あるとき、フランはお気に入りの人形をバラバラにした。
「どうしてこんなことをしたの?」
私は静かにそうたずねた。
「お姉様は知っているの? きれいで小さな私の人形、何が詰まっているのかを」
フランの声に空気が震えた。
そうして。
人形はバラバラのままだった。
バラバラになった人形の手足がどこかへいってしまったから。元には戻らなかった。
「手足が足りないから、戻せないの?」
足りなくなっては壊れたものは直せないことを、フランは知った。
お気に入りの人形はどこかへいってしまった。
そうなると、この陰鬱な部屋は一層、静寂の色を濃くさせる。
日に三度の来客以外、ここに変化は見られない。私は時間をこのまま腐らせるよりも館の中を歩き回ることで少しでも有意義なものにしようかと考えたが、今のお姉様の機嫌が地面に擦りあうくらいの高度であることを思い出してやめた。
やはり、お気に入りの人形の代わりにしようとしたのはいけなかったと今にして思う。
あのときの私はどうかしていたのだ。あいつは確かに人形みたいにきれいで小さいが、可愛げが全くない。ためしに人形になったあいつと遊ぶ姿を想像したら、撫でた瞬間に腕が胴とお別れをした。可愛げだけでなく容赦もない。
あんなものを愛でるなどそれこそ気が狂っている奴くらいなものだ。
「妹様。お食事をお持ち致しました」
「あ、気が狂っている奴」
「はい?」
ノックの音の後に入ってきたのは今日で二度目の来客者だった。
咲夜の動きに続けて配膳車がキイキイと鳴いた。
「ああ、なんでもないよ。こっちの話だから」
「はあ、そうですか。メニューはクラブハウスサンドです。具はローストチキンをブラッドソースでじっくり煮込んだものですよ」
咲夜は必ず食事を持ってくるとその説明もしてくれる。
私がいつも暇そうにしているからだろうか。それとも、他の奴にもしているだけなのかもしれない。
多分、後者だろうが、前者の意味もあると思う。咲夜はそういう人間だ。
私のあごがキツネ色に焼けたパンの上空で、ゆっくりと、そんな考えをめぐらせる頭とともに動く。
二十分後、私は最後のパンを食べ終える一方で、皿の隅にパンのかけらの小さな山を築き上げる。そうして、人差し指と親指でつまみ上げようとしたところで咲夜の視線を強く感じたのですぐに手を引っ込めた。
食べ物を無駄にするのは、はしたないことではないと思う。
「……妹様、お暇で仕方ないと仰るならば、何か普段はやらないことをされてはいかがですか?」
「やらないことなんてないよ。やらせてもらえないことならいくらでもあるけど」
童話に出てくる魔女のように意地悪く、私は言った。
むぅ、と咲夜は言葉につまっている。そんな姿を見て私はほくそ笑んだ。けれど、あんまり咲夜に意地悪しても得にはならないことを私はよく知っている。少ししてから答えてあげた。
「そうね。料理、してみたい」
「お料理……ですか」
「そう、作ってみたいの」
勿論、ずっとそうしたかったわけじゃない。今この場で適当に思いついたものだ。今日のクラブハウスサンドとやらが美味しかったから、というその程度の理由からできた願望だ。
どんなことであれ、どうせお姉様は許可してくれないだろうし。
「わかりました。この咲夜、最高の食材を用意して作り方の手順から盛り付けまでお教えさせて頂きます!」
しかし、咲夜はまるでそれが長年の悲願であったかのように受け取った。
ああ、あの妹様がお料理に興味をお持ちになるなんてっ、早速お嬢様に許可をっ、などと呟きながら配膳車とともに凄まじい速度で出て行った。
ガシャン! パリンッ! とまるで食器類の破損する小気味のいい音が部屋の外から聞こえたがおそらく気のせいだろう。
彼女は完全であり瀟洒である。
「ああっ、お皿が!」
彼女は完全であり瀟洒であると思いたい。
「ご用意できましたよ、妹様!」
「早っ」
間隔の短いノックの後に入ってきた咲夜は興奮気味に私の前まで詰め寄った。
料理をしてみたい、などという突拍子のない私の願い事がまさか言い出した次の日に叶ってしまうとは思わなかった。
いや、それ以前に。
「あいつは何て言っていたの?」
「はい。お嬢様からは快くご許可頂けました」
「……何かの間違いじゃないの、それ」
「いえ、本当です。ただ作るのはクランベリーのタルトにしろと仰られましたが」
あいつの好物だった。なるほど、私をだしに使って咲夜のお菓子で三時の時間帯を充実させようということか。あいつの魂胆がわかって安心する。
同時に、掌の上で踊らされているということに少し苛立つ。何とかあいつの魂胆を打ち崩すことはできないのだろうか。
しかし、とそこまで考えて私は目の前の従者に目をやった。やる気で満ちているその様子から、今さら料理をしたくないと言っても聞かないと思う。
「さあ妹様、どうぞ厨房へ」
「……ん、そうだね」
仕方なく私は咲夜の後に続いた。足取りは自然と重くなる。
思わず溜息を吐いたが、出てくるのは乾いた苛立ちだけだった。
厨房に着いて、まず咲夜から食材について説明された。
中央の台には様々な調理器具や食材が鎮座している。
「食材はすべて最高のものを用意させて頂きました」
右からクランベリー、バター、砂糖、卵、ラム酒、薄力粉、とそこまで目で追っていた私はふとこの場に似つかわしくないものを見つけた。
「咲夜、これは?」
指を指したそれは肩まで伸びた真っ白な髪の毛に真っ赤なリボンを結び、そしてとても似合わない灰色の、ボロボロになった布を纏っていた。
「はい。食材は新鮮なものを使わなければならないのですが、今回は妹様もご一緒にお作りになるということなので直前まで血を抜かずにおく必要がありました。今は眠らせてます」
つまるところ、赤く甘い液体の器だった。
外見は自分と同じ背格好だったのでまだ若い少女だと思う。しばらく見つめるうちに少女に送る私の視線は石よりも硬くなっていた。それは、この館には真っ向の位置にあるその色合いが珍しく、そして何よりも。
「妹様、どうされました?」
私があんまりにも熱心に少女を見ていたので、咲夜は何事かとたずねてきた。
「すごく、きれい……」
真っ白で。真っ赤で。私にはそれがとても眩しく感じた。
近づいて閉じた目蓋をこじ開けると瞳は真っ黒だった。じっと見つめると、濃密さはどこまでも高まった。背筋に甘い痺れが奔る。
壊れたお気に入りの人形と再び出会えたかのように私の動悸は激しくなった。
「咲夜……この子、欲しい」
「え、と。妹様、これはこれから使う食材でして」
返事は聞かず、言うだけ言って私はその少女を持って帰った。咲夜の制止の声が聞こえるがそんなものは知ったことではない。
料理も、もういらないし、あいつの魂胆を潰すこともできる。考えれば考えるほど、最良の選択肢だ。
ふふ、と思わず口から漏れた笑い声は、咲夜の覇気のない泣き声と混じって消えた。
その日のおやつにでたクランベリーのタルトは舌に絡まる甘さが足りなかった。けれど、あいつの悔しそうな顔が私の舌を寛容にしてくれる。
食べ終わった食器を片付ける咲夜のひどく残念そうな表情に反比例して、私の顔には花が咲いた。
「お目覚め?」
「…………」
反応がない。もう一度、たずねる。
「お目覚め?」
「……っ!!」
目覚めた少女は一瞬にして私との距離を三倍までに増やした。
そんなに怖がらなくてもいいのに。
タルトを堪能してから、私はずっと少女のそばに座って、彼女が起きるのを待った。揺すって起こしても良かったが、甘い熱に浮かされた今の私はそれを行動には移さなかった。
「ねえ、遊びましょう」
そう言って少女に私は近づいた。ひっ、と短い音が聞こえた。
その音が命じているかのように私の歩みはゆっくりとしたものになる。
徐々に近づく。
少女は互いの距離を増やそうとする。
徐々に近づく。
少女の両の足がもつれる。
徐々に近づく。
少女は腕も使う。
徐々に近づく。
少女は這う。
このまま鬼ごっこを続ければいずれ壁まで追いやれる。しかし、今の私はそこまで辛抱強くはなかった。
「乱暴にはしないよ」
「……っ」
「大事に大事に、遊ぼうよ」
「……い、や」
少女は私の我慢に応えてくれなかった。
後、もう数歩も進めば追いつける。その柔らかな白に指を差し込めるし、滑らかな赤に包むように触れることもできる。しかし、少女の顔をじっと見つめると、内からでてくるものは先ほどのような高揚感ではなく、粉々に砕けたクッキーを見たときのような不快感しかでなかった。
肋骨の下あたりにぽっかりと穴が開いたことを私は感じた。
このまま進めば、きっと穴がますます大きく、冷たく、空っぽになってしまうだろう。私はそれを経験からよく知っている。
仕方なく私は少女とは対極の位置に座り、彼女をぼんやりと眺めることにした。視界に映ったのは可哀想なくらいに困惑している少女。
そして、三時に食べたクランベリーの甘さはもうどこにもなかった。
一日が経った。
咲夜はいつもの倍の量の食事を持ってきてくれた。こちらが言わずとも気遣ってくれる彼女は、やはり完全であり瀟洒であった。赤くない食事が少女に渡された。
始めは食事に手をつけなかった少女は、しかし、時間とともにやってくる胃袋と口蓋に対する攻撃には抵抗する術を持たなかった。
距離は相変わらずのままだったが、少女と同じものを食べることに私の心はどこか浮ついた。
フォークと皿の衝突する音だけが耳に響く。それは少女の小さな悲鳴よりとても心地良いものであることには違いない。
「ねえ」
食事を終えて、十分な時間が経過した頃を見計らって私は再び呼びかけた。
対する少女は、黙ったままだった。そうしているとやはり、お気に入りの人形だ。嬉しさは私を鼓舞し、呼びかけを続けるよう指示する。
「ねえ」
しかし、確かに言葉が一つ一つ宙に漂い、少女のまわりをぐるぐる回っているのに、少女はまるで相手が食用に適さぬことを認め合った生物同士の無関心ぶりを装っているかのような振る舞いだった。
クランベリーの甘さもすっかりなくなってしまっている私はわずかな苛立ちを覚えたが、これをどうにかやり過ごそうと言葉を変えることにした。
「あなたの髪、真っ白でとてもきれいね」
びくり、と少女が震えた。そうして、少女は糸のように細い声で、……きれい? と言葉を吐き出した。
「ええ、とてもきれいね。ふわふわの雪のよう」
そう返答した私を、少女は初めて両の目で見てくれた。
瞳が交わり、私の意識はまた石のように硬まった。影のように黒いのにその奥に光が宿っている。見開きすぎて、痛くなった目はその光を、輪郭をおぼろにした。古い古い記憶を辿り返すように濃密さが薄れていくのを感じて、慌てて私は視線を外した。
「この髪……真っ白で、でもみんなは黒いから、わたし……おかしいって……いらないって、言われて……」
私が頭をぶんぶんと振っている最中、少女はぽつりぽつりと話してくれた。ミウリだとかコジだとかよくわからない言葉は、無視した。
そうして、私たちは部屋のドアが二度目の来訪をノックで知らせるまでずっと言葉を交わした。互いの距離は徐々に短くなり、相手の髪の一本一本がわかるまでに近づいた。
それ以上に、私は少女の笑顔がお気に入りの人形とそっくりだったことに満足したのだった。
「あなたの羽……とても澄んでいてきれい……」
「そうかな。自分のだからよくわからないや」
部屋にある変に大きくて古い時計の針が何十、何百と回った頃には少女の表情は、大分柔らかなものになった。
少女の手が、私の羽をゆっくりと撫でる。くすぐったさと温かさが同時に伝わった。
「妹様。おやつの時間です」
咲夜がそう言って、出したのはパンケーキだった。クリームも何も乗っていないがこんがりと黄金色に焼け、その香りは鼻腔をたっぷりとくすぐった。
付け合せのソースを置いて、咲夜は出て行った。
ソースは真っ赤に、深く深く真っ赤に染まっていた。私は自分のものと少女のものにソースをかけた。若干、少女のものにかけたソースの量を多くして。
一切れフォークで刺して口に運ぶ。その舌に絡みつく甘さに私の心は、大きく古い時計の長針のように躍動した。
カチン、と音がした。
見ると、少女が固まっていた。
いったいどうしたのかと聞く前に少女は口内にあるものを叫び声とともに吐き出した。
「血っ……! 人の……血っ!! お母さんとお父さんの血っ!!!」
髪を振り乱し、その細い腕のどこにあるのか見当のつかない力で、少女は私に掴み掛かった。少女の瞳には昨日のような光はもう消え失せ、高ぶった気は雨粒のように弾け飛んでいる。
私はいったい何が原因かはわからなかった。
しかし、いったい何が起きているのかはわかった。
真っ白な髪は、赤いソースに塗れた。
真っ赤なリボンは、染みをどんどん大きくさせた。
真っ黒な湿った瞳は、ただのガラス玉になっていた。
きれいなお気に入りの人形は、きたないガラクタに成り果てた。
私の耳にはまだ、キイキイと配膳車のように擦れる音が押し込まれる。その音がどうしようもなく、不快だったので、私は音を消した。
ブツン
人形の糸は切れ、地に倒れる。
私の浮ついた心は既に足をついていて、舌にはねっとりと絡みつく甘さが霧散した。
あるとき、フランはお気に入りの少女をバラバラにした。
「どうしてこんなことをしたの?」
私は静かにそうたずねた。
「お姉さまは知っているの? 真っ赤なリボンの私の人形、何が詰まっているのかを」
フランの声に空気が震えた。
そうして。
少女はバラバラのままだった。
バラバラになった少女は何一つ欠けていないのに。元には戻らなかった。
「手足はあるのに、戻せないの?」
いったい何が足りなかったのか、フランは最後までわからなかった。
大事に大事に遊んだのにね
壊れるくらいに遊んで、力の加減を知らずに、曲げて、ひねって、ねじ切って、いつの間にかバラバラに・・・本当に、無邪気さほど、純粋な狂気はありませんよね?
フランドール程の力があれば、おもちゃもすぐに壊れてしまうでしょうね。
咲夜が健気で可愛かったです。
このフラン、好みです。
おもちゃの持つ魅力が損なわれた瞬間から、持ち主はそのおもちゃに対して関心を持たなくなります。
つまるところ、フランは純粋故におもちゃを壊すのでしょうね。
そして、それが傍から見れば狂っているというだけで。
それはともかく、この雰囲気いいなあ。
かっけえ。