Coolier - 新生・東方創想話

人形のはじめてのおつかい

2008/12/18 15:47:06
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「困ったわねぇ……」
 銀色の髪の女性が、穏やかな声で言った。
 対する少女は、この人はひどく困惑しているわけではないと思った。銀色の前髪をちょっと指先で整えている姿は、困ったものだと言うわりには落ち着いていて、むしろ呆れたように微笑んでいる。分析の結果、きっと些末な問題なのだろう、という答えを導き出したけれど、少女にはこの人が困っていることの内容がどれほど些細なものであろうとも気になったので、一体どうしたのですかと尋ねてみた。
「鈴仙に、おつかいを頼んだのだけれど……」
 そう言って、銀色の髪の女性は、机の上に置いてあった紙の小袋をつまんで掲げてみせた。小袋の表面には、たくさんの文字が書かれている。『パチュリー・ノーレッジ』は読めたが、『喘息治療薬』というのが難しくて読めない。『治療薬』という部分は解るのだが、少女は『喘息』という言葉を知らない。
 この銀色の髪の女性が薬剤師であることを、少女はよく知っている。だから、掲げられた小袋の文字を見なくとも、その中には薬が入っているのだということはすぐに解った。
 薬剤師の女性は、微笑しながらも腕を組み、小袋を持っていないほうの手を頬に当てた。わざとらしく困ったようなポーズを演出しているようなのだが、そうすると、厚い布地の上からでもわかる豊かな胸の形が余計に強調される。丈の長いワンピースは、深い赤色と青色を上半身と下半身で点対称に並べた奇妙な柄で、一部には星座の模様がデザインされている。特に青い部分の濃さがちょうど夜の闇のようで、頭に載っている看護帽も同じ色をしていた。
 対する少女の服装は、上が黒、下は赤。暗色のツーピース・ドレスには、波打つようなくせのついた金髪が映えている。プレゼントボックスみたいに頭のてっぺんで蝶結びになっている大きなリボンは赤色で、これも滑らかに光を照り返す金色の美髪によく似合っていた。
「うどんが、どうかしたのですか」
 金色の髪の少女は、素直に質問する。この少女には、小袋に薬が入っているということは理解できたのだが、掲げるという動作の意味まではよく解らない。
 薬剤師は小さく息を漏らして笑ってから、組んでいた腕をほどいて、もういちど小袋を前に掲げてみせた。
「ウチでお薬を配達しているのは知っているでしょう?」
 はい、と少女は頷く。
 ウチと言うのは、薬剤師と少女が今いる、このお屋敷のことだ。誰も近寄らない竹林の奥に建っているため、滅多なことでは来客はない。以前まではそれでもよかったのだが、ある事件をきっかけに外界との積極的な交流を持つようになり、今では薬を売りに定期的に人里まで赴くことが薬剤師の仕事のひとつになっている。それは実際のところ、仕事と言うよりもほとんど習慣と呼べるような気楽なものであったし、べつだん高い料金を請求するわけでもない。かつては外界との交流を持たずとも成り立っていたお屋敷であるから、お金など稼がなくとも暮らしてゆけるのだ。そのため、人里ではむしろ無償で診察を行うことのほうが多いくらいだった。
 この銀色の髪の薬剤師は、言うまでもなく薬学を極めている専門家であるのだが、それだけにかぎらず、全体的な医学にも精通している。いわゆる天才というやつなのだが、そのため、治療と名の付くことならばカウンセリングから手術まで何でも行うことができる。
 幻想郷と呼ばれるこの世界には、人里以外にも――はっきり言って、人間以外にも――誰かしら、何かしらが生活している場所がある。薬剤師としては、設備の整った部屋で薬の調合や研究に没頭する時間を効率的に確保したいので、そういう者たちが病を患うたびにみずから出向いていくというわけにもいかない。逆にそういう者たちにとっては、竹林の深奥にたたずんでいるこのお屋敷の位置を把握するまでが一苦労である。
 この天才薬剤師が処方する薬で治せない病気は、ほとんどない。だが、得体の知れない瘴気を発端とするものや、人ならぬ者たちが患う特殊な病が、必ずしも単純な薬学的アプローチだけで退けられるとは限らないのである。そういうわけで、いちど受診して定期的な薬の処方が必要と判断された者には、人里での薬売りとは別に配達サービスを行うことにしたのだ。
「鈴仙がねぇ、飛び出していってしまったものだから。このお薬だけ渡し損ねてしまったのよ」
 そう言われて、少女は掲げられた小袋の意味をようやく理解した。
 レイセン、と呼ばれたのは、このお屋敷に住んでいる兎の名である。兎といっても、人の姿をしている。頭に長い耳こそ付いているものの、それが取り外し可能であるという、何とも不思議な兎の妖怪だ。
 近ごろの鈴仙は、薬の配達係として外出することが多い。少女はあの細長い兎の耳が見当たらないことを疑問に思っていたが、この日も配達のためにお屋敷の外に出ていたのだ。
「まあ。相変わらずおっちょこちょいですね、うどんは」
 金色の髪の少女が呆れたように言うと、薬剤師はまた小さく息を漏らして笑った。
 鈴仙・優曇華院・イナバというのが、例の兎のフルネームなのだが、少女は『優曇華院』という部分を取って『うどん』と呼んでいる。薬剤師も鈴仙のことを『ウドンゲ』と呼ぶときがあるのだが、どうにも『うどん』という呼び方が可笑しくて仕方がないらしい。たった一文字減らしただけなのに、何が可笑しいのだろう。
「ウドンゲがそそっかしいのは、否定しないけど。今回はまあ、私がうっかりしていたせいだと思うわ」
 薬剤師の笑みに、少しだけ苦いものが混じったような気がする。少女には、やはりあの兎が薬剤師を困らせているようにしか思えない。鈴仙は決して鈍くさいわけではないのだが、普段からぼうっとしていることが多いので、用を言いつけられた時のせわしなさが目立つのだ。
「どうしたものかしらねぇ、これ」
 そうつぶやきながら、薬剤師はなおも微笑んでいる。鈴仙が忘れていった薬を届けなければならないが、みずから出向く時間を惜しんでいるらしい。
 しかしながら、やはり困ってはいるのは確かだが、頭を抱えるほどの懸案事項ではないようだ。それを再確認した上で、少女は軽い調子で尋ねてみた。
「お師匠さま。それは何のお薬ですか」
「これは、ぜんそくのお薬よ」
「ぜんそく?」
「そう。あなたの毒にはあまり関わりのない病気だから、知らなくても当然だわ」
 薬剤師は小袋の表面を示しながら、ぜんそくというのは、咳や痰が出て呼吸が苦しくなる病気だ、と簡単な説明をしてくれた。ああ、そうか。『喘息』は、『ぜんそく』と読むのだ。
 少女は薬剤師のことを『お師匠さま』と呼ぶ。このお屋敷に住んでいる者のほとんどが、この銀色の髪の女性を『師匠』と呼び慕っている。
 しかしながら、赤と黒の服を着た金色の髪の少女は、このお屋敷の住人ではない。薬剤師のもとへ通っている患者でもない。そして、薬剤師は少なくとも人ならぬ者の類ではないのだが、反対に、この少女は人間ではない。
 この少女は、自律行動を可能とする、世にも珍しい人形――つまり、妖怪なのである。
 人里を挟んで、竹林とは反対側に大きな山がそびえている。その陰にひっそりと隠れるように、鈴蘭の花が咲き乱れる丘があるのだが、この人形の少女はそこで暮らしているのだ。
 場合によっては、猛毒が良薬になることもある。薬剤師と兎は、鈴蘭の毒を採取し、研究するために人形の少女が棲んでいる土地にやって来た。それまでは、少女にとっての世界とは鈴蘭畑の内側だけであり、閉じられ、限られた狭いものであったが、薬剤師たちと会話するうちに、外側の世界に興味を持ち、こうして遠くまで出歩くようになった。
 鈴蘭畑に棄て置かれた人形の身体に、妖怪としての心が宿ったのは、ほんの数年前の出来事だ。そのため、この少女は外見に等しく、まだ幼い。
 薬剤師は自発的に人形の少女に世話を焼いているが、少女自身はそれが研究目的を含んでいるためであることも知っている。それでも、親切に面倒を見てくれるような人は今まで一人としていなかったし、研究といっても自律行動する人形の神秘を解明しようとかいうオカルト的なものではなく、少女の「毒を操ることができる」という妖怪としての特質を利用し、誰かの健康に貢献するための慈善事業の一環として行われるものであった。
 そういう事情があるため、この少女にとっての薬剤師は、尊敬する母親のような存在であった。薬剤師の前では、しぜんと相手を敬う口調になる。少なくとも、初めて出来た鈴蘭以外の友人――このお屋敷で暮らす兎たちには、敬語を用いて話すことはない。
「困ったわねぇ……」
 悩ましげなつぶやきが繰り返される。いくら呑気に微笑んでいるとはいえ、尊敬している人が「困った」と言っているのだ。人形の少女の正直な気持ちは、これを助けないわけにはいかないと強く思う。
 緊張する。
 積極的に他人と関わることに慣れていない少女には、なかなか踏み出すことができない一歩であった。
 さらには、人間に棄てられ、人間を憎む気持ちを心のどこかに抱いている人形だからこそ、誰かの力になりたいと思ってしまうこと自体が苛立たしく、恥ずかしい。人助けのための研究にも協力しているくらいなのに、それでもなお拭いきれない憎しみが矛盾を生み、その矛盾が苛立ちを生む。心の中に潜んでいる『他人を憎む自分』が、そういった事情をつまらぬ馴れ合いと受け取って、恥ずかしいと感じてしまう。
 だが、どうしても助けたかった。
 少なくとも、世話になっている恩は返していきたい。人形の狭い世界を、大きく広げてもらった。研究に協力するだけでは、まかないきれないほどの恩だ。
 恩返しだとか、そういう感情を抱くこと自体が、矛盾しているのかもしれない。それでも、この人の力になりたいという強い気持ちは、確かなものなのだ。
 勇気を振り絞る。
「お師匠さま。そのお薬、私が届けてきます」
 思い切ってそう言った直後に、胸の奥がむずむずしているのが解った。
 いつも面倒を見てくれるこの人に、喜んでもらいたい。次の瞬間には、両手を合わせてこう言ってくれるに違いない――まあ、メディ。あなたが行ってくれるのね。ありがとう、とっても助かるわ。
 そうして、金色の髪の少女の、はじめてのおつかいが始まる。
 鈴蘭畑に棄てられた人形。
 毒を操る内気な少女。
 彼女の名はメディスン・メランコリー――小さなスイートポイズン。

          ※ ※ ※

 森林の小道をゆく。
 季節は、夏と秋の境界。
 とは言っても、メディスン・メランコリーにとっては、咲き乱れる鈴蘭の花たちと一緒にさして厳しくもない残暑をやり過ごすうち、いつの間にか秋という季節が終わっていることが恒例であった。メディの鈴蘭畑では、春の終わりにいっせいに開いた花たちが、秋の終わりまでずっと咲いている。山の陰にひっそりと隠れている特殊な環境のせいかもしれないし、鈴蘭が毒性とともに強い妖気を兼ね備えているせいかもしれない。そのため、夏と秋の季節の分かれ目がはっきりしないのだ。
 例えば、春から夏に向けて、梅雨のじめじめと湿った日々を乗り越えなければならないように。例えば、秋から冬に向けて、森の木々が色づいた葉を散らしてゆくように――メディには、夏と秋とのあいだに、次の季節へと移り変わるための明確な準備期間が存在するようには思えない。
 だが、この年はいつもとは違っていた。みずからの世界を閉ざしていた殻を破り、鈴蘭畑から出てみると、それはまったくの間違いであったことがすぐに解った。
 みずみずしさを失ってゆく代わりに、少しずつ色づき始めた木の葉。その表面に照り返って降りそそいでくる日差しは、適度に暖かくて気持ちがいい。かと言って、よく晴れた空に点々と浮かび上がった雲の位置を見ても、まださほど高く感じられるようなことはない。
 試しに土の上に落ちている葉を踏みしめてみても、靴底に少し柔らかい感触があるだけで、クシャリという乾いた音はしない。枯れた落葉はまだなく、こうして地面に落ちているのは、鳥や虫たちにいたずらされてしまった不運な葉っぱだけなのだろう。
 メディスン・メランコリーは、紅魔館と呼ばれる建物を目指して歩いている。薬の小袋は、少し大きめの巾着袋に入れて、首から提げられるようにしてもらっていた。
 紅魔館の地下には巨大な図書館があって、そこには魔女が住んでいるという。薬剤師から預かったぜんそくの薬を、魔女に届けることがメディの目的であった。
 歩く、という手段を、どうして選択したのだろう。飛行していれば、もっと楽だったはずだ。木も邪魔にならないし、小石につまづくこともない。竹林のお屋敷を訪ねる時には、いつもそうしているのに。
 ゆっくりしてきなさい、と言われたからだろうか。仮に急がなくていいと言われなかったとしても、飛行はしていないような気がする。
「うーん」
 おつかいなのに、こういう軽率な考えでいるのは、あまり良くないことなのではないかと思う。でも、何が良くないことなのかは具体的には解らないし、そんなに気を張る必要はないとも言われている。「おつかい」と言った場合と「任務」と言った場合とを区別するために、これくらいがちょうどいい、というポイントがあるのかもしれない。
 それでも、お薬を届けなければならない、という使命感が完全にうしなわれてしまっているわけではない。むしろ、何とはなしに徒歩を選択するような呑気さと比較すれば、与えられた責務をまっとうしようとする気持ちのほうが強いと言える。三対七くらいだ。
 ついさっき、森の途中で綺麗な池を見つけた時だって、透き通った水面に目を引かれたのは確かだけれど、決して足を止めたりはしなかった。蛍でもいたのなら、立ち止まって観察したかもしれない。だが、今は昼間だ。妖怪だって眠っている。
 妖怪なのに、昼間から歩いているのは変だろうか。
 人形なのに、自律して歩いているのは変だろうか。
 毒のかたまりみたいな自分が、薬を届けるのは変だろうか。
 メディの思考は、少しずつ深いところへ沈んでいく。
 湖が見えてきた。暖かい日中なのに霧が立ち込めているのが少し奇妙だったが、べつだん深く気にするようなことでもない。メディが暮らす鈴蘭畑も、毒の霧に包まれていることのほうが多い。
 ただ、この時は、気にする必要がない、と思ったのではない。気にする余裕がなかったのだ。
 人形なのに歩いている、ということが、何だか恥ずかしくて、居たたまれない気持ちになる。それを恥ずかしいと感じていること自体が、勝手に生み出しておきながら自分をゴミのように棄てた人間を憎み、反抗すべく人形たちに呼び掛けて決起した、かつての自分の姿と矛盾している。
 いつから、こんなふうになったのだろう?
 人形たちが、呼びかけに応じなかったからだろうか。人形は歩かない。動かない。それが常識だという現実を目の当たりにして、常識的ではない自分の存在に疑念を抱くようになったのかもしれない。
 人間を憎む気持ちが、なくなったわけではない。そんなはずはないのだ。
 それなのに、今の自分は攻撃的ではない。少なくとも、すでに知り合って、何の隔たりも感じさせずに自分と接してくれる人は、大切な宝物だと思えるようになった。
 それでいて、さらに多くの人間と交流を持とうとさえしている。
 だが、現実とは残酷なものだ。
 ――触れれば、たちまちに皮膚がただれてしまう、危険な毒人形。
 人間の、自分に対する評価だ。
 それは本当だった。
 ゆえに、否定できなかった。否定できないことを知っていて、罵倒を続ける人間が憎い。
 残酷なのは現実ではなく、人間なのかもしれない。
 人間こそが現実であると、誰が決めたのだろう。
 寂しい。
 寂しい、と思うこと自体が、やはり矛盾していて、苛立たしい。
 前方の宙を見つめながら、ぼんやりと湖畔を歩く。
 辺りには濃い霧が漂っていたが、気にする余裕はない。
 メディスン・メランコリーの頭のなかには、もっと深くて黒ずんだ色の霧が立ち込めている。

          ※ ※ ※

 漆喰の白壁に、三角の赤屋根。
 霧の中から現れたのは、広大な敷地を持つ洋風のお屋敷。
 湖のほとりに構える豪奢にして瀟洒なお屋敷――紅魔館である。
 メディはこのお屋敷のことを知っていたが、中に入ったことはない。いつも飛行している時に、風景の一部として眺めるだけだ。
 つい先ほどまではその程度の認識だったのだが、いざ正面に立ってみると、大いに萎縮せざるをえない。門扉から玄関ポーチまでのあいだに広い庭があることも感じさせないくらい、この建物は小さな身体に容赦のない威圧感を与えてくる。のっぺりとした巨大な純白の仮面に見下ろされているかのようで、どことなく気味が悪い。
 背の高い鉄柵の門前で、緑色の服を着た女性が体操をしていた。格闘技の稽古のようにも見えたが、それにしては、ひとつひとつの動作の速度がゆったりとしすぎている。そのため、メディはそれを体操であると判断した。少なくとも、ダンスを踊っているようには見えない。
 流れるような動作に惹かれてぼうっと見ていると、その女性はこちらに気付き、ぴたりと動きを止めた。片方のひざを曲げて、片脚立ちのポーズのまま、びっくりしたような顔でこちらを見ている。そうしていると、長いスカートのスリットからみずみずしい太ももが覗いた。メディにもう少し知識があれば、チャイナドレスという言葉を思いついたかもしれない。
 恐る恐る、メディは門のほうへと歩み寄った。人見知りの少女が行動を起こすにはそれなりの勇気が必要だったが、そうしないと、いつまでも『だるまさんが転んだ』みたいになって、日が暮れてしまいそうだったからである。歩み寄る途中、「この場合、どちらが鬼なのだろう」ということを考えていたら、何だか可笑しくなって、少しだけ気が楽になった。
 メディが近寄ってくるのに合わせて、女性は片脚立ちのポーズを解いた。
 人間ではない。おそらく妖怪だろう。そういうことは、妖怪同士ならば何となく解るものだ。
 燃えるような赤の長髪には、服と同じ緑色の帽子が載っている。帽子についている星の形をした金色のプレートが、陽光を照り返して輝いていた。『龍』という文字が書かれているが、何と読むのかは解らない。
 近寄ったのはいいが、何と声を掛ければいいのだろう。至近距離で対面すると、自分でも思っていた以上に、頭のなかが混乱していた。さっきまで、思い悩んだり、ぼうっとしていたせいかもしれない。
「こんにちは」
 メディが言いよどんでいると、女性が腰をかがめて、先に挨拶の言葉をくれた。そうしてもらわないと、何か大きな果物でも詰め込んでいるのではないか、と疑いたくなるくらい豊かに膨らんだ胸に、ただ見下ろされている構図にしかならなかった。お師匠さまといい勝負かもしれない、という奇妙な考えが浮かぶ。
「こ、こんにちは」
 メディは場違いな思考を振り払うと、慌てて挨拶を返した。
 それから、さっと目をそらしてしまう。同じ高さで、目線がぴったりと合っているのが、何だか恥ずかしく思えた。
 そんなふうだったから、メディのほうから言葉が続くはずもない。どうしよう。さっきの体操のことを聞こうか。
「何か御用ですか?」
 緑色の服を着た女性は、にっこりと笑って言った。事務的な質問であったが、口調はスポンジのように柔らかかった。子供扱いされているのだろう。実際、子供なのだから当然である。べつだん背伸びがしたい盛りでもないメディには、純粋にその優しさが嬉しかった。
 この女性は、自分は紅魔館の門番だと説明してくれた。門番という職業は聞いたことがなく、最初はそういう名前なのかと思ったくらいだった。その旨を尋ねると、この女性は驚いたように目を見開いたが、また笑って、お屋敷に怪しい者が近付かないように、見張りをする仕事だと教えてくれた。
 それからもういちど用向きを問われたので、メディは言葉をつっかえさせながら、素直に答えた。
「えっと。おくすりを、とどけに」
「お薬?」
「ええ。お師匠さまに、頼まれて」
 そう言って、首から提げた巾着袋の中から、紙の小袋を取り出した。そこに書かれている文字が見えるように、前に掲げる。
「まあ。パチュリー様のお薬ですか」門番は小袋に書かれた名前を見ると、口元に手を当てて言った。「いつものウサギさんは、どうしたのかしら」
「そのウサギさんが、この薬を忘れていってしまったの」
「なるほど」門番は、ポンと手を叩いた。「それで、代わりにあなたが来たのね」
 コクリ、と頷くと、メディは袋の中身だけ確認させてほしいと言われた。門番は小袋の口をちょっと開いて覗くと、すぐにそれを返してきた。薬に興味があるのだろうか。
 門番はメディから離れると、鉄柵の門の正面に立った。すると彼女は、メディの身長の数倍はあろうかと思われる重厚な門扉を、なんと素手で開けてみせた。腕は細く華奢な印象だが、よく観察すると、それは精錬されているがゆえの努力の賜物であるようにも思える。そうでなくとも、足腰がたくましいのは明らかで、普段から鍛えているのは間違いないだろう。あの体操はやはり、格闘技の稽古だったのだろうか。
「通っていいですよ。可愛らしい配達人さん」
 恐るべき怪力を見せつけた門番は、何事もなかったかのように微笑んでいた。通っていい、ということはつまり、許可されたということだ。
 そこで初めて、メディは自分がお屋敷に害なす者ではないかと警戒され、持ち物をチェックされていたのだということに気付いた。門番は初めから可愛い少女のことを疑ってなどいなかったのは明白で、小袋を調べることが事務的に必要な行為だと解っていても、メディの心の中には毒のように寂しい感情が再び霧となって立ち込めていた。
 メディはいつしか、この門番のことをもっと知りたいと思っていた。逆に自分のことも話して、詳しく知ってもらいたいと思った。穏やかな微笑と豊かな胸が、『お師匠さま』と呼び慕っている薬剤師のすがたと重なったからかもしれない。
 だが、そういう気持ちは、便宜上のことであれ警戒されていたのだという理解を得た瞬間、たちまちに退いてしまった。
 入口の脇に立った門番は、人懐っこい笑みを浮かべたまま、小さな来客を迎え入れてくれた。
 しかしながら、メディはもう何も言わずに、小さく会釈だけをしてその横を通り過ぎた。
 毒人形だと言ったら、追い返されるとまではいかなくとも、この素敵な門番に嫌われてしまうような気がした。それだけは絶対に嫌だった。そうなるくらいなら、何も言わないほうがいいと思ったのだ。
 寂しい。

          ※ ※ ※

 庭園は薔薇の花で埋め尽くされているが、色は紅いものばかりで、血の海を連想させた。豊かな配色には決して備わることのない独特の美しさと、単純に統一性があるだけの装飾でも絶対に持ちえない底なしの不気味さを漂わせている。
 ぐう、という音が鳴った。
 時計台を確認しなくても、頭の真上でさんさんと輝いている太陽と、人間も妖怪も生まれた時から例外なく腹の中に飼っている虫の鳴き声が、今が昼時であることを教えてくれる。
 メディは空腹に溜息をつきながらも、玄関ポーチにたどり着いた。人形だからといって、お腹は空く。それはメディスン・メランコリーの、妖怪としての性質の一部なのだろう。
 玄関扉の前に立って、どうすればいいのか思案する。門番の許可を得たからといって、黙って勝手に入るわけにはいかないだろう。曇りガラスが嵌め込まれたマホガニー製の大きな扉には、コウモリの形を模したノックハンドルが取り付けられている。だが、ノックハンドルを打ち鳴らして家人を呼べばいいのだということが、メディには解らない。
 立っているだけでは何も進展しないので、メディは自分の声で人を呼ぶことにした。広い家だから、玄関に近い場所に誰も人がいなかったら、効果はないだろう。できるだけ大きな声を出そうとして、息を深く吸い込んだ。
 メディがそうするのと、ガチャリという音を立てて玄関扉が開くのは、ほぼ同時の出来事だった。
「あら」
 中から出てきた女性は、ちょっと驚いたような声を上げると、すぐにぷっと噴き出した。玄関先に、ほっぺたを膨らまして顔を真っ赤にしている金色の髪の少女がいたら、誰だって笑ってしまうに違いない。
 銀色のショートヘアーに、白いフリルのカチューシャ。青いエプロンドレスを着たその女性には、実際のところ女性というよりは少女という表現のほうが似合うのだが、それよりもはるかに幼いメディの目には、その姿はずっと大人であるように映った。
 吸い込んだ空気をゆっくりと吐き戻したメディは、その女性を知っていた。
「咲夜」
 十六夜咲夜。紅魔館のメイド長である。
 メディはこの従者とは顔見知りであるが、会うことは少なかった。あまり話したことはない。もしも深く話し込んだことが一度でもあったのなら、メディは紅魔館のことをもっと詳しく知っていたはずである。赤い髪の門番がいることも、図書館に魔女が住んでいることも。
 他にメディが知っているのは、紅魔館の主が吸血鬼であることくらいだ。
「話に聞いたとおりの、可愛らしいお客様だわ」
 咲夜はそう言って、穏やかな笑みを強調した。何らかの手段を用いて、門番が連絡しておいてくれたのだろう。タイミング良く扉が開いたのも、偶然の出来事ではないはずだ。
 メディは、今度はみずから事情を説明することにした。
「あの。ぜんそくのお薬を、届けに来たのだけれど」
 言葉を詰まらせながら、よくもそんな勇気があったものだと自分で感心したが、多少は見知った顔の相手だったからかもしれない。
「ええ、うかがっておりますわ」咲夜はそっと頷いた。「ご案内致しましょう」
 そうして、慇懃な口調で玄関の内側へと導かれる。薬だけ受け取って、後は図書館まで届けてもらえば良かったのだが、いつもの配達人と同じ対応、ということで招かれたのだった。
 巨大なシャンデリアの吊るされた天井の高い玄関ホールの奥には、バルコニーのように突き出ている部分があって、両サイドに弧を描くように設えられている階段を使って上り下りできるようになっていた。そのバルコニーの上下にそれぞれ三つずつ扉があって、下段中央の、他よりもひときわ大きな扉だけが開放されている。
「こちらですわ」
 咲夜は玄関扉を閉め、ホール奥の開放されている扉のほうを示してメディを促すと、前に立って整然とした足取りで歩き始めた。あまりにも鮮やかな手際だったので、ホールの内装に目を奪われていたメディは、慌ててその後を追った。
 実のところ、銀髪のメイドを前に、メディはかなり緊張していた。見知った顔だという小さなプラス要素がなければ、自分から事情を説明するなどという芸当は、とうてい不可能であっただろう。
 十六夜咲夜は人間なのだ。
 人間が吸血鬼の側近を務めているのだから驚きであるが、人里で生活しているような一般人ではないことは確かである。
 ただ、メディにとっては、いかに人間離れしていようとも、人間であるという事実を否定できないことこそが重要なのであった。
 自分勝手に人形を作り、自分勝手に棄て去ってゆく人間。
 かつて大いに恨み、大いに憎んだそのイメージと、目の前で優しく笑いかけてくれるその姿が、まったく噛み合わない。その矛盾が心に亀裂を生じさせ、亀裂からこぼれ落ちた黒い砂塵が霧のように立ち込めて、メディの頭の中で膨れ上がってゆく。
 紅いカーペットの敷かれた、広い廊下を一直線に進む。
 咲夜に従って歩いていくが、何だか落ち着かない。ただ歩くだけだ。それだけなのに。
 頭が重い。痛いのではなく、重く感じる。
 重さに耐えかねるように、視線を落として、カーペットの紅色をなぞっていく。
 鮮やかだけれど、直線的な、変わりばえのない光景。
 頭の中の黒い霧が、さらに膨張する。
 落ち着け。
 落ち着け。
 もうすぐ。
 もうちょっとだ。
 おつかいは終わる。
 無事に終わる。
 ああ、良かった。
 お師匠さまが、喜んでくれる。
 嬉しいことだ。
 ふと、前を見る。
 前方で、銀色の髪が揺れている。
 銀色の髪。
 お師匠さまと同じ色だ。
 お師匠さまと?
 いや、違う。
 この感覚は。
 銀色の髪。
 懐かしい、銀色の髪。
 心の奥底で、何かが震えている。
 妖怪になる前の記憶だ。
 覚えている。
 人間に作られ、鈴蘭畑に棄てられた。
 だが、それだけだ。
 覚えていることは、たったそれだけ。
 後は、すべてがぼんやりとしている。
 ぼんやりと。
 そう――銀色に。
 作られて、棄てられて。
 人間に憎しみを抱き、復讐を誓った。
 鮮明な記憶は、そこから始まる。
 妖怪の記憶は、そこから始まる。
 では、人形の記憶は、一体どこへ行ってしまったのだろう?
 確かに、ここに在るはずなのに。
 それなのに、はっきりと思い出せない。
 私は地面に寝かされている。
 鈴蘭の花が、頬をなでる。
 銀色の髪が揺れている。
 動けない。
 人形だから。
 銀色の髪が遠ざかってゆく。
 追いかけることはできない。
 人形だから。
 苦しい。
 寂しい。
「嫌だ」
 嫌だ。
 嫌だ嫌だ嫌だ!
「待って!」
 お願い。
 待ってよ。
 寂しいよ。
 独りにしないで――
「大丈夫?」
 ふと見上げると、目の前に咲夜の顔があった。こんなに間近で覗き込まれているのに、気付かなかったのか。
 そう思った後で、メディは初めて、自分がカーペットの上にしゃがみ込んでいることに気が付いた。
「そうね……少し、休憩しましょうか」咲夜は心配そうに言った。「疲れているのかも」
 メディに合わせてしゃがみ込んでいた咲夜は、しわの出来てしまったスカートを、立ち上がって整えた。
 そうしてスカートの裾を軽く引っ張りながら、それとも、と言って付け加える。
「このお屋敷は、広いから。緊張しちゃったのかしらね」
「――――」
 咲夜の言葉を受けて、メディは首を大きく横に振った。自分でも意識していなかったくらいに、ほとんど反射的な動作だった。
 緊張。
 そうだ。
 緊張している。
 だけど、違う。
 お屋敷が広いから、なんて理由じゃない。
 咲夜を見上げる。
 驚いたような顔をしていたが、それを気にするよりも先に、その言葉は口をついて出てしまっていた。
「人間が、解らないから」
 言ってしまってから、後悔した。
 口をすべらせてしまったことに、ではない。
 これまで誰にも言わなかったことを、後悔したのだ。
 謝ろうとしたが、上手に言葉が出てこなかった。どうして謝ろうとしたのかも、よく解らない。
 解らないことばかりだ。
 たが、そうして困惑していても、銀色の髪の従者を困らせるだけだ。謝ることが、ひとつ明確になった。
 だから、改めて口に出そう思ったのに、先んじて放たれたのは、あまりにも意外な言葉だった。
「聞くわ」
 咲夜はもういちどしゃがみ込んで、それだけ言った。

          ※ ※ ※

 黙って手を引かれるままに、近くにあった扉を開けて、部屋の中に連れて行かれた。大きなソファーが対面するように並んでいて、そのあいだにガラス製の長テーブルが置かれていた。応接室のような部屋だと思ったが、頭の中がぼんやりしていたので、詳しいことはよく解らない。
 ソファーに座らされる。咲夜は対面に腰掛けた。そうするまで何も言ってはくれなかったが、廊下で話すような軽率なことではないと、気を遣ってくれたのだと解った。
「話して。無理にとは言わない」
 そう言った咲夜の顔には穏やかに微笑みが浮かんでいたが、その表情には太い針のような真剣さが通っているような気がした。
「どうして?」
 不思議だった。だから、素直にそれだけ尋ねた。
 薬を届けに来ただけなのに。ほとんど話したこともないのに。毒を操る危うい人形なのに――
「困った時は、お互い様でしょう」
 咲夜は言った。微笑みが、少し崩れたような気がした。ちょっとだけ、力が抜けたように感じたのだ。
「お互い様?」
「ええ。いつもお薬を届けてもらっているし」
「いつもは、私じゃない」
「感謝の気持ちは同じことよ。相手が代理人であったとしてもね。こうして、わざわざ来てくれていることに変わりはないんだから」
「でも――」
「それに」咲夜は強く言って、メディの言葉を遮った。「こんなに可愛らしい子が苦しそうにしているのに、放っておくのは後味が悪いわ。あなたと同じくらい小さくて、心に大きな負担を抱えていて、それでも真面目に頑張っていた友達を、うしなってしまったばかりなの」
 どうしようもなかったけれど、私の無力のせいでもあると思う、と咲夜は言った。料理が好きな子だったという。
 それから、咲夜は「ごめんなさい」と言った。急に語調を強くしてしまったことに対して、だけではないだろう。
 沈黙。
 メディはまた下を向いてしまった。
 静けさの途中、少し遅れて、咲夜の言葉が優しさとして身に染みてきた。
 話してもいいのだろうか。
 それも、人間に。
 思い悩む。
 思い悩むが、これまでの混乱とは違う。単に、話すべきか、そうでないか、という逡巡である。
 頭の中に立ち込めていた黒い霧が、少しだけ晴れていくような気がしていたのは確かだった。
「……疲れたのなら、そのまま休んでいても構わないわ」つと沈黙を破って、咲夜はソファーから立ち上がろうとした。「私は、紅茶を淹れてくるから」
「待って」
 うつむいたままだったが、強い言葉だった。咲夜は立ち上がろうとするのをやめて、メディのほうに向き直った。
 顔を上げる。気恥ずかしいが、今度は目を逸らさなかった。
 そうしたら、後はもう、堤防の土砂が決壊したように、言葉が次々に流れ出てきた。
 人間に作られ、棄てられたこと。
 思い出すことのできない、ただの人形だった頃の記憶。
 消し去ることのできない、人間を憎む気持ち。
 だが、触れ合ってみて、浮かび上がってきた大きな矛盾。
 もっと人間と仲良くなりたいという思い。
 毒を操る人形、ということについてのコンプレックス。
 人間でなくとも、自分を避けるかもしれないという懸念。
 嫌われたくない、という感情が膨れ上がったこと。
 すべての感情を包括する、寂しさ。
「嫌なの。自分が嫌」
 ――触れれば、たちまちに皮膚がただれてしまう、危険な毒人形。
 人間の、自分に対する評価だ。
 それは本当だった。
 本当だ、と言うのではない。あくまで、過去の話である。
 改善したのだ。身体から垂れ流しになっていた毒を、制御できるように。誰かと手をつないで歩けるように。
 幼い妖怪が、その身に有り余る力を制御するためには、並々ならぬ努力が必要だった。
 それでも、人間の目は、おぞましい毒人形の姿を映している。
 人間ではなくたって、そう思うかもしれない。
 近付きたいのに、近付けない。
 どうして、こんなふうになってしまったのだろう。
 人間が、鈴蘭畑に棄て置かなければ。
 そもそも、人間の自己満足で作られなければ。
「こんなに寂しい思いをすることはなかったのに」
 そう考えると、人間に対する憎しみの感情が、また湧き起こる。
 でも、やっぱりそれは矛盾していて。
 人間が好きだった。紅白の巫女、モノクロ魔法使い、銀髪の薬剤師――
 そして、目の前で話を聞いてくれている、紅魔館の従者。
「だったら、それを信用すればいいじゃない」
 それまで黙って聞いてくれていたけれど、それが、唐突に口を開いて出た言葉。
「信用?」
 メディが首をかしげると、咲夜はゆっくりと頷いた。
「すべてをひっくるめて考えようとするからよ。計算じゃないんだから、そんなに難しい思考回路は、賢者だって持たなくてもいい。私たちの心は、記号で成り立っているわけではない」
 私たち、と言ってくれたのが、嬉しかった。
「それは形式的な記録なんかより、ずっと温度のある記憶なんだから。矛盾があるのなら、ひとつずつ、信用していけばいい。問題があるのなら、ひとつずつ、納得していけばいい」
「ひとつずつ」
「そう、ひとつずつ」咲夜はまた頷いた。「何も、関係ないことまでご丁寧につなぎ合わせて、深く落ち込む必要はない。あなたが人間が好きだという気持ちを大切にしようと思うのなら、ひとまずそれは信用していい。触れ合えるようになるまで、必死に努力したんでしょう。その行為が、信用を裏付けてくれる」
 少なくとも、努力した者は相応に報われるべきだ、と付け加えてから、咲夜は一瞬だけ虚空を見た。その何もない空中に、誰かのすがたを思い浮かべているのかもしれない。その誰かの努力は、報われなかったのだろうか。
 それから、何かを払拭するようにかぶりを振って、咲夜は続けた。
「だから、もしあなたが人間と仲良くなりたいという気持ちを大切に思っているのなら、人間を憎む感情まで無理矢理に尊重する必要はない。そこには単純に、やりきれない意地があるだけ。そういう気持ちを抱いていた、過去の自分を否定したくない、っていう意地がね」
「――――」
 言われて、はっとした。確かに、その通りだと思ったからだ。
 自分は、過去に囚われている。
「解ったでしょう? あなたの矛盾は、人間に対する好意と憎しみとの間に在るものではない。ただ、過去の自分のすがたに縛られて、今の自分を塗り替えられないだけ」
 現在と過去の混在。
 それこそが、矛盾。
「人は変わるものだわ。人間であっても、妖怪であってもね。しかも、あなたの変化はプラスであるように思える。そのことは素直に信用して、受け入れたほうがいい。憎しみを、すぐには忘れることはできないだろうけれど、それを改善しようという気持ちを抱いていれば、いつかは矛盾をなくすことができるはずだわ」
 人間が憎い。
 人間が好きだ。
 これまでは、二つの相反する感情が混在していただけだ。
「そうだ」
 人間が憎いからといって、好きだという感情を廃絶しようとは思わなかった。
 人間が好きだからといって、憎しみの感情を忘れ去ろうとは思わなかった。
 どちらかを選択することはできなかったのだ。過去の自分を否定するようで、怖かったから。恥ずかしかったから。
「選択することは愚かではない。それは、否定したことにはならないはず。過去の自分の上に、今の自分が在るのだから。そうでなければ、『思い出』なんていう素敵な言葉は存在しないわ」
 咲夜の言葉を受けて、メディは頷いた。
 憎しみは消えない。消そうとしなかったからだ。それを悪いことだと決定付けることが、過去の自分に対して恥ずかしいことであるように思えたから。
 でも、今は違う。
 鈴蘭畑に籠もっているだけの、箱入りのお姫様ではないのだ。
 あの銀色の髪の薬剤師が、せっかく広げてくれたのだ。今の自分の世界を裏切りたくはない。
 スカートの裏側に、厄除けの御守りが縫い付けてある。先日、神社に遊びに行った時、巫女がくれた。服に縫い付けたほうがいい、と言って、友達の人形師が裁縫してくれた。
 色々な人に会った。
 もっと色々な人と知り合いたい。
 その気持ちに、嘘をつかずに生きていきたい、と思った。
「少なくとも、あなたが努力をしたことは、私が知っている。あなたが恐ろしいだけの毒人形ではない、ということも、あなたが大好きな人たちはみんな知っているはずよ。それを信用しなさい」
 咲夜はそう言って、次に浮かび上がってくるはずの懸案事項を、先回りしてフォローしてくれた。
 単なる毒人形ではない、と認めてくれる人が欲しかったのだ。
 きっと、薬剤師もそうなのだ。毒を撒き散らすだけの人形だと思っていたのなら、薬の配達をお願いしたりはしなかっただろう。
 嬉しさが込み上げてくるのがわかった。
 それまで真剣に語っていた咲夜の顔に、いつしか穏やかな微笑みが浮かんでいた。それを見て、自分も笑っているのだということに気付く。
「ありがとう」
 謝ろう、とは思わなかった。表に出てきたものは、精一杯の感謝の気持ちだった。
 過去に囚われない。
 自分の大切なものを、もっと信用していい。
 これからも、人間に対する憎しみが、ふと湧き起こるような出来事があるかもしれない。
 それでも、根底にある大切な感情こそが、メディが最も尊重すべきものであることには変わりない。
 黒ずんだ色の霧が、すっかり晴れていた。
 その様子を認めたのか、咲夜はメディの目を見てゆっくりと頷いた。それから視線を外すと、何気なく、カーテンのほうに目をやった。
「ネズミではないわね。ウサギが忍び込んでいるみたい」
 次の瞬間、厚い布地のカーテンが、ガサリという音を立てて大げさに揺れた。窓は閉め切ってある。
「何?」
「きっと、ポルターガイストよ」
 メディが首をかしげていると、咲夜はそれだけ教えてくれた。ポルターガイスト、という名前の魔法なのかもしれない。
「ネズミよりは、ウサギのほうが、大きくて見つけやすいような気がするわ」
 メディがそう言うと、咲夜は小さく声を漏らして笑った。
 銀色の髪の従者は、紅茶を淹れてくる、と言って部屋を出ていった。
 その日、メディは、図書館の魔女に薬を届けてから、昼食をご馳走になった。薬を手渡す時、お腹が鳴ったのを魔女に聞かれてしまったのだ。魔女と聞いていたから、何となく不気味な姿を想像していたのだが、物静かな優しい人で、一緒にお昼を食べられるように計らってくれた。
 紅魔館はたいてい夜中に活動するお屋敷だったが、この日は門番と魔女とメイド長が起きていたので、四人で食卓を囲んだ。
 友達に焼き方を教わったというミートパイは、初めて食べたはずなのに、何だか懐かしい味がした。
 またおつかいに来たい、と思ったが、それを口に出したら、なぜかみんなに笑われた。
 恥ずかしかったけれど、ちっとも悪い気はしなかった。

          ※ ※ ※

「メディはどうだった?」
「よくやっていましたよ。迷子にもならず」
「紅魔館でも?」
「はい。ちゃんと薬を渡していました。ちょっと思い悩む場面もありましたが、メイドが面倒を見てくれて」
「へえ、あの子が。うふふ。それは良かった」
「ええ、良かったですね。……はぁ」
「あら。どうしたの、ウドンゲ。元気がないわ」
「そう見えますか」
「そう見えるわね」
「聞いて頂けますか」
「聞いてあげないこともないわ」
「し……師匠っ! 聞いて下さい!」
「解った、解った。慌てなくても、私は消えない」
「それが……」
「ええ」
「その……」
「うん」
「ミートパイを食いっぱぐれました」
 竹林のお屋敷で、今にも泣き出しそうなウサギの溜息と、薬剤師の呆れたような深い溜息が、同時に漏れた。
 幻想郷は今日も平和だ。
 お久しぶりです。と言っても、約一年ぶりの投稿になるので、初めまして、と言うほうが適切かもしれません。カモヤマ・ネギ、略してかもねぎと申します。
 シリーズで書くと言っておきながら、だいぶ間を空けてしまいました。期待して下さっている旨のコメントも頂いておきながら、イベント用の原稿にばかり没頭していたため、すぐに続きを書くことがでず、申し訳御座いません。自分のような者の存在はとっくに忘れられているだろうとは思いますが、それでも楽しみにして下さる方がいらっしゃったのは事実なので、この場を借りて深くお詫び申し上げさせて頂きます。

 前回とは逆に、今回は他人との会話よりもメディ自身の世界を重視したので、より強くスポットライトを当てることができました。人形の孤独な思いと、彼女を取り巻く世界の優しさを感じ取って頂ければ幸いです。
 あと三話ほど書かせて頂こうと思っておりますが、長いスパンを見積もっておりますゆえ、もし気に入って下さる方がいらっしゃいましたら、気長にお待ち頂ければ幸いです。
 では、またの機会に。
神方山 祈
http://www12.ocn.ne.jp/~pps/
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コメント



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12.80煉獄削除
メディスンのおつかいと咲夜さんのお話。
彼女の色々と悩む姿は構いたくなるようでした。
面白いお話でしたよ、最後のオチも含めて。
22.100名前が無い程度の能力削除
幸せな気持ちになりました