病的なまでに整頓されている、我が主、紫さまの書斎。
掃除をしようと私室に入ると、一冊の小汚いノートが、テーブルの上に置かれていた。
物を出したままどこかへ行くなんて、神経質な紫さまらしくない。
そう思いつつも、彼女だって完璧な妖怪ではないのだと思いなおした。
しかし、もう陽も傾く時刻だというのに、紫さまの姿はどこにも見えない。
普段ならば、居間でご飯ができるのを、体をぐにゃぐにゃさせながら待っているはずなのに。
そういえば、朝起こしに来たときも、既に布団は畳まれていた。
らしくない。
そもそも、どこかへ出かけるのならば、一言私に断っていくはずなのに。
引っかかる気持ちを抑えながら、必要なもの以外何も置かれていない、殺風景な室内を乾拭きする。
この書斎だけが、和風の建物に似合わぬフローリング。
紫さまはたいてい、居間でぐでーと伸びているだけの典型的ダメ妖怪なのだが、考えごとがあるときにはこの書斎へと閉じこもる。
最近の紫さまは、この書斎に閉じこもっているか、どこかへと出かけてしまうかのどちらか。
何も話してくれないのが寂しいけれど、もうじきなさなければいけないあのことについて、お悩みになっているのかもしれない。
キュっと胸の奥が締め付けられた。
紫さまの悩む場所には、私が介在する隙間はない。
その事実がどうしようもなく辛くって、机を拭く手がいつか止まっていた。
「藍?」
「きゃっ! は、はい!」
「なぁにぼーっとして。やることがあったらそれをする、そうじゃなかったらできることを探す。ぼーっとしてるなんて非合理的よ」
「す、すみません紫さま」
いつのまにか、紫さまが後ろに立っていた。
大方隙間を抜けてきたのだろうが、毎度のことながら突然すぎる。
紫さまは私の至らぬ態度に不満気な顔をして、急に暗い表情になってしまった。
咄嗟に私は頭を下げようとしたのだが、紫さまの言葉は予想したものとは違っていた。
「藍、あなたはずーっと、私と一緒にいてくれるわよね?」
「え、は、はい!」
「……そう、ありがとう、藍」
一瞬だけ寂しげな目線を向けた紫さまは、そのまま身を翻し、居間のほうへと消えていってしまった。
「……紫さま」
その背を見送った私は、どうしようもなく惨めだった。
私は大切な方の心の内にも踏み込めやしない、踏み込む勇気を持ち合わせていない臆病者だ。
西行寺幽々子なら、紫さまのお悩みまで引き出して慰められるかもしれない。
だが私はどうだろうか? ずっと式として仕えている身だが、私は自らの式さえも満足に使役できていない。
私は、紫さまの式として満足してもらえているのだろうか?
余計なことまで考えてしまって、邪念を振り払うために必死になって手を動かした。
私は、支えにもなれない駄目な式神だ。
◆
しんしんと雪の降りしきる頃。
博麗神社の境内もその例外ではなく雪が降り積もっており、その主も必要以上に雪をどかすことは諦めているような状況であった。
雪が厚塗りのおしろいみたいに降り重なっている中で、一際、異彩を放つ大きな物があった。
黒光りする大鍋が、どでんと存在感を示している。
「よくもまぁ……。こんなものを持ってきたわね」
博麗神社の主である、博麗霊夢は呆れて白いため息を吐いた。
寒いからこそ、外で鍋をしようと提案されたとき、霊夢は室内でつつけばいいじゃないかと反論したクチだ。
わざわざ寒い中でやることに、乗り気ではなかった。
「いいじゃないか、外のほうがいっぱい集まるし楽しいと思うぜ」
提案した張本人である、霧雨魔理沙はそういって笑って見せた。
彼女はキノコを大量に収穫し、それを鍋に入れるのだといって憚らない。
魔法の森に自生しているキノコは、もちろん食用のものもたくさんあるにはあるのだが、毒キノコもそれ相応に多い。
不安を覚えながらも、まぁ自分に当たらなければいいやという楽観的な霊夢だった。
「しっかし、でっかい鍋だなー」
「河童にわざわざ注文したんですって。このためだけに」
「へぇ、紫も気の利いたことをするんじゃないか」
魔理沙はそういって、鍋の外周へと自分の腕を広げてひっついた。
三人、四人で手を繋がなくては、覆うことができないだろう。
「一体何人くるのかしらね……」
「そんなに多くはないと思うぜ? 八雲一家と白玉楼と、あとはアリスが遅れてくるみたいだな」
「幽々子が来るだけで、もう十人分は軽いわよ」
霊夢は幽々子の食べっぷりを思い出して軽く辟易をした。
以前宴会を開いたときも、幽々子の食べっぷりたるは鬼神の如く。
従者である妖夢が、所在なさげに目線を泳がせている様は気の毒だったが、主の暴走を止めるのも従者の務めだと思う。
へべれけに酔った紫を膝枕して団扇で扇いでいた藍のように、立派に務めて頂きたいものだ。
「でもまぁ幽々子は、面白い奴だしな」
魔理沙がニカっと笑って、幽々子のことを擁護する。
それに関しては、霊夢も頷いて見せた。
琴や舞い、どれを取っても超一流の余興を持っていて、それをしているときはまるで別人の様。
聞いているだけ、見ているだけで、シャンと背筋が伸びる代物だった。
「とりあえず、鍋に水を満たそうぜ。何往復もしなきゃ一杯にならないだろうし」
「紫がなんとかしてくれるんじゃない? 便利な隙間を持ってるし」
「あぁー……。それもそうか、じゃあ、あいつらが来るのをのんびり待とうぜ。なんだか、体が冷えちまったい」
「そりゃ外に居たら冷えるわよ……。お茶でも淹れてくるから、炬燵で待ってなさいな」
二人が居間へと戻ると、そこでは紫と幽々子が炬燵に入って杯を傾けていた。
藍と妖夢は部屋の隅で、居た堪れない表情をしている。
「お邪魔させてもらってるわよー」
「わよー」
紫と幽々子は、既に軽く出来上がっている。
霊夢は両名を無視して、魔理沙は爆笑しながら炬燵へと潜った。
「……邪魔な大根が炬燵に入ってるわね、炬燵に入れといたら駄目になっちゃうわ」
「あら? そこに美味しそうな蕪がなってるわね、しかも二個。鍋に入れて食べちゃおうかしら」
「おい幽々子、お前に食わせたいキノコをいっぱい持ってきたぜ、あとでお前に個人的に食わせるから覚悟しとけ」
「あら~? それは楽しみね」
一触即発の緊迫感と、ある種和やかな空気が入り混じったわけのわからない空気に、妖夢は藍へと、目線で助けを求めた。
それに対して、黙って首を振る藍。
日常茶飯事とはいえ、会うたびにこのような寸劇をされると見ているほうは寿命が縮む。
といっても、ケンカにまで発展したところですることは弾幕ゴッコで済むのだが、殺意が篭っているとしか思えないときもある
幽々子との会話が途切れ、魔理沙は蜜柑を妖夢へと放り投げた。
「そっちにいたら寒いだろ? こっちへ来いよ」
笑ってみせる魔理沙に応じて、正座を崩して隣へと座る妖夢。
ちんまりとした二人なら、炬燵に入ることもそう難しいことではなかったのだ。
対して藍は、ふわふわの尻尾を揺らして見せる。
余計な気遣いはいらない、十分に暖は取れていると微笑んで見せたのだ。
霊夢はそれを受けて、また紫の足を蹴りはじめた。
「今夜のお鍋は大根鍋よ、よかったわね紫、あんたの体が有効活用されるその日がきたのよ」
「……うるさいわねっ、それよりも、ずっと炬燵に入ったままじゃぁ、いつまで経っても鍋は煮えないわよ」
「はいはい……じゃあみんなで作りましょうかね」
霊夢の言葉に、全員が一様に頷いた。
それぞれ、名残惜しげにモゾモゾと炬燵を這い出し、震えながら大鍋の前へと集まる六名。
「藍ー、尻尾モフモフさせてー」
「紫さま、きちんとなさってくれないと私が恥ずかしいのですが……」
構わず尻尾に抱きつく紫、その様子を、妖夢が指を咥えて眺めていた。
「妖夢?」
「へっ! ゆ、幽々子さまなんでもないんですよ!? ちょっとぼーっとしてただけですからっ!」
「もう、妖夢ったら可愛い」
「あうううううう」
抱きしめられた妖夢は、手足をバタバタさせて逃れようとしていたが、幽々子は離そうとはしなかった。
霊夢と魔理沙の両名は、その様子に改めてため息をついた。
「どうしようもないぜ、一体幻想郷の風紀ってのはどうなってるんだ」
「平和ってことなんでしょうけどね」
「全くだぜ、にしてもアリス遅いな……ま、どうせあいつのことだ、ごめんごめん遅くなっちゃったとかいって小走りで駆けてくるんだ」
「よくわかるわね、アリスのこと」
「まぁな、あいつの行動は類型化できるんだ。さすがは都会派だな」
そういって五分もしないうちに、アリスが慌てて飛んできた。
挨拶は当然の如く「ごめんごめん遅くなっちゃった」と言い、全員が吹き出したのは言うまでもない。
鍋を作るに当たり、自然と役割分担がなされた。
妖夢と藍が食材の切り分け、他は交代で、火の番を務めることになった。
まだ陽は高いため、のんびりと作業をしていても十分に間に合う。
炬燵に入り、和気藹々と世間話に花を咲かせている中で、ただ一人紫だけが、物憂げな表情をしていた。
しかし、その場の誰もが、そのことには気づけなかった。
◆
「紫さま」
「なぁに、藍」
「部屋の掃除が済みました」
「そ」
紫さまは、相変わらず炬燵に入りながらぼうっと蜜柑の皮を剥いている。
剥いているのに、実には手を付けていない、それが三つも机の上に並んでいた。
一体何が目的で蜜柑の皮を剥いているのか理解し難かったが、悩んでいることだけはハッキリとわかった。
唾を飲み込んで頬を叩き、私は話を切り出した。
「紫さまは、私を式として認めてくださっていますか?」
「……?」
「紫さま、私は不安なのです。紫さまがお悩みになっていることを話してくださらないことが。
私が式として至らないばかりに、そのように一人抱え込まれてしまっていることが、悔しいのです。
私が気づかないとでもお思いですか? ずっとあなたに仕えさせて頂いているのに……。
確かに私は未熟です、紫さまの支えになるには、か細い力添えしかできないかもしれません。
けれど、私は紫さまの悩みが知りたいのです、共有したいんです。わかりますか、家族として頼られないことの侘しさが、哀しみが。
この身を捧げてから、私の心はただ一つだけ。あなたの手となり足となり、時には心の痛みも、肩代わりしたいと願っているのです。
お願いします紫さま、あなたの悩みを藍に教えてください、お願いします」
途中からは、上手く言葉を紡ぐことができなかった。
漠然とした不安だけが、私を突き動かす原動力。
紫さまはいつだって、自分独りで抱え込んでしまっている。
何もかもを上手くやろうとして、そのためなら自分を犠牲にすることすら厭わない。
そんな紫さまが大好きだったけれど、私は紫さまの道具としてすら扱ってもらえない。
「あなたの力に、なりたいのです」
畳の痕が残るほど、強く地面に頭を擦り付ける。
「藍……」
そっと、紫さまの手が頬に触れた。
ぞっとするほど、冷たい手だった。
「ありがとう……。あなたの気持ちは十二分に理解しているつもりだったけど……。
大丈夫よ、私は大丈夫だから、心配はいらないわ? だから顔をあげてちょうだい?」
「大丈夫ではないから、私は頭をこすり付けているのです!」
冷たい手からは、深い孤独だけが伝わってきた。
紫さまはお優しい方だ、自らの心をひた隠しにして、壊れそうな笑みをいつも浮かべている。
そんなあなたの優しい嘘に、はいそうですかと頷けるほど、私は物分りがよくないのです。
「優しい子ね、藍」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を、そっと胸元へと抱き寄せてくれた。
暖かな胸元が、ツンと鼻の奥を刺激して痛かった。
「大丈夫、大丈夫だから……。ただ私が、弱いだけだから、ね?」
「弱く、なんか、ないのれす……」
何度も言葉が引っかかってしまった。
紫さまは柔らかく微笑んで、私のぽんぽんと背中を叩いてくれた。
「私の心の内は、もう決まっているから、大丈夫よ……。ずっと、ずっと一緒にいましょう、藍」
「うぐ……」
私の涙は、紫さまが流せない涙だ。
穏やかで優しい妖怪が、周囲に決して見せることのない本当の姿だ。
強い調停者であるには、一人に執着することは許されない。
誰にも恐れられる存在であるには、優しさを見せてはいけない。
気高く孤高であるには、弱さというものは不必要なのだ。
決して、他人の前では弱さを見せてはいけないのだ。
「懐かしい、夢を見ていたの。藍、あなたは聞いてくれるかしら?」
「……教えてください、紫さま」
「ある所に、一冊のノートがありました……」
紫さまが、子守唄を歌うように、穏やかに話しはじめた。
目を瞑って聞き入ると、遠い冬にあった、宴会の話だということに気づいた。
◆
グツグツと煮立つ鍋、美味しそうな匂いが風に乗って、炬燵で丸まっていた霊夢の鼻へも届いた。
「おー、できたのかな」
炬燵の暖かさは名残惜しかったけれど、鍋をつついて体の芯から暖めるということも悪くはない。
履物を履いて境内へと出ると、皆がお椀を片手にほっぺを紅く染めていた。
「来たか博麗、お前の分もちゃんと残ってるぞ」
藍が霊夢へとお椀を差し出した。
冬の間はあまり良いものが食べられないだけに、野菜にお肉が入った鍋は貴重だ。
白い息を吐きつつ、まずはお汁を一口飲んで体を暖める。
「あー、寒い中でお鍋ってのも、いいものね」
「だろう、酒を飲むと体も温まるしな」
楽しそうにお玉を動かす藍、誰かのために尽くすのが、式としての至上の喜びなのかもしれない。
単なるお人よしなのかもしれないけれど。
くるくるっとお玉をまわしている辺り、藍が楽しんでいるのは間違いなかった。
「幽々子さま食べすぎですよー、みんなの分がなくなってしまいますよー」
「食べたいときに食べるのが、一番美味しい食べ方なのよー」
ぐいぐいと袖を引っ張る妖夢を引き摺りながら、幽々子がお代わりをしにやってきた。
困っているはずの妖夢の表情はなぜだが柔らかくって、二人をみんなが、暖かい目で見守っていた。
「魔理沙、このキノコあげる」
「自分で食えよ、せっかく私が採ってきたのにもったいないだろ」
「だから嫌なのよ、このキノコなんだが斑模様だし、きっとドクキノコよ」
「そんなことないぜ、ちょっと頭がハッピーになれるいいキノコだ」
「それをドクキノコって言うのよ、さ、食べなさいな」
アリスがキノコを箸で摘み、無理やり魔理沙の口へとねじ込もうとしている。
それに対して必死で抵抗を試みる魔理沙、二人の顔は、やっぱり笑顔だった。
ただそれを眺めている紫だけが、懐かしそうに頬杖をついていた。
「紫、あんた食べないの?」
離れて座っていた紫の隣へと、腰掛ける霊夢。
「うん、なんだか胸がいっぱいになっちゃって」
「変なの」
よそってもらった具材を食べながら、同じ目線で同じ場所を眺める。
みんな楽しそうにやっているのに、独りここに佇んでいても寂しいだけだった。
「紫も気が向いたらこっちにきなさいよ、あんたがはしゃいでいないとなんだか気持ちが悪くてしょうがないわ」
「あとでいくわ、先にいっててちょうだい」
紫は霊夢へと手を振って、また頬杖をついて眺め始めた。
一度だけ振り返って、騒ぎに混ざっていく霊夢。
ページが一ページ、めくられた。
鍋の中身は既に空っぽになっていて、宴会の場所も居間へと変わる。
「紫、もっと飲みなさいよ」
霊夢が手酌で、飲むたび飲むたびに注いでくる。
出来上がってしまったアリスが、目を回して寝てしまった以外は、周りも大差ない状況だった。
妖夢の目は据わってしまって、しきりに幽々子のことを説教していた。
「大体いつも幽々子さまは飲んで食べてばっかりで、たまにはもうちょっといいところを見せないとみんなにそう思われてしまいますよ。
そうしたら仕えている私だって恥ずかしいんですからもっと威厳のあるところを見せてほしいというか聞いていますか?」
「うー……妖夢が絡んでくるわぁ……飲ませるんじゃなかったぁ」
「いいですか幽々子さま、主たるものもっと落ち着きをもって、ダメです逃げないでください。
この剣は幽霊だって叩き斬ることができるんですよ!?」
「やだー、助けてゆかりー!」
魔理沙と藍がそれを見て楽しそうに笑い、世間話に興じていた。
やれお前のところの主はどうだの、妖夢はもしかするとキノコに当たったのかもしれないだの。
皆が楽しそうにしている中で、やはり紫の表情だけがいまいち浮かなかった。
ページがまた一ページ、めくられた。
「んじゃ、私はアリスを連れて帰るぜ」
「妖夢ももう、寝ちゃったみたい」
魔法使いの二人は、魔法の森へ。
亡霊嬢と半霊剣士は冥界へと帰っていった。
「じゃ、私たちも帰りましょうか」
「はい、紫さま」
二組を見送ったあと、紫は空間を割って住居へと繋げた。
あとは、霊夢が気だるそうに手を振って、それでおしまい。
「それじゃあね。あんたといるのは、まぁまぁ楽しかったわよ」
紫が驚いて振り向くも、霊夢の姿はもう、どこにも見えなくなっていた。
そして、本は閉じられる。
◆
「いつまでも、思い出に浸っているばかりじゃしょうがないのよね……。
私はこの幻想郷の守り手で妖怪。人間たちは、すぐにどこかへ居なくなってしまう……。
何度同じことを繰り返してきたんでしょうね……そのたびに心を痛めて、泣いて。
そのうちに私は、自らを守る方法を作り出したわ。
妖怪としての心が壊れないように、六十年に一度記憶の整理をする。
ただの記録としてなら、私は耐えられる。
あの笑顔が、声が、温もりが……そのままずっと残っていたら、壊れてしまいそうになるの。
無理やりにでも壊してしまわなきゃ、私は私で居られないの……」
「……」
「……あの娘たちと過ごした楽しかった日々を、これからはもうただのログとしてしか見れなくなるの。
どうしてこんなに涙が出るのかしらね、自分でそうしようって決めていることなのに。
どうして私は、思い出をずっと持ったまま、生きていけないのかしらね。
どうしてまた、私は同じ事を繰り返してしまうのかしら。寿命の違う誰かと触れ合って、別れて、その思い出を情報化して……」
そっと、泣き崩れてしまった紫さまを抱きしめた。
今度こそ、私が紫さまを支える番だ。
「紫さまはお優しい方です。博麗霊夢も霧雨魔理沙も、あなたのことを責めようとするものですか。
これだけ彼女らを愛していたことを、この幻想郷を愛していることを、知らないわけがあるものですか。
私たちは……長い命を持っているからこそ、別れも経験していかなければいけないのです……。
紅魔館のレミリア・スカーレット然り、山の二柱然りです。
人間は歳を取っていつかは死んでしまう。それはまるで花火のように、短い時間だけ私たちに夢を見せてくれます。
けれど私たちがいつまでも、その残光に浸っていることを人間たちは望まないはずです。
紫さまはきっと、あの娘たちに愛されていた。いいえ、愛されていましたから。
あの娘たちにできることというのは、いつまでも惜しむことではなく、この幻想郷を守っていくこと。
それが紫さまのできる、最高のことではないでしょうか」
「……藍ったら、まるで閻魔みたいなことを言うのね」
「私はあなたに説教を出来るほど、偉いわけではありません。式でありながら越権して口を出す、出来の悪い式神です」
先ほどしてもらったお返しに、紫さまの背中を撫でる。
果たして私の胸の中で、紫さまは安心してくれるだろうか?
私は紫さまの中で、それだけ大きな存在なのだろうか?
そんな疑問は全て、投げ棄てることにした。
私はただ、支えになれればそれでよかった。
何かを望むことなど、しない。
「藍はずっと、あなたの傍に居ますから」
ギュっと、背中の布が握られた。
その日の夜のことである。
満月が夜空にぽっかり浮かんでいる中を、八雲とその式は一歩ずつ踏み確かめるようにして歩いていた。
向かっている先は、名も付けられぬ、小高い丘。
歩く道は、月光と星が照らしてくれているため、踏み外すようなこともない。
会話もなく、ただ歩く音だけがしんと静まっている夜道に響いた。
今夜は、虫の音すら聞こえない。
八雲が式を連れ立って歩いているのだ、ちょっかいをかけようとする無粋者がいるはずもない。
寝静まっているのか息を殺しているのか、それは定かではなかったが、静寂の中では小さな音が大きく聞こえる。
藍は、その静寂の中に紫の心音を聞いたような気がした。
トクン、トクン、と規則正しいリズムを刻む。
もう、心は平穏を取り戻しているのだろう。
耳をパタンと降ろして、それ以上の詮索は避けた。
心の内を盗み見をしたところで、何がどうなるわけでもないのだ。
しばらく歩いていると、木々が開けて、ちょうど、里を見下ろせる崖に来ることができた。
二人は切り株へと腰掛けて、しばらく眼下を見下ろしていた。
遠くにはぼんやりと光る、人間たちの営み。
今の時間なら、妖怪たちも里に来て酒を酌み交わしているかもしれない。
人間と妖怪の絡み合う、紫のもっとも好きな時であった。
藍は知っている。
この時間になると紫は、よく隙間を開いて里を見ていることを。
その表情は、慈愛に満ちたものであることを。
そんなときはそっと、藍はその場を離れる。
主の大切な時間を、壊したくはなかったから。
紫が足元の草をむしって、それを風に乗せた。
千切れた雑草が、高く舞い上がってどこかへ飛んでいってしまった。
「霊夢をね、昔ここに連れてきたの」
「そうなんですか」
「ええ、綺麗だって、気に入ってくれたわ」
そっと、手を重ねる紫。
その手からは、温もりが藍へと確かに伝わっていく。
「いよいよ、明日ですね」
「ええ……」
「今更何を言っても、遅いですよ?」
「わかってるわ」
冷たい風が吹き、さわさわと草木を撫でていく。
里は住んでいる人間を変えても、変わらない灯を点けている。
遠くに見える竹林では、紅い星と七色の流星が、近づいては離れてを繰り返していた。
「変わらない、何も変わらないわね、幻想郷は」
「何事も、緩やかに、形を変えていくものですよ」
「そうね」
この景色も、明日になれば単なる情報と化す。
八雲紫が八雲紫であるためには、六十年に一度自らを生まれ変わらせる必要がある。
それは、調停者としての役目を選んだ紫の業に他ならなかった。
「好き勝手振舞えば、こんなことをしなくてもいいんでしょうけどね」
「紫さまが、いまさらそんなことをするようには思えませんよ」
博麗の巫女はすでに二代変わっているが、必要なとき以外は関わらないようにしている。
他の人妖も同様で、いまだに積極的に人間に絡んでいる勢力は、永遠亭と守矢神社ぐらいのものだった。
「アリス・マーガトロイドとも何年も会っていないわね」
「あの娘も、出不精ですから」
自律人形の研究はいまだに続いていて、時折サンプルをよこせとの連絡が来る以外は、交友はない。
式の作り方は教えてやったけれど、あの娘がそれをものに出来るかはわからないし、興味もそれほどなかった。
ただ独自のアプローチからなる彼女の魔法は、いずれ七曜の魔女の技術をも追い抜くかもしれない。
「そうなったらそうなったで、また楽しそうだけど」
緩やかに、幻想郷は変わっていく。
その変化に合わせるため、八雲紫も変わっていかなければならないのだ。
「帰りましょうか、藍」
「はい、紫さま」
思い出の地に別れを告げ、二人は隙間へと消えてゆく。
風もないのに、森の木々が別れを惜しむように揺れていた。
◆
「いいんですか? 焼いても」
「ええ、必要ないわ、それはもう」
焚き火に次々と放り込まれていく、古びたノート。
その全てが、霊夢の生きた時代に書かれた、紫自身の日記帳だった。
「境界を弄ればいつでもあの娘たちには会えるけど……いつまでも引き摺ってたら怒られそうだもの。
あんたはもっと、胡散くさくて周りに不気味に思われてないとらしくない、って」
「そうでしょうね」
境界を操る能力を使えば、物語の中にだって飛び込むことができる。
記憶を整理する直前、頻繁に姿を見せなくなっていたのは、思い出に浸っていたためだった。
しかし今紫は、全ての日記帳を燃やしている。
燃やしてしまえば、思い出の中だけに存在する、花火のような人間たちには二度と会えなくなるというのに。
『それじゃあね。あんたといるのは、まぁまぁ楽しかったわよ』
博麗霊夢の最期の言葉であり、最後の言葉。
台本になかったはずの台詞、霊夢の言葉に、紫はようやく我にかえることができた。
この言葉がなければ、記憶を整理してからも日記帳の中を覗き、依存していたのかもしれない。
博麗がそうさせたのか、はたまた何かとてつもない気まぐれが起こした奇跡なのか。
あの博麗霊夢は、物語のキャラクターでしかないはず。
それが台本を逸脱することなど、ありえないはずだった。
日記帳をそっと抱きしめて、焚き火の中へと放り込んだ。
一冊、また一冊と放り込まれていく。
初めて顔を会わせた、短い春。
背中合わせに戦った、夜の終わらない日。
愚かな天人が起こした、自己満足の発露。
数え切れないほどの思い出が、今燃えてゆく。
「紫さま、そのノートも燃やしちゃうんですか?」
「……ええ」
以前記憶の整理をする前日に、1日を霊夢と過ごしたその時の日記帳。
思い出の中でも一番のお気に入りだったけれど、それも焚き火へとくべられた。
ごうごうと、思い出を呑み込んで燃える炎。
その炎に向かって、紫は呟いた。
「きっとまた、いつか会えるわ」
「え?」
「なんでもないわ」
たとえ、二度と会うことが叶わないとしても、それでも紫は後悔はしていなかった。
この幻想郷を守り続けていけば、私たちはずっと、繋がっていることができる。
確かに生を刻んだ場所を守り育てることが、彼女たちとの約束に他ならないのだ。
幻想郷はたくさんの思いが乗っかって、静かにゆっくりと廻っている。
「藍、今日もいい天気ね」
「そうですね、紫さま」
雲ひとつない蒼空に、灰色の煙が舞い上がっていく。
二人は煙が溶けてしまっても、いつまでもいつまでも、空を眺めていた。
fin
じゃあ何故見守るの?幻想郷が好きだから。
…なんだか、寂しいですね。
思い出を整理してもその思い出を作ってきたという事実が
消えるわけではないです。
藍との話や、霊夢たちとの鍋を囲む日が
とても良かったと思います。
紫様がんばれ…
ここまで違和感なくやれていることに拍手。
それは幻想郷の守護者ですもの、悲しいこともありますよ。
「幻想郷は全てを受け入れるの。それはそれで~」という例のセリフは、
受け入れたものと同じ数だけ別れを経験しないといけないゆかりんの内情かもしれませんね。
それと、いわゆる「寿命差モノ」はここでも可也多いんですけど、
「日記」という切り口は珍しいものだと思います。
本当にその人が死ぬのは忘れられてしまったとき。そんなふうにも思えます。
『それじゃあね。あんたといるのは、まぁまぁ楽しかったわよ』
ここのシーンで涙腺やられました。
くっ(泣) いい話だな
いい話でした!
どれほど歳月を重ねようと、それだけは変わらないと信じたい。
いい話でした
少しの寂しさがあるけれどそれでも辛くはない
あっちはあっちでいい終わりだったんで分けて考える事にしよう