稗田の時間は、感じ方が他人のそれと異なる。
命果てるまでの時間が短いのだ。一般人と同じ感覚で過ごしていては、何もすることなく生を終えてしまうのだから当然である。阿求を生き急いでいると評価するものもいるが、それは蟻と象の人生を比べるようなもの。そもそも根幹が異なっているのに、同じ物差しで測る方が間違っている。
だが、何も常に人生を急いでいるわけではない。時には音楽に耳を傾けることもあるし、時には紅茶の味を楽しむこともある。稗田の人生において、これらは全く意味の無い行為だ。だからといって、止める気など毛頭無い。
紅茶を飲めぬと言うのなら、次の転生とて考えものだ。これはさすがに言い過ぎであるが、それほどまでに好きなモノがあるということ。どれだけ短い生涯であろうと、こればかりは捨て去ることができぬだ。もっとも、紅茶の味を覚えたのは阿求になってからだが。
などと弁舌をふるいながらも、いま阿求が飲んでいるのは緑茶であった。博麗の巫女から貰ったのだ。せっかくのもらい物を湿気らせてしまうのも無礼である。そういうわけで、しばらく使っていなかった湯飲みを引っ張り出し、ホコリをかぶっていた急須を洗って、縁側のティータイムと洒落込んだわけである。
喉を通る熱い感触が何とも気持ちいい。昼食が脂っこい天ぷらだったので、口の中も綺麗に洗浄されているような感じであった。
「たまには日本茶もいいですね」
ほぉ、と気の抜けた息を漏らす。冬の訪れですっかり殺風景になってしまった庭。眺めていてもつまらないの一言だけれど、それが逆にお茶の温かさを引き立てているような気がした。
これは、気のせいかもしれないが。
肩の力を抜いて、また一口、緑茶の渋みを味わう。
「おや?」
屋敷の中に響き渡る、無粋な機械音。チャイムという代物らしいが、阿求はこれがあまり好きではなかった。幺樂団を楽しんでいる最中に鳴らされると、殴りつけてやりたい衝動に駆られる。
ただ、これがあるおかげで便利になった一面もあるのだ。幻想郷にいるのは若者だけではない。年輩の方にとっては、玄関で大声をあげるのも疲れるそうだ。我が家にもこれが欲しいという方は割と多い。
もっとも、慧音が河童に頼んで付けさせてもの。阿求には原理は元より、どうやって作ったのかさえ分からない。
「はーい!」
聞こえないと知りつつも、ついつい返事をしてしまう。これはもう人間の習性だろう。
阿求は湯飲みを置いて、小走りで玄関に向かった。
今日は誰かが来る予定はない。そう、予定はない。
玄関に辿り着くと、案の定のシルエットが磨りガラスの向こうに見える。白っぽい傘に、緑色の髪の毛。どことなくふわっとした衣装とくれば、もう尋ねるまでもない。
阿求は無言で鍵を掛けた。
「……ちゃんとチャイムを押して入れと言われたからそうしたんだけど。ここの家主は鍵を掛けることが歓迎だと勘違いしてるのかしら?」
「勝手にあがってきたからチャイムを押せと言ったんです。誰もチャイムを押せば入れるとは言っていません。どなたか存じ上げませんが、どうぞお帰りください」
「これはご丁寧にどうも。でも、その前に玄関の耐久性をチェックしてあげるわよ。このガラスとか、殴ったら割れそうじゃない?」
「あなたが殴れば岩だって割れます」
「失礼ね。花も恥じらう乙女なのよ」
「能力を使って恥じらわせたんでしょう」
言葉でこそ冷静にやり合っているが、戸の方はそろそろ限界かもしれない。こうして喋りながらも、突風に押されているかのように戸はガタガタと揺れている。無論、自然現象などではなく、人為的なものだ。
ただ揺らすだけなら耐えられるものの、本気で開こうとすれば鍵なんて飴細工に等しい。相手は自称でも最強を語るほどの大妖怪なのだ。氷精の自称とはレベルが違う。
「そろそろ大人しく開けないと、大工を呼ぶのだって手間じゃない?」
いよいよ口調が真剣になってきた。これ以上の刺激はさすがにまずいか。
降伏の証ともとれる、鍵を開く音が玄関に響き渡る。
「今度からはもっと素直に出迎えた方がいいわよ。客人が怒って帰ったら困るでしょ?」
「あなたに限っては帰って貰った方がありがたいです」
心底からの言葉だったが、馬の耳に念仏を聞かせてしまったようだ。いや、馬だって耳元で得たいの知れない言葉を呟かれ続けたら反応ぐらいする。馬以上か、それとも以下か。結論を出したところで、相手の性格が変わるわけでもない。
傘を畳み、静かな足取りで入ってきた女性を阿求は嫌そうな顔で出迎えた。
「こんにちは、稗田阿求。何か嫌なことでもあったのかしら」
「こんにちは、風見幽香さん。ええ、とっても嫌な事がついさっき」
何が面白かったのか。クスリと笑みを零した幽香は、許可していないのに無断で家の中へと入っていった。さすがに土足ではないものの、その態度はどこぞの黒い窃盗犯を思わせる。
せめて、お邪魔しますくらい言えばいいのに。阿求は溜息をついた。
邪魔するなら帰ってください、と言える日は来るのだろうか。来たとしても、結果は変わらないような気がした。
相手が幽香である限り。
幻想郷縁起の編纂に当たって、最も苦労したのが当人と会わねばならないという障害であった。能力や目撃報告程度なら噂で事足りるものの、詳細な情報やイラストに関しては直接会ってみないと話にならない。
伝聞だけで絵を描くわけにもいかないのだ。直接会って、見て、初めて絵にすることができるのだから。
閻魔様や死神、西行寺の亡霊との会合もなかなか難題だった。生きた人間が訪れるのことがない場所にいるのだ。会えずとも、それは不思議な話ではない。
ただ、幸いにも稗田には閻魔との伝手があった。その関係を利用して、何とか閻魔や亡霊とも会うことができたのだが。問題が最後に一つだけ残っていたのだ。
閻魔のように会いにくい場所にいるわけでもなく、レティのように極一部の季節だけ会えるわけでもないのに、おそらく最も会いにくい妖怪。いや、正確には会いたくないという方が正しい。何度も、彼女の項目だけは無視して飛ばそうかと思ったぐらいだ。
しかし、彼女は春の大結界異変に関わったとされる者の一人。その注目は大きく、抜かせば苦情が殺到することは目に見えていた。
会わねばならない。気は進まないが。
彼女の名は風見幽香と言い、太陽の畑でその姿を頻繁に目撃されている。現に阿求も、太陽の畑に関する情報を集めている最中に何度か目撃をした。遠目から見る分には害の無い気の良いお嬢様に見えるが、伝え聞いた噂を総合すると話すことすら躊躇われる。
噂を鵜呑みにするわけにもいかないが、かの大妖怪八雲紫も幽香には一目を置いていた。それだけで充分に警戒しなくてはならない。たかが自分ごときが警戒して何になるのかと疑問も沸いたが、要は山道で熊に注意するようなもの。会わないように気を付けていれば、なに、害は無い。
だが、そういうわけにもいかないのだ。会わないと。
太陽の畑は相変わらず向日葵で埋め尽くされており、黄色い花弁が眩しい。聞けば幽香は花を操る能力を持っているらしい。だとすれば、花を愛している事も容易に想像できた。なるべく向日葵を傷つけないよう気を付けながら、阿求は黙々と奥地を目指す。
どこにいるのか分からないが、大妖怪と呼ばれる存在は大概最奥にいるものである。
かくして、阿求の予想は見事に当たった。向日葵が一様に太陽を向く中で、反逆するように逆を向いている女性。間違いなく、風見幽香だ。しかし、どうやらお昼寝の真っ最中なようで。あどけない寝顔を晒しながら、小さな樹木にもたれかかっている。
どうしたものか。世の中には二種類の人間がいる。寝起きの良い奴と、悪い奴だ。生憎と阿求の情報網には、幽香がそのどちらなのかは引っかかっていなかった。プレゼントを抱きしめる手に力が入る。
今日のところはプレゼントだけ置いて、このまま帰ってしまおうかな。そんな弱気の心も俄に沸きだし始めていた。
だが、阿求にとって時間は血液よりも大切なもの。無闇に流してはいけない。
意を決し、一歩踏み出した。
途端、顔面に白亜の傘を突きつけられる。微動だにできなかった。
「人の睡眠を邪魔するなんて、感心しないわね」
僅かにずれた傘の向こうから、向日葵も萎縮するような笑顔が見える。表情だけを見れば安堵の溜息をつけるのだが、口調の端々に苛立たしさが感じられた。幽香の寝起きはそれほど良くないようだ。
何か言わないと殺される。確信に至った阿求は、とりあえず頭をさげる。
「私は稗田阿求と言います! 今日はその、風見幽香さんとお話にきました!」
「稗田阿求? ふうん、どこかで聞いたことのある名前ね」
不快感は消え去り、代わりに疑問の色が混じり始める。作戦は成功したようだ。相手が何か言う前に疑問をぶつけておけば、とりあえず考え込むので怒られない。時と場合にもよるが、この状況下では正解だったらしい。
幽香はしばらく首を捻った後で、退屈そうに欠伸をかみ殺す。考えるのに飽きたらしい。自由奔放な妖怪だ。
「私とお話したいそうだけど、どういう魂胆があるのかしら。自分で言うのもなんだけれど、私と話したいなんて正気の沙汰とは思えないわよ。特に人間が相手だと」
「実は私は幻想郷縁起の編纂に携わっていまして、それで今回の縁起に幽香さんの項目も追加しようと思うんです。だから、どうして一度お会いしたくて」
必死な口調も通用しない。傘を畳みながら肩をほぐす幽香。危険性は薄まったものの、無視されては意味がないのだ。
仕方なく、阿求はとっておきの策を使うことにした。
「あの、これお土産です。幽香さんは花の妖精と聞きましたので……」
抱えていた鉢植えを目の前に置いた。まだ発芽すらしていないものだが、迂闊に咲いたものを送って花言葉やら何やらで誤解を与えるのもまずい。あらかじめ調べておけば済む話だけど、まぁこれはこれで変わり種でいいじゃないかと里を出る時には思っていたのだ。
目尻に溜まった涙を拭い、幽香は無感動な瞳を鉢植えに向ける。やはり花の妖怪だからこそ、この手の贈り物は通用しないのか。
緊張を隠せない阿求。
「まぁ、貰える物は貰っておきましょうか。例え相手が誰であれ、物に罪は無いのだから。ねえ」
暗にお前を好いていないと言われた気がする。だが気にしてはいけない。ここで怯めば、おそらく自分はもう何も喋ることができないだろう。勢いに任せて、突っ走るしかないのだ。
「ええっと、それじゃあ幽香さん。好きなものとかありますか?」
お見合いじゃああるまいし、あまりに質問が無難すぎたか。だが幽香は馬鹿にすることなく、満面の笑みで答える。
「花は好きね」
「では嫌いものは?」
これもまた陳腐な質問だ。だが幽香は馬鹿にすることなく、満面の笑みで答える。
「花を粗末にする人間」
笑みは細部まで変わらない。ただ、纏う空気は南国から南極に急転直下だ。
阿求は怯みながら安堵していた。良かった。ここに来るまで花を粗末にしなくて。
幽香は笑っているものの、言葉の裏からは花を粗末にしたら殺すというメッセージが矢のように鋭く突き刺さってくるのだ。阿求はメモに筆を走らせながら、心の中にもメモしておく。
風見幽香。危険度極高。
「昔は小動物のように怯えて可愛かったのに、どうして今はこんなにも図太くなったのかしらねえ。人って本当に嫌だわ」
しみじみと言う。律儀に正座してくれるのはありがたいが、口から出てくる言葉が自分に対する愚痴なのだから、素直に感謝するわけにもいかない。
「どこかの妖怪が発行後も毎日訪れては口撃してくれたので、望まずとも自然に鍛えられていたんですよ」
「あら、それはまあ随分と親切な妖怪もいたものね。きっと向日葵のように素敵な妖怪なんでしょう。一度、お会いしてみたいわ」
「鏡なら洗面所にありますよ」
居間に上がり込んだ幽香は、いつもの如く、自分が主であるかのように上座に腰を下ろした。別段、上座だの下座だのに拘るつもりはないが、そうも堂々と座られると文句の一つも言いたくなる。言ったことはないが。
それよりも言いたい事が山ほどあるのだ。
出された湯飲みに口をつけ、「茶葉は一級、腕は五級ね」などと不満を零す。隙あらば因縁をつけてくるあたり、外の世界で言うクレーマーに近いのかもしれない。どんな職業かは知らないが、お客様窓口の職人に同情を覚える。
「でもまあ、あなたがこうして生きている事は素直に驚いているわよ」
「えっ、私いつそんなに危ない橋を渡ったんですか」
「会った時。私にプレゼントをしたでしょう。あれが鉢植えだったから良かったものの、花束なんて渡してたら殺してたわね。間違いなく」
なんという。人生最大の危機は己の知らぬ間に訪れ、そして知らぬ間に去っていったらしい。
「花束なんてのは、要するに死骸の寄せ集めですもの。そんなものを送られて怒るならまだしも、喜ぶ阿呆なんていないわよね」
言われてみれば、最もな話である。阿求とて、動物を送られるならまだしも、動物の死骸を送られて喜ぶ道理はない。
ならハムや刺身はどうなのかという声が自らの内から沸いてきた。それはまた、別の話である。
「生きている事を誇ってもいいのよ。あなたが乗り越えた薄氷は、そんなに分厚いものじゃないんだから」
褒めているつもりかもしれないが嬉しい気はしない。幽香は薄氷の下で眠る極寒の海なのだから。
「そして生きる者には、成すべき役目というものがある。本題を話すわよ」
長い前説だった。
阿求は溜息を漏らし、口を開く。
「駄目です」
「……まだ何も言ってないわよ」
「言わなくとも分かります。あなたが何日ここに訪れ、何回同じ事を繰り返したと思っているんですか。鳥頭だっていい加減覚えますよ」
「鳥頭だったら良いんだけどね……」
馬鹿にされた気がする。
「覚えているからといって、要求を呑むわけではありません。幽香さんの項目に関しては、加筆することはあっても変更するこは無いです。今日は明日も変わらず極高最悪ですので、お出口はあちらになります」
「庭にラフレシアが咲いていたら素敵だと思わない?」
「脅しには屈しません」
「ラブレシアが咲いてるかもしれないわよ」
脅しだろうか?
そもそもラブレシアとは何だろう。
「ラブレシアの香りには人間を興奮させる成分が入っていて、愛し合う二人を結ぶと言われているのよ」
愛し合っているのなら結ばれるのは当然の結果ではないのか。
そう思ったが、これ以上ラブレシアで話を広げるわけにもいかない。阿求としては架空の植物談義で貴重な午後を潰したくなかった。だからといって、大人しく帰ってくれる幽香ではないのだが。
「強情が過ぎるわね、あなた。たかが四文字を入れ替えるだけで私は満足するのに、どうして聞き入れてくれないのかしら」
「その四文字が重要だから譲れないだけです。例えば風見幽香の四文字を入れ替えるとしたら、あなただって反対するでしょう?」
「それはそうだけど、でもね稗田阿⑨」
名前を呼ばれただけなのに、何故か不快感を覚えた。
「いま、私のこと馬鹿にしませんでしたか?」
「文字に直してないのによく分かるわね。さすがは稗田むきゅーと言ったところかしら」
「それは文字に直さなくても分かりますし、やっぱり馬鹿にしてますねこんちくしょう」
幽香は愉しそうに笑った。
「まったく、陶器のような娘ね」
「陶器?」
「打てば響くということよ」
ご覧なさいとばかりに、叩かれる湯飲み。見事に割れた。
破片を握りしめながら、寂しげな瞳で幽香は語る。
「短命というのは悲しいわね。そう思うでしょ、稗田」
「いえ、さすがに湯飲みと同列に扱われるのは不本意なんですが」
それにそもそも、その湯飲みを葬ったのは幽香である。阿求を葬ったのが幽香ならまだ筋は通るものの、そんな筋は取り除いてゴミ箱にでも捨てて貰いたい。
「あの、もうそろそろ帰って貰えませんか? ウチには予備の湯飲みもないんで」
「私は別にティーカップでも構わないわよ」
「私は構うんです」
「じゃあ要求を呑んだらどうかしら。そうすればもう、私がここに来る用事はなくなる。それはとても素敵な事だと思うんだけど?」
「ええ、確かに。とても素敵な提案ですけど、私の返事は未来永劫変わる事はありません。断ります」
「そう……」
端から諦めていたように、幽香は軽く呟いて、握りしめていた破片を庭へ放った。せめてゴミ箱へ入れてくれたら良かったものの、風になってしまった後だ。何を言っても遅い。
「庭にラフレシアが咲いていたら素敵だと思わない?」
話がループした。
ここだけ時間が歪んでいるのだろうか。だとしたら紅魔館のメイドを呼んで、修復して貰わないと。阿求が軽い現時逃避で夢中になっていると、不意に庭へ誰かが降りる気配がする。
察知していたのか幽香は動ずることもなく、阿求は呆けた顔で庭へ視線へ向けた。
強風でもなく、さりとて微風でもない穏やかな風。土埃が目に入っていけないと、ちょっとだけ目を細める阿求。僅かに逸らした顔を再び庭に向けると、見慣れた妖怪が岩の上に高下駄を降ろしていた。
「これはこれは、随分と珍しい顔が揃っているようで。とりあえず幽香さん、その傘降ろしてはくれませんかね?」
「ごめんなさい、反射なの」
いきなり現れた文にも驚くが、いつのまにか傘を開いていた幽香にも驚きを隠せない。こういうのを見せられると、改めて自分がただの人間なのだと認識できる。それはとても大事なことだ。人間と妖怪は種族からして違うのだから、同じように考えているといつか痛い目をみる。
例外なのは巫女とか魔法使いとかメイドぐらいで、阿求は転生ができるただの人なのだ。いや、転生できる人をただの人と言うのかどうかはさておき。
「反射だとしても、それを向けられるのはあまり気持ちのいいものじゃありませんねえ。寿命が縮んだかと思いましたよ」
射命丸文も一見すればただの少女だが、その実は幻想郷でも最強の部類に入る天狗なのである。そしてブン屋。阿求としては天狗という種族よりも、ブン屋という職業の方が恐ろしい。もしも正常に機能したのなら、幻想郷縁起などただの遺物になってしまう。
実際の所、阿一の頃の縁起は既に遺物と化しているが、現在進行形でそうなるのは望ましくない。そういったわけで、阿求はついつい文に向ける視線が険しいものになってしまうのだ。
文も何となく理解しているのか、言及してきたことはないが。
「今日お邪魔したのは他でもありません。少しばかり面倒なことがありまして、それで阿求さんの所へ警告をばと。一応は半獣のところにも警告したんですけどね、まぁ念には念をと言うことで一つ」
「やましいことがある証拠ね。いつもよりお喋りじゃない」
「あやややや。気を付けてはいたんですけど」
気まずそうに頬をかく。指摘した幽香はしてやったりと言う顔で、お茶を飲もうとして手の中が空なことを思い出したらしい。相づちを打ちかけたような姿勢で固まっている。
「まぁ、いわば身内の不祥事ですから本当は極秘にしておきたかったんですけど。人間を巻き込んでいるとなれば、黙っているわけにもいかないので」
そしてわざわざ自分のところに来たという事は、少なくとも阿求に関係しているのだろう。慧音や霊夢にならともかく、阿求は一介の文士に過ぎない。何か事件があったとして、相談しに来るはずもないのだ。
どちらかといえば、事が終わって阿求が話を聞きに行く。その逆はあり得ない。
だがそれがあり得てしまったというのなら、自分に関わっているとしか思えなかった。
「ウチもなかなか一枚岩ではないもので、中には危険思想を持った輩もいるわけです。それでこの度ですね、その天狗共が山を脱走しまして、行方がわからないんですよ」
「それと私に何か関係でも?」
縁側に腰を降ろした文は、急に躊躇いの表情を見せる。言ってもいいのかどうか、判断しかねているようだ。ここまできて隠す必要もないと思うが、天狗には天狗の事情があるのだろう。阿求は黙り、文が喋ってくれるのを待つ。
「どういうわけかですね、その天狗達ってのは幻想郷の知識人を狙っているらしいんですよ。紅魔館の魔女、里の守護者、永遠亭の薬師、人形遣い、そしてあなた。稗田阿求」
「知識人と言われるほど知識があるわけではないのですが、それは妙な話ですね。そもそも、その天狗達はどういう風に危険なのですか?」
「誇大妄想が過ぎるというか、要するに幻想郷を天狗が乗っ取ってしまおうとか考えてるわけです。いやはや、考えるだけなら無害なんですけどねえ。それを実行に移すとなると、我々他の天狗にも迷惑が掛かるわけです。鬼とかスキマ妖怪とか、ちょっと考えれば適いそうにない方達ばかりなんですけどねえ」
阿求は不意に幽香の方を見た。滑稽なものを笑うように、侮蔑の籠もった笑みを浮かべている。乗っ取る為には彼女も倒さないといけないわけで、なるほど確かに危険思想だ。
「うーん、しかしそれと知識人を狙うというのは関連性が無いように思えますが」
「捨てられていた資料を回収したところ、知識人に目処をつけているようでしたので狙われていると思ったんですが。確かにそうなんですよねえ。知識人の方をどうこうしたところで、幻想郷を乗っ取れるわけでもないですし」
難しい顔の文。一方の幽香は涼しい顔だが、おそらく何も考えていない為であろう。自称とはいえ、最強の妖怪は楽でいい。
「まぁとりあえず、警戒だけはしておいてくださいということで。私らも奴らを捜し続けますから、何かまた分かったからお伝えに来ますね」
警戒しろと言われても、天狗相手に何が出来るのか。せいぜい、夜は戸締まりを心がけるぐらいだろう。それも、天狗に通用するとは思えないが。
阿求は頷き、文は「それでは、また」と言い残して颯爽と空へ帰っていった。忙しい天狗である。
「じゃあ、話を戻しましょうか」
何事も無かったかのように振る舞う幽香。どうやら、阿求もまだまだ暇にはなれないようだ。
夕刻ともなり、ようやく幽香が帰ってくれた後。阿求は資料の整理をしたり、読書に没頭したりして、その日はつづがなく一日を終えた。だから目を覚ましたのは翌日のことだ。
文から聞いた話を忘れたわけではなかったが、あの程度ではまだ実感が沸かなかったのだ。それに鍵はちゃんと閉めていた。油断していたというよりは、やはり警戒するだけ無駄だったという方が正しい。
目を覚ました阿求を出向けたのは見慣れた天井ではなく、見覚えのない薄汚れた天井だった。基礎がしっかりしていないのか、ところどころに隙間が見える。雨が降ったら、間違いなく屋根として機能してくれないだろう。
阿求は身を起こそうとして、思うように自分の身体が動かないことに気が付く。立とうとしても、上手く立ち上がることができない。これでは、まるで手足を縛られたまま横になっているようなものだ。阿求は手足を確認した。
手足を縛られて横になっていた。
それも見窄らしい小屋の中で。
理解できない状況だった。阿求は芋虫のように悶えるも、縄は鎖のようにがっちり固定されている。歯で噛みきってやろうかと思いもしたが、生憎とそこまで身体は柔らかくなかった。
諦めて、阿求は現状把握に勤しむ。といっても、横たわった状態で分かることなどたかが知れている。ここはおそらく、どこぞの小屋で、自分は縄で縛られ閉じこめられている。窓から差し込む光を察するに、どうやら今は昼前のようだ。随分と寝てしまった
改めて確認したが、やっぱり絶望的で意味不明だ。
「どうしましょう」
呟いても状況は変わらない。それでも呟かずにいられないのは人間の性か。それとも自分は意外と孤独が苦手だったのか。後者の場合は色々と今後の生活に影響を及ぼしそうで怖い。
今後の生活について真剣に悩んでいると、いきなり扉が開いた。中へ入ってきたのは、三人の男達。顔に見覚えはない。
「どうやらお目覚めのようだな」
うわぁ。聞こえない程度に阿求は声を漏らした。まさか生きているうちに、こんな陳腐な台詞を聞くことができるだなんて。
何も言わない阿求を怯えていると勘違いしたのか、ほお骨がこけた骸骨のような顔の男が得意げに話を続ける。
「あんたには悪いが、大人しく言うことを聞いてくれたら痛い目には遭わさねえ。ただし、反抗するようならどうなるか分からないぜ。俺たちは紳士じゃねえんだ」
馬鹿にしたような口調だ。しかしその内容は馬鹿っぽい。放っておいたら状況も喋ってくれそうな気がしたので、阿求は尚も沈黙を貫いた。
「なに、要求はそれほど難しい話じゃない。ただちょっと、あんたの知識を借りたいだけだ」
知識という単語で、この状況もある程度見えてきた。なるほど。目の前の男共が、例の危険な天狗達か。
ならばちょうど良いと、沈黙を破って阿求は疑問をぶつける。
「何を知りたいと言うのですか」
「話が早くて助かるぜ。俺たちはな、この幻想郷にいる妖怪共の弱点を知りたいのさ」
浅薄な考えだ。阿求は思わず目蓋を閉じた
幻想郷を乗っ取りたい男達が、妖怪共の弱点を訊く。何に使うのか丸わかりだ。
だが、例え弱点を知ったところで目の前の天狗共が幻想郷を乗っ取ることはあるまい。運命を操る吸血鬼でなくとも、この程度の未来予測なら出来る。無論、弱点を知ることで葬れる妖怪もいよう。阿求ならともかく、一応は天狗なのだ。妖精や未熟な妖怪ならば倒すことも、さして難しいことではあるまい。
大妖怪が相手ならば話は別だ。彼女、あるいは彼らには弱点というものが確かにある。あるのだけれど、弱点を無防備に晒している馬鹿ではない。逆に弱点だからこそ、そこを重点的に守っているのだ。金の在処がわかったところで、それが堅牢な金庫の中では手が出せないように、大妖怪の弱点など知っていても無用の長物でしかない。
問題があるとすれば、そんな事を天狗達が理解してくれるはずもないということ。説明されて納得するのであれば、最初からこんな行動をとらない。いっそ教えてしまうのも手かと思ったが、
「おい!」
顎のあたりを鋭い痛みが襲う。首も痛い。抵抗することなく蹴られるというのが、こんなにも痛いものだとは思わなかった。
目蓋を開いた阿求が見上げる先には、不機嫌そうな天狗の顔がある。
「なんだ、寝ちまったのかと思っちまったぜ。おかげで不必要な暴力を振るっちまったじゃねえか。おい」
「へえ」
骸骨のような天狗は、隣にいた大柄な天狗を呼ぶ。大柄な天狗は慌てて小屋から出て行き、桶を持って帰ってきた。それを受け取った骸骨のような天狗は、嫌らしい笑みを浮かべながら阿求に中の水をぶちまける。
季節は冬も本番。ただでさえ地面の冷たさに辟易していたというのに、ここで更に冷水だ。震えないわけがない。壊れたクルミ割り人形のように歯を鳴らし、体温を求めて身体は小刻みに震える。
「これで目が覚めただろ。それで、返事を聞かせて貰おうか。あんただって、早く解放されたいだろ。うん?」
そう言いながら、骸骨のような天狗の手に二杯目の桶が渡される。断ればかけるぞと、言外に脅されているようだ。
震えながら阿求は考え、紫に変色し始めた唇を開く。
「妖怪の中には、私を信頼して弱点を教えてくれた方々もいます。私はそれを幻想郷縁起に載せるつもりもありませんし、ましてやあなた方のような無知蒙昧で無謀と蛮勇を足してそのまま形にしたような連中に教えるわけにはいきません」
「そうかよっ!」
二杯目の冷水が身体を襲った。水垢離だと思えばまだ耐えられる。身体の体温は一気に下がっていくものの、心の内は静かに熱く燃えたぎり始めていた。
固く唇を結ぶ阿求。
そんな彼女の決意をコケにするように、骸骨の男は阿求の顔を踏みつけた。
「なあ、頼むぜ。俺たちはただでさえ他の天狗に目をつけられてんだ。こんなところで時間をくってるわけにもいかないんだよ。この通りだ、教えろ」
横柄な態度に合わせるかのように、踏みつける力も増していく。固定されているせいか、頭の震えだけは止まっていた。代わりに、頭蓋骨が軋むような感覚を覚える。
「どうせ殺されはしないんだろ、って思ってるだろ。ああ、確かに正解だ。あんたが吐くまで殺すわけにはいかない。ただしな、俺たちとしては別にあんたが喋る口と考える脳さえあればいいんだよ。邪魔な足や手は切っても構わないんだぜ?」
まるで楽しむかのように、骸骨の天狗は阿求を見下す。確かに天狗共が阿求を殺すことはできないだろう。だが、それは阿求が弱点を知っているから。一度吐いてしまえば、間違いなく天狗は阿求を殺す。
それがわかっていることもあるし、妖怪からの信頼を裏切るわけにもいかない。例え四肢を切られようとも、吐くわけにはいかないのだ。
ああ、と溜息を漏らす。
一体、自分はいつからこれだけ強くなったのだろう。昔の自分だったら、きっと水をかけられた時点で泣きながら全て喋っていただろうに。
阿求の脳裏に、おぞましい笑顔を浮かべる大妖怪の姿が浮かんだ。
ごく普通に歩いているだけだったにも関わらず、道ばたの木々が揺れ動く。
幽香は立ち止まり、何気ない動作で首を上げた。葉の一つもない木の上で渡り鳥のごとく、一匹の烏天狗が羽を羽を休めていた。
「こんにちは、また会いましたね風見幽香さん」
「取材ならお断りよ。世間話なら、一昨日来なさい」
「それはメイドでも無理ですよ」
「あら、世間話に来たの?」
「いえいえ、それは言葉の綾です」
ギャグのつもりかしら。だとしたら寒いので何も言わないでおこう。幽香は文を視線から外し、再び歩き始める。
「ちょ、ちょっと待ってください幽香さん! 大スクープ! 大スクープがあるんですよ!」
「だったら私に教えるよりも、とっとと刷ってしまったらどうかしら」
「阿求さんに関することですよ」
ちょうど阿求の家に向かっているところだった。その阿求に関することだと言う。幽香は立ち止まった。いつのまにか木々から降りていた文は、取材するかのように幽香の横にやってくる。
「実はですね、阿求さん誘拐されたらしいんですよ。昨日言った天狗達に」
昨日のと言われても、幽香は文と阿求の会話を殆ど聞き流していた。だから、さも驚けとばかりに言われても、それは到底無理なことだ。へえ、と無感動に幽香は答える。
「……驚いたり、慌てたり、心配したりしないんですか?」
「親友でもないし、家族でもないし、恋人でもない。そんな相手を心配する謂われなんてあるのかしら?」
「いやまあ、それは無いですけど。でも随分と阿求さんとは親しくしていたそうじゃないですか?」
「ええ。文句を言う側と言われる側。それはもう日夜熱い戦いを繰り広げていたわよ」
「………………………」
当然の事を言ったつもりだが、何故か文は困ったような顔で黙りこくる。期待していた反応や言葉を得られなかったせいだろう。だが、わざわざ天狗の喜ぶような反応を見せる幽香ではなかった。
再び、歩を進める。今度は文も、ピッタリと真横についてきていた。
「あのー阿求さんを助けたりしないんですか?」
「どうして? 助けるなら私よりあなたが行けばいいじゃない。身内の不祥事なんでしょ」
「そうですけど、あの大妖怪が稗田を救助! 誘拐劇の裏に隠された驚きの陰謀と決死の救出劇!! なんて良い見出しになると思いません?」
阿求の安全より明日の記事。責められるべき妖怪がいるとすれば、それはきっと幽香ではなく文のことだ。
「みすみすあなたを喜ばせる気はないわ。それに、そもそも人間を救出とか私の柄じゃないわよ。死ぬなら勝手に死ねばいいわ。どうなろうと、私の知ったことではないもの」
「冷たいですね……」
「あなたには言われたくないわよ」
傘をクルリと一回転させ、試しに天狗を追い払ってみる。平気な顔をして横を歩いていた。
「仕方ありませんね。でも、だとしたら幽香さんはどこに向かってるんですか?」
「決まってるでしょ。稗田の家よ」
文は素っ頓狂な声をあげた。
「はぁ? だって阿求さんは誘拐されてるんですよ! 家に行ったって誰もいないじゃないですか!」
そんな事は話を聞いた時点で分かっている。無論、引っ込みがつかないから向かっているわけではない。
しばらく驚いていた文は、いきなりしたり顔で顎に手をのせた。何を考えているのか、丸わかりの顔だ。
「言っておくけど、そう言いながら救出へって展開は期待しない方が良いわよ。私、そういう話が死ぬほど嫌いなの。やるぐらいなら舌噛みきって死ぬわ」
案の定か。文の顔が沈んだものへ変わる。
「颯爽と現れて囚われの姫を助けるなんて猿芝居、どこぞの巫女にでもやらせておけばいいのよ。私の出る幕じゃないわ。もっとも……」
里が見えてきた。幽香は足取りを弱めることなく、いつも通りの歩調で進む。
「姫にナイフを手渡すことぐらいなら、するかもしれないけどね」
意味がわからないと、文が隣で首を傾げる。
それでいい。姫に手渡すナイフがあるとすれば、それはきっと魔法がかかった張りぼてなナイフなのだから。
誰かに見破られては魔法が解ける。
ふっ、と幽香は笑みを殺した。
随分と、ロマンチックな事を言うようになった。そんな自分に呆れながら、姫に厳しい魔法使いが里の中へと入っていった。
何度、水をかけられただろう。
何度、顔を踏みつけられただろう。
数えるのも面倒なほど、その二つを繰り返してきた。
人とは偉大なもので、単調なその繰り返しはいつの間にか阿求の身体に慣れという抗体を作っていた。あるいは単に神経が寒さの為に麻痺していたのかもしれない。どちらにせよ、痛みを感じないというのはありがたかった。
だが、それに反比例するように骸骨の男の苛立ちは増していく。人間如き、簡単に口を割らせられると自負していたのだろう。今や焦っているのは責めている天狗達の方だった。
「くそっ、どんな神経してやがんだこいつはよぉ!」
苛立ちをぶつけるように、桶を蹴飛ばす。脆かった桶は役目を終えたとばかりに破壊され、無惨な残骸を地面に晒した。
「おい、斧もってこい!」
「え、いや、でもそれは……」
口ごもる大柄の天狗の尻を、骸骨の天狗が蹴飛ばした。
「うるせえ! こうなったら本当に腕の一本でも切り落としてやる! こいつから弱点を聞き出さないと俺たちの計画はパーになるんだよ! わかってんだろ、だからとっとと持ってこい!」
半ばけり出されるように、大柄な天狗が小屋から出て行く。ちなみに三人目の小柄な天狗はずっと窓から外を見ていた。見張り役らしい。阿求は微妙に体勢を動かし、窓から空を見上げた。
外の景色を見る限り、ここは里から少し離れたところにあるらしい。大声を出したところで、聞こえはしないだろう。
阿求はしばらく空を眺め、もう少しだけ時間が必要だと悟った。
「弱点を……聞き出して……」
「あぁ?」
「弱点を聞いて、どうするんです?」
絞り出すように質問を投げかける。答えてくれるかは半々だったが、どうやら天狗は思ったより喋るのが好きなようだ。尚も見下したままの体勢で、自慢げに語り始めた。
「決まってんだろ。その弱点を上手く使って、他の妖怪共をぶっ潰す。そうして、俺たちが幻想郷の覇者になるんだよ。巫女も大妖怪共も、俺に頭を下げる世界がやってくるんだ!」
誇大妄想ここに極まり。耳が腐りそうな計画ではあるが、時間を稼ぐにはちょうど良い。 仕方なく、阿求は話に乗ってやった。
「ですが、天狗は今でも、結構な力を持っている、はずです」
「あんな程度で満足してる他の天狗と一緒にするなよ。俺はなぁ、もっと上を見てるんだ。天狗なんて小せえ枠で収まるはずねえ。井の中の蛙で終わる気なんて、さらさらねえんだよ!」
さて、この天狗はその先を知っているのか。おそらく知らないだろう。
井の中の蛙、大海を知らず。海を知らぬ蛙が井を飛びだして、どうなってしまうのか。
阿求にはわからないし、末路に付きあう気も全くなかった。
「確かに俺は空を早く飛ぶこともできねえ! 新聞作りが優れているわけでもねえ! 戦闘力だって誇るほどあるわけでもねえ! でもな、だからって下の方で燻ってるのは性に合わないんだよ!」
「劣等感ゆえに、ですか」
「ああ!?」
聞こえてしまったのか、骸骨の天狗がかつてない鋭い殺気をぶつけてくる。窓の外では、ちょうど良い位置に太陽が昇っていた。
やるしかないか。
「劣等感に苛まれず、上を目指すのは悪いことではありません。弱点を突こうとするのも、弱き者が勝とうとするなら当然考えなくてはいけない部分。盲目的すぎるところは愚かしいの一言ですが、あなたのその上昇志向はそれほど嫌いでもありません」
「てめぇ、急に何言ってんだ」
「ですが、私を巻き込んだ事に私は納得していない。弱点を突くのであれば、それは自分で探すべきだったのです。私を巻き込んでしまった以上、当然のことながら私は反抗しなくてはいけない。腕が無ければ編纂もできないし、足がなければ茶葉を買いに行くこともできない」
骸骨の天狗が言った事は、阿求とて共感できる部分があった。
阿求は空を飛ぶことができない。阿求は格闘に優れているわけでもない。唯一、誇れることがあるとすれば、この優れた記憶力だけ。
そしてもう一つ。
「弱点が聞きたかったんですよね。教えてあげましょうか、八王さん」
「とうとう教える気になっ……待て、お前どこで俺の名前を聞いた」
幻想郷縁起を作る際に、どうしても必要となったことがある。天狗にも負けない情報網の構築だ。さすがに全ての情報に目や耳を向けているわけでもないので、この襲撃を予知することはできなかったが。それでも、念のために首謀者の弱点ぐらいは調べてあった。
「八王さんには好きな天狗がいる。その天狗の前で大妖怪を倒したい、という魂胆もあったのではないですか?」
「お前……」
「沼田さんには妹さんがいますね。そして左京さんは死んだ父親の墓を何よりも大事に思っている」
斧を持ってきた大柄な天狗は、沼田という自分の名前と弱点を晒され顔面を蒼白に変える。外を見ていた左京という小柄な天狗は、驚愕の顔でこちらを振り向いた。
「これがあなた方の知りたかった弱点です」
「ば、馬鹿野郎! そりゃあ俺たちの弱点じゃねぇか!」
「そうですよ。でも、これも弱点であることに代わりはないでしょう?」
さも当然と言い放つ阿求。気圧されたように、八王は後ずさる。そんな自分に嫌悪感を覚えたのか、頭を振り、己を奮い立たせるように声を荒げた。
「だがよ、弱点を知ってるところでお前にはどうすることもできないだろ!」
もっともである。いくら相手の弱点が判明しているからといって、両手両足を縛られた状態では意味がない。だが、元々この情報には大して意味がない。どんな弱点であれ、どうせ阿求には攻撃することができないのだ。
大切なのは、阿求が弱点を知っているということ。
「勿論、この状況では弱点なんて何の意味もありません。ですが、何もこれは私だけが知っている情報ではないんですよ」
「何?」
「あらかじめ、私は密に連絡をとっている妖怪にこのことを教えてあります。彼女は日に一度、私の無事を確かめに家へやってくる。そして、もしも私が何の書き置きもせずに不在にしていたら、その弱点を活用するよう頼んでいるのです」
活用という辺りで、三人の顔色が一気に悪くなった。
それでも八王だけは、何とか気丈に振る舞おうとしている。
「はんっ、どうせそんなもんは口からの出任せだろ!」
「嘘だと思うのなら、窓から外を見てみたらどうです。私の家に妖怪が向かっているのが見えるはずでしょ」
八王は阿求に疑いの眼差しを向けながら、左京に「おい」と指示を送る。窓から身を乗り出すように、阿求の家がある方へ視線を向ける左京。
「見えた。誰がいるぞ」
「誰だ?」
「……か、風見幽香だ」
水を浴びせられたわけでもないのに、左京の声は震えていた。
「馬鹿な! 風見幽香が人と連むわけねえだろ!」
「しかし、奴は本当にこの女の家に向かっている」
「嘘だろ……おい」
風見幽香の活用ともなれば、それはもう想像している惨劇の五倍は酷いものとなろう。実際はどうか知らないが、妖怪の間でも彼女の印象は悪魔より残虐な風に捉えられている。
そのせいか、三人の天狗達の態度が一変した。沼田が両手両足の縄をほどき、八王と左京が地面に額をこすりつける。
「頼む! 頼むからあの女を止めてくれ!」
「俺からも頼む」
縄を解いた沼田も、その土下座の列に加わった。
「後生だから、せめて妹の命だけ助けてくれ!」
元々、ただ家に帰りたいだけだった。彼らを屈服させたいわけでもないので、この土下座は正直言って据わりが悪い。阿求は複雑な表情を浮かべながら、とりあえず今後の為に釘を刺しておく。
「わかりました。私の方から彼女によく言っておきますけど、今後は二度とこのような事を起こさないように。さすがの私も、二度彼女を止める事は出来ませんから」
「はいっ!」
これが誘拐犯かと思うぐらい、素直で気持ちの良い返事だった。これなら、いくら彼らとて二度と阿求に手を出そうとは思うまい。
冷える身体を押さえながら、そそくさと阿求は小屋を出て行こうとする。
去り際、振り返って八王に言った。
「射命丸さんとうまくいけば良いですね」
解放されたからといって、水浸しの身体が乾くわけでもなく、踏みつけられた顔の痛みがひくわけでもなし。
走れば風で凍えそうになるので、やむなく徒歩で自宅に戻る阿求。痛む顔を押さえながら、風よ吹くなと祈りながら帰宅してみれば、いつもと変わらぬ様子の女性が玄関前に立っていた。勝手に入っていないあたりは、やっぱり評価すべきなのだろうか。
幽香は阿求に気付き、傘を傾け、優雅な微笑みを向けてくる。
「こんにちは、稗田阿求。寒中水泳は楽しかったかしら?」
「こんにちは、風見幽香。ええ、顔が痛くなるぐらい」
彼女が律儀に今日も来てくれたおかげで、阿求は助かることが出来た。その点には礼を述べるべきかもしれないが、単に日課だからやってきた可能性も高い。
大方、文から事情を聞いて全て知っているのだろう。それでも助けに来なかったあたりは何とも彼女らしい。
ただ、ナイフだけは与えてくれた。どう使うかは自由にしろ、といった感じの放任的な渡し方ではあったが。それでも、渡してくれた事実は変わらない。人質がナイフを持っていないと思っていた天狗は、幽香という名のナイフに怯んで素直に降伏してくれた。もしも絡繰りに気付いて、幽香が阿求を助ける気がないのだとわかったら、今頃ここには居られなかっただろう。
そういった意味では、やはり幽香は張りぼてのナイフだ。ただし、その下には本物以上に鋭く尖ったナイフが潜んでいる。
なんとも、厄介で扱い辛い妖怪である。
阿求は溜息をついた。
「それで、今日はどういったご用件で?」
わかっているのに、尋ねる。
幽香は笑顔で、いつもと変わらぬ言葉を口にした。
「幻想郷縁起のことで、文句をいいに」
断りを入れようかと思ったが、その前にやるべき事がある。
「とりあえず、着替えてから話しましょう。さすがにこれ以上は風邪をひきます」
「構わないわよ。さぁ、どうぞ」
「私の家です」
軽い応酬を楽しみながら、震える手で鍵を開ける阿求。そこで思い立ったように、不意に振り返った。
少し驚いた顔の幽香がいた。
「先に言っておきます」
対抗するように、阿求も笑顔を浮かべる。
「駄目です」
もし二人の関係を表す言葉があるとすれば、それほどピッタリの言葉もあるまい。
口の端を歪める幽香を見ながら、阿求はそんな事を思った。
張りぼてのナイフは今日も、形の合わないケースのところにいた。
天狗に捕まったのあたりの緊迫感がもっと欲しかったです
幻想郷の少女達は逞しいなまったく。
4文字が何なのかがわからない。
気になって夜しか寝られません。
幽香と阿求のなんともいえない微妙な雰囲気とか。
あと、誤字とか脱字を発見したのですが
読んでいるうちにどこにあるのか忘れてしまいました。(汗)
申し訳ない。
誤字ですが、幽香の台詞の“私にプレゼンとをしたでしょう。”は“私にプレゼントをしたでしょう。”ではないでしょうか。
ゆうかりんはやっぱりこうでないとな。
花も恥じらう乙女の掛け合いのところは上手いなって感心してしまいました。
安易に人間を助けない幽香にしびれました
もっと素晴らしい何かだぜ…
単純に暴れさせない幽香の扱い方に、清々しさすら感じた。
掛け合いのセンスに脱帽です。
東方求聞史記の人物紹介欄のステータス
危険度:○○
人間友好度:●●
の件の説明が無いので、読んでない人には判らないのが残念。
判らなかった人は、今すぐ買って45ページ目を開くんだ!
意外と深い言葉だと思うんです。どちらかが、譲(けずれ)れば上手くいくんでしょうけど、それをする気はどちらもない。いや、むしろ望んでいないのでしょう。
しかし、4文字? 激高最悪も当てはまるっちゃ、当てはまりますが、彼女が友好的で危険度が低いかと言うと……。
そもそも、あんまり気にしなさそうというか、人間如きの評価を彼女が気にするかどうか……。
いや、逆に考えて、
危険度:最強
人間友好度:皆無
とか、無茶を要求してそうww
まぁ、阿求を虐めに行くのを楽しんでるんでしょうね。
でも、確かに最悪ではないと思います。
文章の作りがうまいと感じました。
自分もそのうちこのような小説をつくってみたいです。
特に阿求が腕力はなくとも天狗たちに立ち向かうのが格好いい。
幻想郷縁起の著者たるものこのくらい肝が据わってないといけないんでしょうかね。