魔理沙が蛙になった。
レミリア・スカーレットの言葉を聞いて紅魔館を訪れ、半日が経った。
紅魔館の魔女の話によると、図書館の本を勝手に開いたことが原因だという。
どこまでも自業自得な子である。
幸いな事に、蛙といっても両生類のそれとは違い、
随分と体が丈夫に出来ているそうなので乾きにも強く、
すり潰せば普通の食物も食べることが出来るということだ。
また、然るべき処置を行えばすぐに完治するという。
彼女は治療法が分かり次第魔理沙を元に戻すと確約してくれた。
心配は無用との事である。
今、魔理沙は図書館にて集中治療を受けているはずだ。
クッキーを囓りながら、故に僕は館の主に尋ねる。
「君が僕を呼び出した理由がまったく分からないのだが。一体全体どういう了見なんだい?
魔理沙は必ず助かるんだろう?」
だから、とレミリアは片手を広げて言う。
「放っておいたらあなたが幻想郷から消える運命だったから、って言ってるじゃない。
無縁塚で自分の境界を失ってバラバラになるところだったのよ。
だからわざわざ魔理沙に呪いの本を読ませてここに呼び出した。
分かったかしら?」
この子は一体全体何が言いたいのだろうか。
頭が痛くなってくる。いつもの自信に満ちた言葉ではない。
嘘を言っていることが見え透いているのだ。
「本を読んだのは魔理沙の勝手だったんだろう?
まるで君が読ませた、みたいなニュアンスだったが」
「読ませたって言ってるじゃない」
レミリアはそう言って紅茶を啜った。
「そういう運命にしただけよ。そんな事も分からないのかしら」
運命。
実に魅惑的な言葉だ。
あらゆる物は道筋が決定されていて、ねじ曲げることは出来ない……。
だが、外の世界では運命論、そして決定論という考えは
既に古いものとして破棄されている。
この世に決定事項はない。
例え今この一瞬の全ての物質の位置、温度、移動速度その他を知ったところで、
その後の全ての物質の運動を予測することは出来ない。
不確定性原理、だったか。
内容は外の世界の魔法の文字で書かれておりあまり理解できなかったが、
運命などという決まり切った道筋がこの世には無いということだけは分かった。
そもそも。
「今日の菓子はパイが出る運命だと自信満々に君は言ったが、実際に出たのはクッキーだったがね」
言うと、レミリアは鼻を鳴らした。
「たまにはそういう事もあるのよ。
咲夜が持って来たならパイだったわ」
意味が分からない。
ロウソクの火を見ながらやれやれと溜息を吐いた。
「まあそれならそれで良いんだが」
ちちち、と音がして橙色の輝きが揺れる。
それに応じて幼気な顔立ちの陰影が変わる。
どこからかニスの匂いが漂ってきていた。
落ち着いた洋館の匂いだ。
西洋のもたらす安寧の匂いだ。
「まあ、あなたにしてみれば迷惑極まりないのは分かっているわ。
謝罪に今度来た時に何か買っていくわよ」
いや、結構だと首を振る。
「欲しくもない物を買ってもらう必要は無いね。
その代わりに、今度欲しい物が出来たならば言い値で買い取って貰おう」
レミリアは少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「あなたのそういう所は好感が持てるわね」
「客に愛想を振りまくのも仕事でね」
繊細なティーカップをそっと扱う。
勿論使うことに不慣れなわけではない。
嗜好品と呼ばれるものはあらかた試してきた。
その中でも紅茶は好んでいる部類に入る。
だがこの乳白色の光沢を見ていると、軽く触れただけで壊れてしまいそうな気がする。
何をしても受け入れてくれそうな日本の陶磁器とは逆だ。
西洋は父性的で東洋は母性的であるという内容の外の本を読んだことがあるが、
この件だけを見れば正逆であるようにも思える。
ああ、そうそうと突然レミリアは小さく手を叩いて、こちらの注意をひきつけてきた。
「この部屋にある調度品は好きに使って良いわ。
壊しても弁償はしなくていいから。
但し、知らせるだけ知らせておいてちょうだい。
代わりを探さないといけないからね」
待遇の良さに少々居心地の悪さを感じない事もない。
「上客扱いだね」
あら、とレミリアは口元を小さく手で覆った。
「あなたが魔理沙にしてきた事と結構似ているはずだけれど。
これを不快に思うんなら少し自分の行動を見直してみたらどうかしら」
反発したい衝動に駆られたが、なるほどどうして彼女の意見には一理ある。
これまで魔理沙に強く出ることが出来ず、やや遠慮がちに扱っていたが、
それを彼女自身が疎ましく思っているかも知れない、とは薄々感じていたのだ。
折角店の事を考えないで良い時間が出来たのだ。
今までの事を少しずつ反省してみるのもいいかも知れない。
そう考えると――
「紅魔館に来たのは正解だったかも知れないな」
レミリアは嬉しそうに羽を一度だけ震わせて、クッキーに手を伸ばした。
「香霖堂店主にそう言われると励みになるわね」
そのもったいぶった口調に少なからず滑稽さを感じた。
「一厘たりとも思っていない事を口にするものじゃないよ。
君が他人の評価を口にするタマか」
失礼ねえ、と彼女は言うが反論はしなかった。
レミリア・スカーレットが自尊心の塊のような少女なのは承知している。
一々人の目を気にしていたら異変など起こせないだろう。
さて、とレミリアは立ち上がった。
「それじゃあ、私は行くわ。今日はパーティなのよ」
またか、と苦笑が漏れる。
最近の紅魔館は人間達を広く受け入れており、大々的な夕食会を開くことが多々ある。
大広間などというものがあるのかどうかは知らないが、あまり広い場所は出歩かない方がよさそうだ。
それともこの寒いのに外で挙行するつもりだろうか。
いずれにせよ迷惑な話である。
文句を言ってやろうと思ったのだがレミリアは振り返る事なく扉を開き、
「魔理沙は大丈夫だから、安心してくつろいでいきなさい」
とだけ言い残して、そのまま出て行ってしまった。
仕方がない。
こうして一人でのんびりしていても良いが、いつまでここの世話になるかは分からない。
少しぶらついてみるのもいいかも知れない。
ぎいぃ、と音を立てて椅子から立ち上がると、開けっ放しのドア軽く蹴って外に出た。
廊下では慌ただしく妖精達が行き来していた。
ただ、忙しそうに走り回っているだけで何か仕事をしているようには思われない。
恐らく忙しいという雰囲気を楽しんでいるだけなのだろう。
そんな事を考えながらぶらぶらと屋敷を歩き回る。
目にきつくない照明が心地よかった。
明るすぎず暗すぎずという室内は読書好きにとっては理想的環境なのである。
残念なことに、ここにはおっとり刀で駆けつけたため、読み物は何も持っていないが。
何人かの妖精にぶつかられながら少し広いところに出ると、見知った顔があった。
いつも通りの暗い緑色のチャイナドレスに同色の帽子。
トレードマークの星の中には龍の一文字。
彼女は僕に気がついたのか、どうも、と軽く頭を下げた。
こちらも会釈を返しておく。
「店主さんもパーティへ?」
そう尋ねる少女――紅美鈴に、まさか、とやや大げさに手を広げてそれを否定する。
「散歩していただけだよ。騒がしいのはあまり好きではなくてね」
へえ、と美鈴は妙に嬉しそうな表情をした。
なんだろうかと思っていると、彼女はかつん、と一足で僕の横に並んだ。
まるで瞬間移動でもしたかのような足運びである。便利なものだ。
「私もパーティには出れないんですよ。
やっぱりほら、紅魔館の威厳ってものがあるじゃないですか。
みんな仲良く明るい笑顔っていう紅魔館じゃあ威厳の欠片も無いですからねえ」
だろうねと同意しておく。
紅魔館は今や幻想郷のパワーバランスの一角を担う場だ。
誇張表現するならば、その点では山と変わらぬ価値を持つ場所と言える。
与しやすいと思われればそれこそ危機である。
見せかけだとしても、厳しいイメージを持たせておかねばならない。
なので門番という立場の美鈴は爪弾きなのだろう。
勿論、過度に危険性をアピールすれば逆に状況は不安定になる。
おそらくはフランドールも参加はすまい。
そのようなことを気にする子ではないので、怒ったりはしないだろうが。
彼女は大勢でわいわいやるよりも、
気に入った少数の友人と深く付き合う事を好む傾向があるように思える。
まあ、それは僕の主観なので間違っている可能性もあるが。
「今日の時間の潰し方、考えてます?」
思考に割り込み、美鈴は軽く首を傾げて尋ねてきた。
足を進めながらそれに返答する。
「いや、何も。暇だからこうやって世間話をしているんだよ。
君が相手をしてくれると僕としては嬉しいのだが」
構いませんよ、と美鈴は曖昧な表情で笑った。
かつん、かつんと音を立てて階段を上る。
恐らくパーティは一階で行われるのだろう。
音を立てて館の上へと進むたびに喧噪は小さくなってゆく。
まだ今は妖精達が騒いでいるだけなので、上に行けば声は殆ど聞こえないが、
パーティが挙行されればどこにいようとも騒がしくなるのだろうか。
憂鬱である。そんな事を考えていると、
「魔理沙がどうなっているか、気になりませんか?」
と手を後ろで組んで歩きながら美鈴は尋ねてきた。
僕は彼女の半歩後ろを歩くようにしてついてきているので彼女は少しだけ振り返るようにして言葉をかけてくる。
前を向いていればいいものを。律儀な子である。
「僕には手の出せない事だからね。心配するだけ無駄だよ」
冷淡ですね、と言われるものだとばかり思っていたが、美鈴の返事は違った。
「肝が据わってますね。私だったらびくついちゃいますけど」
彼女はそう言った。
極力人の良い面を見ようとしているのかも知れない。
だとしたら聖人君主か、単なる馬鹿か、努力人である。
どれも当てはまりそうな気がして、どれも当てはまらないような気もする。
過去何度か会っているのだが、美鈴のことはよく分からない。
何の妖怪で、どれほど強いのか。
情報が全くない。
敵を知り己を知れば百戦して危うからずという手垢の付いた箴言があるが、
その観点で言うならば紅美鈴はなかなかの強敵だと言うことができるのかも知れない。
魔理沙に言わせれば雑魚だそうだが。
腕っ節での喧嘩の事は僕にはよく分からない。
「それで――」
口を開いて彼女に並ぼうと思い、歩みを早めたが、何故だか追いつけない。
例え全力疾走してもこの距離は縮まるまい。
すぐにそう悟り、僕は速度を戻した。
「――君はどこに向かっているんだい?」
ふふ、と美鈴は楽しげに笑う。
廊下の突き当たりに、明らかに部屋のものとは形状の違う扉があった。
彼女はその前で立ち止まると、さっ、と勢いよく両手を広げた。
その両手には、いつのまにか酒とつまみが大量に握られていた。
手品でも見せられたかのように、ぽかんとして大口を開けていると、
美鈴は何を思ったか、扉を思い切り蹴り飛ばした。
壊れるのではないかと思っていたのだが、
立て付けが悪いだけらしく、嫌な音と共に扉はただ素直に開いた。
それと同時に、館の温い空気は一掃され、寒風が勢いよく入り込んでくる。
外へ繋がる扉だったらしい。
既に外に出た美鈴は、少しだけ欠けた月と、満点の星を背に、髪を揺らし、小さく笑んで首を傾げた。
「一緒に呑みませんか? 一人酒っていうのもなんですし」
是非もない。
僕は段差をまたぎ、屋根の上に降り立った。
美鈴がほっとしたように溜息を吐いたのが、何故だか気にかかった。
「そうなんですよ。気にしないで良いって言うんですけどね」
美鈴はとても美味しそうに酒を口に含んだ。
馴れ合いのような雰囲気はない。
互いに一人酌である。
それでも場の空気は和んでいたし、楽しかった。
「つまみも、お酒も、こんなに沢山くれるんですよ?
一人じゃ呑みきれませんって」
肌を刺すような冷たさは一本空ける頃にはすっかり消え去っていた。
「そのおかげで僕もこうやって呑めるというわけだ」
片膝を立て、遠く月光を反射する湖を眺めながらちびちびと呑む。
霧はかかっていないのだろうか。珍しくはっきりと湖畔の様子が目に入る。
「でもまあ、普段からきつい仕事ばっかりしてるんですから、
こういう時にいきなり優しくされるより毎日ちょっとずつ優しくして欲しいですよ」
恐らく、いつも苛めているからレミリア達も礼が言いづらいのだろう。
それに加えて、パーティでは仲間はずれである。
嫌われていると思われても妙な話ではない。
ならばこの酒は美鈴の事は嫌いではない、というレミリアなりの消極的な意思表示なのだろう。
不器用な主である。
五百年も生きて人間の少女に世話されるような少女だ、その不器用さも筋金入りだろう。
だが、別に不器用吸血鬼のフォローをしようとは思わない。
「美鈴。胸に手を当てて考えてみると良い。
普段の君は寝てばかりだと魔理沙から聞いたよ。
そんな様子では優しくしてやろうと思ってもできないだろう」
でも疲れるんです、とむっとした様子で美鈴が言う。
「大変なんですよ? 草むしりとかしないといけないし、お花にお水もあげないといけないし。
……あ、そういえば香霖堂はいつも周りのお花とか綺麗ですよね。
あそこから少し離れると木も草も生え放題で、虫だってたくさんうろうろしているのに。
何か秘訣でもあるんですか?」
そうだね、と少し考えてみる。
考えている間に、美鈴は
「あ、分かりました!」
と僕を指さす。
「お花、好きでしょ?」
やれやれである。
「興味ないよ、花なんて。勝手に咲いて散れば良い」
むぅ、と美鈴は腕を組んだ。
「じゃあ、どうしてあんなに綺麗なんですか?
綺麗に手入れされた草と花しかないですよ?」
庭の手入れがとても大変なのだろう。
ならば香霖堂の商品が役に立つかも知れない。
そう思って口を開いた。
「最近は風見幽香が整理してくれるからあんな様子だが、
昔はとてもとても強力な薬を使っていてね。
虫なんて一撃で殺す力がある品があるんだよ」
「殺虫剤ですか?」
そのハイエンド級さ、と僕は小さく笑む。
「名を、DDTと言う。
ありとあらゆる虫を殺し尽くし、春に沈黙をもたらす程度の効果がある素晴らしい薬だ」
わあ、と美鈴は嬉しそうな声を上げる。
「今度買おうかなあ」
「たくさん余っているから安く売るよ」
お得ですね、と美鈴はガッツポーズを取った。
何故安いのか、何故余っているのかについては何も考えていないらしい。
そして、何故今は草花の手入れの一切を風見幽香が行うようになったのかも。
本来なら彼女が人の家の周りでわざわざ力を使うことはない。
少し考えれば分かるだろうに。やれやれである。
このままでは本当に購入しかねないので、
中身を2-4-D除草剤あたりに差し替えておいた方が良いかも知れない。
そんな事を考えていると、美鈴はうんうんと何度も頷いた。
「やっぱり店主さんは頼りになりますね。
やっぱり、悩みとか無いんですか? 私はいつも悩んでばかりですけど」
ふむ、と唸った。
ある。
悩みならいくらでもある。
僕は酒をあおった。
「僕の目下最大の悩みは――」
「あるんですかっ!?」
失礼な子である。
「僕は悩みの塊だよ。
どこかの医者は夢なんて見るのか、などと馬鹿げた事を言っているが、見るに決まっているじゃないか。
悪夢の連続だ。
僕ほど神経質で悲観論的な人間はそうは居ない」
「そうなんですか。びっくりです!」
美鈴は自分の事を話すより人の話を聞く方が好きなようである。
門番という受け身の立ち位置がそうさせたのだろうか。
とはいえ、最近は妙に魔理沙の友人達の悩みを聞くことが多くなり、
こうやって愚痴をこぼす機会は少ないので思い切り零そうと思う。
フランドール辺りは僕の事を無敵超人であるかのように見ているので、本当に疲れる。
よくもまあ魔理沙はいつも『天才的』魔法使いという立場を演じ切れているものだ。
「まあ、いずれこんな悩みは無くなるのだから杞憂だとは思うんだが……」
少し、間を空けて。
真剣な顔で僕は美鈴を見つめた。
「何故僕の店は、繁盛しないのだろうか」
美鈴は、静かな調子で、両手をきつく握って、答えた。
「多分、店主さんが仕事をする気がないからだと思います」
寒風が、肌を撫でた。
酔っているはずなのに、妙に肌を刺す風だった。
僕らはしばらくそのままの姿勢で硬直していた。
互いに、言葉の後の余韻に力を込めすぎた為に、次の言葉を言い出せないでいたのだ。
沈黙が、実に痛い。
このまま時間が流れるのかと不吉な予感が過ぎったが、そんな事はなく、
数秒の後に美鈴は、ぷっ、と小さくふきだした。
「なんだ。店主さんもじゃないですか」
いきなり笑われるとさすがの僕も不快なので、
「何がだい?」
とややつっけどんに尋ねると、美鈴はふふふ、と薄気味悪い笑みを浮かべてから言った。
「私たちはやっぱり似たもの同士ですよ。
ほら、私も仕事しないじゃないですか。
だから毎日怒られるんです。
で、店主さんも仕事しませんよね。
だから売れないんです」
「余計なお世話だよ」
ぱしん、と軽く美鈴の頭を叩いた。
だが美鈴は諦めず、こっちに迫ってきた。
「なんでですかーっ。仲良くしましょうよ! 人間も妖怪も仲良くすればずっと平和ですよ!」
「馬鹿な事を言うな。そんなステレオタイプなオプティミズムを振り回して生きていけるなら幻想郷など存在しない」
ぐいぐいと押し返す。
「そういう正義を敢えて振り回すんですよ! 正義の味方にはみんなあこがれちゃいますって!
だから店主さんも秘めた力を解放して――」
「そんな力は僕にはない」
あるのは天才的な頭脳と、天からの地位の承認くらいのものだ。
「でもですよ、店主さんが強くなったら魔理沙も霊夢も見直して――」
「失敬だな君は。まるで今の僕を二人が馬鹿にしているようにしか聞こえないんだが」
うぐっ、と美鈴は言葉に詰まる。
「い、いや。そんなつもりはないんですけど」
ここで畳み掛けようと思ったのだが敵も然る者味な者。
ぐいっ、と体をこちらに傾けて人差し指を立てる。
「とにかくっ! 店主さんは体を鍛えましょう!
人妖には人妖の力の使い方があります!
絶対そこら辺の異変なら解決できるほどの力が――」
「そして、女の子同士のごっこ遊びにどこの者とも知れぬ男が突如介入、かい?
シュール以外の何物でもない気がするんだがね」
美鈴は、しばらく考えていたが、やがてこほんっ、と咳払いを一つ。
「わ、話題がそれました。
とにかく私が言いたいことはですね。
爪弾き者同士仲良くしましょうということでして!」
彼女の言葉に、自然と反駁が漏れた。
「爪弾き者ではないと思うけれどね」
都合が悪いことに、ひゅう、と音を立てて風が通りすぎていった。
それが僕と美鈴の髪を弄び、同時に酔いまで持って行ってしまったようだった。
冷静になったのか、美鈴は恥ずかしそうに頬を掻いた後、ぺたんと元の位置に座り直した。
「いや、ええと。私だって、爪弾き者だとか本気で思ってるわけじゃないですよ?
お嬢様達は本当に良くして下さいますし」
ふん、と息を吐く。
「知っているよ」
そうでしたか、と美鈴は照れ笑いを浮かべる。
「どうにも店主さんは愚痴が通じなくて困ります。
もっと軽い気分で聞いて下さいよ、かるーく」
性分だからね、とにべもなく切り捨てておく。
ただ、美鈴は気分を害した様子はないので良しとしたい。
また沈黙が降りた。
ただ、今度は苦しい沈黙ではない。
思い思いに酒を啜り、肴に手を伸ばした。
空には雲がかかったのだろうか、月明かりはおぼろだった。
手に冷たい物が触れる。水滴だった。
雪が溶けたのか、それとも雨だったのかははっきりしない。
確かめようにも、空から落ちてくるものはもう無かった。
もしかしたら先程の冷たい水滴の感覚も気の間違いだったのだろうか。
分からない。
だが……とりあえず、酒はうまい。
良いことだ。
そう思っていると、横からほっ、と小さく息を吐くのが聞こえた。
まるで安堵の息のようにも感じる。
なんだろうと思って振り返ると、美鈴はばたばたと両手を慌ただしく振っていた。
「なっ、なんでもないですよ?」
一々挙動不審な子である。
だがそれに突っかかる気も起きない。
「別に怒ったりはしないよ。
何か思うことがあったなら言ってくれればいい」
いや、その、と美鈴は非常に言いにくそうな様子だ。
僕に対して厳しい意見を持っているのかも知れない。
だが、一々それで傷つくようならそもそも霧雨店から独立しようなどと考えたりはしない。
話すように促すと、美鈴は意を決したように口を開いた。
「ええと、ここに来てからずっとあなたがやってたことなんですけど……もしかして気がついてなかったのかなあって思いまして」
ずっとやっていた事……なんだろうか。
僕は自分自身をよく観察してみた。
おかしなところは何もない。
「あ、いや。今は大丈夫なんですけどね」
美鈴はそう前置きして、うーん、と唸った。余程言いにくいことなのかも知れない。
「あの、ええと……自分の座っていたテーブルのロウソクがやたらとがたがた揺れてたりしませんでした?」
さらには意味の分からないことを尋ねられた。
だが、とりあえず僕は思い返してみる。
レミリアとの会話だ。
確かにあの時、ロウソクの炎がちらちらと揺れて彼女の表情に様々な陰影を与えていた事を思い出す。
「そうだね。揺れていた気がするよ。それが何か?」
うーん、と美鈴は苦笑いを浮かべる。
「何か、と言われますと……その、ですね」
だが、やがて決心したのか数秒の沈黙の後に、重い口を開いた。
「店主さんは、ここに来てからずっと、足を揺すり続けていたんですよ」
まさか、と思わず異論の声を上げる。
「商人の端くれとして……そしてそもそも一般的客人の常識として、
そういう事はしていなかったと思うんだが。
――していたのかい?」
少し、頭がぐちゃぐちゃになっているようだ。
冷たい掌を両頬に当てて熱くなった思考を落ち着けていく。
美鈴は僕が聞く姿勢に戻ったのを確認して、苦笑と共に口を開く。
「私だってびっくりしましたよ、本当に。
立ってる時も、こうやって屋根に座っている時もがたがた足を揺するんですから。
椅子に座ってる時は相当酷かったはずですよ?」
嘘ではあるまい。
恐らく、僕はずっとそうしていたのだろう。
思えばレミリアの言葉もずっと変だった。
妙に僕を気遣っていたし、無理矢理館に押し込めてきた。
ガタガタと足を揺すり続ける香霖堂店主を見て、
その異常に驚いたいうことならば、彼女の不自然な態度も頷ける。
いくら傍若無人な吸血鬼でも、哀れに思うだろう。
僕がそうなってしまった理由は、一々考証するまでもなかった。
「魔理沙が蛙になった事でそんなに取り乱していたのかな、僕は」
それしかないと思います、と美鈴も頷いた。
「ずっとその話題を口に出さなかったからかえって心配だったんです。
本当は気がかりで気がかりで仕方なかったんですよね」
認めるのは気恥ずかしくて、
「そうかもしれないね」
と曖昧に返答しておいた。
美鈴は、全く、と大げさに息を吐く。
「私に話してくれればいいじゃないですか。
相談相手として役不足だったんですか?」
真剣なこの少女の言葉に思わず、失笑する。
「随分自信過剰な子だな、君は」
「……ふぇ?」
シリアスな話の腰を折られたためか、美鈴はきょとんとしてこちらを見つめてきた。
言いたいことは分かるよ、と言い置いて僕は続ける。
「確かに君では役者不足かも知れないね。
可哀想な可哀想な店主さん、などと言われると僕の怒りが頂点に達するかも知れない」
むう、と美鈴は唸った。
「同情するなら金をくれってやつですか?」
「君は本当に辛辣だな」
やれやれ、と溜息が漏れる。
随分長い溜息だった。
今までの心労が全て流れていくような溜息だった。
「大の男が可哀想に可哀想にと同情を受ける所を想像してみるといい。
……どうかな、ひどく惨めだろう?」
あー、と美鈴は苦い笑いを浮かべる。
「惨めな上に格好悪いですねえ」
だろう、と僕は笑う。
「そして、君は十中八九僕を惨めで格好悪い状態にする究極の同情攻撃を行うわけだ」
むむ、と美鈴は唸る。
「た、確かに……」
最後にややオーバーに両手を広げてみせた。
「だから、君には相談しなかった。役者不足を気にする必要はないよ」
返答はなかった。
ぽかんとして美鈴は僕を見ていたのだが、
やがて言わんとすることを理解したのか、
くすくすと声を押し殺して笑った。
「もしかして、気遣っているつもりだったりします?」
笑われるとは心外だったのでややむっとして返答する。
「もしかしなくてもその通りだよ。
相談しなかったことで君が傷心なのではないだろうかと思ったからね。
この僕が気を使ったのだから有り難く受けて欲しいものだ」
それを聞くと、美鈴はいよいよ大きく笑い出した。
全く、本当にやれやれな子だ。
思わず苦笑が漏れた。
美鈴はひとしきり笑ったあと、
笑みの残滓を残したまま、実はですね、と申し訳なさそうに口を開いた。
「本当は、一人にさせておいてやれって、お嬢様に言われたんです」
ごにょごにょと、人差し指を突き合わせながら彼女は続ける。
「でも、やっぱり放っておけないじゃないですか。
本当、今にも死んじゃいそうな顔だったんですよ、店主さん。
お嬢様がパーティ前の忙しい時に無理矢理時間を割いて話をしたのも道理ってものです」
それで、と僕は屋根に寝転がった。
「何とかしたいと思っていてもたってもいられなくなって……というわけかい?」
ええ、と頷く彼女にやれやれだ、と文句を垂れる。
「レミリアが正しい。
小さな親切大きなお世話と言うだろう」
「頭じゃ分かってるんですけどね。なかなか難しいんですよ、これが」
気がついたら体が動いちゃってまして、と美鈴は力無く笑った。
「ひたむきなのは悪くないと思うが」
ぼそりとそう言うと、美鈴は、はてな、と首を傾げた。
「何か言いました?」
いや、と首を横に振る。
「今回は、まあ良い方向に転がったからお咎め無しということにしておこう。そう言っただけだよ」
本当ですか、と美鈴は疑わしげにこちらを見やった。
「なんだか、もっと短い言葉だった気がしますけど」
「気のせいだよ」
顔を背けると、空には月も星の輝きも無くなっていた。
重い雲に隠されてしまったのだろうか。
そう思っていると、鼻先にふわりと何かが舞い降りた。
触れると、それは水滴だった。
やはり、雨だろうか。
そう思って目をこらすと、右へ、左へと揺れながら、
白くてふわふわとしたものが次から次へと落ちてくるのが目に入った。
錯覚ではあるまい。
手を伸ばして、そっと触れる。
それは目の前でじわじわと透明になり、やがて形を失って水となった。
思わず息が漏れる。
雲のカーテンに抵抗するように、微かな光がここまで届いていた。
それが、人工灯なしでの夜の雪見酒という、乙な情景を作り出している。
読書家は、明るすぎもせず、暗すぎもしない明かりを好む。
紅魔館の明かりもそうだが、ここの月影も穏やかで好ましい。
この光景に乗じて一度くらいは、口に出してみてもいいかも知れない。
「……魔理沙は、大丈夫だろうか」
それを聞いた美鈴は、本当に驚いたようだった。
絶対に頼られるはずがない、と。
そう思っていたのだろう。
僕とて頼るつもりは毛頭無かった。
ただ、何となく尋ねてみたくなったのだ。
心配だったからではない。
美鈴がその問いに対してどう答えるのか。
それが、とても気になった。
美鈴はしばらくうろたえていた。
やはり突然尋ねても困るだろう。
申し訳ない事をした。
そう思っていたのだが、僕は彼女を見くびっていたらしい。
ぐいっ、と一気に酒をあおり、
表情を強気なものに変えて、美鈴は笑顔と共に大きく頷いた。
「絶っ対に大丈夫です! 助かります!」
そして、ぐっ、と自分の拳を握りしめて、
「紅魔館の皆が助けるって言ったんです。
助けられないものなんて、ありません」
自信に満ちた声でそう宣言した。
だからこそ、僕は考える。
僕がずっと美鈴の気遣いに気がつかなかったように、
美鈴もまた気がついていないのだろうと。
もしかしてこの子は自分のことを爪弾き者だと思っているのではないかと、
僕が心配していたことなど、彼女は全く気がついていないに違いない。
だが、それでいい。
僕はそんなキャラクターではない。
賢く、ニヒルで、やや傲慢な店主。
それがこの僕である森近霖之助だ。
今日はあまりの事件に動揺して、その人物像が少し揺らいでしまったが、明日になれば立て直すことが出来るだろう。
いや、立て直さねばならない。
そうでなくては香霖堂を訪れる客に申し訳が立たない。
自慢ではないが、僕との対話を求めてやってくる客も居るのだ。
そんな彼らが弱った店主の姿を見たらどう思うだろうか。
さぞ、失望するに違いない。
頷き、体を起こした。
きょとんとする美鈴に、いつも通りの仏頂面を見せる。
「明日魔理沙に会える顔になっているかな?」
そう言うと、美鈴は少しだけ目を細めて、首を横に振った。
「結構、酷い顔ですよ」
そうかい、と苦笑する。
そうだろう。鏡は見ていないが、酷い顔なのだろう。
なに、夜が明けるまで飲み明かせば問題ない。
「心配し過ぎてこうなった、などとあの子に思われたら癪だからね。
こうなったら夜更かしを原因にしようと思うのだが」
「そんなに弱みを見せたくないんですか」
美鈴はやれやれ、とまるで僕のように溜息を吐いた。
「仕方のない人ですねえ……」
そして、チーズを一切れ千切って、僕に渡した。
「じゃあ、朝まであなたの話を聞いてあげますよ」
ふん、と僕は鼻を鳴らして、美鈴に指を突きつけた。
「聞かせて貰うの間違いだね、それは。
僕の話は千金を積んでも尚聞きたがる人がいるくらいだ」
はいはい、そうですか。
笑う美鈴に、ならば紅魔館に見合った話を提供しようじゃないか、と僕は気合いを入れる。
「今から随分昔の話なんだが、ハンガリーにエリザベート・バートリという伯爵夫人が居てね……」
しんしんと、雪が降り積もる。
明日には止んでいるのだろうか。
それとも白い道を作るのだろうか。
日が昇る頃に幻想郷を覆う光景が楽しみだ。
僕の口は、いつもよりずっと滑らかに、蘊蓄を紡ぎ出していくのだった。
次の日、当然のように復活した魔理沙は、ぐるぐると箒を振り回しながら快活に笑った。
「いやーっ。蛙ってのも案外楽しいもんだな!」
たまにはなってみるもんだぜ、と僕の腰をばんばん叩きながら大笑いしている。
全く、心配したのが馬鹿らしくなってきた。
どうやら全くこたえていないらしい。
彼女を助けた魔女も、張り合いが無かったと苦笑するほど、魔理沙は元気だった。
「そういやさ、香霖。
紅魔館の連中は酷いぜ。
人が礼を言ったってのにどいつもこいつも狐に摘まれたような顔をするんだ。
酷いよなあ。パチュリーの奴なんて、それこそ化け物を見るような目でこっちを見やがって。
ただ、ありがとうって言っただけなんだけどなあ」
その魔理沙の言葉を聞いて、しまった、と僕は思った。
もう紅魔館の門は遠い。
しかし、言っていなかった。
レミリアにも、そして美鈴にすら。
一言も礼を言っていなかったのだ。
「ん……どうした、香霖?」
見上げる魔理沙に、無表情に首を横に振った。
「いや、なんでもないよ」
ほんとか? と箒の先端でつんつんと脇腹を突いてくるのが一々うざったい。
元気になったらなったで迷惑な子だ。
しかし、礼か。
やはりもう一度紅魔館に戻るべきだろうか。
そう考えて、首を横に振った。
止めておこう。
言い忘れた礼をわざわざ言いに戻るなんて馬鹿な話があるか。
しち面倒くさい。
その代わりに、だ。
彼女達が今度店に来た時には、飛び切り割り引いてやろう。
それでとんとんだ。
僕の斜め後ろを歩く魔理沙は、なあなあ、と興味が尽きないようで裾を引っ張って尋ねてくる。
「昨日は香霖は何やってたんだ?」
軽いステップを踏んで魔理沙は僕の隣に立った。
「パーティやってたって話だったけど、そういう所に行くような奴じゃないしなあ」
うーん、と首を捻る魔理沙の額を軽く指で弾いて、また彼女の前に出た。
「昨日は、紅魔館の屋根の上で雪見酒をしていたんだよ」
ははっ、と魔理沙は笑った。
「そりゃいいぜ。見えない雪をずっと見てたのか! 香霖らしいなあ」
「……君は僕をどんな奴だと思っているんだ、全く」
苦笑しながら、僕と魔理沙は歩く。
僕が前で、魔理沙が後ろだ。
しゃくっ、しゃくっ、と。
快音を響かせながら、僕らはゆっくりと各の住処へと帰っていく。
太陽の光はひっそりと隠れ、木の枝と枝に挟まった雪が僅かに溶けてきらりと輝いていた。
吐く息の白さも気にならないほどに、幻想郷は銀色に染め上げられていた。
しゃらん、と。どこかでつららの落ちる音がした。
雪はまだ、ふわふわと降り続いている。
レミリア・スカーレットの言葉を聞いて紅魔館を訪れ、半日が経った。
紅魔館の魔女の話によると、図書館の本を勝手に開いたことが原因だという。
どこまでも自業自得な子である。
幸いな事に、蛙といっても両生類のそれとは違い、
随分と体が丈夫に出来ているそうなので乾きにも強く、
すり潰せば普通の食物も食べることが出来るということだ。
また、然るべき処置を行えばすぐに完治するという。
彼女は治療法が分かり次第魔理沙を元に戻すと確約してくれた。
心配は無用との事である。
今、魔理沙は図書館にて集中治療を受けているはずだ。
クッキーを囓りながら、故に僕は館の主に尋ねる。
「君が僕を呼び出した理由がまったく分からないのだが。一体全体どういう了見なんだい?
魔理沙は必ず助かるんだろう?」
だから、とレミリアは片手を広げて言う。
「放っておいたらあなたが幻想郷から消える運命だったから、って言ってるじゃない。
無縁塚で自分の境界を失ってバラバラになるところだったのよ。
だからわざわざ魔理沙に呪いの本を読ませてここに呼び出した。
分かったかしら?」
この子は一体全体何が言いたいのだろうか。
頭が痛くなってくる。いつもの自信に満ちた言葉ではない。
嘘を言っていることが見え透いているのだ。
「本を読んだのは魔理沙の勝手だったんだろう?
まるで君が読ませた、みたいなニュアンスだったが」
「読ませたって言ってるじゃない」
レミリアはそう言って紅茶を啜った。
「そういう運命にしただけよ。そんな事も分からないのかしら」
運命。
実に魅惑的な言葉だ。
あらゆる物は道筋が決定されていて、ねじ曲げることは出来ない……。
だが、外の世界では運命論、そして決定論という考えは
既に古いものとして破棄されている。
この世に決定事項はない。
例え今この一瞬の全ての物質の位置、温度、移動速度その他を知ったところで、
その後の全ての物質の運動を予測することは出来ない。
不確定性原理、だったか。
内容は外の世界の魔法の文字で書かれておりあまり理解できなかったが、
運命などという決まり切った道筋がこの世には無いということだけは分かった。
そもそも。
「今日の菓子はパイが出る運命だと自信満々に君は言ったが、実際に出たのはクッキーだったがね」
言うと、レミリアは鼻を鳴らした。
「たまにはそういう事もあるのよ。
咲夜が持って来たならパイだったわ」
意味が分からない。
ロウソクの火を見ながらやれやれと溜息を吐いた。
「まあそれならそれで良いんだが」
ちちち、と音がして橙色の輝きが揺れる。
それに応じて幼気な顔立ちの陰影が変わる。
どこからかニスの匂いが漂ってきていた。
落ち着いた洋館の匂いだ。
西洋のもたらす安寧の匂いだ。
「まあ、あなたにしてみれば迷惑極まりないのは分かっているわ。
謝罪に今度来た時に何か買っていくわよ」
いや、結構だと首を振る。
「欲しくもない物を買ってもらう必要は無いね。
その代わりに、今度欲しい物が出来たならば言い値で買い取って貰おう」
レミリアは少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「あなたのそういう所は好感が持てるわね」
「客に愛想を振りまくのも仕事でね」
繊細なティーカップをそっと扱う。
勿論使うことに不慣れなわけではない。
嗜好品と呼ばれるものはあらかた試してきた。
その中でも紅茶は好んでいる部類に入る。
だがこの乳白色の光沢を見ていると、軽く触れただけで壊れてしまいそうな気がする。
何をしても受け入れてくれそうな日本の陶磁器とは逆だ。
西洋は父性的で東洋は母性的であるという内容の外の本を読んだことがあるが、
この件だけを見れば正逆であるようにも思える。
ああ、そうそうと突然レミリアは小さく手を叩いて、こちらの注意をひきつけてきた。
「この部屋にある調度品は好きに使って良いわ。
壊しても弁償はしなくていいから。
但し、知らせるだけ知らせておいてちょうだい。
代わりを探さないといけないからね」
待遇の良さに少々居心地の悪さを感じない事もない。
「上客扱いだね」
あら、とレミリアは口元を小さく手で覆った。
「あなたが魔理沙にしてきた事と結構似ているはずだけれど。
これを不快に思うんなら少し自分の行動を見直してみたらどうかしら」
反発したい衝動に駆られたが、なるほどどうして彼女の意見には一理ある。
これまで魔理沙に強く出ることが出来ず、やや遠慮がちに扱っていたが、
それを彼女自身が疎ましく思っているかも知れない、とは薄々感じていたのだ。
折角店の事を考えないで良い時間が出来たのだ。
今までの事を少しずつ反省してみるのもいいかも知れない。
そう考えると――
「紅魔館に来たのは正解だったかも知れないな」
レミリアは嬉しそうに羽を一度だけ震わせて、クッキーに手を伸ばした。
「香霖堂店主にそう言われると励みになるわね」
そのもったいぶった口調に少なからず滑稽さを感じた。
「一厘たりとも思っていない事を口にするものじゃないよ。
君が他人の評価を口にするタマか」
失礼ねえ、と彼女は言うが反論はしなかった。
レミリア・スカーレットが自尊心の塊のような少女なのは承知している。
一々人の目を気にしていたら異変など起こせないだろう。
さて、とレミリアは立ち上がった。
「それじゃあ、私は行くわ。今日はパーティなのよ」
またか、と苦笑が漏れる。
最近の紅魔館は人間達を広く受け入れており、大々的な夕食会を開くことが多々ある。
大広間などというものがあるのかどうかは知らないが、あまり広い場所は出歩かない方がよさそうだ。
それともこの寒いのに外で挙行するつもりだろうか。
いずれにせよ迷惑な話である。
文句を言ってやろうと思ったのだがレミリアは振り返る事なく扉を開き、
「魔理沙は大丈夫だから、安心してくつろいでいきなさい」
とだけ言い残して、そのまま出て行ってしまった。
仕方がない。
こうして一人でのんびりしていても良いが、いつまでここの世話になるかは分からない。
少しぶらついてみるのもいいかも知れない。
ぎいぃ、と音を立てて椅子から立ち上がると、開けっ放しのドア軽く蹴って外に出た。
廊下では慌ただしく妖精達が行き来していた。
ただ、忙しそうに走り回っているだけで何か仕事をしているようには思われない。
恐らく忙しいという雰囲気を楽しんでいるだけなのだろう。
そんな事を考えながらぶらぶらと屋敷を歩き回る。
目にきつくない照明が心地よかった。
明るすぎず暗すぎずという室内は読書好きにとっては理想的環境なのである。
残念なことに、ここにはおっとり刀で駆けつけたため、読み物は何も持っていないが。
何人かの妖精にぶつかられながら少し広いところに出ると、見知った顔があった。
いつも通りの暗い緑色のチャイナドレスに同色の帽子。
トレードマークの星の中には龍の一文字。
彼女は僕に気がついたのか、どうも、と軽く頭を下げた。
こちらも会釈を返しておく。
「店主さんもパーティへ?」
そう尋ねる少女――紅美鈴に、まさか、とやや大げさに手を広げてそれを否定する。
「散歩していただけだよ。騒がしいのはあまり好きではなくてね」
へえ、と美鈴は妙に嬉しそうな表情をした。
なんだろうかと思っていると、彼女はかつん、と一足で僕の横に並んだ。
まるで瞬間移動でもしたかのような足運びである。便利なものだ。
「私もパーティには出れないんですよ。
やっぱりほら、紅魔館の威厳ってものがあるじゃないですか。
みんな仲良く明るい笑顔っていう紅魔館じゃあ威厳の欠片も無いですからねえ」
だろうねと同意しておく。
紅魔館は今や幻想郷のパワーバランスの一角を担う場だ。
誇張表現するならば、その点では山と変わらぬ価値を持つ場所と言える。
与しやすいと思われればそれこそ危機である。
見せかけだとしても、厳しいイメージを持たせておかねばならない。
なので門番という立場の美鈴は爪弾きなのだろう。
勿論、過度に危険性をアピールすれば逆に状況は不安定になる。
おそらくはフランドールも参加はすまい。
そのようなことを気にする子ではないので、怒ったりはしないだろうが。
彼女は大勢でわいわいやるよりも、
気に入った少数の友人と深く付き合う事を好む傾向があるように思える。
まあ、それは僕の主観なので間違っている可能性もあるが。
「今日の時間の潰し方、考えてます?」
思考に割り込み、美鈴は軽く首を傾げて尋ねてきた。
足を進めながらそれに返答する。
「いや、何も。暇だからこうやって世間話をしているんだよ。
君が相手をしてくれると僕としては嬉しいのだが」
構いませんよ、と美鈴は曖昧な表情で笑った。
かつん、かつんと音を立てて階段を上る。
恐らくパーティは一階で行われるのだろう。
音を立てて館の上へと進むたびに喧噪は小さくなってゆく。
まだ今は妖精達が騒いでいるだけなので、上に行けば声は殆ど聞こえないが、
パーティが挙行されればどこにいようとも騒がしくなるのだろうか。
憂鬱である。そんな事を考えていると、
「魔理沙がどうなっているか、気になりませんか?」
と手を後ろで組んで歩きながら美鈴は尋ねてきた。
僕は彼女の半歩後ろを歩くようにしてついてきているので彼女は少しだけ振り返るようにして言葉をかけてくる。
前を向いていればいいものを。律儀な子である。
「僕には手の出せない事だからね。心配するだけ無駄だよ」
冷淡ですね、と言われるものだとばかり思っていたが、美鈴の返事は違った。
「肝が据わってますね。私だったらびくついちゃいますけど」
彼女はそう言った。
極力人の良い面を見ようとしているのかも知れない。
だとしたら聖人君主か、単なる馬鹿か、努力人である。
どれも当てはまりそうな気がして、どれも当てはまらないような気もする。
過去何度か会っているのだが、美鈴のことはよく分からない。
何の妖怪で、どれほど強いのか。
情報が全くない。
敵を知り己を知れば百戦して危うからずという手垢の付いた箴言があるが、
その観点で言うならば紅美鈴はなかなかの強敵だと言うことができるのかも知れない。
魔理沙に言わせれば雑魚だそうだが。
腕っ節での喧嘩の事は僕にはよく分からない。
「それで――」
口を開いて彼女に並ぼうと思い、歩みを早めたが、何故だか追いつけない。
例え全力疾走してもこの距離は縮まるまい。
すぐにそう悟り、僕は速度を戻した。
「――君はどこに向かっているんだい?」
ふふ、と美鈴は楽しげに笑う。
廊下の突き当たりに、明らかに部屋のものとは形状の違う扉があった。
彼女はその前で立ち止まると、さっ、と勢いよく両手を広げた。
その両手には、いつのまにか酒とつまみが大量に握られていた。
手品でも見せられたかのように、ぽかんとして大口を開けていると、
美鈴は何を思ったか、扉を思い切り蹴り飛ばした。
壊れるのではないかと思っていたのだが、
立て付けが悪いだけらしく、嫌な音と共に扉はただ素直に開いた。
それと同時に、館の温い空気は一掃され、寒風が勢いよく入り込んでくる。
外へ繋がる扉だったらしい。
既に外に出た美鈴は、少しだけ欠けた月と、満点の星を背に、髪を揺らし、小さく笑んで首を傾げた。
「一緒に呑みませんか? 一人酒っていうのもなんですし」
是非もない。
僕は段差をまたぎ、屋根の上に降り立った。
美鈴がほっとしたように溜息を吐いたのが、何故だか気にかかった。
「そうなんですよ。気にしないで良いって言うんですけどね」
美鈴はとても美味しそうに酒を口に含んだ。
馴れ合いのような雰囲気はない。
互いに一人酌である。
それでも場の空気は和んでいたし、楽しかった。
「つまみも、お酒も、こんなに沢山くれるんですよ?
一人じゃ呑みきれませんって」
肌を刺すような冷たさは一本空ける頃にはすっかり消え去っていた。
「そのおかげで僕もこうやって呑めるというわけだ」
片膝を立て、遠く月光を反射する湖を眺めながらちびちびと呑む。
霧はかかっていないのだろうか。珍しくはっきりと湖畔の様子が目に入る。
「でもまあ、普段からきつい仕事ばっかりしてるんですから、
こういう時にいきなり優しくされるより毎日ちょっとずつ優しくして欲しいですよ」
恐らく、いつも苛めているからレミリア達も礼が言いづらいのだろう。
それに加えて、パーティでは仲間はずれである。
嫌われていると思われても妙な話ではない。
ならばこの酒は美鈴の事は嫌いではない、というレミリアなりの消極的な意思表示なのだろう。
不器用な主である。
五百年も生きて人間の少女に世話されるような少女だ、その不器用さも筋金入りだろう。
だが、別に不器用吸血鬼のフォローをしようとは思わない。
「美鈴。胸に手を当てて考えてみると良い。
普段の君は寝てばかりだと魔理沙から聞いたよ。
そんな様子では優しくしてやろうと思ってもできないだろう」
でも疲れるんです、とむっとした様子で美鈴が言う。
「大変なんですよ? 草むしりとかしないといけないし、お花にお水もあげないといけないし。
……あ、そういえば香霖堂はいつも周りのお花とか綺麗ですよね。
あそこから少し離れると木も草も生え放題で、虫だってたくさんうろうろしているのに。
何か秘訣でもあるんですか?」
そうだね、と少し考えてみる。
考えている間に、美鈴は
「あ、分かりました!」
と僕を指さす。
「お花、好きでしょ?」
やれやれである。
「興味ないよ、花なんて。勝手に咲いて散れば良い」
むぅ、と美鈴は腕を組んだ。
「じゃあ、どうしてあんなに綺麗なんですか?
綺麗に手入れされた草と花しかないですよ?」
庭の手入れがとても大変なのだろう。
ならば香霖堂の商品が役に立つかも知れない。
そう思って口を開いた。
「最近は風見幽香が整理してくれるからあんな様子だが、
昔はとてもとても強力な薬を使っていてね。
虫なんて一撃で殺す力がある品があるんだよ」
「殺虫剤ですか?」
そのハイエンド級さ、と僕は小さく笑む。
「名を、DDTと言う。
ありとあらゆる虫を殺し尽くし、春に沈黙をもたらす程度の効果がある素晴らしい薬だ」
わあ、と美鈴は嬉しそうな声を上げる。
「今度買おうかなあ」
「たくさん余っているから安く売るよ」
お得ですね、と美鈴はガッツポーズを取った。
何故安いのか、何故余っているのかについては何も考えていないらしい。
そして、何故今は草花の手入れの一切を風見幽香が行うようになったのかも。
本来なら彼女が人の家の周りでわざわざ力を使うことはない。
少し考えれば分かるだろうに。やれやれである。
このままでは本当に購入しかねないので、
中身を2-4-D除草剤あたりに差し替えておいた方が良いかも知れない。
そんな事を考えていると、美鈴はうんうんと何度も頷いた。
「やっぱり店主さんは頼りになりますね。
やっぱり、悩みとか無いんですか? 私はいつも悩んでばかりですけど」
ふむ、と唸った。
ある。
悩みならいくらでもある。
僕は酒をあおった。
「僕の目下最大の悩みは――」
「あるんですかっ!?」
失礼な子である。
「僕は悩みの塊だよ。
どこかの医者は夢なんて見るのか、などと馬鹿げた事を言っているが、見るに決まっているじゃないか。
悪夢の連続だ。
僕ほど神経質で悲観論的な人間はそうは居ない」
「そうなんですか。びっくりです!」
美鈴は自分の事を話すより人の話を聞く方が好きなようである。
門番という受け身の立ち位置がそうさせたのだろうか。
とはいえ、最近は妙に魔理沙の友人達の悩みを聞くことが多くなり、
こうやって愚痴をこぼす機会は少ないので思い切り零そうと思う。
フランドール辺りは僕の事を無敵超人であるかのように見ているので、本当に疲れる。
よくもまあ魔理沙はいつも『天才的』魔法使いという立場を演じ切れているものだ。
「まあ、いずれこんな悩みは無くなるのだから杞憂だとは思うんだが……」
少し、間を空けて。
真剣な顔で僕は美鈴を見つめた。
「何故僕の店は、繁盛しないのだろうか」
美鈴は、静かな調子で、両手をきつく握って、答えた。
「多分、店主さんが仕事をする気がないからだと思います」
寒風が、肌を撫でた。
酔っているはずなのに、妙に肌を刺す風だった。
僕らはしばらくそのままの姿勢で硬直していた。
互いに、言葉の後の余韻に力を込めすぎた為に、次の言葉を言い出せないでいたのだ。
沈黙が、実に痛い。
このまま時間が流れるのかと不吉な予感が過ぎったが、そんな事はなく、
数秒の後に美鈴は、ぷっ、と小さくふきだした。
「なんだ。店主さんもじゃないですか」
いきなり笑われるとさすがの僕も不快なので、
「何がだい?」
とややつっけどんに尋ねると、美鈴はふふふ、と薄気味悪い笑みを浮かべてから言った。
「私たちはやっぱり似たもの同士ですよ。
ほら、私も仕事しないじゃないですか。
だから毎日怒られるんです。
で、店主さんも仕事しませんよね。
だから売れないんです」
「余計なお世話だよ」
ぱしん、と軽く美鈴の頭を叩いた。
だが美鈴は諦めず、こっちに迫ってきた。
「なんでですかーっ。仲良くしましょうよ! 人間も妖怪も仲良くすればずっと平和ですよ!」
「馬鹿な事を言うな。そんなステレオタイプなオプティミズムを振り回して生きていけるなら幻想郷など存在しない」
ぐいぐいと押し返す。
「そういう正義を敢えて振り回すんですよ! 正義の味方にはみんなあこがれちゃいますって!
だから店主さんも秘めた力を解放して――」
「そんな力は僕にはない」
あるのは天才的な頭脳と、天からの地位の承認くらいのものだ。
「でもですよ、店主さんが強くなったら魔理沙も霊夢も見直して――」
「失敬だな君は。まるで今の僕を二人が馬鹿にしているようにしか聞こえないんだが」
うぐっ、と美鈴は言葉に詰まる。
「い、いや。そんなつもりはないんですけど」
ここで畳み掛けようと思ったのだが敵も然る者味な者。
ぐいっ、と体をこちらに傾けて人差し指を立てる。
「とにかくっ! 店主さんは体を鍛えましょう!
人妖には人妖の力の使い方があります!
絶対そこら辺の異変なら解決できるほどの力が――」
「そして、女の子同士のごっこ遊びにどこの者とも知れぬ男が突如介入、かい?
シュール以外の何物でもない気がするんだがね」
美鈴は、しばらく考えていたが、やがてこほんっ、と咳払いを一つ。
「わ、話題がそれました。
とにかく私が言いたいことはですね。
爪弾き者同士仲良くしましょうということでして!」
彼女の言葉に、自然と反駁が漏れた。
「爪弾き者ではないと思うけれどね」
都合が悪いことに、ひゅう、と音を立てて風が通りすぎていった。
それが僕と美鈴の髪を弄び、同時に酔いまで持って行ってしまったようだった。
冷静になったのか、美鈴は恥ずかしそうに頬を掻いた後、ぺたんと元の位置に座り直した。
「いや、ええと。私だって、爪弾き者だとか本気で思ってるわけじゃないですよ?
お嬢様達は本当に良くして下さいますし」
ふん、と息を吐く。
「知っているよ」
そうでしたか、と美鈴は照れ笑いを浮かべる。
「どうにも店主さんは愚痴が通じなくて困ります。
もっと軽い気分で聞いて下さいよ、かるーく」
性分だからね、とにべもなく切り捨てておく。
ただ、美鈴は気分を害した様子はないので良しとしたい。
また沈黙が降りた。
ただ、今度は苦しい沈黙ではない。
思い思いに酒を啜り、肴に手を伸ばした。
空には雲がかかったのだろうか、月明かりはおぼろだった。
手に冷たい物が触れる。水滴だった。
雪が溶けたのか、それとも雨だったのかははっきりしない。
確かめようにも、空から落ちてくるものはもう無かった。
もしかしたら先程の冷たい水滴の感覚も気の間違いだったのだろうか。
分からない。
だが……とりあえず、酒はうまい。
良いことだ。
そう思っていると、横からほっ、と小さく息を吐くのが聞こえた。
まるで安堵の息のようにも感じる。
なんだろうと思って振り返ると、美鈴はばたばたと両手を慌ただしく振っていた。
「なっ、なんでもないですよ?」
一々挙動不審な子である。
だがそれに突っかかる気も起きない。
「別に怒ったりはしないよ。
何か思うことがあったなら言ってくれればいい」
いや、その、と美鈴は非常に言いにくそうな様子だ。
僕に対して厳しい意見を持っているのかも知れない。
だが、一々それで傷つくようならそもそも霧雨店から独立しようなどと考えたりはしない。
話すように促すと、美鈴は意を決したように口を開いた。
「ええと、ここに来てからずっとあなたがやってたことなんですけど……もしかして気がついてなかったのかなあって思いまして」
ずっとやっていた事……なんだろうか。
僕は自分自身をよく観察してみた。
おかしなところは何もない。
「あ、いや。今は大丈夫なんですけどね」
美鈴はそう前置きして、うーん、と唸った。余程言いにくいことなのかも知れない。
「あの、ええと……自分の座っていたテーブルのロウソクがやたらとがたがた揺れてたりしませんでした?」
さらには意味の分からないことを尋ねられた。
だが、とりあえず僕は思い返してみる。
レミリアとの会話だ。
確かにあの時、ロウソクの炎がちらちらと揺れて彼女の表情に様々な陰影を与えていた事を思い出す。
「そうだね。揺れていた気がするよ。それが何か?」
うーん、と美鈴は苦笑いを浮かべる。
「何か、と言われますと……その、ですね」
だが、やがて決心したのか数秒の沈黙の後に、重い口を開いた。
「店主さんは、ここに来てからずっと、足を揺すり続けていたんですよ」
まさか、と思わず異論の声を上げる。
「商人の端くれとして……そしてそもそも一般的客人の常識として、
そういう事はしていなかったと思うんだが。
――していたのかい?」
少し、頭がぐちゃぐちゃになっているようだ。
冷たい掌を両頬に当てて熱くなった思考を落ち着けていく。
美鈴は僕が聞く姿勢に戻ったのを確認して、苦笑と共に口を開く。
「私だってびっくりしましたよ、本当に。
立ってる時も、こうやって屋根に座っている時もがたがた足を揺するんですから。
椅子に座ってる時は相当酷かったはずですよ?」
嘘ではあるまい。
恐らく、僕はずっとそうしていたのだろう。
思えばレミリアの言葉もずっと変だった。
妙に僕を気遣っていたし、無理矢理館に押し込めてきた。
ガタガタと足を揺すり続ける香霖堂店主を見て、
その異常に驚いたいうことならば、彼女の不自然な態度も頷ける。
いくら傍若無人な吸血鬼でも、哀れに思うだろう。
僕がそうなってしまった理由は、一々考証するまでもなかった。
「魔理沙が蛙になった事でそんなに取り乱していたのかな、僕は」
それしかないと思います、と美鈴も頷いた。
「ずっとその話題を口に出さなかったからかえって心配だったんです。
本当は気がかりで気がかりで仕方なかったんですよね」
認めるのは気恥ずかしくて、
「そうかもしれないね」
と曖昧に返答しておいた。
美鈴は、全く、と大げさに息を吐く。
「私に話してくれればいいじゃないですか。
相談相手として役不足だったんですか?」
真剣なこの少女の言葉に思わず、失笑する。
「随分自信過剰な子だな、君は」
「……ふぇ?」
シリアスな話の腰を折られたためか、美鈴はきょとんとしてこちらを見つめてきた。
言いたいことは分かるよ、と言い置いて僕は続ける。
「確かに君では役者不足かも知れないね。
可哀想な可哀想な店主さん、などと言われると僕の怒りが頂点に達するかも知れない」
むう、と美鈴は唸った。
「同情するなら金をくれってやつですか?」
「君は本当に辛辣だな」
やれやれ、と溜息が漏れる。
随分長い溜息だった。
今までの心労が全て流れていくような溜息だった。
「大の男が可哀想に可哀想にと同情を受ける所を想像してみるといい。
……どうかな、ひどく惨めだろう?」
あー、と美鈴は苦い笑いを浮かべる。
「惨めな上に格好悪いですねえ」
だろう、と僕は笑う。
「そして、君は十中八九僕を惨めで格好悪い状態にする究極の同情攻撃を行うわけだ」
むむ、と美鈴は唸る。
「た、確かに……」
最後にややオーバーに両手を広げてみせた。
「だから、君には相談しなかった。役者不足を気にする必要はないよ」
返答はなかった。
ぽかんとして美鈴は僕を見ていたのだが、
やがて言わんとすることを理解したのか、
くすくすと声を押し殺して笑った。
「もしかして、気遣っているつもりだったりします?」
笑われるとは心外だったのでややむっとして返答する。
「もしかしなくてもその通りだよ。
相談しなかったことで君が傷心なのではないだろうかと思ったからね。
この僕が気を使ったのだから有り難く受けて欲しいものだ」
それを聞くと、美鈴はいよいよ大きく笑い出した。
全く、本当にやれやれな子だ。
思わず苦笑が漏れた。
美鈴はひとしきり笑ったあと、
笑みの残滓を残したまま、実はですね、と申し訳なさそうに口を開いた。
「本当は、一人にさせておいてやれって、お嬢様に言われたんです」
ごにょごにょと、人差し指を突き合わせながら彼女は続ける。
「でも、やっぱり放っておけないじゃないですか。
本当、今にも死んじゃいそうな顔だったんですよ、店主さん。
お嬢様がパーティ前の忙しい時に無理矢理時間を割いて話をしたのも道理ってものです」
それで、と僕は屋根に寝転がった。
「何とかしたいと思っていてもたってもいられなくなって……というわけかい?」
ええ、と頷く彼女にやれやれだ、と文句を垂れる。
「レミリアが正しい。
小さな親切大きなお世話と言うだろう」
「頭じゃ分かってるんですけどね。なかなか難しいんですよ、これが」
気がついたら体が動いちゃってまして、と美鈴は力無く笑った。
「ひたむきなのは悪くないと思うが」
ぼそりとそう言うと、美鈴は、はてな、と首を傾げた。
「何か言いました?」
いや、と首を横に振る。
「今回は、まあ良い方向に転がったからお咎め無しということにしておこう。そう言っただけだよ」
本当ですか、と美鈴は疑わしげにこちらを見やった。
「なんだか、もっと短い言葉だった気がしますけど」
「気のせいだよ」
顔を背けると、空には月も星の輝きも無くなっていた。
重い雲に隠されてしまったのだろうか。
そう思っていると、鼻先にふわりと何かが舞い降りた。
触れると、それは水滴だった。
やはり、雨だろうか。
そう思って目をこらすと、右へ、左へと揺れながら、
白くてふわふわとしたものが次から次へと落ちてくるのが目に入った。
錯覚ではあるまい。
手を伸ばして、そっと触れる。
それは目の前でじわじわと透明になり、やがて形を失って水となった。
思わず息が漏れる。
雲のカーテンに抵抗するように、微かな光がここまで届いていた。
それが、人工灯なしでの夜の雪見酒という、乙な情景を作り出している。
読書家は、明るすぎもせず、暗すぎもしない明かりを好む。
紅魔館の明かりもそうだが、ここの月影も穏やかで好ましい。
この光景に乗じて一度くらいは、口に出してみてもいいかも知れない。
「……魔理沙は、大丈夫だろうか」
それを聞いた美鈴は、本当に驚いたようだった。
絶対に頼られるはずがない、と。
そう思っていたのだろう。
僕とて頼るつもりは毛頭無かった。
ただ、何となく尋ねてみたくなったのだ。
心配だったからではない。
美鈴がその問いに対してどう答えるのか。
それが、とても気になった。
美鈴はしばらくうろたえていた。
やはり突然尋ねても困るだろう。
申し訳ない事をした。
そう思っていたのだが、僕は彼女を見くびっていたらしい。
ぐいっ、と一気に酒をあおり、
表情を強気なものに変えて、美鈴は笑顔と共に大きく頷いた。
「絶っ対に大丈夫です! 助かります!」
そして、ぐっ、と自分の拳を握りしめて、
「紅魔館の皆が助けるって言ったんです。
助けられないものなんて、ありません」
自信に満ちた声でそう宣言した。
だからこそ、僕は考える。
僕がずっと美鈴の気遣いに気がつかなかったように、
美鈴もまた気がついていないのだろうと。
もしかしてこの子は自分のことを爪弾き者だと思っているのではないかと、
僕が心配していたことなど、彼女は全く気がついていないに違いない。
だが、それでいい。
僕はそんなキャラクターではない。
賢く、ニヒルで、やや傲慢な店主。
それがこの僕である森近霖之助だ。
今日はあまりの事件に動揺して、その人物像が少し揺らいでしまったが、明日になれば立て直すことが出来るだろう。
いや、立て直さねばならない。
そうでなくては香霖堂を訪れる客に申し訳が立たない。
自慢ではないが、僕との対話を求めてやってくる客も居るのだ。
そんな彼らが弱った店主の姿を見たらどう思うだろうか。
さぞ、失望するに違いない。
頷き、体を起こした。
きょとんとする美鈴に、いつも通りの仏頂面を見せる。
「明日魔理沙に会える顔になっているかな?」
そう言うと、美鈴は少しだけ目を細めて、首を横に振った。
「結構、酷い顔ですよ」
そうかい、と苦笑する。
そうだろう。鏡は見ていないが、酷い顔なのだろう。
なに、夜が明けるまで飲み明かせば問題ない。
「心配し過ぎてこうなった、などとあの子に思われたら癪だからね。
こうなったら夜更かしを原因にしようと思うのだが」
「そんなに弱みを見せたくないんですか」
美鈴はやれやれ、とまるで僕のように溜息を吐いた。
「仕方のない人ですねえ……」
そして、チーズを一切れ千切って、僕に渡した。
「じゃあ、朝まであなたの話を聞いてあげますよ」
ふん、と僕は鼻を鳴らして、美鈴に指を突きつけた。
「聞かせて貰うの間違いだね、それは。
僕の話は千金を積んでも尚聞きたがる人がいるくらいだ」
はいはい、そうですか。
笑う美鈴に、ならば紅魔館に見合った話を提供しようじゃないか、と僕は気合いを入れる。
「今から随分昔の話なんだが、ハンガリーにエリザベート・バートリという伯爵夫人が居てね……」
しんしんと、雪が降り積もる。
明日には止んでいるのだろうか。
それとも白い道を作るのだろうか。
日が昇る頃に幻想郷を覆う光景が楽しみだ。
僕の口は、いつもよりずっと滑らかに、蘊蓄を紡ぎ出していくのだった。
次の日、当然のように復活した魔理沙は、ぐるぐると箒を振り回しながら快活に笑った。
「いやーっ。蛙ってのも案外楽しいもんだな!」
たまにはなってみるもんだぜ、と僕の腰をばんばん叩きながら大笑いしている。
全く、心配したのが馬鹿らしくなってきた。
どうやら全くこたえていないらしい。
彼女を助けた魔女も、張り合いが無かったと苦笑するほど、魔理沙は元気だった。
「そういやさ、香霖。
紅魔館の連中は酷いぜ。
人が礼を言ったってのにどいつもこいつも狐に摘まれたような顔をするんだ。
酷いよなあ。パチュリーの奴なんて、それこそ化け物を見るような目でこっちを見やがって。
ただ、ありがとうって言っただけなんだけどなあ」
その魔理沙の言葉を聞いて、しまった、と僕は思った。
もう紅魔館の門は遠い。
しかし、言っていなかった。
レミリアにも、そして美鈴にすら。
一言も礼を言っていなかったのだ。
「ん……どうした、香霖?」
見上げる魔理沙に、無表情に首を横に振った。
「いや、なんでもないよ」
ほんとか? と箒の先端でつんつんと脇腹を突いてくるのが一々うざったい。
元気になったらなったで迷惑な子だ。
しかし、礼か。
やはりもう一度紅魔館に戻るべきだろうか。
そう考えて、首を横に振った。
止めておこう。
言い忘れた礼をわざわざ言いに戻るなんて馬鹿な話があるか。
しち面倒くさい。
その代わりに、だ。
彼女達が今度店に来た時には、飛び切り割り引いてやろう。
それでとんとんだ。
僕の斜め後ろを歩く魔理沙は、なあなあ、と興味が尽きないようで裾を引っ張って尋ねてくる。
「昨日は香霖は何やってたんだ?」
軽いステップを踏んで魔理沙は僕の隣に立った。
「パーティやってたって話だったけど、そういう所に行くような奴じゃないしなあ」
うーん、と首を捻る魔理沙の額を軽く指で弾いて、また彼女の前に出た。
「昨日は、紅魔館の屋根の上で雪見酒をしていたんだよ」
ははっ、と魔理沙は笑った。
「そりゃいいぜ。見えない雪をずっと見てたのか! 香霖らしいなあ」
「……君は僕をどんな奴だと思っているんだ、全く」
苦笑しながら、僕と魔理沙は歩く。
僕が前で、魔理沙が後ろだ。
しゃくっ、しゃくっ、と。
快音を響かせながら、僕らはゆっくりと各の住処へと帰っていく。
太陽の光はひっそりと隠れ、木の枝と枝に挟まった雪が僅かに溶けてきらりと輝いていた。
吐く息の白さも気にならないほどに、幻想郷は銀色に染め上げられていた。
しゃらん、と。どこかでつららの落ちる音がした。
雪はまだ、ふわふわと降り続いている。
とても遠回りをして滲みでた言葉です。なればこそでしょうか。響きます。
陰にこもった愛すべき朴念仁に自然とこの言葉を吐かせるとは、
たしかにこの文章を繋いでゆく様はきれいですね。
こんな香霖もいいですね。
今回は以前よりjも少し広い霖之助の視野を見せられましたね。
どこから来てるのかわからない自信を持つくせになんとなく凡な領域を抜けられない彼が大好きw
あと、役不足という言葉の使い方にちょっと感心。あれは日本人の過半数は意味履き違えてますよねぇ…確信犯とか…
これは単なる馬鹿にはできないと思いますよ
さらりとした文章で読みやすかったのですが、
本音では魔理沙を心配している香霖ですが、なんだか前半の癖のある部分の印象の方が強すぎて
個人的にはちょっと受け入れがたかったです。
もう少し薄味でもよかったかなと思いました。
相変わらず素直じゃない店主さんがとても良かったです。
ザンボットですか?
異変解決どころか、新世界創造まで出来てしまいそうだwww
それにしても今度は雪景色ですか
毎度毎度本当に綺麗な物語を紡いでくださる
まぁ自然の豊かな幻想郷で花ごときの為にDDTは使わない方がいいでしょうが、本筋に関係無いのにDDTを害悪みたいに言うのやめてくれませんかね?
リスクに相応のメリットがある薬なんですぜ。
やり方は違いますが皆相手を気遣っているのがよく伝わります。
もう一度読み直すと、無自覚に焦燥している霖之助の姿が目に浮かびました。