藤原 妹紅 様
つつしんで申しあげてやります
寒さも日毎に増します今日このごろ。私たちが出会ってから、だいたい千年か二千年ぐらい経とうとしておりますが、相も変わらずまぬけた顔してお過ごしでしょう、ばーか。
さてさて、このたび我らの永遠亭が老朽化にともない、改築の運びとなりました。イナバたちの尽力の甲斐あってか、よりいっそう素敵なお家になりました。うらやましいだろう。
つきましては、あんたのとぼしい頭じゃとてもとても思いつかないような、それはそれは素敵な改築祝いを開催しようと思います。暇を持てましてはダラダラ暮らしていることと存じますので、わざわざこの私がお誘い申しあげます。どうぞ鼻水でもながしてお喜びください。
穢れ蓬莱人にはもったいないすばらしい、それはもうすばらしすぎる趣向をこらしてお待ちしております。お誘いあわせのうえ、かならずご出席してください。なお、永遠亭の場所につきましては親切にもわたくし自ら書いてやった地図をかっぽじってご覧ください。
ここのところ、あんたの顔のようにうすら寒い風が吹き荒れておりますので、せいぜい裸でほっつき歩いて風邪でも引かれますよう。
かしこ
◆
「という手紙がきたのだけど」
妹紅が手紙を持ってきた。
なんだろうなあ、これ。
書いてあることは難しくない。所々がひどく失礼なだけであって、『かっぽじって』だとか『ほっつき』だとかを削っていけば、きれいな文面になるんじゃないかと思う。
「来て欲しいのか、欲しくないのか。どっちだと思う?」
「わからないな」
それにしても、三十枚まるまる使いきって書くほどのことだろうか。紙をめくるのに忙しすぎて、読むだけでもけっこうな根気が必要だった。『かしこ』で一枚使いきってしまう理由がわからないし、一言一句こんなに力を込めてたら書くほうも大変だったはずだ。
「慧音ならわかるかなって」
「わからないよ。とくに、この地図とか」
地図はあんまりにも大まか過ぎて、『かっぽじって』見るところがないのだ。『満月』とか『山』とか、なんの目印にもならないものばかり配置されている。思いついたものを書いただけだろう。
「スカスカだよね。子どものラクガキみたい」
「もったいないなあ」
やけに上質な紙だったので、寺子屋のおぼえ書きにでも再利用しようかなあ、とか我ながらみみっちいことを考えてしまった。
厚い封筒を裏がえしてみる。『蓬莱山輝』と力強く書いてあった。思いきりよく書きすぎて『夜』が入らなかったんだな、と一目でわかる。私だってたまにはこういうこともあるけど、これはあんまりだ。
「それにさ」これが最大のポイントだ。
手紙には大変な見落としがあった。おかずだけつくって米を炊き忘れたとか、風呂に入ろうとして水を張ったのに、火を入れ忘れたとか、そりゃあもう大変な話。
「日取りが書いてないじゃないか」
これでは招待したいのか、悪口を書きたいだけなのか、どちらが目的か分かったものではない。悪口の部分だけ、やたら楽しそうに墨が跳ねてるし。
「いつ来てくれてもかまわないってことじゃないの」
と妹紅は言うのだが、おそらく、そんなに好意的な話ではないだろう。蓬莱人ゆえの余裕というものなのか、この娘はたまにこうやって心の広いところを見せる。好ましいものだとは思うのだが、今回ばかりは悪いほうに解釈するべきだ。
「書き忘れたか、書く気がなかったのだと思う」
文面からは、残念ながらそんな雰囲気がただよっていた。こちらの都合をほんのひと握りでも考慮してくれていたら、私でも妹紅みたいに好意的に解釈することができたのだろうに。
「行くつもりは?」
「ないけど」
妹紅はそこで黙ってしまって、ため息をつく。諦めが見てとれる。まぁ、無視するわけにもいかないんだろうな。
「祝いというぐらいだから、それなりのもてなしはあるんじゃないかな」
もちろん気休めだ。そんな保証はどこにもない。なにか良からぬ事をされるか、させられる、というのが妥当だ。
「面倒だなあ」
面倒という言葉はこういう時のためにあるんだなあ。幻想郷では軽々しく使う者が多すぎるのだが、今このときの妹紅は許されて良い。
「お誘いあわせのうえで、って書いてあるが」と指摘すると、妹紅が私を見上げてきた。
なんだかとても、申しわけなさそうな目だ。言われなくてもわかるよ。同じ立場なら、私もきっとそんな顔をしたはずだ。
そんな顔をした妹紅を気が乗らない宴に一人で行かせるというのは、あまりに忍びない。そもそも暗に私も指名されているといっていいわけで。
「ついて行くよ」
自然とそう伝えていた。
このときはまだ、普通の宴会のなかで少々いたずらされる程度とか、そんなことを期待していたりもした。
◆
迷いの竹林には吉日の朝を選んで向かった。吉日を選んで気がのらない場所に行くというのも、やり切れないものがある。
当然ながら、入口で途方にくれた。
「どっちへ向かったものかな」
「わかんない……」
例の地図は持ってきていない。あれが役にたつというのなら、幻想郷に迷子は存在していないし、方向音痴なんていう言葉もなかったはずだ。そもそも、あれはほんとうに地図だったのか。
「まぁ、出迎えがあるんじゃないの?」
妹紅は意外と気楽だった。
あてどもなく歩いていると、見たことあるような、ないような妖怪兎が飛び出てきた。待ちかまえていたのか偶然通りかかったのかは定かでない。首から下げたニンジンの飾りが、わかり易くてかわいらしい。
「こっち」とみじかく伝えて、竹林を指さした。
「やっぱり出迎えみたい」
「都合がよすぎて気味がわるいな」
しかし他にアテがあるはずもないので、あとに続く。兎はなんだかこなれた歩調だ。
それからしばらく歩く。兎はなにも語らなかったが、どこか楽しげだった。たまに振り返って笑ってみせたりする。冬の日差しが真っ白の服にあたって、きらきらした。日と場所さえ違えば、さぞやほほえましい光景だったのかもしれない。
やがて竹林が薄れて、目的の場所が見えた。
「うわ」
「ひどいな」
二人そろって声をあげてしまう。
まず目にとびこんできたのは看板。あんまり大きすぎて、屋根をぜんぶ隠してしまっている。ご苦労なことに赤、青、黄色で、『永遠亭』とおおげさな書体で書かれていた。寺子屋の子どもたちに塗らせても、もう少しマシな色使いをしてくれるはずだ。
大体こうまでして人目を引かなければならない理由がどこにあるっていうんだ。
「趣味わるいなあ」妹紅が怪訝な目をする。「あれって、門?」
看板の下には門のようなものがあった。石造りのようだが、あまり見慣れない造りで、取っ手には猛獣のような顔が刻まれている。たしかに趣味がわるい。
「他にそれらしきものはないしなあ」
だからといってあれを門と認めてしまっていいものか。
入口の不気味さに心奪われているうちに、案内してくれた兎が消えていた。礼をいう暇もなかった。
こうしてふたり、置き去りにされる。
やってきた、なんていう感慨は全然なくて、首に紐をかけて連れてこられた犬の気分だ。
「ここまで来ちゃったしなあ」
このまま引きかえすのもなあ、といったところだろう。
「行こうか」と声をかけて、荒々しい取っ手を押した。噛みつかれないか心配だったけど、杞憂で済んだ。
重くるしい門が、ぎしぎしと不快な音を立てて動く。
改築したばかりのはずなのに、もう何十年も使い古した扉みたいな、不協和音だった。
◆
(ようこそー)
永遠亭にはいるなり、どこからともなく緊張感のない声がした。頭のなかに直接響いてるようで、不快だ。
というか、お客がきたんだから姿を見せてくれよ。それが礼儀というものだろう。
「慧音見て、あれ」
妹紅が指差した先には、地平線。
見れば、廊下が果てしなく伸びている。
「長さにはまぁ、目を瞑るとしてだ」
「ふすまもひどいね」
廊下の左右に七色のふすまが並んでいた。ふすまっていうのは白に黒だと思っていたから、これは衝撃だ。
「目が痛くなってきたよ」
「あんまり見ないほうがいい」
そうは言っても嫌でも視界に入ってくるのだけど。
二人そろって目を奪われていたら、またあの軽々しい声がした。
(土足厳禁だから、靴は靴箱に入れてね)
この家には土足で足を踏みいれる者が多いようだが、私はちがう。言われたとおり靴を脱いで、靴箱と思わしきところへいれた。
しかし『くつばこ』とは書いているのだが、世間一般ではこういうかたちの箱はごみ箱と呼ぶんじゃないか。実際、入れたというよりは捨てたという感覚のほうが強かった。
入れたとたん、靴箱がとてつもなく震えた。それから、熱い空気が流れたような気がして、ぱちぱちと何かはじけるような音もした。なんだろう、これは。いったい何が起こっているのか。
いや、何が起こっているのか、というか私の靴がどうなってしまったのか。ほんとうは想像できないこともなかった。あえていうなら、焚き木だ。心がその光景を拒んでいた。
(ぷっ)
なにか空気がもれるような音が聞こえた。
あの靴と共に歩んだ日々が走馬灯のように流れてゆく。なんでだろう。
手にしたのは去年の春だったかなあ。履き物屋の旦那さんが、いつも子どもたちが世話になってるからって、わざわざ私にあわせて作ってくれたんだ。嬉しかったなあ。身の周りの物にはそれほどこだわりがないのだけれど、めずらしくお気に入りだった。大きさが本当にちょうど良かったし、ひかえめな飾りも好みだった。紺色だけど地味すぎない色合いも私らしかったな、なんて今になって思う。
「妹紅は土足でいい」
「……うん」
妹紅はすこし痛ましそうな目を私にむけてから、脱いでいた靴を履きなおした。そういえばあの靴のこと、すこし自慢してしまった覚えがある。私がどんな思いでいるか察してくれていたようだ。優しいなあ、この娘は。
私は素足、妹紅は土足で廊下に入る。部屋履きぐらい用意しておいて欲しかったものだ。いや、それ以前の問題か。
突然、足もとに強い力を感じた。両足に力をこめて、なんとか踏みとどまる。
わっ、と妹紅が驚いて尻餅をついた。
七色のふすまがぐんぐん過ぎ去ってゆく。ちかちかして、どうしようもなく目の毒だ。
廊下がとんでもない速さで滑っている。そう理解するまでしばらくかかった。
足元から引っ張られているみたいで、決して気分の良いものではない。景色も最悪だし。
「よっぽど楽がしたくて、こんなの作ったのかな」
理解できない、といった風に妹紅が立ち上がる。たったそれだけの間にも、私たちはどんどん運ばれてゆく。
「違うだろうな。楽がしたいのなら、もう少し小さめに設計すれば良いだけの話だし」
自分で言っていてよく分からなくなるのだが、実際そういう話なのだから仕方ない。この廊下は不条理すぎた。
「まともなお祝いなんて、やってると思う?」
「思わないなあ」
運ばれながら、そんなことを話す。そもそも日程を決めていないのだから、準備のしようがない。
「祝えないよね、これは」
まったくその通りだった。あの門構えや、この廊下は祝いようがない。
「お悔やみのほうがふさわしいな」
廊下の終わりは唐突で、白い壁だった。見えたと思ったら、もう目前だ。すんでのところで飛びあがって、急ブレーキ。直撃は免れたが、軽く叩きつけられた。痛みを感じるほどのものではないが、理不尽だ。
べたん。
隣でそんな音がした。妹紅を助けるだけの時間はなかった。
気づくのが遅れたのか、真正面から壁にめり込んでしまっている。気の毒すぎる光景だった。なにが悲しくて妹紅はこんな、叩き潰されたカトンボみたいな有りさまになっているのだろう。改築を祝いに来ただけだというのに。
そのまましばらく張り付いていて、やがて剥がれた。
廊下はすでに動きをとめていたので、お互いなにごとも無く着地できた。妹紅は着地というか、落下していたのだが。
「あいたあ…・・・」
顔をおさえて小さくなってしまっている。
少し鼻血が出ていたので手拭でふいてやった。妹紅は大人しく私の手当てを受けいれる。すこしだけ生々しい匂いがしたが、慣れたものなのでべつに不快ではない。
「あいがとう」
くぐもった、なんとも切ない声で礼を言ってくる。悲しくなった。
「無茶苦茶するな、まったく」
(ぷふっ)
また何か聞こえた。ただの空気音なのに、なんでこれほど頭に来るのだろう。
わ、と妹紅が声を上げた。引き起こしてあげたのだけど、少し力が入りすぎてしまったのかもしれない。私のせいじゃないので許してほしい。
「何か書いてあるな」
壁に張り紙があった。人型でゆがんでしまって少々読み難かったが、『裏 永遠亭 ここから右』となんとか読めた。ここから右といっても、道は右にしか無い。いまさらこの廊下を引きかえすのは億劫なんてもんじゃないので、おとしなく従う。
「裏ってなによ、裏って」
歩きながら、妹紅が鼻をさする。蓬莱人ゆえか血はすぐに止まったが、痛みは尾をひいているようだった。
「慎ましやかであることを祈るよ」
そうはいかないんだろうな、と諦めてもいた。今のところそういう好ましいものとは無縁だ。
五十歩ほど進んだ先に、金色に光る襖があった。予想通り慎ましさとはかけ離れたものだ。どうやったらこんな不吉な光りを放てるのだろう。ほんとに、趣味が悪いと思う。
「開けたくないなあ」
妹紅が言った。私もおなじ感想だ。しかし、そう言っていても始まらない。文字通り引き返せないところまで連れてこられてしまっているのだから。
「開けるよ」
「待って」妹紅が私をさえぎって襖に手をかける。
ばちん。
鋭い音がして、青白い光りがその手を襲った。
「だっ、いたっ、た」
罠、というか規模を見るかぎり嫌がらせだ。妹紅は身代わりになってくれていた。とても気の毒で、申し訳ない。それ以上に妹紅の気遣いがありがたくて、嬉しかったのだけど。
「――ほらね」そう言ってふすまを蹴飛ばした。
今まで受けてきた仕打ちを思えば、これぐらいの不調法は許されて良いさ。もの足りないぐらいだ。
蹴破った先には広大な和室があった。こんな家じゃなかったら、さぞやくつろげるだけの代物なのだろうけど、今は広さが不気味でしかなかった。なにか出てくることは間違いない。いい加減この家のパターン化も終わりつつある。
悪い意味で予想に違うことなく、部屋の隅に黒くて白い塊を見つけた。
私たちを見つけるなり何か言ったと思うのだけど、遠いうえに小声なうえに早口なのでよく聞き取れなかった。なんだか初めから伝達する意思がないように思える。
(鈴仙、もっと元気良く)
また、あの声が聞こえた。誰のものなのかいい加減見当もついていたけど。
声を受けて、レイセン、と呼ばれた塊が立ち上がる。そのまま気だるそうに近寄ってきた。
耳の大きい妖怪兎だ。見覚えは、ある。
「よく来たわね!」
突然、開きなおったように指さしてきた。声だけは元気なのだが、目が死んでいる。なにか悲しいことがあったのだろうか、私もあったよ、と自問自答して、やるせなくなる。
「改築祝いは?」と妹紅が言う。
そういう主旨だったなあ、と思い出した。そういえば、家の者に会ったのはこれが初めてだ。
「え? そういう話なんですか?」
大耳兎が虚空に向かってたずねる。やっぱり宴の用意とか、それ以前の問題だったらしい。
(いいから黙って役目を果たしなさい)
「あなたの役目って?」
「道中ボス、とか言ってたような」
「手加減、できるかなあ」と妹紅がつぶやく。
私も自信が無かった。
◆
大耳兎は意識を失う間際、紙切れを渡してきた。最初から渡していればこんな目にあわずに済んだのだろうけど、それはきっと固く禁止されていたに違いない。
「あなたも大変だねえ」妹紅が心底気の毒そうに紙を受け取った。
――仕事だから。
それが最後の言葉だった。まるでボロ布だ。私たちがやったこととはいえ、あまりに気の毒だ。朝から今までのことがなければ、もう少し手加減ができたかもしれなかったのに。
紙には『赤は出血 青は頭痛 一人一枚だからね』とある。
思わせぶりなうえに不吉とは、ひどすぎる。
「ここまで悪ふざけするやつだったかなあ」
妹紅が憮然とする。付き合いの長いこの娘からしても、少々やり過ぎの感があるらしい。
「見るだけは見てやったし、そろそろ帰ることを考えないとなあ」
帰る、というより脱出といったほうが正しい。
あの趣味の悪い金色のふすまは、いつの間にか無くなっていた。
つまり、閉じ込められている。
「赤とか青とか、なんのことだろ」
「そんな感じのものがあるんだろう」
出血とか、頭痛とか、見つけたくもないけど。
しかたなく、しばし探索する。
そう時間はかからず「あった」と妹紅が声を上げた。
不気味に着色された畳みが、部屋の隅二つに並んでいる。みごとな染色なのだけれど、こうも完全な赤と青だと、不気味というほかない。
そこでふたり、どうしようかと考える。
「どう思う?」妹紅に尋ねた。
「慧音は?」と返してくる。
「多分乗ったら、どうにかなるんだよなあ」
「どうにかされるんだろうねえ」
「選択肢は三つある。私が赤で妹紅が青。私が青で妹紅が赤。そうでなければ」
「このまま帰る」
出口があれば、の話なんだよなあ。
言わなくてもお互いその選択肢は選べないと分かっていた。そうなると、二つに一つだ。
「わたしが、赤に乗る」と妹紅が言いだした。
「血が出るみたいだけど」
妹紅が言いたいことは分かる。この分だと、どちらを選ぼうがけっこうな苦労がありそうなのは間違いない。それなら、といったところなのだろうけど、妹紅の提案をあっさり受け入れてしまって良いのかという気持ちがある。
「慧音よりは丈夫だし」
「でもなあ」
「いいのよ、招待されてるのはわたしなんだから」
また後で、と言って赤の畳に乗った。乗るなり、畳が沈んでいく。それを眺めながら、これが改築とやらの成果なのだろうか、となんとも言えない気持ちになった。
しばらく覗きこんでいたが、やがて妹紅の姿が消えた。畳があった場所には長方形の暗闇がのこるだけだ。
いつまでも見つめていたところで仕方がないから、青の畳に乗る。
予想とはちがって、今度は天井に向かって上がっていく。どういう仕組みなのだろうと思ったが、あまり難しく考えるのはやめて、大人しくそれを受け入れることにした。考えてもわからないから不条理というのだ。
ちょうど頭がぶつかるぐらいの高さになって、ぱかりと天井が観音開きに口をあけた。
改築というか改造だよなあ。
ぴったりの言葉を、ここにきてやっと思いついていた。
◇
慧音と別れてからはずっと、真っ暗闇だった。少し指先に火を灯してみたけれど、見慣れた自分の服しか見えない。
なんの音もしない。耳をすましたら、自分の服の衣擦れの音がすこし聞こえるぐらい。
赤、青、赤、青と心の中で繰り返す。どう考えても、どっちもハズレとしか思えなかった。だって、そういう流れだったし。あいつのやることだし。どうせなら、と思って慧音に血が出ないほうを任せたけれど、どうなってることやら。
畳み、たぶん畳みなんだろうけど、下っている感じは、まだ止まない。
もしかしたら、ここがすでに『赤』の目的地なのかもしれない。そう思って一歩前に出てみる。何かにぶつかって、おでこが擦れた。痛い。さっきは何も見えなかったのに、バカにされた気分だ。
しばらく暗闇を見つめていたけれど、特になにもなかった。そろそろ目が慣れてきてもよさそうなものなのに、ほんとうになにも見えない。
ふいに、身体が重くなった気がした。それから、前か後ろか分からないけど、運ばれてる感覚。それもすぐに無くなった。
着いたのだろうか。
こんどは少し大きめの炎を灯してみる。なにか見えた。
なんだろう、あれ。あれっていうか、あいつら。
出てきたのは、一面の白、白、白。
兎だ。
兎といっても、あの小さくてかわいいやつじゃない。独特のちゃちな服を着た、あの妖怪兎だ。四方八方、十面埋伏。どうやらこの畳は浮いてるみたいだ。足元でもぴかぴかした目が光ってる。
(てーっ!)
勢いよく、そんな声が聞こえた。今ではもうはっきりと分かる。あの憎たらしい、輝夜の声だ。
声に続いて弾幕が迫ってきた。妖怪兎にも個性ってやつがあるんだなあ、とのん気なことを考える。弾幕は色とりどり、かたちもさまざまだ。三六〇度、全方位攻撃。かわせるのかなあ、これ。薄暗くて視界もよくないし。
スペルカードを使おうか? そんなことを一瞬考えて、やめた。
道なき道に燃えるのが、蓬莱人の心意気なんだ。
弾幕は考えるんじゃない。感じるんだ。
感じてから、覚えるんだ。
何匹いたってザコはザコ。
一瞬で気合をいれなおす。
ようし、避けまくってやる。
◆
「ようこそ」
遥か上空から歓迎された。見覚えがある顔だ。八意永琳、医者だとか、妹紅に聞いたような。
彼女は椅子に座っている。座っているのだが、何かがおかしい。高さだ。椅子を支えている柱が異常に長くて、こちらは見上げるしかない。客は見下ろすものではない。どちらかというと腰を低くして、身を慎んでお迎えするべきものだ。
「手間をかけるわねえ」
「とりあえず降りてきてくれないか」
まずは率直にそう言った。とてもじゃないけど話しかけている、という気になれない。書物に聞く、超常的な権力者たち、そんな存在にちっぽけな私見を奉っている気になってくる。このうえなく不愉快だった。
「残念だけど、それはできないのよ。そういう設定だから」
「設定って、どういうことだい」
「中ボスは荒ぶって偉ぶるもの、とか言ってたわね。荒ぶるっていうのも柄じゃないから、とりあえず偉ぶることにしたの」
まぁ、誰の思いつきなのかはわかる。一度この館の主の頭をひらいて調べてみたい、そんな気になっていた。
それにしたって、永琳にとって偉ぶるというのは、高いところから見下ろすことと同じなのだろうか。複雑な顔をしているわりに、ずい分と分かりやすい考え方をするようだ。
「なんだかねえ、間違えたみたいなの」
永琳は一方的に喋り始めていた。おい、私は客なんだぞ。
「間違えたって、何を?」
「風邪薬とね、私がお遊びで作った薬をね」
「どんな薬なんだ?」
「素直になるのよ」
よく分からないことを言った。素直って、あの素直か。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いって言える、子どもたちが持ってるものだ。ときには持ってない子がいるけど、そういう子を導いてあげるのも私の役目だ。
「だれしも自分を抑えて、理性とか、常識を身にまとって生きているものでしょう? そんなのを取りはらってしまって、本来の自分をありのままに出せるようにしてしまうお薬なの」
「それは危険だろう」と当然の指摘をしてみる。
常識とか理性というものは、円滑な人生を送るために必要だから身につけるのであって、そういうものを無くしてしまうことを、はたして素直になるというのだろうか。まぁ、幻想郷には常識なんか欠落してしまっている者も少なくないから、線引きが難しいところだけど。
「用法用量を守って使えば、すこしだけ楽しくなる程度で済むわ」
なんだか不穏なことを言ってる気がするのだけど、とりあえず目を瞑って話を先に進めることにする。
私たちは改築を祝いにきたんだ。
「それで最初に言い出したのが、この改築か」
「大変なのよ」といって永琳は足を組み替える。客の頭上でやることではない。
「これでも、進捗率でいったら二割ぐらい。輝夜の思いつきがそのまま設計図になるものだから、いつまでたっても終わらないの」
しかも、その思いつきは尽きることがない、ということか。ある意味、すごい才能なのかもしれない。
「主のやることだから、そう無碍にもできないでしょう? 解毒剤を飲ませようとしても、苦いのは嫌だって言って聞かないし」
なんだ、やっぱり毒なんじゃないか、という言葉は胸においておく。
「飲みものにでも混ぜて飲ませればいいじゃないか」
「あの娘、呆けてるように見えて、けっこう勘がするどいところがあるのよ。なんか分かってて楽しんでるような節もあるし。まぁ、けっこう面白いから付き合ってあげてるの」
どっちが主謀者なのか分かったものではないなあ。
「その薬は」この際だから疑問は解消しておく。「どれくらいで効果が切れるんだ」
「普通なら二,三日で切れるはずなんだけどねえ。ちっとも切れる気配が無いの。よっぽど相性が良かったのかしら」
薬の相性って、そういうものだったっけなあ。そもそも主治医がそんなに適当でいいのだろうか。
「それで妹紅を呼んだわけか」
思いっきり、そっちの都合で。
「自慢してあげたらどう? ってね。そしたら目をきらきらさせて、すごい勢いで招待状を書いたわ。根はやっぱり単純なのよ、あの娘」
それは私にも想像がつく。
しかし呆けてるとか、単純とか、主なのにひどい言われようだ。
「で」本題を切り出す。
「私たちはどうやったらここから出られるんだ?」
「出入り口の管理は輝夜が全部やっているから」
もうそれを聞いただけで、嫌な予感しかしなかった。
「輝夜に会って、この解毒剤を飲ませて、言う事をきかせるしかないわね。私が言ってもきかないから、あなた達で」といって小瓶を取り出す。
遠目なのではっきりとしないが、なんだか毒々しい色をしているように見える。黒? 紺? 紫? あえて抽象的な表現をすれば、邪悪色。そんな感じだ。
「それじゃあそれを頂いて行くとして、彼女はどこにいるんだ?」
「あらあら」と言って永琳が笑った。
「私は中ボスなのよ?」
タダで渡す気は無い、ということか。
妹紅は元気かなあ。怪我してないかなあ。そんなことを、ふと思った。
◇
我ながら、よく避けきれたと思う。長い人生のなかでも上位三十に入るむずかしい弾幕だった。
でも、一斉射撃は最初だけだった。というのも、せまい部屋なのにみんなまとめて撃ってくるものだから、同士討ちになってばかりで、無事な兎は半分ぐらいしか残らなかった。
まぁ、それでもまだまだ沢山いるのだけど。
ていうか、こういう結果になるっていうのも、命令したやつ以外は分かってたんじゃないかなあ。現に、今じゃ順番に攻めてくるようになってるし。おかげで各個撃破できてるんだけど。上司のあたまの悪さに同情した。
三十……三十一……三十二……。
撃墜数は三十を超えた。数えることに何の意味があるのか分からなかったけれど、数えていないとやってられないぐらい、単調な作業だった。
三十三……三十四……三十五……。
これでもまだ半分ぐらいだろうか。兎達はだんだんと連携をとった動きをするようになってる。上司よりあたまが良いんじゃないかなあ、と素直に感心してしまう。
三匹が固まって突っ込んできた。
一匹目は少し離れたところから弾幕を広げてきた。そうやって進路を狭めてくる。当たるような距離ではないから、無視。意識だけしておけば問題ない。
二匹目はありったけの弾幕をばら撒いてくる。規則性がないから、こいつがいちばん大変だ。でも、たいした密度じゃないので、ひとつひとつ慎重にかわす。
三匹目がトドメの役だ。じっくりとわたしに狙いを絞って、楔弾を連射してくる。ギリギリまで引きつけて、かわす。二匹目のばらまきの残りに注意しつつ、小さく小さく動く。
かんぺきだ。
それからが、わたしのターン。攻撃が終わって硬直しているところに、炎を投げてやった。
一ヒット、二ヒット、三ヒット。好調だ。もちろん手加減はしてやっている。どうせ、言いつけられてやっていることなんだから。
これで、えーっと、何匹だっけ? 三十……。ちょっと少ないかな。四十? これぐらいかな。
四十一……四十二……四十三……と再び数えだしたところで、あいつの、輝夜の声が聞こえた。
(てったいー、てったいー)
次々と部下達が撃墜されているというのに、ひどくのんびりした声だった。なんだかわたしと戦ってるとき急に、「飽きた、もう帰る」って言うのとよく似てた。肩すかしをくらったみたいで、頭にくるんだよね、あれ。
声をうけて、なにもなかったはずの壁に出口ができた。そこから水が漏れるみたいに兎達が撤退していく。元気な兎が、こげた兎を抱えていった。ごくろうさま。ごめんなさい。頭がさがる思いだよ。
兎達が撤退しおわったら、部屋がすっきりした。戦っているときは気付かなかったけれど、部屋は真四角だった。立方体、とか慧音が言ってたかな。ずい分と狭いところで戦ってたんだなあ。隅のほうにいた兎なんか、かなり窮屈だったのかもしれない。
ふいに天井が消えて、紙切れが落ちてきた。
ひらひらと舞う。少し歩いて、それを受け取った。
あいつ、このパターン好きだなあ……。
捨てる紙あれば拾う紙あり
と書いてある。
「すてるかみあればひろうかみあり」
声に出して読んでみた。響きは聞いたことがある。字を間違えてるのかな、これは。ひょっとしたら冗談のつもりなのか。
センスは、無いと思う。
なにか続きがあるのかと思って警戒してたけど、何も起こりそうにない。飽きたのかな。
天井は開きっぱなしだった。ちらちら、と光りがみえる。上って来い、ということなのかもしれない。
少しあたりを見渡してみたけど、他に道は無いみたいだ。兎たちが使った出口も消えてしまっている。
『ひろうかみ』とやらに会いに行こう。
どんな顔をしているのやら。
◆
「少し塩辛いけど、二匹食べるとポリポリして美味しい『けもの』ってなにかしら」
「つけものだろう」
「残念。正解はダチョウの砂ずりでした」
「…………」
「海の中に十五個あるものといえば、なんでしょう?」
「サンゴだ」
三かける五は十五だ。珊瑚は海の中にあると聞く。
「ブー。正解はイチゴ好きの磯巾着らしいわ」
「…………」
頭上から降ってくる『なぞなぞ』に、ひたすら答える。ぜんぶ輝夜が考えたから、と聞いたときから嫌な予感はしていた。素直な気持ちで考えたら、こんなことになってしまうのか。
ならないだろう! と少しやけになって否定した。
永琳のいう『解毒剤』を手に入れるためには、彼女の出す『なぞなぞ』に正解する必要があるらしい。これで、二十回目の不正解。自分では、二十回連続で正解しているつもりなんだけどなあ。
「後ろと前にえさが置いてある動物がいます。さてなにかしら?」
「牛」
うの後は『え』。しの前は『さ』だ。
「惜しい。正解はお金持ちの家の九官鳥でした」
「惜しくもなんともない」
二十一回目の不正解だ。
自分ではこれ以上無いぐらい頭を柔らかくしているつもりなのだけれど、いっこうに正解する気配がない。一問正解するだけで良いと聞いたときは、ここへ来て初めて胸を撫で下ろしたというのに。甘かった、という他ない。
「旅行に行くとき、履くものはなーんだ」
疲れてきたのか語尾がなげやりになっている。
旅行、タビ、足袋だ。間違いない。間違いないが、間違いなく不正解だ。いい加減それぐらいのことは私にも分かるようになっていた。しかし、ほかに答えようがない。
「足袋」
「不正解。正解は――」
「次にいってくれ」
「とっても悪いくまって、なんでしょうねえ」
「泥棒のアクマだ」
「人が掃除した跡ばっかり歩きたがる熊でした」
このように斜め上をいく解答をしてみても、ちっとも正解しない。斜め上の、そのまた上から見下ろされている気分だった。どうしろっていうんだよう。
弱気になりそうなところをなんとか堪えて、これまでの問題を冷静に分析してみる。
まず、必死で考えて、考えて、考えた挙句にようやく答えに辿り着いた人間を、これでもかというぐらい馬鹿にするようなもの。往々にしてそれが答えとなる。要するに皮肉なのだ。そして、無理やりだ。なんとなく思いついたことを、無理やり答えに結びつけてくる。
更には、どうやっても辿り着けないような、性悪な言葉が大概含まれている。そこが問題だ。思いつきに端を発しているわけだから、正解の言葉に辿り着く可能性は限りなく低い。
しかし光明はある。あくまで『なぞなぞ』である以上、必ず問題の中にそれを解く鍵が隠されているのだ。言葉は無限だ。けれど単語は有限だ。傾向をもとに対策を練る。学問の基本じゃないか。傾向は間違いなくあったはずだ。あとはそれを元に単語を絞って、絞って、絞りきる。そこからはもう感性と確率の問題になる。
永琳の言葉を信用すれば、問題を考えたのは一人だけなのだ。彼女の何を知っているというわけではないけれど、経歴から、行動から、ちょっとした会話から、可能な限り彼女の素直な感性に近づく。
感性だけではない、ものの考え方だ。なにをみて、どう考えるか。根源的なものだ。そこに近づくんだ。僅かなものでも上げられるだけの可能性は上げていく。そうすれば、いつかは正解に辿り着けるはずなのだ。
戦いはこれからだ!
「さて、次が最後の問題よ」
「え」
冗談だろう。だって、だって。
「次で、二十四問目だろう? なんでそんな中途半端な――」
「輝夜がここで飽きたのよ」
あちゃあ。
「間違ったらどうなるんだ?」
「お連れの方を置いて、お引取りいただくわ」
そういうことは先に言っておいて欲しかったなあ。こんなところに、妹紅を置いていくわけにはいかないだろう。この様子じゃ十年か二十年ぐらい弄ばれて、飽きたら簀巻きにして湖にポイ、なんてことも考えられる。
「寒くなればなるほどあつくなるものなーんだ」
考えろ、考えるんだ。答えは氷だ。そんなことは分かってる。そうじゃない。今考えるのは、そういうことじゃないんだ。輝夜ならどう考えるか。輝夜はどんな思考をするか。
どうやったら私、上白沢慧音が、蓬莱山輝夜になれるのか。
「答えは……」
◇
「べつにねえ、憎いのは憎いし、嫌いなのは嫌いだし、じっさい今でも殺せないのに殺したいとは思ってるんだけど」
なにがどうなってるんだろう。
あのモンスターハウスから出てすぐに廊下があった。今度はうってかわって普通の造りの、普通の長さの、普通の廊下だった。
「好きか嫌いかって言われたら、それは嫌いだけど」
なにも、なかったと思う。普通の家の廊下を普通に歩いていったら、この茶の間が見えた。拍子ぬけって、こういうことを言うのかなって思った。
「たまにはこうやってさあ、たまにはって百年に一回ぐらいね? 一緒にのんびりお茶を飲んで百年の思い出話をするのもね、悪くないかなあって思うの」
茶の間には、輝夜が居た。当然いつものように、もう何回目になるか分からないけど、殺しあうものだと思って身がまえたわけだ。準備運動は十分やってきたし、慧音ともどもけっこう苦労させられたし、今日はいつもより張りきっちゃおうかなあ、なんて思ったりもした。
「きなこ餅、きらい?」
「え、あ、ああ。頂こうかな……」
ところが、わたしの予想はすごく裏切られて、待ちかまえていたのは正真正銘の大歓迎だ。しかも、輝夜直々の。お茶にお菓子に、こたつまでついてる。ぽかぽかだ。でも、ぜんぜん気持ちよくなんかない。この暖かさが気持ちわるくってしょうがない。
しかも大歓迎に加えて、大喜びまでされてしまった。久しぶり、元気にしてたの? って、何の冗談だろう。わたしを見るなりあんまり無防備に抱きついてくるものだから、あっさり受けれいれてしまった。そのまま、こうやってこたつに招かれている。そうやって油断をさせておいて、どこか部屋の隅からオプションで狙ってるんじゃないかって、正直いまでも気が気でない。
「妹紅はさぁ」
寒気がした。
わた、わたしの髪がいじられてる。
そんなことをされただけで、「え、え」だなんて変な声を出してしまって、途惑うことしかできない。そんな、手の中で転がすようなやり方じゃなくて、もっと乱暴に引っ張ってよ。そういうもんだったじゃない、わたしたち。
もう十分に油断してるって。だからそろそろ、その背筋が凍るようなお芝居をやめてほしい。あと、近すぎるから、離れてほしいなあ。
「昨日は、なにしてたの?」
「え、な、なにって……。ずっと山にいたけど」
どうしてそんな分かりきったことを、今更聞いてくるのか、輝夜の意図がさっぱり分からない。そうか、わたしの生活をパターン化して、気がぬけたところを狙ってくるつもりなんだ。ずいぶん面倒なやり方だけど、輝夜ならやりかねない。
いや、やらないかな。やっぱり……。
「いつも通りなのね」
と言って輝夜はくすくすと、口元を抑えて笑う。何がそんなに面白いのだろう。うろたえた私の顔かなあ。きっと、面白いんだろうな。なるほど、それがほんとうの狙いなんだ。
でも、そんなに役者だったかなあ、こいつ。
「きなこ餅、食べないの?」
いやな予感。食べなかったら、食べさせてくれそうな、いやな予感がした。
「あ、ああ。食べる、食べるよ」
食べればいいんだろう! やけっぱちになって、そんな事を思った。
無我夢中で餅を口に運ぶ。ぜんぜん味が分からなかった。いっそ毒でも入っていてくれれば良いのに、悲しいぐらい普通の餅だ。心臓が止まるわけでも、身体が痺れるわけでもなかった。
「おいしい?」
なんで? なんでそんな、母様が子供に聞かせるような声なの? 聞かせる相手、間違ってるよ。わたしは妹紅だよ。藤原妹紅。あなたの敵。
「う、うん。甘くておいしいなあ」
もちろん嘘だ。甘いって、どんな味だったっけ。おいしいって、なんだっけ。
「よかったあ」
輝夜はさっきからずっと、にこにこしている。これ以上ないってぐらい、嬉しそうだ。まるで春からずっと育ててきた向日葵が、真夏にやっと花開いたみたいな、そんな清々しさまであった。
「百年前の今日は、なにしてたの?」と輝夜は、殺る気なんてまったく感じられない、きれいな瞳でわたしに尋ねてくる。
いっそ、殺してください。五回ぐらいまでなら我慢するから。痛いのは、いやだけど。このさい我慢するよ。
「なにって言われても、覚えてないよ……。きのうのことも、いまいち思い出せないのに」
「そうよね。そうよねえ。実は、私もそうなの」
それからはさっきまでの行儀の良さが嘘のような、大笑いだ。二人して忘れっぽいんだから、といって肩まで叩かれた。痛い。肩だけじゃなくて、心臓まで揺さぶられる気になってくる。
「あは、あはは、お煎餅もあるよ」
ぜんぶ、わたしが悪かったよ。
ずっと目の敵にしてたこと、あやまるから。
何百回もこんがり焼き上げてしまったこと、あやまるから。
さっきふすまを蹴飛ばしたことも、あやまるから。
だれか、だれか、助けてよ。
だれか……。
◆
「正解よ」
上空から永琳の声が投げかけられて、我にかえる。
つい数秒前までの私は、まぎれもなく蓬莱山輝夜だった。それぐらい彼女の思考を、意識を、ものの考え方というものを、完璧に再現していた。目の前に妹紅がいたら、きっと本気の弾幕を展開していたことだろう。
妹紅。
妹紅の顔を思い浮かべる。
自分の顔がこわばるのを感じる。憎たらしい。理由はないけど頭にきた。あのリボンも、やわらかそうな頬も、色素の薄いさらさらした髪も、頭にくる。こんなに嫌いなのに、どうしてそんなにかわいらしいのだ。バラバラにしてやりたい。
「すごいわね。最後の問題、特にひどい答えだったのに」
正解するのは当たり前だった。問題を考えたのはわたしなんだから。間違うはずがない。我ながらすばらしい問題だったと思う。百万人いても一人も答えられない。すばらしい問題だ。『なぞなぞ』というのはこうでなければならない。何をどう答えたんだっけ。どんな問題だったっけ。それは思い出せない。
「それじゃあこれ」といって、小瓶が投げ落とされた。慌ててそれを受け取る。なんだっけ、これ。苦労して手に入れたアイテムだよねえ。うっかり落として台無しにしてしまうわけにもいかない。だいたいわたしの生命、に関わっているかどうかはしらないが、もう少し丁重に扱ってもらいたいものだ。
「輝夜は何処に?」
輝夜? わたしのこと? いや違う。
「茶の間みたい。あなたのお連れもいるみたいよ」
「妹紅が?」
その名を口にした途端、殺意がよみがえる。べつに何の理由も無い、純粋な殺意だ。殺したいなあ。何百年も、いろんな殺し方をためしたけど、まだまだやってみたいことって、いっぱいあるしなあ。あいつは、いっつも馬鹿のひとつ覚えだけど、わたしにはもっと沢山引き出しがあるんだから。
いけない、と思って思考を切り替える。わたしは誰? 蓬莱山輝夜。いや違う。上白沢慧音。半人半妖のワーハクタクだ。
妹紅。
切り替わったら、今度は無事だったんだな、と安心した。よっぽど深く輝夜になりきっていたらしい。
「茶の間はどこ?」
「すぐそこよ。案内するわ」と言って降りてきた。降りてきたというか、勝手に椅子が縮んだように見えた。まったく、この家は不可思議なものだらけだ。
そうかな? 結構すてきなんじゃないかな。
間取りも、家具も、主の頭の中も。
悪くはないかな?
あの椅子なんて、もっと飾りをつけてみても良いかもしれない。
七色の、きれいなのがいいな。
あれ?
◇
「けいね」
慧音の姿を見たとたん、自分でも情けなく思う声を上げてしまった。ほとんど、悲鳴に近い。それだけ痛めつけられていたんだと思う。もう限界だった。
「妹紅」
慧音がわたしの名前を呼んだ。
あれ? なんだか、声が冷たいような。
それから慧音が、あれは、なにか
ひどく、ゆがんだ顔になった。
あんな顔、見たことない。
なんで? わたし、そんなに悪いことしたかな。
そりゃ、こんなところに連れてきちゃったのは、わたしだけどさあ。
呼んだのは輝夜だしさあ。
慧音なら、笑って許して助けてくれるって
そう思ったんだけどなあ……。
もう、何がなんだか分からなくて、慧音が怒っているのが悲しくて、輝夜がきもちわるくて、何百年ぶりか分からないけど、鼻が痛くなって、目の前がぼけやてきた。
「あ、いや、違うんだ。これは」
違う? なにが違うんだろう。全然わからなくて、涙がこぼれそうになる。
「間違いだ」慧音はそう言ったら、いつもの顔になった。良かった。怒ってるわけじゃ、ないみたいだ。なんの間違いなのかは、分からなかったけど。
「あはは」輝夜が何か言ってる。「妹紅が泣かされた。あはは」
頬をつねられた。泣いてないし、たとえ泣いてたとしても、泣かしているのは、慧音じゃなくて、あんただよ。只々うらめしかった。
「ちょっと借りるぞ」
慧音が、輝夜から引き剥がしてくれた。
助かった。心のそこからそう思う。
「邪魔しないでよね。せっかく百年に一回のお茶会なんだから。今日はたっぷり妹紅と遊ぶんだから」
輝夜がなにか恐ろしいことを言ってる。
「なにかされたのか?」
慧音が顔を拭ってくれた。なんだか、ほっとする。
された、されてないでいえば、間違いなくされたのだけど、どう答えたものか分からなくて、わかんない、としか言えなかった。
「薬でああなってるらしいんだ」
「くすり?」
「素直になるとか」
よく分からない。スナオ? あれが素直? と繰り返す。考えてみても、やっぱり分からなかった。
「とにかく、薬のせいなんだよ、あれは」
どうやら今の輝夜は、普通ではないらしい。
それを聞いて、ほっとした。あんなのと、これからさき何百年も、何千年も殺しあうなんて、とてもじゃないけど想像できない。生き地獄、そんな言葉が頭に浮かんだ。
「これを飲ませれば戻るらしい」
慧音がなにか、小瓶を見せた。きもちわるい色だ。今の輝夜にぴったりの色。そう思った。
「なんとかして飲ませられないかな」と慧音が囁いてくる。わたしにやって欲しいってことなのだろうか。いやだなあ。近づきたくないなあ。なにをされるか、分かったものじゃない。
でも、飲ませるしかない。つよくそう思う。
わたしが、やらなきゃ。
小瓶を受け取って、すこし眺めてみた。ほんとに、気持ちわるい色だ。
急須はどこだろう。あった。ヤカンは、あっちだ。あと、湯のみ。急須にお湯をそそいで、蓋をする。なんでだろう。たったこれだけで、なんでこんなに緊張してしまうんだろう。
お茶を湯飲みにそそぐ。良い匂いだ。小瓶を開ける。さいあくな臭いだ。なんだろう、これ。思いきって、全部入れる。すごい色になった。臭いも、お茶と混ざって余計にひどい。
あとは、飲ませるだけ。
「輝夜、お茶、淹れたよ」
「妹紅の淹れたお茶なんて飲みたくないなあ」といってけらけら笑う。
飲んでください。お願いだから。
「冗談よお。冗談」
「…………」
「百年に一回のことなんだから、飲んであげないこともないって」
そう言うと、わたしから湯飲みを奪いとって、飲んだ。いっき飲みだ。熱くないのかなあ。今までさんざん火傷させてきたから、熱さには慣れてしまっているのかもしれない。
「あははは。まっずう。妹紅ってこんな味なの?」
慧音が来てくれて、余裕が出てきたからかもしれないけど、ここにきてやっと、憎たらしくなってきた。
「あはは。永琳、お菓子もってきて」
「はいはい」
それから、しばらく。
輝夜がお煎餅をかじってた。
なんだかそれ以外、音がなくなっちゃったみたい。
ばり、ばり、ばり、ばり。
ばり、ぼり、ばり、ぼり。
ばり、ばり、ぼり、ぼり。食べすぎだ。
ばり、ぼり、ばり、ばり。
ばり、ばり、ばり、ごっくん。
「ん?」
輝夜と目があった。
「なんであんたがここに居るの?」
――よかった。
いつもの輝夜だ。殺る気まんまんの、いつもの目だ。あんたはやっぱり、そうじゃないと。あんなきれいな瞳、わたしに向けちゃいけないよ。
「お世話になったのよ」
永琳は簡単に言ってくれるけど、お世話なんてもんじゃないよ。
「どういうこと?」
「言葉どおりだ」
慧音は怒ってるみたい。これは当然だ。
「……ふーん」
ばりばりと、輝夜はお煎餅を食べる手をとめない。どれだけ好きなんだろう。
でも、いつもの、あの憎たらしい顔の輝夜だ。
だから、なにはともあれ。これで解決。よくわかんないけど、解決なんだ。
「帰れそうだな」
「うん」
あとは、このふざけた家から帰るだけ。
慧音といっしょに帰るだけ。
疲れたなあ。ほんとうに疲れたよ。
こんなことなら、手紙なんて無視しちゃったほうが楽だったんじゃないかなあ。
「お茶がはいったよ」
そんな声が聞こえて、妖怪兎が入ってきた。兎の顔の違いなんてわからないけど、ニンジンの首飾りには見覚えがあったから、朝に案内してくれた兎だってわかった。
「あら、ごくろうさま」
一、二、三、四。ちゃんと人数分ある。ここへきて、初めてまともなもてなしを受けた気がする。
みんなでそれを啜る。
ちょっと変な味だったけど、疲れていたからか、とても美味しく思えた。
すごく、落ち着いて、すっきりした気がする。
色々あったけど、これでおしまい。
あとは慧音と帰るだけ。
慧音がいると、落ち着くなあ。
ああ、輝夜は、むかつくなあ。
帰るまえに、ちょっとお礼をしていこうかなあ。
慧音もなんだか、やる気みたい
久しぶりにみたなあ、そんな慧音。
あはは。なんだか楽しく、なってきた。
◆
素直になった、ワーハクタク
素直になった、蓬莱人
素直な二人が選ぶのは、もちろん仕返し
妖怪兎の笑い声が、迷いの竹林に響き渡る
まだまだ、永遠亭の宴は終わらない
おしまい
水平線とありますが地平線じゃないでしょうか?廊下に水が張ってあるわけではなさそうですので。
話の内容はおもしろかったです~
とりあえず、誤字を報告しておきます。
内容は雰囲気に呑まれて一気に読んでしまいました。
色々と物足りない点はあったといえばあったのですが、とにかく雰囲気が良かった。
薬を飲ませるシーンとかが弱かったかな。
輝夜になりきるというのは歴史喰いの慧音ならではですね。
……輝夜が素直になったらイナバじゃなくて、ちゃんと鈴仙って呼ぶのか。
>なにか悲しいことがあったのだろうか、私もあったよ
この独白がツボに入りました。ウドンゲは何をされたんだw
前半は文句なしに面白かったですが、後半はちょっと弱かったかなということでこの点数。
面白かったのでまた読み直したいです。