状況はひどいものだった。
僕は土砂降りの雨の中、傘も持たずに森の中を彷徨っている。
周囲には濃い靄がかかり、視界がほとんど利かない。
もはや方向感覚もなくなり、僕は森の中でただ途方にくれていた。
なぜこんなことになってしまったのか、僕自身にもわからない。
いつものように野良仕事から帰る途中、僕は見たこともないほどに濃い靄に包まれた。
そう、今僕の周囲を取り囲んでいる、この靄だ。
不思議なことに、この靄は薄く紅色がかっているようにも見えた。
幻想的な雰囲気の靄は、僕の現実感を少しずつ奪っていく。
慣れ親しんだはずの帰り道。
しかしそれは、周囲の靄のせいで普段とはまったく違った様相を構えていた。
足元がひどくぬかるんだ道を通った。沼地かもしれない。
長い間水に浸かっていた、田んぼの泥のような土の感触。
それが終わると、僕はいつの間にか森の中を歩いていた。
気温が急に下がり始め、ついに空が泣き出した。
泣きたいのは僕のほうだ。
そうして僕は、知りもしない森の中で、傘も持たずに雨に打たれているのである。
体が随分と冷えてきた。
体の震えが止まらない。
このままでは風邪を引いてしまう。
いや、それどころか、
僕は無事に我が家へたどり着くことができるのだろうか。
道を聞こうにも、周囲には人影どころか家の一つもない。
それはそうだ。
こんな鬱蒼とした森の中、住居を構える物好きなどそうはおるまい。
ああ、僕はこのまま森の中で野垂れ死んでしまうのだろうか。
木々の間、ぼんやりと明かりのようなものが見えた。
まさか、人がいるのか?
明かりは僕の正面の方向、靄を通して薄ぼんやりと紅色に輝いている。
僕は藁にも縋る思いで、その明かりの方向を目指した。
* * *
明かりの先には、大きな門が聳え立っていた。
門から続く塀は遥かに長く、靄の向こうへと霞んで消えている。
こんなところに館が立っているとは。
もはや館ではなく、城と言っても過言ではないほどの土地の広さ。
門は天を突き上げるかのごとく突き立ち、中にある建物は微かにも目にすることは出来ない。
一体どれほどに立派な館なのだろうか。
そしてなぜ、こんな辺鄙なところに建っているのだろうか。
僕はふと思い出した。
僕の村に伝わる、怪談のような話である。
僕の村のすぐ近くにある、大きな湖。
湖にはいつも霧がかかり、湖の向こうに何があるのかを知るものは居ない。
ただ、噂には流れている。
湖の向こうの森の中。
紅に染まった館の噂。
そこには人外の妖物ばかりが住み着き、
そこに招かれし者は、魔に魅入られ闇に飲まれるという。
その館を、村の人々は畏れの対象としてこう呼ぶのだ。
紅に染まりし魔の館『紅魔館』と。
まさか、ここがその紅魔館なのでは・・・?
僕は一瞬そう考えたが、すぐにそれはありえないと頭を振った。
仮にその紅魔館の噂が本当ならば、紅魔館は湖の真ん中の小島に建っているはずなのだ。
歩いているだけで迷い込めるような場所ではない。
もしここが本当に紅魔館だとしたら、僕は知らぬ間に湖の底を歩いてきたとでもいうのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
そんなことより、あの館の人に道を尋ねよう。
どの道このまま雨に打たれているわけにはいかないのだ。
僕が館の門の前に立つと、その門がどれほど大きな物なのかが容易に実感できた。
両手を広げた僕が三人並んでも、まだ門の横幅のほうが広いのではないだろうか。
僕が呆気に取られてぼんやりと門を見上げていると、唐突に僕のすぐ後ろに気配が湧いた。
「この館になにか御用でも?」
背後から突然声を掛けられ、僕の心臓は喉元まで跳ね上がった。
驚きのあまり、僕は後方に飛び上がって門に頭をしたたかに打ち付けた。
痛い。
改めて声を掛けてきた人物を観察した。
チャイナドレスのような深いスリットの入った服を着た、長身の女性だった。
その女性の身長はあろうことか僕よりも高く、その手に持った真っ黒な蝙蝠傘の下から僕を見下ろしている。
研ぎ澄まされた、隙のない立ち居振舞い。
この館の門番役なのだろう。
その門番のただでさえ鋭い目が、さらにすっと細められた。
うろたえている場合ではない。
「あっ、突然訪問してすみません。靄のせいで道に迷ってしまって。
ご迷惑でなければ、道をお尋ねしたいのですが・・・。」
僕は慌てて、言い訳をするようにまくし立てた。
いや、別に悪いことをしていたわけではないけれども。
門番は傘をくいっと持ち上げると、顔を近づけて僕を凝視した。
鼻がつきそうな距離で、ただじっと。
吸い込まれそうな紅宝玉のような瞳の瞳孔は縦に割れ、飢えた肉食獣を彷彿とさせる。
追い詰めた獲物を睨め付ける豹のような眼光。
僕は門に釘付けにされたように、指の一本すら動かせずに硬直した。
時間の感覚が麻痺してきた。
どれだけの時間、こうして磔にされていただろう。
一分か、一時間か、それとも十秒程度か。
次の一瞬には牙を突き立てられて喰いちぎられそうな緊張感。
いや、まさかそんな・・・。
食人の妖怪じゃあるまいし。
僕はその考えを振り払おうとするが、その門番の視線は首を振ることすら許さない。
門番が口を開いた。
口を開いて、僕の肩を鷲づかみにして、
その牙を僕の首に―――
「それは大変でしたね。どうぞ中へ。」
はっ、と僕は我に返る。
噛み付かれてなどいない。
それどころか、門番はとっくに僕から離れていて。
一体どこからが僕の作り出した幻だったのか。
門番は僕に向けてやわらかく微笑みながら、手に持った傘に僕を入れてくれた。
僕は畏まって、小さく頭を下げる。
いい人じゃないか。
こんな人を疑うなんて、どうかしている。
門番が、よいしょ、と軽く掛け声をかけて、傘を持っていないほうの手で軽く門を押すと、
門は意外なほどあっけなくその口を開いた。
見かけによらず軽量に作られているのだろうか。
それはそうか。
これだけの大きさの門が全て鉄で作られていたら、開くだけでも何人もの人間の手が必要になる。
僕は門番の傘に入れてもらいながら、館の中庭を歩いた。
とてつもなく広い。
館そのものも、靄のせいで薄暗いシルエットしか見えないが、
その広い庭にふさわしいほどの大きさであることは容易に読み取れた。
このあたりの土地の権力者かなにかが住んでいる館なのだろうか。
今更ながらに緊張してきた。
館の正面玄関の前には屋根が突き出しており、そこまでたどり着けば雨は当たらない。
正面玄関前まで到着すると、門番はぺこりと小さく一礼して、門のほうへ戻っていった。
僕はドアノブへと手を伸ばしかけ、
いやいや、ノックが先だろう。と思い直して拳を軽く握った。
そのままドアを叩こうとして、
―ガチャ
タイミングよくドアが開いて、拳は何もない宙を掻いた。
僕は気恥ずかしくなって、慌てて拳を引っ込めた。
ドアの向こうには、メイド服を着込んだ女性が佇んでいた。
見たまんま、この館のメイドとして働いている女性だろう。
メイドは定規を当てたように折り目正しく一礼し、
「ようこそおいでくださいました。
さぞお疲れでしょう。どうぞ中へ。」
僕は案内されるがままに、館の中へと足を踏み入れた。
見渡すほどに広いエントランス。
いたるところに高価そうな調度品が並び、しかし嫌味にならない程度に均等に配置されている。
館の主の趣味のよさが垣間見える。
「湯の用意ができております。
まずは雨で冷えてしまわれた体を温めてくださいませ。
その後、この館の主に会っていただきます。」
湯、とは風呂のことだろう。
いや、流石にそこまでお世話になるわけには・・・。
ちょっと道を尋ねよう、と思っていただけの僕にはあまりに予想外のもてなしだった。
辞退しようと手を挙げかけた僕を遮るように、メイドは言葉を続けた。
「我が主の意向でございます。どうかお気になさらず。」
僕は挙げかけた手をそのまま下ろした。
せっかくの厚意だ。無下に断るほうが失礼だろう。
それに、体は芯から冷え切っていて、震えが止まらないくらいなのだ。
ここはご厚意に甘えることにしよう。
僕はメイドに連れられて館の中を歩く。
ろうそくの明かりだけで薄ぼんやりと照らされた廊下。
情緒的な雰囲気がとろりと足元を満たしているような、幻想的な館だった。
前を歩くメイドは機械的なほどの規則正しさで、音も立てずに歩を進める。
確かに目を見張るほどの美人だが、極端に表情が薄く、
病的なほど白い肌もあいまって、蝋人形が歩いてるような印象を受ける女性だと感じる。
「こちらです。
雨で濡れてしまっているお召し物はこちらで乾かさせていただきます。
代わりを用意いたしますので、それをご利用くださいませ。」
「い、いえ、何から何まで、お世話になってしまってすみません。」
「いえ、どうかお気になさらず。
入浴が済みましたらお呼びくださいませ。」
にこりともしない。
メイドは事務的な動作で一礼すると、廊下の向こうへと歩いていった。
* * *
立派な浴場だった。
自分がそんなところに居るのがひどく場違いな気がして、
僕は体だけ温めて、早々に浴場を後にした。
脱衣場に用意してあった服を借りて、僕は廊下に出る。
済んだら呼べって言ってたな。
僕は廊下の左右を見回して、先ほどのメイドを呼ぼうと、
・・・そういえば名前も聞いていなかった。
さて、なんと呼ぼうか。
この場合、すみません、でいいかな。
なんかひどく情けない気もするが。
僕は声を上げようと息を吸い込んで、
「大変お待たせいたしました。こちらへどうぞ。」
むせた。
いつの間にか、先ほど世話になったメイドがすぐ脇に立っていた。
今僕は廊下の左右を確認したばかりだ。
人影一つとしてなかったこの長い廊下。
このメイドの登場の仕方は、まるでそこに突然出現したとしか思えない。
いや、そんな馬鹿な話はない。
きっとたまたま、近くの部屋の中に居ただけだろう。
それで音もなく扉を開けて、足音も立てずに近づいてきたというのはおかしな話だが。
僕は首を傾げながら、メイドに連れられて再び廊下を歩く。
いくつかの角を曲がり、何度か階段を上がった。
一体この館、どれだけの広さがあるのだろうか。
そうして距離感もよくわからなくなった頃、メイドはぴたりと足を止めた。
「こちらでございます。」
他の扉とは少しだけ作りの豪奢な、大きな扉があった。
ここはおそらく、館を訪問した客をもてなす部屋、応接間だろう。
ぎっ、という蝶番の擦れる小さな音と共に、分厚い扉が開いた。
「どうぞ、お入りください。」
頭を下げるメイドの前を通り過ぎて、僕は応接間へと足を踏み入れた。
正面の大きな椅子に腰掛けているのがこの館の主なのだろう。
ワイングラスを片手に足を組み、ゆったりとした姿勢で椅子の背にもたれている。
余裕に満ちた表情と、そこからあふれ出る圧倒的な存在感。
僕は案山子のように間抜けに棒立ちするしかなかった。
館の主はくすりと僕の様子を笑って、
「そう緊張しなくてもいいわ。
この館を我が家だと思って、存分にくつろいで頂戴。」
楽にしろ、と言われても、無理なものは無理だった。
この目の前の人物には絶対に敵わない。
自分の奥底の本能的な部分で、この館の主に気圧され、屈服していた。
まるで催眠術でもかけられているかのように、瞬きすら自由に出来ない。
僕の体の支配権が、この館の主に移ってしまったかのようだった。
館の主は口と目を糸のように細めて微笑んだ。
「紅魔館にようこそ。」
僕は耳を疑った。
ここが、紅魔館?
あの、紅魔館なのか?
じゃあ、この目の前に居る人物は・・・。
僕は館の主を改めて観察し、絶句した。
よく見れば、館の主は年端もいかない少女の姿だった。
ただただその圧倒的な存在感に意識を塗り潰されて、今の今まで気付かなかった。
それだけではない。
その少女の背中には、蝙蝠のような翼が生えていた。
それはまるで神経が通っているかのように、時折息づくように動くのだ。
僕はようやく、今自分がどんな状況下に置かれているのかを把握した。
* * *
応接間を出ると、そこにはメイドが控えていた。
「この館の主は吸血鬼でございます。
あのお姿で、もう500年ほど生きておられます。」
先ほどの館の主が、吸血鬼。
今更、僕はこの館の異常性に気が付く。
バケツで血をぶちまけたかのような、真っ赤な内装の廊下。
そこには、窓が一つもなかった。
それどころか、この館に足を踏み入れてから、まだ一度も窓を見ていない。
窓があるべき場所には、窓の代わりに精巧な風景画が飾られていた。
ここは間違いなく、あの噂に聞く魔の巣窟『紅魔館』なのだ。
ということは、やはりこのメイドも・・・?
僕は慌てて警戒するように距離を取ったが、メイドは意に介した様子もない。
メイドは淡々と、説明書を朗読しているような口調で僕に告げた。
「お預かりしているお召し物は2時間程度で完全に乾きます。
お召し物が乾くまで、この館は自由にご利用ください。
ただし、お嬢様の私室と地下室だけは立ち入りをご遠慮くださいませ。」
ぺこりと、映像記録を巻き戻しているかのような再現率で、メイドは僕に一礼した。
仕事に戻るのか、僕のことはもうすっかり忘れてしまった様子で、メイドは廊下の向こうへと消えて行く。
僕は先のメイドの忠告を頭の中で再生する。
主の私室には立ち入るな、というのは、まあ納得できる。
プライベートな空間に他人が立ち入って気持ちのいい者など居ないだろう。
だが、地下室と言うのは?
昇ってきた階段に、地下へと続く下り階段などなかったはずだが・・・。
思考をめぐらせる僕の目の前を、数人のメイドが歩いていく。
メイドの背には、昆虫を思わせる薄い羽根が生えていた。
今思えば、あの門番の女性も人間ではなかったのではないだろうか。
しかし、なぜか僕に危害を加えるような様子はなかった。
この館を自由に散策してもよいと言われ、僕は正直気が進まなかったが、
特に危険なこともないのなら、と僕は気の向くままに廊下を歩く。
どうせ2時間はこの館から出られない。
2時間の退屈と好奇心に抗えるほど、僕の意志は固くはなかった。
* * *
廊下を適当に歩いていると、僕はいつの間にか渡り廊下らしきところを歩いていた。
この館には別館のようなものがあるらしい。
渡り廊下の突き当たり、木製のドアを開くと、埃っぽい停滞した空気の匂いが溢れた。
壁のないただっ広い空間に、周囲をぎっちりと埋めるように本が並び、
地下に掘られて吹き抜けになった先にも、まだ足りぬとばかりに本棚が敷き詰められている。
ここは図書館のようだ。
図書館なら丁度いい時間潰しができるだろう。
僕は適当に本の背表紙に目を走らせながら外周を回る。
ふと、一つ妙に目を惹いた本があって、それを手に取った。
タイトルもなにも書かれていない、ひどく無愛想な本だった。
これでは内容すら想像できない。
試しに、適当なページをぱらりと開いてみた。
どうやら中は小説らしい。
登場人物の動作が活字となって紙の上に踊っている。
内容は途中からなのでよくわからないが、
どうやら本の中の登場人物が、丁度僕と同じように本を開いて読んでいるシーンらしかった。
面白い偶然だな、と僕は活字を追う。
本の中の登場人物も、僕と同じように中身のわからない適当な本を開いて読んでいる。
僕は異常を感じた。
その登場人物の心情描写が、いちいち僕の考えていることとリンクするのだ。
中の登場人物も同じような異常を感じたらしい。
まるで本の中の登場人物が、今の僕のことを書かれているかのようだ。
おかしい。
こうして僕がおかしいと思っていることすら、この小説に描写されている。
目が放せない。
本を捲る手が止められない。
「・・・エヲ・・・・・・」
読むのをやめたいのにやめられない。
どうやって体に命令を出せばいいのか、それすら忘れてしまったようだ。
「・・・ニ・・・エヲ・・・・・・」
なにかが聞こえる。
僕のすぐ耳元から、ひどく小さな声が聞こえる。
横を向こうとしたが、本の字から目が引き剥がせない。
「・・・ニエヲ・・・・・・」
ニエヲ?
贄を?
視界の端になにかが映った。
活字を追いかける視界の端。
青白いなにかが。
「・・・贄ヲ・・・・・・」
首にひやりと氷が当てられたような冷気が当たる。
手の感触だった。
死人の腕のように、血の通わない肉と骨の集合体が僕の首を掴んでいる。
その死人の腕が、きりきりと万力のように少しずつ、僕の首を締め上げていく。
悲鳴も上げられない。
活字を追う目が止められない。
「贄ヲ、贄ヲ、贄ヲ、贄ヲ、贄ヲ、贄ヲ・・・」
ずるずると、視界の端のなにかが伸びていく。
伸びて、徐々に視界の中央に向かって。
それは顔だった。
青白い女性の顔だ。
青白い、と言っても顔色の青白さじゃない。
青と白の絵の具を均等な分量だけ混ぜたような、青と白の混合色。
きりきりと首が絞まる。
「贄ヲ、贄ヲ、贄ヲ贄ヲ、贄ヲ贄ヲ贄ヲ贄ヲ贄ヲ、贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄―――」
僕は心の中だけで悲鳴を上げる。
本の中の僕も悲鳴を上げる。
活字を追う目が止まらない。
顔が伸びる。
きりきりと首が絞まる。
顔が伸びる。
僕は悲鳴を上げる。
「贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄贄―――」
顔が伸びる。
顔が伸びて、僕の視界の中央、本の向こう側へと。
ピントのいまいち合わない横から、僕の正面へと。
そいつと顔が合ったらどうなるんだろう。
目が合ったらどうなるんだろう。
食われるのか?
首が千切られるのか?
それ以前に、僕がその恐怖に耐え切れるのか?
ついにその顔が、僕の方へと向きを変えて―――
―ぱたんっ
本が閉じた。
胃液を吐き出すように僕の口から呼吸が漏れて、僕はようやく呼吸を忘れていたことに気付く。
青白い顔はなくなっていた。
首を掴む死人の腕の感触も。
目の前には、僕から本を取り上げた少女が一人。
黒づくめのローブを着込んだ、数冊の本を胸に抱えた羽根の生えた少女。
「こちらの本は危険なものばかりですよ。
読むのなら、あちら側の本をおすすめします。」
少女はにこりと笑って、僕から取り上げた本を元の位置に戻した。
そして何事もなかったかのように、胸に抱えた本を本棚に差しながら歩き出した。
今のは、幻覚とかそういうのじゃあ、なかったのか・・・?
僕は自分の首をさすった。
長い時間氷の塊を押し当てられた後みたいに、僕の首は異常なほど冷え切っていた。
急に怖くなって、僕は早足に図書館を出て行くことにした。
* * *
本棚を整理していた小悪魔の少女は、ふと図書館の隅に目をやる。
先ほど知らない誰かを見かけた位置からは死角になっていた場所。
寝巻き姿で本を読む少女を見つけると、それを咎めるように眉を寄せた。
「もう、ちゃんと教えてあげないと駄目じゃないですかぁ。
さっきの人、もう少しで禁本に魂を抜かれちゃうところでしたよ?」
寝巻きの少女は一瞬ちらりと小悪魔の少女を見上げたが、
すぐに鬱陶しそうに手元の本に視線を落とした。
「別にいいんじゃない? それならそれで禁書の呪力も上がるし。」
まるで興味がなさそうに、紅茶のカップを口元に運ぶ。
先ほどの本は、禁書と呼ばれる類の本の中でも、あまり呪力の高くないものだった。
本を開いた者の意識を興味をそそるような文章で拘束し、
読み進めるごとに生命力を奪う、という代物。
意思が強かったり、あるいは呪術の知識のあるものならばそれだけで通用しなくなる、
あまり実用性の高くない禁書。
もちろん、一般人にとってはそれだけで十分すぎるほどに危険なものなのだが。
処置なし、とばかりに小悪魔は肩を落として、本棚の整理に戻っていった。
* * *
あれだけの恐怖体験をしておきながら、まださらに本を読もうとするほど、僕は本に愛着がない。
再び館内の散策に戻ることにする。
そういえば喉がカラカラだ。
ひどく緊張したせいだろう。
水でももらおうか。
僕はたまたま近くを歩いていたメイドに調理場の場所を聞くと、そこへ向かって歩き出した。
なんて広い館内だろう。
ようやく僕は調理場へたどり着く。
調理場をそっと覗き込むと、そこには既に先客が居た。
見覚えのある後姿だった。
それはそうだろう。
この館に着てから、幾度となくあの後姿を見たわけだから。
そこにいたのは館にきたときに僕を出迎え、道案内をしてくれたあのメイドだった。
料理中らしい。
なにかの肉を捌いているのが見えた。
邪魔をするのは申し訳なく思ったが、かといって勝手に調理場を荒らすのも迷惑だろう。
僕はおとなしく、その後姿に声を掛けることにする。
「あの、すみません。お水をもらえますか?」
ぴたり、とメイドの動きが止まった。
肩から下はそのままに、首だけぐるりとこちらを向く。
相変わらず、蝋人形のような無表情だった。
「わかりました。すぐにご用意いたします。」
メイドは手にしていた包丁を一度置くと、軽く手を洗ってエプロンで拭く。
いや、よく見るとそれは包丁ではなかった。
大振りで無骨なナイフ。
何故ナイフで?
気にはなったが、あまり気軽に世間話ができるような人ではなかったので諦める。
メイドは調理場の片隅に行くと、鉄製の扉を開いた。
普通の部屋よりは少しばかり狭苦しい、ウォークインクロゼットのようなサイズの小部屋。
人が十人入ればきつきつだろう。
メイドはその中に入っていった。
角度的に中の様子は伺えないが、メイドはその中から水の入ったボトルを取り出して出てきた。
ボトルからコップへ水を注ぎ、
「どうぞ。」
と僕に渡してくる。
どうも、と僕は短く返して、コップの水をいただく。
それは真冬の水のようによく冷えていておいしかった。
僕が不思議そうに水を眺めていると、メイドはわざわざ説明してくれた。
「その部屋は『冷蔵庫』というものです。
内部は魔術で常に一定の温度に冷やされていますので、食材が長持ちします。
館で働くメイドは数が多いので、このような設備が必要になるのです。」
メイドはボトルを手近な調理台に戻すと、肉を捌く作業に戻っていった。
なるほど。
その中に入れておけば、夏場でも肉や魚が腐りにくいのか。
飲み物の類でも一緒に入れれば、いつでも冷たいものが飲める。
便利なものだ。
そのようなものは見たことも聞いたこともなかった。
氷室、という氷を保存しておく技術があるが、これはそれよりも格段に水準の高い代物だ。
さすが紅魔館、ということだろうか。
それより、僕は一つ気になっていることがある。
これは僕の想像に過ぎないが、このメイドも僕と同じ、人間ではないだろうか。
この館の門番や主のような、形容しがたい異様な気配というものを感じないのだ。
なぜ人間がこんな人外ばかりの住む館に?
「不躾で失礼ですけど、あなたも人間ですか?」
「はい、そうです。」
メイドはあっさりと頷いた。
やっぱりそうだったのか。
「こんなところに人が住んでいるなんて、意外だな。」
ぴたり、とメイドが調理の手を止めた。
しまった、と僕は今更ながらに自分の失言を後悔した。
実際に住んでいる人の目の前で、こんなところ、などと、
失礼にもほどがある。
僕は慌てて前言を撤回しようとしたが、
メイドはその点については気にしていない様子だった。
「人、ではありません。」
へっ、と僕の口から間抜けな声が零れた。
今さっき人間だっていったばかりじゃないのか。
僕の考えを読んだように、メイドは言葉を続ける。
「私はたしかに人間です。ですが、人ではありません。」
言っている言葉の意味がよくわからない。
人間と人。
同義語じゃないだろうか。
「いいえ。人間であるということと、人であるということは同じではありません。
人間とは、ただの種族の分類です。
人とは、心の持ちようのこと、考え方のことです。」
難しい話だ。
小さな村の出身である僕には、お世辞にも教養があるとは言えない。
残念ながら、僕には彼女の言っている言葉の意味が理解できなかった。
僕はそれを悟られないように、ごまかす様にコップの水を一口。
話題をそらす言葉を必死に探した。
そういえば、あの冷蔵庫。
中がどうなっているのか気になるな。
「あの、さっきの冷蔵庫、中を見させてもらってもいいですか?」
僕は意を決して聞いてみた。
メイドは無表情のまま、しばらく考えている様子だった。
駄目かな。
「やめておいたほうがよろしいかと。
人である貴方にはお勧めできません。」
やっぱり駄目か。
僕は残念に思って肩を落とす。
だがやはり気になる。
諦め悪く、僕は堀り下がってみる。
「どうしても駄目ですか。」
「いいえ。中をご覧になりたいのでしたらご自由にどうぞ。」
意外にも、メイドはあっさりと折れた。
いや、さっきのお勧めできないと言った言葉も、
別に遠まわしな拒否というわけでなく、本当にお勧めしないというレベルの話だったのだろう。
では遠慮なく、と冷蔵庫に手を伸ばしかけた僕に、
メイドはなんでもない世間話のように、調理片手に語る。
「この館に住む者たちは人間を糧とする者が多いのです。
吸血鬼であるお嬢様はもちろんのこと、この館の門番も、メイドの大半も。」
僕は伸ばした手を止める。
メイドはそれ以上、何も語ろうとしない。
ただ肉を捌く、淡々としたナイフの音だけが調理場を支配している。
先ほどの、メイドの言葉が頭の中で蘇る。
人である貴方にはお勧めできません。
この館に住む者たちは人間を糧とする者が多いのです。
この冷蔵庫の中に、何があるのだろう。
僕は想像する。
ウォークインクロゼットのようなスペースの中、所狭しと吊り下げられる肉の塊を。
淡々と、ナイフを振るう音が聞こえる。
僕はブリキの人形のようにギリギリと首を回して、メイドのほうを向いた。
メイドは無表情に、なんの感慨もなく手元にある『何か』の肉を捌いている。
僕は震える声音でメイドに尋ねた。
「あの、その肉、なんの肉ですか・・・?」
ぴたり。
ナイフを振るう音が止まる。
ゆっくりと、物音ひとつ立てずに、メイドは僕の方に顔を向ける。
肉を捌いた手を拭いた、エプロンの赤い染みがやけに目に付いた。
メイドが薄く笑う。
口元が糸を引いたように細く、三日月のような弧を描いた。
「さて、なんだと思います?」
* * *
彼は躓きながら、慌てて調理場を出て行った。
そんな彼を、不思議そうにメイドは目で見送る。
「・・・ベジタリアンかしら、彼?」
不思議そうな顔のまま、彼が出て行った調理場のドアと手元の『牛肉』を見比べる。
逃げ出すほど肉が嫌いだなんて。
ちょっとかわいそうなことをした、とメイドは後悔する。
もちろん、彼女には脅かすつもりなど欠片もなかった。
最後の彼の質問にも、何の気なしに何の肉だと思うか聞いてみただけだ。
それ以上の他意はなかった。
その証拠に、先ほどだって親切に彼に忠告してあげたではないか。
冷蔵庫を覗こうとした彼に。
「さて、メイドたちのまかない料理も作らないと。」
彼女は冷蔵庫の扉を開ける。
その冷蔵庫の中、
天井から伸びたフックにぶら下げられ、ずらりと並んだそれは―――
* * *
僕は転がり出るように廊下に出た。
今のメイドの言った言葉、どこまでが冗談だったのだろう。
それとも、全て本当のことだったのだろうか。
先ほど喉を潤した水がどこから取り出されたものかを思い出し、
僕は胸焼けを起こしたように気分が悪くなった。
ふと顔を上げると、僕と同じように顔色の悪いメイドが一人、
とぼとぼと廊下を歩いていた。
その手にティーセットを持って、廊下の突き当たりにあった鉄製のドアを開ける。
今にも倒れてしまいそうなひどい顔色だった。
大丈夫だろうか。見てしまった以上、急に倒れられても目覚めが悪い。
自分がこんな状況で人のことを心配するのもひどく間抜けな話だが、
そんなことを考えるうちに、僕の足は勝手にそのメイドを追いかけていた。
廊下の突き当たりの鉄製のドアを抜けると、その先は部屋ではなく階段だった。
石造りの階段で、下へ下へと続いている。
明かりが心もとなく、下のほうまではよく見えなかった。
先ほどの顔色の悪かったメイドはこの階段を下りて行ったのだろう。
僕は壁に手を突いて、そろそろと慎重に階段を下り始めた。
石造りの壁が冷やりと手の平の熱を奪っていく。
そういえば、なぜここだけが石造りなのだろうか。
ここだけ、館内とは明らかに様相が違う。
まるで別の建物に迷い込んでしまったかのような錯覚を受ける。
ひどく長い階段だった。
慎重に下りているので、余計に階段が長く感じられるのだろう。
下りきるのはまだ先だろうか。
もう2階分くらい下りてきたのではないだろうか。
・・・ちょっとまて。
2階分?
この建物は何階建てだった?
僕はこの階段を下りる前、何階にいた?
そもそも僕が居たのは、1階じゃなかったか?
なんでこんなところに下り階段がある?
僕はようやく納得がいった。
ここだけ造りが違う理由。
地下に続いているからだ。
メイドの忠告が頭の中で蘇る。
ただし、お嬢様の私室と地下室だけは立ち入りをご遠慮くださいませ。
メイドが言っていた地下室とは、この先のことじゃないだろうか。
きっとそうに違いない。
僕は来た道を引き返そうと向きを変えて、
絶叫。
耳を塞ぎたくなるような絶叫が階下から木霊した。
絹を引き裂くような、としばしば女性の悲鳴は例えられることがあるが、
そんな生易しいものではなかった。
鋼鉄製のローラーで年端もいかない少女を挽き潰したかのような、
肺が潰されて空気が喉から漏れ出したような、そんな音。
聞くだけで全身の産毛が総毛立つような、おぞましい悲鳴だった。
僕は思わず階下を見下ろした。
しんと、静まり返り、沈殿した闇。
先ほどの悲鳴が嘘のように、痛いほどの沈黙が漂っている。
逃げろ、と本能が言う。
今すぐ上に戻れ。
全部忘れて上に戻れ。
顔色の悪いメイドなんて見ていない。
悲鳴なんて聞かなかった。
全部忘れて上に戻れ。
そうするべきだと思った。
理性も、本能も、全てが上に戻れと命令する。
だが、
僕は見てしまった。
階下を見下ろした時、見てしまった。
闇に慣れた目が見てしまった。
階段の尽きた先を。
先にある、鋼鉄製の扉を。
その鋼鉄製の扉の、わずかに開いたその隙間を。
―かつん
足音が響いた。
誰か来たのかと思って僕は焦ったが、
違う。足音を立てたのは自分の足だ。
僕の足は、階段を下り始めていた。
理性も、本能も、全てがそれを止めたのに。
僕は既に、魔に魅入られていたのかもしれない。
ひどくあっさりと、階段の下までたどり着いてしまった。
僅かに開いたその隙間。
僕の心臓はうるさいほどに主張する。
戻れ、と。
だが僕の手は吸い込まれるように壁に吸い付き、
僕の体を、顔を、隙間へと引き寄せた。
扉の向こうは薄暗い部屋だった。
むわっと、生臭くてぬるい空気が隙間から漏れて顔に当たった。
極端に明かりの少ない部屋の中央、
小さな女の子がぺたりと絨毯に腰を下ろしている。
その少女の周囲には、乱雑に散らかされた赤い服の人形が転がっていた。
粗悪な造りの人形で、球体関節がむき出しになっており、
腕や足のパーツがあちこちに飛んで転がっていた。
この少女はこんな薄暗い地下室でなにを―――
「お兄さん、だれ?」
いつの間にか、少女は僕のほうを見つめていた。
気付かれていた。
同時に、自分が少女の部屋を覗いていたという事実がようやく飲み込めて、
ひどくばつの悪い気分になった。
しかし少女はそんなことを気にした風もなく、
にこりと僕に笑いかけた。
「お兄さん、わたしと遊んでくれる?」
・・・遊ぶ?
「そう、わたしと一緒に遊んで欲しいの。
お人形遊びはもう飽きちゃった。すぐ壊れちゃうし。」
少女は退屈そうに、足元に転がっていた人形の腕を放った。
木製の腕が、からん、と乾いた音を石造りの壁に響かせる。
子供特有の、無邪気さと残酷さを象徴したような少女。
退屈そうな顔から、ぱっと嬉しそうな笑顔を僕に向けた。
「でもお兄さんなら大丈夫だよね? 大きいし、男の人だし。
これよりもきっと頑丈だよね?」
がつっ、と足元に転がっていた別の人形を蹴る。
その人形は他の人形と違い、おかしなほど精巧に出来ていた。
いや、その人形だけでなく、部屋中に転がっている人形のうち何体かは、
その人形のように、本物と見間違えそうなほどに精巧な造りをしていた。
その人形が、少女の小さな足に小突かれて、
ごぽりと口から血の泡を吐く。
赤いメイド服を来た、やけに精巧な造りの、等身大の人形。
関節があらぬ方向に折れ曲がり、スカートからは足が一本しか出ていない。
まるで本物のような、虚ろな目をした人形。
ごろりと首が転がってこちらを向き、その虚ろな目が僕と目を合わせた。
少女が笑う。
「お兄さんはどれくらい頑丈かな?
腕が片方取れちゃっても平気?
フォークで目を刺しても大丈夫?
頭の中を掻き混ぜても壊れたりしない?」
少女が嗤う。
自分の言葉に酔うように、その笑みを加速度的に強くしていく。
「ねえ、お兄さん。わたしと遊んでくれるよね?」
僕の体は弾かれるように階段に転がった。
体が無意識の内に壁を突き放していた。
心臓がバクバクと跳ね上がり、
奥歯は根が合わずにガチガチと音を立てる。
なっ、なんなんだ、今の少女は・・・!?
僕は階段に体を預けたまま、扉の隙間に目をやった。
目が合った。
隙間から、部屋の中の少女がこちらをうかがっている。
扉には鍵がかかっていない。
当たり前だ。扉は僅かに開いているのだから。
少女は壊れた嗤いをこちらに向けながら、僕のほうを見つめている。
「ねえ、あそぼ?」
ずるりと、真っ白い腕が伸びてきた。
小さな子供の手が、扉の隙間からこちらに向かって。
閉めなければ。
あの扉を閉めなければ!!
「うっ、わあああああああああああああ!!」
僕は階段から跳ね起き、鋼鉄のドアノブに縋った。
そしてそのまま、渾身の力を込めて扉を閉めた。
―バダンッ
やわらかいものを潰す生々しい感触と共に、扉は閉まった。
慌てて鍵もかけた。
なぜか、外側に鍵がついていたが、そんなことを気にする余裕もなかった。
一瞬遅れて、ぼとり、と白いものが下に落ちる。
えっ・・・?
僕は思考の停止したまま、足元に落ちたそれを見た。
腕、だった。
小さな子供の、肘から先。
きっちりと閉まった鉄製の扉に切断されて転がったのだ。
「あ、あぁ・・・。」
扉の向こうで、呻くような少女の声が聞こえる。
これを、僕がやったのか?
こんな小さな子の腕を、僕が・・・?
「あ・・・はっ・・・」
僕は脱力して、階段に腰を落とした。
完全に腰が抜けてしまって、まったく力が入らない。
ただ呆然と、扉の前に転がった腕を見つめて、
「あ・・・ははっ・・・」
腕が、ぴくりと動いたように見えた。
ずるり、と白い小さな腕が床を這うように蠢いた。
「あはははっははは・・・」
蜘蛛のような動きで、僕の方へとじりじりと近づいてくる。
僕は動けない。
体に力が入らない。
悲鳴も出ない。
息を吸い込むことすらできない。
「あっはははははっはははははは!!!」
がさがさがさっ、と腕が異常な速度で床を移動し、
僕の足を這い上がってくる。
足を、腹を、胸を。
がさがさがさっ、と怖気が走る感触を体に残して。
そして、僕の首を鷲づかみにした。
めりめりと、僕の首の関節が悲鳴を上げる。
「遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで
遊んで遊んで遊んで遊んで壊して潰して挽いて刺して砕いて磨り潰して
千切って抉って捻って折って刻んで剥いで削いで絞ってバラバラにしてッ!!
あっはははははははははっはははははははははっはははは―――」
壊れたレコードのような少女の嗤い声の中、
僕の意識は闇に沈む・・・。
* * *
ひたり、と額に冷たいものを感じ、僕の意識は闇の底から引き揚げられた。
目を開けると、真っ赤な天井が視界いっぱいに広がった。
「お気づきになられましたか。」
額に乗せられたタオルが取り払われる。
僕が寝かされていたベッドのすぐ脇、
濡れタオルを桶に戻したメイドが、無表情のまま事実を確認するように呟いた。
思考の整理が追いつかない。
僕は、一体どうしたんだっけ・・・?
「地下室の前で気を失っておられました。」
ああ、そうか。
地下室であの少女に襲われて・・・。
はっ、と僕は気が付いた。
忠告を受けた本人からその事実を聞かされるなんて。
「す、すみません! 地下室には行くなと言われていたのに!」
メイドは無表情のまま、ぼんやりと僕の顔を見つめていたが、
忠告を破ったことを気にした様子もなかった。
「構いません。お気になさらず。
地下室は危険ですので、近づかないよう進言させていただいたまで。
貴方がこうして無事ならば、なんの問題もございません。」
淡々と、メイドは答えた。
「お召し物が乾きましたので、そちらにご用意させていただきました。
それでは、私は失礼させていただきます。」
きっちりと、分度器で計ったような礼をして、メイドは部屋を出て行った。
僕は丁寧に畳まれた自分の服に着替えると、早々に部屋を出た。
もうこれ以上長居はしたくなかった。
本来ならば館の主に礼の一つも言ってから帰るべきだろうが、
残念ながらこう広くては主の所在もわからない。
僕は失礼だと思いつつも、足早に館を出て行った。
途中門番に帰り方を尋ねると、
「そのまま、ただ真っ直ぐ歩けば大丈夫ですよ。」
と快く教えてもらえたので、
僕はそれを信じてただ真っ直ぐに進んだ。
森の中を歩いていると、また周囲に濃い靄がかかり始めた。
かといって戻るわけにもいかず、僕はただ信じて真っ直ぐに歩いた。
足元の土がぬかるむ。
そういえば、あの館に行くときもこの沼地を通ったはずだ。
だとしたら、このまま真っ直ぐで正しいのかもしれない。
しばらくの間歩いていると、靄は急に嘘のように消え失せた。
あまりに突然だったので、僕は思わず足を止める。
まるで全てが白昼夢だったかのよう。
僕は後ろを振り向いた。
僕が歩いてきたはずの方向には、ただ湖が広がっているだけだった。
なんだったのだろう。あの体験は。
本当に白昼夢を見ていただけだったのだろうか。
僕は地下室であの少女に締め上げられた、自分の首をさする。
ちくりと、刺されたような小さな痛みが走った。
* * *
「よろしかったのですか、お嬢様?」
「なにが?」
メイドにワインを注がせながら、館の主は手の甲に顔を乗せて微笑む。
いつになく上機嫌そうだった。
「彼、のことですわ。大層お気に召したご様子でしたので。」
「ふふっ、いいのよ。」
今頃は湖のあたりを歩いている頃だろう。
館の主は湖の水を眺めるように、ワイングラスを揺らす。
「放っておいても、いずれ彼はここに戻ってくるわ。
そういう魔法をかけたもの。」
ちろり、と小さな舌が館の主の薄い唇の上を滑る。
その桜色だった唇は、今はまるで朱を塗ったかのように赤い。
薄ぼんやりとした部屋の明かりの中、その赤は異様なまでに映えていた。
「素敵な恐怖をご馳走様。」
館の主はワイングラスに向けて、ぽつりと呟いた。
* * *
あれからもう一ヶ月ほど経った。
僕は今でも、時々ふとしたきっかけで、あの館のことを思い出す。
畑で鍬を振るっているとき。
囲炉裏で湯を沸かしているとき。
道をぼんやりと散歩しているとき。
寝る前に布団の中でまどろむとき。
ずくりと首筋に疼痛が走り、あの館のシルエットが脳裏に浮かぶ。
そして、なぜか無性に、もう一度あの館に行きたくなるのだ。
あの人外ばかりの住まう魔性の巣窟に。
僕は一体どうしてしまったのだろうか。
野良仕事からの帰り道、僕は物思いに耽りながら歩を進める。
なぜあの館行きたくなるのだろう。
あれほど恐ろしい体験をしたというのに。
なぜあの赤い靄がまた現れることを期待してしまうのだろう。
なぜ、
もう一度あの館に行き、内腑も残さず貪り尽くされたいと思うのだろう。
ふと我に返ると、僕はいつの間にか森の中を歩いていた。
考え事をしながら歩いているうちに、知らない道に迷い込んでしまったのだろうか。
ああ、困った。帰り道がわからない。
近くに誰か住んでいる館でもあればいいのだが。
当てもなく森の中を歩いていると、木々の隙間からぼんやりと明かりが見えた。
近くに誰か住んでいるのだろうか。
丁度いい、そこに住んでいるナニカに道を聞こう。
森を抜けると、天を突き上げるかのごとく聳え立つ門が見えた。
門の前に長身の女性が立っている。
門番は僕に気が付くと、にたりと僕に微笑みかけてきた。
「紅魔館にようこそ。お待ちしておりました。」
ずくり、と首筋に鋭い牙で噛み付かれたかのような疼痛が走った。
少しレミィのフラグに思えてしまうのは脳みそがピンク色だからでしょう
怖くてホラー苦手な俺はこの点しか……
じゃあホラー読むなよって言わないでorz
恐ろしいけど引き込まれる面白さがありました。
これからあの男はどうなってしまったのか…。
それは紅魔館の人達だけが知っている……ということでしょうか。
ゾクゾクする心持ちと、恐ろしいけれども覗いてしまう感じが、
とても強く印象に残る良作であったと思います。
里の一般人の目線からだとホラーだよね紅魔館…
魔女に悪魔に吸血鬼だもんな…恐怖されてこその妖怪か…
いかん、取り乱してしまった。
いや、うん、幻想郷って怖いね!
そりゃそうだなぁ……久々に妖怪らしい紅魔館でした。
行って見たくもあり、行って見たくもなし
人の恐怖心を刺激する描写がすごく秀逸で、背筋にゾクゾクくるのがいいですね。
紅魔館怖いね。言ってみたいね。お嬢様をおk(殴
最後納得しました。
実際にこんな体験をしてみたいと思う俺はドMに違いない。
うーむ妖怪からすると人間ってのはちょろいもんだなぁ(苦笑)
ホラーの展開、全体とラストのモノローグからそう感じました。
普通ならそんなところ歩き回るはずはないですけど
そうでもしないと物語が進まないですね。
……俺だったら美鈴に威嚇された時点で回れ右かな;