黒き装束の下から覗くのは、骸骨の笑み。
音もなく、されど確実に全ての生ある者に忍び寄り、振り上げるのは巨大な鎌。
その象徴的な得物を振るって、生を終えた魂を刈る存在。
――死神をそう認識している者は多いだろうが、死神たる彼女の実態を知った者は大抵驚くものである。
そもそも、彼女の仕事である三途の川に来る時点で死んでいるか、それとも死にかけているか。
自力でそこまで行く者という例外はあれど、そうそう来ていい場所でもない。
死に対する印象も相まって、死神の正しい認識というものは広まらないのだ。
もっとも、顕界にあまり行かない死神にとっては、そんなことは大して重要ではないのだが。
川の向こうへ霊を渡す船頭は、今日も今日とて大の字になり、穏やかな風を感じながら休憩を満喫していた。
もしその光景を彼女の上司である閻魔が目撃していたのなら、少なく見積もっても四半刻は説教漬けにされてしまうだろう。
しかしながら、今の彼女の周囲には渡すべき霊はいなかった。
怠ける癖はあるものの、やる時はやるのが彼女である。
季節を越えられず、いつも以上に増えた霊を渡し切ったのはつい先日のこと。
緩んだ彼女の表情には、うっすらと達成感のようなものすら浮かんでいた。
休暇はまだ先のことであり、実は今も勤務時間なのだが、ここ最近の激務を考えれば誰も彼女に文句など言えないだろう。
もっとも、休める時に休んでおくのも仕事のうち、という見方もあるだろうが。
うつらうつらとしていた彼女は、不意に川原に気配を感じて身体を起こした。
辺りを見回すと、遠くの方でふらふらと彷徨う霊の姿が。
いつもであれば、川原にはそれなりの数の霊がいて、順番待ちの列を作っていたり、好き勝手に漂っていたりするものだが、
たった1体だけというのはどことなく寂しい感じがある。
彼女は傍らに置いておいた鎌を持ち上げ、ぶんぶんと振る。
結構な距離があったもののどうやら気付いてくれたようで、その霊はのんびりと彼女の方へ向かって来た。
ふるふると震えて何かを伝えようとする霊。
そんな霊に対し、死神――小町はまあまあと笑顔を向ける。
「驚くのも無理ないさ。
見慣れない場所に突然来ちまったみたいなもんだし、ここに来たらみんなそんな感じで、あたいにすがってくるもんだよ。
ここは三途の川。あたいの職場にして、生と死を分かつ境界みたいなもんさ。
話くらいは聞いたことがあるんじゃないかい?」
霊の動きが一瞬固まり、またふるふると震えだす。
小町にとってはその仕草だけでも、何を伝えようとしているのかが読み取れるのだろう。
「んー……自分が死んじまったことに気付かずに、ここまで来る奴もたまにいるんだけどね。
まあ、まだ生きてる奴を運んだらあたいが大目玉くらっちまうし、あたいの眼でしっかり見てやるよ」
生と死の橋渡しを行う死神の眼は、相手の寿命を見ることが出来る。
彼女の元に来る霊は大抵寿命を終えて死を迎えた者だが、寿命が残っている霊もいることはいるのだ。
まだ生きる運命にある霊。
そんなものが三途の川にやって来る事態など、そうそう起こることではないのだが……例外はいつだって存在する。
例えば、臨死体験。
死の領域を掠め、一時的に身体を離れた魂が持ち帰ってくる記憶は、この三途の川での出来事なのだ。
「……ふむ。お前さん人じゃないね。あたいの眼が確かなら、下手な妖怪以上の寿命が残ってる」
真剣な眼差しで見抜いた寿命は予想以上の長さ。
だが、仕事人の表情は次の瞬間には一転して、人懐こい笑顔に変わる。
「……ま、命あっての何とやらだよ。
しばらくここで大人しくしてれば、そのうち身体に魂が引っ張られて目が覚めるから、そう心配するもんじゃないさ。
それはそうと――」
本来は仕事中の小町の楽しみなのだが、ただ寝ているのにも飽きたのだろう。
幸いにも辺りに他の霊は見えない。こういった霊の面倒を見るのもまた、死神の役目と言えるだろうか。
「お前さんのこととか顕界の様子とか、何でもいいから話しておくれよ」
そういう話は死神の楽しみなんだ。
そう付け加えてウィンクすると、霊はくるくると回ったりふわふわと浮かんだりしながら、様々なことを伝え始めた。
「――ふむふむ。由緒正しきお家にずーっと仕えてたってことだね?
だったらその家の人もさぞかし心配してるんじゃ――おいおい、こんな状態でも心配されてないのかい。
薄情なんだか信頼されてるんだか解らないねぇ」
言葉に出すのは小町だけであるから、霊の様子を見なければそれは彼女の独り言に聞こえるかもしれない。
だが、確かに両者の間には会話はあったし、小町も霊が伝えようとしたことを間違えずに受けとめていた。
「ん、どうかしたかい?
あれは三途の川だけど……泳ぎが得意なのかい。向こう岸まで渡ればそのままあの世行きさ。
今回は送ってやれないけど、そのときはしっかりきっちりあたいの船で渡してやるよ。
もっとも、渡し賃は頂くけどね」
渡し賃という言葉に霊が身じろぎすると、小町は感心したように目を丸くする。
「そうそう、六文銭さ。そんな昔のことをよく知ってるね。
まあ……今はちょいとこっちも変わってね、六文じゃないのさ。
渡し賃は有り金全部、向こう岸には無一文で渡ってもらうのが今の決まりなんだ」
ふわりふわりと霊は空中で回りだす。自らの尻尾を追い掛ける犬のように。
「ああ、心配要らないよ。ここで稼ぐ必要はないし、今のあんたには見えないだろうね。
払ってもらう渡し賃ってのは、生前の徳に寄るのさ。
いくら生前のお前さんが無一文の貧乏暮らしでも、誰かのために色々なことをしてきたのなら、
死んでここに来るときには沢山持ってるはずさ。
第一、あんたはお家のためにずーっと頑張って来たんだろ?
いずれあたいの世話になるときには、山ほど払うことになるはずだよ」
小町の説明に安心したのか、霊はゆっくりと川原に落ち着く。
きっと、何も持っていないことに慌てたのだろう。
小町は傍らの鎌を手にすると、川原に止めてある船を指した。
「――で、あれが三途の川の流れにも耐えられる豪華客船さ。勿論あたいの手漕ぎだから、のんびりとしたもんだけどね。
ただその分、見物する時間は沢山あるよ」
2人、無理して3人乗れるかどうかの船ではあるが、生と死の渡し船にこれ以上は望めないのだろう。
日に何往復するかはさておいても、込みあってくれば大変な仕事になるのは明らかだ。
「へぇ……あんたのご主人様は、代々ゆっくりするのが好きな方だったのかい。
ああ、きっとそういう方にはいい判決が出されているよ。心配しなさんな」
あくまでも、小町の言う『いい判決』は彼女の上司、映姫の物差しに照らし合わせてのものである。
小さな罪でも見逃さずに説教を行い、それで償い切れない残りの罪は地獄で償う。
その裁判に完全な白はあり得ず、あるのは説教の量と地獄行きの有無。
「ま……あんたみたいに誠実な者が仕えたご主人様なら間違いないか。
あんたもまだまだ若いんだし、これからもしっかり善行積んで……。
……いやいや。先が長いんだから、今から年寄りだなんて言うもんじゃないよ」
それは謙遜だろうか。
輪を描くように回る霊をたしなめて――小町はふと気付く。
回りながらも、その霊が河とは反対側へと遠ざかっていくことに。
「おお、引っ張られてく引っ張られてく。
そうそう。あんたも息を吹き返す時が来たのさ。
目が覚めても、少しはあたいのことも覚えといてくれよ」
次第に遠ざかり、小さくなっていくその姿を見送り、小町は大きく鎌を振る。
そして、霊の姿が見えなくなってから気付いた。
遠くからでも見えるように鎌を振ることは、やっぱり怖く見えるのかもしれない、ということに。
「――真面目に仕事をこなしているようで、何よりですね」
ぎくり、と振り返れば当然そこには声の主が。
優しい声と穏やかな表情は、かえって小町に冷や汗をかかせた。
「し、四季様……お仕事の方は順調で?」
「ええ。小町が頑張った分、しっかり私も裁かせてもらいました。
……勘違いしているようですけど、別に怒りに来たわけではありませんよ。
ただ、やましいことをしているという気持ちがあるのなら、それは改めるべきですね」
こほん、とひとつ咳払い。
「小町。先程の者をどう見ます?」
「え? えーとそうですねぇ……若年寄りなとこはありますけど、凄く一途ないい男って感じでしょうか」
「……まあ、長命な者はあまり運ばないのですし、仕方ありませんか」
「あの、それってどういう……」
何かまずいことでも口にしたのか。
びくつきながらも、小町は映姫の言葉を待つ。
「そうですね、一言で済ませるならば……そう、小町は少し先入観に囚われています。
あの者は、小町よりも段違いに年上なんですよ?」
「……まじですか」
――目が覚めて見た光景は、視界を埋め尽くさんばかりの圧倒的な桜吹雪。
その向こうに主の背中が見えた気がして、彼は思わず呼び止めた。
「御主人様……お出掛けですかな?」
振り返ったその表情は驚きに満ちていて、やがて安堵の笑みが浮かぶ。
「……いやはや。お出掛けと呼ぶには、いささか物騒な身支度ですな。
異変か、妖怪退治のお仕事でしょう」
「まあ……異変は片付いたんだけどね、ちょっと後片付けが必要なのよ」
「ふむ。散った桜の掃除よりかは大変そうですな。
ワシもお手伝いしましょうかの?」
困ったように笑う主人は、近くに立て掛けてある箒を指す。
「私としては、むしろ掃除してくれてたら嬉しいんだけど。
大丈夫よ。ご先祖様じゃないんだから」
「いやはや、頼もしくなられましたな。
では、年寄りは茶の用意でもして待たせてもらいましょう」
「そうね、終わったら一緒に飲みましょう。目が覚めるくらい熱いの」
大量の針と御札を手に、ふわりと彼女は宙に浮く。
異変のせいで例年よりも遅くなった春は、溜め込まれた暖かさを一気に放出したようで、幻想郷はどこもかしこも桜だらけ。
それは神社の境内も例外ではなく、掃除が大変になるのは容易に想像できる。
面倒だとぼやきながら、手を動かす巫女の姿も一緒に。
「では、留守はこの爺にお任せ下さい。
無事に戻られるのを待っておりますぞ」
「神社が桜まみれになる前には帰って来れるわよ。
それじゃ玄爺、行ってきます」
飛び立ち、その勘の向く方へ飛んでいく姿を見送って、彼――玄爺はほんの少しだけ目を閉じる。
いつからだろう、こうして博麗の巫女を見送るようになったのは。
いつしか巫女は飛ぶことを覚え、彼は帰りを待つようになった。
かつてはその背に巫女を乗せ、何度も死線を掻い潜っていたのに。
寂しくないわけではないが、人は代を重ねて成長していく。
時を経て幻想郷も変わった。
普及し始めたスペルカードは、人と妖怪の関係をまた新たなものに変える要因となるだろう。
「ワシだけですかのう、変わらないのは」
脳裏に浮かぶのは懐かしい笑顔。
それは彼を捕まえ、従え、共に幾多の異変解決に向かった最初の主。
自らを、文字通り尻に敷いたかつての博麗の巫女は、既に弔われて久しい。
それは、解っているのに。
「……やれやれ。こんなことでは笑われてしまいますな」
思い出してしまうのは、冬眠中に出会った死神のせいだけではないだろう。
彼にとっては、それは厳しい冬の中でぽつりぽつりと暖かく目覚めるような、そんな夢のような出会い。
それよりも強く彼女を思い出させるのは、今代の主が残す面影と――境内を彩る桜吹雪。
桜色の髪の彼女が見守っているような気がして、玄爺は目を閉じた。
「靈夢様――」
ようやく幻想郷に満ちた春は、遅れた分を取り戻すかのように溢れ、留まる所を知らない。
境内の桜も立て続けに咲いて散っての追いかけっこである。当分はこのままだろう。
「――今年も、桜は綺麗に咲いておりますぞ」
そんな、終わらない桜吹雪の中に今、一筋の雨が降った。
そうですよね、好々爺という文字が似合うのはやっぱり玄爺だ
なるほど、面白かったです。
空飛ぶ巫女を見送りながらのんびり過去に想いを馳せる一匹の老いた亀・・・良い。
これだ、これが不足してたんだよ!補給できて幸せ…
私は彼?のことは少し知っている程度でしたが
楽しく読むことができました。
玄爺のあの頃の巫女を想う気持ちがなんだかとても良いですね。
霊夢が出かけて行く場面と玄爺が当初の巫女を想う場面が
頭の中に浮かんでくるようでした。
面白いお話でした。
俺はあなたに物凄くありがとうと言いたい
玄爺の感情が深く伝わってきました。
作者様ぐっじょぶ。
彼自身も何人の博麗の巫女を見送ったんでしょうね。
うまい