「霖之助さんねえ、ちょっと誰に対しても無愛想過ぎるんじゃなくって」
煌々と輝く金色の髪の毛を手で弄びながら、女は云った。云われた男は憮然としている。けれどもその言葉が癪に障っただとか、そういう類の感情はその表情からは読み取れない。涼しげな光を湛える瞳は手に開かれた文庫本の上に始終落ちていて、まるで女の言葉には興味がないようである。
「店主がそれじゃ、初めて来たお客さんもすぐに帰っちゃうわよ」
「……どちらでも構わないさ。君のようにすぐに帰らない珍しい妖怪も居るけどね」
「まあ、理由も判らなくはないけれど」
まるで興味が無さそうな男の言葉を聞いて、女は意味ありげな言葉と共に不敵な笑いを漏らした。そうして何処からか取り出した扇子を口元に当てて、心持ち目を細めて見せた。その時に初めて、男の視線は文庫本の上から女の顔へと移ったが、やはり無感情な表情はそのままである。ただ、中央に寄っている眉が、一塊の猜疑を表しているようにも見える。女は満足そうに喉を鳴らした。
「何を知ったように。元来がこういう性格なんだから、仕方がないだろう」
「便利な愛敬付き合いに頼り切っているのを、隠そうとしているだけでしょう」
「何を云いたいのか、僕には判らないな」
「本当に曖昧な境界の持ち主ね」
「君の物差しは当てにならない」
男はそれで漸く迷惑そうな顔をした。けれども癇癪の角が明確に出てくる訳でもなく、事態がどう動こうとも自分に迷惑さえ掛からなければ構わないような様子である。女はそれで面白い。扇子に隠された唇は歪められているに違いない。
「でも、少しは愛想の大切さを知らないと駄目よ」
女はそんな事を云って、二人の位置を分け隔てる机に身を乗り出した。二人の間の距離は零になりそうな所まで縮まっている。それでも男は全く動じず、それどころか女の金の双眸を見詰めていた。悪戯に細められた金の双眸はどんな光を秘めているのだかまるで判らない。
二人は何も語らないまま、そうして時を持て余した。凡そ異性間に於ける甘い空気など皆無な世界で、何を楽しむ訳でもなく、無為に過ごしていた。――しかし、止まっていたと思われる時は唐突に動き出した。女の顔は、少しばかり前へ進んだ。男は動かない。ただ頬に何かが触れた気がする。柔らかいのは確かである。けれどもそれが何なのか判然としない。男が何をされたのか気付いたのは、女が背筋を伸ばした時である。
「……判らないね。君だけは」
「そう云って貰えて光栄ですわ。それでは私の云った事をお忘れなく」
そうして女は一度男の方へ振り返って、
「もしかしたら貴方の悩みも無くなるかも知れないわ」
と云った。そうして音もなく禍々しい空間へ足を踏み入れたかと思うと、すっと消え失せた。
それで男の視線は再び文庫本の上に落ちた。
羅列されている文字が頭の中へ滞りなく滑り込んでくる中、女の息遣いが絶え間なく聞こえていた。
◆
博麗神社には麗らかな空気の春とは違う、心持ち冷やかな秋の空気が漂っていた。
境内に秋の色は濃く、赤い紅葉や黄色い銀杏の葉が、見るも鮮やかに散っている。それを風が浚い、抜けるような蒼穹へ舞い上がらせる。青い紙の上へ赤や黄色を散りばめて、見事な景色が広がっている。高台に位置する博麗神社から見ると、その景色が殊更に綺麗である。
早苗はそんな中、冷たい風に爽やかな緑の髪の毛を遊ばせながら、霊夢と茶を共にしていた。秋が過ぎ去るのは早いが、二人の姿から見るとそれも落ち着きを持っているように思われる。特別何かをする訳でもなく、二人して呆けながら秋の風景を漠然と眺め、秋の声に耳を傾け、肌で秋の冷たさを感じる。二人がしている事と云えば、それぐらいである。
「綺麗ですね」
ふと、沈黙に耐え兼ねた調子を持っている訳でもなく、ほとんど自然な流れで早苗は呟くように霊夢に話しかけた。返事を期待する訳でも、まして同意を期待した訳でもないようだったが、霊夢はその問い掛けにそうねと返した。そうして再び沈黙が二人の間を流れるが、それが気まずさだとかをもたらす事はなく、むしろ心地好いくらいの静けさが早苗は好きであった。だから、暫くの間は何も云わずにまた安閑として秋の風景に見入っていた。
しかし、何もしない時を過ごしてはいても、茶は次第に減って行く。最初は湯呑の中へ並々と注がれた緑茶も、今では底を付いていた。急須の中にも水気はない。それに気付いた霊夢は思い出したように、「あ」と声を上げると、不思議がって霊夢の方を見遣った早苗に対して、茶が無くなった旨を伝えた。
「私が淹れてきましょうか」
「それぐらい自分でやるわ」
「でも、動く気配が見えませんけど」
云いながら、縁側に座って空を見上げている霊夢の姿からは、早苗の云う通り茶を淹れに行こうとする気色がない。霊夢は困ったような苦笑を浮かべると、何だか動く気にならないと云った。けれども茶は飲みたいと云う。催促をしている響きではないように思われたが、人の好い早苗はじゃあ淹れて来ますと席を立つ。わざとらしく悪いわねと云った霊夢は、やはり催促をしていたのかも知れないと早苗は思った。が、別段嫌な心持ちになる事もなかった。
早苗はこの神社へ頻繁に訪れる訳ではなかったが、宴会の手伝いやら何やら色々とあった為、茶を淹れるのに苦労しない。勝手知ったる他人の家とは云うが、正にそれだなと、台所に立ちながら思う。緑茶の茶葉は、食器棚の隣にある小さな戸棚に入っている。それを見付けて、予め沸かして置いたと見えるやかんのお湯を確認すると、早苗は手際よく茶を淹れて、さっさと霊夢の所へ戻って行った。一人で他人の家にいるのは些か遠慮が出てしまう。
「お待たせしました」
「悪いわね。頂くわ」
淹れて来た茶を手渡しながら、自分のも片手に、早苗は霊夢の隣に腰掛けた。目前の光景は寸毫の変化もない。空に浮かんだ落葉の数さえ変わっていないように思われる。それでいて、無変化の中に僅かな変化があるようにも思われる。早苗はその矛盾めいたような景色への感想が甚だ面白いと思った。しかし何より変わっていないのは霊夢だと考えると、そちらの方が面白い。呑気に茶を啜っている霊夢を横目に、早苗は密かに笑みを零した。
「あ」
「どうかしましたか?」
「そういえば用事があったわ」
「急ぐ用ですか」
そこで一度問答は途切れた。霊夢は何か考えているのか、顎に手を当てて黙っている。早苗は邪魔をしても悪いと思い、茶を啜りながらまた景色に目を向ける。ところへ、また霊夢が言葉を発する。早苗の興味は自ずとそちらの方に惹かれ出した。霊夢は相変わらず焦燥だとか、早苗が前に居た世界では誰もが持っていた物を全く感じさせない口調で、呑気に話し出した。その調子が余りにも気楽そうだから、早苗は少しだけそれを羨んだ。
「霖之助さんに、色々と受け取る約束があったのよ」
「霖之助さん?」
「うん。辺鄙な所に構えてる店の主人」
「――ああ、前に話に出てきた人ですか」
早苗は知識の上だけならば、霖之助さんという人物を知っていた。確か霊夢が話した所によれば、何だかんだと嫌味を付けてはきても、根底がお人好しだから、結局世話を焼いてくれるような人物なのだと聞かされた。
早苗はその話を聞いた時に、根底がお人好しなのは霊夢の押しが強いからそう思えるだけなのではないかと思ったが、割合長い付き合いらしいのでそうでもないらしかった。博麗の巫女として普通の人間とは一線を隔した位置に居る霊夢と長く付き合っているのならば、自分が思っているよりも強い人なのかも知れない。早苗は霖之助さんという人物をそう想像してみた。
「遅れると何か云われるし、――あんたも一緒に来ない?」
霊夢の提案は急過ぎると早苗は思う。自分の知らぬ者の所へ平気で行けるほど無遠慮な性格ではなかったし、巫女としての責任だとかを背負いながら会う人間とは違う、完全に自然な状態での出会いとなる訳であるなら、自ずと早苗はその誘いに乗じるのを憚ってしまう。元々人付き合いが得意な方ではなく、むしろその逆であったのも手伝って、早苗は首を横に振ろうとした。が、霊夢は何やら湯呑を縁側に置いて、立ち上がっている。
「そうと決まったら善は急げ、ね。早く行くわよ」
「私、行くなんて一言も云ってないです」
「どうせ宴会やら何やらでいつか会うんだから、今日会っても大差ないわ」
「でも……」
「でも、だっては禁止。はい、早く立って」
そう云って霊夢は早苗の手を取って、思い切り引いた。丁度湯呑は縁側に置かれている。早苗は引かれるがままに立ち上がる事となった。
「じゃ、行くわよ。飛んで行けばそう時間のかかる所ではないから」
そうして霊夢はふわりと宙に浮く。最早抗議の意味はなくなってしまったと思い、早苗は諦念の意を含んだ深い溜息を零すと、霊夢に続いて宙に浮かんだ。霊夢はそれを見て「よろしい」と微笑んだ。それがやはり呑気である。他人の迷惑を考えているだとか、そういうのを抜きにして楽しんでいるように思える。早苗は自分の過去を振り返ってみて、これほど強引且つ、他人を嫌な心持ちにさせない友達はそうそう居ないだろうと思った。
「自己紹介は苦手ですよ」
「私の時と同じで好いじゃない。きっと霖之助さんも呆気に取られるわ」
からかうように云って、からかうように返された。早苗は霊夢と初めて対面した時の自分を思い出して羞恥の念が湧き上がるのを感じ、白い頬を仄かに染めた。にやにやと笑う霊夢は憎たらしいとは思ったが、こういうのが久しく忘れていた友達の関係なのだと思うと、その羞恥は別物のように思える。
友達。早苗は心中でその単語を復唱した。
「あの時は色々と必死だったんです」
冗談めいた糊塗をして、二人は並びながら飛び立った。
◆
秋の冷たい空気が肌に突き刺さる中、霊夢曰くそう時間のかかる所ではない場所へ飛び続ける事二十分。これがそう時間のかからない場所なのかと早苗は身震いを起こしながら疑った。霊夢はと云うと、平気な顔をしていた。何故こんなに寒いのに平気なのかと聞くと、博麗の巫女服には冬服があると説明された。自分への苦難を乗り越えて精神的に強くなる為に、敢えて薄手の生地の服を着ている早苗からしてみれば、長年固め続けていた決心が揺らぐ瞬間であった。
さて、二人が降り立った場所、どんな妖怪が跋扈しているのかも判らぬ陰湿な森の前、所々瓦の取れた、お世辞にも綺麗とは云えない家が一軒建っている。しかも窓の中から見える家の様子は、整然とはほど遠く、ごちゃごちゃとしていそうである。早苗はこれを遠目から少し眺めて、主人の想像を悪くした。彼女の頭の中には、毛むくじゃらで大柄な、ともすれば巨人と見違えてしまうような大男が想像された。寒さとは別の何かが、彼女の身を震わしている。
「さて、寒いし行くわよ」
「あの、一つ質問しても好いですか?」
「どうしたの」
「此処の主人って、容姿はどんな人なんですか?」
虎穴に入ろうとしている小動物みたように、早苗はびくびくとあからさまに怯える表現をして見せる。しかし霊夢は早苗のように素直な性格をしていなかったから、にやにやと意地の悪い笑顔を見せて、喉を数度鳴らした後、早苗に向かって答えを出してやった。
「毛むくじゃらで大きくて、身の毛もよだつほど恐ろしい顔をした、妖怪よりも怖い男よ。私は慣れたけど」
そうして霊夢は早く来なさいよと云い残して、一人香霖堂と書かれた看板を掲げる店に向かって行った。残され茫然としている早苗は、霊夢の説明を聞きながら、多少の抵抗なしであの店に入る事は出来ない。が、来たからには行かねばならないので、足を震わせながらも霊夢の後に続いて行った。
人付き合いがあまり得意でなく、その上相手が霊夢の説明したような人物であったら、どうしようもない。例え悲鳴を上げても許してくれるだろうかと、場違いな懸念を胸に早苗は怯ず怯ずと店の入り口の戸に手を掛けた。
「お邪魔します……」
そろりと戸を開けながら、空いた隙間を覗き込み、意味のない観察を行う。が、店内は雑然と物が置かれているばかりで、大きな物も小さな物も、場所に区別なく並べられている。しかもそれの所為で霊夢や見知らぬ男の声が聞こえはしても、姿を見れない。早苗は勇気を出して店の中へ一歩踏み込まねばならぬ立場に居る。
けれども少しばかりの安心はあった。
物陰の向こうから聞こえてくる男の声は、重低音の人を戦慄かせるような恐ろしい声ではなく、何処か知的な印象を与える柔らかな物腰の声である。早苗はそれを聞いている内に、自分の想像の中に創り出した恐ろしい大男など消してしまった。そうして軽くなった足取りで、並べられている物を避けながら、奥に向かった。
「あら、案外早かったのね」
早苗が店の会計場所らしき所に辿り付くと霊夢の後姿があり、丁度彼女が振り返った所である。霊夢は悪戯めいた笑みを挨拶に、立ち位置を横にずらして、店主の姿がよく見えるようにした。霊夢の背に隠れて今まで見えなかった店主の姿はそれで明らかになる。早苗は思わず、「あれ、小さい」と零してしまった。
「小さいって、――随分な挨拶だね」
癇癪の角が出る前に、早苗の奇抜な挨拶に肝を抜かされたのか、呆気に取られたような顔をして男は云った。男性に向ける批評にしてはこれ以上になく無礼であるかも知れない。しかも初対面の開口一番がそれでは、怒りよりも呆れが先にくるのも仕様のない事である。男は苦笑しながら、慌てふためく彼女を観察する事にしたようであった。
「――あ」
早苗は男に声を掛けられて、間の抜けた声を出す。霊夢は彼女の隣で床に膝をつきながら、腹を抱えて笑いを堪えている。普段なら憤慨して何事かを云ってやる早苗だが、今ばかりは弁解を優先しなければならぬ者が目の前にいる。遂に拳で床を叩き出した霊夢を相手にしている場合ではない。彼女の良心には何時も過剰に反応する癖がある。
「ご、ごめんなさいごめんなさいっ! その、霊夢さんが無駄に怖く此処の店主さんの想像をさせたものですから、勝手に大きな人なのかなと思ってしまいまして、そしたら全然そんな人じゃなくって、それで、その、あの……」
早苗は一気にそう捲し立てる。そうして云う事が尽きて、相手の反応を窺わなければならなくなった時に初めて平生の精神で店主の姿を見る事が出来た。そうして始終続くかとも思われた彼女の「あの、その」は終わりを見せて、それきり二人の間には沈黙が流れる。ただ押し殺した霊夢の笑いが目立っている。
「まあ、そんな事だろうとは思ったよ」
そう云って、男は嘆息混じりに霊夢を見遣った。相変わらず笑っている。余程早苗の失態が滑稽であったと見えて、中々終わらない。早苗は羞恥に拍車を掛けるそれの所為で、顔中を真赤にした。霊夢に対して恥をかかされたという意識は無論ない。早苗にはどうしたら先刻の失態を取り消せるのか、その打開策ばかりが必要である。
「だって、可笑しいじゃない。私の時より凄かったかも知れないわ。ねえ、早苗」
「それは、だって、霊夢さんが」
「あはは、ごめんごめん。ちょっとからかっただけなのよ」
「君の冗談は性質が悪い。僕までこうして巻き込むんだから」
そうして話は一区切りついたようである。幸い霖之助さんは霊夢に振り回された早苗に対して嫌悪を抱く者ではなかったから、次には本来行われるべきはずであった自己紹介が始まっていた。
「僕は森近霖之助。まあ、見ての通り寂れた店の店主です。初めまして」
「私は東風谷早苗と申します。まだまだ未熟ですが、風祝です。初めまして」
二人は同様の挨拶を交わした後、一寸霊夢を見た。初対面同士では会話の種が見付からない。この二人の事を知っている霊夢が中継ぎに入らねば、恐らく流れる雰囲気は気まずいだろう。殊に早苗は少なからず人見知りをして、霖之助さんはこんな辺鄙な場所に店を構える人であるから社交的でないように思われる。そんな二人では必然会話は途切れてしまう。
「堅苦しい挨拶ねぇ。もう少し軽くでも好いんじゃない?」
そこへ、霊夢が丁度口を出した。どんな意図での物言いなのだかは判らないが、少なくとも早苗はそれで安堵した。軽はずみな発言を平気で云える霊夢の性格は、早苗にとってまさに助け舟である。新たに出てきた話の種を無駄に終わらせる事なく、早苗と霖之助は口々に霊夢を批評した。
「君は少し軽過ぎると見えるがね」
「霊夢さんは少し、丁寧さに欠けるかと」
それで一同は笑い出したけれども、霊夢だけは不服そうである。そこまで自分は無礼だったろうかと呟いているが、霖之助がその呟きに対して自覚しているじゃないかと返した為に、貰わなくても好い癇癪を買ってしまった。香霖堂の品物がまた一つ代金なしで無くなるのは、確定してしまった。
「それで、今日は何の為に此処へ?」
ふと早苗がそんな事を尋ねた。元より博麗神社の客人として過ごしていたところへ、急に香霖堂へ連れて行かれる羽目になってしまったので、目的など知り得るはずもない。今更になって理不尽さすら感じたが、畢竟霊夢はそういう人物なのだと思うと、別段気にせずに済んだ。どうも彼女には不思議な魅力があるらしい。安穏としているようで細かな気配りが出来ているように思われる。だから此処に来る気が起きたのかも知れない。
「白袖と紅袴を受け取りに。いつも霖之助さんに周旋して貰ってるのよ」
「ほとんど強制に近くて、しかも無料という意味の判らない特典付きでね」
霊夢の言葉にすかさず霖之助が口を出す。溜まった未納の代金の返済がまだだと云っている。霊夢は素知らぬ顔で、いつか払うと云っているが、甚だ疑わしいと早苗は思った。そうして、心の内で苦笑しながら、霖之助を気の毒に思った。借金の返済はいつになるのだか、到底測れない。事によると払われないのではないかとさえ思った。
「それじゃ、持って来ようか。――東風谷さんは適当に商品でも見ていると好い。ついでに霊夢の手癖が悪くならないか見張っておいてくれ。お陰様で香霖堂は赤字なんだ」
「あ、はい。出来る限り対処します」
そして霖之助は席を立って、奥の方へと歩いて行った。霊夢は既に商品の品定めに入っている。もしかしたら手癖が悪くなるのかも知れない。早苗は霊夢の手を注視した。
「それにしても、色々と沢山あるんですね」
「使い方は判らないって云うから面白いわ。あんたも見てみなさいよ。これなんか、何の役に立つのかまるで判らない」
そう云って霊夢は手に取った物を掲げて見せた。何やら小さな長方形の物体である。そうして一面が黒い。黒い中に色々と装飾が成されているようにも見える。一つの側面には、一本だけ長い棒が付いている。早苗はそれをよく見ている内に、それが何たるのかを理解した。前に居た世界でも中々見なかった代物である。
「トランシーバーじゃないですか」
「とらんしーばー?」
「はい。少し離れた所からなら、それを通して会話出来るんです」
「へえ。便利な物があるものなのね。肝心の使い方は?」
霊夢の質問に早苗は一寸押し黙る。トランシーバーなど既に骨董の域に入っていた早苗の時代では、携帯電話が主流であった。通信できる範囲も狭いトランシーバーなどは所詮子供の遊び道具で、実用性など皆無である。故に早苗には、名称は知っていても使い方までは完全に説明できる自信がない。だから早苗は霊夢の近くまで寄って、使い方を一緒に模索してみようと思い立った。
「私もよくは知らないんです。でも、もう一つないとどうしようもない気が……」
「結構面倒な世界なのね、外は」
「幻想郷の人から見たらそうかも知れませんね」
そう云って互いに生きてきた世界を批評して、二人はもう一つ同じ型のトランシーバーがないだろうかと、辺りを探ってみた。その中には、トランシーバー以外にも外の世界にあったと思われる機械が沢山ある。が、どれもこれもが埃を被っていて、使える様子ではない。なるほど霖之助さんは奇特な方なのだと早苗は思った。
「あ、これかしら」
「そうみたいですね」
霊夢が手に持っている物は、先に見付けた物と同一であった。ただ、やはり埃をかぶっている。到底使えまいと思ったが、物は試しと早苗はそれを受け取って弄り始めた。
「動かないわね」
「かなり年季入ってますし、電池がないのかも……」
と、そう云った所で黒い長方形の裏側の蓋が、唐突に地面に落ちた。中を覗くと何もない。早苗は駄目みたいですと云って、中身を見せた。すると霊夢が不思議そうに首を傾げるので、電池の簡単な講釈を始めた。霊夢はへえへえ云っている。然程興味がないと見える。ところへ霖之助が戻ってきたので、その講釈も終わってしまった。
「おや、懐かしい物がある。随分と前に手に入れた物だ」
「残念ながら使えないらしいわよ。何でも電池がないと駄目だとか」
「そんな事だろうとは思ったよ。幻想郷は外に比べて随分と遅れているらしいから」
「でも、なければならないよりも、あったら好いなくらいの方が都合が好いと思います」
早苗の言葉に霖之助は全くだと頷いた。それきりトランシーバーの話題は打ち切られ、代わりに霖之助が手に持っている衣服類を霊夢に見せた。此処に来た本来の目的を思い出したのか、霊夢は色々と置かれている商品から目を外した。
「さて、頼まれた物を持って来たよ。支払いはいつになるんだい」
「そんなの判らないわ。いつか払うとだけ、云っておこうかしら」
「随分と頼りない約束だ。――まあ、今に始まった事でもないが」
二人は互いに冗談を云い合っているように見えたが、実際問題支払いはしなければ不味いのではないかと思った。霖之助は呆れ気味に苦笑しているが、霊夢はにやにやと笑っている。何故かその時は、霊夢が自分よりも大人の女性に見えた。落ち着きがあると、こうも他人まで巻き込んでしまうらしい。彼女の呑気な性格は、料金の滞納でさえ大目に見させてしまうのかと、早苗は考えて苦笑した。
「あの、此処は他にも何か売ってるんですか?」
霖之助と霊夢が取り留めもない会話を交わしている間、早苗は何ともなしに店内の商品をぼんやりと眺めていたが、やがてそれにも飽きたのか、そんな問いを投げかけた。
「他には、そうだね。食器や茶葉なども取り扱っているよ」
「あ、それじゃ茶葉を買っても好いですか? 無くなってしまったもので」
「それはありがたい。久し振りの買い物客が来てくれたようだ」
少し待ってくれ、と言葉を残して、霖之助はまた奥に引き返して行ったが、それほど時間はかからなかったと見えて、すぐに戻ってきた。手には茶葉を入れているらしい容器がある。霖之助は値段を早苗に教えると、それに付け加えて云った。
「少し安くしようか。ご来店は初めてのお客様だからね」
「そんな、大丈夫です。お金ならありますから」
「いや、好いんだ。僕もお金に困ってる訳じゃないし、――まあそうだね。その代わり常連になって欲しいとでも厚かましいお願いをしておこうか。そうすれば安くする事なんて、むしろ得なんだから」
霖之助は真面目に云った訳ではなさそうであった。その調子からは厚かましい依頼をしている自覚も見えて来なければ、どうでも好いという曖昧な意思も見えてこない。全く冗談の域である。早苗は急によそよそしくしている自分が恥ずかしくなった。同時に霖之助がどうかな、と云って微笑を湛えているものだから、好意を受け取らずには居られなかった。意味の異なる二つの羞恥との間に早苗は低迷していたが、その内男の微笑に負けて、了解の意を示した。
「約束します。ご迷惑でなければ、また伺います」
そうして早苗は平生よりも安く茶葉を買った。その上初来店記念だとかで湯呑を一つ、貰ってしまった。甚だ人が好い。霊夢の云った評価とは随分と違う気がする。霖之助を構成する要素のほとんどはお人好しな部分があるのではないかと疑った。初対面の相手に此処まで好くしてくれる者はそうは居まい。
「折角の売り上げも安くしちゃうんだから。霖之助さんも人が好いのね」
「どうせ君や魔理沙が持って行くなら、こうした方が有意義だと思ってね」
「何も無暗に盗ったりしないわよ。――ねえ早苗、云った通りでしょ」
憤慨だと云いたげな表情をしながら、霊夢は早苗の方に向き直った。こうなると早苗は返事に困る女である。うんと云えば何処か失礼な気がするし、いいえと云えば霊夢の云った事以外に何か付け加えねばならない気が起こる。けれども好くされてしまったから、元より早苗は後者を選ぶより他にない。顔が熱くなるのを感じながら、早苗はろくに目も合わせずに、慌てた様子で口早に云った。
「思ってたよりずっと優しい方じゃないですか」
「あら好印象じゃない。好かったわね、霖之助さん」
「君が余計な事を吹聴したからややこしくなったんじゃないか」
あはは、と笑っている霊夢を呆れたように見ながら、霖之助はまた早苗を見た。涼やかな視線は何処か物哀しいように映る。早苗は反射的に赤くなる顔を隠すように、口を袂で覆い隠して、二三度の咳払いをした。
それからは特に何かを話すといった事もなく、三人の会談は終了した。霖之助は平生と比較すれば珍しく、店の外まで二人を見送った。別れの挨拶もそこそこに、早苗と霊夢は空に向かって飛び立つ。そうしてまた取り留めのない話の種を咲かせながら、寒い風を顔に受け、博麗神社へと戻って行った。
◆
翌日、早苗が昼時の無聊に手を持て余していると、不意に諏訪子が遣って来た。寒い寒いと頻りに云いながら腕を擦っている。早苗が掘り炬燵に入るように勧めると、大人しく従って、暖かな布団を肩まで被った。
「どうも最近は寒くて弱る」
「冬ですから、仕方ないですよ」
「それでも蛙は冬眠する季節だからねぇ……」
「それでは洩矢様も、冬眠なさったら如何でしょう」
冗談めかして早苗は云った。諏訪子はそれは困ると苦笑している。どうにも寒くて堪らなそうに見える。早苗は湯たんぽでも持って来ましょうかと提案したが、諏訪子が遠慮したので茶を出すだけに留まった。
「あれ、早苗の湯呑が新しくなってるね」
「ああ、昨日霊夢さんと香霖堂、っていうお店に行った時にご好意で頂いたんです」
早苗は簡略化した説明をするのと同時に、昨日の香霖堂での自分を思い返して顔を赤くした。何時でも失態を犯した過去は時間が経ってから自己を苛む物である。早苗も例に漏れず、そういう類の人間であったから、失礼な想像をしてしまった事だとか、一人羞恥を感じた事だとかを、思い出しては今の顔の熱さは掘り炬燵から伝わってきたのだと云い聞かせて、平生と違う自分を諏訪子に悟られまいと躍起になった。幸い諏訪子はそんな早苗の変化に気付いていないようである。
「へえ、好い店主が居るんだね」
「はい。商品とかは外の物も多くて、懐かしい感じなんです。それに人が好いというか、優しいというか、やんわりした人で私でも気楽に話せるんですよ。私って結構人見知りするじゃないですか。だから、何だか新鮮で――」
早苗は思わず言句を切った。諏訪子はにやにやとしながら早苗を見詰めている。掘り炬燵の布団に表情が半分隠されている為に、にやにやと笑う目の形だけがひたすらに意地悪い。早苗はまた何かやらかしてしまったのだろうかと、慌てて自分の頬に手を当てたり、身を整えたりしていたが、そんな不毛な行いを見ていた諏訪子にとうとう声を出して笑われてしまい、何が何だかも判らないまま頭の上に疑問符を浮かべた。
「楽しそうに話すんだね」
「えっ? え、と、これは、ですね……」
諏訪子の言葉は自覚していなかった早苗の心情を確かに当てていた。全く自覚がない訳でもなかったから、早苗はそれを当てられるのが恥ずかしくて仕様がなかったが、にやにやとした笑みでなく、柔和な笑みを湛え始めた諏訪子を見ると、漸く落ち着きを取り戻した。但し頬は赤く染まっている。これは香霖堂で感じた羞恥の一つと同義である。早苗は突然自分が何を考えていたのだか、判らなくなった。
「そう慌てなくても。ただ、楽しかったんだろうね、って思っただけだから」
「あ……はい。でも、とにかく好い人なんですよ」
「それじゃあ、買い物でも頼もうかな。今度は美味しいお米でも」
「お米ですか?」
「うん、お米」
満面の笑みの理由が何なのかとんと判らない早苗だったが、何かと世話を焼いてくれていた諏訪子の頼みを断れるような性格ではない。香霖堂に果たして米が売っているのかどうかなど甚だ疑わしい所ではあるが、取り敢えず掛けあってみようという結論に至り、はいと返事をした。ところへ神奈子が寒い寒いと云いながら入ってきた。時間としても丁度好いかも知れない。早苗は行くなら早めの方が好かろうと、暖かい掘り炬燵の中から身を出した。
「あら、何処かへ出掛けるの?」
「はい。少し買い物へ」
「そう。気を付けて行ってくるのよ」
そんな事を云い合ってから、間もなく早苗は寒い空を飛んで行った。太陽は雲一つ無い空に燦々と輝いているが、身を震わせる寒気は昨日と比べても少しも衰えていない。そればかりかさらに寒くなったかのように思える。早苗は上着も着ずに、そんな空を飛んで行った。隣に誰も居ないのが少しだけ不安ではあったが、それも気にしないように、お米と繰り返し呟きながら眼下に広がる秋の風景を眺めていた。
◆
お世辞にも綺麗な外装とは云えぬ、物の哀れを感じさせる香霖堂は、ひゅうひゅうと鳴る風に吹かれながら暗い森の近くに立っていた。屋根に覆い被さるように小立が天井を作る下に、強い風が吹いてしまえばたちまち吹き飛んでしまうのではないかと思われる瓦が重なっている。入口の庇の上にある〝香霖堂〟と書かれた看板が一番早苗の印象に残っているが、今日はそういう物をまじまじと見ている訳でもなく、早苗は昨日よりは気楽に店の入り口を潜った。
「ごめん下さい……」
声量が控え目なのは相変わらずである。そしてまた、昨日と同様に商品かも判らぬ物が店内の奥を隠す中、早苗は昨日とは違う声を聞いた。一人は店主で間違いはないが、もう一人の声は聞き慣れない。ただ大人寂びた気品を感じさせる喋り方である。まさか霊夢ではあるまいと、早苗は好奇心を感じながら奥の方へと歩んで行った。
「おや、また来たのかい。随分と早いご来店だね」
長い金髪が垂れ下がる背中から少しずれた辺りに、椅子に座っている霖之助が声を掛けた。やはり早苗の来店には気付いていなかったと見えて、早苗は今度はお邪魔しますと別の挨拶をした。
「あら可愛らしいお客様ね。霖之助さんたら何時の間にこんな常連さんを確保したの?」
霖之助が早苗に挨拶を返すと同時に、謎の女は振り返った。早苗が聞いた、大人寂びた話振りを裏切らない容貌である。端正な顔立ちは穏やかに笑んでいる。しかしそれが挨拶に使われる笑みなのか判らない。早苗は仕方なしに初めましてと謎の女に挨拶をした。霖之助とは違い、話し掛け辛い威厳のような物を備えている。自然早苗の身体は堅くなった。
「まだ常連さんになってくれたばかりさ。ところで、君も自己紹介でもしたらどうだい」
「云われなくとも致しますわ。――初めまして、八雲紫です。そちらは東風谷早苗さんでよろしいかしら」
「あ、はい。私の事を……」
「知っているわ。神様と一緒に越してきた巫女さんでしょう」
そう云って紫は徒に微笑んで見せる。それがやはりどんな類の笑みなのか判らない。一種人を小馬鹿にしている調子が含まれている。けれどもそれが明確に前へ出て来ない。早苗は、はいとしか云えぬ。
「君もつくづく意地悪な妖怪だ。何でも知っているような物言いで」
「あらごめんなさい。少しからかったつもりなのよ」
早苗がはいと云って、それから続ける言葉を選んでいる途中で、霖之助が助け船を出した。早苗にとっては僥倖である。あのまま誰も口を聞かなかったのであれば、早苗は心中で呻吟したに違いない。
女は謝罪と共に手を差し出した。どうやら握手を求めている。早苗は応じるより他になく、また応じない勇気も持ち得なかったから、素直に手を差し出した。
「それじゃ霖之助さん、あれをお忘れなく」
「余計なお世話だよ」
「ふふ、じゃあそろそろお暇させて頂くわ。――貴方も変な物を押し売りされないように気を付けて」
そうして女は、意味深長な事を霖之助と話して、忽然と姿を消した。外に出た素振りも無ければ、歩いた素振りでさえ早苗には確認出来なかった。煙も残さずして消える芸当が出来る妖怪なのかも知れないと考えていると、
「色々と説明不足だったかも知れないけど、彼女は境界を操る妖怪でね。何処へでも消えるし、何処へでも現れる。あの通り胡散臭い性格ではあるけどね。君も話には聞いた事があると思うが」
と説明を受けた。
早苗は漸く要領を得た。八雲紫の名はこの幻想郷に広く知れている。早苗が八雲紫という名を初めて知ったのは、幻想郷に越してきて、面倒事を片付けて一段落が付いた頃、何時の間にやら対談を行っていた神奈子に聞かされてからである。その時は確かに胡散臭そうだのと云った話を聞いた心持ちがする。そして大変凄い妖怪だという話も聞いた心持ちがする。早苗はどちらも正しいのだろうと結論付けたが、何だか心の底に靄が掛かったようで、釈然としなかった。
ただ霖之助の説明に驚いたように、へええと呟いたのみである。
「霖之助さんは、八雲さんとは親しい間柄なんですか?」
早苗は図らずもそんな事を口走ってしまった。本来はそんな事を聞く必要性など何も無いはずであったが、平生胸の中に芽生えた好奇心のような物が先走って口を出てしまう性格なので、こう云った時に彼女は後悔する。殊に今の疑問はその後悔を大きくさせてしまう物である。早苗はまた視線を足元に落としてしまった。
しかも霖之助は早苗の問い掛けに対して、すぐに答えを呈さなかった。それだから早苗の後悔は余計に大きい。聞かない方が好かった心持ちがする。けれども自分の失態を今更取り消せようはずもなく、俯いたまま霖之助の返事を待った。
「……親しいのかも知れないし、親しくないかも知れない。僕にはどちらだと断言出来ないな。元来がああいう性格だから、どうもそういう判断が難しい。まあ、お金を払って商品を買ってくれる貴重なお客さんではある」
早苗には霖之助の言葉の真偽が、どうも偽の方へ傾いているような気がした。答えるのに暫時の時間を要したので、それも余計である。けれどもそれを口に出すような勇気は到底持ち得ない。はあと気の抜けた返事をして、すぐにその話題を流してしまった。
――早苗はこの時、先日の羞恥と同じ物を感じた。肯定的命題を敢えて否定する事により起こり得る矛盾との間に身を置いている心持ちがした。そうして、その命題が何たるかを心得ていない事を自覚していた。
「ところで、今日はどんな御用件だったんだい?」
「あ、えと、そのですね……」
話は漸く本来の場所へ戻った。しかし早苗は云い付けられた要件を口に出すのに一寸躊躇った。少し右の方を見てみると、多種多様な物がごった返している。左を見ても同様である。美味しいお米など有りそうもない。店内の様相を見れば容易く判りそうな問題を前にして、自分の要件を口に出すのは気が引ける。けれども口にしなければ、更なる羞恥が身を襲う。元より早苗には、云い付けられた要件を出す以外に道はない。
「美味しい……」
「美味しい?」
「美味しいお米のお買い物を頼まれまして……」
「美味しいお米。――それは珍しい注文だ」
霖之助は此処に来て米が欲しいと云った者は飯をたかりにきた巫女以来だ、と可笑しそうに笑った。しかし、恥ずかしそうに身を縮めている早苗を見ると、困ったような顔をして暫く沈吟してから、首を振った。
「ご期待に添えなくて申し訳ないんだが、お米は取り扱ってないんだ」
「あ、大丈夫です! 人里に行けば事足りますし、無くても」
と云って、早苗はまた自らの口を塞ぎたくなった。人里に行けば事足りる買い物に対して迂遠な道のりを取った事が霖之助に伝わってしまった。これでは何の為に此処に来たのだか甚だ要領を得ない。それどころか、掻かなくても好い恥を掻いてしまった。その影響で自然と早苗の視線は足元に落ちる。指は掴み所のない空気を弄び、足は二三度の足踏みをする。頬は熱くなる。早苗はあからさまな動揺を見られるだとか、そういう事よりも自分の発言の方が愚かしいと思った。
「それじゃあ、代わりに美味しいお米を売っている所に案内しようか。丁度好い店を知っている」
「え?」
霖之助は穏やかに笑んでいる。早苗の動揺に口を出す素振りすら見えない。それだから、その突然な提案に早苗は間の抜けた声で反応してしまった。ほとんど反射の域である。気を遣わせているのだろうかなどと云った疑惑は、その後に付いて出る。早苗は胸の前で手を振りながら、慌てふためいた。
「で、でも、そこまで迷惑を掛ける訳にも行きませんし!」
「僕なら全然大丈夫さ。ただ、迷惑なら強く勧める事もしないよ」
「え、えと、あの、その……」
早苗の「あの、その」はまた始まった。霖之助は始終穏やかな笑みを湛えている。どちらでも好い気概のようにも見えるが、その言葉はそうでもないようにも聞こえる。遠慮勝ちな性格も手伝って、早苗ははいともいいえとも云えなかった。曖昧とも取れる男の態度は、霊夢のような強引さと鷹揚さが無ければ答えが出せない心持ちがする。前にも感じた霊夢に対する憧憬が、殊更に大きくなった。自分がそんな性格だったのなら、どんなに気楽なのか判らない。
「僕としては、早いご来店を頂いたお客様にお礼をしたいと思っているんだが」
「でも、本当にご迷惑じゃありませんか……?」
「元より閑古鳥の鳴いている店だからね、忙しい時間なんてほとんどない」
霖之助は宛然として穏やかに笑んでいる。早苗がどれだけしどろもどろになろうと、その様子が変わる事がない。早苗は頻りに視線を色んな場所に移していたが、男の笑みが視界の中に入る度に、出すべき結論が何処かへ行ってしまいそうになったり、口から出る寸前まで行ったりした。けれども、最後にはその笑みに負けてしまった。
「……じゃあ、お頼みしても好いですか?」
「勿論。僕は君達のように空を飛べないから、多少の迷惑は大目に見て欲しいけど」
「い、いえ、迷惑を掛けるのはこちらですし、ありがとうございます」
ぎこちない早苗と比べて、霖之助は実に気楽そうである。早苗は少しだけこの男には霊夢と似通った所があるかも知れないと思った。もしかしたら、幻想郷に住んでいる人々はみんなそうなのかも知れない。随分と慣れたつもりでいたが、外の世界で植え付けられた現代人特有の焦燥や羞恥心は中々捨て切れない物なのだと、心中で評した。
すると霖之助はもう椅子から腰を上げた。出るなら早い方が好いと云っている。早苗はそうですねと云ったきりである。ところへ、霖之助が早苗の姿を見て何かを目に留めた。
「そういえば、その格好で寒くないのかい。上着ならあるから、着て行くと好い」
そう云われ、早苗は自分の着ている服を見直した。肩口を露出させ、中途半端な位置に袖がある。なるほど寒そうだと思われるのに不思議はない。実際、香霖堂へ飛んで来る間も寒くて仕方がなかった。
しかしそれは自らに与えている試練であったから、どう答えたら好いものかと考え、結局少しだけ、と答えると、霖之助は奥の方へ行って、一着の外套を手にして戻ってきた。そうしてこれを着ると好いと云って手渡した。早苗は恥の上塗りをされた心持ちになると同時に、細かな気配りを嬉しく思った。が、それがこの時点で特別に起こり得る親切なのかどうかと考えると、また心の底に靄が掛かる。暖かなな外套を着ながら、その靄を意識しないようにして、赤くなった頬を隠すように襟を立てた。店内の匂いが、少しだけ感じられた。
そうして間もなく二人は店を出た。外は相変わらず寒い。秋にしては空気が冷た過ぎとさえ感じられる。けれども早苗は別段の震えもない。その代わり緊張で体が硬くなる。隣でする足音が、静けさに満ちていた心に波紋を広げる。その一方で大地を踏み締める煩わしさだとかは、感じる事がなかった。……
◆
人里に向かう道中は少しばかり長かった。辺鄙な所に店を構えているという弁は霊夢の物であるが、それに相違はなかったようで、歩いて人里を目指すには一刻以上が経過していた。早苗はその分心労が溜まったが、心地の悪い心労ではなかった。好きな事を長時間続けると疲れるのと同義で、早苗はそれほどの長時間が立たずとも疲れを感じたのである。だから早苗は始終笑顔であった。年頃の嬌羞を感じさせるはにかみを見せていた。
霖之助は早苗への配慮の為か色々な話をして聞かせた。
魔理沙の幼い頃の話は、あんなに無作法に見える魔理沙にも大人しい時期があったのだと驚いた。
霊夢の横暴振りは、相変わらずだと思って笑った。霖之助は呆れていたが、それがますます面白かった。
早苗はそういう話に対してふと思った疑問をぶつける事はあったが、遂に紫と霖之助との間に起こっている交渉の話には踏み込めずにいた。彼女には不明瞭な結果を知る勇気が無かった。また、他人の詮索の際に起こり得る自身の露呈を恐れていた。そうして早苗が一番気にしていた問題は最後まで話頭に上がらなかった。
殊に早苗の興味を引いたのは、霖之助が読んできた本の話についてである。外の世界から来たと思われる本の批評は、そういった知識をまるで持たない早苗でも、親切な説明があったので楽しむ事が出来た。霖之助は自分の趣味の話をする時は懸河の弁になるようで、それが平生の霖之助との間に差異を生み、早苗は本の話よりもそちらの方を面白く思った。けれども、本自体にも興味を惹かれる話はあった。
「この世界は色々と熾烈だよ。殊に恋愛に於いてはそれが著しい。僕がこの前読んだ本では、嫉妬やら憎悪やら離愁やらが溢れていた。特に他者に向ける憎しみには驚嘆すべき所がある。あまり社交的でないからかも知れないが、他者との関わりの中であれほど大きな感情に悩まされるのは、ある意味で幸せなのかも知れないね。尤も僕は先に云った通りあまり社交的でない所為で、そういう渦中に居た事が今までにないからそう気楽に云えるのかも知れないが、定めて人間とは、あるいは妖怪も、そういう生き物なんだね。東風谷さん、貴方はどうだったんだい」
霖之助がそう云った時には、遠慮だとかそういう類の配慮は無かった。熱弁を振っていた影響で、言葉がつい口を出てしまったのかも知れない。どちらにしろ、早苗にはあまり踏み込んで欲しくない領域である。彼女は外の世界での人間関係に於いて、好い思い出が少ない。風祝という特殊な人間だというだけで、白い目を向けられ、恋愛と云える事は一度としてなかった。だから、彼女は霖之助と同じ世界観の持ち主である。「私はよく判りません」と云って、ただ大変そうだと述べた。
そうして二人は人里へ到着した。
早苗には霖之助との間に会話が途切れなかった事が案外に思えたが、それも彼の性質上にもたらされた物なのだと考えて、道中を顧みては緩みそうになる頬を引き締めていた。
「僕が云った好い店は、売る物は好いんだが店主が難しい人でね、少し面食らうかも知れない。まあ気楽に考えて、僕に任せておいてくれ。そうすればきっと買わせてくれるはずだから」
霖之助は一つの店らしき建物の前で足を止めて、早苗に注意した。一体どんな性格の人なのだろうと早苗は不思議がったが、此処まで来て説明の手間を取らせるのも迷惑だと思えたので、はいと頷いて黙っていた。すると霖之助が親しい友人の家へ訪れるが如く、涼しい顔で戸を開けて中へ入ったので、早苗もそれに続いて若干の不安を抱えながら店内へ入った。
店内には米櫃だの米俵だのが所狭しに並んでいた。店というよりかは倉庫に近いように感じられる。何処か香霖堂と似通った所があると早苗は思ったが、敢えて口に出す事はしなかった。霖之助は奥に向かってごめん下さいと大きな声を出して、店主を呼び出している。やがて一人の老婆が姿を出してきた。
「おやまあ、霖之助さんじゃないかい。随分と久し振りに会った気がするよ」
老婆はしゃがれ声でそう云って微笑んだ。霖之助はお久し振りですと丁寧な礼をして、早苗にこちらはこの店の店主の奥さんだと説明した。早苗も霖之助に倣って礼をした。
「あら、随分可愛い子を連れて、今日はどうしたの」
「数少ない香霖堂の常連さんです。今日は僕の店では取り扱っていないお米を買いに」
「東風谷早苗と申します。よろしくお願いします」
「そうなのかい。私はてっきり、霖之助さんの奥さんになってくれる人かと思ったのにねえ」
早苗はその言葉で顔を赤くした。霖之助はあははと笑っている。全く諧謔を弄している。
「いえ、私なんかでは……」
早苗はこういう時に謙遜する女である。冗談に対して冗談を乗せられる事には乗せられるが、今の時点に関しては到底成し得ない行いであった。しかし老婆は、早苗の反応が素直から来るものからだと感じたのか、更に冗談を続けてしまった。早苗は一人顔を熟れた林檎のように赤くして、俯くより他になかった。
「そんな謙遜しちゃいけないよ。礼儀も好し、器量も好しなんだから。ねえ霖之助さん、早苗さんなら家に迎えても好いんじゃないかしら。こんなに好い子、滅多に居やしないよ」
「はは、そんなに虐めたらいけません。困ってるじゃないですか」
そう云って、霖之助は真赤になって俯いている早苗を横目に捉えた。丁度その時に早苗は霖之助の方を向いたので、必然二人の視線は交わった。早苗の瞳には遠慮の色が灯っている。霖之助の瞳には、――霖之助の瞳にはどんな色も灯っていない。ただ、早苗はその瞳に少しだけ寂寞を感じた心持ちがした。
「おやごめんなさい。ついつい嬉しくて、要らない事まで云ってしまうわ」
そんな事を云って、笑いながら老婆は奥の方へ戻って行った。
間もなくして現れた老婆と同じ年ぐらいに思われる健康的に焼けた肌をした老人が、早苗に米を売ってくれた。霖之助の云う通り難しそうな人に見えたが、案外そうでもなかったと見えて、霖之助と早苗の二人と少しばかり会話を交換してから、笑顔で売ってくれた。しかも割引の特典付きである。早苗は無論遠慮をしたが、老人の強い押しに負けて、遂に安い値段で力作だと老人が豪語する米を買ってしまった。
そうして二人は店を後にした。太陽の角度は随分と傾き始めている。稜線の上から斜に差し込む淡い赤の陽が、二人の髪の毛を別の色に仕立て上げる時分である。早苗には時間の経過が早いように感じられたが、それに対する懸念などといったものは決して浮かんでこなかった。霖之助は元より時間の概念に然程の興味がないらしく、気楽そうな顔をしている。早苗はその怜悧さを漂わせる横顔を見て、何だか言葉にならない心持ちになった。
二人は通ってきた道を辿って、香霖堂を目指した。米は霖之助が持っている。早苗は申し訳なかったが好意を無下にするのも失礼に思えて、素直に甘えていた。霖之助も荷物をそれほど苦にした様子を見せなかったので、多少は気楽に居る事が出来た。
――やがて、早苗が守矢神社へと戻った時には、既に太陽は身を隠し、月が自分の輝きを主張する時分になっていた。瞬く星々が無限に広がる空の下、一冊の本を手に持ちながら早苗は重い荷物も苦にせず、守矢神社に到着した。本は霖之助に借りた物である。それを手にするだけで、早苗は明日からの日々が楽しみになった。
◆
幻想郷はやがて晩秋の時節へと移り変わった。色鮮やかに煙った木々の葉も、次第に物寂しい色へと変わり、何処となく寂寥感の漂う景色が広がっている。博麗神社の境内もその例に漏れず、寒々しい風が吹く中を、色褪せた落ち葉が舞っていた。早苗はそんな光景を霊夢と茶を共にしながら眺めていた。
「寒くなりましたね」
「そうね。炬燵の中に居ないとやってられないわ」
二人はそんな事を云い合いながら、炬燵の布団を肩までたくし上げた。眠気さえ誘う暖かさは心地よくもあったが、気を抜けばすぐに微睡んでしまいそうで、早苗は意識して頻りに茶を飲んだ。緑茶の渋い味が、舌の上を柔らかに滑り、喉をほどよく暖める。すると間近に迫っていた睡魔の気配も、何処か遠くへ行ってしまうような心持ちがする。早苗は熱い息を一つ吐くと、外に窺える寂しげな風景を目に入れて、初秋の時節を振り返った。
始まりは此処からであった。
強引な霊夢の誘いに、半ば強制的に香霖堂へと連れて行かれ、そうして事態もよく飲み込めていないままに常連へとなった。そうして色々と世話を焼いて貰ったり、安価で品物を提供されたりと、そういった関わりを通じて店主との関係は次第に縮まって行った。初秋の自分と比べると、晩秋の自分は随分と様変わりしたように思われる。風景が歴然とした変化を表すが如く、自らも大きく変化したと、早苗は自己を評価した。
「この後何か用事でもあるの?」
「あ、はい。借りていた本を返しに」
「霖之助さんの所へ?」
「……はい」
早苗の態度には年頃の女性特有の嬌羞があった。霊夢はそれを認めたのか、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべ出すと、机の上に身を乗り出した。今生じた話題に興味が動かされたようで、随分と機嫌が好い。早苗は何だか恥ずかしくなって、僅かに頬を赤らめたが、別段気にする素振りも見せずに霊夢に応じた。
「今度は何の本を借りたの?」
「小説ですよ。多分霊夢さんが読みたがるような物ではないですけど」
「まあ、本を読んでいるよりかはぼーっとしている方が好きなのは確かね」
早苗の言葉に苦笑して、霊夢は乗り出した身体を元の位置に戻した。そうして、何処か遠くを見るような目で「変わったわね」と云った。
「誰がですか?」
「霖之助さんが。前はあんなに愛想好くなかったから」
早苗には霊夢が話す以前の霖之助を想像する事が出来なかった。少なくとも、自分が初めて霖之助と相対した時は、これほど人が好いのも珍しいとさえ思った。それだから、尚更霊夢の云っている事に信憑性を見出せない。暫く考えた末に、過去の霖之助がどう云った人物であったのか、詳しい所を聞いてみようと思い立った。
「以前はどんな人だったんですか?」
「一言で片付けるなら、無愛想。他人には興味がないって感じだったわ」
「そんな風には見えませんね」
「早苗が来た頃からじゃないかしら。どんな風の吹き回しか知らないけど」
図らずも早苗は霊夢の言葉に随喜を感じた。狷介な人間であった霖之助を自分が変えたなどと、他人を倨傲し過ぎていやしないかと思ったが、嬉しさは知るよりも感じる方が早かった。早苗は自分の中に芽生えた嬉しさを消す前に、その嬉しさを見出した。それだから、形として唇に現れそうになるはにかみを、押し殺すのが難儀で仕方がなかった。
「紫辺りが、何か云ったのかもね」
霊夢はけらけらと笑いながらそんな事を云った。それで早苗ははにかみを押し殺す苦労も感じずに済んだ。けれども嫌な心地である。また心の底に靄が掛かった感覚がする。――早苗が香霖堂で紫と遭遇したのは、初秋が晩秋に移り変わるまでに何度もあった。それだけに、何に対しても頓着がない霊夢の発言は、早苗の心に暗い影を生み出した。どろどろとして、身体に纏わり付くような闇が、少しだけ勢力を広げたようである。
「じゃあ、私はそろそろ」
「はいはい。霖之助さんによろしく云っておいて」
何を、と思ったが、霊夢の事だから特に何も考えずの発言だろうと思い、早苗は適当な返事を返して香霖堂へ向かうべく、母屋を後にした。
外は室内が如何に暖かったかを示すが如く、寒い空気が遍満している。早苗は既に慣れた匂いのする外套に身を包めて、空々たる蒼穹へと飛び上がった。太陽の光が燦と降りている。早苗は雲一つさえないこの空を飛びながら、一つだけ願い事をした。しかし、願ったという自覚が自己を苛み始めると、彼女は首を横に振り、何を考えていたのか忘れようとして、再び前を見た。
――彼の女は、掴み所がない。故に何をも悟らせない。早苗はこの時、確かに紫が香霖堂へ訪れて居ない事を願ったのである。
◆
香霖堂と書かれた看板を、もう何度見たのか早苗は判らなかった。とにかく何度も見たような気がする。けれども幻想郷に於いて、未だ新参の域を出ない彼女の立場は、到底彼の女には敵わない。それどころか、持っている力も、知識も、経験も、全て劣っている。それを考えると、彼女は自然と消沈して行った。しかし、先刻の霊夢の言葉を思い出すと、この店の敷居を跨ぐだけの勇気を得る事が出来た。早苗は不安定に揺れる感情を内に秘めたまま、予期しない偶然に対する心構えもなく、香霖堂の中へ足を踏み入れた。
「――上手く行っているみたいじゃない?」
聞こえたのは、女の声だった。早苗の足は店内へと一歩を踏み込んだところで止まってしまった。その代りに、店内の奥から聞こえてくる声を、耳はしっかりと受け止めている。目は最早意味を成さない。早苗はこの時ばかりは、雑然と物が置かれて、店内がよく見渡せないのを恨めしく思った。
もしも店内の見通しが好く、霖之助が自分に気付いてくれて、彼の女との会話が打ち切られたなら、それがどれだけ好かったのか判らない。奇跡を起こす程度の力を持っている故か、彼女は先に起こる不安の具現化を感じ取っていた。虫の知らせとでもいうのかも知れない。とにかく彼女は、この場から一刻も早く立ち去りたい衝動に苛まれていた。けれども足は意思に反して、一向に動く気色を見せず、彼女はその場に立ち尽くしていた。
「何の事か判らないね」
「恍けているの? だってあの子、貴方を随分と気に入ったみたいじゃない」
「……」
「常連さんになって、一緒に買い物に行って、本を貸し借りする仲になって、香霖堂へ来る為の口実を作って、それを利用して。――ねえ、これに気に入っている以外の理由がある?」
霖之助の声は聞えなかった。女の声はことごとく聞こえている。早苗は外套を力一杯握り締めながら、力の籠らない眼差しを足元に落として、茫然としていた。要らない考えが頭の中を錯綜する。
霖之助は一時の暇潰しの為に自分を利用したに過ぎない。
霖之助はあの女と共謀して自分を弄んでいたに過ぎない。
霖之助の上に自分が変化をもたらしたなどと、勘違いも甚だしい。
素直な早苗はこの時点に於いて、そういう類の事しか考えられなかった。そうでなくとも、早苗の立場でこの場に居合わせた者は同じ境遇に陥るに違いない。早苗は自分でもよく判らない感情が自己の内に広がって行くのを感じた。紙に水を垂らした時のように、じわりと自分の心が湿って行くのを感じた。燃え盛る嫉妬の情でも、沸々と煮え滾る憎悪の情でも、膨張して爆発してしまいそうな憤怒の情でもない。早苗はただ、足元に落ちた二三滴の水滴を見た。そうしてこれが悲しみなのだと大悟した。
――彼の女と男との話を聞いて、吹き出した恋の煙を攫って行った風が、小さな彼女には重すぎる荷を背負わせてしまったのである。
早苗はそれを自覚すると同時に、香霖堂を飛び出した。幸い彼女が踏み込んだのはたった一歩の領域でしかない。奥に居る二人には気付かれなかった事であろう。でなければ、惨めな自分を更に追い詰める事になる。水滴が彼女の軌跡を描いて行く中、彼女は冷たい風を顔に受けながら嗚咽した。
後にはただ、冷たい微風を招き入れる開け放たれた戸が、虚しく音を立てているばかりである。
◆
「僕はそんなに性質の悪い性格じゃない」
霖之助はとうとう横柄な態度を取られているのが我慢ならなくなったのか、自分を弁護した。無論その弁護は先の紫の発言に対する物であろう。まるで自分が早苗を弄んで楽しんでいるかのような話し方をされては堪らない。彼は自分を変えた理由が、そんな軽はずみなものではないという自信がある。
「それじゃ、好意があって親切をしていたの?」
「……そういう訳でもない」
「じゃあどちらにしても酷い人よ」
「君が愛想好くしろと云ったんじゃないか」
紫の口元はまた歪みを見せた。まるで以前と同じである。紫はそうして二人を分け隔てる机へ身を乗り出した。必然お互いの顔の距離は近くなる。前へ出れば触れそうなほどに近い。吐息が鼻に掛かるほどである。霖之助はやはり動じなかった。かと云って諦めているようにも見えなかった。ただ、何時かと同じように、紫の金の瞳を見詰めている。紫は相変わらず不敵な笑みを浮かべて、楽しそうに霖之助を見詰めていた。
「愛想好くしろとは云ったけど、親切をしろとなんて云ってないわ」
「同じようなものだよ。親切も、愛想も」
「違うわ。愛想は相手との距離を設定する為のもの。親切は相手に近付こうとする意思を表す為か、媚びを売るかのどちらかにしか使われないわ。貴方がしていた親切は、明らかに後者よねぇ?」
霖之助は黙るより他になかった。紫の云っている事は実際正しいと思った。けれどもそれを認めると、途端に早苗に対する接し方にはある種の残虐性が含まれているように思われる。早苗は素直だった。素直故の愛嬌を持っていた。そうしてその素直な部分を、上手く隠せない女だったのだから。
「東風谷さんは、僕の事を好いていると?」
「さあ。そんな乙女の事情に踏み込むような事は出来ないわ。貴方はどうなの?」
「もう答えたよ。今更云う事でもない」
「酷い人」
そうして紫の顔は更に近付いた。以前と同じだったのならば、霖之助は何の興味も起こさず、行雲流水の如く、その行為を受け入れた事であろう。霖之助にとって、その行為には何の意味も無かったのである。本の中のような熾烈な恋愛劇は、現実の上に姿を現さないものだと思ったし、何をされようが実質的に意味を持たない以上、彼にとってはどうでも好かったのである。
――しかし、本人でさえも気付かぬ内に、男の手は紫の行動を制していた。確かな拒絶の色を含ませる瞳は、「やめろ」と告げているかのようであった。驚いたのは紫ばかりではない。霖之助でさえも、自分が何故この女を拒んだのか判らなかった。その行為にどんな意味が付いたのか、判然としなかったからである。
「……面白い人ね」
霖之助が驚いている間に、紫は背筋を伸ばした。色香ばかりが霖之助の鼻孔を擽っている。中々離れない吐息の感触は何処か不愉快だった。
「それで、どうするの?」
紫は霖之助に背を向けて、そう尋ねた。どうやらもう帰るつもりのようである。霖之助はこの問いかけを、ただの興味からくる戯れなのだと判じた。けれども、尋ねている事は彼にとって真剣な問題であったから、適当に答える訳にも行かず、「どうにかする」とだけ答えた。その後の女の表情を見る事は叶わなかったが、一言だけ呟かれた「そう」という言葉に妙な重みがあるように思われた。
そうして、紫は自身の前に開いた薄気味悪い境界の中へ消えて行った。残された霖之助は、傍らに置いてある文庫本に手を伸ばす事もせず、椅子に座ったまま茫然としていたが、やがて入口の方から冷たい風が吹いているのに気が付き、重たい腰を無理やり上げて、入口の方へ歩み寄った。
「何時の間に」
霖之助は少しばかり驚いた。最後に確認した時には確かに閉ざされていた戸が開け放たれて、そこから初冬に傾き始めた冷たい風が入り込んでいる。外に出て辺りを見回しても、こんな辺鄙な所へは人間はおろか妖怪でさえ近寄らない。そこにはただ、蕭条とした木々が立ち並んでいるばかりである。
誰も居ない事を確認すると、霖之助は寒い空気に身震いして、すぐに店内へと戻って行った。入口に落ちていた水滴は気付かずに踏んでしまい、その痕跡はもう残っていない。声なくして響き渡った早苗の慟哭は、彼の耳には届かなかった。……
◆
一週間の日が流れた。短い晩秋は終わりを告げて、本格的に冬が幻想郷中を包み込み始め、朝陽を受けて光る霜が土の上に降りる時節である。木々に煙った葉は疾うに散り行き、今では尖った枝をそこかしこに広げる姿が残されている。その寂しげな光景を目に認める度に、早苗は辛辣な思いに囚われて、居たたまれなくなった。
箒を手にし、早苗は境内に残る落ち葉を集めている。時間が早い所為か、冬の寒さは殊更に彼女の身を苛んだ。米を買いに行った日、自分には必要ないからと貰った外套は家の箪笥の中に入ったままである。早苗は外套を着ない代償に寒さを甘んじて受け入れる事にした。でなければ彼女の精神は瞬く間に擦り減って行ってしまう。慣れたはずの匂いは、思い出したくない記憶を掘り起こすだけなのだから。
泣き腫らした目も元に戻った。塞いでしまった心も、親しい者に対して開け放つ勇気が出るようになった。手に付かなかった仕事は漸くこなせるようになった。色褪せてしまった世界は少しだけ彩りを取り戻している。それでも早苗の胸には、一つの穴がぽっかりと空いている。それを埋める要素は判り切っているはずなのに、それでも彼女に行動を起こす勇気は出し得ない。あの日突き付けられた刻薄な現実は、そう容易く払拭出来るものではないのである。
「早苗」
ところへ、背後から聞き慣れた女の声がした。後ろを振り向くと、心配そうな眼差しで早苗を見る神奈子の姿がある。何処か憫然たる光を湛えた神奈子の目は、触れば崩れてしまいそうなほど脆くなってしまった早苗の心には辛かったが、それでも慳貪な態度を取る事は出来ず、出来るだけ元気な風を装って早苗は返事をした。
「最近元気がないようだけど、何かあった?」
「……いえ。きっと寒さの所為です。こう寒いと、外に出るのも億劫ですから」
そうして早苗は自分の手を息で暖めて見せた。外気に冷やされた手は赤くなっていて、少し震えている。嘘が上手くない早苗では、その発言は相手の猜疑心を刺激するだけである。神奈子は先刻より尚心配そうな顔をして、早苗の方へ歩み寄った。早苗が湛えている柔和な笑みは、崩れかけている。
神奈子は早苗の渾然とした態度の内に、確かな失意を認める事が出来た。平生自分の都合が上手く行かない時に、偽りの元気を表面に被せる早苗の事だから、今回の曖昧な笑顔もそれに帰着するのであろうと考えて、早苗の傍まで近寄ると、その頭の上にぽんと優しく手を乗せた。柔らかな髪を潰されて、早苗は案外な顔をした。
「八坂様……?」
「何か、好くない事で悩んでるでしょう」
不思議そうに目を丸める早苗に、神奈子は恩倖を込めた眼差しを向けた。そうして、彼女の疑惑は黙りこくった早苗を見て確信へと変化した。早苗は何も云わないまま、視線を足元へ落して、居心地が悪そうにしている。彼女の素直は何時も妙な所へ働いている。こういう時に、その素直が身を潜めてしまうのである。
「話してくれると嬉しいわ。私達は、貴方のそんな表情を見たくて此処に来た訳じゃないんだから」
神奈子の手は早苗の頭頂より後頭部へと移動した。そうして、柔らかい胸の上へ早苗の顔を押し付けた。早苗はされるがままにされている。心持ち詰まった息が、機微を穿った。
「……私は馬鹿な女です。最初から期待なんて持たない方が好かったのに、勝手な想像を胸の内に膨らませて。全部気の所為だったと思っても、そう思い切れずにいます。――私は馬鹿な女です……」
早苗の告白は事あるごとに区切りを付けたがった。一気に云い終えようとした気概が裏目に出た結果である。神奈子は哀憐の眼差しを向けた。器用でいて器用でない小さな早苗を気の毒に思った。涙に濡れた声音がそれを一層強くする。神奈子は「そう」と云って、繰り返し彼女の頭を撫で遣った。
蒼穹に浮かんだ太陽が降ろす白い光が、鮮やかな緑の髪に差している。けれども早苗の頭の上には、薄い雲翳が掛かっているが如く思われる。愧赧の念が、彼女の上へ雨粒を注いでいるが如く思われる。洟を啜る儚い声が、物静かな境内に、寂然と響き渡っていた。
「全部、話してみなさい。心に留めたままじゃ、身体に毒だから」
子を優しく諭すように神奈子は云った。震える身体を宥めようと背を摩りながら、赤子をあやすように。早苗は小さく頷く。そうして涙に震える声で、濡れた声で、自分の元へもたらされた変化を有りのまま話し出した。自らが携えた恋慕の情も、独り善がりな解釈でそれを酷く傷付けられた事も、全て話した。そしてそれを神奈子へと伝えながら、自らの胸の内をちくちくと苛める痛みに耐えていた。
矜持を損なわれたのではない。早苗はただ素直なままに彼らの対談の様子を耳にし、素直なままに傷付いただけである。そこに善悪は存在し得ない。むしろ彼女からすれば、こうして神奈子の時間を取っている事でさえ迷惑ではないかと思われる。畢竟早苗は素直過ぎる人間なのである。
――早苗は全て話し終えた後、漸く心の平穏を少しだけ取り戻した。最初はほとんど言葉を言葉として形成させなかった舌も、元の通り平生の活舌さを取り戻した。けれども声音は暗い。風邪を引いた時のようである。神奈子は自分から身を離そうとした早苗を、流れに任せたまま解放した。
「……すみません。もう大丈夫ですから」
早苗はそれだけ云って、神奈子に背を向けた。まるで助言など頼りにしていない様子に見える。しかし何か声を掛けてやらねばたちまち瓦解してしまうような儚さが滲み出ている。神奈子は段々暗くなる空を見て、何かしらの言葉を掛けねばなるまいと、半ば責任を負わされたように思った。
しかし、頭の中に散らばった言葉の断片は容易に形を成さなかった。どれを選んでも何か違うような心持ちがする。それでも自責の念は絶えず彼女を責め立てる。どうにもならない問題をどうにかしようとする滑稽のようで、神奈子は早苗の背中を見詰め続けていた。箒を手に突っ立っている姿が、何処か物哀しそうであった。
「早苗」
「……」
神奈子は名を呼び止めるより他になかった。でなければすぐにでも早苗は歩き出してしまうように見える。しかし応急処置染みた事を施しても、先の問題は一向に解決する見込みがない。頭の中に思い浮かぶのは、早苗を更に傷付けるであろう同情の言葉だけである。二人の間には重々しい沈黙が再び舞い降りた。
「……本人に確かめた訳じゃないのね」
「確かめた訳ではないです。でも、そうなのだと思います」
「そう悪い方向にばかり決め付けたら、何も出来ないわ」
「……そうかも知れませんが、勇気が出ないんです。私では、無理なんです」
神奈子は早苗がまだ言葉も上手く話せない時から彼女を見守っていた。そうして成長した時の彼女の立派な風祝の仕事をこなす姿を喜んだ。諏訪子も同様である。早苗を風祝としてしか見詰めなかった家人達の事も相まって、彼女らはさながら早苗の母親のような存在であった。だからこそ、早苗が発した自己を卑下する言葉は聞き捨てならなかった。まるで自分が侮辱された時のような不快感が胸の底に沈殿していた。
持ち得る強さを敢えて遠ざける事を潔しとするほど、神奈子は臆病な気質ではない。またそれを他人に押し付けるような気質でもなかったが、今の早苗の姿を顧みて、自然と口を出る言葉は、先刻の難儀さなど感じさせぬくらいに容易に口を出た。子を叱咤する時のような荘厳な声音であった。
「逃げて、逃げて、逃げたとして。貴方にとって最後に残る物は」
「……判りません。逃げなかったとしても、傷を負うだけなのだと思います」
「悪い癖だわ。何事もやってみなければ判らない事がある。当たって砕けろだなんて、無責任も好い所だけれど、今の貴方にはそういう勇敢さが必要に見えるわ」
「どうして、ですか」
「だって、何時だって逃げる理由は自分を守る為のものじゃない。今の早苗はとても辛そうにしているのに、それで逃げてきただなんておかしいわ。まるで逃避自体を言い訳にしているようだもの」
「でも仕方がないんです。だって勇気が出て来ません。あのお店に行く理由も無くなってしまいました。それでも立ち向かおうとするのなら、どうしたって私は惨めです。――私は弱い女ですから……」
「早苗」
神奈子はより一層強い声を以て早苗の名を呼んだ。早苗は息を呑んだかのように押し黙る。一旦籠の蓋を取り外されたら鳥達は戻る術を知らない。神奈子の言葉はそういう勢いで口を出る。それだから彼女は幾ら早苗を責め立てるような言葉を云わねばならぬとしても、後悔だけはしなかった。蒼穹へと飛び上がった鳥達にもたらされるのは、かつて知る事がなかった空の広大さと、澄み切った空気なのである。取り残された飼い主の事など少しも考えないに違いない。
今の神奈子はそれと同義である。けれども決定的な相違点として、早苗を何処までも思いやる優しさだけは褪せる事がない。彼女は全て早苗の為に、その言葉を紡ぎ出している。
「でも、だって、は聞きたくないわ。このままで好いだなんて思わないでしょう。何時だって先の見えない道のりは怖くて仕方がないかも知れないけれど、それでも私達はその道を進まなければならないのよ。――ねえ早苗。理由がないのなら私があげるわ。丁度切らした茶葉も欲しいし、借りたという本は返さないといけない。早苗が少しでもあのお店に行きたいと云うのなら、幾らでも理由をあげる。そうすれば勇気だって、少しは出ると思うわ」
空はいよいよ厚い雲に覆われ、守矢神社から見渡せる山々の木々を圧して来ている。今にもその灰色の雲からは細い雫が落ちて来そうである。神奈子はそんな空模様を見上げて、もう一度早苗の背中に視線を向ける。肩は依然として震えている。小さな背中は弱々しい。しかし、自分の云える事は全て云ったという満足感の所為か、その見た目ほど弱々しくも感じられなかった。あるいは早苗が神奈子の言葉を聞いて奮起したのかも知れない。
「……失敗するとしても、私はもう一度あのお店に行っても好いんでしょうか」
背中越しに早苗の声が聞こえた。誰であれ持つような不安の声を神奈子は聞いた。そうか、と彼女は思う。早苗は誰かの後押しを必要としているのだ。後一歩の所で出てこない勇気を、誰かに与えて欲しかったのだ。漠然とした確信を持って、神奈子は最後のひと押しを口にした。
「一度も失敗を経験しない人生なんて、それこそつまらない奇跡だわ」
◆
果てしなく広がる雲影は、とうとう細い糸へと変化した。ぽつりという音を初めとして、二三滴とその後を追い、遂にはざあと大きな音を立てて大地を穿つ雨が降り出した。車軸を回すような勢いである。香霖堂という看板が掲げられた、丈夫そうには見えない店は、その雨を受けて寂然たる森の横に佇んでいる。
ゆらゆらと揺れる焔を先端に灯した蝋燭が一本だけ、立っている。男はその明かりを頼りに、手に持った書物に目を通していた。けれども内容は少しも頭の中へ入ってこない。彼は何時からか、本にあまり集中出来なくなった。客が来なければそれぐらいしかする事がないというのに、娯楽を娯楽として楽しめないでいた。
それは今も同様で、羅列された文字はそのことごとくが閑文字の如く思われる。然したる意味を持っていないようで、読んでいて少しも楽しくなって来ない。男は嘆息を紙面の上へ落とすと、遂に読んでいた本を脇に置いた。そうして固まった身体を解すように伸びをして、小気味好い骨の音を鳴らした後、また嘆息して安楽椅子に凭れかかった。
「――まともに読書も出来やしない」
霖之助はそんな事を呟いて、薄暗い店内の様子を眺め遣った。蝋燭の焔に照らされて、大きな影が天井で揺れている。入口の戸はここ一週間ほど叩かれていない。それが彼を不愉快にさせる。しかし、その不愉快の近因がまるで判らない。確かなのは、判らない問題に力を注ぎ、要らぬ徒労を感じる事からくる不愉快だけである。
彼はこの一週間というもの、自身の存在について考えぬ日が一度としてなかった。かつても幾度となく繰り返した思考を、この一週間の内で更に繰り返した心持ちがする。自身に於ける永遠の命題と云うべき問題は、到底読書の暇を作らなかった。二人でする芸当を一人でするくらいに無理がある。それを判っているからこそ、彼は本を脇に置いた。霖之助の頭の中には、先刻読んでいた内容の一つも入っていない。
その内、ストーブが立てるぼうという音が煩わしく感じられた。外で降り頻る雨音は尚嫌であった。読書はほとんど強制的な思考に妨げられ、その思考はこの音に妨げられる。困却した霖之助はどうしようもなくなって、窓の外を何ともなしに見遣った。
一方の窓は森に面している。そこからは枝垂れた枝が雨に打たれて揺れているのが見えた。もう一方の窓は広く見渡せる通りに面している。天気が晴れの日は比較的陽光の入り易い窓である。霖之助はその窓を見遣った時、思わず散漫になっていた意識を集中させた。膨大な雨粒が霧のように立ち込める中に、人影らしき物が見て取れる。こんな寒い時節のこんな雨の日に、一人雨に打たれて何をしているのだろうかと霖之助は更に目を凝らした。
ざあとこの世の空の全てを覆い隠してしまったかのように思われる黒雲から落ちる膨大な量の雨粒は、熾烈な勢いで降っている。しかしその重たい空の下で一人佇む者は、そんな事にはまるで頓着する様子を見せず、地面に目を遣ったままぴくりとも動かなかった。――しかし、霖之助にはそこに佇む者の髪色や、服装や、華奢な体付きを明らかに認めた。曇った窓は景色を滲ませるが、それでも彼にはそこに居るのが誰であるのかが知れた。
――東風谷早苗は一人、雨の中に佇んでいる。自らの素直を隠す術も知らず、素直から逃げる術も知らず、ただ立っている。男は思わず安楽椅子から立ち上がった。そうして、今一度女の姿を目に入れると、傘も差さないまま、身を貫かんと打ち付ける雨の中に飛び出した。冷たい風に煽られた冷たい雫が容赦なく襲い掛かってくる苦痛は、しかし彼に何の痛痒も与えなかった。
一間ばかりの距離を女との間に取って、男は立ち止まった。雨は依然として降っている。雲行きが良好でないのは明白である。翌日までずっと振り続けるかのような勢いであった。
「東風谷さん」
女は男が来た事に気付いているのか、気付いていないのか、何とも答えなかった。下を向いた顔は上に向く気色も見せていない。霖之助は更に一歩、踏み寄った。
「東風谷さん。そんな恰好じゃ身体に好くない。一体どうして、こんな日に、こんな所で立っているんだ」
やはり女は何も答えなかった。男はそうしてまた一歩二歩、そして三歩と歩を進めて行く。彼らの距離はもう手を伸ばせば触れ合うくらいに近付いた。女の様子は変わらない。二人の間に降りる沈黙に、雨音が飾られている。
「とりあえず入りなさい。此処は寒い。到底話すには向かないから」
そうして男は女の手を取った。無視され苛立った様子もない。また寒いから面倒事を早く片付けたいという風にも見えない。本当に相手の身体を気に掛けた行いのように思われる。女は手を取られ、促されるがままに香霖堂へと歩き出した。けれども最後まで、何かを云う事はなかった。
◆
ストーブの火が燃え盛る前に安楽椅子を置いて、その上へ早苗を腰かけさせた霖之助は、自分は店内に立ったまま、雲ってしまった眼鏡を丁寧に拭いていた。早苗は手渡された柔らかな布を頭の上に乗せている。髪の毛とある程度身体を拭くようにとの配慮で渡したつもりだったが、当の本人にはそんなつもりはないようで、布を頭の上に乗せたまま動かずにいる。その所為で髪先から滴る水が、床に小さな水溜りを作っていた。
外ではまだ雨が降っている。ざあと鳴る煩わしい音は一向消え失せない。霖之助は活き活きとした沈黙が領する店内に立ちながら、眼鏡を拭き終えた。けれども拭き終えた後にする事がない。早苗は元より黙りこくったままであったし、早苗がいるからには本に手を伸ばすのも失礼に思えてしまう。かと云って、早苗へ話しかけるのも躊躇われた。何だか表現の仕様がない緊張が、場を支配しているように思われたのである。
二人とも黙り合ったまま、しかし時は着実に針を刻んでいる。雨足は段々と強くなる。霖之助の嫌いな音が、尚大きく響き渡っている。世界は薄暗い。昼間の時分だというのに夜の趣を凝らしている。甚だ迷惑だと霖之助は思った。そうして速くこの緊迫した状況から逃げ出したいと思った。彼は何か会話を持ちかけねばならない距離に他人を置くのが好きではない。殊に気まずい現状を見れば、それも余計である。男は溜息を一つ、静かに吐いた。
「――私は馬鹿な女ですか」
ところへ、早苗が唐突に問い掛ける。霖之助は意表を突かれて、暫し俯いた早苗の姿を見詰めていたが、そこに何の変化も捉える事が出来ず、何故そんな事を聞くのか、その理由を考えた。
すると、一番最初に頭の中に浮かんで来たのは胡散臭い笑顔を浮かべる女の姿であった。そうして「上手く行っているじゃない」という言葉が想起される。もしかしたら、あの話を聞かれて要らない誤解を与えてしまったのではあるまいか――そこまで考えたところで、やはり確信が持てず、またそれを尋ねれば自身の老猾さが露呈されてしまいそうで、彼はただ「何でそんな事を」と聞き返すより他になかった。
「……話を聞きました」
「何の」
「八雲さんと、つい一週間前、此処でしていた話です」
やはり、と霖之助は思わずには居られなかった。そうしてあの話を聞いた上で、先の問い掛けをしたのであるならば、彼は自らが評した熾烈な世界に身を置いているのだと自覚しなければならなかった。
「上手く行っている、という言葉を」
「聞きました」
「これは紫の言葉だ。万事滞りなく物事が円滑に進む様を〝上手く行っている〟と表現するのなら、僕には紫が云った言葉の意味が判らない。そんな意識は何に対しても持っていなかったからね。そしてそれが判らない以上は君の問いにも答えられないな。少なくとも馬鹿ではないとは思うけど」
霖之助は何故か、下手な言訳よりも正直な考えを優先した。紫の云う愛想はどちらに分類されるのかは判然としていそうなものだが、それは憚られた。よしんばそうしたとして、あの話を最後まで早苗が聞いていたとしたら親切であろうと愛想であろうと、結果的に早苗は傷付くだろうと思ったからである。
双方はそうしてまた黙った。居心地の悪い沈黙が店内に流れている。早苗の髪から滴る水が、店内にも雨音を提供しているように思われる。霖之助は窓の外を見た。窓は霖之助の眼鏡が曇ったように、外を映し出す機能さえ残していない。ただ灰色の世界が広がっているのかも知れないとだけ、彼に思わせた。
「……それなら、私の気持ちを、知っていますか」
早苗の言葉には初めて躊躇いが生じた。俯いた顔からは如何なる表情を浮かべているのか判らないが、震えた声がそれすらも判然と男の視界に映すようであった。男は当然答えに窮した。しかし、こういう時に素直な答えを出せないのは彼の性格故である。男は結局、真面目の上に冗談の霧を掛けて、この場をはぐらかそうとした。
「生憎、僕には読心術の心得はないんだ」
「――好きです。私は、森近さんの事が好きです」
女の言葉はともすれば無限に降り注ぐ矢の雨の如く熾烈であった。突然の告白は平生の早苗らしからぬ行為である。彼女は素直だけれども、それを隠そうとして失敗する女である。霖之助は未だかつて、早苗が自身の素直を正面からぶつけた所を見た事がなかった。それだから、瞠目したまま早苗を見詰めていた。
女の顔は既に俯いていない。霖之助を下から見上げている。決死を覚悟した光を湛えた瞳が男に向いている。男は黙った。元より云うべき言葉が見付からなかった。その告白の所為で生じた感情がどんな物かも判らなかったし、否が応にも冗談の霧は払われてしまった。彼は努めて真摯な思いで言葉を紡がねばならない立場に陥ったのである。
「ですから、一度だけ、一度だけで好いんです。どうか森近さん自身のお答えを下さいませんか。私はそれを聞けるだけで好いんです。それ以上は何も望みません。ですからどうか、お願いします……」
早苗の言葉は遂に震え始めた。今まで耐えてきた感情の波が一度に圧し掛かってきて、悲鳴を上げた心が流す涙が目の内より出てくる。床に出来た小さな水溜りには、新たな雫が二三滴と落ちて行った。
霖之助は早苗の頼みに応える為に、自身が胸の内に抱き続け、悩まされ続けた問題を明確に示さねばならなかった。今の時点で早苗の告白に対してかける言葉を持ち得なかったから、そうするより他にはなかったのである。彼は出来るだけ正当な理由を彼女に伝えねばならない。例えそれが卑怯な行為であったとしても。
「……僕は人間と妖怪の血を引いた、どの種族にも属さない、云わば異端だ。寿命は長いが力はなく、他の妖怪と比べれば僕ほど小さな存在はそうは居ない。――僕はそういう馬鹿げた存在なんだよ」
早苗は黙っている。最後まで霖之助の言葉を答えとして聞くつもりのように見える。霖之助は安心して話を進める事が出来た。ただ、雨音が相変わらず五月蠅い。彼にはそれが嘲りの音のように聞こえた。
「そしてそんな存在の僕は、僕という定義を自ら付ける事が出来ない。僕はこの問題に何時も悩まされている。もしかしたら僕が生きている現実は幻想なんじゃないかとさえ思える。それだから社交的でない。自分を自分として認める他者の集団に僕を置くと、怖くて仕方がなくなるから」
そこで霖之助は一度早苗を見遣った。未知の領域に出会ったかのような目をしている。森近霖之助という男の深層を少しだけ知ったという得意はない。ただ憐れむようにも見えず、悲しむようにも見えず、不思議を表現する光だけが無暗に光っている。霖之助は素直が前面に押し出されている結果だろうと思った。
男は自分という存在について存分に語った。言訳のようでもあるが、次の句を継ぐ為の正当な理由のようにも思われる。しかし、ともすれば女を傷付けてしまう言葉を紡ごうとするのは容易でなかった。柔肌を切らないように槍を宛がうが如く難儀であった。男は暫時を思考の猶予に費やした、早苗は待っている。真剣な光は一寸も損なわれないままに、霖之助の言葉を待っている。――そして、遂に霖之助は早苗に対する返事を切り出した。
「だから、東風谷さんの告白に対して返すべき答えが判らないんだ。あるいは好きなのかも知れない。あるいはそうでないのかもしない。それが判然としなくて、判らないと云うより他になくなる。――全く馬鹿な男さ」
そうして、霖之助は寂寞を感じさせる渇いた笑いを漏らした。
相手と親密になる事を恐怖と捉える霖之助からすれば、鬱陶しい関係はすぐにでも切り離せる。殊に相手が早苗のような素直な者であれば尚簡単である。けれども彼はその行為へ行き着かなかった。何故そうなったのかは自分でさえ判らない。もしかしたら、心頭に新たな焔が灯ったのかも知れぬ。
「それなら、私は馬鹿な女です。森近さんの答えを聞いて、少しでも期待してしまいますから」
「どうやら似た者同士だったみたいだね。妙な偶然だ」
そうして二人は少しだけ笑った。二人の間にある共通点はほとんど何もなかったが、自己を馬鹿な男と馬鹿な女と評するのが滑稽で仕方がない。彼らは異なる悩みを抱えている。そうしてその悩みをお互いに打ち明けた。彼らの間で明白になった共通点と云えば、それぐらいの事である。
「……また、私は此処に来ても好いでしょうか」
そこへ早苗がそんな事を云った。心配気な光を湛えた瞳が、怯えながら霖之助に向いている。雨に濡れた子犬みたようで、霖之助は片頬に笑みを含んだ。口元が吊り上がる。何だか面白おかしい。万人が当然と思う事について怯ず怯ずと尋ねているような調子である。とかく面白い。霖之助は「あはは」と笑った。
「僕は読書が好きなんだが、生憎常連さんには一人を除いて読書を楽しむ人が居ないんだ。話題を共にする相手が居ないのは実に寂しいものでね。僕の本棚にある本の数々を貸してあげたいと思って、お勧めを数冊引っ張り出していた所だ。誰か、借りると名乗り上げてくれると嬉しいんだが」
そうして霖之助は早苗を見遣る。少しだけ腫れた目は、しかし喜色の色に満ちている。素直なままに今を捉えている風である。先の事などまるで考えてはいないが、それ故に感じる幸福を享受している。霖之助はまた窓の外を見た。止まない雨は更に勢いを強くしている。車軸はおろか、山を崩しそうな猛烈な勢いである。
それを見ている内に、彼は自分が熾烈な世界に身を置いているばかりでなく、大変な事件の渦中に佇んでいるような心持ちがした。そうして、「酷い人」と誰かの声を聞いた気がした。
早苗は笑っている。素直なままに笑っている。借りた本をまだ返していない。人里に行った時に見た斜陽。大地の感触。隣を行く足音。――返さねばならない。そんな事を思っていた。
女は笑っている。素直なままに笑っている。……
「……」
誰も気付かぬ何処かに開いた境界から、金色の瞳が覗いている。
数多に存在する不気味な目の中で、金色の光だけは異端である。
それには羨望とも嫉妬とも憎悪とも付かない光が揺らめいている。
蝋燭の焔はその瞳をちらちらと映し出している。
けれども誰も気付かない。境界の下には一人の男と、一人の女が、楽しげに話している。――
――了
それにしても羨ましいポジションだ、是非代わってほしい…なんか死亡フラグが見えるのは気のせい。
なんだかんだで霊夢さんが守ってくれるよね、うん、大丈夫。
雰囲気がとても好きです。霖之助もいい味を出していますし、早苗さんのどっちつかずの曖昧な
思考も、バランスよく表現できていたと思います(何をえらそうに……)
そして紫の描写がとてもいいですね。胡散臭くて、妖しくて、最後の部分には少し鳥肌が立ちました。
怖いよー……
早苗さんの恋が実る時は来るのだろうか
一刻以上がが経過していた→一刻以上が経過していた
二三敵の水滴→二三滴の水滴
二三敵とその後を追い→二三滴とその後を追い
そうして速くこの緊迫した→そうして早くこの緊迫した
新たな雫が二三敵と→新たな雫が二三滴と
孤独はいいものだということを、我々は認めざるを得ない。
なればまた、孤独はいいものだと話し合える相手がいるのは、もっといいことだ。
ってけーねが言ってた。
流れるような感情を感じます。
最後のあれは・・・そうだ!霖之助!さんp(ry
あと、最後怖い
いやカップリング…かな?
普通とはちょっと違うような二人の関係が良いですね。
私も続きが非常に読みたいです!
心情を慮ると泣ける……。
何度か句点の後に三点リーダが入ってた文があったけど、これ紫の視線を表してたんでしょうか。
周旋してもらっている→修繕かな?
もう少しあった気がするが……
緻密な描写は良いが、前半の方で会話の中に入り込んでリズムが悪くなった場所があったように思われる。まぁ、好き好きかもしれんが。個人的な感覚だが、温かいところでも少し文章が冷たかったような……。
全体的にいい線いってるように思えるので(なに偉そうなことを……)今後に期待
環境描写や心理描写が多く難解に見えるのに、それを感じさせないスキルに脱帽です。
言葉の繋ぎ方もこれでもかと言うほどツボに入りました。
後書きに改めて出てきた「人間とは、あるいは妖怪も」という文言が、そのどちらともつかない筈の霖之助の存在を一層顕わにしてるように思ったのですけど、霖之助自身はそれを意識していたのやらいないのやら。
色々書いてたんですけどなんともまとまりがなくて、結局こんな塩梅になってしまって申し訳ないですが、とにかくこの作品すきです。
続きが気になります(笑
おそらく死亡フラグが立ったんだと思うけど霖之助か早苗、どちらのものかも気になる
多分紫は早苗が外にいること知っててああいう曖昧なセリフを言ったんだと思う
次回、できれば見てみたいです
心情が上手く伝わってきました
次回作があるのならとても期待
某所及びネタではよくある嫉妬ゆかりんですが、そそわ自体にはあまりない感じだったので、
リアルに書くとこんなにも恐ろしいものなのですね・・・
ああ、続きが気になるw
続編というか結末が書かれてないのにこの完成度。すごいです
早苗さんはこんな話が似合う・・・。
続編に期待しつつ、この点数ということで。
そして最後できっちり次回の引き!?
「紫さん!?」
こうですね、わかります。
この先ゆかりんがどう動くのかが凄く気になります。
でも早苗並みに素直になられても怖いけど
それでかに最後の一節が効いていますね
「周旋」はそのままで合ってると思いますが、原作準拠だと霊夢の巫女服は霖之助が仕立てている
みたいなので、そういう意味では「取り次ぎ」を意味する周旋は的確ではないかもしれませんね
素直になれない紫と素直な早苗。
おそらく、紫が霖之助に感じていたものはそのどっちつかずの曖昧さ、境界の挟間で迷う者同士の友愛の情ではないかと思うのです。
紫は幻想郷の母のような存在だと思うので霖之助や早苗を拒絶はしないと思いますが、早苗の非常に人間らしい思いを、霖之助が同じく「人間」らしい対応で受け止めたことが、紫に失望感を抱かせたと解釈しました。
ああそれにしても、二柱に可愛がられて育った早苗さんも、もう恋する年頃なのね・・・ほろり。
面白かったです
面白かったです。
読ませる力がひしひしと感じてよかったです。
早苗さん、頑張って!
素晴らしすぎるジャマイカ
続きが読みたいけれど、この作品はここで終わっているからこそという気もするこのジレンマ。
しかし・・・最後の描写が気になって仕方がない;
あえて使われているであろう難しい言葉使いが、むしろ余計な気がしました。
幻想郷、ことに霖乃助のお話にそういった言い回しはとても向いている気もしますが、いささか読み手を無視している感じがします。
あなたは博識なのでしょうが、少々そういった事に気をまわしていない印象がありましたのでマイナス十点ということで。
またあなたの書いた作品が読みたいです。
\ぱるぱるぱる/
今後10年は戦えると踏んでいる。ツンデレは今後100年は安泰だな
いえ、ぱーぷるでなく。
さなりんも良い物ですね、いやぁ素晴らしい。
時代掛かった文体が作品全体の雰囲気に合っていて、世界に没頭して読む事ができました。
ご馳走様です。
彼女のキャラクターじゃ絶対無理な突破口だからなー
「ほっぺにチューまでして『もっと優しくして☆』ってアピールしたのに、
なぜか緑巫女とフラグが立つ始末。
『へぇ~若い娘には優しいんですね(#^ω^)』って皮肉ったら
キスまで拒否られて、向こうはかえって仲良くなって、ドウスリャイイノヨ orz 」
ゆかりん可哀そうです( ´;ω;`)
というか次回を激しく期待
いやー凄いものを読ませてもらいました。
大分創想話からは離れていて、久々に読んだのがこれだったんですが
復帰して最初にこのSSを読めて幸せです。そんな感じ。
これは続編を期待してもいいんでしょうか。
ヤンデレ最高
さいこうです。
ってかこんな時のためのスペカルールだな!勝ったら魔理沙の祝砲!負けたら霊夢の膝の上!
ゆかりんvs早苗さん
最後の部分と良い感じにマッチしてて、心底びびりました。
ていうか、読者を心配させて安心させて最後にひっくり返すって、何のホラーかとw
色々想像したくなる感じの終わり方、良いですね。
これは続編を読んでみたい気もするし、このままでいい気もする。
むしろ、是非、紫視点Ver.をお書きになられるべき。
香林堂へ向かうべく~→香霖堂へ向かうべく~
貴方の作品は深みがあります。
あなたのssはすばらしい。
読み返しにきたのはもちろん復習のためですが、
実際のところ、復習するまでも無く内容を読み込んでいます。
それをさせるだけの魅力が貴方の作品にはあります。
やはり、素晴らしい。
さーて、続編読みますか。
早苗の不器用さが初々しさを、紫の得体の知れなさが女怪の恐ろしさを、
誠実であろうとする店主が不安定さを、それぞれ旨く表現されていて
感嘆いたしました。
後書きの方のこの文でやっと気付いた。 いやあ、怖い怖い。