一、
夜の境内。月の光を雪が反射して、灯りのいらないくらいの明るさが神社全体を照らしている。
白い吐息を吐きながら、霊夢は高く積もった雪を眺める。
鳥居から本殿への道は雪かきをしていたが、その両脇には一メートル近い雪が積もっている。
例年稀に見る大雪であった。
「はあ……」
明日にでも本格的に雪かきをしなくてはいけないことを思うと、自然と溜息が出た。
妖怪やら妖精やら人間やらに手伝わせても良いのだが、彼女らは彼女らの雪かきをしなくてはいけない。
いつも自分が頼られる立場なのだが、だからと言って頼っていい理由にはならない。
「もう二月だっていうのに……」
霊夢は雪の壁を忌々しげに蹴りつける。
足は以外にも奥まで入った。慌てて引き抜くと、一瞬の後に痺れるような冷たさが襲い掛かる。
「っうう……」
悪態をつくこともできず、素直に情けない声が出る。
足についた雪を払い、地面をだんだんと勢い良く踏みつけると幾分冷たさは和らいだ。
空を見上げる。
雲は多いが、幸いにも月は出ていた。
一見満月かと思えたが、どうやら僅かに欠けているようだ。
「ああいう月、なんて言うんだっけ……」
呟きと共に白い息が洩れ、少しだけ空気をさまようとすぐに消えていった。
月は煌々と輝き、その眩しさに思わず目を細める。
しかしその後、厚い雲が流れ、容赦なく光を完全に遮った。
さっきまで境内に生える木の枝を数えられるほど明るかったというのに、もう足がどこにあるのかも分からなくなる。
「……また降るの? 昼間あんだけ降っといて。やめてよね……」
そんな霊夢の声が届いたのか、雲はすぐにその場を月に譲る。
再び境内が照らされたとき、鳥居の下に誰かがいるのに気づいた。
それは声も掛けず、じっと霊夢のことを見ている。
霊夢は一瞬構えたが、その来訪者を知っていた。
「………………チルノ?」
霊夢の声がスイッチになったかのように、チルノは歩き出した。
青い髪、青いワンピースを着た女の子である。背中には氷の羽が生えている。年齢は十歳ほどか。
「どうしたの? こんな夜に。雪で遊びたくなったとか?」
氷の妖精であるチルノは、どれだけ寒かろうが雪が降っていようが外で元気良く遊んでいる。
そんなチルノを見かけると、霊夢も幾分寒さが紛れるというものであった。
しかしチルノは無言で霊夢のところまで歩いてくる。表情も無い。
「チルノ……?」
とうとう霊夢の前までやって来ると、その顔を見上げた。
どこか真剣な表情だ。
「どうしたの……?」
再び問いかけるが、返事は無い。
じれったくなって、その柔らかそうな頬でもつまんでやろうかと思っていると、チルノはおもむろに口を開いた。
「あたい、なんでここに来たんだろう……」
雪は音を吸収するという。
しかし今、境内が異常に静かなのは雪のせいではないだろう。
「…………バカ?」
霊夢が思わず呟くと、チルノは眉を寄せて頬を膨らませる。
いつもならもっと噛み付いてくるものだが、そんな元気が今のチルノには足りないように思えた。
チルノはぷいと顔を背けて気を取り直し、しかし若干機嫌を損ねたように言う。
「れーむ」
「だから何?」
「異変って、また起きるのかな」
「……はい?」
チルノの意図が分からなかった。いやこの頭の弱い子にそもそも意図など無いのか。
「そうね。無いといいわね。前みたいに赤い霧が出たり、冬とか夜が終わらなくなったりするのはごめんね」
「……うん」
頷くだけである。普段騒がしいチルノが。
調子を崩されっぱなしの霊夢は、頭をがしがし掻いて腕組みをした。
「ほら、何なら寄ってく? こんな時間だけど。お茶くらい出すわよ」
「……うん」
口数少ないチルノを促し、霊夢は本殿へと足を進めた。
その時、再び雲が月を覆った。
霊夢は咄嗟に振り向いた。長年危険と共に生きてきた勘のようなものだった。
闇が広がり、チルノの顔もまともに見えない。
しかし、その目は見えた。
ガラスのように青い瞳は闇の中で鈍く輝き、ただ霊夢のことを見つめている。
霊夢もチルノのことを見つめ返すが、チルノに反応は無い。
「………………」
気のせいだったか。
何か、薄ら寒いものを感じた。
霊夢は『紅い霧』事件のときに初めてチルノと出会い、それは戦いであったが、そのときに彼女を怖いとは思わなかった。
単に妖精が勘違いをして戦いを挑んできただけである。
しかし確かに今、霊夢はチルノに僅かながらの恐怖を感じた。
この馬鹿で可愛らしい妖精に、得体の知れない何かを感じた。
妖精というのは、そんなに人間と違う存在だったろうか。
「…………チルノ。あんた、どうしたの?」
霊夢の問いかけに、チルノはさっきから全くまばたきをしない目を見開いたまま答えた。
「れーむ……あたい、なんだか怖い」
チルノはそれ以上何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。自分が一体何を感じているのか、うまく説明できないようだ。
「…………いいから、来なさい」
早く明るいところへ行きたかった。
霊夢は深く追求せずにチルノの腕を掴み、本殿の中へと足早に歩いていった。
囲炉裏の前に座布団を置くと、チルノはそこにちょこんと座った。
最近になってようやく正座というものをチルノに教えることに成功したが、あいにく五分しか続かない。
お茶を出されて音を出しながらすするチルノを、霊夢は後ろから抱きしめた。
「な、なんだよう」
怖いと思ったから抱きしめる。余計な感情を打ち消すように。
気のせいなのだと、そう言い聞かせて。
その日は、チルノには早く帰ってほしかった。
だから泊まっていくよう言った。
そんな曖昧な理由でこの子を避ける自分は嫌だから。
二、
翌日。
何事も無く霊夢は布団から身を起こした。
隣を見ると、チルノが布団を蹴っ飛ばしてお腹を出しながら寝息を立てている。
どうあっても風邪はひかないようだ。
外の物音に気をひかれて立ち上がると、何やらごうごうと聞こえる。
眉をひそめて襖に近づくと、そっとそれを開けた。
途端、体の芯まで凍りつく冷気が入り込んでくる。
外は吹雪であった。
軒先まで詰め寄った雪が、風に吹かれて和室に舞い込んでくる。
もう二メートルは雪が積もっていた。
霊夢は慌てて襖を閉める。
「…………何これ」
閉じ込められた。
最近雪続きなので、雪が入り込まないように対策をしてはいるが、それでどうしろというのか。
鳥居からの道ももう雪で塞がれているだろう。
備蓄はどのくらいあっただろうか。
台所に駆け込むと、急いで棚を調べる。
「食料は三日分……チルノを入れたら二日分?」
いやチルノは帰せばいいかもしれないが。彼女ならこの吹雪でも、平気で寄り道混じりに帰るだろう。
三日ほど。
それまでに雪はやむだろうか。
そもそも、この雪では参拝者が来ない。
大雪に困った人が、神にも祈りたくて賽銭をたらふく入れに来るはずなのに……!
どうしたものかと唸っていると、お腹を出したままのチルノが寝ぼけた様子でやって来た。
「れーむ。おはよー」
寒がっている様子はない。
「……チルノ」
霊夢はチルノの肩をがっしと掴む。
「あんた、氷の妖精よね?」
「え? うん、まあ……」
「あんたに任務を与えるわ。雪かきよ。鳥居までの道にある雪を脇にどけてちょうだい」
「えー。なんであたいが……」
「ご馳走してあげるから」
「やる……」
霊夢はチルノにスコップを持たせ、吹雪が吹き荒れる外へと送り出した。
しかし流石は氷の妖精と言うべきか、チルノは鼻歌らしき変な声を出しながら雪かきに精を出し始めた。
しかし困ったことになった。
ここからどうするか。
紫と連絡が取れれば、避難所などの情報が入ってくるとは思うのだが。
ついでに人里に送ってもらって買出しもしたい。
轟音が鳴ったのはその時だった。
「な、なに!?」
神社全体が揺れ、慌ててガラス窓から外を覗く。
見ると、境内の雪が無かった。
今まで積もっていた雪が根こそぎ無くなっている。地面がむき出しになり、一面霜が降りている茶色が見えた。
しかし吹雪がやんだわけではないらしく、凍った地面がすぐに白く染まりだす。
霊夢が慌てて正面玄関へ行って引き戸を開けると、そこには一人の女性が立っていた。
「はあい」
陽気に手を振っている。
「紫……」
噂をすれば何とやら。やって来たのは八雲紫であった。
二十前後の女性で、金髪に紫の瞳をしている。雪が降っているからなのか、可愛らしい傘を差していた。
霊夢は幾分ほっとしたように溜め息をつく。
「雪が無くなったのはあんたの仕業?」
「ええ。大サービスよ」
「ありがと……で、何しに来たの?」
「なに、って。この異変を一緒に解決しようと思って」
「異変?」
「そう。異変よ」
紫は楽しそうに笑うが、そこに若干の緊張感が漂うのを感じ取った。
それにしても異変。昨日、チルノが何か言っていたか。
「とりあえず中に入って」
「そうさせてもらうわ」
とそこで、霊夢は、はっと息をつく。チルノと言えば、姿が見当たらない。
「あんた、雪をどこやったの?」
「丘のふもとに放り込んだけど?」
「ちょっ」
霊夢は慌てて走り出し、丘の上からふもとを見やった。
「チルノー!」
その丘のふもと。
雪が放り込まれて山のようになったものから、チルノの手が飛び出た。
そのまま「ふぐっ! ふぐっ!」と力を込めて体を抜いてくる。
そして上半身だけ雪の山から出した状態で力尽きたのか、ぐったりと頭を垂らした。
「なんなのよう……」
紫と一緒になってチルノを救出し、三人は神社内の一室に集った。
チルノはぶすっとしていたが、茶菓子を出してやると全てを忘れたようだ。
嬉しそうに羊羹をほお張っている。
「で、なんなの、異変って」
「この雪よ」
チルノはほとんど聞いていないようだが、それに構わず二人は話を進める。
「この雪が異変なの? まあ、確かに異常だとは思うけど……」
「異常なら私が動く必要もないわ。異常ではなく異変。博麗の巫女の出番よ」
「人を便利屋扱いして……」
霊夢は不満そうに羊羹に口をつける。
「便利屋というより解決人かしらね。始末人?」
「そんなのどうでもいいわよ。で、原因はなんなの?」
「んー、それがよく分かんないのよねえ」
「ちょっと」
以外に無計画らしい。
「大丈夫よ。他に知ってそうな人を呼んであるから」
そう言って、紫は次元の隙間を開いた。
紫は境界を操る妖怪で、ようはワープが使えるのである。
本当はもっとややこしいようだが、面倒なので霊夢はそういう能力だと理解していた。
宙に現れた空間の切れ目から、どさどさと人が吐き出されてくる。
現れたのは四人の女性たちだった。
永遠亭の主、蓬莱山輝夜。
同じく永遠亭の医者、八意永琳。
寺子屋経営、上白沢慧音。
家事手伝い、藤原妹紅。
大体彼女らへの霊夢の認識はそんなところだった。
そうそうたるメンツに、霊夢はほっとして顔をほころばせる。
しかし、
「あ? 何だここ。ってあ! 輝夜! てめえ、ここで会ったが百年目……」
「なに? 食事中だったのに。しかもこんな野蛮人の前なんて」
「紫さん、それに霊夢さんまで。ここは博麗神社? いきなり呼び出すのは感心しないわね……」
「誰が野蛮人だ!」
「雪かきの最中だったんだが……」
霊夢は顔を引きつらせる。
「いきなり連れて来たわけ!?」
「だって一人一人説明するの面倒だったから」
紫は悪びれた様子も無い。
「あー、もことけーねだ」
チルノは嬉しそうに二人を見る。
「む、チルノか。宿題はしたか?」
すぐにチルノは気まずそうに視線を外す。
「う……そのうち」
「全く。また居残りをしないといけないぞ。お前に解ける問題を出しておいたはずだ。そもそも宿題というものは……」
「輝夜、勝負だ!」
「だから野蛮人なのよ……」
「なんだと!」
「紫さん、この事態は要するに、連日の大雪が幻想郷のバランスを崩すまでになった、ということかしら」
「何もお前を苦しめるために宿題はあるのではない。やり続けることによって……」
「輝夜てめえ!」
埒があかない。
「全員黙れ!」
霊夢が一喝すると、なんとか場を鎮めることに成功した。何だかんだで霊夢は頼れる存在である。
コホンと息をつき、紫を見る。
「さ、説明してちょうだい。異変が起きたんでしょ?」
「ええ」
紫は満足そうに霊夢を見ると、今度は若干緊張した面持ちで皆を見やった。
「この大雪、何かおかしいと思わない?」
チルノ以外の同意する空気がその場に漂う。それを感じ取ると頷き、紫は続けた。
「何か魔力の波動を感じるの。私も知らないような古臭い魔力よ。でも巧妙に隠れてるみたいで、探し出すのは困難。蓬莱人の方々は何か知らない?」
呼び出された四人は揃って難しい表情をした。
永琳が口を開く。
「あなたと同じく、確かに何かしらの魔力は感じたわ。それもかなり古い魔力。それがこの大雪を生み出しているのだとしたら、相当規模の大きなものね」
紫は輝夜を見た。彼女は静かに首を振る。
「永琳が分からないことは私にも分からないわ」
「そう……慧音は何か知らない?」
慧音も同じく首を振る。
「私にも訳が分からなくてな。人里は人外と一緒に保護しているが、そう長く続けることも難しい」
「そう……困ったわね」
本当に困ったように溜息をつく紫。こんな彼女を見るのは初めてかもしれない。
いつも飄々としてからかうように霊夢に絡んでくるというのに。
それだけ事態の深刻さが見て取れた。
自分に聞かれなかったことを不満に思いながらも、実際知らないのだから仕方ない。妹紅は若干ふてくされた様子で顎をついた。
とそこで、霊夢は呼び出された面々を見渡して首をかしげる。
「パチュリーは? 何か知ってるんじゃない?」
紅魔館に住む魔法使いであるパチュリーは、いつも本を読んでいて知識も深い。何かしら知っている可能性は十分あるし、知らなくとも知恵は借りたい。
紫は頷いて答えた。
「これから出向こうかと思って。大量の本から大雪のことを調べられるかもしれないわ。作戦本部は紅魔館に設置。移動するわよ」
一同頷く。チルノだけは分かっていない様子で頷いているが。
「そうそう、妹紅には別の仕事を頼みたいの」
「ん?」
「家の中に引き篭もってばかりいては実際が掴めないわ。手当たり次第幻想郷を歩いて、何か手掛かりを探してほしいの。寒いの平気でしょ?」
どうやら妹紅を連れてきたのはそれが目的のようだ。
妹紅はやっと出番が回ってきたことにニヤリと笑う。
「分かった。私もこの雪には迷惑してるしな」
「ちょっとは役に立つといいわね」
「なんだと輝夜てめえ! お前こそ役に立たないんじゃねえか?」
「なんですって?」
「だから喧嘩はやめなさいよ、そんな場合でもなしに……」
霊夢が疲れた様子で額に手を当てる。
「ゆかり、あたいは?」
チルノが身を乗り出して紫に迫る。
自分も何かに参加したいようだ。
紫が困ったように首をかしげる。
「んー、えーと……。チルノは……そうね。あなたも寒いの平気よね?」
「うん!」
「じゃあ妹紅と一緒に幻想郷を探って頂戴」
「分かった!」
「重要な仕事よ。失敗は許されないわ」
「頑張る」
それから、妹紅とチルノは外へ。他の四人は次元の隙間で紅魔館へと移動していく。
霊夢はチルノを見送るとき、昨日のチルノの様子が脳裏をかすめた。
「………………」
かぶりを振る。
昨日は月と雪の反射光で妙な雰囲気になり、頭が混乱していただけなのだ。
紫に促され、霊夢は出発の準備に取り掛かった。
三、
外は相変わらずの猛吹雪であった。
前から雪が襲い掛かってくると思ったら、今度は後ろから奇襲をかけてくる。
雪の波状攻撃に耐えられなかったのか、細い木はことごとくなぎ倒されている。
地面など見える場所はない。
降り積もったばかりの柔らかい雪が、間抜けな通行人を飲み込もうと息を潜めている。
そんな視界も定かではない中を、妹紅とチルノは普段と変わらない様子で歩いていた。
妹紅の体からは湯気があがっている。
炎の力を持つ彼女は、体内から熱気を発生させて雪と寒さを防いでいるのだ。
雪は妹紅に触れることもできずに寸前で蒸気に変わる。
一方チルノは、視界が悪いのも構わず張り切って歩いている。何やら雪のほうからチルノに道を譲っているようだ。
「…………?」
そんなチルノを見て、妹紅はどこか違和感を覚える。
チルノは氷の妖精である。だから寒かろうが雪が降ろうが平気。それは分かる。
しかしチルノの頭に雪が積もる様子も無いのはどういうことか。
そもそも風も強い。チルノが吹き飛ばされないように手をつないでいるが、それが必要無いくらいチルノは淀み無く歩いている。
まるで、吹雪のほうからチルノの邪魔をすることを避けているように。
これも自然の化身の一人である氷の妖精の力なのだろうか。
そう納得することはできたが、神社での会話を思い出す。
(この雪は、自然じゃなくて人口のものじゃなかったか?)
雪なら何でも同じということだろうか。
考えるのは苦手なので、そこで思考を放棄する。
なにかそう、そんな感じなのだ。
何かにつけて雪だるまを作りたがるチルノを引っ張り、妹紅は幻想郷探索任務を続行した。
「………………」
パチュリーは不満であった。
妖怪やら蓬莱人やら人間やらが突然押しかけてきて、本を見せろと要求してくるのだ。
断るという選択肢が元から無いことは分かっていた。分かっていたが、本は大切な彼女の所有物である。
しかもこの類の生き物共は、結構ぞんざいに本を扱う。
この上なく渋い表情をしてみせてから閲覧を許可したが、彼女らに何か気にした様子はなかった。
「で? 何かあなたは分かってるの?」
本に目を通しながら紫が聞く。
そんな彼女を見て、パチュリーは珍しいこともあるものだと思う。
おそらく幻想郷で一、二を争うくらい深い知識を持つ紫が、他人にそれを要求してくるのだ。
それだけで、この事態の異常性が理解できた。
「……私も色々調べてみたわ。大雪を降らせる魔法もいくつか見つかった。でもこの雪はそのどの魔法とも適合しない。もっと古い印象を受けるし。それに、とてつもなく強い魔力よ」
「そう。強い魔力なのはおそらく時間が経っているからね。古い魔法の力は骨董品の価値のように上がっていくわ。たとえ単純な仕掛けの魔法だとしてもね。値上がりする前に買い占めてきたはずなんだけど……」
「そんなことしてきたの……」
紫が昔から幻想郷の守護者、のようなことをしているのは薄々感じていた。
普段飄々としているのでそんなことは思いもよらないが、裏ではどんな苦労があるのだろうか。
「…………私も本を探してくるわ」
めったにあげない腰をあげ、パチュリーは果てしなく続く本棚へと歩いて行った。
その後姿に、紫が小さく「ありがとう」と呼びかける。
言葉を聞き取れたのか聞こえない振りをしたのか、パチュリーはそのまま歩みを進めた。
「…………チルノ?」
突然止まったチルノを、妹紅は手を引いて促した。引っ張られると力なくよろめくが、自分から歩こうとはしない。
チルノはあらぬ方向をじっと見つめている。
その先には林があったが、その中の何かを見ているようにも思えた。表情は無い。
ガラスのように青い瞳が、今は本物のガラスのように見えた。
「どうしたんだ?」
チルノの手がどんどん冷たくなっていくのを感じた。
妹紅も手に込める熱気を強くする。
やがて、チルノは誰に言うでもなく感情のこもっていない声で呟いた。
「誰かに呼ばれた……」
妹紅は思わず耳を立てるが、聞こえるのはごうごうとした吹雪の音だけである。
氷の妖精には、この音が言葉を紡いでいるように聞こえるのだろうか。
「誰も呼んでないだろ? ほら、行こうぜ」
妹紅が促しても、なかなかチルノは動こうとはしない。じっとただ一方向を見つめ続ける。
「……そっちに何かあるのか?」
氷の妖精だからこそ感じ取れることもあるのかもしれない。
妹紅はチルノの顔を覗き込むが、その表情からは何も読み取れない。普段であれば、顔を見れば何を考えているのかすぐに分かるのだが。
「……じゃあ行ってみるか」
埒があかないので、妹紅はチルノの手を引っ張って林へと歩みを進めた。
途端、チルノが足を踏ん張る。
手を強く引かれ、妹紅は思わずよろめいた。
不審に思って振り返ると、チルノが泣きそうな表情で必死に首を振っている。
「だめ。もこ、帰ろう」
「え? あっち嫌なのか?」
今度は勢い良く顔を縦に振る。
訳が分からなかった妹紅だが、一応チルノが見ていた林の場所を憶え、別の方向へと一緒に歩いていった。
霊夢がじっくりとこの図書館に入るのは初めてだったが、やはり滅茶苦茶な構造をしている。
明らかに建物の大きさを超えている広さ。どこまでも本棚が一直線に続き、はるか向こうには消失点まで見える気がした。
「こんな中からどうやって探せ、っていうのよ……」
愚痴りながら適当に本を取り、ぱらぱらと捲る。訳の分からない文字が並んでいた。
しょうがないので本を戻して引き返す。あまり離れると戻って来れなくなりそうだった。
「ちょっと、探しようがないわよこれ」
入り口近くにあるテーブルに戻ってきた霊夢が困った様子で訴える。
テーブルでは皆が真剣に本と睨めっこをしていた。
「どうやってその本選んだの?」
霊夢が皆の本を覗き込んでいると、パチュリーが顔を上げ、けだるい様子で言った。
「探しようはあるわよ。この図書館の検索システムは頑固だけど優秀よ。いいから適当に本を取ってみなさい」
「適当に……?」
霊夢は言われるままに、近くの本棚から本を抜き出した。
捲ってみるが、やはり訳の分からない文字が並んである。
「だめじゃない。全然読めないわよ」
パチュリーは怪訝な表情で本を閉じた。
「……変ね。その人に『適当である』本を自動的に選び出してくれるはずなんだけど」
「自動的に……?」
霊夢はあらためてその本を眺める。
かなり古ぼけた本で、しかし文字を読む分に支障は無い。内容はやはり分からないが。
そして、先ほど適当に抜き出した本と同じ物のように見えた。
「ん」
パチュリーに渡してみる。
彼女は怪訝な表情でそれを受け取り、しかしその本の表紙を見ると、
「あ」
滅多に出さない大きな声をあげた。
その場の面々が何事かとパチュリーを見る。
「どうかした? パチュリー」
「これ……よく見つけたわね。ずっと探してたのに……」
パチュリーは感心したような嬉しそうな様子で本を眺めている。
霊夢はパチュリーの笑顔など初めて見た。
「何よ。あんたの昔の日記?」
「違うわよ。古代魔法の載った魔法書よ。人間界では持ってるだけで処刑は確実な代物よ?」
「なんでそんな物があるのよ……」
「いくら欲しいと思っても出してくれなかったのに……これも博麗の力かしら」
パチュリーはいそいそとページを捲る。慧音や永琳も寄ってきてそれを覗き込んだ。
皆は見たことの無い西洋文字を見て顔をしかめる。
「それにこの大雪のことも載ってるの?」
「待って、今調べてる」
パチュリーはとてつもない勢いでページを捲り始めた。
「……あんたこれちゃんと読めてるの?」
集中して聞こえていないのか、霊夢の言葉を無視してひたすら読を進める。
そしてあるページで手が止まった。
霊夢や慧音、輝夜、永琳には他のページと何が違うのか分からなかったが、パチュリーと紫には分かったようだ。
「これは……」
「ええ……」
二人して深刻な表情をするのを見て、霊夢は怪訝な顔をする。
「ちょっと、説明してよ」
「待って」
二人はしばし前後のページを見たりしていたが、やがて難しい表情で顔を上げた。パチュリーが静かに口を開く。
「分かったわ。魔力の波動が情報と一致する。これよ、この大雪の魔法は」
「一体どんな魔法なの?」
難解な西洋文字の読めない四人が神妙な顔つきをする中、紫が難しい表情をして答えた。
「昔の魔法装置ね。名前は『限りの白』。そして天候操作魔法ではないわね」
「『限りの白』?」
幸せそうなのか危険そうなのか微妙な名前だった。
「天候操作魔法ではない、って? その魔法が大雪を生み出してるんじゃないの?」
パチュリーが若干興奮した様子で声を荒げる。
「それは副次的な効果に過ぎないわ。この魔法は周期管理魔法」
「周期? ちょっと分かるように言ってよ」
とそこで、
「まさか!」
「おいおい……」
永琳が思わず叫ぶように言葉を洩らし、慧音は引きつった表情で目を見開く。
「永琳?」
輝夜が怪訝な様子で自分の従者を見る。
霊夢もじれったい様子で言葉を催促した。
パチュリーと紫はお互い顔を見合わせて頷き、どちらともなく述べた。
「氷河期を呼ぶ魔法よ」
暖炉の中の薪がはぜる音が、妙に耳に響いた。
「…………氷河期?」
霊夢は確認するように慎重に繰り返す。
パチュリーと紫は一緒になって頷いた。
「昔の人は周期的に氷河期がやって来ることを知り、コントロールしようとしたみたい」
「いつやって来るか分からないよりも、いっそのこと自分たちで予定を決めてしまったほうがいい、ってことね」
そこまで聞いて、霊夢は慌てて疑問を挟む。
「ちょ、ちょっと待って! 氷河期なんてずっと先の話でしょ? 何でわざわざ早く来させるようなことするのよ」
「次いつ頃に氷河期が来るかは、当時分からなかったんじゃないかしら。自分たちが生きているうちに氷河期が来なければいい。昔の人にとっての今は遠い未来の話だから。だから『ここくらいでいいか』ってことじゃないかしら。どうせ自分たちはその時にはいないわけだし」
「そんな適当で無責任なことで氷河期を押し付けられて、たまったもんじゃないわよ……」
霊夢は苛立ちを募らせたのか、荒々しく手元にあった紅茶を飲み干す。
自分の紅茶を飲まれて不満そうな顔をするパチュリー。
「術者は魔法装置自体。対象は『世界』。当時としては最先端の魔法でしょうね」
「……じゃあ世界全体が氷河期になってるの? てっきりまた幻想郷だけかと思ったけど」
それに紫はかぶりを振った。
「いいえ。この魔法が下界で発動したとしても、結界で守られた幻想郷に影響は無いわ」
「それじゃ要するに……」
「魔法装置は、幻想郷の中にある」
輝夜が唸るように言った。
どこか寒気がする。どうやら外の寒さがひどくなってきたようだ。
「どうして幻想郷にそんな物があるのよ」
「それは分からないわ。最初からあったのかもしれないし、ひょっとしたら、魔法装置に気づいた昔の人が面倒事を押し付けてきたのかも。でも逆に言えば、結界で遮られて下界に影響は無いのよね」
「ああそう……で? 解除方法はあるの?」
「ええ」
霊夢はほっと胸をなでおろす。
「大元の魔法発生装置に解除の呪文を唱えれば、誰でも解除できるわ」
「じゃあ早速魔法を解除しに行きましょうよ」
それに紫が困った様子で答える。
「それが、問題があるのよ……」
「問題?」
パチュリーと紫は揃って頷く。
「ここには詳しく書かれていないけど、多重の防衛魔法が敷かれてるみたい」
「ふっ飛ばせばいいじゃない」
「そうね。でもそれ以上の問題があるの」
「何?」
二人は顔を見合わせ、心底困りきった表情を見せる。
霊夢が怪訝な表情でいると、やがて口を揃えて言った。
「場所が分からないの」
四、
「ししし死ぬ。死ぬ。死にますってこれほんと」
紅魔館の門の前で、美鈴はなんと門番を続けていた。
吹雪が吹きすさび、彼女の腰まで雪が積もっている。
無謀にしか見えないが、なんと普段着であった。
申し訳程度にマフラーを巻いているが、そんな物で暖を取れるわけもない。
普段やたらと門番の仕事を失敗している美鈴は、罰として館の主に吹雪の中の門番を命じられているのであった。
「ふふ、だ、だだ大丈夫ですよ。ささ咲夜さんの手編みのマフラーがあれば、ばばばなんだって耐えられますよ耐えられますとも」
咲夜はこの館のメイド長で、美鈴の上司にあたる。
流石に美鈴のことを心配した咲夜がマフラーを渡してくれたが、強がって「これだけあれば大丈夫です!」とか言わなければ良かったと今では思ったりもする。
別に咲夜の手編みとは限らないのだが、美鈴はそう思い込むことで必死に寒さに耐えていた。
がちがちと歯を鳴らしながら、数秒おきに帽子に積もる雪を振り払う。
「はは、ははは。いいいいえ分かりますとも。こここれは試練なのですね。咲夜さんへの、じゃなかったお嬢様への忠誠を試すための。ややりとげて見せますとも。そしたらめ一杯咲夜さんにごほうびを貰って、暖かい暖炉で、一緒に……並んで……」
目の前で咲夜が手を差し伸べている。後光が差す中、「いらっしゃい」と微笑み、美鈴をいざなう。
「ああ……咲夜さん、今行きます……」
手を伸ばしかけたところで、頬を叩かれた。
「っう……え?」
見ると、妹紅とチルノが目の前に立っている。
「あ、あれ? 咲夜さんは?」
「何寝ぼけてんだ。臨死体験でもしてたか? いいから門開けてくれよ」
そう言って、妹紅は自身の炎の力を強めた。
熱が放射状に広がり、門周辺の雪を一瞬で水に変える。
その熱波を浴び、美鈴は人並みの体の震えが一気に戻ってきた。
「あ、ああ……あ……」
「どうした? 早く……ってわあ!」
生物としての本能から、暖かいものへと飛びついた。
強い熱を発する妹紅に抱きつき、頬を猫のように擦り付ける。
「ちょ、お前何してる! 離れろって!」
「もこー」
「チルノ、なぜお前まで!」
サンドイッチにされ、どうしたものかと体を硬直させる妹紅。
「……あなたたち何してるの?」
そんな三人を見て、やっぱり美鈴に防寒着を渡そうとやって来た咲夜は眉をひそめた。
それからの美鈴の行動は早かった。
即座に妹紅を突き飛ばし、余裕の笑みを浮かべながら咲夜に振り返る。
「あっはっは。いやちょっと、ちょっとしましてね。感激したんです。妹紅さんに。ほんといい人です」
「はあ……」
咲夜は訳が分からなかったが、蒸気を上げながらゆらりと立ち上がる妹紅を見て、速やかに館の中へと戻っていく。
「え? あれ? 咲夜さーん。何か用事があったんじゃ……」
美鈴の首根っこを、妹紅は乱暴に掴んで引き寄せた。
「あ、も、妹紅さん……?」
「てめえ何しやがる……」
見ると、チルノまでその場からそそくさと退避している。
妹紅から立ち上る蒸気は勢いを増し、何か別のものまで発生しているようにも見えた。
「そんなにあったまりたいなら……」
「ちょ、ちょっと待ってくださ、いやほんとごめんなさい!」
「これでもくらえやあ!」
紅魔館の門の前で、巨大な火柱が立ち上がった。
「……お前ら何をしてきた?」
外で響いた轟音の後にやって来た妹紅とチルノを、慧音は眉をひそめて迎えた。
「別に。雪かきだよ。ついでにゴミも」
「さいきょー」
「……そうか」
二人が(特にチルノが)何を言っているのか分からなかったが、それ以上聞かずに座ることを促す。
「で? 何か分かったのか?」
「そうね。一旦整理しましょう。皆集まって頂戴」
紫が皆をテーブルに集め、分かったことを纏め上げていった。
暖炉の薪も少なくなってきた。妹紅が来たので火を消し、部屋を暖めることを任せる。
「……要するに、昔の馬鹿共が作った魔法装置のせいで氷河期が来てる、ってことか。そいつを探し出して防御魔法ごと破壊すればいいんだな」
「もしくは触れながら解除の呪文を唱えればいいわ」
「面倒くさいな。見つけたらさっさと破壊しちまえ。こんなとこにいないで探そうぜ」
妹紅が勢いよく立ち上がって皆を促す。
しかし面々の腰は重い。
「どうしたんだよ。行こうぜ」
パチュリーがけだるい表情で妹紅を見上げた。
「簡単に言わないでよ……外は氷点下二十度を下回ってるのよ? 寒さに耐性のあるあなたたちみたいなの以外に、そうそう出ていられる生き物なんていないわよ」
「さっきいたけど……」
「なに?」
「なんでもない。じゃあなんだ、また私とチルノで行くか?」
紫が困ったように小さく唸る。
「幻想郷と言っても広いわ。魔法装置も、文献によると直径五センチほどの球体みたい。探し出すのは困難よ」
「おいおい、それじゃあどうするんだよ」
「うーん……あなたたち、さっき外を歩いて何か気づいたことはなかった?」
「そう言われてもなあ……」
「チルノは氷の妖精だけど、何か感じなかった?」
とそこで、妹紅がはっと手を打つ。
「そうだ! チルノ、お前何か感じてたよな?」
突然呼ばれ、茶菓子をほお張っていたチルノは、はっとしてその場を見渡した。
自分が注目されていることに落ち着かない様子できょろきょろする。
どうやら何も聞いていなかったようだ。
「……駄目かも」
輝夜が諦めたように呟く。
妹紅は深い溜息をつき、チルノの肩をがっしと掴む。口元にお菓子のカスがついているのが目に付いたが気にしない。
「チルノ、お前あの林に何かを感じたんだよな? 『呼ばれた』って言ってたし。一体何を感じたんだ?」
「え、えと……」
パチュリーが顔を曇らせる。
「『呼ばれた』? 何かしらそれ」
「待て、今はチルノの言葉を聞こう。チルノ、落ち着け。急いでいない」
慧音に言われ、チルノは息を吐いて緊張をほぐす。
たどたどしい口調ながら、言葉をなんとか吐き出そうとする。
「えと……なんかが、あたいを呼んでる気がして……それで、怖くなって……」
霊夢は眉をひそめる。
昨日の夜、チルノが神社に来たときも、チルノは『怖い』と言っていた。一体彼女は何を感じているのだろうか。
どうやらそれ以上の情報は得られないと見て、紫はチルノに笑いかけた。
「ありがとう、チルノ。重要な情報を得られたわ。任務を立派に果たしたのね」
「そ、そうかな……」
照れたように頭を掻くチルノ。
かなり曖昧な証言だが、手探りよりは見て探ったほうが良い。
「場所は憶えてる。そうと決まったらさっさと行こうぜ」
「まったく、元気ね……」
やれやれといった具合で輝夜が腰を上げる。
それを見て、永琳が慌てて引き止めた。
「姫様自らですか? 私が行きますよ」
「いいえ。自分で動くわ。『不死』が二人で行けば確実でしょ? あなたはここに残りなさい」
「そんな、姫様を危険にさらしておいて……」
「命令よ」
「…………はい」
永琳にも輝夜の気持ちは分かっていた。姫のプライドとして、ライバルである妹紅に救われるのが我慢できないのである。
結局行くメンバーは、妹紅とチルノ、輝夜、霊夢、紫の五人となった。
「気をつけるんだぞ。まずそうだったらすぐに逃げるんだ。何も無かったらいつまでも探さなくていいからな。それと……」
チルノに次々とまくし立てる慧音を、妹紅は苦笑いと共に遮った。
「慧音、そんなに心配するな。私もついてる」
「そうだが……」
「あたいさいきょーだから大丈夫」
「ああ……そうだな」
霊夢たちは咲夜に防寒着を渡されて袖を通していた。
「悪いわね。場所まで借りてるのに」
「いいわよ。夜になるとお嬢様が行きたい、って言い出すかもしれないから、できればそれまでに解決してほしいわね」
「ああ、そういうこと……」
「それじゃ」
「行ってきます」
五人は広い玄関から寒波吹き荒れる極寒へと踏み出していった。
そして、
「……何あれ」
雪の地面に黒焦げの美鈴が倒れていた。一応生きてはいるらしい。
「放っておいて。回収しておくから」
玄関口から咲夜が呼びかける。
「ああ、そう……」
気を取り直し、五人は門を出て目的の林へと歩いて行った。
五、
吹雪はやんでいた。今は雪が静かに降り積もる。しかし氷河期化は相当程度進行しているようで、木々も全て凍りついていた。
慧音によって森に住む妖精や妖怪も集められ、寒さからは保護されている。
なので、雪が音を吸収することもあり、幻想郷にはほとんど音が無い。
生き物の声も、木々が擦れる音もしない。
あるといったら、こんな言葉通り身も凍るような空の下、わざわざ出歩いている稀有な生き物たちの雪を踏む音くらいである。
「……………………」
「……………………」
「………………」
「…………………………」
「……………………」
「………………ああもう!」
自分を中心に密集され、妹紅は窮屈さのあまり声を荒げた。
「なんなんだよ! 輝夜まで! 寒いなら篭ってれば良かっただろ!」
「だって……」
「寒すぎでしょ、これ……」
霊夢は妹紅の手を握り締めて震えた。
反対の手は紫が握っている。
その様子を恨めしそうに輝夜は見て、しかし妹紅の後にひっつくくらい近くを歩いている。
チルノも加わりたそうにしているが、三人の無言の圧力によって霊夢の手を握ることとなっていた。
暑さ寒さに関係する能力者の宿命とも言えた。ちなみに夏は妹紅とチルノの立場が逆転することになる。
「それにしても、氷河期を操るなんて昔の人はすごいわね」
霊夢は少しでも喋って寒さを紛らわそうとする。
同じく寒そうにしている紫が答える。表情には出していないが、唇は紫に染まっている。
「あら、昔は大魔術を発動させやすかったのよ?」
「え? なんで?」
「生贄の調達が容易だから」
輝夜が答えを引き継ぐ。
ここにいるのは霊夢とチルノを除いて皆相当な長生きである。
輝夜と妹紅に至っては不老不死だ。
「そういうことね……」
「この魔術も、百人を超える生贄を使ってるわ」
「百人!?」
「ええ。彼らが知ったらどんな気持ちになるのかしらね。自分たちの命をかけて作られた魔術が、全く意味の無いことだって知るのは」
「…………私なら言いだしっぺを裸にしてこの中歩かせてやるわ」
「それいいわね。これが解決したら冥界で指名手配してみようかしら」
「……死者は休ませてやりなさいよ」
輝夜が溜息混じりに呟く。
その彼女に、妹紅は鼻で笑って言った。
「お前は死んでなくても休んでるじゃないか」
「なんですってえ。何もしてないのはあなたも同じでしょうが」
「してるさ。お前を倒すために毎日修行だ。こそこそ刺客を送り続けやがって。修行の成果を見せてやろうか」
「ふん。私が闘うとあなたが相手にならないから刺客で勘弁してやってるのよ。ありがたく思いなさい」
「へえ。相手にならないかどうか試してやろうか」
感情に合わせるように、妹紅の炎の力が強まる。霊夢は更に暖かくなった手をほっとした様子で握り締める。
「ああ、暖かくなった。もっとやりなさいもっと」
「普段は喧嘩止めてるのに……」
薪をくべる感覚で油を注ぐ霊夢を見て、紫は深い溜息をついた。
輝夜は童話のかぐや姫その人で、妹紅は振られた五人の貴族のうち一人の娘である。
共に蓬莱の薬を飲んで不死となった二人は、数百年に渡って不毛な争いを繰り広げていた。
「……えーと、ここらだったかな」
そろそろ例の林に着いたと思ったが、どうにもはっきりと思い出せない。
「やれやれ……」
盛大に溜息をつく輝夜。
カチンときた妹紅が突っかかろうとするのを、霊夢が肩をぽんぽん叩いて抑えた。
とそのとき、
「こっち」
チルノが林の奥を指差した。
全員がその方角を見るが、何が見えるわけでもない。
「行ってみましょう」
紫が言ったが、それに妹紅が待ったをかけた。
「待ってくれ。チルノ、大丈夫なのか?」
見ると、チルノは顔を青くしていた。まさか寒さが原因ではないだろう。
それでも無言で頷く。
「……分かった。きつくなったら言うんだぞ」
「チルノは氷の妖精だから、『限りの白』の強烈な魔力と共鳴しているのかもしれないわね。だとすると、ますますこっちにある可能性は高いわ」
紫が冷静に分析する。
五人は林の奥を睨むように見やると、やがて足跡を残して進んでいった。
林は全て凍りついていた。
枝は凶器のように鋭くなり、触れたものの皮膚を容赦なく切り裂く。
時折チルノに方角を聞きながら、なるべく開けた道を選んで進む。
「綺麗……」
霊夢は白い息を吐きつつも、その光景にしばしば目を奪われた。
木々は凍りつき、つららが枝から垂れている。
それは地面にまで達し、まるで透明な枝が木を支えているようだった。
少女の無垢な感想に、思わず笑いそうになりながら紫はその光景を眺めた。
「生きることのできない世界。そこに人は憧れを見出し、山に登り、海に潜り、果てには宇宙にまで飛び立とうとする。ならばここも、人の憧れを引くに足る資格があるのかしらね」
「あら、宇宙に人は住めるわよ?」
月人である輝夜が肩をすくめて訂正する。
紫は薄く笑って頷いた。
「そうだったわね」
やがてチルノの足が止まった。
頭を抑えて座り込む。
「チルノ? どうした」
妹紅がしゃがみ込んでその顔を覗くと、チルノは顔面蒼白で呟いている。
「怖い……呼ばれてる……行かないと……行きたくない……」
妹紅はチルノの肩を優しく叩いてやる。
「大丈夫だ。ここまでで十分だよ」
「チルノ、最後に聞くわ。方向はどっち?」
霊夢に聞かれ、チルノは林の奥を指差した。
妹紅は万遍の笑みを浮かべてそちらを見やった。
「よし。じゃあやるか」
「私一人で大丈夫よ?」
「そう言わずに。皆でやると早いわよ」
「そうね。やりましょう」
四人は揃って不敵な笑みを浮かべ、一列に並んで林の奥を見やった。
霊夢が名残惜しそうに幻想的な風景を眺める。
「折角綺麗なんだけど……」
「ま、仕方ないな」
力を込めると、四人の周囲の雪が自然と消滅していった。
地面が恐れるように震え、木々が揺れて雪がぼろぼろと落ちる。
妹紅は文句を言うように、まだ見ぬ迷惑な魔法装置向けて叫んだ。
「姿を現しやがれ!」
そして、一斉に弾幕を放った。
ほとんど力をセーブしない攻撃で、木は焼け、なぎ倒される。
雪煙が舞ったと思ったら、次の瞬間にはそれすら消し去られていく。
轟音が鳴り響き、林全体の雪が音を立てて崩れ落ちた。
しばらくして攻撃はやみ、そこには木も雪も何も無い。茶色い地面だけがぼこぼこと残っていた。
チルノは頭が痛いのも忘れ、呆然と全く容赦のないその有様を眺めていた。
「……こいつらさいきょーかも」
妹紅は久しぶりの土の感触を楽しんでいた。
そしてもはや林とも言えない焼け野原の奥を睨み、にやりと笑う。
「ようやくお出ましか」
そこには、直径五センチほどの光る白い球体が浮かんでいた。
それを見て、紫は顔を曇らせる。
(今ので破壊できなかったのね……)
四人はまだ残っている林から出ると、土の上に降り立ち、球体、『限りの白』へと近づく。
チルノは離れたところから固唾を呑んで見守っていた。
「さあて、どうしてくれようか……」
妹紅が手に炎を纏わりつかせながら笑う。
輝夜は隣の熱気に顔をしかめながらも、散々迷惑をかける魔法装置を見て力を溜めた。
そしてある程度まで近づいたところで、球体が声を発し始める。
『第一防衛術式「大雪の陣」の突破を確認』
「喋った!?」
霊夢は驚いて球体をまじまじと眺める。
紫がのん気に、しかし目は厳しく球体を睨んで言った。
「こんな機能がまだ残っているのね。本当にやっかいな物を作ってくれたものだわ……」
球体は感情の無い合成音声のような声を発しながら続ける。
『第二防衛術式「不可視の零」を発動』
途端、周囲の温度が下がるのを感じた。見ると、球体を中心に地面が凍っていく。
それはこちらに迫ってきた。
「まずい!」
四人は一斉に引き返して逃げる。
チルノのところまで来ると、霊夢と紫が結界を張った。
直後、その結界が凍る。
透明の四角い結界に霜が張りつき、一瞬で白く染め上げられる。
「なんだよこれ!」
一気に寒さの増した中、妹紅が熱気を広げて皆を温める。
「とんでもない冷気ね……悠久の歳を重ねる中、ずっと魔力を高めてきたんだわ」
「冷静に言ってる場合か! どうする!」
「紫、あれスキマ送りにできない?」
「できるけど……何も無い空間なんて存在しないわ。送った先には必ず何かしらの世界がある。そこが氷河期になってもいいならやるけど?」
「む……こっちで解決すべきね」
「それでこそ博麗の巫女よ」
しかし攻め手が無いのは確かだった。
外はマイナス何度だろうか。
「……マイナス百度くらいかしら」
「もっといってると思うわよ」
気温が何度かを言っていても仕方がない。
「もっと下がって遠距離攻撃するのはどう?」
輝夜の提案を、しかし紫は首を振って否定する。
「さっきの一斉攻撃で傷一つ無いわ。防御は鉄壁ね」
「とすると……」
紫は頷く。
「触れて解除呪文を唱えるのよ」
「あんなの近寄れないわよ……」
言ってみて、霊夢ははっと気づく。
妹紅とチルノを見た。
寒さにはめっぽう強い二人だ。
「任せろ」
妹紅は立ち上がった。
強い熱気がほとばしり、結界についた霜を根こそぎ溶かしつくす。
「その解除呪文はなんだ?」
「『ここに冬の終わりを告げる』よ」
「分かった」
頷き、妹紅はチルノを見る。
「チルノ。すぐにお前の頭痛を消してやるからな」
「もこ……」
次に妹紅は輝夜を見た。
何か憎まれ口を叩かれるのでは、と苦々しい表情をしている輝夜に、しかし妹紅は薄く笑って言った。
「お前とは会うたびにいがみ合ってばかりだったな。私の過去にいたのはお前だけだっていうのに」
「妹紅……」
「これが終わったら、酒でも飲みながら昔話でもしようぜ」
そして、妹紅は結界の外へと抜け出ていった。目指すは『限りの白』である。
「妹紅!」
「もこ!」
「おおおおおおお!」
妹紅は体の炎を全開にして球体へと突撃していった。
数秒後、そこには全身凍りついて倒れる妹紅がいた。
霊夢と輝夜は、どこか「やっぱりね」といった表情をしている。
「あー……」
「まあ、ねえ……」
「……あなたたち、いいから策を考えなさい」
紫は何となく頭が痛くなって溜息をつく。
チルノはショックを受けた様子で倒れた妹紅を見ていた。普段あんなに強い妹紅がやられるのが信じられないようだ。
霊夢がぽんと手を叩いて提案する。
「そうだ。ここからスキマであの球体に手を伸ばして解除呪文を唱える、っていうのは?」
紫は首を振って否定した。
「ダメよ。冷気がスキマを伝わって来るし。それを防いだとしても、あの球体に触れた途端に指が凍って崩れ落ちそうよ」
「むう……」
霊夢は額に手を当てて考え込む。
「それじゃあ、あれに触れられるのって……」
「チルノだけ、ね……」
輝夜が言葉を続けると、三人はチルノを見やった。
顔は上げているが、頭は痛いのか、手で押さえながら三人を見る。
その彼女たちに見られ、流石に何を期待されているのか分かったようだ。
チルノの表情が硬くなる。
「チルノ……」
霊夢は呼びかけ、その続きを言えない。
苦しんでいるチルノ相手に、危険を冒せとは。
しかしチルノは立ち上がった。
頭を押さえる手を収め、じっと球体を睨む。
「行くよ……あたい、さいきょーだもん」
「チルノ……」
相変わらず頭は痛い。
しかし、やらねばならないことくらい、今のチルノには理解できた。
慎重に結界の外に出る。
途端、強烈な冷気がチルノを取り巻いた。
しかし、むしろそれに心地よさを感じ、チルノは球体目掛けて歩みを進める。
「いける……?」
霊夢が希望を感じて呟く。
チルノはずんずん進んでいく。
不思議と、頭痛は嘘のように引いていた。
球体に導かれるように淀みなく足を運ぶ。
途中、道半ばで倒れている妹紅の側に来た。
「もこ……」
妹紅は全身に霜が降り、その目は見えているのかいないのか、虚ろに球体を見つめている。不死なので死んではいないだろうが。
「そいつはいいから! 今は『限りの白』を!」
輝夜に呼びかけられ、チルノは球体に向き直る。
一気に走りこむと、あっさり手の届くところまで到達した。
輝夜は思わずガッツポーズを取る。
「やった!」
「チルノ! 『ここに冬の終わりを告げる』よ!」
三人が見守る中、チルノはおもむろに手を伸ばした。
球体に触れる。
呪文を唱えようとする。
その時だった。
『接近した生物に属性「冬」を確認。最終防衛術式「一の女王」を発動』
「え?」
こぼした言葉は、誰のものだったか。
触れた指先から、球体がチルノの中へと吸い込まれていく。
「あ、え、な」
戸惑うチルノに、変化はすぐに起きた。
「あ!」
チルノが悲鳴をあげて胸を弓なりに反らす。
最初の変化は羽だった。
ビキビキと音を立てながら、小さくて可愛らしかった羽が直径五、六メートルへと巨大化していく。
変化は髪にも起きた。
長くなると慧音に切ってもらっていた青い髪が、一気に地面に届くまでに伸びきる。
三人はチルノしか見ていなかったので気づかないが、上空では雲が渦を巻き、恐れおののくようにその速度を速める。
周囲の冷気がチルノを中心に渦を巻き、触れた地面が次々にひび割れていく。
呆然と三人が見ている中、チルノは虚ろな目をして彼女らを眺めた。
表情はある。驚いているようだ。
やがて小さな口を開く。
「どうしよう……あたい……世界を終わらせなきゃ」
六、
寒さは更に増したようだ。
暖炉にくべた薪を足しながら、慧音は手をすり合わせた。
少しでも妹紅たちの手伝いがしたく、再び本を読みに椅子に向かう。
その途中、パチュリーが難しい表情をしているのが見えた。
「どうした?」
見ると、霊夢が引き当てた本と、他の無数の本とを同時に開いて読んでいるらしかった。
パチュリーは本から顔を上げず、呟くように言う。
「『限りの白』……妨害者対策に、三重の防衛術式を発動させるらしいわ」
「他にも何か分かったのか」
永琳も興味深そうに寄ってくる。
「ええ。霊夢が引いた本から照らし合わせて、他の本の該当する箇所を集めたわ。それによると、
第一防衛術式は『大雪の陣』。大雪を降らせて敵の気力と体力を奪いつつ、自身も雪の中へと隠れる魔術。
第二防衛術式は『不可視の零』。マイナス百度近くの冷気を発し、近づく者を死に至らしめる魔術。
そして最終防衛術式『一の女王』。力の弱い小動物を取り込み、『限りの白』の全魔力をもって氷河期の執行者へと仕立て上げる魔術」
「取り込む?」
「ええ。詳しいことは載ってないけど、寒さに耐性のある小動物を取り込むみたい。生物の知恵を得ようということね。無生物魔法が生物魔法へ……本当に昔としては最先端ね」
「……あいつらは大丈夫なのか?」
「姫様……」
「大丈夫。人間とか妖精みたいな大きいのは取り込まめないみたいよ」
その時、紫の言っていた言葉がパチュリーの脳裏をよぎる。
「古い魔法の力は骨董品の価値のように上がっていくわ。たとえ単純な仕掛けの魔法だとしてもね」
「………………」
外を見る。
さっきまで収まっていた吹雪は、再び勢いを増して吹き荒れ始めていた。
「ち、チルノ……」
三人は信じられない、といった面持ちで変わり果てたチルノを見た。
「ど、どういうことよ」
「これはまさか……」
紫がこの時ばかりは目を見開いている。
「生物を取り込んだ、ということね……」
「ちょ、そんな! どうすればいいの!」
「…………」
紫は苦々しい顔で黙っている。そんな彼女を、霊夢が見るのは初めてであった。
「みんな……」
チルノが口を開く。
「チルノ!」
霊夢が呼びかけると、僅かにこちらを向いた。
どうやら意識を失ったわけではないらしい。
「みんな……あたい、変に……『障害を排除』」
突然、普段では想像もできないような堅苦しい言葉を発し、こちらに人差し指を向けてきた。
「まずい」
紫が通常の結界ではなく、スキマの結界を展開する。
次の瞬間、チルノの指から冷気のレーザーが発射された。
それは高速で三人に迫る。レーザーの通った地面は、一瞬で永久凍土並みに固まり切った。
しかしそれはあえなくスキマ送りとなる。
「っ! くう……」
直撃したわけでもないのに、レーザーの余波だけで三人は冷気によるダメージを受けた。
輝夜は体を震わせながら顔をしかめる。
「ちょっと、あの子ってこんなに強かったの!?」
「違う……」
霊夢は冷や汗をかきながら呆然とする。
「こんなに強いわけない。あのチルノは……普通じゃない」
「『限りの白』によって魔力を補強されたみたいね……」
「のん気に分析してる場合!? 何とかならないの!」
「……ひょっとしてだけど」
紫が唸るように言葉を搾り出す。
「『限りの白』はチルノと一緒になってるわ。チルノに触れた状態で解除呪文を唱えれば、解除できるかもしれない」
「なるほど……やってみる価値はあるわね」
輝夜は頷いてチルノを見やった。
そうこうしている間にも、チルノはほっとした様子をしつつ、呟くように言葉を発し始める。
「あ……良かった、当たらなくて、ゆかりの……『不明現象により効果を確認できず。執行者の別の術を発動』」
チルノが両手を振り上げると、周囲の冷気がチルノの巨大な羽に集まった。
「やだ……やめてよ……」
チルノは泣きそうに顔を歪めながら、しかし手を振り下ろす。
「『パーフェクトフリーズ』」
これに霊夢は見覚えがあった。出会った時にかけられたこともある。
しかしこんなに速く、大量の氷弾が飛んでは来なかった。
「っく!」
紫がまたも正面にスキマの結界を展開する。
いくつかの弾がスキマに飲み込まれて消えていく。
「紫! 周りから来る!」
この技を知っている霊夢は、周囲を見て叫んだ。
輝夜と紫が不思議に思って周りを見渡すと、さっきまで高速で突撃してきた無数の弾が、今は完全に空中で静止している。
一瞬の静寂。
「え?」
直後、それらの弾が一斉に三人目掛けて殺到した。
紫が咄嗟にスキマの結界を展開するが、間に合わずにいくつかの弾がぬけて来る。
霊夢も障壁を張ったが、いとも簡単にそれは破られた。
「そんな!」
『限りの白』による魔力の補強。それを正面から受けきれないと見切ったから、紫はスキマ送りにしてきたのである。
ましてや霊夢の力では、数発の氷弾も受けきることはできなかった。
「あああ!」
三人は氷弾の着弾点から吹き飛ばされた。
凍った茶色い地面の上に投げ出される。
体は冷え切り、一瞬で凍傷になったのか、手足の感覚が無い。
「う……二人共……」
霊夢が同じく吹き飛ばされた二人を見る。
すると輝夜はまだ無事のようだが、霊夢のすぐ隣にいる紫は目をつぶって意識を失っていた。
「ゆ、紫?」
返事は無い。
そこで気づいた。
紫は自分より凍傷の程度が激しい。髪まで凍り、顔には霜が付いている。
あの瞬間、紫は霊夢のことを庇ったのだ。
「紫、どうして……」
「霊夢」
見ると、輝夜がよろめきながらも立ち上がり、霊夢の側へと片足を引きずりながら歩いてくる。
「見なさい」
促され、チルノに目を移す。
「…………!」
チルノは泣いていた。
涙を流し、しゃくり上げながら三人を見やる。
「ごめん……ごめん、う……ぐ……ごめ……」
「チルノ……」
霊夢は凍った地面の土を握り締める。
昨夜チルノが神社に来たとき、彼女はなんと言っていたか。
「怖い」「異変はまた起きるのか」
チルノは、『限りの白』の呼び声を聞いて、何となく曖昧に、こうなる可能性を察知していたのではないのか。
霊夢のところへ来たのは、助けを求めてのことではないのか。
歯を食いしばって震える。まさかこれで終わりなわけがない。終わってたまるものか。
「霊夢、見てほしいのはあれよ」
輝夜に再び促され、霊夢はチルノの目元を見た。
涙が流れている。固まりもせずに。
「第二防衛術式とやらは解除されてるみたい。今なら接近できるはずよ」
接近すれば解除呪文を唱えられる。
しかしチルノはぼろぼろと涙をこぼしながら、人差し指をこちらに向けてくる。
「あ……」
霊夢が驚愕に目を見開く。
「やれやれ……」
輝夜は溜息混じりに霊夢の前に立ちふさがった。
「輝夜……?」
「死なないとは分かっていても、もしかしたら永久に凍り付いてるかもしれないわね」
輝夜はチルノに手を向け、全力をもって弾幕を張った。
チルノもレーザーを発射する。
二つの弾幕は衝突し、押し合いを繰り広げる。
しかしやがて押し勝ったレーザーが輝夜に迫った。
それを避けもせず真正面から受け止め、後ろの木へと吹き飛ばされる。
「輝夜!」
呼びかけには答えなかった。
輝夜の全身は凍りつき、ぼろぼろと体が崩れ落ちていく。
「……く!」
霊夢は立ち上がった。
手足の感覚は無い。しかし体の内に何かが煮えたぎるのを感じる。
チルノを、その中にある『限りの白』を睨む。
「助けてあげるから……だから昨夜、うちに来たんでしょ? ちょっと待ってるのよ……」
「れーむ……違う。違うよお」
チルノは泣きながら霊夢を見つめる。
「何が、違うのよ……」
「違う……やっと、分かった。あたい、助けて、ほしかったんじゃない」
「チルノ?」
霊夢は訝しげにチルノを見やる。
「あたい、止めてほしかったんだ。れーむに。ここに呼ばれて、行きそうになるあたいを。倒してでも、いいから……」
「な……」
「お願い、れーむう……本気で、倒す気で、来て……」
チルノは手を曇天に掲げる。
その手の平に雪の粒が収束し、球体を作っていく。
「チルノ……」
凍える手で、霊夢は札を取り出した。
「れーむ……お願『ダイアモンドブリザード』」
チルノの手の雪の粒が周囲に拡散し、それは無数の氷弾となって空に舞った。
チルノの前に覆うようにそれは広がり、その姿をほとんど隠してしまう。
霊夢の見たことの無い技だった。
直後、全ての氷弾が霊夢に襲い掛かる。その一粒一粒が一撃必殺の力を持っていることが分かる。
そして霊夢は、札を掲げた。
「夢想封印」
霊夢から直径一メートルはある光りの球が数個発射され、それは自動的にチルノに向けて襲い掛かる。
氷弾と光球が衝突する。
しかし次の瞬間、氷弾を全て飲み込んで光球がチルノに迫る。
相殺したのではない。この技は全ての弾幕を消滅させるのだ。
ああ、そういえば、あんたに初めて会ったときもこれを使ってやったっけね。
光球は寸分たがわずチルノに炸裂した。
「うっ!」
チルノは痛みに顔を歪めた。
服が破け、羽の一枚が真ん中で折れる。
そして霊夢は、光球の後を追うようにチルノに迫っていた。
「チルノ!」
「れーむ……」
手を伸ばす。
触れて呪文を唱えるだけである。
情報を検索。対象の使用した魔術の情報あり。対魔術限定消滅系魔術。執行者による対応は困難と判断。
チルノは目を見開き、涙をこぼした。
それは悲しみの涙であった。
「だめえ! やめて! 逃げてれーむ! 『第二防衛術式「不可視の零」を再発動』」
「え?」
我ながら間抜けな言葉を出したと思う。
途端にチルノから冷気が吹き出る。
格段に冷たい空気が霊夢の頬を撫で、その瞬間、霊夢は思う。
ああ、死ぬんだ。
あんな間抜けな言葉が最後の言葉になるなんて。
そして霊夢は、落ちた。
大きな音を立て、何か板の上に落下する。
その上には何かが載っていたらしく、割れるような音と共に液体が流れ出した。
「…………う」
生きてる?
周りを見渡すと、見知った面々の顔があった。
「……霊夢? あなた、何してるの?」
「…………パチュリー?」
慧音に永琳もいた。皆呆然とした様子で突然テーブルの上に降ってきた霊夢を見る。
「紅魔、館……?」
「それはそうだけど……何があったの? 他のみんなは?」
いきなり雪の林から紅魔館に移動した。
こんなことができるのを、霊夢は一人しか知らない。
霊夢をスキマによって転送し、紫は動かない顔で僅かに笑みを作った。
あなたは生きて。
博麗の巫女だとか、幻想郷の希望だとか、そんなことを考えてのことではなかった。
ただ霊夢という人間に生きてほしかった。
悠久の時を生きてきた彼女にとって、こんな感情を覚えたのは初めてかもしれなかった。
チルノからマイナス二百度を超える冷気が迫る。
もうスキマ一つ作る力も無い。
しかし、最後に霊夢を守れて良かったのかもしれない。彼女は泣いてくれるだろうか。
悲しい小さな妖精を眺め、紫は静かに目を閉じた。
「……………………」
いつまで経っても、やって来るはずの凍結を感じない。
あまりの冷気に感覚が麻痺したのだろうか。
寒気どころか、どこか暖かさまで感じる。
もう冥界に行ったのだろうか?
いや。むしろ、熱い。
紫は目を開けた。
そこには、紅い炎をほとばしらせた人間が立っている。
藤原妹紅。
おとぎ話の娘。
不死の人間にして、炎を操る力を持つ者。
冷気は激しい炎によって完全に遮られ、妹紅の心を反映したかのような熱が紫を乱暴に暖める。
「………………」
妹紅はじっとチルノを見ていた。
雪はいつの間にか静まり、しかしこれまで以上の寒さで生命の一滴まで搾り取ろうとする。
静かに雪が降る。
雪は音を吸収するという。
無音の空間で、青と赤は向かい合っていた。
冷気と熱気がせめぎ合い、空気が歪んで陽炎が揺れる。
「チルノ」
妹紅はおもむろに呼びかける。
チルノは涙も枯れ、目を限界まで広げて妹紅を見ていた。
「もこ……」
「チルノ。今助ける」
「だめ……だめだよ、あたい……」
「いいから。いつもみたいにしてろ」
「いつも……?」
「何も考えずに馬鹿でいろ」
チルノは訝しげに眉をひそめる。
しかし妹紅が足を踏み出した途端、言葉は勝手に紡がれた。
「『ダイアモンドブリザード』」
無数の氷弾が生み出され、正面から妹紅に襲い掛かる。
妹紅の手に炎の不死鳥が現れた。それは鳴き声一つあげて氷弾の群れに果敢に突撃する。
氷弾の大部分を蒸発させながらも、不死鳥はしかし、あえなく消滅した。
残った氷弾が容赦なく妹紅を襲う。
それを避けもせず、妹紅は全てをその身に受けた。
チルノが苦しい表情をする。
この氷弾に当たると、あまりの冷気に凍ったそばから崩れ落ちるのだ。輝夜のように。
しかし冷気で肉が凍る前に、妹紅の体内から発生する熱がその部分を暖めた。 不死の力もあり、すぐに元通りに再生する。
「え……『効果を確認できず。執行者の術を変更』」
チルノは人差し指を妹紅に向けた。
冷気のレーザーが発射され、高速で妹紅に迫る。
しかし妹紅は真正面から、チルノと同じような炎のレーザーを放った。
ぶつかりあう二つの光線。
接触点から蒸気が上がり、空へと舞い上がっていく。
その蒸気が凍ることはなかった。
もはやこの空間は冷気の独占状態ではなくなり、熱気がその勢力範囲を広げている。
妹紅のレーザーはチルノのレーザーを完全に相殺した。
即座にチルノは、『限りの白』は次の術に入る。
「『効果を確認できず。執行者の術を変更。パーフェクトフリーズ』」
チルノから無数の氷弾が発射された。
「しゃらくさい!」
妹紅からも無数の炎弾が放たれる。
それは氷弾とぶつかり、そのほとんどをかき消した。
それを確認し、妹紅は再びチルノに接近する。
「『効果を確認できず。執行者の術を変更。ヘイルストーム』」
チルノから渦を巻く氷弾の群れが放たれる。それは竜巻となって妹紅に迫った。
そしてチルノは不敵に微笑む妹紅を見て、その大きな目を見開いた。
「すごい……」
妹紅から五、六羽の炎の不死鳥が同時に生まれている。
それらは大きく羽ばたき、群れを成して氷の竜巻目掛け突撃した。
一瞬の押し合いを繰り広げた後、数を減らした不死鳥たちは、竜巻を貫いてチルノに迫った。
「っ!」
チルノの羽の一枚を突き破って溶かす。
一方、撃ちもらした氷弾が妹紅を襲った。
それは妹紅を直撃し、しかしすぐに傷は再生される。
はたから見れば余裕に見えるが、実は避ける体力も残っていないのである。
「『効果を確認できず』」
それは異常事態であった。執行者のどの術をもってしても敵を殲滅することができない。『不可視の零』は既に発動しているが、それも効果が確認できない。
このままでは破壊される可能性がある。
執行者の術はまだ残っているが、それをもってしても対応できる可能性は少ない。
そして、妹紅は叩きつける様に叫んだ。
「どうした、終わりか! チルノ!」
それに答えるように、チルノは目を見開き、言葉を紡ぐ。
それは『限りの白』に命令されたのではなく、自分の意志で放つ技であった。
『限りの白』は執行者が適切な妨害行動を取らない場合に、強制的に命令を下す。執行者に攻撃意志が確認できたとき、それを尊重する決定を出した。
「『効果を確認できず。効果を確認できず。執行者の術を変更』」
そしてとうとう、チルノから最後に残った技が放たれた。
彼女は泣いている。
もう何が来るかは分かっていた。だから、妹紅は真正面からチルノに突撃した。
「『アイシクルフォール』」
分かっていた。
この技がどんなものか、何度も見てきた。
馬鹿だと何回も思った。何回も言ってやった。
当然のように知っていた。
何度言っても直らない、知り尽くした安全地帯。
真正面に立ってやったことは何回あったろう。
怒って抗議されたのは何回だろう。
しかし、
チルノ。私はここに来たとき、いつもお前にこうしてやりたかったんだ。
妹紅はチルノを強く抱きしめた。
チルノの両側から発生した氷弾は、妹紅のすぐ後ろで炸裂する。しかし普段は届かないはずの目の前にも、いくらかの氷弾が殺到する。
『限りの白』によって強化された効果である。
易しいとも言えなくなった技。
もはや安全地帯とも呼べない危険地帯。しかし弾幕の密度は圧倒的に低い。
それだけで十分であった。
氷弾が妹紅の体を打ち抜く。服はぼろぼろになり、肉は凍り、崩れて落ちる。もはや再生する力も、体内から暖める力も残っていない。
しかし妹紅はチルノを掴まえて離さなかった。
「も、こ……」
抱きしめられたチルノが泣くのが分かる。
「ぐっ」
その時、妹紅の体に何かが刺さった。
チルノの手に氷の短剣が出現し、背中から妹紅の心臓を貫いたのだ。
「チルノ」
お前が馬鹿で良かったよ。
でも、その魔法装置はもっと馬鹿だな。
不明現象により効果を確認できず、『限りの白』は混乱をきたした。
心臓を貫かれて生きている生物などいるはずがない。
対象の急所を破壊。対象は死亡せず。続けて対象の急所を破壊。対象は死亡せず。続けて対象の……
「もういい」
妹紅は薄く笑った。笑ってやった。
チルノの耳元で、妹紅は解除の呪文を唱える。
そして、世界が白で染まった。
七、
暖炉にくべられた薪のはぜる音が聞こえる。
目を覚ますと、どうやらベッドに寝かされているようだ。
ここがどこか分からない。
妹紅は周りを見渡そうと体を起こした。
「っつ!」
そして、痛みに顔をしかめる。全身に包帯がぐるぐる巻きにされていた。
「ああ……」
思い出す。
あの時、チルノに抱きついて無我夢中で呪文を唱えた後、妹紅は気を失ったのだ。
「ここは……?」
どうやら西洋風の個室のようだ。部屋の調度品の嗜好に見覚えがある。
紅魔館の一室であった。
暖炉が備え付けられた豪華な部屋だ。
「チルノ……?」
あの後チルノがどうなったか分からない。
薄れる意識の中で、自分の名を呼ぶチルノの声が耳に残ったが。
無理して起き上がろうとすると、部屋のドアが開けられた。
「妹紅!」
慧音はベッドの縁から立とうとする妹紅を見て、慌てて押しとめた。
「慧音か、丁度良かった」
「良かった、じゃない。体力が回復するまで寝ていろ」
「チルノは? 幻想郷はどうなった」
「………………」
慧音は溜息をつきつつ、薄く笑みを作った。そして、後ろに呼びかける。
「妹紅が心配してるぞ」
そして、小さな氷の妖精が入ってきた。
「チルノ……」
妹紅が安心して溜息をつく。
チルノの羽はもう小さく戻っていた。しかし、長くなった髪はそのままだ。
気まずそうに視線を落としてドアのところから動かない。
「チルノ」
慧音に促され、妹紅の前までやって来る。
「……………………」
チルノは黙ったままだ。今にも泣き出しそうな顔をしている。
『限りの白』に操られていたとはいえ、自分は大切な人にひどいことをしたのだ。
「………………」
気まずい空気が流れる。
妹紅はじっとチルノを見ていると、やがて盛大に溜息をついた。
チルノはびくりと肩を震わせる。
「お前馬鹿だからさあ」
妹紅の言葉に、チルノは怪訝な表情をする。
「何考えてるか、顔見りゃすぐ分かるんだ」
妹紅は立ち上がり、体内の力を高める。
熱で妹紅の周囲に陽炎が発生し、空気が歪む。
包帯を全て取り払った。
一瞬で再生したらしく、その体にはもう傷一つ無い。
「こっちこい」
妹紅は手を広げてチルノを呼ぶ。
それが引き金だった。
チルノは熱いくらいの熱気を発する妹紅に飛び込むように抱きつく。
「もこ、もこお……うあああ……」
抑えることもせずわんわん喚くチルノを、妹紅は痛いくらい強く抱きしめる。
「怪我、無いか?」
チルノは泣きながら頷く。本当は体の何箇所かに包帯が巻かれているが、今は本人もそれを忘れていた。
「この髪、また慧音に切ってもらわないとな」
長い髪をいじりながら言うと、チルノは妹紅の胸にうずめた顔を縦に振る。
妹紅は優しく笑ってチルノを見ていた。
「分かったろう?」
「うう……ぐ…………?」
「私はさいきょーなんだよ」
チルノは涙でぼろぼろの顔を上げる。
そして、やっと妹紅の望む、見慣れた屈託のない笑顔を見せた。
「うん!」
幸いにも死者は出なかった。
あの後霊夢が慧音と永琳を連れて急いで引き返したとき、そこには揃って気を失うチルノと妹紅の姿があったという。
凍傷の程度の激しい紫は永遠亭に運ばれ、凍傷なんてものじゃなく凍りついた輝夜は別室で寝かされているが、復活は少し先のことになるらしい。
慧音は抱き合う二人を微笑みながら見ていると、おもむろにカーテンを開いた。
日差しが強く照りつけ、凍った木々についた氷が溶け出している。
大量の雪解け水が流れ出し、川のようになって下流へと連なっていく。
上では暖気を感じ取ったのか、鳥が心地良さそうに久しぶりの空を満喫していた。
幻想郷に春が来た。
了
それぞれの考え方や行動にも齟齬がなく、安心して読む事が出来ました。
そして、それぞれがそれぞれを大切に想っている事が言葉や行動の端々に現れているのが、なんとも嬉しくもこそばゆい感じで素敵です。
‥ただ、咲夜と美鈴のエピソードだけはちょっと全体の雰囲気から浮いているかな‥と。
もちろん、とてもいい意味で。
ところで、輝夜は?
話が良かった分、そこが少し心残り。
よって100-10でこの点でーす。
妹紅さんやっぱかっこええ。
妹紅とチルノのやりとりがとても良かったです。
良いねぇ、ホッとするような感じがします。
感動的な場面で吹きましたw
すごくよかったです!
面白かったです。
気をつけて書いていたのですが、最後のほうが駆け足になってしまいました。今後は改善していきたいと思います。
美鈴に関しては息抜きにでもなるかと思い、ギャクっぽく書きました。もう少し真面目なほうが良かったかもしれません。
輝夜に関してはちょっと分かりにくかったですね。もちろん死にはしませんが、
「もしかしたら永久に凍り付いてるかもしれないわね」というのは、
「戦いに負けたら幻想郷が氷河期で覆われ、自分はずっと凍ったままかもしれない」
という意味でした。
最後に輝夜は救出されましたが、全身凍りついてしまい、不死であっても復活は容易ではない、というつもりで書きました。オチのつもりでは無かったです。
この後、永琳が妹紅に頼み込んで輝夜を暖めてもらう、というところまで考えていたのですが、邪魔だったのでそこのところは書いてません。
総文字数二万五千字ほど。長めの作品にお付き合いいただきありがとうございました。
ルナチルノ強すぎだな
ごちそうさまでした!
2人はさいきょー!ですね。
すばらしーーー!!