――破の巻――
東の空が、青へと姿を変えていく。
晩秋の、澄んだ大気の向こう側で、低山を桃色がかった光が包んでいるのが見える。
朝露を含んだ草地の上に、得物を構えた二人の姿があった。
銀髪の少女、魂魄妖夢は、刀を脇に構えて立っていた。
右足を一歩引き、正中線を相手からそらしつつ、左半身を前に。
身じろぎしない頭の後ろに、薄紫に光る半霊がゆらゆらと浮いている。
それと向かい合う形で、赤髪の女性、紅美鈴が、棍を後手にして構えている。
両足を肩幅に開き、重心は低く堂々と。左手は開いた状態で、妖夢の間を制するがごとく突き出されている。
右手で中央を握られた棍は、彼女の背丈ほどもあるものだったが、その細腕に支えられて宙に浮いたまま、ぴくりとも動かなかった。
両者対峙したまま、動かない。
木枯らしが間を流れる。
茶色の葉っぱが舞い上がり、落ちる前に
「破ァッ!」
ブォンと音を立てて、美鈴の棍が空中を旋回し始めた。右手から左手へ左手から両手へ。
棍は高速で回転しながら空間を制圧していく。妖怪の膂力によって、はじめて可能となる芸当。
徐々に美鈴が、妖夢に向かって前進する。棍が当たれば、頭蓋は粉砕される。
覇気の混じった旋風が、妖夢の前髪を払った。
「サァッ!」
妖夢は斜めに突進した。見切った棍をかいくぐって、低い位置から切り上げる。
それを美鈴は下がりつつ、棍で打ち払う。
が、妖夢は追って離れない。
棍の間合いに誘導されぬよう、姿勢を低くしながら攻め続ける。
はじかれた刃を返さず、柄で突く。あるいは肘鉄。
至近距離での激しい攻防が続く。
少し下がれば蹴りの間合いに、さらに下がれば棍の間合いとなる。
だが、この距離での戦いは、得物を短く使う妖夢に有利だった。
機を見て美鈴は跳び上がった。
そのまま棍を大地に突き刺し、イタチのような身のこなしで、棍の上へと立った。
すかさず妖夢は棍を足裏で蹴りつける。しかし、気の走った木製の棍からは、石柱のような反応が返ってきた。
痺れかけた足を引っ込めて、妖夢は見上げた。
「下りてこないんですか」
「上がってこないんですか」
その言葉に釣り上げられ、妖夢は地を蹴って飛び上がった。
斜め上段に、楼観剣を構えて詰め寄る。
上で待つ美鈴は、接近する刀身に対して、十分に引き付けてから、さっと飛び越えた。
そのまま、右の掌底を妖夢の頭部へと放つ。
「くぅっ!」
呻いたのは、妖夢ではなく、美鈴だった。
妖夢が空中で前転しつつ、左手で抜いた白楼剣で、美鈴の手首を打ったのだ。
最初からかわされることを見越して、先の楼観剣の袈裟切りは、右手一本で行われたものだった。
二人は同時に降り立った。
「鋭!」
「噴!」
気がぶつかり合う。
振り下ろされた妖夢の刀は、美鈴の頭から一寸残した状態で停止していた。
対して美鈴の鋭い後回し蹴りは、妖夢のみぞおちに突き入れる寸前で止められていた。
呼吸二つ分の時間の後。
張りつめていた空気が消える。
美鈴は苦笑して足を引っ込めた。
「棍には自信があったんだけどなー」
「この前のヌンチャクよりは、やりにくかったですよ」
妖夢は刀を鞘に納めながら、素直に感想を述べた。
「朝から二人とも熱心ね」
両者は声のした方を見た。
いつの間にか、十六夜咲夜がタオルを手にして立っている。
「おはようございます。朝の鍛練は気持ちいいですよ。咲夜さんもどうですか?」
「あいにく間に合ってるわ」
タオルを受け取りながら誘う美鈴に、咲夜は肩をすくめながら返した。
ここは紅魔館の裏庭である。
本館に見合うだけの広さがあり、芝の手入れもきちんとされている。
風の弱い日は、夜にパーティーが開かれることもあるらしい。
もっとも、いつもは美鈴の朝練の場と化しており、妖夢はそれに飛び入りしたということになる。
静かな湖を一望しながら、素振りをするのは気持ちが良かった。
最後は美鈴と、昨日約束していた対練で締めた。
咲夜は次いで、汗をかいた妖夢にもタオルを手渡してくれた。
「貴方も毎朝やってるの?」
「はい。普段は対練する相手がいないけど。今日は美鈴さんが付き合ってくれたから」
「私で良ければいつでも付き合うわよ」
「ありがとう」
「ふうん、これも修行の旅らしいってことかしらね」
妖夢はふと、聞いてみたくなった。
「咲夜は、ナイフ投げを鍛えたりしないんですか?」
「わざわざ時間を割くことはしないわね。実践の機会はいつもあるわけだし」
「うう、もう少しその数を減らしてはいかがでしょうか」
「なら貴方も、勤務中の居眠りや不用意な発言に気をつけることね」
妖怪の美鈴の泣き言を、人間の咲夜は軽くあしらった。
「まあ、ナイフ投げはメイド作業の一環としては役にたってるけど、私にとっては瑣末なものでしかないわ。
……でも、貴方にとって、剣は違うようね」
「はい」
妖夢は肯定した。
彼女にとって、師から受け継いだ二つの刀は特別な意味を持つ。
幽々子を守るのにふさわしくなるためにも、剣の修行は日々欠かせないし、いつも手元に剣を置いていた。
「これが、私の取り柄ですから」
「そう。ところで、もう片方の旅人はやらないのかしら」
「あ、そうだ。橙もそろそろ起こさなきゃ。後二日しかないんだから、今後の相談もしないと」
失礼します、と妖夢は走り去っていった。
残った二人はその背中を見送る。
駆ける音が消えてから、咲夜はぽつりと聞いた。
「で、どうなの」
「何がですか?」
「手合わせしてみた感じよ」
「強いですよ、間違いなく。興味があるんですか?」
「そうじゃないけど。でも貴方の口ぶりからすると、まだ上がありそうな気がするわね」
「そりゃあまあ確かに。外にはあれくらいの使い手はごろごろいましたよ。
もちろんもっと強いのも。みんな妖怪でしたけど。よっと」
地面に刺さった棍を抜いて、美鈴は土を払った。
「でも、ここじゃあそんな剣客には、会う機会はありませんよ」
「ぬるい、ってことかしら」
「平和、ってことですってば。物騒ですよ咲夜さん」
苦笑してから、そこで美鈴が思い出したように瞬きした。
「あれ? 咲夜さん、朝食の準備は」
「もちろん今から……あ」
咲夜の手の中に、開いた懐中時計が現れた。
ふむ、と口元に笑みが浮かぶ。
「いいこと思いついた」
◆◇◆
正面ロビー、セントラルホール、談話室、ダンスホール、メイドの寝室、その他諸々。
紅魔館には部屋が多い。そして、未使用の部屋も少なくない。
そのうちの一部屋を、妖夢と橙は客室として借りていた。
長い間使われていなかったとはいえ、掃除は行き届いていて、埃もなければ変な臭いもしなかった。
おかげで、慣れない二段ベッドでも、妖夢は十分な睡眠を取ることができた。
そして、橙の方はというと……
「橙! 起きて!」
二段ベッドの上で、布団にくるまり、丸くなる橙を、妖夢は揺すった。
が、橙は向こうを向いたまま、起きようとしない。
「むにゃむにゃ……もうちょっと~」
「だめ! 今すぐ起きなさい。ご主人様より早く起きるのが、従者の務めでしょ。早起きしなきゃ」
「んー……紫様はまだ寝てるよ~」
「藍さんはいつもこの時間は起きているでしょ。目が覚めないなら、私が稽古をつけてあげようか」
「……稽古?」
「そう、これも修行の一環よ」
「私もよくやってるよー。藍様とー」
藍の名が出て、妖夢は少し興味がわいた。
「橙と藍さんは、いつもどんな鍛錬をしているの?」
「んー……えーとねー」
橙はごろりと体を横転させて、半分閉じた目を向けてくる。
「えーと、片方が片方を追っかけて、尻尾を摑まれたら負けなやつとかー」
ふむふむ。片方が片方を追っかけて、尻尾を摑まれたら負け……。
「って鬼ごっこじゃない!」
「鬼ごっこだけど、難しいんだよ。妖夢もやってみないー?」
「やるわけない。私には尻尾が無いし……じゃなくて、修行と遊びは違うの!
ちょうどいい機会だから、私がやるのを見たら……」
「ちょっといいかしら、お二人さん」
突如現れた第三の声に、妖夢はギョッとして振り向いた。
部屋の扉の前に、咲夜が立っている。
相変わらず気配をみせない。
「貴方達二人に手伝ってもらいたいことがあるんだけど」
「私達に?」
「そう。とりあえず、一分でこれに着替えて。そのあと顔を洗ってきなさい」
事務的な口調で、咲夜が妖夢に手渡してきたのは……
「って、これって」
「あと55秒」
「手伝うのは構わないけど、よりによってこれに着替えなくても」
「あと51秒」
「なあに? なんなの?」
眠い目をこすりながらぼやく猫にも、メイド長はブツを差し出す。
「これに着替えてってこと。あと46秒」
それを受け取り、橙はようやく目が覚めたようだった。
「朝ごはんは?」
「これから作るのよ。貴方達が」
「えっ!」
「早くしないと時間切れになるわよ。あと39秒」
「ちなみに、その時間が切れると?」
渡された服を広げながら、妖夢は聞いた。
「間に合わなければ、私が着替えさせてあげるのよ」
「………………」
「時を止めてね」
「……なっ!?」
その意味がわかって、妖夢の顔が赤くなった。
咲夜はくるりと背を向ける。
「…………あと35秒」
「橙! 着替えるよ!」
「う、うん!」
二人は慌しく服を脱ぎ始めた。
◆◇◆
紅魔館のメイドの朝食は、普段はバイキング形式となっており、その料理は、食事係が事前に早く起きて、準備することになっている。
そして今回、妖夢と橙は、咲夜の要請で、その食事係を一日務めることになった。
もちろん、紅魔館で行われる雑事は、全てメイドの役割。
そして、メイドの役割ということは……
「なんでこうなっちゃうんだか……」
紺色の半袖ワンピース。白布のエプロン、頭にはホワイトブリム。
慣れないメイド服に身を包んだ妖夢は、軽くため息をついた。
ちなみに、結局着替えは、途中で白旗を上げることで咲夜に手伝ってもらい、完了することになった。
短いスカートは意外に動きやすそうではあったが、腰に鞘が無いというのは、どうも落ち着かない。
「あら、似合ってるわよ。橙よりは」
橙もメイド服に着替えていた。
紅魔館で働く妖精の体格も様々なので、橙に合うサイズのメイド服もあった。
もっとも、スカートの下からはやはり、尻尾が二つはみ出ていたが。
さらにいうなら、橙のはしゃぐ仕草や雰囲気を見れば、メイドというよりは……。
「園児ね」
「えんじ?」
「子供っぽいってことよ」
「むむ~」
橙が不満そうに口をへの字にする。
咲夜は微笑した。
「ただし、それは貴方が未熟だからよ。成長すれば、貴方もその服が似合うようになるわ」
「本当?」
「ええ。きっと、貴方の主も見直すはずよ」
「よーし! 頑張るぞー!」
メイド服の橙は、瞳を燃やしながら、握りこぶしを作った。
――ははあ。やはり、橙に言う事を聞かせるためには、主の藍さんの名を使うのがいいのかも。
簡単に乗せられている橙を見て、妖夢は咲夜の話術に感心しつつ、そんなことを思った。
「で、何をすればいいの?」
「それは、貴方達が考えなさい」
簡潔にして明瞭な答えだった。
が、話の肝心な点が抜けていた。
「いや、考えろって言われても」
「私も手伝うし、アドバイスもする。ただし、明確な指示は出さないわ。
館内メイド四十人分の朝食を、貴方たちが考えて用意するのよ。頑張りなさいね」
「ええ、四十人!?」
「ちなみに朝食の時間は決まっています。あと一時間以内で、よろしく」
「また時間制限!?」
「時は金なり」
彼女が言うと皮肉にしか聞こえない。
メイド長は、置時計をキッチンの高い所に置いた。
そして、うろたえる二人の前を歩きながら、人差し指を立てて、
「いいこと?誰かにご飯を用意するというのは、命の糧を用意すること。
その人の真心が、与える相手の心身を育むの。これほど大事な仕事が、他に考えられるかしら?
加えて、その日に何を用意するのか、その度に頭をひねらなくてはならない。
奉仕の精神。創意工夫。従者に必要なことを知るのにちょうどいいでしょ
貴方のご主人様に用意するつもりでやってみなさい」
言われるまでもない、と妖夢は言い返そうとしたが、横に立つ橙のことを考えて思い直した。
出立前に紫から、自分こと魂魄妖夢は橙の先輩であり、手本にするべし、ということを言われていた。
ここで、橙に自分の働きを見せることができれば。
「橙はご飯を作ったことがある?」
「ない……あ、お寿司なら作ったことがあるよ! 海苔巻とお稲荷さん!」
「お寿司か……」
果たしてここの朝食に向いているかどうか。
いや待て。それなりの利点がある。
「そっか。いなり寿司や、おにぎりなら橙も手伝える」
「うん! やろうよ、妖夢!」
「残念ながらできないわね」
「えっ!」
二人は揃って咲夜を見た。
「ど、どうして?」
「紅魔館は基本的にパン食。すなわち、お米の蓄えがないのよ。ごめんなさいね」
「がーん」
橙がショックの声をあげる。
妖夢にとっても、思わぬ話であった。
白玉楼での余興というか、かなり頻繁に、幽々子は妖夢に食事を作らせることがあったので、料理には慣れている。
だから、いつもの幽々子に朝食を用意するようにすればいい、と気軽に考えていたのだ。
いくらメイドの人数がいようと、底なしの胃袋を持つ幽々子に食べさせる量と比較すれば、さほど難問とは思わなかった。
しかし、洋食となると話は変わってくる。
「咲夜。とりあえず材料を見せて」
「もちろんそのつもりよ」
咲夜は二人を案内する。
台所の奥は紅魔館の食料庫になっていた。
扉を開けると、ひんやりした空気に乗って、様々な生の食べ物のにおいが漂ってくる。
冷却の魔術がかけられており、奥へ行くほど室温が下がる仕組みになっているそうだ。
「まあ、お米はともかくとして、たいていのものなら揃っているといっていいわ。言ってくれれば私が取り出してあげる」
妖夢にとっては、ありがたいハンデだったが、やはり時間が足りない。
主食はパンだとして、おかずは何品用意できるか。洋風の物、おまけに大量に作れるものとなると、少し考える時間がほしい。
できれば橙に手伝ってもらいたいが、どこまで頼りになるだろう。
諺では、猫の手も借りたい、とはいうものの、いざとなると使い道が難しかった。
「パン食……おかず……四十人……橙も手伝える……何かいい方法は……」
つぶやきながら、顎を指ではさみ、妖夢は難問を解こうとする。
橙も同じポーズで考えはじめた。
その顔が、ぱっと輝いた。
「妖夢! いいこと思いついたよ!」
「……うーん。どうするべきか。あーでもないし、こーでもない」
「妖夢ってば!」
「……え。なに、橙?」
「だから! いい方法を思いついたの!」
「本当? ご飯じゃなくてパン、おかずも考えて、橙も手伝えるものなんてある?」
「あるよ! サンドイッチ!」
「ああ! そうか!」
名案だった。
それなら、おかずは簡単な具となるし、橙が手伝うのもたやすい。
妖夢は咲夜の顔を見た。
「そうね。サンドイッチという案は悪くないと思うわ」
メイド長も同意してくれた。
「後は、具をどうするか」
「卵とか、ハムとかじゃないの? 藍様もたまに作るよ」
「ありきたりの具材では、工夫が足りないといえるわね」
「うーん」
いつも用意されているというバイキングに、劣らぬサンドイッチを考えなくてはならない。
咲夜の提起した問題に、妖夢は考えたすえ、うなずいた。
「……とりあえず、サンドイッチなら、まだ時間はある。この三人で案を出し合うことにするわ」
「はーい! マタタビ!」
「却下。真面目に考えてよ、橙」
「…一度食べて見たかったんだけど。じゃあ鰹節!」
「それは、おにぎりの具でしょ」
「あら面白いんじゃないの?」
「本気で言ってるの? 咲……」
「その服でいるときは、メイド長と呼びなさい」
「……メイド長」
「よろしい。他の具材の隠し味にしてみたらどうかしら。鰹節なら、確かまだ残っていたはずよ」
鰹節は、一年のうちに数回、たまに里で大量に売り出される。
出所については、妖夢には想像もつかないが、外界から入って来るものらしい。
紫が言うには、原料は海で泳ぐ魚、だそうな。
白玉楼では、主に味噌汁のダシに使われる。
「鰹節だけじゃなく、納豆もあるのよ。他に、醤油、みりん、漬け物、梅干……」
「ここって洋食がメインじゃなかったんですか?」
「たまにお嬢様が食べたくなるものだから」
それだけ和食の材料があって、何でお米がないんだろうか。
貴族は納豆をパンで食べるのだろうか。
妖夢は一瞬深い疑問に襲われたが、頭を振ってそれ以上考えるのをやめた。
今はサンドイッチの具の話だ。
「他には……あ、甘いのはどうかな」
「具体的にどんなものかしら」
「えーと、ジャムとか」
「それなら、たっぷり用意してあるわ、ここではよく使うから。他にはピーナッツバターとか……」
「あ、じゃあ、果物はどう!?」
橙が手を上げて発言する。
妖夢もなるほど、とうなずいた。
「果物。いいかもしれない」
「朝のフルーツは金。朝食として、フルーツサンドは優秀ね」
「そっか。朝食風のサンドイッチだったら、何となくイメージがつかめるかも」
「チーズサンドイッチ……オムレツサンドイッチというのも面白いわね。野菜の組み合わせだけでもかなりの種類が……」
「あれれ、咲夜さん、楽しんでない?」
「メイド長よ。そして、お料理は楽しく、が基本。覚えておきなさい」
結局のところ、しばし三人は夢中になってアイディアを出し合うことになった。
「よし! とりあえず、これでメニューは決まり!」
用意しようと決まったサンドイッチの具は、なんと十種類。
時間は無駄にできない。
橙が時計を見上げた。
「あと50分だね。でもこんなに材料があるから、切るだけでも時間がかかっちゃうんじゃないかな」
「おっほん。橙、私を誰だと思っているの?」
「え、妖夢は妖夢だよ」
「そうじゃなくて、私が刀の使い手だって忘れてない? 刃物の扱いならお手のものよ」
「包丁も?」
「もちろん。はぁ!」
空中に放られた食パンの前で、妖夢の右手が、ひゅん、ひゅんと何度も動く。
まな板に落ちた時には、綺麗に切られたサンドイッチ用のパンとなっていた。
耳もしっかり取れている。
「どう?」
「わあ、お見事!」
包丁を構えてポーズを取る妖夢に、橙は手を叩いて喜ぶ。
「じゃあ、蜜柑はできる?」
「もちろん」
「それっ!」
橙が剥いたオレンジを二つ、手から放った。
再び包丁一閃二閃。オレンジは鮮やかに切られた。
「いっちょうあがり」
「妖夢かっこいい!」
「まあ、それほどでも」
「じゃあ、あ~ん」
「?」
「あ~ん」
「どうしたの、口を開けて」
「もー、妖夢気づいてよ。藍様は横で私が料理を見てたら、いっつも口に投げてくれるの」
「ああそう……よっと」
「ぶわ」
妖夢の投げたオレンジは、橙の口ではなく、鼻に当たった。
ずり落ちそうになる一切れを、橙は上手に口に滑らし運んで食べた。
「もぐもぐ。妖夢は包丁は凄いけど、投げるのは、まだまだだね」
「そんなことは、どうでもいいの。次は梨ね」
「あら、私には投げてくれないの?」
「は!?」
誰が言ったか、一瞬信じられなくて、妖夢は両の眼をむいた。
咲夜がとぼけた顔で立っている。
「…………」
「…………欲しいの?」
「…………」
「……よっ、あ、しまった!」
妖夢の投げた蜜柑は、あらぬ方向に飛んでいく。
しかし、咲夜は時を止めて移動する。
放られたオレンジを着地点で待ち構え、腕を組みながら少し上を向いて、口を最小限に開いただけで受け止めた。
顔も姿勢も一切ぶれない。なんとも瀟洒なキャッチングである。
「もぐもぐ。……どうかしら?」
「凄おおおおおお!」
「ありがとう。ちなみに、残り時間はあと45分になったわね」
「おおおおおお!?」
二人の感嘆の声が、途中で悲鳴に変わる。
「こんなことしてる場合じゃなかった!」
「本当ね」
「って咲夜もでしょ!」
「落ち着きなさい。とりあえず、下ごしらえの方は貴方に任せるわ。
私と橙は、具とサンドイッチの作成を担当する。それでいいかしら?」
「…………いいわ」
急にてきぱきと予定を立て出すメイド長を、妖夢は納得がいかない目で見ながら、同意した。
ふざけているのか真面目なのか天然なのか、さっぱり分からなかった。
咲夜が橙に調味料の混ぜ方を教えているのを横目に、妖夢は気を取り直して包丁を動かし始めた。
「この一個で終わり!」
「間に合ったわね」
橙が最後のサンドイッチを重ねる。
三角や四角で積み上げられた、サンドイッチのお城の完成だった。
手間が掛かる作業を、エキスパートの咲夜が裏技を駆使してやってくれたので、間に合ったといえる。
もちろん、妖夢も橙も頑張った。
途中で、橙がつまみ食いをして妖夢に叱られたが。
「いっぱいできたね!」
「でもこれ、いくつあるんだろう」
「四百はあるわね。館内のメイド一人につき十個食べられる計算になるわ」
「つ、作りすぎたんじゃないかな」
妖夢自身は、食べても五つで十分だった。
十個となれば、朝食としては、けっこう重たい。
「大丈夫。門番隊に、差し入れとして持っていくから」
「門番隊って外の人達?」
「そうよ。美鈴は大食いだから、ちょうどいいでしょ」
「じゃあ、外で食べようよ!」
橙の発言に、妖夢と咲夜は顔を見合わせた。
「お天気がいいから、きっと楽しいよ!」
「いいかも……」
「しれないわね」
「でしょ!」
まさにお日様の笑顔を見せる橙。
しかし、妖夢と咲夜の顔は複雑だった。
「あれれ? どうしたの。賛成じゃないの?」
「賛成だけど……」
「だけど?」
「これ、外に運ばなきゃいけないわね」
「あっ…………」
「椅子とかも用意しないと……」
「………………」
橙が固まった。
咲夜は時計を見た。
「あと五分! 急ぐわよ二人とも!」
「はい!」
◆◇◆
お天気は晴れ。
紅魔館の誇る庭に、大きなシートが敷かれた。他には椅子が十脚に丸テーブルが二つ。
大きな長テーブルには、たくさんのサンドイッチとお皿、お茶のポットが用意されている。
日勤と夜勤、門番隊とメイドが入り混じり、ちょっとしたパーティーのようだった。
いつもは別々に食事を取るので、あまり無い団欒の機会を皆楽しんでいるようだ。
そんな中、三人がつくったサンドイッチは好評だった。
「すごい! これ本当に美味しいです!」
門番隊隊長の美鈴が夢中で頬張っているのは、焼き豚に中華風のタレをつけたサンドイッチだった。
喜んで食べているのは、主に彼女だけだったが。
メイド服の妖夢と橙も、皆との会話に参加していた。
例えば妖夢と食事係のメイド。
「いつまでメイドをやっているの? 私が色々教えてあげるよ」
「あ、ありがとう。でも、今日の午前中でもう出るつもりなの」
「そうなの、残念。また遊びに来てね。その時は、一緒に朝食を作りましょ?」
「……うん。きっと来るわ」
橙と門番隊。
「この卵に鰹節って、貴方のアイディアなの?」
「そうだよ。美味しい?」
「うん。このチーズサンドイッチもいけるわね。青ジソとお味噌が混じっていて」
「それは咲夜さんが考えたの。こっちは妖夢。そぼろを混ぜたキュウリが挟んであるよ」
たくさんあったサンドイッチは、あっという間に無くなろうとしていた。
「そう言えば、貴方たち、次はどこに行くつもりなの?」
「妖夢ー? 次はどこに行くのー?」
「…………本当は朝に決めようとしたんだけど」
朝食作りをさせられたことを恨むわけではないが、なんとなく咲夜の方を見た。
その咲夜は、ピーナッツバターにチョコレートのサンドイッチを手に、意見を出す。
「そうね。別に、自分より優れた従者に絞る必要はないんじゃないかしら」
「どういうことですか?」
「人の振り見て我が振りなおせ。欠点だらけの従者を観察しても、勉強できることはあるでしょう 」
「と言われても、駄目な従者なんて思いつかない……あ」
「何か心当たりが?」
「言ったら怒られそうだけど……」
頭に浮かんだのは、知り合いの死神だった。
厳密には従者というより、上司と部下なのだが、妖夢としては参考になりそうに無いタイプであった。
「小町さん、今日は仕事しているかな」
「今日もサボって遊びに出てるかもしれないわね。この前は、中有の道で見かけたけど」
「えっ! 中有の道!?」
橙の耳がぴんと立つ。
鼻も興奮でふくらんでいる。
「行こう、行こうよ妖夢!」
「橙は遊びたいだけでしょ。でも、流石に三途の川まで行く気にはならないし……」
「ねぇ行こうよ! 当てがないんだったら行こう!」
「………………」
橙の目にキラキラとお星様が浮かんでいる。
もはや遊ぶことしか頭にない様子だ。
咲夜はクスクスと笑って
「ここで泣かれたら大変ね、妖夢」
「…………はあ。しょうがないなあ、もう」
「ってことは!?」
「わかったわ。食べ終わったら支度して、中有の道に出発しましょ」
「やったぁ! 妖夢最高!」
バンザイしながら飛び跳ねる橙に、妖夢も苦笑するしかなかった。
だけど、これはあくまで修行の旅。
はしゃぎすぎないよう、ちゃんと言い聞かせておかなくては。
「忘れちゃだめよ、橙」
「何を?」
「何をじゃないでしょ。旅の目的は修行なんだからね」
「うん!」
「本当に、わかってる?」
「うん! 金魚がすくえるといいね!」
「わかってないでしょ!」
「いだだ!」
橙の丸いほっぺたを、妖夢は軽くつねった。
◆◇◆
それからしばらくして、妖夢と橙は、玄関前で咲夜の見送りを受けていた。
結局、玄関まで見送りに来てくれたのは咲夜のみだった。
メイド達は通常業務で大忙し。でも彼女達の、サンドイッチのお礼を言っておいてほしい、という言伝が、咲夜から伝えられた。
「半日とはいえ、なぜか感慨深いわね」
「そうですね」
二人はすでに、メイド服から元の服装に着替えている。
なんと、服は昨日着替えたのと合わせて、いつの間にか洗濯までされていた。
どうやって乾かしたのか聞くと、昨晩のお詫びにパチュリーが魔法でやってくれたらしい。
礼を言おうとしたが、会う気はないそうだ。
咲夜が言うには、恥ずかしがっているそうな。
「はい。これはお弁当」
咲夜が風呂敷を橙に手渡してきた。
大きめのおにぎりが、四つ入っていた。
「鰹節と梅干だから」
「お米は蓄えがなかったんじゃないの?」
「そう。稀少品なの。だから、よく味わって食べてね」
鰹節が橙の好みだと話したのは、朝食の前だった。
咲夜はこれをいつ作ったのだろうか。
ずっとサンドイッチ作りを手伝ってくれていたのに。
「やっぱり凄いんだね、咲夜さんは」
「私もまだまだよ。例えば昨日のハンバーグ」
「え? レミリアさんは喜んでくれたじゃない」
「そのあと、お嬢様に怒られちゃったのよ。今度からちゃんと最初に言いなさいって」
「ああ、そうなんだ。でも言わなきゃバレなかったんじゃないの?」
「チッチッ……それはルール違反よ」
立てた指を左右に振りながら、咲夜は言った。
二人がきょとんとする前で、優しく、だが誇り高く、
「ご主人様に満足していただくこと。でも、ご主人様の心を裏切るようなことはしてはならない。
従者の自分にとって何より大切なのは、仕えるべき相手です。忘れないでね」
「私も藍様が大好きだよ!」
「そう。それでいいのよ」
咲夜は橙の頭を撫でる。
そして、その完全で瀟洒な笑顔がこちらを向いた。
妖夢もうなずく。
改めて確認したことだが、大事なことだった。
従者にとって大切なのは、仕えるべき相手。
幽々子のために、この旅でようかんの極意を知り、彼女に認めてもらうのだ。
自分が従者として相応しい存在だと。
「お世話になりました」
「ええ。また何かあったら、いつでもどうぞ」
「ばいばーい!」
次なる目的地は中有の道。
二人は手を振りながら、紅魔館を立ち去った。
咲夜も二人が見えなくなるまで、小さく手を振ってあげた。
「さて、仕事に戻りますか」
「あの二人帰ったの?」
後ろから、陰鬱な声がかけられた。
「はい、パチュリー様も見送ってくださればよかったのに」
「……………………」
扉の影から出てきたパチュリーは無言。
咲夜もそれ以上追求はしなかった。
「朝食はいかがですか? あの二人の特製サンドイッチがありますが」
「食べる。でもその前に、聞き忘れた事があったわ。昨日のハンバーグって、ピーマンが隠し味だったのね?」
「ええ、そうです」
「……おかげで、しばらく眠れなかったわ」
パチュリーが半眼でぼやいた。
「パチュリー様にも、何か不都合がありましたか?」
「ええ。夜中までレミィに自慢されてたのよ。『ついに私はピーマンを克服したのよ、パチェ』って」
「まあ……」
「あんなの克服した内に入らないと思うけどね。まあ、嬉しそうだったんで、うなずいてやったけど。なかなか話が終わらなくて」
「そうでしたか」
「なんだか貴方も、嬉しそうね」
「きっと天気がいいからでしょう」
咲夜は空を見上げる。
今日は白い雲の多い空だった。
◆◇◆
妖怪の山の裏側にある、中有の道。
ここは幻想郷の代表的な遊び場の一つである。
三途の川へと続くこの道は、露店が多く出ており、その店主らは、全て地獄卒業を控えた亡者達である。
といっても雰囲気が暗いわけではなく、死者も生者も、妖怪も遊びに来るので、毎日賑やかなお祭りの空気が絶えない。
その騒がしい道を、半人半霊の剣士と、式の式の妖怪猫が手をつないで歩いていた。
というより、猫が走り出していなくなるのを、半人が引っ張って止めているというのが正しい。
「妖夢! 金魚すくいやろうよ!」
「ダメ。遊びに来たんじゃないんだから」
橙の誘いを妖夢はそっけなく切り捨てた。
ダメだと言われた猫の子は、世界が終わったかのような表情になった。
「……まあ、その前に、小町さんが見つかったら、遊んでもいいけど」
「でも、今日はお客さんが多いから見つけにくそうだよ」
確かに、今日は普段より、さらに人出が多かった。
幅広いはずの通りが、ごちゃごちゃとして進みにくい。
手を繋いでなければ、すぐにはぐれてしまいそうだ。
「だから、あちこち探すよりも、一箇所で待った方がいいと思わない?」
金魚すくいの出店を指差して、橙が妖夢の手をくいくいと引いた。
へんてこな理屈だった。
が、ごねられても面倒なので、妖夢は妥協することにした。
「しょうがないわね。でも、小町さんを探す、って目的を忘れちゃだめよ」
「わかってるって! おじさーん! 金魚すくい一回!」
「はいよ」
凄みのある強面に、愛想のいい笑顔を浮かべて、店の主人は金魚すくいのポイを取り出した。
橙はポケットから銭を取り出して、慣れた手つきでポイと交換する。
早速しゃがんで金魚をすくおうとする橙に対し、妖夢は立ったまま通りの方を見張っていた。
小町の特徴は、大きな鎌を担いだ、背の高い赤髪の女性。
となれば嫌でも目立ちそうなものだが、今のところ人ごみの中には見当たらない。
「ああ! 破けちゃった!」
「残念だったね、お嬢ちゃん」
「むううう、もう一回!」
橙は再び挑戦しているようだ。
おそらく、藍からお小遣いはもらっているのだろう。
妖夢は気にせず、通りに視線を走らせ続けた。
「残念。破けているね」
「もう一回!」
「…………」
妖夢は気にせず、中有の道に死神の姿を見つけようとした。
「はい残念」
「もう一回!」
「…………」
「残念。またいらっしゃい」
「もう一回!」
「…………」
「うーん残念。さあどうする?」
「もう一回!」
「…………」
「ああ、ダメだね。まだやるかい?」
「もう一か……!」
「待った橙!」
たまらず、妖夢は振り向いた。
橙は悔し涙まで浮かべて、ポイを手に妖夢を見上げている。
「そんなにムキにならなくても、もういいでしょ」
「やだ!」
「諦めて、小町さんを探しましょ」
「じゃあ、妖夢やってみて!」
「私が?」
突き出されたポイを、妖夢は受け取った。
ポイとは金魚をすくう小道具であり、取っ手のついた円形の木の枠に、薄く紙が張ったものだ。
橙に引っ付かれながら、妖夢はポイを手にしてしゃがんだ。
水槽を覗く。
「……は?」
目が点になる。
泳いでいるのは金魚……ではなかった。
赤や金色に茶色、元気そうに泳いでいるように見えて、それらは全て金魚ではなくて、
「これ、金魚の霊じゃないの!」
「おう、そうだよ」
店のおっちゃんは、あっさり認めた。
「それじゃあ、紙ですくえるわけないですよ」
「いや、お嬢ちゃん、それは誤解だ。確かに、中にはただの紙で客を引っかけようっていう阿漕な店もある。
だが、この店で出してるポイの紙は特別性で、ちゃんと金魚はすくえるようになってるぜ。
そっちの猫耳のお嬢ちゃんが取れないのは、腕がなっちゃいないだけだ」
「むむむ言ったな! でも、今度挑戦するのは、私じゃなくて妖夢! きっと金魚をすくってくれるよ」
自身に満ちた表情で、橙が妖夢に期待する。
妖夢自身、相手が本物の金魚ならともかく、その霊となれば、真剣味が変わってくる。
幽霊を管理する白玉楼の庭師としては、金魚の霊一つすくえなくては幽々子に申し訳ない。
妖夢はポイを構えた。
剣を手にする感覚で、精神を集中させる。
心を落ち着かせ、ポイと一体化しようとする。
「えい!」
心を決めて、ポイを水槽に入れた。
近付く金魚を、紙の部分で水中から引き上げる。
「よし……ってああ」
わずかに持ち上がった金魚は、途中で破けた紙から逃げてしまった。
「ああっ、惜しい!」
橙が残念な声をあげる。
穴の開いたポイを返しながら、妖夢もうーん、とうなった。
あと一歩足りなかった。
だけど、もう少しやればコツはつかめそうな気がする。
――もう一回やってみようかな。
自分の銭を出そうと、妖夢がお財布を取り出そうとしたところ、
「いよっと」
横に座った別の客が、無造作に水槽にポイを入れた。
妖夢と橙が唖然とする前で、軽々と金魚の霊をすくう。
「おお。活きのいいやつだね。あとで逃がしてやろう」
「困りますよ、お客さん。本職の方に出られちゃあ、商売はできません」
「ごめんごめん。この一匹でやめにしとくよ。まあでも、お前さんの真っ当なやり方なら、近いうちに店をたたむことができるんじゃないか。
もちろん、いい意味で」
「へへぇ。本職さんのお言葉なら、有り難くちょうだいしたいところですね。
もっとも、最初にお世話になったのはずっと昔で、こんなべっぴんさんの死神じゃ、ありやせんでしたが」
「あはは、口が上手いけど、ほどほどにしておきなって。また舌を抜かれることになるよ」
「そりゃご勘弁」
和やかに店の主人と話しているのは、鎌こそかついでないものの、赤髪を二つ結んだ背の高い女性だった。
まさに、妖夢が探していた人物だった。
「小町さん!」
「おや、誰かと思えばお前さんだったか、妖夢」
三途の水先案内人、小野塚小町は、金魚の入った手桶を主人から受け取っていた。
「ど、どうしてここに」
「ははっ。お前さんまた眼をおかしくしたのかい? ここは金魚すくいの店じゃないか。ほれ」
手桶の中で泳ぐ金魚を見せながら、小町はからからと笑う。
妖夢は赤面した。
「二人とも、ここには遊びに来たのかい? お前さんの主人の姿が見えないが」
「いえ、私達は小町さんを探しにきたんです」
「あたい? あたいに、何か用があるの」
「ええ」
「じゃあ、話を聞こうじゃないか。……それじゃまた」
「はいまいど。またのお越しを」
店主に挨拶して、三人は通りに出た。
小町はうーん、と通りを見渡しながら、
「話をするのはいいけどさ」
「なんですか?」
「その前に、お腹が空かないかい? 食べながらの方がいいだろう。安月給の死神だけど、奢ってあげるよ」
「わあ! ありがとうございます!」
橙は歓声を上げた。
◆◇◆
「ほほう、なるほど。そういう目的でか」
三人は中有の道の中程にある、茶店に移動していた。
屋外に長椅子がいくつか用意されており、その一つを借りている。
並んだ三人の椅子には、席料代わりに買った番茶と、小町のオススメ店の大盛り焼きソバが三人分。
しかし、小町はおにぎりを食べていた。紅魔館でもらった苦手な梅干入りのを、橙があげたのである。
あのメイド長が握ったと聞いて、小町は物珍しそうにそのおにぎりにかぶりついていた。
「従者の修行の旅とは、面白いことしているね。でも、なんであたいなんかに? 参考になるとは思わないけどねぇ」
「はい。参考にならないところが、参考になると思ったんです」
「ぐむ」
おにぎりを喉に詰まらせかけたらしく、小町はすぐにお茶を飲む。
「んぐんぐ……ふはぁ、危なかった。おにぎりで、ぽっくり逝くところだった。
こんなんで四季様に裁かれでもしたら、何を言われるかわかったもんじゃない」
「………………」
「あー、少しは笑ってくれると有り難いんだけどねぇ」
「あ、すみません」
冗談だと気がついて謝る妖夢に、小町はますます困った笑みになる。
「つまり、私はお前さん方の反面教師ってやつに選ばれたわけか」
「そうです、失礼ながら」
「……まあ、自分でも、できがいい従者だって思っているわけじゃないけどねぇ」
「今日もサボりですもんね」
「おっと、こりゃまいった、その通り! ……と言いたいところだけど、今日は休暇なんだよね実は」
「え、そうなんですか?」
「うん。ちなみに、あたいの上司も休暇。しかも先週から家で寝込んでいる」
「寝込んでる?」
それこそ、何かの冗談ではないかと思った。
閻魔ほどの存在が寝込むとなれば、ただ事ではない。
「大丈夫なんですか?」
「本人は風邪とか言っていたけど……。まあ、あの方のことだから、働きすぎか何かじゃないかね。
いい薬になると思うよ。今日あたり、またお見舞いにうかがおうかと思ってる」
閻魔も風邪をひくんだろうか、と妖夢は首をかしげた。
「ところで、従者として、あたいのどこが足りないと思ったんだい?」
「仕事をサボるところです」
「…………まあそうだね。でも、さっきも言った通り、今日は休暇だよ。あたいだっていつもサボっているわけじゃない」
息抜きは必要だけどね、と死神は幸せそうにおにぎりを食べ終わった。
悪く言われても気にせず、サボることを悪びれる様子も無い。
このさっぱりした性格が、彼女の特徴だった。
「でも、やっぱり不真面目なのはいけないと思います」
「あたいに言わせれば、お前さんはもう少し不真面目になった方がいいと思うけどねぇ」
「必要ありません」
「うんうん。従者失格なあたいが教えることなんて何一つないんだろう」
嘆かわしい、と小町はわざとらしく額に手をやっている。
だが、妖夢はそれをフォローするつもりはなかった。
「せっかく魂をすくうコツを教えようかと思ったんだけどなぁ」
その一言に、大盛り焼きソバと夢中で格闘していた橙が反応する。
「教えて教えて!」
「お、素直だねお前さんは。教えてあげよう。……いや、待てよ」
小町はニヤリと笑いながら、
「どうだい妖夢。この橙と金魚すくい対決をしてみないかい?」
「金魚すくい対決? どういう意味ですか」
「あたいはこの子にちょっとアドバイスをする。その後は一切手伝いをしたり、口を出したりはしない。
そういう条件で、どちらが多く金魚をすくえるか競争してみるってことさ」
小町の提案は不可解なものだった。
いくらなんでも、先ほどいくつもポイに穴を開けた橙に、自分が遅れをとるとは思えない。
自分の方が手応えがあったし、あのまま続ければ一個ぐらいはすくえたと思う。
それに……、
「その勝負をすることにどんな意味があるんですか」
「参考にならないあたいのヒント、ってものが手に入る。
受けるか受けないか? やっぱり私の教えなんて必要ないかねぇ」
「やります」
挑発的な小町の口調に、妖夢はひるまず答えた。
ここで引き下がる気はしない。
小町のアドバイスがどんなものかはわからないが、橙に負けない自信もあった。
「んじゃ、橙。お前さんはやるかい?」
「もちろん! 妖夢、勝負だよ!」
橙もやる気満々の声をあげた。
◆◇◆
二人の金魚すくい対決は、先ほどの店を借りて行うことになった。
並んだ水槽の中に、金魚の魂がふよふよと泳いでいる。
しゃがんだ妖夢の左では、同じく橙が水槽をのぞきこむようにしている。
その手にはポイが三つ。妖夢が手にしているものと同じ数である。
「制限時間は三分。手持ちのポイが全てダメになったら、その時点でやめ」
二人の後ろに立つ小町が、ルールを説明する。
何事か、と道の通行客も、かなり集まってきていた。この観衆の前で対決するとなると、いよいよ負けられない。
妖夢は下腹に気を沈めた。
「時間内に多く金魚をすくった方の勝利とする。それでは…………はじめっ!」
合図の掛け声に、妖夢はポイを構えた。
水槽では金魚が十数匹、ばらばらに泳いでいる。
妖夢はそのうちの一つ、自分に近いところを泳ぐ一匹に目をつけた。
――よし。目標捕捉。
惜しい手応えを感じたあの時のように、一つの金魚に集中して狙いをさだめるのだ。
水につけて濡らしすぎないよう慎重に……。
「とれた!」
その声は左から聞こえてきた。
思わず妖夢が顔を向けると、橙がすくった魂を、お碗に一つ入れていた。まだ三十秒と経っていない。
ギャラリーが拍手する。橙は嬉しそうに、もう一度ポイを手に構えている。
妖夢も慌てて顔を戻し、自分の水槽に向き直った。
焦るな、落ち着け、と自分に言い聞かす。
しかし、緊張がおさまらなかった。まさか、こんなに早く橙が一匹目をすくえるなんて。
小町のアドバイスが気になった。一体どんな秘術を橙に教えたんだろうか。
妖夢は心の定まらないまま、ポイを水槽に入れた。
手応えなくするりと逃げ出す魂。おまけに、ポイも破れてしまっていた。
――そんな
そうこうする間に、橙は二つ目の魂を取り上げていた。
ギャラリーから再び声援が巻き起こる。
銀髪の嬢ちゃんも頑張れー、と妖夢にも声援が送られた。
だがその声で逆に、頭がカーッと熱くなり、心身が停滞してしまう。
剣で言うならば、居つきの死に体であった。
――これじゃあ、橙に負けてしまう
盛り上がる空気に、妖夢は溺れかけていた。
橙のすくう魂がまた一つ増える。
一方の妖夢はのろのろと魂を追うことしかできない。
逃げ出す魂を先回りするが、肝心のポイには引っかからない。
再びポイは駄目になり、残る得物は一つとなってしまった。
――誰か……
残り一分の声が遠く聞こえる。
視界に映るものが、何一つ妖夢の思い通りになってくれない。
耐えがたい孤独が襲ってきた。
声に耳を塞ぎたくなった。
――誰か……助けて……!
「妖夢」
幻聴かと思った。
しかし、耳元で、はっきり聞こえた声だった。
横を見ると、橙の丸い顔があった。
金魚をすくうのをやめて、妖夢の側に寄ってきている。
「妖夢大丈夫? 楽しくないの?」
「………………」
「楽しいことを考えながら、ポケットを開いてそこに迎え入れるようにするんだって。ほら、やってみて」
ギャラリーの声が小さくなる。
小町もぽかんとした顔になっている。
橙だけは優しい笑顔だった。
「………………」
「ほら、早く妖夢」
「…………うん」
言われるまま素直に、妖夢は残ったポイを構えた。
橙のアドバイスを、胸中で繰り返す。
――楽しい気持ちで、ポケットを開くように……
ポイを水槽の上に移動させる。
頭に楽しかった出来事を思い浮かべる。
といっても、何かあっただろうか。
――そう言えば、朝のサンドイッチ作りは楽しかったな。昨日のパチュリーさんの砂風呂も……
金魚たちの動きが、だんだんとおさまっていく。
だが、まだ妖夢のポイには寄ってこない。
――ポケット……そうか。心を開くんだ。追いかけるのではなく、引き込むように
魂は安定を求める。
陽気に満ちた、安心できる場所を求めて彷徨う。
妖夢は金魚を優しく囲うように、イメージした。
やがて、その一つが、妖夢のポイの近くを泳ぎ、そのまま過ぎずに、ポイに寄り添う。
妖夢は慌てないように、そおっとそれを拾い上げた。すり抜けはしなかった。
――え? 取れちゃった。
あまりにもあっけなく取れてしまい、思わず、ポイからお碗に入れずに、金魚を手のひらに静かに乗せてみた。
声を上げかけた観衆が、息を呑む。
金魚の霊は、ひんやりとしていた。
綿菓子で薄く包んだ水風船、だけど重さを感じさせない様は、雲に似ている。
自身の反霊とも、刀で斬る手応えとも、まるで違う感触。
妖夢の手から動かずに、じっとしている。
――何だか……可愛いな。
思わず顔がほころぶ。
ポイを置き、もう片方の手でよしよしと撫でてみた。
魂はふるふると反応した。
気がつけば、橙が目をみはっていた
小町も、店主も、観衆も……無言で、妖夢を見守っていた。
「……え? どうしました?」
視線を集められて、妖夢は戸惑った。
そこで、魂は手のひらを抜け、下のお碗におさまった。
ほう、と皆のため息がもれて……
すぐに万雷の拍手へと変わった。
わあっ、という声が、妖夢を取り囲む。
「すげぇぞ! お嬢ちゃん!」
「ああ! 大したもんだ! いいもんを見た!」
かけ声が飛ぶ。口笛が鳴る。
いつの間にか、通りがまるで見えないほど、人が集まっていた。
「驚いたわ! 魂を手に持てる人間だなんて!」
「まったくだ! 長いこと生きてきて見たことないな!」
「ひょっとして、仙人か何かが化けてるんじゃないか!?」
「いやあ! やるもんじゃないか! 本職の死神クラスだよ! 金魚の数は三対一だけど、これは引き分けだね!」
「妖夢すごーい! もう一回やって!」
「あ、あの」
顔を真っ赤にしながら口ごもるが妖夢は、とりあえず声援に答えて、丁寧にお辞儀をした。
◆◇◆
結局、妖夢と橙は、熱狂したギャラリーから様々なものを受け取ることになった。
お団子やら、お好み焼きやら、的当ての景品やら、干菓子やら。
その後も店は挑戦客で盛り上がり、小町は場所代を払うことなく、店主からお礼の品までもらった。
「はっはっは。こういうイベントが起こるから、祭りの空気はやめられないねぇ」
長椅子に戻って、三人はもらったものを食べながら談笑していた。
いまだ現実感の無い中で、リンゴ飴を舐めながら、妖夢はふと気になった。
「でも、橙。どうして、あの時コツを教えてくれたの? 勝負だったのに」
「だって、私だけが取れたってつまんないもん。
妖夢も何か悲しそうだったし、小町さんからアドバイスしてもらった私だけずるいなーって」
「………………」
それって、つまり、同情されたわけか。
そう思うと素直に喜べなかったが、橙の助けが無ければ、もっと悲惨な結果になっていただろう。
「はぐはぐ、面白いこと言うねこの子は」
小町は二つ目のお好み焼きを食べていた。さっきおにぎりと焼きソバを食べたばかりなのに、ずいぶん大きい胃袋だ。
「藍様がよく言うんです。『遊ぶときは、みんなで楽しまなきゃ駄目だよ』って」
「ははあ、親の教育があったのか」
「はい。妖夢と遊べて凄く楽しかったです。あむ」
綿飴を美味しそうにかじる橙に向かって、妖夢は釘をさした。
「橙。忘れてるの? 今回の旅の目的は修行なんだからね」
「うん。美味しいよ」
「話を聞きなさい。遊んでばかりいられないんだからね。ちゃんと真剣にやること」
「藍様との修行も、いつも楽しいんだけどなー」
「鬼ごっこは遊びでしょ」
「ねえ。今度やってみる、妖夢? 面白いよ」
「やらない」
小町はそんな二人のやり取りを、ニヤニヤと見ながら、
「まあ、こんな美味しいもの食べてる時に、堅苦しい話も野暮だってことで」
「何度も言いますが、小町さんは、もう少し真面目になった方がいいと思います」
「あはは、上司からもよく言われるよ」
さして気にする様子を見せず、快活に笑う小町を見て、妖夢は聞きたくなった。
「小町さん」
「なんだい?」
「従者にとって大切なことって何だと思いますか」
「とと。あたいは参考にならな……」
「ごめんなさい。さっきの言葉は取り消します。納得できるわけじゃありませんけど……」
しかし、どうしても、小町はただの駄目な従者には見えなかったし、自分に劣っているとも思えなかった。
それを告げると、小町は大笑いした。
「いやあ、急に買いかぶられても困るねぇ」
「教えてください。橙との勝負は、引き分けでしたけど……」
「よかったじゃないか、負けなくて」
「じゃあ、逆に聞きます。小町さんから見て、私に足りないものってなんですか」
妖夢は真剣な顔で聞く。
それが、今回の旅の目的、ようかんかもしれないのだ。
小町はお好み焼きの最後の一切れを食べて、お茶で流し込んだ。
「ぷはぁ。……遊び心かな」
「遊び心?」
「そうだね」
小町の横顔は、ふざけて言っている表情ではなかった。
「別に、怠けろとか不謹慎になれとかいう話じゃないさ。
ただ私の仕事もそうだけど、真面目で堅物なままじゃ、息が詰まってまっとうできないよ。
世の理はほとんどそう。硬いだけの輩は折れてしまう。
そこに遊びの余裕がなければ、うまくいかない。こんなところかね」
様々な人生を見てきた死神なりに、含蓄がこもった言葉だった。
しかし、妖夢は反論した。
「でも、折れないものがあります。壊れないものもあります」
「ほほう。それは何だろう」
「それは私です。この剣は折れません。冥界一固い盾である、この私は壊れません」
「蒼天の気質を持つ、お前さんらしい答えだね。まあ、そういう道もあるだろう」
小町は否定せずに、やんわりと認めた。
「だけど、それに限界を感じたら、私の言ったことを思い出してみるといい。
……さて、このお菓子の包みを持って、四季様を見舞ってみるか。それじゃまた」
何だかんだいって、彼女は上司思いのようだった。
小町は立ちあがって二人に別れを告げ、つむじ風のように雑踏の中に消えていった。
小町が去った後も、しばらく妖夢は黙考していた。
本当に、ようかんとは遊び心のことなのだろうか。
「あ、妖夢」
綿飴を食べ終わった橙が、明るい声を上げた。
「私、ようかんが何かわかったかも」
「本当!?」
「うん」
願ってもない。
それがわかれば、修業は一気に進展する。
「ようかんって……」
「ようかんって?」
「おっぱいのことじゃないかな」
ガン!
こけた妖夢は、長椅子の角に頭をぶつけた。
「どうしたの妖夢」
「……いてて。それは違うよ、橙」
「でも、小町さんも咲夜さんも、藍様もおっぱいが大きいよ」
「ああ、うん、まあそうね」
頭をさすりながら、妖夢はうめいた。
「でも橙。ようかんは橙も持ってるって幽々子様に言われたの。橙には……お、おっぱいが無いじゃない」
「うーん。じゃあ妖夢と比べてみる?」
「いくら私でも橙よりはあるよ!」
「私も藍様みたいに大きくなれるかなー」
橙は自分の胸を両手で触りながらつぶやく。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、妖夢も幽々子の胸を思い浮かべていた。
異性だろうと同性だろうと、見るものを圧倒させるツインウェポン。
今の自分では、逆立ちしても届かない。
「ねえ、次はどこに行こうかな?」
「はあ……道は遠いな」
「妖夢?」
「っとお! ごめん、橙。聞いてなかった!」
「次はどこに行くの?」
「ん、あー、もう従者ならなんでもいいかもしれない。小町さんとの会話でも、勉強にはなったし」
「それなら心当たりがあるよ!」
「本当に?」
「うん! 人間の巫女!」
「人間の巫女って……霊夢?」
頭の中で、紅白の巫女服を着た少女が、にっこりとお賽銭箱を手で示していた。
確かに、神に仕えるという点では、従者と言えなくもないが。
「紅白のじゃないよ。山に引越してきた巫女さん!」
橙は振り向くのに合わせて、妖夢も顔を向けた。
雲をつく高さ。
長椅子から見上げると、全身に霊気が走るほどの存在感。
橙の指の先は、そびえ立つ妖怪の山の頂を差していた。
◆◇◆
妖怪の山の頂上付近に、守矢神社は建っている。
外界から湖ごと引っ越してきたその神社には、巫女だけではなく、二柱の神様まで住んでいるそうな。
橙の案内で、妖夢はその神社にたどりついていた。
博麗神社よりも、だいぶ立派な造りだ。
二人は裏の母屋に回って、玄関の前に立った。
「橙。ここには神様が住んでいるの。知ってる?」
「うん。聞いたことがあるよ」
「だから、お行儀よくしなきゃダメよ」
「うん」
妖夢はその神様を、何度か宴会で見かけた程度で、顔見知りというわけではない。
怒らせたら怖そうだし、礼儀はきちんとしなくては、と思った。
できれば、その神に仕える風祝の少女とだけ、話すことができれば楽なのだが。
「ごめんくださーい」
声をかける。
足音が近付いてきて、
「はいはい」
開いた扉の向こうには、しめ縄が待っていた。
「おや、珍しいお客さんね」
まさか、巫女ではなく、神様が玄関で出迎えてくれるとは思っていなかったので、妖夢は腰を抜かしそうになった。
外界からここ妖怪の山に引っ越してきた、神様一家の一柱。
守矢神社の重鎮、八坂神奈子である。
「こんにちは!」
「はい、こんにちは」
橙の方は全く萎縮する様子はなかった。
神奈子も親しみのある挨拶を返す。
動悸を抑えながら、妖夢は用件を伝えようとした。
「あ、あの。こちらに東風谷早苗さんは……」
「ああ、早苗に用なの。あいにく、今は留守よ。麓の神社に遊びに行っているわ」
「そうですか……」
となれば、博麗神社へと向かう方がいいか。
「何か用件があるなら、伝えておくけど。それとも直接会いに行く?」
「はい。…………あ、いえ。貴方に聞きたいことがありまして」
「ほう。私にか」
妖夢は方針を変えることにした。
神奈子は少し考える素振りを見せてから、振り向いて家の奥の方をのぞきこんだ。
顔を戻して、
「ん。いいよ。上がりなさい二人とも」
「い、いえ。簡単な話なのでここで構いませ……」
「お邪魔しまーす!」
「ちょ、ちょっと橙!」
妖夢が止める間もなく、靴を脱いで颯爽と中へ向かう橙。
神奈子はそれを受け入れながら、にっこり笑った。
「で、お前さんは外で待っている?」
「……お邪魔します」
恐縮しながらも、妖夢は守矢神社の母屋に上がらせてもらった。
守矢神社の家の中は不思議であった。
居間には、洋風のテーブルとコタツが同居している。茶箪笥にはティーカップの段と湯飲みの段が。
壁の時計は西洋風だったが、その横にあるのは神棚だった。
和洋折衷。
巫女の家と言えば和風そのものという印象を持っていた妖夢にとっては、予想外な内装だった。
そして、何よりも奇妙奇天烈なのが、奥の和室であぐらを組んでいる存在だった。
頭には目玉が二つ付いた大きな帽子をかぶり、将棋盤を前にして、腕を組んでじっと考え込んでいる。
盤の向こうに座る者はいない。どうやら神奈子と指していたようだ。
妖夢たちが入ってきても、気にする素振りを見せなかった。
「……こんにちは」
一応挨拶してみても、わずかにうなずかれただけだった。
もしかしたら、妖夢にうなずいたのではなく、考えていただけなのかもしれない。
一方神奈子は、台所でお茶を用意している。
神様がそんなことをしているのも、妙な光景だった。
「えーと、猫ちゃんは熱いの苦手だったか」
「熱いのは苦手。それと、猫ちゃんじゃなくて橙だよ!」
「ほいわかった、ごめんよ橙。あ、お茶菓子。ようかんと煎餅どっちがいい?」
「ようか……」
「煎餅で」
橙の声を遮って、妖夢はキッパリと言った。
和室に座るもう一柱の神は、そんなやり取りを完全に黙殺している。
神奈子もそちらを無視して、お茶を運んできた。
「こういうことすると、早苗に怒られるんだけどね」
「はあ」
「まあ、たまには神が人をもてなすのもいいでしょ。といっても、式がついた妖怪の子と半人半霊か」
さすがに神奈子は、二人の本質については気が付いていたようだ。
「あの……いいんですか?」
「なにがだい?」
「その……あちらの方と将棋を指していたのでは」
「ああ、諏訪子ね。あいつは長考に入ると一時間は唸っているから。気にしなくていいわよ」
「これだあ!!」
バチ―ン、と音を鳴らして、奥に座っていた洩矢諏訪子が、駒台に置かれた一駒を盤上に打ち付けた。
あまりの気迫に、橙と妖夢は身をすくませた。
しかし神奈子は平然と、ちょっと失礼、と席を立つ。
すたすたと諏訪子の前に歩いていって座り、ひょいと駒を動かした。
「ぐおおおおお。そんな手が!」
諏訪子が帽子越しに頭を抱え込む。
神奈子はすぐに立ち上がって、妖夢と橙の卓に戻って来た。
「はい。それで何の話?」
「えーと、神様っていつもあんな感じなんですか」
「こんな感じよ。山の天狗に将棋で負けたのが悔しかったらしくて、『特訓だ神奈子!』って、うるさかったのよ。
ちょうどいい気晴らしの相手が来てくれて助かったわ」
「………………」
「他に聞きたいことは?」
「ようかん、ってわかりますか?」
「それはもちろん。煎餅が苦手なら、今切ってきてあげるけど」
「いえ、そうじゃなくて……」
そこで、出された煎餅をしゃぶっていた橙が、顔を上げた。
「あのね、妖夢には、ようかんが足りないんだって。だから今修行の旅をしているの」
「ちぇ、橙!」
妖夢の頬が熱くなった。
神奈子はきょとんとしている。
「ようかんが足りない?」
「……はい。恥ずかしながら」
「よく分からないんで、もう少し話を詳しく聞かせてもえらない?」
「わかりました」
仕方なく、妖夢は恥を忍んで、これまでの経緯を語った。
神奈子は神妙な顔つきで聞いていたが、やがてニヤニヤし、ついにはうつむいて肩を震わせていた。
「と、いうわけなんですけど」
「なるほどね。ぷぷっ」
「……笑わないでください。こちらは真剣なんです」
「はははっ。まさにその言葉が、全てを示しているようだ」
「え?」
「奇妙な例えをしたものだね。だけど……なるほど。
魂魄妖夢。確かに、お前さんには、ようかんが足りていないようだ。そして……」
神奈子は言いながら、橙の頭をぽんっと優しく叩いた。
「こっちの妖怪の子。この子の方が足りている」
「!!」
妖夢は驚愕した。
それは、幽々子が出発前に与えてくれたヒントと、同じことを示していた。
ついにその答えを、見つけられるかもしれない。
立ち上がって聞く。
「なんですか!? ようかんって!」
「うーん、それはちょっと言えないわね」
「そんな!」
「いや、意地悪しているわけじゃないよ。誰が口で言っても、たぶん効果が無い、とういほうが正しいわね」
「…………」
妖夢は座り直した。
神奈子は、うん、とうなずき、椅子の背もたれによりかかりながら、
「でも、私に相談して正解だったわね。実を言えば、うちの早苗もようかんが足りてなくて困ってるのよ。
博麗の巫女に勝つには、そこが一番大事だと思うんだけど。ま、早苗も馬鹿じゃないから、そのうち気づくでしょ」
妖夢は、いよいよ驚いた。
今神奈子は、早苗が霊夢に勝つには、と言った。それはつまり、ようかんが強さに必要なものだということだ。
これは、どうしても手に入れなければ気がすまない。
「私は今すぐ、それを知りたいんです」
「そうだねえ。ヒントならあげられるかな」
「お願いします!」
「さて、何から話したものか……。さっきの話でお前さんが気にしていた、遊び心。あれはかなり近いと思う。
だけど正解ではない。例えばこの子は、遊び心があるから優れているのではない。
むしろ、ようかんが足りているからこそ、遊び心がある。わかるかしらね」
「………………」
わからなかった。
橙を見るが、この式の式自身も、ちんぷんかんぷんのようだった。
神奈子の笑みが深くなる。
「言葉で見つけようとすると、むしろ遠ざかるわよ。むしろ、印象でとらえた方がいい」
「それは……ようかんは言葉じゃ表せないってことですか」
「というより、言葉でいじくるより、ようかんとしてとらえた方が面白いというか」
「面白いって……」
「おや、不満そうな顔だね」
「はい。お言葉ですが、こちらにとっては真剣な話なんです」
「そう。面白いのは嫌い? 楽しいのは嫌い?」
「………………?」
今一瞬、妖夢は何かをつかんだ気がした。
神奈子はそれに反応し、じっと妖夢の答えを待つ。
妖夢はつかんだそれを噛みしめて、しっかり味わってみた。
「まさか……」
「気がついたようね」
「いえ……でも……なんとなく、分かってきました。ですが……」
「ですが?」
「むしろ、分かりません。それが何で、強さに繋がるのかが分かりません」
「本当に?」
「ええ。たぶん、その強さは、私に必要のないものです」
妖夢は失望して、かぶりを振った。
「私は剣士ですから。剣士としての強さこそが、私の望みです」
「ほっほう。だから自分の剣に必要ないと言うか。それはそれは」
「……何かおっしゃりたいようですね」
「私はそうは思わない」
「なぜですか? 剣について、何か一家言がおありで? ならば教えてください神様」
「ふふふ、斬り込んで来るわね、剣士さん」
「な、何か怖いよ二人とも」
橙が少し怯えた目つきで、二人を見比べる。
しかし、妖夢は引く気はなかった。
誰であろうと、軽々しく自分の剣について語られるのは我慢ならない。
「従者については、どうか知りません。ですが、剣の道は厳しく、浮ついた感情が許される領域ではありません。
私の剣は真っ直ぐです。そして、剣はそうあるべきだと思います」
「じゃあ益々、ようかんと向き合うことを、おすすめするわね」
「必要ありません。そんなものは、斬るだけです」
「斬るときたか。果たしてお前さんに、『ようかん』が斬れるかな?」
「斬れます。この世に斬れないものはありません。全ては斬ることによって理解できる。それが剣の極意です」
「ん?」
神奈子は片眉を上げた。
「今、面白い……いや失礼。興味深いことを言ったわね。剣の極意か」
「はい」
「もう少し、詳しく話してくれないかしら。剣の極意とは何か」
問われて妖夢は、眉をひそめた。
なんだ、この質問は? この一柱は何を考えている。
しかし、『剣の極意』。師の教えは、常日頃から考えていることだ。
妖夢はすらすらと答えた。
「剣の極意とは、物事に囚われないこと。目に見えることを疑い、耳に聞こえることを疑い、鼻で嗅げることを疑い、舌で味わえることを疑い、指で触れられることを疑う。全ては剣で斬ることができ、剣で斬ることによって知るべきである。剣によって、迷いの根源を通すことなく、物事の真実を理解することができるのです」
「…………そうか」
「ご理解いただけましたか?」
「逆に聞くわね。お前は本当にそれを理解している?」
「む……」
いちいち癇に障る言い方だった。
だが、この禅問答には既視感があった。昔、鬼にも同じことを言われたのだ。
そして、目の前の神は、さらに話を続ける。
「その剣の極意。それはお前の言葉ではないね。では、お前自身は、剣で斬ることで何を知った。何を得た」
「…………それこそ、言葉じゃ表せません」
「そうね。でも少し心配になってきたのよ。
物事に囚われていないようでいて、本当は目も耳も塞いでいるだけ、ということはないか。
いたずらに剣を振るうだけで、真実など何も分かっていない、ことはないか」
「それは……私がまだ修行不足だということは……あるかもしれませんが……」
「ふむ」
「……でも、私だって、好きで未熟をやっているんじゃありません!
修行して、その先へと向かおうとしているんです。その極意を、理解しようとしているんです」
「ならば、私から一つ」
神奈子は腕を組んだ。
「剣の極意は『物事に囚われない』。だけど、私にはこう見える。
魂魄妖夢、お前はまさに『剣』に囚われている」
稲妻が妖夢の心を走った。
剣気が内から燃え立った。
椅子を倒し、とっさに鞘に手が伸びて、相手に斬りかかりそうになる。
それを、ぎりぎりで理性が働き、何とか思いとどまらせた。
横に座る橙が、湯飲みをひっくり返していた。
妖夢の急な変化に驚いて、椅子からずり落ちている。
だが、目の前の神奈子は、強烈な気を叩きつけられても、びくともしていなかった。
石仏のように、まるで表情を変えていない。妖夢の手加減無しの一撃を食らう寸前だったのに。
奥の諏訪子も、こちらの様子を、ちらとも見ないで、盤上の次の一手を考えている。
妖夢の気の変化を、虫の音が変わった程度にしか感じていない。
取り乱しているのは、客である妖夢と橙だけだった。
「ごめんごめん、少し言い方がきつかったわね」
謝る神奈子を前にして、妖夢はごくりと唾を飲み込んだ。
沸騰していた血が、熱を奪われて戦慄へと変わっていく。
微笑する神奈子の姿が、急に大きく見え出す。
「魂魄妖夢。一つ助言を与えます。お前に必要なのは、一度自分の『剣』から解き放たれることです」
妖夢の胸に、その助言は突き刺さった。
「怒らないで聞きなさい。貴方は剣の使い手のはずが、自らが作り出した『剣』に縛られることで、壁を作ってしまっているのです。いいえ、それどころか結果的に、その腰に下げた剣そのものからも、目をそらすことになってしまっている。灯台元暗しとはよくいったものですね。『剣』にしがみつくのはやめて、一度離れて向き合ってみなさい。そうすれば、ようかんが何を示し、それが何故貴方に必要なのか気がつくことでしょう」
その言葉は、呪詛となって、妖夢の心を犯していった。
先ほどまでは、どこか子供っぽくて愉快な人たちだ、と思っていたが、今は畏怖の念が妖夢の腕を伝わり、肌を粟立てさせる。
太古の気配に、血が冷たくなる中で、気がつく。
この二人は間違いなく、神なのだ。
自分の主や、八雲紫と同じ、常人には手の届かない域にある存在なのだ。
そして、斬れない。
到底斬れる気がしない。
雨を斬るよりも、空気を斬るよりも難しい。
妖夢にとっては永遠に理解できない。
すなわち、それは怪物。
恐怖そのものであった。
「ああごめん、汚しちゃったわね。早苗に怒られるわ」
目の前の神奈子が、橙が零したお茶を拭いてやっている。
頬を拭かれる橙は、照れ笑いしていた。
しかし、妖夢には優しげな神奈子の姿が、この世をぐるりと囲む大蛇の鎌首に見えた。
赤い舌がチロチロと、橙の頬を舐めている。
「さて……」
大蛇がこちらを向いた。
その瞳が、妖夢の心を全て暴こうとする。
「ひっ!」
妖夢は息を呑んだ。
テーブル、出された菓子、目に映る全てのものが、禍々しく見える。
すでにここは、蛇の腹の中か。
妖夢は、橙の腕を取った。
「橙!逃げるよ!」
「え? よ、妖夢!」
妖夢は挨拶もせずに、橙の腕を引っ張って玄関へと走る。
恐怖に背後を振り向けずに、妖夢は守矢神社から逃げ出した。
部屋の中が、しん、と静まる。
テーブルに残された湯のみが、細い湯気を立てている。
ぱちり、と軽い音がした。
諏訪子が一手を指したのだ。
ふふふ、と笑いながら、
「変なお客さんだったわね」
「おかしいな……。どうして逃げちゃったんだろ」
諏訪子が座る将棋盤へと歩きながら、神奈子は首をかしげた。
「神奈子の顔が怖かったんでしょ」
「何言ってるのよ。どこが怖いっていうのこの顔が」
「ひいいいいい。母ちゃんの顔がこわいいい」
「…………うりゃ」
「えっ。……えーと、こうなってこうなって。……ええええええ!? 何これ! 詰んでたりするの!?」
アッチョンブリケー、と叫ぶ諏訪子を、小馬鹿にした目で見ながら、神奈子はふんと鼻を鳴らした。
「ちょっと不安だね、あの子は。また遊びに来てくれるといいけど」
「ああああああ! やっぱりさっきの桂馬がまずかったんだ!」
「それにしても、あれは何だったのかしら」
「くっそー! 神奈子! もう一局だ!」
「またかい?」
「今度は勝つからね!」
「はいはい」
神奈子は面倒くさく、駒を初形に並べ始めた。
ぱち、ぱち、という駒音を聞きながら、先の出来事について考える。
妖夢の激昂のことではない。
招かれざる第三者のことだった。
そう。神社に来た気配は、『三つ』だった。
一つは半人半霊。一つは小粒の式妖怪。
もう一つは、巧妙に気配を隠していたが、確かに外にいた。
剣の極意について妖夢が話していたとき、壁の向こうで話を聞いていたようだ。
神奈子はシカトしていたが、果たして何者だろうか。
どうやら、あの二人を追って消えたようだが。
「血生臭いことにならなきゃいいけど……」
「ほら、神奈子! 早く指してよ!」
「あのさ諏訪子。もう平手はやめにしない? 駒落ちにした方があんたのためになると思うんだけど」
「ハンデはいらん!」
――どうしてこいつは、勝負事になると、こんなに『ようかん』が足りなくなるのか。
ふぅ、と神奈子は軽くため息をついて、ぱちりと初手を指した。
◆◇◆
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
「妖夢! 妖夢! ちょっと妖夢ってば!」
「はぁ、はぁ。……?」
「どうしたの妖夢! 大丈夫?」
橙が心配そうに顔を覗きこんでくる。
妖夢はそこで我に返った。
守矢神社から飛び出して、全速力で山を下りてきたのだ。
まだ、息が上がっている。
「いきなりどうしたの!? 暴れ出して!」
「はぁ……、暴れ………え?」
「なんであんなことしたの!?」
「だって……怖かったから……!」
「怖かったのは妖夢だよ!」
橙は怒っていた。
「さっきの妖夢、すっごく怖かった! お行儀よくしなさいって言ったのは、妖夢なのに! 変だよ本当に!」
橙に言われて、妖夢の思考が冷めてくる。
落ち着いて、これまでの行動を顧みる。
気に触ることを言われたのは確かだ。
しかし、刀を抜きそうになって、勝手に怖がって、挨拶もせずに逃げ出して。
血の気が引いた。橙の手本どころではない。
無我夢中で飛び出してきたが、これではまるで奇人ではないか。
「ごめん……橙」
妖夢はしょんぼりと俯いた。
橙はその声を聞いて、口を閉ざす。
顔を覗き込もうとしてくるが、妖夢は向き合えなかった。
「……ねえ橙。私って変かな」
「妖夢?」
「お願い、言って。私って変?」
妖夢は橙にすがるように聞いた。
橙は目を白黒させながら、
「へ、変じゃないよ妖夢は。その……さっきはちょっと、びっくりしたけど」
「……………………」
「大丈夫? 具合が悪いの? お医者さんに診てもらった方がいいかな」
「お医者さん……」
それを聞いて、妖夢の頭に、ある人物が思い浮かんだ。
永遠亭の薬師。彼女にはお世話になったことがある。
それに、彼女は従者でもあった。
今さらそんなこと、どうでもいい気分だったが。
「ねえ妖夢。行こうよお医者さんに」
「……………………」
確かに、今の自分を誰かに診てもらいたい気持ちがあった。
妖夢は力の入らない手を引かれながら、迷いの竹林へと向かった。
◆◇◆
竹林に囲まれて、ひっそりと隠れるようにして、永遠亭は建っている。
かつては外と断絶状態にあったものの、最近は人里の重病人を治療するサービスなども行っているそうな。
その永遠亭の診察室では、かつて妖夢が狂気の瞳に冒された時に世話になった、八意永琳が待っていた。
「いらっしゃい。また目の話かしら?」
「いえ。もう、あれからは何とも……。あ、その節はありがとうございました」
「どういたしまして。それで?」
永琳は余計な会話を抜きに、妖夢に続きを促してきた。
しかし、妖夢は自分の症状を、うまく説明できなかった。
ぐずぐずしていると、永琳は妖夢から視線外した。
「ウドンゲ。ちょっと出ていてくれない? 用事があれば、あとで呼ぶから」
「はい。わかりました、師匠」
「ドアの外で盗み聞きするんじゃないわよ」
「し、しませんよ、そんな。……じゃあ、失礼します。また後でね、妖夢」
「うん。ありがとう」
ここまで案内してくれた鈴仙が去ってから、妖夢は気を利かしてくれた永琳にぺこりと頭を下げた。
月の天才は、わずかにうなずいた。
「それじゃあ、今日はどのような症状で?」
妖夢は下を向いていたが、やがて、声をしぼりだした。
「何か……変なんです」
「変?」
「変じゃ……ないですか?」
不安になりながら、ちらと相手の顔を見る。
ふうん、と永琳は無表情で、妖夢を観察しているようだった。
「それはつまり、貴方が異常じゃないか、ってことかしら?」
「………………」
「見たところ外傷も無し。声の調子からも喉が腫れているようにも思えない。
少し顔色が悪いのは元からで、前に診察に来た時と変わりは無い。半人半霊という特殊な存在とはいえ、いたって正常に見える」
「………………」
「と、ウドンゲなら言うかもね」
「……え?」
永琳はそこで無表情を崩した。
「だけど、かなりのストレスを受けている。何かに怯えているようにも見える。
症状は、おそらく肉体ではなく、精神的なもの。まあ普通は、二つは疎の関係では有り得ないのだけど」
「…………」
「貴方の場合はどうかしら。悩みがあるなら、話してみない?」
「…………」
「ここには私の他に誰もいないし、襲ってくる敵もいないわ。後はまあ……私を信頼してもらうしかないわね。
もし話すのが辛いのなら、紙に書くなりジェスチャーなり糸電話なり……」
「……いえ、話します」
妖夢は顔を上げて、
「聞いてください。お願いします」
それから、妖夢はこれまでの経緯を、かいつまんで話した。
永琳は何度かうなずきながら、じっくり聞いてくれた。
「それで、逆上して刀を抜きそうになって……急に怖くなって」
「ふうん」
「……やっぱり、変ですよね。私も今話していても、変だと思いますし」
「変じゃないわよ別に」
「え?」
予想外に否定されて、妖夢は思わず聞き返した。
永琳は微笑んだままだった。
「いかにも貴方らしいじゃない。剣に生き、剣を神聖視し、剣に触れられるだけでカッとなる。
まさに貴方……はじめて出会った時から、私の知る魂魄妖夢そのもの」
「……………………」
「それを、他ならぬ貴方が『変だ』と思っている。なぜでしょうね」
「なぜ……でしょうか」
「成長じゃないかしら」
「成長……ですか? 私が?」
「そう。心の成長ね」
「……………………」
心当たりはある。
剣と付き合う自分の態度は、確かにそれでよかったはずだった。
でも、今は確かに、それにわずかな違和感を覚えていた。
しかし、
「どうすればいいんだか、分かりません」
「そうね。山の神様がおっしゃったことを実践してみたら?」
「……! 永琳さんも……私に剣を捨てろっていうんですか!?」
妖夢はギュッと刀の柄を握り締めた。
なぜか、それだけは譲れない気持ちが残っている。
永琳は冷静だった。
「そうは言ってないわ。神様もそんな意味で言ったのではないと思うの」
「じゃあ……」
「そうね。どういうことかというと」
永琳は、机の上に並んだ医薬品類や治療器具、あるいは本などをに目を向けながら、
「私はもう永いこと生きているわ。その間に、医学に薬学、その他あらゆるものを学び続けてきた。
そうした行いが、今の私という人格の大部分を形成してきたのは間違いない」
「………………」
「それが、貴方の場合は剣だった。じゃあ貴方から剣が永遠に消えてしまったら?」
剣が消える?
自分から?
耐えがたい恐怖が、妖夢を襲った。
そう。剣を否定されるということは、恐怖だった。
何も見えず、何も聞こえない。
自分自身が何かすら分からない。
虚無に飲み込まれてしまう。
「はい。ストップ」
永琳の声で、我に帰った。
「やっぱり、貴方は剣そのものに自分の姿を投影しているんでしょうね。
「………………」
「でもね、一緒にいると、逆に分からない、気がつけないこともたくさんあるの」
「………………」
「だから、一度剣から離れて考えてみたら……」
「私は……剣から離れるなんて、できません」
妖夢の視界が、ぼやけていく。
「ずっと……ずっと剣で頑張ってきたんです。私には、剣しかないんです」
物心がついた時には、すでに剣と生きていた。
言葉よりも先に剣があり、剣だけが頼りだった。
師の教えに従い、幽々子の従者として相応しくなる。
それも、剣腕を磨くことで、そこへたどり着けると信じて生きてきた。
それを今さら、
「剣から離れろだなんて。ようかんになんて……なれないですよ」
「ようかん?」
「……………………」
妖夢は答えずに、ごしごしと目をこすった。
永琳はふうとため息をつく。
「さっきも言ったとおり、貴方は成長しようとしているの。
それを怖がらないで。きっと、その先には、貴方の目指すものがあるはずよ」
「…………」
「私のアドバイスはこれくらいね」
「……ありがとうございました」
「お大事に」
言いながら、永琳は壁に垂れ下がっていた紐を引っ張った。
廊下を走る音が近付いてくる。
襖が開いて、鈴仙が登場した。
「師匠、呼びましたか」
「呼んだわ。この二人が今夜泊まるから、世話してあげなさい」
「はい、わかりました」
妖夢は永琳の顔を見た。
「今日はもう暗いでしょ。どうせなら泊まっていきなさい。夜の竹林は危険よ」
◆◇◆
永遠亭での食事の間、診察室に入らず待っていた橙は、ひっきりなしに妖夢に話し掛けてきた。
――大丈夫? 悪いところはなかった?
――ここのご飯も美味しいね、妖夢。
――今日はここに泊まるんだね。楽しみだね。
妖夢の答えは全て、抑揚の無い「うん」だった。
夕餉の膳を箸で口に運ぶが、味もよくわからなかった。
急に、自分以外の存在が遠ざかった気がする。
いつも気を晴らす時には、剣を素振りしていたのだが、今はその剣に触れるのが、少し怖かった。
橙もそれ以上、妖夢に話し掛けるのを、諦めたようだった。
◆◇◆
「お風呂は今入る?」
「………………いい」
「じゃあ、寝部屋を決めてもらうわね。大部屋と小部屋のどっちがいい?」
「……………………」
「と、とりあえず、見てもらった方がいいわね」
つとめて明るく先導する鈴仙の後を、妖夢はとぼとぼとついていった。
申し訳ないという気持ちを、働かせるほどの元気が無い。
頭をぐるぐると、剣とようかんが回っている。
やがて、ある襖の前で、鈴仙は止まった。
「ここが大部屋。他の兎達も寝るから、うるさいけど寂しくはな……ぶほっ」
説明の声が、途中で遮られる。
開けた襖の向こうから飛んできた枕が、鈴仙の顔に命中したのだ。
部屋の中から歓声が上がった。
「見事成功ー!」
「鈴仙が引っかかったー!」
「わーい!」
兎達が敷かれた布団の上で、枕を手にして、はしゃいでいる。
どうやら枕投げの最中だったらしい。
「こ、こらー!」
鈴仙は怒って枕を投げ返した。
やがて部屋中に白い寝具が飛び交う。
罵声に悲鳴、しかし喚きながらも、鈴仙も含めた兎耳は、笑いながら枕投げを楽しんでいた。
「いけー! やっつけろー!」
「あのへにょり耳を取り囲めー!」
「何ですってー!? って、ああ! 多勢に無勢は卑怯よ! この!」
「うわー、やられたー」
「あはは、食らえー!」
「……ちょっといい? 鈴仙」
その声に、室内の笑い声が消えていった。
妖夢が部屋の入り口で、暗い顔をして立っている。
「……悪いけど、別の部屋にしてくれないかな」
「ご、ごめんなさい妖夢。今案内するから」
「……うん、こちらこそごめん」
鉛色をした、つぶやき声だった。
鈴仙を含めた兎達の顔が青くなっていく。
妖夢はその面々を見て、ため息をついた。
――ああ。ここでも、私は変な子なんだろうな。
心の中で自嘲しつつ、妖夢は背を向けた。
その時、
ぼすっ。
後頭部に柔らかい感触。
妖夢はサッと振り返った。
わずかな油断をついた不意打ちだった。
まさか、自分にも枕が投げつけられるとは、思っていなかったのだ。
顔色を失った兎達が、群れの中央へと驚愕の視線を向けている。
そこには、一匹の妖怪猫が、枕を構えて笑っていた。
妖夢は緊張を解いて、ため息をついた。
「橙。もうふざけないで」
「えい」
ぼすっ。
「……忘れたの? ちゃんとお行儀よくしなきゃ駄目だって」
「やあ」
ぼすっ。
「…………橙。いい加減にしないと」
「たあ。とう。それ」
ぼすっ、ぼすっ、ぼすっ。
間抜けな力が乗った枕が三連発、妖夢に直撃した。
「………………」
「にへへー」
「…………くぉらああ!!」
妖夢は怒鳴って、本気で枕を橙にぶん投げた。
「わっ」
橙がしゃがんだ上を、回転した枕が過ぎる。
それは、後ろに立っていた兎に当たった。
「ぷあっ! ……やったなー!」
転んだ兎が枕を投げ返す。
その枕を、妖夢はひらりとかわした。
中央に立つ妖夢に、四方八方から枕が投げつけられる。
それらを妖夢は、体捌きでかわし、あるいは叩き落とす。
枕の数は増えていくが、妖夢にとっての決定打にはならない。
剣の修行に比べれば、これしきの枕なんのその、だった。
その華麗な動きに、橙を含めた兎達は、きゃーきゃーと黄色い声をあげつつ、枕を投げ続ける。
妖夢は不敵に笑って、顔面に飛んできた枕に手刀を放ち、ふんっ、と気合と共に受け流した。
「イナバー。ちょっといいかしふべっ」
飛んでいったその枕は、入ってきた姫君の顔面に当たった。
蓬莱山輝夜は、廊下に仰向けになって倒れた。
部屋の声が、再び途絶える。
皆の顔が、妖夢を含めて蒼白になっていた。
「…………ふっふっふ」
地獄の底から響いてくるような、不気味な笑い声と共に、輝夜が立ち上がる。
その目が、獣の光を放った。
震え上がる妖夢と、視線が合った。
「そうか、妹紅からの刺客ね!!」
「はあ!?」
指を差された妖夢は、意味が分からずに困惑する。
奥の橙は「妹紅さん?」と首をかしげていた。
輝夜は足元の枕を軽やかに蹴り上げ、空中でわっしと摑み直した。
「ならば話は早い! 枕投げの女王と謳われた私の『五つの難題』! 受けてみなさい!」
口上と共に、輝夜は振りかぶって枕を投げつけてくる。
無茶苦茶速い。
「どわっ!」
と妖夢はかわせず、身をすくめた。
が、シュート回転した枕は妖夢の体をかすめつつ、斜め後ろの兎に直撃した。
ぶふぁっ、と兎が一転して吹っ飛んでいく。
「まだまだあ!」
走りながら枕を投げてくる輝夜から、妖夢は泡を食って逃げ出した。
喚く兎の群れへと走りこむ。
その後ろから、白い弾丸と化した枕が、絶えず飛んでくる。
が、なぜか直線上にいるはずの妖夢には当たらず、その直前で動きを変えて、横の兎達をはね飛ばしていく。
あるいは右下に鋭く落ち、あるいは左へと大きく曲がる。
信じられないクセ球、いやクセ枕だった。
逃走しつつ部屋を一周する二人の後には、枕を食らった兎達――式の式を含める――の屍が転がっていた。
「くっ! なんて身のこなしなの!」
「いや、私かわしていませんが!」
馬鹿正直に真っ直ぐ走り続ける妖夢の背後で、輝夜のプレッシャーが膨らむ。
「こうなったら最終奥義! 『ブリリアントドラゴン枕』を食らえええ!」
枕を両脇に抱えた輝夜が、スパイラル回転しながら突っ込んでくる。
その背後に、顎を開いた巨大な龍のオーラが見えた。
「ひいっ!」
妖夢は転がるようにして、床に這いつくばった。
上を輝夜が過ぎていく。
当たり所を失ったその体は、部屋の入り口へとすっ飛んで行く。
「何だか騒がしいわねこの部屋……ぐはぁ!」
襖を開けた永琳の腹部に、ジャイロ輝夜が炸裂した。
そのまま二人は、きりもみしつつ廊下を飛んでいった。
◆◇◆
結局、妖夢と橙は、その大部屋で寝ることになった。
枕投げのあと、畳の上に、二十近くの布団がきちんと並べられた。
妖夢は布団の中で、目を開けている。
部屋の照明は既に消えていたが、月明かりが障子を淡く照らしていた。
見るものをほっとさせる幻想的な光景だったが、すでに、ほとんどの兎は眠っているようだった。
「……橙。寝ちゃった?」
「……起きてるよー」
妖夢が小声で話しかけると、隣の橙が布団から顔を出して、やはり小声で返す。
「妖夢も眠れないの?」
「うん」
「なんかワクワクするよね」
それはちょっと違う……いや、それもある。
だけど、
…………ぎゃぴー!!
「………………」
「どうしたの妖夢」
「いや、あの声が気になって」
…………ぴぇーん!!
それは遠くで、永遠亭の主人が、従者からお仕置きを受ける声だった。
「まだ続いてるね」
「うん。こういう主従関係は、始めて見たかも」
…………ウィー!!
お仕置きでは、何が行われているのか、さっぱりわからなかった。
もちろん、妖夢は幽々子にお仕置きを受けたこともなければ、したこともない。
「橙は藍さんに、お仕置きされたことある?」
「あるよー。悪戯したときとか。でも、藍様はあんまり怒んないかな」
「やっぱりそうか」
「あ、でも藍様が、紫様にお仕置きされることは、結構あるよ」
「そ、そうなの?」
「うん。いつも藍様は私に隠してる」
「………………」
お仕置きの理由が気になった。
藍ほどの存在がやる失態など、妖夢には想像もつかない。
「でも、同じくらい、藍様もよく紫様にお仕置きするよ。投げとばしたりして。やっぱり隠してるけど」
「ええええええ! 藍さんが紫様に!? 本当!?」
「うん。二人とも、とっても仲がいいんだよ。私と藍様とはちょっと違うけど」
「そ、そうなんだ」
「確かに仲がいいわね、あれは」
寝ていたと思った鈴仙の声がしたので、二人は驚いて、頭をそちらに向けた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「いいえ、はじめから起きてたわ。そっちの子の、親の話でしょ。
この前の夜に、二人で襲撃してきたの。永遠亭にね」
「しゅ、襲撃? 藍様と紫様が?」
これは、橙にとっても寝耳に水のようだった。
「そうよ、悪戯しにやってきたようで。もっとも狐の方は嫌々従っていたみたいだけど」
「私、全然知らなかった」
「深夜にやたら凄い術をかけて、二人で漫才しながら姫様の寝顔を見に来たのよ。ふざけた妖怪よね」
「あ! それって、先週の三日月の晩?」
妖夢も思い出した。
「えーと、確かそう。うん、三日月だったわね」
「…………やっぱり、あの時か」
嫌な記憶を思い出して、妖夢は枕につっぷした。
「どうしたの?」
「……私も、悪戯の被害にあったの。しかも、主人の幽々子様も共犯で」
「う、そうなんだ。ご愁傷様」
「どんな悪戯だったの? 教えて妖夢」
自分の知らない主らの武勇伝が出て、式の式である橙の声が興奮している。
妖夢は枕から顔を上げて、長くため息をついた。
「あんまり話したくないんだけど……正確には、私がその悪戯に気がついたのは朝起きてからで……」
◆◇◆
雀の霊の鳴き声がする。
白玉楼の目覚ましに、私は目を開けた。
すでに、日は昇っていた。
「…………あれ、もうそんな時間か」
久しぶりに、凄くよく眠れた。
まだ頭がぼやーっとしていて、体が重い。
もうちょっと眠っていたいけど、幽々子様はもう起きていらっしゃるだろう。
主人を待たせるようなことがあってはいけない。
起きなくては。
ん?
何か背中に当たるな。
と思って寝返りをうつと、
無表情の石像と目が合った。
「なあああああああ!?」
慌てて私は飛び起きた。
布団に入り込んでいたのは、私の背丈の倍はある女神像だった。
片腕を伸ばして、松明のようなものを掲げながら微笑んでいる。
もちろん私は、こんなものを抱いて眠る趣味はない。
それだけではない。部屋には様々な珍物が並んでいた。
長い柄を持つ青龍刀、三又の槍に、ハリネズミのような棍棒。
箒や物干し竿、ハエ叩きや便器ブラシなどの、家事道具。
西洋剣が刺さった岩やら、巨大な乗り物やら。
いつの間にやら、私の寝室は、古今東西の品を集めた物置と化していた。
「な、何事!」
最初は部屋を移動させられたのでは、と思った。
しかし、天井も畳も壁の掛け軸も、見慣れた私の寝室であった。
昨夜の就寝時には、いつもと同じく、整理整頓されていたはずなのだが、一晩で、何でこんなに知らない道具が散らかっているのだろうか。
と、さらなる異常事態に気がついた。
刀が無い。枕元に置いていたのに。
楼観剣も白楼剣も無くなっている。
体の内まで凍りつく。
剣士の命ともいえる刀を奪われて気がつかないとは。警護役失格だ。
いつもは物音がすれば気がつくのに、何で今日に限って。
「はっ……幽々子様!」
主人の安否を確かめなくては。
とりあえず、布団の周囲に並べられていた武器のうちから一つび、私は寝間着のまま走り出した。
「幽々子様ぁああああ!」
「あらあら妖夢、今日はお寝坊さんね」
「あああああぁぁぁ!?」
廊下の角を曲がって、いきなり現れた主人の姿に、私はこけてすっ飛んでいった。
床をごろごろと転がってから、片膝をついて、
「幽々子様! ご無事でしたか!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「お気づきにならなかったのですか! 侵入者です! 何者かが私の刀を奪って、部屋の改装を!」
「まあまあ、落ち着きなさい妖夢」
そして幽々子は、あら、と私が携えていた武器、何やらけばけばしい装飾がなされた、尖った鈍器を見た。
「妖夢は魔法スティックを選んだのね。私の予想は外れちゃったわ」
「……は? 予想?」
主人はこの事態にも慌てる様子はない。
それ以前に、予想が外れたとはどういうことだ。
別の不安が私を襲ってきた。
「幽々子様……。説明してください」
「妖夢が寝ている間に、貴方の剣を取り替えちゃったのよ」
「……誰がですか」
「藍ちゃんよ。紫の式の」
意外な名前が出て面食らったが、すぐに首を振った。
「嘘はおやめください」
「あら、どうして?」
「藍さんが、自らの意志でそんなことをするはずがありません。おおかた、幽々子様と紫様に強要されたのでしょう」
「ひどいわねぇ、信じてもらえないなんて」
「…………それで、幽々子様」
語気が荒れるのを何とか抑えつつ、慎重に問い掛けた。
「私の刀は……楼観剣と白楼剣はどこへやったのですか」
その行方だけが気がかりだった。
我が主人は、毒とも薬ともつかぬ笑顔で、
「捨てちゃった、って言ったらどうする?」
「……………………」
黙って正座し、続きを待った。
しかし、目だけは睨むのを抑えられなかった。
幽々子様は微笑を崩さない。
「怖い顔ね妖夢」
「……………………」
「この屋敷のどこかにあるわ。探してごらんなさい」
「……わかりました」
「じゃあ、朝ごはんにしましょ」
「いいえ。刀を見つけてからにします」
「あらあら、私に一人でご飯を食べろというの?」
「自業自得です。そして、幽々子様……」
私は立ち上がり、背を向けて、怒鳴った。
「二度と、こんなことを、なさらないでください!」
どうしてだろうか。
どうしてこの方は、平気でこんなことができるんだろうか。
あの剣が無くなることが、私にとってどれだけ恐ろしいことか、わかっていないんだろうか。
「幽々子様が……信じられなくなりますから」
「困ったわね。でも、私は妖夢を信じているわよ」
「…………私だって、信じたいんです」
声が震えていた。
振り向いて主人の顔を見ることをせずに、私はその場を去った。
◆◇◆
妖夢はその出来事を語り終えた。
はじめは、少し笑っていた鈴仙は、話が進むにつれて、複雑な表情になっていた。
「それで結局、剣はどこにあったの?」
「…………私の部屋」
「は?」
「一つは……楼観剣は女神像の中に、白楼剣は敷布団の下に」
何とも、人をおちょくった隠し方だった。
幽々子らしいといえばらしいが、妖夢にしてみれば、はらわたが煮えくりかえる思いだった。
自分の部屋を後回しにして、ひたすら広い白玉楼を、午前いっぱいかけて走り回ったのだ。
無論、朝ご飯は食べ逃した。
と、うーん、と考えていた橙が感想を述べた。
「宝探しみたいだね。面白そう」
「……………………」
妖夢は寝返りをうって、橙に背を向けた。
いつも枕元に置いてある、楼観剣と白楼剣が目に入る。
確かに、この二つの剣は、師から受け継いだ妖夢の宝物だった。
でも、それだけではない。
この剣を手にして、この剣を振るうことで、自分の役割を、存在を確かめることができるのだ。
だから、自分はこの剣を手放せない。
「今日も楽しかったね妖夢。明日はどこへ行く?」
「明日は帰る日だよ」
「あ、そっか。残念だなー」
「……でも、まだ私は答えが出せない」
「わかりませんでした、って言えば?」
「言えないよ、そんなこと。何とか明日に、答えを出さなきゃ」
「でも、幽々子さんは、どうしてそんなことをしたのかなー」
「……どうして、って?」
「だって、妖夢が剣を隠されたら驚く、ってわかってたはずなのに」
「だから悪戯なんでしょ」
鈴仙はそっけなく言った。
だが、妖夢は橙の言葉が引っかかった。
幽々子は何のために自分の剣を隠したのか。
やがて、それは恐ろしい想像に変わっていった。
――まさか……。
話し声がしなくなった部屋の中で、妖夢は目を開けて、じっと考えていた。
(つづく)
東の空が、青へと姿を変えていく。
晩秋の、澄んだ大気の向こう側で、低山を桃色がかった光が包んでいるのが見える。
朝露を含んだ草地の上に、得物を構えた二人の姿があった。
銀髪の少女、魂魄妖夢は、刀を脇に構えて立っていた。
右足を一歩引き、正中線を相手からそらしつつ、左半身を前に。
身じろぎしない頭の後ろに、薄紫に光る半霊がゆらゆらと浮いている。
それと向かい合う形で、赤髪の女性、紅美鈴が、棍を後手にして構えている。
両足を肩幅に開き、重心は低く堂々と。左手は開いた状態で、妖夢の間を制するがごとく突き出されている。
右手で中央を握られた棍は、彼女の背丈ほどもあるものだったが、その細腕に支えられて宙に浮いたまま、ぴくりとも動かなかった。
両者対峙したまま、動かない。
木枯らしが間を流れる。
茶色の葉っぱが舞い上がり、落ちる前に
「破ァッ!」
ブォンと音を立てて、美鈴の棍が空中を旋回し始めた。右手から左手へ左手から両手へ。
棍は高速で回転しながら空間を制圧していく。妖怪の膂力によって、はじめて可能となる芸当。
徐々に美鈴が、妖夢に向かって前進する。棍が当たれば、頭蓋は粉砕される。
覇気の混じった旋風が、妖夢の前髪を払った。
「サァッ!」
妖夢は斜めに突進した。見切った棍をかいくぐって、低い位置から切り上げる。
それを美鈴は下がりつつ、棍で打ち払う。
が、妖夢は追って離れない。
棍の間合いに誘導されぬよう、姿勢を低くしながら攻め続ける。
はじかれた刃を返さず、柄で突く。あるいは肘鉄。
至近距離での激しい攻防が続く。
少し下がれば蹴りの間合いに、さらに下がれば棍の間合いとなる。
だが、この距離での戦いは、得物を短く使う妖夢に有利だった。
機を見て美鈴は跳び上がった。
そのまま棍を大地に突き刺し、イタチのような身のこなしで、棍の上へと立った。
すかさず妖夢は棍を足裏で蹴りつける。しかし、気の走った木製の棍からは、石柱のような反応が返ってきた。
痺れかけた足を引っ込めて、妖夢は見上げた。
「下りてこないんですか」
「上がってこないんですか」
その言葉に釣り上げられ、妖夢は地を蹴って飛び上がった。
斜め上段に、楼観剣を構えて詰め寄る。
上で待つ美鈴は、接近する刀身に対して、十分に引き付けてから、さっと飛び越えた。
そのまま、右の掌底を妖夢の頭部へと放つ。
「くぅっ!」
呻いたのは、妖夢ではなく、美鈴だった。
妖夢が空中で前転しつつ、左手で抜いた白楼剣で、美鈴の手首を打ったのだ。
最初からかわされることを見越して、先の楼観剣の袈裟切りは、右手一本で行われたものだった。
二人は同時に降り立った。
「鋭!」
「噴!」
気がぶつかり合う。
振り下ろされた妖夢の刀は、美鈴の頭から一寸残した状態で停止していた。
対して美鈴の鋭い後回し蹴りは、妖夢のみぞおちに突き入れる寸前で止められていた。
呼吸二つ分の時間の後。
張りつめていた空気が消える。
美鈴は苦笑して足を引っ込めた。
「棍には自信があったんだけどなー」
「この前のヌンチャクよりは、やりにくかったですよ」
妖夢は刀を鞘に納めながら、素直に感想を述べた。
「朝から二人とも熱心ね」
両者は声のした方を見た。
いつの間にか、十六夜咲夜がタオルを手にして立っている。
「おはようございます。朝の鍛練は気持ちいいですよ。咲夜さんもどうですか?」
「あいにく間に合ってるわ」
タオルを受け取りながら誘う美鈴に、咲夜は肩をすくめながら返した。
ここは紅魔館の裏庭である。
本館に見合うだけの広さがあり、芝の手入れもきちんとされている。
風の弱い日は、夜にパーティーが開かれることもあるらしい。
もっとも、いつもは美鈴の朝練の場と化しており、妖夢はそれに飛び入りしたということになる。
静かな湖を一望しながら、素振りをするのは気持ちが良かった。
最後は美鈴と、昨日約束していた対練で締めた。
咲夜は次いで、汗をかいた妖夢にもタオルを手渡してくれた。
「貴方も毎朝やってるの?」
「はい。普段は対練する相手がいないけど。今日は美鈴さんが付き合ってくれたから」
「私で良ければいつでも付き合うわよ」
「ありがとう」
「ふうん、これも修行の旅らしいってことかしらね」
妖夢はふと、聞いてみたくなった。
「咲夜は、ナイフ投げを鍛えたりしないんですか?」
「わざわざ時間を割くことはしないわね。実践の機会はいつもあるわけだし」
「うう、もう少しその数を減らしてはいかがでしょうか」
「なら貴方も、勤務中の居眠りや不用意な発言に気をつけることね」
妖怪の美鈴の泣き言を、人間の咲夜は軽くあしらった。
「まあ、ナイフ投げはメイド作業の一環としては役にたってるけど、私にとっては瑣末なものでしかないわ。
……でも、貴方にとって、剣は違うようね」
「はい」
妖夢は肯定した。
彼女にとって、師から受け継いだ二つの刀は特別な意味を持つ。
幽々子を守るのにふさわしくなるためにも、剣の修行は日々欠かせないし、いつも手元に剣を置いていた。
「これが、私の取り柄ですから」
「そう。ところで、もう片方の旅人はやらないのかしら」
「あ、そうだ。橙もそろそろ起こさなきゃ。後二日しかないんだから、今後の相談もしないと」
失礼します、と妖夢は走り去っていった。
残った二人はその背中を見送る。
駆ける音が消えてから、咲夜はぽつりと聞いた。
「で、どうなの」
「何がですか?」
「手合わせしてみた感じよ」
「強いですよ、間違いなく。興味があるんですか?」
「そうじゃないけど。でも貴方の口ぶりからすると、まだ上がありそうな気がするわね」
「そりゃあまあ確かに。外にはあれくらいの使い手はごろごろいましたよ。
もちろんもっと強いのも。みんな妖怪でしたけど。よっと」
地面に刺さった棍を抜いて、美鈴は土を払った。
「でも、ここじゃあそんな剣客には、会う機会はありませんよ」
「ぬるい、ってことかしら」
「平和、ってことですってば。物騒ですよ咲夜さん」
苦笑してから、そこで美鈴が思い出したように瞬きした。
「あれ? 咲夜さん、朝食の準備は」
「もちろん今から……あ」
咲夜の手の中に、開いた懐中時計が現れた。
ふむ、と口元に笑みが浮かぶ。
「いいこと思いついた」
◆◇◆
正面ロビー、セントラルホール、談話室、ダンスホール、メイドの寝室、その他諸々。
紅魔館には部屋が多い。そして、未使用の部屋も少なくない。
そのうちの一部屋を、妖夢と橙は客室として借りていた。
長い間使われていなかったとはいえ、掃除は行き届いていて、埃もなければ変な臭いもしなかった。
おかげで、慣れない二段ベッドでも、妖夢は十分な睡眠を取ることができた。
そして、橙の方はというと……
「橙! 起きて!」
二段ベッドの上で、布団にくるまり、丸くなる橙を、妖夢は揺すった。
が、橙は向こうを向いたまま、起きようとしない。
「むにゃむにゃ……もうちょっと~」
「だめ! 今すぐ起きなさい。ご主人様より早く起きるのが、従者の務めでしょ。早起きしなきゃ」
「んー……紫様はまだ寝てるよ~」
「藍さんはいつもこの時間は起きているでしょ。目が覚めないなら、私が稽古をつけてあげようか」
「……稽古?」
「そう、これも修行の一環よ」
「私もよくやってるよー。藍様とー」
藍の名が出て、妖夢は少し興味がわいた。
「橙と藍さんは、いつもどんな鍛錬をしているの?」
「んー……えーとねー」
橙はごろりと体を横転させて、半分閉じた目を向けてくる。
「えーと、片方が片方を追っかけて、尻尾を摑まれたら負けなやつとかー」
ふむふむ。片方が片方を追っかけて、尻尾を摑まれたら負け……。
「って鬼ごっこじゃない!」
「鬼ごっこだけど、難しいんだよ。妖夢もやってみないー?」
「やるわけない。私には尻尾が無いし……じゃなくて、修行と遊びは違うの!
ちょうどいい機会だから、私がやるのを見たら……」
「ちょっといいかしら、お二人さん」
突如現れた第三の声に、妖夢はギョッとして振り向いた。
部屋の扉の前に、咲夜が立っている。
相変わらず気配をみせない。
「貴方達二人に手伝ってもらいたいことがあるんだけど」
「私達に?」
「そう。とりあえず、一分でこれに着替えて。そのあと顔を洗ってきなさい」
事務的な口調で、咲夜が妖夢に手渡してきたのは……
「って、これって」
「あと55秒」
「手伝うのは構わないけど、よりによってこれに着替えなくても」
「あと51秒」
「なあに? なんなの?」
眠い目をこすりながらぼやく猫にも、メイド長はブツを差し出す。
「これに着替えてってこと。あと46秒」
それを受け取り、橙はようやく目が覚めたようだった。
「朝ごはんは?」
「これから作るのよ。貴方達が」
「えっ!」
「早くしないと時間切れになるわよ。あと39秒」
「ちなみに、その時間が切れると?」
渡された服を広げながら、妖夢は聞いた。
「間に合わなければ、私が着替えさせてあげるのよ」
「………………」
「時を止めてね」
「……なっ!?」
その意味がわかって、妖夢の顔が赤くなった。
咲夜はくるりと背を向ける。
「…………あと35秒」
「橙! 着替えるよ!」
「う、うん!」
二人は慌しく服を脱ぎ始めた。
◆◇◆
紅魔館のメイドの朝食は、普段はバイキング形式となっており、その料理は、食事係が事前に早く起きて、準備することになっている。
そして今回、妖夢と橙は、咲夜の要請で、その食事係を一日務めることになった。
もちろん、紅魔館で行われる雑事は、全てメイドの役割。
そして、メイドの役割ということは……
「なんでこうなっちゃうんだか……」
紺色の半袖ワンピース。白布のエプロン、頭にはホワイトブリム。
慣れないメイド服に身を包んだ妖夢は、軽くため息をついた。
ちなみに、結局着替えは、途中で白旗を上げることで咲夜に手伝ってもらい、完了することになった。
短いスカートは意外に動きやすそうではあったが、腰に鞘が無いというのは、どうも落ち着かない。
「あら、似合ってるわよ。橙よりは」
橙もメイド服に着替えていた。
紅魔館で働く妖精の体格も様々なので、橙に合うサイズのメイド服もあった。
もっとも、スカートの下からはやはり、尻尾が二つはみ出ていたが。
さらにいうなら、橙のはしゃぐ仕草や雰囲気を見れば、メイドというよりは……。
「園児ね」
「えんじ?」
「子供っぽいってことよ」
「むむ~」
橙が不満そうに口をへの字にする。
咲夜は微笑した。
「ただし、それは貴方が未熟だからよ。成長すれば、貴方もその服が似合うようになるわ」
「本当?」
「ええ。きっと、貴方の主も見直すはずよ」
「よーし! 頑張るぞー!」
メイド服の橙は、瞳を燃やしながら、握りこぶしを作った。
――ははあ。やはり、橙に言う事を聞かせるためには、主の藍さんの名を使うのがいいのかも。
簡単に乗せられている橙を見て、妖夢は咲夜の話術に感心しつつ、そんなことを思った。
「で、何をすればいいの?」
「それは、貴方達が考えなさい」
簡潔にして明瞭な答えだった。
が、話の肝心な点が抜けていた。
「いや、考えろって言われても」
「私も手伝うし、アドバイスもする。ただし、明確な指示は出さないわ。
館内メイド四十人分の朝食を、貴方たちが考えて用意するのよ。頑張りなさいね」
「ええ、四十人!?」
「ちなみに朝食の時間は決まっています。あと一時間以内で、よろしく」
「また時間制限!?」
「時は金なり」
彼女が言うと皮肉にしか聞こえない。
メイド長は、置時計をキッチンの高い所に置いた。
そして、うろたえる二人の前を歩きながら、人差し指を立てて、
「いいこと?誰かにご飯を用意するというのは、命の糧を用意すること。
その人の真心が、与える相手の心身を育むの。これほど大事な仕事が、他に考えられるかしら?
加えて、その日に何を用意するのか、その度に頭をひねらなくてはならない。
奉仕の精神。創意工夫。従者に必要なことを知るのにちょうどいいでしょ
貴方のご主人様に用意するつもりでやってみなさい」
言われるまでもない、と妖夢は言い返そうとしたが、横に立つ橙のことを考えて思い直した。
出立前に紫から、自分こと魂魄妖夢は橙の先輩であり、手本にするべし、ということを言われていた。
ここで、橙に自分の働きを見せることができれば。
「橙はご飯を作ったことがある?」
「ない……あ、お寿司なら作ったことがあるよ! 海苔巻とお稲荷さん!」
「お寿司か……」
果たしてここの朝食に向いているかどうか。
いや待て。それなりの利点がある。
「そっか。いなり寿司や、おにぎりなら橙も手伝える」
「うん! やろうよ、妖夢!」
「残念ながらできないわね」
「えっ!」
二人は揃って咲夜を見た。
「ど、どうして?」
「紅魔館は基本的にパン食。すなわち、お米の蓄えがないのよ。ごめんなさいね」
「がーん」
橙がショックの声をあげる。
妖夢にとっても、思わぬ話であった。
白玉楼での余興というか、かなり頻繁に、幽々子は妖夢に食事を作らせることがあったので、料理には慣れている。
だから、いつもの幽々子に朝食を用意するようにすればいい、と気軽に考えていたのだ。
いくらメイドの人数がいようと、底なしの胃袋を持つ幽々子に食べさせる量と比較すれば、さほど難問とは思わなかった。
しかし、洋食となると話は変わってくる。
「咲夜。とりあえず材料を見せて」
「もちろんそのつもりよ」
咲夜は二人を案内する。
台所の奥は紅魔館の食料庫になっていた。
扉を開けると、ひんやりした空気に乗って、様々な生の食べ物のにおいが漂ってくる。
冷却の魔術がかけられており、奥へ行くほど室温が下がる仕組みになっているそうだ。
「まあ、お米はともかくとして、たいていのものなら揃っているといっていいわ。言ってくれれば私が取り出してあげる」
妖夢にとっては、ありがたいハンデだったが、やはり時間が足りない。
主食はパンだとして、おかずは何品用意できるか。洋風の物、おまけに大量に作れるものとなると、少し考える時間がほしい。
できれば橙に手伝ってもらいたいが、どこまで頼りになるだろう。
諺では、猫の手も借りたい、とはいうものの、いざとなると使い道が難しかった。
「パン食……おかず……四十人……橙も手伝える……何かいい方法は……」
つぶやきながら、顎を指ではさみ、妖夢は難問を解こうとする。
橙も同じポーズで考えはじめた。
その顔が、ぱっと輝いた。
「妖夢! いいこと思いついたよ!」
「……うーん。どうするべきか。あーでもないし、こーでもない」
「妖夢ってば!」
「……え。なに、橙?」
「だから! いい方法を思いついたの!」
「本当? ご飯じゃなくてパン、おかずも考えて、橙も手伝えるものなんてある?」
「あるよ! サンドイッチ!」
「ああ! そうか!」
名案だった。
それなら、おかずは簡単な具となるし、橙が手伝うのもたやすい。
妖夢は咲夜の顔を見た。
「そうね。サンドイッチという案は悪くないと思うわ」
メイド長も同意してくれた。
「後は、具をどうするか」
「卵とか、ハムとかじゃないの? 藍様もたまに作るよ」
「ありきたりの具材では、工夫が足りないといえるわね」
「うーん」
いつも用意されているというバイキングに、劣らぬサンドイッチを考えなくてはならない。
咲夜の提起した問題に、妖夢は考えたすえ、うなずいた。
「……とりあえず、サンドイッチなら、まだ時間はある。この三人で案を出し合うことにするわ」
「はーい! マタタビ!」
「却下。真面目に考えてよ、橙」
「…一度食べて見たかったんだけど。じゃあ鰹節!」
「それは、おにぎりの具でしょ」
「あら面白いんじゃないの?」
「本気で言ってるの? 咲……」
「その服でいるときは、メイド長と呼びなさい」
「……メイド長」
「よろしい。他の具材の隠し味にしてみたらどうかしら。鰹節なら、確かまだ残っていたはずよ」
鰹節は、一年のうちに数回、たまに里で大量に売り出される。
出所については、妖夢には想像もつかないが、外界から入って来るものらしい。
紫が言うには、原料は海で泳ぐ魚、だそうな。
白玉楼では、主に味噌汁のダシに使われる。
「鰹節だけじゃなく、納豆もあるのよ。他に、醤油、みりん、漬け物、梅干……」
「ここって洋食がメインじゃなかったんですか?」
「たまにお嬢様が食べたくなるものだから」
それだけ和食の材料があって、何でお米がないんだろうか。
貴族は納豆をパンで食べるのだろうか。
妖夢は一瞬深い疑問に襲われたが、頭を振ってそれ以上考えるのをやめた。
今はサンドイッチの具の話だ。
「他には……あ、甘いのはどうかな」
「具体的にどんなものかしら」
「えーと、ジャムとか」
「それなら、たっぷり用意してあるわ、ここではよく使うから。他にはピーナッツバターとか……」
「あ、じゃあ、果物はどう!?」
橙が手を上げて発言する。
妖夢もなるほど、とうなずいた。
「果物。いいかもしれない」
「朝のフルーツは金。朝食として、フルーツサンドは優秀ね」
「そっか。朝食風のサンドイッチだったら、何となくイメージがつかめるかも」
「チーズサンドイッチ……オムレツサンドイッチというのも面白いわね。野菜の組み合わせだけでもかなりの種類が……」
「あれれ、咲夜さん、楽しんでない?」
「メイド長よ。そして、お料理は楽しく、が基本。覚えておきなさい」
結局のところ、しばし三人は夢中になってアイディアを出し合うことになった。
「よし! とりあえず、これでメニューは決まり!」
用意しようと決まったサンドイッチの具は、なんと十種類。
時間は無駄にできない。
橙が時計を見上げた。
「あと50分だね。でもこんなに材料があるから、切るだけでも時間がかかっちゃうんじゃないかな」
「おっほん。橙、私を誰だと思っているの?」
「え、妖夢は妖夢だよ」
「そうじゃなくて、私が刀の使い手だって忘れてない? 刃物の扱いならお手のものよ」
「包丁も?」
「もちろん。はぁ!」
空中に放られた食パンの前で、妖夢の右手が、ひゅん、ひゅんと何度も動く。
まな板に落ちた時には、綺麗に切られたサンドイッチ用のパンとなっていた。
耳もしっかり取れている。
「どう?」
「わあ、お見事!」
包丁を構えてポーズを取る妖夢に、橙は手を叩いて喜ぶ。
「じゃあ、蜜柑はできる?」
「もちろん」
「それっ!」
橙が剥いたオレンジを二つ、手から放った。
再び包丁一閃二閃。オレンジは鮮やかに切られた。
「いっちょうあがり」
「妖夢かっこいい!」
「まあ、それほどでも」
「じゃあ、あ~ん」
「?」
「あ~ん」
「どうしたの、口を開けて」
「もー、妖夢気づいてよ。藍様は横で私が料理を見てたら、いっつも口に投げてくれるの」
「ああそう……よっと」
「ぶわ」
妖夢の投げたオレンジは、橙の口ではなく、鼻に当たった。
ずり落ちそうになる一切れを、橙は上手に口に滑らし運んで食べた。
「もぐもぐ。妖夢は包丁は凄いけど、投げるのは、まだまだだね」
「そんなことは、どうでもいいの。次は梨ね」
「あら、私には投げてくれないの?」
「は!?」
誰が言ったか、一瞬信じられなくて、妖夢は両の眼をむいた。
咲夜がとぼけた顔で立っている。
「…………」
「…………欲しいの?」
「…………」
「……よっ、あ、しまった!」
妖夢の投げた蜜柑は、あらぬ方向に飛んでいく。
しかし、咲夜は時を止めて移動する。
放られたオレンジを着地点で待ち構え、腕を組みながら少し上を向いて、口を最小限に開いただけで受け止めた。
顔も姿勢も一切ぶれない。なんとも瀟洒なキャッチングである。
「もぐもぐ。……どうかしら?」
「凄おおおおおお!」
「ありがとう。ちなみに、残り時間はあと45分になったわね」
「おおおおおお!?」
二人の感嘆の声が、途中で悲鳴に変わる。
「こんなことしてる場合じゃなかった!」
「本当ね」
「って咲夜もでしょ!」
「落ち着きなさい。とりあえず、下ごしらえの方は貴方に任せるわ。
私と橙は、具とサンドイッチの作成を担当する。それでいいかしら?」
「…………いいわ」
急にてきぱきと予定を立て出すメイド長を、妖夢は納得がいかない目で見ながら、同意した。
ふざけているのか真面目なのか天然なのか、さっぱり分からなかった。
咲夜が橙に調味料の混ぜ方を教えているのを横目に、妖夢は気を取り直して包丁を動かし始めた。
「この一個で終わり!」
「間に合ったわね」
橙が最後のサンドイッチを重ねる。
三角や四角で積み上げられた、サンドイッチのお城の完成だった。
手間が掛かる作業を、エキスパートの咲夜が裏技を駆使してやってくれたので、間に合ったといえる。
もちろん、妖夢も橙も頑張った。
途中で、橙がつまみ食いをして妖夢に叱られたが。
「いっぱいできたね!」
「でもこれ、いくつあるんだろう」
「四百はあるわね。館内のメイド一人につき十個食べられる計算になるわ」
「つ、作りすぎたんじゃないかな」
妖夢自身は、食べても五つで十分だった。
十個となれば、朝食としては、けっこう重たい。
「大丈夫。門番隊に、差し入れとして持っていくから」
「門番隊って外の人達?」
「そうよ。美鈴は大食いだから、ちょうどいいでしょ」
「じゃあ、外で食べようよ!」
橙の発言に、妖夢と咲夜は顔を見合わせた。
「お天気がいいから、きっと楽しいよ!」
「いいかも……」
「しれないわね」
「でしょ!」
まさにお日様の笑顔を見せる橙。
しかし、妖夢と咲夜の顔は複雑だった。
「あれれ? どうしたの。賛成じゃないの?」
「賛成だけど……」
「だけど?」
「これ、外に運ばなきゃいけないわね」
「あっ…………」
「椅子とかも用意しないと……」
「………………」
橙が固まった。
咲夜は時計を見た。
「あと五分! 急ぐわよ二人とも!」
「はい!」
◆◇◆
お天気は晴れ。
紅魔館の誇る庭に、大きなシートが敷かれた。他には椅子が十脚に丸テーブルが二つ。
大きな長テーブルには、たくさんのサンドイッチとお皿、お茶のポットが用意されている。
日勤と夜勤、門番隊とメイドが入り混じり、ちょっとしたパーティーのようだった。
いつもは別々に食事を取るので、あまり無い団欒の機会を皆楽しんでいるようだ。
そんな中、三人がつくったサンドイッチは好評だった。
「すごい! これ本当に美味しいです!」
門番隊隊長の美鈴が夢中で頬張っているのは、焼き豚に中華風のタレをつけたサンドイッチだった。
喜んで食べているのは、主に彼女だけだったが。
メイド服の妖夢と橙も、皆との会話に参加していた。
例えば妖夢と食事係のメイド。
「いつまでメイドをやっているの? 私が色々教えてあげるよ」
「あ、ありがとう。でも、今日の午前中でもう出るつもりなの」
「そうなの、残念。また遊びに来てね。その時は、一緒に朝食を作りましょ?」
「……うん。きっと来るわ」
橙と門番隊。
「この卵に鰹節って、貴方のアイディアなの?」
「そうだよ。美味しい?」
「うん。このチーズサンドイッチもいけるわね。青ジソとお味噌が混じっていて」
「それは咲夜さんが考えたの。こっちは妖夢。そぼろを混ぜたキュウリが挟んであるよ」
たくさんあったサンドイッチは、あっという間に無くなろうとしていた。
「そう言えば、貴方たち、次はどこに行くつもりなの?」
「妖夢ー? 次はどこに行くのー?」
「…………本当は朝に決めようとしたんだけど」
朝食作りをさせられたことを恨むわけではないが、なんとなく咲夜の方を見た。
その咲夜は、ピーナッツバターにチョコレートのサンドイッチを手に、意見を出す。
「そうね。別に、自分より優れた従者に絞る必要はないんじゃないかしら」
「どういうことですか?」
「人の振り見て我が振りなおせ。欠点だらけの従者を観察しても、勉強できることはあるでしょう 」
「と言われても、駄目な従者なんて思いつかない……あ」
「何か心当たりが?」
「言ったら怒られそうだけど……」
頭に浮かんだのは、知り合いの死神だった。
厳密には従者というより、上司と部下なのだが、妖夢としては参考になりそうに無いタイプであった。
「小町さん、今日は仕事しているかな」
「今日もサボって遊びに出てるかもしれないわね。この前は、中有の道で見かけたけど」
「えっ! 中有の道!?」
橙の耳がぴんと立つ。
鼻も興奮でふくらんでいる。
「行こう、行こうよ妖夢!」
「橙は遊びたいだけでしょ。でも、流石に三途の川まで行く気にはならないし……」
「ねぇ行こうよ! 当てがないんだったら行こう!」
「………………」
橙の目にキラキラとお星様が浮かんでいる。
もはや遊ぶことしか頭にない様子だ。
咲夜はクスクスと笑って
「ここで泣かれたら大変ね、妖夢」
「…………はあ。しょうがないなあ、もう」
「ってことは!?」
「わかったわ。食べ終わったら支度して、中有の道に出発しましょ」
「やったぁ! 妖夢最高!」
バンザイしながら飛び跳ねる橙に、妖夢も苦笑するしかなかった。
だけど、これはあくまで修行の旅。
はしゃぎすぎないよう、ちゃんと言い聞かせておかなくては。
「忘れちゃだめよ、橙」
「何を?」
「何をじゃないでしょ。旅の目的は修行なんだからね」
「うん!」
「本当に、わかってる?」
「うん! 金魚がすくえるといいね!」
「わかってないでしょ!」
「いだだ!」
橙の丸いほっぺたを、妖夢は軽くつねった。
◆◇◆
それからしばらくして、妖夢と橙は、玄関前で咲夜の見送りを受けていた。
結局、玄関まで見送りに来てくれたのは咲夜のみだった。
メイド達は通常業務で大忙し。でも彼女達の、サンドイッチのお礼を言っておいてほしい、という言伝が、咲夜から伝えられた。
「半日とはいえ、なぜか感慨深いわね」
「そうですね」
二人はすでに、メイド服から元の服装に着替えている。
なんと、服は昨日着替えたのと合わせて、いつの間にか洗濯までされていた。
どうやって乾かしたのか聞くと、昨晩のお詫びにパチュリーが魔法でやってくれたらしい。
礼を言おうとしたが、会う気はないそうだ。
咲夜が言うには、恥ずかしがっているそうな。
「はい。これはお弁当」
咲夜が風呂敷を橙に手渡してきた。
大きめのおにぎりが、四つ入っていた。
「鰹節と梅干だから」
「お米は蓄えがなかったんじゃないの?」
「そう。稀少品なの。だから、よく味わって食べてね」
鰹節が橙の好みだと話したのは、朝食の前だった。
咲夜はこれをいつ作ったのだろうか。
ずっとサンドイッチ作りを手伝ってくれていたのに。
「やっぱり凄いんだね、咲夜さんは」
「私もまだまだよ。例えば昨日のハンバーグ」
「え? レミリアさんは喜んでくれたじゃない」
「そのあと、お嬢様に怒られちゃったのよ。今度からちゃんと最初に言いなさいって」
「ああ、そうなんだ。でも言わなきゃバレなかったんじゃないの?」
「チッチッ……それはルール違反よ」
立てた指を左右に振りながら、咲夜は言った。
二人がきょとんとする前で、優しく、だが誇り高く、
「ご主人様に満足していただくこと。でも、ご主人様の心を裏切るようなことはしてはならない。
従者の自分にとって何より大切なのは、仕えるべき相手です。忘れないでね」
「私も藍様が大好きだよ!」
「そう。それでいいのよ」
咲夜は橙の頭を撫でる。
そして、その完全で瀟洒な笑顔がこちらを向いた。
妖夢もうなずく。
改めて確認したことだが、大事なことだった。
従者にとって大切なのは、仕えるべき相手。
幽々子のために、この旅でようかんの極意を知り、彼女に認めてもらうのだ。
自分が従者として相応しい存在だと。
「お世話になりました」
「ええ。また何かあったら、いつでもどうぞ」
「ばいばーい!」
次なる目的地は中有の道。
二人は手を振りながら、紅魔館を立ち去った。
咲夜も二人が見えなくなるまで、小さく手を振ってあげた。
「さて、仕事に戻りますか」
「あの二人帰ったの?」
後ろから、陰鬱な声がかけられた。
「はい、パチュリー様も見送ってくださればよかったのに」
「……………………」
扉の影から出てきたパチュリーは無言。
咲夜もそれ以上追求はしなかった。
「朝食はいかがですか? あの二人の特製サンドイッチがありますが」
「食べる。でもその前に、聞き忘れた事があったわ。昨日のハンバーグって、ピーマンが隠し味だったのね?」
「ええ、そうです」
「……おかげで、しばらく眠れなかったわ」
パチュリーが半眼でぼやいた。
「パチュリー様にも、何か不都合がありましたか?」
「ええ。夜中までレミィに自慢されてたのよ。『ついに私はピーマンを克服したのよ、パチェ』って」
「まあ……」
「あんなの克服した内に入らないと思うけどね。まあ、嬉しそうだったんで、うなずいてやったけど。なかなか話が終わらなくて」
「そうでしたか」
「なんだか貴方も、嬉しそうね」
「きっと天気がいいからでしょう」
咲夜は空を見上げる。
今日は白い雲の多い空だった。
◆◇◆
妖怪の山の裏側にある、中有の道。
ここは幻想郷の代表的な遊び場の一つである。
三途の川へと続くこの道は、露店が多く出ており、その店主らは、全て地獄卒業を控えた亡者達である。
といっても雰囲気が暗いわけではなく、死者も生者も、妖怪も遊びに来るので、毎日賑やかなお祭りの空気が絶えない。
その騒がしい道を、半人半霊の剣士と、式の式の妖怪猫が手をつないで歩いていた。
というより、猫が走り出していなくなるのを、半人が引っ張って止めているというのが正しい。
「妖夢! 金魚すくいやろうよ!」
「ダメ。遊びに来たんじゃないんだから」
橙の誘いを妖夢はそっけなく切り捨てた。
ダメだと言われた猫の子は、世界が終わったかのような表情になった。
「……まあ、その前に、小町さんが見つかったら、遊んでもいいけど」
「でも、今日はお客さんが多いから見つけにくそうだよ」
確かに、今日は普段より、さらに人出が多かった。
幅広いはずの通りが、ごちゃごちゃとして進みにくい。
手を繋いでなければ、すぐにはぐれてしまいそうだ。
「だから、あちこち探すよりも、一箇所で待った方がいいと思わない?」
金魚すくいの出店を指差して、橙が妖夢の手をくいくいと引いた。
へんてこな理屈だった。
が、ごねられても面倒なので、妖夢は妥協することにした。
「しょうがないわね。でも、小町さんを探す、って目的を忘れちゃだめよ」
「わかってるって! おじさーん! 金魚すくい一回!」
「はいよ」
凄みのある強面に、愛想のいい笑顔を浮かべて、店の主人は金魚すくいのポイを取り出した。
橙はポケットから銭を取り出して、慣れた手つきでポイと交換する。
早速しゃがんで金魚をすくおうとする橙に対し、妖夢は立ったまま通りの方を見張っていた。
小町の特徴は、大きな鎌を担いだ、背の高い赤髪の女性。
となれば嫌でも目立ちそうなものだが、今のところ人ごみの中には見当たらない。
「ああ! 破けちゃった!」
「残念だったね、お嬢ちゃん」
「むううう、もう一回!」
橙は再び挑戦しているようだ。
おそらく、藍からお小遣いはもらっているのだろう。
妖夢は気にせず、通りに視線を走らせ続けた。
「残念。破けているね」
「もう一回!」
「…………」
妖夢は気にせず、中有の道に死神の姿を見つけようとした。
「はい残念」
「もう一回!」
「…………」
「残念。またいらっしゃい」
「もう一回!」
「…………」
「うーん残念。さあどうする?」
「もう一回!」
「…………」
「ああ、ダメだね。まだやるかい?」
「もう一か……!」
「待った橙!」
たまらず、妖夢は振り向いた。
橙は悔し涙まで浮かべて、ポイを手に妖夢を見上げている。
「そんなにムキにならなくても、もういいでしょ」
「やだ!」
「諦めて、小町さんを探しましょ」
「じゃあ、妖夢やってみて!」
「私が?」
突き出されたポイを、妖夢は受け取った。
ポイとは金魚をすくう小道具であり、取っ手のついた円形の木の枠に、薄く紙が張ったものだ。
橙に引っ付かれながら、妖夢はポイを手にしてしゃがんだ。
水槽を覗く。
「……は?」
目が点になる。
泳いでいるのは金魚……ではなかった。
赤や金色に茶色、元気そうに泳いでいるように見えて、それらは全て金魚ではなくて、
「これ、金魚の霊じゃないの!」
「おう、そうだよ」
店のおっちゃんは、あっさり認めた。
「それじゃあ、紙ですくえるわけないですよ」
「いや、お嬢ちゃん、それは誤解だ。確かに、中にはただの紙で客を引っかけようっていう阿漕な店もある。
だが、この店で出してるポイの紙は特別性で、ちゃんと金魚はすくえるようになってるぜ。
そっちの猫耳のお嬢ちゃんが取れないのは、腕がなっちゃいないだけだ」
「むむむ言ったな! でも、今度挑戦するのは、私じゃなくて妖夢! きっと金魚をすくってくれるよ」
自身に満ちた表情で、橙が妖夢に期待する。
妖夢自身、相手が本物の金魚ならともかく、その霊となれば、真剣味が変わってくる。
幽霊を管理する白玉楼の庭師としては、金魚の霊一つすくえなくては幽々子に申し訳ない。
妖夢はポイを構えた。
剣を手にする感覚で、精神を集中させる。
心を落ち着かせ、ポイと一体化しようとする。
「えい!」
心を決めて、ポイを水槽に入れた。
近付く金魚を、紙の部分で水中から引き上げる。
「よし……ってああ」
わずかに持ち上がった金魚は、途中で破けた紙から逃げてしまった。
「ああっ、惜しい!」
橙が残念な声をあげる。
穴の開いたポイを返しながら、妖夢もうーん、とうなった。
あと一歩足りなかった。
だけど、もう少しやればコツはつかめそうな気がする。
――もう一回やってみようかな。
自分の銭を出そうと、妖夢がお財布を取り出そうとしたところ、
「いよっと」
横に座った別の客が、無造作に水槽にポイを入れた。
妖夢と橙が唖然とする前で、軽々と金魚の霊をすくう。
「おお。活きのいいやつだね。あとで逃がしてやろう」
「困りますよ、お客さん。本職の方に出られちゃあ、商売はできません」
「ごめんごめん。この一匹でやめにしとくよ。まあでも、お前さんの真っ当なやり方なら、近いうちに店をたたむことができるんじゃないか。
もちろん、いい意味で」
「へへぇ。本職さんのお言葉なら、有り難くちょうだいしたいところですね。
もっとも、最初にお世話になったのはずっと昔で、こんなべっぴんさんの死神じゃ、ありやせんでしたが」
「あはは、口が上手いけど、ほどほどにしておきなって。また舌を抜かれることになるよ」
「そりゃご勘弁」
和やかに店の主人と話しているのは、鎌こそかついでないものの、赤髪を二つ結んだ背の高い女性だった。
まさに、妖夢が探していた人物だった。
「小町さん!」
「おや、誰かと思えばお前さんだったか、妖夢」
三途の水先案内人、小野塚小町は、金魚の入った手桶を主人から受け取っていた。
「ど、どうしてここに」
「ははっ。お前さんまた眼をおかしくしたのかい? ここは金魚すくいの店じゃないか。ほれ」
手桶の中で泳ぐ金魚を見せながら、小町はからからと笑う。
妖夢は赤面した。
「二人とも、ここには遊びに来たのかい? お前さんの主人の姿が見えないが」
「いえ、私達は小町さんを探しにきたんです」
「あたい? あたいに、何か用があるの」
「ええ」
「じゃあ、話を聞こうじゃないか。……それじゃまた」
「はいまいど。またのお越しを」
店主に挨拶して、三人は通りに出た。
小町はうーん、と通りを見渡しながら、
「話をするのはいいけどさ」
「なんですか?」
「その前に、お腹が空かないかい? 食べながらの方がいいだろう。安月給の死神だけど、奢ってあげるよ」
「わあ! ありがとうございます!」
橙は歓声を上げた。
◆◇◆
「ほほう、なるほど。そういう目的でか」
三人は中有の道の中程にある、茶店に移動していた。
屋外に長椅子がいくつか用意されており、その一つを借りている。
並んだ三人の椅子には、席料代わりに買った番茶と、小町のオススメ店の大盛り焼きソバが三人分。
しかし、小町はおにぎりを食べていた。紅魔館でもらった苦手な梅干入りのを、橙があげたのである。
あのメイド長が握ったと聞いて、小町は物珍しそうにそのおにぎりにかぶりついていた。
「従者の修行の旅とは、面白いことしているね。でも、なんであたいなんかに? 参考になるとは思わないけどねぇ」
「はい。参考にならないところが、参考になると思ったんです」
「ぐむ」
おにぎりを喉に詰まらせかけたらしく、小町はすぐにお茶を飲む。
「んぐんぐ……ふはぁ、危なかった。おにぎりで、ぽっくり逝くところだった。
こんなんで四季様に裁かれでもしたら、何を言われるかわかったもんじゃない」
「………………」
「あー、少しは笑ってくれると有り難いんだけどねぇ」
「あ、すみません」
冗談だと気がついて謝る妖夢に、小町はますます困った笑みになる。
「つまり、私はお前さん方の反面教師ってやつに選ばれたわけか」
「そうです、失礼ながら」
「……まあ、自分でも、できがいい従者だって思っているわけじゃないけどねぇ」
「今日もサボりですもんね」
「おっと、こりゃまいった、その通り! ……と言いたいところだけど、今日は休暇なんだよね実は」
「え、そうなんですか?」
「うん。ちなみに、あたいの上司も休暇。しかも先週から家で寝込んでいる」
「寝込んでる?」
それこそ、何かの冗談ではないかと思った。
閻魔ほどの存在が寝込むとなれば、ただ事ではない。
「大丈夫なんですか?」
「本人は風邪とか言っていたけど……。まあ、あの方のことだから、働きすぎか何かじゃないかね。
いい薬になると思うよ。今日あたり、またお見舞いにうかがおうかと思ってる」
閻魔も風邪をひくんだろうか、と妖夢は首をかしげた。
「ところで、従者として、あたいのどこが足りないと思ったんだい?」
「仕事をサボるところです」
「…………まあそうだね。でも、さっきも言った通り、今日は休暇だよ。あたいだっていつもサボっているわけじゃない」
息抜きは必要だけどね、と死神は幸せそうにおにぎりを食べ終わった。
悪く言われても気にせず、サボることを悪びれる様子も無い。
このさっぱりした性格が、彼女の特徴だった。
「でも、やっぱり不真面目なのはいけないと思います」
「あたいに言わせれば、お前さんはもう少し不真面目になった方がいいと思うけどねぇ」
「必要ありません」
「うんうん。従者失格なあたいが教えることなんて何一つないんだろう」
嘆かわしい、と小町はわざとらしく額に手をやっている。
だが、妖夢はそれをフォローするつもりはなかった。
「せっかく魂をすくうコツを教えようかと思ったんだけどなぁ」
その一言に、大盛り焼きソバと夢中で格闘していた橙が反応する。
「教えて教えて!」
「お、素直だねお前さんは。教えてあげよう。……いや、待てよ」
小町はニヤリと笑いながら、
「どうだい妖夢。この橙と金魚すくい対決をしてみないかい?」
「金魚すくい対決? どういう意味ですか」
「あたいはこの子にちょっとアドバイスをする。その後は一切手伝いをしたり、口を出したりはしない。
そういう条件で、どちらが多く金魚をすくえるか競争してみるってことさ」
小町の提案は不可解なものだった。
いくらなんでも、先ほどいくつもポイに穴を開けた橙に、自分が遅れをとるとは思えない。
自分の方が手応えがあったし、あのまま続ければ一個ぐらいはすくえたと思う。
それに……、
「その勝負をすることにどんな意味があるんですか」
「参考にならないあたいのヒント、ってものが手に入る。
受けるか受けないか? やっぱり私の教えなんて必要ないかねぇ」
「やります」
挑発的な小町の口調に、妖夢はひるまず答えた。
ここで引き下がる気はしない。
小町のアドバイスがどんなものかはわからないが、橙に負けない自信もあった。
「んじゃ、橙。お前さんはやるかい?」
「もちろん! 妖夢、勝負だよ!」
橙もやる気満々の声をあげた。
◆◇◆
二人の金魚すくい対決は、先ほどの店を借りて行うことになった。
並んだ水槽の中に、金魚の魂がふよふよと泳いでいる。
しゃがんだ妖夢の左では、同じく橙が水槽をのぞきこむようにしている。
その手にはポイが三つ。妖夢が手にしているものと同じ数である。
「制限時間は三分。手持ちのポイが全てダメになったら、その時点でやめ」
二人の後ろに立つ小町が、ルールを説明する。
何事か、と道の通行客も、かなり集まってきていた。この観衆の前で対決するとなると、いよいよ負けられない。
妖夢は下腹に気を沈めた。
「時間内に多く金魚をすくった方の勝利とする。それでは…………はじめっ!」
合図の掛け声に、妖夢はポイを構えた。
水槽では金魚が十数匹、ばらばらに泳いでいる。
妖夢はそのうちの一つ、自分に近いところを泳ぐ一匹に目をつけた。
――よし。目標捕捉。
惜しい手応えを感じたあの時のように、一つの金魚に集中して狙いをさだめるのだ。
水につけて濡らしすぎないよう慎重に……。
「とれた!」
その声は左から聞こえてきた。
思わず妖夢が顔を向けると、橙がすくった魂を、お碗に一つ入れていた。まだ三十秒と経っていない。
ギャラリーが拍手する。橙は嬉しそうに、もう一度ポイを手に構えている。
妖夢も慌てて顔を戻し、自分の水槽に向き直った。
焦るな、落ち着け、と自分に言い聞かす。
しかし、緊張がおさまらなかった。まさか、こんなに早く橙が一匹目をすくえるなんて。
小町のアドバイスが気になった。一体どんな秘術を橙に教えたんだろうか。
妖夢は心の定まらないまま、ポイを水槽に入れた。
手応えなくするりと逃げ出す魂。おまけに、ポイも破れてしまっていた。
――そんな
そうこうする間に、橙は二つ目の魂を取り上げていた。
ギャラリーから再び声援が巻き起こる。
銀髪の嬢ちゃんも頑張れー、と妖夢にも声援が送られた。
だがその声で逆に、頭がカーッと熱くなり、心身が停滞してしまう。
剣で言うならば、居つきの死に体であった。
――これじゃあ、橙に負けてしまう
盛り上がる空気に、妖夢は溺れかけていた。
橙のすくう魂がまた一つ増える。
一方の妖夢はのろのろと魂を追うことしかできない。
逃げ出す魂を先回りするが、肝心のポイには引っかからない。
再びポイは駄目になり、残る得物は一つとなってしまった。
――誰か……
残り一分の声が遠く聞こえる。
視界に映るものが、何一つ妖夢の思い通りになってくれない。
耐えがたい孤独が襲ってきた。
声に耳を塞ぎたくなった。
――誰か……助けて……!
「妖夢」
幻聴かと思った。
しかし、耳元で、はっきり聞こえた声だった。
横を見ると、橙の丸い顔があった。
金魚をすくうのをやめて、妖夢の側に寄ってきている。
「妖夢大丈夫? 楽しくないの?」
「………………」
「楽しいことを考えながら、ポケットを開いてそこに迎え入れるようにするんだって。ほら、やってみて」
ギャラリーの声が小さくなる。
小町もぽかんとした顔になっている。
橙だけは優しい笑顔だった。
「………………」
「ほら、早く妖夢」
「…………うん」
言われるまま素直に、妖夢は残ったポイを構えた。
橙のアドバイスを、胸中で繰り返す。
――楽しい気持ちで、ポケットを開くように……
ポイを水槽の上に移動させる。
頭に楽しかった出来事を思い浮かべる。
といっても、何かあっただろうか。
――そう言えば、朝のサンドイッチ作りは楽しかったな。昨日のパチュリーさんの砂風呂も……
金魚たちの動きが、だんだんとおさまっていく。
だが、まだ妖夢のポイには寄ってこない。
――ポケット……そうか。心を開くんだ。追いかけるのではなく、引き込むように
魂は安定を求める。
陽気に満ちた、安心できる場所を求めて彷徨う。
妖夢は金魚を優しく囲うように、イメージした。
やがて、その一つが、妖夢のポイの近くを泳ぎ、そのまま過ぎずに、ポイに寄り添う。
妖夢は慌てないように、そおっとそれを拾い上げた。すり抜けはしなかった。
――え? 取れちゃった。
あまりにもあっけなく取れてしまい、思わず、ポイからお碗に入れずに、金魚を手のひらに静かに乗せてみた。
声を上げかけた観衆が、息を呑む。
金魚の霊は、ひんやりとしていた。
綿菓子で薄く包んだ水風船、だけど重さを感じさせない様は、雲に似ている。
自身の反霊とも、刀で斬る手応えとも、まるで違う感触。
妖夢の手から動かずに、じっとしている。
――何だか……可愛いな。
思わず顔がほころぶ。
ポイを置き、もう片方の手でよしよしと撫でてみた。
魂はふるふると反応した。
気がつけば、橙が目をみはっていた
小町も、店主も、観衆も……無言で、妖夢を見守っていた。
「……え? どうしました?」
視線を集められて、妖夢は戸惑った。
そこで、魂は手のひらを抜け、下のお碗におさまった。
ほう、と皆のため息がもれて……
すぐに万雷の拍手へと変わった。
わあっ、という声が、妖夢を取り囲む。
「すげぇぞ! お嬢ちゃん!」
「ああ! 大したもんだ! いいもんを見た!」
かけ声が飛ぶ。口笛が鳴る。
いつの間にか、通りがまるで見えないほど、人が集まっていた。
「驚いたわ! 魂を手に持てる人間だなんて!」
「まったくだ! 長いこと生きてきて見たことないな!」
「ひょっとして、仙人か何かが化けてるんじゃないか!?」
「いやあ! やるもんじゃないか! 本職の死神クラスだよ! 金魚の数は三対一だけど、これは引き分けだね!」
「妖夢すごーい! もう一回やって!」
「あ、あの」
顔を真っ赤にしながら口ごもるが妖夢は、とりあえず声援に答えて、丁寧にお辞儀をした。
◆◇◆
結局、妖夢と橙は、熱狂したギャラリーから様々なものを受け取ることになった。
お団子やら、お好み焼きやら、的当ての景品やら、干菓子やら。
その後も店は挑戦客で盛り上がり、小町は場所代を払うことなく、店主からお礼の品までもらった。
「はっはっは。こういうイベントが起こるから、祭りの空気はやめられないねぇ」
長椅子に戻って、三人はもらったものを食べながら談笑していた。
いまだ現実感の無い中で、リンゴ飴を舐めながら、妖夢はふと気になった。
「でも、橙。どうして、あの時コツを教えてくれたの? 勝負だったのに」
「だって、私だけが取れたってつまんないもん。
妖夢も何か悲しそうだったし、小町さんからアドバイスしてもらった私だけずるいなーって」
「………………」
それって、つまり、同情されたわけか。
そう思うと素直に喜べなかったが、橙の助けが無ければ、もっと悲惨な結果になっていただろう。
「はぐはぐ、面白いこと言うねこの子は」
小町は二つ目のお好み焼きを食べていた。さっきおにぎりと焼きソバを食べたばかりなのに、ずいぶん大きい胃袋だ。
「藍様がよく言うんです。『遊ぶときは、みんなで楽しまなきゃ駄目だよ』って」
「ははあ、親の教育があったのか」
「はい。妖夢と遊べて凄く楽しかったです。あむ」
綿飴を美味しそうにかじる橙に向かって、妖夢は釘をさした。
「橙。忘れてるの? 今回の旅の目的は修行なんだからね」
「うん。美味しいよ」
「話を聞きなさい。遊んでばかりいられないんだからね。ちゃんと真剣にやること」
「藍様との修行も、いつも楽しいんだけどなー」
「鬼ごっこは遊びでしょ」
「ねえ。今度やってみる、妖夢? 面白いよ」
「やらない」
小町はそんな二人のやり取りを、ニヤニヤと見ながら、
「まあ、こんな美味しいもの食べてる時に、堅苦しい話も野暮だってことで」
「何度も言いますが、小町さんは、もう少し真面目になった方がいいと思います」
「あはは、上司からもよく言われるよ」
さして気にする様子を見せず、快活に笑う小町を見て、妖夢は聞きたくなった。
「小町さん」
「なんだい?」
「従者にとって大切なことって何だと思いますか」
「とと。あたいは参考にならな……」
「ごめんなさい。さっきの言葉は取り消します。納得できるわけじゃありませんけど……」
しかし、どうしても、小町はただの駄目な従者には見えなかったし、自分に劣っているとも思えなかった。
それを告げると、小町は大笑いした。
「いやあ、急に買いかぶられても困るねぇ」
「教えてください。橙との勝負は、引き分けでしたけど……」
「よかったじゃないか、負けなくて」
「じゃあ、逆に聞きます。小町さんから見て、私に足りないものってなんですか」
妖夢は真剣な顔で聞く。
それが、今回の旅の目的、ようかんかもしれないのだ。
小町はお好み焼きの最後の一切れを食べて、お茶で流し込んだ。
「ぷはぁ。……遊び心かな」
「遊び心?」
「そうだね」
小町の横顔は、ふざけて言っている表情ではなかった。
「別に、怠けろとか不謹慎になれとかいう話じゃないさ。
ただ私の仕事もそうだけど、真面目で堅物なままじゃ、息が詰まってまっとうできないよ。
世の理はほとんどそう。硬いだけの輩は折れてしまう。
そこに遊びの余裕がなければ、うまくいかない。こんなところかね」
様々な人生を見てきた死神なりに、含蓄がこもった言葉だった。
しかし、妖夢は反論した。
「でも、折れないものがあります。壊れないものもあります」
「ほほう。それは何だろう」
「それは私です。この剣は折れません。冥界一固い盾である、この私は壊れません」
「蒼天の気質を持つ、お前さんらしい答えだね。まあ、そういう道もあるだろう」
小町は否定せずに、やんわりと認めた。
「だけど、それに限界を感じたら、私の言ったことを思い出してみるといい。
……さて、このお菓子の包みを持って、四季様を見舞ってみるか。それじゃまた」
何だかんだいって、彼女は上司思いのようだった。
小町は立ちあがって二人に別れを告げ、つむじ風のように雑踏の中に消えていった。
小町が去った後も、しばらく妖夢は黙考していた。
本当に、ようかんとは遊び心のことなのだろうか。
「あ、妖夢」
綿飴を食べ終わった橙が、明るい声を上げた。
「私、ようかんが何かわかったかも」
「本当!?」
「うん」
願ってもない。
それがわかれば、修業は一気に進展する。
「ようかんって……」
「ようかんって?」
「おっぱいのことじゃないかな」
ガン!
こけた妖夢は、長椅子の角に頭をぶつけた。
「どうしたの妖夢」
「……いてて。それは違うよ、橙」
「でも、小町さんも咲夜さんも、藍様もおっぱいが大きいよ」
「ああ、うん、まあそうね」
頭をさすりながら、妖夢はうめいた。
「でも橙。ようかんは橙も持ってるって幽々子様に言われたの。橙には……お、おっぱいが無いじゃない」
「うーん。じゃあ妖夢と比べてみる?」
「いくら私でも橙よりはあるよ!」
「私も藍様みたいに大きくなれるかなー」
橙は自分の胸を両手で触りながらつぶやく。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、妖夢も幽々子の胸を思い浮かべていた。
異性だろうと同性だろうと、見るものを圧倒させるツインウェポン。
今の自分では、逆立ちしても届かない。
「ねえ、次はどこに行こうかな?」
「はあ……道は遠いな」
「妖夢?」
「っとお! ごめん、橙。聞いてなかった!」
「次はどこに行くの?」
「ん、あー、もう従者ならなんでもいいかもしれない。小町さんとの会話でも、勉強にはなったし」
「それなら心当たりがあるよ!」
「本当に?」
「うん! 人間の巫女!」
「人間の巫女って……霊夢?」
頭の中で、紅白の巫女服を着た少女が、にっこりとお賽銭箱を手で示していた。
確かに、神に仕えるという点では、従者と言えなくもないが。
「紅白のじゃないよ。山に引越してきた巫女さん!」
橙は振り向くのに合わせて、妖夢も顔を向けた。
雲をつく高さ。
長椅子から見上げると、全身に霊気が走るほどの存在感。
橙の指の先は、そびえ立つ妖怪の山の頂を差していた。
◆◇◆
妖怪の山の頂上付近に、守矢神社は建っている。
外界から湖ごと引っ越してきたその神社には、巫女だけではなく、二柱の神様まで住んでいるそうな。
橙の案内で、妖夢はその神社にたどりついていた。
博麗神社よりも、だいぶ立派な造りだ。
二人は裏の母屋に回って、玄関の前に立った。
「橙。ここには神様が住んでいるの。知ってる?」
「うん。聞いたことがあるよ」
「だから、お行儀よくしなきゃダメよ」
「うん」
妖夢はその神様を、何度か宴会で見かけた程度で、顔見知りというわけではない。
怒らせたら怖そうだし、礼儀はきちんとしなくては、と思った。
できれば、その神に仕える風祝の少女とだけ、話すことができれば楽なのだが。
「ごめんくださーい」
声をかける。
足音が近付いてきて、
「はいはい」
開いた扉の向こうには、しめ縄が待っていた。
「おや、珍しいお客さんね」
まさか、巫女ではなく、神様が玄関で出迎えてくれるとは思っていなかったので、妖夢は腰を抜かしそうになった。
外界からここ妖怪の山に引っ越してきた、神様一家の一柱。
守矢神社の重鎮、八坂神奈子である。
「こんにちは!」
「はい、こんにちは」
橙の方は全く萎縮する様子はなかった。
神奈子も親しみのある挨拶を返す。
動悸を抑えながら、妖夢は用件を伝えようとした。
「あ、あの。こちらに東風谷早苗さんは……」
「ああ、早苗に用なの。あいにく、今は留守よ。麓の神社に遊びに行っているわ」
「そうですか……」
となれば、博麗神社へと向かう方がいいか。
「何か用件があるなら、伝えておくけど。それとも直接会いに行く?」
「はい。…………あ、いえ。貴方に聞きたいことがありまして」
「ほう。私にか」
妖夢は方針を変えることにした。
神奈子は少し考える素振りを見せてから、振り向いて家の奥の方をのぞきこんだ。
顔を戻して、
「ん。いいよ。上がりなさい二人とも」
「い、いえ。簡単な話なのでここで構いませ……」
「お邪魔しまーす!」
「ちょ、ちょっと橙!」
妖夢が止める間もなく、靴を脱いで颯爽と中へ向かう橙。
神奈子はそれを受け入れながら、にっこり笑った。
「で、お前さんは外で待っている?」
「……お邪魔します」
恐縮しながらも、妖夢は守矢神社の母屋に上がらせてもらった。
守矢神社の家の中は不思議であった。
居間には、洋風のテーブルとコタツが同居している。茶箪笥にはティーカップの段と湯飲みの段が。
壁の時計は西洋風だったが、その横にあるのは神棚だった。
和洋折衷。
巫女の家と言えば和風そのものという印象を持っていた妖夢にとっては、予想外な内装だった。
そして、何よりも奇妙奇天烈なのが、奥の和室であぐらを組んでいる存在だった。
頭には目玉が二つ付いた大きな帽子をかぶり、将棋盤を前にして、腕を組んでじっと考え込んでいる。
盤の向こうに座る者はいない。どうやら神奈子と指していたようだ。
妖夢たちが入ってきても、気にする素振りを見せなかった。
「……こんにちは」
一応挨拶してみても、わずかにうなずかれただけだった。
もしかしたら、妖夢にうなずいたのではなく、考えていただけなのかもしれない。
一方神奈子は、台所でお茶を用意している。
神様がそんなことをしているのも、妙な光景だった。
「えーと、猫ちゃんは熱いの苦手だったか」
「熱いのは苦手。それと、猫ちゃんじゃなくて橙だよ!」
「ほいわかった、ごめんよ橙。あ、お茶菓子。ようかんと煎餅どっちがいい?」
「ようか……」
「煎餅で」
橙の声を遮って、妖夢はキッパリと言った。
和室に座るもう一柱の神は、そんなやり取りを完全に黙殺している。
神奈子もそちらを無視して、お茶を運んできた。
「こういうことすると、早苗に怒られるんだけどね」
「はあ」
「まあ、たまには神が人をもてなすのもいいでしょ。といっても、式がついた妖怪の子と半人半霊か」
さすがに神奈子は、二人の本質については気が付いていたようだ。
「あの……いいんですか?」
「なにがだい?」
「その……あちらの方と将棋を指していたのでは」
「ああ、諏訪子ね。あいつは長考に入ると一時間は唸っているから。気にしなくていいわよ」
「これだあ!!」
バチ―ン、と音を鳴らして、奥に座っていた洩矢諏訪子が、駒台に置かれた一駒を盤上に打ち付けた。
あまりの気迫に、橙と妖夢は身をすくませた。
しかし神奈子は平然と、ちょっと失礼、と席を立つ。
すたすたと諏訪子の前に歩いていって座り、ひょいと駒を動かした。
「ぐおおおおお。そんな手が!」
諏訪子が帽子越しに頭を抱え込む。
神奈子はすぐに立ち上がって、妖夢と橙の卓に戻って来た。
「はい。それで何の話?」
「えーと、神様っていつもあんな感じなんですか」
「こんな感じよ。山の天狗に将棋で負けたのが悔しかったらしくて、『特訓だ神奈子!』って、うるさかったのよ。
ちょうどいい気晴らしの相手が来てくれて助かったわ」
「………………」
「他に聞きたいことは?」
「ようかん、ってわかりますか?」
「それはもちろん。煎餅が苦手なら、今切ってきてあげるけど」
「いえ、そうじゃなくて……」
そこで、出された煎餅をしゃぶっていた橙が、顔を上げた。
「あのね、妖夢には、ようかんが足りないんだって。だから今修行の旅をしているの」
「ちぇ、橙!」
妖夢の頬が熱くなった。
神奈子はきょとんとしている。
「ようかんが足りない?」
「……はい。恥ずかしながら」
「よく分からないんで、もう少し話を詳しく聞かせてもえらない?」
「わかりました」
仕方なく、妖夢は恥を忍んで、これまでの経緯を語った。
神奈子は神妙な顔つきで聞いていたが、やがてニヤニヤし、ついにはうつむいて肩を震わせていた。
「と、いうわけなんですけど」
「なるほどね。ぷぷっ」
「……笑わないでください。こちらは真剣なんです」
「はははっ。まさにその言葉が、全てを示しているようだ」
「え?」
「奇妙な例えをしたものだね。だけど……なるほど。
魂魄妖夢。確かに、お前さんには、ようかんが足りていないようだ。そして……」
神奈子は言いながら、橙の頭をぽんっと優しく叩いた。
「こっちの妖怪の子。この子の方が足りている」
「!!」
妖夢は驚愕した。
それは、幽々子が出発前に与えてくれたヒントと、同じことを示していた。
ついにその答えを、見つけられるかもしれない。
立ち上がって聞く。
「なんですか!? ようかんって!」
「うーん、それはちょっと言えないわね」
「そんな!」
「いや、意地悪しているわけじゃないよ。誰が口で言っても、たぶん効果が無い、とういほうが正しいわね」
「…………」
妖夢は座り直した。
神奈子は、うん、とうなずき、椅子の背もたれによりかかりながら、
「でも、私に相談して正解だったわね。実を言えば、うちの早苗もようかんが足りてなくて困ってるのよ。
博麗の巫女に勝つには、そこが一番大事だと思うんだけど。ま、早苗も馬鹿じゃないから、そのうち気づくでしょ」
妖夢は、いよいよ驚いた。
今神奈子は、早苗が霊夢に勝つには、と言った。それはつまり、ようかんが強さに必要なものだということだ。
これは、どうしても手に入れなければ気がすまない。
「私は今すぐ、それを知りたいんです」
「そうだねえ。ヒントならあげられるかな」
「お願いします!」
「さて、何から話したものか……。さっきの話でお前さんが気にしていた、遊び心。あれはかなり近いと思う。
だけど正解ではない。例えばこの子は、遊び心があるから優れているのではない。
むしろ、ようかんが足りているからこそ、遊び心がある。わかるかしらね」
「………………」
わからなかった。
橙を見るが、この式の式自身も、ちんぷんかんぷんのようだった。
神奈子の笑みが深くなる。
「言葉で見つけようとすると、むしろ遠ざかるわよ。むしろ、印象でとらえた方がいい」
「それは……ようかんは言葉じゃ表せないってことですか」
「というより、言葉でいじくるより、ようかんとしてとらえた方が面白いというか」
「面白いって……」
「おや、不満そうな顔だね」
「はい。お言葉ですが、こちらにとっては真剣な話なんです」
「そう。面白いのは嫌い? 楽しいのは嫌い?」
「………………?」
今一瞬、妖夢は何かをつかんだ気がした。
神奈子はそれに反応し、じっと妖夢の答えを待つ。
妖夢はつかんだそれを噛みしめて、しっかり味わってみた。
「まさか……」
「気がついたようね」
「いえ……でも……なんとなく、分かってきました。ですが……」
「ですが?」
「むしろ、分かりません。それが何で、強さに繋がるのかが分かりません」
「本当に?」
「ええ。たぶん、その強さは、私に必要のないものです」
妖夢は失望して、かぶりを振った。
「私は剣士ですから。剣士としての強さこそが、私の望みです」
「ほっほう。だから自分の剣に必要ないと言うか。それはそれは」
「……何かおっしゃりたいようですね」
「私はそうは思わない」
「なぜですか? 剣について、何か一家言がおありで? ならば教えてください神様」
「ふふふ、斬り込んで来るわね、剣士さん」
「な、何か怖いよ二人とも」
橙が少し怯えた目つきで、二人を見比べる。
しかし、妖夢は引く気はなかった。
誰であろうと、軽々しく自分の剣について語られるのは我慢ならない。
「従者については、どうか知りません。ですが、剣の道は厳しく、浮ついた感情が許される領域ではありません。
私の剣は真っ直ぐです。そして、剣はそうあるべきだと思います」
「じゃあ益々、ようかんと向き合うことを、おすすめするわね」
「必要ありません。そんなものは、斬るだけです」
「斬るときたか。果たしてお前さんに、『ようかん』が斬れるかな?」
「斬れます。この世に斬れないものはありません。全ては斬ることによって理解できる。それが剣の極意です」
「ん?」
神奈子は片眉を上げた。
「今、面白い……いや失礼。興味深いことを言ったわね。剣の極意か」
「はい」
「もう少し、詳しく話してくれないかしら。剣の極意とは何か」
問われて妖夢は、眉をひそめた。
なんだ、この質問は? この一柱は何を考えている。
しかし、『剣の極意』。師の教えは、常日頃から考えていることだ。
妖夢はすらすらと答えた。
「剣の極意とは、物事に囚われないこと。目に見えることを疑い、耳に聞こえることを疑い、鼻で嗅げることを疑い、舌で味わえることを疑い、指で触れられることを疑う。全ては剣で斬ることができ、剣で斬ることによって知るべきである。剣によって、迷いの根源を通すことなく、物事の真実を理解することができるのです」
「…………そうか」
「ご理解いただけましたか?」
「逆に聞くわね。お前は本当にそれを理解している?」
「む……」
いちいち癇に障る言い方だった。
だが、この禅問答には既視感があった。昔、鬼にも同じことを言われたのだ。
そして、目の前の神は、さらに話を続ける。
「その剣の極意。それはお前の言葉ではないね。では、お前自身は、剣で斬ることで何を知った。何を得た」
「…………それこそ、言葉じゃ表せません」
「そうね。でも少し心配になってきたのよ。
物事に囚われていないようでいて、本当は目も耳も塞いでいるだけ、ということはないか。
いたずらに剣を振るうだけで、真実など何も分かっていない、ことはないか」
「それは……私がまだ修行不足だということは……あるかもしれませんが……」
「ふむ」
「……でも、私だって、好きで未熟をやっているんじゃありません!
修行して、その先へと向かおうとしているんです。その極意を、理解しようとしているんです」
「ならば、私から一つ」
神奈子は腕を組んだ。
「剣の極意は『物事に囚われない』。だけど、私にはこう見える。
魂魄妖夢、お前はまさに『剣』に囚われている」
稲妻が妖夢の心を走った。
剣気が内から燃え立った。
椅子を倒し、とっさに鞘に手が伸びて、相手に斬りかかりそうになる。
それを、ぎりぎりで理性が働き、何とか思いとどまらせた。
横に座る橙が、湯飲みをひっくり返していた。
妖夢の急な変化に驚いて、椅子からずり落ちている。
だが、目の前の神奈子は、強烈な気を叩きつけられても、びくともしていなかった。
石仏のように、まるで表情を変えていない。妖夢の手加減無しの一撃を食らう寸前だったのに。
奥の諏訪子も、こちらの様子を、ちらとも見ないで、盤上の次の一手を考えている。
妖夢の気の変化を、虫の音が変わった程度にしか感じていない。
取り乱しているのは、客である妖夢と橙だけだった。
「ごめんごめん、少し言い方がきつかったわね」
謝る神奈子を前にして、妖夢はごくりと唾を飲み込んだ。
沸騰していた血が、熱を奪われて戦慄へと変わっていく。
微笑する神奈子の姿が、急に大きく見え出す。
「魂魄妖夢。一つ助言を与えます。お前に必要なのは、一度自分の『剣』から解き放たれることです」
妖夢の胸に、その助言は突き刺さった。
「怒らないで聞きなさい。貴方は剣の使い手のはずが、自らが作り出した『剣』に縛られることで、壁を作ってしまっているのです。いいえ、それどころか結果的に、その腰に下げた剣そのものからも、目をそらすことになってしまっている。灯台元暗しとはよくいったものですね。『剣』にしがみつくのはやめて、一度離れて向き合ってみなさい。そうすれば、ようかんが何を示し、それが何故貴方に必要なのか気がつくことでしょう」
その言葉は、呪詛となって、妖夢の心を犯していった。
先ほどまでは、どこか子供っぽくて愉快な人たちだ、と思っていたが、今は畏怖の念が妖夢の腕を伝わり、肌を粟立てさせる。
太古の気配に、血が冷たくなる中で、気がつく。
この二人は間違いなく、神なのだ。
自分の主や、八雲紫と同じ、常人には手の届かない域にある存在なのだ。
そして、斬れない。
到底斬れる気がしない。
雨を斬るよりも、空気を斬るよりも難しい。
妖夢にとっては永遠に理解できない。
すなわち、それは怪物。
恐怖そのものであった。
「ああごめん、汚しちゃったわね。早苗に怒られるわ」
目の前の神奈子が、橙が零したお茶を拭いてやっている。
頬を拭かれる橙は、照れ笑いしていた。
しかし、妖夢には優しげな神奈子の姿が、この世をぐるりと囲む大蛇の鎌首に見えた。
赤い舌がチロチロと、橙の頬を舐めている。
「さて……」
大蛇がこちらを向いた。
その瞳が、妖夢の心を全て暴こうとする。
「ひっ!」
妖夢は息を呑んだ。
テーブル、出された菓子、目に映る全てのものが、禍々しく見える。
すでにここは、蛇の腹の中か。
妖夢は、橙の腕を取った。
「橙!逃げるよ!」
「え? よ、妖夢!」
妖夢は挨拶もせずに、橙の腕を引っ張って玄関へと走る。
恐怖に背後を振り向けずに、妖夢は守矢神社から逃げ出した。
部屋の中が、しん、と静まる。
テーブルに残された湯のみが、細い湯気を立てている。
ぱちり、と軽い音がした。
諏訪子が一手を指したのだ。
ふふふ、と笑いながら、
「変なお客さんだったわね」
「おかしいな……。どうして逃げちゃったんだろ」
諏訪子が座る将棋盤へと歩きながら、神奈子は首をかしげた。
「神奈子の顔が怖かったんでしょ」
「何言ってるのよ。どこが怖いっていうのこの顔が」
「ひいいいいい。母ちゃんの顔がこわいいい」
「…………うりゃ」
「えっ。……えーと、こうなってこうなって。……ええええええ!? 何これ! 詰んでたりするの!?」
アッチョンブリケー、と叫ぶ諏訪子を、小馬鹿にした目で見ながら、神奈子はふんと鼻を鳴らした。
「ちょっと不安だね、あの子は。また遊びに来てくれるといいけど」
「ああああああ! やっぱりさっきの桂馬がまずかったんだ!」
「それにしても、あれは何だったのかしら」
「くっそー! 神奈子! もう一局だ!」
「またかい?」
「今度は勝つからね!」
「はいはい」
神奈子は面倒くさく、駒を初形に並べ始めた。
ぱち、ぱち、という駒音を聞きながら、先の出来事について考える。
妖夢の激昂のことではない。
招かれざる第三者のことだった。
そう。神社に来た気配は、『三つ』だった。
一つは半人半霊。一つは小粒の式妖怪。
もう一つは、巧妙に気配を隠していたが、確かに外にいた。
剣の極意について妖夢が話していたとき、壁の向こうで話を聞いていたようだ。
神奈子はシカトしていたが、果たして何者だろうか。
どうやら、あの二人を追って消えたようだが。
「血生臭いことにならなきゃいいけど……」
「ほら、神奈子! 早く指してよ!」
「あのさ諏訪子。もう平手はやめにしない? 駒落ちにした方があんたのためになると思うんだけど」
「ハンデはいらん!」
――どうしてこいつは、勝負事になると、こんなに『ようかん』が足りなくなるのか。
ふぅ、と神奈子は軽くため息をついて、ぱちりと初手を指した。
◆◇◆
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
「妖夢! 妖夢! ちょっと妖夢ってば!」
「はぁ、はぁ。……?」
「どうしたの妖夢! 大丈夫?」
橙が心配そうに顔を覗きこんでくる。
妖夢はそこで我に返った。
守矢神社から飛び出して、全速力で山を下りてきたのだ。
まだ、息が上がっている。
「いきなりどうしたの!? 暴れ出して!」
「はぁ……、暴れ………え?」
「なんであんなことしたの!?」
「だって……怖かったから……!」
「怖かったのは妖夢だよ!」
橙は怒っていた。
「さっきの妖夢、すっごく怖かった! お行儀よくしなさいって言ったのは、妖夢なのに! 変だよ本当に!」
橙に言われて、妖夢の思考が冷めてくる。
落ち着いて、これまでの行動を顧みる。
気に触ることを言われたのは確かだ。
しかし、刀を抜きそうになって、勝手に怖がって、挨拶もせずに逃げ出して。
血の気が引いた。橙の手本どころではない。
無我夢中で飛び出してきたが、これではまるで奇人ではないか。
「ごめん……橙」
妖夢はしょんぼりと俯いた。
橙はその声を聞いて、口を閉ざす。
顔を覗き込もうとしてくるが、妖夢は向き合えなかった。
「……ねえ橙。私って変かな」
「妖夢?」
「お願い、言って。私って変?」
妖夢は橙にすがるように聞いた。
橙は目を白黒させながら、
「へ、変じゃないよ妖夢は。その……さっきはちょっと、びっくりしたけど」
「……………………」
「大丈夫? 具合が悪いの? お医者さんに診てもらった方がいいかな」
「お医者さん……」
それを聞いて、妖夢の頭に、ある人物が思い浮かんだ。
永遠亭の薬師。彼女にはお世話になったことがある。
それに、彼女は従者でもあった。
今さらそんなこと、どうでもいい気分だったが。
「ねえ妖夢。行こうよお医者さんに」
「……………………」
確かに、今の自分を誰かに診てもらいたい気持ちがあった。
妖夢は力の入らない手を引かれながら、迷いの竹林へと向かった。
◆◇◆
竹林に囲まれて、ひっそりと隠れるようにして、永遠亭は建っている。
かつては外と断絶状態にあったものの、最近は人里の重病人を治療するサービスなども行っているそうな。
その永遠亭の診察室では、かつて妖夢が狂気の瞳に冒された時に世話になった、八意永琳が待っていた。
「いらっしゃい。また目の話かしら?」
「いえ。もう、あれからは何とも……。あ、その節はありがとうございました」
「どういたしまして。それで?」
永琳は余計な会話を抜きに、妖夢に続きを促してきた。
しかし、妖夢は自分の症状を、うまく説明できなかった。
ぐずぐずしていると、永琳は妖夢から視線外した。
「ウドンゲ。ちょっと出ていてくれない? 用事があれば、あとで呼ぶから」
「はい。わかりました、師匠」
「ドアの外で盗み聞きするんじゃないわよ」
「し、しませんよ、そんな。……じゃあ、失礼します。また後でね、妖夢」
「うん。ありがとう」
ここまで案内してくれた鈴仙が去ってから、妖夢は気を利かしてくれた永琳にぺこりと頭を下げた。
月の天才は、わずかにうなずいた。
「それじゃあ、今日はどのような症状で?」
妖夢は下を向いていたが、やがて、声をしぼりだした。
「何か……変なんです」
「変?」
「変じゃ……ないですか?」
不安になりながら、ちらと相手の顔を見る。
ふうん、と永琳は無表情で、妖夢を観察しているようだった。
「それはつまり、貴方が異常じゃないか、ってことかしら?」
「………………」
「見たところ外傷も無し。声の調子からも喉が腫れているようにも思えない。
少し顔色が悪いのは元からで、前に診察に来た時と変わりは無い。半人半霊という特殊な存在とはいえ、いたって正常に見える」
「………………」
「と、ウドンゲなら言うかもね」
「……え?」
永琳はそこで無表情を崩した。
「だけど、かなりのストレスを受けている。何かに怯えているようにも見える。
症状は、おそらく肉体ではなく、精神的なもの。まあ普通は、二つは疎の関係では有り得ないのだけど」
「…………」
「貴方の場合はどうかしら。悩みがあるなら、話してみない?」
「…………」
「ここには私の他に誰もいないし、襲ってくる敵もいないわ。後はまあ……私を信頼してもらうしかないわね。
もし話すのが辛いのなら、紙に書くなりジェスチャーなり糸電話なり……」
「……いえ、話します」
妖夢は顔を上げて、
「聞いてください。お願いします」
それから、妖夢はこれまでの経緯を、かいつまんで話した。
永琳は何度かうなずきながら、じっくり聞いてくれた。
「それで、逆上して刀を抜きそうになって……急に怖くなって」
「ふうん」
「……やっぱり、変ですよね。私も今話していても、変だと思いますし」
「変じゃないわよ別に」
「え?」
予想外に否定されて、妖夢は思わず聞き返した。
永琳は微笑んだままだった。
「いかにも貴方らしいじゃない。剣に生き、剣を神聖視し、剣に触れられるだけでカッとなる。
まさに貴方……はじめて出会った時から、私の知る魂魄妖夢そのもの」
「……………………」
「それを、他ならぬ貴方が『変だ』と思っている。なぜでしょうね」
「なぜ……でしょうか」
「成長じゃないかしら」
「成長……ですか? 私が?」
「そう。心の成長ね」
「……………………」
心当たりはある。
剣と付き合う自分の態度は、確かにそれでよかったはずだった。
でも、今は確かに、それにわずかな違和感を覚えていた。
しかし、
「どうすればいいんだか、分かりません」
「そうね。山の神様がおっしゃったことを実践してみたら?」
「……! 永琳さんも……私に剣を捨てろっていうんですか!?」
妖夢はギュッと刀の柄を握り締めた。
なぜか、それだけは譲れない気持ちが残っている。
永琳は冷静だった。
「そうは言ってないわ。神様もそんな意味で言ったのではないと思うの」
「じゃあ……」
「そうね。どういうことかというと」
永琳は、机の上に並んだ医薬品類や治療器具、あるいは本などをに目を向けながら、
「私はもう永いこと生きているわ。その間に、医学に薬学、その他あらゆるものを学び続けてきた。
そうした行いが、今の私という人格の大部分を形成してきたのは間違いない」
「………………」
「それが、貴方の場合は剣だった。じゃあ貴方から剣が永遠に消えてしまったら?」
剣が消える?
自分から?
耐えがたい恐怖が、妖夢を襲った。
そう。剣を否定されるということは、恐怖だった。
何も見えず、何も聞こえない。
自分自身が何かすら分からない。
虚無に飲み込まれてしまう。
「はい。ストップ」
永琳の声で、我に帰った。
「やっぱり、貴方は剣そのものに自分の姿を投影しているんでしょうね。
「………………」
「でもね、一緒にいると、逆に分からない、気がつけないこともたくさんあるの」
「………………」
「だから、一度剣から離れて考えてみたら……」
「私は……剣から離れるなんて、できません」
妖夢の視界が、ぼやけていく。
「ずっと……ずっと剣で頑張ってきたんです。私には、剣しかないんです」
物心がついた時には、すでに剣と生きていた。
言葉よりも先に剣があり、剣だけが頼りだった。
師の教えに従い、幽々子の従者として相応しくなる。
それも、剣腕を磨くことで、そこへたどり着けると信じて生きてきた。
それを今さら、
「剣から離れろだなんて。ようかんになんて……なれないですよ」
「ようかん?」
「……………………」
妖夢は答えずに、ごしごしと目をこすった。
永琳はふうとため息をつく。
「さっきも言ったとおり、貴方は成長しようとしているの。
それを怖がらないで。きっと、その先には、貴方の目指すものがあるはずよ」
「…………」
「私のアドバイスはこれくらいね」
「……ありがとうございました」
「お大事に」
言いながら、永琳は壁に垂れ下がっていた紐を引っ張った。
廊下を走る音が近付いてくる。
襖が開いて、鈴仙が登場した。
「師匠、呼びましたか」
「呼んだわ。この二人が今夜泊まるから、世話してあげなさい」
「はい、わかりました」
妖夢は永琳の顔を見た。
「今日はもう暗いでしょ。どうせなら泊まっていきなさい。夜の竹林は危険よ」
◆◇◆
永遠亭での食事の間、診察室に入らず待っていた橙は、ひっきりなしに妖夢に話し掛けてきた。
――大丈夫? 悪いところはなかった?
――ここのご飯も美味しいね、妖夢。
――今日はここに泊まるんだね。楽しみだね。
妖夢の答えは全て、抑揚の無い「うん」だった。
夕餉の膳を箸で口に運ぶが、味もよくわからなかった。
急に、自分以外の存在が遠ざかった気がする。
いつも気を晴らす時には、剣を素振りしていたのだが、今はその剣に触れるのが、少し怖かった。
橙もそれ以上、妖夢に話し掛けるのを、諦めたようだった。
◆◇◆
「お風呂は今入る?」
「………………いい」
「じゃあ、寝部屋を決めてもらうわね。大部屋と小部屋のどっちがいい?」
「……………………」
「と、とりあえず、見てもらった方がいいわね」
つとめて明るく先導する鈴仙の後を、妖夢はとぼとぼとついていった。
申し訳ないという気持ちを、働かせるほどの元気が無い。
頭をぐるぐると、剣とようかんが回っている。
やがて、ある襖の前で、鈴仙は止まった。
「ここが大部屋。他の兎達も寝るから、うるさいけど寂しくはな……ぶほっ」
説明の声が、途中で遮られる。
開けた襖の向こうから飛んできた枕が、鈴仙の顔に命中したのだ。
部屋の中から歓声が上がった。
「見事成功ー!」
「鈴仙が引っかかったー!」
「わーい!」
兎達が敷かれた布団の上で、枕を手にして、はしゃいでいる。
どうやら枕投げの最中だったらしい。
「こ、こらー!」
鈴仙は怒って枕を投げ返した。
やがて部屋中に白い寝具が飛び交う。
罵声に悲鳴、しかし喚きながらも、鈴仙も含めた兎耳は、笑いながら枕投げを楽しんでいた。
「いけー! やっつけろー!」
「あのへにょり耳を取り囲めー!」
「何ですってー!? って、ああ! 多勢に無勢は卑怯よ! この!」
「うわー、やられたー」
「あはは、食らえー!」
「……ちょっといい? 鈴仙」
その声に、室内の笑い声が消えていった。
妖夢が部屋の入り口で、暗い顔をして立っている。
「……悪いけど、別の部屋にしてくれないかな」
「ご、ごめんなさい妖夢。今案内するから」
「……うん、こちらこそごめん」
鉛色をした、つぶやき声だった。
鈴仙を含めた兎達の顔が青くなっていく。
妖夢はその面々を見て、ため息をついた。
――ああ。ここでも、私は変な子なんだろうな。
心の中で自嘲しつつ、妖夢は背を向けた。
その時、
ぼすっ。
後頭部に柔らかい感触。
妖夢はサッと振り返った。
わずかな油断をついた不意打ちだった。
まさか、自分にも枕が投げつけられるとは、思っていなかったのだ。
顔色を失った兎達が、群れの中央へと驚愕の視線を向けている。
そこには、一匹の妖怪猫が、枕を構えて笑っていた。
妖夢は緊張を解いて、ため息をついた。
「橙。もうふざけないで」
「えい」
ぼすっ。
「……忘れたの? ちゃんとお行儀よくしなきゃ駄目だって」
「やあ」
ぼすっ。
「…………橙。いい加減にしないと」
「たあ。とう。それ」
ぼすっ、ぼすっ、ぼすっ。
間抜けな力が乗った枕が三連発、妖夢に直撃した。
「………………」
「にへへー」
「…………くぉらああ!!」
妖夢は怒鳴って、本気で枕を橙にぶん投げた。
「わっ」
橙がしゃがんだ上を、回転した枕が過ぎる。
それは、後ろに立っていた兎に当たった。
「ぷあっ! ……やったなー!」
転んだ兎が枕を投げ返す。
その枕を、妖夢はひらりとかわした。
中央に立つ妖夢に、四方八方から枕が投げつけられる。
それらを妖夢は、体捌きでかわし、あるいは叩き落とす。
枕の数は増えていくが、妖夢にとっての決定打にはならない。
剣の修行に比べれば、これしきの枕なんのその、だった。
その華麗な動きに、橙を含めた兎達は、きゃーきゃーと黄色い声をあげつつ、枕を投げ続ける。
妖夢は不敵に笑って、顔面に飛んできた枕に手刀を放ち、ふんっ、と気合と共に受け流した。
「イナバー。ちょっといいかしふべっ」
飛んでいったその枕は、入ってきた姫君の顔面に当たった。
蓬莱山輝夜は、廊下に仰向けになって倒れた。
部屋の声が、再び途絶える。
皆の顔が、妖夢を含めて蒼白になっていた。
「…………ふっふっふ」
地獄の底から響いてくるような、不気味な笑い声と共に、輝夜が立ち上がる。
その目が、獣の光を放った。
震え上がる妖夢と、視線が合った。
「そうか、妹紅からの刺客ね!!」
「はあ!?」
指を差された妖夢は、意味が分からずに困惑する。
奥の橙は「妹紅さん?」と首をかしげていた。
輝夜は足元の枕を軽やかに蹴り上げ、空中でわっしと摑み直した。
「ならば話は早い! 枕投げの女王と謳われた私の『五つの難題』! 受けてみなさい!」
口上と共に、輝夜は振りかぶって枕を投げつけてくる。
無茶苦茶速い。
「どわっ!」
と妖夢はかわせず、身をすくめた。
が、シュート回転した枕は妖夢の体をかすめつつ、斜め後ろの兎に直撃した。
ぶふぁっ、と兎が一転して吹っ飛んでいく。
「まだまだあ!」
走りながら枕を投げてくる輝夜から、妖夢は泡を食って逃げ出した。
喚く兎の群れへと走りこむ。
その後ろから、白い弾丸と化した枕が、絶えず飛んでくる。
が、なぜか直線上にいるはずの妖夢には当たらず、その直前で動きを変えて、横の兎達をはね飛ばしていく。
あるいは右下に鋭く落ち、あるいは左へと大きく曲がる。
信じられないクセ球、いやクセ枕だった。
逃走しつつ部屋を一周する二人の後には、枕を食らった兎達――式の式を含める――の屍が転がっていた。
「くっ! なんて身のこなしなの!」
「いや、私かわしていませんが!」
馬鹿正直に真っ直ぐ走り続ける妖夢の背後で、輝夜のプレッシャーが膨らむ。
「こうなったら最終奥義! 『ブリリアントドラゴン枕』を食らえええ!」
枕を両脇に抱えた輝夜が、スパイラル回転しながら突っ込んでくる。
その背後に、顎を開いた巨大な龍のオーラが見えた。
「ひいっ!」
妖夢は転がるようにして、床に這いつくばった。
上を輝夜が過ぎていく。
当たり所を失ったその体は、部屋の入り口へとすっ飛んで行く。
「何だか騒がしいわねこの部屋……ぐはぁ!」
襖を開けた永琳の腹部に、ジャイロ輝夜が炸裂した。
そのまま二人は、きりもみしつつ廊下を飛んでいった。
◆◇◆
結局、妖夢と橙は、その大部屋で寝ることになった。
枕投げのあと、畳の上に、二十近くの布団がきちんと並べられた。
妖夢は布団の中で、目を開けている。
部屋の照明は既に消えていたが、月明かりが障子を淡く照らしていた。
見るものをほっとさせる幻想的な光景だったが、すでに、ほとんどの兎は眠っているようだった。
「……橙。寝ちゃった?」
「……起きてるよー」
妖夢が小声で話しかけると、隣の橙が布団から顔を出して、やはり小声で返す。
「妖夢も眠れないの?」
「うん」
「なんかワクワクするよね」
それはちょっと違う……いや、それもある。
だけど、
…………ぎゃぴー!!
「………………」
「どうしたの妖夢」
「いや、あの声が気になって」
…………ぴぇーん!!
それは遠くで、永遠亭の主人が、従者からお仕置きを受ける声だった。
「まだ続いてるね」
「うん。こういう主従関係は、始めて見たかも」
…………ウィー!!
お仕置きでは、何が行われているのか、さっぱりわからなかった。
もちろん、妖夢は幽々子にお仕置きを受けたこともなければ、したこともない。
「橙は藍さんに、お仕置きされたことある?」
「あるよー。悪戯したときとか。でも、藍様はあんまり怒んないかな」
「やっぱりそうか」
「あ、でも藍様が、紫様にお仕置きされることは、結構あるよ」
「そ、そうなの?」
「うん。いつも藍様は私に隠してる」
「………………」
お仕置きの理由が気になった。
藍ほどの存在がやる失態など、妖夢には想像もつかない。
「でも、同じくらい、藍様もよく紫様にお仕置きするよ。投げとばしたりして。やっぱり隠してるけど」
「ええええええ! 藍さんが紫様に!? 本当!?」
「うん。二人とも、とっても仲がいいんだよ。私と藍様とはちょっと違うけど」
「そ、そうなんだ」
「確かに仲がいいわね、あれは」
寝ていたと思った鈴仙の声がしたので、二人は驚いて、頭をそちらに向けた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「いいえ、はじめから起きてたわ。そっちの子の、親の話でしょ。
この前の夜に、二人で襲撃してきたの。永遠亭にね」
「しゅ、襲撃? 藍様と紫様が?」
これは、橙にとっても寝耳に水のようだった。
「そうよ、悪戯しにやってきたようで。もっとも狐の方は嫌々従っていたみたいだけど」
「私、全然知らなかった」
「深夜にやたら凄い術をかけて、二人で漫才しながら姫様の寝顔を見に来たのよ。ふざけた妖怪よね」
「あ! それって、先週の三日月の晩?」
妖夢も思い出した。
「えーと、確かそう。うん、三日月だったわね」
「…………やっぱり、あの時か」
嫌な記憶を思い出して、妖夢は枕につっぷした。
「どうしたの?」
「……私も、悪戯の被害にあったの。しかも、主人の幽々子様も共犯で」
「う、そうなんだ。ご愁傷様」
「どんな悪戯だったの? 教えて妖夢」
自分の知らない主らの武勇伝が出て、式の式である橙の声が興奮している。
妖夢は枕から顔を上げて、長くため息をついた。
「あんまり話したくないんだけど……正確には、私がその悪戯に気がついたのは朝起きてからで……」
◆◇◆
雀の霊の鳴き声がする。
白玉楼の目覚ましに、私は目を開けた。
すでに、日は昇っていた。
「…………あれ、もうそんな時間か」
久しぶりに、凄くよく眠れた。
まだ頭がぼやーっとしていて、体が重い。
もうちょっと眠っていたいけど、幽々子様はもう起きていらっしゃるだろう。
主人を待たせるようなことがあってはいけない。
起きなくては。
ん?
何か背中に当たるな。
と思って寝返りをうつと、
無表情の石像と目が合った。
「なあああああああ!?」
慌てて私は飛び起きた。
布団に入り込んでいたのは、私の背丈の倍はある女神像だった。
片腕を伸ばして、松明のようなものを掲げながら微笑んでいる。
もちろん私は、こんなものを抱いて眠る趣味はない。
それだけではない。部屋には様々な珍物が並んでいた。
長い柄を持つ青龍刀、三又の槍に、ハリネズミのような棍棒。
箒や物干し竿、ハエ叩きや便器ブラシなどの、家事道具。
西洋剣が刺さった岩やら、巨大な乗り物やら。
いつの間にやら、私の寝室は、古今東西の品を集めた物置と化していた。
「な、何事!」
最初は部屋を移動させられたのでは、と思った。
しかし、天井も畳も壁の掛け軸も、見慣れた私の寝室であった。
昨夜の就寝時には、いつもと同じく、整理整頓されていたはずなのだが、一晩で、何でこんなに知らない道具が散らかっているのだろうか。
と、さらなる異常事態に気がついた。
刀が無い。枕元に置いていたのに。
楼観剣も白楼剣も無くなっている。
体の内まで凍りつく。
剣士の命ともいえる刀を奪われて気がつかないとは。警護役失格だ。
いつもは物音がすれば気がつくのに、何で今日に限って。
「はっ……幽々子様!」
主人の安否を確かめなくては。
とりあえず、布団の周囲に並べられていた武器のうちから一つび、私は寝間着のまま走り出した。
「幽々子様ぁああああ!」
「あらあら妖夢、今日はお寝坊さんね」
「あああああぁぁぁ!?」
廊下の角を曲がって、いきなり現れた主人の姿に、私はこけてすっ飛んでいった。
床をごろごろと転がってから、片膝をついて、
「幽々子様! ご無事でしたか!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「お気づきにならなかったのですか! 侵入者です! 何者かが私の刀を奪って、部屋の改装を!」
「まあまあ、落ち着きなさい妖夢」
そして幽々子は、あら、と私が携えていた武器、何やらけばけばしい装飾がなされた、尖った鈍器を見た。
「妖夢は魔法スティックを選んだのね。私の予想は外れちゃったわ」
「……は? 予想?」
主人はこの事態にも慌てる様子はない。
それ以前に、予想が外れたとはどういうことだ。
別の不安が私を襲ってきた。
「幽々子様……。説明してください」
「妖夢が寝ている間に、貴方の剣を取り替えちゃったのよ」
「……誰がですか」
「藍ちゃんよ。紫の式の」
意外な名前が出て面食らったが、すぐに首を振った。
「嘘はおやめください」
「あら、どうして?」
「藍さんが、自らの意志でそんなことをするはずがありません。おおかた、幽々子様と紫様に強要されたのでしょう」
「ひどいわねぇ、信じてもらえないなんて」
「…………それで、幽々子様」
語気が荒れるのを何とか抑えつつ、慎重に問い掛けた。
「私の刀は……楼観剣と白楼剣はどこへやったのですか」
その行方だけが気がかりだった。
我が主人は、毒とも薬ともつかぬ笑顔で、
「捨てちゃった、って言ったらどうする?」
「……………………」
黙って正座し、続きを待った。
しかし、目だけは睨むのを抑えられなかった。
幽々子様は微笑を崩さない。
「怖い顔ね妖夢」
「……………………」
「この屋敷のどこかにあるわ。探してごらんなさい」
「……わかりました」
「じゃあ、朝ごはんにしましょ」
「いいえ。刀を見つけてからにします」
「あらあら、私に一人でご飯を食べろというの?」
「自業自得です。そして、幽々子様……」
私は立ち上がり、背を向けて、怒鳴った。
「二度と、こんなことを、なさらないでください!」
どうしてだろうか。
どうしてこの方は、平気でこんなことができるんだろうか。
あの剣が無くなることが、私にとってどれだけ恐ろしいことか、わかっていないんだろうか。
「幽々子様が……信じられなくなりますから」
「困ったわね。でも、私は妖夢を信じているわよ」
「…………私だって、信じたいんです」
声が震えていた。
振り向いて主人の顔を見ることをせずに、私はその場を去った。
◆◇◆
妖夢はその出来事を語り終えた。
はじめは、少し笑っていた鈴仙は、話が進むにつれて、複雑な表情になっていた。
「それで結局、剣はどこにあったの?」
「…………私の部屋」
「は?」
「一つは……楼観剣は女神像の中に、白楼剣は敷布団の下に」
何とも、人をおちょくった隠し方だった。
幽々子らしいといえばらしいが、妖夢にしてみれば、はらわたが煮えくりかえる思いだった。
自分の部屋を後回しにして、ひたすら広い白玉楼を、午前いっぱいかけて走り回ったのだ。
無論、朝ご飯は食べ逃した。
と、うーん、と考えていた橙が感想を述べた。
「宝探しみたいだね。面白そう」
「……………………」
妖夢は寝返りをうって、橙に背を向けた。
いつも枕元に置いてある、楼観剣と白楼剣が目に入る。
確かに、この二つの剣は、師から受け継いだ妖夢の宝物だった。
でも、それだけではない。
この剣を手にして、この剣を振るうことで、自分の役割を、存在を確かめることができるのだ。
だから、自分はこの剣を手放せない。
「今日も楽しかったね妖夢。明日はどこへ行く?」
「明日は帰る日だよ」
「あ、そっか。残念だなー」
「……でも、まだ私は答えが出せない」
「わかりませんでした、って言えば?」
「言えないよ、そんなこと。何とか明日に、答えを出さなきゃ」
「でも、幽々子さんは、どうしてそんなことをしたのかなー」
「……どうして、って?」
「だって、妖夢が剣を隠されたら驚く、ってわかってたはずなのに」
「だから悪戯なんでしょ」
鈴仙はそっけなく言った。
だが、妖夢は橙の言葉が引っかかった。
幽々子は何のために自分の剣を隠したのか。
やがて、それは恐ろしい想像に変わっていった。
――まさか……。
話し声がしなくなった部屋の中で、妖夢は目を開けて、じっと考えていた。
(つづく)
ダメだ此奴なんとか(ry