古代貴族はよく死ぬなあ。
慧音は不思議に思っていた。
歴史書を読んでいると、古代の貴族達は実に簡単にころころ、と死んでいく。
歌合わせに負けた、女に罵られた、階段を踏み外した、牛車から降り損ねて足をくじいた、取るに足らぬ理由で気を病み、飯も食えなくなり、和歌など詠んで死んでいく。
疑問は尽きねど、昔は文化も違えばそのようなこともあったかも知れないな、と慧音は今まで曖昧に結論づけていた。
ところがある時、慧音は元貴族を自称する藤原 妹紅に出会った。
当初、彼女は無愛想でそこはかとなく風情を感じさせたものであったが、すぐに慧音に懐き馬脚を曝した。
豪快に笑うわ、飯は食うわ、殺し合いをした後に何食わぬ顔で酒を飲むわ。
慧音の疑問は再燃した。
妹紅を問い詰めてもはぐらかされるばかりで、はかばかしい答えは得られず、知識欲だけが堂々巡りを繰り返した。
それはそれは残酷なことだった。
ある満月の晩のことであった。
慧音と妹紅は庭に面した居間で食事を摂っていた。
開け放たれた障子の向こうには大きな満月が見える。
「なあ、妹紅よ」
「何だい、慧音。とりあえずお代わり」
妹紅は二杯目の丼飯をかっ込みながら、答えた。
とっくに食事を終えた慧音は櫃を引き寄せ、白米を大盛りよそってやる。
慧音一人の時は1合で事足りるが、妹紅が来ると4合炊く。
「お前は本当に貴族だったのかい」
慧音は妹紅がこの質問を喜ばないことを知っていた。
わざわざ突っ込んだ質問をするのは初めてである。
「そうだよ」
「都にいた?」
「ああ」
妹紅はコップ酒を煽り、長々と息を吐いた。
「嘘だろう」
「何でそう思う」
妹紅は不快感を露わにした。
「お前のようにがさつな奴が貴族なわけがない。貴族ってのは、もっと風情があって儚げなものだと思う。輝夜はそれらしい」
「偏見だ」
妹紅は伸ばした足を引っ込めてあぐらをかいた。
「お前が見た貴族社会を聞かせてくれ。歴史家として辛抱たまらないんだ。お前を見ていると自分の学んだ歴史が音を立てて崩れ去っていく」
「別に大したところじゃないって言っただろ。輝夜に聞けよ」
慧音は苛立つ。
慧音は満月を指さした。
「あれを見てどうだ」
「別に」
妹紅があくびして漬け物に箸を伸ばしたので、慧音はその頭を思い切り引っぱたいた。
「考えるな、感じるんだ」
「何も感じないよ。私はお腹が減ってるんだ。食べさせてくれ」
慧音は溜息を吐く。
そうしている間にも、妹紅は食事を終え本格的に晩酌を始めた。
「美味しいなあ。美味しいなあ。ただで飲む酒は美味しいなあ」
慧音はゆっくりと立ち上がった。
「お。立ったついでにおつまみを」
慧音は妹紅の肩を掴んだ。
妹紅はたじろぐ。
「な、何だよ。痛いじゃないか。角が生えたお前は何か苦手だ」
慧音は肩を押さえたまま、口を開いた。
「決心した。私は貴族の世界という奴を見てくる」
妹紅はぽかん、と口を開けた。
「結界を越えてかい?」
「いや、1300年前まで戻る」
「はあ? お前そんなこと出来ないだろ」
慧音は指先で妹紅の額を叩いた。
頭蓋骨が叩かれて小気味よく鳴る。
「ここだよ。お前の頭の中の歴史に混ぜてもらうんだ」
妹紅はコップ酒を放り出して縁側に躍り出ようとしたが、背中のサスペンダーを慧音に掴まれて悶えた。
「お前は永遠亭か。やめろ、痛いのは嫌だ」
「馬鹿。話しは最後まで聞け。お前の頭の中の都にお邪魔するだけだよ。記憶再編同化だ。痛くないから、全然」
妹紅は慧音の手を引き離そうとするが、いかんせん満月の晩の腕力では勝てない。
「落ち着け。今まで何度か、この能力で里の奴の落とし物探しを手伝ってやったし大丈夫だよ」
「でも、ちょっとは痛いんだろう」
妹紅は慧音の角を凝視していた。
「痛くない。お前の脳内で再編した歴史に同化するだけだ。前からやろうと思ってたんだ」
「お前、いつもそんな目で私を見ていたのか。やっぱり駄目だ。私の頭なんか覗いたって面白くないよ」
「妹紅、歴史編纂に手を貸してくれ。私は真実が知りたくて知りたくてたまらんのだ」
妹紅は喘いだ。
「話すよ。お前の知りたいことを話してやるよ。それで満足だろ」
「嫌、どうせなら頭の中に入りたい。話しでは満足できそうにない。お前よく覚えてないんだろ? 本物の歴史が見たい。お前の無意識下まで」
慧音もやはり酔っていた。妹紅は慧音の口調にぞっとしたようであった。
妹紅とくんづほぐれつの取っ組み合いの末、慧音は畳の上に妹紅の四肢を押さえつけ組み敷いた。
「頼むよ」
妹紅は荒い息を吐いた。
「頼むってば」
妹紅は慧音の角を見ていたがやがて頷いた。
「ちょっとだけだぞ」
「よし、きたっ」
まさかこの夜、このような嬉しいことがあるとは思わなかった。
慧音は妹紅に馬乗りになったままで万歳した。
「とりあえず、降りてくれないか」
一旦、仕切り直しとなって二人は向かい合う。
慧音は中腰で、妹紅はあぐらをかいている。
「何をすればいいんだ。痛いのは嫌だからな」
「大丈夫、痛くない。怖がるな。私が指示を出すから、お前はなるべく何も考えず言うとおりにしてくれ」
妹紅はコップ酒を取って一口啜った。
「分かったよ。慧音はどうなるんだ」
「再編した歴史の一部となってあちら側から辿ってくる。こっちに来るまではある意味でお前になるんだ。何、一週間分くらいお邪魔するだけさ。10分くらいで戻ってくる」
妹紅は首を傾げた。
「よく分からん」
「やれば分かるさ。体はこっちに置いて行くから面倒見てくれよ」
「分からんな」
慧音は妹紅に迫った。
「何、眠るようなものさ。ほんの一炊の夢を見るのさ」
「うん。分かったような、分からんような」
慧音は笑った。
「何、分かる必要はない。ちょっぴり寝るだけだ。行くぞ。私の目を見ろ」
「わ。ちょっと待て」
妹紅は後退った。
「何だ。早くしないと満月が終わってしまうぞ」
「心の準備が」
慧音は顔をぐっと妹紅に近づける。
「みんなそうさ。私はちょっと眠るからな。さあ、何も考えずに私の目を見ろ」
妹紅は冷や汗を流しながらも顔を押さえつけられて半ば強制的に慧音の目を見た。
慧音は目を見開いたまま、妹紅の瞳の中の自分の瞳を注視する。
「そうだ。何も考えるな。いいぞ、いいぞ」
慧音の荒い吐息が妹紅の顔にかかる。
慧音は少しずつ自分の体が軽くなるのを感じた。
「心配するな。恐くない」
そして、いつしか宙に浮く心地がした。
慧音の意識が暗転し、体は妹紅の肩によりかかるようにして倒れた。
「わ。慧音? 大丈夫か。おい」
慧音は反応しない。
「おい、おい」
反応はない。
慧音は寝息を立てていた。
妹紅は溜息を吐く。
「何だって言うんだ。何て自分勝手なやつなんだ」
時計は11時を指していた。
「朝ですよ」
その声を聞いた途端、慧音は絶叫して飛び起きた。
横を見ると、自分を起こしに来たらしいミスティアが固まっていた。
「す、すまない。何か嫌な夢を見たから」
茶色の簡素な着物に包まれたミスティアは頭を深々と下げた。
「お疲れなのでございましょう。ここ最近は色々とありましたから」
確かにその通りだ。ここ最近は色々とあった。
慧音はミスティアに手伝って貰って女官衣装を着ながら、しみじみと思い起こした。
「帝がお呼びです。参内せよとのことです」
「分かった。行こう」
「朝食はどうされますか」
「すまない。胸がいっぱいでとても喉を通りそうにない」
慧音はミスティアと連れだって庭に出た。
「妹紅姫は、まだ寝ているのか」
「はい。昨晩は泣き疲れたようで」
慧音は悲しくなる。
広いながら手入れの行き届いた庭の桜が咲き始めていた。
これから暖かくなってくるだろう。
何もかもが広い家だった。ミスティアと慧音と妹紅の三人で使うには広すぎたのだ。
もっとも慧音が来たのは10年前、未だ妹紅が4つの頃で、それまでは妹紅とミスティアの二人で暮らしていたのだが。
ミスティアは一日も休む事無く、自分の知るより昔からこの家の手入れを行ってきたのだ。
「阿求様の部屋の用意が進んでおります」
「うむ。ご苦労。私の部屋も片付けなければ。あと一週間後には出発だ」
ミスティアは頷いた。
「ただ今、牛車が着きました」
牛車が門の前に止まった。
牛車を率いて来たのは青い着物を着たレティだ。
この女にも、大分お世話になった。
慧音は自然に頭を下げた。
「さあ、お乗りになってください。内裏まで参りましょう」
「うむ」
と、その時、慧音の目が牛の目とかち合った。
どうした事だろう。普段なら気にもならぬはずの牛が気になる。
何やら、夢に出てきたような。
「どうされました。中納言様、さ、早く」
「う、うむ」
慧音はレティに促されるまま、牛車に乗った。
何か嫌な予感がしてならなかった。
慧音は今後の予定に夢違い(夢占い)を考えた。神祇官か祈祷師のお世話になりそうだ。
が、その不安に勝って懐かしさが込み上げてきた。
「御者、今はどの辺りであろう」
「は。寮の前です」
慧音はそっと、御簾を持ち上げた。
ああ。懐かしや、学者寮。妹紅姫の教育係となる以前は、そこが永住の地と思われた。
白い塀の上から、寮内の桜の木が覗いていた。
目に見えるもの全てが懐かしい。
自分は本当に幻想京に行くべきなのだろうか。慧音の心がまた激しく揺れ動いた。
間もなく、牛車が駐まった。
「ここからは徒歩にて」
「ああ、ありがとう」
「光栄です」
慧音は牛車を降りた。
やはり、牛が気になって仕方が無かった。
内裏の大きな門は観音開きになっており、その前にはいつもの通り門番が立っていた。
文と椛である。二人とも腰に二本の刀を提げて、揃いの白い衣を着ていた。
噂好きな二人はいつもの如く何やら立ち話をしている。
「これは中納言様。お待ちしておりました」
椛が頭を下げた。
文も続いて頭を下げた。
「うむ。帝はどちらにいらっしゃるのだろうか」
「昼のおましにいらっしゃいます。どうぞ進んでください」
慧音は門をくぐった。
相変わらず、白砂利の敷かれた美しい中庭だ。左右対称の造形美があちらこちらに見られる。例の庭師の腕はまだ健在らしい。庭は掃き清められていた。
慧音は白砂利を踏みながら、中央の大殿へ向かった。この大殿は内裏全体の玄関ホールにあたる場所でここから各所へ渡り廊下が伸びている。
各所とは即ち、書庫、多目的用の正殿、そして皇族の住まいなど諸々。慧音が未だに通っている書庫も左手に見えた。
大殿に入ると早くも、下女が数人慌ただしく動いていた。見知った顔も多かった。
皆、慧音の顔を見ると一様に礼をした。
慧音は急いで昼のおましに参上する。
渡り廊下を行き、再び中庭に降りてそこから向かうのだ。
丁度、おましの中に帝の姿が見えた。
そう、諏訪子天皇である。
脇には太政大臣・神奈子と、姫君の早苗も控えていた。
「中納言・慧音卿」
慧音が御座に続く階段の下で跪くと、諏訪子が手招きした。
「上がってきなさい」
「は」
相変わらず諏訪子は冠を被っている。
都広しといえども、被り物をしているのは諏訪子一人である。
この冠というのがまた奇妙な一品で、それを見たものは口々に「ただごとならぬ視線を感じた。あれはまことに普通ではない」と漏らす。
慧音は諏訪子の御前まで上がると、深々と礼をした。
「出発まで、残り一週間となりましたね」
「は。準備も順調なようです」
青い衣装を着た早苗は諏訪子の後ろに隠れた。
大人と同じデザインの衣装を着るものだから、いかにもアンバランスに見える。
「あら、駄目ですよ。早苗様。お行儀良く座りなさい」
神奈子が言うと、早苗姫はますます恥ずかしそうにして、神奈子の後ろから様子を窺っていた。
「いつまで経っても、引っ込み思案なのです。もう6つだというのに」
「まあ、良いではありませんか」
慧音は早苗の動きを目で追いつつ、言う。
「ところで、ようやく宮大工の作った舟がようやく今日、最終整備を終えたようです」
「はい」
宮大工と言うのは、河城にとりのことである。
大変腕のいい大工で、諏訪子や神奈子のお気に入りだった。
「昨年でしょうか。あの異国人達が都にやって来たのは」
慧音の胸が高鳴った。そう、その異国人達こそ自分が現在、旅立とうとしている原因である。
慧音はもともと歴史学者であったが、その働きぶりが貴族達の目に止まり、10年前に中納言の位を与えられて妹紅姫の教育係に付けられた。
そして、それから約9年間学問に励み、姫を支えて幸福な日々を送ってきた。
ところが昨年、例の異国人がやって来たのだ。異国人は学者で、子供と従者を連れていた。そして、大量の書物を手みやげに都へ献上した。
優秀な博学者であった異国人はすぐに貴族や神奈子らに見初められ、国博士となった。
都随一の学者である慧音は必然的に彼女と交流を持ち、海外の学問の発展ぶりに大きな衝撃を受けた。
そして、間もなく慧音は遠く西の幻想京に渡ることを決意した。
「私は当初、反対でした」
諏訪子は悲しげに語り出した。
「早苗、神奈子と奥で遊んでいらっしゃい」
神奈子は「は」と畏まり、早苗姫の手を引いて裏に連れて行った。
「お気を遣わせて、申し訳ありません」
諏訪子はまた話しを続けた。
「道中は危険です。かの異国人らとて、何度も失敗して辿り着いたという話しでしょう」
もう何度も聞いた話しだ。諏訪子だって、このようなことを言うためにわざわざ呼んだのではあるまい。
慧音は諏訪子が何を言わんとしているか分かった。
「それに、妹紅のことです。彼女はあなたに懐いています。あなたがいなくなることがどれだけ辛いか」
妹紅は10ヵ月前、慧音が都を出ると言った時、熱を出して一週間寝込んだ。
それを説得するのに1ヶ月もの期間を要し、諏訪子や神奈子からもお見舞いの文を頂く羽目になった。
その度に却って妹紅は「私が寝込むと皆に迷惑だ。いっそ死んでしまおう」と思い詰めたのだが。
この問題は結局、慧音が「必ず帰国する」と誓うことによって一段落した。そして今まで特に問題も無かった。
わざわざ、この問題を蒸し返すのにはそれなりの理由があるのだ。
「分かります。しかし、私は永久に帰国しないわけではありません。学問を学び終わり次第、帰還します。そういうことで納得しました。それに、映姫様達も同伴します」
「学び終わり次第、帰還」。その言葉の残酷さを慧音は理解していた。
諏訪子もよく理解していたようで、慧音が初めてそのことを口にした時、今と同じようにただ悲しげに顔を俯かせていた。
「異国人達の話しによると幻想京の都とは、この都よりも大きく華々しいところで、平和だと言うのですね」
「はい。彼らの話しを繰り返し聞き、可能な限りの下調べを進めて参りました。私の方は準備が整っております。後は出航当日の天候ということになります」
諏訪子は頷いた。
「ところで、妹紅姫は歌合わせの会のことでお悩みだとか」
慧音は息を呑んだ。
「その通りなのです。隠し事はできないものですね」
「内裏には情報が集まってくるものですから。何でも、妹紅姫はあなたに関する悩みと、歌合わせの悩みの両方とで心を痛めておいでだと」
妹紅姫は今年で14になり、そろそろ成人の仲間入りということで、初めて歌合わせの会に招かれることになった。
その旨の知らせが届いたのが約5日前のことである。
歌合わせの会は出航前日であったため、慧音も立ち会って欲しいと言われ快諾したのである。
が、妹紅の初めての歌合わせの相手に選ばれたのは蓬莱山 輝夜姫であった。
この蓬莱山 輝夜も妹紅と同様に14歳で、今回生まれて初めての歌合わせに招かれることになったのだが、彼女は妹紅の親友であった。
慧音が教育係に付いた時には既に二人の仲は深く、今までに数限りなくお互いの家に行き来したり、文など交わしてきた。
さて、歌合わせというのは審判役がいて当然に勝敗が決まるわけである。
妹紅姫は生まれて初めての歌合わせで親友との勝負を強いられることになったのだ。
そして、元々慧音の件で弱っていた彼女はすっかり心を病んで臥せってしまった。
これは輝夜姫も同様で、最近は体調が思わしくないらしい。
現在、二人は何となく疎遠になっている。
極めつけに不味いことには輝夜姫も妹紅姫も和歌の素養があり、どちらも和歌に秀でていたことであった。
どちらが負けても後味の悪い結果になることは見え透いていたのである。
「困ったことでございます。私は正直のところを申しましては、妹紅姫に勝っていただきたいのですが、妹紅姫は他人思いな方ですから勝利を収めても罪悪感に苛まれてしまうことでしょう」
「歌合わせの企画は左大臣に任せていたのですが、私が付いていればこのようなことにはさせませんでした」
左大臣。西行寺 幽々子のことである。歌の名手で歌合わせに於いて無敗を誇る強者だ。
「いえ。帝の責任ではございません。同い年で互いに初歌合わせの者同士を比べさせるというのは当然の判断でございましょう。ただ、時期が」
時期が悪かった。慧音は口を噤んだ。
「そう。時期が悪かったのです。歌合わせの組み合わせが一度決まってしまった以上は変更が利きません。何とか乗り切ってもらうしかないのです。いや、病欠という手もありますが」
「お互い、責任感の強い姫です。肯んじますまい。雨が降れば或いは取り止めにもなりましょうが。しかし、多くの方々が歌合わせを楽しみにしている以上は」
「しかし、これは成長の機会でもあります。ここさえ乗り切ってしまえば案外大丈夫かも知れません。歌合わせの翌日から、もうあなたは都にいませんが、後任の教育係も無能ではありません。私達も目を離さぬようにいたしますから。どうか心配せずに学問に勤しんできなさい」
無責任な言葉だ。
慧音はここ数日、渡航の断念すら考えていた。
歌合わせの後に傷ついた妹紅姫を、新任の教育係とミスティアに任せて都を離れた暁には自殺されてしまうような気がしてならなかった。
「とにかく今は妹紅姫を励ましてやるしかありませんね。これを」
諏訪子は一通の文を差し出した。
「妹紅姫に差し上げなさい。お見舞い状です」
諏訪子の人気の秘訣はこの人徳にあるのだ。
慧音は頭を下げた。
「ありがとうございます。確かにお渡しいたします」
慧音が礼をして退場しようとすると諏訪子が呼び止めた。
「それと」
慧音は振り返る。
「どうして、後任の教育係に稗田を選んだのですか」
「それは、彼女は私の優秀な後輩でありますし、何より妹紅姫と面識があります。まあ、その、多少性格に難はありますが」
諏訪子はやはり、何かを考えているようであった。
「慧音」
「はい」
「必ず戻ってきなさい」
「はい」
諏訪子の頭の上に付いたもう一組の目は、慧音を睨んでいるようだった。
慧音は再び牛車に揺られながら、家路に着いた。
もう妹紅も起きた時刻だろう。
結局、夢違いは後回しにすることにした。
慧音は渡航を決心するまでの過程において大いに悩んだ。そして準備に苦心した。
最近はようやく妹紅姫も納得してくれたようで準備も滞りなく進み、いよいよ出航を目前にした時、歌合わせの問題が持ち上がった。
たちまちに妹紅は臥せって、総崩れ状態に陥った。
慧音は渡航の断念も考えたが、今更そんなことを言い出せば大勢に迷惑をかけることになる。
その上、断念してしまえば次の渡航の機会がいつになるか分からなかった。
歌合わせの翌日は出航である。片付けるに片付かぬ問題であった。
慧音は、せめて出来る限り妹紅姫の傍にいようと努めることしか出来なかった。
自分が去った後の事は、後任の教育係、稗田 阿求と乳母のミスティアに任せるしかないのだ。
慧音はひたすらに6日後の雨を願った。それが例え一時しのぎにしかならないとしても。
レティ率いる牛車はのろのろと走り続け、ついには家の前に着いた。
慧音が重い足取りで門をくぐると、そこには赤い衣装をまとった妹紅がすっくと立って、二分咲きの桜を見上げていた。
高貴な女性というのは誠に不思議なもので、やつれても却ってその艶やかさが際だつ。
まだ幼さを残した妹紅の白い肌が日の光に透き通っていた。
「ただ今、戻りました」
「お帰りなさい。慧音」
妹紅は笑った。
笑うと余計に、こけた頬が目立った。
「朝食はいただきましたか?」
「ううん。だって慧音だって食べてないじゃない」
「あの。これを、預かってまいりました」
慧音は手紙を差し出した。
「まあ。お便り」
妹紅は封を開けて、手紙の内容を読む。
「お見舞い状」
風に煽られて桜の花びらが散り妹紅の上に降り注いだ。
妹紅は何かを呟いたが、慧音には聞こえなかった。
次の瞬間、妹紅の両目から一筋ずつ涙が伝った。
涙を拭おうともせずにひたすら桜を見上げる妹紅の肩を慧音は抱えた。
「目に毒でしたか。中に入りましょう」
妹紅は軽く頷くと、おもむろに歩き出した。
座敷の上で正座した慧音の膝の上に体を預けながら、妹紅は嘆息した。
「私、新しい教育係の方と仲良くする自信がございません」
慧音は返す言葉もない。
「稗田は良い方です。歴史にも詳しく、私と違って和歌も達者で情趣を解します。それに、あなたが小さい頃からの顔見知りです。覚えておりますか。よく、そこの縁台で私と稗田が学問の話しをしていました」
「それで、私が割って入ろうとしたのよね」
慧音は頷いた。
「慧音、せめて3年で帰ってきて。私、ずっとあなたの部屋を空けて待っているから」
妹紅は泣き出してしまった。
慧音はその言葉に頷いてやれなかった。
つくづく自分が最低だと再確認した。
妹紅の様子が最近は大分、落ち着いてきたと思っていたのだが、歌合わせの一件以来どうにもこの調子だ。
「慧音。私、帝にお返事を書かなければ」
「はい」
「それとね、輝夜にもお便りしようと思っているの」
慧音は驚いた。
「え。輝夜様にですか」
「ええ。歌合わせの会が決まってから、彼女も調子が悪いみたいだし、一度お便り差し上げたいの」
てっきり、妹紅は輝夜と話したくないのだとばかり思っていた。
慧音は自分の浅はかさを悔やんだ。ああ、自分はこの可愛い姫を残して異国に旅立てるのだろうか。
「文章の方を見ていただけないかしら」
「喜んで」
と、慧音が頷いたその時、正史では酔っぱらった妹紅があくびをしていた。
「もう10分経っちゃったよなあ」
妹紅は酒を煽る。
角を生やした慧音は妹紅の膝の上で寝息を立てている。
再編した歴史の中に入って来るとは言ったが、どこからどう見ても、酔っぱらって寝込んでいるようにしか見えない。
「狸寝入り?」
話しかけたが、慧音は反応しない。
とりあえず、鼻の穴に割り箸を突っ込んでみることにした。
このあと一体どういう展開になるでしょうね?
楽しみに待ってます。
続きに期待
竹取物語自体舞台は奈良時代の話だし、東方儚月抄で1300年ほど前の生まれだと明かされましたし
あまり話に関係ない場合は気にならないんですが、今回は前提が前提なんでその部分でマイナス評価で
この作品は余計なおふざけやワル乗りがなくてとても好感が持てます。
続きに大期待です♪