「よし、今日はここまでにしよう」
紅魔館の地下の一室、薄暗く陰気な雰囲気に似合わぬ溌剌とした声で慧音は言った。
それと同時にやっと終わった、という表情を隠そうともせずに、フランドールは鉛筆を学習机に転がした。
「あ~疲れたぁ。やっぱり私、歴史って面白いとは思えないわ。
御伽噺の方がずっと楽しいもの」
べったりと机に伏して口をとがらせるフランドールを見て、慧音は苦笑する。
「お前はこの館から出た事が無いんだろう?
いずれ外に出て、色々な物を見て様々な体験をすれば、自然と物事の成り立ちについて興味が持てる様になるさ。
この湖はいつからあったんだろうとか、あの里はどうやって出来たんだろうとか、な」
「…ふ~ん…そんなもんかなぁ」
「そんなもんさ。何せ私がそうだからな!」
力強く断言する慧音。そのまま如何に歴史が魅力的かを語りだす。
家庭教師としてこの館に通い始めてから、顔を合わせた回数はまだ十にも満たないが、この半獣が歴史に対して並々ならぬ執着を持っている事はフランドールにも理解出来た。
何せ国語や算数の授業中でさえ隙あらば歴史をねじ込んで来るのだ。
…いずれ外に、か。
そんな事を考えながら慧音の熱弁を聞き流していると、ノックの音が鳴り、扉が開いた。
「お茶をお持ち致しました。先生、一旦休憩なさってはいかがですか?」
「ああ、すまない。授業はもう終わったんだが、ふとした拍子で舌が止まらなくなってしまってな…」
「聞いてるこっちの身にもなって欲しいわよ」
いや面目ない、と申し訳なさそうに紅茶を啜る慧音と、頬を膨らませるフランドール。
そんな二人を見て、咲夜は僅かに口元を緩めた。
やはり、二人の仲は悪いものでは無いらしい。
数ヶ月前にお嬢様から家庭教師を雇うと聞かされた時は驚いたが、この分なら大きな心配はなさそうだ。
妹様もなんだかんだと言いながら、慧音の来る日は上機嫌である。
自分の知らない存在に出会う事が、今の妹様にとってはきっと何よりも楽しいのだろう。
「それではお二人共、ごゆるりと」
「うん、いつもすまないな」
「またねー、咲夜」
ティーセットの置かれたテーブルに向かい合って座る。
授業が終わった後、特別な用が無い限り、慧音はフランドールの話し相手になっていた。
最初の授業の終わりに、フランドールからせがまれたのがきっかけだが、今やすっかり習慣となっていた。
そんな訳で、フランドールのテンションもこの時間が一番高い筈だが、今日は何故か元気が無い。
紅茶には手をつけず、叱られた子供のように俯いて、時々上目遣いにこちらを見やる。
慧音はその仕草に見覚えがあった。
里の子供の一人が、両親の不仲について相談しに来た時に、確かこんな感じでもじもじしていたのだ。
慧音はその子供にしたように、努めて優しく話しかけた。
「どうした、何だか元気が無いようだが、悩み事でもあるのか?私で良ければ幾らでも聞くぞ」
「…えっと、あの…この話、誰にも…特にお姉様には、内緒にしてて欲しいんだけど…」
「ああ、約束するよ。私の口は鬼の角より堅いんだ」
それ、例えになってないよと笑うフランドール。
さして冗談が得意ではない慧音の精一杯の努力だったが、どうやら功を奏したようだ。
フランドールは湯気の立つ紅茶に口をつけ、それからやや俯き加減で話し始めた。
「先生、さっき外の世界に出て色んな体験をすれば、歴史に興味が持てるようになる、って言ったよね?」
「ああ、言ったな。確かにその通りだ」
「だとしたら、私、一生歴史を好きになれないかもしない」
「…それはどういう意味だ?」
「私ね、生まれてからずっとこの部屋で過ごして来たの。
時々は館の中をお散歩したりするけど、外に出た事は一度も無いわ。
それは私が…私の力が、危険過ぎるからだって、お姉様は言うの。
でも私は、今は大分この力を制御出来てる。
でもお姉様はそれを信用するどころか、確かめもしない。
あなたはまだ未熟だって言って聞いてくれないの。そんなに信用出来ないなら――お姉様が運命を変えれば良いのに。
お姉様の力なら、この薄暗い地下室に篭りきりの運命を変えて、月の下を一緒に飛び回れるようにする事も出来る筈なのに。どうしてそうしてくれないの?」
ここに至って、フランドールは顔を挙げ、慧音の眼を見た。
その声色は震え、紅い瞳には涙が滲み始めていた。
慧音は何も言わずに、その視線を受け止めている。
「私も外に出て、魔理沙や霊夢と遊んでみたいのに、お姉様はそれを許してくれないの。
自分はいつでも好きな時に神社に行ってるのに、私は危ないからって。
私が誰も壊さないって約束しても、駄目だって。
取り返しのつかない事になってからでは、遅いって…
それなら、お姉様が、そうならないようにすれば良いって、
そう言っても、それじゃ、か、解決にならないって……
その時の言葉が、すっ、すごく、素っ気無くて、
お、お姉様は、本当はわた、私を、私の事を、き、嫌いなんじゃないかって、お、思って、
でも、お姉様は、この部屋に来たら、いつもあ、あいしてるって、ごめんねって、言ってくれて、
それなのに、私、お姉様の、言葉、信じられなかった!
心の中で、私は、お姉様を、う、裏切ったの!
外、外に出たいっ、なんて、ワガママだって、私には、解ってたのに……
そんな事で、お姉様を不快にさせて、
あまつさえ、裏切って……私、私なんて、生まれて来なければ良かったのに!」
しゃくりあげながら必死で語るフランドールの言葉に、慧音は少なからず衝撃を受けていた。
いつもは無邪気な彼女の内側に、これだけの苦悩が隠されていたとは。
そしてこれほど深刻な悩みを打ち明けられる程に、私は信用されていたのか。
いや、寧ろ出会ってから日が浅いからこそ打ち明けてくれたのかもしれない。これは身内には出来ない相談だろう。
兎も角、この私より遥かに年上の生徒は、勇気を振り絞って大きな悩みを打ち明けてくれた。
これに応えずして何が教師か。
慧音は席を立つと、尚嗚咽を漏らし続けているフランドールの側に寄った。
「フランドール。お前はレミリアが、お前の事を嫌いだからここに閉じ込めていると考えたんだな?
その気になれば運命を操ってここから出せる筈なのに――と」
こくり、と頷くフランドール。
「しかしそんな事を考えた自分に対して許せない、という感情を抱いている」
再び頷く。幻想郷でも屈指の戦闘力を誇る吸血鬼は、今はしかしただの幼子の様だった。
慧音は、ぽんとフランドールの頭に手を置いた。びくり、と肩が跳ねる。
にっこり笑って、一言。
「あっちのソファで話さないか?」
フランドールが落ち着くまで、慧音はその髪を撫で続けた。絹糸のようだな、と場違いな事を頭の何処かで考えていた。
ようやく泣き止んだフランドールは、少しくすぐったそうにしながらも、それを嫌がる素振りは見せなかった。
べしゃべしゃになった顔をハンカチで拭いてやってから、慧音は口を開いた。
「なぁ、フラン。私は、レミリアがお前の運命を変えないのは、お前の事を嫌っているからでは無いと思うぞ」
「…どうしてそう思うの?」
「ん…私の考えでは、レミリアは既に行動を起こしていると思う。
そしておそらく、もうお前の運命は変わっているんだよ」
「嘘。それなら何故私は…」
「確かに、はっきりした証拠がある訳では無い。ここから先は殆ど私の推論だが、思うにレミリアの能力は、それほど融通の利くものでは無いんだ」
「………」
「信じられないか?
少し前の話だが、お前が紅魔館に飛んで来た隕石を破壊した事があっただろう?
新聞であの記事を読んだ時に、疑問が湧いたんだ。
何故レミリアは運命を操って、隕石を地球から逸らさなかったのか、とね。
それならわざわざお前の手を煩わせる事も無かったろうに。
そこで私は仮説を立てた。
レミリアの能力は、ある程度近い将来で無いと効力を発揮しない。
あるいは、強固な運命に対しては修正に時間がかかる。
私は恐らく後者だと思う。それなら、お前の今までの境遇と辻褄が合うからな」
「――どういう事?」
「お前が生まれた時、レミリアはお前の将来に、何か悪いものを視たんだと思う。
少なくとも、この現状よりも悪い何かを。
そして、その運命に対抗する手段が、お前を閉じ込める事だったんだ」
「…お姉様は…私を、助ける為に…?」
「ああ。レミリアにとっても苦渋の選択だったと思う。
何せ生まれたばかりの妹を閉じ込めなくてはならなかったんだからな。
それも、五百年もの長きに渡って……。
フラン、この考えが正しければ、お前は勿論悪くない。だがレミリアも悪くない。
誰も悪い奴は居ないんだ。ただ、運命がそうなっていただけ。
それでもレミリアは負い目を感じている筈だ。結果的にお前が苦しんでいる事に対してな。
だからあいつは何も話さんのだろう……そうすれば、お前の不満は、レミリアに向けられる。
恐らくそれがレミリアにとっての――」
「――贖罪」
「――だろうな。繰り返すが全ては推論だ。だが、私はこれで正解だと思う」
「……馬鹿じゃないの。初めから全部話してくれれば、お姉様が私を嫌いなんじゃないかなんて、思わなかったのに」
「そうすればお前は自分の運命を呪うだろう。
レミリアの行動から察するに、彼女が恐れているのはお前が自分自身を否定する事だ。
だが、お前はレミリアの予想を超えて優しすぎた。
お前はレミリアに不満を持ったが、同時にそんな自分を嫌悪した。
一瞬でも姉の言葉を信じられなかった自分が許せなかった。
更には生まれて来た事すら後悔した。
解るかフラン?それこそが、レミリアが最も避けたかった事なんだ」
慧音は確信していた。レミリアが、心の底から妹を案じている事を。
物的証拠は無きに等しい。
隕石の件だって、本当に面倒でフランドールにやらせたのかもしれない。
だが、慧音は確信していた。レミリアが、心の底から己の無力さを恥じている事を。
何故ならレミリアはフランドールに言ったのだ。愛していると。ごめんねと。
レミリアと知り合って日は浅いが、これだけは言える。
あいつは、あのちんちくりんの癖に高慢な吸血鬼は、そんな嘘がつける程、器用でも不誠実でも無いのだ。
フランドールは俯いたまま、石像のように動かなかった。
横顔には髪がかかり、表情は見えなかった。
やがて耳鳴りが聞こえる程の静寂の上に、ぽつりと声が落ちた。
「……本当に馬鹿だわ。何も悪くない癖に、独りで背負って、悪役を演じて。
それも通せずに、罪悪感に負けて、謝って――どうしようもなく愚かだわ。
私の運命が全ての原因なのに。私にそんな価値なんて無いのに。
それなのに――」
お姉様、と呟いて、後は声にならなかった。
部屋の外まで響く程の大声で、フランドールは泣いた。
慧音は黙って、赤ん坊のように泣くフランドールを抱きしめた。
停止した時の中で、咲夜は二人を見つめていた。
お茶のお代わりを持って来る際に聞こえたフランドールの泣き声に、最悪の事態を連想した咲夜は即座に時を止め、部屋に踏み込んだのだった。
しかし室内の光景は、咲夜の予想を大きく裏切るものだった。
「……まるで母子ね」
妹様を抱きしめる慧音の表情は、仏の様に穏やかだった。
咲夜はすっかり冷めたティーポットとカップを取り替えると、一言。
「ごゆるりと」
「先生、私、お姉様と話してみる。」
帰り支度をする慧音の背中に、フランドールは言った。
「そしてお姉様の本音を聞くわ。時間はかかるかもしれないけど、いつか必ず」
「ああ、お前なら必ず出来る。私にも出来る事があれば協力するよ」
「ありがとう先生。でも大丈夫。先生にはもう、十分過ぎるぐらい手伝って貰ったから」
そしてフランドールは、この日一番の笑顔を見せた。
その笑顔があんまりにも明るいので、慧音も釣られて笑ってしまった。
「先生!また来てね!」
「勿論だ。今度は楽しい話を期待しているよ」
扉を閉める慧音に向かって、フランドールはぺこりとお辞儀をした。
紅魔館の一室、大テーブルの椅子に座ったレミリアは、ワイングラスを傾けた。
すかさず咲夜がワインを注ぐ。レミリアは溜息をつきながら呆れた様に言った。
「咲夜、何があったのか知らないけど、いい加減その顔直しなさいよ。
ハッキリ言って気持ち悪いわ」
「…失礼しました、お嬢様」
咲夜の顔は、食事を運んで来た時から頬が緩みっぱなしである。
当の本人は指摘されるまで自覚が無かったようで、慌てて真顔になった。
「ま、良いけどね。今日はとても目出度い日だし、そのぐらい」
「と、申されますと?」
咲夜には、今日が何かの記念日であるというような記憶は無かった。
レミリアは嬉しそうにクルクルとグラスを回した。
「五百年間、この日を待ち続けたわ――あの子の運命が変わったのよ。
これで最大の障害は無くなった。
後はあの子が、あの力を制御するだけ。今でもある程度はコントロール出来るみたいだし――
フランが外へ出られる日は近いわ」
「――それは、本当に素晴らしい事ですわ。本当に……これでお嬢様も、肩の荷を降ろす事が出来るのですね」
咲夜は胸の内に熱いものが込み上げて来るのを感じていた。
遂に妹様に真実を話す時が来たのだ。これでお嬢様の長年の苦労も報われる。
レミリアは満足気に笑いながら、グラスを空にした。
「いいえ咲夜、まだよ。あの子にはまだまだしてあげなくてはならない事が山程ある。
今まで味わわせて来た寂しさや退屈を帳消しにするぐらい、楽しい思いをさせてやらなきゃね」
そう言ってレミリアは、音も無く椅子から降りた。
「お嬢様、どちらへ?」
「自室よ。もしフランドールが私に会いたいと言って来たら、他にどんな仕事があってもそれを優先しなさい。私が眠っていても起こして構わないわ」
「承知致しました、お嬢様。ですが……」
「あら、何か不服でも?」
「まだピーマンが残っています」
「うー!」
「しゃがみガードしてもダメです」
五百年の時を経て、運命は収束する。解放と言う名の始まりに向けて。
END
紅魔館の地下の一室、薄暗く陰気な雰囲気に似合わぬ溌剌とした声で慧音は言った。
それと同時にやっと終わった、という表情を隠そうともせずに、フランドールは鉛筆を学習机に転がした。
「あ~疲れたぁ。やっぱり私、歴史って面白いとは思えないわ。
御伽噺の方がずっと楽しいもの」
べったりと机に伏して口をとがらせるフランドールを見て、慧音は苦笑する。
「お前はこの館から出た事が無いんだろう?
いずれ外に出て、色々な物を見て様々な体験をすれば、自然と物事の成り立ちについて興味が持てる様になるさ。
この湖はいつからあったんだろうとか、あの里はどうやって出来たんだろうとか、な」
「…ふ~ん…そんなもんかなぁ」
「そんなもんさ。何せ私がそうだからな!」
力強く断言する慧音。そのまま如何に歴史が魅力的かを語りだす。
家庭教師としてこの館に通い始めてから、顔を合わせた回数はまだ十にも満たないが、この半獣が歴史に対して並々ならぬ執着を持っている事はフランドールにも理解出来た。
何せ国語や算数の授業中でさえ隙あらば歴史をねじ込んで来るのだ。
…いずれ外に、か。
そんな事を考えながら慧音の熱弁を聞き流していると、ノックの音が鳴り、扉が開いた。
「お茶をお持ち致しました。先生、一旦休憩なさってはいかがですか?」
「ああ、すまない。授業はもう終わったんだが、ふとした拍子で舌が止まらなくなってしまってな…」
「聞いてるこっちの身にもなって欲しいわよ」
いや面目ない、と申し訳なさそうに紅茶を啜る慧音と、頬を膨らませるフランドール。
そんな二人を見て、咲夜は僅かに口元を緩めた。
やはり、二人の仲は悪いものでは無いらしい。
数ヶ月前にお嬢様から家庭教師を雇うと聞かされた時は驚いたが、この分なら大きな心配はなさそうだ。
妹様もなんだかんだと言いながら、慧音の来る日は上機嫌である。
自分の知らない存在に出会う事が、今の妹様にとってはきっと何よりも楽しいのだろう。
「それではお二人共、ごゆるりと」
「うん、いつもすまないな」
「またねー、咲夜」
ティーセットの置かれたテーブルに向かい合って座る。
授業が終わった後、特別な用が無い限り、慧音はフランドールの話し相手になっていた。
最初の授業の終わりに、フランドールからせがまれたのがきっかけだが、今やすっかり習慣となっていた。
そんな訳で、フランドールのテンションもこの時間が一番高い筈だが、今日は何故か元気が無い。
紅茶には手をつけず、叱られた子供のように俯いて、時々上目遣いにこちらを見やる。
慧音はその仕草に見覚えがあった。
里の子供の一人が、両親の不仲について相談しに来た時に、確かこんな感じでもじもじしていたのだ。
慧音はその子供にしたように、努めて優しく話しかけた。
「どうした、何だか元気が無いようだが、悩み事でもあるのか?私で良ければ幾らでも聞くぞ」
「…えっと、あの…この話、誰にも…特にお姉様には、内緒にしてて欲しいんだけど…」
「ああ、約束するよ。私の口は鬼の角より堅いんだ」
それ、例えになってないよと笑うフランドール。
さして冗談が得意ではない慧音の精一杯の努力だったが、どうやら功を奏したようだ。
フランドールは湯気の立つ紅茶に口をつけ、それからやや俯き加減で話し始めた。
「先生、さっき外の世界に出て色んな体験をすれば、歴史に興味が持てるようになる、って言ったよね?」
「ああ、言ったな。確かにその通りだ」
「だとしたら、私、一生歴史を好きになれないかもしない」
「…それはどういう意味だ?」
「私ね、生まれてからずっとこの部屋で過ごして来たの。
時々は館の中をお散歩したりするけど、外に出た事は一度も無いわ。
それは私が…私の力が、危険過ぎるからだって、お姉様は言うの。
でも私は、今は大分この力を制御出来てる。
でもお姉様はそれを信用するどころか、確かめもしない。
あなたはまだ未熟だって言って聞いてくれないの。そんなに信用出来ないなら――お姉様が運命を変えれば良いのに。
お姉様の力なら、この薄暗い地下室に篭りきりの運命を変えて、月の下を一緒に飛び回れるようにする事も出来る筈なのに。どうしてそうしてくれないの?」
ここに至って、フランドールは顔を挙げ、慧音の眼を見た。
その声色は震え、紅い瞳には涙が滲み始めていた。
慧音は何も言わずに、その視線を受け止めている。
「私も外に出て、魔理沙や霊夢と遊んでみたいのに、お姉様はそれを許してくれないの。
自分はいつでも好きな時に神社に行ってるのに、私は危ないからって。
私が誰も壊さないって約束しても、駄目だって。
取り返しのつかない事になってからでは、遅いって…
それなら、お姉様が、そうならないようにすれば良いって、
そう言っても、それじゃ、か、解決にならないって……
その時の言葉が、すっ、すごく、素っ気無くて、
お、お姉様は、本当はわた、私を、私の事を、き、嫌いなんじゃないかって、お、思って、
でも、お姉様は、この部屋に来たら、いつもあ、あいしてるって、ごめんねって、言ってくれて、
それなのに、私、お姉様の、言葉、信じられなかった!
心の中で、私は、お姉様を、う、裏切ったの!
外、外に出たいっ、なんて、ワガママだって、私には、解ってたのに……
そんな事で、お姉様を不快にさせて、
あまつさえ、裏切って……私、私なんて、生まれて来なければ良かったのに!」
しゃくりあげながら必死で語るフランドールの言葉に、慧音は少なからず衝撃を受けていた。
いつもは無邪気な彼女の内側に、これだけの苦悩が隠されていたとは。
そしてこれほど深刻な悩みを打ち明けられる程に、私は信用されていたのか。
いや、寧ろ出会ってから日が浅いからこそ打ち明けてくれたのかもしれない。これは身内には出来ない相談だろう。
兎も角、この私より遥かに年上の生徒は、勇気を振り絞って大きな悩みを打ち明けてくれた。
これに応えずして何が教師か。
慧音は席を立つと、尚嗚咽を漏らし続けているフランドールの側に寄った。
「フランドール。お前はレミリアが、お前の事を嫌いだからここに閉じ込めていると考えたんだな?
その気になれば運命を操ってここから出せる筈なのに――と」
こくり、と頷くフランドール。
「しかしそんな事を考えた自分に対して許せない、という感情を抱いている」
再び頷く。幻想郷でも屈指の戦闘力を誇る吸血鬼は、今はしかしただの幼子の様だった。
慧音は、ぽんとフランドールの頭に手を置いた。びくり、と肩が跳ねる。
にっこり笑って、一言。
「あっちのソファで話さないか?」
フランドールが落ち着くまで、慧音はその髪を撫で続けた。絹糸のようだな、と場違いな事を頭の何処かで考えていた。
ようやく泣き止んだフランドールは、少しくすぐったそうにしながらも、それを嫌がる素振りは見せなかった。
べしゃべしゃになった顔をハンカチで拭いてやってから、慧音は口を開いた。
「なぁ、フラン。私は、レミリアがお前の運命を変えないのは、お前の事を嫌っているからでは無いと思うぞ」
「…どうしてそう思うの?」
「ん…私の考えでは、レミリアは既に行動を起こしていると思う。
そしておそらく、もうお前の運命は変わっているんだよ」
「嘘。それなら何故私は…」
「確かに、はっきりした証拠がある訳では無い。ここから先は殆ど私の推論だが、思うにレミリアの能力は、それほど融通の利くものでは無いんだ」
「………」
「信じられないか?
少し前の話だが、お前が紅魔館に飛んで来た隕石を破壊した事があっただろう?
新聞であの記事を読んだ時に、疑問が湧いたんだ。
何故レミリアは運命を操って、隕石を地球から逸らさなかったのか、とね。
それならわざわざお前の手を煩わせる事も無かったろうに。
そこで私は仮説を立てた。
レミリアの能力は、ある程度近い将来で無いと効力を発揮しない。
あるいは、強固な運命に対しては修正に時間がかかる。
私は恐らく後者だと思う。それなら、お前の今までの境遇と辻褄が合うからな」
「――どういう事?」
「お前が生まれた時、レミリアはお前の将来に、何か悪いものを視たんだと思う。
少なくとも、この現状よりも悪い何かを。
そして、その運命に対抗する手段が、お前を閉じ込める事だったんだ」
「…お姉様は…私を、助ける為に…?」
「ああ。レミリアにとっても苦渋の選択だったと思う。
何せ生まれたばかりの妹を閉じ込めなくてはならなかったんだからな。
それも、五百年もの長きに渡って……。
フラン、この考えが正しければ、お前は勿論悪くない。だがレミリアも悪くない。
誰も悪い奴は居ないんだ。ただ、運命がそうなっていただけ。
それでもレミリアは負い目を感じている筈だ。結果的にお前が苦しんでいる事に対してな。
だからあいつは何も話さんのだろう……そうすれば、お前の不満は、レミリアに向けられる。
恐らくそれがレミリアにとっての――」
「――贖罪」
「――だろうな。繰り返すが全ては推論だ。だが、私はこれで正解だと思う」
「……馬鹿じゃないの。初めから全部話してくれれば、お姉様が私を嫌いなんじゃないかなんて、思わなかったのに」
「そうすればお前は自分の運命を呪うだろう。
レミリアの行動から察するに、彼女が恐れているのはお前が自分自身を否定する事だ。
だが、お前はレミリアの予想を超えて優しすぎた。
お前はレミリアに不満を持ったが、同時にそんな自分を嫌悪した。
一瞬でも姉の言葉を信じられなかった自分が許せなかった。
更には生まれて来た事すら後悔した。
解るかフラン?それこそが、レミリアが最も避けたかった事なんだ」
慧音は確信していた。レミリアが、心の底から妹を案じている事を。
物的証拠は無きに等しい。
隕石の件だって、本当に面倒でフランドールにやらせたのかもしれない。
だが、慧音は確信していた。レミリアが、心の底から己の無力さを恥じている事を。
何故ならレミリアはフランドールに言ったのだ。愛していると。ごめんねと。
レミリアと知り合って日は浅いが、これだけは言える。
あいつは、あのちんちくりんの癖に高慢な吸血鬼は、そんな嘘がつける程、器用でも不誠実でも無いのだ。
フランドールは俯いたまま、石像のように動かなかった。
横顔には髪がかかり、表情は見えなかった。
やがて耳鳴りが聞こえる程の静寂の上に、ぽつりと声が落ちた。
「……本当に馬鹿だわ。何も悪くない癖に、独りで背負って、悪役を演じて。
それも通せずに、罪悪感に負けて、謝って――どうしようもなく愚かだわ。
私の運命が全ての原因なのに。私にそんな価値なんて無いのに。
それなのに――」
お姉様、と呟いて、後は声にならなかった。
部屋の外まで響く程の大声で、フランドールは泣いた。
慧音は黙って、赤ん坊のように泣くフランドールを抱きしめた。
停止した時の中で、咲夜は二人を見つめていた。
お茶のお代わりを持って来る際に聞こえたフランドールの泣き声に、最悪の事態を連想した咲夜は即座に時を止め、部屋に踏み込んだのだった。
しかし室内の光景は、咲夜の予想を大きく裏切るものだった。
「……まるで母子ね」
妹様を抱きしめる慧音の表情は、仏の様に穏やかだった。
咲夜はすっかり冷めたティーポットとカップを取り替えると、一言。
「ごゆるりと」
「先生、私、お姉様と話してみる。」
帰り支度をする慧音の背中に、フランドールは言った。
「そしてお姉様の本音を聞くわ。時間はかかるかもしれないけど、いつか必ず」
「ああ、お前なら必ず出来る。私にも出来る事があれば協力するよ」
「ありがとう先生。でも大丈夫。先生にはもう、十分過ぎるぐらい手伝って貰ったから」
そしてフランドールは、この日一番の笑顔を見せた。
その笑顔があんまりにも明るいので、慧音も釣られて笑ってしまった。
「先生!また来てね!」
「勿論だ。今度は楽しい話を期待しているよ」
扉を閉める慧音に向かって、フランドールはぺこりとお辞儀をした。
紅魔館の一室、大テーブルの椅子に座ったレミリアは、ワイングラスを傾けた。
すかさず咲夜がワインを注ぐ。レミリアは溜息をつきながら呆れた様に言った。
「咲夜、何があったのか知らないけど、いい加減その顔直しなさいよ。
ハッキリ言って気持ち悪いわ」
「…失礼しました、お嬢様」
咲夜の顔は、食事を運んで来た時から頬が緩みっぱなしである。
当の本人は指摘されるまで自覚が無かったようで、慌てて真顔になった。
「ま、良いけどね。今日はとても目出度い日だし、そのぐらい」
「と、申されますと?」
咲夜には、今日が何かの記念日であるというような記憶は無かった。
レミリアは嬉しそうにクルクルとグラスを回した。
「五百年間、この日を待ち続けたわ――あの子の運命が変わったのよ。
これで最大の障害は無くなった。
後はあの子が、あの力を制御するだけ。今でもある程度はコントロール出来るみたいだし――
フランが外へ出られる日は近いわ」
「――それは、本当に素晴らしい事ですわ。本当に……これでお嬢様も、肩の荷を降ろす事が出来るのですね」
咲夜は胸の内に熱いものが込み上げて来るのを感じていた。
遂に妹様に真実を話す時が来たのだ。これでお嬢様の長年の苦労も報われる。
レミリアは満足気に笑いながら、グラスを空にした。
「いいえ咲夜、まだよ。あの子にはまだまだしてあげなくてはならない事が山程ある。
今まで味わわせて来た寂しさや退屈を帳消しにするぐらい、楽しい思いをさせてやらなきゃね」
そう言ってレミリアは、音も無く椅子から降りた。
「お嬢様、どちらへ?」
「自室よ。もしフランドールが私に会いたいと言って来たら、他にどんな仕事があってもそれを優先しなさい。私が眠っていても起こして構わないわ」
「承知致しました、お嬢様。ですが……」
「あら、何か不服でも?」
「まだピーマンが残っています」
「うー!」
「しゃがみガードしてもダメです」
五百年の時を経て、運命は収束する。解放と言う名の始まりに向けて。
END
いや、それにしてもこのフランちゃんは良い子すぎる(涙)
大変美しい紅魔館+けーね を拝見させていただきました。
しまった…挨拶を言い間違えた…
とてもいい作品をありがとうございました。
フランの心の中での孤独が、よく描かれていて
更にそれに応える慧音の言動が、とても自然に描かれていたと思います。
地の文も箇条書きっぽくて朴訥としているのだけど、それがかえって雰囲気を出しているように感じました。
それでは次回作も楽しみにしてますね。
慧音が家庭教師としてフランに物事を教え、そんなフランが
彼女に悩みを打ち明けるという・・・とても良い話でした。
そして、最後のしゃがみガードで全てを笑いに持っていかれた!
ちくしょう……それも含めてお見事です。
盛大に吹いた
またよろしく!
それも含めていい作品でした。
だけどこれだけは言っておく。
後退モーションも筆舌に尽くしがたいほどかわいいと。
フランの内心を巧くかけている点が最大の評価ポイントですね。
フランは気が触れている、狂気を内在するキャラクターとして定義されていますが、その狂気を寂しさと解釈すれば、ぴったりと当てはまる話です。
その解釈はおそらく常識人には優しい。
本当のところは、原作の設定からすると若干の乖離があるようには感じておりますが、まったく不可能な解釈ではないと思います。
遊びたいという感情は見て取れますから。
技巧的なレベルについて強く思ったことはキャラクターの配置です。
慧音を介することで少し距離をとっており、べったりとしてない点が清涼な感覚を与えてくれて良いと考えられます。
慧音って話の口調も淡白ですしね。
仮にこれが咲夜が聞き相手だったらどうかを少し想像してみると、もにゃっとした話になるのではないかと思います。
温度が高すぎても崩れる。
タンパク質のように変形する。
思いが強すぎても伝わらないことってあるんですよね。いわば、第三者の立場から語らせることでダイレクトに思いを伝えるという手法。
これがこの作品でもっともすばらしいとかんじた点です。
それは尺の短さ。
フランの重く絡まった運命は、慧音と話したくらいで、
あっさりと本人が理解して動かすことができるのか。
それなら、もっと早くにきっかけが生まれていたのでは?
という澱が最後に残って、いまいちすっきりできませんでした。
つまり、フランが大人っぽい。良い子すぎるというか、
幼さ故の脆さ、残酷さのようなものが薄く思え、
また慧音の立場も作者の代弁的なものに見えてしまい、
もやっと感じてしまった気がします。
あまりやると冗長になるわけですけれど、
トラブルの一つくらいあって、
ようやく運命を変える端緒がぼんやりと浮かび上がる、くらいの方が、
500年の重みには相応しいと思いました。
このトキメキを返してくれ
だが釣られた甲斐はあったww
落ちのセンスが抜群です。そこまで積み上げているものの余韻を崩さず、なのに笑わされてしまった。
うまい!
しかし最後のしゃがみガードにwwww
それもこのSSのお陰です。良いSSをありがとうございました。
フランがしゃくり上げながら話しているところが特に。
子供の泣き顔とか泣き声って、想像するだけで胸が痛むんですよね。
途中からタイトルを忘れて和んでたら、最後の最後でこの落ちとは。
gj
狂気を孕んだ妹様も大好きだけど、やっぱり良い子が一番ですよね。
>14様
地の文の素っ気無さは明らかに力量不足です。プラスになっているようなら嬉しいですが…
精進します。
>16、18、22、25、39、42、48様
ぶっちゃけて言うとこのオチを書く為に話を考えました。気に入って頂けたなら幸いです。
>27様
結論として、おぜうさまは全てが可愛いよね!ここまで解析して頂けるとは、作者冥利に尽きます。
>32様
うー!
>33様
確かに、重みを表現するには短すぎましたね。もっと描写を詰めて書けるようになれば…精進します。
>43様
暖まって頂けたら幸いです。もうすっかり冬ですね。
>47様
北海道にはそんな方言が…(ゴクリ)本当に、オチの為に書いた話なので(笑)
>50様
あの可愛さは反則ですよね。大量破壊兵器ですよ。
>52様
読み難いんじゃ無いかとビクビクしてました。気に入って頂けた様で嬉しいです。
>53様
関東にはそんな(略)
>55様
フランちゃんは良い子だよ!
>56様
口の裂けた咲夜さんと鯉を貪り食うフランちゃんを幻視して吹きました。
そしてしゃがみガード…カリスマが駄々漏れです
こんな作品は久し振りでした。
素晴らしい作品を、ありがとう。
頬の緩みっ放しな咲夜さんとか先生らしい慧音とか、
素敵な作品ですね~♪
なによりプラスに意向する紅魔館の姉妹がとても美しい。
そして、しゃがみガード!
しゃがみガードかわいいぁ
慧音せんせの先生っぷりがファンの自分にはたまらんお話でした。
うー!