【小悪魔のメモ用紙】
人間=潜在的または顕在的に人語を解する程度の能力を有する者たちの総称。身もふたもない言い方をすれば、名前のあるキャラ全部と中ボス、それと人間種族。
注:種族としての人間のことを指すときはその旨を特に明記する。(例:人里に住む人間種族たちの暮らしぶりは地獄や冥界よりも厳しいものであり――)
破壊=存在論的な滅亡。エントロピーが極大化した状態。つまり熱死。ゆっくり死んでいってね。
破滅=人間の部分対象を破壊すること。
部分対象=レミリアにとってのカリスマのような概念。心の中核。もうあなたしか見えない。学問的な定義とは異なる可能性あり。単なる雰囲気づくりとも言う。
レミリア=カリスマがなければただの幼女吸血鬼。
フランドール=幼女吸血鬼。性格がレミリアより幼くコントロールしやすい。
咲夜=時を操るメイド長。本記述においては受動的立場。お嬢様萌えという名の淑女。
美鈴=気を使ってばかりの冴えない門番。優しいだけじゃ生きていけません。
パチュリー=むきゅってなっちゃうよ~♪
本記述=半分は優しさ、半分はミステリーでできている。患部で止まってすぐ解ける。イージーモード。小悪魔分多め。
文責=あなたの親愛なる小悪魔。
紆余曲折あって、咲夜は吸血鬼の眷属になることを決めた。
レミリアに家族になれといわれたか、ずっといっしょにいてくれなきゃヤダーと泣きつかれたのかは謎であるが、ともかくなろうと決意した。
ところで、吸血鬼化の必要条件はすべての血を吸い尽くされることにある。
もしも吸いきらなければ単に貧血になるだけである。
問題は彼女の主であるレミリアが少食であり、吸血鬼化にいつも失敗していることだった。
何度も何度も失敗し、いい加減、業を煮やしたレミリアは最終手段にでた。
すなわち、愛妹たるフランドール・スカーレットにもいっしょに吸ってもらおうという算段。
「で、こういう状況になった、と……」
パチュリーは興味深そうに状況を眺めていた。
小悪魔は口に手をあててニヤニヤしている。
美鈴は哀れそうな目で見つめ、そっと目を閉じた。
十六夜咲夜は無事(といってよいのかは価値観によるだろう)吸血鬼化することに成功したのであるが、問題は誰が見ても明らかだった。
羽が、左右で違うのだ。
具体的に言えば、左側からレミリアが吸い、右側からフランドールが吸ったせいか、そのまま左側の羽がこうもり羽になり右側の羽が宝石羽になってしまった。
これは非常に見た目がよくない。
主にバランス的な意味で。
しかし、もっと重大な問題がある。
吸血鬼にとって眷属あるいは血族というのは非常に重い意味を持つ。わかりやすい比喩表現をすれば家族に等しい。
吸った者がいわば親、吸われた方がいわば子。
そうなると、この場合の子は十六夜咲夜にほかならないのであろうが、問題となるのは親はどちらになるのかということである。
レミリアとフランドールは当然、自らの『親権』を主張した。
どちらも初めての子だった。
執着も吸血鬼的な意味で並々ならないものがある。
しかも、子にあたる者は十六夜咲夜。
レミリアにとっては当然のことながら、フランドールにとっても少なからず執着心がある。心が幼いフランドールにとってはお気に入りのお人形さんのようなもので、自分のものだという思いが強い。
子育てはお人形遊びの延長だと評したのは誰だったか。
そんなわけで、レミリアとフランドールはお互いの親権を頑として譲らず、咲夜にお猿さんのようにべったりとくっついていた。
吸血鬼化したときと同様に、左にレミリア、右にフランドールという状況である。
「そろそろ離れていただかないと、きついのですよ。お嬢様」
咲夜は疲れたようにレミリアに言った。
実際疲れているのだろう。生まれ変わったばかりで、いまの咲夜は赤ん坊のようなものだ。
対してレミリアは勢いよく喋る。
子どもは黙っていなさいと前置き、
「フランが悪い。フランが諦めればいいのよ!」
「お姉様があきらめるべきよ。大人気ない。ついでに言えばカリスマもない」
「ふざけろ。よく見なさい。咲夜の羽はわたしのこうもり羽のほうが黒っぽくて雄として存在感を放っているじゃない。咲夜はわたしの血族よ」
「いいえ、お姉様はまちがってる。闇夜にまぎれたらこうもり羽なんてぜんぜん見えないじゃない。そこんとこいくとわたしのカラフルな翼は目立つし、存在感だって負けてない!」
「咲夜の髪の色はわたしの髪の色に近いわ」
「もともと咲夜が銀髪だっただけじゃんっ!」
「わたしが先に吸おうとしたの!」
「わたしに手伝ってと頼んだのはお姉様じゃない!」
「妹のくせに!」
「姉のくせに!」
やいのやいの。
こんな調子で咲夜が生誕してからずっと二人の言い争いは続いている。
「なんとかしてください。パチュリー様」
「無理よ。一度吸血鬼化したら、それは不可逆的な反応なのだから取り返しはつかない」
でも、とパチュリーはつけくわえる。
「要するに、吸血鬼化するというのは自分の固有因子を他者に分け与えるようなもので、固有因子どうしが拒絶反応を起こす可能性は高いとも思える」
「どういうことですか」
「つまり、どちらかの血が他方の血を駆逐する可能性が高いということよ。そうなれば、自然とどちらかの羽になるでしょう」
「黙っておけばいずれ安定すると……」
「そうね、そうなればどちらの子になるのかはっきりするわ」
時間が解決してくれると思うと、咲夜はいくぶんほっとした。
しかし、レミリアとフランドールは黙っていない。不作為のままで満足できるほど精神的に成熟してもいなかった。
レミリアがまず口を開き、一気呵成の勢いで喋る。
「どうやればわたしの因子が有利になるの!?」
「ず、ずるーい。お姉さまばっかり。わたしにだけこっそり教えて」
ずいずいと迫られて、パチュリーは迷惑そうだ。
「わかるわけないじゃない。そもそもあなたたち吸血鬼は子作りをあまりしない種族なの。こんな状況になったことなんて歴史上初めてなんじゃない?」
「推測でもいいわ」とレミリア。
「心因的な要素がもしかすると少しは影響を与えるかもしれないわね」
「つまり?」
「つまり、咲夜がどちらになびいているのか、どちらが心に占めている度合いが高いのか、そんな要素が深く関わってくるんじゃないかしら」
「よし。よしっ! よーしっ! ディモールト、よし!」
レミリアはぐぐぐと身体に力を入れて、喜びをかみしめる。
主従関係がある自分にあきらかに分があると思ったからだ。
フランドールは顔をしかめた。負けると思ったからではなく、レミリアがまるで勝ったかのような振る舞いをしていることが妙に悔しいと感じたからである。
「あきらめておとなしく引きなさい。負け際を見極めるのも大事よ」
「うるさい。お姉様は勝った気でいるけど、咲夜は本当はわたしのことが好きなんだから」
レミリアは嫌な顔になった。
勝利の美酒に満たされていたところに、いきなり泥を混ぜられたような気分だった。
「べ、別にいいわよ。わたしの勝利は確実なんだから。咲夜はわたしのもの。わたしの愛娘。だから、ママであるわたしがいっぱい愛でるの。かいぐりかいぐりして、ぎゅーして、ちゅーして、育てるの」
「お嬢様、わかりましたから、離れてくださいませ。そろそろお掃除を始めなければ予定どおりに進みません」
咲夜はレミリアをかいぐりかいぐりして、ぎゅーして、ちゅーして、その場から離れた。
どっちが子どもなのかさっぱりわからない。
ただ、レミリアは満足げな表情だ。
「フラン。あきらめて負けを認めなさい」
「お姉様こそ!」
それから三時間ほど吸血鬼姉妹の言い合いは続いた。
最後のあたりは、もはやバカとかアホとかの応酬で、本当に五百年近く生きてきたのかと思われるほど低レベルな争いであった。
「どうでもいいですけど、もし自分の子じゃなくても、とりあえず姪になるんじゃないですかね……」
美鈴はパチュリーに意見を求める。
その意見はもっともなところで、パチュリーも頷いた。
「でも、それじゃあ納得できないこともあるんでしょ。まったく難儀なものね」
と、まあ――、そういった次第で、血塗られた家族戦争が勃発した。
「とはいえ、どうすればいいんだろう」
フランドールは自室のベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせている。彼女は困っていた。
仲間がいない。
最終的には咲夜が自分のことを好きになってしまえばそれで勝利であるのだろうが、ひとりでレミリアに挑もうとするほど彼女も蛮勇ではない。稚気溢れる精神ではあるものの、さすがに495年生きてきたなかで老成された知恵というものも持っている。
仲間が必要だ。それも役にたつ、自分にとって手足になる仲間。
美鈴のことが頭に浮かんだ。
だめだと思った。
そりゃあ、最近友達になったチルノやルーミアたちに比べれば頭はいいだろう。けれど美鈴はレミリアに絶対の忠誠を誓っていて、フランドールに従っているのはいわば、その派生的な形である。したがって、レミリアの不利益になることを簡単にはしそうにない。
だとすれば、パチュリーはどうだろうか。
確かに仲間にできればこれ以上なく頼りがいはありそうだ。
行動力はないものの、不動図書館と呼ばれる知識と知能はどこぞの薬屋に匹敵しそうなほどであるし、軍師としての効能は計り知れないものになるだろう。
問題があるとすれば、パチュリーはレミリアの友人であるということである。
人間関係で言えば、フランドールはやはり間接的な関係であるといえるし、どちらか一方を選ぶ段階になれば、レミリアのほうを選択しそうだ。
獅子身中の虫をわざわざ飼う必要もないと思った。
考えてみれば、フランドールが気ままに破壊の力を行使するたびに、さんざん迷惑をかけてきたという黒歴史もある。
「うーん……、紅魔館は人材不足ね」
そこらにいるメイドはそもそも話にならない。フランドールの姿を見ただけでクモの子を散らすように逃げていくのが関の山だ。
咲夜も今回は中立的な立場をとらざるをえないだろう。
「だれか、わたしを助けてくれそうな子、いないかなぁ……」
「わたしでよければ、お力添えしましょうか」
「だれ?」
ドアの向こうから聞こえてきた声は、クククと小さく笑い、そしてかわいい媚びた声で言った。
「わたしです。あなたの誠実なる小悪魔ですよう」
「小悪魔かぁ……」
力は最低クラスだが知恵や知能はそれなりに高そう。
フランドールのことを恐れていないこともポイントに加算すれば――。
合格。
すぐに判断した。
「よし、じゃあ小悪魔。よろしくお願いね」
「おまかせください。フランドール様」
今回、小悪魔は『妹様』という特殊な人称代名詞ではなく、フランドールという名前で呼ぶことに決めていた。妹様という言葉には多少なりとも妹という社会的地位を付与する効果があるので、そうなって自制心が生じるのを防ごうとする意図である。
しかし、フランドールがそこまで思い至るわけもなく、まったく違和感もおきなかった。
「小悪魔。どうしたらいいと思う? わたしの能力だと咲夜に好きになってもらえない」
すべてを破壊する程度の能力。
それがフランドールの能力である。物にはすべてウィークポイントがあり、それを『目』という。フランドールは『目』が見えて、それを自分の手の中に移動させることができる。『目』を握りつぶしてしまえば、対象は存在論的なレベルで破壊される。
フランドールの能力は恐怖の対象にこそなりはすれ、誰かに好きになってもらうという点に関しては足かせ以外のなにものでもない。
そのことはフランドール自身も自覚していた。そんな能力のことが少し嫌いだったりもする。
「それは違いますねー」
小悪魔は笑みを浮かべてやんわりと反論した。
「どうして? 壊してもなにも生まれないし、壊しても怒られるだけだよ」
「それはですね。やきもちを焼いておられるのですよ。人間というものは全的な破壊に対して一種あこがれすら抱くものです。そうでなければ、どうして兵器などというものが生まれましょう。外の世界では噂によると世界を滅亡するに足る兵器すら存在するそうです。自らの全的破壊、全的死をいったいどうして作り出すのかといえば、それはあこがれを抱いているからに他ならず、人間というものは滅びを受け入れ、羨望こそすれ、恐れているというのは建前でしかないのです。いや正確にいえば恐怖という感情はけっして忌避の感情を抱かせるばかりでなく、恐れているがゆえに、ひざまづき、その比類なき足にくちづけし、赦しを願ったりするものなのですよ。まるで美しい一組の詩のように呼応していると思いませんか」
『お赦しを』→『滅びなさい』
「極論すればそれは愛の詩に他ならず、これ以上の赦しはないのです。どうでしょう。これでおわかりになりましたでしょう。フランドール様の能力は完全で純粋な破壊をもたらすものでありますから、それは人間の本然的な欲望を充足するものであり、そんなものを自分ではない者が持っているのは許せないと他者が思うのも無理からぬことなんです」
「ふうん……、よくわからないけど。具体的にわたしはどうすればいいの?」
「難しいところだとは思います。言わば破壊は平等の力です。穢されたことのない処女のように純粋無垢な力が結実したものです。しかしここで問題となるのは、またしても人間のどうしようもなさです。人間とは自己中心的な生き物ですから、世界よ滅べと思うと同時に自分だけは絶対に滅びないだろうという傲慢でねじれた心を有しております。アレキサンダー大王が何千と飛んでくる矢の前に裸身をさらすのもそのゆえにといえますし、近所で殺人事件が起こったところで、決して自分には被害は及ばないのです」
小悪魔はやれやれのポーズ。
「ところで先述した滅びの炎は決して消え去ることはなくむしろ燃え盛っています。内奥に秘められたこの滅びの炎は、身体を熱く焦がし、その熱に浮かされて人間は他者を虐げ、暴力を振るい、いじめるのです。それらはいろいろな動機によって裏打ちされていますが、結局のところ人間の本質的な原理、すなわち滅びの原理を擬似的に体験したいという欲望に他なりません。人間の精神はいろいろとごっちゃになっていますから、遊びと真実の区別をつけることができない。ですから、いざ真実の滅びが訪れても、驚き恐れてしまい、表面的な生物学的反応にもとづいて生き残りたいと思ってしまうのです。実にもったいない。人間がこんなにも綺麗に物化する方法はそうそうなく、こんなにも完全へと帰す(いいですか。人間は消滅によってのみ完成するのですよ)方法はそうそうないというのに。ただ与えられる滅びに、愚かな人間は逃げ惑い、無様な踊りを踊るしか能がないのです。詩に対する感受性が足りないのでしょう。残念ながらパチュリー様も引きこもって本ばかり読み、頭でっかちになられているせいか、そういう芸術的な感性には乏しいのですよ。ああ、パチュリー様がかわゆすぎて妊娠しちゃいそう……」
小悪魔はびくんびくんと身震いした。
気が触れたように振舞ったところで、フランドールはそれが常態であったから気づかない。
「ようするに、破壊の能力を使っちゃだめってこと?」
「そんなことはありませんよ。一番良いのは咲夜さんを破壊してしまうことでしょう」
「そんなの絶対ダメ! お姉様が怒る」
怒るどころじゃすまないだろうと小悪魔は考えたが、もちろん予測したとおりの答えだった。
「もちろんそうなりますね。それにフランドール様も咲夜さんが欲しいと思ってらっしゃる。物として手に入れてしまえば済む話だと思いますが、心という形なきものが欲しい場合、それも叶わない。難しいところです。ですが方法はまだ残されております。次善の方法は他者の手に渡らせなければいいのです」
「咲夜とお姉様の関係は壊せないよ。形がないもん」
「聡明な判断です。ですが、形がないものでも壊すことはできるのですよ」
「どうやって?」
「わたしの能力で」
「ん……小悪魔って弾幕出すぐらいしか能力がないんじゃなかったの?」
「もちろん記載されるほど特殊な能力でもありませんし、ごく普遍的な能力ですからね。フランドール様の全的な破壊に比べれば、なんのことはないゴミのような能力です」
「教えて」
「――ありとあらゆるものを破滅させる程度の能力」
「え?」
「わたしの能力を名づけるとするなら、そういう呼称がふさわしいかと」
ただし、これは単に呼称の問題であって、別に小悪魔が特殊な能力を有しているわけではない。小悪魔自身が言ったとおり、単に言葉をつくし行動をつくし利害誘導し、結果として破滅へといざなうにすぎない。フランドールはよくわからないといった感じで、ふにっとした声をだした。
「破滅と破壊って同じじゃないの?」
「いいえ。破滅とはフランドール様の全的なものとは違い、部分対象の破壊のことを指します」
「部分……?」
「そうです。人は自己の心的構造のなかに支柱となるべき観念を置いています。それが部分対象。わかりやすく言えば、『だいじなもの』という感じですかね。まあ複数でもかまわないのですがおおよそ単一であることが多いです」
「それ使ったことある?」
「そうですねー。ここではないどこかで使ったことがあるような気もしますよ。たいしたことはないのです。たかだが年収三百万程度の公務員が贈収賄で捕まり豚箱に入れられて、その人にとっては『誠実で信頼される自分というイメージ』が部分対象だったんですよねー。そんなイメージを自分の心のよりどころにしていたんです。それが破壊された。残るはがらんどうの肉体だけです。堀の中で彼はとても虚ろな目をしていました。そうやって部分的な滅びによって、ようやく彼は全的な滅びを受け入れる準備ができたのです。まあ残念なことに、最後はオリジナリティのかけらもない首でブランコでしたけど」
「ふうん。よくわかんないけどわたしの能力とちょっと似てる感じだね」
「ええ。まあそんなところです。けれど肝要なのは全部壊すわけではなくちょっぴり壊すところですよ。しかも全的ではなく個別的な滅びの力です。ですからフランドール様が咲夜さんを所有する余地が残されていることになります」
「わたしができることはないの?」
「咲夜さんが一人きりのときを見計らって、できるだけ仲良くすることですね」
「他には?」
「レミリア様とはあまり口を利かないことです。決着がつくまでは相手に情報を与えてはいけません」
「口を利かないぐらい簡単よ」
「さすがです、フランドール様」
「あとはー? あとはー?」
「あとは、ですね……。そうですね。すこしでも事態を有利に運ぶために美鈴さんに協力を仰ぐのはいかがでしょう」
「ふむふむ。でもお姉様に絶対服従してるから難しいんじゃないかな」
「ま、こういうときこそ賄賂ですよ。美鈴さんにとってフランドール様ももちろん上の方にあたるわけですし、そうそう逆らえるものでもないでしょうからね。ちょっと利害で揺らすだけでずいぶん違うものなのですよ」
「ふうん。そんなものなんだ。小悪魔って頭いいね」
「さすがにパチュリー様には叶いません。ひひ。言い忘れていましたが、今回フランドール様にご助力させていただくのはわたしの独断です。パチュリー様はレミリア様のご友人であられるので、少々わたしの立場は危ういものとなってしまいます。なので、どうかこのことはご内密に」
「わかった。わたしと小悪魔の秘密だね」
「ええ、秘密です」
小悪魔は小さな小指をフランドールに差し出す。
しばし不思議そうに見つめていたフランドールだったが、ようやく得心がいった。
「あ、それ知ってる。秘密の約束をするときの契約儀式でしょ」
「そのとおりですよ」
小悪魔とフランドールは小指を蛇のようにからめあった。
そして、古くから伝わる呪詛を二人して唱えた。
「指きりげんまん、嘘ついたら、針千本飲ーます♪ 指切った」
邪悪な儀式、完了。
「美鈴さん。美鈴さん」
「ん?」
美鈴は背後から呼ばれた気がして振り返った。
いない。
誰もいない。
上にも横にも。
今の時間は、美鈴一人で門の警備をやっているはずだった。
だから、他の警備の者が声をかけてきたとは考えにくい状況である。
美鈴は首をひねった。
「あれぇ。なんか呼ばれた気がしたんだけ――どわぁ!」
目の前にはいきなり小悪魔がいた。
いつもと違い、にっこりと太陽のようにまぶしく笑っている。その代わり、もちろん心のなかには真っ黒な影が落ちている。
美鈴は小さく胸をなでおろした。
別に胸が小さいわけではないことにご注意。
「びっくりさせないでくださいよ。もうっ」
「ひひ……、今日はですね。美鈴さんに良いものをもってきたのですよ」
「はぁ、なんですか。革命者の生写真とかだったらいりませんよ」
「おや、脂ぎったオジさまとかに興味がおありで?」
「だから、違いますって……」
「はは、冗談ですよう。今日はそんなものじゃないのです。端的にいって――」
小悪魔は少し時間を止めた。
実際に止めたわけではないが、わざと言葉をいったん切った。
こうすることで、話に引きこむことができる。
「賄賂を持ってきたのです」
「賄賂?」
美鈴は顔をしかめた。清廉な心で忠義を尽くす彼女にとっては、賄賂という言葉そのものが不快だった。ただ、小悪魔という人物に対しても紅魔館の一員であるという思いがあるので、いきなり食って掛かったりはしない。
その程度は小悪魔も計算できている。
「すいませんねえ。賄賂といわざるをえないのは、まあ形式的にはそうなっている面があるからなのですよ。もちろんそれは形式上という意味合いしかなく、実際上は違います。ですが美鈴さんは清流のように濁りのない心をもってらっしゃいますから、わたしとしても最初にそういうことは断っておこうと思ったのです」
「はぁ。ちょっと照れますね。で、いったいどういうことなんですか?」
「はい。吸血鬼なお嬢様から美鈴さんのプレゼントをお渡ししてくれるように頼まれました」
小悪魔は言う。あえて指摘するまでもないがフランドールも『吸血鬼なお嬢様』である。
この場合、嘘と沈黙の差異はほとんどゼロに等しいが、小悪魔はそんなに嘘をつかない。嘘をつかないで騙すほうが楽しいからだ。そのほうが愛らしさが窺える。
――人間が無様に騙される痴態は本当にかわいらしい。
という見解の持ち主なのである。
もちろん、美鈴はレミリアのことだろうと考えた。
「お嬢様がわたしのために……」
「この卑小なるわたくし小悪魔を介して渡すように頼まれたのは、おそらく他の方との間で嫉妬やらなにやらが起こらないようにすむためでしょうね。美鈴さんだけがご寵愛を受けているとなれば、それはもうパルスィしてもしょうがないですから」
「ぱ、ぱる?」
「ジェラシーです」
「ですか。でもそれだとわたし受け取れません。ほかのみんなとわたしはあくまで対等ですから。みんなの力があるからこそ、ここ紅魔館を守ることができているのです」
「同位というわけですか。しかし、門番をしている美鈴さんの忠節をお嬢様はよくご存知なのでしょうね。さきほどは他の方が嫉妬してしまうとはいいましたが、逆に忠義にはしかるべき褒章が与えられなければ、それはそれで問題ですよ。なぜなら他の方が受け取りにくくなってしまうでしょう?」
「まあ……、それもそうですけど。でも賄賂なんですよね。咲夜さんのことなんですか?」
「ええ、そうですよ。咲夜さんのことも含んでおります。ですがこのことはそれほど意味のあることではないのですよ。お嬢様はその気になれば咲夜さんのことを好きにできる立場にあります。その権利を今は『半分』は有しておられるのですからね。いわば親として子を律するのは父権主義的な見地からいっても妥当でしょう。ですから美鈴さんに求められるのは、この件に関しては中立を貫いてほしいと、ただそれだけなのですよ」
中立を貫くというのは、フランドールの立場からすればずいぶんと有利なことであるといえた。
なぜなら基本的にはレミリアに従うであろう美鈴を、フランドール寄りに引き戻していることになるからである。
小悪魔は続ける。
「ですから、賄賂といってもそれは形式にすぎず、実際上はそうではないのです。つまりどういうことかといいますと、これはお嬢様からは言わないでおいてほしいといわれたんですがね――。今回がいい機会だから、賄賂にかこつけて褒章しようという、そういう御心なのです。普段からのご忠義に深く感じ入ってはいるもののなんらかの機会がなければ、おいそれとは褒章できるものではない。上に立つものの苦悩です。慈愛溢れるお嬢様は寵愛ひとつとっても繊細に取り扱いなさる。どのように受け取られるのか不安に思いながら、寵愛ではないと必死にアピールしながら、実のところそれは美鈴さんに対するご寵愛に他ならないなのです。なんというツンデレ!」
「お嬢様が、わたしのために……」
そこまで想われては、さすがの美鈴も主人の気持ちを踏みにじることはできない。
美鈴は感動のあまり落涙してしまい、小刻みに肩を震わせていた。
「か、かわいい……」
と、小悪魔は美鈴の痴態を堪能する。
立場が許すのなら、ほお擦りしたいほどであった。
小悪魔は用意していたプレゼントをポケットの中から取り出した。
「スカーレット家のコインです。お受け取りください」
二枚のコイン。
裏にフランドールの顔が彫られたものが一枚。レミリアの顔が彫られたものが一枚である。
由緒正しいスカーレット家に伝わる黄金のコインだった。商品的な価値はそれほどのものではないが、歴史的な価値、それと忠節の証明としてはこれ以上のものはなかった。再び美鈴は感動してしまい、恐縮に身を震わせる。
「わたし、こんなに幸せでもいいのでしょうか」
「いいのですよ。このコインはお嬢様のお気持ちが形になったものなのです。お受け取りください」
「あ、でも……賄賂だし、でも受け取らないのもお嬢様のお気持ちに反するし……えーい。受け取っちゃえ」
コインは小悪魔の手から、美鈴の手に渡った。
美鈴は二枚のコインを代わる代わる眺めつつ、嬉しさと感動を抑えた表情になる。
仕草は自然とそわそわし、目はあっちへきょろきょろこっちへきょろきょろ、まるで挙動不審人物である。
小悪魔はいろんな意味で笑っていた。
「さて、美鈴さん。ひとつお願いがあるのですが」
「えっと、さっき言った中立って話ですか」
「いえいえ、そうではありません。清廉潔白なる美鈴さんがどちらか一方に肩入れするなど、わたしも思っていませんよ。そうではなく――、実はわたしのためにひとつ誓いを立ててほしいのです」
「いったいどうしたんですか?」
「わたし、こうしてお嬢様の使いとして美鈴さんにこっそりと賜った品を届けたわけですけれども。わたしがお嬢様の使いになるというのもそれはそれとして、嫉視の対象になると思うのですよ。たかだかパチュリー様の使い魔にすぎない(と言うことで、さりげなくパチュリー様も貶めることができて、なんだか嬉しい。ひひっ。ひひっ)わたしが、お嬢様のお使いをしているとなると、やはり問題です。ですから、だれそれから受け取ったということは決して口外しないでいただきたいのです」
「なんだ。そんなことですかぁ」
「わたし、小心ものなんで、そんな些細なことが気になってしまうのですよー」
「なるほどわかりました。決して口外しないと誓います」
「本当に?」
「本当に」
「絶対に?」
「絶対です」
「やっぱり心配だー」
小悪魔は不安そうな顔をつくり、美鈴のことを一心に見つめた。美鈴はたじたじとなって、一歩後退する。
「どうすれば納得してくれるんですか」
「そだ。よく人間がやってるじゃないですか。神の名前にかけて誓いますとかって……。まあ神というのは人間種族が作り出した巧妙な概念装置にすぎないわけですが、そうやって外部的な担保をとることには一応の意義が認められます」
「でも、わたし、一神教的な神様は信じてませんし。実効力がないように思いますけど」
「ええ、ですから――レミリア様の名前に誓ってください。それでわたしとしても安心できます」
「いいですよ。誓いましょう」
美鈴は右手を直角にあげて、神様に誓うように悪魔の名前に誓った。
「わたし、紅美鈴はレミリア・スカーレット様の御名前にかけて誓います。わたしは小悪魔さんがコインを手渡してくれたことを決して口外いたしません」
「誰にもですよ」
「誰にも言いません」
邪悪な儀式、再び完了。
【紅茶密室】
それから数日後、事件が起こった。
事件――、といえるほどのものなのかはわからない。
単純に起こった出来事は、ほんの小さなことであり、一般的なレベルで言えば単純な失敗と考えられてもしかたないような、そんなものだった。
しかし完全無欠のメイド長にとって、ほんのわずかでも仕事に瑕疵があるというのは、許せない出来事だったに違いない。
とある日の紅茶の時間。
レミリアはいつも決まった時間に紅茶を飲むようにしている。人間の血そのものを飲んだり、あるいはお茶を混ぜたりと、いろいろな味を楽しんでいる。
今日は血だけを飲もうと思っていた。
そう思っていたら、なぜかそう伝わるから不思議だ。
咲夜にはひとことも伝えていないのに、主人の気持ちを鋭敏な感覚で悟り用意してくれている。
ティーポットやカップ、血の分量にいたるまで完璧にセッティングしてくれる。
いつも、どのように感得しているのかはわからないがレミリアは感服するばかりである。
――まさに、完璧ね。
羽、以外は。
なにもフランドールのカラフルな羽が悪いと言っているわけではない。
フランドールのことももちろん妹として愛している。
しかし、咲夜には咲夜で、フランドールとは別の特別な感情があるのだ。愛という言葉では生ぬるい。言葉にするなら、ただひとこと強い結びつきとしか言えないもの。
そこに、ずかずかと踏みこんでこられるのは、さすがに妹でも迷惑だ。
なぜなら、愛とは排他的な独占を望むものであるから。
それに、こういってはなんだがバランスがとても悪い。咲夜の身体が傾いたらどう責任をとってくれるというのだ。
イライラしてしまう。
いけないいけない。
子どもができたらイライラするときがあるって誰かが言ってたけど、これのことかしら。
レミリアは思う。
ともかく、今は時間が解決するのを待てばいい。この磐石の信頼関係を突き崩すことは、たとえ破壊の権化たるフランドールでもかなうまい。
「お嬢様。お紅茶の準備ができました」
「咲夜、おねがーい」
「今日はB型の血でよろしいのですね」
「うん。なにも混ぜないでいいわ」
「そうだろうと思っておりました」
「さすが、咲夜」
「砂糖はいかがいたしますか」
「そうね。今日は三つな気分ね」
砂糖の数まではさすがに求めまい。直前に気分が変わる場合もあるし、そんなことをいちいち気にしていたら紅茶が楽しめない。
あくまで自然体で楽しむもの。
優雅な趣味なのだ。
咲夜は無駄のない綺麗な所作で、ティーポットからカップへと紅茶を注いだ。
瞬時にむせ返るような鉄の匂いが湧き立ち、くれない色に染まっていくカップ。
「いい色ね……。咲夜も喉かわいてない?」
吸血鬼化したばかりで喉がかわいているのではないかとレミリアは思ったのだ。
咲夜の視線が血に釘づけになる。
人間としての理性が、その正体を知っているせいか、多少嫌悪の情のようなものが湧いているようだが、他方で抗いがたい動物的な欲動も生じているようだった。
そのせめぎあい。
自分の中に生じた初めての衝動に、咲夜のいつもはほとんど揺らぎのない表情が、このときばかりは少し動揺しているように見えた。
「ドキドキしますね。なんだか」
「そうね。でも、咲夜の白い陶磁器のような喉もとに牙を突き刺すほうが、よっぽどドキドキしたわ」
「お嬢様……」
「まあ、それはそれ。今日からは、わたしといっしょに飲みましょうか」
「はい、そうします」
そう言って、咲夜はシュガートングを使って、砂糖壷から丁寧に砂糖のブロックを取り出し、紅茶の中に溶かしてゆく。
焦らすように一つずつ。
一気に混ざって味の調和を乱さないように。
さらり、さらり。
純粋な血だと溶けるまでに少し時間がかかるようだ。
ただ、暖めている血なので、すべて溶けきったようだった。レミリアは咲夜が自分の分を注ぐまで待っていた。じりじりと恋焦がれるような気分。こんなにも咲夜のことを近くに感じたことはついぞなかったはずだ。
二人して着席。
「咲夜、何に乾杯しましょうか」
「お紅茶で乾杯ですか」
「いいのよ。今日は初めて咲夜と血の味を分かち合う日なのだから」
「ではスカーレット家の繁栄に」
「ええ、乾杯」
チンとカップが触れ合う。
そして、そのとき。
事件は、唐突に起こった。
「ぐ。ぐひゅ」
レミリアが急に変な声を出したかと思うと、目を白黒させたのである。
ヤマザナドゥの判決中かと思うほどの急激な変化だった。
「どうしたのですか。お嬢様」
「ごほっ。ごほっ。これ、なにー? 咲夜ぁ」
飲んでいた紅茶をぺっぺっと吐き出し、レミリアはそのカップを咲夜のほうへと差し出す。咲夜はカップを受け取ると、化学薬品をかぐときの要領で臭いを調べた。
指先にほんの少し、血をつけて、ぺろりと舐めてみる。
鉄分の味にまぎれてよくわからないが、わずかにしょっぱい。
「塩!?」
「砂糖と塩まちがえるなんて、咲夜らしくもないわね」
「いえ、そんなはずは――」
砂糖壷はいつもの見慣れたもので見間違えようがない。咲夜は自分のカップに注がれた紅茶を飲んでみた。
なんだろう。
この味は、とてもフルーティで、甘くて、蕩けそう。
「いい味……」
「咲夜だけ飲んだー」
レミリアが涙目になって叫ぶ。まるっきりお子様モードである。
「すいませんお嬢様。口をつけてしまいましたが、よろしければこれは差し上げます」
「ん。あー、いいの? 悪いわね」
レミリアはおとなしく紅茶を飲み始める。咲夜はレミリアが紅茶に耽溺している間に、原因を探ろうとした。ティーポッドのなかに少しだけあまった紅茶が入れてある。それを、別のカップに注いで、少しだけ口につける。
甘い。
ということはこれは違うということだろう。
では、やはり砂糖壷が怪しい。
咲夜は時を停止させて一瞬のうちに大皿をもってくると、砂糖壷のなかにあった砂糖をすべてそこに広げた。
「わたしの完璧な仕事にまちがいなんてあるはずがない」
「でもまー、あんまり深く考えなくてもいいんじゃないかしら。咲夜は吸血鬼になりたてで気が散っているのよ」
「いいえそんなことはありません」
咲夜は砂糖を一個ずつ舐め始めた。こうなったら全点検である。もはやこうなってはこの砂糖は使えないだろうが、自分に過失がないことを証明するほうが最優先事項であった。レミリアは少々あきれ顔であるが、咲夜の性格を知っているがゆえに諦めているようで、そのまま落ち着いて紅茶をすすっている。
「これも甘い。これも甘い。これも甘い。これも甘い。甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い。全部あまーいっ!」
そして最後の一粒。
「これも――甘い、ですって」
咲夜は愕然としていた。ちなみに咲夜が舐めた砂糖はあとで妖精のスタッフがおいしくいただいた。
確認したことでわかったことは単純である。
砂糖壷の中にあった白いブロック状のかたまりはちゃんとした砂糖だったのだ。どういうことなのかわからず咲夜は眩暈がする感覚に襲われた。
もしかすると、超がつくほどの初歩的なミスを犯したというのだろうか。
つまり――、レミリアのカップの中に塩のカタマリが混入しているのに気づかなかったのではないか。
いや、そんなはずはない。
そんな当たり前のことに失敗することはないはずだ。
自分の認識ほど危ういものはないが、毎日ぴかぴかに磨き上げられたカップである。たとえ、底のほうに薄く延ばした状態で塩がまかれていたとしても必ず気づく。
なのにどうして、お嬢様の紅茶にだけ塩が混入できたのだろうか。
従者のわたしの紅茶にはなにもなかったというのに。
なぜ。
疑問は頭の中でぐるぐると回る。
紅茶の中で砂糖が溶けてゆくような曖昧な思考。
わからない。
こんな状況下で、レミリアのカップに塩を混入できる者は自分ひとりしかいないようにも思える。
客観的にもっとも怪しいのは咲夜自身だ。
しかし、咲夜は自分が犯人ではないことを知っているし、そのことは自分自身には証明する必要はない。
「わたしとお嬢様の仲を裂こうとしている者がいる……!?」
「そんなに大仰なことなのかしらねぇ。だいたいこの程度で咲夜のことが……き、嫌いになったりしない」
照れたのか最後のほうは小声だった。
レミリアの言葉には咲夜もうなずくところである。
この程度のことで確かに信頼関係が崩れるはずもない。
しかし、もし――。
もし、このようなことが何度も何度も続いたらどうだろう。今回のことは直接的には咲夜の過失ではないとしても、少なくともレミリアに苦い思いをさせたのはまちがいない。主人の危機を回避できなかったのは因果経過がどうであれ、従者にとっての過失にほかならないのではないか。
咲夜の紅い瞳が怪しく光り、その瞬間に、咲夜のカップが手も触れていないのに破壊された。
「ん……、今のは……」
「ついてないですね。カップの寿命だったんでしょうか」
「なにか力が漏れてない?」
「よくわからないのですけれど」
「とてつもなく強力な力の奔流を感じたわ。咲夜はわたしの子であり、しゃくだけどフランドールの血も混ざってる。今のはもしかすると――」
レミリアが小声で呟く。
運命を破壊する程度の能力。いわば因果破壊。
原因も理由もなく結果だけがすでにそこにある。すべての過程をすっとばして、ただ破壊をもたらす。
そんな能力が発現したとしたら。
「いや、考えすぎね」
「どうしたのですか」
「いいえ。どうもしないわ。今回の方法について考えてただけよ」
レミリアはごまかすように言った。
「今回の、犯人がどのようにして犯行をおこなったかですか?」
「そう。まあ犯人にしてもよくわからないことをするわねーって感じなんだけど、なにかの予行練習かしら。単純にいってなぜわたしだけがしょっぱい紅茶を飲まされたのか、そこが謎なわけね。それで考えたのだけど、ティーポットの注ぎ口に紅茶が流れなくならない程度に塩を塗布していたんじゃないかしら。言うまでもないことだけど、咲夜は従者として決してわたしより先に自分の分の紅茶をいれたりしないし、そのことは誰でも知っている。仮に知らないとしても少し想像力を働かせればわかること」
「ティーポットですか。ですが、それだと一回や二回で完全に塩が溶けきるのかわからないと思うのですが」
「ふむー。じゃあ犯人は何度か試したのよ。どの程度の分量を塗布すればいいか経験的にわかったところで、実際に犯行におよんだ。そんな感じじゃないかしら。この館にはティーポットは無数にあるけれど、誰かのいたずらがたまたまわたしに及んだ。そう考えるのが妥当ね」
なにか釈然としない感じがしたが、確かにその方法でも可能であるとは思う。
しかし、なにかが変だ。
と、そこで。
理知的な声が響いた。
「いったいどうしたのよ」
「パチェ?」
「パチュリー様?」
パチュリーがぽやんとした表情で扉のところに立っていた。
実に、一週間ぶりに地下からでてきたようである。
「珍しいわね。わたしに会いに来たの?」とレミリア。
「いえ。咲夜がさっきすごい勢いで小刻みに消えたりしながら大皿を探しているって聞いて、変だと思ったのよ」
「お恥ずかしいかぎりです。実はこんなことがありました」
咲夜は今までの事情を話した。
レミリアの推理も付して説明した。
パチュリーはぼーっとした表情で聞いており、いや聞いていないかのようだった。
そして、話が終わったあと、レミリアのほうをじっと見ている。
「なによ?」
「レミィ。それは違うわ。まあ思考の方法は間違ってはいない。けれどよく考えてみて。その方法はきわめて明快な犯人の思考パターンを逸脱している。犯人はなんらかの犯行をおこなう際にその達成可能性を高めようとするものだわ。そうすると、達成可能性を高めるために試行回数が無限にあるものは利用しない手はない。そういった考えからすると、レミィが提示したティーポットの方法はある致命的な弱点を抱えている」
「わたしですか?」
「そう、咲夜。咲夜がこの紅茶をいれるというその一点。問題となるのはティーポットに塩を塗布するということに関して、レミリアにしょっぱい思いをさせるにはそれなりの量を塗らざるをえないところではあるのだけど、逆に塗りすぎると紅茶をいれるときに違和感が生じ、必ず咲夜が気づくでしょう。犯人はこの咲夜が気づくか気づかないかに対して試行することができない。ついでに言えば、血液オンリーの場合塩が溶けきるまでにわりと時間がかかるところで、もしもレミリアが冷たい血を望んだ場合、おそらく注ぐという動作だけでは溶けきらなかったんじゃないかしら」
「確かにそうかもしれませんが……」
「じゃあ、どうやって犯行におよんだっていうのよ。その犯人様は」
レミリアは腕を組んで、パチュリーを睨む。
「砂糖壷」
パチュリーは短く言った。
「明らかに稚拙ではあるけれど、犯人は砂糖壷の中に塩のブロックを混入していた。ただそれだけよ」
「砂糖壷の中は全部調べましたが」
「単に塩バージョンが一個か二個しか混ざってなかったんでしょう」
「しかし、そうだとすると、わたしが砂糖と塩の違いに気づく可能性があったのではないですか。あるいは他のメイドでもいいですけど。ともかく砂糖壷の中に塩が入っていることに誰かが気づく可能性があったはずです」
「その可能性はあった。だから稚拙。でもティーポットの方法に比べれば明らかに問題が少ない。ティーポットに塩を塗布する行為に比べて、塩のブロックが砂糖壷のなかに混入することのほうが違和感が少ないから。この場合、より重要なのは、咲夜や犯人以外の誰かが仮に気づいたとしても、『もしかすると何かの偶然なのかもしれない』という可能性を残しているところなの。つまり犯行ではなく事故の可能性ね。ゆえに犯人は試行が可能になる。コンティニューすることができる」
「偶然性に頼ったというのは当たってたのね」
「そう。砂糖壷の中に塩を混入しておけば、いずれはレミィにたどり着く。塩のブロックに自分だけがわかるような小さな目印でもつけておけば完璧ね。たとえば角をちょっとだけ削っておくとかしとけば、まあ確認は可能だろうと思うわ。誰かが使っているなら、ワンミスってことで入れなおせばいい。そうしていればいずれはレミリアにたどり着くことになる。いずれは――ね。まあその点に関しては悪い確率じゃなかったと思うわ。レミィは毎日、紅茶を飲んでいるし、砂糖が大好きなお子様だもの。太るわよ」
「ほっとけ」
「しかし……、わたしが塩に当たる可能性もあったのですよね。そうなるとお嬢様に塩を飲ませるという目標を達成しにくくなるのではないですか。最初は先入観で砂糖だと思うかもしれませんけど、一度わたし自身が塩に当たれば警戒してしまいますし」
「あなたでもよかったとは考えられないかしら」
「わたしですか」
「そう、あなたに飲ませることも犯人の目標にふくまれていた。あなたかレミリア、いずれでもよかった。そう考えればいい」
「そういうことですか……。しかし犯人はいったい誰なんでしょう」
咲夜は静かな怒りの炎を燃やしていた。
「少しだけ心当たりがあるところだけど……、証拠がないし誰にでも可能であろうからなんとも言えないわね」
「おおかた、わたしとフランの親権争いが原因でしょ」とレミリア。
「そんなところでしょうね。ともかく今回の件は内々に処理しましょう……。咲夜が気をつけていれば、騙されることもないわ」
「もうしわけございません。塩と砂糖をまちがえるなんて、不甲斐ないの一言です」
小さな密室はこうしてパチュリーの手によって崩壊した。
「で、あなたが犯人ではないわよね」
パチュリーは小悪魔を問い詰めていた。畏怖の対象たるレミリアに、児戯に等しいとはいえ不利益を与えるような不遜な精神をもっているやつは限られる。そんなやつはこいつしかいないだろうと考えたのだった。それに論理の組み立て方がいやらしいではないか。『いずれにしろ』達成される。そういう組み立て方。選ばせているようで選択肢はどんどん削られていっている。そういう破滅への誘い方。気持ちが悪い。
先ほどレミリアと咲夜の前で犯人探しはしないでもよいと告げたのは、小悪魔が犯人だった場合、身内の恥になるからである。
小悪魔はニヤニヤ笑っていて答えようとしない。
「答えなさい。逃げ口上は許さないわ」
「すみません。パチュリー様。わたしがやりました」
小悪魔は素直に白状した。
「殊勝な態度ね。どうしてそんなことをしたのか教えてもらおうかしら。自白すればわたしの胸の中だけにしまっておいてあげる」
「妹様ですよ……」
「頼まれたというわけね」
「そうですよ。頼まれたのですよ。レミリア様はこの館の主ですし、バランスが悪いでしょう? これでは妹様の精神がいたずらに崩壊することになりかねません。そうなってしまえば、破壊の力によって一夜にしてここ、紅魔館は滅びの道を辿ります。わたしは紅魔館および紅魔館の皆様方を心の底から愛しておりますから、そういった事態になるのは避けなければならないと思ったのですよ」
「で、それがなぜレミリアのお茶に塩を混ぜることになるわけ」
「わたしの稚拙な頭ではそれぐらいしか思いつきませんでした。レミリア様と咲夜様の間にわずかながらでも間隙が生じれば、そこに妹様が入りこむ隙ができます。わたしとしてはチャンスをつくってあげたかったのですよ。かわいそうな妹様。孤軍奮闘なさっている妹様。まるで風車にいどむドンキホーテのようじゃありませんか」
「小悪魔。これだけは言っておくわ。間隙なんか作らなくても人間には無限のスペースがあるの。心のスキマなんか作らなくてもレミィは紅魔館の誰であろうと受け入れているし、あなたも許されてここにあるのよ」
「ただ思いますに、特別という概念は無数の一般を死体のようにつみあげることで生ずる概念かと。コーパスの上にコーパスです。ねえ、パチュリー様。楽しいじゃありませんか。コーパスの上にコーパス。言葉の上に死体。死体のうえに言葉。誰かを愛するということは他の誰かを愛さないということなのですよ」
パチュリーはうんざりした表情になった。
小悪魔には何を言っても通じそうにない。
「ともかくこれだけは言っておくわ。今後、一切なにもしないこと」
「呼吸もしてはいけないと?」
「するな」
「むっきゅりしちゃうー♪」
「いいから、わかったの?」
「もちろんわかりました。愛らしいパチュリー様の名前に誓ってもいいですよ。わたくし小悪魔は今後、レミリア様と咲夜さんの仲を裂くようなことはいたしません」
「いい……でしょう……」
パチュリーはゆっくりと息をして、それから再び本のほうへと視線をやった。
読みかけは気分が悪い。
しかし、事件はそれで終りではなかった。
ただし、レミリアに与えた衝撃度はこちらの事件のほうがはるかに大きかっただろう。
咲夜を通じて報告がなされたのであるが――。
メイドの一人がこんなことを言っているという話が聞こえてきたのである。
「美鈴隊長ばっかり、二枚もコインをいただけて羨ましいな」
レミリアにはよくわかなかった。
美鈴に限ってそんなことはなかろうという思いはある。
美鈴はレミリアの部屋に呼ばれた。
「あなた……わたしに何か隠し事していない?」
「なんのことですか。お嬢様」
「コインのことよ」
「お嬢様のお気持ち。万感の思いで受け取りました」
「それ、なんだけどねぇ……」
レミリアはゆったりとしたペースで言葉をつむいでいく。
「わたしは確かに小悪魔を通じて、あなたにコインをあげた。それはいいのよ」
「はい」
「でもね。どうしてフランドールからも受け取っているのかしら?」
「は?」
「どうして二枚のコインを持ってるのかしら」
冷たい視線だった。
美鈴は自分の思考がどこか別の次元をさまよっているかのように感じた。
「どうしてかしらねー? 自分が持ってる枚数を確認したからまちがいないわ。あなたはわたしからもフランからも賄賂を受け取ってる。二重に賄賂を受け取ってることになるわねぇ?」
「え? え? え?」
「いや、いいのよ。わたしはいいの。だって確かに小悪魔が言ってきたとおりにね。美鈴をねぎらってやろうという気持ちは含まれていたのよ。それは確かにそのとおり。いまさらコインを返せなんて、そんなケチなこと言わないわ」
「……」
「でも、どうして二重に受け取ったりするのかしらねぇ。それってちょっとズルすぎないかしらねぇ?」
「ううううう……」
レミリアの部屋の前では、小悪魔がひっそりと中の様子を窺っている。
この密室はすこし抜け出しにくいだろう。秘事はいつだって密室で遂行されていくものであり、そして完成するものだから。
なんのことはなかった。
幼児でさえも両親のいずれにも等価的に媚を売ることを知っている。
つまり、小悪魔はレミリアとフランドールの両方に協力しようという話をもちかけたのだ。そして両方からコインを一枚ずつ受け取った。美鈴には同時に渡した。
それだけのことだ。
そして破滅の力は今まさに結実しようとしている。
小悪魔にとってはどちらでもよかった。いずれにしろ良い。
選択は美鈴に委ねられている。
ありとあらゆるものを破滅させる小悪魔の能力は、よく勘違いされやすいのだが、あくまでおのずと破滅させるのであり、『させる』というからには主体的な行動をするものはあくまで本人であるのだ。小悪魔がなにか行為をするわけではない。
どちらを選ぶかというのもひとつの痴態。
すなわち――。
美鈴が小悪魔から受け取ったことを黙っているなら黙っているで、『忠節をつくす自分』というイメージが壊れるし、逆にバラしたとしてもそれは美鈴自身が立てた誓いを破ることになり、同じく忠義に汚濁が混じる。
いずれの行為を選択したとしても、彼女にとっての寄る辺となる精神的支柱は壊れる。
だから美鈴は小さく震えて赦しを求めるしかなかった。赦されるのならば、幼い足に口づけして赦しを請いたい気分だったろう。
しかしいずれにしろ回避は不能。
儀式はすでに完了している。
弾幕のように避ける余地などどこにも残されていない。
さあ――!
自らの存在を賭けて、足掻いてみせろ。無様な踊りを踊ってみせろ。滅びへの賛歌を謡ってみせるがいい!
選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ。
選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ。
選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ。
選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ。
沈黙は保たれ、選択はなされた。結局のところ美鈴は誰から賄賂を受け取ったのか言わないままだった。
それが彼女に残された最後の誇り、あの有害かつ有用な扱いがたい感情だったのだ。
吸血鬼の主は暴虐と妖艶さの混じる顔で幼く笑った。
「言わないのならしかたない」と――。
「お赦しください。お赦しくださーいっ!」
「滅びなさい」
おぞましくも愛らしい声が美鈴に届く。
かくして、紅美鈴は破滅した。
小悪魔の呪詛は口の中で小さな小さな哄笑へと変わった。
蛇足ではあるが付記しておく。
まず咲夜についてだが、なぜか知らないが羽が消失してしまった。人間に戻ってしまったのである。この点についてパチュリーの見解は、「互いの血が綺麗に相殺してしまった」とのことである。こうしてひとまず親権争いは終結した。
美鈴はパチュリーのとりなしで、こってりしぼられはしたが、具体的に罰せられることはなかった。小悪魔の仕業だろうとパチュリーが指摘したからである。嘘をつくのが苦手な美鈴は沈黙を保ったが、その沈黙こそが真実をありありと映し出していた。結果として、彼女の信頼は回復することになる。
身内の恥。
小悪魔は直接の主であるパチュリーによって、スペルカード『賢者の石』の五時間耐久レースすることになった。
小悪魔は何百回も落とされた。
しかし小悪魔にとっては、懲罰を受けることはなんでもないことである。
なぜなら小悪魔にとっての勝利条件は彼女自身が懲罰を受けないことではなく、幼く愛らしいフランドールを破滅させることではなく、脆弱な人間である咲夜を貶めることでもなく、ましてや純心な美鈴を破滅させることではなかったからだ。美鈴に至っては、ちょっぴりかわいそうだと思ったぐらいだ。
単純に――。
求めていたのは、
一つ。
たった一つ。
パチュリーがたとえほんのわずかな時間であっても小悪魔の思惑に気づかず、悔しい思いをするということに他ならない。
それ以外はすべて些事である。
したがって、小悪魔はすでに勝利条件を満たしていた。
パチュリーの与える懲罰が激烈なほどに、小悪魔の顔が喜悦に染まるのは、そういった次第なのである。
人間=潜在的または顕在的に人語を解する程度の能力を有する者たちの総称。身もふたもない言い方をすれば、名前のあるキャラ全部と中ボス、それと人間種族。
注:種族としての人間のことを指すときはその旨を特に明記する。(例:人里に住む人間種族たちの暮らしぶりは地獄や冥界よりも厳しいものであり――)
破壊=存在論的な滅亡。エントロピーが極大化した状態。つまり熱死。ゆっくり死んでいってね。
破滅=人間の部分対象を破壊すること。
部分対象=レミリアにとってのカリスマのような概念。心の中核。もうあなたしか見えない。学問的な定義とは異なる可能性あり。単なる雰囲気づくりとも言う。
レミリア=カリスマがなければただの幼女吸血鬼。
フランドール=幼女吸血鬼。性格がレミリアより幼くコントロールしやすい。
咲夜=時を操るメイド長。本記述においては受動的立場。お嬢様萌えという名の淑女。
美鈴=気を使ってばかりの冴えない門番。優しいだけじゃ生きていけません。
パチュリー=むきゅってなっちゃうよ~♪
本記述=半分は優しさ、半分はミステリーでできている。患部で止まってすぐ解ける。イージーモード。小悪魔分多め。
文責=あなたの親愛なる小悪魔。
紆余曲折あって、咲夜は吸血鬼の眷属になることを決めた。
レミリアに家族になれといわれたか、ずっといっしょにいてくれなきゃヤダーと泣きつかれたのかは謎であるが、ともかくなろうと決意した。
ところで、吸血鬼化の必要条件はすべての血を吸い尽くされることにある。
もしも吸いきらなければ単に貧血になるだけである。
問題は彼女の主であるレミリアが少食であり、吸血鬼化にいつも失敗していることだった。
何度も何度も失敗し、いい加減、業を煮やしたレミリアは最終手段にでた。
すなわち、愛妹たるフランドール・スカーレットにもいっしょに吸ってもらおうという算段。
「で、こういう状況になった、と……」
パチュリーは興味深そうに状況を眺めていた。
小悪魔は口に手をあててニヤニヤしている。
美鈴は哀れそうな目で見つめ、そっと目を閉じた。
十六夜咲夜は無事(といってよいのかは価値観によるだろう)吸血鬼化することに成功したのであるが、問題は誰が見ても明らかだった。
羽が、左右で違うのだ。
具体的に言えば、左側からレミリアが吸い、右側からフランドールが吸ったせいか、そのまま左側の羽がこうもり羽になり右側の羽が宝石羽になってしまった。
これは非常に見た目がよくない。
主にバランス的な意味で。
しかし、もっと重大な問題がある。
吸血鬼にとって眷属あるいは血族というのは非常に重い意味を持つ。わかりやすい比喩表現をすれば家族に等しい。
吸った者がいわば親、吸われた方がいわば子。
そうなると、この場合の子は十六夜咲夜にほかならないのであろうが、問題となるのは親はどちらになるのかということである。
レミリアとフランドールは当然、自らの『親権』を主張した。
どちらも初めての子だった。
執着も吸血鬼的な意味で並々ならないものがある。
しかも、子にあたる者は十六夜咲夜。
レミリアにとっては当然のことながら、フランドールにとっても少なからず執着心がある。心が幼いフランドールにとってはお気に入りのお人形さんのようなもので、自分のものだという思いが強い。
子育てはお人形遊びの延長だと評したのは誰だったか。
そんなわけで、レミリアとフランドールはお互いの親権を頑として譲らず、咲夜にお猿さんのようにべったりとくっついていた。
吸血鬼化したときと同様に、左にレミリア、右にフランドールという状況である。
「そろそろ離れていただかないと、きついのですよ。お嬢様」
咲夜は疲れたようにレミリアに言った。
実際疲れているのだろう。生まれ変わったばかりで、いまの咲夜は赤ん坊のようなものだ。
対してレミリアは勢いよく喋る。
子どもは黙っていなさいと前置き、
「フランが悪い。フランが諦めればいいのよ!」
「お姉様があきらめるべきよ。大人気ない。ついでに言えばカリスマもない」
「ふざけろ。よく見なさい。咲夜の羽はわたしのこうもり羽のほうが黒っぽくて雄として存在感を放っているじゃない。咲夜はわたしの血族よ」
「いいえ、お姉様はまちがってる。闇夜にまぎれたらこうもり羽なんてぜんぜん見えないじゃない。そこんとこいくとわたしのカラフルな翼は目立つし、存在感だって負けてない!」
「咲夜の髪の色はわたしの髪の色に近いわ」
「もともと咲夜が銀髪だっただけじゃんっ!」
「わたしが先に吸おうとしたの!」
「わたしに手伝ってと頼んだのはお姉様じゃない!」
「妹のくせに!」
「姉のくせに!」
やいのやいの。
こんな調子で咲夜が生誕してからずっと二人の言い争いは続いている。
「なんとかしてください。パチュリー様」
「無理よ。一度吸血鬼化したら、それは不可逆的な反応なのだから取り返しはつかない」
でも、とパチュリーはつけくわえる。
「要するに、吸血鬼化するというのは自分の固有因子を他者に分け与えるようなもので、固有因子どうしが拒絶反応を起こす可能性は高いとも思える」
「どういうことですか」
「つまり、どちらかの血が他方の血を駆逐する可能性が高いということよ。そうなれば、自然とどちらかの羽になるでしょう」
「黙っておけばいずれ安定すると……」
「そうね、そうなればどちらの子になるのかはっきりするわ」
時間が解決してくれると思うと、咲夜はいくぶんほっとした。
しかし、レミリアとフランドールは黙っていない。不作為のままで満足できるほど精神的に成熟してもいなかった。
レミリアがまず口を開き、一気呵成の勢いで喋る。
「どうやればわたしの因子が有利になるの!?」
「ず、ずるーい。お姉さまばっかり。わたしにだけこっそり教えて」
ずいずいと迫られて、パチュリーは迷惑そうだ。
「わかるわけないじゃない。そもそもあなたたち吸血鬼は子作りをあまりしない種族なの。こんな状況になったことなんて歴史上初めてなんじゃない?」
「推測でもいいわ」とレミリア。
「心因的な要素がもしかすると少しは影響を与えるかもしれないわね」
「つまり?」
「つまり、咲夜がどちらになびいているのか、どちらが心に占めている度合いが高いのか、そんな要素が深く関わってくるんじゃないかしら」
「よし。よしっ! よーしっ! ディモールト、よし!」
レミリアはぐぐぐと身体に力を入れて、喜びをかみしめる。
主従関係がある自分にあきらかに分があると思ったからだ。
フランドールは顔をしかめた。負けると思ったからではなく、レミリアがまるで勝ったかのような振る舞いをしていることが妙に悔しいと感じたからである。
「あきらめておとなしく引きなさい。負け際を見極めるのも大事よ」
「うるさい。お姉様は勝った気でいるけど、咲夜は本当はわたしのことが好きなんだから」
レミリアは嫌な顔になった。
勝利の美酒に満たされていたところに、いきなり泥を混ぜられたような気分だった。
「べ、別にいいわよ。わたしの勝利は確実なんだから。咲夜はわたしのもの。わたしの愛娘。だから、ママであるわたしがいっぱい愛でるの。かいぐりかいぐりして、ぎゅーして、ちゅーして、育てるの」
「お嬢様、わかりましたから、離れてくださいませ。そろそろお掃除を始めなければ予定どおりに進みません」
咲夜はレミリアをかいぐりかいぐりして、ぎゅーして、ちゅーして、その場から離れた。
どっちが子どもなのかさっぱりわからない。
ただ、レミリアは満足げな表情だ。
「フラン。あきらめて負けを認めなさい」
「お姉様こそ!」
それから三時間ほど吸血鬼姉妹の言い合いは続いた。
最後のあたりは、もはやバカとかアホとかの応酬で、本当に五百年近く生きてきたのかと思われるほど低レベルな争いであった。
「どうでもいいですけど、もし自分の子じゃなくても、とりあえず姪になるんじゃないですかね……」
美鈴はパチュリーに意見を求める。
その意見はもっともなところで、パチュリーも頷いた。
「でも、それじゃあ納得できないこともあるんでしょ。まったく難儀なものね」
と、まあ――、そういった次第で、血塗られた家族戦争が勃発した。
「とはいえ、どうすればいいんだろう」
フランドールは自室のベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせている。彼女は困っていた。
仲間がいない。
最終的には咲夜が自分のことを好きになってしまえばそれで勝利であるのだろうが、ひとりでレミリアに挑もうとするほど彼女も蛮勇ではない。稚気溢れる精神ではあるものの、さすがに495年生きてきたなかで老成された知恵というものも持っている。
仲間が必要だ。それも役にたつ、自分にとって手足になる仲間。
美鈴のことが頭に浮かんだ。
だめだと思った。
そりゃあ、最近友達になったチルノやルーミアたちに比べれば頭はいいだろう。けれど美鈴はレミリアに絶対の忠誠を誓っていて、フランドールに従っているのはいわば、その派生的な形である。したがって、レミリアの不利益になることを簡単にはしそうにない。
だとすれば、パチュリーはどうだろうか。
確かに仲間にできればこれ以上なく頼りがいはありそうだ。
行動力はないものの、不動図書館と呼ばれる知識と知能はどこぞの薬屋に匹敵しそうなほどであるし、軍師としての効能は計り知れないものになるだろう。
問題があるとすれば、パチュリーはレミリアの友人であるということである。
人間関係で言えば、フランドールはやはり間接的な関係であるといえるし、どちらか一方を選ぶ段階になれば、レミリアのほうを選択しそうだ。
獅子身中の虫をわざわざ飼う必要もないと思った。
考えてみれば、フランドールが気ままに破壊の力を行使するたびに、さんざん迷惑をかけてきたという黒歴史もある。
「うーん……、紅魔館は人材不足ね」
そこらにいるメイドはそもそも話にならない。フランドールの姿を見ただけでクモの子を散らすように逃げていくのが関の山だ。
咲夜も今回は中立的な立場をとらざるをえないだろう。
「だれか、わたしを助けてくれそうな子、いないかなぁ……」
「わたしでよければ、お力添えしましょうか」
「だれ?」
ドアの向こうから聞こえてきた声は、クククと小さく笑い、そしてかわいい媚びた声で言った。
「わたしです。あなたの誠実なる小悪魔ですよう」
「小悪魔かぁ……」
力は最低クラスだが知恵や知能はそれなりに高そう。
フランドールのことを恐れていないこともポイントに加算すれば――。
合格。
すぐに判断した。
「よし、じゃあ小悪魔。よろしくお願いね」
「おまかせください。フランドール様」
今回、小悪魔は『妹様』という特殊な人称代名詞ではなく、フランドールという名前で呼ぶことに決めていた。妹様という言葉には多少なりとも妹という社会的地位を付与する効果があるので、そうなって自制心が生じるのを防ごうとする意図である。
しかし、フランドールがそこまで思い至るわけもなく、まったく違和感もおきなかった。
「小悪魔。どうしたらいいと思う? わたしの能力だと咲夜に好きになってもらえない」
すべてを破壊する程度の能力。
それがフランドールの能力である。物にはすべてウィークポイントがあり、それを『目』という。フランドールは『目』が見えて、それを自分の手の中に移動させることができる。『目』を握りつぶしてしまえば、対象は存在論的なレベルで破壊される。
フランドールの能力は恐怖の対象にこそなりはすれ、誰かに好きになってもらうという点に関しては足かせ以外のなにものでもない。
そのことはフランドール自身も自覚していた。そんな能力のことが少し嫌いだったりもする。
「それは違いますねー」
小悪魔は笑みを浮かべてやんわりと反論した。
「どうして? 壊してもなにも生まれないし、壊しても怒られるだけだよ」
「それはですね。やきもちを焼いておられるのですよ。人間というものは全的な破壊に対して一種あこがれすら抱くものです。そうでなければ、どうして兵器などというものが生まれましょう。外の世界では噂によると世界を滅亡するに足る兵器すら存在するそうです。自らの全的破壊、全的死をいったいどうして作り出すのかといえば、それはあこがれを抱いているからに他ならず、人間というものは滅びを受け入れ、羨望こそすれ、恐れているというのは建前でしかないのです。いや正確にいえば恐怖という感情はけっして忌避の感情を抱かせるばかりでなく、恐れているがゆえに、ひざまづき、その比類なき足にくちづけし、赦しを願ったりするものなのですよ。まるで美しい一組の詩のように呼応していると思いませんか」
『お赦しを』→『滅びなさい』
「極論すればそれは愛の詩に他ならず、これ以上の赦しはないのです。どうでしょう。これでおわかりになりましたでしょう。フランドール様の能力は完全で純粋な破壊をもたらすものでありますから、それは人間の本然的な欲望を充足するものであり、そんなものを自分ではない者が持っているのは許せないと他者が思うのも無理からぬことなんです」
「ふうん……、よくわからないけど。具体的にわたしはどうすればいいの?」
「難しいところだとは思います。言わば破壊は平等の力です。穢されたことのない処女のように純粋無垢な力が結実したものです。しかしここで問題となるのは、またしても人間のどうしようもなさです。人間とは自己中心的な生き物ですから、世界よ滅べと思うと同時に自分だけは絶対に滅びないだろうという傲慢でねじれた心を有しております。アレキサンダー大王が何千と飛んでくる矢の前に裸身をさらすのもそのゆえにといえますし、近所で殺人事件が起こったところで、決して自分には被害は及ばないのです」
小悪魔はやれやれのポーズ。
「ところで先述した滅びの炎は決して消え去ることはなくむしろ燃え盛っています。内奥に秘められたこの滅びの炎は、身体を熱く焦がし、その熱に浮かされて人間は他者を虐げ、暴力を振るい、いじめるのです。それらはいろいろな動機によって裏打ちされていますが、結局のところ人間の本質的な原理、すなわち滅びの原理を擬似的に体験したいという欲望に他なりません。人間の精神はいろいろとごっちゃになっていますから、遊びと真実の区別をつけることができない。ですから、いざ真実の滅びが訪れても、驚き恐れてしまい、表面的な生物学的反応にもとづいて生き残りたいと思ってしまうのです。実にもったいない。人間がこんなにも綺麗に物化する方法はそうそうなく、こんなにも完全へと帰す(いいですか。人間は消滅によってのみ完成するのですよ)方法はそうそうないというのに。ただ与えられる滅びに、愚かな人間は逃げ惑い、無様な踊りを踊るしか能がないのです。詩に対する感受性が足りないのでしょう。残念ながらパチュリー様も引きこもって本ばかり読み、頭でっかちになられているせいか、そういう芸術的な感性には乏しいのですよ。ああ、パチュリー様がかわゆすぎて妊娠しちゃいそう……」
小悪魔はびくんびくんと身震いした。
気が触れたように振舞ったところで、フランドールはそれが常態であったから気づかない。
「ようするに、破壊の能力を使っちゃだめってこと?」
「そんなことはありませんよ。一番良いのは咲夜さんを破壊してしまうことでしょう」
「そんなの絶対ダメ! お姉様が怒る」
怒るどころじゃすまないだろうと小悪魔は考えたが、もちろん予測したとおりの答えだった。
「もちろんそうなりますね。それにフランドール様も咲夜さんが欲しいと思ってらっしゃる。物として手に入れてしまえば済む話だと思いますが、心という形なきものが欲しい場合、それも叶わない。難しいところです。ですが方法はまだ残されております。次善の方法は他者の手に渡らせなければいいのです」
「咲夜とお姉様の関係は壊せないよ。形がないもん」
「聡明な判断です。ですが、形がないものでも壊すことはできるのですよ」
「どうやって?」
「わたしの能力で」
「ん……小悪魔って弾幕出すぐらいしか能力がないんじゃなかったの?」
「もちろん記載されるほど特殊な能力でもありませんし、ごく普遍的な能力ですからね。フランドール様の全的な破壊に比べれば、なんのことはないゴミのような能力です」
「教えて」
「――ありとあらゆるものを破滅させる程度の能力」
「え?」
「わたしの能力を名づけるとするなら、そういう呼称がふさわしいかと」
ただし、これは単に呼称の問題であって、別に小悪魔が特殊な能力を有しているわけではない。小悪魔自身が言ったとおり、単に言葉をつくし行動をつくし利害誘導し、結果として破滅へといざなうにすぎない。フランドールはよくわからないといった感じで、ふにっとした声をだした。
「破滅と破壊って同じじゃないの?」
「いいえ。破滅とはフランドール様の全的なものとは違い、部分対象の破壊のことを指します」
「部分……?」
「そうです。人は自己の心的構造のなかに支柱となるべき観念を置いています。それが部分対象。わかりやすく言えば、『だいじなもの』という感じですかね。まあ複数でもかまわないのですがおおよそ単一であることが多いです」
「それ使ったことある?」
「そうですねー。ここではないどこかで使ったことがあるような気もしますよ。たいしたことはないのです。たかだが年収三百万程度の公務員が贈収賄で捕まり豚箱に入れられて、その人にとっては『誠実で信頼される自分というイメージ』が部分対象だったんですよねー。そんなイメージを自分の心のよりどころにしていたんです。それが破壊された。残るはがらんどうの肉体だけです。堀の中で彼はとても虚ろな目をしていました。そうやって部分的な滅びによって、ようやく彼は全的な滅びを受け入れる準備ができたのです。まあ残念なことに、最後はオリジナリティのかけらもない首でブランコでしたけど」
「ふうん。よくわかんないけどわたしの能力とちょっと似てる感じだね」
「ええ。まあそんなところです。けれど肝要なのは全部壊すわけではなくちょっぴり壊すところですよ。しかも全的ではなく個別的な滅びの力です。ですからフランドール様が咲夜さんを所有する余地が残されていることになります」
「わたしができることはないの?」
「咲夜さんが一人きりのときを見計らって、できるだけ仲良くすることですね」
「他には?」
「レミリア様とはあまり口を利かないことです。決着がつくまでは相手に情報を与えてはいけません」
「口を利かないぐらい簡単よ」
「さすがです、フランドール様」
「あとはー? あとはー?」
「あとは、ですね……。そうですね。すこしでも事態を有利に運ぶために美鈴さんに協力を仰ぐのはいかがでしょう」
「ふむふむ。でもお姉様に絶対服従してるから難しいんじゃないかな」
「ま、こういうときこそ賄賂ですよ。美鈴さんにとってフランドール様ももちろん上の方にあたるわけですし、そうそう逆らえるものでもないでしょうからね。ちょっと利害で揺らすだけでずいぶん違うものなのですよ」
「ふうん。そんなものなんだ。小悪魔って頭いいね」
「さすがにパチュリー様には叶いません。ひひ。言い忘れていましたが、今回フランドール様にご助力させていただくのはわたしの独断です。パチュリー様はレミリア様のご友人であられるので、少々わたしの立場は危ういものとなってしまいます。なので、どうかこのことはご内密に」
「わかった。わたしと小悪魔の秘密だね」
「ええ、秘密です」
小悪魔は小さな小指をフランドールに差し出す。
しばし不思議そうに見つめていたフランドールだったが、ようやく得心がいった。
「あ、それ知ってる。秘密の約束をするときの契約儀式でしょ」
「そのとおりですよ」
小悪魔とフランドールは小指を蛇のようにからめあった。
そして、古くから伝わる呪詛を二人して唱えた。
「指きりげんまん、嘘ついたら、針千本飲ーます♪ 指切った」
邪悪な儀式、完了。
「美鈴さん。美鈴さん」
「ん?」
美鈴は背後から呼ばれた気がして振り返った。
いない。
誰もいない。
上にも横にも。
今の時間は、美鈴一人で門の警備をやっているはずだった。
だから、他の警備の者が声をかけてきたとは考えにくい状況である。
美鈴は首をひねった。
「あれぇ。なんか呼ばれた気がしたんだけ――どわぁ!」
目の前にはいきなり小悪魔がいた。
いつもと違い、にっこりと太陽のようにまぶしく笑っている。その代わり、もちろん心のなかには真っ黒な影が落ちている。
美鈴は小さく胸をなでおろした。
別に胸が小さいわけではないことにご注意。
「びっくりさせないでくださいよ。もうっ」
「ひひ……、今日はですね。美鈴さんに良いものをもってきたのですよ」
「はぁ、なんですか。革命者の生写真とかだったらいりませんよ」
「おや、脂ぎったオジさまとかに興味がおありで?」
「だから、違いますって……」
「はは、冗談ですよう。今日はそんなものじゃないのです。端的にいって――」
小悪魔は少し時間を止めた。
実際に止めたわけではないが、わざと言葉をいったん切った。
こうすることで、話に引きこむことができる。
「賄賂を持ってきたのです」
「賄賂?」
美鈴は顔をしかめた。清廉な心で忠義を尽くす彼女にとっては、賄賂という言葉そのものが不快だった。ただ、小悪魔という人物に対しても紅魔館の一員であるという思いがあるので、いきなり食って掛かったりはしない。
その程度は小悪魔も計算できている。
「すいませんねえ。賄賂といわざるをえないのは、まあ形式的にはそうなっている面があるからなのですよ。もちろんそれは形式上という意味合いしかなく、実際上は違います。ですが美鈴さんは清流のように濁りのない心をもってらっしゃいますから、わたしとしても最初にそういうことは断っておこうと思ったのです」
「はぁ。ちょっと照れますね。で、いったいどういうことなんですか?」
「はい。吸血鬼なお嬢様から美鈴さんのプレゼントをお渡ししてくれるように頼まれました」
小悪魔は言う。あえて指摘するまでもないがフランドールも『吸血鬼なお嬢様』である。
この場合、嘘と沈黙の差異はほとんどゼロに等しいが、小悪魔はそんなに嘘をつかない。嘘をつかないで騙すほうが楽しいからだ。そのほうが愛らしさが窺える。
――人間が無様に騙される痴態は本当にかわいらしい。
という見解の持ち主なのである。
もちろん、美鈴はレミリアのことだろうと考えた。
「お嬢様がわたしのために……」
「この卑小なるわたくし小悪魔を介して渡すように頼まれたのは、おそらく他の方との間で嫉妬やらなにやらが起こらないようにすむためでしょうね。美鈴さんだけがご寵愛を受けているとなれば、それはもうパルスィしてもしょうがないですから」
「ぱ、ぱる?」
「ジェラシーです」
「ですか。でもそれだとわたし受け取れません。ほかのみんなとわたしはあくまで対等ですから。みんなの力があるからこそ、ここ紅魔館を守ることができているのです」
「同位というわけですか。しかし、門番をしている美鈴さんの忠節をお嬢様はよくご存知なのでしょうね。さきほどは他の方が嫉妬してしまうとはいいましたが、逆に忠義にはしかるべき褒章が与えられなければ、それはそれで問題ですよ。なぜなら他の方が受け取りにくくなってしまうでしょう?」
「まあ……、それもそうですけど。でも賄賂なんですよね。咲夜さんのことなんですか?」
「ええ、そうですよ。咲夜さんのことも含んでおります。ですがこのことはそれほど意味のあることではないのですよ。お嬢様はその気になれば咲夜さんのことを好きにできる立場にあります。その権利を今は『半分』は有しておられるのですからね。いわば親として子を律するのは父権主義的な見地からいっても妥当でしょう。ですから美鈴さんに求められるのは、この件に関しては中立を貫いてほしいと、ただそれだけなのですよ」
中立を貫くというのは、フランドールの立場からすればずいぶんと有利なことであるといえた。
なぜなら基本的にはレミリアに従うであろう美鈴を、フランドール寄りに引き戻していることになるからである。
小悪魔は続ける。
「ですから、賄賂といってもそれは形式にすぎず、実際上はそうではないのです。つまりどういうことかといいますと、これはお嬢様からは言わないでおいてほしいといわれたんですがね――。今回がいい機会だから、賄賂にかこつけて褒章しようという、そういう御心なのです。普段からのご忠義に深く感じ入ってはいるもののなんらかの機会がなければ、おいそれとは褒章できるものではない。上に立つものの苦悩です。慈愛溢れるお嬢様は寵愛ひとつとっても繊細に取り扱いなさる。どのように受け取られるのか不安に思いながら、寵愛ではないと必死にアピールしながら、実のところそれは美鈴さんに対するご寵愛に他ならないなのです。なんというツンデレ!」
「お嬢様が、わたしのために……」
そこまで想われては、さすがの美鈴も主人の気持ちを踏みにじることはできない。
美鈴は感動のあまり落涙してしまい、小刻みに肩を震わせていた。
「か、かわいい……」
と、小悪魔は美鈴の痴態を堪能する。
立場が許すのなら、ほお擦りしたいほどであった。
小悪魔は用意していたプレゼントをポケットの中から取り出した。
「スカーレット家のコインです。お受け取りください」
二枚のコイン。
裏にフランドールの顔が彫られたものが一枚。レミリアの顔が彫られたものが一枚である。
由緒正しいスカーレット家に伝わる黄金のコインだった。商品的な価値はそれほどのものではないが、歴史的な価値、それと忠節の証明としてはこれ以上のものはなかった。再び美鈴は感動してしまい、恐縮に身を震わせる。
「わたし、こんなに幸せでもいいのでしょうか」
「いいのですよ。このコインはお嬢様のお気持ちが形になったものなのです。お受け取りください」
「あ、でも……賄賂だし、でも受け取らないのもお嬢様のお気持ちに反するし……えーい。受け取っちゃえ」
コインは小悪魔の手から、美鈴の手に渡った。
美鈴は二枚のコインを代わる代わる眺めつつ、嬉しさと感動を抑えた表情になる。
仕草は自然とそわそわし、目はあっちへきょろきょろこっちへきょろきょろ、まるで挙動不審人物である。
小悪魔はいろんな意味で笑っていた。
「さて、美鈴さん。ひとつお願いがあるのですが」
「えっと、さっき言った中立って話ですか」
「いえいえ、そうではありません。清廉潔白なる美鈴さんがどちらか一方に肩入れするなど、わたしも思っていませんよ。そうではなく――、実はわたしのためにひとつ誓いを立ててほしいのです」
「いったいどうしたんですか?」
「わたし、こうしてお嬢様の使いとして美鈴さんにこっそりと賜った品を届けたわけですけれども。わたしがお嬢様の使いになるというのもそれはそれとして、嫉視の対象になると思うのですよ。たかだかパチュリー様の使い魔にすぎない(と言うことで、さりげなくパチュリー様も貶めることができて、なんだか嬉しい。ひひっ。ひひっ)わたしが、お嬢様のお使いをしているとなると、やはり問題です。ですから、だれそれから受け取ったということは決して口外しないでいただきたいのです」
「なんだ。そんなことですかぁ」
「わたし、小心ものなんで、そんな些細なことが気になってしまうのですよー」
「なるほどわかりました。決して口外しないと誓います」
「本当に?」
「本当に」
「絶対に?」
「絶対です」
「やっぱり心配だー」
小悪魔は不安そうな顔をつくり、美鈴のことを一心に見つめた。美鈴はたじたじとなって、一歩後退する。
「どうすれば納得してくれるんですか」
「そだ。よく人間がやってるじゃないですか。神の名前にかけて誓いますとかって……。まあ神というのは人間種族が作り出した巧妙な概念装置にすぎないわけですが、そうやって外部的な担保をとることには一応の意義が認められます」
「でも、わたし、一神教的な神様は信じてませんし。実効力がないように思いますけど」
「ええ、ですから――レミリア様の名前に誓ってください。それでわたしとしても安心できます」
「いいですよ。誓いましょう」
美鈴は右手を直角にあげて、神様に誓うように悪魔の名前に誓った。
「わたし、紅美鈴はレミリア・スカーレット様の御名前にかけて誓います。わたしは小悪魔さんがコインを手渡してくれたことを決して口外いたしません」
「誰にもですよ」
「誰にも言いません」
邪悪な儀式、再び完了。
【紅茶密室】
それから数日後、事件が起こった。
事件――、といえるほどのものなのかはわからない。
単純に起こった出来事は、ほんの小さなことであり、一般的なレベルで言えば単純な失敗と考えられてもしかたないような、そんなものだった。
しかし完全無欠のメイド長にとって、ほんのわずかでも仕事に瑕疵があるというのは、許せない出来事だったに違いない。
とある日の紅茶の時間。
レミリアはいつも決まった時間に紅茶を飲むようにしている。人間の血そのものを飲んだり、あるいはお茶を混ぜたりと、いろいろな味を楽しんでいる。
今日は血だけを飲もうと思っていた。
そう思っていたら、なぜかそう伝わるから不思議だ。
咲夜にはひとことも伝えていないのに、主人の気持ちを鋭敏な感覚で悟り用意してくれている。
ティーポットやカップ、血の分量にいたるまで完璧にセッティングしてくれる。
いつも、どのように感得しているのかはわからないがレミリアは感服するばかりである。
――まさに、完璧ね。
羽、以外は。
なにもフランドールのカラフルな羽が悪いと言っているわけではない。
フランドールのことももちろん妹として愛している。
しかし、咲夜には咲夜で、フランドールとは別の特別な感情があるのだ。愛という言葉では生ぬるい。言葉にするなら、ただひとこと強い結びつきとしか言えないもの。
そこに、ずかずかと踏みこんでこられるのは、さすがに妹でも迷惑だ。
なぜなら、愛とは排他的な独占を望むものであるから。
それに、こういってはなんだがバランスがとても悪い。咲夜の身体が傾いたらどう責任をとってくれるというのだ。
イライラしてしまう。
いけないいけない。
子どもができたらイライラするときがあるって誰かが言ってたけど、これのことかしら。
レミリアは思う。
ともかく、今は時間が解決するのを待てばいい。この磐石の信頼関係を突き崩すことは、たとえ破壊の権化たるフランドールでもかなうまい。
「お嬢様。お紅茶の準備ができました」
「咲夜、おねがーい」
「今日はB型の血でよろしいのですね」
「うん。なにも混ぜないでいいわ」
「そうだろうと思っておりました」
「さすが、咲夜」
「砂糖はいかがいたしますか」
「そうね。今日は三つな気分ね」
砂糖の数まではさすがに求めまい。直前に気分が変わる場合もあるし、そんなことをいちいち気にしていたら紅茶が楽しめない。
あくまで自然体で楽しむもの。
優雅な趣味なのだ。
咲夜は無駄のない綺麗な所作で、ティーポットからカップへと紅茶を注いだ。
瞬時にむせ返るような鉄の匂いが湧き立ち、くれない色に染まっていくカップ。
「いい色ね……。咲夜も喉かわいてない?」
吸血鬼化したばかりで喉がかわいているのではないかとレミリアは思ったのだ。
咲夜の視線が血に釘づけになる。
人間としての理性が、その正体を知っているせいか、多少嫌悪の情のようなものが湧いているようだが、他方で抗いがたい動物的な欲動も生じているようだった。
そのせめぎあい。
自分の中に生じた初めての衝動に、咲夜のいつもはほとんど揺らぎのない表情が、このときばかりは少し動揺しているように見えた。
「ドキドキしますね。なんだか」
「そうね。でも、咲夜の白い陶磁器のような喉もとに牙を突き刺すほうが、よっぽどドキドキしたわ」
「お嬢様……」
「まあ、それはそれ。今日からは、わたしといっしょに飲みましょうか」
「はい、そうします」
そう言って、咲夜はシュガートングを使って、砂糖壷から丁寧に砂糖のブロックを取り出し、紅茶の中に溶かしてゆく。
焦らすように一つずつ。
一気に混ざって味の調和を乱さないように。
さらり、さらり。
純粋な血だと溶けるまでに少し時間がかかるようだ。
ただ、暖めている血なので、すべて溶けきったようだった。レミリアは咲夜が自分の分を注ぐまで待っていた。じりじりと恋焦がれるような気分。こんなにも咲夜のことを近くに感じたことはついぞなかったはずだ。
二人して着席。
「咲夜、何に乾杯しましょうか」
「お紅茶で乾杯ですか」
「いいのよ。今日は初めて咲夜と血の味を分かち合う日なのだから」
「ではスカーレット家の繁栄に」
「ええ、乾杯」
チンとカップが触れ合う。
そして、そのとき。
事件は、唐突に起こった。
「ぐ。ぐひゅ」
レミリアが急に変な声を出したかと思うと、目を白黒させたのである。
ヤマザナドゥの判決中かと思うほどの急激な変化だった。
「どうしたのですか。お嬢様」
「ごほっ。ごほっ。これ、なにー? 咲夜ぁ」
飲んでいた紅茶をぺっぺっと吐き出し、レミリアはそのカップを咲夜のほうへと差し出す。咲夜はカップを受け取ると、化学薬品をかぐときの要領で臭いを調べた。
指先にほんの少し、血をつけて、ぺろりと舐めてみる。
鉄分の味にまぎれてよくわからないが、わずかにしょっぱい。
「塩!?」
「砂糖と塩まちがえるなんて、咲夜らしくもないわね」
「いえ、そんなはずは――」
砂糖壷はいつもの見慣れたもので見間違えようがない。咲夜は自分のカップに注がれた紅茶を飲んでみた。
なんだろう。
この味は、とてもフルーティで、甘くて、蕩けそう。
「いい味……」
「咲夜だけ飲んだー」
レミリアが涙目になって叫ぶ。まるっきりお子様モードである。
「すいませんお嬢様。口をつけてしまいましたが、よろしければこれは差し上げます」
「ん。あー、いいの? 悪いわね」
レミリアはおとなしく紅茶を飲み始める。咲夜はレミリアが紅茶に耽溺している間に、原因を探ろうとした。ティーポッドのなかに少しだけあまった紅茶が入れてある。それを、別のカップに注いで、少しだけ口につける。
甘い。
ということはこれは違うということだろう。
では、やはり砂糖壷が怪しい。
咲夜は時を停止させて一瞬のうちに大皿をもってくると、砂糖壷のなかにあった砂糖をすべてそこに広げた。
「わたしの完璧な仕事にまちがいなんてあるはずがない」
「でもまー、あんまり深く考えなくてもいいんじゃないかしら。咲夜は吸血鬼になりたてで気が散っているのよ」
「いいえそんなことはありません」
咲夜は砂糖を一個ずつ舐め始めた。こうなったら全点検である。もはやこうなってはこの砂糖は使えないだろうが、自分に過失がないことを証明するほうが最優先事項であった。レミリアは少々あきれ顔であるが、咲夜の性格を知っているがゆえに諦めているようで、そのまま落ち着いて紅茶をすすっている。
「これも甘い。これも甘い。これも甘い。これも甘い。甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い。全部あまーいっ!」
そして最後の一粒。
「これも――甘い、ですって」
咲夜は愕然としていた。ちなみに咲夜が舐めた砂糖はあとで妖精のスタッフがおいしくいただいた。
確認したことでわかったことは単純である。
砂糖壷の中にあった白いブロック状のかたまりはちゃんとした砂糖だったのだ。どういうことなのかわからず咲夜は眩暈がする感覚に襲われた。
もしかすると、超がつくほどの初歩的なミスを犯したというのだろうか。
つまり――、レミリアのカップの中に塩のカタマリが混入しているのに気づかなかったのではないか。
いや、そんなはずはない。
そんな当たり前のことに失敗することはないはずだ。
自分の認識ほど危ういものはないが、毎日ぴかぴかに磨き上げられたカップである。たとえ、底のほうに薄く延ばした状態で塩がまかれていたとしても必ず気づく。
なのにどうして、お嬢様の紅茶にだけ塩が混入できたのだろうか。
従者のわたしの紅茶にはなにもなかったというのに。
なぜ。
疑問は頭の中でぐるぐると回る。
紅茶の中で砂糖が溶けてゆくような曖昧な思考。
わからない。
こんな状況下で、レミリアのカップに塩を混入できる者は自分ひとりしかいないようにも思える。
客観的にもっとも怪しいのは咲夜自身だ。
しかし、咲夜は自分が犯人ではないことを知っているし、そのことは自分自身には証明する必要はない。
「わたしとお嬢様の仲を裂こうとしている者がいる……!?」
「そんなに大仰なことなのかしらねぇ。だいたいこの程度で咲夜のことが……き、嫌いになったりしない」
照れたのか最後のほうは小声だった。
レミリアの言葉には咲夜もうなずくところである。
この程度のことで確かに信頼関係が崩れるはずもない。
しかし、もし――。
もし、このようなことが何度も何度も続いたらどうだろう。今回のことは直接的には咲夜の過失ではないとしても、少なくともレミリアに苦い思いをさせたのはまちがいない。主人の危機を回避できなかったのは因果経過がどうであれ、従者にとっての過失にほかならないのではないか。
咲夜の紅い瞳が怪しく光り、その瞬間に、咲夜のカップが手も触れていないのに破壊された。
「ん……、今のは……」
「ついてないですね。カップの寿命だったんでしょうか」
「なにか力が漏れてない?」
「よくわからないのですけれど」
「とてつもなく強力な力の奔流を感じたわ。咲夜はわたしの子であり、しゃくだけどフランドールの血も混ざってる。今のはもしかすると――」
レミリアが小声で呟く。
運命を破壊する程度の能力。いわば因果破壊。
原因も理由もなく結果だけがすでにそこにある。すべての過程をすっとばして、ただ破壊をもたらす。
そんな能力が発現したとしたら。
「いや、考えすぎね」
「どうしたのですか」
「いいえ。どうもしないわ。今回の方法について考えてただけよ」
レミリアはごまかすように言った。
「今回の、犯人がどのようにして犯行をおこなったかですか?」
「そう。まあ犯人にしてもよくわからないことをするわねーって感じなんだけど、なにかの予行練習かしら。単純にいってなぜわたしだけがしょっぱい紅茶を飲まされたのか、そこが謎なわけね。それで考えたのだけど、ティーポットの注ぎ口に紅茶が流れなくならない程度に塩を塗布していたんじゃないかしら。言うまでもないことだけど、咲夜は従者として決してわたしより先に自分の分の紅茶をいれたりしないし、そのことは誰でも知っている。仮に知らないとしても少し想像力を働かせればわかること」
「ティーポットですか。ですが、それだと一回や二回で完全に塩が溶けきるのかわからないと思うのですが」
「ふむー。じゃあ犯人は何度か試したのよ。どの程度の分量を塗布すればいいか経験的にわかったところで、実際に犯行におよんだ。そんな感じじゃないかしら。この館にはティーポットは無数にあるけれど、誰かのいたずらがたまたまわたしに及んだ。そう考えるのが妥当ね」
なにか釈然としない感じがしたが、確かにその方法でも可能であるとは思う。
しかし、なにかが変だ。
と、そこで。
理知的な声が響いた。
「いったいどうしたのよ」
「パチェ?」
「パチュリー様?」
パチュリーがぽやんとした表情で扉のところに立っていた。
実に、一週間ぶりに地下からでてきたようである。
「珍しいわね。わたしに会いに来たの?」とレミリア。
「いえ。咲夜がさっきすごい勢いで小刻みに消えたりしながら大皿を探しているって聞いて、変だと思ったのよ」
「お恥ずかしいかぎりです。実はこんなことがありました」
咲夜は今までの事情を話した。
レミリアの推理も付して説明した。
パチュリーはぼーっとした表情で聞いており、いや聞いていないかのようだった。
そして、話が終わったあと、レミリアのほうをじっと見ている。
「なによ?」
「レミィ。それは違うわ。まあ思考の方法は間違ってはいない。けれどよく考えてみて。その方法はきわめて明快な犯人の思考パターンを逸脱している。犯人はなんらかの犯行をおこなう際にその達成可能性を高めようとするものだわ。そうすると、達成可能性を高めるために試行回数が無限にあるものは利用しない手はない。そういった考えからすると、レミィが提示したティーポットの方法はある致命的な弱点を抱えている」
「わたしですか?」
「そう、咲夜。咲夜がこの紅茶をいれるというその一点。問題となるのはティーポットに塩を塗布するということに関して、レミリアにしょっぱい思いをさせるにはそれなりの量を塗らざるをえないところではあるのだけど、逆に塗りすぎると紅茶をいれるときに違和感が生じ、必ず咲夜が気づくでしょう。犯人はこの咲夜が気づくか気づかないかに対して試行することができない。ついでに言えば、血液オンリーの場合塩が溶けきるまでにわりと時間がかかるところで、もしもレミリアが冷たい血を望んだ場合、おそらく注ぐという動作だけでは溶けきらなかったんじゃないかしら」
「確かにそうかもしれませんが……」
「じゃあ、どうやって犯行におよんだっていうのよ。その犯人様は」
レミリアは腕を組んで、パチュリーを睨む。
「砂糖壷」
パチュリーは短く言った。
「明らかに稚拙ではあるけれど、犯人は砂糖壷の中に塩のブロックを混入していた。ただそれだけよ」
「砂糖壷の中は全部調べましたが」
「単に塩バージョンが一個か二個しか混ざってなかったんでしょう」
「しかし、そうだとすると、わたしが砂糖と塩の違いに気づく可能性があったのではないですか。あるいは他のメイドでもいいですけど。ともかく砂糖壷の中に塩が入っていることに誰かが気づく可能性があったはずです」
「その可能性はあった。だから稚拙。でもティーポットの方法に比べれば明らかに問題が少ない。ティーポットに塩を塗布する行為に比べて、塩のブロックが砂糖壷のなかに混入することのほうが違和感が少ないから。この場合、より重要なのは、咲夜や犯人以外の誰かが仮に気づいたとしても、『もしかすると何かの偶然なのかもしれない』という可能性を残しているところなの。つまり犯行ではなく事故の可能性ね。ゆえに犯人は試行が可能になる。コンティニューすることができる」
「偶然性に頼ったというのは当たってたのね」
「そう。砂糖壷の中に塩を混入しておけば、いずれはレミィにたどり着く。塩のブロックに自分だけがわかるような小さな目印でもつけておけば完璧ね。たとえば角をちょっとだけ削っておくとかしとけば、まあ確認は可能だろうと思うわ。誰かが使っているなら、ワンミスってことで入れなおせばいい。そうしていればいずれはレミリアにたどり着くことになる。いずれは――ね。まあその点に関しては悪い確率じゃなかったと思うわ。レミィは毎日、紅茶を飲んでいるし、砂糖が大好きなお子様だもの。太るわよ」
「ほっとけ」
「しかし……、わたしが塩に当たる可能性もあったのですよね。そうなるとお嬢様に塩を飲ませるという目標を達成しにくくなるのではないですか。最初は先入観で砂糖だと思うかもしれませんけど、一度わたし自身が塩に当たれば警戒してしまいますし」
「あなたでもよかったとは考えられないかしら」
「わたしですか」
「そう、あなたに飲ませることも犯人の目標にふくまれていた。あなたかレミリア、いずれでもよかった。そう考えればいい」
「そういうことですか……。しかし犯人はいったい誰なんでしょう」
咲夜は静かな怒りの炎を燃やしていた。
「少しだけ心当たりがあるところだけど……、証拠がないし誰にでも可能であろうからなんとも言えないわね」
「おおかた、わたしとフランの親権争いが原因でしょ」とレミリア。
「そんなところでしょうね。ともかく今回の件は内々に処理しましょう……。咲夜が気をつけていれば、騙されることもないわ」
「もうしわけございません。塩と砂糖をまちがえるなんて、不甲斐ないの一言です」
小さな密室はこうしてパチュリーの手によって崩壊した。
「で、あなたが犯人ではないわよね」
パチュリーは小悪魔を問い詰めていた。畏怖の対象たるレミリアに、児戯に等しいとはいえ不利益を与えるような不遜な精神をもっているやつは限られる。そんなやつはこいつしかいないだろうと考えたのだった。それに論理の組み立て方がいやらしいではないか。『いずれにしろ』達成される。そういう組み立て方。選ばせているようで選択肢はどんどん削られていっている。そういう破滅への誘い方。気持ちが悪い。
先ほどレミリアと咲夜の前で犯人探しはしないでもよいと告げたのは、小悪魔が犯人だった場合、身内の恥になるからである。
小悪魔はニヤニヤ笑っていて答えようとしない。
「答えなさい。逃げ口上は許さないわ」
「すみません。パチュリー様。わたしがやりました」
小悪魔は素直に白状した。
「殊勝な態度ね。どうしてそんなことをしたのか教えてもらおうかしら。自白すればわたしの胸の中だけにしまっておいてあげる」
「妹様ですよ……」
「頼まれたというわけね」
「そうですよ。頼まれたのですよ。レミリア様はこの館の主ですし、バランスが悪いでしょう? これでは妹様の精神がいたずらに崩壊することになりかねません。そうなってしまえば、破壊の力によって一夜にしてここ、紅魔館は滅びの道を辿ります。わたしは紅魔館および紅魔館の皆様方を心の底から愛しておりますから、そういった事態になるのは避けなければならないと思ったのですよ」
「で、それがなぜレミリアのお茶に塩を混ぜることになるわけ」
「わたしの稚拙な頭ではそれぐらいしか思いつきませんでした。レミリア様と咲夜様の間にわずかながらでも間隙が生じれば、そこに妹様が入りこむ隙ができます。わたしとしてはチャンスをつくってあげたかったのですよ。かわいそうな妹様。孤軍奮闘なさっている妹様。まるで風車にいどむドンキホーテのようじゃありませんか」
「小悪魔。これだけは言っておくわ。間隙なんか作らなくても人間には無限のスペースがあるの。心のスキマなんか作らなくてもレミィは紅魔館の誰であろうと受け入れているし、あなたも許されてここにあるのよ」
「ただ思いますに、特別という概念は無数の一般を死体のようにつみあげることで生ずる概念かと。コーパスの上にコーパスです。ねえ、パチュリー様。楽しいじゃありませんか。コーパスの上にコーパス。言葉の上に死体。死体のうえに言葉。誰かを愛するということは他の誰かを愛さないということなのですよ」
パチュリーはうんざりした表情になった。
小悪魔には何を言っても通じそうにない。
「ともかくこれだけは言っておくわ。今後、一切なにもしないこと」
「呼吸もしてはいけないと?」
「するな」
「むっきゅりしちゃうー♪」
「いいから、わかったの?」
「もちろんわかりました。愛らしいパチュリー様の名前に誓ってもいいですよ。わたくし小悪魔は今後、レミリア様と咲夜さんの仲を裂くようなことはいたしません」
「いい……でしょう……」
パチュリーはゆっくりと息をして、それから再び本のほうへと視線をやった。
読みかけは気分が悪い。
しかし、事件はそれで終りではなかった。
ただし、レミリアに与えた衝撃度はこちらの事件のほうがはるかに大きかっただろう。
咲夜を通じて報告がなされたのであるが――。
メイドの一人がこんなことを言っているという話が聞こえてきたのである。
「美鈴隊長ばっかり、二枚もコインをいただけて羨ましいな」
レミリアにはよくわかなかった。
美鈴に限ってそんなことはなかろうという思いはある。
美鈴はレミリアの部屋に呼ばれた。
「あなた……わたしに何か隠し事していない?」
「なんのことですか。お嬢様」
「コインのことよ」
「お嬢様のお気持ち。万感の思いで受け取りました」
「それ、なんだけどねぇ……」
レミリアはゆったりとしたペースで言葉をつむいでいく。
「わたしは確かに小悪魔を通じて、あなたにコインをあげた。それはいいのよ」
「はい」
「でもね。どうしてフランドールからも受け取っているのかしら?」
「は?」
「どうして二枚のコインを持ってるのかしら」
冷たい視線だった。
美鈴は自分の思考がどこか別の次元をさまよっているかのように感じた。
「どうしてかしらねー? 自分が持ってる枚数を確認したからまちがいないわ。あなたはわたしからもフランからも賄賂を受け取ってる。二重に賄賂を受け取ってることになるわねぇ?」
「え? え? え?」
「いや、いいのよ。わたしはいいの。だって確かに小悪魔が言ってきたとおりにね。美鈴をねぎらってやろうという気持ちは含まれていたのよ。それは確かにそのとおり。いまさらコインを返せなんて、そんなケチなこと言わないわ」
「……」
「でも、どうして二重に受け取ったりするのかしらねぇ。それってちょっとズルすぎないかしらねぇ?」
「ううううう……」
レミリアの部屋の前では、小悪魔がひっそりと中の様子を窺っている。
この密室はすこし抜け出しにくいだろう。秘事はいつだって密室で遂行されていくものであり、そして完成するものだから。
なんのことはなかった。
幼児でさえも両親のいずれにも等価的に媚を売ることを知っている。
つまり、小悪魔はレミリアとフランドールの両方に協力しようという話をもちかけたのだ。そして両方からコインを一枚ずつ受け取った。美鈴には同時に渡した。
それだけのことだ。
そして破滅の力は今まさに結実しようとしている。
小悪魔にとってはどちらでもよかった。いずれにしろ良い。
選択は美鈴に委ねられている。
ありとあらゆるものを破滅させる小悪魔の能力は、よく勘違いされやすいのだが、あくまでおのずと破滅させるのであり、『させる』というからには主体的な行動をするものはあくまで本人であるのだ。小悪魔がなにか行為をするわけではない。
どちらを選ぶかというのもひとつの痴態。
すなわち――。
美鈴が小悪魔から受け取ったことを黙っているなら黙っているで、『忠節をつくす自分』というイメージが壊れるし、逆にバラしたとしてもそれは美鈴自身が立てた誓いを破ることになり、同じく忠義に汚濁が混じる。
いずれの行為を選択したとしても、彼女にとっての寄る辺となる精神的支柱は壊れる。
だから美鈴は小さく震えて赦しを求めるしかなかった。赦されるのならば、幼い足に口づけして赦しを請いたい気分だったろう。
しかしいずれにしろ回避は不能。
儀式はすでに完了している。
弾幕のように避ける余地などどこにも残されていない。
さあ――!
自らの存在を賭けて、足掻いてみせろ。無様な踊りを踊ってみせろ。滅びへの賛歌を謡ってみせるがいい!
選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ。
選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ。
選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ。
選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ。
沈黙は保たれ、選択はなされた。結局のところ美鈴は誰から賄賂を受け取ったのか言わないままだった。
それが彼女に残された最後の誇り、あの有害かつ有用な扱いがたい感情だったのだ。
吸血鬼の主は暴虐と妖艶さの混じる顔で幼く笑った。
「言わないのならしかたない」と――。
「お赦しください。お赦しくださーいっ!」
「滅びなさい」
おぞましくも愛らしい声が美鈴に届く。
かくして、紅美鈴は破滅した。
小悪魔の呪詛は口の中で小さな小さな哄笑へと変わった。
蛇足ではあるが付記しておく。
まず咲夜についてだが、なぜか知らないが羽が消失してしまった。人間に戻ってしまったのである。この点についてパチュリーの見解は、「互いの血が綺麗に相殺してしまった」とのことである。こうしてひとまず親権争いは終結した。
美鈴はパチュリーのとりなしで、こってりしぼられはしたが、具体的に罰せられることはなかった。小悪魔の仕業だろうとパチュリーが指摘したからである。嘘をつくのが苦手な美鈴は沈黙を保ったが、その沈黙こそが真実をありありと映し出していた。結果として、彼女の信頼は回復することになる。
身内の恥。
小悪魔は直接の主であるパチュリーによって、スペルカード『賢者の石』の五時間耐久レースすることになった。
小悪魔は何百回も落とされた。
しかし小悪魔にとっては、懲罰を受けることはなんでもないことである。
なぜなら小悪魔にとっての勝利条件は彼女自身が懲罰を受けないことではなく、幼く愛らしいフランドールを破滅させることではなく、脆弱な人間である咲夜を貶めることでもなく、ましてや純心な美鈴を破滅させることではなかったからだ。美鈴に至っては、ちょっぴりかわいそうだと思ったぐらいだ。
単純に――。
求めていたのは、
一つ。
たった一つ。
パチュリーがたとえほんのわずかな時間であっても小悪魔の思惑に気づかず、悔しい思いをするということに他ならない。
それ以外はすべて些事である。
したがって、小悪魔はすでに勝利条件を満たしていた。
パチュリーの与える懲罰が激烈なほどに、小悪魔の顔が喜悦に染まるのは、そういった次第なのである。
でも、小悪魔の台詞がグダい。
前作もでしたが、悪魔らしい小悪魔は素敵ですね。
邪悪なようでいてそうでもない辺りが「小」悪魔らしくて実に宜しいのですw
前作と良い、この子悪魔しっくりツボにハマるんだわ…ひひ…。
こういうのはとても可愛いよこぁー。
待ってたかいがありました^^
小悪魔の魅力が、ふんだんにちりばめられてますね。
台詞がいちいち冗長なところも、小悪魔らしくていいですよー。
この小悪魔に勝てるとすれば……それこそ幽々子か紫くらいかもしれないですね。
とても面白かったですよ。次作も期待してますね!
くそう小悪魔め!やるな!
だが、それがいい。
不思議と引き込まれるような魅力。ひひ。
( l _、_
\ \ ( <_,` )
ヽ___ ̄ ̄ )
/ /
お話の整合性を考えると、結構時間がかかってしまいますが、こういうふうに論理を組み立てると数学的な楽しさがあります。
面白いですね。
密室として、ミステリーとしてどこまでできているのかは自分自身よくわからないのです。
ただ密室を書くという動機だけはしっかりと持っているつもりです。
それを出来る限りわかりやすい形で伝達したいと思っております。
こあこええええよおおお!
でも3回読んだ
その発想はなかった。
>65氏。
三回も読んでくれてありがとう。