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ライブやコンサートの間だけ、リリカはルナサを『お姉ちゃん』と呼ぶ。
それは普段姉へと使っている『姉さん』よりも可愛らしいから、自分に対するファンも増えるに違いない! といったリリカの魂胆が元では無く、音の溢れる演奏中での意思疎通を明確に図る為の手段だった。
彼女達三姉妹の奏でる楽曲は即興演奏である事が多く、演奏中のコミュニケーションはアイコンタクトで行われる。だが、躁の気があるメルランは興に乗ってくると、事前の打ち合わせなどを無視して暴走を始めてしまう事がある。そんな時、リリカはルナサへ『お姉ちゃん』と、その口の動きで相手を指定するのだ。普段が『姉さん』なのであまり違いは無さそうなのだが、そこは姉妹。どうにかなっていた。
具体的には、『お姉ちゃんが姉さんを抑えて』といったところだろうか。メルランの暴走は、リリカやルナサのテンションすらも強制的に押し上げる。それに引っ張られてしまったら、ライブ自体が破綻してしまうのだ。
その為の『お姉ちゃん』
その為のだけの、けれど特別な呼び方だった。
■
最近は紅魔館に呼ばれる事が多いと、ルナサは思う。というよりも、あの長い冬が終わってから、定期的に紅魔館で演奏を披露する機会が出来た、というべきか。
それは紅魔館のメイド長である十六夜・咲夜と知り合った事が大きな理由で、つまりこの演奏は彼女の主であるレミリア・スカーレットに捧げられるものだった。
レミリアは吸血鬼だ。この幻想郷でも上位の力を持つその存在は、しかしながら弱点が多い。その中の一つに、雨の中では外出出来ない、というものがあった。流れる水を渡れないが為に、雨の中でも動けなくなってしまうらしい。その結果、彼女は雨の日になると必ず暇を持て余す。
そんな主へとメイドが用意するようになったのが、ルナサを長女とするプリズムリバー三姉妹による演奏だった。
初めはテンションの高い楽曲を演奏していたものの、次第にその曲想も変化していき、今では楽器を変えた新しいアンサンブルの発表すらも行うようになった。それは同時に紅魔館へと訪れる頻度が高まった事を意味していて――初めは梅雨時だったそれもいつしか半年に一度、数ヶ月に一度と間隔が狭まっていき、今では月に二度ほど演奏に訪れていた。
今やルナサ達の演奏はただの暇潰しでは無くなり、時間を割くに足るコンサートとしての意味合いを持っている。それは姉妹にとって喜ばしき事であり、同時にメルランのテンションも鰻上りになってしまう、という事でもあった。
そうして今日もトランペットの音色は見事に暴走を始め、それに引っ張られるようにルナサのヴァイオリン達も奏でる音色が激しくなっていく。最早曲調は別のものへと変化し、収まるポイントを自ら見失うかのように駆け抜ける。
だから今日も、リリカから「お姉ちゃん!」という無音の声が飛んだ。それを見て初めて、ルナサは自身が妹の音色に引っ張られていた事に気付くのだ。
メルランの持つ『躁』の音色というのは、その中に『鬱』の音色も孕んでいる(高まるだけ高まったエネルギーは、限界を超えれば落下するしかないからだ)。その為、『鬱』の音色を操るルナサは無意識に『躁』の音色に釣られてしまうのだった。
焦り顔を見せるリリカに「ごめんなさい」の意味を籠めて、ルナサはメルランの暴走を抑え込み、リリカのアレンジに合うようにその音色を導いていく。ルナサがメルランの『躁』の音色に引っ張られるのと同じように、メルランもルナサの『鬱』の音色に引っ張られる。つまりルナサとメルランは、互いの音色で互いを影響し合う事が出来るのだ。それを理解している長女は、どうにか楽曲を纏め上げてみせた。
そして、演奏が終わる。その結果生まれたのは、少ないながらも暖かみのある拍手。安堵と共に視線を上げれば、そこには紅魔館に暮らす者達の感動に満ちた表情があった。
「今回も素晴らしかったわ」
席を立ち、興奮に頬を赤く染めたレミリアが言う。それがメルランの音色の力だけでは無い事は、相手が吸血鬼であるという事実が証明してくれている。どれだけルナサ達の力が強かろうと、それを軽く上回る吸血鬼には敵わないのだ。
だからこそ、喜びを胸に三姉妹は軽く一礼。
レミリアに続くように紡がれる咲夜達の賞賛を聞きながら、本日のコンサートは幕を閉じた。
■
そうして今日も気分良く楽器を片付け始めたルナサは、その一言へ咄嗟に反応出来なかった。
「ルナサは、普段から『お姉ちゃん』って呼ばれてたかしら」
「え?」
顔を上げた先には咲夜の姿。今この状況では何の仕事も無いのだろう彼女は、普段よりも少し緊張の抜けた表情をしていた。
「以前から気になっていたのよね。演奏の途中、リリカはルナサを『お姉ちゃん』って呼んでるでしょう? 多分、気のせいじゃないと思うのだけど」
流石は完璧なメイドといったところだろうか。レイラの死後、演奏隊として活動を始めてから一度も看破された事の無い事実に気付くとは。……まぁ、隠してすらいないのだが。ルナサはそんな事を思いつつ、
「確かにそうよ。演奏中に『姉さん』とだけ呼ばれても、私かメルランのどちらか解らなくなってしまうから。まぁ、名前で呼ぶのが確実なのでしょうけれど……」そこでちらりとメルランの様子を窺いつつ、「私達の演奏はアドリブが多いから、一言で軌道修正が出来る方が問題も少ないの」
というよりも、ルナサ達は演奏時に楽譜を用いない。『本当に優れた音楽は騒音と変わらない』というポリシーを持つ彼女達にとって、楽譜など取るに足りないものなのだ。
「そうだったの。でも、それなら普段から『お姉ちゃん』って呼ばせるようにすれば良いんじゃない?」
「そこはほら、リリカ次第だもの」
と、そう答えたルナサの表情から何を感じ取ったのか、咲夜は少し意地悪げに微笑み、
「恥ずかしいの? ルナサお姉ちゃん?」
「そ、そういう訳じゃ……」
演奏時限定の呼称な為に普段は気にしていないが、だからこそ改めて呼ばれると、どうにもくすぐったい感じがしてしまう。そもそも演奏中は楽器を操り騒音を生み出す事に意識を向けているから、自分がどう呼ばれているのか、などというのはただの確認――極端に言えば、白か黒かの札を見せられているかのようなものなのだ。
けれど今は素の状態だ。『お姉ちゃん』と呼ばれる事に、ルナサは少しだけ羞恥を感じてしまっていた。
それでも、それは一瞬の事。そもそも彼女は『姉』なのだから、呼称が変わったところで特に問題は無かった。そんなルナサの様子に、咲夜は少し残念そうに、
「なんだ、残念だわ。ルナサお姉ちゃんが慌てるところなんて珍しいから」
「だからって、そうやって連呼されても困るのだけれど」
「ちょっと楽しくなってきちゃって。それに、『お姉ちゃん』って響きが何だか心地良いの」
そう言って笑う咲夜は、もしかしたら少しメルランの音色に影響されてしまっているのかもしれない。今の彼女は、完全で瀟洒なメイド、という二つ名が似合わぬほどに可憐な微笑みを浮かべているのだから。
そんな咲夜に困惑しつつも、しかし強く止める事はしない。咲夜との付き合いも長くなってきて、彼女が普段の瀟洒なイメージを覆すほどにお茶目――というよりも、天然な空気を発する事があるのを知っているからだ。そういったギャップが彼女を強く印象付け、その魅力を更に高めているのだろう。
そういった意味では、自分は目立たない方だ、とルナサは思う。プリズムリバー三姉妹を知る者の大半が、背が高く、音色も動きも激しいメルランをリーダーだと思っているだろうし、小柄な体で一生懸命に幻想の音色を奏でるリリカの姿を印象強く記憶する筈だ。そんな二人に挟まれて、ルナサの奏でる音色は――『鬱』の音色は暗くなる。
とはいっても、ルナサには目立とうという気持ちは無い。ただ、こちらの事を『お姉ちゃん』と呼んでくれた咲夜と自分があまりにも違うから、少しだけ悲しくなった。
それを表情に出さぬまま、ルナサは楽器の片付けを再開しつつ、
「まぁ、好きにすると良いわ。困るとは言ったけれど、迷惑では無いから」
それは、困惑はするけれど不快では無い、という事。少し矛盾しているような気がしたけれど、そこはなんというかニュアンスで感じて貰えれば良いかしら。とルナサは思う。
そうして、片付けを進め――
「……ルナサお姉ちゃん」
不意に聞こえて来たその小さな声に、ルナサは顔を上げた。けれど誰に呼ばれたのか解らず、視線を巡らせ……少し恥ずかしそうなレミリアの姿が見えた。
その顔は赤く、不安げで、思わず抱き締めてしまいたいほどに可愛らしい。そう思うルナサの正面で、レミリアは困ったようにはにかみ、
「ん……。確かに心地良いものね、『お姉ちゃん』って響きは」
一瞬、ルナサはレミリアが何を言っているのか良く解らなくなった。だってそう、あのレミリア・スカーレットが、自分に向かって『お姉ちゃん』と言ってのけたのだから。
驚きに固まるルナサを他所に、リリカの隣で物珍しげにキーボードを眺めていたフランドールが顔を上げ、そしてレミリアを挑発するように微笑むと、
「あらお姉様、それは私に対する侮辱かしら」
「違うわ、フランドール。私には姉が居ないから、それがどんなものなのか解らないのよ。だからちょっと呼んでみたの。でも……うん。なんだか素敵な気分になるわね」
同じ姉であるルナサには解る。下に妹が居るという状況は、常に自分が『姉』として胸を張り続けなければならない、という状況に繋がる。そうでなければ世間に対する示しがつかず、妹に対しても格好がつかない。だから姉という存在は常に『姉』であり続けなければならない。
だからこそ、ただ甘えられる『お姉ちゃん』に対する憧れにも似た何かが、いつも心の中にある。咲夜の一言は、レミリアの中にあるそれを刺激してしまったのだろう。
対するレミリアもそれを解っていて、けれど止められない様子だった。
おずおずとルナサの正面にやってくると、レミリアはその顔を見上げた。不安げに揺れる瞳は幼い少女のそれで、そこに紅い悪魔と恐れられる吸血鬼の気配は無い。
「……お姉ちゃん」
だから、ルナサに出せる応えは一つだった。
「どうしたの、レミリア」
敬称を使わず、家族のように親愛を籠めて、自然にその名前を呼ぶ。
そうしたら思わず手が動いてしまって、そのままレミリアの髪をそっと撫でていた。流石にそれには恥ずかしくなったのか、彼女は赤かった顔を更に真っ赤にして、
「きょ、今日も良い演奏だったわ!」
少々声を裏返しながら言うと、さっと踵を返し、椅子のある場所まで急ぎ足で戻ってしまった。その様子に咲夜と共に微笑みながら、けれど悪い気分ではなかったとルナサは思う。
騒霊として生まれたルナサは、姉ではあるものの、妹達の成長を見守ってきた訳ではない。そもそもプリズムリバー三姉妹は、レイラ・プリズムリバーという人間が生み出した、レイラの姉達の幻想だから、初めから今の身体を持って生まれたのだ。
だからルナサは、年齢の割りには幼いレミリアを相手にした時、体感した事の無い『幼い妹』というものに触れたような気がしたのだ。
レミリアはもう恥ずかしがって、ルナサの事を『お姉ちゃん』と呼んでくれないかも知れない。けれど、ルナサの方から呼んで貰いたくなるほどの暖かさが、彼女の心には満ちていた。
これもそれも、咲夜が『お姉ちゃん』と言い出したのが切っ掛けだ。ルナサはヴァイオリンを仕舞ったケースの蓋を閉めると、咲夜に感謝を伝えるべく顔を上げ――
「それじゃあ、次の予定はどうしましょうか。ルナサお姉ちゃん」
「――え?」
思わず声が出た。見れば、そこには先ほどと同じように微笑んでいる十六夜・咲夜の姿。
「どうしました、ルナサお姉ちゃん」
改めて咲夜が言う。その瞬間、ルナサの頭から『感謝』の二文字は完全に吹き飛んでいた。
「……や、その……」
不味い。ルナサは咲夜に対して『お姉ちゃん』と呼ぶ事を否定しなかった。それはつまり、十六夜・咲夜がお茶目、もとい悪戯心を働かせるのを止めなかったという事だ。
いや、違う。咲夜にしてみれば、それは『主だけに恥をかかせる訳にはいかない』という献身的な気持ちだったのかもしれない。だが、その一言は周りの者にも「ルナサの事を『お姉ちゃん』と呼んでも良いんだ」といった空気を与えてしまう。
不味い。ルナサが改めてそう思った時には、笑みを浮かべたパチュリー・ノーレッジが言葉を紡いでいた。
「そうね。ルナサお姉ちゃん達の都合さえ良ければ、来週にもまた演奏を聞かせて貰いたいものだけれど」
「良いですねー。私もルナサお姉ちゃんの演奏大好きですから」
パチュリーに続くように、その隣に腰掛けていた小悪魔も続く。名は体を表すというが、『小悪魔』という名称を与えられているだけあってその判断に迷いが無い。そしてその眼は確実にこの状況を楽しんでいた。
こうなると、もうルナサには止められない。近くで楽器を片付けていたメルランとリリカも当然のように「どうしようか、ルナサお姉ちゃん」と『姉さん』という呼称をあっさりと捨て去っており、リリカから借りたのだろう小さなカスタネットを弄っていたフランドールまでも、おずおずとした様子で「私もルナサお……お姉ちゃんの演奏楽しみだわ!」と言い出す始末。可愛いなぁもう。
って、そうじゃない。焦りと共にルナサは視線をある一点へと向ける。そこに腰掛けている、紅色の髪を持った少女――最後の砦である紅・美鈴は、しかしルナサの期待には答えてくれなかった。
「……頑張ってくださいね、お姉ちゃん」
その外見から時折不名誉な別称で呼ばれる事のある美鈴だけに、その言葉には同情の色があった。でも、それでも彼女も楽しそうで。
一体全体どういう事だろう。紅魔館のメンバーは、皆『お姉ちゃん』に飢えていたとでもいうのだろうか。
そんな馬鹿な事を考えてしまうほどに、ルナサは動揺してしまったのだった。
■
三日後。
「……冷静に考えると、飢えていたのかもしれないわね」
「あや、何か仰いましたか?」
「いえ、何も」
取材に来ていた射命丸・文を前に、ルナサは三日前のちょっとした異変についてを思い出していた。うっかり口に出てしまったのは、それが思っていた以上に衝撃的だったからか。
そう、衝撃的だった。
こと勝負事において、ルナサは自他共に認めるほどの強さがある。そんな彼女が『絶対に敵わない』と思うだけの戦力が紅魔館には揃っており――そしてそれ以上に、彼女達はルナサにとって大切な観客だった。そんな彼女達が一斉に自分の事を『お姉ちゃん』と呼び出し始めたのだ。動揺しない訳がない。だからこそ、その時は冷静に考えられなかった事が、今になってようやく考えられるようになっていた。
それが、『お姉ちゃん』に対する飢えだ。
紅魔館の面々は、アウトサイダーの集りでもある。本来は孤高である吸血鬼の姉妹を初め、本と共に生きる百年の魔女、名無しの悪魔、人間を凌駕する力を持ったメイド、そして鈴の音を響かせる紅い中華娘と、一見すればどこにも共通点が存在しない。それなのにも拘らず、彼女達の繋がりは家族のように強い。
そう、家族のようだからこそ、そこに明らかな欠落がある。それが『姉』だ。
とはいえ、その役割から考えてみれば、咲夜か美鈴が姉の位置に収まる筈で、そもそもレミリアはフランドールの実姉だ。問題無いように見える。しかし、レミリア・スカーレットという少女は、その年齢の割りにとても幼い。それを考えると、彼女に仕える咲夜と美鈴――文句を言われても、決して文句を言い返せない彼女達――は、『姉』というより、むしろ『母親』の立ち位置に居るように思えた。
そしてレミリアの友人であるパチュリーは、恐らく『父親』の位置だ。レミリアから文句を言われ、言い返す事の出来る彼女は、しかし図書館の中から殆ど出てこない。それはある意味、外へと働きに出ているのと一緒と言えよう。屋敷の地下に図書館を構えながらも、その存在は一歩外れた場所にあるのだ。
更に小悪魔は、フランドールと同じ『妹』だろう。或いは、腹の底では何を考えているのか解らないその姿は、悪戯好きな『弟』という立ち位置かもしれなかった。
そして、肝心の『姉』だ。
そもそも姉というのは、母親の次に年齢の高い女性であり、しかし子供である存在だ。家族に対して文句を言い、言われ、しかしその立場はより身近なものになる。それがルナサのイメージする『姉』であり――レイラから貰った『姉の幻想』は、そういったものだった。
だからルナサにとっての『姉』はそういうもので、そして紅魔館にはそういった存在が足りないのだと思えたのだ。
と、そこまで考えて、天狗が拡げている新聞のバックナンバーが眼に入った。その中に、元気に笑う霧雨・魔理沙の姿が見えて、
「……魔理沙か」
あの少女は、まるで男の子のように溌剌としている。それはルナサのイメージだと『妹』や『弟』に当て嵌まるだろう。けれど、レミリアにしてみるとどうだろうか。
日光の下を元気に飛び回り、自分へと率先して勝負を挑んでくる、輝かしい金髪の女の子。けれど、咲夜(『母親』)にはあまり頭が上がらず、パチュリー(『父親』)の書斎に忍び込んでは盗みを働き――そして、文句を言って、言い返されて、喧嘩のように弾幕ごっこをしても対等に戦える。それはまるで、ルナサのイメージする『姉』のようではあるまいか。
本人が幼いからそう認識されていないだけで、あと数年もして魔理沙が女としての色香を持つようになれば、彼女は今以上に紅魔館に馴染む存在になるのかもしれない。
と、リリカの淹れた紅茶を飲みながら考えていると、文が開いていた手帳を一ページ捲り、
「では、最後に今後のスケジュールについて教えてください。次のライブの写真を、今回の記事に使わせて頂こうと思うので」
「次は……いつだっけ?」
『お姉ちゃん』の印象が強過ぎて、紅魔館で決めた筈の予定を全く覚えていなかった。そんなルナサに、メルランが笑みを浮かべ、
「駄目だねルナサ姉さんは。次は、えっと……いつだっけ、リリカ」
隣に座るリリカへと笑顔で聞くメルランに、リリカは溜め息と共に「姉さん……」と呟いてから、
「四日後に、紅魔館でコンサートを開くの。その次は、白玉楼の宴会にお呼ばれしてる。その次が……」
と、ルナサの頭に全く残っていないスケジュールを話していくリリカを見つつ、出来た妹だとルナサは一人嬉しく思う。姉である自分がこれでは、失望されてしまうかもしれないけれど。
そうして取材が終わり、文が帰り支度を始めたところで、不意に玄関から物音が聞こえて来た。
誰か来たのだろうか。そう思いながら、リビングに集った全員が物音の方へと視線を向けて――現れたのは、
「よう、友達のところへ遊びに来たぜ」
笑みを浮かべた霧雨・魔理沙だった。噂をすれば影がさす、という事なのだろうか。その姿にルナサが驚いていると、リリカが笑みを浮かべ、
「あ、魔理沙。いらっしゃい」
「久々だな、リリカ。香霖の勧めてた楽器、調子はどうだ?」
「結構上々だよ。まさかロシア人形からあんな音が出るとはねー」
……どうやら、結構仲良しさんらしい。そういえば初めて魔理沙と逢った時、ルナサは魔理沙へと「リリカの友達?」と尋ねている。その時に貰った肯定は冗談だと思っていたのだけれど、実際にはその関係は本当の友情を結ぶまでに至っていたようだ。
リリカは結構アクティブだから、魔理沙との馬も合うんだろう。そうルナサが思っていると、
「あやや、珍しいですね。貴女がこの屋敷に訪れるなんて」
いつの間にやらカメラを取り出した射命丸・文が、興味深そうな表情を隠さぬままに腰を上げていた。取り敢えず魔理沙とリリカの写真を一枚撮るらしい。
その様子に魔理沙はげんなりとした様子を見せながら、
「珍しいって、どうしてお前がそんな事を知ってるんだよ。……って、まさかお前、まだ私の周りを嗅ぎ回ってるのか?!」
「当然です。事件を起こしたり、異変を解決にしに行ってみたりと、記事になりそうな事の中心にはいつも貴女がいるんです。そういった人物をマークするのは当然の事でしょう?」
ふふん。とさも当たり前だ、と言わんばかりに文は言う。魔理沙はその様子に肩を落とし、
「このストーカー天狗め……」
小さく言って、そのままふらりふらりとルナサの隣へ。彼女も可哀想ね、と思うルナサへと、魔理沙が視線を向け――いや、それどころか顔ごと寄せて来た。そのまま抱き付くようにルナサの耳元へと口を寄せ、
「咲夜から聞いたぜ、ルナサ『お姉ちゃん』」
「――ッ?!」
思わず顔を引くと、しかしそこには少し不安げな表情を浮かべた魔理沙の姿があった。
「や、別にからかうつもりは無いんだ。ただ、私も姉ってのを知らないからさ。だから、出来ればで良いんだが、少しの間だけ――」
と、そう語る魔理沙の表情は、普段の巫山戯たものとは違った、年頃の少女のものだった。彼女はルナサの思う『姉』になる素質はあっても、まだまだ幼い子供なのだ。彼女も彼女なりに苦労していると聞くし、時には心を預けられる『お姉ちゃん』の存在が欲しくなってしまうのだろう。
だから、ルナサの心も少し動いて――けれど、この場にはその状況を私欲の為に楽しむ存在が一人居た。
「お姉ちゃん、ですって?」
「――射命丸、お前には関係ない」
真剣な表情で魔理沙が言い、その様子に尚更ルナサの心は揺れ動く。けれど文は――噂好きの天狗は、こういった時、敢えて空気を読まない。取材相手には礼儀正しい彼女だけれど、突っ込むべき事は突っ込んで聞いてくる。それは記者としてのポリシーなのだろう。
だから、スクープの臭いを嗅ぎ付けた時の彼女には容赦が無かった。
「いえいえ、聞き捨てなりませんねー。これは調査に向かわねばっ!」
心の底から嬉しそうに微笑んで、射命丸・文が風と消えた。彼女の発行する新聞はルナサや魔理沙といった少女達のゴシップがメインだ。その記事は民衆の興味を引けば引くほどに良く、それに被害を覚える者の心理など関係ない。
その上、幻想郷において天狗は強者であり、彼女達に喧嘩を売るのは自殺行為となる。だから、弱者であるルナサは泣き寝入りするしかないのだ。
けれど、目の前の少女は違った。霧雨・魔理沙は、自ら天狗に喧嘩を売っていける人間だった。
「ったく、話の途中だってのに……。仕方ない、まずは耳聡い天狗を止めてくるぜ」
「魔理沙……」
「ルナサお姉ちゃんは私んだ。天狗なんぞに邪魔されて堪るか!」
「魔理沙ー?!」
流石に『お持ち帰り』は無理だから――! そう叫び掛けた時には、もう魔理沙の姿は無かった。その行動の素早さに彼女の本気が窺えて、ルナサの心に不安が過ぎる。
とはいえ、これが自分の生活を変えるほどの大騒動に発展するとは、この時のルナサには想像も出来なかった。
■
二日後。
魔理沙が文に負けたのだという事を、ルナサは配られてきた号外にて知る事となった。
その一面には自分の、いつ撮られたのか全く記憶に無い笑顔の写真(憎らしいが可愛らしく撮れている)と共に、「今日からみんなの『お姉ちゃん』!」という意味の解らない見出しが乗っかっていた。
全く読む気がしないので、取り敢えずメルランに渡してみる。すると彼女は大爆笑を始め、腹を抱えて笑い出してしまった。その様子にリリカが記事を覗き込み、そして噴出した。
「これ凄いよ。ルナサ姉さんの事が五割り増しぐらいに書いてある」
「それ、笑うところ?」
「もしメルラン姉さんが『一目見ただけで目を奪われるような絶世の美女であり、可憐でおしとやかで物静かである』とか書かれてたらどうする?」
「それは……笑うわね」
というか、噴出すのは間違いない。そう思うルナサに、リリカは「でしょう?」と微笑み、
「この記事はそんな感じなの。で、姉さんがみんなに『お姉ちゃん』と呼ばれても良いと思ってる、って書いてあるわ」
「……とんだ失態ね」
恐らく文は負けた魔理沙から情報を聞き出し、紅魔館へと向かったのだろう。そしてそこで数日前の演奏会の事を聞き出し、ルナサが『お姉ちゃん』と呼ばれる事に対して難色を示していないという部分を誇張し、記事にまでしてみせた。
この時点で、この号外は幻想郷の各所へと配られてしまっている筈だ。こうなってしまった以上、ルナサは様々な相手から『お姉ちゃん』と呼ばれる事になる。
最早事態はルナサの手を離れ、収拾出来ない状況にまで広まってしまっていた。
「……二日後の演奏、どうしようかしら」
思い浮かぶのは魔理沙と、そしてレミリアの姿。こんな状況になってしまった以上、ルナサへと与えられる『お姉ちゃん』という言葉はとても軽いものになってしまった。真剣に『お姉ちゃん』と呼んでくれた彼女達には、これは悲しい出来事になるだろう。
どんどんと、心が沈んでいくのを感じる。メルランの笑い声はまだ止まない。リリカは何度も号外の記事を読み直している。
嗚呼、私達の明日はどっちだ。
そう思いながら、ルナサは遣る瀬無さと共に目を閉じ――
■
――目を開く。
あの号外が発行されてから、早くも一ヶ月が経った。その間に様々な出来事があり、それはルナサの気分をダウナーなものへと変えてくれた。
それでも魔理沙とレミリアはそんな状況を気にしないかのように、ルナサの事を心から『お姉ちゃん』と呼んでくれて、荒んだ心に癒しを与えてくれていた(ルナサが思っていた以上に彼女達は強く、そして甲斐甲斐しい存在だったのだ)。
そんな中で、ルナサ・プリズムリバーは考える。天狗の新聞に載ったとはいえ、自分は『お姉ちゃん』と呼ばれ過ぎだ、と。
今や彼女は、どこへ行っても『お姉ちゃん』、何をしていても『お姉ちゃん』な状況だった。それを人間から呼ばれるならまだしも、明らかに自分よりも年長の大妖怪に「あら、ルナサお姉ちゃんじゃない」などと言われると、ルナサはへにゃん、となる。やる気がしぼむというか、勢いが削がれるというか、そんな感じになってしまうのだ。
だから、そう。『お姉ちゃん』という呼称がここまでの拡がりをみせた原因は、この幻想郷自体が『姉』を求めているから、なのかもしれない。
「というより、それが正解……?」
年長者の妖怪になればなるほど、他者から一目置かれる存在となり、誰かに甘えたりする事が出来なくなってしまう。そういった心の穴に、『お姉ちゃん』という存在はすっぽり埋まったのかもしれない。
当人に自覚が無くても、一千年以上の孤独は確実に心へと影響を及ぼす。六十年周期でリセットが掛かるとしても、その根底にある孤独や闇といったものまでは払拭しきれないものだ。
だからこその、『お姉ちゃん』。甘える事が出来て、けれどしっかりこちらを叱ってくれる、少し年上の存在。
最後の年齢だけは別にしろ、妖怪達がそれを求めているのは確かなのかもしれない。
「……」
が、しかし、だ。だからといってルナサに出来る事は無い。『お姉ちゃん』と呼ばれる度に微笑みを返し、時折その頭を撫でてやれるぐらいだ。本当はもっと構った方が、姉離れに繋がってくれるのかもしれないが……今のルナサには、そんな暇も無い状況だった。
何故なら、今やルナサの――プリズムリバー三姉妹の名は、幻想郷で知らぬ者が居ないほどに有名になっているのだから。
そしてこれこそが、この一ヶ月の間にあった『様々な出来事』の大半を占めていた。
「……取り敢えず、今は演奏に集中しないと」
自分へと戒めるように言って、ルナサは周囲に浮かべたヴァイオリン達に改めて意識を向けた。
以前のように、ルナサの気分で会場を変えるのは変わらないままであるものの、最近では毎日のように演奏を繰り返す日々が続いていた。正直、ルナサはこんな形で自分が目立つようになるとは全く予想していなかった。
だからそう、見方を変えれば、これは怪我の功名なのかもしれなかった。天狗の新聞によって引き起こされた『怪我』は、しかし知名度の爆発的な上昇という『功名』を得られたのだから。これにより、プリズムリバー三姉妹の、特にルナサの演奏を聞きたいという声は今までの数十倍に膨れ上がり、彼女達のスケジュールは一気に過密なものへと変化していったのだった。
……けれど、やはり、会場から聞こえて来る『お姉ちゃん』コールには心が痛んでしまう。これはもうアイドル扱いされているのと同じなのではないかと、そんな事を思い、しかし以前から似たような状況だった事を思い出す。
元々、ルナサ達は個人のファン倶楽部が存在するほどにコアな人気があったのだ。それが今回の『お姉ちゃん』騒動で爆発し、一気にアイドルのような『楽曲以上に、個人に対する興味が強い状況』へとシフトしたのだろう。
ルナサにはそれが良い事なのか悪い事なのかは解らない。けれど、彼女の胸には、木枯らしのような諦めの風が吹くのだった……
――そうして演奏が終わって、一時間ほどの休憩時間に入った。このあとは夜の部だ。
がやがやと昼の部の観客が移動していく中、ステージの裏手へと引っ込んだところで、三姉妹へと声が掛かった。
「お疲れさま」
それに視線を向けると、そこには微笑んで立つ十六夜・咲夜と、日傘を持ったレミリア・スカーレットの姿があった。彼女は満足げな表情と共に日傘をくるりと回すと、
「今日の演奏も素晴らしいものだったわ」
混じり気の無い、純粋な称賛に気恥ずかしさを感じながら、姉妹はそれぞれ返事を返す。どんなに演奏の回数を重ねようと、やはり称賛以上の報酬はなかった。それを感じながら、ルナサは能力を使って楽器達をケースに戻そうとし――力加減を間違え、普段から愛用しているヴァイオリンを床に叩き付けそうになった。
「だ、大丈夫?」
慌てた様子で聞いてくる咲夜に「大丈夫」と小さく告げて、ヴァイオリンを手に取ると、そのままそっとケースへと戻し蓋を閉めた。
ルナサ達は騒霊としての力を使って楽器を演奏する。パフォーマンスとしてヴァイオリンを自ら弾く事もあるものの、基本は能力任せだ。その力を連日のように使っている為か、自分で思っている以上に疲れが溜まっているらしい。
いや、疲れるのも当たり前なのだ。連日のように人妖から『お姉ちゃん』と呼ばれ続け、それに対して不慣れな微笑みを返し続けている。結果的にそれは精神的な疲労と自己嫌悪を生み出し、鬱症状を引き起こしていた。しかしそこから復帰する事も出来ないまま、今日も無理矢理に演奏を行っているような状況だ。
ここままでは不味い。まだ演奏自体に苦痛は伴っていないものの、どこかでガス抜きをしないと、能力すら使えないほどに潰れてしまう可能性があった。
とはいえ、一時間後には夜の部が控えている。正直帰って眠りたいのだけれど、ルナサ達にはそんな暇すらありはしない。気力で乗り切るしかない……そうルナサが思ったところで、不安げにこちらを見つめるレミリアの姿が見えた。
他人を心配する、という事に慣れていないのだろう彼女は、何か言いたげで、それでも上手く言葉が見付からない様子だった。舞台裏の日陰では必要ないのか、日傘から抜け出したその姿は普段より幼く見えて……ふと、ルナサの頭にある事が浮かんだ。
普段ならば決して思い浮かばないような事だ。けれど今の彼女は精神的にかなり参っていて、自分を上手くコントロール出来ない状況にいた。だから、
「レミリアさん、少し良いですか?」
「……」
問い掛けると、何故かレミリアは答えてくれない。ここ最近はいつもこうで、こういったところが『我が儘』と言われる由縁なのだろうな、とルナサは思いながら、
「レミリア、ちょっと良い?」
「なに、ルナサお姉ちゃん」
「こっち来て。……そう、私の前」
ルナサの様子が心配だったのもあったのか、素直にレミリアがやって来た。ルナサはそんな彼女の正面に立ち――前触れ無く、その小さな体を抱き締めた。
「お、お姉ちゃ――?!」
「……」
驚きに固まるレミリアを半ば無視するように、ぎゅうっと力を籠める。彼女の体はルナサの腕の中にすっぽり収まってしまうほどに小さくて、けれどそこに暖かさは全く無い。それなのにそこから確かな熱を感じて、だからルナサは自分の心が安らぐのを感じた。
対するレミリアは驚きながらも、決してルナサを突き飛ばすような事はせず、むしろどうしてこんな状況になっているのかと目を白黒させながら、
「ちょ、ちょっと!」
「……」
「うー……」
観念したのか、真っ赤な顔をしたまま体から力を抜いた。そしてその腕がルナサの体を抱き返す。
それに嬉しくなりながら、ルナサの中の冷静な部分が、さて自分はどうしてこんな行動に移ったのかと考え始めた。
これは恐らく、初めてレミリアに『お姉ちゃん』と呼ばれた時に感じた感覚と同じだ。ルナサの中にある『姉』としての幻想は、幼い妹の相手をした事が無かった。そんなルナサの『姉』の部分が、『幼い妹』との触れ合いを強く求めてしまったのだろう。
だからこれは、実際にはレイラがやりたかった事なのかもしれない。彼女は四姉妹の末っ子だったから、どこかに『姉』というものに対する憧れがあった筈だ。その気持ちが、ルナサという騒霊を生み出した時にフィードバックされていたとしてもおかしくなかった。
同じように、レミリアにも『姉』に対する憧れがあるのだろう。ただしそれは、本来は成り得ない妹目線での、甘えたいという方向の憧れだ。だからこの状況は、言ってしまえば利害が一致しただけの事。でも、そこには確かに『姉妹』としての感情があるような気がして……そんな風にまで考えてしまう自分に、ルナサは驚きを隠せなかった。
でも、と思う。
誰かに甘えたり、そしてそれを受け止めたいと思う気持ちに、種族や年齢など関係ない。妖怪だって人の子で、『姉』である自分がそれを受け止めるのはなんら自然の事に思えた。
そうしたら、なんだか少しだけ気分が楽になってきて。
「……」
これから自分の事を『お姉ちゃん』と呼ぶ相手と出逢った時は、もっと親身に接しよう。ルナサはそう思いながら、そっと抱擁を解いた。
「突然ごめんね、レミリア」
「べ、別に、気にしてないわ」
視線を逸らし、真っ赤な顔でレミリアが言う。その姿を可愛らしく思いながら、ルナサはこの奇妙な『姉妹』関係がこれからも続いていけば良いと願った。
と、不意に視線を感じて顔を上げると、実の妹達と目が合った。メルランは微笑ましげな眼をしていて、しかしリリカの方はどこか不安げな、淋しげな色があった。そしてその視線がルナサと合うと、彼女は少し慌てた様子で視線を逸らし、キーボードのチェックへと戻ってしまった。
一体どうしたのだろう。ルナサはそう思いながら声を掛けようとして、しかしレミリアにそれを止められてしまった。そのまま彼女と話をし、次の演奏で使う予定の楽器をチェックしている内に、休憩時間は終わりを迎えてしまっていた。
そうしてやってきた夜の部の時には、リリカは元気を取り戻していた。けれど姉であるルナサから見ると、そこには少しだけ無理をしているような空気が感じられて、けれど頑張ろうとしている彼女に対して根掘り葉掘り話を聞く事は出来なかった。
けれどこの頃から、確実に、リリカから少しずつ元気が失われ始めていた。
それでも演奏会は毎日のように行われ、日々のスケジュールはどんどんと過密になっていく。
幻想郷には娯楽が少なく、だからこそ暇を持て余した妖怪が異変を起こす。けれどこうして幻想郷中が浮かれている間は何の異変も起きない為、人間は大いにこの状況を喜び、そして妖怪も今の状況を心から楽しんでいた。
しかし、演奏する方には疲労が溜まる。生きていないとはいえ、疲れるものは疲れるのだ。
だからルナサは、リリカにも疲れが出始めているのだと思っていた。『鬱』と『躁』の音色を操る姉達を抑え、纏める役割に居るリリカは、ただ演奏に集中する以上に精神力を使っている。それを緩和する為にルナサも頑張ってはいるのだけれど、やはりメルランの音色に引っ張られてしまうのだ。
そしてその日――里で開かれた収穫祭での演奏時も、メルランのトランペットは高らかにその音色を響かせていた。
■
「さぁ、みんなもっとハッピーになろうっ!」
そんなメルランの楽しげな声が聞こえた気がした瞬間、彼女はぐるぐると周囲を廻るトランペットの一つを手に取っていた。
そして、軽快な音色が鳴り響く。
場のテンションは一気に高まり、それを抑える筈のルナサの音色も暴走し、次第に会場全体が混乱の坩堝へと落下していく。それにリリカが慌てた様子を見せ、ルナサへと口を開き掛け――不意に視線を逸らした。その様子に気付いた瞬間、ルナサは自身がメルランの音色に引っ張られていた事に気付き、どうにかその音色を抑えこんでいく。
けれど、どうしてリリカが視線を逸らしたのか解らない。もしかして、何かあったのだろうか――と、そう意識が別の部分に向いた瞬間、抑え切れなかったメルランの音色が一気に溢れ出した。
会場は強制的に躁状態へと押し上げれられ、怒濤の盛り上がりをみせていく。こうなってしまうと、もう曲調を抑えていくのは難しくなる。
それでもどうにか演奏を終えると、あとに残ったのは激しい興奮。けれどそれはメルランの力によって引き起こされた部分が多く、観客の大半は、あとになってその反動のように気分が落ち込んでしまう事になるだろう。
この楽曲で一度プリズムリバー三姉妹は休憩に入る。次の演奏は観客を全て入れ替えてから行われる予定だ。興奮冷めやらぬといった観客達に笑みを向けて舞台裏へと戻りながら、ルナサは今回の演奏を『失敗』だと判断していた。
好き勝手に演奏出来ていた頃とは違い、今は求められるレベルが高くなってしまっている(それもまた『お姉ちゃん』効果の生み出した産物なのだけれど)。だからこそ、メルランを暴走させる訳には行かず、彼女の音色によって観客のテンションを強制的に引き上げる訳にはいかなかった。妖怪にならまだしも、人間相手の場合、ルナサとメルランの音色はその精神に悪い影響を与えてしまう事があるからだ。しかも今回のステージは人里であり、観客の大半が人間だ。だからこそこの失敗は、後に上白沢・慧音あたりから文句を言われる要因になる可能性が高かった。そしてそれは、スキャンダルとして天狗に素っ破抜かれる要因にもなりかねない。いくらこの状況が大変だと言っても、やはり自分達の活動が評価されるのは純粋に嬉しく、だからこそそういったミスからの失墜はルナサ達が一番忌避するものでもあった。
だからルナサは舞台裏へと戻ると、未だに楽しそうに笑っているメルランへと声を掛けた。
「――メルラン」
思ったよりも冷たくなったその声に、浮かれ顔だった妹の表情が一瞬で凍りついた。
「練習の時なら未だしも、本番では暴走しないように抑える……そう約束したわよね」
「そ、それは、その……」
「貴女を抑えられなかった私も悪いわ。でも、自重を怠って良い理由にはならない」
「だ、だけど、たまには発散しないと! 最近は演奏する回数も多いし、姉さんだって疲れが溜まってるでしょう?! だから、私がこうして、その……その……」
「メルラン?」
「……ごめんなさい」
ルナサに気圧されたのか、或いは高まっていたテンションが下がり冷静さが戻ってきたのか、しょんぼりとした様子でメルランがうな垂れる。彼女はリリカと同じように『三姉妹の中で自分が一番である』という意識が強い。だからこそ、自分の判断で暴走し易く、結果的に失敗してしまう事も多いのだ。
それを解っているからこそ、ルナサは強く叱らない。それに、何度も言わなければ解らないほど、メルランは愚かではないのだから。
そう思うルナサの前で、メルランが顔を上げ、
「でも、」
「ん……?」
「忙しい状況だけど、姉さんはちゃんと私の事を解ってくれてるのよね。……なんだろ、疲れてるのは私の方なのかも」
言って、メルランが照れたように笑う。
途端、ルナサは何も言えなくなった。
ここ最近、三姉妹を取り巻く状況は大きく変わった。長女であるルナサが『お姉ちゃん』と呼ばれ始め、様々な人に声を掛けられるようになった。同時に、レミリアや魔理沙を抱き締めたりと、奇妙な『姉妹』関係を築いてもいた。
そして気付くのは、メルランとリリカに対して――実際の妹である二人に対して、『姉』らしい事を殆どしていなかった、という事実。
家族としての生活も、今では連日の演奏で狂いつつある。それほどまでに今のルナサ達は忙しい。娯楽の少ない幻想郷だから、一度火が付くと凄まじい事になるのだ。その為、ゆっくり屋敷で休む、という事すら少なくなっていた。
口を開けば次の演奏についての事ばかりを話し、検討していく。そんな毎日がいつの間にか当たり前になっていて、けれどルナサだけは皆の『お姉ちゃん』として存在し続けていた。
それは、妹達への裏切りには、ならないだろうか。
「……」
楽器の調子を見始めたメルランの向こう。そこに居るリリカの不安げな姿を見て、ルナサはその思いを更に強くする。
もしかしたら、リリカは淋しがっているのかもしれない。
以前まで、『ルナサお姉ちゃん』という呼称は、ライブの時にリリカだけが使う特別なものだった。それが一気に崩れ出し、誰も彼もルナサの事を『お姉ちゃん』と呼び始め――その上、ルナサはレミリア達ばかりを構い、本来行うべき姉妹のスキンシップすらも取っていない日々が続いていた。
リリカが特別にお姉ちゃん子だった訳では無い。けれど、彼女からしてみれば、ルナサは自分の姉なのだ。それを横取りするようなレミリア達に対して思うところがあってもおかしくない。むしろこれは嫌われても仕方の無いような状況だった。
けれど、そうなっていないところを考えると、リリカはまだルナサを姉として慕ってくれていて――だからこそ、そこに不安や淋しさを感じてしまっているのだろう。
そう考えたところで、ルナサの唇は自然と開いていた。
「リリカ、ちょっと良い?」
「え?」
「最近は忙しかったから、こうしてちゃんと話をする事も出来なかったでしょう。だから、何か悩んでいる事があるなら、言ってほしいの」
ルナサの言葉に、リリカは表情を驚きに染め、しかし、
「メルラン姉さんの言う通りだね……。私の事も、ルナサ姉さんには筒抜けなんだ」
諦めにも似た表情で、小さく笑う。そして彼女は表情を改めると、ルナサの正面にまでやって来た。
そして、一度深く頭を下げ、
「ごめんなさい! 私、まさかこんな状況になるなんて思ってもいなかったの。こんなにもルナサ姉さんが人気者になるなんて、考えられられなくて……」
「リリカ……」
謝るような事なんて何一つ無い。むしろ悪いのは、妹達の事を疎かにしてきた私の方なのだから……。そう思うルナサの前で、リリカは罪を告白する子供のように表情を歪めた。そして彼女は、『ルナサ姉さんを『お姉ちゃん』って呼んで良いのは私だけだったのに……!』と涙を流しはじ――
「――天狗に話をしたの、私なの!」
――そしてルナサはリリカを抱きし――って?
「――え?」
想像とは全く違う状況に、思わず伸ばしかけていた腕が止まった。そんなルナサを前に、リリカは怒られるのを恐れるような顔で、
「だ、だから、一ヵ月前の号外があったでしょ? あれ、本当は魔理沙が天狗に話したんじゃなくて、私が話をしたの。紅魔館での様子を見て、閃いたのよ。これなら私達の知名度を上げられる! ってね。……でも、まさかこんなにも忙しくなるとは思わなくて……」
「……」
「怒ってる、よね……?」
リリカが何を言っているのか、ルナサには少しの間理解出来なかった。
リリカ・プリズムリバーはお姉ちゃん子では無い。むしろルナサが想っている以上に、彼女は強かな少女だったようだ。
それでも、ルナサは妹へと問い掛ける。
「……さ、最近、元気が無かったわよね?」
「あれは、その、この事がバレるのが怖かったっていうのと……あと、実はキーボードの調子が悪くて」
ルナサ達は実際の楽器では無く、その楽器の幽霊を扱って演奏している。しかし、幽霊といえど実物の楽器のように故障を起こしたり、音が悪くなる事がある。ここ最近は演奏の回数も多く、楽器を酷使している状況だった為、それがリリカの不安の種になっていたらしい。
先ほどの演奏の時に視線を逸らしたのは、キーボードの調子が気になってしまったからなのだろう。
「でも、まだまだ大丈夫! 一休みしたら頑張れるよ!」
「……」
「……ご、ごめんなさい。やっぱり怒って……」
「そういう訳じゃないわ。……そういう訳じゃないの」
微笑んでそう言って、上目遣いでこちらを見つめるリリカの頭を軽く撫でる。それに嬉しげな、そしてほっとした表情を見せる彼女に、しかしルナサは少し悲しくなっていた。
ルナサが想像していた、リリカは淋しいのではないか、というのは全て錯覚だったのだ。それはメルランに対しても同様で、つまりそれは、ルナサが思う以上に姉妹の結束が強かった、という事でもある。
では、何故こんなにも悲しいのだろう。
それを考えながら、ルナサは「私も私もー」と寄ってきたメルランの頭を撫でて、そのまま二人の妹を一緒に抱き締めてみた。ぎゅうっと力を籠めると、二人の手が自分の背中にまわって来て、同じように強く抱き締められた。
ルナサ・プリズムリバーは、『姉』という幻想を与えられただけの、ただの騒霊だ。けれど彼女にとっては、それがアイデンティティでもある。『姉』として生きる以外の生き方を彼女は知らないし、知ろうともしなかった。何よりもレイラ・プリズムリバーという少女の為に、優しい騒霊は『姉』である事を決めたのだ。
だから三姉妹の関係は特別なものだったし、永遠に不変なものだと思っていた。
けれど、こんな状況になった。誰某構わず『お姉ちゃん』と呼ばれるようになり、奇妙な『姉妹』関係まで生まれた。そこでルナサが感じたのは『姉』という存在の包容力と、それを求める者達の淋しさ。それを知ったから、彼女は尚更『お姉ちゃん』であろうとし始めた。
しかし、実際にはもう一つの事にも気付いていたのだ。それが、妹という存在の重要性だった。
自分が『姉』である為には、妹が必要になる。そして『ルナサ・プリズムリバー』という『姉』を構成する『妹』は、レミリアや魔理沙のような幼い妹では無く、ルナサと共にレイラから幻想を与えられたメルランとリリカの二人だったのだ。
幻想郷に拡がる『お姉ちゃん』ブームを肯定的に受け入れた。レミリアや魔理沙とも暖かな関係を築けている。けれど、自分が本当は誰の『お姉ちゃん』なのか――いや、違う。レイラ・プリズムリバーに生み出された騒霊の少女は、一体誰の『お姉ちゃん』でありたいのか。それが不明瞭になっていた。
「……」
鬱の音色を奏でるルナサは、時折自分の音色に引っ張られるように暗く沈んだ感情に囚われる事がある。そんな時に思うのが、自分自身、というものについてだ。
騒霊というのは、その名前の通り騒がしい幽霊のこと。騒がしさが消えてしまえは、騒霊もまた消えてしまう。そんな存在なのにも拘らず、ルナサの奏でる音色は『騒がしさ』とは正反対の、言わば『静まる』音だ。騒がねばならないのに、静けさしか生み出せない。それはまるで、自ら消滅へと向かっているようでもあった。
そんな事を時折考えてしまう彼女を救うのが、メルランの躁の音色であり、そしてリリカの音楽だった。
特にリリカは幻想の音色を生み出す。それは騒がしさも静けさも表現出来る、本来の楽器が持つ能力の進化系。その存在は、ルナサの心にとって大きな支えになっていたのだ。
そんな彼女から与えられる『お姉ちゃん』が、ルナサはとても好きだった。メルランからの『姉さん』も同じだ。だからこそ、全ての切っ掛けとなった紅魔館でのひと時の際、二人の妹が反対する素振りを見せなかったのが、ルナサには辛かったのだ。けれど本人はそんな心の変化に気付かず、『お姉ちゃん』として振舞い続けた。
だからそう、彼女はみんなの『お姉ちゃん』であろうとしていたのではなく、『姉』として妹達に振り向いて欲しかっただけだったのだ。
ルナサはその事に気付き――そして、その事に今の今まで気付けなかった自分が情けなく、姉として失格で、だからとても悲しくて悔しい。
と、そんなルナサの頭をメルランが優しく撫で、
「……ごめんね、姉さん」
「ルナサ姉さん、淋しかったんだね」
そんな言葉と共に、リリカの手が伸びてきて――自分が泣いている事に、ルナサはそこで初めて気が付いた。そうしたら、あとはもう止まらなくなってしまって。
静かに涙を流しながら、ルナサは二人の妹に抱かれ続けた。
こんなにも涙が溢れるのは、二人が大好きで堪らないからだ。だからルナサは自然に涙が引くまで泣き続けて……そして、真っ赤になった目元を拭うと、小さくリリカへと問い掛ける。
「ねぇリリカ」
「なに、姉さん」
「これからも、私を『お姉ちゃん』って呼んでくれる?」
ルナサの言葉に、リリカは「変な事聞くね」と笑い、
「私の『お姉ちゃん』はルナサ姉さんだけだよ? ……あー、その、メルラン姉さんはなんか『お姉ちゃん』って感じじゃないんだよね」
「ちょっとリリカ、それどういう事?」
「おしとやかさが足りないって言うか、なんて言うか……」
「ひどーい! 姉さん、リリカが虐める!」
ぷりぷり怒りながらメルランが言い、リリカが隣で楽しげに笑う。
その様子がとても暖かくて、嬉しくて、ルナサは自然と微笑んでいた。
自分達は姉妹で、その関係はこれからも変わらず続いていく。いつか『お姉ちゃん』ブームが消え去ろうと、それは変わらない。
ルナサ・プリズムリバーは、二人の妹を持つ『お姉ちゃん』であり続けるのだ。
■
そうして、次の演奏の時間がやって来た。
妹達と準備を整え、ルナサは会場へと入っていく。観客から上がる声援には当然のように『お姉ちゃん』コールがあって、席にはレミリア達の姿も見えた。
そんな彼女達にルナサは微笑む。みんなの『お姉ちゃん』として――そして、プリズムリバー三姉妹の長女として。
そして、ステージの中心に立つ。このステージは、ルナサのソロから始めると三人で決めた。
空中に浮遊させず、ヴァイオリンを構えながら、右手に持った弓を引き――そこから奏でられるのは、ルナサらしい静かな音色。
けれど今日からは、自分にも騒がしく幻想的な音楽が、奏でられるような気がした。
end
魔理沙がお姉ちゃんって呼びたい理由というのがなんとなく解るような……。
真剣な表情で文に発言する様はそれを如実に表していたのかな・・・と思いました。
ルナサはリリカが不安そうな顔をしていることに悩んで、でも実際の悩みとは少し違っていたけど
それでもまた姉妹としての絆を確かめられたりとか。
とても素敵なお話でした。
序盤の考察が過客観的といいますか
若干「幻想郷外」からの視点に偏ってるように感じられましたが
しかしそんな瑣末なことは問題にならないくらいレミリアが可愛いかったですw
もうお姉ちゃんしか見えない。
そのお姉ちゃん達の一番お姉ちゃん、大変なのは当然ですな
とりあえずお姉ちゃん好きだ結婚してくれ
そして妹になったレミリアも可愛いなぁ。
お姉ちゃんと妹達かわいすぎる・・・
だいしゅきぃぃぃぃっ!
そんなシャウトがしたくなる、良作でした。それにしてもルナレミは悶えるなぁ。
シヤワセ。
もともとルナサ派だっただけにこの威力はしゃれになってないぜ・・・!
このルナサお姉ちゃんの破壊力は異常、私の脳がががとろけるぅ。
いやしかし甘えるレミリアもいいものだなぁ。
ルナサは原作(ゲーム)に出てくる姉妹キャラの中で最も姉らしいキャラだと思う。扱いが妹に負けてないし。
そんな兄貴の独り言。
甘いよぉ!物凄い甘いよお!おねえちゃあああん!