは一条戻橋。死した者に会えるという。
呼ばれ、思わず辺りを見渡した。使いの途上であった。
辺りは暗い。人里と言えど、普段なら大勢が行き交う筈の大通りは、雑踏を避けるため一歩引いた様に静まり返っていた。
家には厄除けの札が貼られる。開いた窓など一つも無く、目立つのを避けるように灯りも少ない。見ると、窓の奥で僅かに蝋燭の光が見える。
家々の軒先からは幾筋の煙が立ち上がる。大根の葉を焼いているのだ。葉には厄除けの効果があるという。煙は互いに交わる事も無く、秋の薄暗い空へと消えて行く。
人影は見当たらなかった。しかし聞こえた声にどこか覚えがあった。
使いの端書を懐に仕舞うと、妹紅は目当ての店へ足を速めた。赤のもんぺの擦れる音が早まる。面倒事は御免であった。最近、人里は騒然としているのだ。
妖が出たそうだ。
幻想郷に妖怪は多い。しかし彼らは妖怪であって妖でない。ここで外の住人には区別のつき難い二つを分けるのは、ひとえに人を喰うか否かであった。
妖は人を喰う。
妖怪は人と喰う。
聞いた話だと、妖は死肉を求めてはばりばり喰うのだという。あくまで噂であった。初めて人が喰われた一月前からある噂である。
家の灯りの少なさを補うように、通りの提灯は数多く揺れる。慌てて倉庫から持ち出したのだという。何やら直ぐにでも祭が始まりそうだ。それにしては活気が無さ過ぎるが。
人は灯りを好むものだ。しかし妹紅の知る限り、妖も灯りを好むように思えた。
妹紅。
呼ぶ声が聞こえる。
遠い日の記憶にある声に似ていた。
暗い道で呼ぶ声に振り返ると喰われてしまう。そんな話もあった。誰が話してくれたのかは忘れた。妹紅に使いを頼んだ獣人かもしれない。
歩くにつれ、次第に人も増えてきた。商店街に入ったようだ。肉屋が閉まっているのが見えた。流石に妖に餌を見せる様なものなのだろう。目的の雑貨屋は程近い。
「妹紅」
声は甘味処と看板の出た店の中から聞こえた。古い建物で、以前慧音と行った事がある。中々に人気の店だとか。声は奥の席からだ。
目を凝らしてみると、誰かが手を振るのが見えた。顔は見えない。どうやら男のようであった。
店内に足を踏み入れた。店の軒先にも葉が炊いてあるのが目に付く。
店は人が少なかった。やっとの客にほっとして寄ってくる接客係に一瞥し、妹紅は奥の席を目指す。
店は明るい。暗くては商売をする気が無いと言われても仕方が無い。全て板で仕切られた座敷であった。それぞれの座敷の上には天井から雪洞がぶら下がる。昔はここで幾多の密談が囁かれたという。そんな時代もあった。
それ程多くもない座敷の一番奥、二足の藁草履が几帳面に並んで外を向く。男はそこにいた。
「こっちだ」
男は烏帽子を被っていた。更には束帯に身を包み、妹紅に笑顔で呼び掛ける。出された餡蜜はほとんど残ってはいない。歳は妹紅より少し上か。纏められた黒髪がぬめりと光る。傍らには刀が立て掛けてあった。
呆然と立ち尽くしていると、男は前の席を目で示した。
「座れ」
ふらふらとした足取りで座敷に上がり腰掛ける。並んだ二つの座布団の内の、男と正面の方に座る。唐草色の座布団は、妹紅が座ると溜息をつくように空気を吐き出した。すぐに利発そうな接客係がやって来る。
「どうした」
何も言わない妹紅に接客係が困っていると、男が妹紅に促してきた。
ただ目の前にあったから。それだけの理由で餡蜜を注文する。
「久し振りだな」
男は妹紅を見て話し掛ける。その口調を忘れる訳も無い。
「私の事を忘れているかと思ったぞ」
男は妹紅を見て笑い掛ける。その笑顔を忘れる訳も無い。
「お前は変わらないな」
全く変わらない男は、全く変わらない口調と笑顔と外見と服装で永遠の少女に話しかけた。
「兄上」
兄と呼ばれた男が匙で餡蜜を掻き混ぜる。白玉が無いかと探っている様だ。男の顔を映していた黒い汁が波立ち揺れる。
「なぜここに」
接客係が餡蜜を持ってきた。座布団と同じく唐草色の袖を捲くり、細く白い腕が器を運ぶ。兄の目が妖しく揺れた。それが女の腕を見ていたのか、餡蜜を見ていたのかは定かでない。
或いは、その両方か。
「噂を聞いてな」
何のとは言わなかった。妹の噂か、それとも幻想郷の噂か。また別の何かか。
白玉を探すのを諦めたのか、粒餡を汁と共にすくって口に運ぶ。兄は甘いものが好物であった。
「ここはいい。甘味処に入るのは久し振りだ」
少し風が出てきたのか、表の煙が店に入り込んできた。それは薄く広がり、視界を僅かに白くぼかす。
目を向けると、他の客はもう全て帰ったようだ。いや、仕切りがあるので全ては見えないが。
接客係が掃除をしているのが見えた。身を座敷に乗り出し、尻を突き出して雑巾をかける。それを兄は物欲しそうに見ている。女の体を見ているのか、それともまた餡蜜を注文しようとしているのか。
或いは、その両方か。
「この煙は何だ」
「妖除けです。最近出たようです」
煙はゆらゆらと天井に集まり、どこかに吸い込まれるでもなくたゆとっている。
兄は興味があるのか興味が無いのか、そうかと言を返すとまた粒餡を口に運んだ。その仕草に淀みは無い。
「父は」
ぽつりと呟くように言葉を紡ぐ。
「どうしたかな」
「ご存じ無かったのですか」
「知らんよ、あのような家系の恥の最後は」
「憤死だと聞きました」
「蓬莱の娘か」
吐き捨てるように兄は言う。そして匙の腹で粒餡を一つ一つ押し潰し始めた。
「父は愚かであったな」
「そう思います」
妹紅はおもむろに匙を手に取った。それに兄がぴくりと眉を動かす。どうやら妹の餡蜜を狙っていたようだ。
粒餡と一緒に白玉を口に運ぶ妹を見て、兄は溜息をついて眉を寄せる。
「甘い物は嫌いではなかったか」
「かつては」
ふうんと、兄は残念そうに呟く。
「お前は変わっていないと思ったがな」
「兄上は、変わりましたか」
兄はそれに答えなかった。
「今は何処に住む」
「竹林に」
「ならば出会わぬ訳だ」
兄は潰した粒餡を溶かし込むように餡蜜を掻き混ぜては、再び残った粒餡を探して黒い汁の中を匙で探る。匙と器が時折触れ、かちゃかちゃという音が店内に響く。
「兄は」
妹紅は口が進まなく、おもむろに匙を下ろす。
「今どこに」
「宿だ」
この幻想郷に宿は無い。何をもって宿と言っているのか。
「兄上」
妖が出るという。妖は人を喰うから妖だ。
「いつ来ました」
妖は家の主を喰うとそこに住まうという。その騒ぎはいつから起きたか。
「一月前だ」
灯りにつられてやって来たのか、羽虫が天井に吊るされた雪洞の周りをぶんぶんと音を出して飛ぶ。
粒餡を全て潰し終わったことを確認したのか、兄は一気に餡蜜をかき込んだ。
そして立ち上がる。
片膝を立てた妹を見て、僅かに目を細める。
「いつ気付いた」
それに妹紅は最初からと答えた。
「そうか」
「兄上」
妹紅は聞き返す。接客係は客が来る見込みが無くなったのを見越してか、奥に引っ込んだらしく姿が見えない。
「いつ人をやめました」
煙は益々勢いを増したようだ。店内はもやが掛かった様に白み、天井に溜まった濃い白がとうとう外へと流れ出す。
「妹紅」
兄は答えなかった。そして逆に聞き返す。
「お前は人をやめていないのか」
「恐らくは」
「生きているのか」
「永遠に」
兄はそうかと呟くと、刀を手に取り座敷を降りて藁草履を履いた。店内から見える外はもう夜に包まれていた。草はほとんどが焼け切ったのか、立ち上る煙が糸の様に細く揺れる。
兄はそのまま歩いて行った。
「兄上」
「妹紅」
呼びかけに応じるかのように、または遮るかのように、名を呼び合いたかったのか、後姿で兄は語る。
「一条橋で待つ」
煙に巻くように兄は消えた。
妹紅はただ誰もいない通路と、その先の闇をじっと眺めていた。
「剣、ですか」
もう夜であるが、白玉楼を訪れた妹紅は、妖夢に剣を貸してほしいと頼んだ。
大きな門の中を覗き見れば、大きな桜がその身を揺らす。西行妖という名のその妖怪桜は、今は蕾も無く、ただ他の木々と同じ様な枯れた姿を晒している。妖怪桜はそれが不満なのか、枝を擦らせてはその存在を鼓舞するようにざわざわと鳴らし喚く。
白玉楼を訪れたのは偏見にも似た単純な考えである。ここの庭師がいつも刀を持っているので、予備くらいあろうという事であった。
「何でもいい」
「物騒ですね。また輝夜さんと?」
「迷惑は掛けない」
「…………」
真剣な妹紅に押し切られたのか、妖夢は溜息一つついて「少々お待ちを」と言い、屋敷の奥へと消えて行った。どうやら本当に予備があるようだ。
屋敷は広い。そしてその庭には大量の桜が植えられている。春は観光地にもなり、多くの人や人外が見物に訪れるという。
ひいふうみいとその桜を数え、成程確かに春になるとそれは見事だろうと納得する。慧音を誘って来るのもいい。いや自分よりずっと幻想郷に詳しい彼女の事だ。ここにも何度か来た事があるに違いない。春になるときっと彼女の方から誘って来るだろう。ならば自分が覚えておく必要も無い。
物ぐさな妹紅に抗議するかのように、妖怪桜がまたその身を揺らす。
しばらくして妖夢は戻って来た。手には一振りの刀を抱えている。屋敷の主に相談したところ、貸してやれ、それでさっさと帰ってもらえと言われたのだ。
死を操ると言われる主は、死なぬ妹紅が大の苦手であった。
「打刀か」
「銘無しですが」
「礼を言う」
受け取り、妹紅は夜の闇へと消えて行く。
空は満月であり、その月光の邪魔をしまいとばかりに星は僅かにしか瞬かない。雲はあるが、月を隠す気は無いようだ。遥か遠くの空をゆらりと流れる。
空を見ると昔を思い出す。世間は変わるが、空はいつの世も変わらない。そして常にあの忌々しい月を眺めないといけない。新月の夜が常になるためなら、自分は命を賭けてでも世を敵に回すだろう。
しかし、と妹紅は笑う。
自分の命を賭けたら狡いというものだ。いくら賭けても無くならない。この世の誰もが揃ってこの世で一番大切な物というそれを、自分は履いて捨てることも迷惑なくらい無数に持つ。この命の一つでも誰かに与えられたらどんなにか良かったか。
そこまで考え、かぶりを振る。
悠久を生きる彼女に今までどんな困難があったのか。しかし彼女はそれを語るにも時間が掛かる。時間の無い者に語るにはあまりに長く時間が掛かる。
だから彼女は話さない。恐らく彼女と思い出話に花を咲かせる事ができるのは、同じ永遠の娘だけであろう。
その娘のことを思い浮かべ、妹紅は地面の石を蹴りつけた。石は不規則に跳ね返り、やがて茂みに分け入った。
姿を隠した石を眺め、溜息一つ、妹紅は歩みを進める。
幻想郷に数少ない橋。一条橋と呼ばれるその上に、一人の男が立っている。
烏帽子を被り、束帯を羽織る。およそ時代遅れとも言えない時代錯誤の格好をした男は、橋の中央でじっと空を見る。彼にとっても月は忌々しい物であった。
あれのお蔭で家は廃れ、父は死に、母は嫉妬に狂い、妹は消えた。しかしあの蓬莱の娘を恨む気は無い。愚かであったのは父だ。母というものがありながら子程の娘に現を抜かし、家財の限りを投じて探し回った宝は見付からず。娘が美し過ぎた事など言い訳になる筈も無い。
だがしかし、あの月を見るとどうしても体の内から湧き出る感情の高ぶりを抑える事ができない。それは時に食欲となって現れる。いくら食べても満たされない。そしてそんな自分が怖くもある。
やがて妹紅はやって来た。
手には打刀、身はもんぺ。
橋の上で向かい合う。
「兄上」
虫の鳴き声は相も変わらず風情がある。これも昔と変わらない。
「何故来ました」
「風の便りでお前の噂を聞いた」
兄は妹を見つめ、じっと虫の声に耳を傾ける。
「聞いたら会いたくなった」
だから来た、と。
風は無い。しかし雲は流れる。忌々しい月が煌々と輝き、その身をもってその人生を狂わせた二人の兄妹を明るく照らす。
湖とも池ともつかない水の溜まりが二人の姿を映し出す。その水に映った二人さえ、同じく映し出された月が執拗に照らす。
呪われたのはその身か、それは月によってか。
「兄上」
妹紅は呼び掛ける。悠久の昔そうしたように。
「いつ人をやめました」
兄はやはり答えなかった。
代わりに剣を抜く。月の光を反射し、妹紅の顔を照らす。
「いざ」
呼び掛けられ、妹紅も剣を抜く。
ここは一条戻橋。二人の兄妹が相対する。
兄は体を前へ押し出した。妹紅もそうした。
闇夜に火花が散る。それはすぐに闇に吸い込まれて消える。
闇夜に音が響く。それもすぐに虫の鳴き止んだ林に吸い込まれていく。
悠久の時を経て、ここに兄妹は雌雄を決す。月光の元、それは舞っている様に優雅な剣舞であったという。
しかし七合もせずにそれは終わる。あまりに早い剣舞の終わりに抗議するかのように、虫たちの鳴き声が一斉に林の中から再び響く。
鉄を胸に埋め込ませ、妹紅は血を吹きなお言を吐く。
兄は剣の達人であった。
「兄には敵いません」
「そうであろう」
「兄は死んだと聞きました」
「そうであったか」
妹紅の体から灼熱が吹き出す。
獄炎が剣を伝わり、兄の体に纏わり付く。
「綺麗だな」
炎に身を包まれ、尚も兄は呻き呟く。妹と自分を取り巻く炎に見入っていた兄は、妹に呼びかけるように呟いた。
月明かりの闇の中、大きな二つの灯りが橋の上で激しく揺れる。最早月の明りなどこの場に不要であった。人と人であったものの灯りで橋は照らされ暖まる。
「私は死ぬか」
「とうに」
兄は笑うように溜息をつく。
「では滅するか」
妹紅は答えなかった。代わりに一つ問いかける。
「何故呼びました」
「お前以外に誰が相応しい」
「兄上」
妹紅は三度問いかける。
「いつ人をやめました」
兄の体は崩れて落ちる。その途中、兄は答えて述べた。
お前が、私の前から消えた時だ。
ここは一条戻橋。橋の上には一人の少女。炎は収まり、悲鳴をあげていた橋も幾分落ち着いたようだ。焼け焦げたその上に、妹紅はただ立ち尽くす。
かつて人であり兄であったものの残骸には、未だに火が消えずとうとうとその身を揺らす。
そこに虫が一匹飛び込んだ。
炎に惹かれ飛び込んだ。
その様子を妹紅はただただじっと見る。
ここは一条戻橋。死した者に会えるという。
オリキャラの兄がいい感じだった。
読んでいて何故かDevilMayCry3を思い出した。
京の都って感じがしますね。
そう思いました。
不思議な気分になりました。よよよ。
よもやそれが妹紅の兄の変わり果てた姿とは。