雲が駆け足で空を流れ、ぼたん雪が、音もなく舞い降りる。
降り積もった雪は音を吸い込み、小さな山鳴りの音だけが、里の神社にざああと微かに響いている。
その社務所の居間。二人の少女がひそひそと、声をひそめながら炬燵の上の籠を覗いている。
「ね、かわいいでしょ?ね?」
「おーおー、羨ましいわねえ。気持よさそうに‥‥私も冬眠したいわぁ」
「指可愛いよね!」
「きゅっと握ってんのが人間臭いわよねぇ。こーのちっちゃい頭でどんな夢見てるんだか‥‥」
「さわっちゃだめ!」
「あ、ごめんごめん」
「もう!」
「ごめんってば。‥‥でも、みよちゃんもそんなに大きな声出してたら、この子起きちゃうわよ?」
「あっ」
慌てて両手を口の前に持っていく少女に、巫女服の上から真っ赤などんぶくを着込んだ霊夢がくすくすと笑った。
みよちゃんと霊夢に呼ばれたこの少女は、今日の大事なお客様である。
滅多に参拝客が来ないと評判の博麗神社だが、あくまで滅多であって、ゼロではない。時折、参拝客がやってくる。この、みよという女の子もその一人。年のころは七といったところ。近所の農家の一人娘である。季節の変わり目に家族と一緒にお参りに来る、数少ない常連さんの一人。偶に一人で勝手に神社に来ることもある。参拝というよりかは「おねえちゃんち」に遊びに来ている節があるが、霊夢もまんざらでもない様子で、この少女が来た時には縁側に座ってとりとめもない話に花を咲かせたりする。無論、賽銭はせびらない。霊夢にもそのくらいの良識はある。
今日は両親が隣里へ出かけるということで、この子を預かっている。お願いしますと頭を下げる母親の横から、そろりそろりとこわばった顔で、みよが持ってきた籠。
あら、お菓子?と聞いた霊夢にちがうもん!とほっぺたを膨らましたみよが、そっと籠を居間のコタツの上に置いて、ふたを開けた。まっ白い綿が詰められた籠の真ん中には、茶色の毛玉が一つ。ぽわぽわの毛皮に、黒筋一本。
「あら」
冬眠している山鼠だった。
「かわいー」
「かわいいー」
なんだかんだ言って女の子は可愛いものが好きである。吸血鬼や神とさえ喧嘩する霊夢とて例外ではない。膝の上にみよを乗せて、一緒にコタツに入って籠の中の毛玉を愛でている。
「どんなゆめみてるのかな」
「そりゃあ、美味しいもの食べてる夢に決まってるじゃない」
「そうなの?」
「ほら、口が動いた」
「‥‥うごいてないよ」
「うごいたわよ」
「えー」
「何食べてるのかしら。真っ赤なグミの実、紫色のあけび、緑色の猿梨‥‥」
「おねえちゃんがたべたいだけでしょー!」
「いやいや」
「紺色の山葡萄」
「え!?」
「‥‥入ってくるなら声くらいかけなさいよ、ですか。私なりに気を使ってみたつもりだったのですが。"起こさないように"と」
「却って不気味よ」
突如背後から掛けられた声に、目をまん丸にして驚いているみよ。その瞳には紫の髪を持つ不思議な少女が映っていた。
雪のような白い肌。眠たそうに半分とじられた目。茶色の外套の襟からは、何か紐のようなものが頭まで伸びている。
その外見とその身から発せられる異様な空気に、みよは硬直していた。
「‥‥」
その顔をじとりと見つめ、さとりは口を開く。
「"だれだろう、このおねえちゃん。変な色のかみのけ‥‥"」
「!?」
「お姉ちゃん‥‥そう、そう。私は妖怪。古明地さとりと申します。お見知り置きを、みよちゃん。」
「え、え!?」
「その真ん丸な目、お母さんにそっくりね。早く隣里から帰ってくるといいわね。お母さん」
「――――!」
知らない人にはちゃんとご挨拶するのよ――――
異様な雰囲気に一瞬気圧されはしたけれど、母の言いつけ通りさとりに挨拶をしようと口を開きかけた彼女だったが、次々と心に浮かんだことを口に出され、何をしゃべればいいのか分からなくなってしまった。
「そう、私はね、心を読むことができるの。みよちゃんがね、何を考えているのか、全部お見通しなのよ」
「ええっ‥‥」
そう言うと、さとりは脱いだ外套を手元で畳み、みよの視線に合わせてしゃがみこんだ。
さとりの胸元に目をやったみよは、ぎくりと体を震わせた。そこには、不気味な一つ目があり、こちらをじいっと見つめていたのだ。
「ふふ‥‥」
気がつくと、さとりの顔が目の前にあった。紫の三白眼が、ねっとりとみよの瞳を覗きこむ。
「だからね、みよちゃんとか、ほかの子が悪いことしたり嘘ついたりしたらすぐにわかっちゃうんだから」
「!」
「そうしたら、私がお供の猫と鴉と一緒に来て、悪い子を地獄のお屋敷に連れて行くの」
ここで初めて、さとりの口が笑みの形に歪んだ。みよは今にも泣きそうな顔で霊夢にしがみついている。
「おいしいのよ‥‥悪い子って。大きなお鍋でぐらぐら茹でるのよ」
「いや‥‥!」
「さてさて、みよちゃんはどうかしら‥‥。そう、あのお皿が割れたのは風のせいじゃないのね」
「――――!」
いきなり心の奥からやましい思い出を引きずりだされ、みよは顔を青くする。
さとりはその様子を見てじとりとほほ笑む。
「あら、悪い子みぃつけた」
ちろ、と舌舐めずり。
「ひっ!」
「うふふふ‥‥」
「こぉら」
「んふっ?」
横合いから突き出されたお祓い棒がさとりのこめかみをえぐる。
ちょっと面白がって事の成行きを見ていた霊夢だったが、ついに震えだしたみよの様子にさすがにストップをかけた。
「ナモミハギか、あんたは」
「んんんっ」
こめかみを押さえて悶絶するさとりを見下ろしながら、霊夢はみよを抱き寄せてなぐさめる。
「大丈夫よ、みよ。こいつは確かに妖怪で、不気味で無口で遠慮なしに心を読むけど子供をさらったりしないはずよ」
「‥‥ほんと?」
「そんなことしたら私がしばきたおすから」
霊夢はにこりとほほ笑んだ。
「っこ‥‥子供を驚かせるのも久しぶりね。悪くない」
まだ痛むこめかみをを押さえながら、さとりはもぞもぞとコタツに入る。
みよはまだ、霊夢にしがみついて顔を彼女の胸にうずめていた。
霊夢は器用にみよをしがみ付かせたまま、急須にお湯を注ぐ。
「今日は何の用?参拝?なら素敵なお賽銭箱はあっちよ」
「久しぶりに外の雪を見たくなりましてね」
言って障子の方を見やる。
障子にさえぎられて、部屋の中からは雪の庭は見えない。
けれども外の光を透かした明るい障子は、それそのものが雪景色のよう。
まだ降り続いているのだろうか。ばさり、と枝から雪の落ちる音がする。
「それでこんな降る日にわざわざ?面倒なことするのね」
ことり、と湯呑が置かれる。霊夢にみよがしがみついたままなのでコタツの中ほどに。
妖怪少女は湯呑を受け取ると、その病的に透き通った白い手を温める。
湯気がほわ、と顔を覆った。
「雪を見に来たのですから。降らない日に来てもしょうがないですし」
「いつだって降ってるでしょ、地底じゃ。物好きね、あんた」
「そうね」
そう言ってお茶をすする二人の少女。
あんたも飲む?と霊夢から湯呑を差し出され、みよはさとりの方を見ないようにしながら、こわごわとそれを受け取る。
少しは落ち着いて来たようだが、さとりとの最初のやり取りは相当なものだったようだ。
時折、顔をあげてさとりの方を見ようとするが、すぐに目を逸らしてしまう。コタツの真ん中の山鼠まで、目線は上がる。が、その先は駄目。
「あっという間に嫌われたわね」
「子供は態度に出してくれるから良いわね」
「‥‥あんたも少し言動に気をつけなさいよ」
「"出会い頭に脅かすようなまねをして、嫌われるのも当たり前"。‥‥ちょっと茶目っ気を出そうとしたんだけど、失敗だったわね」
「あんたアホでしょう」
「裏表のない言葉、ありがとう」
部屋の隅で、火鉢の炭がパチリと音をたてた。
「いったい何を考えてんだか、この妖怪は」
はあ、とため息をひとつつくと、霊夢はみよを膝から降ろした。
驚いたみよは慌てて、立ち上がろうとする霊夢の裾にしがみつく。
「ちょっとお茶請けとってくるだけだから、待ってて。大丈夫よ。取って食ったりしないから、こいつ」
「あら、わざわざ申し訳ないですね」
「長居するつもりでしょう、あんた」
「雪を見たらすぐに帰りますよ」
「青葉を見るだの空を見るだの山を見るだの、うちに来る連中はそういうどうでもいい理由で長居してくのよ。あんたも、そうでしょう」
「さあ、どうでしょうか」
「覚りの目がなくてもそれくらい勘でわかるわ」
「あら」
「待ってなさい」
そういうと、霊夢は台所へ向かった。
居間には、みよとさとりが残される。
雲が流れて、日を遮った。部屋が、さあっと暗くなる。
また、ばさりと雪が落ちた。
みよは口を引き結んで、綿の中で眠る山鼠を見つめ続ける。
少しだけ、目線を上げようとするが、さとりにピントが合いそうになると、また元に戻してしまう。
そんな自分の様子を、さとりの胸の目が睨みつけてくる。
どうにも怖く、落ち着かない。
彼女は自分を食べはしないと霊夢は言っていたが、その胸の目は自分を食べたくて仕方がないとでも言う様に、まっすぐこちらを見つめてくる。
「ふふ」
「!」
突然の声に、心臓が跳ね上がる。
笑っている。彼女が、こちらを見て笑っている。
やっぱり、自分を食べるつもりなんだろうか。地獄へ連れて行って、大鍋で茹でてしまうのだろうか。
布団の端をぎゅうと掴んでいる手が痛い。
ころりと幸せそうに眠る山鼠が、全く場違いな存在で、気持ちが悪い。
台所からは、包丁の音が聞こえてくる。
何を切っているのだろうか。
早く戻ってきてほしい。
早く――――
「食べませんよ。さっきのは冗談だから」
また、突然声が掛けられ、小さな肩がびくっと震える。
「この目が怖いの?」
もこ、とさとりの前の炬燵布団が盛り上がる。お腹の前に出してきたのは、彼女の茶色い外套。
「ほら、これで怖くない」
そういって胸の目を外套で隠す。おそるおそる、みよはさとりを見る。
「ね」
しかし笑いかけたさとりを見て、また視線を下げてしまった。
「‥‥そんなに怖がらなくてもいいのに」
籠の向こうから聞こえてきた声は今までとは違い、どこか寂しそうだった。
「はい、お茶請け」
両手に小鉢を持って、霊夢が戻ってきた。
片方には甘く煮た豆。もう片方には、漬物。
「仲良し作戦は失敗かしら?」
そう言いながら、霊夢は山鼠の籠をはさんで、小鉢を置く。
「仲良くなれてたら奇跡、ですか。ひどい」
かすかにむっとした顔で、さとりは漬物に爪楊枝を指す。
「そう思うなら、自分の胸に手を当てて考えてみることね。さっきの態度とか」
胸、の単語にあの一つ目を思い、みよはびくりと体を震わせる。
霊夢がコタツに入ると、みよはすぐさま、元の霊夢の膝の上に収まった。相変わらず、さとりを見ようとはしない。
「ま、時間を掛けてやることね。あんたにその気があるのなら、だけど」
「十分その気はあるんですけどね」
そういうと、頂きます、と言ってさとりは漬物を口に運ぶ。
真っ白い大根の麹漬け。パリパリとした心地いい音が部屋に響く。
「おいしい」
「そりゃどうも。秘伝の漬物よ。ありがたく頂きなさい」
「では、心して」
「‥‥」
お茶を飲み干したさとりに、今までと違う感情の波が届く。視線を落とせば、みよがさとりの方を恐る恐る見ていた。
胸の目を隠したのが、ちょっとは効果があったようだ。
今度は、怖がらせないように。小さくほほ笑んで、出来るだけ優しい声で、さとりはみよに話しかけてみる。
「‥‥あなたも食べなさい?美味しいわよ」
しかしまた微かに、みよの肩が跳ねた。
さとりの胸の中に、冷たいものが広がる。
‥‥やっぱり、だめね。
しかし、諦めて目を逸らそうとしたとき、助け舟が出された。
「みよちゃんは煮豆の方がいいんじゃない?」
そう言うと、霊夢はみよの肩を、上から優しく抑える。
―――大丈夫、怖くないわよ
音のない霊夢の声が、さとりには聞こえた。
「‥‥‥‥い?」
「え?」
「‥‥みよ‥のこと、ほんとうに食べない?」
霊夢の手に、勇気をもらったのだろうか。みよはさとりに問いかけた。
ぽつりぽつりと絞り出された小さな声は、まだ恐れを含んでいたが。
「ええ、さっきのは冗談よ。あなたを食べたりしないわ」
さとりはそう言うと、笑みを浮かべる。今までのような微かなものではなく、はっきりと分かる、暖かなものを。
「ほんと?」
返ってきた返事は小さいものの、恐れは少し薄れていた。
「ええ」
そのわずかだけれど嬉しい変化に、さとりは心の中で浮かれてしまった。
にこりと、またほほ笑むと、さとりは言を続ける。
彼女の目が薄く開かれた。
「‥‥あなたは食べちゃいたいくらいかわいいけどぶっ」
「そーれが駄目だって言ってんでしょうが!」
スコッ、と静かな音を立てて細長い針がさとりの眉間に突き立つ。
みよが硬直したのはさとりの台詞のせいか、はたまたさとりの額から生えている針のせいか。
呆気にとられる彼女が見る前で、さとりはいたい、いたいわとうめきながら針を抜いている。
「あんたはっ!ほんっっとに何考えてんのかわかんないわね。その眼私によこしなさいよ、あんたが何考えてんのか裏の裏まで覗いてやるから」
「‥‥っこ、これだから人間は恐ろしいのよ。心に浮かぶ前に針を投げてくるんだから」
「こちとらこれでオマンマ食べてんだからね。次はその眼に投げるわよ。覚悟しときなさい」
「ああ、恐ろしい恐ろしい。乱暴な人間。みよちゃん、こんな大人になっちゃだめですからね。無意識にためらいもなく、か弱い妖怪に針を投げるような極悪非道少女には」
「そんなに退治されたい?」
「あーれー」
ぎゃあぎゃあと、コタツをはさんで少女達のじゃれ合いは続く。
一瞬、霊夢の顔から視線を逸らしたさとりの視界に、みよの顔が入る。
巫女の胸元から覗くその顔には、小さな笑みが浮かんでいた。
おかしいなぁ、このひと。なんか、ぶきみだけど。
――――不気味は余計です。
そう思いはしたが、さとりは嬉しかった。
もう、さとりの顔を見ても、みよはあまり怖くなくなっていた。
さとりの、小さいけれども大袈裟な言動に、霊夢がこらー!と突っ込む。
その光景が、みよにはなんだかとても可笑しいものに見えて、さらに、彼女の中でさとりに対する恐怖が薄れていく。
‥‥ありがとう、霊夢。
そんなみよの変化を感じながら、心の中で霊夢のあの助け舟に礼を言い、さとりは霊夢とじゃれ合いを続ける。
みよの笑い方が自分のようなジト笑いで、彼女は少し複雑な気分だったが。
喧騒の中すやすやと眠る山鼠が、少し笑ったように見えた。
「今日は本当にありがとうございました‥‥」
もうすぐ日が暮れるという頃、みよの母親が神社へとやってきた。
良い子にしてた?と聞く母親に、籠を抱きかかえたみよが、うん!と返事をする。
「あのね!今日ね!」
母親の袖を片手で引き、満面の笑みで話し掛ける様子に、霊夢も顔を緩ませる。
「はいはい、お家に帰ってからお母さんに今日のお話をしてあげなさい。早く帰らないと日が暮れちゃうわよ」
わかったー!と返事をすると、頭を下げる母親を引っ張って、彼女は家へと帰って行った。
その後ろ姿を見送ると、霊夢は居間へと戻った。
絵本やお手玉が散らばる部屋の中、くたりとコタツでだれている妖怪少女が居た。
「帰ったようですね」
さとりはそう言いながら、ぼりぼりと漬物の最後のひときれを咀嚼する。
「仲良くなれて、良かったわね」
「‥‥感謝してますよ」
「見送らなくてよかったの?」
すでに出がらしとなっていた急須の中身を取り換えると、霊夢はさとりに新しいお茶を注いだ。
「大騒ぎになると困るでしょう?そうなれば面倒ですよ。あなたは面倒なのがお嫌いでしょう」
「‥‥そんなに心の狭い人間じゃないわよ。私は。馬鹿にしてるの?」
「‥‥ごめんなさい。冗談ですよ」
そういうと、さとりは腕を組んで、その中に顔をうずめた。
どさりと、庭で雪が落ちた。
「照れくさかったんでしょう。会うのが」
「‥‥さあ、どうでしょうか」
「余計な照れなんか捨てなさい。恥ずかしがってないで、次にはちゃんとあっちにも会ってあげなさいよ」
「‥‥‥」
「私はちゃんとお膳だてしてあげたんだからね。こんなこと、滅多にしないわよ」
「あの子が来る日にちを私に教えただけじゃないですか。‥‥ああ、その親切心が照れくさいんですね。あなたには。‥‥可愛いとこあるじゃないですか」
「それ以上言うと殺すわよ」
霊夢も自分の湯呑に茶を注ぐと、ひと匙、煮豆を口に運ぶ。
コタツに伏せっているさとりの表情は、腕に隠れて見えない。
「それにしてもねえ‥‥あのお母さんがねえ‥‥」
遠い目で、霊夢がつぶやく。
「あの子は好奇心の旺盛な子でしたから。いつか出て行くんじゃないかとは思っていましたよ」
「それでもあの"結末"は予想外だったんじゃないの?」
「別に。幻想郷じゃまれに居ますでしょう。話しに聞く道具屋のご主人のとこだってそうじゃないですか」
「あれは‥‥まあ、そうだけど」
「まあ、ここの近所に居ると聞いた時は驚きましたけどね。‥‥何にせよ、あの子が幸せに暮らしてるなら、私は嬉しいんですよ。それでいいんです」
「そういうものなの?」
「私は」
ふうん、と呟くと、霊夢は湯呑のお茶を飲み干す。
日が落ちて、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
「‥‥ああ、忘れてました」
「何よ」
行燈に火を入れる霊夢の後ろで、コタツに伏せたまま、さとりがつぶやいた。
「あの山鼠、雌よ。みよは雄だと思っていたようですけれども」
「‥‥そう」
「‥‥大丈夫かしら。雄だと思ってツヨシなんて名前付けちゃったら、大変だわ」
「そのくらい、何でもないんじゃないの」
「結構、ショックは大きいのよ。ペットの性別を間違えていたというのは。飼い主にとってもペットにとっても」
「‥‥なら、次に来たとき、ちゃんと言ってあげなさい」
「会う理由になるかしら」
「なるわよ。‥‥あたしは今すぐに、あんたを引きずってでも会わせに行きたいけどね。面倒だからやんないけど」
「‥‥乱暴。勇儀に気に入られるわけね」
「ふん」
ぼそぼそと腕の中から返してくるさとりに、霊夢はぶっきらぼうに返すと、立ち上がった。
伏せったまま、さとりはその心を読む。
――――ったく、しょうがない奴。恥ずかしがって、ちっちゃな女の子じゃあるまいし。鍋をつつきながら、今晩は盛大にいじってやろう――――
その思念は、乱暴だけれども、どこか温かい苦笑混じりのもので。
「‥‥そんな、御夕飯を用意して頂けるなんて‥‥お鍋ですか。何から何までありがとうございます」
「先に礼を言うな。図々しい。それに、お客だからってボケッとコタツでおセンチになっていられると思わないことね。こき使ってやるわよ。覚悟なさい」
「ああ、恐ろしい、恐ろしい人間」
「ほら、さっさと立つ!」
そう言うと、霊夢は乱暴にさとりを炬燵から引き剥がした。
伏せられていたその顔は、おだやかな笑み。
「今日はありがとう、霊夢」
後ろから抱えられながら、さとりは霊夢に礼を述べる。
一瞬戸惑った霊夢だったが、ふん、とため息を吐くと、ぶっきらぼうに返した。
「どう、いたしまして」
――どういたしまして。
二重の声が、ただただ、さとりには嬉しかった。
「へえ、じゃあ、みよはその方にお会いしてきたんだな」
「‥‥もっと早く言ってくれればいいのに、この子ったら。そうしたら、私もお会いできたのに。最近行き来があるとは聞いていたけど、まさかあの方が地上に出てこられるなんて。‥‥ああ、もう」
「‥‥やっぱり、今でも好きなんだね、その人が」
綿のような雪に包まれた、里の外れの小さな家。
囲炉裏端からの問いかけに、母親はみよの枕元から、静かに答える。
「そりゃあね。親の居ない、幼い私たちをたった一人で育て上げてくれたんだもの。お母さんなのよ」
「じゃあ、みよはおばあちゃんに会ってきたわけだ」
「そうなるかな。お婆ちゃんなんて、あの方には似合わないけどね」
紫の髪の変なお姉ちゃんに、お母さんにそっくりって言われた――――
帰宅して開口一番、みよの放ったその一言が、どれほど自分を驚かせたか。また、どんなにか嬉しかったことか。
あの人は覚えていてくれたのだ。私のことを。地上へ行った、私のことを。
最近、あの神社にはよくあそこの妖怪が来ると言う。
もし、もし会えたら、何から話そう。
育ててくれたことへのお礼。あの日、勝手に外へ出た理由と謝罪。隣に居る人間との、馴れ初め。今の、この小さいけれど幸せな家庭のこと‥‥
あとからあとから想いは湧いてきて、上手くまとまらない。
「お空ちゃんにお燐ちゃん、元気かしら」
母親は小さくつぶやきながら、みよの濡れ羽色の髪を静かに梳く。
傍らの籠の中で眠る山鼠とそっくりに、ころりと丸まって眠る少女。
うなじからは、漆黒の翼がちらり、と覗いていた。
月明かりの幻想郷。
愛される山鼠達は、それぞれの眠りにつく。
ふかふかの綿の真ん中で。
暖かい、囲炉裏端の布団の中で。
雪に包まれた、里の外れで――――
降り積もった雪は音を吸い込み、小さな山鳴りの音だけが、里の神社にざああと微かに響いている。
その社務所の居間。二人の少女がひそひそと、声をひそめながら炬燵の上の籠を覗いている。
「ね、かわいいでしょ?ね?」
「おーおー、羨ましいわねえ。気持よさそうに‥‥私も冬眠したいわぁ」
「指可愛いよね!」
「きゅっと握ってんのが人間臭いわよねぇ。こーのちっちゃい頭でどんな夢見てるんだか‥‥」
「さわっちゃだめ!」
「あ、ごめんごめん」
「もう!」
「ごめんってば。‥‥でも、みよちゃんもそんなに大きな声出してたら、この子起きちゃうわよ?」
「あっ」
慌てて両手を口の前に持っていく少女に、巫女服の上から真っ赤などんぶくを着込んだ霊夢がくすくすと笑った。
みよちゃんと霊夢に呼ばれたこの少女は、今日の大事なお客様である。
滅多に参拝客が来ないと評判の博麗神社だが、あくまで滅多であって、ゼロではない。時折、参拝客がやってくる。この、みよという女の子もその一人。年のころは七といったところ。近所の農家の一人娘である。季節の変わり目に家族と一緒にお参りに来る、数少ない常連さんの一人。偶に一人で勝手に神社に来ることもある。参拝というよりかは「おねえちゃんち」に遊びに来ている節があるが、霊夢もまんざらでもない様子で、この少女が来た時には縁側に座ってとりとめもない話に花を咲かせたりする。無論、賽銭はせびらない。霊夢にもそのくらいの良識はある。
今日は両親が隣里へ出かけるということで、この子を預かっている。お願いしますと頭を下げる母親の横から、そろりそろりとこわばった顔で、みよが持ってきた籠。
あら、お菓子?と聞いた霊夢にちがうもん!とほっぺたを膨らましたみよが、そっと籠を居間のコタツの上に置いて、ふたを開けた。まっ白い綿が詰められた籠の真ん中には、茶色の毛玉が一つ。ぽわぽわの毛皮に、黒筋一本。
「あら」
冬眠している山鼠だった。
「かわいー」
「かわいいー」
なんだかんだ言って女の子は可愛いものが好きである。吸血鬼や神とさえ喧嘩する霊夢とて例外ではない。膝の上にみよを乗せて、一緒にコタツに入って籠の中の毛玉を愛でている。
「どんなゆめみてるのかな」
「そりゃあ、美味しいもの食べてる夢に決まってるじゃない」
「そうなの?」
「ほら、口が動いた」
「‥‥うごいてないよ」
「うごいたわよ」
「えー」
「何食べてるのかしら。真っ赤なグミの実、紫色のあけび、緑色の猿梨‥‥」
「おねえちゃんがたべたいだけでしょー!」
「いやいや」
「紺色の山葡萄」
「え!?」
「‥‥入ってくるなら声くらいかけなさいよ、ですか。私なりに気を使ってみたつもりだったのですが。"起こさないように"と」
「却って不気味よ」
突如背後から掛けられた声に、目をまん丸にして驚いているみよ。その瞳には紫の髪を持つ不思議な少女が映っていた。
雪のような白い肌。眠たそうに半分とじられた目。茶色の外套の襟からは、何か紐のようなものが頭まで伸びている。
その外見とその身から発せられる異様な空気に、みよは硬直していた。
「‥‥」
その顔をじとりと見つめ、さとりは口を開く。
「"だれだろう、このおねえちゃん。変な色のかみのけ‥‥"」
「!?」
「お姉ちゃん‥‥そう、そう。私は妖怪。古明地さとりと申します。お見知り置きを、みよちゃん。」
「え、え!?」
「その真ん丸な目、お母さんにそっくりね。早く隣里から帰ってくるといいわね。お母さん」
「――――!」
知らない人にはちゃんとご挨拶するのよ――――
異様な雰囲気に一瞬気圧されはしたけれど、母の言いつけ通りさとりに挨拶をしようと口を開きかけた彼女だったが、次々と心に浮かんだことを口に出され、何をしゃべればいいのか分からなくなってしまった。
「そう、私はね、心を読むことができるの。みよちゃんがね、何を考えているのか、全部お見通しなのよ」
「ええっ‥‥」
そう言うと、さとりは脱いだ外套を手元で畳み、みよの視線に合わせてしゃがみこんだ。
さとりの胸元に目をやったみよは、ぎくりと体を震わせた。そこには、不気味な一つ目があり、こちらをじいっと見つめていたのだ。
「ふふ‥‥」
気がつくと、さとりの顔が目の前にあった。紫の三白眼が、ねっとりとみよの瞳を覗きこむ。
「だからね、みよちゃんとか、ほかの子が悪いことしたり嘘ついたりしたらすぐにわかっちゃうんだから」
「!」
「そうしたら、私がお供の猫と鴉と一緒に来て、悪い子を地獄のお屋敷に連れて行くの」
ここで初めて、さとりの口が笑みの形に歪んだ。みよは今にも泣きそうな顔で霊夢にしがみついている。
「おいしいのよ‥‥悪い子って。大きなお鍋でぐらぐら茹でるのよ」
「いや‥‥!」
「さてさて、みよちゃんはどうかしら‥‥。そう、あのお皿が割れたのは風のせいじゃないのね」
「――――!」
いきなり心の奥からやましい思い出を引きずりだされ、みよは顔を青くする。
さとりはその様子を見てじとりとほほ笑む。
「あら、悪い子みぃつけた」
ちろ、と舌舐めずり。
「ひっ!」
「うふふふ‥‥」
「こぉら」
「んふっ?」
横合いから突き出されたお祓い棒がさとりのこめかみをえぐる。
ちょっと面白がって事の成行きを見ていた霊夢だったが、ついに震えだしたみよの様子にさすがにストップをかけた。
「ナモミハギか、あんたは」
「んんんっ」
こめかみを押さえて悶絶するさとりを見下ろしながら、霊夢はみよを抱き寄せてなぐさめる。
「大丈夫よ、みよ。こいつは確かに妖怪で、不気味で無口で遠慮なしに心を読むけど子供をさらったりしないはずよ」
「‥‥ほんと?」
「そんなことしたら私がしばきたおすから」
霊夢はにこりとほほ笑んだ。
「っこ‥‥子供を驚かせるのも久しぶりね。悪くない」
まだ痛むこめかみをを押さえながら、さとりはもぞもぞとコタツに入る。
みよはまだ、霊夢にしがみついて顔を彼女の胸にうずめていた。
霊夢は器用にみよをしがみ付かせたまま、急須にお湯を注ぐ。
「今日は何の用?参拝?なら素敵なお賽銭箱はあっちよ」
「久しぶりに外の雪を見たくなりましてね」
言って障子の方を見やる。
障子にさえぎられて、部屋の中からは雪の庭は見えない。
けれども外の光を透かした明るい障子は、それそのものが雪景色のよう。
まだ降り続いているのだろうか。ばさり、と枝から雪の落ちる音がする。
「それでこんな降る日にわざわざ?面倒なことするのね」
ことり、と湯呑が置かれる。霊夢にみよがしがみついたままなのでコタツの中ほどに。
妖怪少女は湯呑を受け取ると、その病的に透き通った白い手を温める。
湯気がほわ、と顔を覆った。
「雪を見に来たのですから。降らない日に来てもしょうがないですし」
「いつだって降ってるでしょ、地底じゃ。物好きね、あんた」
「そうね」
そう言ってお茶をすする二人の少女。
あんたも飲む?と霊夢から湯呑を差し出され、みよはさとりの方を見ないようにしながら、こわごわとそれを受け取る。
少しは落ち着いて来たようだが、さとりとの最初のやり取りは相当なものだったようだ。
時折、顔をあげてさとりの方を見ようとするが、すぐに目を逸らしてしまう。コタツの真ん中の山鼠まで、目線は上がる。が、その先は駄目。
「あっという間に嫌われたわね」
「子供は態度に出してくれるから良いわね」
「‥‥あんたも少し言動に気をつけなさいよ」
「"出会い頭に脅かすようなまねをして、嫌われるのも当たり前"。‥‥ちょっと茶目っ気を出そうとしたんだけど、失敗だったわね」
「あんたアホでしょう」
「裏表のない言葉、ありがとう」
部屋の隅で、火鉢の炭がパチリと音をたてた。
「いったい何を考えてんだか、この妖怪は」
はあ、とため息をひとつつくと、霊夢はみよを膝から降ろした。
驚いたみよは慌てて、立ち上がろうとする霊夢の裾にしがみつく。
「ちょっとお茶請けとってくるだけだから、待ってて。大丈夫よ。取って食ったりしないから、こいつ」
「あら、わざわざ申し訳ないですね」
「長居するつもりでしょう、あんた」
「雪を見たらすぐに帰りますよ」
「青葉を見るだの空を見るだの山を見るだの、うちに来る連中はそういうどうでもいい理由で長居してくのよ。あんたも、そうでしょう」
「さあ、どうでしょうか」
「覚りの目がなくてもそれくらい勘でわかるわ」
「あら」
「待ってなさい」
そういうと、霊夢は台所へ向かった。
居間には、みよとさとりが残される。
雲が流れて、日を遮った。部屋が、さあっと暗くなる。
また、ばさりと雪が落ちた。
みよは口を引き結んで、綿の中で眠る山鼠を見つめ続ける。
少しだけ、目線を上げようとするが、さとりにピントが合いそうになると、また元に戻してしまう。
そんな自分の様子を、さとりの胸の目が睨みつけてくる。
どうにも怖く、落ち着かない。
彼女は自分を食べはしないと霊夢は言っていたが、その胸の目は自分を食べたくて仕方がないとでも言う様に、まっすぐこちらを見つめてくる。
「ふふ」
「!」
突然の声に、心臓が跳ね上がる。
笑っている。彼女が、こちらを見て笑っている。
やっぱり、自分を食べるつもりなんだろうか。地獄へ連れて行って、大鍋で茹でてしまうのだろうか。
布団の端をぎゅうと掴んでいる手が痛い。
ころりと幸せそうに眠る山鼠が、全く場違いな存在で、気持ちが悪い。
台所からは、包丁の音が聞こえてくる。
何を切っているのだろうか。
早く戻ってきてほしい。
早く――――
「食べませんよ。さっきのは冗談だから」
また、突然声が掛けられ、小さな肩がびくっと震える。
「この目が怖いの?」
もこ、とさとりの前の炬燵布団が盛り上がる。お腹の前に出してきたのは、彼女の茶色い外套。
「ほら、これで怖くない」
そういって胸の目を外套で隠す。おそるおそる、みよはさとりを見る。
「ね」
しかし笑いかけたさとりを見て、また視線を下げてしまった。
「‥‥そんなに怖がらなくてもいいのに」
籠の向こうから聞こえてきた声は今までとは違い、どこか寂しそうだった。
「はい、お茶請け」
両手に小鉢を持って、霊夢が戻ってきた。
片方には甘く煮た豆。もう片方には、漬物。
「仲良し作戦は失敗かしら?」
そう言いながら、霊夢は山鼠の籠をはさんで、小鉢を置く。
「仲良くなれてたら奇跡、ですか。ひどい」
かすかにむっとした顔で、さとりは漬物に爪楊枝を指す。
「そう思うなら、自分の胸に手を当てて考えてみることね。さっきの態度とか」
胸、の単語にあの一つ目を思い、みよはびくりと体を震わせる。
霊夢がコタツに入ると、みよはすぐさま、元の霊夢の膝の上に収まった。相変わらず、さとりを見ようとはしない。
「ま、時間を掛けてやることね。あんたにその気があるのなら、だけど」
「十分その気はあるんですけどね」
そういうと、頂きます、と言ってさとりは漬物を口に運ぶ。
真っ白い大根の麹漬け。パリパリとした心地いい音が部屋に響く。
「おいしい」
「そりゃどうも。秘伝の漬物よ。ありがたく頂きなさい」
「では、心して」
「‥‥」
お茶を飲み干したさとりに、今までと違う感情の波が届く。視線を落とせば、みよがさとりの方を恐る恐る見ていた。
胸の目を隠したのが、ちょっとは効果があったようだ。
今度は、怖がらせないように。小さくほほ笑んで、出来るだけ優しい声で、さとりはみよに話しかけてみる。
「‥‥あなたも食べなさい?美味しいわよ」
しかしまた微かに、みよの肩が跳ねた。
さとりの胸の中に、冷たいものが広がる。
‥‥やっぱり、だめね。
しかし、諦めて目を逸らそうとしたとき、助け舟が出された。
「みよちゃんは煮豆の方がいいんじゃない?」
そう言うと、霊夢はみよの肩を、上から優しく抑える。
―――大丈夫、怖くないわよ
音のない霊夢の声が、さとりには聞こえた。
「‥‥‥‥い?」
「え?」
「‥‥みよ‥のこと、ほんとうに食べない?」
霊夢の手に、勇気をもらったのだろうか。みよはさとりに問いかけた。
ぽつりぽつりと絞り出された小さな声は、まだ恐れを含んでいたが。
「ええ、さっきのは冗談よ。あなたを食べたりしないわ」
さとりはそう言うと、笑みを浮かべる。今までのような微かなものではなく、はっきりと分かる、暖かなものを。
「ほんと?」
返ってきた返事は小さいものの、恐れは少し薄れていた。
「ええ」
そのわずかだけれど嬉しい変化に、さとりは心の中で浮かれてしまった。
にこりと、またほほ笑むと、さとりは言を続ける。
彼女の目が薄く開かれた。
「‥‥あなたは食べちゃいたいくらいかわいいけどぶっ」
「そーれが駄目だって言ってんでしょうが!」
スコッ、と静かな音を立てて細長い針がさとりの眉間に突き立つ。
みよが硬直したのはさとりの台詞のせいか、はたまたさとりの額から生えている針のせいか。
呆気にとられる彼女が見る前で、さとりはいたい、いたいわとうめきながら針を抜いている。
「あんたはっ!ほんっっとに何考えてんのかわかんないわね。その眼私によこしなさいよ、あんたが何考えてんのか裏の裏まで覗いてやるから」
「‥‥っこ、これだから人間は恐ろしいのよ。心に浮かぶ前に針を投げてくるんだから」
「こちとらこれでオマンマ食べてんだからね。次はその眼に投げるわよ。覚悟しときなさい」
「ああ、恐ろしい恐ろしい。乱暴な人間。みよちゃん、こんな大人になっちゃだめですからね。無意識にためらいもなく、か弱い妖怪に針を投げるような極悪非道少女には」
「そんなに退治されたい?」
「あーれー」
ぎゃあぎゃあと、コタツをはさんで少女達のじゃれ合いは続く。
一瞬、霊夢の顔から視線を逸らしたさとりの視界に、みよの顔が入る。
巫女の胸元から覗くその顔には、小さな笑みが浮かんでいた。
おかしいなぁ、このひと。なんか、ぶきみだけど。
――――不気味は余計です。
そう思いはしたが、さとりは嬉しかった。
もう、さとりの顔を見ても、みよはあまり怖くなくなっていた。
さとりの、小さいけれども大袈裟な言動に、霊夢がこらー!と突っ込む。
その光景が、みよにはなんだかとても可笑しいものに見えて、さらに、彼女の中でさとりに対する恐怖が薄れていく。
‥‥ありがとう、霊夢。
そんなみよの変化を感じながら、心の中で霊夢のあの助け舟に礼を言い、さとりは霊夢とじゃれ合いを続ける。
みよの笑い方が自分のようなジト笑いで、彼女は少し複雑な気分だったが。
喧騒の中すやすやと眠る山鼠が、少し笑ったように見えた。
「今日は本当にありがとうございました‥‥」
もうすぐ日が暮れるという頃、みよの母親が神社へとやってきた。
良い子にしてた?と聞く母親に、籠を抱きかかえたみよが、うん!と返事をする。
「あのね!今日ね!」
母親の袖を片手で引き、満面の笑みで話し掛ける様子に、霊夢も顔を緩ませる。
「はいはい、お家に帰ってからお母さんに今日のお話をしてあげなさい。早く帰らないと日が暮れちゃうわよ」
わかったー!と返事をすると、頭を下げる母親を引っ張って、彼女は家へと帰って行った。
その後ろ姿を見送ると、霊夢は居間へと戻った。
絵本やお手玉が散らばる部屋の中、くたりとコタツでだれている妖怪少女が居た。
「帰ったようですね」
さとりはそう言いながら、ぼりぼりと漬物の最後のひときれを咀嚼する。
「仲良くなれて、良かったわね」
「‥‥感謝してますよ」
「見送らなくてよかったの?」
すでに出がらしとなっていた急須の中身を取り換えると、霊夢はさとりに新しいお茶を注いだ。
「大騒ぎになると困るでしょう?そうなれば面倒ですよ。あなたは面倒なのがお嫌いでしょう」
「‥‥そんなに心の狭い人間じゃないわよ。私は。馬鹿にしてるの?」
「‥‥ごめんなさい。冗談ですよ」
そういうと、さとりは腕を組んで、その中に顔をうずめた。
どさりと、庭で雪が落ちた。
「照れくさかったんでしょう。会うのが」
「‥‥さあ、どうでしょうか」
「余計な照れなんか捨てなさい。恥ずかしがってないで、次にはちゃんとあっちにも会ってあげなさいよ」
「‥‥‥」
「私はちゃんとお膳だてしてあげたんだからね。こんなこと、滅多にしないわよ」
「あの子が来る日にちを私に教えただけじゃないですか。‥‥ああ、その親切心が照れくさいんですね。あなたには。‥‥可愛いとこあるじゃないですか」
「それ以上言うと殺すわよ」
霊夢も自分の湯呑に茶を注ぐと、ひと匙、煮豆を口に運ぶ。
コタツに伏せっているさとりの表情は、腕に隠れて見えない。
「それにしてもねえ‥‥あのお母さんがねえ‥‥」
遠い目で、霊夢がつぶやく。
「あの子は好奇心の旺盛な子でしたから。いつか出て行くんじゃないかとは思っていましたよ」
「それでもあの"結末"は予想外だったんじゃないの?」
「別に。幻想郷じゃまれに居ますでしょう。話しに聞く道具屋のご主人のとこだってそうじゃないですか」
「あれは‥‥まあ、そうだけど」
「まあ、ここの近所に居ると聞いた時は驚きましたけどね。‥‥何にせよ、あの子が幸せに暮らしてるなら、私は嬉しいんですよ。それでいいんです」
「そういうものなの?」
「私は」
ふうん、と呟くと、霊夢は湯呑のお茶を飲み干す。
日が落ちて、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
「‥‥ああ、忘れてました」
「何よ」
行燈に火を入れる霊夢の後ろで、コタツに伏せたまま、さとりがつぶやいた。
「あの山鼠、雌よ。みよは雄だと思っていたようですけれども」
「‥‥そう」
「‥‥大丈夫かしら。雄だと思ってツヨシなんて名前付けちゃったら、大変だわ」
「そのくらい、何でもないんじゃないの」
「結構、ショックは大きいのよ。ペットの性別を間違えていたというのは。飼い主にとってもペットにとっても」
「‥‥なら、次に来たとき、ちゃんと言ってあげなさい」
「会う理由になるかしら」
「なるわよ。‥‥あたしは今すぐに、あんたを引きずってでも会わせに行きたいけどね。面倒だからやんないけど」
「‥‥乱暴。勇儀に気に入られるわけね」
「ふん」
ぼそぼそと腕の中から返してくるさとりに、霊夢はぶっきらぼうに返すと、立ち上がった。
伏せったまま、さとりはその心を読む。
――――ったく、しょうがない奴。恥ずかしがって、ちっちゃな女の子じゃあるまいし。鍋をつつきながら、今晩は盛大にいじってやろう――――
その思念は、乱暴だけれども、どこか温かい苦笑混じりのもので。
「‥‥そんな、御夕飯を用意して頂けるなんて‥‥お鍋ですか。何から何までありがとうございます」
「先に礼を言うな。図々しい。それに、お客だからってボケッとコタツでおセンチになっていられると思わないことね。こき使ってやるわよ。覚悟なさい」
「ああ、恐ろしい、恐ろしい人間」
「ほら、さっさと立つ!」
そう言うと、霊夢は乱暴にさとりを炬燵から引き剥がした。
伏せられていたその顔は、おだやかな笑み。
「今日はありがとう、霊夢」
後ろから抱えられながら、さとりは霊夢に礼を述べる。
一瞬戸惑った霊夢だったが、ふん、とため息を吐くと、ぶっきらぼうに返した。
「どう、いたしまして」
――どういたしまして。
二重の声が、ただただ、さとりには嬉しかった。
「へえ、じゃあ、みよはその方にお会いしてきたんだな」
「‥‥もっと早く言ってくれればいいのに、この子ったら。そうしたら、私もお会いできたのに。最近行き来があるとは聞いていたけど、まさかあの方が地上に出てこられるなんて。‥‥ああ、もう」
「‥‥やっぱり、今でも好きなんだね、その人が」
綿のような雪に包まれた、里の外れの小さな家。
囲炉裏端からの問いかけに、母親はみよの枕元から、静かに答える。
「そりゃあね。親の居ない、幼い私たちをたった一人で育て上げてくれたんだもの。お母さんなのよ」
「じゃあ、みよはおばあちゃんに会ってきたわけだ」
「そうなるかな。お婆ちゃんなんて、あの方には似合わないけどね」
紫の髪の変なお姉ちゃんに、お母さんにそっくりって言われた――――
帰宅して開口一番、みよの放ったその一言が、どれほど自分を驚かせたか。また、どんなにか嬉しかったことか。
あの人は覚えていてくれたのだ。私のことを。地上へ行った、私のことを。
最近、あの神社にはよくあそこの妖怪が来ると言う。
もし、もし会えたら、何から話そう。
育ててくれたことへのお礼。あの日、勝手に外へ出た理由と謝罪。隣に居る人間との、馴れ初め。今の、この小さいけれど幸せな家庭のこと‥‥
あとからあとから想いは湧いてきて、上手くまとまらない。
「お空ちゃんにお燐ちゃん、元気かしら」
母親は小さくつぶやきながら、みよの濡れ羽色の髪を静かに梳く。
傍らの籠の中で眠る山鼠とそっくりに、ころりと丸まって眠る少女。
うなじからは、漆黒の翼がちらり、と覗いていた。
月明かりの幻想郷。
愛される山鼠達は、それぞれの眠りにつく。
ふかふかの綿の真ん中で。
暖かい、囲炉裏端の布団の中で。
雪に包まれた、里の外れで――――
地霊殿いいとこ一度はおいで。なんかそんな感じがした。茶目っ気満点のさとり様も良いなぁ。
あと霊夢さんは儚い妖怪のために存在してるんだなーとしみじみ思う。
みよちゃんか可愛いよみよちゃん!
オリキャラさんの設定がいいですね、こういう想像力の働かせ方って、好きです。
……まさかさとり相手にこの台詞を言う日が来るとは…。
親心のやさしさに溢れた良い作品でした。
みよのお母さんはどんな気持で地上に出てきたのかというのも気になりますな。
何にしても面白かったです。ではでは。
速く→早く
このさとり、良いですね。
みよちゃんを怖がらせる様が何ともお茶目で、読んでいて笑ってしまいました。
確かに理由付けがちょっと強引かもしれませんが、アリだと思います。
面白かったぁ。